一週間が終わった。
トラブルもあり、久々にいらっとすることもあったが、概ね順調だったといえる。その順調とは所詮、現実性のものであって、思考レベルの深化は進んでいないと思う。
なんだか、もやもやして、とある牛丼屋でビールが100円台で提供されているのにひかれて、飲んできた。
特に薄いとかもなく、普通のビールだ。さすがに量は少ないが、ちょっと飲むのには十分だろう。
しかし、酒を飲んで何か解決するかというとそうではない、ただ、こうして真面目に向き合う気になったのは、効能に思える。
さて、僕は、教養があるのだろうか。教養とは、シェイクスピアを全集読んでいることか。とういそくみょうな言動が重要か。
こういった問いは、面白いかもしれないが、何ら成長には貢献しないかもしれない。
この無意味性が、意味を考えることの真髄を示している。
つまり、意味、なんてものは、それ自体役に立つものではないのだ。
人は、なにかを、させられている感覚を嫌う。
主人公になりたいのだ、権力をもちたいのだ。
しかし、誰しもそうはなれない。すると、論理という、別の超越的なものを求めるようになる。
すなわち、僕はお前に言われたからこうしているのではない、これが、ルールとして定められていて正しいからそうしているのだ、と。
カントの道徳律みたいだ。
とにかく、論理とは、世界的に真実のようでありながら、それは、自らを納得させて、現実に生きさせる、慰みもの、自慰のようなものなのだ。
何事もすべて自由にできるようになったら、敢えてルールになんて従わないかもしれない。
もちろん、その先を考える能力、未来思考こそが人間の長所であり、傍若無人、きょうけんふかい、支離滅裂でありつづければ、そのうち革命的事変が起こって、その地位から引きずりおろされる可能性を考慮すれば、知的な権力者の誕生である。
論理的に考えることを重要視していることが、常々あらわれている記事も多いように思う。
しかし、この論理の否定は、実際は試してみたものでもある。感覚的に生きてみた、という表現がそれである。
結局その試みは成功しなかった。もちろん、すべて失敗ではなかったものの、その永遠性安定性の意味においては役に立たなかったのだ。
上の表現は、珍しく誰にでも当てはまる普遍性がある。
いわゆるリア充とは、その努力という行為を含めて、理想自己と現実世界の事象が一致しているのである。
残念なことに、とても残念ながら、僕は、リア充ではなかったのだ。
ここでいうリア充とは、単にルックスのことを指さない。不細工だろうが性格が悪かろうが、リア充である可能性がある。
それは、メタな次元において、自分自身であるということだ。
メタな次元、と表現を加える必要があるのは、リア充だからといって不快な気持ちになることはあるし、失敗して落ち込むことだってあるということだ。
しかし、自己の深い部分において、世界と、自分とは一致しているのだ、バラモン教の梵我一如のようだ。
それでもって、僕のこの思考の目的は、その一致への試みというわけだ。
理想自己が低ければ低いほどいい、というわけではない。というよりも、理想自己はそれ自体が普遍性であり、代えられる目標のようなものではない。
いま現時点、自分がそうあるしかありえない、その瞬間における思考であり、感情であり、身体であり、行動のことである。
つまり、理想自己とは、楽しいとか苦しいとかそういう相対概念などではなく、真実である。
すぐさま書くべきは、その真実という表現は、決して、神とか、超越的なものを求めるものではない。
例えばなにか失敗したときに、僕たちは、ああしておけばよかったとか、後悔を感じる。
しかしそれは、真実ではなかったということだ。
いや、感じるのは仕方がないにしても、すべて、そのときそのすべての条件においては、そうせざるをえなかったという強い実感、それこそが理想自己との一致をした状態である。
難しい表現になっているな。ここで簡易的に書いておくべきは、理想自己となっていれば、実は後悔なんて発生しないのだ。
すぐに書くべきは、これをこじらせたり勘違いすると、人の話を認められない自己正当化の亡者になるのである。
まぁ、さらに本当にこれを極めると、その他者に与えることも含めて、自分に満足することになる。こうなってくると醜悪である。
先日、誰かは分からないが、拍手してくれる人がいて嬉しいが、そうした気持ちを認めるためには、いくら気恥ずかしい気持ちであっても、自己の分析に手を抜いてはならない、と書いた。
拍手のあるなしにかかわらず、僕は書くことは変わらないし、自分のために書いているというのは変わらない、という、クールな自分がいて、読者の反応の多い少ないで、気持ちが左右されるわけではない冷静沈着な自分によっているのだ、とか。
そこまで考えているかはわからないけど、何か蓋をしようとする自分の気持ちから、逃げてはダメだ。
それをすると、もう自己正当化のためだけの思考となる。そんなの気持ち悪い、というか、そもそも僕の理想自己ではないのだ。
理想自己と現実とのギャップを少なくするのが、思考の役割である。
ギャップを変えずに、現状維持という安定性を求めるのであれば、すぐにでも思考はやめて、限りない快楽の世界を探すべきだ。
どうせギャップが縮まらず、うだうだ不平をいい続けるのなら、よっぽど毎日楽しく過ごす、現実的な方法をさがすべきである。
最初に書いた通り、思考は、それだけであったとき、現実に何も与えない。
考えただけで何か現象化したらそれは魔法である。
というより、考えただけ、という事態はそもそもない。何せ、考えとは、身体というフィードバックを常にうけつづけているのだから。
勝手にすれば、というよりも、君がそう思うならいんじゃない?、というのは、僕にとって、愚か者といわれるよりもイラッとする可能性がある。
結局その相手は、僕のことを認めてはいないし、そのどこがよくないかを話すつもりもない、という態度なわけだ。
まだ、俺は違うと思う、といわれたほうがましだ。なぜなら、僕は自己正当化のために思考するのではないから、指摘や指導は重要に思うのだ。
ここまで、繋がっているかは分からないが、ポイントは、思考自体は無駄であること、しかしながら、だからこそ、様々な事象に対応できる思考の構築が重要だということだ。
何か起こったとき、いちいち解答を考えていては、いくら時間があってもきりがない。
考える時間の排除と効率化が、ライン生産、トヨタの看板方式、マニュアル主義である。
それは、一定以上、豊かな日本をつくりだすことに成功した。
しかし、そのマニュアル化がうまくいくのは、豊かさとは何かという、根元的な目的、目標がはっきりしていたからだ。
ここに、また、反転した目的の重要性、すなわち、思考の重要性が生じるのである。
……この先、の記述が大事だが、時間切れのためと、長くなったので、今回はここまで。
トラブルもあり、久々にいらっとすることもあったが、概ね順調だったといえる。その順調とは所詮、現実性のものであって、思考レベルの深化は進んでいないと思う。
なんだか、もやもやして、とある牛丼屋でビールが100円台で提供されているのにひかれて、飲んできた。
特に薄いとかもなく、普通のビールだ。さすがに量は少ないが、ちょっと飲むのには十分だろう。
しかし、酒を飲んで何か解決するかというとそうではない、ただ、こうして真面目に向き合う気になったのは、効能に思える。
さて、僕は、教養があるのだろうか。教養とは、シェイクスピアを全集読んでいることか。とういそくみょうな言動が重要か。
こういった問いは、面白いかもしれないが、何ら成長には貢献しないかもしれない。
この無意味性が、意味を考えることの真髄を示している。
つまり、意味、なんてものは、それ自体役に立つものではないのだ。
人は、なにかを、させられている感覚を嫌う。
主人公になりたいのだ、権力をもちたいのだ。
しかし、誰しもそうはなれない。すると、論理という、別の超越的なものを求めるようになる。
すなわち、僕はお前に言われたからこうしているのではない、これが、ルールとして定められていて正しいからそうしているのだ、と。
カントの道徳律みたいだ。
とにかく、論理とは、世界的に真実のようでありながら、それは、自らを納得させて、現実に生きさせる、慰みもの、自慰のようなものなのだ。
何事もすべて自由にできるようになったら、敢えてルールになんて従わないかもしれない。
もちろん、その先を考える能力、未来思考こそが人間の長所であり、傍若無人、きょうけんふかい、支離滅裂でありつづければ、そのうち革命的事変が起こって、その地位から引きずりおろされる可能性を考慮すれば、知的な権力者の誕生である。
生きる意味とは
この、論理の否定は、これまでの僕の書いてきたことの根本からの否定のようである。論理的に考えることを重要視していることが、常々あらわれている記事も多いように思う。
しかし、この論理の否定は、実際は試してみたものでもある。感覚的に生きてみた、という表現がそれである。
結局その試みは成功しなかった。もちろん、すべて失敗ではなかったものの、その永遠性安定性の意味においては役に立たなかったのだ。
リア充
そのわけは、残念なことに、現実と理想自己との隙間が、自分という存在の限界性において、矯正なく一致することはなかったからだ。上の表現は、珍しく誰にでも当てはまる普遍性がある。
いわゆるリア充とは、その努力という行為を含めて、理想自己と現実世界の事象が一致しているのである。
残念なことに、とても残念ながら、僕は、リア充ではなかったのだ。
ここでいうリア充とは、単にルックスのことを指さない。不細工だろうが性格が悪かろうが、リア充である可能性がある。
それは、メタな次元において、自分自身であるということだ。
メタな次元、と表現を加える必要があるのは、リア充だからといって不快な気持ちになることはあるし、失敗して落ち込むことだってあるということだ。
しかし、自己の深い部分において、世界と、自分とは一致しているのだ、バラモン教の梵我一如のようだ。
それでもって、僕のこの思考の目的は、その一致への試みというわけだ。
理想自己との一致
理想自己が低ければ低いほどいい、というわけではない。というよりも、理想自己はそれ自体が普遍性であり、代えられる目標のようなものではない。
いま現時点、自分がそうあるしかありえない、その瞬間における思考であり、感情であり、身体であり、行動のことである。
つまり、理想自己とは、楽しいとか苦しいとかそういう相対概念などではなく、真実である。
すぐさま書くべきは、その真実という表現は、決して、神とか、超越的なものを求めるものではない。
例えばなにか失敗したときに、僕たちは、ああしておけばよかったとか、後悔を感じる。
しかしそれは、真実ではなかったということだ。
いや、感じるのは仕方がないにしても、すべて、そのときそのすべての条件においては、そうせざるをえなかったという強い実感、それこそが理想自己との一致をした状態である。
難しい表現になっているな。ここで簡易的に書いておくべきは、理想自己となっていれば、実は後悔なんて発生しないのだ。
すぐに書くべきは、これをこじらせたり勘違いすると、人の話を認められない自己正当化の亡者になるのである。
まぁ、さらに本当にこれを極めると、その他者に与えることも含めて、自分に満足することになる。こうなってくると醜悪である。
思考について
以上から、考えるということが、そもそも深まっていくと、いくつもの罠にひっかかる可能性が多いのだ。先日、誰かは分からないが、拍手してくれる人がいて嬉しいが、そうした気持ちを認めるためには、いくら気恥ずかしい気持ちであっても、自己の分析に手を抜いてはならない、と書いた。
拍手のあるなしにかかわらず、僕は書くことは変わらないし、自分のために書いているというのは変わらない、という、クールな自分がいて、読者の反応の多い少ないで、気持ちが左右されるわけではない冷静沈着な自分によっているのだ、とか。
そこまで考えているかはわからないけど、何か蓋をしようとする自分の気持ちから、逃げてはダメだ。
それをすると、もう自己正当化のためだけの思考となる。そんなの気持ち悪い、というか、そもそも僕の理想自己ではないのだ。
理想的な思考とは
理想自己と現実とのギャップを少なくするのが、思考の役割である。
ギャップを変えずに、現状維持という安定性を求めるのであれば、すぐにでも思考はやめて、限りない快楽の世界を探すべきだ。
どうせギャップが縮まらず、うだうだ不平をいい続けるのなら、よっぽど毎日楽しく過ごす、現実的な方法をさがすべきである。
最初に書いた通り、思考は、それだけであったとき、現実に何も与えない。
考えただけで何か現象化したらそれは魔法である。
というより、考えただけ、という事態はそもそもない。何せ、考えとは、身体というフィードバックを常にうけつづけているのだから。
君がそう思うならいんじゃない?
勝手にすれば、というよりも、君がそう思うならいんじゃない?、というのは、僕にとって、愚か者といわれるよりもイラッとする可能性がある。
結局その相手は、僕のことを認めてはいないし、そのどこがよくないかを話すつもりもない、という態度なわけだ。
まだ、俺は違うと思う、といわれたほうがましだ。なぜなら、僕は自己正当化のために思考するのではないから、指摘や指導は重要に思うのだ。
ここまで、繋がっているかは分からないが、ポイントは、思考自体は無駄であること、しかしながら、だからこそ、様々な事象に対応できる思考の構築が重要だということだ。
何か起こったとき、いちいち解答を考えていては、いくら時間があってもきりがない。
マニュアル主義
考える時間の排除と効率化が、ライン生産、トヨタの看板方式、マニュアル主義である。
それは、一定以上、豊かな日本をつくりだすことに成功した。
しかし、そのマニュアル化がうまくいくのは、豊かさとは何かという、根元的な目的、目標がはっきりしていたからだ。
ここに、また、反転した目的の重要性、すなわち、思考の重要性が生じるのである。
……この先、の記述が大事だが、時間切れのためと、長くなったので、今回はここまで。
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虫瞰(ちゅうかん)のブログ
http://blog.syu-kora.jp/
思考分野で戦うってことは、これらに挑むってことだ、自信をなくすなぁ。
でもきっと、こういったすごい人と、そこにたどり着けずもんもんとする人との、きっとつなぎ目がある。そこの橋渡しができたら、僕の価値もあるんじゃあないだろうかと。
と、書き残したのが一週間ほど前だろうか。
すっかり、このメモの存在を忘れている。
としをとると、なまじ経験が多いから、新しいことも、それほど感動できなくなる。
あの、雨上がりの匂いとか、冬が終わったあとの気候、夏の匂い、黄昏時の夕日を、大きな橋の上からみたときの感動。
失恋のショック。
友人との軋轢。
先輩からのいじめや罵倒。
さきほど、通りすがりのおじさんに、したうちされて、糞が! みたく捨て台詞いわれた。
混雑した通りでちょっとぶつかりそうになっただけだ。
僕は、なんだこの生き物は、と怒りを感じたものの、こういうときは深呼吸を一度してみると、思考さんが問題の解釈を猛スピードで始める。
結論として、一瞬でもイライラしている時間がもったいないし、顔もおぼえてないしもう二度と会うこともない人にたいしての思考は無意味だということで、すぐに落ち着いた。
いちいち感動している暇もなくなってくるのだろうか。
基本、人は、死ぬことを意識せずに、いやもちろん事故や事件、戦争のニュースはたくさん目に入るけど、そのなかでまさか自分が死ぬとは思わないようにできている。
そうはいっても、老いは避けられない。
死ぬのは怖い、でも身体は老いていく、この矛盾と恐怖の解消が、ボケ、認知症などの症状なのではないか。
また別に詳しく書くかもしれないが、あるアルツハイマー型認知症が進んだ人の話を聞いていて、そう思った。
日常的なこともできなくなる。人のことも認識できなくなる。そして、自分自身のことも分からなくなっていく。
いな、これは、自分自身の世界として完結している可能性もあるわけだし、その、他者との関係上のちぐはぐ、というものが、決して、自己世界の崩壊を意味するものではないだろう。
言語表現が本人にできないだけで、ものすごい死の恐怖と戦っているのかもしれない。
しかし、脳の機能の萎縮は、確実にさまざまなものの認識能力を低下させていくだろう。
であるならば、人間とは、脳なのか。意識的な信号、記憶をつかさどっているのは、やはり脳だろう。感覚器官としての手足その他がなければフィードバックはえられない
仕事も早々に切り上げ、帰路につく。いままで、一人暮らしの時は、映画みたり、ゲームしたり、本を読んだり、作曲したり、小説を書いたり、と、何かと楽しんでいた。
結婚してからはそういった時間がなくなり、もっぱら家事とか、……というより、ちょうど仕事が毎日遅かったようだ。
いま、自由な時間があったとき、様々なことに時間を使えて、その判断は自分でできる。
それってとても幸せなことなのであって、それはそう思うのだけど、何に時間を使おうか、悩んでしまう。
残りの人生は折り返し地点といってよくて、三十代には既に、自分の生き方を見つけている人は多いと思う、本当か?
多いとは思わない、大半の人は、その自分の生活を、自分のものだと信じているのであって、それが揺るぎない確信もないと思う。という表現はとても挑発的なのだけど、実際の僕の感覚をメモする。それに、そんなこと確かめようがないのだから、真偽のほどはどちらでもよいことだ。将来に不安がありますか? とかいうアンケートが何になるかという問題に過ぎない。
事例をあげれば、例えばプロ野球選手が現役の頃は活躍して、辞めたら離婚したり薬物にのめりこんだり、賭博しちゃったりと、落ちぶれる例とか、探せば事欠かない。
この記事はなので、いや俺はいまの生きざまが自分自身なのだ、と強く主張する人がいたとして、ふうん、君がそう思うなら、いいんじゃない、と、上から目線で語る、意識高い系とは違うけど、とかく、不愉快な内容だ。
人間関係の構築に関する言説にも、ネガティブな人とは付き合わない方がいいとも書かれているから、この記事は是非とも忌避したほうがいい。
つまり、こういった思考は即刻やめるべきではないか、ということだ。
先日書いた、舌打ちとか罵倒されて腹が立ったとき、僕は深呼吸して瞬時に感情をコントロールしたではないか。
まさに、こういったネガティブ的な思考も、深呼吸して、取り払ったほうがいいのでは?
違うと、メモしておく。
作曲したり映画みたりいろいろ、それらの楽しみは、確かに楽しかった、しかし、それらの時間は、無駄ではなかったものの、結局生きる軸を作り出すことはできなかった。
人生における行動は、生産と消費とがある。
生産する人は魅力的だが、消費が悪いわけではない。消費による感動が、生産の原動力となっている場合もあるし、消費者がいなければ価値の創造もありえない。
その意味で、いままでの自分の行為を、行動を、後悔する必要は一切ない。
しかし、目的なき消費は、いずれ訪れる死に対して無力であるといえる。
ここで脇道にそれてみて、生存欲求がみたされない場合、例えば紛争地帯での生活を考えてみる。
ジャングルの奥地でゲリラとして戦うとかでもいい。その状況で、生産とか消費とか、生きる目的とか考えてられるはずがない。
ただ、その後、例えば平和になったとき、戦争していた生活を思って、いまが単純に幸せと思えるのか。亡くなった戦友のことを思い、惨殺した住民が夢に現れ、失った手足がウズいたとき、いまの生活をどう思うのか。
こうした極端な事例は、いやそれほど極端でもなくありふれたことなのかもしれないが、とにかく、考える必要はない。
そんな事例に頭をはしらせるまでなく、京都の列車事故だってあるし、バイクではしっていて、後ろから追突されてペシャンコなんてことだってあるし、突然病魔が襲うかもしれない。
こうしたことは、考える必要はない、考えてしまうかもしれないが、それは、そもそも、生きる意味を強固に保持していないがための妄執である。
先程のジャングルの事例は、生きたいという思いが強くあるのだから、それだけで尊いものだ。
死にたくないとの本能がありながら、死んでも満足するという生き方。
これは、矛盾している。
本能に逆らう思考である、うまくいくはずはないのではないか。
しかし僕は、やはり、ここから逃げてはいけないと思うのだ。
仕事から逃げようが、家族から逃げようが、友人や恋人から逃げようが、この、生きる意味を求める思考からは逃げてはいけないと思うのだ。
これは、理由は、この思考を否定する人たちと同じ構造である。
それは、死は必ず訪れるから、である。
ある人は、どうせ死ぬんだから、ぐだぐだ考えず、毎日楽しめばいいじゃん、という。
それは、いまこの時点、なんの不満なく楽しんでいる人、もしくは、過去に満足する経験を長期に味わっていた人たちである。
人は、育った環境により、外界にたいする反応が異なるから、別に、そういう人たちを否定する気は一切ない。きっとそういう人たちばかりであればよい世界に……なるとは限らない。そういう人たちは、物理世界肯定主義になりがちだから、ネガティブな人とは関係をたちきればいいとか、取り巻く世界をどんどん変えていけばいいと考える。
それが、社会主義革命とか、カンボジアのポル・ポトの虐殺とかに繋がる……と書くとオーバーだろうけど、とにかく、無批判に肯定できるものではないと、僕は思う。
そして、何よりここで言いたいことだが、そもそも、そういう物理世界第一主義の人たちだけでも、ないはずだ、という僕の考えだ。
きっと多数派そうした人たちだから、狭間で苦しむ人たちも少なくないのでは、と思うのだ。
物理世界肯定主義の人たちとも僕はうまく関係をつくれるのは、なにも不思議でなくて、思考による精神と身体の統制ができるのであれば……
と、こうやって書いていて、昔のようにユーロビートを流していると、とても気持ちが高揚するのが分かった。
ああ、やっぱり、こうやって書いているのは楽しいのだな、と。
なんだか、いいことかいた気もした。のわりに、アクセスカウンタはちっとも回らない。やはりグーグル先生には、全然良い内容とは思われていないのだろうカッコわらい。
それでいいのだ、とも思う、何せこの記事は特に、大多数であろう人生楽しんでいる人たちへの警鐘……と書くとかっこいいが、ただのひがみのようにも思える。
問題は、僕が楽しいかどうかだ。
そして、先程の瞬間は、僕は確かに楽しかった。その楽しいというのは、性欲や食欲を満たしたときのそれとは全く異なる、僕が求める感覚である。
で、あるならば、僕はもしや、この生きる意味をとか言うことに対して、答えを本気で探しているわけではないのかもしれない。
このことは、またしても、新しいことだ。しっかりメモしておく必要があるだろう。
つまり、トートロジーとか、マッチポンプ、とか、そんな表現ができる状態ではないか。
もっと噛み砕けば、惨めな自分に酔っている、みたいな状態ではないか。
だとしたら、これは、僕自身として、許せないことであるはずだ。
仮に、その、考え続けることが自分の使命だとかして、思考を続けるならばわかる。でも、なんだか社会を斜めからみて、斜に構えて、批判ばかりするってのは、許せない生き方である。
何をしようとそれは良いが、その答え自体が、真に、自分自身の実感として、本当に正しいのだと、信じられる状態が、僕の求める姿だ。
答えをみいだせず、考え続けるのだとしても、その答えを見いだせないことを肯定するのであってはならない、なぜならば、それこそ、生きる意味なんて考えても仕方がないという、くだらない対処法が正しかったと、反転した解になる。
掲げた正義に反する敵を倒そうとして、自らがその正義に反することをするというものである。
笑い話や、小説のネタ……特に悪役とかにはいいかもしれないが、いやいや待ってくれ、自分の人生にそれはありえないだろう。
必要なのは、主体的な、実存的な真理である。
人類社会に貢献する科学は、まさにそうした普遍性を自然界や人間界に求めようとするものだけれども、その真理は、決して個人とした自らに当てはまるものではない。当てはまったとしても、その普遍性は、自分自身とおう、個体、ユニークな存在を完全に表現できるものではない。
他者の言説が、役に立たないとか、他者に頼ったり、相談したり愚痴いったりするのが意味ないというのは、日常生活のことをいっているのではない。
この、自己の問題、何故自分は生きているのか、この存在の意義は、という問いに、他者は一切答えてくれない、どころか、そんなこと考えることは無意味であると、そう突き放すのである。
孤独、凄まじい孤独。
この感覚は、きっと、わかる人にはわかると思う。
これは、いくら楽しいことしても、他者と交わっても、美味しいもの食べても癒されるものではない。
僕はこうやって表現できるから、一応自己を保ってられるけど、この感覚におそわれて、表現することができないと、薬物にはしったり、リストカットしたり、無気力になったり……。
全員がそうじゃないにしても、こうした孤独感で自分が押し潰されそうになった人は、決して少ないとは思わないのだけど、何故か僕はあまりそういう人に出会ったことがない。
というのは、珍しくなくて、この孤独は先に書いた通り、他者と一緒にいて、楽しそうにしていてもぬぐえるものではないから、そういう人は一見わからないのだ。
ちょっと、書くのを躊躇ったが、まぁ、アクセス少ないからいいだろうという甘えで書くと、僕が結婚した相手は、そのことがわかる人だと思ったのだ、が、それは完全な勘違いと分かった。
これはトラウマ、というよりも、むしろ、他者のことは分からない、分かりあえない、ある一線をこえるとついてこられないのだ、という確信になったといえる。
だから、この孤独感というのを、誰かに理解してもらおうとは、本気で思っていない。
でも、そういう人に実際に出会えなくても、この記事とかの表現が、今まさに苦しんでいる人の一つの助けになったら、本気で嬉しいんだけど。
と、同時に、こういった表現が、例えばYouTubeの動画だとしたら、グットが20くらいで、バットが1000件とかつきそうだなって思う。
で、そのバッドって、なんなのか、といえば、ただの愚痴とか僻みとか、頑張ることから逃げてるだけだとか、判断できない優柔不断だとか、そういう批判なんだと、思う。
違うのかな? 意外に受け入れられるのか?
にこにこ動画で、サラリーマンのうた、が、かなり人気を博したし、最近そのリニューアルが公開されているのを知ったけど、いい歌だったし、評価も結構高かった。
ぐだぐだっと、このブログのように書いて、それを評価してくれとか、役立ててくれとか、そんな傲慢過ぎるな。
プロの作家は、よく、本当に書きたいこと、表現したいことと、売れる作品のギャップに苦悩するというが、僕はプロではないので、書きたいことを書けるわけだ。
その書きたいことに対する表現を学ぶってのは、大事なことだ。
拘束時間でも、自由な時間でもよいが、とにかく、何か生活の軸に基づいて、その軸というのが、確実に、答え、に近づいているという実感をもてることが、これはもう未来思考なんかではなく、今すぐこの瞬間にも必要なことである。
http://blog.syu-kora.jp/
思考分野で戦うってことは、これらに挑むってことだ、自信をなくすなぁ。
でもきっと、こういったすごい人と、そこにたどり着けずもんもんとする人との、きっとつなぎ目がある。そこの橋渡しができたら、僕の価値もあるんじゃあないだろうかと。
と、書き残したのが一週間ほど前だろうか。
すっかり、このメモの存在を忘れている。
記憶と感動の関係
若い頃の方が物覚えがいいとか、吸収が早いというのは、感動が大きいからかもしれない。としをとると、なまじ経験が多いから、新しいことも、それほど感動できなくなる。
あの、雨上がりの匂いとか、冬が終わったあとの気候、夏の匂い、黄昏時の夕日を、大きな橋の上からみたときの感動。
失恋のショック。
友人との軋轢。
先輩からのいじめや罵倒。
さきほど、通りすがりのおじさんに、したうちされて、糞が! みたく捨て台詞いわれた。
混雑した通りでちょっとぶつかりそうになっただけだ。
僕は、なんだこの生き物は、と怒りを感じたものの、こういうときは深呼吸を一度してみると、思考さんが問題の解釈を猛スピードで始める。
結論として、一瞬でもイライラしている時間がもったいないし、顔もおぼえてないしもう二度と会うこともない人にたいしての思考は無意味だということで、すぐに落ち着いた。
いちいち感動している暇もなくなってくるのだろうか。
ボケと死ぬこと
本能的に、人は生きることを欲するから、死ぬことは何となく怖いことである。基本、人は、死ぬことを意識せずに、いやもちろん事故や事件、戦争のニュースはたくさん目に入るけど、そのなかでまさか自分が死ぬとは思わないようにできている。
そうはいっても、老いは避けられない。
死ぬのは怖い、でも身体は老いていく、この矛盾と恐怖の解消が、ボケ、認知症などの症状なのではないか。
また別に詳しく書くかもしれないが、あるアルツハイマー型認知症が進んだ人の話を聞いていて、そう思った。
日常的なこともできなくなる。人のことも認識できなくなる。そして、自分自身のことも分からなくなっていく。
いな、これは、自分自身の世界として完結している可能性もあるわけだし、その、他者との関係上のちぐはぐ、というものが、決して、自己世界の崩壊を意味するものではないだろう。
言語表現が本人にできないだけで、ものすごい死の恐怖と戦っているのかもしれない。
しかし、脳の機能の萎縮は、確実にさまざまなものの認識能力を低下させていくだろう。
であるならば、人間とは、脳なのか。意識的な信号、記憶をつかさどっているのは、やはり脳だろう。感覚器官としての手足その他がなければフィードバックはえられない
日常の過ごし方
と、上まで書いてまた日が過ぎた。仕事も早々に切り上げ、帰路につく。いままで、一人暮らしの時は、映画みたり、ゲームしたり、本を読んだり、作曲したり、小説を書いたり、と、何かと楽しんでいた。
結婚してからはそういった時間がなくなり、もっぱら家事とか、……というより、ちょうど仕事が毎日遅かったようだ。
いま、自由な時間があったとき、様々なことに時間を使えて、その判断は自分でできる。
それってとても幸せなことなのであって、それはそう思うのだけど、何に時間を使おうか、悩んでしまう。
残りの人生は折り返し地点といってよくて、三十代には既に、自分の生き方を見つけている人は多いと思う、本当か?
多いとは思わない、大半の人は、その自分の生活を、自分のものだと信じているのであって、それが揺るぎない確信もないと思う。という表現はとても挑発的なのだけど、実際の僕の感覚をメモする。それに、そんなこと確かめようがないのだから、真偽のほどはどちらでもよいことだ。将来に不安がありますか? とかいうアンケートが何になるかという問題に過ぎない。
事例をあげれば、例えばプロ野球選手が現役の頃は活躍して、辞めたら離婚したり薬物にのめりこんだり、賭博しちゃったりと、落ちぶれる例とか、探せば事欠かない。
この記事はなので、いや俺はいまの生きざまが自分自身なのだ、と強く主張する人がいたとして、ふうん、君がそう思うなら、いいんじゃない、と、上から目線で語る、意識高い系とは違うけど、とかく、不愉快な内容だ。
人間関係の構築に関する言説にも、ネガティブな人とは付き合わない方がいいとも書かれているから、この記事は是非とも忌避したほうがいい。
現時点の肯定
うえの、役に立たない害悪であるという説明は、僕自身にもあてはまるのではないか?つまり、こういった思考は即刻やめるべきではないか、ということだ。
先日書いた、舌打ちとか罵倒されて腹が立ったとき、僕は深呼吸して瞬時に感情をコントロールしたではないか。
まさに、こういったネガティブ的な思考も、深呼吸して、取り払ったほうがいいのでは?
違うと、メモしておく。
作曲したり映画みたりいろいろ、それらの楽しみは、確かに楽しかった、しかし、それらの時間は、無駄ではなかったものの、結局生きる軸を作り出すことはできなかった。
人生における行動は、生産と消費とがある。
生産する人は魅力的だが、消費が悪いわけではない。消費による感動が、生産の原動力となっている場合もあるし、消費者がいなければ価値の創造もありえない。
その意味で、いままでの自分の行為を、行動を、後悔する必要は一切ない。
しかし、目的なき消費は、いずれ訪れる死に対して無力であるといえる。
ここで脇道にそれてみて、生存欲求がみたされない場合、例えば紛争地帯での生活を考えてみる。
ジャングルの奥地でゲリラとして戦うとかでもいい。その状況で、生産とか消費とか、生きる目的とか考えてられるはずがない。
ただ、その後、例えば平和になったとき、戦争していた生活を思って、いまが単純に幸せと思えるのか。亡くなった戦友のことを思い、惨殺した住民が夢に現れ、失った手足がウズいたとき、いまの生活をどう思うのか。
こうした極端な事例は、いやそれほど極端でもなくありふれたことなのかもしれないが、とにかく、考える必要はない。
そんな事例に頭をはしらせるまでなく、京都の列車事故だってあるし、バイクではしっていて、後ろから追突されてペシャンコなんてことだってあるし、突然病魔が襲うかもしれない。
こうしたことは、考える必要はない、考えてしまうかもしれないが、それは、そもそも、生きる意味を強固に保持していないがための妄執である。
明日死ぬとして
明日死んだとして、自分自身に満足できるか、やり残したことはないか、それを考えるべきだ。先程のジャングルの事例は、生きたいという思いが強くあるのだから、それだけで尊いものだ。
死にたくないとの本能がありながら、死んでも満足するという生き方。
これは、矛盾している。
本能に逆らう思考である、うまくいくはずはないのではないか。
しかし僕は、やはり、ここから逃げてはいけないと思うのだ。
仕事から逃げようが、家族から逃げようが、友人や恋人から逃げようが、この、生きる意味を求める思考からは逃げてはいけないと思うのだ。
これは、理由は、この思考を否定する人たちと同じ構造である。
それは、死は必ず訪れるから、である。
ある人は、どうせ死ぬんだから、ぐだぐだ考えず、毎日楽しめばいいじゃん、という。
それは、いまこの時点、なんの不満なく楽しんでいる人、もしくは、過去に満足する経験を長期に味わっていた人たちである。
人は、育った環境により、外界にたいする反応が異なるから、別に、そういう人たちを否定する気は一切ない。きっとそういう人たちばかりであればよい世界に……なるとは限らない。そういう人たちは、物理世界肯定主義になりがちだから、ネガティブな人とは関係をたちきればいいとか、取り巻く世界をどんどん変えていけばいいと考える。
それが、社会主義革命とか、カンボジアのポル・ポトの虐殺とかに繋がる……と書くとオーバーだろうけど、とにかく、無批判に肯定できるものではないと、僕は思う。
そして、何よりここで言いたいことだが、そもそも、そういう物理世界第一主義の人たちだけでも、ないはずだ、という僕の考えだ。
きっと多数派そうした人たちだから、狭間で苦しむ人たちも少なくないのでは、と思うのだ。
物理世界肯定主義の人たちとも僕はうまく関係をつくれるのは、なにも不思議でなくて、思考による精神と身体の統制ができるのであれば……
と、こうやって書いていて、昔のようにユーロビートを流していると、とても気持ちが高揚するのが分かった。
ああ、やっぱり、こうやって書いているのは楽しいのだな、と。
なんだか、いいことかいた気もした。のわりに、アクセスカウンタはちっとも回らない。やはりグーグル先生には、全然良い内容とは思われていないのだろうカッコわらい。
それでいいのだ、とも思う、何せこの記事は特に、大多数であろう人生楽しんでいる人たちへの警鐘……と書くとかっこいいが、ただのひがみのようにも思える。
楽しいことの模索
でも、ひがみでも、なんでもいいと思う。問題は、僕が楽しいかどうかだ。
そして、先程の瞬間は、僕は確かに楽しかった。その楽しいというのは、性欲や食欲を満たしたときのそれとは全く異なる、僕が求める感覚である。
で、あるならば、僕はもしや、この生きる意味をとか言うことに対して、答えを本気で探しているわけではないのかもしれない。
このことは、またしても、新しいことだ。しっかりメモしておく必要があるだろう。
つまり、トートロジーとか、マッチポンプ、とか、そんな表現ができる状態ではないか。
もっと噛み砕けば、惨めな自分に酔っている、みたいな状態ではないか。
だとしたら、これは、僕自身として、許せないことであるはずだ。
仮に、その、考え続けることが自分の使命だとかして、思考を続けるならばわかる。でも、なんだか社会を斜めからみて、斜に構えて、批判ばかりするってのは、許せない生き方である。
何をしようとそれは良いが、その答え自体が、真に、自分自身の実感として、本当に正しいのだと、信じられる状態が、僕の求める姿だ。
答えをみいだせず、考え続けるのだとしても、その答えを見いだせないことを肯定するのであってはならない、なぜならば、それこそ、生きる意味なんて考えても仕方がないという、くだらない対処法が正しかったと、反転した解になる。
掲げた正義に反する敵を倒そうとして、自らがその正義に反することをするというものである。
笑い話や、小説のネタ……特に悪役とかにはいいかもしれないが、いやいや待ってくれ、自分の人生にそれはありえないだろう。
万物の真理は求めてはならない
例え、その万物普遍の真理なんてない、ということが反転した真理だったとしても、決して、そういった真理を求めてはならない。必要なのは、主体的な、実存的な真理である。
人類社会に貢献する科学は、まさにそうした普遍性を自然界や人間界に求めようとするものだけれども、その真理は、決して個人とした自らに当てはまるものではない。当てはまったとしても、その普遍性は、自分自身とおう、個体、ユニークな存在を完全に表現できるものではない。
他者の言説が、役に立たないとか、他者に頼ったり、相談したり愚痴いったりするのが意味ないというのは、日常生活のことをいっているのではない。
この、自己の問題、何故自分は生きているのか、この存在の意義は、という問いに、他者は一切答えてくれない、どころか、そんなこと考えることは無意味であると、そう突き放すのである。
孤独、凄まじい孤独。
この感覚は、きっと、わかる人にはわかると思う。
これは、いくら楽しいことしても、他者と交わっても、美味しいもの食べても癒されるものではない。
僕はこうやって表現できるから、一応自己を保ってられるけど、この感覚におそわれて、表現することができないと、薬物にはしったり、リストカットしたり、無気力になったり……。
全員がそうじゃないにしても、こうした孤独感で自分が押し潰されそうになった人は、決して少ないとは思わないのだけど、何故か僕はあまりそういう人に出会ったことがない。
というのは、珍しくなくて、この孤独は先に書いた通り、他者と一緒にいて、楽しそうにしていてもぬぐえるものではないから、そういう人は一見わからないのだ。
ちょっと、書くのを躊躇ったが、まぁ、アクセス少ないからいいだろうという甘えで書くと、僕が結婚した相手は、そのことがわかる人だと思ったのだ、が、それは完全な勘違いと分かった。
これはトラウマ、というよりも、むしろ、他者のことは分からない、分かりあえない、ある一線をこえるとついてこられないのだ、という確信になったといえる。
だから、この孤独感というのを、誰かに理解してもらおうとは、本気で思っていない。
でも、そういう人に実際に出会えなくても、この記事とかの表現が、今まさに苦しんでいる人の一つの助けになったら、本気で嬉しいんだけど。
と、同時に、こういった表現が、例えばYouTubeの動画だとしたら、グットが20くらいで、バットが1000件とかつきそうだなって思う。
で、そのバッドって、なんなのか、といえば、ただの愚痴とか僻みとか、頑張ることから逃げてるだけだとか、判断できない優柔不断だとか、そういう批判なんだと、思う。
違うのかな? 意外に受け入れられるのか?
にこにこ動画で、サラリーマンのうた、が、かなり人気を博したし、最近そのリニューアルが公開されているのを知ったけど、いい歌だったし、評価も結構高かった。
表現と作品
やっぱり、ためしに、これらの表現を、ひとつ、作品、にして、反応をみてみる、というのは面白いかもしれない。ぐだぐだっと、このブログのように書いて、それを評価してくれとか、役立ててくれとか、そんな傲慢過ぎるな。
プロの作家は、よく、本当に書きたいこと、表現したいことと、売れる作品のギャップに苦悩するというが、僕はプロではないので、書きたいことを書けるわけだ。
その書きたいことに対する表現を学ぶってのは、大事なことだ。
生活の軸
話が奇跡的に戻るけれども、こういった何か、自分の探し求める本当の目的、これに対する行動というのがないと、資格の勉強だって、お金に繋がる仕事だって、楽しいゲームだって、やらなきゃいけない家事だって、途端に色褪せて、やる気が起きなくなるのだ。拘束時間でも、自由な時間でもよいが、とにかく、何か生活の軸に基づいて、その軸というのが、確実に、答え、に近づいているという実感をもてることが、これはもう未来思考なんかではなく、今すぐこの瞬間にも必要なことである。
途中まで書いていてまた消えてしまった。忍者ブログの下書きは自動保存してくれないから、こまめな保存が必要そうだが……
日曜日に仕事へ。
プライベートでも予定が多いため、何だか落ち着かない。といっても、たかだか、8月までの予定が主である。それを過ぎたら分からない。
仕事は、やることが多いが、明確に締め切りがないものが多く、考える、というか、関係部署、機関との調整ごとが多いため、落ち着かない。
明確に答えがある仕事がよいとは思うが、Aが直前でZになることもしばしば。
夢をみた、また、過去の夢だ、それは中学、高校のころ。
やっぱり、昔は、小学校高学年以降含めてよいだろうが、ある組織、コミュニティが、生活、人生の枠組みだった。
そこは不快なことが多かったため、そこからの離脱は、誰にきいたこともなく死が浮かぶのは、自然なことだ。
だから、子どもたちに対して、例えばいじめとか、陰惨な状況において、それが決して絶対的な場所、コミュニティではないのだと、教えてあげることは重要だ。
死んだらいけない、生きてるとよいことがあるよ。
ここまでは、誰だって言える励まし。無責任な、という形容詞をつけてもいいかもしれない。
問題は、では、果たして、その代替の場は、どこにあるのか、そして、その場でも本当に、他でもない、この自分が、やっていけるのか、このことを、どこまで信じさせられるのか、そこに、尽きる。
人間嫌い、とはダメなことなのだろうか。
休日は必ず誰か他者と共にいなければならないのか。
一人の時間が大事、とかいわれるが、矛盾したことが推奨される。
それはまぁよいが、その一人の時間とは、すなわち、他者と共に歩むための準備時間としての、従属した関係に過ぎないのか。
ところで、先日、ヘルマンヘッセさんすごい! と書いたけれども、実はヘッセさんが、超絶にリア充で、自己に疑問など感じていない人だったらどうだろう。
なんだか、騙された、という気になるのだろうか。
そうはならない構造である。何故ならば、問題の所在は、あくまで自己であり、実存であるからだ。
こんなこと、十代のうちに完結させておけよ、と、たいていの大人たちはいうだろう。
それはしかし、今後、如何なる壁や問題が僕の前に立ちはだかったとしても、なんのことはないだろう。
今までの不安がある意味解消されている。それは、その他現象化する問題は、決して、自己に関する問題以上にはならないからだ。
例えば、死病に憑かれたとしても、それはきっと、現象化する痛みに対して苦しむことだろうが、自分の存在がなんだったのかと、生きてきた意味があったのか、なにか成し遂げることができたのか……と、実存による悩みにしかならないのである。
そんなことを一秒でも考えている時間があったら、英単語のひとつでも覚えろ、と言われてきた。
でも、英単語を覚えることに使った時間と、実存に悩み苦しんだ時間、それはどちらが優位とか、関係ないのではないか。
もちろん、英単語を覚えて、県内トップの高校に進学できたかもしれない、しかしそれは、ますます自己とはなにかを分からなくした原因の一つであったのではないだろうか。
いやいや、勉強することを否定するわけではない、勉強したことを後悔するわけでもない。
ましてや、勉強より大切なものがあるとか、人間関係を大切にとか、そんなことをいうわけでもない。
ここで、死生観が異なる時代や地域を挙げても、意味がない。
むしろ、過激なテロリズムは、自爆もいとわないことは、その教義が、個においても存在規定に他ならないのである。
いわゆるリア充、という、現実世界がすべて正しいとする人々にとって、テロリズム理解することができない。
そんな、死ぬよりも今を楽しんだ方がいいじゃん!
一見正しいように思えるこの言説は
すでに人間存在としての前提を違えているため、一切かみあうことはない。
根底となる前提世界がうつろいでいく不確かなものであれば、一時の快楽など何ら救いにはならないのである。
お金目当てで兵士として参加しようとする人々はまた異なる、それらは、現実の豊かさを前提としているだけで、リア充たちと変わらない。
現時点における満たされている度合いの違いた対して関係ない、というわけで、リア充、という表現は正しくないのだが、ちゃんと書くと、物理世界肯定派と、精神世界肯定派、とかなり、それはそれでどうか。
僕はべつに、精神世界オンリーを信じているわけではない。
ただ、いずれ誰にも訪れるだろう、終わりから考えていけば、果たして何が正しく、何をしていけばいいのか、よく分からなくなる、ということだ。
初めて好きになった人と結婚し、子どもに恵まれ幸せな人生を過ごす。
多くの人がこんなこと得られはしない。代替の欲求により生きる。
でも、その欲求とはどこからやってくるのか。
僕が唯一今、主体的などではなく、自然に沸き上がる欲求は、こうして書くことである。
ゲームでさえも、たまにするが、やろう、と思ってやっている感じがする。
昔、それこそ夢に見た時代は、好きになった人と結ばれることはない、一緒に生活し生きていくことはできない、触れることもできない、抱き合うこともできないのだと、失望していた。
そんなことはない、恋愛の作法を学び、自信をもって、ポジティブな考え方をして、行動的になって、明るい話をするようにすれば、彼女だってできるし、結婚だってできるのだ。
この実感は、どんなにたくさんの人から聞こうが、自分自身の容姿や性格に自信がないひとは、一切信じられるものではない。
一度信じて、頑張っても、裏切られることが続けば、自分はもうダメなんだと、立ち上がることができなくなる。
この構造は、恋愛でも仕事でも、何でも同じ。
難しいのは、ヘッセさんが看破していて僕が感動したのは、上のような自信をもって頑張りましょう、というのは、決して、教えられてできるものではないのだ。
と、ここまでは、いつも書いていることの表現の形態の一種。
問題となるのは、その、自信があったとして、自分はできる、と思ったとしても、新たな問題が生じた、ということだ。
それは、欲求についてである。
頑張れば成し遂げられる。
彼女だって作れるし、友達だって作れる、仕事だってできて頼られてお金ももらえる。
で、だからどうした?
という、傲慢限りない疑問。
大抵の現象世界においては、あれがない、これが足りない、となるので、その無いものを求め続けることが人生の主軸になる。
あるときは諦めて、あるときは手に入って、あるときは失って、喜んだり哀しんだり怒ったりしているうちに、脳は劣化していき、自分のことも周りのことも分からなくなって、死に至るのである。
こういった表現が、なんか他の本とか、誰か他の人の言葉だったらいいのだけれども、完全僕のオリジナル、というところが、なんとも、唯一価値があることかもしれない。 つまり、困難である実感の表現化という点では、成功してるわけだ。
別に、全能感を得ているわけではないけれども、思い付く欲求の実現可能性の肯定、という面では、完全に潜在意識レベルで正、となっているのだろう。
とか書いていると、僕を含むルックスがあまりよくない人たちからも批判されるし、当然物理世界を肯定する人たちからは排除されるし、孤立無援となるので、こういったことは思っても書いてはいけないよ、という教訓的な意味で、甚だ皮肉的に役に立つ記事になった気がする。
日曜日に仕事へ。
プライベートでも予定が多いため、何だか落ち着かない。といっても、たかだか、8月までの予定が主である。それを過ぎたら分からない。
仕事は、やることが多いが、明確に締め切りがないものが多く、考える、というか、関係部署、機関との調整ごとが多いため、落ち着かない。
明確に答えがある仕事がよいとは思うが、Aが直前でZになることもしばしば。
夢をみた、また、過去の夢だ、それは中学、高校のころ。
やっぱり、昔は、小学校高学年以降含めてよいだろうが、ある組織、コミュニティが、生活、人生の枠組みだった。
そこは不快なことが多かったため、そこからの離脱は、誰にきいたこともなく死が浮かぶのは、自然なことだ。
だから、子どもたちに対して、例えばいじめとか、陰惨な状況において、それが決して絶対的な場所、コミュニティではないのだと、教えてあげることは重要だ。
代替の場所はあるが見つけられるか
死んだらいけない、生きてるとよいことがあるよ。
ここまでは、誰だって言える励まし。無責任な、という形容詞をつけてもいいかもしれない。
問題は、では、果たして、その代替の場は、どこにあるのか、そして、その場でも本当に、他でもない、この自分が、やっていけるのか、このことを、どこまで信じさせられるのか、そこに、尽きる。
誰とでも仲良くする
人間嫌い、とはダメなことなのだろうか。
休日は必ず誰か他者と共にいなければならないのか。
一人の時間が大事、とかいわれるが、矛盾したことが推奨される。
それはまぁよいが、その一人の時間とは、すなわち、他者と共に歩むための準備時間としての、従属した関係に過ぎないのか。
ところで、先日、ヘルマンヘッセさんすごい! と書いたけれども、実はヘッセさんが、超絶にリア充で、自己に疑問など感じていない人だったらどうだろう。
なんだか、騙された、という気になるのだろうか。
そうはならない構造である。何故ならば、問題の所在は、あくまで自己であり、実存であるからだ。
こんなこと、十代のうちに完結させておけよ、と、たいていの大人たちはいうだろう。
それはしかし、今後、如何なる壁や問題が僕の前に立ちはだかったとしても、なんのことはないだろう。
今までの不安がある意味解消されている。それは、その他現象化する問題は、決して、自己に関する問題以上にはならないからだ。
例えば、死病に憑かれたとしても、それはきっと、現象化する痛みに対して苦しむことだろうが、自分の存在がなんだったのかと、生きてきた意味があったのか、なにか成し遂げることができたのか……と、実存による悩みにしかならないのである。
人は何故生きるのか
そんなことを一秒でも考えている時間があったら、英単語のひとつでも覚えろ、と言われてきた。
でも、英単語を覚えることに使った時間と、実存に悩み苦しんだ時間、それはどちらが優位とか、関係ないのではないか。
もちろん、英単語を覚えて、県内トップの高校に進学できたかもしれない、しかしそれは、ますます自己とはなにかを分からなくした原因の一つであったのではないだろうか。
いやいや、勉強することを否定するわけではない、勉強したことを後悔するわけでもない。
ましてや、勉強より大切なものがあるとか、人間関係を大切にとか、そんなことをいうわけでもない。
ここで、死生観が異なる時代や地域を挙げても、意味がない。
むしろ、過激なテロリズムは、自爆もいとわないことは、その教義が、個においても存在規定に他ならないのである。
いわゆるリア充、という、現実世界がすべて正しいとする人々にとって、テロリズム理解することができない。
そんな、死ぬよりも今を楽しんだ方がいいじゃん!
一見正しいように思えるこの言説は
すでに人間存在としての前提を違えているため、一切かみあうことはない。
根底となる前提世界がうつろいでいく不確かなものであれば、一時の快楽など何ら救いにはならないのである。
お金目当てで兵士として参加しようとする人々はまた異なる、それらは、現実の豊かさを前提としているだけで、リア充たちと変わらない。
現時点における満たされている度合いの違いた対して関係ない、というわけで、リア充、という表現は正しくないのだが、ちゃんと書くと、物理世界肯定派と、精神世界肯定派、とかなり、それはそれでどうか。
物理世界の懐疑と精神世界の肯定
僕はべつに、精神世界オンリーを信じているわけではない。
ただ、いずれ誰にも訪れるだろう、終わりから考えていけば、果たして何が正しく、何をしていけばいいのか、よく分からなくなる、ということだ。
初恋と幸せ
初めて好きになった人と結婚し、子どもに恵まれ幸せな人生を過ごす。
多くの人がこんなこと得られはしない。代替の欲求により生きる。
でも、その欲求とはどこからやってくるのか。
僕が唯一今、主体的などではなく、自然に沸き上がる欲求は、こうして書くことである。
ゲームでさえも、たまにするが、やろう、と思ってやっている感じがする。
昔、それこそ夢に見た時代は、好きになった人と結ばれることはない、一緒に生活し生きていくことはできない、触れることもできない、抱き合うこともできないのだと、失望していた。
そんなことはない、恋愛の作法を学び、自信をもって、ポジティブな考え方をして、行動的になって、明るい話をするようにすれば、彼女だってできるし、結婚だってできるのだ。
この実感は、どんなにたくさんの人から聞こうが、自分自身の容姿や性格に自信がないひとは、一切信じられるものではない。
一度信じて、頑張っても、裏切られることが続けば、自分はもうダメなんだと、立ち上がることができなくなる。
この構造は、恋愛でも仕事でも、何でも同じ。
難しいのは、ヘッセさんが看破していて僕が感動したのは、上のような自信をもって頑張りましょう、というのは、決して、教えられてできるものではないのだ。
自信を得た先の話
と、ここまでは、いつも書いていることの表現の形態の一種。
問題となるのは、その、自信があったとして、自分はできる、と思ったとしても、新たな問題が生じた、ということだ。
それは、欲求についてである。
頑張れば成し遂げられる。
彼女だって作れるし、友達だって作れる、仕事だってできて頼られてお金ももらえる。
で、だからどうした?
という、傲慢限りない疑問。
大抵の現象世界においては、あれがない、これが足りない、となるので、その無いものを求め続けることが人生の主軸になる。
あるときは諦めて、あるときは手に入って、あるときは失って、喜んだり哀しんだり怒ったりしているうちに、脳は劣化していき、自分のことも周りのことも分からなくなって、死に至るのである。
こういった表現が、なんか他の本とか、誰か他の人の言葉だったらいいのだけれども、完全僕のオリジナル、というところが、なんとも、唯一価値があることかもしれない。 つまり、困難である実感の表現化という点では、成功してるわけだ。
別に、全能感を得ているわけではないけれども、思い付く欲求の実現可能性の肯定、という面では、完全に潜在意識レベルで正、となっているのだろう。
とか書いていると、僕を含むルックスがあまりよくない人たちからも批判されるし、当然物理世界を肯定する人たちからは排除されるし、孤立無援となるので、こういったことは思っても書いてはいけないよ、という教訓的な意味で、甚だ皮肉的に役に立つ記事になった気がする。
明日は、4時起きなのだけれども、この感動は、メモしておかなければならない。
ヘルマン・ヘッセのシッダールタという小説を読んで、心が震えた。
これも、かなり前に購入したものだ。アマゾンで買ったから購入した日も確認できるだろう。ただ、そのときも、かなり感動したのだけれども、心が濁っていたからなのか、今回ほどの感情の動きはなかったのではないだろうか。
シッダールタという青年(釈迦牟尼とは別人。ヘルマンヘッセの創作)と、仏陀(こちらは所謂お釈迦さま)との対話のシーン。
頂上決戦のようだ。もちろん、論破するとか、論争をするとか、そういうことではない。むしろ、そうした喜怒哀楽といった感情的な部分とは一切かけはなれた、崇高な次元での対話。
そして、僕は、その二人の言っていることが、ひどく、回りくどいような、僕がこうやって書いているような、遠回しな表現によって表されているのだけれども、僕はそれが、その真意が、明瞭に明白に透き通るように心に沁みわたってきたのである。
結果として、シッダールタは、仏陀に帰依せず、祇園精舎を後にするのである。しかしそれは、仏陀の教えに、反旗を翻したのではない。仏陀の教えに心から心服し、仏陀という人を無上の聖者として心酔したのである。
それがゆえに、彼、シッダールタは、仏陀のもとを去ったのである。
シッダールタの最愛の友、ゴーヴィンダは、仏陀に帰依した。シッダールタは、仏陀のことを認めてなお、帰依することができなかった。それは、一つの、誤りを、仏陀の教えの中に見出したからだ。
それは、その誤りとは、決して、仏陀の教えの、仏陀その人の誤りではない。
その誤りとは、畢竟、「悟りに到達するというそのこと」自体である。
宗教を研究する社会学者の橋爪氏は、それを、仏教の言語ゲームといったのではなかったか。
つまり、誰もが、悟りとは何かを知らないが、修業により悟りをえられると、「信じている」のである。
これが、仏教が、神という概念もなしに、「信じる」という宗教としての要素を備えている部分である。
話しがそれた。
そろそろ、僕自身の言葉で書いていこう。
結局、仏陀その人はすごい人だけれども、「他者からの教え」によって、自分自身を変えることなんて、できないんじゃないか、ということだ。
自我。
仏陀は、様々な修行によって悟りに至った。けれども、私自身、自我をもった、自己をもった、「私」という存在、それが、果たして涅槃に至ることができるのか、それは、聖者の教えにおいても示されていない、そして、決して示されることはないだろう、シッダールタは、そう感じたのだ。
強引で、傲慢な結論を書いて、そろそろ寝よう。
つまり、僕が最近から強く意識している、「実感」ということ。
この実感こそが、やはり、重要なのだと、思う。
僕は、仏陀や、シッダールタのように賢くないから、まだまだインプットが足りないと思う。
いやはや、彼らのような素晴らしい人でも、相当の苦悩を経るのである。僕が、中途半端に生活を送りながら生きている人間が、一体、「真理」(ここでいう真理とは、万物の普遍かつ根源という意味ではなく、主体的な意味においてのモノ)にたどり着くことができるのだろうか。
この、時間的制約、限界性について、僕は恐れている。
けれども、シッダールタが、仏陀のもとを去ったということ、そのことが、僕に、やはり逃げてはならないのだと、そう教えてくれた気がする。
いやいや、教える、なんてことは、この世の中に存在しないのだ。主体的につかみ取った、「実感」が、唯一存在するのである。
ヘルマン・ヘッセのシッダールタという小説を読んで、心が震えた。
これも、かなり前に購入したものだ。アマゾンで買ったから購入した日も確認できるだろう。ただ、そのときも、かなり感動したのだけれども、心が濁っていたからなのか、今回ほどの感情の動きはなかったのではないだろうか。
シッダールタという青年(釈迦牟尼とは別人。ヘルマンヘッセの創作)と、仏陀(こちらは所謂お釈迦さま)との対話のシーン。
頂上決戦のようだ。もちろん、論破するとか、論争をするとか、そういうことではない。むしろ、そうした喜怒哀楽といった感情的な部分とは一切かけはなれた、崇高な次元での対話。
そして、僕は、その二人の言っていることが、ひどく、回りくどいような、僕がこうやって書いているような、遠回しな表現によって表されているのだけれども、僕はそれが、その真意が、明瞭に明白に透き通るように心に沁みわたってきたのである。
結果として、シッダールタは、仏陀に帰依せず、祇園精舎を後にするのである。しかしそれは、仏陀の教えに、反旗を翻したのではない。仏陀の教えに心から心服し、仏陀という人を無上の聖者として心酔したのである。
それがゆえに、彼、シッダールタは、仏陀のもとを去ったのである。
シッダールタの最愛の友、ゴーヴィンダは、仏陀に帰依した。シッダールタは、仏陀のことを認めてなお、帰依することができなかった。それは、一つの、誤りを、仏陀の教えの中に見出したからだ。
それは、その誤りとは、決して、仏陀の教えの、仏陀その人の誤りではない。
その誤りとは、畢竟、「悟りに到達するというそのこと」自体である。
宗教を研究する社会学者の橋爪氏は、それを、仏教の言語ゲームといったのではなかったか。
つまり、誰もが、悟りとは何かを知らないが、修業により悟りをえられると、「信じている」のである。
これが、仏教が、神という概念もなしに、「信じる」という宗教としての要素を備えている部分である。
話しがそれた。
そろそろ、僕自身の言葉で書いていこう。
結局、仏陀その人はすごい人だけれども、「他者からの教え」によって、自分自身を変えることなんて、できないんじゃないか、ということだ。
自我。
仏陀は、様々な修行によって悟りに至った。けれども、私自身、自我をもった、自己をもった、「私」という存在、それが、果たして涅槃に至ることができるのか、それは、聖者の教えにおいても示されていない、そして、決して示されることはないだろう、シッダールタは、そう感じたのだ。
強引で、傲慢な結論を書いて、そろそろ寝よう。
つまり、僕が最近から強く意識している、「実感」ということ。
この実感こそが、やはり、重要なのだと、思う。
僕は、仏陀や、シッダールタのように賢くないから、まだまだインプットが足りないと思う。
いやはや、彼らのような素晴らしい人でも、相当の苦悩を経るのである。僕が、中途半端に生活を送りながら生きている人間が、一体、「真理」(ここでいう真理とは、万物の普遍かつ根源という意味ではなく、主体的な意味においてのモノ)にたどり着くことができるのだろうか。
この、時間的制約、限界性について、僕は恐れている。
けれども、シッダールタが、仏陀のもとを去ったということ、そのことが、僕に、やはり逃げてはならないのだと、そう教えてくれた気がする。
いやいや、教える、なんてことは、この世の中に存在しないのだ。主体的につかみ取った、「実感」が、唯一存在するのである。
最近の、インプットの足りなさに反省だ。なんだか、悟りきったような感覚でいたが、どこか、滓、濁った感覚がありながら、逃げていた。
キューブラーロスの死の瞬間、いつ買ったか覚えていないほど前に読んだけれども、もう一度冒頭だけ読んで、感動、というのは、心が動いた。
何度も書籍の整理を経て、今自分の部屋に残っている本は、やはり、何らかの意味があるのだ。
誰かの役に立ちたい、そんなことをかいていながら、まず、自分が、これらを、単なる慰みに留まらず、役にたつと信じられていない、そのことが問題だ。
ログは、よい、いまあることの、最速なアウトプットだ。しかし、ブログとして、役に立ちたいという思いを叶えるならば、やはり、起承転結が必要になるのだ。
もっとも、いわゆる自己啓発に代表される、これこれしたらこうなりますよ! 的なのには、成り下がる必要はない、もちろん、自己啓発を否定する必要もつもりもないが、どこかしらうさんくささを感じる人は、表層的に醸す人も、無意識で思う人も、必ずいるのだ。
それは、なにか、普遍の、不変のものに、根差されていなければならない。
それを、僕は、朝目覚めて、死の瞬間、なのだと思った。
そう、死、これもまた、昨日からの、死の恐怖、に関連する話題であり、やはり、このブログも、ログも、僕にとって、重要なものであり、役に立つことは明白なのだ。
問題は、それが、他者へも伝えられる表現になっているか、という校閲だ。
決めた、やはり、子供を育てるという経験、それがなければ、僕の人生、というよりも、思考が完結しない。
何故か今まで、子供を欲しいとは思わなかった。
それは、何故なのか、ひとつ掘りさげてもいいテーマに思うけれども、ここでは書かない。
なぜ、子供が欲しいか、子供がほしいというよりも、自分の身体を使っての、生命の循環……とか表現していくと、これはまた、気持ち悪いと謗られるのだろう(笑)
恐らく、こうしたことを、問題にする人が少ないのは、どうしても、変な表現になってしまうからではないか。
だから、恋人が欲しいとか、子供が欲しいとか、それらの欲求は、自明なものとされ、多く語られることがないのではないか。
だから、頭のよいこにするには、とか、理想の恋人と相思相愛になれる方法とか、そういったテクニカルかっこわらい、的な表現があふれていくのではないか。
で、結論として、子どもが欲しい、となったとき、結局、世の中の多くの人がそうしているわけで。
となると、ぐだぐだ考えて言って、まったく時間を無駄にしたということではないか。
これについては、否、と、実感で思う。
何故にかは、結局のところ、今までの、すべての流れにおいての、結果とした、思考の帰結なのだと、思うからだ。
流されるままに性交し子どもができて結婚して、何だか毎日に不満をもちながらも、日々を生活している……、というような人が、実際どの程度いるかは、甚だに疑問だけれども、そうした思考や感覚に、僕は今後一切ならないことが、未来の不透明さがあってなお、完全に信じられるのである。
この、信じる、ということは、まるで、神ノ前の人間だけれども、いや、信じるというのは、もとから、超然性をもとにするのであれば、そのとおりなのだろうが、ここでいう神は恐らく、キルケゴールがいうような、うちなる神のように思えるのだ。
さて、そうと決まれば、それに向けての行動が必要となる。が、子どもを育てる、という目的、目標にたいして、僕はいま、具体的方策がまったく思いつかない、かっこわらい。
ただ、ここら辺は、昔のログとか、ブログとかからの証左になるが、何か強い目的意識をもったとき、僕は必ずそれを、実現させてきたのだ。
時おり、その形がイビツであることが、あるのだけれども。
その歪さは、イメージの足りなさといえる。
それは、時おり、その都度、修正していけばいいのだけれども、僕の場合は、勝手な想像だけれど、何か実現する強い目的が、達成されたと思うと、途端に無気力さが生じてくるのかもしれない。
ゆえに、大事なのは、生きる目的、となる。
何で生きるのか、それが明らかになれば、そのための手段は、後からいくらでも考えて、そして実践すればよいだけなのだ。
ただ、今は、そこにたどり着くためのインプットが足りない、と、強く思ったわけだ。
子どもを育てる、それにまつわる様々な経験、それによる思考、それらがなくては、僕のずっと、これは本当にずっと追い求めてきたことも、気がつくことはなさそうだと、そう思うのだ。
まぁ、この感覚、いまだけかもしれないので、今週中にもう一度議論して、それで最終結論として採択しよう。
とかく、いま言えるのは、自死という結論は、当面保留、ということだろう。
投稿してからの追記。
流れから、この記事あまり面白くないが、それは、子どもを育てる、という、その思考過程と感情の動きの表現が足りないからだ。
それがないから、途中から、感情移入ができなくなって、何突然いってんだ、こいつは? っとなる。という感覚、恐らく、後から読んだ自分もそうだろうから、この辺りは、気を付けて書いた方がよいと思いながら、そろそろ時間切れ、とであれば、やはり、結論だけでも書いておくべきに思える。
ああ人生、かくも面白きかな。
そうしているうちに、救急車が通り、そして、時間が過ぎていくのである。
キューブラーロスの死の瞬間、いつ買ったか覚えていないほど前に読んだけれども、もう一度冒頭だけ読んで、感動、というのは、心が動いた。
何度も書籍の整理を経て、今自分の部屋に残っている本は、やはり、何らかの意味があるのだ。
誰かの役に立ちたい、そんなことをかいていながら、まず、自分が、これらを、単なる慰みに留まらず、役にたつと信じられていない、そのことが問題だ。
ログは、よい、いまあることの、最速なアウトプットだ。しかし、ブログとして、役に立ちたいという思いを叶えるならば、やはり、起承転結が必要になるのだ。
もっとも、いわゆる自己啓発に代表される、これこれしたらこうなりますよ! 的なのには、成り下がる必要はない、もちろん、自己啓発を否定する必要もつもりもないが、どこかしらうさんくささを感じる人は、表層的に醸す人も、無意識で思う人も、必ずいるのだ。
それは、なにか、普遍の、不変のものに、根差されていなければならない。
それを、僕は、朝目覚めて、死の瞬間、なのだと思った。
そう、死、これもまた、昨日からの、死の恐怖、に関連する話題であり、やはり、このブログも、ログも、僕にとって、重要なものであり、役に立つことは明白なのだ。
問題は、それが、他者へも伝えられる表現になっているか、という校閲だ。
死と誕生と
決めた、やはり、子供を育てるという経験、それがなければ、僕の人生、というよりも、思考が完結しない。
何故か今まで、子供を欲しいとは思わなかった。
それは、何故なのか、ひとつ掘りさげてもいいテーマに思うけれども、ここでは書かない。
なぜ、子供が欲しいか、子供がほしいというよりも、自分の身体を使っての、生命の循環……とか表現していくと、これはまた、気持ち悪いと謗られるのだろう(笑)
恐らく、こうしたことを、問題にする人が少ないのは、どうしても、変な表現になってしまうからではないか。
だから、恋人が欲しいとか、子供が欲しいとか、それらの欲求は、自明なものとされ、多く語られることがないのではないか。
だから、頭のよいこにするには、とか、理想の恋人と相思相愛になれる方法とか、そういったテクニカルかっこわらい、的な表現があふれていくのではないか。
ああそうよかったね
で、結論として、子どもが欲しい、となったとき、結局、世の中の多くの人がそうしているわけで。
となると、ぐだぐだ考えて言って、まったく時間を無駄にしたということではないか。
これについては、否、と、実感で思う。
何故にかは、結局のところ、今までの、すべての流れにおいての、結果とした、思考の帰結なのだと、思うからだ。
流されるままに性交し子どもができて結婚して、何だか毎日に不満をもちながらも、日々を生活している……、というような人が、実際どの程度いるかは、甚だに疑問だけれども、そうした思考や感覚に、僕は今後一切ならないことが、未来の不透明さがあってなお、完全に信じられるのである。
この、信じる、ということは、まるで、神ノ前の人間だけれども、いや、信じるというのは、もとから、超然性をもとにするのであれば、そのとおりなのだろうが、ここでいう神は恐らく、キルケゴールがいうような、うちなる神のように思えるのだ。
実践と思考との優先
さて、そうと決まれば、それに向けての行動が必要となる。が、子どもを育てる、という目的、目標にたいして、僕はいま、具体的方策がまったく思いつかない、かっこわらい。
ただ、ここら辺は、昔のログとか、ブログとかからの証左になるが、何か強い目的意識をもったとき、僕は必ずそれを、実現させてきたのだ。
時おり、その形がイビツであることが、あるのだけれども。
その歪さは、イメージの足りなさといえる。
それは、時おり、その都度、修正していけばいいのだけれども、僕の場合は、勝手な想像だけれど、何か実現する強い目的が、達成されたと思うと、途端に無気力さが生じてくるのかもしれない。
長期目標
ゆえに、大事なのは、生きる目的、となる。
何で生きるのか、それが明らかになれば、そのための手段は、後からいくらでも考えて、そして実践すればよいだけなのだ。
ただ、今は、そこにたどり着くためのインプットが足りない、と、強く思ったわけだ。
子どもを育てる、それにまつわる様々な経験、それによる思考、それらがなくては、僕のずっと、これは本当にずっと追い求めてきたことも、気がつくことはなさそうだと、そう思うのだ。
まぁ、この感覚、いまだけかもしれないので、今週中にもう一度議論して、それで最終結論として採択しよう。
とかく、いま言えるのは、自死という結論は、当面保留、ということだろう。
投稿してからの追記。
流れから、この記事あまり面白くないが、それは、子どもを育てる、という、その思考過程と感情の動きの表現が足りないからだ。
それがないから、途中から、感情移入ができなくなって、何突然いってんだ、こいつは? っとなる。という感覚、恐らく、後から読んだ自分もそうだろうから、この辺りは、気を付けて書いた方がよいと思いながら、そろそろ時間切れ、とであれば、やはり、結論だけでも書いておくべきに思える。
ああ人生、かくも面白きかな。
そうしているうちに、救急車が通り、そして、時間が過ぎていくのである。