途中まで書いていてまた消えてしまった。忍者ブログの下書きは自動保存してくれないから、こまめな保存が必要そうだが……
日曜日に仕事へ。
プライベートでも予定が多いため、何だか落ち着かない。といっても、たかだか、8月までの予定が主である。それを過ぎたら分からない。
仕事は、やることが多いが、明確に締め切りがないものが多く、考える、というか、関係部署、機関との調整ごとが多いため、落ち着かない。
明確に答えがある仕事がよいとは思うが、Aが直前でZになることもしばしば。
夢をみた、また、過去の夢だ、それは中学、高校のころ。
やっぱり、昔は、小学校高学年以降含めてよいだろうが、ある組織、コミュニティが、生活、人生の枠組みだった。
そこは不快なことが多かったため、そこからの離脱は、誰にきいたこともなく死が浮かぶのは、自然なことだ。
だから、子どもたちに対して、例えばいじめとか、陰惨な状況において、それが決して絶対的な場所、コミュニティではないのだと、教えてあげることは重要だ。
死んだらいけない、生きてるとよいことがあるよ。
ここまでは、誰だって言える励まし。無責任な、という形容詞をつけてもいいかもしれない。
問題は、では、果たして、その代替の場は、どこにあるのか、そして、その場でも本当に、他でもない、この自分が、やっていけるのか、このことを、どこまで信じさせられるのか、そこに、尽きる。
人間嫌い、とはダメなことなのだろうか。
休日は必ず誰か他者と共にいなければならないのか。
一人の時間が大事、とかいわれるが、矛盾したことが推奨される。
それはまぁよいが、その一人の時間とは、すなわち、他者と共に歩むための準備時間としての、従属した関係に過ぎないのか。
ところで、先日、ヘルマンヘッセさんすごい! と書いたけれども、実はヘッセさんが、超絶にリア充で、自己に疑問など感じていない人だったらどうだろう。
なんだか、騙された、という気になるのだろうか。
そうはならない構造である。何故ならば、問題の所在は、あくまで自己であり、実存であるからだ。
こんなこと、十代のうちに完結させておけよ、と、たいていの大人たちはいうだろう。
それはしかし、今後、如何なる壁や問題が僕の前に立ちはだかったとしても、なんのことはないだろう。
今までの不安がある意味解消されている。それは、その他現象化する問題は、決して、自己に関する問題以上にはならないからだ。
例えば、死病に憑かれたとしても、それはきっと、現象化する痛みに対して苦しむことだろうが、自分の存在がなんだったのかと、生きてきた意味があったのか、なにか成し遂げることができたのか……と、実存による悩みにしかならないのである。
そんなことを一秒でも考えている時間があったら、英単語のひとつでも覚えろ、と言われてきた。
でも、英単語を覚えることに使った時間と、実存に悩み苦しんだ時間、それはどちらが優位とか、関係ないのではないか。
もちろん、英単語を覚えて、県内トップの高校に進学できたかもしれない、しかしそれは、ますます自己とはなにかを分からなくした原因の一つであったのではないだろうか。
いやいや、勉強することを否定するわけではない、勉強したことを後悔するわけでもない。
ましてや、勉強より大切なものがあるとか、人間関係を大切にとか、そんなことをいうわけでもない。
ここで、死生観が異なる時代や地域を挙げても、意味がない。
むしろ、過激なテロリズムは、自爆もいとわないことは、その教義が、個においても存在規定に他ならないのである。
いわゆるリア充、という、現実世界がすべて正しいとする人々にとって、テロリズム理解することができない。
そんな、死ぬよりも今を楽しんだ方がいいじゃん!
一見正しいように思えるこの言説は
すでに人間存在としての前提を違えているため、一切かみあうことはない。
根底となる前提世界がうつろいでいく不確かなものであれば、一時の快楽など何ら救いにはならないのである。
お金目当てで兵士として参加しようとする人々はまた異なる、それらは、現実の豊かさを前提としているだけで、リア充たちと変わらない。
現時点における満たされている度合いの違いた対して関係ない、というわけで、リア充、という表現は正しくないのだが、ちゃんと書くと、物理世界肯定派と、精神世界肯定派、とかなり、それはそれでどうか。
僕はべつに、精神世界オンリーを信じているわけではない。
ただ、いずれ誰にも訪れるだろう、終わりから考えていけば、果たして何が正しく、何をしていけばいいのか、よく分からなくなる、ということだ。
初めて好きになった人と結婚し、子どもに恵まれ幸せな人生を過ごす。
多くの人がこんなこと得られはしない。代替の欲求により生きる。
でも、その欲求とはどこからやってくるのか。
僕が唯一今、主体的などではなく、自然に沸き上がる欲求は、こうして書くことである。
ゲームでさえも、たまにするが、やろう、と思ってやっている感じがする。
昔、それこそ夢に見た時代は、好きになった人と結ばれることはない、一緒に生活し生きていくことはできない、触れることもできない、抱き合うこともできないのだと、失望していた。
そんなことはない、恋愛の作法を学び、自信をもって、ポジティブな考え方をして、行動的になって、明るい話をするようにすれば、彼女だってできるし、結婚だってできるのだ。
この実感は、どんなにたくさんの人から聞こうが、自分自身の容姿や性格に自信がないひとは、一切信じられるものではない。
一度信じて、頑張っても、裏切られることが続けば、自分はもうダメなんだと、立ち上がることができなくなる。
この構造は、恋愛でも仕事でも、何でも同じ。
難しいのは、ヘッセさんが看破していて僕が感動したのは、上のような自信をもって頑張りましょう、というのは、決して、教えられてできるものではないのだ。
と、ここまでは、いつも書いていることの表現の形態の一種。
問題となるのは、その、自信があったとして、自分はできる、と思ったとしても、新たな問題が生じた、ということだ。
それは、欲求についてである。
頑張れば成し遂げられる。
彼女だって作れるし、友達だって作れる、仕事だってできて頼られてお金ももらえる。
で、だからどうした?
という、傲慢限りない疑問。
大抵の現象世界においては、あれがない、これが足りない、となるので、その無いものを求め続けることが人生の主軸になる。
あるときは諦めて、あるときは手に入って、あるときは失って、喜んだり哀しんだり怒ったりしているうちに、脳は劣化していき、自分のことも周りのことも分からなくなって、死に至るのである。
こういった表現が、なんか他の本とか、誰か他の人の言葉だったらいいのだけれども、完全僕のオリジナル、というところが、なんとも、唯一価値があることかもしれない。 つまり、困難である実感の表現化という点では、成功してるわけだ。
別に、全能感を得ているわけではないけれども、思い付く欲求の実現可能性の肯定、という面では、完全に潜在意識レベルで正、となっているのだろう。
とか書いていると、僕を含むルックスがあまりよくない人たちからも批判されるし、当然物理世界を肯定する人たちからは排除されるし、孤立無援となるので、こういったことは思っても書いてはいけないよ、という教訓的な意味で、甚だ皮肉的に役に立つ記事になった気がする。
日曜日に仕事へ。
プライベートでも予定が多いため、何だか落ち着かない。といっても、たかだか、8月までの予定が主である。それを過ぎたら分からない。
仕事は、やることが多いが、明確に締め切りがないものが多く、考える、というか、関係部署、機関との調整ごとが多いため、落ち着かない。
明確に答えがある仕事がよいとは思うが、Aが直前でZになることもしばしば。
夢をみた、また、過去の夢だ、それは中学、高校のころ。
やっぱり、昔は、小学校高学年以降含めてよいだろうが、ある組織、コミュニティが、生活、人生の枠組みだった。
そこは不快なことが多かったため、そこからの離脱は、誰にきいたこともなく死が浮かぶのは、自然なことだ。
だから、子どもたちに対して、例えばいじめとか、陰惨な状況において、それが決して絶対的な場所、コミュニティではないのだと、教えてあげることは重要だ。
代替の場所はあるが見つけられるか
死んだらいけない、生きてるとよいことがあるよ。
ここまでは、誰だって言える励まし。無責任な、という形容詞をつけてもいいかもしれない。
問題は、では、果たして、その代替の場は、どこにあるのか、そして、その場でも本当に、他でもない、この自分が、やっていけるのか、このことを、どこまで信じさせられるのか、そこに、尽きる。
誰とでも仲良くする
人間嫌い、とはダメなことなのだろうか。
休日は必ず誰か他者と共にいなければならないのか。
一人の時間が大事、とかいわれるが、矛盾したことが推奨される。
それはまぁよいが、その一人の時間とは、すなわち、他者と共に歩むための準備時間としての、従属した関係に過ぎないのか。
ところで、先日、ヘルマンヘッセさんすごい! と書いたけれども、実はヘッセさんが、超絶にリア充で、自己に疑問など感じていない人だったらどうだろう。
なんだか、騙された、という気になるのだろうか。
そうはならない構造である。何故ならば、問題の所在は、あくまで自己であり、実存であるからだ。
こんなこと、十代のうちに完結させておけよ、と、たいていの大人たちはいうだろう。
それはしかし、今後、如何なる壁や問題が僕の前に立ちはだかったとしても、なんのことはないだろう。
今までの不安がある意味解消されている。それは、その他現象化する問題は、決して、自己に関する問題以上にはならないからだ。
例えば、死病に憑かれたとしても、それはきっと、現象化する痛みに対して苦しむことだろうが、自分の存在がなんだったのかと、生きてきた意味があったのか、なにか成し遂げることができたのか……と、実存による悩みにしかならないのである。
人は何故生きるのか
そんなことを一秒でも考えている時間があったら、英単語のひとつでも覚えろ、と言われてきた。
でも、英単語を覚えることに使った時間と、実存に悩み苦しんだ時間、それはどちらが優位とか、関係ないのではないか。
もちろん、英単語を覚えて、県内トップの高校に進学できたかもしれない、しかしそれは、ますます自己とはなにかを分からなくした原因の一つであったのではないだろうか。
いやいや、勉強することを否定するわけではない、勉強したことを後悔するわけでもない。
ましてや、勉強より大切なものがあるとか、人間関係を大切にとか、そんなことをいうわけでもない。
ここで、死生観が異なる時代や地域を挙げても、意味がない。
むしろ、過激なテロリズムは、自爆もいとわないことは、その教義が、個においても存在規定に他ならないのである。
いわゆるリア充、という、現実世界がすべて正しいとする人々にとって、テロリズム理解することができない。
そんな、死ぬよりも今を楽しんだ方がいいじゃん!
一見正しいように思えるこの言説は
すでに人間存在としての前提を違えているため、一切かみあうことはない。
根底となる前提世界がうつろいでいく不確かなものであれば、一時の快楽など何ら救いにはならないのである。
お金目当てで兵士として参加しようとする人々はまた異なる、それらは、現実の豊かさを前提としているだけで、リア充たちと変わらない。
現時点における満たされている度合いの違いた対して関係ない、というわけで、リア充、という表現は正しくないのだが、ちゃんと書くと、物理世界肯定派と、精神世界肯定派、とかなり、それはそれでどうか。
物理世界の懐疑と精神世界の肯定
僕はべつに、精神世界オンリーを信じているわけではない。
ただ、いずれ誰にも訪れるだろう、終わりから考えていけば、果たして何が正しく、何をしていけばいいのか、よく分からなくなる、ということだ。
初恋と幸せ
初めて好きになった人と結婚し、子どもに恵まれ幸せな人生を過ごす。
多くの人がこんなこと得られはしない。代替の欲求により生きる。
でも、その欲求とはどこからやってくるのか。
僕が唯一今、主体的などではなく、自然に沸き上がる欲求は、こうして書くことである。
ゲームでさえも、たまにするが、やろう、と思ってやっている感じがする。
昔、それこそ夢に見た時代は、好きになった人と結ばれることはない、一緒に生活し生きていくことはできない、触れることもできない、抱き合うこともできないのだと、失望していた。
そんなことはない、恋愛の作法を学び、自信をもって、ポジティブな考え方をして、行動的になって、明るい話をするようにすれば、彼女だってできるし、結婚だってできるのだ。
この実感は、どんなにたくさんの人から聞こうが、自分自身の容姿や性格に自信がないひとは、一切信じられるものではない。
一度信じて、頑張っても、裏切られることが続けば、自分はもうダメなんだと、立ち上がることができなくなる。
この構造は、恋愛でも仕事でも、何でも同じ。
難しいのは、ヘッセさんが看破していて僕が感動したのは、上のような自信をもって頑張りましょう、というのは、決して、教えられてできるものではないのだ。
自信を得た先の話
と、ここまでは、いつも書いていることの表現の形態の一種。
問題となるのは、その、自信があったとして、自分はできる、と思ったとしても、新たな問題が生じた、ということだ。
それは、欲求についてである。
頑張れば成し遂げられる。
彼女だって作れるし、友達だって作れる、仕事だってできて頼られてお金ももらえる。
で、だからどうした?
という、傲慢限りない疑問。
大抵の現象世界においては、あれがない、これが足りない、となるので、その無いものを求め続けることが人生の主軸になる。
あるときは諦めて、あるときは手に入って、あるときは失って、喜んだり哀しんだり怒ったりしているうちに、脳は劣化していき、自分のことも周りのことも分からなくなって、死に至るのである。
こういった表現が、なんか他の本とか、誰か他の人の言葉だったらいいのだけれども、完全僕のオリジナル、というところが、なんとも、唯一価値があることかもしれない。 つまり、困難である実感の表現化という点では、成功してるわけだ。
別に、全能感を得ているわけではないけれども、思い付く欲求の実現可能性の肯定、という面では、完全に潜在意識レベルで正、となっているのだろう。
とか書いていると、僕を含むルックスがあまりよくない人たちからも批判されるし、当然物理世界を肯定する人たちからは排除されるし、孤立無援となるので、こういったことは思っても書いてはいけないよ、という教訓的な意味で、甚だ皮肉的に役に立つ記事になった気がする。
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明日は、4時起きなのだけれども、この感動は、メモしておかなければならない。
ヘルマン・ヘッセのシッダールタという小説を読んで、心が震えた。
これも、かなり前に購入したものだ。アマゾンで買ったから購入した日も確認できるだろう。ただ、そのときも、かなり感動したのだけれども、心が濁っていたからなのか、今回ほどの感情の動きはなかったのではないだろうか。
シッダールタという青年(釈迦牟尼とは別人。ヘルマンヘッセの創作)と、仏陀(こちらは所謂お釈迦さま)との対話のシーン。
頂上決戦のようだ。もちろん、論破するとか、論争をするとか、そういうことではない。むしろ、そうした喜怒哀楽といった感情的な部分とは一切かけはなれた、崇高な次元での対話。
そして、僕は、その二人の言っていることが、ひどく、回りくどいような、僕がこうやって書いているような、遠回しな表現によって表されているのだけれども、僕はそれが、その真意が、明瞭に明白に透き通るように心に沁みわたってきたのである。
結果として、シッダールタは、仏陀に帰依せず、祇園精舎を後にするのである。しかしそれは、仏陀の教えに、反旗を翻したのではない。仏陀の教えに心から心服し、仏陀という人を無上の聖者として心酔したのである。
それがゆえに、彼、シッダールタは、仏陀のもとを去ったのである。
シッダールタの最愛の友、ゴーヴィンダは、仏陀に帰依した。シッダールタは、仏陀のことを認めてなお、帰依することができなかった。それは、一つの、誤りを、仏陀の教えの中に見出したからだ。
それは、その誤りとは、決して、仏陀の教えの、仏陀その人の誤りではない。
その誤りとは、畢竟、「悟りに到達するというそのこと」自体である。
宗教を研究する社会学者の橋爪氏は、それを、仏教の言語ゲームといったのではなかったか。
つまり、誰もが、悟りとは何かを知らないが、修業により悟りをえられると、「信じている」のである。
これが、仏教が、神という概念もなしに、「信じる」という宗教としての要素を備えている部分である。
話しがそれた。
そろそろ、僕自身の言葉で書いていこう。
結局、仏陀その人はすごい人だけれども、「他者からの教え」によって、自分自身を変えることなんて、できないんじゃないか、ということだ。
自我。
仏陀は、様々な修行によって悟りに至った。けれども、私自身、自我をもった、自己をもった、「私」という存在、それが、果たして涅槃に至ることができるのか、それは、聖者の教えにおいても示されていない、そして、決して示されることはないだろう、シッダールタは、そう感じたのだ。
強引で、傲慢な結論を書いて、そろそろ寝よう。
つまり、僕が最近から強く意識している、「実感」ということ。
この実感こそが、やはり、重要なのだと、思う。
僕は、仏陀や、シッダールタのように賢くないから、まだまだインプットが足りないと思う。
いやはや、彼らのような素晴らしい人でも、相当の苦悩を経るのである。僕が、中途半端に生活を送りながら生きている人間が、一体、「真理」(ここでいう真理とは、万物の普遍かつ根源という意味ではなく、主体的な意味においてのモノ)にたどり着くことができるのだろうか。
この、時間的制約、限界性について、僕は恐れている。
けれども、シッダールタが、仏陀のもとを去ったということ、そのことが、僕に、やはり逃げてはならないのだと、そう教えてくれた気がする。
いやいや、教える、なんてことは、この世の中に存在しないのだ。主体的につかみ取った、「実感」が、唯一存在するのである。
ヘルマン・ヘッセのシッダールタという小説を読んで、心が震えた。
これも、かなり前に購入したものだ。アマゾンで買ったから購入した日も確認できるだろう。ただ、そのときも、かなり感動したのだけれども、心が濁っていたからなのか、今回ほどの感情の動きはなかったのではないだろうか。
シッダールタという青年(釈迦牟尼とは別人。ヘルマンヘッセの創作)と、仏陀(こちらは所謂お釈迦さま)との対話のシーン。
頂上決戦のようだ。もちろん、論破するとか、論争をするとか、そういうことではない。むしろ、そうした喜怒哀楽といった感情的な部分とは一切かけはなれた、崇高な次元での対話。
そして、僕は、その二人の言っていることが、ひどく、回りくどいような、僕がこうやって書いているような、遠回しな表現によって表されているのだけれども、僕はそれが、その真意が、明瞭に明白に透き通るように心に沁みわたってきたのである。
結果として、シッダールタは、仏陀に帰依せず、祇園精舎を後にするのである。しかしそれは、仏陀の教えに、反旗を翻したのではない。仏陀の教えに心から心服し、仏陀という人を無上の聖者として心酔したのである。
それがゆえに、彼、シッダールタは、仏陀のもとを去ったのである。
シッダールタの最愛の友、ゴーヴィンダは、仏陀に帰依した。シッダールタは、仏陀のことを認めてなお、帰依することができなかった。それは、一つの、誤りを、仏陀の教えの中に見出したからだ。
それは、その誤りとは、決して、仏陀の教えの、仏陀その人の誤りではない。
その誤りとは、畢竟、「悟りに到達するというそのこと」自体である。
宗教を研究する社会学者の橋爪氏は、それを、仏教の言語ゲームといったのではなかったか。
つまり、誰もが、悟りとは何かを知らないが、修業により悟りをえられると、「信じている」のである。
これが、仏教が、神という概念もなしに、「信じる」という宗教としての要素を備えている部分である。
話しがそれた。
そろそろ、僕自身の言葉で書いていこう。
結局、仏陀その人はすごい人だけれども、「他者からの教え」によって、自分自身を変えることなんて、できないんじゃないか、ということだ。
自我。
仏陀は、様々な修行によって悟りに至った。けれども、私自身、自我をもった、自己をもった、「私」という存在、それが、果たして涅槃に至ることができるのか、それは、聖者の教えにおいても示されていない、そして、決して示されることはないだろう、シッダールタは、そう感じたのだ。
強引で、傲慢な結論を書いて、そろそろ寝よう。
つまり、僕が最近から強く意識している、「実感」ということ。
この実感こそが、やはり、重要なのだと、思う。
僕は、仏陀や、シッダールタのように賢くないから、まだまだインプットが足りないと思う。
いやはや、彼らのような素晴らしい人でも、相当の苦悩を経るのである。僕が、中途半端に生活を送りながら生きている人間が、一体、「真理」(ここでいう真理とは、万物の普遍かつ根源という意味ではなく、主体的な意味においてのモノ)にたどり着くことができるのだろうか。
この、時間的制約、限界性について、僕は恐れている。
けれども、シッダールタが、仏陀のもとを去ったということ、そのことが、僕に、やはり逃げてはならないのだと、そう教えてくれた気がする。
いやいや、教える、なんてことは、この世の中に存在しないのだ。主体的につかみ取った、「実感」が、唯一存在するのである。
最近の、インプットの足りなさに反省だ。なんだか、悟りきったような感覚でいたが、どこか、滓、濁った感覚がありながら、逃げていた。
キューブラーロスの死の瞬間、いつ買ったか覚えていないほど前に読んだけれども、もう一度冒頭だけ読んで、感動、というのは、心が動いた。
何度も書籍の整理を経て、今自分の部屋に残っている本は、やはり、何らかの意味があるのだ。
誰かの役に立ちたい、そんなことをかいていながら、まず、自分が、これらを、単なる慰みに留まらず、役にたつと信じられていない、そのことが問題だ。
ログは、よい、いまあることの、最速なアウトプットだ。しかし、ブログとして、役に立ちたいという思いを叶えるならば、やはり、起承転結が必要になるのだ。
もっとも、いわゆる自己啓発に代表される、これこれしたらこうなりますよ! 的なのには、成り下がる必要はない、もちろん、自己啓発を否定する必要もつもりもないが、どこかしらうさんくささを感じる人は、表層的に醸す人も、無意識で思う人も、必ずいるのだ。
それは、なにか、普遍の、不変のものに、根差されていなければならない。
それを、僕は、朝目覚めて、死の瞬間、なのだと思った。
そう、死、これもまた、昨日からの、死の恐怖、に関連する話題であり、やはり、このブログも、ログも、僕にとって、重要なものであり、役に立つことは明白なのだ。
問題は、それが、他者へも伝えられる表現になっているか、という校閲だ。
決めた、やはり、子供を育てるという経験、それがなければ、僕の人生、というよりも、思考が完結しない。
何故か今まで、子供を欲しいとは思わなかった。
それは、何故なのか、ひとつ掘りさげてもいいテーマに思うけれども、ここでは書かない。
なぜ、子供が欲しいか、子供がほしいというよりも、自分の身体を使っての、生命の循環……とか表現していくと、これはまた、気持ち悪いと謗られるのだろう(笑)
恐らく、こうしたことを、問題にする人が少ないのは、どうしても、変な表現になってしまうからではないか。
だから、恋人が欲しいとか、子供が欲しいとか、それらの欲求は、自明なものとされ、多く語られることがないのではないか。
だから、頭のよいこにするには、とか、理想の恋人と相思相愛になれる方法とか、そういったテクニカルかっこわらい、的な表現があふれていくのではないか。
で、結論として、子どもが欲しい、となったとき、結局、世の中の多くの人がそうしているわけで。
となると、ぐだぐだ考えて言って、まったく時間を無駄にしたということではないか。
これについては、否、と、実感で思う。
何故にかは、結局のところ、今までの、すべての流れにおいての、結果とした、思考の帰結なのだと、思うからだ。
流されるままに性交し子どもができて結婚して、何だか毎日に不満をもちながらも、日々を生活している……、というような人が、実際どの程度いるかは、甚だに疑問だけれども、そうした思考や感覚に、僕は今後一切ならないことが、未来の不透明さがあってなお、完全に信じられるのである。
この、信じる、ということは、まるで、神ノ前の人間だけれども、いや、信じるというのは、もとから、超然性をもとにするのであれば、そのとおりなのだろうが、ここでいう神は恐らく、キルケゴールがいうような、うちなる神のように思えるのだ。
さて、そうと決まれば、それに向けての行動が必要となる。が、子どもを育てる、という目的、目標にたいして、僕はいま、具体的方策がまったく思いつかない、かっこわらい。
ただ、ここら辺は、昔のログとか、ブログとかからの証左になるが、何か強い目的意識をもったとき、僕は必ずそれを、実現させてきたのだ。
時おり、その形がイビツであることが、あるのだけれども。
その歪さは、イメージの足りなさといえる。
それは、時おり、その都度、修正していけばいいのだけれども、僕の場合は、勝手な想像だけれど、何か実現する強い目的が、達成されたと思うと、途端に無気力さが生じてくるのかもしれない。
ゆえに、大事なのは、生きる目的、となる。
何で生きるのか、それが明らかになれば、そのための手段は、後からいくらでも考えて、そして実践すればよいだけなのだ。
ただ、今は、そこにたどり着くためのインプットが足りない、と、強く思ったわけだ。
子どもを育てる、それにまつわる様々な経験、それによる思考、それらがなくては、僕のずっと、これは本当にずっと追い求めてきたことも、気がつくことはなさそうだと、そう思うのだ。
まぁ、この感覚、いまだけかもしれないので、今週中にもう一度議論して、それで最終結論として採択しよう。
とかく、いま言えるのは、自死という結論は、当面保留、ということだろう。
投稿してからの追記。
流れから、この記事あまり面白くないが、それは、子どもを育てる、という、その思考過程と感情の動きの表現が足りないからだ。
それがないから、途中から、感情移入ができなくなって、何突然いってんだ、こいつは? っとなる。という感覚、恐らく、後から読んだ自分もそうだろうから、この辺りは、気を付けて書いた方がよいと思いながら、そろそろ時間切れ、とであれば、やはり、結論だけでも書いておくべきに思える。
ああ人生、かくも面白きかな。
そうしているうちに、救急車が通り、そして、時間が過ぎていくのである。
キューブラーロスの死の瞬間、いつ買ったか覚えていないほど前に読んだけれども、もう一度冒頭だけ読んで、感動、というのは、心が動いた。
何度も書籍の整理を経て、今自分の部屋に残っている本は、やはり、何らかの意味があるのだ。
誰かの役に立ちたい、そんなことをかいていながら、まず、自分が、これらを、単なる慰みに留まらず、役にたつと信じられていない、そのことが問題だ。
ログは、よい、いまあることの、最速なアウトプットだ。しかし、ブログとして、役に立ちたいという思いを叶えるならば、やはり、起承転結が必要になるのだ。
もっとも、いわゆる自己啓発に代表される、これこれしたらこうなりますよ! 的なのには、成り下がる必要はない、もちろん、自己啓発を否定する必要もつもりもないが、どこかしらうさんくささを感じる人は、表層的に醸す人も、無意識で思う人も、必ずいるのだ。
それは、なにか、普遍の、不変のものに、根差されていなければならない。
それを、僕は、朝目覚めて、死の瞬間、なのだと思った。
そう、死、これもまた、昨日からの、死の恐怖、に関連する話題であり、やはり、このブログも、ログも、僕にとって、重要なものであり、役に立つことは明白なのだ。
問題は、それが、他者へも伝えられる表現になっているか、という校閲だ。
死と誕生と
決めた、やはり、子供を育てるという経験、それがなければ、僕の人生、というよりも、思考が完結しない。
何故か今まで、子供を欲しいとは思わなかった。
それは、何故なのか、ひとつ掘りさげてもいいテーマに思うけれども、ここでは書かない。
なぜ、子供が欲しいか、子供がほしいというよりも、自分の身体を使っての、生命の循環……とか表現していくと、これはまた、気持ち悪いと謗られるのだろう(笑)
恐らく、こうしたことを、問題にする人が少ないのは、どうしても、変な表現になってしまうからではないか。
だから、恋人が欲しいとか、子供が欲しいとか、それらの欲求は、自明なものとされ、多く語られることがないのではないか。
だから、頭のよいこにするには、とか、理想の恋人と相思相愛になれる方法とか、そういったテクニカルかっこわらい、的な表現があふれていくのではないか。
ああそうよかったね
で、結論として、子どもが欲しい、となったとき、結局、世の中の多くの人がそうしているわけで。
となると、ぐだぐだ考えて言って、まったく時間を無駄にしたということではないか。
これについては、否、と、実感で思う。
何故にかは、結局のところ、今までの、すべての流れにおいての、結果とした、思考の帰結なのだと、思うからだ。
流されるままに性交し子どもができて結婚して、何だか毎日に不満をもちながらも、日々を生活している……、というような人が、実際どの程度いるかは、甚だに疑問だけれども、そうした思考や感覚に、僕は今後一切ならないことが、未来の不透明さがあってなお、完全に信じられるのである。
この、信じる、ということは、まるで、神ノ前の人間だけれども、いや、信じるというのは、もとから、超然性をもとにするのであれば、そのとおりなのだろうが、ここでいう神は恐らく、キルケゴールがいうような、うちなる神のように思えるのだ。
実践と思考との優先
さて、そうと決まれば、それに向けての行動が必要となる。が、子どもを育てる、という目的、目標にたいして、僕はいま、具体的方策がまったく思いつかない、かっこわらい。
ただ、ここら辺は、昔のログとか、ブログとかからの証左になるが、何か強い目的意識をもったとき、僕は必ずそれを、実現させてきたのだ。
時おり、その形がイビツであることが、あるのだけれども。
その歪さは、イメージの足りなさといえる。
それは、時おり、その都度、修正していけばいいのだけれども、僕の場合は、勝手な想像だけれど、何か実現する強い目的が、達成されたと思うと、途端に無気力さが生じてくるのかもしれない。
長期目標
ゆえに、大事なのは、生きる目的、となる。
何で生きるのか、それが明らかになれば、そのための手段は、後からいくらでも考えて、そして実践すればよいだけなのだ。
ただ、今は、そこにたどり着くためのインプットが足りない、と、強く思ったわけだ。
子どもを育てる、それにまつわる様々な経験、それによる思考、それらがなくては、僕のずっと、これは本当にずっと追い求めてきたことも、気がつくことはなさそうだと、そう思うのだ。
まぁ、この感覚、いまだけかもしれないので、今週中にもう一度議論して、それで最終結論として採択しよう。
とかく、いま言えるのは、自死という結論は、当面保留、ということだろう。
投稿してからの追記。
流れから、この記事あまり面白くないが、それは、子どもを育てる、という、その思考過程と感情の動きの表現が足りないからだ。
それがないから、途中から、感情移入ができなくなって、何突然いってんだ、こいつは? っとなる。という感覚、恐らく、後から読んだ自分もそうだろうから、この辺りは、気を付けて書いた方がよいと思いながら、そろそろ時間切れ、とであれば、やはり、結論だけでも書いておくべきに思える。
ああ人生、かくも面白きかな。
そうしているうちに、救急車が通り、そして、時間が過ぎていくのである。
痴呆、と書くと、差別用語になったんだったっけ。
認知症という呼び方が主になっている。しょうがいしゃ、を、「害」という文字を使ってはいけない、ということにも。
ところで、先日、死ぬのがものすごく怖かった、と書いた。
何故生きているのか分からない、と書きながら、死の恐怖に怯える、というのは、これはかなりつらいものだと思う。生きていても苦しみ、死ぬのも怖い、とは、哀しいことだ。
ただし、その両方が、同時に生じていることがないことに、気付いた。
つまり、死ぬのが怖い、と思っているときは、何故生きているのだろう、とか、考えていない、ということだ。
逆に、何故生きているのだろう、と生きる意味を考えているときは、死の恐怖を感じてはいない。
漠然と、死ぬのは、何が何だか分からないから怖いな、とは思うものの、本気で、「怖い」と心から思う感覚は、生じていないのである。
今までに、2回、3回、だろうか。もう、二度と、目覚めることがない、と感じ、身体の感覚も、思考もまともに働かないが、ただ、暗闇で、沈殿した意識だけが残っているのである。
あれは、怖かった。
目が覚めると、汗がびっしょり、という表現が似合う。
本当に、死とは、無であってほしいと、切に願った。
中途半端な意識だけが残って、永遠にその状態なんて、考えてみて、想像してみただけでも、もう恐怖以外のなにものでもないではないか。
じゃあ、かといって、生きていて楽しいか、と聞かれて、そんな状況ではなかったときのことである。寝ても覚めても、中途半端な感覚に苦しんでいた。
ところで、先日、祖母が自分のことを忘れていた、と書いた。
非常にショックな出来事の一つではあったが、ここで僕は思った。何故ボケなんて、いわゆる痴呆、認知症に、年を取るとなっていくのだろうか。
感情の防衛本能なのではないか。
ずっと、明朗な思考を、人は望む。不老不死に憧れて賢者の石を、とか、鋼の錬金術師とか、もうたくさんエピソードがあることだろう。人魚姫の肉を食べるとうんたらかんたらとか。
不死、となると、今回の記事の目的と外れるから、「不老」というのを想定してみると、ずっと、頭がすっきりしていて、認知力があって、感覚もしっかりとしていたとき、やっぱり、死ぬことは怖くなってくるのではないだろうか。
平均寿命は80歳ぐらいだけれども、平均を過ぎて、90、100、110……となれば、いくらなんでも、死を意識するはずである。
そうしたとき、例えば、認知力が低下していれば、そんなことも考えられなくなっているのではないだろうか。
認知症の人たちが、最近のことを覚えられなくなるということ、ただ、昔のこと、例えば子供のころのことなどは覚えていて、いっつも同じ話を聞かされて介護する人が疲れて……というのはまた話がかわってくるが、とにかく、幼いころの記憶は残っていることが多いという。
幼いころの幸せな記憶だけが残り、それをじっくりと、反芻しながら、死へと向かっていく。
これが、人間のインプットされた構造なのではないだろうか。
だから逆に、幼いころに、死ぬことなんて、あまり考えたりしないのだ。いやでも、小さいころに、相手の痛みを教えなければ、人の命の大切さを教えなければいけない気がする……が、それはあくまでも、他者に対してのことであって、自らの「死」を、幼い子供にインプットさせるのは、そもそも難しいことではないだろうか。
だから、論理的な言葉など必要なくて、単に、他人に迷惑をかけてはいけないよ、とか、相手に嫌な思いをさせてはいけないよ、とか、みんなで決めたルールは守らないといけないよ、とか、抽象的な言葉で教育するのである。
そして、もっといえば、言葉ではなく、行動をして、見せ、やって、ふるまうのである。
上の話は文脈に関係ない、ここで言いたかったのは、やっぱり、死の恐怖ってのはあるのだから、それを感じないように、年を取るにつれて、自然と身体がふるまってくれるのではないだろうか、ということだ。
だからむしろ、死の恐怖、ってのを感じているうちは、まだ、老いてはいない、ってことだ、という、もう完全に思いつき。
生きる意味なんて、考える必要はないんだよ、と、多くの物語が語る。
本当にそうか、と、僕は懐疑的である。
ただ、それもそれで、きっと正しいのだ。というのは、上の、老いと認知症の関係性が正しければ、身体が、なるように思考を導いていくから、ということだ。
思考単独で成り立つとは、思っていない。デカルトの、コギト・エルゴ・スム、は、合理的に考えることの端緒となった意味で優れた気付きと思うけれども、「思考」と「身体」は、両面して成り立つものだ。
心はどこにあるのか、とか、ロボット工学の前野氏の著作や、学者?下村氏の著作などは面白い。
何だかやる気が起きずに、布団でうずくまったり、本を読んだり、漫画を読んだりしていた。
寝ては目覚めて、また寝て、と。
こういう日があってもいい。ただ、こういう時間の過ごし方は、それこそ、8年も前にいっぱい過ごしていたようにも思える。
黒い砂漠というゲーム、久々に起動したら、畑に植えてあった作物が全部なくなっていた。一週間で撤去される仕様とは知っていたけれども、アイテムボックスに種になって戻るぐらいしてくれるのかと思ったら、完全消去とな。相当のゲーム内マネーが失われた計算。計算もしたくないほど。なんか、ゲームもやる気がそがれた。1万円ぐらい課金してる(そのうち半分ぐらいしか使ってない)んだけどなぁ……。
明日から仕事。来週、再来週は土日に予定あり。
今確認したら、7月の23日まで、土日は何らか予定がある。珍しいものだ。
8月はツーリングがてら帰省しようと思うし、あっという間に、夏は終わりそうだな。
そういえば、高校生の頃の夏休みって、どんなだっけ。部活が中心だった気がする。楽しかったのかな。何だかんだ言って、今の状態になっても、やっぱり、昔には戻りたくないな。
戻りたい昔って、やっぱり、ないな。
それは、悲観的な、絶望的な意味もあるのかもしれないけれども、やっぱり、今が、一番良いのだと、きっと自分の中では思っているのだろう。
8年前の思考、それは、「今を積極的に肯定する」と、「執着しない」という、二つの目標、いや目的、いや価値観、だろうか、に、規定されている、というよりも、それがやっぱり、(僕が)生きていくうえで、重要な考えだったのだと、そう思う。
サイトの更新、着手したくなってきた。改修するといって、待ってもらっている。というよりも、早く読みたいという気持ちが生じている、それと、改修する動機が、今は拮抗しているのだろうか、本当は、今日のような日に、少しでも進められたらよかったのだけれども、どうにも、何もする気になれなかった、そして、もうそろそろ寝ないといけない時間になって、いろいろとやらなきゃと思い始めるのは、これはもはや病気ではあるまいか。
認知症という呼び方が主になっている。しょうがいしゃ、を、「害」という文字を使ってはいけない、ということにも。
ところで、先日、死ぬのがものすごく怖かった、と書いた。
何故生きているのか分からない、と書きながら、死の恐怖に怯える、というのは、これはかなりつらいものだと思う。生きていても苦しみ、死ぬのも怖い、とは、哀しいことだ。
ただし、その両方が、同時に生じていることがないことに、気付いた。
つまり、死ぬのが怖い、と思っているときは、何故生きているのだろう、とか、考えていない、ということだ。
逆に、何故生きているのだろう、と生きる意味を考えているときは、死の恐怖を感じてはいない。
漠然と、死ぬのは、何が何だか分からないから怖いな、とは思うものの、本気で、「怖い」と心から思う感覚は、生じていないのである。
死の恐怖
これは、かなり前に、何度かみたことがある、夢、を引き合いにだすことが多い。今までに、2回、3回、だろうか。もう、二度と、目覚めることがない、と感じ、身体の感覚も、思考もまともに働かないが、ただ、暗闇で、沈殿した意識だけが残っているのである。
あれは、怖かった。
目が覚めると、汗がびっしょり、という表現が似合う。
本当に、死とは、無であってほしいと、切に願った。
中途半端な意識だけが残って、永遠にその状態なんて、考えてみて、想像してみただけでも、もう恐怖以外のなにものでもないではないか。
じゃあ、かといって、生きていて楽しいか、と聞かれて、そんな状況ではなかったときのことである。寝ても覚めても、中途半端な感覚に苦しんでいた。
ボケとは生きるためのものか
交通事故とか、災害とか、意図せず命を落とすことがある。意図せず、という表現は適切ではないか、そもそも、死とは、自殺以外は望んだものではない。ところで、先日、祖母が自分のことを忘れていた、と書いた。
非常にショックな出来事の一つではあったが、ここで僕は思った。何故ボケなんて、いわゆる痴呆、認知症に、年を取るとなっていくのだろうか。
感情の防衛本能なのではないか。
ずっと、明朗な思考を、人は望む。不老不死に憧れて賢者の石を、とか、鋼の錬金術師とか、もうたくさんエピソードがあることだろう。人魚姫の肉を食べるとうんたらかんたらとか。
不死、となると、今回の記事の目的と外れるから、「不老」というのを想定してみると、ずっと、頭がすっきりしていて、認知力があって、感覚もしっかりとしていたとき、やっぱり、死ぬことは怖くなってくるのではないだろうか。
平均寿命は80歳ぐらいだけれども、平均を過ぎて、90、100、110……となれば、いくらなんでも、死を意識するはずである。
そうしたとき、例えば、認知力が低下していれば、そんなことも考えられなくなっているのではないだろうか。
認知症の人たちが、最近のことを覚えられなくなるということ、ただ、昔のこと、例えば子供のころのことなどは覚えていて、いっつも同じ話を聞かされて介護する人が疲れて……というのはまた話がかわってくるが、とにかく、幼いころの記憶は残っていることが多いという。
幼いころの幸せな記憶だけが残り、それをじっくりと、反芻しながら、死へと向かっていく。
これが、人間のインプットされた構造なのではないだろうか。
ボケを恐れる必要はないのかもしれない
むしろ、怖いのは、死、そのものを、認識することであるといっていいのかもしれない。だから逆に、幼いころに、死ぬことなんて、あまり考えたりしないのだ。いやでも、小さいころに、相手の痛みを教えなければ、人の命の大切さを教えなければいけない気がする……が、それはあくまでも、他者に対してのことであって、自らの「死」を、幼い子供にインプットさせるのは、そもそも難しいことではないだろうか。
だから、論理的な言葉など必要なくて、単に、他人に迷惑をかけてはいけないよ、とか、相手に嫌な思いをさせてはいけないよ、とか、みんなで決めたルールは守らないといけないよ、とか、抽象的な言葉で教育するのである。
そして、もっといえば、言葉ではなく、行動をして、見せ、やって、ふるまうのである。
上の話は文脈に関係ない、ここで言いたかったのは、やっぱり、死の恐怖ってのはあるのだから、それを感じないように、年を取るにつれて、自然と身体がふるまってくれるのではないだろうか、ということだ。
だからむしろ、死の恐怖、ってのを感じているうちは、まだ、老いてはいない、ってことだ、という、もう完全に思いつき。
生きる意味を考えることの無意味さ
毎日を楽しく生きること。生きる意味なんて、考える必要はないんだよ、と、多くの物語が語る。
本当にそうか、と、僕は懐疑的である。
ただ、それもそれで、きっと正しいのだ。というのは、上の、老いと認知症の関係性が正しければ、身体が、なるように思考を導いていくから、ということだ。
思考単独で成り立つとは、思っていない。デカルトの、コギト・エルゴ・スム、は、合理的に考えることの端緒となった意味で優れた気付きと思うけれども、「思考」と「身体」は、両面して成り立つものだ。
心はどこにあるのか、とか、ロボット工学の前野氏の著作や、学者?下村氏の著作などは面白い。
日常と思考
さて、今日は、ほとんど何もせずに過ごした。昨日は知人と小ツーリング、楽しかった。目的の物は買えなかったが、それで、アマゾンで注文しようとしたが、間違って、引っ越し前の住所に送ってしまった。失敗。今日届いたら作業しようと思っていたのだけれども、できなくなってぽっくり穴があいたように。何だかやる気が起きずに、布団でうずくまったり、本を読んだり、漫画を読んだりしていた。
寝ては目覚めて、また寝て、と。
こういう日があってもいい。ただ、こういう時間の過ごし方は、それこそ、8年も前にいっぱい過ごしていたようにも思える。
黒い砂漠というゲーム、久々に起動したら、畑に植えてあった作物が全部なくなっていた。一週間で撤去される仕様とは知っていたけれども、アイテムボックスに種になって戻るぐらいしてくれるのかと思ったら、完全消去とな。相当のゲーム内マネーが失われた計算。計算もしたくないほど。なんか、ゲームもやる気がそがれた。1万円ぐらい課金してる(そのうち半分ぐらいしか使ってない)んだけどなぁ……。
明日から仕事。来週、再来週は土日に予定あり。
今確認したら、7月の23日まで、土日は何らか予定がある。珍しいものだ。
8月はツーリングがてら帰省しようと思うし、あっという間に、夏は終わりそうだな。
そういえば、高校生の頃の夏休みって、どんなだっけ。部活が中心だった気がする。楽しかったのかな。何だかんだ言って、今の状態になっても、やっぱり、昔には戻りたくないな。
戻りたい昔って、やっぱり、ないな。
それは、悲観的な、絶望的な意味もあるのかもしれないけれども、やっぱり、今が、一番良いのだと、きっと自分の中では思っているのだろう。
8年前の思考、それは、「今を積極的に肯定する」と、「執着しない」という、二つの目標、いや目的、いや価値観、だろうか、に、規定されている、というよりも、それがやっぱり、(僕が)生きていくうえで、重要な考えだったのだと、そう思う。
サイトの更新、着手したくなってきた。改修するといって、待ってもらっている。というよりも、早く読みたいという気持ちが生じている、それと、改修する動機が、今は拮抗しているのだろうか、本当は、今日のような日に、少しでも進められたらよかったのだけれども、どうにも、何もする気になれなかった、そして、もうそろそろ寝ないといけない時間になって、いろいろとやらなきゃと思い始めるのは、これはもはや病気ではあるまいか。
このブログ、非常にアクセス数が無い。アクセス数を稼ごうとは全く思っていないけれども、広大なネット大陸の中で、本当に誰もいない辺境にいるのだろうか。僅かばかりの知人が、山の奥深く、危険を潜り抜けて訪ねてくれるぐらい、ということなのだろうか。
まず、タイトルがよく分からない。キーワードもありふれすぎている。
例えば、生きる意味が分からない、で検索すると、
上のようなこんな記事に出会う。いざ、死病につかれたとき、同じように考えられるか、というのは極端なことだ。
ただ、「生きる意味など分からなくても、今が楽しいからいい」という考えが、いつまでも通用するものなのか。人生は波で、つらいこともあれば楽しいこともある、というありふれた言説もある。そんなとき、常に、「今が楽しい」なんて思えるというのは、まやかしではなかろうか。エセポジティブではなかろうか。
うっせーよ、そんなマイナス思考の奴はダメなんだ、近寄るな。
と、忌避してよいのだろうか。
あるネットの記事などを読んでいて、嫁との関係が悪くなって、相談している夫が、何でもすぐ謝れば許してもらえると思っていて、本当は自分のことを悪いとは思っていないが、反省と自虐を同時に書き連ねる姿が、自己陶酔していて気持ちが悪い、と書かれていた。
なるほどなぁ、やっぱり、そういうものなのだろうと思った。
と、同時に、やっぱり、自分の言葉、というものと、他者への表現とが一致せずに困っている人はいるということなのだ。その人は、20代後半だったようだが。その人は、ADHDなんじゃあないかと疑われるほど、約束を守れなかったり、家事ができなかったりしていたようだが、問題は、そういった行動面だけではないのだと思った。
こうして、僕も、ブログを書いているわけだが、やっぱりまったり、本当にそれが、自分にとってよいことなのか、と思う。
と、いうのは、いわゆる「踊る道化」としての意味しかないのではないか、という疑念。
それも、気持ちの悪い顔をした太った異臭を放った踊り、だとしたら、それは公害ではなかろうか。
まぁ、落ち着いてほしい、と思う、何せ、世の中、きれいごとじゃあない、なんて、どんなイケメンたちも分かっていることではなかろうか。
本当に気持ち悪いのは、その姿を隠し、陰で人を意のままに操ろうとする組織や、人々ではないだろうか。
そうはいっても、そういった裏の真実というものに、気付かせようとする人をそもそも唾棄しようとする、そういった構造を、ニーチェの「アンチクリスト」なんかでの表現だと思う。
・読み返すこと
・誰かの役に立つということ
・そもそも思考(ログ)が楽しいということ
……だったっけ、そもそも、インプットが足りていない、読み返してみよう。
・整理しやすいから
・後から読みやすいから
・カテゴリ分けが便利
らしい。表の理由はこれで、あとは、役に立ちたい、という思いから書いている、という。
ただ、2008年10月ごろの、ログを読んでいて、思ったけれども、なんだか、今書いていることも、昔書いていることも、それこそ、表現の違いだけで、「同じ」ことしか書いていない気がする。
ちょっとだけ、抜粋、転記してみるか。以下
まず、タイトルがよく分からない。キーワードもありふれすぎている。
例えば、生きる意味が分からない、で検索すると、
生きる意味を見失ってしまった場合
生きる意味を見失ってしまう人の特徴は、先の事を考えてしまう事です。年を取ったらどうなってしまうのか、このままの状態がいつまで続くのかという事を考えることで生きる意味を失ってしまいます。まず生きる意味を見失いそうになったら、先のことは考えずに今自分が楽しいと思えることを一生懸命に行うようにしましょう。今日どんな楽しいことをして過ごそうかを考えて、二度と戻らない今を有効に過ごせるように努力してみてください。今日好きなことをして過ごす。今友達を遊ぶ。今日大好きな恋人と過ごす。などなんでもいいのです、1日1日、その日をいかに楽しく過ごせるのかを精一杯考えてみてください。今日、明日楽しく過ごすことを精一杯考えていれば生きる意味を考える暇はなくなりますよ。生きる意味が分からなくても時間はどんどん過ぎていくのですから、どうせなら楽しく過ごしたほうが良いと感じませんか?先の見えない将来を想像するのではなく、先を想像しやすい今日、明日長くても1週間をどう楽しく過ごすのか考えるように心掛けてみてください。そうすることで、多くの人のように生きる意味など分からなくても今が楽しいからそれでいいという考えを、持てるようになりますよ。https://welq.jp/1175
上のようなこんな記事に出会う。いざ、死病につかれたとき、同じように考えられるか、というのは極端なことだ。
ただ、「生きる意味など分からなくても、今が楽しいからいい」という考えが、いつまでも通用するものなのか。人生は波で、つらいこともあれば楽しいこともある、というありふれた言説もある。そんなとき、常に、「今が楽しい」なんて思えるというのは、まやかしではなかろうか。エセポジティブではなかろうか。
うっせーよ、そんなマイナス思考の奴はダメなんだ、近寄るな。
と、忌避してよいのだろうか。
このように生きる意味をなくしてしまった時には、必ず原因があるはずです。原因をしっかりと把握して、適切な解決を行いましょう。
中には、生きる意味が分からなくなってしまい命を絶ってしまう人もいます。自分の命を、自ら絶ってしまわないようになるべく早く生きる意味を見つける努力や、楽しいと感じるものを見つける努力を行うようにしましょう。
生きる意味は人それぞれです。大きな目標を達成したいから生きている。小さなことでも、生きていれば楽しい事があるから生きている、なんとなく生きている、どんなことでもいいのです。
まずは生きる目標を探してみてください。周りに相談出来る人がいれば、自分の気持ちを理解してもらってもいいでしょう。いない場合でも自分の悩みを聞いてくれる場所はたくさんあります。
大切なことは独りで抱え込まないことです。まずは気持ちを整理してみてくださいね。なかなか気持ちの整理が出来ない人は心の中にある感情を紙に書いたり、声に出してみてください。
また生きる意味を見失う前から、楽しいと感じることを積極的に行うことも大切です。
自己陶酔
こうして書いていることが自体が、「自己陶酔で気持ち悪い」と思われるのだろう。あるネットの記事などを読んでいて、嫁との関係が悪くなって、相談している夫が、何でもすぐ謝れば許してもらえると思っていて、本当は自分のことを悪いとは思っていないが、反省と自虐を同時に書き連ねる姿が、自己陶酔していて気持ちが悪い、と書かれていた。
なるほどなぁ、やっぱり、そういうものなのだろうと思った。
と、同時に、やっぱり、自分の言葉、というものと、他者への表現とが一致せずに困っている人はいるということなのだ。その人は、20代後半だったようだが。その人は、ADHDなんじゃあないかと疑われるほど、約束を守れなかったり、家事ができなかったりしていたようだが、問題は、そういった行動面だけではないのだと思った。
こうして、僕も、ブログを書いているわけだが、やっぱりまったり、本当にそれが、自分にとってよいことなのか、と思う。
と、いうのは、いわゆる「踊る道化」としての意味しかないのではないか、という疑念。
それも、気持ちの悪い顔をした太った異臭を放った踊り、だとしたら、それは公害ではなかろうか。
まぁ、落ち着いてほしい、と思う、何せ、世の中、きれいごとじゃあない、なんて、どんなイケメンたちも分かっていることではなかろうか。
本当に気持ち悪いのは、その姿を隠し、陰で人を意のままに操ろうとする組織や、人々ではないだろうか。
そうはいっても、そういった裏の真実というものに、気付かせようとする人をそもそも唾棄しようとする、そういった構造を、ニーチェの「アンチクリスト」なんかでの表現だと思う。
そもそも役に立つのか
こうして、書いていくことが、果たして役に立つのか、それは、以前書いたとおり、・読み返すこと
・誰かの役に立つということ
・そもそも思考(ログ)が楽しいということ
……だったっけ、そもそも、インプットが足りていない、読み返してみよう。
・整理しやすいから
・後から読みやすいから
・カテゴリ分けが便利
らしい。表の理由はこれで、あとは、役に立ちたい、という思いから書いている、という。
ただ、2008年10月ごろの、ログを読んでいて、思ったけれども、なんだか、今書いていることも、昔書いていることも、それこそ、表現の違いだけで、「同じ」ことしか書いていない気がする。
ちょっとだけ、抜粋、転記してみるか。以下