一週間が終わった。
トラブルもあり、久々にいらっとすることもあったが、概ね順調だったといえる。その順調とは所詮、現実性のものであって、思考レベルの深化は進んでいないと思う。
なんだか、もやもやして、とある牛丼屋でビールが100円台で提供されているのにひかれて、飲んできた。
特に薄いとかもなく、普通のビールだ。さすがに量は少ないが、ちょっと飲むのには十分だろう。
しかし、酒を飲んで何か解決するかというとそうではない、ただ、こうして真面目に向き合う気になったのは、効能に思える。
さて、僕は、教養があるのだろうか。教養とは、シェイクスピアを全集読んでいることか。とういそくみょうな言動が重要か。
こういった問いは、面白いかもしれないが、何ら成長には貢献しないかもしれない。
この無意味性が、意味を考えることの真髄を示している。
つまり、意味、なんてものは、それ自体役に立つものではないのだ。
人は、なにかを、させられている感覚を嫌う。
主人公になりたいのだ、権力をもちたいのだ。
しかし、誰しもそうはなれない。すると、論理という、別の超越的なものを求めるようになる。
すなわち、僕はお前に言われたからこうしているのではない、これが、ルールとして定められていて正しいからそうしているのだ、と。
カントの道徳律みたいだ。
とにかく、論理とは、世界的に真実のようでありながら、それは、自らを納得させて、現実に生きさせる、慰みもの、自慰のようなものなのだ。
何事もすべて自由にできるようになったら、敢えてルールになんて従わないかもしれない。
もちろん、その先を考える能力、未来思考こそが人間の長所であり、傍若無人、きょうけんふかい、支離滅裂でありつづければ、そのうち革命的事変が起こって、その地位から引きずりおろされる可能性を考慮すれば、知的な権力者の誕生である。
論理的に考えることを重要視していることが、常々あらわれている記事も多いように思う。
しかし、この論理の否定は、実際は試してみたものでもある。感覚的に生きてみた、という表現がそれである。
結局その試みは成功しなかった。もちろん、すべて失敗ではなかったものの、その永遠性安定性の意味においては役に立たなかったのだ。
上の表現は、珍しく誰にでも当てはまる普遍性がある。
いわゆるリア充とは、その努力という行為を含めて、理想自己と現実世界の事象が一致しているのである。
残念なことに、とても残念ながら、僕は、リア充ではなかったのだ。
ここでいうリア充とは、単にルックスのことを指さない。不細工だろうが性格が悪かろうが、リア充である可能性がある。
それは、メタな次元において、自分自身であるということだ。
メタな次元、と表現を加える必要があるのは、リア充だからといって不快な気持ちになることはあるし、失敗して落ち込むことだってあるということだ。
しかし、自己の深い部分において、世界と、自分とは一致しているのだ、バラモン教の梵我一如のようだ。
それでもって、僕のこの思考の目的は、その一致への試みというわけだ。
理想自己が低ければ低いほどいい、というわけではない。というよりも、理想自己はそれ自体が普遍性であり、代えられる目標のようなものではない。
いま現時点、自分がそうあるしかありえない、その瞬間における思考であり、感情であり、身体であり、行動のことである。
つまり、理想自己とは、楽しいとか苦しいとかそういう相対概念などではなく、真実である。
すぐさま書くべきは、その真実という表現は、決して、神とか、超越的なものを求めるものではない。
例えばなにか失敗したときに、僕たちは、ああしておけばよかったとか、後悔を感じる。
しかしそれは、真実ではなかったということだ。
いや、感じるのは仕方がないにしても、すべて、そのときそのすべての条件においては、そうせざるをえなかったという強い実感、それこそが理想自己との一致をした状態である。
難しい表現になっているな。ここで簡易的に書いておくべきは、理想自己となっていれば、実は後悔なんて発生しないのだ。
すぐに書くべきは、これをこじらせたり勘違いすると、人の話を認められない自己正当化の亡者になるのである。
まぁ、さらに本当にこれを極めると、その他者に与えることも含めて、自分に満足することになる。こうなってくると醜悪である。
先日、誰かは分からないが、拍手してくれる人がいて嬉しいが、そうした気持ちを認めるためには、いくら気恥ずかしい気持ちであっても、自己の分析に手を抜いてはならない、と書いた。
拍手のあるなしにかかわらず、僕は書くことは変わらないし、自分のために書いているというのは変わらない、という、クールな自分がいて、読者の反応の多い少ないで、気持ちが左右されるわけではない冷静沈着な自分によっているのだ、とか。
そこまで考えているかはわからないけど、何か蓋をしようとする自分の気持ちから、逃げてはダメだ。
それをすると、もう自己正当化のためだけの思考となる。そんなの気持ち悪い、というか、そもそも僕の理想自己ではないのだ。
理想自己と現実とのギャップを少なくするのが、思考の役割である。
ギャップを変えずに、現状維持という安定性を求めるのであれば、すぐにでも思考はやめて、限りない快楽の世界を探すべきだ。
どうせギャップが縮まらず、うだうだ不平をいい続けるのなら、よっぽど毎日楽しく過ごす、現実的な方法をさがすべきである。
最初に書いた通り、思考は、それだけであったとき、現実に何も与えない。
考えただけで何か現象化したらそれは魔法である。
というより、考えただけ、という事態はそもそもない。何せ、考えとは、身体というフィードバックを常にうけつづけているのだから。
勝手にすれば、というよりも、君がそう思うならいんじゃない?、というのは、僕にとって、愚か者といわれるよりもイラッとする可能性がある。
結局その相手は、僕のことを認めてはいないし、そのどこがよくないかを話すつもりもない、という態度なわけだ。
まだ、俺は違うと思う、といわれたほうがましだ。なぜなら、僕は自己正当化のために思考するのではないから、指摘や指導は重要に思うのだ。
ここまで、繋がっているかは分からないが、ポイントは、思考自体は無駄であること、しかしながら、だからこそ、様々な事象に対応できる思考の構築が重要だということだ。
何か起こったとき、いちいち解答を考えていては、いくら時間があってもきりがない。
考える時間の排除と効率化が、ライン生産、トヨタの看板方式、マニュアル主義である。
それは、一定以上、豊かな日本をつくりだすことに成功した。
しかし、そのマニュアル化がうまくいくのは、豊かさとは何かという、根元的な目的、目標がはっきりしていたからだ。
ここに、また、反転した目的の重要性、すなわち、思考の重要性が生じるのである。
……この先、の記述が大事だが、時間切れのためと、長くなったので、今回はここまで。
トラブルもあり、久々にいらっとすることもあったが、概ね順調だったといえる。その順調とは所詮、現実性のものであって、思考レベルの深化は進んでいないと思う。
なんだか、もやもやして、とある牛丼屋でビールが100円台で提供されているのにひかれて、飲んできた。
特に薄いとかもなく、普通のビールだ。さすがに量は少ないが、ちょっと飲むのには十分だろう。
しかし、酒を飲んで何か解決するかというとそうではない、ただ、こうして真面目に向き合う気になったのは、効能に思える。
さて、僕は、教養があるのだろうか。教養とは、シェイクスピアを全集読んでいることか。とういそくみょうな言動が重要か。
こういった問いは、面白いかもしれないが、何ら成長には貢献しないかもしれない。
この無意味性が、意味を考えることの真髄を示している。
つまり、意味、なんてものは、それ自体役に立つものではないのだ。
人は、なにかを、させられている感覚を嫌う。
主人公になりたいのだ、権力をもちたいのだ。
しかし、誰しもそうはなれない。すると、論理という、別の超越的なものを求めるようになる。
すなわち、僕はお前に言われたからこうしているのではない、これが、ルールとして定められていて正しいからそうしているのだ、と。
カントの道徳律みたいだ。
とにかく、論理とは、世界的に真実のようでありながら、それは、自らを納得させて、現実に生きさせる、慰みもの、自慰のようなものなのだ。
何事もすべて自由にできるようになったら、敢えてルールになんて従わないかもしれない。
もちろん、その先を考える能力、未来思考こそが人間の長所であり、傍若無人、きょうけんふかい、支離滅裂でありつづければ、そのうち革命的事変が起こって、その地位から引きずりおろされる可能性を考慮すれば、知的な権力者の誕生である。
生きる意味とは
この、論理の否定は、これまでの僕の書いてきたことの根本からの否定のようである。論理的に考えることを重要視していることが、常々あらわれている記事も多いように思う。
しかし、この論理の否定は、実際は試してみたものでもある。感覚的に生きてみた、という表現がそれである。
結局その試みは成功しなかった。もちろん、すべて失敗ではなかったものの、その永遠性安定性の意味においては役に立たなかったのだ。
リア充
そのわけは、残念なことに、現実と理想自己との隙間が、自分という存在の限界性において、矯正なく一致することはなかったからだ。上の表現は、珍しく誰にでも当てはまる普遍性がある。
いわゆるリア充とは、その努力という行為を含めて、理想自己と現実世界の事象が一致しているのである。
残念なことに、とても残念ながら、僕は、リア充ではなかったのだ。
ここでいうリア充とは、単にルックスのことを指さない。不細工だろうが性格が悪かろうが、リア充である可能性がある。
それは、メタな次元において、自分自身であるということだ。
メタな次元、と表現を加える必要があるのは、リア充だからといって不快な気持ちになることはあるし、失敗して落ち込むことだってあるということだ。
しかし、自己の深い部分において、世界と、自分とは一致しているのだ、バラモン教の梵我一如のようだ。
それでもって、僕のこの思考の目的は、その一致への試みというわけだ。
理想自己との一致
理想自己が低ければ低いほどいい、というわけではない。というよりも、理想自己はそれ自体が普遍性であり、代えられる目標のようなものではない。
いま現時点、自分がそうあるしかありえない、その瞬間における思考であり、感情であり、身体であり、行動のことである。
つまり、理想自己とは、楽しいとか苦しいとかそういう相対概念などではなく、真実である。
すぐさま書くべきは、その真実という表現は、決して、神とか、超越的なものを求めるものではない。
例えばなにか失敗したときに、僕たちは、ああしておけばよかったとか、後悔を感じる。
しかしそれは、真実ではなかったということだ。
いや、感じるのは仕方がないにしても、すべて、そのときそのすべての条件においては、そうせざるをえなかったという強い実感、それこそが理想自己との一致をした状態である。
難しい表現になっているな。ここで簡易的に書いておくべきは、理想自己となっていれば、実は後悔なんて発生しないのだ。
すぐに書くべきは、これをこじらせたり勘違いすると、人の話を認められない自己正当化の亡者になるのである。
まぁ、さらに本当にこれを極めると、その他者に与えることも含めて、自分に満足することになる。こうなってくると醜悪である。
思考について
以上から、考えるということが、そもそも深まっていくと、いくつもの罠にひっかかる可能性が多いのだ。先日、誰かは分からないが、拍手してくれる人がいて嬉しいが、そうした気持ちを認めるためには、いくら気恥ずかしい気持ちであっても、自己の分析に手を抜いてはならない、と書いた。
拍手のあるなしにかかわらず、僕は書くことは変わらないし、自分のために書いているというのは変わらない、という、クールな自分がいて、読者の反応の多い少ないで、気持ちが左右されるわけではない冷静沈着な自分によっているのだ、とか。
そこまで考えているかはわからないけど、何か蓋をしようとする自分の気持ちから、逃げてはダメだ。
それをすると、もう自己正当化のためだけの思考となる。そんなの気持ち悪い、というか、そもそも僕の理想自己ではないのだ。
理想的な思考とは
理想自己と現実とのギャップを少なくするのが、思考の役割である。
ギャップを変えずに、現状維持という安定性を求めるのであれば、すぐにでも思考はやめて、限りない快楽の世界を探すべきだ。
どうせギャップが縮まらず、うだうだ不平をいい続けるのなら、よっぽど毎日楽しく過ごす、現実的な方法をさがすべきである。
最初に書いた通り、思考は、それだけであったとき、現実に何も与えない。
考えただけで何か現象化したらそれは魔法である。
というより、考えただけ、という事態はそもそもない。何せ、考えとは、身体というフィードバックを常にうけつづけているのだから。
君がそう思うならいんじゃない?
勝手にすれば、というよりも、君がそう思うならいんじゃない?、というのは、僕にとって、愚か者といわれるよりもイラッとする可能性がある。
結局その相手は、僕のことを認めてはいないし、そのどこがよくないかを話すつもりもない、という態度なわけだ。
まだ、俺は違うと思う、といわれたほうがましだ。なぜなら、僕は自己正当化のために思考するのではないから、指摘や指導は重要に思うのだ。
ここまで、繋がっているかは分からないが、ポイントは、思考自体は無駄であること、しかしながら、だからこそ、様々な事象に対応できる思考の構築が重要だということだ。
何か起こったとき、いちいち解答を考えていては、いくら時間があってもきりがない。
マニュアル主義
考える時間の排除と効率化が、ライン生産、トヨタの看板方式、マニュアル主義である。
それは、一定以上、豊かな日本をつくりだすことに成功した。
しかし、そのマニュアル化がうまくいくのは、豊かさとは何かという、根元的な目的、目標がはっきりしていたからだ。
ここに、また、反転した目的の重要性、すなわち、思考の重要性が生じるのである。
……この先、の記述が大事だが、時間切れのためと、長くなったので、今回はここまで。
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