今日の一言「自分で考える必要がある」
そもそも、孤独死というと、ごみ屋敷で死後しばらくして発見されるというのがイメージされる。
違うイメージを持つ人もいるかもしれない。
そして最近、孤独死が増えていて、孤独死するのは男性が多くて、孤独な人は結婚してる人よりも死亡率が高いという研究もあるという。

仕事してたら、まぁ、しばらく音信不通になれば、早めに発見されるかもしれない。
しかし、年金生活になったらどうだろうか。まぁ、発見は1週間後ぐらいになることは容易に想定できる。集合住宅であれば、異臭で早めに気づかれるかもしれないが、一軒家とかなら、より、発見は遅くなるであろう。
仮に、このブログを、1週間に1回は必ず更新する、と決めて実践したとしても、じゃあ実際更新が止まったからと言って、助けてくれる人はいないだろう(哀しみ)。
しかし、これは当たり前のことであって、正直それは本気で期待することではない。
むしろそういったことがあったら「美談」として、「インターネッツも悪くないね!」みたいなそんな「例外」の物語として扱われるだけである。
至極一般には、物理的環境の人間関係がなければ、孤独死は避けられないであろう。
例えば、結婚してて裕福な人が、夜、公園でランニング中に、突然死したとする。
家族はすぐに心配になり探しに出かけるが、残念なことに当日は発見できなかった。
捜索願が出されて、翌日、かわりはてた遺体が見つかる、とする。
これは、孤独死ではないか?
たぶん、一般にイメージされる、ごみ屋敷云々のイメージからはかけ離れたシーンだから、孤独死ではない、とされるであろう。
しかし、実際、物理現象としては、誰にも知られず、亡くなった、ということである。
これは孤独死ということも可能だと思われる。
なので、孤独死という概念自体が難しいものであると思うが、あまり深入りはしない。
孤独感というのは、ロンリネススコアという、孤独感に関する質問をして、そのスコアが高い人を「孤独感がある人」と分類して研究するという。
ふーん。
ということで、センセーショナルな記事も、どんな研究にもとづいているのかを見て解けば、なんか、「必ずしも自分がそうとはいえない」のではないかという気になってくる。
とにかく、誰ともかかわりがないな、理解されてないな、と感じる割合が高い場合は、孤独である状態、といえるようである。
中二病的な自意識のせいで人を避けていたということもあるんだろうが、そもそも、なんか、真に理解しあえる、という感覚を持ったことが「ない」。
わりと、真に思いを告げて色々話してみたことはあるが、あんまり理解されたとは思えなかった。
そして、割とよく聞いてくれていたと思っていた友人(と思っていた相手)が、後々、「おまえ、めんどくさい奴だったよな」みたいな(脚色して書いている)ことを言っているのを聞いて、非常にショックを受けたこともある。
いや、でもある意味、それは良い経験であって、「あー、やっぱり、人に期待するのってよくないんだな」と実感がより深まったというのはある。(もともと思ってたことの強化学習となった)
そういう意味で、自分はとても寂しく悲しくて孤独な人間だ。えーん。
なので、中年クライシス的な問題とは、ちょっと切り離して考えてもいい気がする。
ある意味、30年以上、孤独感には慣れ親しんでいるのである。そういう意味で、孤独のスペシャリストかもしれない。そういうスタンスで売っていくのはありかもしれないかっこわらい。
でも、スペシャリストといっても、すごい人はたくさんいるから、自分程度はいくらでもいるのも分かっている。どこまでいっても凡人でしかないのだ、つらい。
のブロガーさんは、なんか、ITスキルも高いし、投資スキルも高いし、割となんかオフ会なんかも行ってるし、ふつうにすごい人であった。
ふつーにすげーひとっす。
孤独界のレジェンドだ。そういう人はそういう人で、そういうポジションを獲得し、生きやすい人生を送れるだろう。
ボクの問題意識は、「凡人の場合はどうするか」である。
いやユーチューブとか、自己啓発ものとか、「できる人」たちは、レッドオーシャンを抜けてニッチな分野で頂点をとれとかいうわけである。それはそれで重要な戦略であると思うが、凡人としての戦略を考えるべきでもある。
勝者と敗者、とめるものと貧しきもの。
こんなに現代社会は裕福になったはずなのに、どうしてこんなにも働かなければいけないのか。
昔は、武士一人で、家族どころか、奉公人とかも養っていた。
いまや、男女共働きでも生活が苦しい人もいるという。
ボクは一人で、お金を使う趣味もないから、そんなに苦しい生活ではないが、それほど裕福ではない。。
でも、GDPとか、資本やお金の流通量は、昔と比べられないほど増えているはずだ。
人口も増えてる。いまや70億だっけ。もっといるのかな。
数が増えると幸せか、というと、生物種としては成功かもしれないが、個々の幸せも追求してよいのではないかと思われる。
現実が大事だ、といわれる根拠はそこにあって、それは否定できない。
でも、お金すら虚構である。
虚構だから意味がないということではない。物理現実を動かすほどに重要だ。
実体はない。でも実態はある。
法律も、すげー重要だが、虚構である。自然法というのも特に存在しない。
人は生まれながらに平等である。
いや別にそんなことはない。
でも、「人は生まれながらに平等である」ということにしよう! という虚構であるのだ。
これは大事なことだ。否定するわけではない。でも虚構である。
変にみんな賢くなったからいけないのかもしれない。
ルールはルールだ。意味なんか考えるな。正しいものは正しい。
こうしたことで縛り付けることもできたはずだ。「力」というのが、数である場合はそれはそれで有効であったはずだ。
いや、なのでね。
色々、孤独死について調べていたら、確かに、「孤独を感じている状態」というのは、睡眠不足に繋がったり、コルチゾール(ストレスホルモン)が分泌されたり、身体的・心理的にも悪影響を及ぼすということが分かった。
なので、あんましよくないよね、とは思う。
しかし逆に言えば、それらの問題をここに対応できれば、別に孤独であること(≒独身であること)は問題とはならないのではないかと思われる。
いやむしろ、結婚してても、友人が多くても、「孤独感」は生じるものである。
それは自分も経験上痛いほどよく分かってる。
むしろ、一人でいるときの方が、孤独感少ない説すらある(実体験的に)。
価値観が合わない人の中でいる方が、よほど孤独感が強い。
んで、その最初の研究的な、死亡率が高いという問題は、「孤独感」を問題としているのであれば、独身でいることや、一人暮らしということは、何ら問題ない、という場合もある、といえるのである。
まえがき
生き方というか、考え方をメモメモしておきたい。そもそも、孤独死というと、ごみ屋敷で死後しばらくして発見されるというのがイメージされる。
違うイメージを持つ人もいるかもしれない。
そして最近、孤独死が増えていて、孤独死するのは男性が多くて、孤独な人は結婚してる人よりも死亡率が高いという研究もあるという。
孤独死と孤独感について
最近思うのは、独身だと、普通に孤独死するんじゃないか、ということだ。仕事してたら、まぁ、しばらく音信不通になれば、早めに発見されるかもしれない。
しかし、年金生活になったらどうだろうか。まぁ、発見は1週間後ぐらいになることは容易に想定できる。集合住宅であれば、異臭で早めに気づかれるかもしれないが、一軒家とかなら、より、発見は遅くなるであろう。
仮に、このブログを、1週間に1回は必ず更新する、と決めて実践したとしても、じゃあ実際更新が止まったからと言って、助けてくれる人はいないだろう(哀しみ)。
しかし、これは当たり前のことであって、正直それは本気で期待することではない。
むしろそういったことがあったら「美談」として、「インターネッツも悪くないね!」みたいなそんな「例外」の物語として扱われるだけである。
至極一般には、物理的環境の人間関係がなければ、孤独死は避けられないであろう。
どこからが孤独死なのか
しかし、ちょっと待って欲しい。例えば、結婚してて裕福な人が、夜、公園でランニング中に、突然死したとする。
家族はすぐに心配になり探しに出かけるが、残念なことに当日は発見できなかった。
捜索願が出されて、翌日、かわりはてた遺体が見つかる、とする。
これは、孤独死ではないか?
たぶん、一般にイメージされる、ごみ屋敷云々のイメージからはかけ離れたシーンだから、孤独死ではない、とされるであろう。
しかし、実際、物理現象としては、誰にも知られず、亡くなった、ということである。
これは孤独死ということも可能だと思われる。
なので、孤独死という概念自体が難しいものであると思うが、あまり深入りはしない。
孤独感が大事なのか
アメリカの研究(2015年)?では、孤独感がある人の方が、それ以外の人よりも3割程度死亡リスクが高いという結果があるという。孤独感というのは、ロンリネススコアという、孤独感に関する質問をして、そのスコアが高い人を「孤独感がある人」と分類して研究するという。
ふーん。
ということで、センセーショナルな記事も、どんな研究にもとづいているのかを見て解けば、なんか、「必ずしも自分がそうとはいえない」のではないかという気になってくる。
とにかく、誰ともかかわりがないな、理解されてないな、と感じる割合が高い場合は、孤独である状態、といえるようである。
自分はずっと孤独
そうなってくると、もはや、別に高齢の問題ではなく、自分は昔から孤独であった。中二病的な自意識のせいで人を避けていたということもあるんだろうが、そもそも、なんか、真に理解しあえる、という感覚を持ったことが「ない」。
わりと、真に思いを告げて色々話してみたことはあるが、あんまり理解されたとは思えなかった。
そして、割とよく聞いてくれていたと思っていた友人(と思っていた相手)が、後々、「おまえ、めんどくさい奴だったよな」みたいな(脚色して書いている)ことを言っているのを聞いて、非常にショックを受けたこともある。
いや、でもある意味、それは良い経験であって、「あー、やっぱり、人に期待するのってよくないんだな」と実感がより深まったというのはある。(もともと思ってたことの強化学習となった)
そういう意味で、自分はとても寂しく悲しくて孤独な人間だ。えーん。
なので、中年クライシス的な問題とは、ちょっと切り離して考えてもいい気がする。
ある意味、30年以上、孤独感には慣れ親しんでいるのである。そういう意味で、孤独のスペシャリストかもしれない。そういうスタンスで売っていくのはありかもしれないかっこわらい。
でも、スペシャリストといっても、すごい人はたくさんいるから、自分程度はいくらでもいるのも分かっている。どこまでいっても凡人でしかないのだ、つらい。
凡人な孤独者に生きる道はあるのか
「もう一生孤独でよいよ」のブロガーさんは、なんか、ITスキルも高いし、投資スキルも高いし、割となんかオフ会なんかも行ってるし、ふつうにすごい人であった。
ふつーにすげーひとっす。
孤独界のレジェンドだ。そういう人はそういう人で、そういうポジションを獲得し、生きやすい人生を送れるだろう。
ボクの問題意識は、「凡人の場合はどうするか」である。
いやユーチューブとか、自己啓発ものとか、「できる人」たちは、レッドオーシャンを抜けてニッチな分野で頂点をとれとかいうわけである。それはそれで重要な戦略であると思うが、凡人としての戦略を考えるべきでもある。
勝者と敗者、とめるものと貧しきもの。
こんなに現代社会は裕福になったはずなのに、どうしてこんなにも働かなければいけないのか。
昔は、武士一人で、家族どころか、奉公人とかも養っていた。
いまや、男女共働きでも生活が苦しい人もいるという。
ボクは一人で、お金を使う趣味もないから、そんなに苦しい生活ではないが、それほど裕福ではない。。
でも、GDPとか、資本やお金の流通量は、昔と比べられないほど増えているはずだ。
人口も増えてる。いまや70億だっけ。もっといるのかな。
数が増えると幸せか、というと、生物種としては成功かもしれないが、個々の幸せも追求してよいのではないかと思われる。
物理現実が本当に最強に重要なのか
肉体的身体がある以上、物理世界から抜け出ることはできないから、物理世界は重要だ。現実が大事だ、といわれる根拠はそこにあって、それは否定できない。
でも、お金すら虚構である。
虚構だから意味がないということではない。物理現実を動かすほどに重要だ。
実体はない。でも実態はある。
法律も、すげー重要だが、虚構である。自然法というのも特に存在しない。
人は生まれながらに平等である。
いや別にそんなことはない。
でも、「人は生まれながらに平等である」ということにしよう! という虚構であるのだ。
これは大事なことだ。否定するわけではない。でも虚構である。
変にみんな賢くなったからいけないのかもしれない。
ルールはルールだ。意味なんか考えるな。正しいものは正しい。
こうしたことで縛り付けることもできたはずだ。「力」というのが、数である場合はそれはそれで有効であったはずだ。
話しを戻そう閑話休題
なんだっけ。いや、なのでね。
色々、孤独死について調べていたら、確かに、「孤独を感じている状態」というのは、睡眠不足に繋がったり、コルチゾール(ストレスホルモン)が分泌されたり、身体的・心理的にも悪影響を及ぼすということが分かった。
なので、あんましよくないよね、とは思う。
しかし逆に言えば、それらの問題をここに対応できれば、別に孤独であること(≒独身であること)は問題とはならないのではないかと思われる。
いやむしろ、結婚してても、友人が多くても、「孤独感」は生じるものである。
それは自分も経験上痛いほどよく分かってる。
むしろ、一人でいるときの方が、孤独感少ない説すらある(実体験的に)。
価値観が合わない人の中でいる方が、よほど孤独感が強い。
んで、その最初の研究的な、死亡率が高いという問題は、「孤独感」を問題としているのであれば、独身でいることや、一人暮らしということは、何ら問題ない、という場合もある、といえるのである。
あとがき
(かっこ書きである。まとめると、孤独死というのは、ゴミ屋敷になって死後の処理が大変という社会的な問題と、実存的(個人的)な問題とは、切り離して考えるべきである、とボクは思う。前者は、社会的に対応すべきである。ボクは知らん(かっこわらい)。後者は、自分のことなのだから、責任もって考える必要がある。そして、孤独死を避けるために独身男はすぐに結婚すべきだ、とかいう言説(最近よくきくのだが)は、やっぱり無視していい気がする。いや、結婚できるならした方がよいんだと思うけど、それが目的化しちゃおかしいと思う。いやそれも、金がなくて生活が苦しい人に、とりあえず金稼げよ、とアドバイスするのが正しいということと同じであって、困窮状態の人に「お金で幸せは買えない」とか言っても意味ないんじゃ。衣食住が満たされた状態で、そっから幸せを考えることができるのである。高次の次元の話だ。満たされた衣食住ってのも難しいが、これは、育った環境がおおきく影響しそうだ。幼少期の生活レベルが、一定の要求水準になるだろう。そういう意味で、幼いころに贅沢し過ぎるとよくない気がする。でも、ここまで言って、別にそんなに孤独を心配する必要ないんじゃ、と思い始めたが、これは戦略的には、「寂しい」って言っておいた方がよいと思う。強がってるとか思われたりするからだ。思われてもいいんだが、そうなると、「助けてもらえない」可能性がある。人は、かよわきものを助けようとしてくれる傾向にある。だから、かよわきものであることをアピールしておいた方が良い。ところが、それは本当にかわいい(見目麗しい)場合である。かわいくないおっさんおばさんは、切り捨てられる。怖い。むしろ、かよわきものと思われると、徹底的にいじめて搾取しようとしてくる奴らもいる。そうなると、面倒くさいから、寂しいとか言わない方がいいのかもしれない。でも、「いやー一人暮らしで寂しいんですよねーはっはっは」ぐらいなノリでいた方が良い気がしてならない。なんか、はれ物に触れるような対応をされるよりかは、親しみやすさが出る気がする。いや今からでも遅くないよ、結婚した方が良いいよ、良い人紹介するよ! と言われたら面倒やな……って思うだろうが。でも、会ってみて話してみてもいいかもしれない)PR