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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
カテゴリー「イライラ対処」の記事一覧
今日の一言「毎日疲れたとかやる気ないとかつまらないとか言ってる気がする」「言ってはいない、思ってるだけだ」

疲れた

 どうして、こう、やること、なすこと、会う人、話す人、読んだり、聞いたり、――その他いろいろ、イライラさせられるのか。
 穏やかな気持ちでいたいと思いながら、ますますイライラを高めていく自分にさらにいらだつという悪循環である。

 しかしこう……無気力だ虚無だと言っているのと比べて、イライラしている方がよほど人間的ではなかろうか……んなはずはない。まぁ、人間的かどうかは置いておいて、それが良いことだとは到底思えない。

 とか言うと、「怒ったり、不満をぶちまけることも大切だよ!」なんてしたり顔で言われたりしたらもうさらにイライラは高まっていく。

 じゃあ、お前、いったい、どうして欲しいんだよ? なんて言って欲しいんだ? どうやったら助けてあげられるんだ?


 ――放っておいて欲しい、のだろうと思う。


 こう、なんだ、人との関わり合いはとても重要だと思いつつも、やっぱり、「疲れる」。

「話せばすっきりするさ!」

 って言う方法だってあるんだろうが、どうにも性にあわない、のかもしれない。

矛盾注意報

 おま、放っておいて欲しいとかいっておいて、ブログ書くのは何なんだ、と思う。

 なんなんだろうな。

 ――これは、自分との対話って面が強いと思う。特にこのイライラ対処は。
 対話……というか、口論なり、言い争いなり、ケンカなりかもしれない。

 抑えがたき自分の感情を、理性なる自分が調整しようとしているのかもしれない。

 これが、他者との会話や関わりになると、「他者」という調整相手が増えるために、余計に疲れてしまうのかもしれない。

ニヒリズム

 他者の言葉を受け入れられない、他者を認められない……というのは、反転した全許容のせいもある。
 自分の最初に印象というか、浮かんだ言葉を使うとわかりづらいが、要は、「人は人、己は己」という言説である。

 これを突き詰めると、他者の考えは正しいけれども、そうじゃない考えもある、ということで、どこまでいっても相対主義や懐疑主義に陥る。

 本当に正しいことって、必要なんじゃないか?

 ――そんなもの無い。とニーチェさんはいう。真理や神なんてのは、ルサンチマンを抱えた弱者がつくりあげた幻想蒙昧に過ぎないと。

 ――だから。真理なんてものは捨て去って、「力への意志」……つまり、欲望のなすところを目指せと。自分の感覚を信じろと。


 人生は永遠回帰なのだと。
 お前は、今のこの生活、この時間を、毎回毎回繰り返すのだ。すべての条件、すべての感情、すべての環境がそのまま繰り返される、終わりなきメリーゴーランドなのだと。
 そうした人生において、お前は、今行おうとしていることを、この先、何度も何度も何度も何度も何度も繰り返すのだけれども、それでも、今お前は、その為そうとしていることを、やる気になるのか?
 やる気になるのだとすれば、やればよい。
 そうじゃないと思うのなら、やめたほうがよいだろう。

分かりやすい人生訓である

 超人になれとニーチェさんは言うけれども、どうやったらなれるんだ、と。

 確かに、今なそうとしていることが、「永遠に繰り返されるとしても、それでもやるべきことか?」という問いかけは、力強さを思わせる。

 ところが、その実践的側面を考えたときに、まずもって、人は自分の呼吸を意識するのも大変なのに、絶え間なく過ぎ去る時間と、空間(そして身体)の制約の中で、逐一の決断を本当に意識的に行えるのだろうか――いや無理である。

 すべてを意識することは不可能である。――とはいいつつ、結構何度も試してみたことはある。より実践的に、24時間をセクション(ある単位ごと)に区切って、それぞれの時間帯に自分はどういった状態でどういった判断を行っているのか、明確に規定しようとしたり。

 人間の行為行動は、必ずしもすべて意識下において行われるものではないので、無理な試みであった。それでも、無駄なこととは思わない。スケジュール管理なんて、その一端である。しかし、感情や悩みというものが存在する以上、常に明確な判断などできないのである。

悩むということ

 判断が難しいのは、時間が未来に向かって常に流れ続けていることも一つ原因だ。

 時間の意識がなければ、実は判断は単純なのである。
 今この瞬間の快をとるか、どうか、それだけだ。

 しかし、人は、未来を想像する。
 例えば、遅い時間に目の前の甘いプリンを食べることは、将来の健康に悪影響だろうが、いま・この瞬間においては、悩む必要などない。食べろ。そうして、背徳的な甘美にすら身を包み込むだろう。

 未来。

 しかし、未来とは、本当にやってくるのだろうか?

 明日という時間が、どうしてまぎれもなく自分のものだと信じられるのか?

 なんの根拠もない。根拠もないが、しかし、単に信じる。

 しかしだ。その、途方もなく、朧げな未来という奴があるおかげで、「悩み」が生じるのだ。



 今こうして、夜も更けて、体も疲れた状態で、なお、書き続けること……それが、何故必要なのか。わからない。悩む。でも、これまでの経験上、僕は、今、書くことを選択する。他の様々なことよりも優先させて。

わかりやすい記事にしよう

 昨日の記事は、分かりやすかった。
 今日の記事は、正直分からない。ただ、分かりやすくするための努力はしよう。

 分かりやすくするためには、何が必要なのか? ――素直さだ。

 ええと、素直に書くと、疲れた。

 疲れた……とは何か。疲れたという言葉を説明すると、「体のだるさ」と、「つまらなさ」と、「やる気の出なさ」である。

 とにかく……こう、人とかかわることをできるだけ避けたいと思ってしまう。
 親しい人だろうが、優しい女性だろうが、親だろうがなんだろうが、もうとにかく会いたくも話したくもない。

 ――なんでこう、人を怖がるのだろう?

 怖い? 俺が? 人を? 何故?

 てきとーに、「怖い」という表現を使ったら、案外しっくりきたのが不思議だが、しかし、別に怖いわけではない。ただ、「いらいら」させられる。

 イライラとは何か? 疲れたとは違うのか?

 うーん、ここら辺の内容は、もっと落ち着いたときに書いておくべきだ。


 とにかく、この記事は、このどうしようもない感情というか気持ちを、できるだけ書き残しておこう、表現しておこうというものである。
 そして、人を遠ざけたいという感覚……これが何でなんだろうということをもう少し掘り下げてみたい。


 
(かっこ書きである。全然まとまらないけど、体の方が限界である。寝よう。ああ、しかし、書き足りない。今日、早く帰られたのに、いらいらし過ぎて何も手につかなかった。そしたらウォーキングデッド見てしまった。またダラダラ2時間ぐらいみてしまったよ。うん、これはまず、絶対禁止しよう。昨日宣言したのに、まったく何やってんだか。……あ、もしかしたら、これもイライラの原因だったのかもしれない。……いや、それはちょっと違うな。そもそも見る前からイライラしてたし。だいたい、この「いらいら」って表現がそもそも気に食わないんだよな。イライラってなんだよほんと。もっとちゃんと表現しろよ、と思う。「てめーむかつくんだよ」的なこといってる人と変わらないじゃないか。「むかつく」っていわれても、具体的に何がどう気に食わないのかいわないと、コミュニケーションとしては失敗である。――いや、まぁ、「威圧」とか「恐怖による支配」という意味では役に立つのだろうけれども、そういう奴らがホント好きじゃない。ああ、そうだ、少し思い出したが、「利用される」というのが非常に気に食わない。が、しかし、「利用」という言葉がよくないけれども、「助け合う」というのと、根本的にはあまり違わないとは思う。問題は、そこに「人格」を認めているかどうかだ。人を人として扱ったうえで、「役に立ってもら」っているのかどうか、ということ。それを助けてもらう、というのか、利用している、というのか、もはや感覚の問題だ。ああ、もう、目が明かなくなってきから強制終了)




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今日の一言「やる気が起きない」「この記事は何のオチもないだろうつまらないだろう」

面白いことがない

 ある方が、「充実感は必ずしも必要ではない」と仰っていた。
 僕は、充実感はあった方がよいと思う。が、今は、それどころか、そもそも、面白いと思うことがない。意欲がわかない。やる気が起きない。空虚である、無気力である……。

 ……といった表現も適切かどうかわからないほど、何だか感覚がない。

 先日車内トラブルに見舞われて少々痛い思いもしたため、怒りというかイライラは高まった。
 おいしいごはん食べたり、疲れてお布団にザバッと倒れこむのは気持ち良かったりする。

 いろいろと、感情はあると思う。だから、僕は正常だ。……という言葉自体むなしい。



 善い人になりたい。
 ――というのとおなじぐらい、「せいじょう」という言葉もまた空虚である。空しい。

 言葉が虚しい。

 感覚が虚しい。

好きな女性ということ

 僕に好意を示してくれる女性が二人ほどいる。
 一緒にご飯を食べたり、遊びに行ったりしている。

 楽しいし、よい人だなぁとも思う。

 ただ、それが、「好き」ということなのかというとよく分からない。
 好きという気持ちがよく分からない。分からなくなった? そもそも最初から分かっていない?

 その、なんか、「最近の若者は、自分から女性に告白をしなくて、相手から告白されるのをひたすら待っている」といった言説も聞いたり読んだりする。僕も、はたからみたらきっとそういう存在に思われるのだろうけれども、僕は本当に付き合いたいとか思ったら特に躊躇いなく告白する。

 結婚したことがあるということで、そういう女性との付き合い方とか、コミュ能力あるんでしょ、みたいに言われることもある。誤解である。告白してダメだったり、何度もふられたり、そもそも相手にされなかったり、いろいろである。いろいろやってみた中で、成功したこともたまたまあるというだけである。

 努力したのである。

 努力家なのである。

 継続することは得意なのである。

 頑張ることはできるのである。



 ――それらがいま、反転して僕の様々な意欲を、やる気を、動機を奪っている。そんな気がする。

頑張れば何でもできるの幻想

 努力は大切だ。
 しかし、頑張れば何でもできる――というのは嘘である。頑張れば、「それなりに」「その人にあった程度に」できる、のである。

 だからこそ、だれにとっても努力は必要なのであるが、しかし、同時に、心身に不相応な欲求は叶わない。

 ――同時に、その「不相応な」といったレベルは、誰も分からない。勝手に自分で線を引くだけである。しかし、その線……できることレベルは、時間の経過とともに低くなっていく。減っていく。

 キャリアアップとか、投資の増大とか、逆に時間経過とともに増やすことができるものもあるではないか? と思われるだろう。それはそうだ。ただ、僕が言いたいのは、「無限の可能性」的な意味においてである。

 優れた科学者は、更に偉大な研究をするかもしれない。ただ、野球選手として大成する可能性は、小学校の頃よりは少ないはずだ。そんな、当たり前のことを言っているに過ぎない。こういった例であれば誰しも頷くだろう。

 つまり、可能性の深さは深まる可能性はあるが、可能性の幅は狭くなっていくということである。

 逆に、大人になるというのは、その可能性の幅をおのずから狭くして、「俺が(私が)生きる道はここだ」と、胸を張っていえるようになることだ。

「何者でもない」うちは、いくらお金を稼いでいても、結婚していても、顔が老けていても、子供なのだ。

仕事が忙しいのもある

 働き始めて、2年目から3年目ぐらいが、ものすごく忙しかった気がする。泊まり込みで……みたいなことも何回かあった気がする。
 それと比べると、まぁ、知識や経験も増えたし、そこまでは遅くまでなることもあまりないため、忙しくないといえるかもしれない。

 でも、精神的な疲労は今も相当感じている。土日が休みだったりするが、半分は体を休めるのに使って、半分は精神を休めるのに使うような感じだったりする。
 土日に遊びの予定などはいると、体も精神もあまり休めないまま一週間が始まる、といった感じ。




 何もしたくない、ということをしたい、といった感じ。

 何もしたくない。

 ごはん食べるのも、なんか惰性で動いている気がする。



 疲れたとか、面倒だとか、そういった言葉が、適切なのかも分からない。

それでも文字おこしするのは何故?

 何もしたくないといいながら、何故ブログを書いているのか。記事を書いているのか。

 僕が唯一、今、価値を認めていることだからだ。

 ブログを書かなくても、まぁ、お菓子食べたり、ウォーキングデッド見たり、LINEしたり友人と話したり、まぁいろいろやるのである。
 なんか、やる気が起きないなぁと思いながらも、何かやってるのである。

 でもそれは、なんかすり減っている気がするのである。

 寝る、ということすらそうだ。
 土日で、昼過ぎまで寝ると、まぁ睡眠はとれた気がする。けれども、結局体がだるいし、時間を無駄にした感で気分も悪くなるのである。


 唯一、悪循環にならない、唯一罪悪感を感じないこと、それが、「書く」ことである。
(でも、今はその、書くことも非常につらい……というか、面倒というか、やめてしまいたいと思っているが)

 たいてい僕は、面白くないことだったり、ためにならないことだったり、くだらないことだったりを書いているけれども、基本、楽しいから、書きたいから書いている。
 今は違う、と書いておこう。今は、書くのも特にやりたくないのだ。

 でも、書いている。それはきっと、僕が、明日の自分に許してもらえるからなのだ。


(かっこ書きである。――ので、こういう無気力期間がやってくるので、「ルーチン」が必要なのである。ルーチンは、もはや、体の一部である。心の一部である。どれほど調子が悪かろうと、意欲がわかなかろうと、無意識であっても行動できる――それがルーチンだ。意識してルーチンをやってるうちは、まだ、最終形態ではない。1か月ぐらい続けられたら、十分、その調子で長期間続けられる可能性が大きくなるが、突如訪れる無気力感によって、簡単に崩壊してしまうものである。ルーチンという横文字使ってかっこ悪いが、要は、習慣化、ということである。んで、その習慣化というのが、大人になるにつれ、難しくなる。それが可能性の幅を縮める原因でもある。でも、可能性の幅が小さいのが大人の特徴でもあるので、それはそれでよい。つまり、子供のうちに、良い習慣をたくさん身に着けていた方が、大人になってからも有利だ、ということだ。別に習慣というのは、筋トレとかそういったものだけではない。ポジティブなモノの考え方とか、あいさつやありがとうごめんなさいをちゃんと言えるだとか、そういった目に見えにくい習慣というのもある。ので、「考える力」なんてものより、十分な習慣を身に着ける教育の方が大事だ――みたいなことをいって、「いややっぱり考える力が必要だよ」みたいな論争というか意見交換をある方としたのも最近だったような気がする。ま、その、「良い習慣」というものじたい、社会環境や時代によって変わったりするから、それを見定める力、見出す力として「考える力」というのは大切だとは思う。けど、そんなもん、子供にわかるはずないのだから、教育という視点でいけば、まずは優先すべきは、習慣化であると考えている。ってまぁ、そんな他人のことはどうでもいいのである。まずは、俺が、自分が、どうやって、なんで、なんのために、なにをするのか、ということだ。――知らん。とりあえず風呂入って寝る。あぁ……PSVITAも買ったのに全然やってないし、なんかいろいろやる気が起きない)

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今日の一言「でもあえて言おう。指が重い、疲れた」「この記事では『疲れた』が頻発するため、ネガティブを完璧に排除すべきという思考体系をお持ちの方は読まない方がよい」

この疲れたことの表現を

 その、ツイッターとか、一昔前のSNS(ミクシィ)なんかだと、「疲れたー」といった一言の記事が投降されたりする。アメーバブログも、なんだかそういった傾向がある気がするのは偏見かもしれない。

 そういった短い記事に、僕は価値を見出せないのである。
 長くないと、ダメだ。

 それも、「疲れた疲れた疲れた」などと、コピペですむような奴はだめだ。しっかりと異なる表現で、それでいて、意味は破綻していなくて(論理的である必要などはない。ただ、そこに何らかのつながりがなければ、A.I.でなくても、単語の組み合わせと乱数を使えば簡単に「会話もどき」マシーンが作り出せるだろう)。


 しかし、今、僕がこのブログにおいて、この記事において表現「したい」ことといえば、「疲れた」という3文字になるだろう。

 どんなに頭をひねって、雅な言葉をつむぎだそうとしたとしても、その「テーマ性」は「疲れた」なのだ。

 それはどんだけ面白くないことだろうか。

夢をみた

 昔の、夢だった。夢とは、夜に見る奴のほうだ。「将来の夢」的なのではない。
 知人と、女性関係の話について語っていたので、その影響だろうか。
 起きてから、いやな気分になった。

 その夢の内容が良いか悪いかと言ったら、悪くはなかった。
 けれども、基本的に夢とは、良いものではないと思う。その夢が「良いもの」であろうが、「悪いもの」であろうが、それは「夢」であり、虚ろであるため、現実ではなく、いざ目が覚めて現実に戻った時、それは一概に虚しさを与えるのである。

 その一時の快楽について、「ああよかった。気持ちよかった」と満足できる人は幸いである。
 そういった人こそ、本当の悟りを得ているのかもしれない。


 何の話だ?

キノの旅

 お、アマゾンプライムで、キノの旅のアニメの新作やってるじゃないか。旧作はあるのを見つけて、時間をみつけて少しずつ見ていた。
 この作品は好きである。喋るモトラド(バイク)と旅人キノが、いろんな、変な……特徴のある国を旅をして、いろんな人と関わっていく。なんやかんや、ライトノベル的なのを初めて読んだのって、この作品だった気がする。

 お、前からある方が語っていて気になっていた、マジェスティックプリンスも出てるじゃないか。こりゃ「いぬやしき」なんてみている場合じゃねえ。でもキノの旅は気になる。

書かねばならぬ

 ところで、もう今すぐ寝たいぐらい眠い。
 目があまり開いていない。
 でも、書いている。何故か? はたからみたらお馬鹿さんである。でも、僕は、これが今すべき最重要課題であると認識している。

 書くことが。
 いただいたラインによるメッセージや、同窓会の案内に対する回答、友人グループからの忘年会の誘いへの回答、など……それら、現実におけるプライベート的なすべきことよりも、こうやって書くことが優先だというのか?

 そうだ、と僕は、その点は自信をもって言う。この判断は間違っていない。その根拠は、「これまでそうだったから」だ。つまり経験である。それも個人的な。だから、誰にでも当てはまるわけではない。そんなこと書き残して何になる? さぁな。でも、この、断片さ、壊れ具合が、人の話をシャットアウトしようというその姿勢が、「疲れた」というテーマ性をよく表現しているような気がする。

生きる意味がない

 若者を騙して何人も殺害した容疑者が、「生きる意味がない」などと、父親にもらしていたことが分かったという。
 何をどうして、そういった経緯が分かったのかは知らないが、やめてほしいものだ。

 生きる意味……なんてものを考えたりする人たち――すなわち僕のような人が、ますます奇異な目で、犯罪者のような軽蔑した目でみられるではないか。やめてほしい。
 僕は自動二輪車が好きで乗っているが、爆音のうるさい奴らが大嫌いである。まぁ、自動二輪車が嫌いな人にとっては同じ穴のムジナだろうが、なんでもかんでもひとくくりにされるのは気分がよくない。なにその、小学校の頃の連帯責任とか。え、小学校だけじゃなく、大人でもそういうのあるって? なにそれ、江戸時代の5人組なの?

 どうでもいいことを書いてしまった。これも疲れている証拠である。
 あの、「人生に絶望した」という表現について、よく犯罪者から引き出して大々的に報道しようとしたりする気がするけど、犯罪の動機を何故人は欲しがるのだろうか?
「納得」したいからだ。
「あいつは、犯罪を犯すような動機があった」と、理解したいからだ。

「そういう奴ら」というのを、スクリーニングの(ふるいにかける)ための方法を欲しているのだ。

 だから、アニメばっかりみていたとか、ゲームばっかりしていたとか、そういう「分かりやすい」理由を欲するのである。そういうのを好きな人と付き合わなければ、自分たちは安全なのだと、意識的・無意識的に思っているのである。

 ただ、いまやゲームもアニメも、それほど忌避されるものではなくなってきている。だからより一層、「犯罪者たるもの」が必要になってきている。

 次にスポットがあてられるとしたら、「絶望」である。

絶望とは

 絶望、と一言で表現したけれども、どっちかというと、精神科医フランクル氏のいうところの、「実存的空虚感」である。もっと砕くと、「生きている意味がわからない」的な感覚である。

 正直。この疲れた思考と身体においては、頑張ろうが頑張らまいが、生きようが死のうが、気持ちよかろうが悪かろうが、大した意味はないと思っている。

 そして同時に、こういった思考がよくないものだと、言われていることも分かっている。
 いやお前、それは「わかっている」とは言わないのだぞと言われるが、分かることは分かるのだ。ただ、それが「間違っている」とは思えない状態である、というだけだ。

 ちなみに、何故間違っているのだろうか。それは、答えがないからだ。証明できないからだ。客観的ではないからだ。そういうものを考えることは、思うことは、感じることは、「間違っている」のである。


⇒いやお前、そんな、楽しいことばかりじゃないぞ。いやな思いや、苦しいと思うことも含めて、人間なんだ、感情なんだぞ?

 否。明確に否定する。それは、お前、それこそ人間の可能性に対する否定だぞ。――この表現嫌いだが、あえて使おう。その「人生楽ありゃ苦もあるさ」ってのは、諦めである。いいことも悪いこともあるのが人生? お前、そりゃ結果的に悪いこともあるかもしれないが、「悪いことがあっていい」というのは、お前らが嫌いな、「必要悪」みたいな考え方に過ぎないじゃないか。

 違うだろ。本当は、すべて良いことであるべきだ。悪いことなどあっちゃならないのだ。



 ……などといったことも含めて、「どうでもいい」という感覚。空虚感。そういった表現。


 例えば、僕が何らかの悪いことを犯したとして、このブログの記事が発見されたとしたら、まぁまぁ、きっと、「ああ、なるほどな」と、何が「なるほど」なのかも分からないままに、みんな「納得」するのである。ニュース報道的には、「会社や友人環境など恵まれていたようですが、ある一面で悩みを抱えていたようです」みたいにキャスターが言うのである。

 ま、確かに。生きる意味がない、ってのは、無気力ってのは、「人の命なんてどうでもいい」とか思ってそうに感じられるかもしれない。意味がないから殺してもよい、と思っているとか。

 そんなの、無気力でも、絶望でもなんでもない。
 無気力や絶望ってのは、「人を殺したい」という欲求すら浮かばない。いやむしろ、いくら絶望していたとしても、人を殺した瞬間、それは、欲求に変化するのである。(ここで「いや、人がどれぐらいで死ぬのか試してみたかったとか言うやつもいるじゃん」という反論があるとしたら、それはもともと無気力でも絶望もしていないので関係ない)

 何か、行動をしたいという思い、そして、その行動自体の意味について、意義を失っている状態、それが無気力である。
 絶望とは、欲求がなくなった状態である。

睡眠欲には勝てない

 ――だめだ。目が明かない。もうタッチタイピングで書くしかない。誤変換が多発するだろう。

 ああ、その、なんだ、「疲れた」という表現をするため、それなりの長さになったわけだが、さらに疲れた。でも、睡眠欲と闘いながら、書くということを優先させたのは、――そして、こんな意味のつながりがおかしい記事を投稿するのは……。


(かっこ書きである。何故書くのか。それは、書くことが、唯一、僕の現在の心(精神というか、目的というか、目標というか)において、「ダメ」と言われないことだからである。仕事をすることも、友人などと遊ぶことも、ゲームをやることも、ダメとは言われないけれども、なんだか、罪悪感や焦燥感が与えられるのだ。だからたぶん、消費的な行為行動で満足して生きることができるなら、それはもう満足した豚であって、悪いことではない。不満足なソクラテスが本当によいかは僕は分からない。でも、ただ食って寝て増えてといった本能的なものだけで人間が生きているのだとしたら、――いやむしろ、そうだとしたら、人類が抽象化の言語を獲得し、他のホモ属を淘汰し、地球の食物連鎖ピラミッドの頂点に達したのだろうか。……どうでもいいや、眠い)

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今日の一言「今日の目標はブログを書くことでした」

時間の感じる単位について

 11月である。
 前回、記事を書いたのは11月5日である。一週間はあっという間である。

 昔、社会人という存在になってからしばらくして、「一週間の単位」について愕然としたことがあった。若いころは、一日、一日が単位だった気がする。社会人は、一週間程度が単位な気がした。
 今は、それがさらに加速して、1か月ぐらいが、単位として感じられている気がする。

 この「単位」とは、時間経過を認識する期間である。確かに24時間が一日で、寝て起きて食べてを繰り返すわけであるが、それらが、ひとまとまりになったような感覚がある。それが単位である。経験単位とか、感覚単位とか言い表そうか。なんだか適当な言葉が浮かばないので、単位というのは造語である。

 以前にもまして、感覚単位が実時間に対して長くなった、ということである。

 そして、このことは、「書く」という行為がなくなったことで、更に加速していると考えられる。

いろいろやってる

 具体的な時間を書くと、忙しい自慢的でイヤであるけれど、後から読んだときに感覚として伝わってくるから書くと、23時を過ぎて帰ってくることが多い。土日も、予定が埋まっていることが多い(個人で完結する用事ではなく、人と関わる予定)。

 まぁそうすると、実際は、書く時間なんて取れないのである……というと嘘であり、睡眠時間を6時間程度確保したとしても、物理的な時間は十分にあるのである。

 あるけれども、この「書く」というのは、ある程度の「精神的余裕」がなければ成し遂げられないことである。――本来は。


 にも関わらず、僕がしばらく、毎日のように長々とブログを書くことができていたのは、それは、「精神的余裕」の無さゆえに、ゼロ秒思考(あんまり考えず、頭に浮かんだことをアウトプットする)によって書いていたのである。――今ふと、「ゼロ秒思考」って、やっぱり思考してないじゃん、と感じた。ただ、ここでいう思考は、「頭に浮かんだこと」という意味であるので、その浮かんだことを間髪入れずに「文字化」するという作業、それがゼロ秒思考アウトプットである。

 なんでこんなことをしていたかというと、「得体のしれないイライラ感」等により、とにかく落ち着かなかったからである。


 では最近は、そういった感覚がなくなったのか?

 否である。


他者に対しても気兼ねなく接している

 僕が抱える問題は、何ら解決していないと思う。
 その問題というのは、このブログのタイトルにあるものだ。

 ところが、体の疲れだったり、精神的な疲れだったりが相まって、書くことというか、考えることが、もうとてつもなく面倒になっている。

 静かに消えてなくなりたい……というのとは少し違う気がするが、「何もない時間」を欲していると思う。

全然筆が進まない

 久々に、「イライラ対処」のカテゴリにした。全然、書いていて楽しくない。――つまり、いまは、「書かなくていい期間」なのかもしれない。

 が、冒頭に書いたように、感覚単位が恐ろしく早くなっているため、いったん、今日は何とか、たとえ何時に帰ろうが、なんでもいいからブログを書こうと思ったのだ。

 そういった点で、今日の僕はよく頑張った。今日はとにかく書こうと思ったのは昼過ぎのことであったが、そこからしばらくして、状況もかわったのに、いま、こうして書くことができているのは、素直にほめてあげよう。えらいえらい。


 あー、ええと、寝具に十数万使ってみたというのとか、生きる意味って何だかずっと考えてます的なことを対人的に打ち明けたりとか、来週のデート的な約束をしたりとか、まぁ、書くことはある気がする、ある気がするが、気持ちが全然のらない……のにかかわらず、こうやってぐだぐだ書いているというのは、なんとも、読者をいらだたせるだけではないか?

 そうだろうけれども、でも、この……なんともいえない、やる気のなさというか、気力のなさを、なんとか表現したいと思っている。――それより、こう、友人と遊んだりとか、女性と食事にでかけたりとか、そういった行為の瑞々しさがどうにも感じられない。

 以前、赤面必須の、「恋」についても書いたことがあった気がするけど、そんな感覚って、もうないのかなぁと思ったりする。恋……。なんか、若いころは、「女の子と付き合いたい!」って思っていた気がする。それはなんというか、「女性と付き合う」という、そういうことができる自分、というのに憧れていた――とか、そんな解釈、あとからならいくらでもできるんだけど。

気分がのってきた

 ああ……分かった、気がする。
 なんというか、「こういうことを書いたら(言ったら)こう思われるだろうな」的な思考回路が先に進みすぎて、なんだか何も書きたく(言いたく)なくなっているのだろう。


 ほんとうは、100人いたら、90人は知っている事柄があったとしても、自分が対面した人が、その知らない10人だったとしたら、その事柄についての話はとても興味深いものかもしれない。

 コミュニケーションっていうか、人との関係って本当はそういうものなんだと思う。一回性と唯一性というのはフランクルさんの言葉だけど、本当にそれはそうだと思う。



 もう一つ理由として、「こうやって思われたい自分」というのを、無意識に醸成してしまっている気がする。ええい……そんなまどろっこしい書き方なんて今までしてなかったろう――つまりだ、僕は「いい人」と思われたがっているのではないか?


 その、ある人に悩みを打ち明けた……という表現もどうにも気に食わない。ええと、人が生きる意味について語り合ったとでもいおうか。その話の流れで、「お前は頑固な人間だ」というのと、「人の話を聞かない」と言われた。

 頑固、という表現は、ある程度親しくなった人に、笑いながら、あるいは真顔で言われることがたびたびあるので、まぁ、他者からみたらそういう人間なんだろうなぁと自分でも思うようにしている――が、僕の中では、全然そんなこと思っていないのである。――という表現がまさに、頑固で、人の話を聞かない、と言われる所以だとも思っているのだが。





 そうそう、ある人には、「お前は、結局納得してないんだろ」とか「わかってないんだろ」とかも言われたことがある。結構傷つく。

 頑固ってなんだ? 人の話を聞かないって何だ? 「わかる」ってなんだ?

けれども時間がない

 なんか、「書きたい」思いは、ここまで書いてきてようやく戻ってきた。が、もう時間ぎれである。
 まぁ、その、なんだろ。

 僕は、やっぱり、いいひとでありたいと思う。善人でありたいと思う。みなと仲良くしたいと思う。

 これらは真に、心から思うのであるが、その良いだとか善いだとかいう、その感覚が、結局多様であると思っている。
 僕は、「真に」、普遍的に「良く」ありたいと思う。

 ただ、それは、子供じみた空想であるともわかっている。人は、一回性と唯一性の中で、折衷主義といわれようが、たゆまぬ不断の努力によって、よい生き方を模索し調整しながら生きていく必要があるのである。

 ――というような、一般論的なのが、どうしても腹立たしいのだ。どうしろっていうのだ?! そして、「どうすればいいんだよ!」というと、「それを『考える力』を養って、一人ひとり考えていかなければならないのです」とか言われるわけだが、それが輪をかけて腹立たしいのである。

 僕は、考えることは好きだが、考えることだけで実践――生活、現象がなければ意味がないと思っている。そして、一般的な真実が、必ずしも個人としての、実存としての真実でもないと思っている。

 ……ああ、いろいろ、ようやく言葉が戻ってきた。カオスな感じでまとまらない感じ。論理的に、分かりやすい構成にしようとすればするほど、つまらなく、気力が失われていくあの感じ。ゼロ秒思考が戻ってきた!!(かっこわらい)

 ――しかし今日は終わる。


(かっこ書きである。んあー全然創作活動できていない。アウトプットはおろか、インプットも。こういうときは、とにかく、今続けられているルーチンに、必死にしがみつく必要がある。まさに、今が、生活(ルーチン)の危機である。この期間に、どれだけ生活を崩さずに、当初の目標に向かって気持ちをコントロールできるかにかかっている。今、この時期は、現状維持すら難しい状況。この時期に、新しいことはできるだけしないほうが良い。むしろ、今続けていることのシェイプアップすら必要だ。焦らず、ゆっくりと。時間は不可逆のためそれは言うは容易く行うは難しいが、それでも、焦らず、ゆっくり、今できていることを可能な限り壊さないように……。明日も遅くなりそうだが、なんとか、書くことに時間を、気持ちを向けたい。そういえば、ウォーキングデッドの1シーズンは何話かみたな。まぁまぁ面白そうである。ゾンビものって、バイオハザードの映画を一つ途中でみたぐらいか。なんか、ホラーといっても、暗い感じのホラーじゃなくてまぁみられる。続きも、時間があったらみたいなぁ)


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今日の一言「短いですが暗い内容のため部屋を明るくして心が落ち着いているときに読みましょう」


暗黒モード

 以前、2016年の12月に、暗い記事を書いた。危険なくらい暗い日記(暗黒モード)

 それよりは、暗くはならないと思うけれども、中途半端は好きではないので、ちょっとやそっとで、明るくなれないのならば、むしろ反転、突き進んで暗黒にひた走りたい。

 まず、話のネタとして、いくつか箇条書きにする。

・障害のある人の姿を見て強く生きようとするということ
・戦場や紛争地などの凄惨・残酷な場面をみて平和を意識するということ
・動物を解体するということ・と殺するということ、それを見て必ず発生する「かわいそう」という感情をいかに考えるか
・ペットの去勢や避妊は残酷なのか

暴力の人類史

 暴力の人類史、下巻を超スピードでまとめの部分のみ読む。

 結論。中世の騎士道とか、近代以前の時代が牧歌的で平和だったとか、暴力的な死を迎えるという確率や婦女暴行・子どもの虐待が発生する確率をみれば、ありえない空想であるということである。
 20世紀の世界大戦、核爆弾の恐怖、内線紛争、到底平和な時代などと思えなくても、あらゆる面で暴力は減少しているということだ。
 これは、今後も減り続けるという予言ではない。ただ、暴力が減ってきたという条件は、以下のように挙げられるという。(矢印の右側が、僕の超速解釈。読んだことある人で間違っていると思ったら指摘願いたい)

・リヴァイアサン→集権国家によって、当事者間の闘争の調整(第三者の審級・裁判)がされるため、暴力が割に合わなくなる

・穏やかな通商→正当な取引ができる方が儲かるなら、戦争は割に合わなくなる。(これ、『ドリフターズ』のシャイロック?協会の人たちの考え方を思い浮かべるとよいと思う。「軍船作ってた分を商船にしてたらもっと儲かっていたはず……」と)

・女性化→男性は女性の性的アクセスを巡って競争しがち。伝統とか地位や栄誉・名誉とかも重視しがち。女性はあんまりそういうのない。(まぁここはあんまり実感が少なかった。「女性はあまり争わないというのも「?」だけれど、それよりそもそもなんで女性化が進むようになったのかが疑問。ただ確かに事実として、女性の権利拡大はいろんな面で進んでいることだろう)

・輪の拡大→グローバル(コスモポリタン)な社会によって、同情心が芽生えだした。たとえ暴力で勝利しても、相手への同情心で罪悪感で心が痛みやすくなれば、暴力は抑制される可能性が高くなる。(確かにそうかもしれないと思うけれども、とある国などでナショナリズム(自国優先主義)的な政策が支持され始めたという傾向から、「輪の拡大」なるものがちゃんと広まっているのかは疑問。ただ、暴力が抑制されるという理由(条件)としてはアリだと思う。その点、上にあげた話のネタの、平和主義者や動物愛護者や菜食主義者などの「かわいそう」という気持ちは、必ずしも否定されるべきものではないかもしれない。とはいえ、人は肉を食らう)

・理性のエスカレーター→人身供犠、魔女狩り、血の中傷、異端審問、特定民族のスケープゴート、奴隷制、独裁制、拷問、宗教迫害、動物虐待、児童虐待、女性への暴力、浅はかな戦争、同性愛者の迫害……は、理性的に、正義ではないとされるようになっていった。

学術的な意味と実存的な意味

 人類、暴力はよくないという方向に進んでいるということである。よいことだ。
 しかし大事なのは、それが生得的になされるものではなく、「とある条件」によって成り立っていると考えることである。それが、歴史を学ぶ意義であると僕は思う。

 誰と誰が敵対して、争って、戦争になって、どっちが勝ったとか、その結果などどうでもよい(いやテストでは点を取れないが)。意味がある歴史学習としては、「何故?」その争いが起こったのかを突き詰めることである。「金」の場合もある。「宗教」の場合もある。「名誉」の場合もあるかもしれない。息子を王にしたかったとか、見栄とか復讐とかいろいろあるかもしれない。
 その「理由」を学ぶことで、外交交渉に役立つ……かは分からないが、とりあえず、相手の主張を知らずして、調整ごとなど出来やしないのだ。

 まぁ、それはそれで良いとして、僕が歴史を(大したほどではないが)勉強して思ったのは、「人間って……」ということである。

 そういう意味において、暴力の人類史は、書いてある内容は結構具体的な記述がされていて、ところどころグロテスクな表現が散見されるけれども、結論的にはとってもポジティブなお話で、僕はとても良い本だと思った(ほとんど流し読みであるが。いやはや、とても長いのである)。

 
 で、まぁそれはよいとしてだ。
 仮に世界は良い方向に向かっていっているとして、実存的にはどうなのだ? ということである。

かわいそうという感情へのいら立ち

 最初に挙げた話のネタに戻るが、「かわいそうな人」や「かわいそうな動物」をみて、「何々しよう!」というロジックが嫌いである。

 なんでかというと、「自分より悲惨な人をみて悦に浸る」のと同じだと思うからである。

 人と比べるのが嫌いだ。競争が嫌いというのではなくて、上を見てもきりがないし、下を見てもきりがないと思っているのである。

 にもかかわらず、なんで、「障害のある人」とか、あえて取り上げないといけないというのか。
 僕はメガネをかけているが、目がよい人に比べたらハンディキャップである。(喧嘩になって眼鏡を飛ばされたらまず確実にボコられるだろう)
 ――などというのは、卑近なつまらない例であるが、まぁどこまでを支援が必要なレベルとして、どこからを健常とみなすかなど、介護の要支援・要介護の判定などもそうであるが、一定の基準・解釈なのだ。


 あともう一つ、「かわいそう」というのは、どうにも、「自分じゃなくてよかった!」という感情が見え隠れしているような気がする。いや、純粋な「同情心」なるものがあるのかもしれない。
 が、そもそも、同情って、なんか嫌な雰囲気ないだろうか? 俺だけか?

 共感はなんかよい。何らかの目的や目標に対して、同じ感情の方向を向いているといった場合に使う気がする。
 同情というと、なんだか、「上から目線」な気がする。だから、「同情するなら金をくれ!」と昔のドラマで怒られたのかもしれない(みたことないけど)。

代替不可能性について

 なんだか、暴言を単に書き連ねただけな気がする。
 まぁ、なんというか、色々書こうと思った矢先、「危険なくらい暗い日記(暗黒モード)」を読んで、「あー、結局、9か月前ぐらいと大体同じ感情気分状態になってるわけね。やっぱ、これが初めてじゃないとは思ってたけど、つまりそういうことね。はいはいループループ」と思ってしまい、何だか書くべきこと、書きたいことがよく分からなくなってしまった(では書くなという話ではない。何せもう書いてしまった)。
 昔の記事でも、煽られている。

 おーい。その程度? 暗い日記だよーとか書いておいて、その程度なの? もっと心底、読んだ人9割ぐらい憂鬱にさせるぐらいのこと書けないの?
 うわー中途半端だねぇ。ポジティブでもないし、ネガティブなことも中途半端。あっはは、本当に何にもできない半端野郎だな。
 この記事読んでさ、読んだ人がさ、「ああ、こんなダメな奴がいるんだ……、俺はまだましなほうだな。よし、もうちょっと頑張ってみっか」とか思わせられるぐらいダメ人間アピールしてみろよ。ほら、ほら!
 ……。
 過去の自分、厳しい(かっこわらい)。

 うーむ、自分の過去記事を読んで癒されでもしたら、それは完全に自慰であるなぁ。
 しかし、かの記事に、確かに今の僕は共感するのである。

 先日、「代替不可能性」の部分で書こうとして、あまりに暗くなるから書けなかったが、昔の記事では書かれていた。
 僕じゃなきゃいけないって思ってくれるのは、期待をしてくれる仕事じゃあなくて、両親なんだろうなぁと。

 そういう意味で、「恋人」って存在を、すっげー希求していた時期もあった。
 けど、そんな幼稚な心性じゃあ、恋愛なんてうまくいきはしない。
 ある程度「お作法」を身に着けて、恋人をつくって結婚するということもしてきた。しかし、そこには、実は最初のほうから「恋」ってもの、「好き」って感情が、「お作法」とともに抜け落ちていっていたんじゃあなかろうかと、そんな風にも、いまや思う。

 先日、美人で若い女性が、婚活市場で男を見定めするブログを読んだと書いたけれども、なんか、僕が求めるのは「シンデレラ的な恋」なのであって(キモッ!)、そういう女性ばっかりだとしたら、全然絶対独身を選ぶなぁと思う。

 でも正直、「代替不可能性」を異性に求めるってのが、そもそも、女性の社会進出的なのとともに、なくなって(なくなりはせずとも希少になって)きているのではなかろうか……とか書くと、フェミニストさんたちから石を投げられるか。

とにかくイライラするぜぃという記事

 はぁ……。
 まぁその、いってしまえば、「あーなんか面白いことないかなぁ」と嘆く記事である。
 そういう奴、嫌いなんだよな! ぐだぐだ言ってないで、自分で楽しいこと見つけろよ! しっかり生きろよ! って、思う。それが、自分の「超自我」(理性)的な奴。
 一方で、僕の「イド」(無意識の欲動)とか自我的には――僕の言葉だと「実感」では――
「ああ、もうつまんねーよ! 何でもかんでもどうでもいいよ!」ということになっている。

 この相反する感情! アンビバレンス!

 ははは、情けなくて愚かしくて笑いがこみあげてくるぜ。

この記事意味あるの?

 意味?
 意味とは自ら付与するものだろうよ!

 そう、例えば、「暗黒モード」と書いておいて、所詮はこの程度なのである。
 もっともっと暗い気持ちに引きずり込めるようなことを書けないのか?

 こんなの、10代の少年が時折頭によぎる程度のことじゃあなかろうか。
 この程度の「暗さ」なんて、何にも面白くない、深くもない広くもない。

 しかしだ。いきなり、そんな「暗い」ものを表現しようとしても、凡人の俺には難しい。
 ならば、この記事はひとつ、踏台、たたき台としての意味を与えてやってはいかがであろうか。

(かっこ書きである。えーまぁ、こういう日もある。そういうときは、酒を飲んで風呂に入って寝よう。しかし睡眠とは、確かに体調を回復させる効果はあるかもしれないが、精神を必ず回復させるかというと、そうではないと思う。で思うのだけれども、この症状は、「面白い物語不足症候群」な気がする。こう、魂魄を刺激させられる作品の欠乏である。現実生活を刺激的なものにすればいいじゃない! と、マリーアントワ何ちゃらさんは言うかもしれないが、そういう問題ではない。シュタインズ・ゲートはかなりいい線いっていたが、最後の爆発力に欠けていた気がする。しかしそれでも、最近触れた作品の中ではかなり良かった。サムライチャンプルーを見始めたが、――確かに面白いが、片手間のテレビ的なレベルの面白さである。そういう、お菓子を食べて美味しいといったレベルの作品はとても沢山ある、が、本当に心をぐらつかせてくれる作品は中々見当たらない。――ああ別に、作品じゃなくても、現実生活の中でもいいのだけれども、正直、「事実は小説を中々超えない」。やはりこれはPSvitaを買ってしばらくゲームに身をやつす必要があるのか。いやいや、ちょっと待て。先般、高らかに宣言したのをもう忘れたのか。自分で、自分を揺るがせられるような作品を書きたいと、書くのだと、いったではなかろうか。言った。言った確かに書いた。しかし……どうなんだろうか。僕が小説を書き始めたときは、自分の中にある思いというか物語を外在化させたいという動機だった。それは確かに自分自身が面白いと思ったものであった。残念ながら、それを表現するだけの力が、中学生ぐらいの自分にはなかったわけであるが、逆に言ってしまうと、今の自分に、「面白い!」と手放しで感じられるモノが、自分の中にはない気がする。……なんて、大作家がスランプに陥った時みたいなことを書いてしまい汗顔の至りである。ああ……しかし、ほんと、どうしたもんか)

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