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離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
カテゴリー「イライラ対処」の記事一覧
今日の一言「何とか山場を乗り切った、かな」「山、だと思ってたのが、もっと大きな山の一部だったりして」

拍手コメント等ありがとうございました

 拍手コメントくださった方々、どうもありがとうございました。
 大丈夫です、生きています。
 また、自暴自棄で無謀な投資などはするつもりはありません。あくまで、余剰資金で、といった感じです。

 あー、しかし、ほんと、ここ、1か月ぐらいは大変だった。残業になるのは、まぁ仕方がないとして、そもそも、24時で終わらないから、翌日の朝も早く行って仕事して、みたいな生活が特にここ二週間ぐらい続いていた。
 このハードさ具合は、そうだなぁ、初めてではないかな、大学の一時期と、入社3年目あたりでこんなこともあったかなぁ。その時々において、やってることも、能力値も違ったりするけれども、兎に角「修羅」状態だよね。

 あー、別に、忙しい自慢をするつもりもない……といってる時点で、そういう自慢なんだろうが、まぁ、それは置いておいて、そもそも、「大変なことを経験してないとだめだよ」とかいう先輩諸氏のお言葉を間に受けるのであれば、いやぁ、私はもう十分修羅モードやってきてますよ、と、自信をもって返事をしていいのではないか、と思う。が、僕の性格上、いやいや、もっと大変な人、おりますのでね、と思ってしまうのだ。

 だが、それはそうとして、取りあえず、能力値が低い自分としては、十分修羅モードでしたわ、と言ってやりたい。いや、言う! 取りあえず、誰も知らない辺境のこの地で、僕は言う! 俺は、俺は頑張ったぞー! っと。

 取りあえず。成果としては、微妙かもしれないし、そもそも、まだ終わってないのだけれども、取りあえず24時帰宅25時就寝5時起き6時出社的な生活は、しばらくはやらなくて大丈夫そうだ。

忙しい

 いや、その、あれだね。忙しいことは全然自慢にならないぞ。どんだけ大変な経験をしたとか、そんな過去の武勇伝、もてないぞ? 問題はそこにあるのではない。
 
 ただ、もう、たまには、テキトーに、ぐだぐだ書かせて頂いていいんちゃう?
 えーやろ。愚痴言ったって。


 愚痴言って、それがどーした、と思っちゃうんだよな、俺自身。だから、あんまし相談のって~とか言われないのかもしれない。これもよくない。共有するのが大事なんだ。一緒に悩んでやるのが、いい上司や彼氏や友人やその他いろいろなんだ。

 うわー、もうめんどくせー! いろいろ、めんどくせー、わーわーわー、いやだいやだいやだー(棒読み)


 えーと。こういうときは、素直に寝るか、風呂に入るかした方がいいんだろう。グチグチ書くのは、よくないことだ。
 僕自身、ずーっと、ぐちぐち書きまくってるブログさんは、最初はなんか面白そうだったが、一か月も二か月もずーっと同じことをグチグチ書きまくってるブログさんは、いい加減、いやお前、それ、愚痴愚痴書くのが楽しいんちゃうかいな?! と思ってしまう。

 いやきっと、僕もそう思われてるんだろうな。考えるの好きなんでしょ、と言われたりもしたし。
 そうだな、でもそれは、認めてもいいかもしれない。考えるのが好きなのかは分からないけれども、取りあえず、何らか、書いて、整理するのは好きだ……好き? 好きなのか? 好きと言うよりも、そうしなければいけないような、何かもう強迫観念的な感じな気もするが。

 何も書かずに、何も整理せずに一日が終わってしまうと、何だか、「僕自身」がすり減ってしまったように思うんだよな。なんだろ、この感覚。

 本当はエラー(感情エラー)なんだろうな。一生懸命に生きて、誰かに何か影響を与えることができたら、自分自身のこんな愚痴ブログなんて書かなくても、それはそれで、とても尊い価値があるって、本当はそう思わないといけないんだろうな。そうなのか?

23時PC消灯ルーチンと禁欲

 まああと少しで3連休だから頑張ろう。そうだ。休みで何して楽しもうか、考えよう。そうだそうだ。いろいろ、できなかったこととか、やりたいな。できなかったこと? あー、読書、とか。ゲームとか。サイトの運営(ココナラも始めてみたい)とか、株式投資とか(キーエンスって会社はどうやろ)。

 あー、んー、何だか、上に、愚痴グチを物凄い音を立ててタイピングしていたら、今、数分の内に気持ちが落ち着いた気がする。不思議だ。うん。

 うーむ……。

 うーむ。

 なんだろ、変な気分だ。

 取りあえず、23時過ぎたら、パソコンは使わないようにしよう。朝起きる。朝の方が、何か、頑張った感があっていい。
 


 うーむ。やっぱり、久々ぶりに書くと、こんな、テキトー感まんさいの記事でも、筆というか、指が止まってしまう。やっぱり、継続は力なり、だなぁ。
 継続は力なり、は、僕のモットーでもあるんだけど、それに反して、毎日、毎週が、断絶感がすごかった。

 なんだろう、毎朝起きて、えーっと、俺、誰ですか? みたいな、いやお前それ病気やで!
(離人症とは、幽体離脱みたいになって、自分を自分で外からみているような感覚になる症状。さすがに覚醒状態ではないけれども、そんな感じの夢を数回みていた気がする最近)

 よしよしヾ(・ω・`) 疲れたんだねー 大変だったんだねー がんばったねー
 よしよしヾ(・ω・`) いいよいいよ、ゆっくりお休み。

 とでも言ってもらいたいのだろうか、俺は。まぁ、そうなんだろう。しかし、そんなことを思う自分自身を軟弱やってんじゃねー! と喝状態になり……あーほんと、めんどくせーやつだ!
(明日読むと、赤面して頭を抱え込みそうである)

小説を書きたい

 唐突。
 いや、小説というか、創作、何だか、自分が本気で「面白い!」とか「感動した!」と思えるような作品、小説でも漫画でもイラストでも、音楽でもいいから、そんなのを創りたい。

 誰からも評価されなくてもいい。ただ、自分自身が、心底面白い! って思えるものを創りたい。

 ある方が、その方は、かなりもう小説にかけては上級者で、多くの読者を惹きつけるだけの十分面白い作品を描けるのであるが、「いや、これではまだ不十分だ」「この理屈なら、こうであるのはおかしい」と、自分自身に厳しく、ストイックであり、中々続編を紡げないのである。多分、妥協して書いていても、きっと、多くの人にとって、「ナニコレおもろい!」となるであろうことは間違いない。
 しかし、その方は、そんなことしないのだ。いやできないのだ。自分が、面白いと思えないと、書けないのだ(※)。その方の、悪戦苦闘具合を拝見させて頂き、僕もその影響を受けているのかもしれない。


※いやもっと複雑な事態として、その、自分で「面白い」と思う感性についてもまた、永遠普遍のものではなくて、その日の気分なんかにも影響されてしまう流動的なものだ。
 この点について、「自分とは何か? 私はよく分かりません。でも最近思ったのは、その自分が分からないというのは、自分自身が、常に変化しているから何じゃあないかと思いました」というコメントをされた方がいらっしゃり、いやほんと、感動させて頂いたものである。
 そして、それでもなお、僕としては、なお、その「自分」というものの、定点観測できる「何か」、ジャイロスコープのようなものを、何とか、片鱗でもいいから、掴みたいなぁと思うわけであるのだけれど。ただ、そうだとしても、前出の自分自身の変化について述べた方の視点は重要であることは変わらない。

小説が書けない

 唐突2。

 書きたいけれども、ストーリーが作れない。
 断片として、描きたい部分は思い浮かぶ。しかし、いい表現が浮かばない。まぁいい、その表現は、たくさん小説を読んで、感性を高めていけば、自分が描きたい表現がいずれ創り出すことができる(時間がどれほどかかるかは別として、道筋はある)。

 ただ、ストーリーが浮かばない。いや、起承転結でいけば、起承、ぐらいまでは比較的すぐに浮かぶ。今連載中のものの他に、2つほど着手はしている。
 けれども、書き進められることはられるけれども、いわゆる「オチ」が浮かばない。

 結局、どうなれば終わりなのかが分からない。


 でもこれ、意外と、どんなプロの作品も、結構オチが曖昧だったりする……というか、そもそも、オチって、ハッピーエンドかそうじゃないか、変わらない日常が続いていく、みたいなそんな感じにならざるえない。
 最近観て面白かった作品、例えばサイコパスとか、すげー面白かったけど、「シビュラシステムは実は潜在犯の集合精神でした!」的なオチで、まぁ、そうなんだけど、だから、何だ? みたいな。
 んー、なんだ、違う、書き足りていない。それはそれでいいんだ。じゃあ、ソードアートオンラインはどうだ? 記憶が奪われていくプレイヤーたち。その黒幕を倒した! 記憶を取り戻した! やった、ハッピーエンド!
 んー、なんだ、違う。例えば、「君の名は。」は、「彗星やべえ!」「過去に戻って助ける!」「助かった!」「君の名は?!!」――ハッピーエンド!

 んー、俺は、いったい、何を、いいたい!!(かっこ白い目)


 何だろうな。

 俺が最近、ここ1年、2年ぐらいで、ストーリーとして本当に完成しているというか、感動したのは、実は、やっぱり、この作品(外部リンク)かもしれない。これは、映画とか、漫画とか、その他ジャンルを含めてである(※)。

 なんでこんなに魂魄を揺さぶられたというか、感動したのかは、よく分からない。その、読んだときの感性状態がたまたま適合していたのかもしれない。
 ただ、ストーリーというのは、「オチ」というのは、僕が求めるのは、こういうこと(どういうことだよ)なんじゃあないかと、思ったりする。



※もちろん、先に挙げたサイコパスもそうだけど、面白い作品は色々あったのだ。あったのだけれども……。

凡人が背伸びするんじゃねぇ!

 と、まぁ、そんな、すげー作品にあてられて、「ああ、もう、俺はやっぱり、何も書けないんだ、ダメなんだ、ダメな奴なんだ、人間としてダメなんだぁぁぁ!」なんてふざけたことぬかしてんじゃねぇ。
 努力、という言葉が嫌いだ(※1)、と何度も書いているが、それでも、その何かにかける時間、情熱が大きければ大きいほど、それは、その人のもつ能力は別として、大きな力になっていく。

 Y=aX+b

 の、Yが成果で、Xがかける時間だとしたとき、その人のセンスが「a」で、今まで培ってきた能力や資産が「b」であったとき、

 (1)(a,b)=(10,100) と、 (2)(a,b)=(1,10)

 の人がいたとしても、(2)の人も、(1)の人の100倍時間をかけたなら、同じだけの成果をうみだすことができるのだ(※2)。


 ある方が、自身のブログで、短いながら、更新の都度、小説を連載している。
 新聞の漫画欄みたいで面白い。僕もやってみたいと思った。

 しかし、オチが決まってないのに、書いていっていいのだろうか。書きながらオチが見つかっていくような、そんな天性の才能なんて、自分にはなさそうである。ブログで断片的に書いていくよりは、ちゃんとまとまった形で、推敲など念入りにしてから完成させていった方がいいのではないか……。


 でもまぁ、ゼロとイチとでは、大きな違いがある。継続は力なり。兎に角、あまり書くことから離れないようにした方がいいのではないか。

(取りあえずこれから3か月ぐらいの間、週一に500字~1000字のペースでやってみようか)


※1:努力という言葉は、他者評価と自己評価の相対に過ぎない。あんまり意味のある言葉ではない。
※2:100倍時間かけるなんて、人生限りがあるし、物理的無理な場合がある。もちろん、成果自体も、簡単に数値化できるものではないのだけれど、結局、この似非数式をよく考えないで信じると、「努力信仰」という、頑張れば何でもできる的な発想に陥りやすい。


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今日の一言「失くしたことを後悔しているうちに時間もなくしている」

高価な電化製品をなくした

 最近、モノをなくすのは2度目である。一つは見つかってほっと一安心したが、今度は手がかりが全くない。いつ落としたかも不明。これは、ダメかも分らんね……。

 大事なものをなくしてしまうと、何だか心が落ち着かなくなる。不安感で、何か他のことをする気がなくなってしまう。

 だが、落ち着こう。落ち着くときは、息を深く、長く吐くのが、副交感神経か交感神経だかどちらかを刺激して、リラックスすることができる。

 それだけでは、到底落ち着くことはできない。しからば、考えてみる。「なくしてしまった……どうしよう」と悔やんでいる時間、それはどうにも無駄な時間じゃあるまいか。何故なら、そもそも、失くしたことに気づかないうちは、そのことで全然思い悩むことはなかったのである。ふと、気づいた瞬間から、喪失感や焦燥感にとらわれはじめたわけだ。


 実のところ、スマホを、置き忘れたことも入れたら、これで3度目になる。そのときはすぐに気付くことができたから見つかったけれども、最近いろいろ抜けてしまっている。

逆説志向

 あれを忘れた、これを忘れた、が繰り返されると、そもそも、いろんなことを忘れてしまっていることについて、強迫観念が生じてくることもある。

 でも、逆に考えてみる。これが、財布とか、会社のIDカードとかじゃなくて良かった。持ち歩くことが無いが、個人情報を含むUSBとかなくしたら、本当に洒落にならない。
 それと比べたら、大した問題じゃあない。効果と言っても、1~2万程度の損失だろう。

 もう一つ、それでも、強迫観念に襲われるのであれば、逆説志向を試すのである。

 逆説志向とは、「もういっそ、できる限り本気で全部鞄ごと忘れてしまおう!」「預貯金通帳をなくしてやろう!」と思ってみるのである。

「こうじゃないか、ああじゃないか」と、不安や強迫観念に陥って、現実的な行動が何一つできなくなりはじめたら、逆に、その強迫観念等の根本について、むしろやってやるぞと、できる限り激しく、公衆の面前でやり遂げてみるぞと、反転した考え方を取るのである。

 それを真剣にやろうと思えば思うほど、「いやいや、カバンごと忘れるなんて無理でしょ(笑)」と、逆に、笑いすらこみ上げてくるのである。これがユーモアという。

目標の達成状況

 さて話を変えよう。2月末までの目標を立てたのが、1月末あたりだったと思う。気づけば、もう2月中旬が終わり、2月末に突入している。はえええええ! 驚くばかりだ。
 どうしてこうも早いんだ。

 このペースで行くと、40歳、50歳、60歳とか、あっという間な気がする。

 モノをなくしたからと言って、うだうだ言ってる暇はないのだ。
 さて、目標とは何だったか。ヴィクトールさんの「人間とは何か」について、読了(音読完了)することである。
 進捗は、320ページほど。習慣目標に到達できていない。というか、習慣目標といいつつ、平日は何もできていない。いっそ、今のうちに、400ページぐらいまで進めようか。80ページ。1ページ2分くらいとすると、160分。約3時間。今、19時だから、22時までかかる。うわ……厳しいな……。

(ブログなんて書いてる場合じゃない)



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今日の一言「分かりやすい表現を心がけましょう」「回りくどい表現は思考の迷い」

お金と時間と仕事と節約

 いやぁ、今週も疲れたね。忙しかった。
 疲れたとか、忙しいとか、相対概念(対概念)じゃん? それを発することで、聴いた人にどんな反応を期待するの?

「大変だったね~。お疲れ様ー」「無理しないでね」「身体が一番大事だよ!」

 と言ってもらいたいのかというと、そういう分けではない。重要なのは、自己認識である。自分で自分の状態を理解する、客観的に判断するというために、行為である。
 自己を客観視? なにそれ? そんなこと可能なの? という哲学的命題はわきにおいておこう。

 コメントを沢山頂き、返信したいものの、そもそも、今週は21時前に帰れた日がなかった気がする。一日3時間の残業とすると、今検討されている上限の60時間にちょうどいくかどうか、といったところだろう。
 逆に、言えば、まぁ多くの会社はそれぐらいが普通なのだ、ということなのかもしれない。もっと残業が常態化しているところもあることだろう。


 ……と、この上の記事は、一体何を言いたいのだろう。何というか、分かりやすい文章なんてクソクラエ、じゃないが、仕事でも文章を取り扱うことが多いため、もう好き勝手書くことで、心を落ち着けたいのかもしれない。


 そう、そもそも、日記というものは、他者に見せることを前提としていない。あくまで、自分との対話、である。ブログ、となると、不特定多数の他者が想定されることになる。やはりブログは、「何か伝えたいこと」がなければ、「良いブログ」とは言えないのだろう。

資産運用と株

 株の取り引きをやってみようかという気持ちが、今のところは強まっている。
 確定拠出年金についても学んできた。節税効果を考えると、メリットはありそうである。問題は、60歳まで働き続けるか、60歳まで一切引き落としができなくても構わないのか、という点にありそうだ。

 そうなってくると、「価値観」とか人生プランというのに課題が格上げされるので、いまいち、決断と行動までに繋がっていない。

 それであれば、100万~300万程度の額から株でも遊びでやるという程度の気持ちでやる方が、よほど暇つぶしにはなりそうだ。
(確定拠出年金は、年額14万4千円となり、満期まで残り30年程度のため、432万円あればよい。その場合、節税効果は47万8千円となる。後は、元本保証型投資にするか、株にするかインデックスにするかで、損益がどれだけ発生するかによる。)


 今、暇つぶし、という言葉が出たが、そもそも、暇などないのではなかったか?
 そう、仕事が忙しくて暇がないのである。が、忙しいとはなんだ? 本当に、生産性をあげて、無駄な時間をカットして、人に任せて、断って減らして、などなど、対策をすればもっと時間をつくれるのではないか?

 忙しいという漢字は、心をうしなうと書くなどと、もう耳にタコができるような表現があるけれども、これは言い当てているなぁと思う。自分の中で、心で、忙しいなぁと、余裕が無いなぁと思うから、そういう言葉が発せられるのだ。

時間の効率化

 時間の効率化のための秘訣は、今費やしている時間のことを考えるよりも、まずは、「何に時間を費やすべきか」を考えることにある。

 整理整頓も、節約も、全く同じ原理だが、成功させるポイントは、「減らす」ということよりも、「何に使うか」を明確にすることである。

 整理整頓は、いるものがはっきりすれば、自ずといらないものが明確になる。要らないものであれば、捨てることも容易である。整理されて必要なものが絞られれば、整頓(カテゴライズ、並べ替えなど、使いやすいようにすること)も容易になる。

 お金の節約もそうだ。節約グッズとか、セミナーに参加するとか、節約のためにお金を使っては本末転倒である(一度や二度ぐらいならよいだろうが)。大事なのは、自分は、何にお金を使いたいのか、ということである。


 ではその、お金と、時間という、100人に聞けば、100人が「大事だ」というものについて、何に使用するのか明確にするのは、何だろうか?

 価値観だ。

価値観とは?

 価値観とは何か、先日図をかいてみたので復習してみよう。




 信仰と、論理的納得というキーワードが出てきた。今回、これについては特段触れないが、実感という、信仰と論理的納得を包括する概念は思い出してみよう。

 自分は、何があったら嫌なのか、何をしたら嬉しいのか、誰となら一緒にいたいのか、どういう人は倦厭するのか、自分の感覚、気持ちを思い起こしてみよう。

 そのときどきの条件や、状態によって自分の中に生じる判断のようなものが、価値観の正体である。

創作は力なり

 それで、多分、僕は、きっと……と、歯切れが悪いが、何か創ることが好きなんだと思う。
 先日、あるアマチュアの人のつくった曲を聴いて、あー、すごい良いなと思って、僕もまた作曲をしたくなった。

 よく僕の中で生じる悪い癖は、オンラインゲーム症候群と勝手に読んでいるやつで、つまりすごい人(ハイジンさんたち)が多すぎると、やる気が損なわれていくのである。けれども、いくら拙いものでも、誰からもみてもらえなくても、それでも、何か創り出すという、その行為自体がとっても大事なんだって、そう思う。
(自己満足だとか、もっと時間の有効活用しなとか、リアルな交友関係を広げなとか、批判はたくさん可能だが)

 といったところで、今回の記事は終わり。最近予約投稿ばかりであるが、平日に書けないから仕方がない。ただ、暇な帰り道に自分の記事を読むのは何かよい。自分の記事だから、その時の気分によって合わなかったりもするけれども、それでも何らか興味がある話題だったりするから面白いし、数日間でも経過してしまうと、もはや書いているときの気分が殆ど分からないので、ほぼ他人の記事みたいである。そうすると、「あー分かる分かる! あはは、こんな奴もいるんだな~」みたいな疑似共感体験みたいな状態になるのだ! やばい、こんなこと書いていて、かなり危険な奴な気がしてきたぞ! しかし、このブログは100%裏表の無い関ペきな自己表現であるべきだ! でなければ意味がない、取り繕った言葉なんてフツーのブログでやってろ! バーカバーカ!

 そして、上のような変態的なことを書いていて思いだすのは、先日頂いたコメントの中の、主観と客観に関連するものである。
 今、「100%裏表無い自己」という表現を使ったが、果たして、そんなこと「事実として」できているのか、いやそんなこと可能なのか? という問いが発生する。

アイデンティティとエポケー

 まず一つ。俺は、俺のことを、100%理解できているのか?
 二つ。文章表現の限界という問題は置いておいて、100%語る俺自身の言葉について、他者がそれを100%理解できるのか? という理解可能性の問題。

 結論は、まぁ無理だろう、となる。

 ただ、ここで、無理だからといって、取り繕ったり、自己を飾って理想的なものを演じる、というのは、断じて拒絶する。
 その理由は今後書いてみよう。いや、簡単に今書いてしまえば、自己同一性の崩壊につながるからだ。自己(自我)が欲求する自分自身について、理性(超自我)によるコントロールが強くなればなるほど、「俺じゃない感」「ここじゃない感」が強まってしまうのである。それはよくない。神経症や精神病になる可能性がある。

 だから、大事なのは、「100%の俺自身だぜ」と自分自身で思うそのレベルを維持するということである。そして、やや強引に関連付けて長期記憶にしようと画策すれば、これが「現象学」的な考え方だ。
 つまり、100%の自分(=客観)、なんてものは存在しないが(というよりも、だからこそ「エポケー」(判断停止)をして)、100%の自分という認識を成り立たせている条件を考え、感じることである(=本質直観)。


 キリッ!(決まったぜ!) みたいに、書いたところで、これも僕の悪い癖だけれども、「いやいや、難しい哲学的概念を自分の思考体系と結び付けられて、それが何だっての? 何に役に立ったの? 何となく気分よかったってだけ?」と思うのだけれども、いや、その思うのは「実感」だから無視はできないけれども、一つ、無理やりだけど意味を書いてみよう。
 そうさな……ええと、そうやって、誰かが考えた思考体系(哲学)と同じである、と主張することによって、より多くの人への共感可能性(≒理解可能性)に繋げることができる。それによって、もっと、深い思考になったり、本当に役に立つ方針や方策や行動に結び付く可能性だってあることだろう。たぶん。

近況メモ

 ここからは消化試合みたいな感じ。

◇ルーチンについて。

 ルーチンは、何回か中断してしまっている。しかし、これは、自分自身を褒めてあげたいというか、今までの失敗をよく反映できていると感心したことだが、

「免除規定」

 これは、非常に有用であった。
 言い換えると、「言い訳」なのだけれども、実際問題、日課ができない日があっても、免除規定に合致していれば、「継続」が認められるのである。そうなると、モチベーションが維持できる。これは習慣づけが中々上手くできなくて困っている人にもお勧めできそうだ。

 120日を超え、約4か月というわけである。おー、あっというまだなぁ。地味に、ブログにカウントアップツールを加えたのも良かったかもしれない。PC版でないと表示されないけど。

◇けもフレについて。

 けものフレンズ観て、ちょっとこれ、面白かった。ニコニコ動画では1話しかみれないけれど。
 ある精神科医さんもオススメしていたから気になっていたら、他の方のブログ読んでいて、やっぱり「けもふれ」の話題がでていて、最初つまんねーと思ったけど、何だか底知れない面白さが見えてきた、みたいな感想が書かれていて、より一層気になり始めたのである。

 うん、それで、いいね、なんか、絵柄はそんなに好みでもないけれども、紙飛行機を作って敵の目をそらして危機を救った、かばんちゃんに対して、
「すごーい!」
 を連発してたサーバルちゃんが良かった。
「へーきへーき! フレンズによって得意なこと違うから」なんてのも、何かいいなぁ。


(でも心疲れた僕(かっこ笑い)がこれを面白いと思うのは仕方がないとして、この作品がめちゃヒットしているというのは、大丈夫ですか皆さん、お疲れではないですか?)

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今日の一言「ルサンチマンの活用を考える」「奴隷道徳乙」
※本記事はネガティブモードであり、ポジティブ至上主義の方には精神異常を引き起こす危険があるため、これより先には進まないでください。

頑張ることへの批判

 疲れた。

 MPというのは、ドラクエとかゲームにおける能力値の一つであり、マジックパワーという、魔法を使うための数値である。より強大な魔法になると、一回当たりの使用量が多くなっていく。

 しかし現実世界に生きる僕らも、MPをもっている。それは、精神力――メンタルポイントである。
 でも僕たちは、魔法を使うことはできない。では、どのようなときにメンタルポイントを消費するのか。それは、自らの行動規制を行ったとき、換言すれば、理性に従ったときである。

 理性というのは、フロイトの学説によれば、スーパーエゴということで、本能的なイドを制御する働きがある。その理性というのは、「こうすべきだ」「こうしてはならない」という、内なる道徳法則である。
 教育というのは、大人になるというのは、この「理性」を学んでいく過程と言える。その理性は、育ってきた環境や、現環境において大きく異なっていくのである。

 そのうち大人になっていった僕らは、本能的なもの(もしくは自己的なもの)と、理性との違いが分からなくなっていく。これは、日々の生活の中に落ち着いていく、と言い換えることもできるし、決して悪いことではない。

 ただし、理性と、本能との乖離が大きい場合、知らず知らずのうちに、MP(メンタルポイント)が大量に消費されているのだ。

突発性の鬱と慢性的な鬱状態について

 鬱、についても、内因性の鬱と、心因性の鬱にまず分けられる。
 内因性の鬱というのは、脳機能など、身体的機能障害による鬱状態を指す。
 心因性の鬱というのは、ある事象によって、心が影響を受けることによって発症する鬱である。例えば、失恋やリストラや結婚や出産など、一般に良いこと悪いことにかかわりなく、ある事象(環境変化)が与える心への影響が原因である。

 その心因性のうつ状態は、突然の事象により発症する場合もあれば、「生きがい」を失ったことで、徐々に症状が重くなっていく場合もあるだろう。
 後者の、慢性的な鬱状態を引き起こす原因の一つが、MP(メンタルポイント)の消費である。

 例えば、失恋したとする。周りの人たちは、慰めてくれるだろう。それをもって、「そうだ、いつまでも一人の男にこだわっているなんて、もったいない。すぐに、新しい恋を探そう!」と思うことだろう。ところが、それが、「本能」的なものであるのか、実は、そうあるべきだという「理性」的なものであるのか、自分自身で理解し感じるのは、いささかそのタイミングにおいては難しいのである。

 真面目な人ほど、明るい人ほど、突然鬱になる場合があるという。これは、理性的な傾向が強い場合、「こうした方がいい」という「答え」が、よく分かってしまうが故に、しばしば、自分の感情を蔑ろにするからである。


 やりたいことを見つけられない人たちへ。

 みたいな、ブログとか、動画とかをみた。「まずは何かにチャレンジしてみる!」とか、「やりたいことがないなら勉強して学歴を磨くべきだ」とか、「生きる意味なんて考えるなんてロクなことがないぜ」とか、そういった言説であった。
 で、まぁそういったことに、「そうだそうだ!」と賛同する人が多いようである。
 なるほど、僕も、そう思う。どうせいずれみんな死ぬのだ、精一杯、価値を高める行動をしていくべきだ! とね。

 ところが、その言葉、「思いっきり頑張ってやろうぜ!」とか、そんな(似非)ポジティブな言葉。
 ほんとーのほんとーに、君は、そう、思っているの?

やる気が無い奴は帰れ!

 部活とかやってると、こんなことをコーチに言われた人もいるだろう。
 で、それで、本当に帰る人はそんなにいない。
「なんで契約取れなかったんだ?」「努力が……足りなかったからです」「そうだな、頑張れ!」みたいな変形パターンもあるだろう。
 つまり、マウントポジション(優位)の状態で、「あるべき」を振りかざすことで、さも、本心から思わせるような風にして、自分の口で、「あるべき」を語らせるのである。

 そういうことばっかり押し付ける会社なり、友人関係なり、恋人関係なり、家族なり、そういった集団とか関係というのは、まっぴらごめんである。俺はそんな同調圧力が蔓延した関係であれば、むしろ口をつぐんで孤独でいた方がよほどマシだと思う。

 いやいや、君、それは違うよ? そうやって自分を押し殺したコミュニケーションになるのは、君自身が心を開放していないからだよ?

 とか、こう、僕が書いてきたことに対して、批判をするのは良いのである。それはそれで、独善を回避する重要な関係性である。そうではなくて、自分の価値観考え方信念生き方信仰が、絶対的に普遍的に正しいと、そう思っている人たち。そういう人たちとは、可能な限り関係をもちたくないものである。

 いや実は、本当の「エリート」は、弱者や凡人たちに、さも、「君たちのためだよ」とか「自分自身で考えたこととして」とか、「自分の力で」とか、そういった主体性すら与えつつ、必要な方向へコントロールするのである。それは巧みに「感情」をもコントロールした上で調整されるために、それを暴くことは甚だ困難である。いやむしろ、その統治するエリートたち自身も、そうした「支配する」感情を排している場合もあるから、より複雑怪奇である。

本気で休むことの勧め

 疲れた。

 もう終わりにしよう。眠い。

 本当は、こんなこと書く気じゃあなかったんだけどなぁ。

来週のアニメを見るまでは死ぬな!

 的なことを書かれていた、ある精神科医さんの記事が面白かったので、それについて思ったことでも書こうと思ったけれど、いつの間にか苛々に心が支配されてしまってこんなん記事になっちまった。

 いやぁ、その落ち込むことというか、嫌なことあったんだよな。
 それをどう対処したらいんかね。まぁ、その、対処しようがないんだよな。自分の力じゃどうしようもないことってあるんだよね。そのうえで、どうすべきかを考えていく必要はあるのだけれど、でもそれって、頑張れば頑張る程MPの消費が激しいんだよな。

 でもこのMPって、視認できないから、残りが自分じゃよく分からない。だから、よく「休む」ことが重要なのだ。

 風邪の時もそう。鬱の時もそう。休息というのは、非常に重要なことだ。
 創作活動をしているときもそう。何か煮詰まってしまったら、休むことが必要だ。

 しかし、この、休むって、どうやったらえんやろう。
 身体を休めるというのは、横になっていればいいかもしれない。でも、精神を休めるには、どうしたらいいのだ?

心の休め方

 まぁ探してみても、そんなすぐ役に立つ情報は手に入らない。上の記事は、まぁ間違ってないだろうが、結局、「自分のこれまでの経験から、心休まる方法を思い出してみましょう」的な感じである。結局自助努力だ。まぁそういうことだ。結局、「良く生きるためには、良く生きることを知らねばならない」(エ・ンドウ著『生きる意味を徹底して考える』P.★引用)ということである。

(疲れた、というか、苛々、というか、何だか「めんどくせぇ」って感じだ)

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今日の一言「何だか二日間ぐらい調子が良くないな」「失言か、頑張ろうという思いが原因なのでは?」

何とも憂鬱である

 不愉快な感覚が、どうにも続いている。
 体調が悪いわけでもない。何か、特段、イベント(事象)が発生したわけでもない。

 ただ、得体のしれない苛立ちが身体の周りを浮遊しているようだ。

 何故だ? 何があった? 俺は誰だ? 俺は何を求める?


 これは、この感覚は、「生きる意味は何ぞや」とか、随分ユートピア的なことをのたまっているときには、発生していない状況である。これは、今までにあった感覚・感情なのか、それとも、上手く表現できなかっただけなのか。

 分からない、ただ、あまり、良い状態ではなさそうである。この状況のときに、どう対応すればよいか、よく分からない。風呂か? ごはんか? ううむ、生理的な原因ではないのかもしれない。

書くことが分からなくなる

 読む、ことの方が楽だなぁ。書くの、疲れる、アウトプットするの、疲れる。疲れるとか嫌だとか面倒だとか、そういうマイナス言語使うと、脳のパフォーマンスを下げるからよくない。
 でも、疲れるもんは疲れるんだ。休む時は休むんだ。そのバランスである。バランス……随分テキトーなものいいである。

 精神医学において、精神療法と薬物療法とがある。どちらが重要かとか、そういう問題じゃない。鬱がひどくなって今にも自殺しそうな人に、薬の処方が必要な時もある。しかし、今まさに生きる意味を失って自殺しようとしている人へ、生きる意味を見つけるための療養が必要なときもある。

 書きたいことは、結構、あったはずなのに、どんどん抜け落ちていく。そして、今、ここで、アウトプットしようとしたとき、何も浮かばない。この哀しさ……、自分というモノが、抜け落ちていくような感覚。

 目のメタファー。正常な目の機能は、目、それ自体を見ない。異常になると、目、それ自体が見えるようになる、それは、まともな視野を保てないだろう。
 自己、も同様であるという。正常な自己は、自己自身を見ない。自己距離化、自己超越化されている。

 何か結節点、書くことの、そのきっかけ、契機。

 それが、抜け落ちていく。

 以外に早く帰ってきたと思ったら、既に23時を過ぎている。3時間ぐらいは、身体の重さで何もできなかった。寒かったのだ。部屋が、寒かった。

 あーその、なんだ、ダメだ。書けない。

お金の話

 家計の見直しをしてみると、スマホ代が高いことに気づく。データ容量的に、それほど使っていない。1か月1.5GBぐらいである。の、わりに、定額プランに入っている。よし、1GB制限に変えてみよう。それで1000円ぐらいは安くなる想定。現在7000円~8000円である。
 余計な通信をしない、とすれば、ダラダラとネットをみるようなこともなくなると思う。時間と、お金の節約だ。

 電気代は、好き放題に使って4000円~5000円ぐらい。水道代は2か月で3000円ぐらい。ガス代が3000円~4000円ぐらい。ネットが、5000円ぐらい。

 そうすると、インフラで2万3000円ぐらいになっていることになる。
 うーむ。高いな。減らそう。

 物も、もっと減らそう。書類は大分減ってきた。今年は整理の年だ。物も、お金も、思考も、全般的に、クリアにしていく。
 そういや、大学の同窓会みたいな通知がきた。出会い(職業・異性)とか求めるなら、行った方がいーんだろうな。
 気乗り、しないな。

 何だか最近、先輩からの飲み会の誘いとかも断っている気がする。付き合い悪いとか思われてきたかな、さすがに。まぁ仕事が嘘じゃなくて忙しいってのもあるのだけれど、実際外の部署にいると分からないからな。

 趣味のサークル的な奴(異性的なのは無い)も、先日は行ってきたけれども、何だか、気乗りがしていなかった。何故だ、まぁ、行ったらそれはそれで楽しかったけれど。

 投資のセミナーにも参加してきた。一つ二つ、やってみようかな、というのがあった。けれども、気乗りがしない。

気乗り

 あー、なるほど、これ、多分、あれだ、その、鬱モードだ。
 よくあるやつだ。躁鬱を繰り返すのである。それほど最近「躁」な気はしていなかったけれども、そうだったのだろう。

 この状態になると、これまで続けられている、ルーチン作業、筋トレ、ストレッチ、音読なども、何だかめんどーになってくるのである。そして、一日、二日とやめてしまい、そのまま、ずーっと頽落堕落に陥っていくのである。

 ここはまた、しばらく、ルーチンを維持することに意識を集中しよう。新しいこと、ヤメ。人と関わること、ヤメ。
 無理しない。ここは、体力、精神を温存する。
 いつも、この状態で、逆に「焦って」しまい、ますます鬱状態がひどくなっていくのである。そろそろ、自分の心身について、理解と実践をちゃんとさせたいものだ。

 気乗りしない、というか、何だか、苛々めいた感覚なので、ちょっといつもと違うのかもしれないが。
 む……鼻水が、これは、風邪気味なのかもしれない。やっぱり、睡眠不足は良くないのだろう。寝るか、しかし、昼寝して、変な時間に目が覚めてしまった。

こんな生活感まんさいの記事意味あるの?

 まぁ、他者にとって、意味はないだろう。別にお前がどうなろうがしったこっちゃない、と。

 けれども、とあるリンク先の友人(※)のブログにおいて、ウォーキングしたとか、寝過ごして失敗したとか、何だかやる気でねーなぁとか、そんなの読んでると、ああ、あの方でもそんなこともあるんだなぁ、そんな風に感じることもあるんだなぁ、と思って、ちょっと面白かったり、やる気になったりするから、あながち、生活感的な記事が完全無駄、ではないと思うのだ。
 これが、多分、FBとかツイッターとかだったら、うぜぇ、ってなるのかもしれない。その辺、よく分からないし、やろうとも思わない。というか、そう、ツイッターなんだが、そんなに呟きたいと思うことがない。いやお前、こんな長い愚痴とか書いとるやん、というのはその通りだけど、短い言葉で「疲れたー」とか、「ねむひ」とか書いて、それ、何? みたいな。これ、あまり公に書けないけれども、と言いつつ苛々のせいか、書いてしまうのだが、今とあるアカウントでやっているツイッターで、宣伝とか、そういった中身のない呟きが多すぎて、どうにもあまり、使う気になれない。正直無駄な情報が多い。俺の使い方が悪いのかもしれないが、例えば、世界の綺麗な風景BOTとか、創作に必要なネタBOTとか、定期的に面白い情報を投下してくれるものを読むのは良いのだけれども、同じ作品の宣伝を、何度も何度も繰り返したり、文脈が無いと分からないようなつぶやきだとか、先述の中身のないつぶやきだとかが多くて、辟易である。
(いや、最近ツイッター始められた某方のことは全く意図していない。サイト更新しました! とか通知は良いのだ、逆に嬉しいものである)


※友人、と書くと、おこがましいのだろうか? 友人……と言っていいのだろうか? 相手からはそんな風に思われてないのではないだろうか? そんな思いが即座にはしる。ただ、友人って、何なんだろう。会社で知り合って、趣味の活動を一緒に休日にする人もいるけれども、会社で知り合った人は友人とは言ってはいけないのだろうか? 年齢が違うと、先輩後輩、になって、友人ではない? ネットで知り合った人は友人ではない?
 なんだろ、俺は正直、どうでもいいと思う。他者との関係に対して、知り合いだとか、友人だとか、親友だとか、知己だとか、そんなレッテル貼ることに意味を感じない。とはいえ、その、関係の社会学的な、どこからが友人という状態になるのか、それが社会状況や、年齢コーホートや、文化価値などに左右されるのだろうか、という研究をやってみようと思ったことはある。先行研究が少なすぎてやめた。という、誰もやらないというのは、やっぱり、どうでもいいことなんだろう。

小見出しが超えてるよ!

 これが6つ目か。ただ、この記事は複数日の「つぶやき」のまとめなので、まぁ許してもらいましょう(自分ルールに対して)。

 ふむ……しかし、若干、書く前よりは、気分が落ち着いてきたような、そんな気もする。
 やっぱり、最近、何を書くかとか、構成とか考え始めちゃったのが、ストレスになっていたのかもしれない。

 2016年の4月~6月ぐらいは、もうほんと脈絡なければ、テキトウ感まんさいである。いや今もそうだけれども、もっとひどかった。この「苛々対処」記事カテゴリは、ほんとチラシ裏みたいな感じだ。というか、このチラシ裏って、何だろ、チラシの裏って普通印刷されていて、あんまり後ろが白紙のチラシってみたことないんだけど。ってこう、どうでもいいことを書いているのである。

 そうさなぁ、今日はもう時間切れだけど、またしばらく、無茶苦茶感情の吐露的なの書いてもいいかもしれない。それを公開するかどうかはおいておいて……いや、公開しないなら書かなくていい。公開できない感情ってなんだよ。素直になるんだろ? 率直に生きるんだろ? 自分を隠して生きるのはもう沢山なんだろ?

 おーいい問いかけじゃないか。好きだよ、そういうの。ちょっとまた、書く気が発生してきた。そうだな、問いかけ、大事だな。先日も、コメントを頂いて、落ち込んだりもしたけれど、私、元気です。

(魔女の宅急便風に)


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