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離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
カテゴリー「イライラ対処」の記事一覧
今日の一言「良い人間になりたいと誰もが思うはずなのに、気づいたら悪いことをなしている」「誰かを喜ばせることをしたいけれども、その誰かも、それが何かも分からない」




 I do. 好きな曲の一つ。

 近況。
 新しい本や漫画を買ったり。飲み会の予定を入れたり。
 仕事、帰宅時間、遅い。

 まー、どこの会社もこんなもんかもしれん。忙しいのう忙しいのう。

 あー、ついつい、自分の考えとかを語ってしまうことをやってしまっている。あんまり良い傾向じゃない気がする。
 しかし、本来。人は、自分の心に正直であるべきだ。マナーというのは、社交辞令というのは、自分の心に嘘をつくということではない。言語を使わなければコミュニケーションをとれないのと同じ程度の、共通様式である。

 とかって、そんなどーでもいいわな。取り敢えずビール飲んで、アニメ見て寝る、とかでえーんじゃないか。
「RE:クリエイター」って、アマゾンプライムで何話か見たけれど、まぁまぁ面白い。いやふつーに面白いでいーんじゃないかよ、と思うのだけれど、実際、ゲームとかアニメのキャラが現実世界に現界して、なんやかんやを繰り広げるとか、設定的に面白いと思うし、作画動画としてもきれいでいいと思うのだけれども、なーんか、びびっとこないんだよな。

 多分。作品自体がどうこうではなく、今の気分にあっていないんだろうと思う。これ大事。

 しかし、ふと、過去の自分の作品を読んでみるが、ひじょーに面白くない。最後まで読もうとすら思えない。これは、読んでくださった少ない方々に非常に申し訳ないと思う(作者が自分の作品を面白いと思えないなんて悲劇じゃなかろうか)のだけれども、仕方がない、嘘を思っても仕方がない。

 そんなことぐだぐだ書いても仕方がなかろうと、とにかく面白い1シーンを書こうと、ワードファイルに向かう。

 ……。
 300字ぐらい書く。うーむ、何だか気分が乗らない。

 仕方がない、それじゃあ、面白い作品に触れてみよう。
 ……。うーむ……。

 幻想ギネコクラシーが届く。

 読む。うーむ、面白い。遠藤浩輝先生と似ているような似ていないような、なんかエログロナンセンスな雰囲気を感じさせる。しかし、心に刺さってこない。

もはや二次元を飛び出すべきか

 まーそもそも、22時過ぎに帰ってきて、風呂入ってなんなりしていると簡単に日付変更になるので、平日に何かクリエイティブなことを、または、消費を愉しむってことは難しいのかもしれない。

 何か書くにしても、気分がのってきた段階で、寝る時間で中断せなあかん場合もあるし。

 株の勉強もしたい、が、いやー帰ってきてからやる気が起きない申し訳ない、師匠。
 じゃあ電車の中はどうか、と思うが、有価証券報告書とか、僕の小さなスマホで見るのは完全に酔ってしまうだろう。エクセルとか使わないとちゃんと分析できないだろうし。

 じゃあ、早く帰ればいいじゃん。……おお、それは確かに。

 ただ、まぁ、そうその……うまくいかないよな。
 じゃあ朝早く行けば、何か解決するかっていうと、そうじゃないし。
 何だか、上手く、いかないし。

そして次の日

 上まで書いてつまらなくてやめた。
 俺は思うに、人の役に立つことが大事だと思う。
 人は、多くの人との関係の中で生きている。こんなことは、小学生でも学び考えることではあるが、しかし、大人になるにつれてますますこの社会の、人との関係の、世界の複雑さに頭を悩ますようになっていく。

 複雑性。

 地獄少女というアニメを数話だけ、飛ばし飛ばしでみた。なるほど、シンプルなストーリーで分かりやすくてオムニバスでいい感じだ。が、正直な感想は、面白くなかった、となる。

 恨みの晴らし方も何だか、すっきりしない。人を呪えば穴二つということで、自分も死後地獄に堕ちることが約束される。伝えたいことがよく分からない。啓蒙にもならないし、すっきりもできないとは、中途半端に思う。が、続編が続々決まっているらしい。人気はあるんだなぁ。

 遠藤浩輝氏の短編集に掲載されている、ある死刑囚の物語。何人の女性も強姦して殺している凶悪犯に、命からがら助かった被害者女性が、罪の意識は感じる? と問う。凶悪犯は、あー、まったく分からんわ。いっぺんピストル使って人殺してみたかったわー、とか言っちゃう。それぐらいキまってた奴の方が面白い(この表現は如何か)。

 地獄少女の敵役(悪者)は、なんか、単に人間の邪悪な部分の表出でしかない。若い男と不倫する女が近所の奥さんに罪を擦り付けて、いじめるとか。花形高校野球ピッチャーが、気まぐれで部員をバットで殴って死なせちゃうが、他の部員に罪を擦り付けるとか。
 なんというか、「現世の楽しさ」を思い、欣うという理由での「罪」(恨み)である。
 そこに、信念も執着も何もない。ただの軽率な行為。敵役としてもあまりにもお粗末。が、まぁそれって人間っぽいなとか思うけれども、面白い作品かと言われたらつまんねーっとなる。

 むちゃくちゃ、「悪」って物語に大事だと思う。
 悪が魅力的じゃない物語は面白くない。
 だが、僕がここでいう「悪」とは、正義の反対などではない。むしろ、悪は悪としての「正義」なのだ。

 悪の正義とか、矛盾だろうか。そうではない。正義とは、その信念の論理的な構築なのである。

 先日、ある方からお話し頂いたのは、政治的意見や良心ってのは、ちゃんと話し合えばみんな納得できるのだから、自らの利益を追求して政治誘導するような輩ばかりじゃないということである。
 なるほどきっとそうだ。本当に、個人的な利益のために政治家になろうとする人は少ないに違いない。
 僕が違和感を覚えるのは、その部分ではなくて、その政治家たちの目指すカタチ(正義)というのが、普遍的なものには成り難いという点である。本当に突き抜けた正義を主張するとき、例えば、「真面目に働くことが大事だ! 一億がんばれ社会!」とかいうのは、ある意味で正義だけれども、その価値観に反する弱者というのは必ず存在するということを忘れてしまう可能性がある。

 ので、別に、個人的な利益誘導のための政治というのが、必ず悪いということではない。(馬鹿らしいことで敢えて言わないつもりだったが、政治資金横領とか、そういうレベルの話をしているのではない) その個人的に「正しい」「良いことだ」と思うことを突き抜けて主張することは、それに賛同する人にとっては、とても英雄的にうつることだろう。

 英雄と言えばナポレオン。フランス市民から熱狂的に支持される。しかし彼に踏みにじられたエジプト、オーストリア・ロシアはいかんと思うことか。

良い人間になりたい

 正しい人になりたい。誰かの役に立つ人間になりたい。良い人間になりたい、と、その考えに反対する人は少ないだろう。

 自らの欲望に忠実で、周りを顧みず疎まれて生きることを望む人は少ないだろう。いまや、多くの物語にあふれる社会である。いわゆる「迷惑な人」、悪という存在に対しての認識形成は幅広く機会に恵まれていると言える。

 そんな当たり前のことを僕はいつも問題にしているわけではない。

 僕が疑問で、常に考え続けなければならなくなるのは、その「良い人」という存在についてである。

 その「良い」という概念自体が、相対的なものである。ある人にとって良い人は、ある人にとって迷惑であるということは、よくよくあることだ。そんなことない、誰からも愛される人はいる! と主張する人はそれでよい。幸せな人である。うらやましいが、だが、そういう人間性豊かな人と関わっている暇は僕にはない。

 僕は正義を愛し、幸せを希い、正しく良い人間であることを望む。――同時に、それらの価値観の無価値性に驚愕する。そして、自分自身の「空っぽ感」に戦慄する。


 迸る熱い信念や情熱をもった人間であれば、どんだけよかったか。
 そしたら、きっとたくさん、らくに、楽しく、物語をつむいでいけたような気がする。

 空っぽ感。

 実存的空虚感とある精神科医さんは言うが、僕自身の、存在に関する根拠、目的、理由、レーゾンデートル……、それを、簡単な言葉で僕は生きる意味と表現しているが、だれが何と言っても、やっぱり僕は、そいつがないと、この先ずっと苦しみ続ける気がする。

仕事が忙しい、プライベートが忙しい

 忙しい、いやなことがある、そんな状態が続くと、どうにも、精神的にすり減ってくるわけであるが、そのときに、何か大きな目標とか、「たのしいこと」ってのがあれば、きっと人は生きていけるんだと思う。

 ライブに行くのが好きな人は、好きなアーティストのライブに、それが北海道から九州まで、どこにでもどんなに忙しくても高価でも飛んでいく。そして、狂ったように声を上げ身体をたぎらせ、そして終わった後は死んだように倒れこむ。

 その人からライブという趣味をとったら、お金や時間は非常に多く生み出されるだろう。その時間とお金によって、新しい資格をとって給料アップしたり、友人や家族との時間を有意義に過ごせるかもしれない。

 だが、その人にとって、その選択肢は、死んだも同然なのである。



 ある人はパチンコかもしれない。パチンコは僕は嫌いだが、なので、まぁ、パチンコ屋を全部廃止するのはかわいそうな気もする……が、やっぱりなくなっていいと思う(笑)。煙草も好きではない。

 けどまぁ、そういうのは仕方がないとも思う。俺が嫌いでも、好きな人にとっては好きなのだから、それがないと生きていけないのだとしたら、仕方がないだろう。

 そういうのもあるから、大上段の正義ってのが、本当にいつも正しいかってのも疑問だけど。
 煙草は健康に悪いから、みんな禁煙しましょう! といったって、煙草をつくる会社に勤める人だって、家族はいるかもしれない。子どもは学校で、「お前のとうちゃん、ひとの体を害するものつくってんだってな! やーい人殺しの息子~!」とかいじめられるかもしれない。

 まぁそれとは別に、その、小さな子たちには、できるだけそういう意識をもたせて、今後タバコ人口が減っていくのが良いような気がするが。

 じゃあ酒は? とか。

 ゲームは?



 なんでもかんでも、「健全なもの」ばっかり求めることが本当によいことなんだろうか?

人の残虐性は二次元のせいか?

 話がすげーどうでもいいというか、変わっていくが、表現の規制に関する政策については、僕は基本断固反対する。(政治的主張だ!)

 いや確かに、残虐だったり、エログロだったり、有害指定とされるようなものはあるかもしれない。
 でもそれって、結局、それを指定しようとするひとの主義主張……とか大したもんじゃなくて、単に生理的嫌悪だったりする。
 僕がタバコが嫌いだから今すぐ全部廃止しやがれ! とかパチンコ全部潰せ! とかいうようなもんである。

 なんの表現が有害か、なんて、どこの神様が決めれるの? ってのが反対理由の一つ。

 もう一つは、そもそも、二次元の作品ってもんが、人に与える影響ってなんだよ、ということである。
 いや殺人をとにかく肯定する作品があったとしよう。それは確かに生理的嫌悪だ、有害だ、気持ち悪いだろう。が、ちょっとまて、英雄譚とか、エスニッククレンジングみたいなこと平気でやってるぞ。戦争はいくない! とか言いながら、たいてい少年漫画では戦ってるぜ(人が死ぬのはまぁあんまないだろうが)。

 そいでもって、そういう作品みたから、じゃあ人を殺してみたいとか考えるようになる人が本当にいるのか? ってのが一つ。

 それって、作品のせいだけじゃなくて、他の原因も絶対大きいわけである。
 そして、遠藤浩輝氏の上で挙げた作品の凶悪犯のように、別に大した理由もなく快楽殺人を犯すような人だって存在するのである。サイコパスとかいるのである。そういうのが、作品のせいなのか? というと違うだろうと、僕は思う。

 ファラリスの雄牛という、古代ギリシアの拷問処刑器具のことを知ってる方は多いと思うが、古代ギリシアの時代は、テレビも無ければ漫画もアニメもなかったろう。にもかかわらず、あんな残虐な処刑方法を思いつく人もいるのである。
 はっはっは、じゃあお前、はいって試してみろ。ぎょ、御意にございます……って熱い! うああああやめてください、まさか本当に火をつけるなんてぎゃあああああ!! とか、ギャグか!! と。


(うーむ、何だか気がのらない。面白い物語欠乏症状が発症している。それは、面白い物語がないとか、手元にないとかいうよりかは、そういうのに触れる時間がない)



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今日の一言「途中まで書いてたの消えた」「眠れないから書こう」

近況メモ

 パソコンの調子が悪い。ASUSロゴから、フリーズ。F2またはDELキーでBIOSセットアップにうつれるが、キーも反応しない。
 友人からアドバイスをもらい、メモリの抜き差し(およびアルコール系で拭き清掃)を実施。だめ。8GB(DDR4)×2構成だが、×1にして起動。あ、動いた。
 原因は、メモリの可能性もある、が、8GB(DDR4)×2は、1万5千円ぐらい。マザーボード不具合の可能性もあるのであれば、メモリを試しで購入するというのはリスクが怖い。

 そんなこんなで、24時オーバー。
 何だか意識が朦朧とし、まとめ系サイトのサーフィンをしてしまった1時間半は虚しき哉。

 先日の、結果を出さなきゃだめだ、という記事は、あれは何だったのか。イライラして書いた、後悔はしていない……いや本当か?
 たまに、むしゃくしゃしながら書いた記事が、案外、あとから読んで(同じタイミングでむしゃくしゃしているときは)面白かったりするのだけれど、今は到底読みたいと思わない記事である。

 映画のロボジーを見た。結構面白かった。中盤のダレ感が気になって、飛ばしてみようかと思ったが、このダレダレの状態から、どうやって後半オチを付けるのだろうかと気になって、頑張って見続けた。なるほど、よい感じでまとめてきたな、といった感じだった。ヒロイン的な子が仲間になって一緒に研究をするようになってハッピーエンド、といったところから、結局同じ道を辿ることになってしまうという二段階オチにもなっていて、よかったと思った。

 とかって書いていたら、途中まで書いていた記事を操作ミスで消してしまった。これは、PC不具合とか関係なく、完全に僕のミスだけれど、ショックはショックだ。

 街中でトラブルに巻き込まれたり(かなり嫌な思いをした。が、まぁ後続の生活に影響するレベルではなかった)もするし、最近、ツキまわりがよくない気がする。

死んだ夢

 なんか、「生きる意味なんて、考える意味わかりませんけど? かっこワラ」とか仰る方は多い。

 けれども、僕に言わせたら、つらい人生、どうしてあなた方は、ちっぽけな「幸せ」的な奴で満足しつつ生きていられるのですか? といった感じである。これは傲慢な感情なのか?

 死刑執行前の気持ちは如何なるものだろう。先日、そんな感じの夢をみたと仰っていた方がいた。

 いやぁ相当悪夢だと思う。
 僕は、「死ぬ」夢をみたことがある。死ぬというか、「死んだ」夢だ。死者になった夢だ。意識だけはある、だが、死んでいるので、何もできない、何も見えない。何も感じられない。それでも、おぼろげな意識だけはある。自分が誰かも思い出せない、何もできない、身体の感覚も無い、それでも、意識だけはある。
 これ、僕が生きてきた中で、これ以上の悪夢はない。まだ、上司にいびられたり、恋人にふられたり、借金を背負ったりとか、そんな夢の方がましだ。それらのつらい出来事は、まだまだ救いがある。「死」という救いがある。
 死んだ夢には、救いがない。完璧な閉塞。完全なる絶望。

 僕は以前、「死は無であって欲しい」と書いた。この意味は、意識だけが残ってしまった場合、これほど恐ろしいことはないからだ。ネットで、10億年ボタン? とか、そんな動画だか記事だかがあったと思う。あれもものすごく怖い。

 概念的に、「意識の残った死」ほど怖いものはないと思う。

 ここ数年で、大切な人の死をまた経験したけれども、本当に、安らかに眠って、いやその眠りとは、決して夢などみないように、深いノンレム睡眠であって欲しいと思う(いやはや、ネットでちょっと調べたら、ノンレム睡眠中でも夢は見ているのだそうだ、それが覚醒したら思い出せないだけだということだそうだが、まったく、いろんな説があるものだなぁ)。

楽しいこと探そう

 ああ、もう、駄目だ駄目だ!
 最近うまい具合に生活がコントロールできていない(アンコントロール的な事象が多く起こっているせいだ)。

 人は、コントロール感によって、生きる実感を得ているという表現も聞いたことがある。
 自分の人生は、自分でコントロールできるということ、これが重要なことなのだ。そして、そのコントロールの範囲や多寡については、「お金」というものが大きくかかわってくる(人脈的なのもお金による! 社会関係資本! なんたることだ!)。
 ので、なんだか夢とか希望とか、目標とか目的とかない人でも、取り敢えずお金が欲しくなる、というのは、そのコントロール感を得たいからだと言える。それは、本能に近いものである。生きたいという脳神経細胞の本能と、知りたいという本能によってつくり出されているのだろう。


 うん、まぁその、コントロールできることも重要だが、取り敢えず、目下、今後、1か月でも、3か月でもいいから、この先々で、とっても面白いようなことが欲しい!

 31歳、32歳、33歳、34歳、35歳、36歳、37歳、38歳、39歳……と、30代というのはそれほど多くはない。

 なんか、35歳でも、40歳でもいいけれども、なんか希望的な、この歳になったらこんなことがある! 的な、楽しいイベントはなかろうか。

 入学、卒業、大学デビュー、車、マイホーム、結婚、子ども、まぁ、昔のライフイベント的なのはそんな感じだ。うーむ、どれも魅力がない。全然ない。

魅力のある生き方

 パソコンの調子が悪い。
 で、調べてみると、DELLのエイリアンウェアとか、見た目がかっこよい(ネーミングセンスは好みではないが……)。
 そもそも、グラフィックボードは、「黒い砂漠」という3Dゲームをサクサク遊ぶために、GeForce980tiという、当時10万近くした気がする高価な装置を購入したわけだけれども、それが壊れているわけではどうやらなさそうなので、グラボがついていない状態でBTO(カスタマイズ通販パソコン)で購入し、後付けするのもいいかもしれない。
 この際、自作を始めてみるのも楽しいかもしれない。

 いやいや、そもそも、ホームページの開発環境(PHP言語)や、小説書くだけだったら、サーフェスとか、もっとスマートなPCとかタブレット的な奴でもいいかもしれない。

 まぁそんなこと考えて、欲しいものを検討するというのは、ちょっと楽しい。


 そう、欲しいものを買う、ということが、あんまり僕はないのだ。
 物欲にまみれていなくてよいね、と言われるかもしれない。そんな気もする。だが、やっぱり、この資本主義社会というか、消費社会において、物を買うというのは、楽しいことであるべきなのだ。でなければ、楽しく社会を生きていけないのだ。欲しいものがあるから面倒でも働いて、お金を貯めて、買う。このサイクルが楽しい! って人は、別に「生きる意味」とかどうでもいいんだと思う。

 僕も、必要なものは買う。でもそれは、必要にせまられているから買うだけであって、買ったときにカタルシスはない。ただお金が減っただけ。生活が激変するわけでもなく、まぁ変わらない。最新機種や装置になったとしても、いまや、別に感動するほど機能や性能が増えるわけじゃあない。(980tiはもうほとんど主流ではなくなったが、最新のグラボにもそこそこ迫る性能ではある。もっとも、消費電力とかそのあたりの付加要素はいろいろあるわけだが)


 まぁ、ここしばらくは、パソコン買うのを検討することを楽しみに当座しのぐとしようかな。

 まぁ、しかし、買って結局何をするのか、というと、今と何も変わらないわけで、そういう意味だと、結局、「必要に迫られて買う」程度のことでしかない。



 あーなんか、欲しいものないかなぁ。
 得たいものでも、成し遂げたいことでも、もらいたい評価でもいい。

 なんかないかなぁ……。


 ってのは、ほんと、ダメ人間だと思う。そんなこと思うのって、ほんとひどい話だと思う。

 そう、そう思って、いつぞやか以前、「ダメ人間」カテゴリのブログ村登録をしようと思ったけれども、どうやら、一般に「ダメ」というのは、ギャンブル依存とか、なんか借金せおったとか、ニートとか、対人恐怖症とか、そういう系統でないと許されないらしい。

 ダメ人間にもなれず、意識高い系にもなれず、エリートにもなれず、俺はいったい何なんだ、となる。
 普通人間だ。
 そう、僕は、ごく普通の、一般大衆、衆生に向けて常に語りかけているのである!!

 と書くと、いやいや、お前そもそも、ちょっと変わってるねとか言われたりするだろう、と。
 やっぱり、普通なんかじゃあないんじゃないか、と。

 じゃあ一体なんなんだ、と。


 なんなんだ、というのは、これはこれで一つテーマではあるけれども、それより、目下緊急、喫緊の必要なことは、楽しいことってないかなぁってことである。

(ああ、もう、こんなこと考えてしまうことがそもそも嫌気が指す! なんか違う方向に梶切してから終わりたいが、もう眠い、終わり!)

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今日の一言「言葉だけの人間は信用されない」「言葉で表現できない場合は評価されない」

バランスよりもまずは根源

 結果にコミットしよう。
 むさくるしい、こんな、自己啓発的な冒頭は、僕の嫌いなところであるけれども、いつもどおり本音本心マックスファイアーでいこう。

・エロマンガ先生のアニメを少しだけ見たが、結構面白そう
・クレヨンしんちゃんのアマゾンオリジナル作品を見たが、エイリアンと戦う奴はいまいちだった(とはいえ結局ENDING気になって最後まで見てしまった)が、おもちゃウォーズは面白かった。なんというか、おもちゃ系に僕は弱いのかもしれない。涙がこぼれた。
・PCの調子がすこぶる悪い。先日、CMOS初期化(電池はずして付け直し)したらなおったと書いたが、結局またASUS(エイスースと読むらしい)のロゴでフリーズ。CMOS電池をはずすとまた動くけれども、毎回グラボのネジはずして、グラボはずして……とかやってられない。「CR2032」というマザーボード用の電池を交換してみる。これでしばらくよくなるといいのだが……。

 おっと、近況のメモはともかく、そう、結果が大事だ。

 なんというか、僕は、言葉を優先する……(思考で現象をとらえようとする)のだけれども、いや、それはまぁ今回の記事と直接的に関係しないが、結局のところ、何らかの「結果」がない場合、他者にはゼロとしかうつらない、ということだ。

 なるほど、あるコンサルタントの話しで、ある黒い会社で、手を止めて考えているような社員がいたら、「さぼるな! 働け!」と怒号が飛び交う会社があったという。いやはや、ライン仕事だったり、パンチャーの仕事じゃあないのだから、タイピングの指がとまって、画面とにらめっこする時間だって必要だろう。

 ただ、そんな極端なことはともかくとして、何らか、「かたち」に見えるようにならなければ、人は、人を、価値ある存在としてみなさないのである。



 いやいや、そんなことないよ! 生きているだけでみんな、価値があるんだ!


 なるほど、そういった標語は必要だろう。確かに、価値あることだけを絶対視するような社会システムは、遊びのないアクセルやブレーキペダルのようなもので、危険極まりないだろう。

 が、それは概念的な話であって、実際問題、「無価値な人間」という存在が、尊敬されたり、大事にされたりすることがあり得るだろうか?

 否。

 まず、この前提は認めるべきである。
 いやはやすぐさま、その「価値」とは何ぞや、という問いが浮かぶのであるが、それはここではわきに置いておこう。取り敢えず、「価値がある」ことは重要だ。

 さて、般若心経においては、「舎利子よ、よく聞きなさい。この世は、空(縁起)なのですから、生まれるでもなく、滅するでもなく、清いでもなく汚いでもなく、増えるでもなく減るでもないのですよ」と言われるが、まぁ、まちたまえ。

 美人と、ブスと、どちらがよいか?

 この二者択一は、美人、である。ここで、「性格の悪い美人」とか、「内面は美しいブス」とか、そんな形容は一切無視する。取り敢えず、美しいものと、汚いもの、どちらがいいのか? きれいなものだ、当たり前だ!

 その当たり前を、まず前提とおく勇気があるか、否か。

二進法ではない世界

 美人がいいし、イケメンがいいし、お金はある方がいいし、きれいなものがいいし、効率がよいほうがいい。

 そんな、当たり前だけど、みんな中々おおっぴらには言えないこと。それらを、まず根底としておくことが重要である。その前提がないと、言葉は、創造は、システムは、どうにもおかしなことになる。

 そのうえで。そうはいっても、「美人」といったって、人の好き好みは様々だとか、効率を重視して中間管理職を省いたら組織が停滞するとか、そういう積み重ねた議論がようやく生じるのである。

 だが、議論が積み重なればなるほど、その「根本的な価値観」がなおざりになっていく。

「お客様のためです!」「国民のためです!」

 営業とか、政治家とかは言う。それは本心かもしれない。が、その根本的な価値観は何だ? もうけたい、お金が欲しい、人から尊敬されたい、認められたい……結局、そんなマズローの五段階欲求……いやもっといえば、性欲食欲睡眠欲の三大欲求に還元されてしまうようなものかもしれない。


 ここで、頭のいい人たちは、「そうはいっても」という。「そうはいっても、たかだか三大欲求と、人のためになりたいという、承認欲求や自己実現欲求とは、次元が違うのだ。愛のあるセックスは、ただの生殖行為とは違うのだ」と……。

 メメント・モリ!

 ああしかし、すべての芸術は、「死」という事態からの、単なる逃避でしかないと言ったある哲学者(?)よ。彼のその言は、一瞬で人々の息の根を止める呪文である。悪魔の囁きである。禁断の魔術だ。
 しかし光あれ! しかし屈しはしない。人の、生きたいと思う心、良き存在でありたいと希うその魂の叫びは、邪知妄執を振り払うのである。

情報ではなく技術や結果が重要だ

 さてこの記事の目的は何だ?

「結果を出せる人間が信用を得る」

 だから、何だ?

 結果とは何だ? それがどうした? 当たり前ではないか?

 いやそもそも、信用とは何だ? 誰からの信用だ? 何のために必要なのか?



 ネットサーフィンしていたら、胸糞悪い記事にであった。若いころは遊びほうけて、ちやほやされて、お金もあって好き放題やっていたが、40歳過ぎて、なんか人生うまくいかなくなった、死にたい死にたい……とか。

 はぁ? 俺は若いころからずっと悩み考えてきて、今も生きたいか死にたいかよくわからないってのに、やっぱり、世の中の人たちは、それなりに楽しんで生きてるってんだな。そいでもって、お金もなくなって、保険もなくて、資産も無くて、ただ、年を取ったら年金くれ、金をくれ、パチンコに行かせてくれとか、ふざけんのもたいがいにしやがれ!! ……というよりも、いやしかし、「凡人」としての生き方としてはまさしく、いや本当に正しい庶民としての生き方なのかもしれない。

 俺もまぁ、本当に、ひがみかもしれないが、「好き勝手」生きてみたかった。思考何て、そんな金にもならない、只周りの人から変人扱いされるようなモノなんて、好き好んで手に入れたわけではない。
 そうしなければ、現実と、自分との存在が、距離感が、規定がおかしくなってしまっていた。少なからず、調整する必要があった。僕は、「僕」としての存在であることを許されなかった。


 とかって表現。いかがだろう? 誰かの心に、響くことはあるのではなかろうか。

 いや、上の表現が「ウソ」なわけではないけれども、じゃあ、普遍的に僕の心を完璧に、余すことなく表現できたかというと、きっとそうではないのだ。あくまで、「表現」に過ぎないのである。

 それでも。
 16歳ぐらいの若い男の子に、何だか学校でもうまくいかなくて、勉強も友人も恋人とも上手くいかなくて、それでも、生きてかなきゃいけないけれども、何だか違和感がずっとまとわりついている少年に、少しは、「あぁ、こんな人もいるんだな」って、思ってもらえるんじゃなかろうか。
 いやもちろん、「うわ、おっさんきめえ(わら)」とか思う少年も多いことだろう。



 で、これは、エピソードなのだけれど、上のようなことも、「結果」といっていいんじゃないかと思っている。
 上のようなことというのは、僕の書いた文章もそうだし、僕を胸糞悪い気分にさせてくれたブログ記事もそうだ。それも「結果」だ。

結果の行く末が責任である

 短い記事になったが、ここでまとめよう。
 つまり、「結果」というのは、世界に、目に見える形にアウトプットすることである。

 テストの点数をとるのも結果。
 プレゼンをしてお客さんを納得させるのも結果。
 資料をつくるのも結果。
 プログラムを書いてツールやアプリを作るのも結果。
 小説を書くのも結果。
 ブログを書くのも結果。


 人を笑わせるとか、情報を伝えるとか、それらも全部結果、ではある。

 だが、僕が言いたいのは、できるだけ、「カタチ」にのころものを重視したいということである。

 コピペできる情報ではなく、自分だからこそできること。

 僕は、私は、こんなことが「できる」人間なんだと。そういった積み重ね、総体こそが、人、そのものだと思う。

 そして、その「できること」が多くなっていったとき、それを紐づけて、より価値を高めてくれるのが、「言葉」であるのだ。
「私は、他人を幸せにすることができます」といったら、怪しげな宗教だが、マザーボードに使用するコンデンサーを作って、みんなが使うパソコンやスマホの基盤を支えることで、人々に笑顔を与え幸せにしますとか、……例が陳腐でアホらしいけれど、でも、なんというか、「できること」を、他者に伝わるように変換して(言葉にして)表現するということは重要である。


 そして今日も僕は筋トレを少しだけ続ける。

 体調不良だった数日間はできなかったが、それは免除規定該当のため問題なし。かれこれ、一応230日以上続けられている。このように、そのやってることの中身はともかく、「続けられること」というのも、立派な「できること」の一つである。

 そして、「愚痴を言うこと」も「できること」である。

 そう。何らかの生産行為は、それがポジティブなことであろうとネガティブなことであろうと、良いことでも悪いことでも関係ない。全部「結果」だ。

 で、その「結果」の先に、どういったことが発生するのか。

 その発生したことに対する原因を担うというのが、「責任を負う」という言葉の意味である。


 そして僕は、この記事では、ポジティブなことと、ネガティブなこと、良いこと悪いこと、美人ブス、きれいなもの汚いものが、具体的にどんなものか、何なのかは一切示していない。


 繰り返しになるが、この記事は、「結果」が大事である、という主張までである。
 この意味についてくんでくれた未来の僕に、次に書いた方がよいことの判断を託す。

(最初、「目的・目標」カテゴリだったけど、途中から「イライラ対処」カテゴリに変更になった。理由はいわずもがな。ああ……面倒なことが多いものだ……)

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今日の一言「目が覚めたら40歳だったらどうしよう」「ある意味、心が幼いまま30代に突入したのは同じぐらい悲劇」

夢は潜在意識の顕在化なのか

 色々と、やるべきこと、やった方がいいことが積み重なっている。
 めんどくせぇぇ……ってなって、何もできなくなることがよくある。もうすべて投げ出してしまいたい。自暴自棄と言われたっていい。そうだ、俺に、守るべきものなんて、そんな大層なものはもう持ち合わせていないんだ……。

 そんな風に愚痴を唱えることに、残念ながら真摯に向き合えない性格特性である。僕は、そのような感情が生じたとき、すぐさま、その「愚痴状態」が良いものかどうかを総合的に考える(考えてしまう)。

 はいはい、愚痴を言いたいのね。そうして、自己正当化をしたいわけね。いいよ、それで感情状態を平静に向かわせられるなら、どうぞやってください。できれば、私としては、それをする時間まで決めておいて頂けるとありがたいんですがね……まぁ、好きなようにおやりなさいよ。

 お前誰だ!? みたいな、そんな奴がいるのである。
 その、じゃあ、仮に「理性くん」と名付けたとして、そいつは、かなり昔から俺の中にいた。さかのぼれば、小学4年生ぐらいじゃあないかと、僕は思っている。何度かブログでも書いたけれども、ある友達とのエピソードで、僕は衝撃を受けた。そのとき、いや、最古の記憶、3歳~4歳ぐらいに、僕の誕生会を親戚をまじえてやってくれた、そのときから、理性くんはやってきたのだろうか。

PVの銀貨

 話は少し変わる。ある友人が、こんな記事(シロクマの屑籠)を紹介してくれた。

 なるほど、ブログとは、収益を目指すものから、何らか達成したいもの、得たいものを満たすために行われる。ブログである以上、それは他者の目を必ず意識するものである。誰かに読んでもらいたくないといって、ブログ媒体を選択する人は皆無である(少なくても論理性はない)。

 で、あるならば、PV(ページビュー)という、すなわち、アクセス数、訪問者というものを意識しないわけにはいかない。

 そのとき、どんな種類のPVを求めているのか、ということを、上の紹介記事では触れられているのである。

 金貨、になると特殊な気がするのでこの場で特段記載はしないが、銅貨と、銀貨の違いというのはかなり大きいと思う。

 銅貨は、即物的な答えを求めるそれである。銀貨は、一緒になって考えてくれる読者のとことである、と(敢えて抽出的に、恣意的な書き方をしてまとめるとそういうことになる)。


 言うまでもなく、僕は、銀貨を求めている(もちろん、金貨であればもっといいが、銀貨と金貨の違いは僕はあまり感じない。その理由は、オフとオンの区別にさほど意味を求めていないことになるが、まぁこの辺は昔なんどか書いているので省略)。
 もちろん、銅貨があったうえでの銀貨なのだろうけれど、得たいもしれない、アクセス数だけ増えても、逆に気味が悪いと思うだろう。それよか、コメントとかいただけたり、時折自身のブログのネタにしてもらったりしてくれる方が嬉しい。


 そして、では、この上の知見を用いて、こういう分類って、何に役に立つの? という疑問が発生したときの感情と、論理性というものについて考えてみたい。

収益を出すことが必ずしも必要なのか

 仕事論になりそうな気がするが、それほど肩肘はるものでもない。

 結局のところ、「目的」とは何か、を僕は常に問うている。(これは病的なまでに)

 よく言われるところが、「結局、お金にならない活動は、社会に組み込まれていないのだから、役に立つものではない。お金がないと、生活できないのだから、お金に直結する活動を基盤にできていない人は、地に足がついていない浮浪者である」ということである。

 日本が資本主義であることを、僕は認めないわけではない(まどろっこしい言い方をするな、「認めている」でいいだろうが)。

 資本主義とは、生産と消費のサイクルによって人間の欲望を満たしながら成長していく社会システムのカタチである。

 そこに用いられるのが、「お金」である。このお金という概念は、少々、僕らの若いころから、現在では意味が異なっていて、いわゆる「電子の」仮想通貨というものも含めて考える必要がある。というのは、ビットコインとか、スイカとかイコカといった電子マネーという意味だけでなく、証券や債券など金融資産といった有形無形のお金も含めて考える必要があるということだ。

 決して、これまでも、これからも、お金の価値を否定するのではない。

 何らかの行動をするには、……かなしきかな、何もしなくてもお金はかかる。
(賃貸アパートであれば言わずもがな、持ち家だったとしても固定資産税がかかってもってかれる)

 お金は、あるにこしたことはない。不慮の事態……先日あった風邪ひいたとか、PCのクラッシュとかオートモービルの電子機器不良など、お金がかかる場面というのは事欠かない。

 ただ、昔から今も変わらない僕の価値観として、「お金のために生きるのではない」というものもある。

欲望を満たす道具

 お金が欲しいか? と問われたら、欲しいです、と答える。
 だが、何故ほしいのか? それは、単なる「安心」の購入である。

 何に使うか分からない、けれども、いつなんどき、いくら必要になるかが分からない、だから取り敢えず「貯蓄」する。
 この貯蓄という概念をもう少し広げると、僕は、投資であっても同様であると考えている(こんな頭でっかちなことを思ってるから、中々株をやろうと思えない)。つまり、いつまでに、いくら必要かという明確な目標がないゆえに、ただ、「安心」するがゆえに、お金のためにお金を稼ぐことをするために……それが、僕の目的にならんあいということだ。

 分かりやすく書くと、「お金を貯める&稼ぐ」ということについての目標・目的がないのである。


 よく、書店などで、「お金に困らない生き方をしよう!」とかいって、お金を稼ぐためのアプローチを延々述べられている書籍を見かける。
 ずれたアプローチだと僕は思う。(いや、それが万人普遍に間違っているといいたいのではない)

 ある意味、僕は、貧困であえぐ昨今増えているといわれている大多数の方に申し訳ないが、お金には全然困っていない(いまのところは。会社の状態もあまり芳しくないので、今後どうなるかも不明だ)。

 お金に困っていない=お金がたくさんある、というわけではないことは重要な点だ。

 つまり、まわりくどく書いてきたが、結局僕がいつも言っていることに巻き戻るのだけれど、大事なのは「欲望」ってことである。

 欲望なのか、欲求なのか、欲動なのか、そこらへんの違いは、本記事では不問である。とにかく、「何かしたい!」という思いの大きさに応じて、お金の必要量がかかわってくる。

 ここで、本当は、二つのアプローチがあるのである。一つは、お金を稼ぐこと、もう一つは、欲望を調整することだ。

 資本主義社会とは、どうにも、前者のアプローチを肯定しすぎているように僕は思っている。そういう延長で、「努力したら必ず報われる!」的な標語が生じてくるのだと思っている。

 結局は、「努力は(身の丈に合った)結果を与えてくれる」ということである。これはペシミスティックな、後ろ向きな発言ではない。ある意味、努力したら報われているのだ、必ず。だが、見落としてはならないところは、そのご本人が、如何なる「欲望」(目的)を抱いていたかという点だ。
 同じ結果があるとする。テストで70点だったと。それは、客観的な指標だ。同じ問題を、同じ時間に、同じ条件で解いたのだ。だが、その70点という結果は、ある人にとっては悲観的なものであろうし、ある人にとっては僥倖であったりする。

 閑話休題。


だから俺の欲望は何なのか

 何だか延々と続きそうだったから強制中断。上のようなことは正直どうでもいいのだ。
 他者がどう思おうが、それはそれ。

 ようは、俺は、いったい、どんな欲望をもっているのか、その点だ。これは最近ある方が、「感覚を研ぎ澄ませることが何より重要なのですよ。理屈ではない、感覚なのですよ」といっているのと、同じことだと思っている。
 僕の言葉で言うと、「実感」。

 実感のあるがままに生きる。これが本来、人間として正しい生き方ではなかろうか。

 と思ったところで、冒頭に書いたように、「夢」とはなんとも暴力的である。

 ある意味、幸せな夢であった。(後半、クレーマーとの言い合い合戦になったりして不快感マックスであったが)

 幼いころの、家族に見守られ、ただ「子ども」として生きていたころの夢。

こんな画像集をみるとなおさらダメージが大きくなるタイミングである)



 なんだっけ……。ここ5日間ぐらいのことで、どうしても整理しておきたかったことがあったけど、いろいろすっ飛んでしまった。

 俺は、……なんというか、嫌だ、苦しい、つらい、哀しいなどなど、もろもろ「不快」と呼ばれる感情が発生したとき、その理由を求めて、その解決に思考をめぐらすわけだが……そうじゃない人って本当に多いんだなって思ったりした。
 ネガティブを、ただ、ネガティブとしてそれで甘んじて受けようとする人たち。
 まぁいい、それだけであれば。そのネガティブを内部にもって、鬱屈としている人たちは儚く可愛らしい。
 が。そういう人たちに限って(これは単に強調語に過ぎず一般的なことを言ってるのではない)、そのネガティブ性を愚痴として、他者への批判としてぶつけるのである。組織や社会が好んで使う言葉で表現すれば、「責任」を放棄しようとするのである。

 自分の人生だろ? 自分で責任をとるしかないだろ。いつまで、親が守ってくれる子供でいるつもりなんだ?


 ……で、その責任論になると、責任のとれる範囲というのが、結局なんだと思う? お金、だ。

 だから、お金があった方がいいって……そうなるんだけど、俺はどうにもそういった生き方というか価値観というか考え方というか、そんなもんが面白くねぇと思ってしまう。

 俺も今、こうやって書いているのは愚痴にしか過ぎないわけだけれども、それでも、何とかしたいとは思ってるんだろう。


 うーむ、駄目だ、感情が先走って、頭の整理がうまくいかない。

 本来、読み返して、修正していく作業に入るべきだが、これはこれで、いったん投稿することにしよう。そのうえで、再度時間をあけて書いていこう。


(PVの種類を明確に分類するとか、そういうのは価値ある作業に思える。しかし、「実存」問題を考える際には、常に明確な分類の適応は難しい。ああ、そうだ、「実存」と政治について書こうと思ったんだったっけ)

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今日の一言「タイトルが胡散臭いね」「疑いにきりがあると思ってはならない」

面倒なことのオンパレード

 最近面倒な出来事が続いている。ひとまず、少しだけ落ち着いたのはこの時間だ(22時)。
 その面倒なことを一つずつ書いていこうかとも思ったが、それ自体が面倒な作業になるだろうから、やはり、いつもどおり思いつくままに書いていこう。

 まず、体調がよくない。おそらく、風邪だろう。体調が悪いながらも、仕事はまってくれずに、次から次へと舞い込んだ一週間だった。それでも、何とか乗り越えることができた(いやもちろん、来週や後ろに回しただけではないかということも言えるけれども、それでも、一週間は終わったのだ)。

 次に、所有しているオートモービルの電子機器の調子が良くない。かれこれ、もう5年以上も使っているので、そろそろ交換の時期かもしれないのだが、出費に頭を悩ます。

 所用ででかけるも、諸事情で引き返すはめになり、二度手間になる。

 会社での仕事内容プラス人間関係における難儀な事態にも頭を悩ます。どうにも、難しい、この「難しい」ということは、後ほど触れる可能性がある。

 さらに、パソコンの調子が悪くなった。これが決定的に僕を落ち込ませた。何せ、この土日は、手がけるサイトの改築工事及び、寄せられたコメントへの返信、小説の書き進めなど、色々とやろうと思っていたのだ。金曜日、遅い時間に帰宅しつつ、さぁ、少しでも作業を進めるぜ! とPCのスイッチを入れる。「ASUS」(マザーボードのロゴ)が表示されてから、一向に進まない。

 前にSSDクラッシュにより修理に出したばっかりで、また故障か、と思う。
 取り敢えず、ファンの誇りを取り除き、簡易的に清掃をする、駄目。
 電源プラグを抜いて放電を試したり、グラフィックボードを抜いて、オンボードで動くか試し、駄目。
 友人が、マザーボードのロゴもでないなら、HDDのせいじゃなくて、メモリとかのせいじゃない? とアドバイスをくれる。
 メモリの接触不良ということもあるので、一度抜いてから差し込む。ビープ音が鳴り響く。「ビービー、ビービー」。びっくりする。どうやら、メモリがちゃんとはまっていなかった模様。メモリを指さない状態で電源スイッチ押すと、激しいことになることが分かる。(メリット1)

 HDDも全部抜いてみる。駄目。HDDを抜いても、マザーボードのロゴ(ASUS)までは表示されることが分かった。(メリット2)

 もうこりゃ駄目だ、買い替えだな、と諦めたところ、友人がいってた、メモリとかのせいじゃないか、ということを思い出し、ダメもとで、CMOS電池を外してから、しばらく(90秒)放置し、再度つけてみる。……動いた!!(メリット3)



※CMOS電池とは上の画像の赤丸部分。コンセントからの電源がなくても、マザーボードに電気を供給して、時刻同期とか保っている。縦置きのまま外したらカシャっと落ちて、電源ユニットの中に入って焦ったのは内緒。

※参考になったサイト「BIOS初期化

SATAケーブルで内臓HDD追加

 で、それとなくパソコンのオーバーホールになったので、以前のデスクトップPCから抜き取っておいたDドライブに使ってたHDDもくっつけてみようと思った。

 しかし、さすが素人、Dドライブだけ抜き取って、ケーブルを取っておくのを忘れていた。電気屋に走る。SATA(シリアル・ATA)ケーブルを購入する。600円ぐらいだった。

 


 上の図の青い線がSATAケーブル。上の赤丸がマザーボード側のSATAの接続端子。下の赤楕円の方に、内臓HDDのスロットがあり、接続されている。

 結果、問題なく認識された。しかし、何故かフォーマットが要求されてしまい、中身のデータは取り出せなかった。(実は、内臓HDDを外付HDDとしてUSB接続できる機器(いわゆるHDDケース)を使って、接続も試みたが、どうにもフォーマットされていないディスクということで、読み込めなかった。win7で作ったDドライブだから、win10では駄目だったのか、そこらへんはよくわからなかった。一方、現状のPCのDドライブを、一度外してから再度接続したら、それはちゃんと読み込めた。よくわからん)

 というわけで、メモリ交換、グラボ接続ぐらいしかPCの中身はいじくれなかったけれども、内臓HDD交換(接続)というスキルも手に入れたッ! レベルアップだ!(しょぼい)

 もう壊れたと思ってダメもとで色々いじくったけれども、意外と壊れないときは壊れないもんだな、パソコンさんよ。静電気で駄目になるとかよく聞くけど、もう素手でべたべたいろんなとこ触ってたよ。(まぁ端子部分はさすがに気を使ったが……)


 まぁ、なんというか、いろいろと面倒だとかイライラしたこととかを書きたいと思っているのだけれども、取り敢えずここまでにしておこう。なににせよ体調が完全ではないし、何分疲れた……。

(そして本来やろうと思っていたことは何一つできていないのである)

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