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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
カテゴリー「イライラ対処」の記事一覧
今日の一言「例によって20分で書く」

前書き

 最初の小見出しが結構悩むのである。
 もう面倒なので、「前書き」と固定にする。

 さて今回は、ニュースで読んで思ったことをメモしたいと思う。
 ある議員が、「LGBTが増えると国が崩壊する」と発言したことについて、批判を浴びているということだ。

 その話題自体の興味はさほどではないが、「批判」とか「失言」とかが起こるメカニズムという点を考えてみたいと思う。

多様性を認めない議員は糾弾されるべきだ

 政治的な主張をしたいわけでもないし、LGBTについて批判的な意見をもっているわけではない。これについては、この記事においても、誤解が生じないように繰り返し何度も書かなければならないだろう。

 さてそもそもLGBTとは、「同性愛者」のことであると理解する。――実際は、バイセクシャルも、トランスジェンダーも含む概念ということなので、「同性愛者」とイコールではなかろう。ただ、上の議員氏の発言は、おそらく同性愛者というニュアンスが強いと思われる。

 で要するに、男と男、ないしは、女と女では、子供は生まれないのである。

 これは、価値観とかそういった問題と全く関係なく、生物的に仕方がないことだ。「人は何故自分の身体で空を飛べないんですか! 飛べる人がいたってよいじゃないですかああああああ!」とかいっても仕方がないことと同義である。

 そういった事実と、価値観を広く受容しましょうといった、社会の理想の話とは全く関係ない。切り離すべきである。
 とはいえ、切り離しては考えていけない場合もある。両面が必要。



 国とは、同じ民族性を保持していると考える集団であり、同一のルールが適用される集団である。
 で、移民とかそういったホットな話題は別として、単純に考えて、その同一の民族性(価値観)を再生産するのは、家庭という単位である。――というか、要するに、子供が生まれないと国の概念の保持は難しい。――いや、学問的にどうかは知らない。ただ、誰も子供を生まなくなったら、国は亡びる――というか、人類は滅びる。


 いやいや、実際そんな極端なこと起こらないだろ、というのは最もな話。
 だから、LGBTを認めることがイコール、国が亡ぶって論調に結び付けるってのはナンセンスだろう。だから、ましてや、国の理想像掲げ、近づけるために舵取りする責任がある議員氏は、批判を浴びて当然だと思う。


 前置きはこんなもんでいいだろうか。

子供が生まれないと国は亡ぶ

 ただ、実際問題、子供が生まれないと、国は亡ぶし、人類は滅ぶ。
 別にそれでいいんじゃん? って価値観もありだ。
 ありだけれども、取りあえず、「持続可能な人類社会」を理想として考えてみよう。

 そしたら、人には寿命があるんだから、いずれ次世代に引き継がないとダメだろう。
 さらに、ギリシアのスパルタみたいに、共同で子供を育てるコミニティをつくるでもなければ、子供を育てる基本単位は「家庭」だ。

 その家庭を構成するのが、同性愛者だったら、子供は生まれない(生物的に。養子とればいいだろうとかそういう問題は今しゃべってんじゃない)。


 そうしたときに、LGBTの人たちに政治的資源を投下するのか、少子化対策に資源を投下するのか、どっちが喫緊の課題だろうか。

 問題の本質はそっちだと僕は思ったわけである。


 要するに、「価値の多様性を認めましょう」なんてスローガンは、もう当然なんだから、そんなことも分からないバカな大人たちはさっさと滅べばよかろう。
 そんなバカな次元の話で、マスコミもワーワー言ってないで、「実質的な話」に民衆を導いたらどうだろうか。

 つまり、「資源は有限である」ということだ。政治なんてのは、要は、「再配分」の論理なのである。なんか新しく創造するって仕事なのではない。いやそういうことを官僚や公務員に求めている風潮もありそうだが、いやまぁ、そうあったら尚よいのだろうが、それは、民意を受けて代表となった政治家の仕事である。
 みなさんは、年間100万円の税金を払ってもらいます。
 LGBTの人たちは、今多くの問題を抱えているので、かわいそうです。多様性を認める社会にするために、LGBTの人たちが暮らしやすい社会にするために、90万円の政策を行います。その他少子化対策などは10万円の範囲内でやります。

 それでいいのか?
 という価値観の問題だ。
 ちなみに、僕は、申し訳ないが、LGBTではないので、その政策はちょっと違和感がある。
 ただし、LGBTの人たちが住みやすい街にすることによって、それ以外の人も住みやすくて、結果的に子育てに適した街になって少子化対策にも繋がる、とかってストーリーが(外連味でも)あれば、まぁそういうのも良いかなって思うかもしれない。

 あ、もう20分だ。


(かっこ書きである。やべえ、ここで記事が終わったら、人権団体の方々や、良識人の方々にコテンパンにされてしまう。繰り返し書くが、僕はLGBTの人たちを認めてはならないといっているのではない。仲の良い友人がLGBTだったとしても、特に何も思わないと思う。へー、そう、ぐらいな。逆に言えば、あまり興味がないともいえる――としたときに、というよりも、多くの人がそんなに積極的興味があるわけではないだろう、今時点では。そうしたときに、政治的な判断がどうあるべきか、ということが、本来考えるべきことである。議員発言がどうだあーだとか、どうでもいいのである。要するに、どういった政治判断が行われようとしているのか、ということだ。そして、その判断が、結果的にどういったメリット・デメリットがあるのか、そうした分析をちゃんとするべきであるし、そういう記事なら読む価値があると思う。言葉の言い間違いは恥ずかしいことだが、それをもってして「議員の資質があるのか!」とか、うんざりではなかろうか。あと、「国の責任」って言葉を多く耳にすることがあるが、要するに、「国の責任」ってのは、僕ら民衆の責任でもあるのだ――ってかくと、これも批判の的になるんだろうが、要は、実際にその責任の尻ぬぐいをするのは、僕らの税金が財源だということである。一人の官僚が横領したのなら、刑事責任で糾弾できようが、数億というお金を一人が稼げるものだろうか。よくて免職にして、生涯賃金分の人件費を浮かせることぐらいだろう(資産があれば差し押さえできるかもしれないが、そういう意味で書いているのではない。概念的な話だ)。長くなった。けれども、全然書き足りない。タイトルの「メインストリーム思考」について、本当は書きたかったのだが……。次に書くタイミングで、まだそのことを書く気力があったら触れたいと思う)

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生活環境が変わることによって、これほど文章を書かなくても自分がいられるのだと、これは驚きもある。

気付くと、一人の時間が、僅かな電車内でしかないことに気付く。

そして、一人の時間じゃなきゃ、ブログは書けない。

書けなくはないはずだけど、書けないのだ、これはどうしても。

平日は相も変わらず帰りが遅いし、休日も彼女と過ごしていると、書けない。



別に、書かなくてもいいじゃないか。

しかし、僕は、イライラしようが、楽しかろうが、このブログの、ある重大な問いを考えないことは、自分にとって負債を清算しない行為に感じられるのだ。




なにかを失って、人はようやっと気付く。
そんなものかもしれない。それが、いまわの際まで知らなければ、別にそれでもいいとも思う。

でも、果たして、

働くこと、生きることに、何があるのか


僕は、誰だったのか。


これが人なのか、こういうのが人間なのか


まぁ、これでいいのか


本当か?

俺は、本当に後悔しないのか?

問うているのか? 本当に?




ともかく。セインの二巻を読了。面白かった。
魔女王と、ダークヒーローのズァグ氏の謁見シーンに震えた。なんつー駆け引きだ。なまじ戦闘シーンなんかより、よっぽど熱い戦いだった。

ああ、こう、現在の自分の力では及ばない中で、今あるリソースをギリギリで使い、自分よりも強く体制も磐石なものに向き合っていくってのは、やっぱりかっこいいものだな。


が、しかし、今の俺は、そういった戦いに本当に辟易してしまっている。
この先のみちしるべを感じられないでいる。



どうしたらいいのか分からずに、日々、そして、流されていく。

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今日の一言「人と会いたくなければ、何もしたくない」

 この記事で、何を表現したいのか? 正直、思考ができるだけの余裕がない。

 よゆう?
 なんの?

 心の余裕だ。しかし、心とは何か?

 そういった問いからいつも始まるのが特長の私のblogだが、当然答えはでなければ、そもそも言いたいことも異なる。

 言いたいことは、忙しくて疲れた、ということだ。

 こう、未来が見えない、という表現を何度かしてきたと思う。よく言い当てている。

 僕がいつも言ってるのは、目標を立てることが重要だ、というものだ。

 だが、その目標は、まずもって、自分が達成したいものであるべきだし、次に、それを自分で考えて設定できるものであるべきだ。



 やりがいあって、楽しい仕事ってあるのだろうか?

 もしくは、楽しくなくても楽で早く終われる仕事はあるのだろうか?

 分からない。いまやってることを肯定するのもありだけど、毎日24時過ぎに帰るのが、いつまで続くのか。

 きっと落ち着くタイミングはある。
 そして、手を抜こうと思えば、もっと楽にもできる。


 ただ、そういう問題でもない。
 もっと人間関係がひどくて、忙しいこともあった。それに比べたらいまはましだ。

 が、もはや、そういう比較の問題ではないのだ。



 嫌なこと、苦しいことをする意味が分からない。
 それが人生だと、したりがおな大人たちはいう。くだらない、と思う。



 何故人は、そうまでして生きるのか。

 楽しいからだ……という、中学校ぐらいに導いた哲学は、もはや役に立たない。

 フランクル氏のいう、人生は意味をみつけるものではなく、人生から意味を求められているのだ、とか、創造かち、体験価値がなくなっても、実存価値があるのだ、とか。

 その説明が理解できれば、僕は、もう一段階高次の世界に行けると思う。
 これまでの人生の意味や体験にも、新しい意味が与えられるかもしれない。



 しかし、分からない。理解できない。
 文字としては分かる。日本語としては分かる。しかし、理解できない。いや理解というか、それはどちらかというと、納得というか、感覚が伴わないというか、そういった状態だ。



 しかも、やっかいなのが、世界の不条理である。
 今日も、昨日も、テロや殺人は起こり、たくさんの人が意味もなく死ぬ。
 たまたま、僕は生き残っている。日本は、生き残る可能性が高く恵まれているといえる。



 だから、なんだ?

 という感情。



 他人がどうだから、なんだ。社会が、家族が、なんだ。


 この、なんだ? という感覚、これがつらい。

 簡単に表現すれば、無気力……なのだが、いろいろと行動はできる。


 行動や思考はできるのだけど、それらが、いったいなんだ、なんなのだ? という感覚が付きまとう。




 俺は疑問なのだが、この感覚は、たくさんの人が……女子高生や、おばちゃんたちや、リーマンや、オタクや、大学生や、ミュージシャンや、その他、普通の人たちは、みな常に感じているのか???



 これまでの経験から、どうも違うようだと、あんまし、他者はそんなこと感じてなさそうだと、そう思うようになってきた。

 それがさらに孤独感を深めたりする。


 で、その、独りよがりな考え、なのであるが、これによって、他者を尊敬できる可能性が減ってしまっている。

 仕事ができる人。よい物を作れる人。話が面白い人。スポーツができる人。心が優しい人。

 すごい人、たくさんいる。

 すごいなと、思う。

 思いはするが、なんか違う。


 その違うというのは、すごいというのの否定ではなく、モデルにならなそうである、という意味が近い。



 だから、なのか。

 なんだか、それがなんだ、という思いが強くなる。




◇死ぬこと

 携帯からだと、たくさん書いているようで、たいした文字数ではない。

 この、内から溢れる言葉と、実際の文字に表れる表現との違い、は面白い。
 僕が、僕の記事が長くなるのは、タイピングが速いからというのはあるだろう。
 もちろん、思考言語よりはタイピングが遅いが、普通の人よりは速いので、その反映が多くなる。そうなると、結果、カオスな文書津になったりする。



 関係ないことかいた。
 死ぬのが、怖いのかもしれない。

 怖いから、意味をもたせないのかもしれない。

 別に死んでもよければ、今すぐでも死んでよければ、未来も、目標もどうでもいいはずだ。



 ふと、過去を思い出す。
 その過去とは、直近十年ではなく、もっと、小学生とか、中学生とか、高校生とか、十代のころだ。

 うむ。いまよりつらかったかも。

 比較すると、幸せな気分にひたれる。が、やっぱり、なんの意味もないと思う。

 まぁただ、戻りたい過去が一切ないってのも、いいもんかもしれない。

 ないか? ……ないな(笑)


 これは、珍しい人間なのか? いや、そうでもないか。その、過去よりもいまが大切、と思ってる人は多いだろう。



 あー。そうだな、やっぱり、あのときや、あのときはつらかった。大変だった。過去に比較を求めればたくさんある。




 だからこそ。

 だからこそ、なんだって、生きてるんだろう。

 毎日死にたい、終わりたい、消えたいといって泣いた。
 涙が止まらなくて、声を出さずに枕に突っ伏して泣いてた頃が、どんだけ続いたろう。



 最近はそんなことない。疲れてるからだが、すぐ眠れる(笑)

 じゃあ幸せなのか?

 よく分からない。


 決定的に努力して、決定的によくなった、とは言えるだろう。


 その、自分の頑張りを、行動を、どこか他人事のように、どうでもいいことのように感じ、見ている俺。




 そして、こんなこと書いてるのを、くだらない、文章で、分かりにくく、ネガティブで、ダメ人間だなぁと思っている俺。


 ああ、つまらないなぁ。

 明日は、少しは早く帰れるかもしれない。


 でも、だからなんだ?




 ああ……もう、言葉もでなく、、なってきた。





 まぁ、対策は。
 徹底的に休むべきだろう。が、それすら、結局やすんだところで、人生は続くわけだし、課題や問題は続くわけだし、どうでもよく思ってしまう。

 休んで、気力が回復し、元気になるだろう。それは分かってる。
 けど、いずれはまた、日々の忙しさや苦しさや繰り返しに飽きて疲れて、同じように感じるようになるだろう。


 そうしたとき、今度は、再び立ち上がれるだろうか?

 正直、困難に打ち勝つごとに、問題を解決するごとに、自信がなくなっていく。





 だから。

 だから、前から……といっても、二年前ぐらいからだが、僕は、子供を作る必要があるかもしれない、と書いたのだ。

 しかし、それすら、解決になるかもわからなくなってきた。
 子供ができて、もっと別の意味でも忙しくなって……といったときに、これでの忙しさや問題や課題と違って、ああ、これこそ生きているという意味なのだ、って思えるだろうか?

 ああ、また面倒がふえたぐらいに思ってしまったら、俺も不幸だし、子供も不幸だ。


 どうしたらいいんだ、しかし、この、経験の悪魔というのは、やってみないことには絶対分からない、ということになるのだ。恐ろしい。


 ああしかし、この、子供というイベントが、拠り所にならなければ、本当に詰みかもしれない。

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今日の一言「何も考えたくない、したくない


生存報告、という書き出しで始まり始めたブログは、そう長くはないだろう。

ただ、僕の場合は、いずれは戻ってくるだろうとは思う。

しかし、最近は、全く書く時間が取れない。
ということは、考えることも、思考の整理もできていないということだ。今年の目標に資することもできていない。

人生。

何が忙しいかと言えば、平日は仕事、休日はデートである。
仕事は充実しているし、デートは楽しい。

だが、それでいいのだろうか?

人生。

僕という人間は、それでよかったのだろうか?



人はみな、決断せよという。自分の人生を生きよと。やりたいことをやれと。

僕が仕事や、デートをするのは、やりたいことではないのだろうか?

家事をすること、寝ること、掃除すること、ご飯を食べること、それら生活に関する行動は、僕のやりたいことではないのだろうか?



やりたいことと、やらなければならないことを、分けることができるのか?

仕事というカテゴリの中でも、楽しいこともあれば、イライラすることもある。
デートもしかり、家事もしかり。


すべて100%の生活など送れやしない。


そうしたとき、僕の人生として、どこまでが許容範囲なのか?

そこが分からない。



要するに、僕ができる、僕の最大の選択の中の、最高のことが僕はいまできているのか?

それが分からない。

誰に相談しようとも、まともな、、、というか、僕が欲する回答はできない。できるはずがない。何せ、答えがないものなのだから。

故に僕は自分を、納得させようとする。

これが、僕の最高で最大の人生なのだと。



しかし、この疲れ、苛立ち、眠気、未来に対する不安、望みのなさ、退屈感などを、いったいどう制御すればいいのか。


みんな、30代の大人たちは、そうした自己制御が完璧なのか?



分からない、

分からない。




こんなとき、孤独を感じる。

たくさん人がいるのに、誰もいない感じがする。

そんなことはないと思って人とかかわって、やっぱり違う感じがしてがっかりして。

似た感覚をしてるだろう人は、見つかる。

でも、その人たちが存在していることも、具合がとても悪いときは、僕の孤独感を埋めるには足りない。



ああ、こうした、独りよがりな文章は、駄目な極みだ。

何故なら、読んだ人を不快にさせるからだ。けれども、いま、この瞬間の自分は、人との関わりに本当に絶望しているというか、孤独を感じているということ、その表現としてらは、これ以上は書けなかった。

ああ、もう望むのは、明日の自分が、今よりもましな感覚であること……。


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今日の一言「とりあえず連載は進めるが、休憩に書く」

仕事が忙しい

 特に、タイトルに意味はない。
 最近のことのメモである。
 忙しい。この一言だけで十分だ。物理的に時間がない。
 具体的には、ここ一、二週間、家に帰ってくるのが、22時~24時か、という日がほとんどな状況で、7時には出発しなければ間に合わない。

 まぁこれも、一時的なものだと思われる。
 が、どうにも、精神的なすり減りがある。

 要するに、未来、である。

 ユングは、意味は殆どすべてのことを耐えられるものにしてくれる、といっている。
 ニーチェは、何故生きるかを知っているものは、すべてのどうやって生きるかに耐えられる、といっている。
 ――精神療法における意味の問題P.36参照


 これまで、僕は仕事上の困難を何度か乗り越えてきた。大きなヤマでいえば2回ぐらいか。
 で、まぁ今のプロジェクトというのも、プラス1回になるだろうと思う。それはそれでよい。

 しかし、それを乗り越えたからといって、「だからなんだ?」という気持ちが高まっている、ということだ。

 そもそも、こうした仕事を選んだという20代の僕の判断なのだから、「仕方がない」とは思う。
 思うし、他の多くの仕事に比べたら、恵まれているだろうとも思う。が。

 がしかし、どうにもモチベーションが上がらない。

未来と意味

「忙しいことを認めよう」と先日書いたので、もう一つ認めておこう。
 僕は、中・高校生ぐらいのときから、ほんと、何で生きているのかさっぱり分からなかった。死にたいって毎晩思って泣いていた時期もあった。泣きつかれて、もう一回だけ頑張ってやるって思って、国公立の大学に入ることはできた。頑張ってその程度かって感じでもあるが、とりあえず、頑張ったってことにしよう。
 先日の記事で、上のようなことを書いた。
 まぁ、こっぱずかしい内容である。その他、多くのお忙しい方々に対して恐れ多い。

 が、とりあえず、自分という低スペックにおいては十分忙しいということは、頑張ったということは認めておこうということである。つまり、気持ち的にはだいぶ限界であるということだ。

人間存在の理解

 僕のよくないところを書いておこう。
 これは、僕の「感覚」なのであって、単なる言葉ではない。つまり、いかに取り繕った説明をなそうとしても、その「感覚」はなかなか取り払えないものである。

 その、悪い感覚の一つは、人間とは利己的な存在である、というものである。

 これは、事例は事欠かない。他者を犠牲にして、部下を駒のように使ったり、気に食わない者をいじめたりと、苛立たせる事象や事件はよくあることだ。

 しかしもちろん、これらは人間の全面なのではなくて、もちろん素晴らしい人間性なるものをもっている人もいるわけである。サイコパスのような存在は例外だ、切り捨ててよい、ということだ。
 という、「知識」的なことはあったとしても、どうしても、人間の利己的な面が気になってしまうお子様な自分なのである。


 もう一つは、人間の生物学的・心理学的なとらえ方である。つまり、欲望に準じた存在であるということだ。一つ目の「利己的な」という面とも関連するが、要は、人間を機械のように捉えていることである。
 人間は刺激に反応し、衝動を発散するだけの存在だ、という考え方である。


 上の二つの感覚については、僕は、手放した方がよいと思っている。というよりも、そうあって欲しくない、と思っている。
 でも、僕の感覚は、僕の生活は、市井や社会からの情報は、ますます僕をがっかりさせるものである。




 大人という存在は、もっとかっこよく、憧れられるようなものであるべきだ、そうあるべきだった。
 ところが、僕の崇高な(かっこ笑い)価値観は、人間たちへの失望へと繋がったのである。

意識高い系なのか

 僕は、意識高い系、と言われるタイプの人間なのか?
 意識高い系とは、揶揄されるニュアンスであるが、しかし単純に考えれば、よいことである。
 その「意識高い」というのが、他者を見下したり、自己実現(かっこ笑い)のみ追求するような方向性になるから、よくないのである。

 僕は、「より良い方向に協調し協働し向かっていく」という精神を求めているのだ。
 ざっくり言えば、WIN-WINを目指せということだ。

 誰かが得したら、誰かが損をするような考え方をするような人間は、滅びてしまえ、と思う。


 ――じゃあ、おまえが、その崇高な(かっこ笑い)人間になればいいじゃないか。

 もちろん、目指すつもりである。が、あまりにも、がっかり感が強すぎて、モチベーションが上がらない。

仕事から離れて

 つかの間の休息。別途友人と会う予定もあるため、あまり一人でいる時間はない。

 しかし、やはり、休息は大事だなぁと思った。ふと思い出して、今敏(コン・サトシ)さんのブログ記事を読んだ。
 母親の、「丈夫にうんであげられなくてごめん」という言葉が突き刺さった。哀しいね。
 ぎりぎりまで、両親に会いたくないという気持ち、最初は不思議にも思ったけど、なんとなく分かった気がした。大事な人だからこそ、自分の弱った姿を見られたくない、ってのはあると思った。

 しかしほんと、仕事が好きな人だったんだなぁ。大変だったろうけど、しかし、世の中に作品をうみだすって仕事は、きっとやりがいもあったんだろうと思う。

 ――しかしだ、僕の今やってる仕事だって、やりがいはあるのだ。あるのだけれども、しかし、もうなんか、疲れる。非常に疲れる。
 やりがい――、こんな一言で片づけられる言葉じゃないと思う。どんな仕事だって、やりがいはあるはずだ。問題は、その「やりがい」ってのと、自分の価値観が一致しているかどうかである。

 飲食店のホールの仕事で、お客さんの笑顔が見れて幸せ、――なんていうのは、確かに「やりがい」だろうが、僕は絶対そんなんにやりがいは覚えないと思う。料理人は、自分の作った作品(料理)を喜んでもらうのが幸せなのだろうが、僕はそれも無理だと思う。

 その、「無理」というのは、努力のあきらめ、ではない。
 前の記事に書いた通り、
 ストイックであることを否定しない。
 努力することを否定しない。
 継続することを否定しない。
 平坦な人生などない。
 苦労のない人生などない。
 楽な人生などない。
 と思う。

 ただ、自分の価値観というか、「本能」的なものに反したものは、「無理」である。

俺は何に楽しみを見出すのか

 とりあえず、これだろう。目下、課題だ。
 何か、楽しいことを探そう。
 面白いことを探そう。
 何か集中できることを探そう。
 何か、一生懸命になれることを探そう。
 何か、奉仕できることを探そう。

 目は、世界を見るという機能を、自分自身を見ないことによって果たす――前掲書。

「俺は」

 という自己にとらわれているうちは、決して、反転して自己を知ることはできないのだ。

 それは、何か行動することによって得られる。

 ――が、その行動は、意識しなければ、流されるままとなる。

 この整合性をどのようにとるのか。まだ僕はよく分かっていない。――ええと、つまり、自分を意識しすぎると、結局自分ってものが分からなくなるということだが、しかし、環境や状況に流されるままであっても、結局「忙しさ」に精神をすり減らされることになる。

 忙しさは、別に悪いことではない。
 以前ある方が、「充足は、必ずしも必要ではない」と仰っていたが、僕はやっぱり、それは違うと思う。忙しくても満たされていることはあると思う。苦悩にも意味は見いだせるものだと思う。だが、それらの根底に、やはり「満たされている」ということは必要ではなかろうか。
 その満たされている、そのモノ、が何かというのは不明だ。いやむしろ、それが不明だからこそ、それを見つけなければならないのだ。


(かっこ書きである。司星者セイン2巻届く、少し読む。ズァグ氏の魔女王との謁見シーンで震える。くっそかっけぇぇってか、魔女王怖ぇぇ。下賜された魔女王の血の盃の真意を知って、全身の血が凍りつくようだった。すべて見透かしたうえで、そして許す、とは。戦闘シーンもよいけど、こういったシーンを巧く描けるのはさすがだなぁ)

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