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人間って愚かだなと思うこと
2025/06/21 17:17 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「イライラすることはだいぶ少なくなった」

まえがき

 平和な生活を送れている。
 基本的に、ボクは、何かに熱中している時期(※)と、何にも興味を持てない時期とを交互に繰り返している気がする。躁うつのような感じだ。

 ただ、最近のところは、歳をとるにつれて、その躁鬱度合いが緩やかになっているように思われる。
 歳をとると、感動が薄れるというやつなのだろう。哀しい寂しいことにもとらえられるが、まぁ悪いことばかりでもない。



※最近ではFF14。致命的に気に入らないことがあったため今は休止中。もし改善されるようなら復帰するかもしれないが、最近は諦めモード。

最近の戦争が考え方を変えた

 2022年の某国が始めた戦争については、本当に衝撃を受けた。

 リベラリズム(自由主義)というのが、今後緩やかに広まって、世界はいずれは平和になっていくのだろうという、――それは、ボクが生きている間には達成されそうもないが――そんな漠然と考えていたところがあった。

 もちろん、日本という国に生まれ、教育を受けてきたのだから、リベラリズムの絶対性というのが、ある程度は刷り込みのようになっていた面はあったと思う。
 しかし、歴史を学べば、例えば、ソビエト崩壊、カンボジア虐殺、中国の民主化弾圧などから、
共産主義というのが、幻想で危険なものであるということは感じ取れるだろう。

 共産主義と言いつつ中国も経済的にはマクドナルドもあればユニクロもあるようだし、ある程度の自由や資本主義というのはあるのだろうから、そういった修正主義として成り立っていくのであるという想像をしていた。

 そして、大きな戦争も起こらないものだろうと思っていた。小さな紛争や殺し合いというのはなくならないだろうが、外交や話し合い、妥協などで解決に導かれていくものだと思っていた。

 ところが、2022年に戦争が起こった。あちゃー。

人類は愚かなんだな

 なんというか、非常にがっかりした。

 ヒトラーのユダヤ人の虐殺ホロコーストは、恐ろしい事件だ。
 許されないことだ。ポルポト政権の大虐殺も、1970年代に起こったというのは衝撃的だが、まぁ、20世紀の出来事だ。過去の出来事だ。人は学ぶことができる生き物だ。過ちは減っていくだろう。

 幻想だった。甘かった。がっかりした。

 なんというか、ヒトラーが悪いのは間違いないと思うが、同時に、ドイツ国民も愚かだったという視点が大事である。
 カリスマ独裁者という一人が起こした事件というとらえ方は危険だ。人は一人ではできることが限られている。それに同調し、支持するものが多数いるのだ。

 反対する人も少なくないはずだ。しかし、その反対する人を抑え込むことができる政治的な「システム」が稼働しているのである。

 これはなんだ? それはなんだ? 何が人を愚かな選択にかりたてるのだ?

 そういう視点が重要だ。
 重要だし、そういうシステムは、「自由主義」リベラリズムという価値観なんだろうと思っていたが、なんだ……全然機能しないものなんだな、と思った。

 なんというか、保護主義というか、途上国への援助なんて、別に不要だ、と考える人は少なくないはずである。
 だって、自国民が飢えないことの方がよっぽど大事だし、他国がどうなろうかしったこっちゃない、という考え方は、人間の本能的に自然だろう。
 もちろん、人道的に、貧しい人を救いたいという人もいることは事実だろう。しかしそれだけでは納得性は得られない。
 結局、ご飯がなくて、やぶれかぶれな人が増えれば、全体的に政治や世界が不安定になるからである。

 そこそこにみんな豊かだと、守るものがあれば、自暴自棄な人は減るはずだ。そして、お互いに、そういう異常者は排除するように動くはずだ。治安は安定するはずだ。

 そういう合理性があるから、「援助」というものが必要になるのである。

本当に無力感がある




 いや別に、世界がどうなろうが、僕にとってあまり関係ないのだが。

 でも、そういうニュース的なので、ボクはすごく哀しくなるし、がっかりするのである。

 これがなんでかというのが、最近、岡田斗司夫先生の動画の切り抜きで、人間の欲求の4タイプというものを見て、ボクが「理想型」というタイプだからなんだろうという気になった。

岡田斗司夫「4タイプ」

 理想型は、正義感が強くて、人間としてちゃんとありたい、「こうあるべきだ」とか理想的になろうとする傾向があり、そこに欲求があるらしい。


 ああ、なるほど、と。他のよくある心理学の分類において、自分って、論理型というか、左脳型みたいな、法則型みたいな風に思っていたけど、その傾向がありつつも、でも、「理想型」という新たな補助線があると、途端に分かりやすくなるなと思った。

 ゆえに、別に他国で戦争が起こっても、まったく気にならないという人も多いことだろう。

 というか、ボクはボクがかなり周りと浮いているというか、変わってるなと感じることがいままでも多かった。

 なんか、理由が分かった気がしてよかった。

 あれだ、病院に行っても、なかなか原因が分からなかったのが、とうとう、原因が分かって病名がついたときに、ああ、自分は病気なんだと思いながらも、なんとなく安心するとかそういう心理に近いのかもしれない。

あとがき

(かっこ書きである。ということで、この記事で何を言おうかというのは、なんやかんや、やっぱり自分の「本音」的なのは危険であるから、できるだけ「仕事」や公の場では抑える必要があるということである。そうしないとマジやばい。どうして芸能人でも政治家でも、その他著名人でも、「失言」してしまって失職するのか。バカじゃない?って思うじゃん。それが甘い考えだ。自分にも置き換えて考えてみるべきである。特にボクは当てはまりそうだから危険だ。失言に気を付けなければいけないことを銘記しなければ。んで。そのためには、できるだけ、このブログを活用しようと思う。このブログでしっかり書いておけば、「本音」を言いたくなっても我慢できると思う。かといって、理想型であると、不誠実な対応などがすごく嫌でストレスになっちゃうから、どっかで吐き出しておく必要があるとは思う。嘘を言うのは好きじゃないが、「言わない」ことならギリセーフ。自分にウソつくということにはならないからね。というわけで、頑張ろう。そいでな、ほんと世の中、バカばっかりだわ。やってられんわ。思い通りにならないことばかりだわ。人類愚かだわ。みんなどうしたら仲良くできるのか、お互いに価値を生み出せるのか、ということを考えた方がよいだろうに、誰かをけおとしてでも上にのぼりつめようというやつがいる。信じられない。死ねばいいのに。……って思ってきてたのだが、上の4タイプで、「司令型」という種族は、まさに、僕の「理想型」と対極に位置していて、お互いの理解が全くできないということなのである。故に、理解というか、共通目標とかあると、協力し合って最強のパートナーになることもあるらしいが、まぁ稀なケースだろう。と考えると、ああそうか、僕の考えている欲求というのは、別に人間という種族においては、絶対的真理ではないということは、よくよくわかった。納得した。そうなると、やっぱり改めて、人間って愚かだな、という、本記事のタイトルに戻る。まぁ、そうなんだけど、種というのは、多様性があるからこそ、環境変化における生き残りの可能性を高めている面があるため、一概にダメではないのだろう。しかし、司令型しかいない世界って、弱肉強食の荒廃した世界になりそうに思われる。かといって、理想型ばっかりだと、ディストピア的な、管理型社会的な、もしくは誰もが理想ばっかり語って何も実務的なことしないで荒廃した世界になりそうでもある。うん、やっぱりバランスが必要なんだね。となればだ、ますます、社会システムって何が一番いいんだろうというのは難しい。サピエンス的には、共通する神話を信じることで「まとまり」をもって、自然や他種族やらに打ち勝ってきた。そうなると、やはりゾーニングの強化しかないのか。そういう意味だと、世界の警察みたいに言われてた某大国の方針転換のような、保護主義が正しいのだろうか。繰り返しになるが、150人の小さな集団のように、今の地球における人類は少なくないので、ヒトラーとかスターリンとかポルポトのような独裁者とか、某国の大統領とか、一人の力という考え方は幼稚である。ある程度の大きな集団が、それらを支持しているから、発生する事象なのである。そのメカニズムは何なのか。一人一人の価値観である。しかしそれは、一人ひとりに分割されるものではない。分けていけば、それは「個人の主義主張でしょ?」的なものに終始してしまう。一人一人の価値観の集合体が、いわゆる文化的な奴が、その正体である。でもそれを適切に言語化するのは不可能だ。あまりにも複雑だからだ。だから、そういう概念があるということを知っていることしか自衛手段はない。一人の力はちっちゃくて、塵のようであるが、でも、できることをするしかない。選挙にいくとか、ゲームの内容が気に入らないのであれば、意見をメールしたり、課金を停止して意思表示するとか、それしかできない。それでも変わらなければ、自分の生き方を変えるしかない。だから、そう考えると、4タイプの、司令型や、注目型や法則型の、理想型以外の人たちは羨ましい。環境に応じて生き方を変えやすいと思われるからだ。一方、理想型はそうはいかない。でも、自分のその「理想」なるものが、どういう経緯で構築されて、どういう目的で欲求化されているのか、そこを分析することで、現実と理想とのギャップを知ることができる。そして理想を曲げることなく、ギャップとすり合わせることも可能なのではないか。そんな風に思う黄昏時であった)

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氷は冷たいから痛いんだ
2020/05/10 05:02 | Comments(2) | イライラ対処
今日の一言「コーヒーの話」

まえがき

 午前3時……これは、朝なのか、夜なのか分からないが、取り敢えず、起きている人は少ない時間だろう。
 この時間に、「頭を白紙にしたい時のBGM」をかけながら、ブログを書くということほど、人生の幸せな時はないのかもしれない(大層大仰な表現)。

 僕はコーヒーが好きだ。これはまぁ、前から書いているし、多くの人がそうだろうし、特に身バレするようなこともなければ、珍しいことでもないだろう。
 でまぁ、家でもドリップ――といってもコーヒーメーカーで作るのであるが、アイスコーヒーの作り方について、その機械の説明書に書いてあって知ったのだが、先にポッドに氷をいっぱいにして、通常の方法でドリップするのである。

 へー。っと思ってやってみたら、確かに、上手に作れる。旨い。

 そろそろ、アイスコーヒーの時期になってきた。
 ということで、氷をいっぱいにして、作るのであるが、その氷も少しこだわって、スーパーなどで売っているロック氷を買ってくる。

 でその、ロック氷なんだが、冷たいんだ。

アイスコーヒーの氷の話

 なんかその、コメントを頂いた、そちらに返信せねばと嬉しくなる。
 もともと、何か書こうと思っていた気がするが、思い出せないから、とりあえず、この記事はもうコーヒーの話で終始しようかと思う。

 コーヒーの話ですらないんだ、氷なんだ。

 いやあの、ロック氷を、スーパーで買ってくるわけ。
 ロック氷って、何かというと、まぁ割と大きめの氷なわけですよ。ごつごつとしたやつ。
 なんでわざわざ氷を買うかというと、大きめの氷の方が、アイスコーヒーが美味しくできるから(理由は、温度というか、大きい氷の方が溶けにくいから、コーヒーが薄まらないだろうと思われるから)。

 スーパーから帰るのに時間があるわけ。
 そうすると溶けるの、わずかながらに(大きい氷の方が溶けにくいと書いたことと矛盾するようだが、まぁ、わずかながら、という意味)。

 そうすると、氷同士がくっつくわけ


 くっついた氷を、引きはがしながら、コーヒーポッドに入れていくわけ。

 これが、冷たいんだよ、手が。

手が冷たいという話

 ここまで書いて、カテゴリを、「イライラ対処」にした。
 いや、まぁ、その、そんなにイライラしていないんだけど、「思考」カテゴリとは程遠い内容だと自負したのである。

 いやでも、手が冷たいのは本当である。本当に「痛い」。

 であれば、もう冷凍庫で作れる小さい氷でいいんじゃないか、ということにもなるが、まぁそもそも冷凍庫で氷を作るのが若干面倒というのもある。


 それで、何故「痛い」のかと思いを巡らせた。

 それは、温度変化である。

 体温は、37.5℃を以上だと通常平熱ではないというらしいが、それと、0℃の氷とでは、温度が大きく異なる。

 熱は、中間を目指す。高い温度は低い温度に。低い温度は高い温度に。

 というわけで、僕の「痛い」手は、氷のほうに熱を奪われてしまうのだ。

 だから痛いのだ。
 だが、そこからもう一歩考えたい。

 温度が奪われるのは何故痛いのか。
 それは、僕らの細胞が壊れるからだ。

 分子活動。細胞の活動。
 それには適切な温度がある。0℃は、到底細胞が活動できない温度。

 急速に活動ができない温度に変化していくことによって、人間の痛みセンサーが「危険」判定し、脳に「痛い」という状況を伝達するのだ。

あとがき

(かっこ書きである。くっついたロック氷を上手く剥がす方法はないものだろうか、という記事であった。割とよくまとまった記事だと思う。言いたいことは分かりやすいだろう――それが面白いかは別として。固い部分に袋のまま叩きつければいいのでは? と思うだろう。実際それもやってはいるのだが、割と固く引っ付いてしまっていると、がんがん叩きつけても中々剥がれてくれないのである。朝4時にがんがんするのもどうかと思うし(近所迷惑)。精巧なアンドロイドを作ったとして、冷たいことに対しての痛みというのをインプットする必要はないだろう。0℃という温度でも活動できるとしたら、わざわざ痛いと思う必要はないのだ。痛みは、危険を知るためのシグナルだ。危険でなければ痛くなくてよい。――ただし、「精巧な」アンドロイドの場合であれば、その振る舞いが、それを見る側にとって人間的であればあるほど、日常的にアンドロイドと人間との違いを気にする場面が減るはずだ。となると、平然と作業しているアンドロイドを見て人間が不意にその、冷たい氷を触ってしまうかもしれない。氷ならば「冷たい!」となってすぐ手を放すが、逆に熱いものだったりすると一瞬で細胞構造が壊れてしまうかもしれない。――そんな当たり前のこと、と思うが、アンドロイド製造メーカーは、それによってやけどをしてしまった人に訴えられるかもしれない。社会問題になり、製造物責任法(PL法)に抵触し、今後アンドロイドを製造する際は、「痛み」に敏感にする機能を取り付ける必要が発生するかもしれない。ただ、それはコスト的にどうなのか。人間側が気を付ければいいのではないか。なんでもメーカー側に責任があるのか。法律で規制する必要があるのか。安全を求めることは重要だろうが、過剰な安全は、身動きを取りづらくし、正常な発展の阻害となる場合があるのではないか。テンキーの配置(1234……の並び)が逆のキーボードがあって、それによって数値の誤入力をし損害が発生した場合、キーボードメーカーが悪いのか。そんなキーボードがあったら確かに悪意があるような気はする(わざわざ表記された数字は見ないだろうから。でも画面は見るか))

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なんだか上手くいかない毎日
2019/11/16 20:45 | Comments(1) | イライラ対処
今日の一言「いやなことが多い」「からだがだるいことが多い」

前書き

 はぁ……。何だか、ため息が出る。
 いくつか、問題があって気分が滅入ることがあるが、色々書こうとすると更に気持ちが落ち込みそうだから、一つだけに絞ろう。
 広く書けば、人間関係についてだ。あと、リアル世界の話だ。創作ではない。

エリート意識もバカ開き直りもうざい

 うざい、という言葉は、言い換えれば、面倒だとか不快だというものである。

 どこどこの誰がどういった物をもって、生活をして、誰と付き合って、何をして、――そうした話題がものすごくどうでもいい。どうでもいいどころか、そういう話が気持ち悪いとすら思う。気持ち悪いという言葉を言い換えれば、要は不快である。

 誰が頭がいいとか、やる気があるかとか、すごいとか、どうでもいい。
 プライド、というのは、モチベーション維持に大切なのかもしれないが、聞いていて心地よいものではない。

 ――そういうことを思う人はいるのである。大っぴらに話に上ることは少ないかもしれないが、しかし、高校のときでも嫌というほど感じだ。


 一方で、「私バカだから分かんない」というバカ開き直りも不快である。分かろうとしない態度は気持ちが悪い。


 その両方を感じることが多く、広い意味での人間関係が面倒くさい。

要するにイライラする

 引き続き歩きたばこをしている奴にもよく遭遇するし、気分がよくない。
 店や電車の中でギャン泣きする子供のそばであやしもせずにスマホいじる親に遭遇するのも気分がよくない――いや、今、穏やかに書いたけれども、別に親が必死に子供をあやしていようがイライラは変わらない。

 ウォークマンというか、イヤホンを忘れることは死活問題である。

 音。
 音というのは、空気を媒体にする波を耳という器官が受け取って感じるものである。

 大きな音というのは、危険を知らせるという意味で、ストレスになるのだろうか。
 しかし、猛獣の咆哮は恐怖だが、餌を得るのに咆哮は必要なのか。忍び寄って飛び掛かって食い千切った方が効率的な気がする。――違うか、むしろ猛獣の接近を知らせるために、被捕食者が発するために大きな音が必要だったのか。
 まぁ、それが生物学を学んで分かったとしても、対処方法としては、ウォークマンをいついかなるときも忘れないようにするということである。


 ――話をアルキタバコに戻せば、赤ちゃんの音は、まぁ、赤ちゃんだし仕方がないし、彼・彼女らにとってそれは生存欲求であり必要な仕事であるのだから、仕方がない――と思わざるをえない。僕の身体がイライラを覚えたとしても、理性的に思えば、仕方がないのである。

 一方で、アルキタバコはこちら側で防ぐ方法がないし、かつ、原因が、ぜんっぜん仕方がなくないので、イライラするのである。

 お店で、喫煙OKなところで、モクモクしていようが、それはまぁ、仕方がない。運が悪かった。そういう可能性がある店を選んで入ったのだから、こちらにも原因がある、避けようもある(そういうところに行かないこと)。
 一方で、アルキタバコは――(以下略)。

あとがき

(かっこ書きである。土日はとにかく眠い。眠い――というか、やる気が起きない。「やる気」ってなんだ? まぁその、頑張ってやる気を出そうと、「これとこれは、ここまではやろう」というのを朧げに考えて決めていたりするが、冒頭に書いた色々な事情(今回言及はしていないが)によって予定通りに行かなくなったりする。そうすると、またやる気が起きなくてただ惰眠になったりする。なんか、今回の記事だと歩きたばこでイライラしているだけな気がするが、そういうわけでもない。仕事めんどくさいなぁというのもある。仕事とプライベート、の計画の立て方、人間関係――うーむ、上手く書けない。――俺は思う。100字でも50字でも、ちゃんと毎日書き続けているというのはすごいことである。ツイッターやろうかな――いやそれはない。どう考えても面白いことが書けない。「あー今日は出張だから出発時間がやや遅くていいけれども出先で何言われるか分からないし難しいしメンドクサイなぁ」53字。そんなこと毎日呟くアカウントがあったら、俺はタイムラインに出ないように工夫する(かっこわらい))

あとがきからの一つ内容

(かっこ書き書いていて、長くなってきたので別小見出しにした)

 まぁしかし、この記事も内容としては同じようなものなのであるのであるが、「長い」ということと、「多角的」「多面的」アプローチがあれば、まぁ存在価値はゼロではないと思うのだ。なんとなく読み返せば、今回の記事で掘り下げたかったのは、「他者への興味」問題である。「誰かと何かをする」というのはいいと思うのだが、何か、他者の属性的な話は「どうでもいい感」が強い。興味がない。もてない。でも、仕事進めるにおいて、単純作業や既に決められている業務ならともかく、大抵の面倒くさい仕事は、「調整ごと」が必要である。それがイヤ。まぁそれは仕事のことか。

 うーむ。雑談――嫌いとかじゃないのだろうと思う。ただ、仕事という関係のある人との間になると、それだけではないので、面倒くさい。面倒という言葉を単純に使ってしまうけれども、まぁ、100%信頼・信用できない、というのがあると思う。

 陰で何言われているか分かったもんじゃないしな。――というのは、僕がこうして「裏」で書いているという意味ではなく、実際にほかの人がほかの人に話して、というのを知っているからである。

 うーむ……。なんも解決しないな。
 しかし、まぁ、今回の記事のようなことが頭の中に渦巻いているのである。
 面倒だろう(かっこわらい)。

 気持ちよく過ごすことができない原因だ。
 いやまぁ、土日は休みだ。しかし、来週、再来週の、そして、来年のことを考えると(考えなくてもいいじゃないか、というのは当てはまらず、考えておかなければいけないのである。3月になって考えてもそれはもう何も現実的には変わらないのだ)、考えようとして考えることが面倒で、寝る……というパターンか。

 まぁ、頭を使うと眠くなるものである。仕方がない。
 仕方がない。仕方がない。仕方がない――と、いつまで仕方がないを続けるつもりなのか。

 知らん。
 10年後、20年後のことなんか分かるか。

 過去、10年前の自分の書いた記事を読んでみたとして、将来、予見できていただろうか。一切わからなかった。そして、当時の自分に、僕は何か、今の全能力を使って、アドバイスできるとして、何ができるのか。
 シュタインズ・ゲートは、2009年発売なので、名作だから絶対やるべき、と伝えるのはアリかもしれない。しかし、当時の僕がそれを見て、僕が実際にみた2016年? 2017年? ほどの感動を得たのかどうかは分からない。僕は別に、そのこと(出会った時期が遅かったこと)を後悔などしていないし、当時の僕もそうだろう。

 で、あれば、何ができるか。社内のキーパーソンを教えるか。その人の好きなこととか、敵対している人物を教えておくか? 無駄だ。そういうことが、僕は当時から面倒くさい。好きじゃない。興味がないのである。

 当時の自分へ、彼女に振られて落ち込んでいるだろうが、将来女性とお付き合いして結婚もできるから心配するな、もっと自分に自信をもて、と言ってやることは可能かもしれない。しかし、「自己肯定感」とは、誰か他の人に言われてすぐに向上するものではない。まぁ、今回の思考実験として、「未来の自分」からの言葉なら、ある程度効果は発揮されるかもしれない。
 がしかし、そこで自信つけたとして、高嶺の花子さん的なのに果敢にアタックして撃沈を繰り返した場合、逆に自信を失ってしまう未来改変にならないか。


 他者から何を言われようが、決めるのは自分だし、未来がどうなるかなど、分かりはしないのである。

 いや、アドバイスやコメントやら、他者からの働きかけはとても感謝である。その次元においては。しかし、明確に未来を見通すことなどできないのだから、「影響の一つ」でしかないことは仕方がないのだ。

 量子論でも、電子が観測されうる場所は確率なのだそうだ。速さと時間が求められたら位置(距離)がわかる世界ではないのだそうだ。

 人間存在も、そういうものなのだろう。ここでいう人間存在とは、思考のこと。精神のこと。
 僕が、頭と背中が痛い状況でこの記事を書き始めて、こうした記事が出来上がったことは、誰も知る由はなかったのだ。


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更新不可
2019/10/20 16:09 | Comments(0) | イライラ対処
今週のルーチンは多忙などにつき更新できません。

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なにもしたくないことがしたい
2019/09/29 21:02 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「やる気は必要か」

前書き

 PCでマイブログ見ると、サイドバーに、「〇前の記事」的なリンクがある。これはブログのプラグインではなく、自作の簡易プログラム(javascript)だ。
 ま、それで、先月の記事を読んでみると、なんだかクレーム対応して取り急ぎうまくいったようだ。よかったよかった。
 ――後日談で、同じ人から再度かかってきて、「やっぱりこういうケースは云々!」ってあって、「まぁそうだけどさぁ、こういう風に書いてあるよね」(もちろん全部敬語だ)的な感じの対応が1時間ぐらいあったことは、当時書いていて知る由もなかったのであった(物語風に)。

 知る由はなかったが、「今回うまくいって、次もうまくいくか分からないし」とか、まぁ想定どおりではあり、別に驚くことでもない。

 とかって、どうでもいいことを書いてしまうが、前書きだし、仕方がないか。

何もしたくない

 モチベーション、やる気、目標、将来、意味。
 ほんっとどうでもいい。
 マジやる気でねぇ。

 って感じだった。いや過去形でもないが。
 とりあえず、ブログ書くのは、ルーティーン(ルーチン・日課)的なやつだからまぁできるけれども、ほんっと「どうでもいい」って表現が、よく心を表現している気がする。


 そして僕はふと思った。
 僕が「したいこと」は、何もしない、ということなのではないかと。


 ――と、いうよりも、思うに、「人と関わりたくない」という気持ちが強い気がする。

 ネットはどうなのか。
 ネットは特殊であるといえる。メールもそうだが、「相手」の空間同一性がない。
 電話も空間性はないが、「時間同一性」がある。

 他者との時空の同一性がない点が、ネットの最大最高のメリットである。

何故何もしたくないのか

 なぜなのか。

何故人とかかわりたくないのか

 なぜなのか。
 面倒くさいからである。

 あと、「俺がしたいこと」と違うからである。
 俺がしたいこととは何か。それは、明確になっていない。しかし、なんか違うことは間違いなく分かるのである。

 広く言えば、俺は、ものすごく面白い物語を創りたいのであり、ものすごく面白い物語に触れたいのである。

他者の人生ほど面白いものはないのではないか

 え、それはマジでいってんのか。
 現実生きている人間に興味はない――というのは極論過ぎて頭おかしいが、少なくとも、周囲に面白い人間はいない――って書くと涼宮ハルヒのようであるが、まぁやさぐれているときの気分としては遠からずである。

 

何もしたくない(2回目)

 この記事は、カテゴリも「イライラ対処」だから、とにかくイライラを表現することが目標である。
 何故イライラするか。仕事がめんどくせぇのもあるが、なんか10月も休日に予定があることに起因する気がする。
 じゃあ、やめちまえ、ということになるのだが、……まぁ、大人の事情でなかなかそうもいかないのである。



 ――というかだな、「やめちまえ」の許可が出始めると、「俺は人間やめるぞ」状態になる気もする。「ケモノノヨウニヒキコモリタイ」。



何もしたくないとは何か

 俺に、今ここに、2時間ぐらい時間があるとする。

 そう2時間。2時間なんて、1日24時間なんだから、睡眠時間削るでもなんでも、すぐにねん出できそうなものだ。

 だが、切り取られた2時間は、なんか、その、違う。


 何もしたくないというのは、「すべて」と隔絶した時ということなのである。
 時間制限付きの「何もしたくない」などは、邪道どころか愚弄である。


何もしたくないことを表現する

 最高の状態を考えたい。
 それが実現するかどうかは別として。
 どういった状態が、僕に、最高の人生であると感じさせてくれるのか。

「全感覚の遮断」

 ――それは、死ではないか……とよぎるが、表現が稚拙すぎるので、もう少し真面目に考えたい。
 何もしたくないとは、何なのか。

 呼吸をやめたいということなのか。いや似た心境として、食事をしているとき、「食べるのも面倒くさい」と思うことは皆よくあることだろう(いや「よく」は、ないって)。

 呼吸をやめたい、とは思ったことはない。
 食事、と呼吸とは、大きな乖離があるのだ。食事には、主体的な意思がありそうだ。呼吸は無意識だからかもしれない。

 そう、だから、呼吸をしたいとか、したくないとか、そういう次元ではないのである。
 呼吸は無意識に、しているのだ。
 だからこそ、武術などで、呼吸すらも支配することが重要であったりするのだという、たぶん。

眠いとは違うのか

 何もしたくないというのは、眠りたい、というのとは違うのか。違う。

 眠ったあとに、頭がすっきりすることはある。
 しかし、本当に精神的にまいっているときは、眠りにつくときも、眠っていても、眠りから覚めても、気分はまいっているのである。


 そもそも、「何もしたくない」ということは、「何かをしている」ということなのか。

 例えば、電車に乗って帰宅するとき、「ああ何もしたくない」と思う。
 しかし、別に電車に乗っているだけだ。車掌さんに感謝こそし、自分は「何もしていない」のではなかろうか。

 いや違う。「電車に乗っている」ことをしているのだ。また、「面倒くさいことを考えている」ことをしているのだ。
 何もしたくないとは、意識を無にしたいということではなかろうか。

坐禅しよう

 つまり、最高の状態とは、坐禅である。
 以上。

 ……おぉ……そうだったのか。
 ちなみに、上の結論的なことは、当然、「前書き」書いていたあたりで、一切考えついてもいんかったことである。思考、面白きかな。

あとがき

(かっこ書きである。寝るのと、坐禅とは違うのか。睡眠時間の方が大切ではないか。ゴウタマ氏や道元氏が聞いたら卒倒しそうであるが、改めて違う、と言っておいたほうがよいだろう。記事本文で書いた通り、寝たところで、思考が滅入っているときは、眠りは有効な解決手段ではないのである。――とりいれてみよう、と思いつつ、今週は野暮用のせいで、できない日が複数ありそうである。だが、坐禅(と書くと、宗教じみて気持ち悪いと思われそうだから、「瞑想」でも、表現はどうでもいいのだが)を日課に取り入れてみることは、検討余地ありそうだ。心が、得体のしれないイライラ、もやもやで、乱れている。「自分」が乱れているときに、「他者」の働きかけは無意味である。これは、他者が悪いのではない(といっても、だれにもつたわらない)。「自分」という存在が崩れかけているときに、他者が立て直してくれるというのは人間存在の冒涜である。他者の働きかけが有効なのは、「自分」の核(コア)がしっかりと形成されている状態が故である。今すぐにでも自殺しそうな緊急性を除いて、他者は役に立たない。話は変わるが、「可能性」という呪いがある以上、自殺は論理的にできない。一方で、「理解」(または「自我の確立」)というのは、可能性をつぶしていく作業である。というわけで、瞑想を検討する。その取り組みと結果を来週書くことにする)

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