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離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
カテゴリー「学習勉強インプット」の記事一覧
人間とは何か P.3~19 要約

精神療法と医術と技術

 精神療法にとって、「健康とは何か?」という問いに明確に答えるのは難しい。
 精神療法は、医師の人格によるものと、技術(〇〇法といった法則の体系)によるもの、両方の極を交互に選択、し、計算に入れなければならない。
 これは、安易な折衷主義ではない。
精神療法はもはや排他的な要求をしてはならないということである。われわれは、一つの絶対的真理を直接理解することができない以上、相対的な真理を相互に修正することで満足しなければならないのである。それどころか、一面性への勇気を奮い起こさねばならない。――P.6
 上の引用について、少し解釈というか、感想を入れたい。

 この、一面性という語は、この後も何度もでてきて、「唯一性と一回性」という表現に変遷していくのだけれども、非常に大事な観点である。
 ここでの例として、ある交響曲のフルート奏者が持ち出される。フルート奏者は、オーケストラの一部、一面でしかないが、フルート奏者がそれを超えて他の楽器を演奏することはできないし、求められるものではない。ただし、複雑なタペストリー(織物)の一部が、無くてはならないように、一部であること、一面的であることは、決して恐れるものでも無駄でもないのである。

 遠藤浩紀さんの「EDEN」という作品で、主人公のエリヤくんが、「僕は世界の欠片に過ぎない。けれども、僕が死んだら、世界は、世界の一部を確実に失うんだ」なんて思いにふける。

 そうは言っても、やっぱり、一部だとか、欠片だとかいうのは、大そう心もとないものである。子どもの頃はみな、世界が自分を中心に回っていると思っていたり、大きな夢を抱いていたり、することだろう。それが、大人(※)へと向かっていくにつれて、段々「現実」なんてものに打ちひしがれていく。その中で、一部だとか欠片に過ぎない、という思いが助長されていくこともある。

 それでも、フランクルさんは、
「一面性への勇気を奮い起こさねばならない」
 と言うのである。


※「大人」という言葉も嫌いな言葉の一つである。昨今、「高齢者」という定義も見直されようとしている。成人=20歳というのはまだいいが、大人という言葉は甚だ曖昧であろう。モラトリアム期が30歳までとされる見解もあるという。じゃあ大人って何だろうね。ただし、大人という言葉を今後も使う必要性は感じないが、「責任」というキーワードは、重要になるように思われる。

実存的空虚感

 20世紀という時代から、精神医学会に新たな問題が立ち現れてきたという。
「私たちが今経験しているような危機の時代においては、意志はどうしても哲学に専心しなければなりません。私たちの時代の最大の病は、目標喪失、退屈、意味と目的の欠如なのであります」――P.9~10「あるアメリカの大学教授の講演」
 多くの患者たちは、自分の人生の意味を疑っているか、意味を見出すことについて絶望しているという。
 これを、「実存的空虚感」とフランクルさんは言う。
 そして、これが神経症の症状として現れることについて、精神因性神経症(noogene Neurose)というのである。

 ここで、素人はつまづくのであるが、「精神因性以外に、何があるの?」と思うのである。それは、「身体因性」「心因性」のことであるが、「身体因性」というのは、脳機能や内分泌機能の障害によるものとして理解できたとして、「心因性」というのが難しい。ひとまず現時点では、「精神因性」と「心因性」の区別としては、「心因性」については、ある原因(例えばトラウマ的な、直接的原因になるような事象が影響している場合)によるもの、としておこうと思う。
(逆に、「精神因性」は、特段直接的な原因が見いだせないものという理解をする、ということである)

 さて、その精神因性神経症に対して必要なのは、「意味と価値への人間の方向づけ」であるという。
 これについては、「患者に多大な負担を強いるのではないか」との批判など多く受けるだろうとフランクルさん自身は述べている。しかしそうはいっても、トランキライザー(抗不安剤)で病状を取り除いたり、心理学主義的に、意味とか価値を求める人間の心性というものを、「防衛機制ないしは二次的な合理化に過ぎない」などということはできないだろう、ということだ。少なくとも私はそんなことのために人生を賭けたくないと。

 さらに、実存的空虚感は、社会的な、集団的な影響も考えられる。
今日、人間は本能の乏しさに苦しんでいるだけでなく、伝統の喪失にも苦しんでいる。今ではもはや、本能は人間に何をしなければならないかを告げず、また伝統も人間に何をなすべきかを告げることがなくなっている。やがて人間は何をしたいのかもわからなくなり、ただ他の人々のするとおりにするだけになるであろう。つまり、画一主義(コンフォーミズム)に陥ってしまうのである。――P.12~13

実存分析とロゴセラピー

 と、いうわけで、新しい精神療法として、「実存分析」、「ロゴセラピー」が必要になっている。この「人間とは何か」においては、実存分析とロゴセラピーについての、解説がなされている、というわけである。

 ここまで、「はじめに」の要約だけれども、多分に僕の恣意的なまとめになっていることを、ここで書いておこう。最近書いていることであるけれども、あくまで、僕の目的の第一義は、僕自身の救済である。ただ、それは、まさしくこのロゴセラピー的な内容とも関連することになるが、「僕自身の救済」はそれだけで完結するものではなく、他者との連関から考えられねばならないということが問題を複雑かつ大きくさせているわけである。
 即ち、「僕自身の救済は、まさに、それが他者の救済へと繋がる時においてはじめてなされる」という点である。

 陽明学の知行合一とかプラグマティズムの実践主義とか、そんな考え方を持ち出すまでもなく、僕が成したことは何らかの「意味」が無ければならない。そしてその、意味を見出すための方策、方法論が、ロゴセラピーなのである(と、僕は思った、というに過ぎないが。はて、ロゴセラピー協会の人が読んだらどう思うのだろうか……。ただ、まだ300ページぐらいで、全部読み終わっていない状態なのでお許し願いたいところ)。


(本の内容に沿って書くというのは、大学時代を思い出すなぁ。最近、ほぼノンストップリアルタイム自動記述で書いていたから楽だったけれども、このまとめながら、自分の考えと本の内容を書き分けていく作業は結構苦痛である。ただ、一回音読しているためか、内容自体はパラパラ読んで思い出せる点はいい感じ。)

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今日の一言「専門書は基礎知識がないと辛い」「もっと嚙み砕いた本もあったのに見栄をはるから……」

「人間とは何か」を読み進める

 ヴィクトール・エミール・フランクル氏の、「人間とは何か」を読み進める。はじめに、が終わって第一章に少し入ったところ。難しいぞ! 頭に入ってこない。こういうときは、音読である。そして、電車の中で聞く。繰り返し聞く。そのうち、何が分からなくて、何が分かりづらいのかが分かってくる。そうしたらようやく、分からないことの解決につとめることができる。

 サピエンス全史を読んでいたときは、それほどつっかかるところがなかった。ある意味、スラスラ読めた。もちろん初めて知ることも多かったし、面白かったのだけれども、論理的に、何が書かれているのかが分かりやすかった。この「人間とは何か」は、まずは、既存の精神療法、心理学において、どこまでがカバーしていて、どこからが不足しているのか、という確認作業から入っている。

 ――巨人の肩の上に立つ小人は、巨人よりも遥かに遠くを見渡せるのである。


 ここで言われる「巨人」とは、フロイトさんと、アドラーさんである。

基礎知識の確認

 取りあえず、フロイトについて知っていることを、何もみずに書く。ヨーロッパ(確かドイツ)の精神科医。エス・エゴ・スーパーエゴということで、動物的な衝動=エスと、親からの規律規範といったスーパーエゴとがあり、自我は、その両者を調整しているのだ。エディプスコンプレックスとか、性の欲望を明らかにした。男は父親を殺して母親と寝たい欲望をもっている、とか。

 アドラーさんについては、……うーん、フロイトと最初は一緒に研究していたけど、後に離反した、くらいしか知らない。

 ちょっと調べてみる。……。

アドラー自身は自分の心理学について、個人心理学individual psychology)と呼んでいた。それは、個人(individual)が、in(=not) + L.dividuus(=devisible 分けられる) + al(の性質)=分割できない存在である、と彼が考えていたことによる。日本では、アドラー心理学(Adlerian psychology)の呼称が一般的である。


アドラーが自分の心理学について個人心理学と呼んだように、アドラー心理学では、個人をそれ以上分割できない存在であると考えることから、人間の生を、個人という全体が個人の必要な機能等を使って目的に向かって行動している、というふうに考えている。より具体的には、人間は相対的にマイナスの状態(劣等感を覚える位置)から、相対的にプラスの状態(優越感を覚える位置)を目指して行動している、と考えている。


WIKIより

 この、「個人心理学」というキーワードは、フランクルさんの本にもたびたび登場する。覚えておいた方がよいだろう。ああ、「アドラー心理学」というのは何か聞いたことがある。内容は全然分からなかったが、なるほど、「個人」という単位を、絶対視しているということか。

 確かにこれだと、フロイトさんとは合わなそうだ。
 ふむふむ、ざざっと調べて読んで見ると、アドラーさんは、「共同体感覚」という、全体としてより良い方向へ向けていく、他者のためになるような感覚を醸成していくことを目指していたということだ。楽観的で、目的論的だな。

 この、目的論的なところは、ヘーゲルさん(テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼぇぇ!!)っぽいな。キルケゴールさんが、「うっせー、世界的な目的なんて知るか! ばーかばーか!」といったの情景が思い浮かぶなぁ。

しばらく学習記事が続くのか

 ふむ、しかし、これ(フランクルさんの本を読み進めること=もっといえば、それを理解して自分の思考に取り入れること)、真面目に取り組んでいくと、相当大変だな。目標やチェックポイントを決めていかないと、かなりの確率で挫折するだろう。

 この、新しいことをする、というのは、最初が肝心である。
 筋トレ、音読、ストレッチは、もう大体毎日のルーチンというか、儀式というか、やるのが当たり前レベルになっているが、初めの頃は結構大変だった。

ルーチンの危機
ルーチンの危機2

 ↑のように、相当意識を、そのやることに向けていかなければいけなかった。一日でもルールを破ったならば、もうなし崩しに崩壊していただろうとも思う。

 取りあえず、大きな目標を定める。2月中までに、最後まで読み進める。(黙読で可)
 あとがきを除くと、456ページある。これを、2月末まで、とすれば、週単位で考えたとき、残り5週間である。(多分、土日がほぼその充てられる時間になる)

 456÷5≒91

 おぉ……一週間に90ページか。これは結構厳しいペースだな。(簡単な本なら余裕だろうが……)

 そして、読み終えた後に、3月には、概括をする。つまり、ポイントになるキーワードやセンテンスをまとめ、それをインプットする。
 その時点で、この本から、「生きる意味」を見つけられるのか、そのための「手段」が見つけられるのか、それとも「資するものはない」のか、分かるだろう。
 もし価値があれば、6月までに、再度読み直し、インプットを確実なものとする。6月の理由としては、2017年を前半、後半として分けたとき、後半は、「実践」に力をいれたいところ。仕事が更に慢性的に忙しくなることが見込まれるため、あまり考える時間も取れないだろう。それについての対策も、6月ぐらいまでには立てておかないといけないなぁ……。

やることは結構ある

 2017年12月には、2018年の目標もたてなければいけないし、忙しい。
 仕事、家庭、勉強、自己、趣味、創作……。

8つの人生の輪という考え方がある。

1.仕事・キャリア 2.健康 3.自己啓発・学び 4.恋人・家族 5.友人 6.物理環境・時間 7.富 8.趣味

これらが、全体的に高まっていくことが、人生にとって重要なのだ、というわけだ。
2016年5月27日の記事


 うん。これも、忘れていた。8つあるんだったね。4番、7番あたりが微妙だなぁ。これに対しての意識は、もう少し高めないといけないかな。





 ――うーん。何か、毎回記事の「オチ」をつけようとして、最近、ずだだだーっと書いてから、最後でウンウン唸っている気がする。別にオチなんてつけなくていいじゃないか、ということにすればいいんだけど、それだと芸がないし、未来の自分に怒られそうだ。

 どうしよう、いい方法はないものか。あ、これもある方の真似をして、ルーチン化してみようか。最後に一言、みたいに。

(その一言が浮かばずに頭を抱える)

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サピエンス全史の下巻突入

 共産主義や資本主義などイデオロギーも、超越したものの信仰に基づく点で宗教と同じであるという見解自体は、僕もかなり前から思っていて、記事にも何度もしていたけれど、それを体系的な本のなかで指摘されているのは中々刺激的であった。
 考えるポイントは、ああ、僕が思っていて、周りの人たちと何だか感覚があわないなぁとの孤独感につながっていたことの確認と、カタルシスではなまったくもって、なく、このサピエンス全史という本がベストセラーになっているこの事実の方にある。
 これが意味するのは、結局何年かして一笑にふされる可能性があることは、この際は脇において、例えば一神教の矛盾、すなわち悪の概念を孕んでいることなど、想像上の秩序と共同主観的な秩序によって、僕らの社会が維持されていることの認識が広まっていくだろうことである。
 もう1つ重要なことをメモすれば、歴史に必然はなく、僕らの未来も、統計学的な大量のデータによってある程度の推測は可能だとしても、ヨーロッパ連合からの主要国の脱退やとある国の大統領選のように、何が起こるかは基本的に定まってなどいないということについて。
 科学革命は、テクノロジーの進歩、というよりも、無知を認める態度の出現が重要であるとする知見は勉強になった。
 何が、ベストセラーであることが重要なのかは、僕らの社会が想像上の秩序に維持されるものであるのだから、この、超越したことへの批判の心が、多くの人に共通した見解になっていったとき、私たちの現実直面する生活にも、大きく影響が考えられることだ。
 先日の記事で、アニメやゲームに対する危険な意識は、この数十年で大きく変わったことについて、書いた。これは、まぁ僕にしてみれば良かった変化といえようが、果たして、良い方向の変化だけが起こる保障もまたないのである。

サイコパス第一期完了

 法律というのは、いくらマキシマ氏の様な異常殺人者を裁けないとしても、人の、よりよい社会をつくりたいという希う思いの総合なのだから、例え、その1つの事例が感情的に許せなくても、法律それ自体を遵守することが大事なのだ。
 ――というのは、サイコパスというアニメーション作品の、ツネモリ監視官の台詞。
 全部見終わった。結論、これは傑作だった。エンディングまでテンションを維持した作品は珍しいと思った。それほとアニメを見ているわけではないから分からないけど、どうしても24話くらすの作品は、全部みる気になかなかなれない。
 勝手な思い込みなのは承知だが、最初や中盤や終盤が面白くても、結局エンディングはまぁよくあるものになりがちと思ってしまう。
 いやこれは仕方がないのだ。最近よく考えてしまうのは、結局、物語って、ハッピーか、バッドか、この後も戦いは続いていく、か、その三通りしかない。
 その後の彼らを知るものはいない、とか、そんな投げ捨てられたダメな終わり方の作品も少なくない。
 だから、僕はあまりエンディングに拘らないというか期待しない。だから、途中まで見て、それぞれの話がまぁ面白ければそれでいいと思う。でもそれは、それで満足してるというわけではなく、もちろん、見終わった、読み終わったあとに、しばらく思考もわかないぐらい、感動して動きがとれないような、そんな体験をずっと期待しているのである。

感動欠乏症

 感動することを求め続けているのかもしれない。仏教的にはダメなパターンとされることだが。
 サイコパスは面白かったなぁ。ツネモリさんと、シビラシステムと、鴻上さんと、マキシマ氏の四者の価値観のぶつかりが良かったね。シビラさんは、価値観なんていったら気に食わないんだろうけどさ。

2016年に思う来年の目標

 良書にであい、10冊をめざす。とか数は必要ないな。一冊でいい。これは生き方に影響するものを見つけられたらそれでいい。
 だいたい、俺の生き方というのも、わかってきた。他者との比較や、常識というものそれは、たとえば、年功序列とか旧来の価値観もあれば、株をやったり資産形成をしなければいけないとか、結婚とか子孫繁栄とか、新しいものであっても俺は懐疑してしまうだろう、これからも。
 サピエンスの本は面白かったが、これが普遍的になった社会に、僕は埋没できるのか、これも疑問だ。
 恋愛資本主義への懐疑は、もはや、この社会で受け入れられつつあるだろう。もちろんこれからも、ナンパして付き合った数を自尊心につなげられる人は絶えないだろうが、そこから離脱を試みる人も増えていくだろう。
 情報通信技術の発展は、僕らにつながりをもたらしつつも、個別化をも深めていくだろう。
 そしてこの感覚に反駁する人もいれば、共感する人もいるだろう。

 シビラシステムは、特殊性を持つ人の集合脳を普遍化した秩序であった。
それは、いささかに気持ち悪さや嫌悪を抱かせるのであるが、ツネモリ監視官はそれを批判するが全否定はできない。
 快楽が普遍化し、システムが生き死にを、生きざまを決定する時代になり、
 どうやって生きるかを悩めた時代は、それは素晴らしかったという。
 描かれ方としては、多くの人にそういった感じを抱かせたろう。
 しかし、それは才能のあるツネモリさんだからだ。
 能力がないひとにとって、なんでもできる環境というのは、なにもできないことはその人の努力不足と糾弾される。

 ある方が、多くの人が満足しているなら、それはそれでシステムとして完成されているといった。
 そのとおり。
 完璧なシステムは存在しない。
 システムを使うのは、運用者たる人間である。

 人間をなめるなよ、と。ツネモリさんは、よりよい社会をつくりたいという思いの総合が法律だから、感情を拝してでも、守らなければならないという。

徒然故郷へ移動中

 移動中にかいていたら、記事が消えた。よくあることとはいえ、悲しいなぁ。
 クラウドとか、ネットワークサービスの向上というけれども、やっぱり、ローカルな媒体の方が安心するよなぁ。

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今年の目標その3

前書き

 休日に、読書に時間をあてるというのは、如何なものだろうか。
 もっと友人たちと遊んだり、クリスマスプレゼントを買いにイルミネーションが輝く街に繰り出したり、そんなリア充的なことをしては如何だろうか。

 それはそれでとても楽しいことだろう。それらの有用性について思いをはせる前に、自分の先日打ち立てた目標を達成すべく、自らの行動を決定する、この決定するという自由意志こそが、人として生きる、ということではあるまいか。

 という言語表現ができるようになったのは、今回の記事のインプット目的の「文字」よりも前の、7万年前の認知革命によるものである。
 しかし、こうした口承によるものは、150人程度の噂話で繋ぎとめられる集団をはるかにこえ、大きな国という概念に発達したサピエンスの集団を維持するシステムには不十分だった。

数理的データの取り扱いの必要性

 国を維持するには、税金が必要である。
 税を徴収するには、国の成り立ちを物語る、神話や法律の制定を繰り返し口頭で伝えるだけでは不十分だ。何故ならば、人は、大量の数理的データをインプットできるような脳構造をしていない。
 狩猟採集民は、我々現代人(の個々人)よりはるかに深遠で幅広い自然についての知識をインプットしていた。しかしその知識は、どの木に食べられる実がなっているか、にとどまり、その木に何百の実がなっているから、自分の集団に必要な量はこれぐらいで、残りは他の部族との貴重品の交換に用いよう、とはならない。

 税金を徴収する場合は、国に住む人たちの数の把握はもちろん、個々人の所有、負債、控除や割引の情報、滞納金や罰金といった数の情報を保持しておく必要がある。
 数万人単位の国において、それらを、どんな天才的な記憶力を保持する人がいたとしても、正確に処理するのは難しいだろう。


 ということで、紀元前の3500年ごろ、それよりもっと前から発明されたのは、書記という体系だった。

不完全な書記体系と完全な書記体系

 まず、私たちの用いる言語表現は、「完全な書記体系」である。一方、はじめに使われ始めた文字、書記といった体系は、もっぱら、「数理的データ」を取り扱うものだった。

 2万9千 大麦 37年 クシム

 みたいな。クシムというのは、肩書かもしれないし、名前かもしれないということだが、署名だとのことである。もしそうだとしたら、人類初めの認識できる当時の名前をもった個人である、とのことだ。


 不完全な書記体系というのは、話し言葉によるものではなく、一定の、限定された領域の表現を目的とした書記体系のことである。

 アンデス文化においては、縄目のキープと呼ばれる書記体系が用いられた。縄にコブをつくり、それによって数を現したということだ。スペイン人に支配されるまで、それで十分高度な文明を維持発展させることができたということだ。

今回インプットすべきこと

 本の内容をまとめる作業というのは、大学のレポートなどでは重要だろうが、正直面倒なものである。しかし、ここで、正確な引用(例えばページの何ページにこう書いてあるから、これはこういう意味である、とか)を行って考察するということは必要ない。
 本のレビューをしようというのではないのだ。


 例えば、キープという文字の存在は、「ああ、そういえばそんなのあったね」という記憶はあっても、その記憶を呼び起こすだけに本を読んだのでは、あまりにもったいない。

 そうではなくて、知見としてインプットしたいこととしては、

 文字は、まずは数を保存するために用いられたこと


 ということだ。
 同時に、忘れないようにすべきなのは、「認知革命」が起こったのは、7万年前であり、人類が決して、文字の使用を始める前に、「神話」的ものがたりを想像しうる言語を使っていたということである。

 巨大な柱や、ラスコー、アルタミラの洞窟壁画といった、宗教性を帯びた作品を狩猟採集民たちも残しているということだ。

 もっと思い出してみると、言語は、サピエンスだけの特有のものではない。

「ライオン きたぞ やべえ 逃げろ」

 というのはネアンデルタール人も発していただろうし、霊長類、いや、それいがいの動物においても、集団の仲間に情報を伝えるために発声するということは行っている。

 サピエンスの進化で重要だったのは、「事実」の伝達以外に、「物語」を語ることができる言語を発明したことであった、そのことである。

文字とそれをアウトプットする方法

 流れに沿って書いていくのに飽きてきた。
 今後、僕の言葉で書くと、「概念記憶」の重要性が高まっていくように思える。これも別に新しい概念ではなく、「ストーリーをつくる技術」とか、ビジネスにおいても重要だよ、ということがうたわれていたりする。

 虚構の言語の発明、集団の巨大化、文字の発明、思考方法の変化。

 こうやってインプットしていると、つい忘れてしまうのだけれど、サブカルチャー的な存在も念頭においておく必要がある。
 確かに、言語や、文字による集団の統一かがはかられていたことは疑い得ないだろう。しかし、それ以外の、例えば、音楽的な要素……または、踊りや舞いといった、人々の感性にうったえかける概念が集団の統一化に寄与していた面はあることだろう。
 そういったものの証明は今後も不可能に思われる。文字の発明の起源は、年代の特定技術や発掘技術の向上により徐々に明らかになっていくかもしれないが、音楽は証拠として残されるものは何もないからだ。

 初期のメソポタミアのシュメール人が残したのは、もっぱら行政上の処理であり、不完全な書記体系であった。それが、紀元前3000年ごろになると、象形文字や粘土板に刻まれた楔形文字、中国の亀甲文字など、数理的なものだけでなく、口頭での表現や、神話や愛の歌も記せるようになっていったという。


 だが、それでめでたしめでたしではなかった。
 たくさんの情報を保存できたとしても、それを適切に管理し、必要な時に引き出す方法がなければ、机の周りに積み重なる書類の山でで辟易してしまうことだろう。

 それにより、官僚制や、文書管理責任者(法律家や会計士など)の役職が固定化することとなっていった。

コンピュータへの教育

 そして今私たちは、更に思考方法を変えて、コンピュータに対して分かりやすい言語を用いるようになっている。1か0の世界。2進法。
 外部記憶装置(ハードディスクやUSB記憶媒体)に記憶(日記やブログ)すらも保存するようになった。

 人工知能は、1か0の書記体系で、サピエンスがどのように思考し、感情を有し、表現するのかを教えようとする試みだ。
 そうすることで、私たちの生活や人生がより豊かになることを信じて。

 この、人間とサイボーグとアンドロイドとの違いという部分については興味のある分野だ。
 精巧なラブドールがつくられ、リアルなアンドロイドが作られている。

https://www.youtube.com/watch?v=KmTRU04AvRc
 ↑これはまだ不気味の谷が残ってる

https://www.youtube.com/watch?v=BQvX8UKN4VI
 ↑これは3DCGだが、ここまでくるとアリだ、と思う

 見た目の問題は解決するかもしれない。
 しかし、思考については如何だろうか。

感情の体系

 不確定な要素があるから、人間は人間なのだ。と言い切ってしまえば、人工知能など不要である。
 治水のために暦を発明し、効率的に人を殺すために兵法を深め、自然を支配し自らが豊かになるように人は知識と行動を積み重ねてきた。

 人工知能も、人の生活をよりよくしてくれるものだと、そう信じているから今投資が投資をよんでいるのだろう。

 サピエンス全史でもふれられているが、それに対して懐疑することは、さほど意味をなさない。
 共同幻想(共同客観)が醸成された場合、個々人、少ない集団の考えは、当然「異端」として排除されるか無視されるだけである。

 マトリックスやターミネーターのような、人工知能の反乱が描かれていても、昨今人工知能への期待が高まっているのは、やっぱりそれが、「金になる」と同時に「人にとってよいもの」だという期待があるからだろう。


 しかし恐らく、「人工知能」に対しての印象というのは、今の時点、多くの人にとって統一をみていない。
 例えば、自動運転の技術だって、人工知能なんじゃあないかと僕は思ってしまう。前の車との距離を確認し、白線の内側を走っていることを確認し、アクセルとブレーキ(エンジンブレーキ)によってスピードを調整して目的地を目指す。というのは、人間が行っている思考や行動と何ら変わらない。それを自動的に行っているのだ。

人工知能

 複雑な製造を行う工場でのロボットたちも、「知能」をもっていると言っていいのではないか?

 多分、違う。

 人工知能といっているのは、もっと高次の思考体系……つまり、「創造」ができることを指しているのではなかろうか。
 つまり、プログラミングされたこと(自動運転や工場で製品をつくること)ではなく、新たに、現存する情報から、必要な情報をピックアップし、そこからシミュレートし、新しい結論生み出すようなこと、そういった創造ができるのが、人工知能と呼ばれ、期待されているものなのではなかろうか。

(上のは、完全に世迷い事、というか、何も調べず書いているから、適当極まりない単なる個人的な感想ですらないメモというか落書きだ。)


 そうなったとき、果たして、人間が果たすべきこと、これから学ぶべきことって何だろうか。

 いやそもそも、理想の社会って何だろうか。
 汗水たらして働くことが重要ではない、ということだろう。汗水たらして働くことが重要なのだとしたら、ロボットや工業化や人工知能は不要だ。
 楽して効率的に食糧や価値を生産することが大事だ、ということだ。

(とか考えると、完全蛇足だけれども、やっぱり、「頑張ること」とか、修羅場をくぐりぬけるとか、そういったことが昨今の時代要請に逆行しているように思えるのであるが、これはまた別の機会に)

 と、本の内容と段々かけ離れてきた段階で、終了とする。何だかこのまま続けても終わりがなさそうだ。


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今日の一言「自分の感じていることを明確に文字にされると感動するね」
今年の目標その2

ハンムラビ法典もまた秩序である

 腹を抱えて笑った。
 いやぁ、狩猟採集民の生活の分析も面白かったけれども、まだまだ面白さは加速しそうである。




 最近の、というよりもこれまでの中で買ってよかった本のベスト10ぐらいに入りそうだ。
 これを紹介してくれた方には感謝感謝である。

 いやまさか、こうした学術書? といっていいのか分からないが、歴史学的な本で、笑わせてもらうとは思わなかった。
 いや、端的に書けば、紀元前1776年のハンムラビ法典と、紀元1776年のアメリカ独立宣言との対比が秀逸だった。
 そもそも、同じ1776年を対照させるアイディアが面白い、のだけれども、結論的に、どっちも「想像上の秩序」であるという説明が、小気味よいほど面白かったのだ。

人間は自由か平等か

 ハンムラビ法典は、神に認められたハンムラビ王が、上層自由人と、自由人と、奴隷および、男女によって人を分けている。
 一方、アメリカ独立宣言は、同じく神(造物主)によって、生まれながらに自由で平等であると謡われる。

 でも、本当にそうなの? 生物学的にどうなの? という投げかけ。

「我々は以下の事実を自明のものとみなす。即ち、万人は異なった形で進化しており、変わりやすい特定の特徴を持って生まれ、その特徴には、生命と、快感の追求が含まれる。」

 アメリカ独立宣言を、生物学的に再解釈した文章。これがどう面白くて、僕が大笑いしたかは、P.133~から読んでみる必要がある。

 とにかく、僕は思った。
 つい先ほどまで、「あー、こんなくだらないこと書いてたりするのは、きもいって思われるんだろうなぁ」とか思っていたけれども、この本の著者の方がよほどキモチワルイじゃないか!(失礼? いや、敬服である)

傲慢だけれども気持ちいい感覚

 正直なところ、これらの表現類は、僕にとって真新しさはなかった。
 というよりも、むしろ、「ああ、よく書いてくれた」的な感覚である。傲慢である。しかしながら、ちょっと歴史の勉強が好きでしてきた身としては、「人類って、そんな素晴らしいものだろうか」、という感覚がずっとあったのだ。
 自由と平等。美しい国、ああ、そういった表現は素晴らしいし、それに根差す社会システムもまた批判されるべきものではない。

 けれども、どっかしらおかしくないか? という感覚。「法律」は、絶対的なものだと、現代特に日本人は思っている。けれども、その法律なんて、その時代それぞれで変わってきたものだし、今この時点でさえも、国会では法改正の議論がされている。
 法律とか憲法とか、そうしたルールというもの、それ自体が「共同幻想」的(みんなそれが正しいと思うから正しい)なものに過ぎないのではないか、という感覚。

 その感覚は、「正しい」かどうか別として、「危険」なものだから、多くの人に忌避されるし、「お前は何をいってるんだ?」「ガキだな」「危険な思考だ!」と排除されることとなる。

 賢いエリート層は、そんなこと気付いたうえで、一般大衆を操るためのツールとして活用する。

 僕は賢いエリート層ではないが、一方で、社会(もそうだし、人間そのもの)の矛盾(というか、不十分性)にも気付かないままでいられなかった(真の凡人足りえなかった)ため、「中間派の苦悩」とか、意味不明な言語表現で、なんとか生きづらさというか、「くっそつまんねーな人生」という感覚を表現しようと試みてきた。


 まぁ、その試みは、未だ何ら成果もないし、表現し尽すこともできずに、中途半端なままなのであるけれども、だからこそ、この本で書かれていることが、非常に痛快に面白かった。

カオスを認めるということ

 著者も、その点も当然分かっていて、「ハンムラビ法典が神話だというのは受け入れられても、人権も神話だということも受け入れるのは、多くの読者にとって難しいだろう」と。

 でも、僕が生きるこの何十年かでは変わらないかもしれないが、きっと、もう数十年、数百年したら、きっともう、サピエンスが、「神話」に基づいて協力体制をしいていることは、多くの人に受け入れられていくことだろうと思う。

 漫画とか、アニメとか、映画とか、小説とか、その他エンターテイメント作品においても、この世界の不平等さ、矛盾、カオス、絶望といったものの取り扱いが、どんどん鋭敏になっているように感じられる。

 それは、個々の作品においては、単なるカタルシスかもしれないが、僕は、決して、人々を厭世的にさせ、絶望を与え、破滅に追いやるものではないと思う。


 僕の言葉で書けば、

「反転したポジティブ」

 ということになる。落ち込んで、嫌になって、憎しみ、哀しみ、怒り、絶望し、無気力になって……そのうえで、「ああ、くそみたいな人生で無茶苦茶楽しいな」と、反転して感じられるようになること……、うーむ、何か表現がやっぱり気持ち悪いけれども、まぁ、何となく分かるだろう。

 その上で。

 生きる意味なんてないし、人類はいい人ばかりじゃないし、くだらなくつまらないとした上で、だからこそ、「こうする」「こうしたい」「こうあるべきだ」という感覚。

 そうしたものを選択していくということが、先日こき下ろした、「自分の頭で考える」ということなんじゃないのかな、と思う。



 あり得ないのは分かっているけれども、最近特に、「ああ、どうせ俺の感覚に共感してくれる人などいないのだろう」という感覚が、実感として深まってしまっていた。70億人いるんだぜ、人類? それなのに、お前みたいな凡人レベルの感覚や思考が、世界でたった一人のオンリーワンなんてありえるはずがない。それは「知識」としてそう思いつつも、実感としては、そう思わなかった。(この知識と実感の乖離という問題は、長らく自分の中で大問題であり、今も解決できていない重大案件の一つである)

 それが、この作品(敢えて物語性を含めて作品と表現する)によって、この本がベストセラーになっていることから、そのうち何人かは自分と同じように大笑いした人がいるだろうと、少し信じられて、孤独感が少し薄れた、そんな気がした。

孤独感

 いやはや、それにしても傲慢な記事である。
 こういうのを、「黒歴史」というのだろう。視野狭窄に陥った中学生的な邪気眼的発想。

 まぁでも、そう感じてしまう、感じてしまったのだから、仕方がないだろう。それが「大人として」「社会人として」思考(感情)エラーだということは分かっていても、内なる心として発する声を無視してはいけないと、そう思う。

 その結果、友人を失い、恋人を失い、家族に勘当され、職を失ってでも……ということは「無い」のだから、まぁ、せめて、ブログとしてだけにとどめておこうというわけである。


 そしてふと思ったのだけれど、俺はやっぱり、寂しいのかなぁ。
 それでいて、他者と一緒にいる時間が多いほど、その孤独感ってのが深まってくという感覚は、恐らく、「本当の自分を誰も分かってくれない」という思いが深まっていくからなのではないかと思う。

 でた、でた、これまた気持ちの悪い表現である。うら若き女子中学生か、と(女子中学生をバカにするわけではない)。
 エリートは孤独だとか、出世して立場が上になると孤独になるとか、そんなこと言われたりするけれども、エリートでも地位が高いわけでもないのに孤独を感じるとは、まったくもってこの世界は不平等である(かっこわらい)。


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