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生活の軸と表現すること
2016/07/20 20:00 | Comments(0) | 生きる意味
虫瞰(ちゅうかん)のブログ
http://blog.syu-kora.jp/

思考分野で戦うってことは、これらに挑むってことだ、自信をなくすなぁ。

でもきっと、こういったすごい人と、そこにたどり着けずもんもんとする人との、きっとつなぎ目がある。そこの橋渡しができたら、僕の価値もあるんじゃあないだろうかと。

と、書き残したのが一週間ほど前だろうか。
すっかり、このメモの存在を忘れている。

記憶と感動の関係

若い頃の方が物覚えがいいとか、吸収が早いというのは、感動が大きいからかもしれない。

としをとると、なまじ経験が多いから、新しいことも、それほど感動できなくなる。

あの、雨上がりの匂いとか、冬が終わったあとの気候、夏の匂い、黄昏時の夕日を、大きな橋の上からみたときの感動。

失恋のショック。

友人との軋轢。

先輩からのいじめや罵倒。


さきほど、通りすがりのおじさんに、したうちされて、糞が! みたく捨て台詞いわれた。
混雑した通りでちょっとぶつかりそうになっただけだ。

僕は、なんだこの生き物は、と怒りを感じたものの、こういうときは深呼吸を一度してみると、思考さんが問題の解釈を猛スピードで始める。
結論として、一瞬でもイライラしている時間がもったいないし、顔もおぼえてないしもう二度と会うこともない人にたいしての思考は無意味だということで、すぐに落ち着いた。

いちいち感動している暇もなくなってくるのだろうか。

ボケと死ぬこと

本能的に、人は生きることを欲するから、死ぬことは何となく怖いことである。

基本、人は、死ぬことを意識せずに、いやもちろん事故や事件、戦争のニュースはたくさん目に入るけど、そのなかでまさか自分が死ぬとは思わないようにできている。

そうはいっても、老いは避けられない。

死ぬのは怖い、でも身体は老いていく、この矛盾と恐怖の解消が、ボケ、認知症などの症状なのではないか。

また別に詳しく書くかもしれないが、あるアルツハイマー型認知症が進んだ人の話を聞いていて、そう思った。

日常的なこともできなくなる。人のことも認識できなくなる。そして、自分自身のことも分からなくなっていく。


いな、これは、自分自身の世界として完結している可能性もあるわけだし、その、他者との関係上のちぐはぐ、というものが、決して、自己世界の崩壊を意味するものではないだろう。

言語表現が本人にできないだけで、ものすごい死の恐怖と戦っているのかもしれない。

しかし、脳の機能の萎縮は、確実にさまざまなものの認識能力を低下させていくだろう。

であるならば、人間とは、脳なのか。意識的な信号、記憶をつかさどっているのは、やはり脳だろう。感覚器官としての手足その他がなければフィードバックはえられない

日常の過ごし方

と、上まで書いてまた日が過ぎた。
仕事も早々に切り上げ、帰路につく。いままで、一人暮らしの時は、映画みたり、ゲームしたり、本を読んだり、作曲したり、小説を書いたり、と、何かと楽しんでいた。

結婚してからはそういった時間がなくなり、もっぱら家事とか、……というより、ちょうど仕事が毎日遅かったようだ。


いま、自由な時間があったとき、様々なことに時間を使えて、その判断は自分でできる。
それってとても幸せなことなのであって、それはそう思うのだけど、何に時間を使おうか、悩んでしまう。


残りの人生は折り返し地点といってよくて、三十代には既に、自分の生き方を見つけている人は多いと思う、本当か?

多いとは思わない、大半の人は、その自分の生活を、自分のものだと信じているのであって、それが揺るぎない確信もないと思う。という表現はとても挑発的なのだけど、実際の僕の感覚をメモする。それに、そんなこと確かめようがないのだから、真偽のほどはどちらでもよいことだ。将来に不安がありますか? とかいうアンケートが何になるかという問題に過ぎない。


事例をあげれば、例えばプロ野球選手が現役の頃は活躍して、辞めたら離婚したり薬物にのめりこんだり、賭博しちゃったりと、落ちぶれる例とか、探せば事欠かない。

この記事はなので、いや俺はいまの生きざまが自分自身なのだ、と強く主張する人がいたとして、ふうん、君がそう思うなら、いいんじゃない、と、上から目線で語る、意識高い系とは違うけど、とかく、不愉快な内容だ。

人間関係の構築に関する言説にも、ネガティブな人とは付き合わない方がいいとも書かれているから、この記事は是非とも忌避したほうがいい。

現時点の肯定

うえの、役に立たない害悪であるという説明は、僕自身にもあてはまるのではないか?

つまり、こういった思考は即刻やめるべきではないか、ということだ。

先日書いた、舌打ちとか罵倒されて腹が立ったとき、僕は深呼吸して瞬時に感情をコントロールしたではないか。

まさに、こういったネガティブ的な思考も、深呼吸して、取り払ったほうがいいのでは?



違うと、メモしておく。


作曲したり映画みたりいろいろ、それらの楽しみは、確かに楽しかった、しかし、それらの時間は、無駄ではなかったものの、結局生きる軸を作り出すことはできなかった。


人生における行動は、生産と消費とがある。

生産する人は魅力的だが、消費が悪いわけではない。消費による感動が、生産の原動力となっている場合もあるし、消費者がいなければ価値の創造もありえない。

その意味で、いままでの自分の行為を、行動を、後悔する必要は一切ない。

しかし、目的なき消費は、いずれ訪れる死に対して無力であるといえる。


ここで脇道にそれてみて、生存欲求がみたされない場合、例えば紛争地帯での生活を考えてみる。
ジャングルの奥地でゲリラとして戦うとかでもいい。その状況で、生産とか消費とか、生きる目的とか考えてられるはずがない。


ただ、その後、例えば平和になったとき、戦争していた生活を思って、いまが単純に幸せと思えるのか。亡くなった戦友のことを思い、惨殺した住民が夢に現れ、失った手足がウズいたとき、いまの生活をどう思うのか。


こうした極端な事例は、いやそれほど極端でもなくありふれたことなのかもしれないが、とにかく、考える必要はない。

そんな事例に頭をはしらせるまでなく、京都の列車事故だってあるし、バイクではしっていて、後ろから追突されてペシャンコなんてことだってあるし、突然病魔が襲うかもしれない。



こうしたことは、考える必要はない、考えてしまうかもしれないが、それは、そもそも、生きる意味を強固に保持していないがための妄執である。

明日死ぬとして

明日死んだとして、自分自身に満足できるか、やり残したことはないか、それを考えるべきだ。

先程のジャングルの事例は、生きたいという思いが強くあるのだから、それだけで尊いものだ。

死にたくないとの本能がありながら、死んでも満足するという生き方。

これは、矛盾している。
本能に逆らう思考である、うまくいくはずはないのではないか。


しかし僕は、やはり、ここから逃げてはいけないと思うのだ。

仕事から逃げようが、家族から逃げようが、友人や恋人から逃げようが、この、生きる意味を求める思考からは逃げてはいけないと思うのだ。



これは、理由は、この思考を否定する人たちと同じ構造である。

それは、死は必ず訪れるから、である。


ある人は、どうせ死ぬんだから、ぐだぐだ考えず、毎日楽しめばいいじゃん、という。

それは、いまこの時点、なんの不満なく楽しんでいる人、もしくは、過去に満足する経験を長期に味わっていた人たちである。
人は、育った環境により、外界にたいする反応が異なるから、別に、そういう人たちを否定する気は一切ない。きっとそういう人たちばかりであればよい世界に……なるとは限らない。そういう人たちは、物理世界肯定主義になりがちだから、ネガティブな人とは関係をたちきればいいとか、取り巻く世界をどんどん変えていけばいいと考える。

それが、社会主義革命とか、カンボジアのポル・ポトの虐殺とかに繋がる……と書くとオーバーだろうけど、とにかく、無批判に肯定できるものではないと、僕は思う。



そして、何よりここで言いたいことだが、そもそも、そういう物理世界第一主義の人たちだけでも、ないはずだ、という僕の考えだ。
きっと多数派そうした人たちだから、狭間で苦しむ人たちも少なくないのでは、と思うのだ。



物理世界肯定主義の人たちとも僕はうまく関係をつくれるのは、なにも不思議でなくて、思考による精神と身体の統制ができるのであれば……

と、こうやって書いていて、昔のようにユーロビートを流していると、とても気持ちが高揚するのが分かった。

ああ、やっぱり、こうやって書いているのは楽しいのだな、と。

なんだか、いいことかいた気もした。のわりに、アクセスカウンタはちっとも回らない。やはりグーグル先生には、全然良い内容とは思われていないのだろうカッコわらい。


それでいいのだ、とも思う、何せこの記事は特に、大多数であろう人生楽しんでいる人たちへの警鐘……と書くとかっこいいが、ただのひがみのようにも思える。

楽しいことの模索

でも、ひがみでも、なんでもいいと思う。

問題は、僕が楽しいかどうかだ。

そして、先程の瞬間は、僕は確かに楽しかった。その楽しいというのは、性欲や食欲を満たしたときのそれとは全く異なる、僕が求める感覚である。



で、あるならば、僕はもしや、この生きる意味をとか言うことに対して、答えを本気で探しているわけではないのかもしれない。

このことは、またしても、新しいことだ。しっかりメモしておく必要があるだろう。

つまり、トートロジーとか、マッチポンプ、とか、そんな表現ができる状態ではないか。

もっと噛み砕けば、惨めな自分に酔っている、みたいな状態ではないか。


だとしたら、これは、僕自身として、許せないことであるはずだ。


仮に、その、考え続けることが自分の使命だとかして、思考を続けるならばわかる。でも、なんだか社会を斜めからみて、斜に構えて、批判ばかりするってのは、許せない生き方である。

何をしようとそれは良いが、その答え自体が、真に、自分自身の実感として、本当に正しいのだと、信じられる状態が、僕の求める姿だ。


答えをみいだせず、考え続けるのだとしても、その答えを見いだせないことを肯定するのであってはならない、なぜならば、それこそ、生きる意味なんて考えても仕方がないという、くだらない対処法が正しかったと、反転した解になる。

掲げた正義に反する敵を倒そうとして、自らがその正義に反することをするというものである。

笑い話や、小説のネタ……特に悪役とかにはいいかもしれないが、いやいや待ってくれ、自分の人生にそれはありえないだろう。

万物の真理は求めてはならない

例え、その万物普遍の真理なんてない、ということが反転した真理だったとしても、決して、そういった真理を求めてはならない。


必要なのは、主体的な、実存的な真理である。

人類社会に貢献する科学は、まさにそうした普遍性を自然界や人間界に求めようとするものだけれども、その真理は、決して個人とした自らに当てはまるものではない。当てはまったとしても、その普遍性は、自分自身とおう、個体、ユニークな存在を完全に表現できるものではない。

他者の言説が、役に立たないとか、他者に頼ったり、相談したり愚痴いったりするのが意味ないというのは、日常生活のことをいっているのではない。

この、自己の問題、何故自分は生きているのか、この存在の意義は、という問いに、他者は一切答えてくれない、どころか、そんなこと考えることは無意味であると、そう突き放すのである。


孤独、凄まじい孤独。

この感覚は、きっと、わかる人にはわかると思う。
これは、いくら楽しいことしても、他者と交わっても、美味しいもの食べても癒されるものではない。


僕はこうやって表現できるから、一応自己を保ってられるけど、この感覚におそわれて、表現することができないと、薬物にはしったり、リストカットしたり、無気力になったり……。

全員がそうじゃないにしても、こうした孤独感で自分が押し潰されそうになった人は、決して少ないとは思わないのだけど、何故か僕はあまりそういう人に出会ったことがない。


というのは、珍しくなくて、この孤独は先に書いた通り、他者と一緒にいて、楽しそうにしていてもぬぐえるものではないから、そういう人は一見わからないのだ。



ちょっと、書くのを躊躇ったが、まぁ、アクセス少ないからいいだろうという甘えで書くと、僕が結婚した相手は、そのことがわかる人だと思ったのだ、が、それは完全な勘違いと分かった。

これはトラウマ、というよりも、むしろ、他者のことは分からない、分かりあえない、ある一線をこえるとついてこられないのだ、という確信になったといえる。


だから、この孤独感というのを、誰かに理解してもらおうとは、本気で思っていない。

でも、そういう人に実際に出会えなくても、この記事とかの表現が、今まさに苦しんでいる人の一つの助けになったら、本気で嬉しいんだけど。



と、同時に、こういった表現が、例えばYouTubeの動画だとしたら、グットが20くらいで、バットが1000件とかつきそうだなって思う。



で、そのバッドって、なんなのか、といえば、ただの愚痴とか僻みとか、頑張ることから逃げてるだけだとか、判断できない優柔不断だとか、そういう批判なんだと、思う。

違うのかな? 意外に受け入れられるのか?

にこにこ動画で、サラリーマンのうた、が、かなり人気を博したし、最近そのリニューアルが公開されているのを知ったけど、いい歌だったし、評価も結構高かった。

表現と作品

やっぱり、ためしに、これらの表現を、ひとつ、作品、にして、反応をみてみる、というのは面白いかもしれない。

ぐだぐだっと、このブログのように書いて、それを評価してくれとか、役立ててくれとか、そんな傲慢過ぎるな。

プロの作家は、よく、本当に書きたいこと、表現したいことと、売れる作品のギャップに苦悩するというが、僕はプロではないので、書きたいことを書けるわけだ。

その書きたいことに対する表現を学ぶってのは、大事なことだ。

生活の軸

話が奇跡的に戻るけれども、こういった何か、自分の探し求める本当の目的、これに対する行動というのがないと、資格の勉強だって、お金に繋がる仕事だって、楽しいゲームだって、やらなきゃいけない家事だって、途端に色褪せて、やる気が起きなくなるのだ。


拘束時間でも、自由な時間でもよいが、とにかく、何か生活の軸に基づいて、その軸というのが、確実に、答え、に近づいているという実感をもてることが、これはもう未来思考なんかではなく、今すぐこの瞬間にも必要なことである。












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