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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「今日も20分だ」

前書き

 最初の書き出しが、「前書き」と決まっていると、導入は簡単でよい。
 そうだな、しかし、何を書こうかというのは逡巡する。

 先日の、メインストリームと本音思考について書こうか。

 あれは、たまたまLGBTのニュース記事を読んだから関連付けて書いたのであるが、それと実際自分の興味は全く別の方向だった。

 要するに、「生きづらさ」とは何故生じるのか、ということを分析したいのであった。

 もっと書けば、メインストリーム――横文字の意味は特にない。主流という意味で使っている――と「本音」が近ければ、とても生きやすい世の中なのに、ということである。
 これは、以前から、相当以前から書いている、幸せとは、「理想と現実の差異の少なさ」であるということと同類である。

メインストリーム思考

 モラルとか、道徳とか、ルールとか、「正しい」と思われていることが多数ある。

 それがメインストリーム、主流の思考だ。風潮とか、イデオロギーとか、慣習とか、「空気」とか、そういったものの中に存在するもの全般を指している。

 一方で、「いま・この場」で生じる、代替がきかない思考がある。それが本音だ。
 感情、と書いてもいいかもしれない。リアルタイム、ゼロ秒思考だ。

 つまり、「己自身」と書いてもいいかもしれない。アイデンティティ。自我同一性。


 自分と、主流となる思考が一致しているというのは、概念的に、とても住みやすく、暮らしやすく、生きやすいだろうと思われる。

 そうしたものを目指すのがよいのではないか、というのが一つ提案となる。

主流が発生する場

 で、とはいえ、その主流って概念的には分かったけれども、具体的にどんなものなのだろうか、ということをすぐさま考える必要がある。

 人類の。世界の。日本の。企業の。地域の。家庭の。趣味の。

 様々な集団(2人以上の人間の集まり)において、主流は必ず発生するものだ。


 これが意味するのは、主流と自分との一致というのは、その所属する集団によって変化するものであり、万理普遍ではないということだ。

 よく耳にするのは、所属集団は、3つ以上もったほうがいいというもの。
 仕事だけでも、家庭だけでも、趣味だけでも、人生は安定的には送れないということだ。

自分の開示は最小限であるべきか

 まぁ、いろんな、セーフティネットを持っておいた方が安全というのは当たり前の話である。
 投資の世界でも、基本は分散投資だと言われるようだ。
 生命保険や介護保険や自動車保険、保険というのは、同一のリスク、保険事故を有するだろうと考えられる集団において、共同でそのリスク軽減を図る仕組みである。

 ――上の話と思考の話に関係はあるのか?
 あまりない。言いたいことがズレそうなのでもう一度考え直すと、ええと、「本音」のズレは、かなり慎重に認識しておく必要があるということだ。

 主流と本音に差異があることを認識していれば、それは、安全な運用が可能となる。
 しかし、主流と本音のズレが分からない人は、「失言」を発生させてしまうのである。

 ――というわけで、前回の記事で、「失言」が発生するメカニズムを書いてみよう、というのが、このことである。



 さて、これを防ぐには、どうしたらよいか。……仕方がなかろう、「主流」を知るしかない。知るための努力は必要だ。

 じゃあ具体的にどうやって知っていけばいいのか。インターネットの意見が主流なのか? テレビなのか? 新聞なのかラジオなのか。友人なのか、上司なのか、家族なのか。


 答えとしては、すでに書いてあるが、「集団に拠る」ということになる。つまり、つまらない答えだ。

 しかし大体20分に近づいている。そろそろかっこ書きに入ろう。



(かっこ書きである。どちらかというと、今日は、「真理なんてないのが真理なんだ」と、ふとトイレに向かいながら思ったことをメモしたかった。真理なんてない、というのは、これまでも自分でも書いたし、まぁよく目にする言葉だろう。「大きな物語の終わり」とかそんなんもある。しかし、真理なんてない――というのが逆に真理だ、という、「クレタ人はうそつきだ」的なことを書きたかったのである。先日の記事において、「LGBTだって認めるべきだ!」と書いたわけだが(そうは書いてない)、さらにそれに加えて、「そういった多様性を認められない大人は滅びてしまえ」と書いたわけだが(そうは書いてない)、逆転的に、コペルニクス的転回(単に思いついただけ)的に、そうした(多様性が認められない)大人が存在するということ自体も、多様性の中に含まれるのではないか、と思ったということである。つまり、多様性というのは、快楽殺人犯も認める概念ではないのか、という誤謬。そんなことを思ったりしていたときに「NOTE」というサイトに投稿されているある方の作品において、「社会に管理され許容された虐殺は罪という概念にはならなかったのだ」といった表現がびびっと面白かったのであった。そのこととはあまり関係ないのだが、「本当に正しいことなんて、何もないんだ」というのは、ある意味正解で納得感はあるが、一方で非常に無責任で投げやりにも見えるわけである。「何もない」という悉皆全否定は嘘っぽい。現象学を少し参照してみよう。あれは、(僕の拙い理解力によれば)絶対に正しい事柄や普遍の意味・条件なんてのは存在しないが、しかし、現に目の前に生じている事象・事柄というのは、ないとは言えない。現象している。あるもんはある。だからそのメカニズムに視点を向けよ、というものである。デカルト氏の「我思う我あり」と似ているようだけれども、デカルト氏は、「思ったって自分があるんだから、自分ってのは絶対あるんやで」という認識だったんだろうという点で、ちょっと違うんだろうなと思う(勘)。フッサール氏は、「自分ってのもあるか分らんけど、取りあえず「思った」って事象はあるんだろうから、それが発生したのは何故かは考えていいんじゃん?」という点なんだろうと思う。哲学者さんたち、違ったらごめんなさい)

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今日の一言「未定」

社会悪を多様性はどう考えるべきか

 この一連の記事の最後に、いつものごとく、極端な例を考えてみよう。
 人を殺すことが、命を奪うまでに残虐な拷問を加え、苦しむ姿を見ることが大好きでやめられない人がいたとする。
 排除すべき悪であることは間違いないが、「多様性」の考え方は、これに対してどう回答すべきか。
 前提として、ルールも、共通価値も、否定されるものではない、ということだ。
 上に書いた通り、ルールも、人の偉大な発明の一つだ。
 だから、人に害をなす存在は排除する、というルールはあって然るべきだろう。
 しかしそれでは、ルール>共通価値>多様性(個人価値)という図式とならないだろうか、なってしまいがち、であろう。
 だから、ルールは可変であるべき、ということについては、共通価値として、「教育」されなければならないと思う。逆に言えば、ルールと教育はセットでもある。だからゆえに、特定の国や価値観を排除する反教育は、全くもって下劣で理に反しているといえる。
 教育は、「仕組み」を教えるにとどまるべきであって、思想の埋め込みであってはならないのだ。
 いや、過去にそれが共通価値として正しい時代もあったので、過去永劫間違いであるという意味ではない。
 ただ、ここまで書いてきた通り、何か一つの目的や価値に全人類を合わせる、というのは、根源的に不可能である、と思われる、ということである。
 それが可能であると思う人も多いのだろうが、歴史を学んでもう少し考えて欲しいと思う。歴史が嫌いな人は、身の回りの組織や、集団(家族や、友人たちとのことだっていい。いろんな人がいなかったろうか)のことを考えて、少し敷衍できる能力があれば分かるだろう。
 ここで、個人的な価値レベルと、宗教とか、資本主義とかそのレベルの大きな目的や内容であれば、共通性をもたせられると考える人もいるかもしれないが、それが、こののち数万年単位で普遍であると、どこまで信じられるかが問題である。
(かっこ書きである。未定)

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今日の一言「未定」

ルールと共通価値とは違う

 ルールと、共通価値とは、違う。もちろん、個人価値とも全く違う。
 ルールは、あくまでも、異種間で対立が起きないように、または起きた時に円滑に解決できるような事前の取り決めである。事前というのが大事だ。明文化されているかどうかは別として、前々から決められていた、という「建前」が大事である。
 一方で、価値というのは、思考も、感情も、信念もすべてひっくるめた、人自身である。
 それがある程度類似の方向性があれば、共通価値になるし、そうでなくても、個人価値は誰しも持っている。
 それとルールは別問題なのは、徐々に見えてくるだろう。
 だから、ルールに違和感をもつことは悪いことではない。
 共通価値に違和感をもつことは悪いことではない。
 あなたが、「生きづらい」と感じることは悪いことではないのだ。
 孤独、を思うかもしれない。
 誰も自分を理解してくれないと思うかもしれない。
 しかし、原理的に、人は孤独なのだ。
 何故ならば、人は、多様性をもつ生き物なのだ。
(かっこ書きである。未定)

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今日の一言「未定」

対立には排除なのか

 昔の人たちがそれに気づいていなかったわけではなかったろう。
 古代ギリシアでは、都市国家が乱立していたが、同じギリシア人はヘレネス、周辺の蛮族はバルバロイといって区別していたという。
 自分たちと異質な、しかし姿かたちは似ている存在は認識できていたはずだ。
 しかし、戦争といった、排除するという行動しか取れなかったのは、「理解可能性」まで思慮する時間も認識もなかったからだ。
 とはいえ、時代が進むにつれて、殺し殺し合いを続けていることは、非効率であることには気づき始めた。自国内でも問題が発生したとき、上手く統治する必要があった。
 だから、「ルール」を開発した。
 ものではないが、発明といってもいいだろう。
 火や文字の使用や、農耕の開始、印刷機の開発、インターネットなどが文化的な刷新といわれるが、そもそも、「ルール」というのも偉大な発明だ。
 しかし、ルールに関しては、「慣習」といったものもあるので、あえて発明とはあまり思われない。自然に、人が生じたときからあったような気がする。
 そうはいっても、意識的・無意識的にかかわらず、人は「ルール」の中に生きている。
 ルールといえば、「学校の廊下は走っちゃいけません!」的なのや、道徳的な、車内マナーみたいなものも想像されるが、ありとあらゆるところにルールがある。
 ルールはもはや、「共通価値」と似たような意味をもつときもある。
 ルールがあるから、人はそれに従うべきだと、妄信的に考える人も、少なくない。厳格に、きまりを守ることが大事だと考える人は多い。コンプライアンス、それは当たり前なことだろうか。
(かっこ書きである。未定)

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今日の一言「昨日の連載記事の一言とかっこ書きが書けなかった」

閑話休題

 連載の予約投稿中であったが、一つ、書いておこうと思ったので、書く。
 成長するという言葉が嫌いであった。

 10代の頃、「生涯学習」なんて言葉が流行った時期があった。
 変化に富む現代は、常に学び続けていく姿勢が大切だ、と。

 そのころ僕は「勉強」をしていたわけだけれど、どんなに頑張っても(※)学校で一番どころか平均を維持することも大変なくらいであり、しんどいと思っていた。
(※頑張るという言葉も嫌いである。そして、ゲームしたり眠くなったりとだらけてしまうことも含めて、頑張っていた、という意味である。24時間勉強していたわけではない)

 学ぶ、とか、成長するってのは、「しんどい」思いをすることだと思っていた。
 だから、勉強とか、学習とか、成長とか、そういったのが嫌いだった。

成長しない人間などいない

 しかし、今思うに、成長は、時間に対して、不可逆に起こっている。
 身体能力や記憶力(これに関してはやや疑問)は時間経過に対して衰えていくものだろう。それでも、学び続ける姿勢を忘れなければ、人は自動的に成長するものなのだ。

 社会から問われるのは、上司や親やその他周囲から言われるのは、「時間対効果」が意識された「成長」である。

「俺が思うスピードで成長しろ」
 だとか、
「この期間でこのレベルまで到達しろ」
 といった意味合いが込められた上の、勉強なり成長なのである。

 これは、しんどい。

自発的成長

 ゲームが何故面白いか。
 それは、ゴールがあるからだ。勝ち負けや、目的がはっきりしているからだ。

 しかし、それだけではない。

 ゲームは、自発的にやるから面白いのだ。「やりたい」のだ。
(まぁトートロジーだが、やりたいから面白いともいえる)

 ゲームだって、レベルアップや、情報収集、旅や選択、不条理なイベントなどなどあるはずだ。めんどくさい部分もあるだろう。でも、乗り越えたいと思うのだ。


 人生は、どうしてそうではないのか?
 それは、目的や成長といったのが、周囲の評価によるものだからだ。

成長はしたい

 と、思った、と、それだけの記事。
 今日思ったというよりかは、徐々に思考に浸透していった気がしたという意味が近い。

 逆に、停滞するとか、堕落するというのは、何か嫌じゃなかろうか。

 人間なら誰しも、成長したいって思いがあるんじゃなかろうか。
 またいつもの極端な例を出せば、犯罪的な集団においても、もっと金を稼ぎたいとか(誤った)成長欲求があるのではなかろうか(いうまでもなく断罪されるべきだ)。

 その、成長の方向性を調整するってのは、周囲(指導的立場の者たち)も必要だろう。
 しかし、その成長内容や、スピードを、完全に調整するなんてのは不可能なのだ――不可能ではなかろうが、恒久的成長(自発的成長)には繋がらない。

 自発的な成長が不要だった時代もあったと思う。
 人間が、労働力として、いわゆる「作業機械」として必要な面はあったろうし、今もあると思う。そういった部分は、ロボット(A.I.)などに代わられる可能性はあるだろう。この話とセットなのは、ロボットにできない創造性などを養う必要がある、とかいうことだが、そういう曖昧な言葉を聞くと僕はイラっとする。

成長とは状態の変化である

 そりゃあ、隕石が地球に衝突したら、恐竜は滅びる。

 しかし、そんなアルマゲドン的な事態を想定してもしかたがない。シンギュラリティ(技術特異点)が起ころうと、仕方がない。

 俺は、俺、である。

 外部と、個人、という分け方は、ある程度絶対である。(阿頼耶識といった、世界と個人との境界を疑う考え方もあるが、普通の人間感覚においては難しい境地である。人間の細胞は、生きたい・知りたい・仲間になりたいという欲求を原理的にもっている)

 だから、どんなに外部が変化しようとも、自分の変化が突発的に起こるわけではないのだ。(もちろん、男子三日合わざるは刮目してみよ的なのはあるだろうが、何事も例外から考えては話がまとまらないし、進まない)

 世界の変化と、自分の変化が真逆に進む、または自分は停滞しているという状態は、健全ではないと思う。
 しかし、世界の変化に合わせて、自分も大変化してしまったら、もう「自分」という主体である必要などないではないか。

終わり

 といったことを、思った。
 日和見的だと思う。平和ボケだと思う。

 だが、仕方がない。

 自分を捨て去ってまで生きる必要はないのだ。
 それは、不満にすぐに「キレろ」という意味ではない。その抱いた「不満」は大切にすべきだ。
 その不満こそが、世界と自分とのギャップだ。そのギャップが不幸だ。そのギャップを埋めるのが、幸福だ。

 人は誰しも、幸福を目指すべきだ。


(かっこ書きである。と、本文中のことは実際思うのだが、どうしても、ニュースとか、現実対人関係などしていると、苛立ちや不満が溢れてくる。最近の具体的には、パワハラを記念撮影させて悦に至っている社長とか。バスが橋から転落して全員死亡した事故の原因が客と運転手の喧嘩だったとか。くだらない自己を世界に欲求している奴らに本当にイラつく(じゃあニュースなど見なくていいだろうとかそういう意味ではない。別にニュースを見なくても現実周りにそういう奴らは少なくない)。しかし一方で、「人はだれしも幸福を目指すべきだ(キリッ)」とかいえば、そういう「くだらない自己」も容認せざるえなくなるのではないか、という疑念。しかしそれに対しては、「世界の変化と、自分の変化が真逆に進む、または自分は停滞しているという状態は、健全ではない」ということで、いいんじゃないかと思う。異世界転生ものが受け付けない純文志向の方々も、界隈でそれが求められているなら仕方がないのではないか――という話とまた次元が違うことを押さえておく必要がある。これが、最近の連載記事の目的(なんだと思うが)である、「多様性の許容」である。かっこつけた表現はどうでもいいが、要は、いろんな趣味嗜好があっていいじゃないか、ということである。いろんな「好き」があっていいじゃないか、ということである。イメージとしては、インフラ的な人間思考の基盤があって、その上で多種多様・雑多・魑魅魍魎な創造の世界が広がる感じである。大事なところは、その「基盤」部分も、変化はしていくということである。その「基盤」を換言すれば、風土、理性、イデオロギー、宗教、信条、慣習などそういったもの。それらも普遍ではないだろう、ということだ。話が全く違うが、創作のアウトプットができなくて非常に困っているという愚痴記事の下書きが残っているのだが、あまりにひどいので投稿を躊躇う。まぁしかし、ここ最近の連載が終わったら読み返して今後の生活をまた検討したい)

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