今日の一言「映画見てきた」「生活はボロボロ」
帰宅時間をメモしたメモ帳を会社に忘れてしまったので正確に分からないが、だいたい、先週25時ぐらいの帰宅だったと思う。
ただ、睡眠時間は、5時間~6時間ぐらい取れていたと思う。
とにかく、睡眠時間をとることを優先しよう。……といっても、もう出勤日としては28日しかないが、残念なことに、正月休み期間も、ある程度は仕事進めなければならなそうだ。
面倒だ……が、仕方があるまい。
今週の土日も、昼間で寝ていた。だが、15時起床、18時起床とか、わけのわからない事態ではなく、ふつーに12時半ぐらいに目覚めたぐらいだ。ふつーといえばふつーだ。とはいえ、ちゃんと、平日と同じぐらいに目覚めて、ちゃんと活動したいものである。
上司からも、(ポジティブにとらえれば)遠回しだが褒められた、気がする。
褒められるためにやっているわけではないというのは綺麗ごとだが、誰かからも感謝されない仕事というのは、ただでさえつまらないのにさらにつまらなくなるわけであって、必要な要素の一つだとは思う。
面白かった……というか、終始泣きっぱなしだった。
こんなに泣いたのは、おじいちゃんのお葬式以来じゃなかろうか、というぐらい泣いた。泣きっぱなしだった。
まず、光のお父さんとは、FF14というオンラインゲームの、ゲーム内の世界と、リアルパートで分かれて進行していくのだけれども、マイディーさんのゲーム内のキャラクターが動いて、しゃべっている瞬間でもう哀しくなって、涙がこらえきれなかった。
(声優さんもぴったりな演技だと思った)
これが、哀しいのか、感動なのかは分からない。とにかく、感情が激しく動かされていた。
原作ブログとは違う、お父さんにキーボードを渡すときのネタや、初めてフレンド申請するとき、最後に打ち明けた時の反応の違いなど、原作とは異なるシーンも多々あったけれども、映画という時間(1時間半)に収まるよう、それでいて重要なシーンはちゃんと盛り込まれていて、映画は映画でよかったと思う。
同僚の女の子(GORIO)さんの登場で、なんか感動の気勢がそがれるかな、と心配になったけれども、しかし彼女の存在も、後半のストーリーでかかせないものだった。
逆に、ネタバレになるのであんまり書かないけれども、最後の敵、ツインタニアを倒す日の夜のこと。もうその日はプレイできないのではないか……そんな状況の時、「(光のお父さん)もうやる気いっぱいですよー!」という連絡――、あのシーンは、ブログではないシーンであるけれども、めちゃくちゃ盛り上がるというか、感動させられるシーンとなっていた。
回想のキャッチボールのシーン(原作にたぶんなかったと思う)とか、ゲーム内で家族のこと(妹……これも原作にはいなかった気がする)を相談したりとか、新しいシーンを盛り込みつつ、原作の雰囲気壊さずによく構成されていたと思う。脚本すごいなと思った。
とかって、映画観終わってからすぐ飲食店によって、必死に頭をひねって言葉を絞り出したメモなんだけど、とにかく、みている最中は、もうずっと泣きっぱなし――と書くと大げさだろうけれども、とにかく、「冷静モード」の時間はほとんどなかったと思う。
涙もろくなってるんだろうか。最近忙しかったからかしら。
いつまでやってるんだろう。もう一回見に行こうかな。同じ映画を二回見に行くというのは初めてのことだ。でも、せっかくの感動を曇らせちゃう気もするし、どうしようかな。
――。
映画の最初と最後で、マイディーさんのお父さんの、メッセージが表示される。これは、僕は、映画観る前に知っていて読んでいたけれども、やっぱり改めて辛いね。
「父さん、もういいやろう~」という言葉が、どんな意味なのか、きっと、想像以上のものだろうと思う。
うーむ。色塗りしたあと、首が長すぎる気がして調整したが、こんどは、太すぎる気がする。しかし、時間オーバー、今回はこれにて投稿させていただく。
それにしても、3Dからイラスト化させるのは、単なるイラスト模写よりも難しい。なぜなのか。
まえがき
あー、ダメだ、なかなか、想定通りにいかない。帰宅時間をメモしたメモ帳を会社に忘れてしまったので正確に分からないが、だいたい、先週25時ぐらいの帰宅だったと思う。
ただ、睡眠時間は、5時間~6時間ぐらい取れていたと思う。
とにかく、睡眠時間をとることを優先しよう。……といっても、もう出勤日としては28日しかないが、残念なことに、正月休み期間も、ある程度は仕事進めなければならなそうだ。
面倒だ……が、仕方があるまい。
今週の土日も、昼間で寝ていた。だが、15時起床、18時起床とか、わけのわからない事態ではなく、ふつーに12時半ぐらいに目覚めたぐらいだ。ふつーといえばふつーだ。とはいえ、ちゃんと、平日と同じぐらいに目覚めて、ちゃんと活動したいものである。
仕事のこと
まぁ、それほど、好きでやっているわけではない仕事であるが、先週は同僚とかお客さんから褒められた。上司からも、(ポジティブにとらえれば)遠回しだが褒められた、気がする。
褒められるためにやっているわけではないというのは綺麗ごとだが、誰かからも感謝されない仕事というのは、ただでさえつまらないのにさらにつまらなくなるわけであって、必要な要素の一つだとは思う。
光のお父さん
仕事のことはもう書くのやめる。来年も引き続き忙しそうだが、まぁその、睡眠時間6時間は確保するべく、なんとかしよう。
そんで、光のお父さんに最近はまっていると書いた。
じっくりと、かみしめながら読んでいこうと思っていたが、気づいたら先週の平日(電車の行き帰り)で全部読んでしまっていた。めちゃくちゃ面白かった。
実話である、というのが、面白さのプラスアルファになっているのは間違いないが、それだけでなくて、マイディー氏のブログの書き方……単純に文才といっていいのか分からないけれども、文の間とか、SS(スクショ)の使い方とか、何より脚本(ストーリー)構成が巧みだなぁと思った。
めっちゃ面白かったので、映画も見てみよう、アマプラであるかなーないなー、しかたない、今度、TUTAYAとかGEOとかで借りてみようかなぁ……と思っていたところだった。
ところ、が、なんと。
このたび劇場版が、原作者マイディー氏追悼のため放映されると知った。
新型コロナも少し気になったが、これはもう、いてもたってもいられず映画館に足を運んだ。
光のお父さん追悼上映
光のお父さん映画
結論から書くと、めちゃくちゃ面白かった。面白かった……というか、終始泣きっぱなしだった。
こんなに泣いたのは、おじいちゃんのお葬式以来じゃなかろうか、というぐらい泣いた。泣きっぱなしだった。
まず、光のお父さんとは、FF14というオンラインゲームの、ゲーム内の世界と、リアルパートで分かれて進行していくのだけれども、マイディーさんのゲーム内のキャラクターが動いて、しゃべっている瞬間でもう哀しくなって、涙がこらえきれなかった。
(声優さんもぴったりな演技だと思った)
これが、哀しいのか、感動なのかは分からない。とにかく、感情が激しく動かされていた。
映画とブログの違い
最近で一番感動した作品だったと思う。(ブログも、映画も)原作ブログとは違う、お父さんにキーボードを渡すときのネタや、初めてフレンド申請するとき、最後に打ち明けた時の反応の違いなど、原作とは異なるシーンも多々あったけれども、映画という時間(1時間半)に収まるよう、それでいて重要なシーンはちゃんと盛り込まれていて、映画は映画でよかったと思う。
同僚の女の子(GORIO)さんの登場で、なんか感動の気勢がそがれるかな、と心配になったけれども、しかし彼女の存在も、後半のストーリーでかかせないものだった。
逆に、ネタバレになるのであんまり書かないけれども、最後の敵、ツインタニアを倒す日の夜のこと。もうその日はプレイできないのではないか……そんな状況の時、「(光のお父さん)もうやる気いっぱいですよー!」という連絡――、あのシーンは、ブログではないシーンであるけれども、めちゃくちゃ盛り上がるというか、感動させられるシーンとなっていた。
回想のキャッチボールのシーン(原作にたぶんなかったと思う)とか、ゲーム内で家族のこと(妹……これも原作にはいなかった気がする)を相談したりとか、新しいシーンを盛り込みつつ、原作の雰囲気壊さずによく構成されていたと思う。脚本すごいなと思った。
とかって、映画観終わってからすぐ飲食店によって、必死に頭をひねって言葉を絞り出したメモなんだけど、とにかく、みている最中は、もうずっと泣きっぱなし――と書くと大げさだろうけれども、とにかく、「冷静モード」の時間はほとんどなかったと思う。
涙もろくなってるんだろうか。最近忙しかったからかしら。
いつまでやってるんだろう。もう一回見に行こうかな。同じ映画を二回見に行くというのは初めてのことだ。でも、せっかくの感動を曇らせちゃう気もするし、どうしようかな。
――。
映画の最初と最後で、マイディーさんのお父さんの、メッセージが表示される。これは、僕は、映画観る前に知っていて読んでいたけれども、やっぱり改めて辛いね。
「父さん、もういいやろう~」という言葉が、どんな意味なのか、きっと、想像以上のものだろうと思う。
イラストコーナー
今回は、光のお父さん関連で、マイディーさんを描いてみる。がんばったけど、あんまり似せられなかった。3~4時間所要。下書き~線画に1~2時間かかった。うーむ。色塗りしたあと、首が長すぎる気がして調整したが、こんどは、太すぎる気がする。しかし、時間オーバー、今回はこれにて投稿させていただく。
それにしても、3Dからイラスト化させるのは、単なるイラスト模写よりも難しい。なぜなのか。
あとがき
(かっこ書きである。ブログも、映画も、完成度が高いものだった――しかし、僕が感動した……のか、哀しくなったのか――それは、やっぱり、マイディーさんが、もうこの世にはいないということも一つあるんだと思う。「マイディーさん」が、映画の、ゲームの中で、元気に、お父さん孝行しようとしようとしているのが、どうしようもなく哀しくなったんだと思う。ブログもそうだ。ほんの、数年前には、元気に、楽しく、ゲームしていた人が、もういない。しかも、亡くなる数か月は、ほんとうに痛みと闘う毎日だったのが、短い文章から伝わってくる。僕はほんと、最近になって、毎週更新してくれている友人のブログで、マイディーさんのことを知ったにわか中のにわかである。その友人のブログで、氏が亡くなったことに本当にショックを受けていることが伝わってきて「どんなお話なんだろう、どんな人なんだろう」とその時は軽い興味だった。しかし、今となっては、知る機会を与えてくれた友人に感謝である。マイディー氏は、ゲームが好きな人ならすぐに虜にしてくれるような魅力的な人だとすぐ分かった。そしてそれは、マイディー氏が、本当に自分自身も楽しんでいるからなんだろうとも思った。ブログのアクセス数稼ごうとか、アフィリエイトで稼ごうとか、そういうんじゃなくて、ゲーム楽しいんだぜ!って、みんなに……知ってもらいたいって、そんな風に思ってたんじゃないかと思う。そんな人が亡くなってしまって、僕も、本当に哀しい)PR
今日の一言「休みな気がしないが明るいうちに終われるとまぁましに思う」
仕事とはなんだろう。
Youtube動画見て、面白かったと、感動したとき、しかしそれは一か月のサラリーマンの給料分を払う必要は、ない。
ああ、いい作品だったなと、ただそれだけで終わる。有料動画もあるだろう。一回100円かもしれない。100円でも、1000人が見たら10万円だ。
マッサージ師さんに、肩をもんでもらう。20分3000円くらいだろうか。気持ちがよい、以上、である。サービスである。
モノとサービスの「移動」が価値を生み、金を生み、仕事が生まれる。
「便利」を手放せば、仕事は減る。――例)電気水道インフラ
「自由」を手放せば、仕事は減る。――例)24時間営業のコンビニ
「活動」を手放せば、仕事は減る。――例)交通サービス
「安全」を手放せば、仕事は減る。――例)警察・警備
上の考え方では、「役に立たないものは切り捨てる」という功利主義が前面に登場するだろう。
弱者や、働けないものは社会的な「コスト」になる。
そういった考え方が、望ましい、生活のしやすい、だれもが暮らしやすい社会とは相いれないことは感覚として分かる。
しかし、努力をしない人、できない人、フリーライダー、だらける人、そういったコストをどこまで許容すべきなのか。
紙の本を買ったのだが、結局キンドルの電子版を隙間の時間に読んでるぐらいで、いまだに読み終わってはいない。
電子版は半分以上を読んだ。
死に対しての僕の考え方と似ている気がしたので、割と読みやすい気がする。
神の概念とかに拘らず、反対意見も挙げてそれを検証していくスタイルに説得力があるように思う。
自殺についての考え方。自殺は絶対究極に正しいわけでもないが、絶対にダメなものでもない、というのが教授の意見だと思う。そして僕もそう思う。
人生を数値で表してみる。もちろん、これは比喩的なものだ。単純に快楽と苦痛の総和としてみる。仮に「幸福量」と呼んでみる。
長く生きるにつれて、どんどん幸福量が下がっていく。
しかし、幸福量が0でなければ、死ぬ必要などない。仮に失意のどん底で、つらいいじめにあっていようが、しかし、アニメや映画見て感動する時間が少しでもあれば、まだ死ぬべきではない。創造価値がなくても、体験価値がある。
しかし、さらに幸福量が下がって、0よりも小さくなったとする。
苦痛しかない。良いことがあっても、苦痛はそれをはるかに上回る。まともな思考もできない。高熱にうなされたことがある人はわかるだろう。いくら学校や会社が休みでも、大好きな漫画やゲームすらやる気にならない。ただ、痛みや苦しみが通り過ぎるのを待つだけだ。
そんな苦痛がずっと続くだけの人生。
これに対して、「人生とは何か」の著者精神科医のフランクル氏は、いやいや、それでもまだ生きる意味はある、態度価値があるのだ、という。態度価値とは、他者がみて、「ああ、あの人は立派な人だ」と影響を与えるようなもの――と僕は認識している。違うかもしれない。そのあたりがまだ理解できていない。でも、例示されていたのは、そんなようなもんだった。生きる意味は、人生から逆に求められているのだ、と。
僕はその態度価値的なことがよく分からない。やっぱり、苦しみしかない人生だと、死んだほうがまし、という状態があるのではないかと思う。
問題は、それが「今」なのか、というところだと思う。
高熱でいくら苦しんでも、「死んだほうがましだ」と思う人はいないだろう。
回復する見込みがあるからだ。
でも、回復する見込みなんて、分かるものだろうか。99%死に至る病でも、1%の確率で助かる可能性があるのでは……?
要は、1%でも回復するかもしれないから、自殺は、だめだ、と、結論するかもしれない。――でも、きっと僕は、なんかしっくりこなかったろうと思う。
しかしシェリー教授は、さらに一歩進んでいる。
下の、こんな例だ(僕の記憶だけで書くので、細部は違うかも)。
あなたには、選択する権利がある。
99%の確率で、一生続く拷問を受けるかもしれないが、1%の確率で、一生お金に不自由しない暮らしができる選択をするか、何もしないかだ。
と。
この場合は、多くの人は、99%を選んだほうが賢い。それが妥当だ。物語的には、99%を選択した方が面白いのだろうけど、それはリスクが大きすぎる。
重い病気におかされた人の選択も同様ではないか、ということだ。
確かに、医療技術の発展により、劇的に回復する可能性が、1%はあるとする。しかし、世界の症例においては、5年以内に増悪し、死に至るケースが99%だとする。
まだ、そういった選択ができるような思考ができる状態だと、想像するのが難しいが、そもそも、もう何も考えることもできず、体も動かせず、ただ痛みに耐えるだけの時間が、延々と続く――そんな状態で、確かに、1%は回復する可能性があるけれども、もう殆どは死んでしまう……そうだとしたら、どうする?
快楽と苦痛の量だけが、人生なのか、そこに考える余地はあるかもしれない。フランクル氏のいう、態度価値だってあるはずだ、そういう考え方もあるかもしれない。
でも、凡人な僕としては、やっぱり、自殺は必ずしもダメというわけではない、と思う。
もちろん、いじめを苦にして自殺、なんてのは、あっちゃいけないと思うわけであるが。
久々に、カテゴリを、「生きる意味」にした。
イラストは、どうしようかな、ネタは何もないのだが、簡単にでも描こうかな。
とにかく、今回の記事は、仕事で気が休まらないので、書くことにしたものだ。
めっちゃ心配。
自分でコントロール完全にできることじゃないと、心配。
やっぱり、管理職とか向いていない気がする。今は平社員だが、今以上に気が休まらない気がする。
50%ぐらいの成功率の時が一番人は頑張れる、とかって自己啓発も読んだことある気がするが、それは、俺にはつらい。
不安すぎる。いやその、「できませんでした」が通用すればいいけれども、たいていそういう仕事ばかりじゃないだろう。ピザのデリバリーで、注文されたけど家がわからなかったので届けられませんでした、じゃあダメだろう。
不安。
不安とは何か。
そんなことはどうでもいい。単に、落ち着いた生活がしたい。
落ち着いた生活とは何か。知らない。
知らないことは、実現されられない。引き寄せの法則。自らが望んだ人生にしかならない。
お絵描き添削に応募したら「落書きを楽しんでいるレベルですね」と言われてしまうが、まぁしかし、1時間ぐらいでこれぐらいの出来までは描けるようになったというのは成長といえなくもない。
まぁ、雑なのであるが、なんか正確にアタリを描かなくても、なんとなくの立体は描けるようになった気がする。
うーん、でも、見れば見るほどいろいろ直したくなる……というのは、きっと悪いことではないのだろう。
直したい、というのは良いと思う。
なんかいまいちだけど、どうしたらいいか分からない、これは良くないと思う。
まえがき
休日も仕事のことを考えないといけないというのは、面倒なこと、限りない。仕事とはなんだろう。
Youtube動画見て、面白かったと、感動したとき、しかしそれは一か月のサラリーマンの給料分を払う必要は、ない。
ああ、いい作品だったなと、ただそれだけで終わる。有料動画もあるだろう。一回100円かもしれない。100円でも、1000人が見たら10万円だ。
マッサージ師さんに、肩をもんでもらう。20分3000円くらいだろうか。気持ちがよい、以上、である。サービスである。
モノとサービスの「移動」が価値を生み、金を生み、仕事が生まれる。
「便利」を手放せば、仕事は減る。――例)電気水道インフラ
「自由」を手放せば、仕事は減る。――例)24時間営業のコンビニ
「活動」を手放せば、仕事は減る。――例)交通サービス
「安全」を手放せば、仕事は減る。――例)警察・警備
上の考え方では、「役に立たないものは切り捨てる」という功利主義が前面に登場するだろう。
弱者や、働けないものは社会的な「コスト」になる。
そういった考え方が、望ましい、生活のしやすい、だれもが暮らしやすい社会とは相いれないことは感覚として分かる。
しかし、努力をしない人、できない人、フリーライダー、だらける人、そういったコストをどこまで許容すべきなのか。
死とは何か
シェリー教授の本について購入したのはいつだったか。紙の本を買ったのだが、結局キンドルの電子版を隙間の時間に読んでるぐらいで、いまだに読み終わってはいない。
電子版は半分以上を読んだ。
死に対しての僕の考え方と似ている気がしたので、割と読みやすい気がする。
神の概念とかに拘らず、反対意見も挙げてそれを検証していくスタイルに説得力があるように思う。
自殺についての考え方。自殺は絶対究極に正しいわけでもないが、絶対にダメなものでもない、というのが教授の意見だと思う。そして僕もそう思う。
人生を数値で表してみる。もちろん、これは比喩的なものだ。単純に快楽と苦痛の総和としてみる。仮に「幸福量」と呼んでみる。
長く生きるにつれて、どんどん幸福量が下がっていく。
しかし、幸福量が0でなければ、死ぬ必要などない。仮に失意のどん底で、つらいいじめにあっていようが、しかし、アニメや映画見て感動する時間が少しでもあれば、まだ死ぬべきではない。創造価値がなくても、体験価値がある。
しかし、さらに幸福量が下がって、0よりも小さくなったとする。
苦痛しかない。良いことがあっても、苦痛はそれをはるかに上回る。まともな思考もできない。高熱にうなされたことがある人はわかるだろう。いくら学校や会社が休みでも、大好きな漫画やゲームすらやる気にならない。ただ、痛みや苦しみが通り過ぎるのを待つだけだ。
そんな苦痛がずっと続くだけの人生。
これに対して、「人生とは何か」の著者精神科医のフランクル氏は、いやいや、それでもまだ生きる意味はある、態度価値があるのだ、という。態度価値とは、他者がみて、「ああ、あの人は立派な人だ」と影響を与えるようなもの――と僕は認識している。違うかもしれない。そのあたりがまだ理解できていない。でも、例示されていたのは、そんなようなもんだった。生きる意味は、人生から逆に求められているのだ、と。
僕はその態度価値的なことがよく分からない。やっぱり、苦しみしかない人生だと、死んだほうがまし、という状態があるのではないかと思う。
問題は、それが「今」なのか、というところだと思う。
高熱でいくら苦しんでも、「死んだほうがましだ」と思う人はいないだろう。
回復する見込みがあるからだ。
でも、回復する見込みなんて、分かるものだろうか。99%死に至る病でも、1%の確率で助かる可能性があるのでは……?
自殺は絶対ダメではない
ここまでの思考で、僕は納得するだろうと思う。要は、1%でも回復するかもしれないから、自殺は、だめだ、と、結論するかもしれない。――でも、きっと僕は、なんかしっくりこなかったろうと思う。
しかしシェリー教授は、さらに一歩進んでいる。
下の、こんな例だ(僕の記憶だけで書くので、細部は違うかも)。
あなたには、選択する権利がある。
99%の確率で、一生続く拷問を受けるかもしれないが、1%の確率で、一生お金に不自由しない暮らしができる選択をするか、何もしないかだ。
と。
この場合は、多くの人は、99%を選んだほうが賢い。それが妥当だ。物語的には、99%を選択した方が面白いのだろうけど、それはリスクが大きすぎる。
重い病気におかされた人の選択も同様ではないか、ということだ。
確かに、医療技術の発展により、劇的に回復する可能性が、1%はあるとする。しかし、世界の症例においては、5年以内に増悪し、死に至るケースが99%だとする。
まだ、そういった選択ができるような思考ができる状態だと、想像するのが難しいが、そもそも、もう何も考えることもできず、体も動かせず、ただ痛みに耐えるだけの時間が、延々と続く――そんな状態で、確かに、1%は回復する可能性があるけれども、もう殆どは死んでしまう……そうだとしたら、どうする?
態度価値
もちろん、上の考えは、「幸福量」の考え方を基盤にしている気がする。快楽と苦痛の量だけが、人生なのか、そこに考える余地はあるかもしれない。フランクル氏のいう、態度価値だってあるはずだ、そういう考え方もあるかもしれない。
でも、凡人な僕としては、やっぱり、自殺は必ずしもダメというわけではない、と思う。
もちろん、いじめを苦にして自殺、なんてのは、あっちゃいけないと思うわけであるが。
久々に、カテゴリを、「生きる意味」にした。
イラストは、どうしようかな、ネタは何もないのだが、簡単にでも描こうかな。
とにかく、今回の記事は、仕事で気が休まらないので、書くことにしたものだ。
めっちゃ心配。
自分でコントロール完全にできることじゃないと、心配。
やっぱり、管理職とか向いていない気がする。今は平社員だが、今以上に気が休まらない気がする。
50%ぐらいの成功率の時が一番人は頑張れる、とかって自己啓発も読んだことある気がするが、それは、俺にはつらい。
不安すぎる。いやその、「できませんでした」が通用すればいいけれども、たいていそういう仕事ばかりじゃないだろう。ピザのデリバリーで、注文されたけど家がわからなかったので届けられませんでした、じゃあダメだろう。
不安。
不安とは何か。
そんなことはどうでもいい。単に、落ち着いた生活がしたい。
落ち着いた生活とは何か。知らない。
知らないことは、実現されられない。引き寄せの法則。自らが望んだ人生にしかならない。
イラストコーナー
なんか、30分時間があれば、なんか描いてみようかという気持ちになるのは良い傾向に思うのだが、実際やり始めると、どうにも時間を使ってしまう。1時間15分ぐらいだろうか。お絵描き添削に応募したら「落書きを楽しんでいるレベルですね」と言われてしまうが、まぁしかし、1時間ぐらいでこれぐらいの出来までは描けるようになったというのは成長といえなくもない。
まぁ、雑なのであるが、なんか正確にアタリを描かなくても、なんとなくの立体は描けるようになった気がする。
うーん、でも、見れば見るほどいろいろ直したくなる……というのは、きっと悪いことではないのだろう。
直したい、というのは良いと思う。
なんかいまいちだけど、どうしたらいいか分からない、これは良くないと思う。
あとがき
(かっこ書きである。あああ、気分転換のイラストのはずが、「どうしたらいいか分からないのは良くない」というのはまさに仕事である。なんか今のままではいかんのだが、どう改善したらいいか不明――これはストレスである。あーもうやだなぁ……。あーもう、酒だ、酒をもってこい。もう冷蔵庫にビールがありません! なんだと!! せぷくだ! ふはは、しかしこんなときように、ジンを常備しているのだ。ライムジュースと混ぜる。ジンライムというらしい。そのままだな。――違った。炭酸水を使ってるので、ジンリッキーというらしい。ちなみに、ギムレットは、ジンライムをシェイクしたものだそうだ(細部に違いはあるのだろう)。へー。まぁ、その、いずれ終わりはくる。来年異動になるかもしれないし、会社がなくなるかもしれないし。そうしたら、今のプロジェクトの悩みなんて、全然大したものではないのだ。不安があれば、それを取り除く行動を続けるだけだ。――という考えのもと、休日にも仕事をしているというのもある。結局不安でゆっくり休めないなら、何かしら進めといたほうがましだろう)
今日の一言「19時ぐらい帰宅」
記憶力のなさを言い訳にしても仕方がない。「考える」ということは、結局、知識がなければ行えないのである。
例えば、今日学んだこととして(時間があったので心の余裕もあった)、経済についてだ。
(以下、特に何も参照しないで書くので、誤ったことを書いている可能性は多分にある。単に考えたことの思考メモとして捉えて頂きたい)
物価と金利の関係について考えてみる。
物価が上がって、お金の価値が下がることをインフレーションという。
それは知識だ。
では、物価が上がると、お金の流通はどうなるのか。
物価=ものの値段が高くなるのだから、お金がたくさん必要になる。そういう意味では、お金の価値が上がった、ともいえるのではないか、と僕は思った。
ただし、100円で買えたものが、200円必要になったのだから、お金の価値は下がった、といえるのだ。
一方で、お金のニーズは高まることになる。
お金のニーズが高まるから、金利が上がる。
金利とは、お金を貸した側がプラスして返してもらえる権利である(僕の独自理解。あってるか分からない。ウィキると違うかもしれないが、混乱するから敢えてしない)。
お金の需要が高まった状態であれば、金利が上がっても、それでもお金が必要な人は借りる、という仕組みである。
しかし、それでもどうしようもなく金利が高くなりすぎると、「抑制」する行動をとるしかなくなるから、景気が抑えられるということだ。
GDPとは、国内総生産のことである。何を生産しているかというと、「財」と「サービス」だ。
要するに、僕らの世界には、財(モノ)とサービス(現象)しかないのだ。
その価値の指標に「お金」が使われる。ただし、お金とは、金融といったりして、キャッシュ(現金)には限られない。株式や債券やら保険やらに姿を変えて、現象(存在)しているのだ。
でもって、景気とは、その流通のことである。
言葉を換えれば、「運動量」である。電気でいえば、アンペアだ。いっぱい電子が流れていると、景気が良い状態。あんまり流れていないと、景気が悪い状態、というわけだ。
電気はともかく、「景気」という現象において、その流通(運動量)とは何か。
財・サービスの移動である。
例えば、サービスで思い浮かぶのは、マッサージ施術所に行ったとする。現金で3000円ほど支払う。そして、施術してもらう。現金と、施術(サービス)の移動である。
サービスの移動というのはいまいち自分の中でも消化できないが、AとBとの関係のことともいえる。
それがイメージしづらければ、現金だけでも動いたことになるから、「流通した」ということになる。
マッサージを24時間受けることはあり得ない。だから、流通にも限界がある。
しかし、1980年代からダウ平均株価は上がり続けている。
あと、昭和の時代は、そば一杯15円ぐらいだったようだ。不思議だ。
何が不思議かというと、今、蕎麦屋さんが、いっぱい15円で販売したら、1日もたずに潰れるだろうからだ。
そもそも、原材料仕入れからして無理である。
だから、日本全体の物価が低かったということになる。
ただし、蕎麦の作り方自体と、必要な原材料は、昭和初期と現代で、そこまで大幅に違うだろうか。多分違わない。
作る時間はどうか。多分違わない。
にもかかわらず、物価が上がっても、世界は成り立つようになっているのか。
つまり、景気とは――人の活動とは、――経済とは、運動量なのであって、何かしら動いていないと、崩壊するのである。絶滅するのだ。
絶え間なく動き続けることでのみ、人は社会を維持できるのである。
自給自足以外には、たとえ宗教ですら経済の循環からは逃れられない。托鉢して無償でお経を唱えることはあるかもしれないが、それは宗教という精神的支柱を維持するサービスなのである。
また、全員が金融商品に興味を持って、株式トレーダーになれば、産業が空洞化するのは間違いなかろう。
第一次産業(農業)、第二次産業(工業)がやっぱり大事なのである。とはいえ、それについては、機械化が進み、ロボット化が進み、AI化が進みで、「人」自体は不要になるかもしれない。ただ、当該産業に関わる機械やロボットや、その部品生産や、それらを管理するソフトウェアのプログラマーなどを無碍にはできないだろう。
もしくは、大帝国的に、先進国が後進国を支配する構図というのもあるかもしれない。プランテーション、モノカルチャー。ただ、グローバル社会において、そういうのは古い、ということになるだろう。それについては、悲観的には、人道主義などではなくて、単に需要を増やすという経済的な面に思われるが、異論はたくさんあるかもしれない。僕は歴史学者じゃないから分からない。
要は僕らは、消費し続けることが「正解」なのである。
絶え間なく作り、そして使って、その循環スピードを速く、早く、疾くしていくことが、経済として正解なのだ。
――ということと、「幸福」という概念は同義にはならないと思われる。
しかし、この経済と幸福に関する議論は、往々にしてかみ合わない。電気学と磁気学は交わっても、電力会社と水道会社はまじわらないのだ(意味不明な例)。
まえがき
学ぶことは、たくさんある、と思う。記憶力のなさを言い訳にしても仕方がない。「考える」ということは、結局、知識がなければ行えないのである。
例えば、今日学んだこととして(時間があったので心の余裕もあった)、経済についてだ。
(以下、特に何も参照しないで書くので、誤ったことを書いている可能性は多分にある。単に考えたことの思考メモとして捉えて頂きたい)
物価と金利の関係について考えてみる。
物価が上がって、お金の価値が下がることをインフレーションという。
それは知識だ。
では、物価が上がると、お金の流通はどうなるのか。
物価=ものの値段が高くなるのだから、お金がたくさん必要になる。そういう意味では、お金の価値が上がった、ともいえるのではないか、と僕は思った。
ただし、100円で買えたものが、200円必要になったのだから、お金の価値は下がった、といえるのだ。
一方で、お金のニーズは高まることになる。
お金のニーズが高まるから、金利が上がる。
金利とは、お金を貸した側がプラスして返してもらえる権利である(僕の独自理解。あってるか分からない。ウィキると違うかもしれないが、混乱するから敢えてしない)。
お金の需要が高まった状態であれば、金利が上がっても、それでもお金が必要な人は借りる、という仕組みである。
しかし、それでもどうしようもなく金利が高くなりすぎると、「抑制」する行動をとるしかなくなるから、景気が抑えられるということだ。
景気とは何か
GDPの前年比のことを、「経済成長率」という。GDPとは、国内総生産のことである。何を生産しているかというと、「財」と「サービス」だ。
要するに、僕らの世界には、財(モノ)とサービス(現象)しかないのだ。
その価値の指標に「お金」が使われる。ただし、お金とは、金融といったりして、キャッシュ(現金)には限られない。株式や債券やら保険やらに姿を変えて、現象(存在)しているのだ。
でもって、景気とは、その流通のことである。
言葉を換えれば、「運動量」である。電気でいえば、アンペアだ。いっぱい電子が流れていると、景気が良い状態。あんまり流れていないと、景気が悪い状態、というわけだ。
電気はともかく、「景気」という現象において、その流通(運動量)とは何か。
財・サービスの移動である。
例えば、サービスで思い浮かぶのは、マッサージ施術所に行ったとする。現金で3000円ほど支払う。そして、施術してもらう。現金と、施術(サービス)の移動である。
サービスの移動というのはいまいち自分の中でも消化できないが、AとBとの関係のことともいえる。
それがイメージしづらければ、現金だけでも動いたことになるから、「流通した」ということになる。
時間と景気との関係
時間という概念も、速度次第で歪む。といった相対性理論は置いておいて、1日は24時間である。マッサージを24時間受けることはあり得ない。だから、流通にも限界がある。
しかし、1980年代からダウ平均株価は上がり続けている。
あと、昭和の時代は、そば一杯15円ぐらいだったようだ。不思議だ。
何が不思議かというと、今、蕎麦屋さんが、いっぱい15円で販売したら、1日もたずに潰れるだろうからだ。
そもそも、原材料仕入れからして無理である。
だから、日本全体の物価が低かったということになる。
ただし、蕎麦の作り方自体と、必要な原材料は、昭和初期と現代で、そこまで大幅に違うだろうか。多分違わない。
作る時間はどうか。多分違わない。
にもかかわらず、物価が上がっても、世界は成り立つようになっているのか。
サービスについて
逆に、過去に比べて、家電なり、コンピュータなり、便利になっているはずなのに、何故人は未だに働き続けているのか。つまり、景気とは――人の活動とは、――経済とは、運動量なのであって、何かしら動いていないと、崩壊するのである。絶滅するのだ。
絶え間なく動き続けることでのみ、人は社会を維持できるのである。
自給自足以外には、たとえ宗教ですら経済の循環からは逃れられない。托鉢して無償でお経を唱えることはあるかもしれないが、それは宗教という精神的支柱を維持するサービスなのである。
また、全員が金融商品に興味を持って、株式トレーダーになれば、産業が空洞化するのは間違いなかろう。
第一次産業(農業)、第二次産業(工業)がやっぱり大事なのである。とはいえ、それについては、機械化が進み、ロボット化が進み、AI化が進みで、「人」自体は不要になるかもしれない。ただ、当該産業に関わる機械やロボットや、その部品生産や、それらを管理するソフトウェアのプログラマーなどを無碍にはできないだろう。
もしくは、大帝国的に、先進国が後進国を支配する構図というのもあるかもしれない。プランテーション、モノカルチャー。ただ、グローバル社会において、そういうのは古い、ということになるだろう。それについては、悲観的には、人道主義などではなくて、単に需要を増やすという経済的な面に思われるが、異論はたくさんあるかもしれない。僕は歴史学者じゃないから分からない。
需要と運動量
ということで、最初の話題に戻るが、僕は、経済とは――景気とは、「運動量」だと思う。さっきの植民地時代のような話に絡めれば、植民地の人たちにも、支配する側の国が作った物品などを買ってもらったりした方が、より景気がよくなる――物流が生まれる、ということになる。物流があったほうが、社会は豊かになるということだ。要は僕らは、消費し続けることが「正解」なのである。
絶え間なく作り、そして使って、その循環スピードを速く、早く、疾くしていくことが、経済として正解なのだ。
――ということと、「幸福」という概念は同義にはならないと思われる。
しかし、この経済と幸福に関する議論は、往々にしてかみ合わない。電気学と磁気学は交わっても、電力会社と水道会社はまじわらないのだ(意味不明な例)。
あとがき
(かっこ書きである。今日はここまで。とかってことを考えるためにも、知識が必要である。しかし、昭和25年(1950年)に、そば一杯が15円だったことを覚えても仕方がなかろう。であれば、どういった知識が必要なのか。国民年金の受給できる年齢が65歳で、満額だと年間78万円ぐらいもらえることを覚えておいたほうが役に立つのか。ちなみに、65歳の誕生日の属する月の翌月から受給権が生じて、支給自体は偶数月の15日(2か月おき)にされるようだ。へー。78万円って、月にすると、6万5千円。さすがに、暮らすのは困難そうである。――とかって記憶があっても、意味がない――わけではなかろう。少なくても、未来について、何も分からないわけではなくなる、ということだ。まそもそも、パンデミックやシンギュラリティによって誰も想像だにしないことが起こっているかもしれない。果たして、2回の世界大戦前の人々は、戦争が起きることを予想していたのか。明治維新後の富国強兵や教育や保険・保健に力を入れたのは、国力増強のためなのだろうが、他国を「やっつける」ことが、生き残るために必要だと思われていたからだ。いまや、某国家だろうと、戦争が絶対に必要だ、とは言わない時代になった。ここら辺の話は、『暴力の人類史』あたりをもう一回読んだ方がいいかもしれない。暴力は減ってきているそうだ。その理由は、――なんだっけ、割に合わないから、かな。なんかブログ記事にまとめた気もするが、忘れている。――そう、そういった知識を、ちゃんと記憶しておいた方がいい気がする。ただ、「暴力は減ってきていまーす!」といったことだけ覚えていても、「エビデンスだせ」といわれて終わる。俺は研究者じゃないからそんなもん出せるか! となる。せいぜい出典を挙げるぐらいだ、悔しい、びくんびくん、となる。いやそもそも、誰かと議論をしたいのではない。だからいつも戻りに戻って、結局、大事なのは、このブログのタイトルと思うのである)
今日の一言「今しかできないことが分かれば苦労しない」「素直になるってことかな」
今回は違うので、どういった方向や感覚になるかは少し楽しみである。
さて、本題としては、タイトルのとおり、「今しかできないこと」というのに着目しようというわけであるが、まずはこれについて書こうと思った理由に触れる。
3人のコメントだ。
例によって、IM氏、SG氏、KK氏とさせて頂く。まずはポイントとなるコメントを引用。
●IM氏
仮面。
人は、外界で生きていくうえで、外向きの顔をつくらなければならない。
僕は、この辺が、高校生か、大学時代ぐらいか、よく覚えていないが、そのあたりから特に、ものすごく気持ち悪いと思っていた。
気持ち悪いが、仕方がないものだと思った。
だから僕は、「感情のコントロール」的な表現をよく使っていた(自分用の日記の中で)。
今思えば、「適切なふるまい」というものを、いつも強く意識しようとしていたのだと思う。
適切!
噴き出してしまいそうだ。いやしかし、当時はえらく真面目だったのだ。
いやむしろその傾向は、今もないとは言えないだろう。
が、しかし、これこそがペルソナともいえる。
自分が見せたい自分ともいう。ペルソナを被るのは社会的要請かもしれないが、その被るペルソナを選ぶことはできるんじゃないだろうか。
※ いや、「ペルソナ」といったとき、それはゲームシリーズのことも指す。今回はそちらについて書こうという意味ではない、ということ。これは、文脈上明らかだが、一部の人には伝わらない可能性がある。――というつまらない言及は、実は重要でもある。これは明らかな例であるが、「感情」的なものを書いていくと、途端に膨大な解釈が生まれ、その共感はより困難なものになるからだ。
いやぁしかし、懐かしい思いもある。レポートとか書くとき、至極形式的に書こうとすると「止まる」のだ。ほんとにこれ、説得力あるのか? 論理的な文章になっているのか? ここの表現というか文章は必要なのか? とか、いろいろ浮かぶから。
楽しくない文章たちだ。
もう少し、素直になって書いていくべきだ。
さて、しかし、ペルソナと今しか書けないことは、無関係ではないと思う。思う、がまだ、そこに到達するまでの前提が書ききれていいない。
ええと、まず明らかなのは、「みんな外向きの顔をもって生活している」だろう、ということが、三者のコメントから分かるということである。
(KK氏の引用部分だけでは読み取れないが、方向性的にはそう思われる)
いや確かに、僕は前の記事で「自分以外の人はみな自己を確立してしっかり生きているのだ」(キリッ)的なことを書いて、KK氏から、「そんなことないのでは?」とご指摘いただいたわけであるが、言い訳がましいが、そこまで思ってるわけではないのだ。いやむしろ、IM氏の仰る様に、「相手が幸せがどうかなんて絶対にわからないという命題というか、事実もある」のである。
ただ思うのは、他者存在は、「自分ってこういう人間だ」という認識については、ちゃんとあるのではないかということである。
その「自分ってこういう人間だ」というのは、内面的なものであり、他者に映っている自分、とは違う。ああ、このあたりが話を難しくする。次の小見出しで少し整理しよう。
・僕が思う「自分」(a)
・他者から見える僕(b)
そして、違う観点からも2つある。
・思考内面的な「自分」(c)
・身体物理的な「自分」(d)
階層化して表現すれば、
1 内面的な自分
(1) 僕が思う自分
(2) 他者から見える自分
2 身体的な自分
というようになる。
今後、どっちの「自分」の意味で使っているかは、明確にしていかないと話が分かりづらくなるだろう(自分にとっても)。
理由は、時間は不可逆だからだ。以上。
……もう一つ理由を挙げれば、身体的な自分の規定も無視できないからだ。
身体的、といったときに、すぐさま浮かぶのは「顔」であるが、それだけではない。筋骨隆々具合とか、背の高さとかメタボリックシンドロームなのかとか、皴が多いか、男女どちらかなどなど、身体的属性というのも非常にたくさんある。
そして、そうした身体的属性というのも、時間とともに変化する。
だから、今しかできないことをする……むしろ、するしかないともいえる。
しかしそれは詭弁で、本当に、本当に今しかできないか、というのは、きっと違う。
ロッククライミングをするのは、別に今じゃなくても、70歳になってからでもできるかもしれない。(相応の準備が必要だろうが)
そういう意味で、「今しかできないこと」が何か、というのは難しい。
難しいものの、しかし、僕は、「素直になる」ということで、それに近いことは分かると思っている。
本当にそうだ。僕が苦しいというか、目標というか目的が定まらない理由がコレでもある。
とことん素直になるのだ。
思考的な面における解決策としては、とにかく素直に書いていく、ということであり、それがこのブログの目的でもある。
いやこれ、難しいことなんだよ。
最初に書いたペルソナの話のとおり、仮面はなかなか外せない。その中で、素直になれる場所というのは、中々ないのだ。
一つ笑えない笑い話を書けば、僕は彼女とか元妻(妻! って表現が非常に違和感だ。20代での出来事であったが、妻と書くとなんだかもう長年連れ添って――的な印象がある)にその仮面を外すことをしてしまったことが、上手くいかなかった原因なのではないかと思われる。
要は、確かに、文章としてこのブログを読む分には、それほど影響はないが、身近にこういった「変な」人間がいると、非常に具合が悪い、ということなのだろう。
そういう意味で、シロクマ氏は妻子もいて、社会的にも自身のブログもつながっていて、すごい、というか、羨ましい妬ましい(かっこわらい)。
(ただそれは、精神科医という特殊な状況によるものといえる。氏は自分を「凡庸な人間」と仰られているが、まぁ、本人も恐らく本気でそう思っているわけではなかろうし、周りもそんな風にみていないだろう)
僕は今のところ仕事しているから社会的身分(かっこわらい)的なのはあるのだろうが、同じことを、無職のニートが書いていたらどうだろう。途端に気持ち悪さ度が上がるだろう。ニートをでぃすったのはではない、どちらにせよ、こうした文章は一般的に気持ち悪いということだ)
要は、素直になるのは難しい。(けれども、それを目指すべきだ)
前書き
今回の記事は、割とこう、「〇〇について書こう」ということが明確になっている上で書き始める。逆に、いつもの記事は、なんかよう分からん気持ちのままで書き始めるか、ルーチンだから仕方がないかといった形で書き始めている。そのうち筆が進む場合もあれば、憂鬱のまま終わるときもある。今回は違うので、どういった方向や感覚になるかは少し楽しみである。
さて、本題としては、タイトルのとおり、「今しかできないこと」というのに着目しようというわけであるが、まずはこれについて書こうと思った理由に触れる。
3人のコメントだ。
例によって、IM氏、SG氏、KK氏とさせて頂く。まずはポイントとなるコメントを引用。
●IM氏
周りを見渡すと大体の人が欲しいものがわかっているし、どうしたら幸せになれるかわかっているように「感じる」んだよな。
●SG氏
「ここで自分にしか出来ない何かがあるはず! 発展に貢献できる!」みたいな主張をして就活していくことに割と嫌気がさしていました。
●KK氏
「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がすると仰っていましたが僕は本当にそうなのかなと疑問に思っています。
●SG氏
「ここで自分にしか出来ない何かがあるはず! 発展に貢献できる!」みたいな主張をして就活していくことに割と嫌気がさしていました。
●KK氏
「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がすると仰っていましたが僕は本当にそうなのかなと疑問に思っています。
ついでに、というと失礼だが、もうひとつシロクマ氏の記事も引用させていただく。
●シロクマ氏
実際には人は変わっていくものだし、人が変わっていくにつれて、書けること・表現できることも変わっていくものだ。変わっていくからこそ、今しか書けないことは貴重で、今書かなければ喪われてしまうものだと心得なければならない。
――シロクマの屑籠●シロクマ氏
実際には人は変わっていくものだし、人が変わっていくにつれて、書けること・表現できることも変わっていくものだ。変わっていくからこそ、今しか書けないことは貴重で、今書かなければ喪われてしまうものだと心得なければならない。
ペルソナ
ペルソナはユングという方が述べた心理学の用語である。アトラス社のゲームシリーズではない(※)。仮面。
人は、外界で生きていくうえで、外向きの顔をつくらなければならない。
僕は、この辺が、高校生か、大学時代ぐらいか、よく覚えていないが、そのあたりから特に、ものすごく気持ち悪いと思っていた。
気持ち悪いが、仕方がないものだと思った。
だから僕は、「感情のコントロール」的な表現をよく使っていた(自分用の日記の中で)。
今思えば、「適切なふるまい」というものを、いつも強く意識しようとしていたのだと思う。
適切!
噴き出してしまいそうだ。いやしかし、当時はえらく真面目だったのだ。
いやむしろその傾向は、今もないとは言えないだろう。
が、しかし、これこそがペルソナともいえる。
自分が見せたい自分ともいう。ペルソナを被るのは社会的要請かもしれないが、その被るペルソナを選ぶことはできるんじゃないだろうか。
※ いや、「ペルソナ」といったとき、それはゲームシリーズのことも指す。今回はそちらについて書こうという意味ではない、ということ。これは、文脈上明らかだが、一部の人には伝わらない可能性がある。――というつまらない言及は、実は重要でもある。これは明らかな例であるが、「感情」的なものを書いていくと、途端に膨大な解釈が生まれ、その共感はより困難なものになるからだ。
自分と他者とのずれ
「今しか書けないことを」という話と、「ペルソナ(役割ベースの顔)」と、一体何が関係あるのか、と思ってしまい、筆が止まる。いやぁしかし、懐かしい思いもある。レポートとか書くとき、至極形式的に書こうとすると「止まる」のだ。ほんとにこれ、説得力あるのか? 論理的な文章になっているのか? ここの表現というか文章は必要なのか? とか、いろいろ浮かぶから。
楽しくない文章たちだ。
もう少し、素直になって書いていくべきだ。
さて、しかし、ペルソナと今しか書けないことは、無関係ではないと思う。思う、がまだ、そこに到達するまでの前提が書ききれていいない。
ええと、まず明らかなのは、「みんな外向きの顔をもって生活している」だろう、ということが、三者のコメントから分かるということである。
(KK氏の引用部分だけでは読み取れないが、方向性的にはそう思われる)
いや確かに、僕は前の記事で「自分以外の人はみな自己を確立してしっかり生きているのだ」(キリッ)的なことを書いて、KK氏から、「そんなことないのでは?」とご指摘いただいたわけであるが、言い訳がましいが、そこまで思ってるわけではないのだ。いやむしろ、IM氏の仰る様に、「相手が幸せがどうかなんて絶対にわからないという命題というか、事実もある」のである。
ただ思うのは、他者存在は、「自分ってこういう人間だ」という認識については、ちゃんとあるのではないかということである。
その「自分ってこういう人間だ」というのは、内面的なものであり、他者に映っている自分、とは違う。ああ、このあたりが話を難しくする。次の小見出しで少し整理しよう。
自分という語を用いるときの注意
一人称における「僕」と、「自分」という語を用いるときに示しているものは、違うと思う。「自分」には、二つの意味がある。・僕が思う「自分」(a)
・他者から見える僕(b)
そして、違う観点からも2つある。
・思考内面的な「自分」(c)
・身体物理的な「自分」(d)
階層化して表現すれば、
1 内面的な自分
(1) 僕が思う自分
(2) 他者から見える自分
2 身体的な自分
というようになる。
今後、どっちの「自分」の意味で使っているかは、明確にしていかないと話が分かりづらくなるだろう(自分にとっても)。
今しかできないことをするべきな理由
話が、まとまらないが、先に結論めいたことを書けば、僕らが使える手段としては、「今しかできないことをする」しかないからだ。理由は、時間は不可逆だからだ。以上。
……もう一つ理由を挙げれば、身体的な自分の規定も無視できないからだ。
身体的、といったときに、すぐさま浮かぶのは「顔」であるが、それだけではない。筋骨隆々具合とか、背の高さとかメタボリックシンドロームなのかとか、皴が多いか、男女どちらかなどなど、身体的属性というのも非常にたくさんある。
そして、そうした身体的属性というのも、時間とともに変化する。
だから、今しかできないことをする……むしろ、するしかないともいえる。
しかしそれは詭弁で、本当に、本当に今しかできないか、というのは、きっと違う。
ロッククライミングをするのは、別に今じゃなくても、70歳になってからでもできるかもしれない。(相応の準備が必要だろうが)
そういう意味で、「今しかできないこと」が何か、というのは難しい。
難しいものの、しかし、僕は、「素直になる」ということで、それに近いことは分かると思っている。
素直になるとは
IM氏の言葉で、「まじで自分の欲しいものって何で、どうしたらよい気分になれるかなんて本当にわからん」というのもあった。本当にそうだ。僕が苦しいというか、目標というか目的が定まらない理由がコレでもある。
とことん素直になるのだ。
思考的な面における解決策としては、とにかく素直に書いていく、ということであり、それがこのブログの目的でもある。
いやこれ、難しいことなんだよ。
最初に書いたペルソナの話のとおり、仮面はなかなか外せない。その中で、素直になれる場所というのは、中々ないのだ。
一つ笑えない笑い話を書けば、僕は彼女とか元妻(妻! って表現が非常に違和感だ。20代での出来事であったが、妻と書くとなんだかもう長年連れ添って――的な印象がある)にその仮面を外すことをしてしまったことが、上手くいかなかった原因なのではないかと思われる。
要は、確かに、文章としてこのブログを読む分には、それほど影響はないが、身近にこういった「変な」人間がいると、非常に具合が悪い、ということなのだろう。
そういう意味で、シロクマ氏は妻子もいて、社会的にも自身のブログもつながっていて、すごい、というか、羨ましい妬ましい(かっこわらい)。
(ただそれは、精神科医という特殊な状況によるものといえる。氏は自分を「凡庸な人間」と仰られているが、まぁ、本人も恐らく本気でそう思っているわけではなかろうし、周りもそんな風にみていないだろう)
僕は今のところ仕事しているから社会的身分(かっこわらい)的なのはあるのだろうが、同じことを、無職のニートが書いていたらどうだろう。途端に気持ち悪さ度が上がるだろう。ニートをでぃすったのはではない、どちらにせよ、こうした文章は一般的に気持ち悪いということだ)
要は、素直になるのは難しい。(けれども、それを目指すべきだ)
あとがき
(かっこ書きである。うーむ。まとまらなかったな。俺って文章力ないんだな……と落ち込むというよりも、そもそも「表現したいこと」というのが曖昧なのだから仕方がないともいえる。むしろ、明確に言語表現できる程度の悩みなら、さっさと行動にうつして解決をはかったほうがよいのである。よく分からないことを頑張って表現しようとすること自体に意義がある。ああ、だから、そう、誰かと愚痴を言い合って解決する可能性もなきにしもあらずだが、僕はその方法に価値は見出していない。だって消えるじゃん。いや、録音という現代文明テクノロジーを使ってもいいが、逆に無駄が多い。口頭というのは、伝える速度は速いだろうが、しかし、再利用性が低い。文書も、このブログの量になってくるとわけわからん、だが、それでも、口頭よかましだ。――いや、音読した分という意味では、口頭も悪くない。ただ、音読はあくまで音読なのであって、口頭でこれらの文章内容が導かれるための時間的な意味においてであって……ってまぁ、このあたりのことは、これぐらい書いておけば自分には意味が通じるからいいか。そう、素直になるための方法の一つに、「未来の自分にも伝わるか」という視点で書いてみるとよいと思う。2つ効果がある。一つは、分かりやすくなっているかのセルフチェックが入ることと、未来の自分という想定があることによって、今の自分を相対的に視ることができるというメリットだ。――話が変わるが、「コメント」感謝である。「ああ、そう、そうなんですよ!」「ああもう、ほんとよくわかります!」って感じな部分が多いが、しかし、それを返信にするのも如何かと思ったりする。小学生並みの感想。気が利いてウィットに富んだ返信をしたいものだ。難しいのは、「よく分かります」といったときに、「じゃあその分かったことを言ってみろや!」ってなったとき、口頭なら、可能な限りオウム返しすることが、「分かった」ことの証明になるだろうが、文書の場合、じゃあ、相手のコメントをコピペしたら分かったことになるのか、ならない。じゃあ、相手のコメントを要約したらよいのか、違う。要約するよりも、そのままコピーしたほうが、「分かった」度は高いだろう当たり前だ。そうしたとき、コメントの返信って、何をすべきなのか、――とかそういうことを思ったりするのが、僕の思考の無駄部分なのだろうが、しかし、割とそういうのは楽しかったりする)
今日の一言「ゲーム依存は生活に破滅をもたらす」「しかし現実生活に価値はあるのか」
毎回書くが、忙しい自慢でもなければ、「俺がいないと仕事が回らなくて」的なのでもなければ、頑張ってるアピールでもない。
第一、もっと拘束時間が長いブラックな方々は大勢いると聞く。ほんとかどうかわからないが――というのは、実際、帰宅の電車は、最近(別にお盆の時期ではない)、遅い時間ほど空いている。
んで、まぁ、その、やってて楽しい仕事であればいいのだろうが、やれ人間関係的なやつだったり、クレームだったり、「何の意味があるのそれ。表現的な問題でしょ。どっちでもいいし」的なものもあったりと、面倒くさいことこの上ない。
勉強にはなると思う。知識も増える。考え方も参考になる。
が、「楽しい」かどうかと問われたら、別に楽しくはない。
なんかプログラムとか書いてたほうがよほど楽しい。
――プログラム、しかし、じゃあ、SEなりPGなりに転職したら? という正論があるかもしれないが、プロジェクトとして行うそういった業務に興味はない――いや、やってみたら楽しいかもしれないが、基本、むかーっしの人が作ったものをちょびちょち直していくような。
楽しいのは、企画、要件定義から実装、テスト、リリース、利用者への研修など含めて、全部含めてやれると楽しいのである。おっきなプロジェクトのごく一部分の担当とか、きっとつまらないだろう。
そんな、朦朧とした状態で、「【特集】1日20時間、2年間外出せず…『ゲーム依存症』患者の現実」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190817-00010003-kantele-soci
との記事を読んだ。
まず、僕が考える「前提」は以下だ。
・ゲームは楽しい
・ゲームにより暴力的になるというのは正しくない
・一方ゲーム依存は現実生活を脅かすため治療が必要だ
1日20時間は多いと思うが、休日であれば、8時間ぐらいは余裕だ、という人は多いだろう。
ただ、「毎日」というのはすごいと思う。
でもたぶん、全然俺もできちゃうんじゃないかという気もする――いや、睡眠時間は6~8時間は欲しいから、20時間はやっぱりすごいな(笑)。
まぁそんな表面的なことを考えながら読んでいたのだが、コメント欄とかでの、「ゲームより現実のほうが大切だ」という意見が――「やはりあったか」という気持ちではあったが――気になった。
いや分かる。
――分かる、といってしまうと傲慢になるが、しかし、思いは分かる。
上の「ゲーム依存」は治療されるべき、ということだが、やはり問題は、「ゲーム」が埋めてくれていた時間を、他に、何の「価値ある時間」にするのか、ということだ。
大切な現実とは何か。
ゲームをやるってこと自体も、現実の一部を成していないか。――というのは、もちろん詭弁だろう。だが、詭弁で片付けちゃいけない気がする。
要は、ゲーム依存の治療の先にあるのは、ゲーム以外のことをする「時間」ということだからだ。
本当は、創作活動をするのが、僕にとって、大切なことであるはずなのだ。というのは、「現実ってそれほど大事なものなのか」という、某氏の感覚を少し思うところだからである。
これは、若い時に、例えば甲子園を目指して野球部で仲間と必死に汗を流したり、とか、そういう経験が大事なんだろうと思う。
くっそつまんなかった。
いや、友人はできたし、そこでの友人たちのおかげで、クラスで孤立とかもなく、平穏無事に過ごせたといってよいだろう。
が、その、クラブ活動なり、部活動的なのは、嫌々行っていた。
(とかっていえば、親は悲しむかもしれないから、このブログは基本リアルの人には見せるつもりは一切ない)
別に、体を鍛えるのは悪いことじゃないと思うし、そのおかげで、筋トレとかするのも比較的簡単にルーチン化できたのかもしれない。
ま、そういう、「役に立った」的な意味であれば、いくらでも挙げることはできるだろう。
ただ、「現実の価値」的な意味においては、――これを、「生きる意味」と置き換えて表現しても構わない――一切役に立たなかったと書いておいてよいだろう。
先日、とある友人氏(IMF氏)からコメントを頂いた。
(1)理由:必要だから。
(2)結果:満足(充足)して(前向きに)生きたい
(3)目的:(2)と同じ。
就職面接においては、理由が足りないと思う。
理由は、本記事の前の小見出しに書いた、「大切な現実が分からないから」になると思う。
――ちょっとばかし、これまた別の友人氏(以下SRGN氏)がコメント欄にて書いてくださっている一つの理由・生き方について、僕が思うところを書きたい。
抜粋して、次の小見出しにて、それへのコメントを書く。
かっこいい。
僕の目指すところである。
いや、そもそも、「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がする。
ただ、そこの部分を触れないで、そのプロセスがないまま、現実にどっしり身を構えられた人たち――それを僕は広い意味で「リア充」と呼ぶ――は、どんだけ、現実的な能力が高くても、僕は、「参考にならない」と思うだろう。
だから、SRGN氏のような方と出会えたことは、僕にとって間違いなくプラスで幸せである。
上の僕のSRGN氏に対するコメントは、単に称賛したかったから歯の浮くセリフを書いたというわけでは全くなく、事実思うことである。が、その一方で、僕は、それほど大事な人の記述であっても、完全には咀嚼できない部分がある、という意味で書いている。
何がかというと、「自分の存在を世界に刻み付けること」これについて、僕は真剣になれていない、ということである。――すぐさま書けば! ダッシュで書いておけば、SRGN氏が見出している答えを否定するものでは全くない。急いで書くまでもなく分かってくれる方々しか本ブログを見ている人はいないんだろうが、大事なことなのでダッシュで書いた。
要は、ぼく個人は、今のところは本気になれない答えである、ということである。
結局、まわりまわって、その答えになるかもしれない。
コロンブス卵問題のようだが、要は、現実の重要度を深く感じられない状況において、その現実に対して自己の存在を刻み付けるということは、不安定な砂の土台にひょろひょろの棒を指すみたいな。
いやだから、現実に対しての自己の肯定感が高まれば、おのずとその現実に対しての興味関心も増大する可能性はあるものの、その現実が「どうでもいい」と思ってしまう中で、その行為は中々本気になれないということである。
「どうでもいい」というのはもちろん言いすぎだが。
例えば、アインシュタイン氏レベルになれば、世界に刻み付けられた、と思うと思う。誰でも、何百年たとうが、きっと忘れられないだろう。
しかし、ニュートン氏レベルになると、「写真」ってなかった時代だから、たぶんこんな感じの人なんだろうという肖像画はあるけれども、人物は分からなくなってくる。伝記は残されるかもしれないが、そこから分かることと、その人自身のこととは大きく乖離があるだろう。
ソクラテス氏のことも、誰でも知っているだろう。無知の知。知らないって知ることが大事なんだよ、的な、思考までも、数千年たっても、知ってもらえているかもしれない。
が。
時間という疑いようのない事実の上では、「人物」としての痕跡は、殆ど失われてしまうのである。
ましてや!
これを書き始めると、単に努力の放棄に他ならないが、残念ながら僕は凡人である。
アインシュタイン氏レベルなことが、いかなる分野であろうが、例えこのクッソ長いブログを書き続けるといったことですら、他の多くの人たちと比べて抜きん出られる自信はない。
そんな程度な人間が、「世界に自分を刻み付ける」なんてことが、できるとは思えないのである。
どういうことか。
ええとその、SRGN氏の考え・答えは、きっと正しいし、それはすごいことだが、凡人ではきついッス、的なことだ。
子供作る的なことの例でもいいんだけど、子供作るじゃん? 子孫繁栄したとするじゃん?
ひいひいひいひいじいちゃん的なのを、誰か、覚えてるだろうか、ってことである。
要は、時間制限があるなかで、誰しも、満足した人生を送らなければならないのだ。一分一秒無駄なく。
IMF氏からの問いの答えを言い換えれば、「満足した人生を送る必要があるため」となる。
「別に満足しなくてもいいんじゃない?」って言われたことがある気がする。うーん、確かにそうなんだけど、でも、つまらなくないか、って思う。
毎日23時に帰ってきて、何やってんだろって思う。
いや、ストレスはあるかもしれないが、別に、究極にギスギスしてるとか、超ど級パワハラにあってるとかではないから、睡眠時間やゲームしたり遊べる時間が足りなくて嫌だなぁぐらいといえばそうだ。
だが、こういった生活が定年(65歳? 70歳?)まで続いて、それがなんだってんだろう、って思う。
「いや、お金ももらえているし、生活に困らないし、いいじゃんか。もっと生活困窮して、意味なんて考える余裕なんてない人たちだってたくさんいるんだぞ!」
とお叱りを受けるかもしれない。
そうさな。
そうだが、そういう問題ではないんだ。分かってもらえるだろうか、いや、俺が上手く表現ができないだけなんだが……。
前書き
先週は、毎日、23時帰宅であった。毎回書くが、忙しい自慢でもなければ、「俺がいないと仕事が回らなくて」的なのでもなければ、頑張ってるアピールでもない。
第一、もっと拘束時間が長いブラックな方々は大勢いると聞く。ほんとかどうかわからないが――というのは、実際、帰宅の電車は、最近(別にお盆の時期ではない)、遅い時間ほど空いている。
んで、まぁ、その、やってて楽しい仕事であればいいのだろうが、やれ人間関係的なやつだったり、クレームだったり、「何の意味があるのそれ。表現的な問題でしょ。どっちでもいいし」的なものもあったりと、面倒くさいことこの上ない。
勉強にはなると思う。知識も増える。考え方も参考になる。
が、「楽しい」かどうかと問われたら、別に楽しくはない。
なんかプログラムとか書いてたほうがよほど楽しい。
――プログラム、しかし、じゃあ、SEなりPGなりに転職したら? という正論があるかもしれないが、プロジェクトとして行うそういった業務に興味はない――いや、やってみたら楽しいかもしれないが、基本、むかーっしの人が作ったものをちょびちょち直していくような。
楽しいのは、企画、要件定義から実装、テスト、リリース、利用者への研修など含めて、全部含めてやれると楽しいのである。おっきなプロジェクトのごく一部分の担当とか、きっとつまらないだろう。
ゲーム依存に関する記事を読んで
あー、そんなこんなで、休日はほぼ寝て過ごしてしまった。やる気が起きないのだ様々なことに対して。せっかく、最近、「面白い」コメントなど多く頂いているにも関わらず、思考が、時間を、十分に向けられない。悔しい。そんな、朦朧とした状態で、「【特集】1日20時間、2年間外出せず…『ゲーム依存症』患者の現実」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190817-00010003-kantele-soci
との記事を読んだ。
まず、僕が考える「前提」は以下だ。
・ゲームは楽しい
・ゲームにより暴力的になるというのは正しくない
・一方ゲーム依存は現実生活を脅かすため治療が必要だ
1日20時間は多いと思うが、休日であれば、8時間ぐらいは余裕だ、という人は多いだろう。
ただ、「毎日」というのはすごいと思う。
でもたぶん、全然俺もできちゃうんじゃないかという気もする――いや、睡眠時間は6~8時間は欲しいから、20時間はやっぱりすごいな(笑)。
まぁそんな表面的なことを考えながら読んでいたのだが、コメント欄とかでの、「ゲームより現実のほうが大切だ」という意見が――「やはりあったか」という気持ちではあったが――気になった。
大切な現実とは
某じゃんけんで頭が破裂する作品を執筆中の尊敬する僕の友人氏は、「僻みとか思われるの嫌なんでな、あんまし言わないんだが、現実羨ましいとか思ったことないんだよな。物語の方が格段面白いやろ」(勝手な理解)と仰られていた。いや分かる。
――分かる、といってしまうと傲慢になるが、しかし、思いは分かる。
上の「ゲーム依存」は治療されるべき、ということだが、やはり問題は、「ゲーム」が埋めてくれていた時間を、他に、何の「価値ある時間」にするのか、ということだ。
大切な現実とは何か。
ゲームをやるってこと自体も、現実の一部を成していないか。――というのは、もちろん詭弁だろう。だが、詭弁で片付けちゃいけない気がする。
要は、ゲーム依存の治療の先にあるのは、ゲーム以外のことをする「時間」ということだからだ。
本当は創作活動が優先だがブログで済ませている
僕にとっては、上の小見出しの通りだ。反省している。本当は、創作活動をするのが、僕にとって、大切なことであるはずなのだ。というのは、「現実ってそれほど大事なものなのか」という、某氏の感覚を少し思うところだからである。
これは、若い時に、例えば甲子園を目指して野球部で仲間と必死に汗を流したり、とか、そういう経験が大事なんだろうと思う。
くっそつまんなかった。
いや、友人はできたし、そこでの友人たちのおかげで、クラスで孤立とかもなく、平穏無事に過ごせたといってよいだろう。
が、その、クラブ活動なり、部活動的なのは、嫌々行っていた。
(とかっていえば、親は悲しむかもしれないから、このブログは基本リアルの人には見せるつもりは一切ない)
別に、体を鍛えるのは悪いことじゃないと思うし、そのおかげで、筋トレとかするのも比較的簡単にルーチン化できたのかもしれない。
ま、そういう、「役に立った」的な意味であれば、いくらでも挙げることはできるだろう。
ただ、「現実の価値」的な意味においては、――これを、「生きる意味」と置き換えて表現しても構わない――一切役に立たなかったと書いておいてよいだろう。
大切な現実なんてない
上のような経験がよくなかったのかもしれない。先日、とある友人氏(IMF氏)からコメントを頂いた。
なぜみなさまは生きる意味について考えているのでしょうか。 (1)考える理由 (2)考えて結果どうしたいのか (3)何が目的なのか これは個別の問題なので、人によって異なると思うのですが、ぜひお聞かせいただけないでしょうか?即答レベルで、特に考えずに回答をすれば、以下のようになる。
――番号追記
(1)理由:必要だから。
(2)結果:満足(充足)して(前向きに)生きたい
(3)目的:(2)と同じ。
就職面接においては、理由が足りないと思う。
理由は、本記事の前の小見出しに書いた、「大切な現実が分からないから」になると思う。
――ちょっとばかし、これまた別の友人氏(以下SRGN氏)がコメント欄にて書いてくださっている一つの理由・生き方について、僕が思うところを書きたい。
抜粋して、次の小見出しにて、それへのコメントを書く。
「自分の存在を世界に刻み付けること」 かっこつけた言い方をすれば、この一言になります。以前にも書いた気がしますけれど。 自分という存在を、自分が今ここに存在することを、存在していることを、存在したということを知って欲しい、認めて欲しい、肯定して欲しい。 子孫も残せるものなら残したいとは思う、けれど相手は誰でも良いというわけではなく、自分の理解者あるいは自分を認めてくれる存在であって欲しいし、私がそう思える相手がいないのならば、子孫を残せなくても良い。そういう相手が欲しい、と思う気持ちがあることも自分で否定したりしない。 私という存在をまず自分自身が認めるために、やりたいと思ったことには積極的に、欲しいと思うものには手を伸ばし、したくないことや嫌なものは可能な限り避けようとする。今形成されている社会で生きていく上で支障が出ない範囲で、私自身のその時の思いや気持ちに正直に生きる。 つまるところ、私という存在がこの世界に生きているということを、私自身が肯定し、認めるために、私は生きている。
自分の存在を世界に刻み付けること
SRGN氏は、悩み、答えを比較的早い段階で見出し、それをベースに現実の生き方を構築できた方だと思う。かっこいい。
僕の目指すところである。
いや、そもそも、「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がする。
ただ、そこの部分を触れないで、そのプロセスがないまま、現実にどっしり身を構えられた人たち――それを僕は広い意味で「リア充」と呼ぶ――は、どんだけ、現実的な能力が高くても、僕は、「参考にならない」と思うだろう。
だから、SRGN氏のような方と出会えたことは、僕にとって間違いなくプラスで幸せである。
上の僕のSRGN氏に対するコメントは、単に称賛したかったから歯の浮くセリフを書いたというわけでは全くなく、事実思うことである。が、その一方で、僕は、それほど大事な人の記述であっても、完全には咀嚼できない部分がある、という意味で書いている。
何がかというと、「自分の存在を世界に刻み付けること」これについて、僕は真剣になれていない、ということである。――すぐさま書けば! ダッシュで書いておけば、SRGN氏が見出している答えを否定するものでは全くない。急いで書くまでもなく分かってくれる方々しか本ブログを見ている人はいないんだろうが、大事なことなのでダッシュで書いた。
要は、ぼく個人は、今のところは本気になれない答えである、ということである。
結局、まわりまわって、その答えになるかもしれない。
世界(現実)と自己
なぜか、ということをつらつら書いていくと、中々話しが終わりそうもないし、僕の熱量も下がりそうなので、簡単に書こうと試みれば、そもそも、上に書いてきたように、「大切な現実なんてない」からだ。コロンブス卵問題のようだが、要は、現実の重要度を深く感じられない状況において、その現実に対して自己の存在を刻み付けるということは、不安定な砂の土台にひょろひょろの棒を指すみたいな。
いやだから、現実に対しての自己の肯定感が高まれば、おのずとその現実に対しての興味関心も増大する可能性はあるものの、その現実が「どうでもいい」と思ってしまう中で、その行為は中々本気になれないということである。
「どうでもいい」というのはもちろん言いすぎだが。
例えば、アインシュタイン氏レベルになれば、世界に刻み付けられた、と思うと思う。誰でも、何百年たとうが、きっと忘れられないだろう。
しかし、ニュートン氏レベルになると、「写真」ってなかった時代だから、たぶんこんな感じの人なんだろうという肖像画はあるけれども、人物は分からなくなってくる。伝記は残されるかもしれないが、そこから分かることと、その人自身のこととは大きく乖離があるだろう。
ソクラテス氏のことも、誰でも知っているだろう。無知の知。知らないって知ることが大事なんだよ、的な、思考までも、数千年たっても、知ってもらえているかもしれない。
が。
時間という疑いようのない事実の上では、「人物」としての痕跡は、殆ど失われてしまうのである。
ましてや!
これを書き始めると、単に努力の放棄に他ならないが、残念ながら僕は凡人である。
アインシュタイン氏レベルなことが、いかなる分野であろうが、例えこのクッソ長いブログを書き続けるといったことですら、他の多くの人たちと比べて抜きん出られる自信はない。
そんな程度な人間が、「世界に自分を刻み付ける」なんてことが、できるとは思えないのである。
だから迷ってますという結論
そろそろ1時間経つので、かっこ書きに入っていこうかと思うが、要は、そういうことだ。どういうことか。
ええとその、SRGN氏の考え・答えは、きっと正しいし、それはすごいことだが、凡人ではきついッス、的なことだ。
子供作る的なことの例でもいいんだけど、子供作るじゃん? 子孫繁栄したとするじゃん?
ひいひいひいひいじいちゃん的なのを、誰か、覚えてるだろうか、ってことである。
要は、時間制限があるなかで、誰しも、満足した人生を送らなければならないのだ。一分一秒無駄なく。
IMF氏からの問いの答えを言い換えれば、「満足した人生を送る必要があるため」となる。
「別に満足しなくてもいいんじゃない?」って言われたことがある気がする。うーん、確かにそうなんだけど、でも、つまらなくないか、って思う。
毎日23時に帰ってきて、何やってんだろって思う。
いや、ストレスはあるかもしれないが、別に、究極にギスギスしてるとか、超ど級パワハラにあってるとかではないから、睡眠時間やゲームしたり遊べる時間が足りなくて嫌だなぁぐらいといえばそうだ。
だが、こういった生活が定年(65歳? 70歳?)まで続いて、それがなんだってんだろう、って思う。
「いや、お金ももらえているし、生活に困らないし、いいじゃんか。もっと生活困窮して、意味なんて考える余裕なんてない人たちだってたくさんいるんだぞ!」
とお叱りを受けるかもしれない。
そうさな。
そうだが、そういう問題ではないんだ。分かってもらえるだろうか、いや、俺が上手く表現ができないだけなんだが……。