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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
カテゴリー「生きる意味」の記事一覧
今日の一言「連載三つ目」

前回までのあらすじ

――生きる意味を徹底して考える(1)
――生きる意味を徹底して考える(2)

 2回の連載で、
・生きる意味はあろうがなかろうが、そこが問題じゃない
・考えなければ生きていけない
・人生の意味には、役割ベース、モチベーションベース、インスピレーションベースの3つがある
・役割ベースの生き方はつまらない
・モチベーションベースの生き方は重要だがそれも万能ではない
・ライフワークをもつのが重要だ

 と書いてきた。

 今回は、その「インスピレーションベース」とか「ライフワーク」とか、そんな横文字について、もう少し自分に引き付けて考えて整理していきたい。

もう少し詳しく振り返ってみる

「ライフワークとは何か?」
 と入る前に、もう少し復習をしておきたい。

 上のあらすじを「よく覚えている」という人は、次の小見出しまでジャンプしていただきたい。
 以下、対話形式で、前回までの流れを整理する。


「生きる意味を徹底して考える必要がある」
 ――何故か?

「生きる意味があろうがなかろうが、考えることから逃れられないからである」
「補足すれば、『生きる意味を考えるのは無駄だ』と主張する人であっても、『その他のもっと重要なことを考えるべきだ』という主張をもっているからだ(※)」
 ――では、その他のもっと重要なことを考えるべきであり、生きる意味など考えない方がよいのではないか?

「仮に、生きる意味を考えずに、『今・ここで、目の前にあることに注力する』としたとき、それは本当に人間としての生き方であるのか。人間としての生き方は、3つあるという。(1)役割ベース、(2)動機ベース、(3)インスピレーションベースだ。単に考えることをやめて、ただ目の前のことに一生懸命になるというのは、(1)の役割ベースの生き方ではないか」
 ――役割ベースの生き方ではダメなのか?

「ダメではない。ただし、役割ベースとは、その役割なるもの――すなわち「使命」が、外部から与えられている。常に新しい「使命」に心身を捧げ、考える余地なく行動し続けることができれば、それは一つの人間としての在り方であろう。しかし、動機無き行動は、長くは続かない。その人はいずれ摩耗し果てるだろう」
 ――何故か?

「外部から使命が与えられているからだ。人間が本来力を発揮できるのは、内発的な動機が必要である。それに従って生きるのが、動機ベースの生き方だ。動機ベースの生き方とは、「やらなきゃ」というより「やりたい」と思うことを続けていくことだ。それは仕事ではなく遊びかもしれないが、それでもよい。遊び(趣味)のために仕事を頑張れるという人も少なくないだろう。また、仕事が楽しいという人だっていることだろう。とにかく、「面白い」「楽しい」と思えることを続けていくのが動機ベースの生き方だ」
 ――では動機ベースの生き方を目指せばよいのか?
「動機ベースの生き方も万能ではない。理由は、以下に、前回の記事の一部引用により示す」

 一つは、上に書いたけれども、「現実と、自分の動機との整合性」をとる必要があることだ。前の記事で書いたが、「現実と理想との乖離を少なくすること」が幸せを感じるためにも必要であるというのと関連する。
 いっくら熱い情熱を燃やしていても、我々の世界は魔法あふれるファンタジー世界ではないのだから、無理なことは無理なのだ。「すぐ入れますよ、お安くしときますよ」とか言っていい店だったことがないのと同じだ……いやそれは違うか。
 もう一つは、その動機も、必ずしも長続きするとは限らないということである。
 前回の記事のカッコ書きあたりで書いた気がするが、「楽しくゲームするために生きるんだ!」という情熱を燃やして、頑張って勉強して良い高校に入ったかもしれないが、そんな動機で長続きするわけないのである。何故かというと、人生の困難・障害ってのは、なっかなか激しいものだからだ。
 確かに、一時的な快楽を得る方法はたくさんあるだろう。しかし、それらが、今後も続くであろう人生の艱難辛苦とシーソーゲームを繰り返すとしたら、十分に希望を見出すことができるのだろうか?――生きる意味を徹底して考える(2)

 ――ではどうしたらよいか。
 ということで、ようやっと、本記事の、ライフワーク云々の話につながる。


※本当の意味で「考えることを放棄すべきだ」という主張も存在する。ただしそれは、神に一身を捧げることであったり、坐禅により心身脱落することであったり、特殊な生き方の部類である。この考え方・生き方については、一考および選択の余地があると思っているが、本記事の主旨からはずれるため触れない。

何故ライフワークが必要か

 何故、動機ベースの生き方は不十分だったのか。
 それは、いくら自分の人生であっても、誰も、未来のことなど分からないからである。

 今手にしているお金も、愛も、健康も、この先どうなるか分からない。いや、物質的なものや、精神的なものであっても、時間とともに減っていくのは確実だ。
 ……減るのが確実だ、と書いてしまうと、投資家としては「お金」はお金によって増やし続けられるかもしれないし、愛に生きる恋人たちは永遠を信じて疑わないかもしれない。だが、健康はいずれ損なわれていく。老化、そして死は避けられない。

 例えば。
・美味しいものを食べるのが幸せだ、生きがいだ、だから私はそれが生きる動機なのだ。
・ゲームするのがとにかく楽しい。これをやっていられたら他に何もいらない。
・人とかかわるのが、おしゃべりするのがワクワクする。ずっとこうやって生きていきたい。

 それらはとても大事なことだ。

 だが、長期的に人生というものを考えたとき、環境の変化や、趣味嗜好の変化があったとき、それは永続する動機となりえるのか?

 つまり、動機ベースの生き方は、それ自体が悪いわけではなく、その継続性、強度が不十分ではないのか、と考えられるのである。だから、ライフワークが必要だ、――となるが、ここは、もう一つ小見出しで補足しておこう。

動機ベースとインスピベースの生き方の違い

 動機ベース、インスピレーションベースと書いてきたが、実は、それほど大きな違いが無いのではと考えている。
 というにも、前回も書いたが、この「インスピレーションベース」というのが、どうにも落ち着きの良くない言葉だ。
 他の言葉で何とか、ピンとくる表現にできないだろうか、と少し考えてみる。

 ナチスの強制収容所を生き延びた精神医学者V.E.フランクル氏は、「唯一性・一回性」が人生を価値あるものにしていると述べている(『人間とは何か――実存的精神療法』参照)。唯一性とは、「私が、私以外の何者でもないこと」であり、一回性とは、「人生がリセットボタンでやり直しのきかないものであること」である。

 デンマークの哲学者キルケゴールは、絶望の三形態を、
・自己自身があることに気づいていないこと
・本来的な自己自身になろうとしないこと
・非本来的な自己自身になろうとすること
 と述べている(『死に至る病』参照)。

 僕は、この一連の連載を、「3.個人としての生きる意味――生きる意味を徹底して考える(1)」を前提に書くと決めた。
 だから、このインスピレーションベースの生き方というのを、キルケゴール氏の言葉をかりて、「自己自身ベースの生き方」というのはどうか。あるいは、「実存ベースの生き方」というのはどうか。

 ただ、横文字を漢字にしただけでは、結局何を意味するかよく分からない場合がある。
 実存ベース……っていっても、実存ってなんだよ、という人もいるだろう。
 実存とは、フランクル氏がいうところの、「唯一性・一回性」をもった人間として、人生をまっとうすることである。本来的な自己であるということだ。
 ――まだ分かりにくいだろう。


 ここで、もう一度、役割ベースと、動機ベースと、「実存ベース」の生き方の違いについて、その行動の源泉になるモノ、「やらなきゃ」「やりたい」がどこから与えられるのかを考えてみよう。
 
 役割ベースは、「外部」からであった。親であること、社会人であること、学生であること、とある政治団体の一員であること、宗教団体の一員であること……など。その所属するカテゴリーから、「こうあるべき」という行動指針が与えられる。それに対して邁進するのが、この役割ベースの生き方であった。

 動機ベースは、「内部」からであった。自発的に、自分自身で「やりたい!」「楽しい!」「面白い!」と思えるもの。その気持ちに基づいて行為行動するというのが、動機ベースの生き方であった。

 実存ベースは、どこから与えられるのか?
 それは、動機ベースと同じく、「内部」である。自分自身の中からであることは、動機ベースと同じなのだ。
 しかし、動機ベースと違うのは、その根拠、強度、継続性である。

 僕は、その実存ベースの生き方を求めて、今さまよっている。
 30代にもなってお恥ずかしい限り。
 
 ……が、逆に、問う。
 果たして、どこまで多くの人が、本当に、唯一・一回性の人生において、「自分にしかできない」「自分はこれをやるために生まれてきた」といえるような、ライフワークに出会えて、そしてその生き方を選択できているのだろうか。


 意識高い系みたいなことを書いている? 否、断じて。
 僕は単に必要性に迫られているに過ぎない。深い森の中に迷ったとき、生存本能から恐怖を感じ、そこから抜け出さんと足掻くのと変わらない。

 僕はそうしなければならない

ライフワークに出会えている例

 本当は、この記事においては、具体的にライフワークを見つけるためにはといった方法論にまでいきたかったが、おそらくこの調子ではまた5,000字をこえることだろう。
 今回は、一つ、ライフワークの例を書いて終わりにしよう。

 いきなりアニメーション作品の例で恐縮であるが、最近過日、「Re:CREATORS(リ:クリエーターズ)」という作品を全話視聴した。
 シュタインズ・ゲートという作品もそうであったが、この作品も序盤はあまり引き込まれず、1~3話ぐらいみてしばらく放置していたが、途中、「築城院真鍳(ちくじょういん・まがね)」というキャラクターが登場した、6話から面白くなっていった。というより、マガネちゃんがとても好きになったのだ。若干寝不足になった(かっこわらい)。

 彼女は、悪役である。
 彼女は、無辜の住民を面白半分に殺害する。
 主人公陣営と、敵側の陣営に分かれているが、当初、マガネちゃんは敵側陣営に加わるように説得される。ところが彼女はその申し出を断る。かといって、主人公陣営にもくみしない。面白い方につくと。世界がどうだろうが関係ないと。
 彼女は完全サイコパスである。「憎しみ」とか「正義」とか、そういった主義主張も存在しなければそういった感情もない。言説弁舌巧みで、人の弱みを握ったり、おとしめたり、絶望させることが得意で、そういうのがとても面白いと思っている。

 登場のしょっぱなから、悪い奴だなぁと思ったし、顔つきも邪悪である。まぁ、ずーっと笑顔で楽しそうにお話ししているが、ものすごい胡散臭い。「そうだよ? マガネちゃんは嘘しかつかないので~す」とか、クレタ人もびっくりしちゃうぐらい。

 これだけ書けば、単に頭の狂った悪い奴、なのであるが、何故か憎めないのである。
 その理由について、マガネちゃんの登場回を重ねるごとに、分かった。彼女は、どこまでもまっすぐなのである。マガネちゃんは、「面白いこと」をただ、ただずっと求めているだけなのだ。そこに善悪の基準はない。ただそれだけで、ただそのためだけに生きている。マガネちゃんは友達いないだろうかもしれないが、彼女にとってそんなことどうでもいいことなのだ。


 ――それだ。
 唐突である。思い出そう、これは何の小見出しだったか? ライフワークの例を挙げようというのが目的だ。つまり、マガネちゃんが、住民惨殺したり、面白半分に主人公陣営にも敵側にもつかずワイルドカード的な立場でふらふらしたりしている時点では、それが、動機ベースの行為なのか、実存ベースの行為なのか分からなかったが、登場する場面ごとにその置かれた立場や条件は違うのに、ただ一つの自己自身の目的……「面白いこと」をどこまでも求めてやまなかったのである。そんな一貫性みたいなものが、実存ベースの生き方……ライフワークの実践だと思う。
(その結果として、最後には物語にとってとても重要で良い方向の働きをする。ただ、マガネちゃんにとってそれが「良いこと」なのか「悪いこと」なのかは、結局どうでもいいことなのである)


 インスピレーションベース、実存ベース、ライフワークと、様々な表現で書いてきたけれども、もう一つ、「信念」という言葉を付け加えてもいいかもしれない。

 次回は、もうちょっと、このライフワーク的なみたいなものについて、掘り下げたり、広げて例をあげたりしつつ、「じゃあ俺はどうしたいんだ? どうすればいいんだ?」ということに突っ込んでいきたい。
 結局今回の記事は、「実存」的じゃなくて、自分の中ではあまり面白くなかった。――のだけれども、書かなければいけない、書いておかなければいけない、そんな気はした。


(かっこ書きである。Re:CREATORS、アマゾンプライムのウォッチリストに登録してから数か月過ぎてたけど、意外に面白かった。上から目線な書き方をすると、「よくまとまっていた」と思った。なんか、アマゾンレビューで、「人物描写が足りず、2クール(22話)では全然短かった。もうちょっと丁寧につくったらよかったのに」とか、「製作者側の自慰」といった意見もあったけど、僕はむしろ、もっとコンパクトにしてもよいと思った。なんというか、今作においてキャラクターは、むしろ「テンプレ的」であることが求められていたと思う(何せ各物語の主人公なのだから)。だから、なんとなくこのキャラはこういうキャラだと、脳内補完できるレベルで描かれていれば十分だと思ったのだ。それと、製作者側の自己満作品だ、というのは、その面もあるかもしれないが、創作物があくまでも消費者側の「承認力」を必要とするという設定は、僕の好きな小説の完全無欠の高校生が何か神の末裔(?)の女の子と合体して悪い奴をやっつける作品の、認識子(グノシオン)みたいで面白かった。というか、そう、小説家とか漫画家とか、その創作者たちが、自身の作品に対してぶつける熱い思いってのが、すごくよかった。この作品を異種能力バトル的なものを期待してみるとちょっと肩透かしかもしれない。いやまぁ映像はとてもきれいだったけれど、もうちょっと戦闘シーンとか全体的にカットしてまとめてもいいんじゃないかな、ってのが僕個人的な感想。ただまぁ、そういうのもあったからか、ブリッツはん【娘をなくしてちょっと虚無になってしまったハードボイルドのおっさん】と駿河はん【女性漫画家。ブリッツ・トーカーが登場する作品を描く】のやりとりとか、めちゃくちゃ痺れた。その二人のシーンと、マガネちゃんをみれただけでこの作品にとても満足だ)

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今日の一言「連載の二つ目」

前回のあらすじ

 ――生きる意味を徹底して考える(1)

 上のとおり、
・生きる意味はあろうがなかろうが、そこが問題じゃない
・考えなければ生きていけない
・人生の意味には、役割ベース、モチベーションベース、インスピレーションベースの3つがある
・役割ベースの生き方はつまらない
 ということを書いた。

 さて、役割ベースの生き方を取り敢えず否定したわけだが、今度は、「モチベーションベース」の生き方について書いていく。

モチベーションベースの生き方

 モチベーションベース。動機に基づいた生き方ってことである。
 本来的に、みんなモチベーションベースの生き方をしているとは思う。ただ、忙しさにかまけて、周りが見えなくなっている場合にのみ、「役割ベース」の生き方になっている場合があるのである。

 ちなみに、役割ベース……別に絶対だめだといってるわけじゃない。というより、昔……それは、昭和とかそれだけじゃなくて、封建時代とか神権政治時代とか、歴史的にみたら往々にしてそういった時代ばっかりだったわけである。
 士農工商なんて小学生並みの例を挙げるのは恥ずかしいが、それぞれ身分があった時代は、「自分らしい生き方」なんて考えられる土台がそもそもなかったのである。

 そう考えると、19世紀の実存主義の興りというのは、とても大事なことだったといえる。
 脱線するが、それは西洋からしてのことであり、古代インド・紀元前5世紀ぐらいではそもそも、ゴウタマ・シッダールタさんが、「人生ってそもそも苦しみじゃない?」とか言い出していたのである。


 話がそれた。動機主義である。
 動機とは何か。正しい説明を知りたい方は、「人生の目的は、自分らしく生き、人とつながること」こっちを見てもらうとして、僕的解釈をすれば、「欲望」である。

 せっかちに、先回りして書いてしまうと、この後の話の流れとして、「欲望はまた苦しみの源泉である」ということに触れようとは思うのだけれども、まずは、「欲望をもつことが重要だ」という主張をする。

 欲望と聞くと、たびたび、よくないものだという認識が生じる。煩悩という言葉に置き換えてもよいかもしれない。

 お金が欲しい。
 美味しいものを食べたい。
 女(男)が欲しい。
 車が欲しい。
 家が欲しい。
 称賛が欲しい。
 名誉が欲しい。
 楽をしたい。

 煩悩まみれの人間なんて、かっこ悪いと思われがちだ。
 でもそんなことはない。欲望こそが、人の行動の源泉である。

 企業の営利活動とは何だろうか。人の欲求を満たすものである。
 もう一方、「面倒なことを解消する」ことである。

 CSRとかいって、環境とか社会活動に貢献することも重要視されたりもするのだろうが、結局、第一優先は、資本主義社会・競争社会において、その企業が生き残ることである。生き残って利益を生むことができるから、その利益を社会貢献に使えるのである。そしてその行為が、投資家や消費者に対しての付加価値になるのである、だから社会貢献するのである。

 いやいや、人の「倫理観」を根こそぎ否定するのではない。しかしだ、これは僕が勝手に思っているだけなのだが、人は根源的に利己的な存在であると思っている。この「利己的」というのは、「他人のために為すこと」も含めて考えている。他人のために為すために、自分が存在して、その他人が喜ぶ姿を見て「利己的に」喜ぶのである。――といった解釈を書いたり言ったりすると、まずもって友人や恋人はできないから注意するように(誰に言っている)。

 書いておかねばならないのは、別にそのことが、悪いことでも、偽善だとして断罪しようというのでもない。それはそれで素敵なことだ。自分の食欲を満たすのではなく、他者にパンを与えるという行為。それが己の倫理観に従ったものであるというのは、人間という存在の崇高さを物語っているではあるまいか。


 というわけで、すべての人間の行為は、欲望からなっていると言ってよい。悪いことをしてしまうのもまた欲望のせいだとしても、良いことをなしたいと思うのも、それはまた欲望であるのだ。

 んでもって、その欲望に従って生きるということ、「自分がやりたい!」と思うことと、現実とを一致させていくということ。それがモチベーションベースの生き方である。

動機ベースの生き方の欠点

 確かに、このモチベーションベース(タイプするのが大変だから、以後「動機ベース」と統一する)の生き方には、役割ベースの生き方の焦燥感、強制感に比べたら、人間礼賛・個人賛美の美しさがある。
 ところが、この動機ベースの生き方も万能ではない。


 一つは、上に書いたけれども、「現実と、自分の動機との整合性」をとる必要があることだ。前の記事で書いたが、「現実と理想との乖離を少なくすること」が幸せを感じるためにも必要であるというのと関連する。
 いっくら熱い情熱を燃やしていても、我々の世界は魔法あふれるファンタジー世界ではないのだから、無理なことは無理なのだ。「すぐ入れますよ、お安くしときますよ」とか言っていい店だったことがないのと同じだ……いやそれは違うか。

 もう一つは、その動機も、必ずしも長続きするとは限らないということである。
 前回の記事のカッコ書きあたりで書いた気がするが、「楽しくゲームするために生きるんだ!」という情熱を燃やして、頑張って勉強して良い高校に入ったかもしれないが、そんな動機で長続きするわけないのである。何故かというと、人生の困難・障害ってのは、なっかなか激しいものだからだ。
 確かに、一時的な快楽を得る方法はたくさんあるだろう。しかし、それらが、今後も続くであろう人生の艱難辛苦とシーソーゲームを繰り返すとしたら、十分に希望を見出すことができるのだろうか?


 そして、いま僕が立っているのが、ここでもある。
 なんだか、いろいろ、実感がわかない。意欲がわかない。


 さぁどうするか。そこで颯爽と登場するのが、「インスピレーションベースの生き方」である。

インスピレーションベースの生き方

 ただ、このインスピレーションベースの生き方というのは、横文字がなんだか定着しない感があるのはそのとおり、明確に「これだ!」という定義があるわけではないのだ。そもそも、インスピレーションとは、「突発的に降ってきたアイディア」的な意味である。(アイディアとは、よくよく考えた結果であることが多い)。霊的な……という意味も入ってくると、どうにもうさん臭さを感じたりもする。

 ただ、この三つの生き方を提示している本というか、その記事において言わんとすることは、何となく分かる。それは、「ライフワーク」に関する部分である。以下に少し引用する。
(ライフワークとは)必ずしもそれは職業で表されるわけではありません。あなたがそれをやっているだけでワクワクできたり、楽しくなったりするような活動です。それが、ライフワークだと考えてください。ライフワークとは、あなたがそれをやっているだけで深い満足感を得たり、自由な感じがしたりする活動です。自由に自分の才能を分かち合えたら、それだけでやめられないような楽しい感覚を持つことになります。――ライフワークを始めよう
 そう。これである。僕が今、一番重要視していること、探さなければいけないと思っているのはこの、ライフワークなるものである。

 先日僕は、「生きる意味がないなら、結婚して子どもをつくって育てればよいのだ」という意見を聞いた。
「やっぱり……そうなのかなぁ、究極、人間だって生物なのだから、子孫繁栄が第一命題なのかなぁ」と思った。

 そうなのかもしれない。
 でも、僕の、ワクワクして、それをやってるだけで満足感がえられて、自由な感じがする活動ってのは、本当にそれなのだろうか。



 次回、ライフワークを探すために今後していくべきことについて考えるとする。


(かっこ書きである。いつも普段の記事は、ゼロ秒思考で……それって思考っていうの? というほどに、指が自動筆記している。今回の連載記事は、非常に考えている。ものすごい時間を要している。その割に推敲の時間はほとんどないのであるが……。)

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今日の一言「保存版にしたい」「とても長くなりそうなのと、一度で書ききる体力精神力がないため、連載記事とする」

導入・定義

 生きる意味を徹底して考えたいと思う。
 文章は、読む人の対象をはっきりさせる必要がある。導入が重要だ。
 まず、生きる意味とは、大きく3つに分けられる。

1.宇宙規模の生きる意味

2.人類規模の生きる意味

3.個人としての生きる意味


 生きる意味、生きがいといったキーワードで調べると、「生きる意味がある」だとか「ない」だとか、様々な主張を読むことができる。
 しかし、それらを読むときには、その書き手が、上の三つの、どのレベルで書いているのかを把握する必要がある。そうしなければ、分かったような気にはなるが――基本、読めば、それなりに納得感は与えてくれるものが多いのだ――、結局、それをどう自分に生かしていいのかが分からなくなる。

 僕のこれまでの記事は、基本的に「3.個人としての生きる意味」である。これは言い換えれば、「実存の問題」である。
 そのため、今回の記事としては、「生きる意味」の定義を「3.」に限定した上で書いていく。

実存問題

 はじめに、自分の現在の立場を明らかにする。さもないと、この記事の終着点、「結局何がいいたいの? どっちなの?」が分からなくなる。かといって、ここで書く立場が、永劫不変完璧なものであるという根拠も自信もない。むしろ、それを確固たるものにしたいというのが、日々書いてきている理由の一つでもあるのだ。

 さて、僕は、生きる意味があるとか、ないとか、その問題の立て方自体に、意味がないと思っている。
 逆に、数ある生きる意味に関する主張において、「ある」立場でも、「ない」立場でも共通していることが見受けられるのだ。

 それは、「結局は、自分で考えて見つけましょうね」ということである。
 ――と書くと、「ない」立場の人たちの主張の中で、「暇があると余計なことを考えるようになるから、暇をつくらないようにして、そんな問題を考えることからさっさと逃げる」ことを推奨する人たちはどうなのだ? と思われるだろう(考えることを否定しているという意味で、「自分で考えましょう」とは言っていないのではないか?)。
 その主張の代表的なのを見つけたので、メモしておく。
――誰も彼も「生きる意味」には「蓋」をすることでしか対処できない

この問題はそもそも向き合うことが間違っている問題なのです。だって答えが無いんですよ。唯一の生活は「死なないため」だけなんですから。だから、せめて苦しくならない正解としては「そもそも考えない」「そんな問題からはさっさと逃げる」
こんなの人類の永遠のテーマですよ。神が罰を下したとか死を迎え転生するための修行だとか。はい、もうとっくにずーっと前の偉い哲学者とかが向き合った命題です。
考えるよりそちらの方々の本を読んだほうが早い。
 否定はしない。むしろ、僕もこうあるべきではないかと、内心思っている。
 しかし、それを納得したとしても、次に立ち向かうべきは、「どう生きるべきか」という問題となる。そうしたとき、まわりまわって結局、「考えること」自体からは逃れられなくなる、というのが僕の主張である。

 人間は、考える生き物である。
 ホワイトカラーだろうがブルーカラーだろうが、主婦だろうが主夫だろうが、考えることからは逃れられない。
 それは、資本主義社会になってしまったからかもしれない。民主主義になってしまったからかもしれない。ただ、狩猟採集生活をしていたころの人類だって、太陽の沈む方向から方角を捉えたかもしれないし、よく木の実が生い茂る土地を覚えたかもしれないし、猛獣と戦う・逃げるための方法を考えたかもしれない。疑いえないことは、人類が考える生き物だったから、現代社会のように発展してきたのである。

 もちろん、上の「生きる意味には蓋をすべき」という考えの人たちは、別にすべての人間の思考自体を否定しているわけではないだろう。
 同じ人のブログで、逆に考えることを奨励する記事も見受けられる。
 忙しさは精神の安定を奪います。死ぬ気で怠ける方法を考え抜くことが何より大切です。生ぬるくのらりくらりショートカットする方法ばかり模索しないで、死ぬ気でショートカットを見つけて下さい。
そしてとにかく自分の時間を沢山手に入れる方法を模索してください。
とにかく忙しさは人の思考力を縮小させてしまいます。
貴方を鬱にしているのは忙しさです。
忙しさを美徳とする奴は絶対的な悪です。悪の権化です。
死ぬ気で怠ける方法を模索してください。
 鬱になったときに、どうしたらよいのかという方策を述べているものである。「死ぬ気で怠けることを考え抜く」べきとある。

 別にこの方のブログがどうこうではないが、僕が基本的に、「生きる意味を考えても仕方がないから暇を作らず忙しく毎日を生きようぜ!」という主張に共感も実践する気もなれない理由はここにある。
 繰り返しになるが、「考えること」からは逃れられないのである。

 僕の立場をまとめよう。
・生きる意味があるだとかないだとか、それ自体は問題ではない
・問題は、どちらにせよ、考えることからは逃れられないことである


 補足というか蛇足かもしれないが、僕は、10代前半ぐらいのときから「生きる意味」を考え始め、20代前半ぐらいのときから、その、「毎日を積極的に肯定して今が大切だとして忙しく目の前のことに打ち込んでいく」ということを実践していった。
 30代となった今。結果として、結局「虚無」との戦いは終わっていない。

日々を忙しく生きることとは

 しかし、その「生きる意味など考えてはいけない」という主張には、強烈に惹きつけられるものがある。ある友人がいっていたが、「その考え方はとても役に立つ」のである。だから僕も、決して悪いものではないと思っている。

 ただ、僕はその先、もう一歩を考えたい。
 その役に立つ考え方が示すのは、「リア充」になることである。または、「自分の欲望を満たし続ける」ことである。もしくは、「自分の感性や感覚を追求する」ことである。

 僕が問題にしているのは、その「あるべき理想の姿」である。
 ここでいう理想とは、人類社会における理想像などではなく、あくまで、実存として(個人として)のものだ。
 それを求める場合、構築する場合、結局「考える」ことからは逃れられず、そして何より、その「理想」求め構築するためには、立ち戻って、己の「生きる意味」というものと、向き合わなければならないと思うのである。

 それは、坐禅や瞑想のように、「思考」を手放すための方法を取る場合においても避けられない。
 坐禅とは、道元禅師いわく、「修証一如(しゅしょういちにょ)」――即ち、悟りにいたる手段ではなく、それ自体が悟りなのであるのだが、そこに至る生活を決断するというところに、「考える」ことが必要であるのだ(もっとも、それは最後の「考える」になるかもしれないが)。


 この考え方、この感じ方に至っている理由は、僕は「幸せ」という言葉の定義を、「理想と現実の乖離」として捉えているからである(この辺りは何度も書いているので、あとで参考記事のリンクでも貼るか)。
 この幸せ追求のモデルが誤りであるのだとすれば、その「理想の姿」を求めること自体を改めなければいけないかもしれない。ただ、ここはかなり強固な部分であるため、変更するのは難しい気がしている(自分の中で)。
(いやそもそも、「幸せ」を追求すること自体が正しいのかどうか、ということは結論に至れていないが)

生きる意味があるとしたとき

 生きる意味がないとしても、結局考えることからは逃れられず、幸せだとか、充実した生き方を目指すときに再度生きる意味を考える必要が発生するということを書いてきた。
 これについては、なおも納得いかない人も多いだろう。「今が幸せなら、何故わざわざ生きる意味など再び考える必要が発生するのか」と。それはその通りである。――が、これも一般論で言われるところであるが、「幸せばかりの人生など存在しない」ということだ。人生山ありゃ谷もある。楽ありゃ苦もあるさ、と。その人生の波が、正常点(鬱状態。正常でいられないほど苦しい状態。人によって異なる)より高い位置で上下運動する分には問題ないだろう。しかし、その波が突如として、正常点を下回るような状態に陥った時……それでも「生きる」ということを選択することができるかどうか。


 話が進まなくなるので、ここで、逆に「生きる意味はある」とする考え方について整理していく。
 ここで一つ引用をする。
 ――人生の目的は、自分らしく生き、人とつながること
 豊かな人生とは「自分の大好きな人と、大好きな場所で、自由に時間を過ごすこと」です。これ以上のぜいたくを私は知りません。これは多額の費用もかかりませんし、何か才能がないとダメだということもありません。いまの私にとって、ファーストクラスで世界一周旅行することよりも、家族で河原を散歩することのほうがよほど豊かな体験です。
 そのためには「自分が誰か」を思い出すことです。自分が何をやりたいのか、何をやると幸せなのかを知ることです。
 そのためには、目の前の選択肢の中でいちばんワクワクすることを選び、大好きなことを毎日やることです。それがきっと、あなたが生まれてきた目的につながっていきます。
 上の記事で提示されていた人生の意味には、三つあるとされている。

 一つは、役割ベースの生き方。
 二つは、モチベーションベースの生き方。
 三つは、インスピレーションベースの生き方。

 それぞれについて、以下、僕が勝手に解説しよう。ちゃんと知りたい方は上のリンク先をどうぞ。

役割ベースの生き方

 親として、学生として、部下として、夫として、ボランティア団体の一員として……。
 役割ベースの生き方とは、何かに所属し、そこから与えられる「使命」に対して必死になる生き方のことである。
 生きる意味がないとする主張の多くは、この役割ベースの生き方を目指させるものにあるように思う。「今を生きよ」とか「目の前のことに集中するのだ」といった意見を見かけたり、実際に言われたことがある人もいるのではないだろうか。

 いきなりだけれども、僕はこの次元の生き方を否定する。
 いやもちろん、「生きる意味とは……」などと考えたこともない人は、ぜひ一生考えることもなくそのまま生き切っていただきたい。ただ、一度でも、自分の存在意義に、少しでも疑問を抱いたことがある人なら……実存的問いを立てたことがある人ならば、この役割ベースの生き方は非常に脆く儚いものであると知っておいてもよい。

 もちろん、それが脆く儚く潰えてしまわないように、さらなる役割を求めて、必死に生きていくありかたも、それまた人間として美しいだろう。

 ――ただ、「やりがい搾取」とか、人の善意を食い物にしようとする魑魅魍魎も存在することは触れておく。もう一つ、ぱったり、ぽっきり、「挫折」という問題が生じる可能性にも触れておく。これは何も若い人に限ったことではない。中高年鬱とか、熟年離婚とか、定年退職後に急激に老けてしまうとか、問題が発生する可能性は、そこら中に転がっているのである。

 これが、役割ベースの生き方の危険性だ。
 つまり、「役割」なるものが、外部から与えられる仕組みになっていることが問題であるといえるのである。
 学生時代は、勉強なり、部活なり、恋愛なり、友人関係なり、大変だったかもしれない。しかしそれでも、単位をとって進級するだとか、入試を突破するだとか、就職活動するだとか、一応目安となる「役割」は与えられていた。

 さぁいざ「大人」になったら? 会社が仕事という役割を与えてくれる? 愚かしい考えだ。与えられた事をこなすことは仕事ではない、作業だ。仕事とは、利益(物・サービス)を生み出す仕組みを作り上げることである。
 マニュアル人間なんていらない、という言葉も聞いたことがあるだろう。主体的に動ける人材が必要だと。

 主婦(主夫)になれば、良き夫、良き妻になるという役割が与えられる? 否。何につけても従順であるだけの関係は長続きしないとされている。マグロなセックスは飽きるとか……ちょっと違うか。

 まぁ、例証が中途半端だから、上の内容は批判満載だろうが、そもそも役割ベースの生き方にあまり興味がないため、適当で構わないと思っている。
 言いたいこととしては、結局、大人になったら、自ら役割を選択していく必要があるということだ。

 そして、それこそが次の、「モチベーションベースの生き方」ということになる。

 ――次回へと続く。


(かっこ書きである。だいたいここまでで5000字。なんだか、昨今、無気力感・虚無感が強い。ヘルプミーである(軽いな)。具合がよくないのによく書けるなとも思うが、いやむしろ逆なのだ。書くことしかできないのだ。なんとか、部屋と風呂掃除はしたが……。もう思い切って、PSVITA買って、シュタインズ・ゲートのシリーズやろうかとも思い始めてきた。たぶん、新しいとか面白いゲームしてるときは、ある程度気分がまぎれるのである。オンラインゲームとか、シムシティシリーズとか、三国志シリーズとか、GTA5とか、それはもう時間が膨大に必要なので、気を紛らわすにはとても有効なのである。しかし、ゲームはやっぱり、小説書いたり作曲するのとは違って、消費だと思う。もちろん、物語のインスピレーションを得る意味でインプットとして有効な面はあるけれども、アクションやシミュレーションゲームはそれ自体が意味になっていて、……いやそれはそれでストーリーはあるのだろうが、その大半が「作業」であるため、消費の側面が強いと思うのだ。……ま、それはそれで、ありだろうとは思っている。中学生時代もずいぶん人生つまんねーなーと思っており、そんな中、楽しいゲームとかはあったから、「もういっそ楽しくゲームを送ることを人生の第一目標にしよう。そのためにちゃんと勉強もして高校にもいってお金を稼げるようになろう」とも思ったものだった。逆にその目標のため、ゲームを一切段ボールに詰め封印したり。そういう生き方だって悪くないと思う。が、しかし、それはそれで、そうやって生きると、自分自身で決めたいというだけなのである……かっこ書きも長いな。ええと、次の記事は明日の12時から17時に投稿する)

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今日の一言「無気力である」「劇場版シュタインズ・ゲートは楽しみ」

眠れない夜

 昨夜はとにかく眠れなかった。
 布団に入っても、体がうずくような感じがして、目をつむっても思考がとまらず、眠気は一向にやってこない。窓の外で打ち付ける雨の音も気になった。
 結局、明け方まで眠りにつくことはできなかった。そして気づくと昼過ぎであった。天気は相変わらずよくなかった。

 途中。起き上がることもできず、眠ることもできなかった間思ったのは、「そういえば、音楽や写真の整理をしていて、結局ブログを書くことがなかったな」ということであった。

 ある程度、思ったことがあったときに、それを整理して書いておくということ、それをしなければ、もはや眠ることもできないというのか。

 記憶に残したいと思ったこととは、おおよそ、

・ティッシュペーパーの予備がなくなったから買わなければいけない、クリーニングにいかなければ、などと家事のこと
・友人との会話のこと(投資、政治および仕事について)
・光子(フォトン)、通信技術の発展について

 ぐらいであったと思うが、自分の記憶力を最初から信用していないから、トピックスだけでもどこかにメモしておくべきだった。――しかしメモとは、一元管理しなければ、結局どこにメモしたことなのか、いつメモしたものなのかも分からなくなってしまうため、現時点、このブログが一番よいのだが――ただし、リアルタイム性は損なわれる。
(もう一つ後から思い出した。過去の写真など整理していて、自分の愛馬、やっぱりかっこいいなと思う。他者から見たら全部同じなんだろうが、小石で傷ついた身体とか、美しい毛並み(色艶)とか、眺めているだけでもワクワクする。これもとあるブログをみて、「愛馬の選び方」みたいな記事で、いろいろ特徴など書かれていた上で、最後は「自分が最高にかっこいいと思うのを買え」とあった。なんか、わかる。結局、――スペックとか数値にあらわれる部分も大事だけど、最後はフィーリングとかインスピレーションなんだと思う)

 他にもトピックはあった気がするが、ほらみたまえ、もう半日以上過ぎてしまうと記憶から抜け落ちてしまっている。

思い煩い

 ただ、何時間も、体の不快さと合わせて、思考の不快さに耐えていたことも、今となっては悪いことではないと思う。

 悩むことや苦しむことに対して、一定の価値は認めるのだ。

 それは、目的にはならないが、手段ではある。


 ……その、眠れない夜に思ったのは、思考の結節点というか、始まりというか、セーブポイントを、先般の「実感表」と合わせて作成しておこうということだ。

 頭の悪い人は、思考がループする。
 その原因は、一つ、記憶力のなさに起因する。その記憶力とは、知識的な「暗記」とは少々異なり、「実感」としての銘記である。
 先日つくった実感表は、30いくつに及んだが、この場ですぐに暗唱できるかというと怪しい。読めば、「ああ、そうだ、これは僕の感じ方だ」とは思うだろうが、しかし、すぐにアウトプットできないものは、完全な知識とはいえない。

 とはいえ、その30いくつを、丸暗記しても意味がない。必要なのは、連関、つながりである。

 もう一つ、実感表で表現されていないことは、「目的」である。あくまで個々の記憶(実感)を表現しているに過ぎず、それがどこに向かうものなのかを示したものではない。

 というわけで、アドベンチャーゲームというか、ノベライズゲームの、シナリオ分岐の際にセーブをしておくようなイメージで、思考について「どこでセーブしておいて、どこからロードすべきか」といったことを本記事では表現していく。

セーブポイントその1:オープニング

 はじめに、実感表の1「人生には限りがある」、これがスタートになる。
 自分は不老不死であると信じている人はいないだろう。――ただ、何度も書くが、そのことを意識できている人は少ないと思うが。
 だから、キャッチーな始まりとなる。

 人生に限りがある……人は有限の存在であり、いずれ訪れる死は避けられない。

 このセーブポイントは、いつどんなときも当てはまると思う。
 しかしながら、このポイントからは、すぐさま、たくさんの分岐が発生する。

 ――だから、好き勝手生きるべきだ
 ――だから、人のために生きるべきだ
 ――だから、歴史に名を残すように生きるべきだ
 ――だから、自分の生まれた意義を探求し生きるべきだ

 すでに、この次の分岐時点で、それぞれが「正しい」。
 僕は、これらをどれか一つ選択できているわけではなく、ときおりブレてしまう。
 だから、現時点では、セーブポイントとして、「人生は有限だ」ということを残しておかなければならない。

セーブポイントその2:やることがある時

 次に、ある条件、それは、「やりたいこと」や「やるべきこと」が存在している場合のセーブポイントである。

 やんなきゃならない仕事。
 みたい映画や漫画やアニメ。
 やりたいスポーツ、ゲーム。

 など。

 ただ、このときの多くは、ブログなど書いていられる場合ではないことが多い。
 そもそも、思考があまり発生しない場合が多い。なので、あまり書いておくこともない。

 問題は、次だ。

セーブポイントその3:無気力な時

 もう慣れてしまったけれども、この無気力感は、相当やっかいである。

 眠いというならまだ良いのである。ちょうど、昨日の夜のような、眠れないけれども起きれもしない状態が続くのである。
 大学時代だけれども、あんまり具合がよくないから、思い切って病院にいって睡眠薬を処方してもらったこともある。あれはよいものだ。気絶するような眠気がやってくる。お酒でも同じことができるけれども、それに慣れて量が必要になってくると、今度は二日酔いのような頭痛に悩まされるので一長一短である。

 他の方法として、――ある友人と会話していて共通認識であったのだが、運動したらよく眠れるというのは、そもそも、運動できるだけの精神状態が良好である必要があるということだ。
 昨日は、眠くなるまで何度も筋トレを繰り返して体を疲れさせようと試みた。ただ、思い切って外に走りに行って汗をかいてお風呂に入って……というぐらいやらないと、完全なる眠気を呼び起こすには足りないのだ。


 この無気力な時。

 これがあるから、僕はこのブログを書いているようなものだといっても、あながち、過言ではない。

 たいていが元気なのであれば、なんか好きな作品の感想など書くようなブログであってよいのである。

 多分、健常な人がみれば、「おまえ、こんな、生きる意味とか考えてるから具合が悪くなるんだよ」という感じなのだろうが、――逆なのだ。
 逆。運動したらよく眠れるというのと同じ。具合が悪くならなければそもそも書く必要はないのである。


 原因については、先日記事に書いた。少し面倒だが探して引用してみる。

 欲望をそぎ落としていけば、なるほど、きっと「悩み」は消える。
 大好きだった彼が死んでしまったことに、「どうして自分じゃなかったのか」「もっと一緒にいたかった」「周りの人は愛する人との子供にも恵まれて楽しそうにしているのに、どうして自分はこんな目にあわないといけないのか」……。
 その人は、「理想の生活」を欲していた。
 それが、死別という運命によって、引き裂かれた。
 ここで「物語」は、その人に、「新たな恋人」を描くだろう。ファンタジーなら、霊魂が動植物に宿ったり、霊体となって戻ってきたりするだろう。
 そうして、その主人公が、「人生に再び前向きになること」を描くのである。
 僕は、以前から、その構造に疑問をもってしまった。(もってしまったというのは、自分自身それが良いこととも思えていないからである)
 最初の欲求を「諦めて」、新たな欲求を見つけるということ。抽象化すると、物語のプロットはそういうことになる。
 それってのは、「人生」ってもんが結局、「諦めの連続」であるという証左でなかろうか?
――人格について(2017年8月)

 うーん。ぴったりの内容がなかった。たくさん書いているはずなのに、いざ、必要なものを探すと完全一致がみつからない。だから、どんどん長くなっていくんだろうな。
 補足する。
 人は欲望によって生きている。これも、否定する人はいないんじゃなかろうか。「ご飯食べたい」というものもそうだし、「誰かのためになりたい」というのもここでは同じ欲望とする。欲望の低次元高次元はここでは問わないということだ。

 それで、人の幸せというのは、「理想」と「現実」の乖離(ギャップ)が小さい場合を指すと僕は定義している。
 客観的な幸せという基準は存在しないという立場である。世界の幸福度ランキングといった指標もあるようだが、面白いとは思うけれども、あまり重要な指標とは思っていない。話はずれるが、「僕幸せです!」ということを、日本人は避けようとする傾向がある気がする。ま、日本人だけじゃないのかもしれない。「嫉妬」という感情は、人間の性質の一つだろうと思うので。

 ので。
 何が言いたいかというと、「適切な欲望」を抱ける人が、「能力」をもつことよりも、よほど幸せな人生を送れるということである。

 自己啓発とかスピリチュアルとか、心理学とか哲学とか、偉い人のたくさんの方法言葉などあるだろうが、いろいろ触れてきたけど、僕は、この「理想と現実の乖離」ということ以上の方策を知らない(実感を得られなかった)。

理想と現実の乖離

 「適切な欲望」というのと、「理想と現実の乖離(ギャップ)」というのに、少し飛躍がある気がしたので補足する。
 理想というのは、どうやって作り出されるのだろうか。人の欲望である。以上補足終わり。

欲望の抱き方

 ので。
 僕は、今大事だと思っているのは、どうやったら「欲望」をもてるのだろうか、ということである。

 たいてい、世の中にあふれるキャッチーな記事ってのは、「〇〇を短期間で達成する方法!」といったものである。

 逆に、僕は、どういった欲望をもつのが「正しいのか」ということについて知りたい。

 ……と書いていて思ったが、確かに、そんなキーワードで探したことはなかったな。一応、調べてみるか。でてこなそうだけど。

――欲望が満たされると楽だが 欲望を抱かなければもっと楽である

 こんなのが出てきた。うーん。こんなことを書くから、仏教に対して消極性がスポットされるんだろうなぁ。傲慢な書き方をすれば、正直、この境地はとっくに得ている。はっきりいって、あんまり欲望がないのだ。とても満たされた生活がおくれているのだ。
 が、それが「楽か」といわれると、とてもハテナなのである。

――「少欲知足」という言葉が示すように、生きるうえで必要十分なところで満足できるようになることは、とても大切なことに思われます

 はぁ? そんなの分かってるよ、と拒否反応がでる。これはよくないことだとは思うのだが……。とにかくつまらない記事である……が、まぁ俺のブログの全体もこの思想に半分つかっているんだから、きっと同族嫌悪なのかもしれない。

 他は、赤ちゃんの抱き方、とか出てきた(笑)。


 他は、「欲望の持ち方」とキーワードを変えて調べてみると、
――欲望とはエネルギーのことです
 こんなのが出てきた。一部引用。
 しかし、仕事は「面倒臭い」「自信がない」「やる気が出ない」などというのは、エネルギー不足です。
エネルギーとは下記のような欲望のこと。
 ベンツが欲しい
家族をもっと経済的に豊かにしたい
有名になりたい
社会に貢献したい
色々とあるかと思います。

 ねーよ!!!(笑) だから、その欲望ってどうやって持つんだか聞いてるんだよ!
 と、突っ込んでしまった。

 そうなんだよな……やっぱり、「正しい欲望の抱き方」ってのはあんまり重要視されていない。
 というか、ふつう、当たり前にもっているべきもの、とされているんだろうな。
 確かに、身の回りの人、特に年上の人を見ていると、欲望に事欠かなそうだなぁと思う。
 こんなことを思ったりするから、平成生まれの人たちが「悟り世代」とか言われるのかもしれないが、そういう意味だと、俺は昭和生まれだが最新鋭だったのかもしれないな、えっへん(虚脱した目)。


 なんというか、「欲望のコントロール」ってのは色々論じられているが、そもそもその欲望ってどっから湧き出るのか、創り出すのか、そんな方面は薄い気がする。

うつ状態とネガティブ思考について

 専門家じゃないからテキトーなことを書くだけだけれど、薬飲んで、脳の状態が回復したとして、本当に正しく欲求(行動力)が復活するのだろうか。

 うつ病になるのは、普段元気な人がなりやすい、と言われるが、それは、バリバリ活動している人が突然行動できなくなる(うつ状態)になるから目立つのはあるんじゃないかなと思う。

 そもそもうつ気味の人は、「ああ、そういう人なんだね」って見られているから、「ネガティブ思考の人」とか思われてそれが普通だとされているのかもしれない。


 まぁ、今回の記事においては、「無気力」という状態について、「欲望」という言葉で置き換えて考える方法を提示できたので、それだけで価値がある。

「なぜ無気力なのか?」

 と考えるよりも、

「なぜ欲求(欲望)が生じないのか?」

 と自分に問うた方が、方向性を導きやすい気がする。


(かっこ書きである。無気力である。のだけれども、劇場版シュタインズ・ゲートを入手したので、正直楽しみで早くみたいのである。序盤25分だけみたけれども、なんだ……、なんだこれは! アニメ版の最後の方で感じた「ちょっと物足りない」感だけれども、それが劇場版への布石だったとするならば、再度全体評価が上がるのではなかろうか。すごい楽しみである。――んじゃあ、すぐ見て元気出せばいいじゃないか、ということだが、なにせ、1時間半ぐらいしかないのである。もったいな過ぎる……。俺の寿命があと半日しかなければ、まずMAXプライオリティでみるんだけど……。ああ、もうちょっと、こんなレベルの作品がたくさんあれば、もっと人生楽しく生きていける気がするんだが、いつもの傲岸不遜であるが、プロ・アマ問わずあんまり無いのである。いや、面白い作品はたくさんある。ただ、魂魄揺るがしてくれるレベルのものを言っている。ハイスピードで峠を愛馬で風を切って走るレベルのワクワク感を求めてやまないのである。――そうなってくると、やっぱり、創作しなきゃ! という欲求は生じてくるのである。他者に任せていては、そういった作品に出会えるのは、いつまでたっても偶然性によってしまう。だったら、自ら創り出せるようになれば、その行為自体も、結果として完成する作品も、自分自身をワクワクさせてくれるんじゃないかと思うのだ(しかし、紙面に向かうたびに自分の筆力のなさに頭を抱える→そして無気力へ→いやいやこんなんじゃダメだ(以下ループ)))

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本記事の目的

 本記事の目的については、時間短縮のために、前回記事を引用。
(かっこ書きである。次回、ある、プロの企業研究家の記事を読んで思ったことと、今回の記事の「信念や目標について」と関係する部分について取り上げ、さらにこの「問題」について表現することを試みたい。


 ということで、引用。

企業研究とは仕事とは何かを理解すること
http://college.nikkei.co.jp/article/85045216.html

社会貢献よりも会社貢献ができるのが人材
http://college.nikkei.co.jp/article/85224918.html


 株式投資も、就職活動における企業研究も、基本は同じであると理解している。
 もちろん、株式投資においては、バランスシート(貸借対照表)や、P/L(損益計算書)といった財務分析も欠かせないことに思われる。しかし、数ある企業のうち、根っこになるのは、その企業の「ビジネスモデル」=どうやってお金を稼いでいるのか、を理解することである。

〇自分の身は自分で守る 〇未来は見通せない
http://college.nikkei.co.jp/article/87242915.html
会社が永遠ではないことはもはやグローバル化した現在の経営では当然すぎることで、長年の歴史のある財閥系大企業が不祥事で消え去ったり、外資や他社に買収されたり、これまでの経営環境では考えられなかったことがいくらでも起きるのが今のビジネスなのです。
会社員としての本丸・給与ですらそんな状況ですから、残業、福利厚生、平均年齢、退職金などの派生的情報はいくら調べたところで、今後どんどん変わっていくことでしょう。「平均残業時間」なども気になるでしょうが、その職務も、対応する人間も、締切も、立場も、顧客も違う環境下で出た平均値を比較すること自体、ほぼ意味がありません。
~略~どんな会社にも必ずブラックな面やブラックは事象があるのです。自分が健康を損なったりしないように生き抜く力となるのは、本稿が繰り返し訴える、自分の判断力です。人が用意した「答」ではありません
逆に「ブラックは絶対お断り」という考えは、理系的にいえばゼロリスク幻想です。「リスクがない」「ハザードが発生しない」会社自体があり得ないものであり、許容できないリスクかどうかの判断は自分で下すしかありません。もちろん違法行為が許されるものではなく、遅ればせながら国も対策は講じていますが、基本、自分の身は自分で守るのが原則です。

自分の身は自分で守る?

 言ってることは結局、自分で考えて答えを出したんだったら、それが失敗でもちゃんと自分で責任取りましょうね、ということだ。
 で、そもそも、「仕事」とは何かということをしっかりと理解しましょうね、ということだ。

 しかし、そうした言説を、まず疑ってかかったほうがいい。二つ、考え方を紹介しよう。
 一つは、私の株式投資の師匠が仰っていたことだ。私のつたない記憶から文字に起こす。

「資本主義社会で一番偉いのは投資家だよ。労働者じゃないよ。株を50%保有していたら、その会社はその投資家のものだよ」

 もう一つは、ある漫画家の作品だ。
資本主義の悪魔
 短いし、漫画で読みやすいから説明は特にしない。
 
 上の二つのことが真実かどうか、そんなことは分からない。仕事でやりがいを見つけて頑張って人から認められて生きて死ぬ人だって大勢いるのである。その構造について、敢えて「間違っている」とか「搾取されている」という必要はない。マトリックスの機械が管理している世界だって、そこで機械に搾取され生きている人たちは、幸せかもしれないのだ。真実が必ず人を幸せにするとは限らないのだ。


 だが、とりあえず、私は、上の二つの例について、共感すると表明する。

生活するということについて

 ので、私は、自分の仕事に対しての「キャリア」(この言葉も空虚であるが)を磨くことも必要だと思うし、投資(お金)に関して学ぶこともとても重要だと思っている。
 そのための勉強をすることには何の疑問もない。

 しかしだ、それらは、やはり僕にとって、「手段」でしかないということだ。


 先日の記事をもう一度引用する。
「没入することしか生きる道がないのか」ということについて、結局全然触れられなかった。簡単に答えを書くと、上にかいたような「日々の営み」が人生そのものだ(没入する)ということを、僕は認められない、ということだ。「いいことも、悪いこともあるのが人生だよね!」とかっていう、甘ったれたクソつまらねえ格言じみた、訳知り顔で語り散らかす思想や考えなど、俺は認めない、ということだ。そんなんだったら、さっさと自殺した方がましだ。人生に意味はある、絶対にだ。――そう信じたいだけかもしれない、それでも、こればかりは、信じるしかない

 
 たぶん……、多くの人が疑問なく感じ、考えているのが、上の下線部と思っている。
 言葉はよくないが、一般大衆は、そうして生きていくしかない。
 それで、少し偉い人になると、歴史に名を残すような業績をあげようとする。

 それらの、人としての営みが、無意味無価値とは思わない。「ストレンジトゥエルブ」を読了したが、その尊い神々も、「人間の世界ってのは、生き物を殺して食わねえと成り立たない肥溜めの臭い世界だけどな、まー、そんなに、嫌いでもないぜ」と仰られていた。

 まさか、こんな凡人塵芥の自分がだ、神と同じような感覚なはずはないのだけれども、なんというか、似た感覚ではある。
 しかたがない、この世界はくるっている、でも愛おしい、みたいな。

ニヒル気取ってかっこ悪い

 なんて、ちょっと俺は他のみんなとは違うんだぜ、という感覚……中二病とでも言うのだろうか。
 ただ、先日書いた記事の中の、「私の問題」とはまさにそれで、「苦しいことも楽しいことも、それに没入できない」ということだ。

 これを、「達観」と表現すれば、無執着の体現でもあり、それはゴウタマさん的には正しい道といえる。
 精神医学的に言えば、「解離性人格」といえる。
 ネット用語的にいえば、「中二病」である。


 それを「わかった」上で、さぁどうしようということだ。逆に、それを「問題」というのであるから、解決すべきとは思っているのである。
 しかし、「無執着」で「達観」している僕が、なぜそういった「問題」を抱えるのだろうか?

 それは、「人生は意味があって、とても楽しいものだ」ということを信じているからでもあるのだ。


 ――これは、矛盾した思想といえる。楽しい、というのもまた、無執着であれば、手放していかなければならないものだからだ。
 涅槃(悟り)の境地と、「楽しい」「快楽」の状態とは、相いれないものなのである。つまり、昔の人があこがれて念仏を唱えた、極楽浄土ってのは、決して、酒池肉林の快楽の世界ではないのである。阿弥陀経にも、正しい教えが満ち満ちていて……みたいな表現もある。

没入することを探すのではない

 このように、僕の「問題」を解決するために、徹底的に討論していこう、考えていこう、というのが、このブログの目的である。つまり、人類存在の意義を求める果てしない闘いということである(?!)。
 大げさである。人類がどうこうではない。実存主義だ。まずは、この自分自身が、「我は何者か。我はどこからきたのか。我はどこに行くのか」ということである。

 これは、何か、自分が熱中できる何か(没入すること)を求めようとするわけではない。

 それすらも、クエスチョンをするということだ。


(かっこ書きである。非常に恥ずかしい記事ではあるが、とりあえず、大上段に自分の感覚を、自分の問題意識について書いておいた。これは、10年前からあった感覚ではあるが、しかし、ここまで、明確に問題として打ち出したことはなかった。10年前は、様々な可能性があった。恋人をつくること。会社に入ること。結婚すること。大切な人の死を経験すること。いろいろ、若造としては、やってみることがたくさんあった。そういった経験もなしに、先日から書いてきたような「問題」を書くなどと、おこがましいと思っていたわけである。しかし、それらの経験は、残念なことに、僕に、全能感・充実感・人生観を与えてくれるには至らなかった。結局、今得ている真理は、「生きてるうちは、楽しいことも苦しいこともある。それが人生だ」的な、クソつまんねぇことだけだ。俺はやっぱり、「生きているから生きているんだ! それだけで素晴らしいんだ」的なのは、納得がいかない……納得がいかないというか、つまらない。快楽を得る方法なんてたくさんある。楽しいことなんてたくさんある。だけど、それがどうしたってんだ? だからなんだってんだ? ……いやこの感覚が馬鹿げているのもわかっている。どうして世界中の幸せ、素晴らしいことが、単に素晴らしいことだと認められないのだ。ニヒル気取ってかっこ悪いと、本当に思う。思うから、口に出さない。心の奥底にしまいこもうとする。けれども、だ。やっぱりそりゃあつまらねえよ。人生楽しまなきゃなんねえべ。そして時間はこうしている今も、着々と過ぎ去っていっているのだから)

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