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離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「音読で15時間ぐらいかな」「何時間かけたかは自慢にはならないが指標にはなる」

一冊音読すること

 サピエンス全史の上巻に引き続き、一冊全部音読を完了したのは二冊目になるだろう。
 やってみると、大変だったような、あっという間だったような。ただ、録音された時間を通算し、13時間ほど(※)であると目に見える数字になると、こんなに使っていたんだなぁと感慨がある。
 その十数時間分、何か語れるか、というと、全然無理だ。覚えていることなど、ホンのわずかにすぎないだろう。これをどう活かすかというのは、これからの作業にかかっていると思っている。

 読了までかかったのは、約1か月間である。平日の忙しさからすると、ほぼ、休日における積み上げである。十数時間は、24時間以内であるが、まぁ一日では決して達成することはできない。徹夜で根性詰めてやっても、……というよりも、その仮定がそもそも意味をなさないだろう。もし僕が空を飛べたらとか、瞬間移動を使えたら、という程度の、空想夢想に過ぎないであろう。

※諸事情で、1時間半程度分は失われてしまった。それを足すと、多分、15時間ぐらいになるだろう。

実存的空虚感への対処

 本の感想は、後々、まとめの記事を書いていくとして、今回の記事としては、この読み終えた後の感慨などをメモしておきたいと思う。

 残念ながら、大いなる達成感なるものはあまりない。この理由は明らかで、何分高度で難解かつ詳細具体的であるが故に、完全に消化不良を起こしているからである。仕方がない、凡人能力しか持たない自分が、一回読んだだけで専門的な書物を理解できるなど、映画やアニメの主人公でもあるまいし、当たり前だ。

 ただ、読んで、損をしたとか、時間を無駄にしたとか、そんなことは一切思えない。むしろ、一つ、僕の思考の準拠点にしてもよいだろうという感覚が生じている。

 考えることそれ自体は、10年も、15年も前から続けていたといってよい。ただそれは、確かに、様々な本や、人、社会環境(現実)などに触れてきたとはいっても、それは、「がむしゃら」な体験であり、統一的体系的なものでは決してなかった。

 よく言われてきたこととして、「取りあえずやってみろ」的な。僕自身、やってみなきゃわからない、というのは信じている面もあるため、真面目に、真剣に生きていけば、そのうち何か解決して、幸せな、美しい、充実した人生がまっているのではないかと、信じていた。

 結論としては、それは、失敗だった、と言ってよい。これは、誰にでも当てはまるものではない。さらに言えば、僕のその、「がむしゃらに」というやり方が、実のところ、「一歩引いた」冷笑的で嘲笑的な立場であった可能性も、否定できない。つまり、卑近な説明をすれば、「本気で他者と向き合ってこなかった」という言い方も可能である。もっといえば、自分の殻を破ることはせずに、温室的な位置でぬくぬくとしていたのかもしれないのだ。

 その理由について、「他者への恐怖」という表現によって説明することに、もはや価値はない。過去の解釈……トラウマ的な、フロイトの精神分析的な方法は、確かに、自分自身の人生に、意味を与えてくれる方法の一つであることは疑いえない。
 しかし、その抑圧された無意識を、表層化させることだけでは、今日現代人が多く抱えているだろう「実存的空虚感」に有効な対処ではないのであると、フランクル氏は述べているのである。

精神分析から実存分析へ

 一言でいうならば、V・E・フランクル著「人間とは何か」は、人間とは実存的存在であり、ひとり一人、生きる意味があるのだと、そう主張するのである。

 これだけであれば、よくある、道徳的書物の一つに過ぎない。これについては、受けがたい人の身をこの世に授かったのであれば、当たり前のことである。みんな、誰もに、生きる意味はあるのだと、疑う余地はない。

 しかし、その程度のプラカードに掲げられた標語では、何の救いにもならない。少なくても、自分にとっては。心に響かない。前向きになれない。理由は、いくらでも挙げられるであろう。ブサイクのルサンチマンという表現や、凡人である劣等感であるという表現などによらず、「全てのことはいずれお終いになる」ということについて、何物も揺るがすことはできないのである。
 全てのことはお終いになる、即ち、死は誰にでも平等に訪れるのだから、「だからこそ」積極的に、この世に意味を成していこう、という人がある一方、「全てが無意味である」というこれまた「真理」によって、押しつぶされてしまうような苦悩煩悶に陥る人もいるのである。


 すぐさま、書いておかなければならないのは、僕は、これらの「すべて無意味だ」という表現において、同時に、「絶対的にポジティブにならざるをえないであろう」という、二律背反的な思いを抱いているのである。
 これは、僕の中にある、最後の……というと、大げさな表現に過ぎなかろうが、ただ、決して今までなくならなかった信仰なのである。それらは、10年前、15年前には恐らく、なかったであろう。この変化が起こった理由については、解釈的な表現を重ねることも、恐らく可能であろうが、それは結局のところ、「精神分析的な」意味しかなく、これから目指すべき未来への志向には寄与しないであろう。

実存分析について

 フランクルの著は、読んだ人に、生きる意味を与えてくれるものではない
 これを読んだからと言って、前向きになり、明るくなり、明日に向かって充実した毎日を過ごせるようになるというものではない
 そうした、自己啓発本的な、処世術訓のようなものを求めているのであれば、肩透かしどころか、多分、序章を読んだ時点で放り投げてしまうであろう。

『人間とは何か』から、読み取れて、構築可能なことは、生きる意味を思考することへの肯定である。

 ここで、誤解してはならないことは、その生きる意味というのは、決して、超越論的領域に及んではいないという点である。サルの例がある。サルに病気にならないよう注射をするとする(前著では血清をとるため、とある)。サルは、痛い思いをするのであるが、その意味について、サルは理解することはできない。サルの生活圏内(思考があるとすれば、サルの思考において)では、注射について意味を与えることはできない。ただ痛いだけである。それは、人間の意味圏内のものなのである。
 サルが、その人間の意味圏内である注射を、例えば「愛」であると解することができるとすれば、それは「信仰」に基づくだけである。

 人間も、同様である。この「世界」に対して、何の意味があるのか、という問いは、無意味であるというのは言い過ぎだが、少なくても、その人にとっては無意味だ。世界についての意味は、サルにとっての注射のように、人間ひとり一人において、理解できる範囲を超えているのである。


 しかし。フランクルさんが言いたいのは、それでもなお、ひとり一人の生きる意味については、ある、ということなのだ。
 その、ひとり一人の意味を問うこと、明らかにしようとすること、――これが、「実存分析」であるのだ。
(と、僕は一読して理解した。ロゴセラピー協会の人がみたら、違うというかもしれない。だが、ここで求めるのは、正確な意味ではない。あくまでも、実存――ここでは、僕自身の問題――である。)

5つ目の小見出し

 さて。最後に何を書こうか。大体、最初に書き始めたときの目的は果たせた気がする。
 取りあえず、2月末までに、『人間とは何か』450ページほどを読了するという目標は達成できた。
 これからの目標としては、上に書いたようなことがそもそも正しいのかということと、それが基づく箇所のピックアップ及び引用。
 それができた上で、ようやく、僕自身の実存分析(僕の生きる意味を明らかにしていくこと)に入っていくことになるであろう。


 ところで、体調不良に陥っている。
 精神不良なのは仕方がないが、体調が崩れてしまうと、そもそも、生活圏の崩壊を意味するので、またしても劇的な問題解釈・対処が必要になってくる。
 まずは、体調管理、身体が健康であることを、重要視する必要がある。
 その一つに、住環境の整備である。整理整頓は進めているが、継続して、清掃掃除も必要であろう。水回り(浴室・トイレ・台所)の綺麗さは、精神状態へも無関係ではない。

 次に仕事。取りあえず、物理的時間の確保が難しい状態である。これへの対処は、今のところ、朝時間の活用と、帰宅後のスピード就寝が挙げられる(最近計測したところ、帰宅後ルーチンを含めて布団に入るまでは、1時間は必要である)。

 次に、人間関係。他の方のブログや、本を読みながら感じていたことだけれども、どうやら、最近、「人を好きになること」というのが、大変非常に希薄であることを感じている。これは、異性に対してはもちろんだが、ふつーの人たちに対してもそうだ。以前から、「人間ぎらい」という感情エラーを表現しているが、この傾向が強まっているように感じるのである。人は確かに、悪しき人も存在している。が同時に、美しい善なる人も大勢いるのである。ところが、この「病」にかかると、「どいつもこいつも!」という感情が高まるのである。これは良くない。この感覚を抑えながら、あるいは発散しつつ、より多くの人を好きになることが、今後の課題であるようにも思える。


 課題、たくさんある。
 そして、時間は有限である。
 身体的限界性も考慮に入れねばならない。

 一方で、鬱々として、行動ができなくなる時間も、比例して増えている気がする。
 できる限り、「忙しい」という思いを逓減させていく必要がある。その上で、「充実している」という感覚に昇華していく必要がある。忙しいと充実とは、時間に対する感覚である。同じ時間を過ごすのであれば、どちらが望ましい感情であるかは、書くまでもない。


(やー。難儀な生き方やなーと他人事のように思ったりもする)


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今日の一言「生兵法は大怪我のもと」「でも例えば肩こりは病院じゃ治らないでしょ?」

神経症と精神病の違い

 神経症とノイローゼは、同義語である。
 神経症が重くなったものが精神病である。という認識で大体間違っていない。その特徴は、神経症は他者からみて「理解可能」であり、精神病は統合失調症の譫妄のように「理解不可能」である。
神経症・ノイローゼ・精神病の違い:心の病入門

 ただ、現在では、あまり「神経症」という語は使われなくなっているという。
 国際的な疾病の分類表だと、

認知症(血管性など):血管性及び詳細不明の認知症
認知症(アルツハイマー病):アルツハイマー病
統合失調症など:統合失調症、統合失調症型障害及び妄想性障害
うつ病など:気分[感情]障害(双極性障害を含む)
不安障害など:神経症性障害、ストレス関連障害及び身体表現性障害
薬物・アルコール依存症など:精神作用物質使用による精神及び行動の障害
その他:そのほかの精神及び行動の障害
厚労省患者調査

 こんな感じで分かれているという。

離人症とか境界性パーソナリティ障害とか

 一時期、どうにも、やる気が起きなかったり、無気力感に襲われてどうにもならない時期があった。
 なんだか、現実に、現実感が、感じられないのだ。どこか、自分の思考と、体とが不一致になっているような感覚。そんなときに読んだのが、解離性障害に関する本で、「あーそうそう、こんな感じ!」と思ったこともあるし、境界性パーソナリティ障害とか対人恐怖症とかの本読んで、「あー、なんか違うけど、こんな、感じかなぁ」と思ったこともある。

 ただ、結局、神経症的な症状(あれ、今日、ガスの元栓しめたっけ? ってのはさすがに無いにしても、あれ、今日、会社行く前カギしめたっけ? とか)って、ふつーの人でもあるわけだ。それが、持続しているかどうか、という点がポイントになる(らしい)。

 んでまぁ、精神病と一口にいっても、その原因はさまざまあるわけである。
 電気ショックとか、薬物療法的に対処が必要となる、「内因性」と言われるものがある。これは脳機能とか身体機能に問題が生じたものである。これはもう、病院にかからなければならないだろう。
 ただ、精神療法として対処される、認知療法とか、それは、就職の際に利用するカウンセラーみたいなものになるだろう。
(※注意、僕は素人で分かっていないだけなのだろうけれども、正直、心理カウンセラーの行う面談と、この精神療法との違いがよく分からない。心理学と精神医学の違いは、医療行為に当たるか否か、という点なのか。難しいところ)

内因性の問題と自助努力

 まぁ、心理カウンセリングでも、精神療法でもどちらでも良いが、問題は、結局それは、薬や手術によって解決するものではなく、患者自身の取り組みが必要になる点である。

 肩こりで悩んで整形外科に通ったとしても、湿布薬をもらって終わりだろう。
 根本的な解決には、インナーマッスルを鍛えるとか、ストレッチをするとか、長時間椅子に座っていないようにするとか、そういった「努力」が必要になるのである。

 前回書いた記事において、「問題」としたのは、薬や手術で解決するとは思えないのである。
 さらに前回書いた記事において、セミナー的なのに参加する気があんまりもてない、と思ったのも、今しばらくしてから思うと、この「病状」の回復について、自分自身で取り組まなければならないからである。
 精神科医もそうだろうが、自分が健康でなければ、病気の人たちの治療はできないだろう。

問題解決と治療

 病気、とは、健常の対義語である。
 つまり、正しい状態、恒常性が保たれている状態、が想定されているのだ。

 ので、最初の例において書いた、「持続するかどうか」というのが一つポイントになるわけである。

 そういう意味であれば、もう僕の場合は、相当な年数を問題として重ねているわけであるので、かなり重篤な慢性的な「病気」であるといえる(かっこわらい)。


 「とある魔術の」という作品自体は見たこと無いけれども、sister's noiseという曲は好きである。その曲の中で、
「自分らしく生きること 何よりも伝えたくて」
 というフレーズがある。

 自分らしく!

 俺は思う。その「自分」ってものを、みんな、ちゃんと理解しているというか、認識できているのだろう。すげぇなと。
「わたしぃ、こういうキャラじゃないんでぇー」
 とかいう奴!
 すげー! 自分のキャラを分かってるんだ! 空気よめるんだ! すげーぜ!

 ちゃかして書いているが、まぁ、割かし本気で思っている節はあり、青い鳥症候群やらステューデントアパシーやら、モラトリアム人間やらのようではあるが、自分って何だか俺はよく分からん。

 分からんから、ずっといろいろ、(日記とかで)表現を繰り返してきた。けれども、結局よく分からん。(これについては、最近、コメントにおいて、「あなたはこういう人間に見えますね」と頂けたことで、ようやく少しわかってきた気がする)


 しかし、その「健常」とか「自分(らしく)」という状態の規定がはっきりしなければ、問題解決も、治療も一気にその意味を失うのである。

 病気の治療というのも、目的的行為である。健常という状態に向けて、必要な処置を行うことである。
 その健常というのは、医学的に規定されていて明らかである。統合失調症や、重度のうつ病など精神病もまた、健常状態が分かりやすいだろう。
 ただし、神経症的症状だったり、無気力・無感動(アパシー)という状態についての健常とは、いったいなんだろうか?

「生き生きと、ポジティブに、嬉しく楽しく、明るく、充実して、心穏やかに、笑顔で、……」

 怪しげなアップ系ドラッグでも使ってんじゃねーの? となるだろう。

生きがいの治療

 生きる意味どこにあるのよ症候群の治療に対しては、人間とは何か、自分とは何か、生きるとは何か、ということを、自ら追い求め見つけていく必要がある。これが、実存分析とロゴセラピーということである(※)。

 まー、30代になってこんなこと言ってるって、超恥ずかしくてモテないことなんだろうとは、そりゃあ思うけれども、まぁしゃあねぇわな。分からないものは分からない。きくは一時の恥、きかぬは一生の恥ともいうだろう。
 分からないのに、分かった風にしているのが一番実害が大きいのである。

 さぁ勇気を出して言おう! せーの、生きてる意味が分かりません! とかアホか!


(まぁただ、「ユーモア」というのはこういうもんでもある。トレンディエンジェルのサイトーさんは、ハゲをネタにしている。本当は惨めで哀しくて辛いものだが、それを笑いに変えるというのは非常に有効な方法だと思う)


※:「人間とは何か」において、実存分析とロゴセラピーについて、用語の使い分けがなされているが、その意味の違いがまだよく分かっていない。恐らく、実存分析といった場合は、その人の生き方の状態を明らかにすること……即ち、創造価値・体験価値・態度価値のそれぞれどの段階にあるのかという判断をする段階のこと。ロゴセラピーについては、それに対して、特にロゴ=意味を見つけ出すことを手助けする段階のことを示しているのではなかろうか。

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今日の一言「知識ひけらかしたい欲求との闘い」「承認欲求と所属欲求の違いを理解した方が良いね」

天網恢恢疎にして漏らさず

 てんもうかいかい、そにしてもらさず。天(神様)は粗いようだけどちゃんと見てて、悪事は見逃さないんだよ!という意味である(注:遠藤意訳)。確か、EDENという漫画のある節話の、サブタイトルになっていた気がする。そのとき、確か高校生ぐらいだったか覚えていないが、「え、これ何て読むん? 意味は?」と思って調べたことがあったような。

 いや、漫画も勉強になることはなるのである、という主張なわけではなくて。

 老子の言葉ということだけれども、これが実は誤訳で、

 天網恢恢疎にして失わず

 というのが、正しい訳なのではないかと、そういう記事を読んだ。

法に知性と心が閉じ込められてはならない

 その意味するところは、
「天の網は広大に拡がっていて、その網目が粗いからこそ、人(の心)を失わない」
 なのだという。
 おぉ、なるほど……、確かに、老子の思想を考えると、そちらの方がしっくりくる気がする。

日記を書くこと

 僕は何についても劣等感の塊みたいな奴であるが(――しかし、こういったことを自分で言う奴書く奴は、大抵自分自身でそう思っていないやっかいな類型である。プライドだけ高くて、いざ批判や否定をされると顔を真っ赤にして怒り始める。めんどくせーやっつだ)、考えること、特に自省ということに関しては、経験を積み重ねてきた。

 ここですぐさま書かなければならないのは、その経験が、一般的に、社会に、人に、誰かに役に立つかというと、そんなことはない。結局、同語反復で、自己への無限遡及となって、ぐるぐると螺旋階段を上り下りしているようなものであったに違いない。

 唯一、誰かに役立ててもらおうとするならば、「日記を書くのはいいことだよ!」としたり顔ですすめてくる人には用心せよ、ということか。「日記」といっても、これは結構奥深い。書き方も、考え方も色々ある。この記事のように、リアルタイムアウトプット(口語表現)のものもあれば、思考にインターセプトして文語化しつつ書くのもあるし、箇条書きにする場合もある。
 書く前に時間や、天気、そのときの気分を書き入れる場合もあれば、「家計簿」の体をとる場合もある。
 書く頻度も重要だ。毎日書くのか、文量はどうするのか。自己ルールはどうするか。一週間に一回は必ず書くようにするのか、一年スパンでみるのか。
 内容、テーマはどうするか。例えばスポーツ選手がトレーニング記録を日記にしていたりするが、日常のふと思ったことまで書き留めるのかどうか。
 媒体も当然重要だ。紙なのか、電子なのか。
 そして、誰かに見せるのか、自分だけで、ある意味黒歴史として、墓場までもっていくのか。

 こうした色んな諸条件を整理しないまま、取りあえず「日記を始めてみよう!」と思い立って、三日程度で辞めてしまう人がなんと多いことか。しかしこれは当たり前でもある。日記を始めることの目標がぶれているのである。
 ただ、思い立つのは悪いことではない。取りあえず初めて見て、しっくりきたら続けるというのもありだ。特に若いうちは。若者はよいのぉ、と懐古するわけではないが、これは、単純に物理時間が多いということに過ぎない。若者だからといって、暇だというわけでは決してない。むしろ、年取った人の方が暇の可能性がある。……とこれは蛇足だった。

メタ自分を考えること

 僕が書き始めた理由は、「問題」解決のためであった。その問題とは、このブログのタイトルにも集約している。実際に書き始めたのは、中学、高校あたりからだったと思うけれども、そもそも「人は何故生きるのか?」という疑念からであった。
 これは黒歴史といってよくて、そもそも、「人は」という一般的対象について考えようとしていたところにまずもって中二病である。ただ、そこはすぐさま、「自分」について目が向いていったことである(※1)。まぁそれを、現実における「困難」(※2)が契機であった、と分析したところで、それは、離人症の病因を、副腎皮質の機能障害であると診断するのと同じように表層的である(※3)。

 V.E.フランクルさんの「実存的精神療法」においても提唱されていることであるが、ユーモアは、一つ神経症や精神病を和らげる方法であるという。ユーモアというのは、例えば、不眠症で、中々眠れなくて困っている人に対して、「できるだけ長く起きているようにしましょう」というものである。
 これは、「自己距離化」ということで、自己に対して、より上位の考え方を与えるものである。
まさに症状の距離化と客観化の役割は、自己をいわば不安感と「同列に」あるいはその「「上位に」置くことを患者に可能にすることにある。ユーモア以上に距離をもたらすことに適しているものは他にない。
――「人間とは何か」P.274
 ジョハリの窓、という考え方があって、自分ってのは、他者との関係をして4つの層があるという。自分で知っていて他者も知っている部分、自分で知っていて他者は知らない部分、自分で知らずに他者が知っている部分、自分も他者も知らない部分、と。
 他者がいれば、「客観的」に見てもらえる場合があるけれども、そもそも、他者も知らない部分だってあるわけであり、そういったときは、自分自身で、メタ自分的な、より上位の思考を要求される。

 この、自己自身を見つめること、によって、「何故生きるのか」「そもそも僕は何を悩み苦しんでいるのか」ということを明らかにし、解決しようという目的が、日記を書くという一つの目標であったというわけである。
 果たしてこれが、本当に役に立ったのかどうか、それは、まだ判断することができない。



※1:どっかの誰かの書いたとか、言ったことによって、人は誰でも「何で俺、生きてんだろ?」みたいに思うことがある、と聞いて、「あーそういうもんなんだ、みんなそうなんだなぁ」と思ったが、実は、この疑問が浮かぶ人とそうでない人ではっきり分かれるらしい。

※2:いじめ、失恋、挫折、などなど。いくら現象的な契機を挙げて、「心理学的に」原因を追求したとしても、実存的問題は解決するとは限らない。もっとも、例えば発達障害などの診断がなされることによって、「安心」して社会生活に適応していく例もあることは知っている。

※3:V.E.フランクル「人間とは何か」P.273において、不安神経症の生理学的基礎として、内分泌系の調節障害があるとされている。右は引用:「離人症状ないし心的筋無気力症候群の背後には副腎皮質機能不全が隠れている」。

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今日の一言「価値あるものを生み出したい」「結局金だよみたいな言説に異を唱えたい」

価値について

 ある人は、
「この物語は恐らく、需要はない。ただ、この物語を紡げるのは、人類史上私だけだろう。だから書かねばならないのだ」
 と言った。

 ある人は、
「私の人生の意味は、誰かに、私の生きた証を残すことです。会話であれ、作品であれ、世界に自分の記憶を残すことです」
 と言った。

 賢者の言に思う。
 私はこれまで、何か「できること」、「人より優れていること」がなければ、生きている意味などないのだと、そう思ってきた。いや、思わされていた、のか。そういう環境に置かれていた。ただ、むしろ、自分の中では、否定し続けていたのかもしれない。それが、離人症的、解離的、分裂的な気持ちを生じさせていた原因と考えるのは、自然なことに思われる。

 サイコパスの劇場版を見終わった。話しとしての進展などは感じられなかったが、一つの作品として面白かった。シビュラシステムの目指す世界と、ツネモリさんの考える正義との相反性がよりわかりやすくなった気がする。

 恐らく、そうした作品でも現れているが、「何かを成すこと」「功利主義的な面」についての言説は、これからも多く触れざるをえないものだろう。「そういう環境」と上に書いたが、どこもかしこもそういうもんなのかもしれない。

 いやむしろ、この点……つまり、「責任」や「業績」といった観点においては、何かを成就することというのは、決して否定されるものではないという点、それが、(価値とか、意味とかについての)問題を複雑で、分かりづらく、実感から遠いものにしているようだ。

 この記事は、朝によるもので、物理時間が限られているため、以下、フランクルさんの説明のメモを抜き出して終わりとしよう。

創造価値

 何かを、生み出すというのは尊いことだと思う。
 それは、仕事、ということで、生み出されるものである。脳神経細胞の3つの本能のうち、知りたいという好奇心と、仲間になりたいという貢献心によって、「仕事」とか「会社」とか「組織」が生まれた。僕たちはみんな、仕事が面倒で、億劫で、休みが欲しいと年から年中言っているけれども、本当は、仕事というのは、本来、自ずからの欲求を満たしてくれる行為であったのだ。

 ところが、専門分化した社会において、仕事そのものの価値(ここでは、社会とか組織への価値ではなく、自分自身・個人への価値のこと)というものは薄れてしまった。
 どんなに働いても、誰かのためになっている、という貢献心が満たされるとは限らなくなった。しかしそれでも、しばらくのうちは、「家族」とか、親しい関係者に対して、会社という戦場で戦い、敵を倒し(=お金を稼ぎ)、家族を養っていくことで、貢献心が満たされていた時代もあった。
 しかし、それも価値が希薄化していく。家庭の中での父親像は崩壊し、女性の社会進出は進み、核家族化が進み、家族という紐帯の意味が薄れていった。

(注意:上の社会論・時代論はテキトウである)

 それでもなお、やはり広義の「仕事」というのは、意味を与えてくれるものである。

体験価値

 しかし、創造価値を充たせない場合もある。その場合は、自然の美しさに、芸術に感動する心に、心が本当に深く神韻縹緲に打ちひしがれるような体験をすること、それが価値となる場合がある。


 本記事と関係ないし、時系列もバラバラだが、最近、2012年のアニメーション作品、「ももへの手紙」をみた。まぁ、まぁ、面白かった。しかし、感動するほどではなかった。山寺さんや西田さんが妖怪役で出演していた。作画もよかったし、声優さんたちの演技もよかったと思う。
 そうだなぁ、けれども惜しい、と思った点は、やはりストーリーについてだろうか。そのポイントになる妖怪が、物語の主軸に絡んできていないことだろうか。結局、描きたいだろうテーマと、「妖怪」であるべき理由が見いだせなかった。妖怪たちと「お父さん」との関係性も希薄だった。いや普通一般的な理由は色々あって、描写もされているのだ、けれども、何か「惜しい」と思ってしまった。あと、作画も綺麗だけれども、これだけでいうと、「君の名は。」の映像がやっぱり綺麗だった。でもきっと、テレビでやってたら、ダラダラと見ちゃうだろう。そんな感じ。

態度価値

 さてしかし、創造価値も、体験価値も得られないような状況、人もいるだろう。例えば、末期がんの患者など。
 それでも、意味は失われないのだと、ヴィクトールさんは仰る。

 しかし、この態度価値の説明は、薄かったので、上手く理解できなかった。というか、あまり説明がなされていなかった。この態度価値、非常に重要な概念と思うけれども、よく分からない、残念だ。

 追記、しかし、その「態度価値」の説明について、むしろこの本全体で述べられているように思われる。


 えー、でも、それってどうなの? と思う部分も増えてきている。ただ、ここで立ち止まるのではなく、当初の目標どおり、最後まで、2月中に読み進めることとしたい。

 といったところで、自己エクスキューズだが、時間切れだ!! この三つの価値についてはおいおい深めていかねばなるまい。

 あーでも、このまま終わるってどうなん? 何か面白いこと、書かなきゃまずいんじゃん?
 せっかく読んでくれた人に、上に書いた映画の感想みたいに、「あー、なんか、時間の無駄、とまでは言わないけど、微妙だったな」みたいに思われちゃうんじゃん? それでいいんかい?

 ええい、うるさい、だまっとれ。いいんだ、書け。文章を書くというのはなぁ、そんなたいそうな仕事じゃないんだよ。いや昔々は、紙が貴重だった時代や、硯に墨をすって竹に書いていた時代やもろもろは、偉くて優秀な人たちしか書いちゃダメだったろうよ。
 今は電子で文字を書ける時代だぜ。「書く」ということに対してのコストが、非常に低くなっているのだ。しかも、WEB、インターネットというもので、特別な人でなくても、公に情報を発信できる世の中なのだ。
 いやだからといって、ごみやチラウラみたいな文章を量産してよいということではないが、――【強制終了】



(就職とか面接とか、作文とかレポートとか、「自分の考え」をまとめる作業って、結局読み手に向けたものじゃん。(読解力を試す)そういう意味では簡単だよな。そうじゃなくて、実感を伴った文章を書くってのは、これは結構重い作業だと思う)

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今日の一言「理解してもらいたいという思いは充たされえるのか」

文章校正チェッカー

 これは面白いなぁ。
文章校正
http://www.kiji-check.com/

 自分の書く文章が、どの程度正確なものか、だけでなく、難読とか意味が難しいものも指摘してくれるというのは中々興味深い。

 ↑をチェッカーにかけたら、「中々」というのが読みづらいというのと、「程度性格」というのが助詞不足と指摘された。
 ほほー。「どの程度、正確なものか」と書いた方が確かに読みやすいね。

問題と課題の違い

 なお、上のサイトを見つけたのは、「問題と課題の違い」という検索キーワードによる。

◎問題
 特に解決しなくてよい。よくない状況や事象のこと。

◎課題
 問題に対して、対応する必要があること。

 という理解であったけど、そもそも合ってるんだっけか、と思って調べてみたのである。
「問題」 発生している状況を示す。組織にネガティブな影響を及ぼすもの。
「課題」 組織目標を達成するためにこれから成すべきこと。ポジティブに表現される。
つまり、「問題」があって、それに対する解決策が「課題」と言い換えることもできそうです。
ビジネスの現場における「問題」と「課題」
 というわけで、まぁまぁ、合っていたかな、と思う。
 ただ、勘違いとしては、「日本語」としての意味としては、それほど違いがない、ということである。あくまで、昨今のビジネス的な、一般認識的な、方向性においての話しだということである。

正しい言葉を使うことと伝える技術

 誰かに、何かを伝えようとするときに、正しい言葉・語彙を用いることは必須である。
 信号機の色を青・赤以外の色で言ってもよく分からないし、机と椅子といった物的名称を取り違えていた場合、正しく物事は伝わらない。

 名詞に関するものは、それほど問題にならない。人の名前とか、地名とか、固有名詞について、人の認識相違が起こることは滅多にない。滅多にというのは、同姓同名とか、例外的な可能性だけなので、殆ど無視して構わない。

 問題は、概念に関する認識・事象についての表現である。

 ここで、「表現」という言葉を用いた。この表現というのは、ある物・事柄に対して、他者に伝わりやすいように説明をすることである。(←この文章は、僕のオリジナルなので、既にこれ自体が「表現」となっている)
 辞書をひけば、良い表現があった、――あるものを「客観化すること」ということだ。

 さて、上で書いた概念の認識・事象等の「問題」とは何か?

 それは、概念的な「もの・こと」は、気付くと同語反復(トートロジー)になっている場合があるということだ。

同語反復とか無限遡及とか

 アルバート・メラビアンの法則というのは、他者に情報を伝達する際に、言語が必ずしも重要ではないということを示した考えである。
 実はノンバーバル(非言語)の方が重要なのだよ、というもの。(ただし、いかなる状況においてもこの法則があてはまるというわけではないことは、メラビアン本人も述べているということだというwiki参照)

 ここで強調しておきたいこととしては、「言葉」そのものが、正確に他者に伝えられるわけではないということだ。
 そしてその言葉の困難性は、問題や、表現したい事柄の抽象性が高くなるほどに(概念的になるほどに)増していくのである。

自分の感覚や感情を完全に表現すること

 自分を理解してもらいたいという感覚や感情は、誰しももつものだろう。
 一生孤独で構わない、と思う人であっても、ただし、その「孤独で構わない」という感覚を、可能な限り多くの人に理解して欲しいと思うはずである。
(この意味においては、孤独な人に対して、憐憫の念を思うことは、甚だお門違いであるし、人間理解の不足であるし、傲慢な態度である。むしろ必要なのは、孤独であることへの共感である。)

 一方で、孤独であることを肯定する人が、「実は君だって、みんなに分かってもらいたいんだよ」と言われたとしたら、何となく、違和感を思うことだろう。孤独であるというのは、他者との関係性に距離をもつことである。それを肯定するにも関わらず、理解を他者に求めるというのは、行動行為矛盾にならないだろうか?

 僕がここで表現したいこととしては、孤独であることを望む人たちへの、共感が重要であるということだ。これは、孤独な人を邪険に扱うことをではない。つまり、「そっとしておいて欲しい」という気持ちなどへの理解を示すことである。

孤独は問題なのか

 この記事は、二つの問題を取り扱っている。

 一つは、「言葉の意味と表現による他者への情報伝達の意義」について。(1)
 二つは、「孤独という生き方の妥当性」について。(2)

 相互に、同時に問題を書いているために、分かりづらくなっている気がする。

 まずもって、問題意識としては、「自分の瞬間的な状態や感覚を、正確に他者に伝えることは困難である」という、前々からの「実感」における、他者への期待度の低下がある。
 この他者への期待度の低下が、孤独への傾向を強める。この他者への期待度の低下が起きる理由は次の通りだ。
 それは、この記事の問題の一つ目の、「正確な情報伝達の困難性」と、もう一つ、仮に正確に自分のことを伝えられたとして、それが自己救済に資することになるのか、という疑問である。

 整理すれば、「理解してもらえない」ということ、諦めによって、孤独の方向へ向かってしまう人がいる(1)としたとき、その孤独という状態は悪いこと、ダメなことなのだろうか(2)、ということである。

理解してもらえないことの正確さ

 まず、(1)の問題、「理解してもらえない」ということは、言語表現の困難性という理由により、既に正しいことを述べた。
 ただし、逆に、この「実感」について、覆るようなことがあれば、「孤独に向かう」という(2)の問題は解決・緩解するのである。

 さてここで、この理解してもらえないということについて、この「理解」という次元・レベル感を表現しておく必要に迫られる。
 つまり、「正確な」と言ったところで、それが、何をもって正しいというのか、これ自体も、同語反復になるが、言葉の困難性故に結局不明なのである。


 だって、日常生活を送るうえで、もしくは、社会生活を送るうえで、もしくは、集団、組織、国家とか世界とか、多くの秩序は成り立っている。「人は一人では生きていけない」という標語のように、人はお互い助け合って生きているのである。これはまた事実だ。これをもって、「理解してもらえない」ということは、矛盾した感覚ではないか、ということになる。

 これに対しては、人間という存在に対しての立ち位置、考え、価値観によって異なってくるものだ。
 人間社会を、「共同幻想的」と考えるのか、個人主義的な「分かる人と分からない人がいる」と分別して考えるのかによって、この問題のその人に対しての大きさが異なってくる。

 ありがとうございます、いただきます、どういたしまして。
 個々別の状況において、言語化し、「感謝」とか「嬉しい」とか、そういった「感情」を伝えることで、相互理解はどこまでも、可能である。

 それでもなお、「理解してもらえない」という感覚が生じることを、「わかる人」と「わからない人」がいる。
 精神医学的には、この程度が深まれば、おそらく病気と診断されるだろう。ただ、もはやこれは、傾向とか、タイプとか、一般化することで解決することができない問題である。これは、「実存」の問題だ。

一般化と実存

 ものすごく、分かりやすく書いてきたつもり、であるが、しかし、書けば書くほどに、「乖離感」が強まっていく。いやーこれ、難しいだろうなぁ……。というのは、「難しいこと書いてる俺すげぇ!」という中二病的な感覚でも味わえたらいいのだが、残念なことに、ますますドツボにはまっていくというか、泥沼でもがくような感覚になるのである。

 ところで、こうした表現の積み重ねが、果たして、病気と診断されるようなものなのか、よく分からない。
 ただし、「洗脳」的な方法以外において、この仮に病気としたときに、治療をするためには、恐らくこの表現の積み重ねが無い限りは、医師も治療を行えないであろう。

 人生に意味はあるのか?

 この問いについて、「ある」としておかなければ、すべてが無駄になってしまうから、「ある」のが真理にしかならないことは、僕だって分かっている。
 生きていること自体素晴らしいことだ、嬉しいことだ、価値あることだ。分かっている、分かっていながら、「わかっていない」のだ。

 これが、「実感」問題である。
 いくら他者の言葉が素晴らしく、価値あるものだと思われて、正しくて、真理だと思っても、それを「実感」レベルに落とし込めなかった時の乖離、そのズレを無視して、いくら素晴らしい行為を積み重ねたところで、それは、基礎が柔らかな地盤に打ち付けられた高層ビルに過ぎないだろう。少しの拍子に、強風が吹いただけでも、倒れてしまうかもしれない。

 正しい言葉など、何ら必要としていない。結論などどうでもいい。プロセス。過程だ。


 何故、人生に意味はあるのか?

 という問いこそが正しい。

一般化と還元論の危険性

 もっといえば、ここで、普遍的な「意味」とか、真理というものを求めることについては、全く無意味だと、最初に排除しておく必要がある。

 人間とは、共同幻想の中に秩序を見出している。これは悲観的な表現にも見ることができるが、一方で、だからこそ、人が、一人一人が、価値ある存在であるともいえるのだ。

 共同社会の中で生きることが正しいこと、価値あることなのだとすれば、その共同社会の規範や価値観に沿った人間になることが、まさしく真理で素晴らしいものになっていく。

 けれどもそれは、一人の人間としての個性、人格を、同調・同一化していくことに他ならない。
 思考停止して、全体主義的な方法で自己を救済することも可能だろう。それを明確に否定するための知識と思考を、今僕は持ち合わせていない。ただこれは、感覚的に、否、と僕は思う。


 だから問いは、こうあるべきだ。

 何故、僕の人生に意味はあるのか?

 と。

(さぁ今週の課題まであと30ページ。頑張るか)

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