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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
カテゴリー「生きる意味」の記事一覧
今日の一言「一人の時間を確保しないと書けない」「目の前にいる人を大事にしたい」

メールとかラインとか見ない

 人と会っているときに、片時もスマホを手放さない人もいるという。
 僕は器用ではないので、そもそも、他の人と話しているときにスマホ操作なんて気が回らない。会話の内容も頭に入ってこないし、スマホで行う作業も頭に入ってこないだろう。

 ので、メールとかラインなどで連絡があっても、即レスとかそんなことは基本ない。基本的に、人は一日の中で、何か作業をしているはずだ。その作業を中断してまで連絡を見るべきかどうか、――人それぞれその人次第だろうが、僕には何らかの作業単位があって、その単位を中断することは望ましくないと思っているのだろう。

 最近の若者は電話が苦手だ、と言われるらしい。その傾向はあるのかもしれないが、逆に、メールで済ませられるものは、そうすべきだと思っている。
 本当に必要な時しか電話をかけるべきではないと思う。ただ、簡単なメールで済むことでも、いちいち反応が薄い人が相手だと、大変だろう(つまり俺だ)。そういう人には、電話をしなければならなくなる。でも、反応が遅い人ってのは、つまり、作業単位を持っている人である可能性が高くて、電話を嫌っているかもしれない、矛盾だ、大変だ。

ブログを書く時間は貴重である

 2017年も、もうすぐ終わりである。はえーなぁ。

 今年のブログ記事の数を数えてみた。164件。
 後半はペースダウンしているが、365日が一年なので、約1/2日のペースである。

 そのうちの殆ど、書いているときは、「こんなん、書いていて何か意味があるんだろうか」と思っていた気がするが、しかし、今こうして概括すると、よかったと思う。

 164件。そのうち、エピソード的に集約すれば、新しいことなど殆どないかもしれない。それでも、自分の思考、感情の流れを、今年は特に記せた気がする。

 来年は、再来年は……分からないが、今年ほど書けない気もする。書くことがよいことかどうかは置いておいて。そう考えれば考えるほど、とても貴重だった。

 創作をするということと、生きる意味を徹底して考えること、この二軸を感じられた、考えられただけでも、意味はあったと思うし、……「思うし」と書いて、もう一つぐらい「意義」を書こうと思ったけど、思いつかなかった(かっこ笑い)。


 とにかく、来年の目標的なのを書けば、その二軸を深めるというのと、もっと具体的に書けば、このブログを何とか続けたいと思う。

要点を「素直に」書く方針を徹底したい

 ええと、回りくどく書いてしまうのは、俺のダメなところである。
 しかし、それも理由があるのだ。あんまり、個々具体的なことを書いても面白くないのである。この面白さというのは、未来の自分や、他者、読んでくれる人にとって。どこどこのカフェが雰囲気が良かったとか、そんなのは、それ用の生活の知恵的ブログさんや情報サイトを参照した方がよほど良質な情報がある。

 なんといっても、このブログは「思考」を扱うのであって、具体的なことを書く場ではないと思っているのだ。この、具体性と抽象性については、ある友人から、「君は普段はあまり考えてなさそうだけど、ブログは抽象的だよね」と言われて、このあたりもネタとして、ちゃんと書きたいと思っているが、その抽象的になりがちな理由は上のとおりである。

 で、まぁそれは置いておいて、彼女ができた。――しかし、彼女とは何かよく分からない。ただ、身体で触れ合うことができるのは彼女といっていいと思う。しかし、セックスフレンドという言葉も存在するし、非常に曖昧な気がする。なので、どういう存在なのか、というのは分からない。
 以前書いたけれど、二人きりでたびたび食事に行く女性もできたりした。そちらは、彼女とは言わないのだろう。しかしプラトニックな関係というのもあるのだろうし、分からない。


 で、思考ブログと書きながら、何故こんなことを書いたのかといえば、これはもう大学生ぐらいまで遡る。
 ルサンチマンという言葉が大好きで、それでいて非常に嫌悪するからだ。

 ああ、しかし、これ以上書くと、人格を疑われそうであるが、「素直に」書かなければ、成長もないので書く。
 つまり、本当の絶望たるものは、「不足」状態では発生するものではない、ということだ。

生きる意味を考える資格的な

 大学生……いやもっと前から、僕は「生きる意味」を考えていたはずだが――先日「自由ネコ」さんが、「自分は他の人たちが合コンとかいろいろしている中、ずっと生きる意味を考え続けていた」と書かれていたが、いや僕もそうだ、と思ったわけだが――それは、どこかしら「劣等感」的な原因だった気がする。
 勉強ができない、彼女ができない、スポーツもできない……何もできない、と。そんな自分が生きるのは何故なのか、と。

 その問いは、生きる意味の問いとしては不十分であると、今は思う。

 世界と自分とが存在していて、その世界に対して望むものがあって、自分がそこに到達できていなくて、その原因について悩むのなら、それよりもすぐさま、その原因を取り除くための「努力」をするべきだ、と思う。

 もちろん、物理的限界はある。しかし、それ以外の可能性は、いくらでも開けているのだ。
 それへの憂慮、失敗への恐怖、努力のめんどくささ、――つまり言い訳や諦めのために「生きる意味」を用いるのは滑稽である。



 僕は、そう思ったから、少ないリソースでいろいろ克服してきた。

 イケメンじゃないけど、彼女もつくったし、結婚もした(離婚もしたけど)。
 頭もよくないけど、大学に入ったし就職もした。同期で合格しない人もいる中、昇任試験も受かった。


 ――けれども、それらは、しかし、全部、ルサンチマンへの否定だったのかもしれない。

本当に欲しいもの

 結局、「なりたい自分」になれなければ、どこまでいっても「不幸せ」に過ぎない。
 そして、気づいたら、僕は、「なりたい自分」ってのが、さっぱり分からなくなっていた。

 そもそも、「幸せ」になりたいと思っていたのかどうかも分からない。


 でも、最近思うのは、先日のグラフにおける、「ゼロ地点」なるものに、ようやくたどり着いたのかな、と思うのだ。




 何かこう、ルサンチマン……というと大げさだけど、「不足」がたくさんあって、それを埋め合わせるようにやってきた、と。
 その甲斐があって、「ゼロ地点」には達することはできたと。

 けれども、今までは、「不足」に対する衝動レベルの欲求によって、「無理やり努力」をしてきたようなもので、その努力自体が自発的なものではなかった、のかもしれない。いやそもそも、「無理やり努力」をしたのは自分の意志といえなくもないし、自発性なんて概念も疑わしいと思う。

 ただ、イメージとしては大体今の実感と近しいとは思えている。
 ある方が、「好奇心を失うとつらい」と述べられていたが、まぁそのとおりだなと思う。

最近の幸せ

 部屋を片づけて、掃除をして、自分でカフェオレ作って、創作やブログを自分のペースで書いているのが楽しい。
 睡眠不足や、仕事のイライラなんかが募ると、落ち着いた気分になれないけれども、少し時間をつくって書くことができると、何かよい。


 心地よい時間というのは、あまり何も考えない時間なのかとも思った。

 一方で、こうやって、何か得体のしれない思考に身を任せるのもまた面白い。


 忙しかった。しかし、仕事納めが終わった。また数日後に仕事ではあるけれども、まぁゆっくりできそうだ。
 忙しいというのは、自分の思考を使えていない、のではなくて、創作と、生きる意味について使えていないからだと思う。

 彼女もできたので、少しそのことについて考えてみた。これから結婚するか。子供をつくるか。子供にもし障害があったら。家をどうするか。お金のことはどうするか。親の介護はどうするか。

 あまり、楽しい思考ではなかった。少し憂鬱にもなった。けれども、「忙しい」という気持ちにはならなかった。
 それらの様々な選択が、自分なのだと思うし、それは、僕の目的である生きる意味を考えるという点にもつながっているから、「やりがいがある」と思えたのだと思う。

(かっこ書きである。まとまらねーなぁ)

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今日の一言「続いた」

実存として戦え

 過去の記事を引用する。
 とまぁ、ここでブログを終わっておけば、まぁ前向きな記事になった気がする。
 しかし、僕の思考さんは、残念ながらここで終わらない。というよりも、上のことを書きながら、頭のわきに常にあったのだけれども、「で、その、自分に負けないようにして総合としての成長を感じていって、それで何を目指してるの?」と聞かれている。
 上に書いたのは、
>将来のために生きるということを、僕は否定する。
>頑張って、報われるという物語を否定する。
 ということであった。
 自分に負けずに成長していくということは、僕が上で否定したことと矛盾しまいか。
 つまりだ、徹底的な現状肯定こそが、本来あるべき姿じゃあなかろうか。
 ここで強引だけど、株の勉強で知った言葉を使ってみると、「現在価値(PV)」ってやつだ。
 現金(キャッシュ)ってのは、確かに、それ自体がお金を生む力がないので、ファイナンス理論の中では価値が低いものとされる。しかし、今日得られる100万円は、明日得られる101万円よりも価値が高いのだ。
 頑張って、頑張って頑張って到達できる「ゴールA」があるとする。
 そのゴールは、確かに、自分にとって「幸せ」であったとする。
 一方、目の前に、そのゴールより手近な「ゴールB」があったとする。そのゴールBで得られる幸せは、頑張って到達できる「ゴールA」よりも少なかったとする。
 さて、このとき、ゴールAを目指すのが人生の正解か、ゴールBで満足するのが人生の正解か、どちらであろうか?
 もう一つ提起して、今回は終わっておこう。
 僕はこの記事の最初のほうで、
>物語は終わりがあるが、人生という物語に終わりはない
 と書いた。
 つまり、ゴールAとゴールB問題は、それ自体で難問でありながら、「そもそも」僕は、その「ゴール」という問題提起の在り方そのものに疑問が生じてもいるのである。
 創作と、人生との違いは何か?
 その問いの前に、「3分で分かる生きる意味」についての答え、「人生は暇つぶしだ」という点を想起する。
 人生が暇つぶしのゲームだとしたら、それはとても、物語に近いものになる。
 人生は、物語の連続であるといえる。
 しかし、創作の物語と、実際の僕らが生きる世界における物語との違いは何か? 「終わり」を観測することができないからである。
 言い換えれば、終わらない物語が人生なのだ。

終わらない物語

 ――さて、ということはだ。
 人生が終わらない物語だとしたら、「目標」を立てるのはどんな意味があるのか。
 上の記事で、「ゴールはどこだ?」と叫んでいるけれども、そもそも、人生という物語に終わりがないのだから、ゴールなんて探しても無駄じゃないか? ――いやすぐさまいっておくべきは、そのゴールとは、「細々したもの」はとても大切だ、ということだ。今回の記事のどっかで、「人生のオールは些事だ」みたいなことを書いて、誇張表現だ、と書いたけれども、このあたりの感覚にひっかっけて書いている。この微細な感覚を一体どうやったら上手く表現できるのか。知らん。
 いつもは、分かりやすく書くことを――その分かりやすさとは、後から読んでも分かるようにとか、誰にでも(中学生レベルの読解力や語彙があれば)分かるようにと考えているけれども、今回の、特にこっからは完全無視する。
 目標設定の重要性はそこにある。そこ、とは、つまり、「究極の目標」なんてものを考えたところで、それは到達しえないものなのだから、結局、「自分が達成できそうな」目標を次から次へと与えて、それを糧に行動していくしかないのだということだ。
 何でそういう考え方にならざるえないかというと、究極の目標が到達されたとき、それは、僕らは死んでいるのだ。

死後の世界の考え方

 ここで、先日の、「死後の世界の考え方」に関係する。それもまた、「ない」。何でかは忘れてしまったが、とりあえず、ない。
 ないから、「究極の目標」、すなわち、人生という物語のエンディングを、僕らが観測するすべはないのである。
 ああ、かなしきかな! 確かに、現世において親しんだ数多くの人たちは、自分という存在の果てを数多く評価してくれることだろう。
 しかし、その評価は、自分自身では見ることも、それを自分の人生に反映させることも、もはやかなわないのである。

 死んだら全部終わり。

 この言葉について、どうにか、意味をもたせようと、たくさんの芸術や思想や宗教や学問や科学や歴史やコミュニケーションや、もうそれはもう人類の涙ぐましい努力よ!

 だが、「実存」という考えに根差した思想において、もはや、それは克服できない大前提なのである。

少しまとめ

 前回の記事からしたら、非常に長くなったので、少しまとめる。

・絶対普遍的な真理は存在しない
・世界に意味を求められないなら実存として生きるしかない
・人生の終わりは死だが死を認識することはできない
・自分の死がもたらす意味があったとしてもそれを認識できないのであれば思考に意味はない

 ええと、上の、4つめあたりから再考が必要だ。

 まず、実存ということを、もう一度確認する。
 実際問題、ビッグバンが偶然だとしても、そのあとの連関において「大いなる意志」の混在を否定することはできないと思っている。

 かもしれないけれども、前回の記事でも書いたけれども、僕はカオス史観を支持する。そりゃあ、なんかスゲー統一体があって、それの顕在化が世界なんだぜっていう、汎神論的な考えに憧れるっちゃあ憧れるし、そもそも面白いと思う。

 けれども、そういった「大いなるもの」を信じるのは、僕は昔からできなかった。「学校の勉強」ですらそうだったのだから、これまでも、これからも厳しいと思う。学校の勉強ってのは、頑張って勉強すればいい学校はいって幸せな人生を送れる的なそれだ。

 ので、まぁ、世界の意味はとりあえず置いておいて、考えるなら、自分の意味についてでしかありえない。


エンディングがない物語

 小見出しがループしてきたので、もう終わりにしよう。残念だ……完全に、途中で記事が消えてしまったことが、被害は少なかったものの、書く勢いを完全に失わせてしまった。無念。

 まぁなので次につなげよう。

 創作の物語は、読み終わって、「ああ、面白かった」となる。
 でも、僕らの人生は、終わらせられない。唯一可能性があるのは、自死でしかない。

 しかも、自死ですら、その瞬間を認識することはできない。


 死ねないのだ。「この病は死をもたらす病ではない。死に至る病なのだ」的なみたいな。

 そうなってくると、人生はやはり、暇つぶしでしかないのか……。



(かっこ書きである。時間切れ。というよりも、完全に筆が止まった。せっかく恍惚状態に入っていたのに、突然フリーズとかやめてほしい。そういう意味ではテキストエディタのサクサク感ってよい。しかもこの、恍惚状態(別に新しい状態表現ではなくて、ゼロ秒思考に没頭しているだけ)に必ず入れるかというとそうでもない。ああ、なんか、書いておきたかったことあったんだけどなぁ……。もしかしたら大したことじゃあなかったのかもしれないけれども、しかし、今、このときに、僕の明日にとっては必要な表現だったような気がするんだけど……ダメだ思い出せない。ああ、しかし、ここで終わらせられない。明日、もう一度……強制終了)

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今日の一言「来年の目標なり考えねば」

昨日の記事を読んで

 こう、社交の場に出ていこうとする中で、自分のブログを読んだりすると赤面する。
 恥ずかしい。
 誤りだ。馬鹿だ、愚かだ。

 いろんな感情が浮かぶ。

 でも、帰りの道すがら、同じ記事を読むと、感覚が異なってくる。
 よく分かる。よく言ってくれた。面白い。



 不思議な感覚だったので、メモしておこうと思った。
「社交の場」というのは、なんだろう、いろいろ、想像してみるといい。学校でも会社でも、友人でも、恋人でも、家族でも、なんでもいい。考えてみるといい。――それだ。

 そういった、社交の場で、このブログのようなことを言ったりすれば、すぐさま、「病んでいる」として、心配されるだろう。

 まぁ、年がら年中こんなこと書いているのは病気かもしれないが、まぁまぁそれはおいておいて。


 一つ思ったのは、このブログは、もてないだろうなぁ、ということだ。

 もてる、というのは何か?
 イケメンであることが絶対条件だけれども、人間は総合なので、顔や体形が悪かっただけで人生詰み、にはならないから安心しておけばよい。
 それ以外にも、お金なり、「ひたむきに頑張る姿なり」、いろいろある。

 いろいろある中で、「うだうだした思考」なんてものは、絶対にもてない。


 人生幸せにしてくれるパートナーしか不要だ。

 何せ、人生に意味など無いのだ。だから、限られた時間の中、黄昏の時間を美しく儚く燃え上がり尽きること……ただそれだけが求められるのだ。
 そういった人生において、「考えること」なんてのは、一切不要だ。


 タソガレ――なんて言葉を使う時点で、きっと赤面しなければならないのだ、社交の場においては。

酒はよいものだ

 とはいえ、友人たちと過ごした時間は、とても有意義だった。話そのもの自体も、2、3点ほど、納得というか、新しい考え方や知識を得ることができて、よかった。

 そして、一人で飲んでいるよりも、酒は複数人の方がすすむ。だんだんと、何も考えられなくなっていく感覚……それを過ぎるとすぐに眠くなってしまうのだけれども、酔っぱらった感覚は悪くはない。

 人は誰もが、何かに酔っぱらってないとやってらんねえんだ、というのは、調査兵団対抗組織の隊長アッカーマン氏の言であるが、その酔っぱらう元となるのがお酒である。

 この記事は、お酒がはいった状態で書いている。

3分で分かる生きる意味

 唐突に話が変わる。偶然、以前読んだことのあるサイトにたどり着いた。

 生きる意味フローチャート


Q1:宇宙のはじまりビッグバンは偶然生じたものだと思いますか?
A(endo):はい。偶然だと思います。
⇒宇宙のはじまりが偶然なら、宇宙・地球・人間、すべてもまた偶然の存在です。生きる意味などありません。以上。


 明解である。
 で、本当は、「いいえ、偶然ではありません」というと、他のフローチャート分岐に流れていくのだけれども、僕は、「はい、偶然だと思います」という答えなので、結論はすでに出ているのである。

 生きる意味などない。

 以上。この記事はおろか、このブログ終わり――である。



 しかし、僕は、まだ言葉を終わらせられていない。何故だろう。

 生きる意味はない……これについて、僕は納得していないのだ。

 何故か?

 それは、「実存」としての答えと、「世界的な意味」における答えでは、異なると思っているからだ。

 ヘーゲル哲学が、世界史として世界は意志をもってジンテーゼに昇華されていくものだと美しく声高々に叫ぼうとも、キルケゴール氏は、「いや、世界なんて知るか。俺がどう生きるかが大事なんだ、バーカバーカ!」と言ったのである。

 それを「実存」という。

宇宙の起源と己の生きざま

 世界は偶然に生じ、地球も、自分自身さえ偶然に生じたものだとしても、しかし、この世に生を受け……というよりも、この「俺」というその「意識」が生じた以上は、その時点で、問題はなかったことになどできない。

 今まさにある、「我」。我思う故に――というのは、もう古臭い考え方なのかもしれない。その、実際に生じている「我」というものについて、細かく分解していっても、そこに根源たる意識は見つけ出すことはできないかもしれない。いくら「思った」ところで、我という存在を導くことはできないかもしれない。

 しかし、我は実際に存在する。
 でなければ、いったい、この記事を書いているのは、何だ?(あえて、誰だ、とは言わない)


 それを、現象学という。
 エポケーだか、専門用語は忘れてしまったが、現象学の概念は覚えている。客観や、真理といったものを、一度「かっこ」の中に入れて、実際に、その表出していること、生じていること(=現象)についての、発生しているその条件を問うのが現象学である。
 ヴィトゲンシュタインさんは、言語ゲームといって、「何か」について話し合うルールが先にあるのではなく、話し合いが生じるその現象において、その現象がそもそもルールなのであるという。


 だから。
 宇宙がどう、地球がどう、人類がどう、とか、そんなことは、いったんわきに置いておいて、かっこの中にくくってしまい、とりあえず、この僕、私、俺――いったい誰なのかはさっぱり分からないが、そのよく「自分」と表現する存在について、その存在する条件を問うのである。

 それが、このブログの目的である(そうだったのか、そうだったのだ)。

合致していない記事も多いと思われるが

 そういや、もう、だれにもこのブログを見せる気はないけれども、とある人がみたときに、永遠ぐるぐる、答えのないことを考えていて気持ち悪い、と言われたことがあった。

 まぁ、そうなんだろうなと思う。気持ち悪いし、もてない、それがこのブログだ。

 ――とか書くことが、きっと赤面だ。


 気持ち悪かろうが何だろうが、もう、書き続けるしかないのだということを、今一度、この年の瀬に書いておこう。

 お前は、もう逃れられないのだ、と。

 お前は、何をしようが、この、答えのない問いに答えを出さなければ、何をしても、何を得ても、満たされることなど絶対にないのだ、と。


 呪い、と表現したこともあった。それは、自らを戒めるためでもある。



 人生の些事。仕事も、友人も、恋人も、創作も、遊びも、生きることそのものも、それは些事に過ぎない――というのは、誇張表現でしかないものの、しかし、そうした強い意志を持たなければ、半端な覚悟でいても、ただ、イライラ対処のためだけの記事を量産しても、ダメなのだ。

 ……話を少し戻そう。

前提とすべきこと

 ふと、とあるブログさんの引用。
ベランダに出ることさえできない日々が続いた。
怖いのだ。
誰かの目に触れることが恐怖でしかなかった。
生きているのか死んでいるのか、分からないような日々が何年も続いた。
地獄にどっぷりと肩まで浸かって、ただこの世に存在しているだけのゴミ。
今が何年何月何日なのか、そんなことさえ分からない。
昼と夜が何度も何度も逆転した。
ずっと考えてきた。
人生ってなんなんだろう?って。
おそらく私は普通の人よりも「人生について考えてきた時間」が10年~20年くらい長いんじゃないかと思う。数字の根拠はない。
ただ私は、
みんなが学校に行ってる時、合コンしている時、就活している時、満員電車に揺られている時、上司に頭を下げている時、接待ゴルフをしている時、飲み屋で愚痴をこぼしている時、
ず~~っと人生について考えていた。
もともとがバカだから、長く考えたところで何の成果も答えも得られなかったけど。
でも自分には、それしかないんです。
ずっとひとりで人生について考えてきた地獄のような過去しかない。
私にはそれしかない。
だったら、そこから抽出したエキスを駆使して、何らかの新薬を開発し、それを自分と同じような人間にワクチンとして投与するしかない。
何言ってるか、わかんないだろ?
オレも分からん。適当なこと言ってるだけだから。
だから私はブログを書いている。
私の積み重ねてきた過去が、今の私にブログを書かせている。

――「私は私自身を救うためにブログを書いているのだ」
 さて、上に取り上げた方は、まぁ、きっと、僕と同じような感覚を味わったことがあるだろうと思う。
 であれば、僕が時折書いているような、「もっとこういったことを書く人に出会いたかった、もっと触れ合いたかった」ということが満たせるのではなかろうか、という希望がわく。

 しかし、一つ、前提にしなければならないのは、まずもって、

・絶対的(普遍的)な真理は存在しない

 ということである。

 先ほど書いた通り、僕は、ビッグバンを偶然と思っている(※)。
 世界的、人類共通の真理は信じていない。カオス的世界観をもっているといってよい。それが良い悪いではない。善悪でもない。ただ、混沌が世界の本質だと思っている。――本質? 本質といったものも存在しない。絶対無という表現が好きならそれを使ってもいい。仏教の「空(くう)」という表現でもいいと思う。とにかく、世界には意味もないし、人類にも意味はない。


 そうしたときに、果たして、「生きる意味を徹底して考える」人が近くに寄り添ってくれたとして、果たして果たして、それは、自分に「生きがい」を与えてくれるようになるのだろうか。ならん。

 ――としたら、じゃあ、このブログの意義は何だ? お前がいつも、「自分のため」といいつつ、じゃあ何故公開するのだという問いに対して、「役に立ちたいから」と答えているにも関わらず、おまえ自身が、その意義を否定したのではないか?

 ――話が進まないので、そのあたりの疑問は黙っておいていただこう。



※ちょっと話がそれるので、コメ書きにする。上の「3分で分かる生きる意味」のフローチャートは面白いと思うけれど、でも、ビッグバンが偶然だからといって、地球生成も、人類生成もイコール偶然、とするのは飛躍している気がする。ビッグバンが偶然であっても、地球をつくったのはもしかして「神様」的存在かもしれない。ただ、その「3分生きる意味」で言いたいところは、「ビッグバン」それ自体ではなく、「すべてにおいての起源」という概念を挙げているのである。この点を理解せずに、理系的に批判してもあんまりおもしろくない。思考実験である。
 

実存として戦え

 もう一つ、とある方……過去の自分さんの記事を引用しよう。


 しかし、さて、かなしきことに、記事が消えてしまった。だが、小まめな保存のおかげで、それほど被害がなかった。が、いったんここまでとしておこう。

 まー長くなっちまったから、ここまでちゃんと読んでくれている人などいないと思うが、どっちかというと、ここからが書こうと思ったことである。(ので、この時点でタイトルを修正)
 ちなみに、今回の記事は、先日の記事を読んで赤面したものの、今年7月中旬の「戦う相手は誰だ? ゴールはどこだ?」を読んだら、「おや、これ、面白いんじゃないか」と思ったことが起因している。


(かっこ書きである。続く。というか、こっからが本当は書きたかったところなのだが……)


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今日の一言「興味のない人はつまらないだろうね」「まぁ他者の感覚とか評価は考えない方がよいよ」

生きる意味の定義

「生きる意味」に似たキーワードを挙げていく。

・生きがい
・ライフワーク
・人生の目的
・存在理由(レーゾンデートル)
・自己の価値


 んあー、整理しようと、すっきり書き始めようとすると、非常にイライラしだす。

欲しいものがないという詭弁

 ある友人との会話をきっかけとして書き始めよう。
 まず、僕は「欲しいものがない」と発言したところに、「それは嘘だ」と言われた。「お前は、人との関係を求めている」と。

 なるほど、「もの」というのが、物的な何かを想定するのは、愚かな考えである。世界に広がる事物(モノ・コト)がすべて、欲求の対象として成り立つのは言うまでもない。

 では、「欲しいもの」という定義を拡張したとして、改めて僕は自分自身に問う。
「お前は何が欲しいのか」

 この問いに、僕は現在答えられない。

・人間関係
・地位名誉
・賞賛・承認
・金
・時間
・家族
・健康な(頑強な)身体


 たいてい、多くの人は、「安定」という言葉で回答するのではないか。リスクを取り続け、力動的に(乾坤一擲な勝負の積み重ねによって)生きていく人もいることはいるだろうが、長らく生きるにつれて、人は牙を、爪をひっこめて、手にした「安定」を守ろうとしていく。すぐさま書くべきは、これは大事なことであり、悪いことではない。むしろそうすべきとすら思う。
 その「安定」なるものの中味は、上に僕が挙げたもののどれかに当てはまるのではなかろうか。他にあるだろうか? いや、ない。

 人間の生きる意味は、結局のところ、概念理解(抽象的にまとめようとすれば)の中では、
・富(生理的欲求を満たす手段)
・名誉(承認・人間関係)
・時間(身体)
 だけである。ミーシー(もれなく、重複なく)になっている気がする。この点反論がぜひ欲しい部分である。「こんなこともあるんじゃないかな?」というのが欲しい。例えば、自分で反論すれば、「家族(恋人)」とか「子ども」といった概念はどうだろうか? 僕が上にあげた3つは、結局、「自分」という枠組みにおいての欲求体系である。
 つまり、「献身」というカテゴリーを増やしてもよいのではないか、ということだ。
 自分よりも大切なものを見出すということ、そういった性質が人間にはあるのではないか? という提議である。

 その献身という概念は、時に宗教であったり、国家であったり、社会(コミュニティ)であったり、会社であったり、家族であったり、子どもであったりする。
 その対象が、大きなもの(宗教とか国家)なのか、小さなもの(家族とか子ども)なのか、どちらに興味が惹かれるかというのは、これまた人それぞれいろいろあるだろう。
 こういった人間性、すなわち、個人にとっての正解(真理)というのは、答えがないものである。「お前がそう思うならそうなのだろう。お前の中ではな」というものだ。

 たいていの人は、30代にもなれば、自分がどういった方向性の人間なのか、自分に対しての理解はある程度できているはずである。いつも思うに残念ながら僕は、この大きな前提すらままなっていない。だから、人と話していても噛み合わない……というか、興味の方向性が一致しないことが沢山ある。

 これは仕方がないことである。僕は、その「大きな選択」部分についての問題を抱えているが、他の大勢の人たちは、すでに「大きな選択」はクリアしていて、次の、個々具体的な「どう生きるのか」という問題に移っているのである。だから、僕が「生きる意味」について話したいとしても、その意味が伝わらないのである。

疎外感の理由

 どうにも、僕が人を頼れない理由は、上に書いてきたような部分にある気がする。
 世の中のたくさんの優れた人たち、実際、尊敬もできる人たちが大勢いるのに、「師匠」と仰いで教えを請いたいと思える人がいない。
 ある友人は、「尊敬できない(自分にメリットを与えてくれない)人とは、一切付き合わない」と言っていたが、僕は、そもそも、「尊敬」レベルに人を思えることが少ないので、そんなことしていたら殆どの人と縁を切らなきゃいけなくなる(かっこわらい)。
 ただ、この「尊敬」というのも、「生活レベル」とか、個々具体的な面(仕事とか・遊びとか)では思いつく人は結構いるのである。

 この状況もよくないと思う。
 なんだかんだいって、人は、人の中でしか生きられないと思う。それをよしとするか、悪しきとするかは別として。――ただ、それだって、僕が「大きな選択」をしさえすれば、「必要最小限の人と関わって生を充実させること」といった方策だってとりようがあるのである。僕が巡回しているブログさんの中では、そういった生き方を提示し、実践されているかたも多い(多い少ないという言葉は、まったくもって感覚である。きっと、日本人口の割合からしたら少ないのだろう。まぁそれはいっても仕方がない。インターネット世界における多い少ないというのはあてにならない。まぁかといって、数字が示されたとして、それが「実感」からほど遠ければ、それはそれで「ここ具体的」には全く役に立たないが)。

再度問う僕の欲しいもの

 さて、少し回り道をした。僕が今求めているもの、欲しいものは何だろうか?

「安定」

 では無いと思う。
 安定という意味であれば、今はとても落ち着いているといえる。帰りが遅いし、イライラすることもあるけれども、まぁ、全世界的に考えれば、大したことないだろう。こんなものである。車とか家とかも、買おうと思えば買える(さすがに家はローン組まないと無理だろうが。ただ、中古物件も視野に入れたらまぁ行ける気がする)。

 んじゃー何が不満なの? と。
 ちなみに、苛立ち混じりながら書いておけば、楽して今の生活を手にしたとは思いたくはない。いや、もっと大変な思いをして、僕の今の生活にもたどり着けていない人もいるだろう、たくさんいるだろう。それでも、誰がなんというと、俺は「大変」だった。
 でも、他者の大変さを否定する気なんて、全然ない。みんな大変なんだ。それでいいじゃないか。そして、人生なんてものは、大半はだ。


 ――おぉ、新しい概念が登場した。運。運命。
 この考え方が、僕の中に、呪いのように浸透してきている気がする。

 前に書いたけれども、人が充実感を覚えるためには、「自己コントロール感」が必要である。
 自分の行動で、未来が変わるということ。別に、良い方向に変わるというだけじゃない。ただ、自分が何かすることによって、自分も、世界も変えられるという気持ち、感覚。これが無いと、何をやっても何も変わらない(いや変わらないわけではなく、その自分の行為が影響を及ぼさないということ)のであれば、やる気や気力なんて湧き上がるはずもない。

 僕が無気力(なのかは分からないが)なのは、この、自己コントロール感が失われてきたことが原因である気がした。うん、やっぱり書いていると面白いね。ここまで書いてきてようやく面白くなってきた。


 運命……ときくと、プロテスタントたちの倫理を思い出す。マックス・ウェーバーという人の著作で、「なんで神を信仰する人たちが資本を蓄えるようになったのか。そもそもその人たち、どうやら、予定論(運命論)を信じてたらしいよ? つまり、神に救われる人たちってのは、もう初めから決まっていて、人々の行為行動によって左右されるようなものじゃないってこと。そんな人が都合よく行動して神の判断を変えられるはずないじゃない? ってのが運命論。そんなものを信じているのに、どうして勤勉に労働に励むことができたわけ?」というお話。
 で、答えは、「こんなに勤勉に頑張ることができる俺(私)なら、神に救われる対象者に入ってるに違いない!」って思うことで、働いてお金を手にして、お金持ちになっても、それを蓄財しさらに勤勉に働く……という繰り返しによって(拡大再生産)資本主義の元となる資本が蓄積されていったのだという(大学でこういう勉強していたので大よそ合ってると思うけど、間違っていたらごめんなさい)。

 資本主義って宗教から成り立ってきたんだね! というと言い過ぎな気がするけど、日本とかは、「お上」から働けっていわれて、慶安のお触書とか五榜の掲示とか、庶民の生活が規定されて、それで「運命」を受け入れて働いてきたわけだ。その点、プロテスタントたちは、自らの意思で(それは神という信仰を糧にしていたとはいえ、自主性といってよいはずだ)勤労を指向したのである。

話をそらしたな

 ……あれ。僕が欲しいものって何? って話じゃなかったっけ。
 何だろう。友人には、人間関係が欲しいんだろ、って言われた。まぁ、今あるものを全部破壊しようとは思わない。
「欲しいものないんなら、いまある資産を全部寄付しろ!」
 とか思う人もいるだろうが、そうしようとは思わない。

 上の事実から、僕は結局、今ある生活を欲しているという結論が導かれるかもしれない。なんのことはない、僕も、「安定」を欲しているだけなのではないか、と。



 そうなんだろうか……?

 そうなんだろうか?

 うーん。

 うーん……。

 前も書いたような気がするが、俺は、人の役に立ちたい。ただ、何でもいいというわけじゃなくて、僕が心底「楽しい」と思えることをすることで、人が役に立ったと思ってもらえるような、そんな行為行動を続けることで生活していきたい、そう思う。

 うん、上の表現は、わりかし僕の本心に近い気がする。別に自己中に生きたいと思うわけでもないのである。
 まぁ、一般的には「人の役に立ちたい」って言っておけば聞こえはいいかな、とも思うし、使いやすい表現な気がするな。とか書いてしまうと、胡散臭いといわれそうだが、まぁ、人の役に立ちたいというのは本心である。それが、所属欲求だとか承認欲求だとか、そんな言葉で置き換えられるものであっても、確かに僕はそれはもっと欲しいなとは思う。

 ただ、その次の表現、「心底楽しいと思えることをすることによって」という、ここが結構重要である。

 楽しくないことをして、まぁ他者に喜んでもらっても、まぁ、喜んでもらったこと自体は嬉しいと思うかもしれないけど、昨日の記事で引用した、「体力・精神力の前借り」のようなもので、それを続けることは不可能だと思っている。
 楽しいことをしていると、それが物理時間的に多くても、そんなに苦にならないのだ。

 そうだな……上の表現は、ほんと、結構よいかもしれない。最近、仕事がいやだなぁと思うのは、どっちかというと、忙しいからというよりも、誰かの役に立っている感じが少ないからかもしれない。
 ――それだな。それが大きいな。なんか、「やって当たり前」的な感じなんだよな。いやそりゃ、プロフェッショナル(かっこわらい)なので、できて当然だし、当たり前なんだろうけど、そんな風に仕事をふられてこなしても、「はいじゃあ次これね」みたいな感じだと、まぁモチベーションは下がるわな。
 みんなが「やらされてる感」の中でいると、まぁ面白くないわな。そりゃさ。家族とか、プライベートとか、大事なことはみんなそれぞれあるだろうさ。でもさ、どうせ仕事するなら、なんかちゃんと目的とか、やりがいとか、みんなで共有した方がいいんじゃないの? とは思う。

 いや、別にいいんだよ。単純作業とか、ライン作業とか、定型業務だけやるような仕事ならそれでもいい。そしたら、九時五時みたいに、しっかり時間で管理されてやってりゃいい。そこにやりがいを求めるなんて、それは逆に酷なものである。奴隷に生きる希望を持てというのは、死ねというよりつらいかもしれない。


 時間切れだ。

 うん、ただ、この記事では、

「僕は、人の役に立ちたい。ただ、それは手段を問わないわけではなくて、僕が心底楽しいと思えることをすることによって、人の役に立って、それで生活できるようにしたい」

 という表現を引き出せたことで価値があったと思う。

 うん、この表現は近いな。いや本心だ。表現ではなく、事実を示している(シニフィアン(意味するもの:表現、記号)ではなく、シニフィエ(意味されているもの))な気がする。


(かっこ書きである。んあー、ただ、今回の記事は珍しくまとまったので、別にかっこ書きはいらないかもしれない。――ただ、読み返してみて、なんかやっぱり物足りないなと思った。具体性が少ないんだ。結局、その「心底楽しいと思えること」ってのが、じゃあ何? ってのが必要である)

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今日の一言「連載三つ目」

前回までのあらすじ

――生きる意味を徹底して考える(1)
――生きる意味を徹底して考える(2)

 2回の連載で、
・生きる意味はあろうがなかろうが、そこが問題じゃない
・考えなければ生きていけない
・人生の意味には、役割ベース、モチベーションベース、インスピレーションベースの3つがある
・役割ベースの生き方はつまらない
・モチベーションベースの生き方は重要だがそれも万能ではない
・ライフワークをもつのが重要だ

 と書いてきた。

 今回は、その「インスピレーションベース」とか「ライフワーク」とか、そんな横文字について、もう少し自分に引き付けて考えて整理していきたい。

もう少し詳しく振り返ってみる

「ライフワークとは何か?」
 と入る前に、もう少し復習をしておきたい。

 上のあらすじを「よく覚えている」という人は、次の小見出しまでジャンプしていただきたい。
 以下、対話形式で、前回までの流れを整理する。


「生きる意味を徹底して考える必要がある」
 ――何故か?

「生きる意味があろうがなかろうが、考えることから逃れられないからである」
「補足すれば、『生きる意味を考えるのは無駄だ』と主張する人であっても、『その他のもっと重要なことを考えるべきだ』という主張をもっているからだ(※)」
 ――では、その他のもっと重要なことを考えるべきであり、生きる意味など考えない方がよいのではないか?

「仮に、生きる意味を考えずに、『今・ここで、目の前にあることに注力する』としたとき、それは本当に人間としての生き方であるのか。人間としての生き方は、3つあるという。(1)役割ベース、(2)動機ベース、(3)インスピレーションベースだ。単に考えることをやめて、ただ目の前のことに一生懸命になるというのは、(1)の役割ベースの生き方ではないか」
 ――役割ベースの生き方ではダメなのか?

「ダメではない。ただし、役割ベースとは、その役割なるもの――すなわち「使命」が、外部から与えられている。常に新しい「使命」に心身を捧げ、考える余地なく行動し続けることができれば、それは一つの人間としての在り方であろう。しかし、動機無き行動は、長くは続かない。その人はいずれ摩耗し果てるだろう」
 ――何故か?

「外部から使命が与えられているからだ。人間が本来力を発揮できるのは、内発的な動機が必要である。それに従って生きるのが、動機ベースの生き方だ。動機ベースの生き方とは、「やらなきゃ」というより「やりたい」と思うことを続けていくことだ。それは仕事ではなく遊びかもしれないが、それでもよい。遊び(趣味)のために仕事を頑張れるという人も少なくないだろう。また、仕事が楽しいという人だっていることだろう。とにかく、「面白い」「楽しい」と思えることを続けていくのが動機ベースの生き方だ」
 ――では動機ベースの生き方を目指せばよいのか?
「動機ベースの生き方も万能ではない。理由は、以下に、前回の記事の一部引用により示す」

 一つは、上に書いたけれども、「現実と、自分の動機との整合性」をとる必要があることだ。前の記事で書いたが、「現実と理想との乖離を少なくすること」が幸せを感じるためにも必要であるというのと関連する。
 いっくら熱い情熱を燃やしていても、我々の世界は魔法あふれるファンタジー世界ではないのだから、無理なことは無理なのだ。「すぐ入れますよ、お安くしときますよ」とか言っていい店だったことがないのと同じだ……いやそれは違うか。
 もう一つは、その動機も、必ずしも長続きするとは限らないということである。
 前回の記事のカッコ書きあたりで書いた気がするが、「楽しくゲームするために生きるんだ!」という情熱を燃やして、頑張って勉強して良い高校に入ったかもしれないが、そんな動機で長続きするわけないのである。何故かというと、人生の困難・障害ってのは、なっかなか激しいものだからだ。
 確かに、一時的な快楽を得る方法はたくさんあるだろう。しかし、それらが、今後も続くであろう人生の艱難辛苦とシーソーゲームを繰り返すとしたら、十分に希望を見出すことができるのだろうか?――生きる意味を徹底して考える(2)

 ――ではどうしたらよいか。
 ということで、ようやっと、本記事の、ライフワーク云々の話につながる。


※本当の意味で「考えることを放棄すべきだ」という主張も存在する。ただしそれは、神に一身を捧げることであったり、坐禅により心身脱落することであったり、特殊な生き方の部類である。この考え方・生き方については、一考および選択の余地があると思っているが、本記事の主旨からはずれるため触れない。

何故ライフワークが必要か

 何故、動機ベースの生き方は不十分だったのか。
 それは、いくら自分の人生であっても、誰も、未来のことなど分からないからである。

 今手にしているお金も、愛も、健康も、この先どうなるか分からない。いや、物質的なものや、精神的なものであっても、時間とともに減っていくのは確実だ。
 ……減るのが確実だ、と書いてしまうと、投資家としては「お金」はお金によって増やし続けられるかもしれないし、愛に生きる恋人たちは永遠を信じて疑わないかもしれない。だが、健康はいずれ損なわれていく。老化、そして死は避けられない。

 例えば。
・美味しいものを食べるのが幸せだ、生きがいだ、だから私はそれが生きる動機なのだ。
・ゲームするのがとにかく楽しい。これをやっていられたら他に何もいらない。
・人とかかわるのが、おしゃべりするのがワクワクする。ずっとこうやって生きていきたい。

 それらはとても大事なことだ。

 だが、長期的に人生というものを考えたとき、環境の変化や、趣味嗜好の変化があったとき、それは永続する動機となりえるのか?

 つまり、動機ベースの生き方は、それ自体が悪いわけではなく、その継続性、強度が不十分ではないのか、と考えられるのである。だから、ライフワークが必要だ、――となるが、ここは、もう一つ小見出しで補足しておこう。

動機ベースとインスピベースの生き方の違い

 動機ベース、インスピレーションベースと書いてきたが、実は、それほど大きな違いが無いのではと考えている。
 というにも、前回も書いたが、この「インスピレーションベース」というのが、どうにも落ち着きの良くない言葉だ。
 他の言葉で何とか、ピンとくる表現にできないだろうか、と少し考えてみる。

 ナチスの強制収容所を生き延びた精神医学者V.E.フランクル氏は、「唯一性・一回性」が人生を価値あるものにしていると述べている(『人間とは何か――実存的精神療法』参照)。唯一性とは、「私が、私以外の何者でもないこと」であり、一回性とは、「人生がリセットボタンでやり直しのきかないものであること」である。

 デンマークの哲学者キルケゴールは、絶望の三形態を、
・自己自身があることに気づいていないこと
・本来的な自己自身になろうとしないこと
・非本来的な自己自身になろうとすること
 と述べている(『死に至る病』参照)。

 僕は、この一連の連載を、「3.個人としての生きる意味――生きる意味を徹底して考える(1)」を前提に書くと決めた。
 だから、このインスピレーションベースの生き方というのを、キルケゴール氏の言葉をかりて、「自己自身ベースの生き方」というのはどうか。あるいは、「実存ベースの生き方」というのはどうか。

 ただ、横文字を漢字にしただけでは、結局何を意味するかよく分からない場合がある。
 実存ベース……っていっても、実存ってなんだよ、という人もいるだろう。
 実存とは、フランクル氏がいうところの、「唯一性・一回性」をもった人間として、人生をまっとうすることである。本来的な自己であるということだ。
 ――まだ分かりにくいだろう。


 ここで、もう一度、役割ベースと、動機ベースと、「実存ベース」の生き方の違いについて、その行動の源泉になるモノ、「やらなきゃ」「やりたい」がどこから与えられるのかを考えてみよう。
 
 役割ベースは、「外部」からであった。親であること、社会人であること、学生であること、とある政治団体の一員であること、宗教団体の一員であること……など。その所属するカテゴリーから、「こうあるべき」という行動指針が与えられる。それに対して邁進するのが、この役割ベースの生き方であった。

 動機ベースは、「内部」からであった。自発的に、自分自身で「やりたい!」「楽しい!」「面白い!」と思えるもの。その気持ちに基づいて行為行動するというのが、動機ベースの生き方であった。

 実存ベースは、どこから与えられるのか?
 それは、動機ベースと同じく、「内部」である。自分自身の中からであることは、動機ベースと同じなのだ。
 しかし、動機ベースと違うのは、その根拠、強度、継続性である。

 僕は、その実存ベースの生き方を求めて、今さまよっている。
 30代にもなってお恥ずかしい限り。
 
 ……が、逆に、問う。
 果たして、どこまで多くの人が、本当に、唯一・一回性の人生において、「自分にしかできない」「自分はこれをやるために生まれてきた」といえるような、ライフワークに出会えて、そしてその生き方を選択できているのだろうか。


 意識高い系みたいなことを書いている? 否、断じて。
 僕は単に必要性に迫られているに過ぎない。深い森の中に迷ったとき、生存本能から恐怖を感じ、そこから抜け出さんと足掻くのと変わらない。

 僕はそうしなければならない

ライフワークに出会えている例

 本当は、この記事においては、具体的にライフワークを見つけるためにはといった方法論にまでいきたかったが、おそらくこの調子ではまた5,000字をこえることだろう。
 今回は、一つ、ライフワークの例を書いて終わりにしよう。

 いきなりアニメーション作品の例で恐縮であるが、最近過日、「Re:CREATORS(リ:クリエーターズ)」という作品を全話視聴した。
 シュタインズ・ゲートという作品もそうであったが、この作品も序盤はあまり引き込まれず、1~3話ぐらいみてしばらく放置していたが、途中、「築城院真鍳(ちくじょういん・まがね)」というキャラクターが登場した、6話から面白くなっていった。というより、マガネちゃんがとても好きになったのだ。若干寝不足になった(かっこわらい)。

 彼女は、悪役である。
 彼女は、無辜の住民を面白半分に殺害する。
 主人公陣営と、敵側の陣営に分かれているが、当初、マガネちゃんは敵側陣営に加わるように説得される。ところが彼女はその申し出を断る。かといって、主人公陣営にもくみしない。面白い方につくと。世界がどうだろうが関係ないと。
 彼女は完全サイコパスである。「憎しみ」とか「正義」とか、そういった主義主張も存在しなければそういった感情もない。言説弁舌巧みで、人の弱みを握ったり、おとしめたり、絶望させることが得意で、そういうのがとても面白いと思っている。

 登場のしょっぱなから、悪い奴だなぁと思ったし、顔つきも邪悪である。まぁ、ずーっと笑顔で楽しそうにお話ししているが、ものすごい胡散臭い。「そうだよ? マガネちゃんは嘘しかつかないので~す」とか、クレタ人もびっくりしちゃうぐらい。

 これだけ書けば、単に頭の狂った悪い奴、なのであるが、何故か憎めないのである。
 その理由について、マガネちゃんの登場回を重ねるごとに、分かった。彼女は、どこまでもまっすぐなのである。マガネちゃんは、「面白いこと」をただ、ただずっと求めているだけなのだ。そこに善悪の基準はない。ただそれだけで、ただそのためだけに生きている。マガネちゃんは友達いないだろうかもしれないが、彼女にとってそんなことどうでもいいことなのだ。


 ――それだ。
 唐突である。思い出そう、これは何の小見出しだったか? ライフワークの例を挙げようというのが目的だ。つまり、マガネちゃんが、住民惨殺したり、面白半分に主人公陣営にも敵側にもつかずワイルドカード的な立場でふらふらしたりしている時点では、それが、動機ベースの行為なのか、実存ベースの行為なのか分からなかったが、登場する場面ごとにその置かれた立場や条件は違うのに、ただ一つの自己自身の目的……「面白いこと」をどこまでも求めてやまなかったのである。そんな一貫性みたいなものが、実存ベースの生き方……ライフワークの実践だと思う。
(その結果として、最後には物語にとってとても重要で良い方向の働きをする。ただ、マガネちゃんにとってそれが「良いこと」なのか「悪いこと」なのかは、結局どうでもいいことなのである)


 インスピレーションベース、実存ベース、ライフワークと、様々な表現で書いてきたけれども、もう一つ、「信念」という言葉を付け加えてもいいかもしれない。

 次回は、もうちょっと、このライフワーク的なみたいなものについて、掘り下げたり、広げて例をあげたりしつつ、「じゃあ俺はどうしたいんだ? どうすればいいんだ?」ということに突っ込んでいきたい。
 結局今回の記事は、「実存」的じゃなくて、自分の中ではあまり面白くなかった。――のだけれども、書かなければいけない、書いておかなければいけない、そんな気はした。


(かっこ書きである。Re:CREATORS、アマゾンプライムのウォッチリストに登録してから数か月過ぎてたけど、意外に面白かった。上から目線な書き方をすると、「よくまとまっていた」と思った。なんか、アマゾンレビューで、「人物描写が足りず、2クール(22話)では全然短かった。もうちょっと丁寧につくったらよかったのに」とか、「製作者側の自慰」といった意見もあったけど、僕はむしろ、もっとコンパクトにしてもよいと思った。なんというか、今作においてキャラクターは、むしろ「テンプレ的」であることが求められていたと思う(何せ各物語の主人公なのだから)。だから、なんとなくこのキャラはこういうキャラだと、脳内補完できるレベルで描かれていれば十分だと思ったのだ。それと、製作者側の自己満作品だ、というのは、その面もあるかもしれないが、創作物があくまでも消費者側の「承認力」を必要とするという設定は、僕の好きな小説の完全無欠の高校生が何か神の末裔(?)の女の子と合体して悪い奴をやっつける作品の、認識子(グノシオン)みたいで面白かった。というか、そう、小説家とか漫画家とか、その創作者たちが、自身の作品に対してぶつける熱い思いってのが、すごくよかった。この作品を異種能力バトル的なものを期待してみるとちょっと肩透かしかもしれない。いやまぁ映像はとてもきれいだったけれど、もうちょっと戦闘シーンとか全体的にカットしてまとめてもいいんじゃないかな、ってのが僕個人的な感想。ただまぁ、そういうのもあったからか、ブリッツはん【娘をなくしてちょっと虚無になってしまったハードボイルドのおっさん】と駿河はん【女性漫画家。ブリッツ・トーカーが登場する作品を描く】のやりとりとか、めちゃくちゃ痺れた。その二人のシーンと、マガネちゃんをみれただけでこの作品にとても満足だ)

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