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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「書くという行為そのものの肯定」

体調の悪さ

 風邪とか、明確な病気だったら話が早いのだけれども、なんだろうこの、頭が痛くて、やる気が起きないのは。
 この無気力感は、思えば、昔から多くの期間で発生したものであった。
 確かに、何もしない、何もできない時間は、無駄なのかもしれない。けれども、その時間もまた、何らかの次の行動のために必要なのではなかろうか。

 などと、堕落を肯定するようなことを書いているわけだが、ここで、その堕落について思い煩い、日々のルーチンまでも壊してしまっては元も子もない。

 もともと、「元気」なときに頑張れるなど当たり前なのである。
 いかに、体の調子が良くなくて、やる気が出なくて、イライラしてて、不安で、無気力な時に、可能な限り堕落を抑えて、少しでも活動を維持することができるのか、その点が重要である。

 すべての行為行動、思考、感情に、因果を求める。

 何か目標を立てて、それに届かなかったとき――これは2パターンある。
 1つは、精一杯頑張って、それでもだめだった時。
 2つは、計画を遂行できなかった時。

 1つ目は、得るものもあるだろうというと、否定する人は少ないだろう。
 ただ、2つ目については、自己を呪う人もいるだろう。しかし、2つ目の理由――つまり、自分の堕落が原因で目標に到達できなかった場合であっても、そこには「意味」があるのである。

 その堕落の原因を突き止めることができれば、そしてそれを受け入れることができれば、一歩、また素晴らしい人間人格に近づくのである。

魂の所在

 脳神経細胞は、シナプスという結合がなされており、電気刺激で興奮し、情報を伝達している。
 そこに、僕らの「意思」といったものは、どのように生じているのだろうか?

 高度なAI・アンドロイド・ロボットの「ふるまい」が、人に近づくことはあるだろう。そうしたときに、「感情」が現象した際に、そこに「魂」(意思)は生じているといえるのだろうか?

 目標の計画倒れ――堕落の話と何が関係しているのか? と疑問に思うことだろう。

 ここで触れたいというか、確認しておきたいのは、「人間」という存在の規定である。あるデンマークの哲学者さんに言わせれば、人間とは「精神」であるといい、精神というのは「総合」なのだという。
 総合とは、あるものとないものとの関係であり、それに関係する関係であり、その関係自身である――と、最初の文章がものすごく分かりづらいために、高校生に初めてそれを読んだとき、僕は本を放り投げた。

 ただこれは、それほど難しく考える必要はないと、今の僕は思っている。
 人は、いろんな要素で成り立っている。――この程度の理解でよい。
 そこに、もう一歩踏み込んだ時に、「関係に関係する関係」という一見トートロジーの概念を、概念理解として頭に入れておくべきことだ。

 A―B

 という要素があったとき、その総体(総合・関係)が、人間・精神であるということ。(もちろん、A、B、C、……と要素は無限大にある)

 AとBが相互に影響を与える範囲にあるという場合に、AとBは「関係している」という。つまり、上の図だと、ダッシュ「―」にあたる部分が、関係だ。

 ここで、この「関係」を「C」という要素としてみたとき、テキストでは表現しづらいが、

 A―C―B

 という図になる。ここで、AとBも関係しあっていることがポイントである。そして、このA―C(※)と、C(※)―Bの関係が、関係に関係する関係ということである。

※Cが、そもそも「関係」なのだから。


 これが、人間は精神であり、総合であるということである。
 言い方を変えれば、人間は多面的で多義的であるといってもよい。

 そうやって具体的に、生活用語にもっていけば、何もそれほど難しいことではない。では、なぜわざわざそんな、抽象化する必要があるのか。

良く生きるということ

 僕はここ半年より前から、多くの方のブログを拝見するようにしている。
 そこには、大切な人と死別したり、理想の男性を追い求めたり、仕事が嫌で仕方ないながら続けていたり、資産運用で生活したり、――まぁいろんな方がいらっしゃる。

 それぞれ、人には、悩みがあって、生活があって、人付き合いがあって、生きている。

 その中で、「ある事象」に囚われて、それへの呪詛をずっと書き綴っている人も少なくはない。

 何故自分がこんなひどい目にあわないといけないのか。周囲の人は、社会は、環境は、国は、狂っている、間違っている、苦しい、苦しい……。

 ――なんか、分かる。


 いつの間にやら、僕は、「悩み」というもの自体がよく分からなくなってしまっている。それは、感情が抜け落ちたということではない。痛い、悲しい、楽しい、うれしい、それぞれ、存在する。

 けれども、人――じんせい、じぶん、を考えたときに、それらが、何ら重要なものには思えなくなっている。

 ――じんせいはひまつぶしだ。

 こんな表現を目にすることが、若干だけど、増えてきた気がする。人生に意味なんてない、そんなことを、恥ずかしげもなく言う人だっているだろう。

 先のこと、いずれ訪れる死のことなんて考えても意味がないのだから、日々の生活を精一杯がんばろうぜ! というのはよく分かる。
 ただ、その考え方が当たり前になっていると、上記の、「悩んで苦しむ人」は、一生抜け出せない苦しみにもがき続けることになる可能性がある。

楽になるためには

 喪失。

 野球選手になるのが夢だった人が、交通事故で手足を失ってしまった。

 周りは、野球だけが人生じゃあないと。他に生きがいを見つけなさいと、きっとそうアドバイスするだろう。
 で、「美談」は、そうはいっても、あきらめずに、義手義足で野球を続けることができたとか、そういうのが「美しい話」として語られる。あきらめずに求め続ければ、報われるのだと。努力は素晴らしいことなのだと。

 しかし、自分の子供を欲する人が、不妊症だったと分かったとき――じゃあ、養子をとればいいじゃない! とアドバイスする人がいるだろうか?


 世界は、喪失に溢れている。

 優れている人もいれば、劣っている人もいる。

 それは、生まれた時の資産、容姿、周囲環境、運……様々な要素が複雑に絡み合っている。

 恵まれた状況の人も、ちょっとしたことで転落してしまうこともある。



 ……と、いうけれども、そもそも、その「恵まれた」とか「不幸」ってのは、何に対してなのか?

 自分の欲求・欲望に対して、である。


 楽になるための究極の方法を示そう。「諦める」ことだ。


 これが、キリスト教と仏教と、御利益仏教と原始仏教との違いだと僕は思っている。
 広い意味で、「救われること」を仏教も望んでいるのかもしれないが、その方法論が異なっている。神に祈るのではなく、ひたすらに諦めて、「正しい」生活を繰り返していく――それが仏教だ。

仏教はさいつよか?

 欲望をそぎ落としていけば、なるほど、きっと「悩み」は消える。

 大好きだった彼が死んでしまったことに、「どうして自分じゃなかったのか」「もっと一緒にいたかった」「周りの人は愛する人との子供にも恵まれて楽しそうにしているのに、どうして自分はこんな目にあわないといけないのか」……。
 その人は、「理想の生活」を欲していた。
 それが、死別という運命によって、引き裂かれた。

 ここで「物語」は、その人に、「新たな恋人」を描くだろう。ファンタジーなら、霊魂が動植物に宿ったり、霊体となって戻ってきたりするだろう。
 そうして、その主人公が、「人生に再び前向きになること」を描くのである。


 僕は、以前から、その構造に疑問をもってしまった。(もってしまったというのは、自分自身それが良いこととも思えていないからである)


 最初の欲求を「諦めて」、新たな欲求を見つけるということ。抽象化すると、物語のプロットはそういうことになる。
 それってのは、「人生」ってもんが結局、「諦めの連続」であるという証左でなかろうか?

 まぁ、それはそれでいい、という人がいるだろう。そういう人は、「生きてる意味なんて小難しいこと考えないで、精一杯生きたらいいんじゃね?」というだろう。
 と、いうか、多くの人、大半は、そういうテーゼだと思う。何せ、「さっさと死んでしまうのが正解だぜ?」なんて、聞いたことない。

 でも、おかしくないか?

「人はみな、生まれたときにおギャーってないて、それは意味があることなんですよ」

 とも言われる。「人は生まれたことそれ自体に意味がある論」である。

 意味がある、として生まれてきたはずなのに、段々長く生きていると、「生きてる意味なんてなくなる」の?

 そんな馬鹿な。やっぱり、なんか意味があるんでしょ? と僕は思う。
 思うのだけど、でも、同時に、テーゼは、「諦めの連続」である。何故か?

成功し続ける人生

 諦めの連続、と書いた。これは少し補足すべきだろう。
 例えば、「成功者の哲学」的なのがある。「人生はチャレンジの連続だ!」的なアレだ。人は日々成長していかねばならぬ、的なのだ。みなさまもよく聞くだろう。親や、上司や、教師や、その他指導者たちは、「ゴール」を描き、挑戦させ、努力させ、目指させる。

 ここで、自分自身が、「失敗の連続で何のいいこともなかった」とウジウジ言っているわけではないと、まず前提として書いておこう(その事実は置いておいて)。どういうことか、何が言いたいかというと、「成功した時のカタルシス」を認めないわけではない、ということだ。なんか頑張って、手に入れたときとか、仕事して作って、それが評価されたとき、作品やプログラミングなんかして完成したときの晴れやかな気持ちってのは、「ある」。

 そういう意味で、今この瞬間、僕は、「どう生きていいか分からない」という深刻な状況ではない、ということだ。

 だが、常に頭にあるのは、その晴れやかな気持ちの連続が、本当に「人生」そのものであると言い切ってしまってよいのか? ということだ。
無為に無駄に徒らに時を過ごしてしまっている。日々の仕事や現実的な雑事で忙しくしてると、人生の意味について考えることをついついおろそかにしてしまい、なおかつ、一生懸命やっているという誤った充実感を抱いてしまうせいで最重要課題の人生の意味を考えることをしそこなっている機会損失の自覚もなく、慢心して過ごしてしまっている。考えて、何か手がかりが得られると人は達成感や自己効力感を感じて、充実した良い気分を味わえる。しかし、この良い気分というのは、単に、脳の報酬系にドパミンが放出されてるだけのことで、それは側座核を電気刺激されてるラットのようなものに過ぎない。
本当の悟りとか、人生の意味に対する答えとかは、そういうものではないだろう。たぶん、きっと、静かにしみじみ味わうような感慨深いものであろう。
それにしても、本当に大切なこと、ではない全然別なことでもそれに夢中になって取り組み何とかかんとか仕上げると達成感が得られて、本当は時間の浪費だったということに気づかないでしまっていて、それで日々が過ぎ去ってしまう…。 何をすべきかを考える前に何をすべきかを考える習慣をつけていきたい…考える時間を作り、その大切な時間を他の世俗的な雑事に使うのではなく、忘れずに人生の意味について考えることに費やす習慣を。――雑事ではなく、1番大切なことを忘れずに考え続ける習慣をつけること
 普段訪問させて頂いているブログさんの記事を引用させて頂いた。下線部は僕が引いている。
「誤った充実感」
 この表現、頂き、である。舌を巻く表現であった、と書くと、いつもの上から目線ティックになってしまうけれども、ほんと、よいと思った。

 ああ、満たされているなぁ、楽しいなあ、充実しているなぁ……と、それって普通はよいことである。
 けれども、そういう考えしかもててない所謂ポジティブさんは、「喪失」に弱いんじゃないかと僕は思っている、勝手に。まぁ、その「喪失」をいやす装置ってのは、「泣き作品」だったり、友人・恋人、家族とかのコミュニティだったり、たくさんあるから、そんなに困らないのだろうが。

 ただ、本当に「致命的な喪失」を経験した人は、なかなか立ち直れなくなる。それは、「諦め」ができなくなるのだ。

 そして、その喪失への執着が強くなればなるほどに、反転して、その喪失を、手放せなくなる

自己の弑逆

 おかしな話だ。「救われたい」と欣うはずなのに、その喪失感情を手放せなくなるなど、そんなことありえるのか?

 構造は簡単だ。「人は、なかなかすぐには変われない」という前提がある。
 そうしたとき、その執着期間が長くなると、「喪失感情を抱いている自己」というのが醸成される。そうしたとき、他者の、「ほかにもっといいひといるさ」「人生、それだけじゃないよ」というアドバイスは、それが至極もっとも正論だったとしても、「自己によって受け入れることができなくなる」のである。

 そんじゃあ、「わかるよ……つらいよね」と寄り添ったらどうか?
 それはそれで、その喪失感情を肯定することになるので、まぁ、八方ふさがりである。

 結局、自分で立ち直るしかなくなる。けれども、ポジティブ人間さんは、喪失の体験が少ないから、どう立ち直っていいか分からなかったりする。

もう少し続けよう

 最初に書こうと思っていたことは何となく、書いた気がするけれども、ここまでのことは、いつものことの繰り返しだ。少し、話を進めることができそうだから、このままもう少し書いていこう。

 僕は、反転したポジティブ人間さんである。

 基本、人生楽しんだ方がいいと思っている。

 どんなことをしたら、自分が楽しいか、ってのも、段々洗練されてきた気がする。


 けれども、だ。
 そうやって生きていけばいくほどに、どんどん、「諦め」度合いが強くなっていくのである。
 表現は難しいが、……誤解を恐れずに書けば、人生が「ゲーム」のようなものに思えてくるのである。
 そりゃあもちろん、ある精神科医さんが言うように、人生とはリセットできるものではなく、唯一性・一回性のものである。

 しかし、幸福も、不幸も、それは単に、その80年という期限の中でのイベントに過ぎない。
 時間が経てば洗い流されてしまうもの。

 そんな恐怖から、僕はずっとログというか、日記的なのを書いてきたのかもしれない。そういう意味で、僕は、何か、忙しく生活していても、日々が充実していても、「書くこと」を欲するのかもしれない。

 なんというか、一時の感情や感覚に対して、あんまり価値を思えないのだ。

 いやいや、こんな、長くなってしまったから、だれにも読んでもらえず、ぐだぐだしたことを書いているのも、そんな価値なんてないだろうとは思う。


 けれども、なんか「楽しい!」と思った一瞬よりか、この無駄な500字でも、1000字でも書いていた方が重要に思うのである。



 僕は離婚したことあるけれども、過ぎ去ってみると、あーそういうこともあるんだなぁ、という感覚である。友人などが結婚します、ということで、結婚式場の下見にいったりとか、たくさんの人に祝福されて、二人の家を探して生活を始めたとか、思い出そうとすればいろいろあったなぁと思う。

 哀しい気持ちにもなれる。寂しい気持ちにもなれる。

 でも、もっと嫌なことだってあったし、不安や怒りや不快感が連続した期間が長かった時期もある。

 それが今では、あー、いろいろあったなぁ、と、そんな程度である。

素晴らしき人々

 例えば、の話。
 TOEICなんて、何の英語力にもならない、無駄だ――と、権威のある人、人気のある人がいっていたとする。その事実がどうか、はここでは関係ない。しかし、仮に事実だとしよう。

 その際に、そういった記事や、権威のある人の話を聞いた人が、「え、きみ、まだTOEICの勉強なんてしてるの? それって、意味ないよ?」と、したり顔で言ったとする。

 それほど滑稽なことはないと思う。

 しかし、こういった例えばの話は、結構ありふれている。「意味がない」という言葉を使う人について、よくよく観察するべきである。

 意味とは多義である。

 すべては条件である。その人にとっての意味と、私にとっての意味とが同じとは限らない。
 だから、大事なことはプロセスである。

 いや、僕は、他者と話すときは、意識して、「結果が大事」といっている。それは、結果しか、目に見えないから、他者には判別しようがないからだ。
 しかし、その根本にある考えは、「プロセス」が大事ということである。

 結果は、一面的にすぎない。その場限りの、その場における現象である。



 素晴らしい人とは、そのプロセスを語れる人である。理由をどこまでも突き詰めて、考えていける人である。
 それを、「自分で考えられる人」という。思考力がある人ともいう。

 いろいろな、様々な分野で、考えられる人は多い。けれども、僕が特に欲するのは、根源に至る道を考える人である。

 僕は、幸せに生きる方法とか、そういったものは興味がない。お金についても興味がない、のだけれども、例えば、「人生とはすべてマーヤー(幻)なのですよ」と語る導師がいたとして、その導師は親兄弟に養ってもらっているニートだとしたら、なんか滑稽ではなかろうか。

 語ることができるというのは、自分で生活できるという前提に立っている必要がある。

 その、「養ってもらっている」というのが、たぐいまれなカリスマ性で、その庇護者が自ら進んでその人を養いたいと思えるほどのレベルに到達しているのなら、それは立派な「仕事」だろうが。


 そういう意味で、お金について、「興味がない」というのには抵抗がある。やっぱり、必要最低限は欲しい。でも、給料を2倍にするから、金輪際一切、仕事以外に「書く」ことをしてはならない、と言われたとしても、僕は即答断るだろう。

 お金よりも、創作や、考えることの方が重要だ。
 それは、大学入試や、就職活動しているときも同じだった。

 そのときは、まぁむしろ、大学に入ったり、就職したりすれば、そういった思考も手放していいものだと思っていたが。

 むしろ、ますます、30代に突入し、その必要性が高まっていると思う。

なぜ考えることが必要なのか

 もう、この辺りは書き尽くしたと思っているが、振り返りも兼ねて書いておこう。

 まず、思考が「自分」というものと切り離せなくなったという実感故である。
 つまり、「喪失感」を遠ざけようとするあまり、その喪失感を抱く自分というものを強固にしてしまう悲劇を先ほど挙げたけれども、15年程度付き合ってきたこの「思考」というものを、なかったことにするというのは、自分の半生を捨て去るということを意味する。

 いや、たかだが30代の半生なんて大したことないでしょ、というのもあるが、でも、10歳未満の記憶など、それは自己の根源の成り立ちとしては重要だろうが、思考という状態とはいえないだろう。
 若いころの、そこで受けた「嫌な思い」というのを、自分の思考の源泉とする方法もあるけれども、それは、「喪失感」を拠り所にするようなもので、忌避する。


 次に、人生とは有限であるという事実故である。
 僕は、「なんでわざわざ生きる必要があるんだ?」「こんな苦しい思いをするなら、死んだほうがいいんじゃないか?」「いつまで頑張れば楽になれるんだ? いつまでこんなことに耐えてなきゃいけないんだ?」と思ってきた。
 それに対しての答えを出してあげたい、という菩薩的心もあるかもしれないが、それ以上に、「まぁ生きても死んでも、どっちにせよ、いずれは必ず終わりがくるのだ」という感覚が強くなっていった。結婚生活にもいずれ終わりがくるように――ってそりゃちがうか(かっこわらい)。

 最近、一人になると、「あー、生きていてよかったなぁ」「生きているなぁ素晴らしいなぁ」と思ったり、自然と口に出たりする。

 それは、何か良いことがあったからというよりも、なんか、ほんと、身体が動くことそれだけですごいことだなぁと思ったりするのである。

 別にこのままでいいんじゃないか、と思ったりもする。わざわざ考えたり意味なんてどうでもいいんじゃないか、と思ったりもっする。これは、生きるということが、そのうち終わる朝露のようなものであるという感覚が強くなったからかもしれない。


 もう一つ、考えるべき理由を挙げれば、やっぱり、自然に考えてしまうということである。
 これは理由でも何でもないかもしれない。
 ただ、そうなってしまうのだから仕方がない。まぁ、この辺りは、無心でルーチンを行ったり、瞑想や坐禅といった時間を取り入れて、調整することも必要かもしれないな。


人格について

 ああ、この記事、「人格」とは何か、書いておこうと思ったからだった。忘れてた。

 人格。という単語から、「人間とは精神である」という話になって、そっから脱線を繰り返したわけだな。

 そもそも、「善い人になろう」と思ったからだった。
 善い人というか、魂を磨こうとか、まぁ、そんな表現はどうでもいいのだが、とにかく、優れた人格を持ちたいものだ、と思ったのだった。

 しかし、なんだろう、そのよい人という概念は。困っている人をみたら助けなくてはいられない性格? しかし、この世は困っている人だらけだ……。それに、自分が満たされていなければ、「正しく」他者を助けてあげることもできない。なぜなら、助けるという行為は、その助け出すべき方向が明確でなければならないのだ。陳腐な例を持ち出せば、レスキュー隊員は、自分らの安全が確保された状態でなければ、救助などできない。自己犠牲はかっこいいかもしれないが、合理的ではないのだ。

 そう考えたとき、とりあえず、残り少ない紙面で表現するとしたら、「明るい人」ということになるかもしれない。
 さんざん、うえで、「ポジティブな人は喪失に弱いのではなかろうか」とか言っておいて、結局「明るさ」が大事なのか、ということだが、でも、そうだと思う。
 大事なのは、その「えせ」的な明るさなのか、本当に明るいのか、どっちかだ。

 だが、本当に明るい、というのは、むしろ、サイコパス的な感じでなければ成り立たない気もする。難しい問題だ。

(いろいろ書いたけれど、思考と実践は切り離せないと思う)

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今日の一言「金曜夜から体調が悪く」「精神に負けただけ」

無駄に過ごした!

 無駄とは何か。
 僕は別に、休日に何の予定もなく、ダラダラとテレビを見て過ごすことが悪いことだとも、無駄だとも思っていない。

 無駄という概念は、理想とすべき生活軸があるから発生するものである。

 分かりやすく書こう。無駄の反対は何だ? 役に立つことだ。では、その役に立つとは何に対して? 自分? 友達? 恋人? 家族? 会社? 社会? 世界?

「あー失敗した……無駄に過ごしてしまった」

 という気持ちになるのは、何らかの、目指すべき何かがあるからなのだ。ただ、それが意識されるかどうかは、別問題である。何となく、無駄。この感覚が大半であろう。何せ、無駄なことをしている際には、ろくに思考も働かないのである。



 御託はいらないか。
 とにかく、休日前のゴールデンタイムからほぼ1日、何もできなかった。
 その、「何もできない」というのは、ぐっすり眠るということすらできなかったのだ。

外食も難しい

 まず諸悪の根源は、金曜日の夜、気分の良い食事タイムを取れなかったことだ。何故か? いつもたびたび訪れる外食屋さんが、込み合っているせいか何なのかわからないが、喧噪で落ち着かなかったことが一つ。食事のクオリティはよいのだが、「環境」というのが重要であることが、改めて分かった。コストパフォーマンス(費用対効果)がよくても、狭い座席でがやがやうるさかったりすると、気分が落ち着かない。

 そう考えると、おいしい食事を家に持ち帰って、ゆっくり食べるというスタイルが一番良い。しかし、宅配系(ピザにとどまらず、和食洋食、寿司など今や様々)は、味はそこそこだが、コストパフォーマンスが良いとは残念ながらいえない。

 じゃあ自分で作ろう、というのも、作るというよりも、後片付けが面倒だったりする。

良質な睡眠

 そして、寝落ちしてしまったことが反省すべき点の二つ目。
 疲れて家に帰るというのは、まぁ、日常茶飯事であるが、休日前となると、気が抜けているのだろう。ほぼ床で寝ていた。エアコンもかけっぱ、電気もつけっぱ。当然、睡眠の質は悪くなる。

 深夜、明け方など、何度も目が覚める。しかし、頭の病みがひどくて、起き上がることはできない。膀胱に負担がかかって、お手洗いには何とか行くが、またきれいに布団もしかずに寝てしまう。

 そして、何とか気合を入れて起きる。風呂に入る。そして、やっぱり具合が悪くて、寝る。

 そんなことを繰り返しながら、もう外は暗くなってしまった。

 本当は、日用品など、買い物に行かなければならない。食事もまともにできていない。

 かろうじて、洗濯だけはできた。

クレジットカードの整理

 やることは、結構あるのだ。
 まず、掃除、片付け。
 本が、書類が、暴れ始めている。
 良質な部屋空間がつくれていない。

 頭を整理したい。身体を整理したい。

 費用面を整理したい。


 クレジットカードを、2枚ぐらい解約したい。しかし、生活費の自動引き落としになっていたり、ポイントがたまっていたりと、少しばかり対処が必要である。
 それでも、スマートホンの解約、格安SIMへの切り替えよりかは楽だろうが、気分がのらない。節約効果も、年間2000円いくかどうかである。ポイント利用を考えると、もとが取れなくもない状態。ただし、ポイントというのは、その対象のお店でしか使えないため、買い物の幅の限定がなされる。それでもよかったのだが、もっとよいお店を見つけてしまったので、必ずポイント対象の店を利用しなければならないというのは、デメリットが大きくなっているというわけである。

 とかなんとか、そんなこと書いている暇があったら、解約に向けて行動すればよいのだが、どうにもこうにも、やる気が起きない。ダメ人間である。

分かりやすい文章の語順

 無駄、の話に戻る。

 無駄って何なのか。

 先日、分かりやすい文章技術の本を読んだと書いた。その中で、修飾語の使い方については、悩むことも多かったため、参考になったことがある。

・長い修飾語を先にする。
・語順を整える。

 一点目の、長い就職後というのは、ちょっとまだ、意識して使えるほど理解はできていない。
 語順というのは、いつ、どこで、だれが、だれに、何を、どうした、という順番が、日本人には一番わかりやすいのだということである。修飾語を使うときも、そういった順番にするのがよいということだ。

 5W1Hというのがあるが、これは、
・Why
・When
・Where
・Who
・What
・How

 である。

 ただ、「なぜ」というのは、レポートとか、上司への報告のときが主であって、会話だとか、流れで文章を書く際には、いちいち、なぜを書かない場合が多いだろう。

 そうしたときは、
・When(いつ)
・Where(どこで)
・Who(だれが)
・Whom(だれに)
・What(なにを)
・How(どのように)

 という順番を意識して文章を書くとよいということだ。

 ちなみに、Whomは、英語圏のひとも、あまり使わなくなってきているということをどっかの記事でみたような気がする。

 とまぁ、5W1Hとか気を付けて書きましょうとかは、当たり前に誰でも知っていると思うけれども、その順番も意識する必要がある、という点については、大事なんだろうなぁとは思っていたけれど、どういった順番が好ましいのかは初めて知った。
(まぁ、必ずしもその順番でなければいけないということでもない。そもそも、文章技術の一つとして、強調したい事柄を後ろにもっていく、または前にもっていく、というのもあるわけで)


 まぁともかく、たくさん書くことが重要だ。たくさん書く中で、一つか二つか、少しずつ、そのわかりやすいとされている技術を吸収して、使えるようになっていけばいいのだ。
 よい文章が書けないからといって、完璧な文章を書かなければならないといって、何もかけなければ、いっこうに成長などしないだろう。

 そうそう、そういった意味で、ある精神科医のブログにおいて、「大人になるためには」といった記事を読んだ。

大人になることを引き受けることが重要

 大人って、なんやねん。ということは本記事の目的ではないけれども、簡単に定義しておこう。
 大人とは、その場に適した行動をとれる人間である。

 面白くもなんともない定義である。まぁ、ひとそれぞれ、思い思いの大人に対するイメージというものがあるだろう。その個々具体的な大人イメージで、読んでもらっても大きな主旨逸脱にはならないと思う。

 その、僕が見かけた精神科医さんの記事において、「大人ってのは、なるものではなく、引き受けるものである」というのが印象に残った。

 成人式を過ぎたら大人になる?

 お酒を飲めるようになったら大人?

 お金を稼いだら大人?

 会社に入ったら大人?

 選挙に行ったら大人?

 結婚したら大人?

 子供ができたら大人?

 まーいろいろ、きっかけはあるだろう。そのどれも大人になる要素かもしれない。ただし、その人が、「大人をやろう!」という気持ちにならなければ、結局、大人になどなれないのだ、ということだ。

 大人っぽくふるまうようにしていれば、そのうち大人に近づいていくということである。大人、自然化論である。

 さて、では、僕は大人なのだろうか?


 大人的な思考や、大人的なふるまいはできる、と思っている。

 ただそれは、何も今最近できるようになったというよりかは、高校……というのは大げさかもしれないが、少なくても大学ぐらいにはできるようになっていた。
 その、大人という定義が、「自分を律する」ということであれば、の話だが。

立派な大人

 わかりやすい文章とは、そもそも、前書きとして、どんな文章なのかの概要・サマリーがあった方が良いのだという。

 しかし、先日書いた通り、僕は何も、主張をしたいというわけではない。自動筆記だ。思うがままに書いている。メモだ。
 ――ということを、いつまでも繰り返しているのは、どうにも子供っぽいだろう。ので、こっから先の話の流れを書いておこう。

 無駄とは何か。
 大人とは何か。

 それらに対しての僕の現時点の考えをメモすることで、今後の行動や、動機付けへの一助となす。



 ということで、無駄って何? ってところに、もう一度戻ってみよう。何もないところから考えることもできないので、他の人のブログなどを見て思ったことから始めよう。

 ブログには、二種類あると思う。
 他者さんのブログとか見ていると、「主張」するブログと、「メモ」するブログがある。

 例えば、「30代OLの婚活日記」とかは、後者の「メモ」するブログである。それらは、まさに黎明期のブログを彷彿させる。日記やSNSとの境界が非常にあいまいで、日々の思いやできごとを、つらつらと書いていく形式。テーマはあったり、なかったりする。
 テーマがないものが、より、mixiとかfacebookとかインスタグラムとか、そっちに近いだろう。コミュニケーションツールとしての役割が強い。
 テーマがあるものは、上にあげた、婚活日記とか、アーリーリタイアを目指すブログとか。ちなみに、僕は、おぼろげながら一応テーマはあるのでこっち側。

 主張するブログとは、テーマがより明確になったもの。政治的主張だったり、宗教的主張だったり、思想的主張だったり。または、商品の宣伝だったり、ヒーリング技術の伝達だったり、ダイエット法だったり。硬いブログ、といってもよいかもしれない。それらは、伝えたいものがはっきりしている。いわゆる、「役に立つ情報」の提供を目的にしている。(そして、その目的は、思想的フォロワーだったり、金銭であることが多い……ように思われる)

   やわらかい  <   かたい
◇テーマなしブログ < テーマありブログ
   (SNS)



 え……ものすごい話それた。無駄の話だよね。いやその、無駄って、何に対しての無駄なの? ってのを、考えとく必要があるんじゃないか? ってことを書きたかっただけなんだけど。
 しかしだ、これって、さも論理的っぽいが、詭弁の一種でもある。

「良い会社とは何か?」

 ということを友人から問われたとして、「残業が少ない会社だと思う」と答えて、

「残業が少ないからといって、良い会社とは限らない」

 と言われたら、話が進まない。

 そこで、「じゃあ、残業が少ない会社を探そう」ということになれば発展的だが、「良い会社」ということの定義について話し合ったとしても、そんなもの、答えなどでるわけはない。「無駄」な議論ということになる。


 同じように、「どうしてそう思うの?」とかいうのも、どうでもいい切り替えしである。とりあえず議論ってのは、「前提」を立てたうえで、論理的に話・事実を構築していくことが重要なのであり、途中までくみ上げてから、「そもそも、その前提ってさぁ」とか言い出すのは、詭弁でしかない。詭弁って何か? 無駄ってことだ。

話が長いし面白くないって?

 まぁ、まちたまえ。重要なことである。
 つまり、「生きる意味って何?」というのも、そもそもの「前提」を問うたものであるのだ。

 つまり、言ってしまえば、答えなどでないのである。

 いや、それは微妙にニュアンスが違う。

 共通、普遍的な答えはありえない、ということである。


 ここで、雑念というか、無駄な疑問として、「そもそも、生きる意味なんて考えられるだけ幸せなんだよ」というものがある。これは、無駄な問いである。

 とにかく、今、「生きる意味」を問うているのだ。その前提を覆すようなことを言うのは、詭弁である。
 しかし、よくある言説としては、「そもそも、生きる意味なんて考えるだけ無駄なんですよ!」というものである。なんと嘆かわしい、と僕は頭を抱える。

2011年の記事

 過去の記事なのだが、
実際、生きる意味だとかいう問いは無意味である、間違いないのだがしかしながら、こうした問いをもってしまう人間とそうでない人間がいるという違い、その違いが非常に重要なのである。
~中略~
こうした文章に価値を見いだせない人は多いのは当たり前だし、生きる意味だとかくそったれな思考が生じるのと同じぐらいに無意味である。
だが思うに、それこそ中学生のときから、安らぎは文字の中にあったようである。
あえて、という副詞は卑屈だが、理解を求めているのではない。
~中略~
僕の表現することが、一言、凡人の悩みと一喝することが社会的に有意なのだけれども、そこからこぼれ落ちるものが「ある」という認識が、2010年からの気付きであり、プラスマイナス上下は分からないが、「成長」と思う。
 何か行動をして、何らかのモノやコトを成して、人と関わり、生きる。

 これが素晴らしいことであり、価値あることなのだと、誰も疑わない。僕も疑わない。


 人間の価値は、生産することである。モノ・コト・ヒトを生み、成長させることである。
 当たり前だ。そして、その中に、楽しかったり、苦しかったり、いやだったり、うれしかったりといった、感情がある。しかしその感情もまた、単に、生産のためにあるのだ。

 人は生き、生み、育て、死ぬ。そのPDCAサイクル。終わらない輪廻。繰り返される事象。


 ああ、人間とは、世界とは、なんと美しいものなのか。素晴らしいものなのか! 神や仏や、先祖や両親に限りない感謝を! そしてこの喜びと愉悦を、後代に伝えていこうではないか! 人類は、世界は、自然は、地球は、本当に素晴らしきものなのだと!!

70%の行動と30%の思考

 上に書いたことは、胡散臭いと思われるかもしれないが、本心の一つでもある。

 いやー素晴らしき世界ですよ、ほんと。いじめはなくならないし、騙して金取ろうとする人もいるし、自殺する人もいるし、ブラック企業だってあるし、迷惑かけてばっかのやつもいるし、自分勝手でむかつくやつもいるし、犯罪や人殺しもなくならないし、民族紛争だってあるし、ミサイルで恐喝するところもあるし、いろいろあるけどね!(かっこハートとか、ホシとか、オンプとか)

 まぁ世の中、それなりにうまくいってんじゃない? 70億人もヒトいるし。(日本は2050年には1億切るらしいけどね)

 厭世的になる必要などない。一人ひとり、できることをやって、よりよい社会や世界に貢献していけばいいのだ。


 ということで、70%ぐらいの時間は、そういった思考と行動にあてている。

 だが、30%ぐらいは、どうにもその70%が胡散臭いので、こうやってブログを書いている。

 もう、こういう性格なのだと諦めたのが、1~2年前に、ブログを復活したころである。
 いやはや、2011年ぐらいに、いやもっと前から、「生きる意味」なんて考えても無駄だなんてこと、分かっていたのである。
 わかっていたのだけれども、どうにも、やっぱり「ココ」に戻ってきてしまうのである。

 何をやっても、何を考えても、やっぱり、「疑問」が生じるのである。


「考えるのが好きなんだね」

 と言われた。

「答えを出す気がないんですね」

 と言われた。

 実は、だいぶショッキングなコメントであった(かっこわらい)。
 いや、感謝でしかないのだが、よい表現が浮かばないので、テキトウな言葉で書けば、傷ついた(かっこわらい)。

 よくは覚えていないが、確か、言い訳めいた返信をしたような気がする。きっとそれって、図星つかれたからだ。

 けど。けれども、やっぱり反論したい。
 考えること自体好きとか、答えを出したくないとか、そんなことはきっと、ないんだろうと。

 だって、「答え」って、「幸せに生きる」ことじゃん? 「楽しい」ことじゃん?

 それに対して、どうして、「生きる意味」とか、面倒で、うさんくさくて、ネガティブで、つまらないようなこと考え続けなきゃいけないわけ? そんなことに大切な時間を使わなきゃいけないわけ?

 もっとお金かせいだり、人脈ひろげたり、仕事で役に立つようなことしたほうがよくない?

 当たり前だよね。

 僕もそう思うよ。

でもやっぱり無理っぽかった

 そして、そんな風に思ったのは、何も今にはじまったことではなく、2011年とか、そのあたりの記事を読んでれば、似たような感覚だったことはわかる。

 そしてその頃は、できるだけ、「イッパンノヒトタチ」になれるように頑張ったような気がする。つまり、考えないようにしよう、と。


 でも、一度このあたりに気づいてしまった人は、多分もう、逃れられないんだと思う。以前は、「呪い」なんてまがまがしい言葉で表現したこともあった。

 その疑問と、仕事か、趣味か、うまい具合に紐づけられた人は、きっと社会的にも成功しているんだと思う。そういう人がつくる作品って、きっと面白いと思う。



 ふと、思い出せば、たくさんの「悪かった」思い出がよみがえる。
 惰眠していて、いくつも見た夢のせいもあるかもしれないが、まぁ、ほかの人と比べたら大したことがないんだろうけれども、いろいろあったなぁ、と思う。

 よくまぁ、ここまで生きてきたもんだ。すごいすごい(棒読み)。

 まぁ、なんやかんや言って、あと50年ぐらいでこの世界ともおさらばだろう。
 きっと、あっという間だろう――何も考えていなければ。


 そう、あっという間だ。頭が痛いとかいって、寝ぼけてる場合じゃなかった。サイトの改修とか、仕事の勉強とか、株の勉強とか、読書とか、物語創ったり、作曲したり、そもそも、食料買いに行かないと食べるものがねぇ!(笑)

モチベーションが回復中

 と、まぁ、ここまで40分ぐらいで、7000字ぐらいか。引用も、考えてる時間もあるからなんともいえないが、1分100文字~150文字ぐらいはタイプしている気がする。

 これぐらいやっていると、ようやくやる気が回復してくるのである。

 ある意味、非常に、効率の悪い性格というか、行動特性である。
 やる気出すのに高速タイピングする必要があるというのは如何なものか。しかし、よく思い起こすと、高校のときも、なんだかすげー気分がのらないときは、紙のノートに、やっぱりこんなよくわからない、無駄なことを書き連ねていた気がする。

 そう考えると、15年ぐらい前から、こんなことを続けている、というわけか。そりゃあなかなか変えられないだろう。人はなかなか変わらないのである。


 モチベーションは回復した。

 ようやく、こっから、考えることができそうなのだが、とにかく長くなったのでここまでにしよう。



(えーっと、中身のない記事になったな、いつものことながら! 一つ、情報を抽出するとすれば、「生きる意味なんて考えても無駄」というのは、「正論」でありながら、僕の心には響かないであろうということである。ある精神科医さんの、ロゴセラピーとか、実は、「意味を問い続けても、行動と結びつかなければそれ自体に価値はない」というようなものに思えるのだけれど、頭ごなしに「生きる意味なんて考えても無駄」と言われるよりかは、伝わってくるものがある。その理由は、十分に、そのことを考えるべき必要性を分かったうえで、そこから逃れる(無限遡及的な思考のループからの脱却)方法を提示しようとしているからなのだと、思うのだけれども、まだまだ勉強が足りない部分)



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今日の一言「論理的な納得であれ感情的な納得であれ」「重要なのは行動?」

自分の血肉にするには

 私は、頭が悪い。
 これを証明することについては、枚挙にいとまがない。知識、推論力、身体的能力、様々な分野における欠乏。そして何より、頭の良い人は、昨日のような長い文章は書かない!

 止めどなく溢れ出る思考や感情といったものを抑え込むにはどうしたらよいのだろうか?

 それは、納得することである。ああ、僕は書ききった。すべて完全に証明できた。そんな風に思えたとき、思考は取り敢えずの休息を取るのである。

定理1:思考を止めるためには納得することである


 しかし、最近の方針、すなわち生きる意味を考える(=自分を知る)ことで大事なのは、思考を排して、自己の感覚感情を素直に感じることである(=実感)。

定理2:実感を得ることが重要である


 ここで、定理1と定理2が真(正しい)としてみる。
 条件を抽出してみれば、「思考を止める」ことと、「実感を得ること」が同時に成り立たなければいけない。これは、成り立ちそうだ。
 しかし、定理1の二つ目の条件、「納得すること」と「実感を得ること」はどうだろうか?

 これも……成り立ちそうだ。しかし、違和感がここから生じる。納得することと、実感を得ることというのは、同値なのだろうか? この違和感は、「納得」という語に、僕は、どうやら、「妥協」という形容を含ませている可能性に起因しそうである。


 心底、本当に、疑いなく完全に納得すること。これは、実感といってよいだろう。
 しかし、「納得」という言葉を用いたとき、僕は、所与の条件下においては正しい、という意味で用いている気がする。
 論理的な推論によって、疑いえないもの、それが「納得」である。
 対して、「実感」とは、根拠は明確にできないが、とにかく疑い得ないものである。

実感を得るには

 思考を止めるという目的を果たすためには、「納得」と「実感」が重要であることが分かった。
(納得と実感の違いはともかく、その両者が成り立てば、思考は不要になるからだ)

 納得するには、現在おかれている状況(所与の条件)を明らかにしていけばよい。そのうえでの判断をすれば、納得ができる。

 一方、実感を得るにはどうしたらよいのだろうか?


 何らかの経験をする必要がある。
 それは、アニメーションを見る、人と関わる、本を読む、仕事をする、遊ぶ、運動をする、など。何か行動をする必要がある。

 行動の結果のフィードバック、それが「実感」である。

 ということは、僕が非常に恐れている結論が迫っていることに気づく。

思考を止めるには

 実感が大事。
 その結論から導けることは、すなわち、思考を挟むまでなく、継続して経験(体験)をすること、つまり、行動をし続けることである。

 そりゃそうだ。

 うだうだ考えている時間があったら、何からの行動をした方がよい。当たり前、真理だ。



 しかし、ここでは、もう少し実践的に、踏み込んで、その行動や思考というものを考えていきたい。

 つまり、……これは先日どこかで書いたことだと思うが、思考がゼロということはあり得ないのである。
「深く考えていない」という事態はあるかもしれない。しかし、まったく無心の状態で何らかの行動ができるだろうか。朝起きて歯を磨くとか、そうした自動的な行動は、ここでは除外してもよい。ある程度、高度な行動をするとき、それは勉強でも仕事でも、友人との会話・おしゃべりでもいいけれども、そうした行動をとるときに、思考が何もないというのはあり得るだろうか。

 これゆえに、僕は、「うだうだ考えているよりは、行動しなよ!」というアドバイスをズタズタに切り裂いて唾棄したい。おめーらさ、「行動」って何だか具体性を考えてから言えよ。所詮、先日僕が挙げたような、

・彼女をつくる努力をする
・お金をさらに稼ぐ努力をする
・新しいコミュニティに参加する(サークル・趣味……英会話やスポーツクラブ等)
・趣味の技術を高める
・身体を鍛える
・仕事に打ち込む
・転職する
・会社を興す
・ボランティア活動をする
・ユウチューバーになる
生きる意味を徹底して考える2017/5/3

 といったものだろう。
 ユウチューバーはともかく、それらのいくつかにかかる行動はしているのである。何もせずにうじうじしているわけではない。というよりも、そんな、何もせずにうじうじできる人などそうそういない。引きこもりの人だって、ネットで怨念を吐き散らしているかもしれない。それだって十分行動である。

良い行動

 しかし、「行動しなよ!」とアドバイスする人も、そんな思考が足りないわけでもないだろう。もちろん、その「行動」という言葉には、「良い行動」という含意がある。
 その人にとって有意義な、役に立つ、意味のある、そんな行動を想定しているのである。

 よし、じゃあ、いっちょ行動してやりますか!

 だが、何を?

 なんだろう、それは、君が良いと思うことを、好きだと思うことを精一杯やったらいいんだよ!

 分かった! ありがとう!!


 茶番だ。つまり、その正しい、良い行動というのは、個々その人それぞれにおいて選び取っていくものである。
 そしてそれは、もう最後まで書く必要もなかろうが、結局「思考」の必要性に巻き戻っているのである。



 同時に、僕も分かっている。
 生きているから生きているんだ。だから何? 意味? なんでそんなこと考えるの? と。

 そう言い切れる人が強い。正しい。これは「納得」している。

 だが、「実感」ではない。


 どうにも、こうにも、そう言い切れないのである。
 このズレ。この感覚のズレが、それは僅かで、殆ど意識もされないことであるのだけれども、他者とのコミュニケーションの際に、少しずつ澱のように積み重なっていき、関係が深まるにつれて決定的な裂け目となるのである。

 このことは、あまり口にも出さないし、書かないように、無意識に制御してきた気がする。
 しかし、最近、(現実方面の)身の回りのコミュニケーションにおいて、親しい人が増えてきたため、注意喚起を含めて書いておきたかった。

 つまり、仲良くなればなるほど、僕は嬉しくなってしまうのだ。
 そうすると、僕は、相手に、分かってくれているという幻想を抱く。いやそれが、幻想でなければ全然問題ないのであるが、ここは、特にここ1年ほど前に強く実感したのであるが、マイナス思考やネガティブ思考な人も、僕のトートロジーになれない実感を、理解できているわけではないということだ。

愚痴を言う人の本音

 ああ、つまらない。
 生きている意味がない。
 面白くない、死にたい。
 むかつく、いらつく。


 そういった、いわゆる愚痴というやつ。僕は、ネガティブな人を嫌いではない。(同時に、何度も書いているように、僕自身は、実のところ非常に(反転した)ポジティブ思考なのだけれども)

 だから、そういう感情への共感性も高いから、数は多くはないけれど、そういう人と仲良くなることはある。
 でも、仲良くなって深まっていくにつれて、「ズレ」があることに気づく、こともあれば、ついつい嬉しくなって気づかないこともある。

 そのズレってのは、生きることの自明視である。

 ネガティブなことを言う人だからと言って、――いやむしろ、そんな人はよりその傾向が強そうだが――たぶん、僕の書いてきた記事を読むと、圧倒されて、言葉を失い、僕のことを気持ち悪いと思うだろう。

 気づくべきは、愚痴を言う人は、「愚痴を言ってすっきりしたい」のである。



 いやもちろん、僕も、「イライラ対処」とか言って、完全愚痴を書き連ねている場合がある。
 でも、それはどっちかというと、一時的な対処であって、本来の目的は、(僕自身の)生きる意味を徹底して明らかにすることである。(キリッ)

 とかって言うと、ものすごく引かれる可能性が高いので、気を付けようという記事であった。


EDENのセシィの死

 唐突に話が変わる。僕が高校ぐらいかなぁ、に、友人に紹介されて衝撃を受けた作品、遠藤浩輝さんの「EDEN~It's an endless world!~」という作品があるのだけれども、
マヌエラさんはヘロインさえ絡まなければセシィをまっとうに愛していたようにしか読めないのだが、なぜ肘パカ刃物女を使う必要があったのかさっぱりなのだ。亡命するために娘を囮に使った、まではわかる。だが、それならそれだけで良かったはずである。肘パカなぞ雇う必要はまったくなかったように思える。そのまま娘は放置して亡命すれば良かったのではないか。なぜそこでセシィを積極的に害する必要があったのか、コレガワカラナイ。

 と、感想を書いて頂いた方がいらっしゃったので、少し考えてみたい。

 といっても、「何故セシィが死ぬ必要があったのか」ということは、特に何も考えていなかった。
 確かに、非常にショッキングなシーンであったけれども、まさか、彼女がここで死んでしまうなんて思ってもみなかったけれども、でも、単なる事故死みたいなもんだろうとしか思わなかった。

 結論。特に、意味は無い。

 いや駄目だ、彼の方は、「確かに、現実は無常で無意味な死なんて仰山ある。だが、物語とは、そうであってはならない。主要な人物については、外連味でもいい、強い意味をもたせなければならない」と仰っている。のであれば、そんな、無意味で片づけることはできないだろう。

 ただ、やはり、セシィが死んでしまったのは、肘パカサイボーグが彼女を殺したのは、特に然程の意味はなかろう。肘パカサイボーグは、殺しを愉しむ残忍な奴だという設定はあったし、マヌエラを連れ出す際に警備員や治療施設の患者などを殺害する手口について、「これは外部の犯行だ(マヌエラの彼氏のペドロの手口ではない)」と言われていたほどである。

 さらに、マヌエラは、確かに表面的には子供をまっとうに愛しているようにも見えなくもなかった。治療施設で楽しそうにセシィとテニス(バトミントン?)を行う姿はほほえましい。だが、マヌエラは、過去に、薬欲しさに子供(セシィとは別)を売り飛ばすような前歴もある。そして、実の子のセシィもまた、母が自分のことをそれほど愛していないということに薄々気づいている。

 セシィをさらって、どうするつもりだったのか?
 という疑問については、大方、スナッフムービー専門の人さらいにでも売り飛ばしたのではなかろうか。もしくは、肘パカさんの報酬の一部だったとか。


 ただし。セシィの死自体に意味はなくても、物語としては、その死は必然だったようにも思える。
 主人公のエリヤくんは、最終的に、黒幕のペドロさんの弟と、マヌエラさんとを狙撃し殺害する。愛した弟と彼女(マヌエラ)を失ったペドロは絶望し自殺を図るわけだが、果たして、エリヤは、セシィの死を聞かなかったら、マヌエラの頭を撃ちぬいただろうか?
 おそらく、マヌエラまで殺すことはなかったろう。例え、本当に娘を愛していなかったとしても、セシィにとって、マヌエラは唯一の肉親、母親なのである。エリヤの目的は、内務省の思惑のため、ペドロの弟の機密情報の流出阻止(及びペドロにツケを支払わせる)ことだったので、マヌエラまで殺す必要はなかった。だが、結果的に、愛しい女と弟を殺し、絶望のうちに自殺させるという、(虚しい)復讐を果たしたのである。

 セシィの死には意味は無かった。しかし、物語の進展には、大きく影響した出来事であったのだ。



 ネタバレになるからこれ以上は書かないけれども、この作品、その「無意味な死」というのがテーマそのものであるようにも、僕は勝手に思っている。
 作者自身(※)、「連載を続けている途中で、何が書きたいか分からなくなったときもあった」と仰っていることもあったので、実際どうなのかは分からないけれども、個体としての死は無意味でも、大きな物語としては意味があったりする……でもそんなの詭弁だ! 俺は(私は)死ぬのなんてまっぴらだ! と。
 じゃあどうすりゃいいんだ、と。そんな風に物語は進んでいく気がする。たぶん。そして、一応、前にどっかで書いた気がするけれども、「それでも人は生きていく」的なエンディングではあるのだけれども、その「無意味な死」というのに対して、ある程度の「回答」は描かれているので、この作品は、僕の書棚に今も置いてあるのである。(アイアムアヒーロー、お前は、次の整理対象だ!!)


※そうそう、実は、コミック表紙の裏の折り返し部分には、毎回、作者のコラムが載っていて、それが非常に面白いのである。僕のブログのべらんめぇ調は、結構それに影響を受けている気もする。キンドル版では、そのコラムは読めるのだろうか……?


(なんか、まだ書き足りない。しかし、でかける予定があるのでここまで。来週もまた、平日は殆ど時間が取れなそうだ。気が重い。やはり平日のどっかしらで整理する時間がないと、気がめいっていく気がする)

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今日の一言「グレーゾーンとしての生き方とは」「積極肯定には物語が必要不可欠」

考えるということ

 先日、仏教の唯識派の思想、八識について紹介した。僕らの心のはたらきについて、五感と、自己執着心である末那識(まなしき)、根源心である阿頼耶識(あらやしき)に分けて捉える考え方である。

 ところで、その考えるというのは、心のはたらきの一つ、「意識」である。
 意識とは、何か物事(モノ・コト)に対して心を向けること(=注目すること)である。
 この意味においては、考えないで生きている人は殆どいない。五感によるフィードバックがあったとき、ほぼ反射的に、何らかの「意識」が生じるはずだ。

 例えば、恋人をつくる方法だとか、お金を稼ぐ方法だとか、幸せになる方法だとか、生活するために必要なことを僕たちは考えて生きている。



 では、その、「考えること」について考えるということは可能なのだろうか?

 考えるというのは、その「状態」を指すのであり、具体的、固有の「モノ・コト」があるのではない。言い換えれば、「関係」という言葉であらわしてもよい。
 しかしこれは難しい思考を余儀なくされる。関係について考えたとき、その関係に関係する何かを想定する必要がある。さらに、最初の関係に関係するものについて関係するものについて……と、無限に思考が止まらなくなるのである。

 この無限遡及の原因は、その「関係」という語だったり、状態という語であったり、「考える」という言葉であってもよいが、それが、実際に中身をもたない、「言葉としての言葉」であるからだ。

 自らの手を見てみる。それは存在する。疑いようがない。
 しかし、「自分」というものを考えてみる。果て? 自分とは何か? どこからどこまでが自分なのか? この身体全部? では、身体から分泌される液体は自分なのか? そもそも「全部」という表現をしたとき、既に、「関係」という思考を避けることはできなくなっている。
 身体が総体として「自分」なのだとしたら、自分のパーツを分割していっても、それは自分にはなりえない。せいぜい、細胞や、ミトコンドリアやDNAが見いだされるぐらいである。そのDNAだって、広い意味ではタンパク質、有機物であり、分子であり、原子であり、電子であり中性子であり、クォークであり……。



 答えは、その定義(モノ・コトの次元)の中においてしか存在しない。

中二病からの成長過程について

 話を少し身近なことに戻してみよう。

 まず、生まれた直後、僕らに殆ど「思考」などなかったはずだ。
 それが徐々に、他者(特に両親)との関係において、自分の存在を認識し始める。ただ、この時点ではまだ、自分と他者(世界)との明確な境界を認識できているわけではない。

 そして次に、「他者」の存在自体を認識する。他者についても、自分と同じように「心」をもつということが何となく意識し始められる。
 その時期における他者との葛藤(コンフリクト)が、青春時代と呼ばれたりする。甘酸っぱい思い出が多数ある人も多いだろう。そうした経験によって、僕らは、自分と他者との付き合い方を学んでいく。


 そして、「大人」になる。大人とは、他者の存在を、「心」ある存在であると認め、かつそれでいて、自分の認識(価値観)も確立した存在である。
 例えば、ある作品に対して、自分はこう思っても、他者は違うと思うような場合を認めることができる、そんな存在が大人である。だから、ある要素を良いと思う人がいれば、その要素を許せないと思う人がいるだとか、「人それぞれである」というのは、当たり前のことである。

 そんな当たり前のことを、時折僕らは、「感情」という状態をもっているので、忘れてしまう。どうしても、自分の感じたことを「正しい」と信じたくなってしまう。その原因が、自己執着心(末那識)であったりする。

 だから、できるだけ多くの、おおらかな心をもって、他者を認め、迷惑をかけないように、大人な対応ができるように、スマートになりましょう、と言われる。
 たいていは、この次元において、社会は上手くいっている。こういう人が多くなると、世界はより良い方向にいくだろうし、周りにそういう人が多いと、幸せな生活を送れるだろう。



 そこまでは分かっているし、僕自身も、そういう状況を経験することができた。(※)


 今は、次の段階を目指している。
 次の段階とは何か?



※そういう状況:すなわち、「幸せな生活」というやつである。「俺は一生人から愛されないんだ」という絶望を抱いていた時に、「努力することで」初めて彼女ができて、「ああ、愛って、好きな人と好きでいられるというのは何て素晴らしいことなんだ」と思った。そのあと、別れたり、結婚したり、離婚したりしたが、「ああ、生きているということは素晴らしいことなんだな」と思うことができている。
 しかし問題は、これらが、「意識」して、その結果を思考し、行動して得たものであるということだ。これは、昔の自分に対して、「よく頑張ったね!」と褒めてあげるだけでよいのだが、僕はそう思えない部分がある。その理由はうまく説明できないが、ポイントは、「実感」という奴だと最近思っている。「こうしたい」という強い思い。欲求・欲望。それに従った行動と、その結果は、ある意味、「偶然性」「運命性」により、「信仰」が生じる。どちらかというと、僕はその「実感」というか、欲求・欲望を「思考」によって解釈してしまっていた。
 本当に得たいと思っていたのは、果たして、友人たちからの賞賛だったのか、彼女がいるというステータスだったのか、それとも……?

思考・生き方としての次の段階

 様々な選択ができる状態である。

 好きな生き方ができる状態である。これを幸せと呼ばずして、なんと呼べばいいのか。

 ある意味、求めていた状態に到達したのである。何せ僕は、昔から、「幸せになりたい」と思っていたはずだから。

 が、その「幸せ」という中身については、思考が足りていなかった。
 そして、その思考を深めていくにつれて分かったことは、その「幸せ」という言葉もまた、「関係」とか「思考」とか、そうした「中身のない言葉」に過ぎないということであった。


 だから、僕は今、とても強く、「物語」を欲している。

 それは二次元に拘らない。ブログを更新チェッカーで集めて徘徊しているのもその一つだ。本を読むのもその一つだ。

 それは、知識を欲してのものではない。物語……それは、生き方をみたいからだ。


 と、本気で考え、思うと、同時に、焦燥感にかられる。お前、30歳過ぎて、いつまでそんなこと言ってるんじゃ、と。

 たいていの人は、生涯費やす仕事があって、伴侶がいて、子供がいて、日々の生活に全力を傾けているのではないだろうか?
 今更、自分の生きざまに疑問を抱くような人はいないのではないだろうか?



 ぶっちゃけ、そういう人もいるが、そうじゃない人もいる。色々ブログを拝見していると、読み取れる。
 僕は、その読み取れることによって、「ああ、まだ大丈夫なんかなぁ」と、いっときの安心感を得ているだけなのだろう。なんとも言い難いあほの所業である。そんな時間などないはずなのに。



 けれども、確信していることは一つある。

 例えば、高名な精神科医でも、メンタリストでも、偉い人でも、師匠でも、何でもよいが、その尊敬すべき方に対して、「先生! 僕の生きる意味って何ですか!」と問うことが、なんとも的外れで、愚かしい行為であるかは明らかであろう。

 結局、この問題は、自ずから考え、答えを出して、行動していくしかないのである。
 その考えることにおいて、「考えること」を捨て去るべきという答えになる可能性も、もちろん含めておいて。


 だから、逃げるわけにはいかないのである。いくら中二病だとか、モラトリアムだとか、精神年齢が低いと罵られようが、「実感」レベルがそうなのだから、仕方がないのである。(※)

※そのことについて、「悩んでいる人」がいたら、そういう人に、少しでも、「考えることからは逃げられない」だから、「諦めて考えねばならない」ことを、そして、その「考えること」の方針や、要素、きっかけを与えられたらと、僕はこうして公開を前提として書いている。

思考することの意味について

 この記事の結論は、もうお分かりのとおり、

1.思考は、五感からのインプットによりほぼ自動的に意識され生じる
 ⇒だから、その次元においては、思考すること自体の意味は無い。

2.次に、思考は、何か生活するための方法を生み出すために行われる
 ⇒だから、ある次元においての答えを導くという意味がある。

3.しかし、「思考」は状態であり、関係であるがゆえに、その思考自体の意味を考えることはできない
 ⇒思考することを思考するというのは、無限遡及になり、中身のない言葉にならざるを得ない。すなわち、思考は、それをせざるを得ない、緊急性や必要性にそもそも迫られた状態で生じるものである。だから、思考することの意味は、反転してその思考自体には決して見いだされないのである

4.3.までが、通常生活レベルの思考であるが、その次元をさらに深めていったときに、「生きる意味」に到達することがある。しかしそれは、思考を思考するのと同じくらい困難である
 ⇒だから、それを包括する、さらに高次の次元(次の段階)を考える必要がある


 というものである。

「ふーん。君がそう思うならそうなんだろうね」

 と言われてはき捨てられる程度の結論である、が、これは実感レベルのものであり、無視するわけにはいかない(僕にとって)。

「なにうじうじ言ってんの? 単に新しいことをするのが怖いだけでしょ? 引きこもり非リア充乙」

 と言われるだろし、そういった感想を抱く方々に特に期待もしていない。
 そんなことを言ってる暇があれば、その代替案の提示を要求したい。

・彼女をつくる努力をする
・お金をさらに稼ぐ努力をする
・新しいコミュニティに参加する(サークル・趣味……英会話やスポーツクラブ等)
・趣味の技術を高める
・身体を鍛える
・仕事に打ち込む
・転職する
・会社を興す
・ボランティア活動をする
・ユウチューバーになる


 まぁ、いろんな選択肢があるだろうと思う。

 ただ、ここまで書いてきたことの流れから分かると思うが、問題は、その、無限に広がる選択肢から、「僕が」どれを選ぶのか、ということである。

 今までは、若いうちはよかった。とりあえず「おとな」と呼ばれる人たちが「良い」ということに従順にしたがった。就職することがよいこと。友人をつくることがよいこと。彼女をつくることがよいこと。部活動をするのがよいこと。遊ぶことがよいこと。徹夜でカラオケするのがよいこと。お金を使うことがよいこと。人に感謝することがよいこと。仕事をすることがよいこと。


 いっぱいあるだろう。

 しかしそれは、「実感レベル」のものではなかった(とまで書ききることは当然無理なのだけれども、表現としてはそういうこと=自分の選択ではなかった)。

 だから、これからは、本当に、「自分の選択」、自分の生き方に責任をもとう(因果を引き受けよう)ということなのである。

 だから、「考えている」のである。

 ので、
「なにうじうじ言ってんの? 単に新しいことをするのが怖いだけでしょ? 引きこもり非リア充乙」
 という批判は、まったく的外れなのである。

 別に、婚活して、自分の低スペックのせいで馬鹿にされたり嫌な思いをすることを恐れているわけではないのである。(いやもちろん、きっと落ち込むことは間違いないが(かっこわらい))
 仕事を頑張って、結果失敗してまた色々いじめられることを恐れているわけではないのである。(いやもちろん、そんなこと嫌なんだけどね。しかし、運命的に避けられない事態ってのはある。寡兵で戦闘に臨んで、劇的な戦果を収めたとしても、少なからずの被害はあるのである。その被害の一人が自分なのかもしれない。だが、そんなことを考えても無意味である)


 その先に何があるのか? ということを問うているのである。



 んで、「その先」って奴が、どうにも、「無」なんじゃあないかなぁと思ったりもする。

 それならそれでもいい。一生、「てきとー」に生きていくってのもありである。早いところ幕引きをするならそれもそれでいい。でも、どちらかというと、人生に生きる意味を問うというよりも、人生から「お前はどう生きる?」と問われているとしたら、そもそも、「死ぬ」ことが前提とされていない、期待されていないということだ。であれば、ずっとその問いに答え続けていくのも悪くないだろう。

まとめ

 今回の記事は、抽象的になったので、あんまり面白くないと思う。
 ただ、まぁ、今後においても大事な部分ではあると思う。

 注目しておくべきは、とりあえず現段階で、僕は、「多様な価値観を認める」という、当たり前のことについては理解している、ということである。

 そのうえで、何を選ぶか? ということを問題視しているのだ。これは、「実存問題」である。「実存」というキーワードで検索すれば、他にもこれらを述べている記事は見つかりそうだが、取りあえず、改めて確認である。


 そして、もう少し、恥ずかしいことこの上ないが、自分の思考レベルを余すことなく表現できるようにしておきたい。
 今年、2017年は整理の年である。

 思っていても、うまく表現できないということは、なくするようにしたい。
 その表現が、他者に伝わろうが伝わらないが、そこまでのクオリティは求めない。ただ、しばらくたった後の自分が読んでもわかるレベルにはしておきたい。そうすれば、たぶん、70億人がいれば、数人にはきっと伝わるレベルにはなっているはずだ。


 端的に言えば、僕の悩み・思考って奴は、きっと中学生レベルなんだろうけれども、仕方があるまい。恥ずかしいけれども、それを認めて、ちゃんとアウトプットできるようにする必要がある。かっこつけて、さも人生分かってます、的な表現をしていたら、いつまでたっても、「実存的空虚感」から逃れられまい。



 自分が悪いことこの上ないが、僕のこの思考について、よく理解してくれて、そのうえで「こんな生き方があるよ」と、もっと昔から導いてくれる人がいたらどんだけよかったかと思う。
 そういう意味で、もっと他者に頼るってことを覚えられたらよかったなぁと、その部分は後悔である。

 30代が中学生レベルの思考を抱いているというのは恥ずかしいことこの上ないが、逆に言えば、中学生の人たちには、ちょっとは役に立つ記事群なんじゃなかろうか。


(人生質問コーナーみたくしてみたい。けど、そういうのの、何かしたり顔で上から目線の「アドバイス」みたいなの読んでると気分が悪くなっていく)

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今日の一言「つり革広告で生きる意味なんて読むと途端にうさん臭さを思う」「きっと初見の人には同じように思われているだろう」

※(追記)この記事は、思った以上にダークになったので、明るい記事(ハッピーエンド)を期待される方は読まれないほうが良いと思われます。

阿頼耶識について

『空の境界』という小説がある。ここに登場するボス級の登場人物が「あらやそうげん」と言って、その名前に秘めたる根源の意味が物語のキーワードになっていたりする。

『鉄血のオルフェンズ』というアニメーションがある。ガンダムフレームという人型戦闘兵器に乗る子供たちには、脊髄からナノマシンを埋め込む手術が行われる。その手術では、首の後ろ下側に接続端子を埋め込み、それとガンダムフレームとを繋げることで、空間認識力などを飛躍的に向上させ操縦性能を格段に高めることができる。これを、阿頼耶識システムと呼ぶ。

 ご存知の方も多いと思われるが、この阿頼耶識というのは、大乗仏教の唯識派(瑜伽行唯識派(ゆがぎょうゆいしきは)において提唱された、8つの「識」の一つである。



 識とは、見分けること、識別することという意味で考えてよいが、特に「心のはたらき」としてイメージされるとよい。

八識

1.見ること(眼)
2.聞くこと(耳)
3.かぐこと(鼻)
4.味うこと(舌)
5.感ずこと(身)
6.思うこと(意)

 このいわゆる五感と、思考の一つを足したもの。これが心のはたらきの表層部分である。

 この表層の根源となる心のはたらきが、「末那識」と「阿頼耶識」であり、この二つを足して、唯識派は八識というのである。

末那識と阿頼耶識

 末那識というのは、自我、執着心のことである。
 阿頼耶識は、その他の識のすべての根源となる心のはたらきである。

 阿頼耶識は、辞書的やネットで調べると、「無意識のようなもの」という表現が見受けられるが、単なる無意識という意味ではない。
 僕らの心のはたらきは、すべて、この阿頼耶識によって生み出され、形成され、表出しているということである。しかもこれは、心という境界をも否定される。個性なるものを僕らは追い求めがちだが、そもそも、自分というものは、末那識の執着が作り出した表象(現象)であり、その末那識もまた、阿頼耶識によって表象したものであるのだ。

存在するということ

 上の、八識という考えはとても面白いと思うが、唯識派の考えを理解する上でのポイントは、心理学や解剖学のように、人の心を分割していって定義づけしようとしているのではないということだ。

 生命とは何か?

 という問いはそれ自体とても面白いものだと思う。「生物は分けても分からない」という本があったけれども、自己増殖するという定義であれば、宿主がいなければ増殖できない(細胞をもたない)ウイルスは生命といえるのか、など。

「空」(くう)の思想の中観派もそうであるし、瑜伽行唯識派もそうであるが、自己を含めて、世界は、縁起(僕の言葉で言い換えれば、様々な条件が折り重なって成り立っているもの)であるということだ。

 唯一不変の存在は、存在しない。それはただ、言葉のうえだけで思考可能な幻のようなものである。アキレスと亀とか、飛んでる矢のパラドックスは有名だけれども、世界(僕ら自身を含めた存在全般)を、言葉で完璧に表すことができるということが、そもそもの誤謬(誤った認識)であったわけである。

 ある意味、ヤンキー的に、「うっせ、よくわかんねーよ。飛んでるんだから飛んでるんだろ?」というのが、人間的態度として正しいということである。


 ではすぐさま言いたくなる。思考するということは無意味なことなのか? と。


 無意味でもあり、有意味でもある。
 無意味でなく、有意味である。
 あるものは無意味であり、あるものは有意味である。
 いかなるものも無意味でなく、いかなるものも有意味でない。

 よくわからなくなってくる。うっせーよ、難しいこと言ってんじゃねーよ、ばーかばーか。

思考の先にあるもの

 先日、明るい記事を書いたけれども、もっと明るい記事を書けば、僕は今、特に悩みなど無いのである。
 その状態を、「幸せ」と表現するのであれば、僕はもはや悟りの境地ともいえるほど幸せである。

 もちろん、日々の雑多な問題や課題は存在する。それらに思い煩う時間と、解放されている時間の長短によって幸せを測るとすれば、微妙なところだろうと思う。
 もっと言えば、身体的問題。何故僕はイケメンに生まれてこなかったのだろうか。イケメンであれば、同じことを発言したって、同じ行為をとったって、今以上に他者の評価は高かったはずだ。
 身長がもっと高くて、スポーツ万能で、筋肉むっきむきなら、いじめられることだってなかっただろう。
 頭がよかったら、仕事で失敗をして、全部てめーのせいだ、責任とれ! とか言われることもなかっただろう。


 悩もうと思えば、いくらでも問題課題は存在する。

 けれども、その次元の問題等については、もはやあまり興味がわかないのである。
 その「問題」というのは、「幸せ」ということについても同様である。


 そもそも、先ほど僕は、今現状は、さいっこうに幸せな状況だ、と書いた。先日の明るい記事でも同様のことを書いたと思う。


相対言語

 けれども、その「幸せ」という語について思い考えるとき、僕らは同時に、「不幸」という状態を想定しているのである。
 これを、僕が勝手に定義しているのであるが、「相対言語」という。たぶん、言語学の分野とかでも、ちゃんとした研究がされてるんじゃなかろうかと思うが、何分素人でよく分からない。ただ、美しい・醜い、きれいだ・汚い、多い・少ないとか、僕らはたびたび、何でも、そうした比較をして物事を考えている。


概念理解

 一方で、絶対的な言語というものも存在する。それは「概念」である。
 では概念とは何か。個別事象を抽象化した「名詞」である。

 名詞とは何か。名前である。モノ・コトである。

 では、絶対、不変、不朽、普遍のモノ・コトというのは存在するのか? 存在するとすれば、それが絶対的な概念=真理ということになる。

諸行無常・諸法無我

 でも、名詞であっても、絶対的なモノ・コトというのは、存在しないと僕は思っている。

 これについては、いろんな批判があるだろうけれども、現時点の僕の「実感」である。この実感というのは、「信念(思考の統一的傾向)」と「感情」の総体のことである。



 このことについて、「何でそう思うのか」という記事をかくのは結構楽しいだろうけれども、今回の記事の目的としては、話を先に進めてみたい。


 というわけで、仮に、世の中は空(くう)とか、絶対的なものなんて存在しない的なものであるとしてみよう。

 そうしたときに、その実感が強まったときに、果たして、僕は、いや人は、本当に生きることが正しいといえるのか?



 よく訪問させて頂いているブログを書かれている方は、自己紹介のようなコメントにおいて、「何で生きているのか日々考えています。最近は、早く死んでしまったほうがいいのではないかと思ってきました」と述べられていた。

 この感覚。
 これが、彼女にふられたとか、離婚届けを突き付けられたとか、上司からいびられたとか、親友や大切な人と死別したとか、お金がないとか、その他さまざまな悲しく辛い事象においてそう思うというのであれば、僕はひたすら、「がんばってください! 生きていれば必ずいいことだってありますよ!」と励まし続けるだろう。


 しかし、これが、キルケゴールさんが言うような「絶望」に属している発言なのだとしたら、僕はかけてあげられる言葉がない。むしろ、僕自身がそれに対しての対処を教えてほしいぐらいであるのだ。


「僕らは、所与の条件において、精一杯がんばって、浮き沈みはありながらも、それを繰り返しながら生きていく。
 つらいこと、かなしいこと。たのしいこと、うれしいこと。それを繰り返して、泣いて、笑って、生きていく。なんと素晴らしいことか。美しいことか」


 と、思っていられるうちは良い。というか、僕は今はそう思っている。
 と、同時に。

「だからなんだっつーんだ?」

 という、悪魔の囁きも聞こえてくるのである。
 無気力とか、倦怠感とか、そういうのとは違う、何かとてつもなく邪悪なもの。

 いや違う。その「悪」という概念すら否定し相対化してしまいそうな、すべてを覆いつくさんとする……それは、なんと表現すればよいのか。例えるなら、「無」。

結論を急ぐ必要はない

 この感覚をこじらせると、若者の自殺みたいになるんじゃあなかろうかと、勝手に思う。北村透谷さんとか、若きウェルテルくんとか、あ、そりゃ違うのかな。

 僕は、こう、考えている方が少し落ち着く感じはするのだけれど、このことを、いつだったかコメントで、「君は、考えることが好きで、結論を出そうとはしないよね」と言われるのであろう。

 好き、なんだろうなぁ。
 ただ、決して、結論を求めたくないわけではない、いや、そう思いたいだけなのか。



 
 もしかすると、その「実感」をもった「結論」ってのが、実はもうすでに出ていて、それが、生存欲求的なのと相対するから、複雑な内面構造として、反駁しているのかもしれない。
 端的に書けば、「死んだほうが良い」という結論に実感上なっているけれども、「いやいや、死にたくないし!」という感情が、その結論をとどめているのではないかということ。
 そのアンチノミー状態が、特に結論を求めない、こうした、よくわからない記事を量産している理由なのではないかということである。


 とかって、ほんと、よくこんな中二病満載な記事を書けるものだ。
 ほんとに自殺するときはちゃんと消しておかねばなるまい。


(次回は、無垢と純粋性と無についてや、もっと認識や「わかる」ということについて整理したい)

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