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離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
カテゴリー「思考及び書くこと」の記事一覧
今日の一言「なんだか久々な気がする」「過去の記事を読むと最近のことのようだ」

敢えて何もしない日をつくる

 何かを求めて、何かをしなければと焦燥にかられる毎日である。休日であっても、何かを充実させなければならないという強迫観念が生じる。やめよう。

 自由とは何か、責任とは何か。お金を稼ぐとは何か、生きるとは何か。そういった問いはわきに置いておこう。完全に捨て去るのではない、ちょっとばかり、保留にするのである。



 最近ふと思うのだけれども、「冒頭」が大事だと思う。面白い物語というのは、これからどういった展開がまっているのか、最初に期待させてくれるものだ。もちろん、優れた作者・創作者の作品は、序盤がふつーでも、これまでの経験から後半にきっと楽しませてくれるだろうという信仰があるがゆえに、読み進めることができる。(しかし、村上春樹さんの1Q84は、50ページぐらいで投げ出した。前編後編まとめて新品で買ったのに、そのまま中古本屋いきとなった珍しいパターンだ。その後、レビューとかあらすじとか紹介しているのを見ると、後半は結構面白そうな気もしたけれども、また買って読もうとは思えない)

 本当に心の底までしみ込んでくるような作品というのは、小説媒体が多いと思う。しかし、小説というのは、頭を使うし、その、「読む」という行為を行うだけの環境整備が必要になる。ページをめくる腕や指は、その読むという作業に特化する必要がある。簡単な言葉で表現するなら、小説媒体はコストがかかるのだ。
 一方で、映像作品(映画・アニメ)は、食事中でも見ることができる。視聴コストが低いのである。(漫画は、その中間か)

オルフェンズ

 ガンダムシリーズは、初代の総集編映画を見てから、二作目となるが、鉄血のオルフェンズをみている。これは、あるエンターテイナーが面白いレビューというか感想を書かれているから興味をもったわけであるが、多分、そうした紹介を目にしなければ、一生見ることはなかったように思える。多分、対面コミュニケーションで、友人から薦められても、食指が動かなかったろうと思う。
 実際、序盤、1話~5話? あたりは、そんなに引き込まれてはいなかった。ただ、中盤以降に描かれるという主人公のダークさ、「ま、いっか、こいつは殺してもいい奴だから」という台詞のシーン(※)みたさに、流しで見ていった。
 そうこうしているうちに、だんだん引き込まれていった。主人公の一団が、テイワーズというマフィア的な企業と提携することになり、義兄弟の契りを結ぶシーンとか、楽しかった。
 現在、オープニングテーマが変わる話数まで視聴完了したが、一期については、最後までみようという意思が強くなっている。


※噂で聞くのと、実際に自分で見るのとは、やはり印象が異なっている。まさか、こんなにもさらっと描かれる(OP前の)シーンだったとは。前知識なく自分一人で観ていたら、気にもとめないシーンだったかもしれない。けれども確かに、主人公の葛藤を描く重要なシーンの一つであることは疑い得ない。
 それ以外にも、ヒロインの唇をあまり深く考えず奪ったあたりで手が震えていたり、農園をひらきたいと夢を語るところとか、文字の勉強をするところとか、幼馴染のオルガくんと、同じ「我」という文字があるところにちょっと嬉しそうにしたりとか、子どもらしい可愛いところがある。それと反して、敵は容赦なく殺しちゃうところが、こうして思い返すと、ダーク系主人公としていい感じだなぁ。
 しかし、序盤、あまりのめり込めなかった理由は、ヒロインの二人に魅力が感じられなかったところだ。なんだろう、10年前ぐらいだったら、ときめいていた気もするが……。話しが段々それていくが、マクロスFの二人のヒロインも、どちらにも魅力が殆ど感じられなかったので、途中でほおりだしてしまった。
 うーむ、そういう意味だと、オルフェンズも、誰か応援したいような、強い感情移入というか、憧れ的なキャラクターはいないなぁ。強いてあげれば、タービンズの名瀬さんとか、ギャラルホルンという軍事組織の尉官であったクランクさんはかっこよかった。超序盤で某少年兵に惨殺され物語の舞台から退場してしまうが……。
 そういえば、初代ガンダムの、ランバ・ラル大尉もかっこよかった。逆に、それ以外、あまり魅力的なキャラクターがいなかった気がする。ガンダムシリーズって、群像劇(小説で言えば、第三者視点)なわけなので、魅力的なキャラクターが仰山いるか、ストーリーが目まぐるしく面白いかしないと、継続してみようという気になれないのである(※※)。

※※とか、熱烈なファンが多いガンダムシリーズについて批判的なことを書くと、ファンの方々から石を投げられるだろう。しかしこれは単に、今現在、自分にとっては合わない、というレベルに過ぎず、大した問題ではない。僕はエヴァとか攻殻が好きだけれども、それを面白くないという人もいるわけだ。僕も、そういう人には、面白い点を是非知ってもらいたいと思って色々話したくなってしまうだろうけれども、合わないもんはしょうがない。それこそ多様性だ、価値観だ。

最近みた作品

・外見至上主義
・鉄血のオルフェンズ
・攻殻機動隊実写版(ゴーストインザシェル)
・映画リセット

 殴り書きしたメモが残っていなかったら、「リセット」とか、見たことすら忘れていた。
 
 この映画は、不完全燃焼だった。なるほど、アマゾンレビューにあるように、キリスト教の原罪と天地創造(ノアの大洪水後の再生のような)をテーマにしているようなことは、神への冒涜を口走るごとに危険が発生するような描写から感じ取ることができた。
 しかし、この記事の冒頭で書いたように、その「冒頭」において、そもそも、これが何を描いた作品なのかが、全く分からず、非常に退屈だったといえる。結局、「闇」とは何だったのかも明確に明かされることもない。深い意味はともかく、ドンパチアクションで楽しませる作品もあるけれども、取りあえず人がどんどん闇に飲み込まれていくというパニックが描写されるだけで、よく分からない。

 ああ、その、よく分からなさでいくと、もう一つ思い出した。

・映画フィギュアなあなた

 18禁作品だが、ふとアマゾンプライムであったので見てみた。女の人の裸体をみることが目的であればよかろうが、これもストーリーがひどかった。
 序盤の、主人公が会社において、損失を出した失敗を上司から一人に押し付けられて、左遷させられるシーンとか、まぁ掴みとしてはいいと思う。主人公の怒りというか、苛立ちというか、憎しみというか、哀しみというか、自暴自棄になっていく様がよく表現されていたように思う。しかし、肝心な、等身大フィギュアを拾った後のストーリーがどうにもこうにも冗長で、早送りなしには見ることができなかった。


 この残念さ加減。これが、小説媒体で、無理して最後まで読み続けて、結局やっぱり駄目だった、となると、もうこの時間を無駄にした感じが多大なものになる。だらだらと、昼まで寝てしまったときの方が、まだマシに思えてしまうから不思議である。

ルーチン(筋トレと音読)

 この記事の右にあるブログパーツ、カウントアップを観れば、180日を超えている。半年を継続することができたということである。これは結構頑張ったといえるだろう。
 音読、の成果は分からないが、筋トレは、正直、大したことをやっていないのだけれども、身体の見た目に分かる程効果はあった。始める前に写真とっておけばよかったけれども、僧帽筋、上腕二頭筋が太くなり、腹筋のしわが深くなった。
筋肉の名称

 正しい筋トレの仕方とか、健康器具とか、健康サプリとか、まぁ色々あるけれども、とにかく、継続することができなければ、成果には結びつかない。だからこそ、「何を」継続するかについて、非常に重要なのである。だから、目標とか、目的をしっかりもちなさいと、僕はいつも自分に言っている、のであるが、残念ながら迷走中である。

ゴールデンウィークと夏休みの予定(を立てたかった)

 さて。
 ようやく、ここから、書こうと思ったことに取り掛かれる。

 ……のだけれども、どうにも長くなってしまったのでいったん打ち切ろう。

 後編へ続く、的な。この記事は、最近みた作品についてのコメントのみで終わってしまったようだ。一つ、書いておくべきは、作品への批判が目的ではないということだ。あくまでも、「自分はこう思った」ということへのメモである。


 聖書くらいしか物語がなかった中世以前とは異なり、今や、小説、映画、漫画、ドラマ、演劇、落語、オペラ、数々の物語と、その表現技法に溢れているのが現代である。

 どんなに頭が良くて、時間の使い方が上手い人でも、そのすべてに触れることは不可能である。
 であるからにして、自分はどういった作品を求めているのか、これまでどういったものを観たとき、どういった感覚を抱いたのか、それを表現しておくことは、非常に重要なのである。


 ということを書いてみて、もう一つ、最近取りあげようと思ったものを思い出した。

読者と作者のための地雷作品回避法三種
――限界まで耐える、途中で打ち切る、読まずに避ける

 地雷作品の回避、と銘打っているが、実際は、面白い作品に効率的に出会う方法とも読み替えることが可能だろう。
 僕も、無意識的に、ここで挙げられている三種の方法を実践していたわけだけれども、こうして、理論的というか、緻密に表現されているのを読んで、直観的に「長い!」と思ったけれども、それ以上に唯々すごいなぁと思った。

 僕の記事も長さでは時おり負けてはいないと思うけれども、話しがあっちらこっちら飛んでいったり、理論的ではなく感覚的に「こう思う」と断じてしまっていたりと、似ても似つかない構成である。
 上のブログの方は、頭が良くて実直な方なんだなぁと思う。

 こういう方の記事を読んでいると、いやぁ俺ってダメな奴だなぁと思ってしまうのだけれども、まぁ僕のように、こんなテキトーに記事を書くというのも、時おり面白かったり、大事だったりするんだよ、ということを、どこかの誰かにちょっとでも伝えられたらいいなぁと、そんな淡い期待を抱きつつ。


(続く)

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今日の一言「命は光陰に移されて暫くもとどめ難し」「一年が経つぜ」

物語という言葉について

 まず、物語という語をきくと、小説やドラマなど、フィクションを想像する。
 が、辞書的な定義としては、語り聞かせることということでもあり、何もフィクションに限定されるものではない。

 僕はこの記事で、「人生は物語である」という主張をしようと思うのだけれども、その主張の意味するところは、自分の生き方を構築する上での、方法論の整理ということである。

 よって、「人生は物語ではない」という主張と対立をする必要はないと思う。

 人生とは何か。生きてから死ぬまでの、生きている間のことである。それを、どのように全うするのか。



 ……上のような問題提起のやり方では、僕は、言葉が出てこない。何だか、面白くない。心が動かない。

なりたい職業

 他者と自分……。何だろうか、何もないところから、言葉をつむぐのは難しい。
 落ち着いた時間。何も予定がない時間。そんな休日。それが幸せである。

 幸せ?

 幸せって何だ。平穏な感情。時間。空間と時間。


 責任。自らの行為が、現実に与える影響について、自分が引き受けること。
 しかし、その責任の所在は、法律という、人が作り上げたルールに基づくものになる。


 僕は、人に、何かを教える仕事をしたかった。
 しかし、いろいろ考えて、僕自身が、いったい、何が教えられるのか分からなくなって、辞めた。何か、ピンポイントの知識を教えることは可能だろう。けれども、「人格」として、人間として、何か教えることができるかと自問自答した際に、僕は、あまりにも自分自身に、自信がなかった。

 どんな生き方が正しいのか、分からなかった。

 どうすれば、普遍的に、みんな幸せになれるのか分からなかった。

 勉強を教える仕事もしたことがある。けれども、何故勉強をするのか。勉強をしたら必ず幸せになれるのか、自信はもてなかった。


 言い換えれば、責任をとるのが嫌だったのかもしれない。否定されるのが嫌だったのかもしれない。「お前の生き方は間違っている!」とか「お前のせいで人生が失敗した!」とか言われるのが嫌だったのかもしれない。そんなふうに言われても、他者の人生なんて背負えない、そう思ったのかもしれない。


 そんな風にいろいろ悩んでいた時期について、「必死に考えていた」という表現ができるかどうか、僕は疑問である。遊んでいる時間はあったのだ。一分一秒、ずっと真剣に考えていたわけではなかった。睡眠時間だってあった。寝る間を惜しんで毎日考えていたかというと、そうではなかった。

 必死さが足りなかったと、過去の自分を責めることはいくらでも可能だろう。

残りの人生をどう使うか

 過去を責めても、戻れるわけでもないし、戻ったところで、結局、何か大きく変えることはできないだろう。今の自分の知識や感情があったとしても、時間的限界性や身体的限界性によって、未来を劇的に変えることなどできはしない。
 むしろ、過去にかえって、もっといろんなことにチャレンジしてみて、その結果、もっとひどいことになる可能性だってあることを、タイムマシンに期待する人たちは思わないのだろうか。
「あのとき、ああしておけばよかった」

 というのは、その時間平面上での結果であって、過去にもどって、もう一度その場面をやったときに、その「ああしたこと」の結果がどうなるかなど、わかりゃしないのである。そういう意味で、僕は、過去に戻りたいと思ったことはこの方一度もない。やり直したい自分の人生など、いついつ時点もありはしない。後悔という感情が生じたことがないと言えばうそになろうが、少し時間をおいて冷静に考えれば、せめてできるのは、反省と言う作業にすぎない。


 だから、僕は、この先、残りの、10年なのか、20年なのか、30年なのか、40年なのか、50年なのか60年なのか分からないが、その残りの時間をどう使おうかしか考えないことにする。(する、というか、している。)

 ちなみに、70年はないだろう。60年もない気がする。多分、それぐらいになると、そもそも、「自己」という単一の記憶維持が曖昧になっている気がする。分かりやすく書けば、「ボケ」ているだろう。

 その段階までになって、未だ、「自分とは何か」「生きる意味とは何なのか」なんて考えているとは、ちょっと想像しにくい。
 その、最後の最後で、「ああ、ワシの人生は、本当に無意味じゃったのぅ……」と、そんな風に思って死んでいく可能性がなくもないが、多分、先日みた、「ザ・ノンフィクション」の特殊清掃の現場なんかみていると、「ウッ苦しい、た、助けてくれ、うぁあぐああぎゃああ! ……」と、「死」を感じることができるかどうかも、不明なところだ。

 先日、ちょっと危険な目にあったけれども、その瞬間は、「死ぬ」とかどうとか、感じている暇はなかった。とにかく、目の前の危険の対処に全身全霊意識が集中していた。そんなもんである。

 だから、「死」を考えることができるのは、逆説的だが、結局、安全に生きている今、でしかありえない。

ただ独り黄泉に赴くのみなり

 先日、目標にしていた本の読了が終わってから、目標のない生活をしている。
 トイレ掃除もしたし、エアコンのフィルター清掃も行った。エアコンのフィルターはかなり埃がたまっていた。一か月に一度掃除するというのは必要かもしれない。あの埃の中で暖房を焚いていたと思うと、少し気分が悪くなる。

 料理もするようになった。今日つくった焼きポテトは、分厚く切りすぎたせいか、火の通りが悪かった。まぁ自分で食べる分には十分だ。人に出せるレベルの料理も作れるようになった方がよいのだが。

 目標というのは、何か、「できるようになること」に対しての行動方策である。最近、それがないのだ。

 焦るな、今年の大目標は何だ? そう、整理をすることだ。体系と、住居。身の回りを見渡す。うん、いい感じだ。少しずつ物が整理されてきている。この休日は、箱類を整理した。HDDとかその他ソフトウェア等の空き箱だ。引っ越しとか、もろもろをするときはあって便利だった。けれども、捨てることにしよう。使用頻度が低いけれども、スペースを広く使っているものは、思い切って捨てた方がいい。本の整理にいつも時間を使うけれども、本は、意外と並べておけばそう邪魔にはならないのだ。それ以外の、細々としたものの整理が、綺麗に部屋を保つために必要であろう。

書きたいしかし書けない

 ああ、しかし、書くことないなぁ。いや、なんというか、「書きたい」という衝動はあるのだ。

 なら書いてみよう、書いてみる。その内容のなさに驚愕する! 仕方がない、知能が低いのだから仕方がないと思いつつ、いつもなら、そのまま投稿する。しかし、最近、他者のブログで面白い記事を読んだ。おーん。これは……こんな、どーでもいい、くだらないことを書いている俺は、いったい何なんだ。こんなもん投稿していいのかあああ(言外の叫び)。

 ふむ……。



 なるほど、やはり、何か、インプットが無ければ、僕は書けないのだ。一からなにか新しいことを生み出せるなんて、そんな天才だなんて自分を思ってはいかんのである。
 んで、そのインプットした内容に対する感動さ……思いというのが、なにも、自分だけの特別なものだという思い、それすらもかなぐり捨てて良かろう。

 信じて、よかろう。
 自分のこの感性、感覚、思い、思考、感覚、感動、目的、意味……信念、生き様、その他に共感や、近いものを思ってくれる人が存在することを。

 まー苦難である。深い付き合いをしなければそんな人と出会えることはないし、それをするにあたってぶつかりあって、時に傷つくことや嫌な思いをすることもあろう。
 それだけではない。そもそも、他者とかかわるということは、自分自身の上記の感覚等を、上手い具合に表現する方法を明確にしておく必要がある。

 それでも、何もせずに厭世するよりはよかろう。


(たまには、ものすごい明るい記事でも書いてみようか。嘘くさくなりそうだな)


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今日の一言「死後の体液すごい」

特殊清掃員の仕事を見た

 事故物件、大家さん、遺族とのいざこざ、死臭、孤独死、体液、しみ、床下まで浸透。

「ザ・ノンフィクション」

 よい作品だった。テレビ番組に「作品」というのは間違っているだろうか。内容が内容なので、「よい」というのは間違っているだろうか。いささかの言葉遣いに悩むよりも、書きたいと思ったこと、書かなければならないことを優先して書き進めたい。


 ここ一年の間に、漫画で、同内容を取り扱った作品を読む機会があった。タイトルは忘れてしまったけれども、中々に興味深かった。
 自殺や、孤独死した人の部屋の清掃を行う、「特殊清掃員」。死後、二週間足らずで、死体の腐敗は進み、悪臭が部屋の外まで流れ出す。死体はぐちゃぐちゃになって、体中の血液や汗やその他の体液は、カーペットや畳など当たり前で、床板もたやすく浸透し、家の基礎までしみわたっていく。
 それらの影響範囲を瞬時に判断、確認し、特殊な道具や薬品で処置をしていく仕事である。

 一般のテレビ番組で放映できる程度の編集がされているとはいえ、それでも、その現場の凄惨さは伝わってきた。

言葉を丁寧に使いたいと思った

 孤独死をした人は、みな、玄関を向いているのだという。それは、苦しいから。苦しくて、もがいて、助けを求めようと、出口を求めるのである。しかし、力尽き、倒れる。




 最近僕は、「面白いことないかなぁ」とか言っている。それは否定することではない、ただし、「死んでしまいたい」とか、「生きている意味が分からない」とか、そんな表現をする前に、よくよく、「死」について、考えてみたいと思う。

「つまんねぇなぁ」

 という言葉を発する、その瞬間に、自分が、自分のいるこの部屋で、喉をかきむしって、胸をつまらせ呼吸困難に陥り、助けを呼ぼうと腕をあげながらフローリングに倒れ込む、その瞬間を、想像してみたらどうだろうか。


 生きることも死ぬことも、その表現について、言葉が、軽くなってはいないだろうか。
 感情を込めて言葉をつむいでいるか? よく自問自答したい。

 表現的に、言葉の使い方など気にせず書き進めたい、と書いたけれども、その書きたいことは、「言葉を丁寧に使いたい」という思いである。

 どういうことか。つまり、「生きる意味」とか、「生きているのがつまらねえ」とか、「一生独りでいいや」とか、そういった感覚を表す言葉について、よく考えて使いたいと思うということだ。

でもつまらないもんはつまらない

 話しが若干変わってしまうが、先日、「生産的エンタメも消費的エンタメもどっちもどうでもいい分類である」ということで、「そうかもしれないなぁ」と思った。
 ただ、先日夜、帰宅の途を歩んでいるとき、「いや、やっぱりちがうな」と思った。

 スポーツ観戦を、僕は否定するわけではない、と最初に書きながら、しかし、野球やサッカーを観るというのは、消費的エンタメ行為であると思う。
 ボクシングを観戦するのは、「自分ではない誰か」が戦っているのに、血沸き肉踊らせるのである。スポーツチームの勝ち負けに一喜一憂するのは、その勝敗が、まさに自分の運命を左右するような何かであるかのように思い込むことである。

 いや違う、そんな大そうなものではないのだ。単に、楽しきゃいい、なんか、ルールに従って人同士が対戦するのを、勝ち負けを観るのが楽しいのだ。それは、それ以上でも、それ以下でもない。


 もう一度念のため書いておこう。スポーツ観戦を、僕は否定しているのではない(※)。同じスポーツを行う人たちの会話のタネにもなるだろうし、自分がスポーツをやるうえで、参考になることもあるだろう。
 しかし、やっぱり、自分の「生き様」的な何かに影響を与えるようなエンターテイメントと、ただ現実的な問題の解決とは異なる次元において感情の恒常性(つまり落ち着きたいとか癒されたいとか)を求めるエンターテイメントとは、大きく異なるものに思える。


 もちろん、創作するうえで、自分がどっちを目指すかなど、それを、最初から決める必要などないし、作り手と受け手との関係性からも、どっちになるかは分からないだろう。
 しかし、エンターテイメントというものに、「生産的な何か」を求める人と、「癒し的な何か」を求める人と、両者は存在することだろう。

※「それじゃあ、自分が野球するわけでもないのに、どっかの球団の勝敗がとっても気になる人については否定しているのか」と問われると、そうかもしれない。

エンタメの語がそもそもブレている

 そもそも、「ザ・ノンフィクション」的なテレビ番組を、「エンターテイメント」と僕は今表現しているわけだけれども、それが間違っていると言われたら、そうかもしれん。

 しかし、エンタメとはそもそも何だ?

 人生とは、物語である。そして、それをどんな物語にするかは、自分の、自由意志に委ねられている。自由意志があるのか、ないのか、その疑問というか、問いというのも大事だけれども、現時点の僕の考えとしては、自由意志は「ある」としている。いやそもそも、じゃあ、「自由意志」って何だよ、という表現の無限遡及を回避するための、十分な定義をする紙面はここにはない。

 法律の条文が難しい理由や、専門書が難しい理由は何だろうか。
 それは、「定義」が緻密であるからだ。複雑な文章構造で、読解が難儀である文章であっても、驚くほど、その意味するところがシンプルだったりすることがある。それは、法律の条文や専門書は、厳密な、普遍的な表現を目指しているからである。

 しかしそもそも、現実の「世界」は、「言葉」で区切れるものではない。
 厳密な相互理解など、不可能である。しかし、お互いが「分かっている」という前提を共有することが、人間は可能である。その高度複雑化した体系的な決めごとが、「社会」であったり、法律であったりするのである。

 その、「お互いが分かっている」というために必要なのが、「感情」という機能である(※)。


 さて、じゃあ、改めて、エンタメとは何か。僕は、「物語」という語と同様に使っているのだ。
 人生=物語=エンターテイメント

 としているのだ。しかし、エンターテイメントとは、「娯楽」という訳である。変じゃないか? 娯楽とは、現実でメインでやることから外れた、余暇に行うことである。そんな定義は分かっているが、僕は、その「現実でメインでやること」というのが、そもそも、「生きることそのものじゃなかろうか」と思うのである。


※そういう意味で、「アイ・ロボット」や「エクス・マキナ」に登場するアンドロイドが、見た目が完全にロボット(アンドロイド)であるにも関わらず、その言わば不思議な「人格」(攻殻機動隊で言うところの「ゴースト」)を感じさせるところが面白い。

生きているから生きている

 現実……仕事、と言い換えても良いが、仕事と余暇という対比は、あまり重要性をもたない。(少なくても僕にとっては。そして、今後の社会や人々にとっても、恐らくは。)

 前述のテレビ番組においては、結局遺族が一度も訪れずに清掃費用50万ぐらいも支払いたくないと大家さんともめるケースもあれば、まだ清掃が完全に終わっていない現場にかけつけて、故人の想いでの品をみながら涙を流すケースもあった。

 後者が感動的だった、というのはそうなのだけれども、僕はもう一つ思ったことがあった。

 ――家族がいようがいまいが、独り死ぬこともある。


 

しばらく経って

 ある方のブログを読んで、「文章力がすごい」と思った。「読ませる文章」だと思った。
 そして、この記事の自分の文章を読み返してみて、「うーむ、面白くない」と思った。

 何というか、何を言いたいのかよく分からない。Aか、Bか、それともCなのか、Aの否定をしたいのか、Bの否定をしたいのか、それによってCの肯定をしたいのか、よく分からない。

 分からない、分からないを連発している記事が、面白くなる可能性があるのだろうか?

 問題提起は重要だ。しかし、問題を提起したまま終わってしまえば、先日触れた、アイアムアヒーローの最終巻のような印象を与えることになるだろう。問題を提起したら、解決しなきゃならないのだ。それが「責任」である。


 が。

 そんな肩ひじ張って、真面目くさった感覚をもって書いていくと、そりゃあもう、面白くない。読んだ人は面白いと思う可能性があっても、自分はきっと、面白くないだろう。

 僕が他者のブログで期待しているのは、「プロセス」である。
 結果ではない。結果は分かっている。「幸せになっちまえよ!」で以上だ。

 婚活で頑張っている人がいる。付き合っていた人に先立たれてしまった人がいる。子どもを失った人がいる。子どもが障害を抱えていた人がいる。不妊治療に苦しむ人がいる。難病を抱えている人がいる。孤独に押しつぶされそうになっている人がいる。いじめにあって苦しんでいる人がいる。貧困に喘いでいる人がいる――いろんな「物語」がある。

 それらすべてに共通した結論、最終回、エンディングは何だろうか? ハッピーエンドになりやがれ、である。
 僕がいつも思う、全世界の平和と幸福というのはそういうことだ。

 だから、「〇〇したら●●になりました!」とかいう、結論が見えているブログに、価値を僕は求めていない。

 ある方が言っていた言葉をふと思い出した。
「物語(小説など二次元の世界に限る。以下同じ)であれば、うだうだドロドロしたのを求めていないんです。そんなの、現実(僕らの物理環境に限る。以下同じ)で沢山溢れているじゃないですか。けれど、現実において、何かもがいているとか、必死になっているようなものは、ちょっと物語とは違って、面白いんですよね」


 僕はこの記事において、物語、という言葉を、現実も含めて全部、物語である、と書いてきた。それは、二次元の物語でも、現実の物語でも、どちらも、終わりがあることには変わらないからだ。

 けれども、上のある方の言葉における表現においては、二次元と現実の物語では決定的な差異がある。それは、その「終わり」を第三者として追体験できることである。時間軸を異なってみることができるということだ。

 今まさに、物語の中に組み込まれているのが「現実」であり、物語を物語として俯瞰することができるのが、二次元の物語である、ということだ。


 何だか、長くなってきたし、主旨が分かりにくくなってきたので、強制終了とする。


(続く)

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今日の一言「いきなりド暗い話をしたい」「聞きたくない」

ユメミーワールドを見た

 クレヨンしんちゃんの映画、「ユメミーワールド」を見た。面白かった。
 サキちゃんが、最初ツンツンしているが、しんちゃんの開けっぴろげでアホで、それでいて温かい接し方により、徐々に心を開いていくのが良かった。きゅんとなった。描き方が上手い。ストーリーとか、キャラクターメイキングというのはこうじゃなきゃダメだ。

 子供向け作品(全年齢対象)のため、ある意味安心して、「お約束」としてみることができるから、少し落ち着いた気分の時に見るのはいい。

 いつもは、父ちゃんのヒロシさんがカッコいい場面が多い映画だけれど、今回は、母ちゃんのみさえさんが超かっこよかった。子どもを思う母の愛って、いいもんだなぁ。

暗い話に反転する

 ところで、皆さんはいじめ、というのをどう思うだろうか? よくないことだ、と口をそろえて言うだろう。しかし、実際問題、自分も加害者になったり、被害者になったりする可能性は、特に閉鎖空間の学生生活においては大きいのである。

 一般的な話はおいておいて、とにかくここに、学生時代にいじめにあって、友達に裏切られて、誰も助けてくれなくて、孤立して寂しく哀しい学校生活(幼稚園生活でもいいが)を送った人を考えてみよう。

 その人にとって、クレヨンしんちゃんの、愛とか友情という作品は、心をうつのだろうか?

 一概には言えない。
仮定1)「俺は、こんな助けてくれる友達なんていなかった。それどころか、裏切られた。でも、もし、こんなしんちゃんのような友達がいたら、人生かわっていたかもしれない。そうだ、今からでも遅くない。もう一度、頑張ってみよう」

仮定2)「俺は、こんな助けてくれる友達なんていなかった。それどころか、裏切られた。こんな、苦しいとき、困ったときに助けてくれる友達、人なんて、所詮はアニメの世界でしかありえない。俺の人生はどうせこの先も真っ暗だ。一人で生きていくしかないんだ。つまんねぇ。みんな死ね」

 と、どちらの感情が発生するかは、非常に繊細な問題だ。そのときのちょっとした環境や、タイミング、その人の性格傾向、もしくは血液型とかそんな占いチックな影響によっても変わってしまうかもしれない。

 だから、どっちが正しいとか、そういう傾向があるとか、そういった一般的な話、科学的な話をするつもりはない。

 ただし、仮定1でも、仮定2でも、共通していることがある。何か。

「友情」
 自体は、とても素晴らしいものであると、認めていることである。

 仮定2は、確かに、自暴自棄になっている。しかし、それでも、もし、万が一、何かの因果で、自分にも助けてくれる友達があらわれたなら、どんなに良かっただろうと、そんな思いが発生しているのである。


 ここで、仮定3として、そもそもそういった友情とか愛とかを一切感じない、思わない人というのも想定してもいいが、それは所謂「サイコパス」という存在であり、この次元の話しをするときは、別個にした方がいいだろう。

物語の効用

 何が言いたいか。エンターテイメントにおける物語も、政治信条による物語も、イデオロギーによる物語も、ゲームによる物語も、ハイファンタジーも、科学による物語も、結婚制度による物語も、テレビ番組による物語も、すべて、物語である。

 二次元、三次元、リアル、ネット、の違いがあっても、僕は、その違いにさほど興味がないというか、重要性を思っていない。この感覚が、そもそも、ふつうのひとと、相容れない場合があるけれども、たぶん、説明が足りていないだけな気がする。

 昔から、ドラマにはまる人はいたわけだけれども、アニメにはまる人に対しては気持ち悪いという感情を抱く時代があった。三次元の映像はよくて、二次元の映像はよくない、というのは、いささか不自然に思う。じゃあ文字媒体の小説とかで、頭の中で想像を膨らませるのはどうなんだ? むっつりスケベじゃないのか? いやそもそも、ドラマだって、テレビ筐体の中での物語であれば、所詮は二次元でしかない。

 とにかく、物語ってのは、人に、生き方を与えてくれるものである。
 本当に、何もなく、一から、生き方を構築できる人など、いない。ただし、広義の二次元の物語に頼らない人もいる。昔はみんなそうだった。親や、会社や、友人や、夫婦関係、その関係性において、「物語」を学んでいった。

 いまは、いろんなところで、物語を学ぶことができる。

人生のマイナス要素

 このように、「物語」を、こういった文脈で用いていくと、単に、エンターテイメントの物語を指しているのではないことが分かるだろう。
 人生は、物語である。

 正解がない物語だ。しかし、終わりは必ずやってくる。

 人生は、クソゲーだともいわれる。

 そうかもしれない。イケメンはそれだけで得をするかもしれない。
 同じことを言っても、信頼性が変わったりする。

 僕はよく、イケメンブサメンを例に挙げるけれども、最近読ませて頂いているブログさんでは、学歴についてよく取りあげられている。それもきっと関係すると思う。
 金もそうだ。僕と同じ歳のブログさんで、4000万円近い資産を、投資努力の末手にしている方もいる一方、貧乏な人もいるだろう。そういった人は、お金がある人をうらやむ。

 いじめられた経験がある人もいるだろう。性的虐待をうけたとか、トラウマがある人もいるだろう。

 きりがねーよ。

 他者と比べることの無意味さは、俺はとことん思う。思いながら、ネトゲなり、創作活動なり、なんでもそうだが、スゲー人はこの世にいっぱいいるから、やる気をなくしてしまうことは往々にしてあるんだけど、まぁ、それはおいておく。

 とにかく、自分の「いい!」と思う感性を、ずっと、磨き続けて欲しいと思う。
 大人になったら、嫌なことも無理してでも、耐えたり、頑張ったりすることも必要だ、時には。それでも、いやむしろ、そのことを、「いやだ!」「めんどい!」と思うなら、それはそれで、大切な感情であると、しっかりインプットして欲しい。その嫌だ、めんどい、という思いから、大事なことが何か分かることだってあるのだから。

 そういったことをせずに、「我慢」とか、「真面目」とかして生きてくると、俺みたいに、「何が面白いのか分からねえ」とか、「生きる意味って何なんだろう」とかなる。

 これはとっても哀しいことだ。是非、若い皆さんは、そんなことにならないように、「自分」ってものを大切にして欲しい。

アンビバレンス

 とか、啓発的に書いてみるなんて、がらじゃねえか。

 つーか、意味のない啓蒙である。我慢とか、真面目とかで、今現に生きている人たちは少なからずいるわけだが、その人たちにとって、それが「正」、正しいことなのだから、「真面目にやんなくていいよ」という掛け声は、単に堕落の象徴に過ぎないのである。

 だからこそ、僕が常日頃書いている、「反転したポジティブ」というのが大事になるのだけれども、まぁ、これも上手い具合に伝えられる自信がない。というか、そんなことを欲している人が誰なのか、分からん。いるのかどうかも、分からん。ただ、少なくても、ひとりだけはいるから、こうして書いているのだけれどもな。


 因みに最後に。
 テーマとか、主張が一貫しているブログさんは、やっぱり面白いのだけれど、そうではない、矛盾したことを言ったり書いたりしているブログさんでも、面白い場合がある。
 ただ、その場合は、そのブログ主さんが、自分が二律背反的なことを言ったりしていることに自覚的であることが必要条件である。

 無自覚に、矛盾したことをさも当然のごとく書き続けられる人は、それは精神錯乱者か、詐欺師である。

 僕はどうだろうか。
 過去の記事から読んでいくと、取り巻く環境や、興味の対象などは違うけれども、しかし、結節点になるような事柄は、変わっていないような気がする。

 でも、変わっている部分もある気がする。その差分が、今後の「面白いこと」「良いと感じること」を見つけていく上で、大事なような気がするけれども、膨大なテキストの中から探していくのは、至難の業である。


(といったところから、物語の大切さについて書きたいところだが、時間切れ、というか、眠い)

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今日の一言「通常記事は久しぶり」「おバカな記事だって難しいよ」

芸能人のブログ

 芸能人とか、歌手とか、有名な人、知識人とか、とにかくテレビとかに出てる人たち。
 そんな方々がよく利用しているアメーバブログというメディア。

 ぶっちゃけた、正直ベースな感想とすると、中身が薄い!!!

 と、思うのだけれども、でも、適度な改行だったり、写真の貼り方だったり、絵文字とか顔文字とか記号の使い方だったり、歯切れの良い短文だったり、いざ真似すると難しかったりする。

 問題は、……

今日はお仕事がんばったぞ♪
久佐嘉さん(仮名)にも褒められたし!
よーし、明日も私ふぁいとぉ~★

[自撮り写真]


 とか、僕はとくに目指したいと思わないということ、および、そもそも誰もそんなの求めてない!
 ……のだけれども、じゃあ、僕の「イライラ対処」記事とか、それって、結局、何ら変わらないんじゃないかなぁとも思ったりする。


 結局、アメブロとか、副収入目当てなのかもしれないけれども、大勢が見てくれるということ、承認欲求とか、目立ちたいとか、ちやほやされたいというそういった欲求を満たすための媒体の一躍も担っているのではないかと思う。

 その点、僕も、やっぱり、認められたリ、共感してもらえるってのは、すごく嬉しいことだと思う。

 だから、芸能人、その他の有名人の人のブログも、いわゆるダメブロ界の人たちのブログも、同じブログというメディアを使っている仲間なんだ!!

人との繋がり

 あー、その、何を言いたいんだろう。よく分からないんだなぁ、最近……いや、別に最近でもなく、ここずっと、何年もそんな感じかもしれない。
 ただ、一日、一日を、大切に生きたいとは思う。特に最近は、「ああ、生きていて良かったなぁ」って思ったりする。本気で思っているのか分からないけれども、取りあえず、ひとりでいるときは、例えば朝起きたときとか、口に出して言うようにしている、というよりも、自然にそんな言葉が発せられる。

 で、まぁ、その、「寂しい」って感情。
 あんまり、ない。
 あんまり、というと、やっぱりあるのかもしれないが、そこら辺は、よく分からない。

 よく分からないけれども、最近、本をぱらぱらと読めるようになってきた。
 やっぱり、本は、面白いと思う。読んだあとに、特段、語れることがあんまりないんだけど、直喩と隠喩について、とか。直喩の方が、「●●のようだ」という説明的で、隠喩の方が一見、ウィットがきいているというか、ハッとさせられるような表現である、とみなされがちだ。

直喩例)彼の勇敢さはライオンのようだ。
隠喩例)彼はライオンだ!

 けれども、それはあくまで、直喩と、隠喩を対比してみるから、「隠喩いいね!」となるだけであって、いきなり、

 ライオンだ!

 といったら、なんのこっちゃ、となる。
 小説とかで有効なのは、そのシーンにおいて、決してサバンナにいるわけでも、動物園にいるわけでもなく、ごくごく日常生活のなかで、「俺、ちょっと店長にかけあってみますよ」とかバイトくんが言ったときに、「かっこいい! ライオンだ!」みたいに使うと、あー、隠喩なんだなぁ、って分かるということだ。

 だからなんだ。

連載

 取りあえず、最近始めた連載活動、10話分ぐらいまで書き進めた。取りあえず、週刊更新を予定している。何曜日か決めようか、どうしようか、まだブレている。
 取りあえず、10回分と考えると、2か月半後ぐらい分である。そうすると、6月ぐらいだ。今が3月で、6月。
 あー、長いようで、短いような。

 そう考えると、ほんっと、人生短いっすなぁ。取りあえず目標の半年間を達成するには、9月ぐらいまで続けることになる。そこまでに完結させられるだろうか。きっと、10万字も到達しないだろう。ちなみに、文庫本程度は10万字ぐらいであるということである。

 1年に、一作品つくっていくにしても、40歳までに10個いけるかどうか。
 80歳で死ぬとして、40作品つくれるかどうか。

 そう考えると、もう既に、何作品も完結した作品をつくられている方々って、すげーなーと思う。
 ちょっと上から目線と言うか、小ばかにするような表現をこれからすることになるが、最近は本気で、中学生レベルの文章表現力しかなくても、ちゃんとストーリーつくって完結した作品を書ける人ってすごいなと思う。
 何というか、表現力は、後から身に着けてもいいと思う……し、やっぱり、ストーリーメイキングできる能力ってのは、ある意味才能なのかなぁとも思う。
 どんなに素晴らしい作品に触れて摂取しても、それを、自分の物語として再構成して、表現するってのは、やっぱりどこか、違うことだと思う。よくない例えしか今思い浮かばないが、人を殺したいと思うのは誰でもあるが、実際に殺すのとは大きな乖離があるように。

夢いっぱい!

 タイトルはあんまり意味がある分けではないけれども、何だか色々人に触れていて、ぼーぜんとした「すげーなー」って思いが生じた。
 こう、その、「冷めた観方」みたいなのがかっこいいと思っているわけでは、決してないのだが、どっかしらその、ベルトコンベアーに乗り損ねた商品みたいな気分になるのはどうしてなのか。

 例えば、ある精神科医の先生の「認められたい」という承認・所属欲求が、僕に足りない、という診断があったとして。ヴィクトールさんの人間は創造・体験・態度の三つの価値を追究していかねばならないと発破をかけられたとして。

 俺は、何か、うまーく表現できないのだが、その「いきづらさ」か何か、表現できたとして、概念化できたとして、じゃあ、それで問題が解決するのかどうか、と思う。

 苦しい理由、というものを、言語化できたとして、それが解決するかどうか。もちろん、発達障害やら学習障害やらADHDやら、その診断がついたことにより、「ああ、やっぱり、そうだったんだ」という安心感のようなものが得られる人もいることだろう。ただ、結局、問題はそこからの人生であることには違いない。ようやくスタートラインにたったようなものではなかろうか。

 言語、とは、記号である。
 無限の世界を、分類することである。モノ・コトに、延々、名前をつけていっても、終わりはない。

 だから、僕が、いくら、僕のことを、こうしてブログに書いていっても、100記事、1000記事、10000記事になろうが、「僕」という表現は、完結しないのである。
 これについて、「自分」が常に変化しているからである、とコメント頂いたわけであるが、この指摘は非常に鋭くて僕の魂魄に突き刺さった。
 ただし、その観点とは別に、そもそも、表現できることに限りはないのである。自分というものを正確に完璧に表現できる言語など、存在しえないのである。

 ……という面からも、他者との完全理解というのは不可能である、という僕は立場というか、考え方をもっているわけだけれども、この考え方が役に立つかと言うと、気休め程度の役にもたちゃあしない! だからなんだって、話。いやぁ、だからこそ、ちょっとでも、「分かり合えた!」「共感した!」という感覚が重要だし、大切なんだよ、という教訓にはなるかもしれない。分かり合えるというのは難しいことなんだから、ちゃんとコミュニケーションとらなきゃならんのだよ、という教訓にはなるかもしれない、ただ、その程度だ。

幸せいっぱい!

 タイトルに意味はない。
 ただ、表現に限りが無いのであれば、やっぱり、「絶対ポジティブ思考」であるべきだと、僕は思う。
 満たされているなぁ、幸せだなぁ、感謝でいっぱいだなぁ、嬉しいなぁ。

 おぅ、どうした? アップ系の薬でもやったんか? と思うようだが、それでもやっぱり、楽天・楽観的であることが、大切な気がする。

 と、わざわざ書く時点で、僕は、そういう性格ではないのだろう。本当の楽天的な人は、そんなこと自体考えないのではあるまいか。


 んー、でも、いーんじゃないか、と思う(何が?)。その、色んな人がいていーんじゃないの、と思う。毎日のように、愚痴をSNSやらブログに書き散らしているような人もいる。何年も、「あー、俺はダメな奴なんだ、死んだ方がいいんだ」と書きながら、取りあえず生きている人もいる。「孤独でもいーんすよ」という人もいる。「働きたくないでござる」と言い続けている人もいる。

 いーんじゃないか、と思う。

 ただ、みんな、取りあえず、幸せになったらいいんじゃないか、と思う。


 え、ひとごと? お前は?

 俺は……よく分からん。

 何だろ、幸せっちゃあ幸せだろうし、「リア充爆発しろ!」と思えば不幸な気もする。ただ、どっちでもいい気がしている。

 前も書いた気がするけれども、そもそも、「幸せ」とか「ポジティブ」という言語表現にとらわれている時点で、既に罠にはまっている。
 幸せ、ポジティブなんてのは、相対的な概念であり、その言葉に意味を注入できるとすれば、それは、「実感」に他ならんわけだ。

 で、逆に書けば、「実感」があれば、別に「あー幸せだなぁ~」なんてしみじみ言う必要なんてないわけだ。

などと30代おっさんが述べております

 物語つくれる人ってすごいなぁ(唐突)。
 物語って、新学力とかエンプロイアビリティなんてビジネス的な表現すれば、問題解決能力だと思う。

 問題。課題。困難。ハードル。軋轢。葛藤。

 ひっくるめていろーんな問題があって、それにどう対処していくのか、というのが、すべての物語の基本ストーリーである。

 日常ほのぼの系作品にそんなもんないのでは? という指摘もありそうだが、いや、そんなことぁーない。日常の、ほのぼのとした課題などが描かれているはずだ、よく観察してみるといい。

 ここでいう問題は、社会問題だとか、異性問題だとか、その問題の大小を言うのではない。

 自分で設定した問題について、逃げずに立ち向かって何らかの答えを出していくという作業、それが「物語」なのである。

 ドラゴンクエストでは、悪い魔王が街を荒らしている、このままでは世界が滅びてしまう、戦え勇者たちよ! 的な問題解決である。
 ライトノベル的な異世界転生や転移でも、人生やり直すぞ!とか、元の世界に帰らなきゃ!的な問題解決である。
 学園ものでもそうだ。いじめられたり、モテなかったり、勉強できなかったり、スクールカーストの底辺でもがく……問題解決である。


 この、問題解決能力が、生きていく上で、大切なことだと思う。イデオロギーも、宗教も希薄化した現代においては、特にそうなんじゃなかろうか。
 そして、もう少し踏み込んで考えると、この問題解決能力とは、「解決力」が重要ではなく、「問題設定力」が重要なんじゃなかろうか。

 適切な問題を設定して、それを解決していくという人生の繰り返しが、即ち、充実感だとか幸福感だとかに繋がるんじゃなかろうか。



 とかって、こうやって考えている最中は結構楽しかったりするのだが、考えれば考えるほど、その結論的なものが、どうにも、矮小だったり脆弱だったり、くだらないもののように思えてくるというこの病気について、是非命名したい。

 あー、やっぱり、中二病とか、高二病とか大二病的なのになるんかな。

 俺って、「ふつーの人」とちょっと違うことを考えられますよ(キリッ)的なやつをあざ笑う、その様をさらに思って自嘲して……という、無限ループ的な。

(あー、何か、面白いこと書きたい)

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