忍者ブログ

30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
カテゴリー「思考及び書くこと」の記事一覧
今日の一言「目標を掲げてから二回目」「良かった」

前書き

 土曜日だ。
 毎週更新の日だ。

 しかし、そんな実感は全然ない。
 無いけれども、記憶に残っていたから、やろうと思った。全然習慣化していないが、

平成31年3月30日(土)まで。

 は、続けようと決めたので、モチベーションは維持したい。

 書くこととしては、
・今日の一言で、一週間(ぐらいが)「良かった」or「悪かった」か
・前書き
・何か本文的なの
・一週間の振り返りの理由

 である。
 そうか、今日の一言のところで、良かったか悪かったのか書かないといけなかったのか、と後付けで追記する。良かった、と思う。

正解するカドは序盤はやっぱり面白い

 アマゾンプライムで「Angel Beats!」を見終わって、暇だったので「正解するカド」の0話~2話ぐらいを流しで見ていたら、やっぱりこれ面白かった。すごいワクワクする。キャラクターもいいね。
 やっぱり、ごく後半の展開が自分的には残念だった。バトルはやっぱり人類にとっては正解なんだろうか……。

 と、いうよりも、今週よかった理由に挙げてもいいくらい、「Angel Beats!」が面白かった。
 これ、2010年の古い作品なんだが、――というか、おもった。2010年って、今、自分思ったより、書いている瞬間よりも、もうかなり昔なんだな。

「結構前の作品」
 って意味で書こうとしたけれども、ほぼ10年前か。10年。

「あれから10年――」
 みたいなナレーションって、もう相当経った的に感じるけれども、2010年という数字的には、そんなに前の気がしない。
 それってたぶん、「自分が生きていた時代」だからというのもある気がする。

死刑を待つ夢

 ――といったところまで書いて、どうしようも、本当に頭が痛くなって、力尽きてしまった。
 ので、書こうと思っていたのは間違いないし、実際書いていたのだけれども、投稿に至らなかったことは言い訳しておく。
 今も、体調があまりよくない――なんだ、花粉症か、画面酔いなのか。


 そして、嫌な夢を見た。

 過去に、2、3度、「死んだ夢」をみたことがある。
 あれは、原体験として、全経験としても、最大に怖いだろう。

 死んだ夢は、自分の意識があるかないか分からないその境界のような状態――「ほぼ無」で、永遠に、文字通り永遠にその状態が続くことを感じさせる夢である。

 いつも思うが、文字にすると、その怖さが半減どころか、全然続かない。
 だが、まともに思考することも、体を動かすことも(むしろ体なんてもはやなかろう)、何もできないのに、うっすらと、曖昧で真っ暗な意識の断片がふらふらとし続けるのだ。

 死が、「完全な無」だったらどんなによいことかと、発狂しそうになりながら思うのだ。


 ――という夢の、新しいバージョンが今回あった。

 死刑をまつ夢だ。


 刑務官のような人と、自分が、会話している。談笑。ふだんの、日常のような感じだ。

「今日の労務は、世界史の勉強をしましょう」

 そういって、青い表紙の新品の大学ノートが机に置かれる。
 そして、表紙に自分の名前を書くように促される。

 自分は、ペンをとり、自分の名前を書こうとするが、そこで気づく。
 自分は、これから、死刑になるのだと。

「薬物注射ですか」

 刑務官は、微笑を崩さないまま首を振った。

「薬物注射がいい……そのほうが、眠ったように死ねるから」

 自分の思いは、刑務官に伝わったのだろうか。
 しかし、思いはともかく、その要求が実現することなどないことがすぐに分かった。

「では、絞首刑ですか」

 今度は、刑務官は何も動じなかった。
 それで、答えが分かった。

「さ、名前を書いて」

 促されるまま大学ノートに向かう。
 ああ、しかし、僕は本当に死刑になるのだ。だから、こんなノートに名前を書いたって、好きな世界史の勉強をしたって、全部なくなってしまうんだ。
 苗字まで書いたところで、手が震えて、かけなくなってしまう。

「どうせ、名前なんて書いても、これも、すぐに捨ててしまうんでしょう」

 悲鳴にも似た声がでる。
 刑務官は動じない。

 しばらく僕は、ただ恐怖を感じていた。

 様々な思いが浮かんできた(ように思った)。
 出会った人。
 楽しかったこと。
 嫌だったこと。
 様々なことが浮かんで、それらが全部消えてしまうんだと、自分がこの世界から、社会から、なくなってしまうんだということが、ただ、ただ、とてつもなく、どうしようもなく、恐怖だった。

かっこ書きに向かう

 といった夢と、あと、事故にあう夢をみた。あう、というか、同乗していた車で、事故をおこした、というか。車線変更してきた人をひいた。最初自分が運転していると思って、路肩にとめようと思っても止め方がわからず焦っていたら、自分は助手席だった。

 とか。
 で、寝ていたけれども、頭の痛さで明け方に何度か目が覚めた。

 正直、「悪かった」。

 しかし、まぁその、夢の話だし、一週間の振り返りとしては、最初の方に書いたかもしれないが、仕事での問題も取りあえず方向性も見えたし、来週は落ち着かせられそうであるから、まぁよかったと思う。


 だが、昨日今日、土日という意味では、「悪かった」評価をしたいところである。


(かっこ書きである。何か、当初考えていた振り返りの記事と全く違うようになった。まったくもって体調の悪さと、夢のせいだ。土曜日に更新すると決めて、2回目でこの体たらくは落ち込んでしまう。が、いつもの免除規定で(ちゃんと書いてなかったが)、体調不良や、その他イベントによって書けないときは除外されるので、早速これを適用しようと思う。来週は多分、日帰りで旅行には行くが、まぁ大丈夫、書けるだろう。というか、本当は、「Angel Beats!」について書こうかと思っていたのである。あらすじは、見終わってからWIKIみたら、ほぼこれ、ストーリーなんじゃないかと思うくらい完全にまとまっていた。完全ネタバレに思う。見てない人は見ちゃいけないと思う。まぁその、僕の言葉で悪意のある表現をすれば、「よくある学園ものにバトルを持ち込みつつギャグパート多めだが感動させにくる作品」である。あまり好みの作品ではない気がしたが、導入は、シュタインズゲートと同様に、OP曲だった。「My Soul,Your Beats!」という曲なんだそうだが、これも今調べた。Angel……以下面倒なのでAB作品――のOP曲ということも知らなかったが、ニコニコ動画のアニソンメドレー的なので聞いたことがあって、「あぁ、いい曲だなぁ」と思っていたのだ。そんな状態で、アマプラでAB作品が「おすすめ」みたいにあがってきたので見てみると、「あ、この曲だ!」っとなって見始めたのだ。そんな動機だった。今回の僕のみた夢の話と関係ないようだが、今思うに、関係している気がしてきた。AB作品のテーマの一つに、「消滅」というのがあって、満足すると、その世界(現実を模して構築され隔絶された異世界)から消えるのである。その消滅とは何か、その世界とは何かということが打ち出されつつ作品は進んでいくのであるが、不思議なことに、「満足したら消える」のである。登場人物たちは、自分のやりたかったことを成し遂げたとき、幸せそうな顔をして消滅していく。そのシーンは、それはそれで感動的なのだけれども、しかし僕は、99%の感動のうち、対1%の部分で、「なんか怖い」と思っていたのではなかったか。「満足した死」って、何なんだろう。本当にそんなものあるのか――いや、その消滅する瞬間の彼彼女らは、そんな疑問なんて思わずに、本当に満たされて消えていったのだろう。でも、――だが、本当に、そうなのか。……なーんてことを、土曜日に書ければいいかなーぐらいに、先週? 今週? は思っていたのである。それがこんなことになるなんて……。また来週、覚えていたらもう少し詳しく書いてみようかな。あと、とある方のブログで、作品公開が順調にスタートされていて、そっちも見に行きたいが、まだ十分に確認できていない。ああ、そうそう、その中で、「人を不快にするコンテンツの発信は許されるのか」といったテーマが書かれていた。僕などより相当深く考えられているようであったが、このテーマについては、自分なりにも考えておいた方がいいだろうな、と思ったので、これも書きたい。関係ないけど、上の死刑の話で、そもそも自分が何か悪いことをしたのかとか全然分からないが、ただ、怖かったことは事実だけれども、でもそれでも、いや逆に、死刑制度はあっても仕方がないんじゃないかなって思った、逆に。いやそりゃ本当に怖かったのだけれども、ただ、それは、殺される被害者だって同じことだと思う。いやその被害者が、通り魔的に一気に首をかっきられて死んだら、「思考的恐怖=死が何かは分からないこと」もなく死ぬから、死刑という制度はおぞましいかもしれない、けれども、監禁して、体の端から徐々に切り刻んで死に至らしむようなことだったら――いや、その、個別具体的な状態を勘案して刑を考えるなんて、そもそも難しいと思うけれども、それでも、「感情的に」死刑というのはあった方がいいような気がした。死刑撲滅派の人たちは高尚な精神をもっているのかもしれないが、今のところ僕は、(夢の)経験的に、そこまでの精神はもてなそうだ)

拍手[1回]

PR

今日の一言「臨時の記事だ」

前書き

 土曜日毎週更新と決定している。しかし、別にそれ以外に書いてもいい。書く。

 HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)という言葉があるのを最近知った。
 病気ではないけれども、外界の刺激に敏感な傾向がある人のことを言うそうだ。
 
参考リンク

 でまぁ、診断基準的なのもあって、5人に1人の割合でHSPはいるということだ。
 ――という言葉で、「結構多いな」と思えるかというと、その1/5というのが、国や社会や集団によるのかとか、諸条件が気になるし、個別具体的にどう当てはまるのかというのは納得感をもてない(男女の差に優位はないらしい)。

 ただ、「鬱」とか「LGBT」じゃあないけれども、そういった概念があるということは、覚えておいて損はないと思う。

 HSPの人は、車の走るスピードが(ふつーの人より)速く感じたり、電話の音とか(ふつーの人より)うるさく感じたりするということだ。
 ただ、HSPという言葉は、「個性」というか、才能だという肯定的な意味で用いられているということである。細かいことによく気づいたり、抽象的思考に優れていたりするということだ。

役立つことを一つぐらい散りばめたい

 ぐだぐだ書くのもいいが、一つぐらい、常に役立つことを含めたいと思った。
 例えば、「内奥(ないおう)」という言葉は、「心の内奥」などと用いて、内部の奥深いところを示すという、まぁ読んで字の通りのものだけれども、実際用法として自分が使えるか、というと使えない。

 読んで理解できるものと、自分が思考言語、ないしは口頭言語として使えるものは別だ。(対義を「理解可能言語」と表現したところであまり意味はない)

 ということで、何かこう外部から、言葉をメモして、思考言語をもっと豊かにできたらどうかと思いついたことを、まず今回の記事としてメモしたい。
「通奏低音」――これも読んで字のごとく、音楽で流れる低音パートのことや、物事や考えの底部に流れていることを示すわけだが、意識的に使おうと思わなければ、理解可能言語のまま終わる。


 しかし果たして――言葉の豊かさは、思考の豊かさになるのか。
 むしろ、物理などは、自然のカオスを、より単純な一つの法則によって描こうと試みるのである。冗長な表現をしたところで、理解が深まったとは言えないのではないか。

 両方必要である。(つまらない回答だ)
 僕は、理系とか文系とか、そういった考えもつまらないと思う。両方大切だ。
 自然に対してのアプローチが違うだけなのだ。専門家になるのでなければ、両方のアプローチを知っておいて損はない。

雑記的部分

 といったことを思ったのと、「毎週土曜日更新」という目標のインプットのために、今日ぐらいは、書いておかねばなるまいと思ったのだ。
 目標、立てた瞬間は、「やれる(実行できる)」と思うものだ。
 それを、いろいろな「障害」があった後、数日後に同じモチベーションを保ってられるのか、その確認作業をできるだけ、最初は頻繁に行う。そのうち、感覚を広げていって、定着感を確かめる、そんな風な作業が必要なのだ。


 ということと、休日について、だ。
生きてるだけでしんどい
 という記事というか、タイトルを読んで、「ああ、なるほど」と思った。

「休日誘われると嬉しいちゃ嬉しいけど、生きているだけで負債がたまっていくから、休日はそれを回復するのに使わないといけないのだ」
 という。

 先日、かっこ書きで、「知人等に誘われて、実際行ってみると楽しかったりするけれどもリソース消費が激しい」ということを書いたが、その、「何もしないこと」に忙しいのである。

 予定が特にないと、「暇でしょ」と言われるけれども、そうじゃないんだ、ということだ。
 なんかどっかにでかけないと「休日がもったいない」とか、そんなん、全然違うんだ、ということだ。



 で、まぁ、そういう感覚と、HSP(ハイリーセンシティブパーソン)とが密接に結びつくのかとか、まぁ疑問は多く発生するけれども、そんなことはどうでもいいのである。
 大事なのは、そうした「思考表現」によって自己理解が可能になる、ということだ。

 流行りの言葉を使えば、「自己肯定感」でも「承認欲求」でもいい。
 ま、とにかく、普遍的に大切なのは、誰しも、「いい感じの状態」でいることだろう。


(かっこ書きである。飲み会と仕事が上手くいかないのとで、非常に疲れている。仕事の方は、自分が悪いというわけではないけれども、まぁその、問題が発生したという結果に対しては、責任がないとは言えないだろう。堤防を越える津波が来ることを予見できなかったら犯罪なのだ。しかし、責任というのは曖昧なものだなと思う。いやまぁ実際、上司の裁量とか、会社の規約とか、日本国法とか、ちゃんとした基準はあるんだろう。しかし、科学でさえも自然のすべてを解明できていないのに、所詮人間の作ったルールが完ぺきなものであるはずはないのだ。そして、ルールを運用するのもまた人間に過ぎないのだ。科学的思考や資本主義的思考は、普遍的なものが絶対的にあるかのように振舞ってきた。――的な書き出しすると、神やスピリチュアル的なものがあって、それらを信じてるのか、とか疑われそうだけれども、結局、そういったものの信仰もまた、絶対性の誤謬である。かといって、相対主義論に拠ってしまうのも間違っている――何故なら、実際に運動量保存則が成り立つケースは存在するのだ。窃盗罪は「10年以下の懲役または50万円以下の罰金」であって、ちゃんと基準をもって量刑が言い渡されるのである。事実は、事実として存在する。しかし、毎日ふつーに生きていくにしたって、その判断は、いつも流動的であり、不確定要素があり、時間的制約もあり、大変だ。お昼に今日何を食べようかという思考も面倒だ、大変なリソース消費だ(大げさ)。ちなみに、量刑の懲役か罰金かというのは、数か月前ぐらいに何かで調べるまで、被告人が選べるのかと思っていたら、そうじゃなかった。大の大人がお恥ずかしい。しかし、「知らないこと」というのは、もうそりゃ沢山ある。きりがない。だから、無知の知的態度が大事なのは言うまでもなくて、逆にそうだからこそ、そのきりのない中で「ストーリー」を構築できる人が、作家としてだけじゃあなくて、どんな分野でも成功できる。何故ならば、一般ピーポーは、ストーリーを構築できない。誰かのストーリーに寄り添って生きるしかない。さらに悲劇的には、自分自身のストーリーさえ構築できない。「自分の人生は自分のものだ!」とか掛け声は立派だが、その実は惨憺たるものだ――と書くと言い過ぎなのは承知の上だが、まぁその、思ったほど簡単なことじゃあない。まだ学校の勉強していた方が楽なもんである。にもかかわらず、子供たちに、「将来の夢は」なんてのは、酷な話である。いやまぁ大事なことで、やめるべきだという主張ではない。でも、「お父さんのようなお医者さんになりたいです!」とかいうのが、本当に「自分のストーリー」なのか、ということの疑義だ。ということを書くとスグサマ逆に、「別に自分のストーリーいらないんじゃない?」というのも思い浮かぶけれども、まぁその、あった方がいいと思う――というかかっこ書き長い。本文とどっちが長いのかと思うくらいだ。やめよう)

拍手[1回]


今日の一言「良かった」

前書き

 小見出しが「前書き」固定だと、書き始めは至極スムーズだということが分かった。
 しかし、さぁ、何をかこう。

 小説を、読もうかと思う。
 インプットなくして、アウトプットなし。
 インプットとアウトプットは、等価交換、エネルギー保存則は適用されないが、無関係ではない。

 インプット + 自己思考 < アウトプット

 という図式が成り立つ。
 等号(=)ではなく、不等号(<)であることがポイントだ。
 要は、インプットに対して、自己思考(単に何か思うこと)が発生することによって、インプット以上のアウトプットが生じるのである。

 何かの記事で、「自己啓発本を読んだとき、「へー」って反応をしている奴はダメだ。「そうそう」って反応ができるようにならないと、本を読んだって何の意味もない」といったのを見かけた気がする。
 要は、「へー」は、「すごいな、そんなことあるんだ」といった感動しているようだが、「他人事」なのである。自分で活かそうという気概がない。
 一方、「そうそう」というのは、自分も似たようなことを考えつつ、それを「確認する」という作業をしているから、より自分に引き付けて思考できているからだ、ということだそうだ。

 ま、それの真偽はともかく、

 インプット = アウトプット

 になっているようでは、パーソナルコンピュータに適うわけはない。外部ストレージに情報を保存するだけだ。
 文字や、静止画だけではない。ビデオカメラの情報は大量だ。
 いやもちろん、カメラの視点のあわせとか、どの被写体をとるのかといったことは重要だろうが、そういう意味ではない。単に、インプット情報を保存するだけならば、ビデオカメラで撮って保存したほうが正確で速いというだけだ。
 人間がやろうとすれば、上の「等号(=)」すら成り立たない。

 インプット > アウトプット

 程度だ。僕が上で見た自己啓発本を役立てようというような記事も、僕のつたない記憶力にかかれば、上に書いた程度しか再生できないのだ。
 しかし、これは僕の能力の多寡はともかくとして、誰しもそうだ。
 インプットに対して、単純に情報を「丸暗記」しようとすれば、絶対に「インプット>アウトプット」になる。情報量によっては、せいぜい、等号になるかどうかだ。


 んあー、長い前書きになったな。
 上のことはどうでもいいんだ、要は、「自分の思考」部分が大事だということをメモしたかっただけに過ぎない。
 

自分の思考

 まぁ、上のようなことを見かけたとして、「え、当たり前じゃね?」と思う人が大半だろう。
 ただ、それを文字起こし(ブログに書く)ということの意味は、ただの記録、という意味にとどまらない。

 何故ならば――。 

 てなことを書いていたら、やっぱり、投稿するのを躊躇ってしまった。
 躊躇って、しばらくして読み返したら、うーん、やっぱり、どうなん、これ、別にいっか……とか思い出す。

 まてまて、落ち着け、年初の方針はどうなったのだ。
 ここで怠けてしまうと、一年結局似たような感じで、「ま、いっか」とかいいつつ全然書かないことが始まる。
 そうすると、10年後ぐらいに、「2019年ってどんな感じだったんだろ」と思って読み返したときに、「え、記事、たったの4つ……」とかなりかねん。


 ――という思考自体がすでに「興味深い」なのである。
 何故ならば、おそらく、逆に10年前の自分に問うたら、「10年後の自分――」なんて、まちがっても書かなかったろうし、書いたとしたら非常に皮肉的な意味合いで書いたであろう。未来に対しての悲観的観測。

 そうした転換期、転機ってのがあるはずなのだ。
 どこかで、自分は変わっている。その変わっている「瞬間」なんてものはない。
 1秒で変わることはない。

 しかし、その、ある程度長い期間を範囲指定(スコープ)してみると、その「変化」的な奴が少し見えたりするのである。

良かった理由

 ああ、ええと、だから、今回はとにかく投稿する。支離滅裂で恥ずかしいけれども、まぁこれはいつものことだ――しかし、いつもはそれほど恥ずかしくない、何故なら、「勢い任せ」だからだ。勢いがないと、つらいなぁ……。

 とか言っても仕方がない。ノルマ的に課す。

 構造的にだな、
・今日の一言で、一週間(ぐらいが)「良かった」or「悪かった」か
・前書き
・何か本文的なの
・一週間の振り返りの理由
 といった感じで、週1を目指していこう。曜日も決めよう。基本土曜日の夜――ダメなら日曜日の夜。
 それ以外の単発で何か書くのは含めない。

 こんな感じでいこう。
 そうだな、期限も決めないとよくない。取り敢えず3月までやる。絶対。

 何だかんだ、ブログ(か日記か、ログか)書いていないと、俺はやはり、自己コントロール感が抱けないようであるのだ。
 だから、やる。
 ただ、効果のほどはどうか分からないし、「続ける」ためにも、期限がないとよくない。3月まで。もっと具体的に書いた方がいい。

 3月30日(土)まで。

 よし。気持ちは少し前向きになった、気がする。(こうやってちゃんとカレンダー見ると、2月3週目と、3月の2週目は土曜日使えなそうだな……とか未来の休日の予定とかも考えないといけなかったりする。これはいいことだ)

 え、あえ、……ああん、「良かった理由」書いてないじゃん。

 あーそうだな、なんだろう、取りあえずそんな悪いことはなかった。仕事とかプライベートの予定とかが不確定的な状況でヤキモキしたりして気分悪くなったりしたりしたが、結果的には上手くいったし、出かけたのも楽しかったりしたから、よかったと、思いまーす(小学生並み感)。



(かっこ書きである。かっこ書きが一番落ち着く気がする気がするが、気のせいかな。自分、友人少ない自負がある。俺が友人と思っていて、相手がどう思っているか知らない人も更に多いから、双方友人認識のは本当に少ない気がするのだ。ただ、別に困ったって思ったことは特にない。友人や知り合いが多くて、週末いつも誰かと出かけたりしている人もいるし、いたけれども、特に羨ましいとも思わない(ただ、「彼女」という存在は、きっととても素晴らしいものなんだろうなぁと、二次元的エフェクトによって、法界悋気だった)。なのである故、その、友人というか知り合いから、お出かけ的なお誘いを受けたとき、取り敢えず躊躇するのが分かった。いやその、行けば楽しかったりするのであるが、何か、休日はゆっくりしたかったりするのである。そりゃあさおめー、毎週一週間が4日仕事で3日休日だったりしたら、じゃあ一日くらいはお出かけしよーって気にもなるが。たまの三連休とかそういうんじゃない。毎週がそうだったら、少しは考える。映画見たり動画見たり漫画見たり小説読んだりサイト更新したり、寝たり、寝たり、寝たり――俺も色々忙しいんじゃい!(先週は外食に出かけた――おいしかった――が、今週は寝てばっかだったなぁ)――というプライベート的な誘いで、今週は「あーどっすっかなー」と、脳内リソースが結構消費された。平日の飲み会とかも、まぁその、他部署の人とか、上司とか先輩とのコミュニケーションも大事だし、そもそも「マジめんどくせぇ」人とは行かないから、行けば、知らないことも聞けたり、仕事の愚痴的なのも言えたりするから、まぁ楽しかったりするのである。が、早く帰れるなら、さっさと家に帰りたいのである。帰って、ぼーっとニュースやらアニメやら見て、好き勝手過ごす時間が楽しいのである。でもそれって、「現実的に」よくないことである。だから、倫理的思考(自己理想というか、理性)によって、「えーほら、そんな一人で家でこもってないで、友人やら先輩やらとちゃんと会って話したりしなさいよ」と言われ、一方で「えーでも、今日はゲームしたいんだけどなぁ……」とか思ったりするのである――ダメ人間だッ!! ……という人は、別に僕だけじゃなくて、少なからずいると思うから、それはまぁどうでもいいのだけれども、要するに、その「リソース消費」を減らしたいのである――あああ、全然書き足りないぞ! 全然説明足りてないぞ! もっと書かせろ! しかし、時間切れだ。あーこの、本文書いているときの「やる気のなさ」と、このテキトーかっこ書きのモチベーション(勢い)とのギャップは、どうにも、文字には表現しきれない。仕切れないけれども、もったいないから、何とか表現したい。こういう、「カオス的」なものを、記号化するのが言語であり、数学や物理はそれを「数値」や「数式」で表そうとする。数学や物理は、公式を暗記すれば解けるかもしれないが、しかし、「自然ってカオス!」という感覚がないと、絶対面白くないと思う。自由落下の法則も、中学生? 高校生で習って、速度を「v=gt」で表せるって、「へー」となるかもしれないが、そんな簡単なことでも、カオスな自然に法則があるって知るってのは、面白いことだと思うのである――って何の話だ)


拍手[1回]


今日の一言「月4回ルーチンとはどんなものか」

前書き

 なんだ、このやる気のないタイトルは。
 しかし、効率化を考えれば、ある程度定型文、テンプレートにのっとったほうが、確実に早く書くことができる。

 それで、今回の記事は、前回の記事のかっこ書きで書いた、「月4回は書く。で、一週間の振り返りをする。良かったか悪かったか、そしてその理由を書く」とのことの練習をしてみたい。

 時間制限を設ける。今回は20分だ。タイトルの記入や、その他もろもろ含めて20分とする。実質、文字を書くのは15分ぐらいになるだろう。
 そうしたとき、どのぐらいまで書けるのか。本当はこういった、時間に追われて書くというのはあまり好きではないのだ。追われて書く意識がなくても、おおかた、1時間ぐらいで「投稿しよう」という勢いにはなるのだけれども、15~20分という時間ではどうなのか、というのが今回の目的だ。

先週の振り返り

 えーっと、そうだな。まぁ、良かったんじゃなかろうか。
 ――というか、その、よいわるいの基準って何なのか。それがないと、毎回そこに悩む気がする。
 気分だよ、気分。

 良い気分でいられたか、悪い気分だったか、ということだ。

 しかしだ、1分、1時間、1日、1週間と、時間区切りにはなるものの、気分ってのは、そんな区切られるもんなのか。もちろんそんなわけはない。
 良い悪いも、言ってしまえば、1秒単位で変わってしまう可能性がある、不確かなものだ。

 そんな不確かなものを、そもそも、実際の気分発生タイミングと、「書く」というタイミングがズレている状態で、その良しあしを書き残すことに意味はあるのか。

 あるかどうかじゃねえ、とりあえずやってみるって話だ。


 で、「良い」と書いた。

 何故よかったのか。
 特に悪いことがなかったからだ。――いや、先日の記事で、「あーもっと、コミュニケーションうまくやりゃあよかったぁ……」って悩んでなかったろうか。

 しかし、今日は全然そんなことはなかった。散歩というか街を歩いたり、おいしい外ご飯食べたりして、大変満足だった。気の置けない人と一緒の食事ってのはいいもんだ。


 ――ということは、その、単純に、今日の気分がよかったから、「良い」という判断になったということじゃあなかろうか。
 これが、先日、「失敗したな」と思った日に書いたら、当然、「悪い」という判断にならないだろうか。

目的が違う

 ――というわけで、毎週の振り返り、ということをやってみたのは、別に今回が初めてではない。月単位だったりしたかもしれないが、試していたことはあったのだ。
 しかし、「基準」がないと、結局「良い悪い」もよくわからないものになり、形骸化し、習慣化しなかった。

「マジ」で、習慣づけしたいときは、逆に、「やらなくてもいい時(条件)」(=免除規定)を設けたほうがよほど良い。

 もしくは、「こういったときはやる」という条件を決めて、それを丁寧に履行していくのがよいだろう。

 ただし、それよりなにより大事なのは、それを心底、「やりたい」乃至は、それをやることで「達成したい」というものがあるかどうか、だ。

 現状の低下(劣化)は、意識する必要はない。しかし、「現状維持」以上は、何らかの目的意識をもっていないと達成できないのである。

 大事なことを書いた。現状維持以上、だ。現状維持も、意識しなければ成り立たないことを銘記すべきである。

良かった理由

 まぁその、お正月、実家でのんびり過ごせたことが良かった、といった理由で、初回、今回は許していただこう(自分に)。

 なんというか、その、脈絡関係ないが思い出したのだけれども、おばあちゃんがいるのだけれども、体が弱っていて、もう幾ばくも無いといった状態のようだ。
 しかしそれより、認知症で、もう、何も分からないようで、一日中寝ているような状態だ。

 現代で老いるというのは、こういうことなのかと思った。
 姥捨て山、というと、なんとも昔話で恐ろしい気がしていたが、自分のことも何もできなくなり、誰か、何かも認識できなくなったら、そういう人たちを受け入れる施設や組織がなかったら、家族という単位ではもうどうしようもなくなっていたのだろうと勝手に思う。


 筋トレは続けている、と前回も書いたが、人体器官で一番大事なのは筋肉ではない。
 心臓でも肺でもない。

 それは脳だ。

 脳があるから、自分を自分として認知できる。「わたし」というものが、そもそも相対的なもので、絶対ではないというのが仏教的な教えかもしれないが、しかし、西洋哲学的な意味での「わたし」を考えたとき、最も大切なのは「脳」である。

 認知症を、「過去のことを覚えているが、新しいインプットができなくなること」と思っていたが、ひどくなると、過去のことさえも分からなくなる――いこーる、自分自身すら分からなくなるという状態だとすれば、「わたし」として「生きる」ということは、いったいどこまでが成り立つことなのか、などと思わずにはいられない。


 ――といったところで、20分。

(かっこ書きである。やばい、そうか、かっこ書きもあった。これも含めると、もっと早めに切り上げないと、20分というのは難しい。ただ、一つ書いておけば、「意外に長かった」という感覚。そりゃそうかもしれない、「書かなきゃ」という義務的に書くと、長く感じるのだ。いつもは、もうそりゃもう適当に……いやいやゴホンゴホン、勢いよくゼロ秒思考的に書いているから、特に負担もなかったわけである。今回もゼロ秒であるが、まぁその、「入り」が違ったから長く感じたのかなぁ。とりあえず、徐々にもう少し中身がある記事というか、しょっぱなから、何が言いたいかがもっと明確になるような記事を、(できれば短時間で)書いていきたい)

拍手[1回]


今日の一言「明けましておめでとうございます」

30分制限で書く

 書初めって、本当は、1月2日にやるのがいいらしいと知る。
 まぁ、それは良いとして、昨日3日に書こうと思ったら、忍者ブログがアクセス集中やらなんたらで繋がらなかった。

 だから仕方がない――というわけにはいくまい。

 いやいや、ブログを書いていなかったわけではない、少しずつ、スマホとか、非公開の状態で書きつむいだり、やっていたのだった。
 しかし、「投稿」までには至らなかった。
 なんというか、「勢い」が大事である。

 なんかこう、「ひとまとまり」感がないと、投稿する気がそがれるのである。
 そんなことは、まぁ、何度も書いた気がするけれども、昨年12月ぐらいから、そんな状態がずっと続いて、気づいたら2019年である。
 さらに、今すでに4日になっているのである。

 これはさすがに「まずい」と思い、今こうして、取り敢えず、30分という時間は固定して、書初めに至るわけである。

そんな近況必要なのか

 上のような近況報告ティックなのは、必要なのだろうか。
 不要である。――が、自分にとっては必要である、むしろ重要であるぐらいだ。

「のっている」時は、むしろ、それほど気にしなくてもよいのである。
 何も書けない時こそ、注意が必要なのだ。

 いやいや、そもそも全人類の大多数を占めるだろう、そもそもブログ(や日記やログやその他書くこと)をやっていない人たちに、何の注意が必要なのか。その注意というのは、俺自身にとってだけのことではないか。

 YES。肯定である。

 最近、ソシュールという哲学者? 言語学者? について調べている、というか、考えていたが、僕らの「思考」すら、言語の枠組みから離れられていないということは、よくよく再考の余地があると思う。
 その理解というのが、シニフィエやシニフィアンやら、ラングやランガージュやパロールといった、専門用語と、日本語との訳を結びつけるという、「テスト」の点を取るためのものであってはならないだろう。
 自分の、僕自身の言語活動における、そうした「概念」の理解に務めるべきだと思う。

言語の話しはおいておいて

 この記事において、「閑話休題」といった言葉はつかえない。なぜならば、休題するべき閑話がないのである――むしろぜんぶ閑話であり、ぜんぶ主題だ。

ゾンビランドサガ

 アマゾンプライムで、「ゾンビランドサガ」みた。
 昨年12月ぐらいから見ていったが、今年に入って全部見終わった。
 面白かった。泣いた――感動した。

 いやまさか、自分が、アイドル育成系の作品で感動するとは思えなかった。なんだこの感情――まさか恋!? などとふざけた混乱したことを書いてしまうくらい不思議な体験だった。

 シュタイズゲート主人公のオカリンの声優さんが主要な人物(アイドル育成のマネージャー)役であったが、あの破天荒というか、ハチャメチャというか、気が狂っているというかの演技は、やはり最初は抵抗感があった。
 しかしなんか、最後のほうはそれ込みでもう「やっちまえ、いっちまえ!」というレジェンドだった。

シンゴジラ

 シンゴジラが何故海外では流行らなかったのか、という記事は書いたっけ? それが非公開に埋もれてしまったやつだっけか。
 ええと、なんだ、理由として、海外では、「家族」を描いていないと「うけ」ないんだそうだ。
 シンゴジラは、主人公たちの家族というか、家庭が描かれていなかったという。まぁ確かにそんな気がする。しかし、あの映画の時間内で、それらが描かれる隙間はなかった気がするし、自分としては余計なものな気がする。
 ただ、海外では、家族や家庭ってのがちゃんと描かれていないと、「子供向け」として見向きされないんだそうだ。もっというと、人物が、「キャラクター」としてしか描かれていないとして、現実の人間を扱っていないもの、と見なされるということだ。

二つの作品のつながり

 というわけで、ゾンビランドサガと、シンゴジラの二つの作品を挙げたわけであるが、正直、あまり関係なかろう。たまたま、情報に触れた時間軸が近かっただけだ。

 それを、無理やり関連付けようとなんて考えると、途端にブログは書けなくなるし、「投稿」もできなくなる。ええい、やめようじゃないか、とりあえず、だ、今日は、このまま時間ぎりぎりまで書き続けてやろう。


 まぁその、ただし、いろいろと、感じることはあるわけである。
 ただ、それを「恥ずかしいもの」と捉えがちなのがシャイな日本人である。

 何かこう「場の空気」みたいなのがあって、それにぴったしな反応をするのが大事、みたいな風潮――って表現が思いついて、そう、書きたかったことを思い出してきた。


空気

 なんで、僕が、人とのコミュニケーションを恐怖しているのかというと(※)、やっぱり、「他者に変に思われたくない」ということである。
 もっというと、「よく見られたい」という思いが強い気がする。

 唾棄すべきだ。

 と、ブログでは強気に書けるのだけれども、どうにも、対面したコミュニケーションでは、異様なまでに気になってしまっている。おそらく、というか、ほぼ確信的に、「変」には思われていない。が、もう少しスマートな、かっこよいというか、ウィットがきいた、場を和ませてさらに「こいつともっとしゃべりたいな」と思わせるような云々的なことができたのではないか、てなことを思うわけである。
 ――馬鹿らしいと思うだろう。俺も思う、思うけれども、どうにも、僕はそう思っているようだと、思ったのだ。

 というか、「思う」という、思考言語の中だけであれば、このように、言語を上書きすることで対処できるのだが、どうにも、「身体」として、そわそわドキドキというか、落ち着かなくなるのである。

 失敗した。失敗した。失敗した――。と、何度も何度も何度も、頭の中で警鐘が鳴り響くのである。悔しい思いをするのである――不思議だ、どこの誰も自分に何か言ったわけではないのに。

 サイレント言語を、他者から読み取っているのだ――とも書けるし、僕の単なる妄執、とも書ける。そしておそらく、その両方が正解であり、はずれ、でもある。


※え、そうだっけ? という感情も同時に抱きながら書き切っている。先日の記事で、「コミュニケーション俺、上手くなったもんだなぁ」ってことも書いたことがあったと思う。赤面物の記事だが、そういう内容も書いておいてよかった――それはそれで、生の自分の感情である。どちらも、アンビバレンスに成り立つ感情である。

被害妄想的な解釈

 要するに、「昨年はお世話になりました。今年もよろしくお願いします~」的な雑談において、もうちっとばかり機知に富んだ何かができたんじゃないか、ということである。もちろん、上に書いた話だけではないけれども、要するに概念的にメモすればそういうことだ。

 そんな、他愛のない一幕にも関わらず、僕は、「失敗した」と感じて、落ち込むのである。何故か。

 それを考えてみて、思いついたことをメモしておこうと思ったのだ。本当は、それをメモできれば、この記事としては投稿に値すると、自分自身で思えるのであるが、ここに至るまで、ここまでの文量が必要なのである。「いや書いてから消せよ」と思うだろう、だが、消せないのだ。この「流れ」が必要不可欠なのである。

 前置きはいいから、その思いついたことやらをメモしないと、もうそろそろ時間がない。

 ええと、「僕は、小さいころに、いじめられていたことがあったので、他者の顔色を必要以上に伺ってしまうことがあるのだと思います」、以上。


 あーえーその、「いじめ」的な定義がまず必要だろう、というのもあるし、それと、コミュニケーション難ありの関連性についても記載しないと、何ら説得力のある文章にはならないだろう。

 しかし、正直、それはまぁあまり重要ではないのである。
 結論ではなく、この思い付きに至るまでの、それこそ「日記」が大事なのだ。

 昔の記事とか読んでいて、「つまらん」って思うのは、むしろ結論重視の奴である。
 思考の「流れ」が書いてある記事は、まぁその行き着く先がどうであれ、尻切れトンボ、竜頭蛇尾であっても、まぁまぁ何となく最後まで読んでしまうのである。


 なので、まぁその、今年も、昨年以上に、ブログは書いていきたいと思う。
 あと、筋トレも、キャリステニクス(自重トレーニング)の理論を正しく学びつつ、継続していきたい。キャリス・テニクス(ギリシア語で「美」と「強靭さ」)についても書いたっけ? これも非公開埋もれした気もする。

 とかなんとか、今年の抱負的なのを述べたら、今回の記事は投稿してよかだろうか?


(かっこ書きである。時間制限付きで、「絶対今日は書くぞ」と心に決めておかないと、中々書けない。書けば書けるのだけれども、「今日、書く」という心理、動機を明確に持たないと、書けない。というのは、「やればできる子」的な奴で、僕は好きではない。「やれない」「やれていない」ってこと含めて、それは才能であり、努力であり、能力であり、限界であるのだ。ということで、一週間――そうだな、曜日は決めずに、必ず月4回は書く(書いて投稿する)と決めようと思う。あと、新しい試みとして、その中に、過ごした1週間を自分で評価してみようと思う。良かった、悪かった、二択でよい。選択肢が多ければ多いほど形骸化する。良かったのなら一つその理由。悪かったなら、一つその理由。そんな単純な方がPDCAはうまくいくものである。PDCAとかってよく聞くけれども、何が一番大切か知っているか? ――「続けること」だ)

拍手[1回]


  
プロフィール
HN:
遠藤
性別:
男性
自己紹介:
カウントアップ
カウントダウンタイマー
カレンダー
12 2019/01 02
S M T W T F S
1 2 3 5
7 8 9 12
13 15 17 18 19
21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
最新コメント
[01/14 遠藤]
[01/13 imihu]
[01/06 遠藤]
[01/06 遠藤]
[01/05 imihu]
[01/04 バール]
[12/31 白銀]
[12/30 遠藤]
[12/05 白銀]
[12/05 白銀]
[12/01 遠藤]
[11/29 遠藤]
[11/29 白銀]
[11/08 イミフ]
[11/07 遠藤]
[11/07 イミフ]
[10/22 遠藤]
[10/21 みゅう]
[10/20 遠藤]
[10/15 白銀]
[10/12 遠藤]
[10/09 白銀]
[10/01 遠藤]
[09/24 イミフ]
[09/17 遠藤]
Copyright ©  -- 生きる意味を徹底して考える --  All Rights Reserved

Design by CriCri / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]

アクセスランキング