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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「習慣って怖いなぁ」


取り敢えず書く

 もう、ルーチン、免除規定なのだけど、書く。
 書かないと、その、落ち着かないというか、変な感じ。このフワフワっとした感じを乗り越えて、自然に何も考えずに行動できるようになってくると、「習慣」と言えるようになる。

 自分の行動を制御するというのは、結構面白いことだなと思う。それを是非成果に結び付けたいものだ。

 という、その「成果」というのが、たとえ、自己満足だろうが何だろうが、例えば、グラフ化して示すとか、そういうものでも、「目に見える成果」なのであり、行動付け、ルーチン化するには有効であるといえるだろう。

 さて、昨日の「目標」の話。

目標を立てるのは何故重要なのか

 人生を楽しむためには、目標が必要である。

 というテーゼ。「目標が大切」ということについて、あまり批判はないのではないか。
 ただ、ここでいう目標というのは、できるだけ、長いスパンのものである。

「明日はこうしよう!」

 というのも、目標といってよいが、しかし、短期目標は、往々にしてその場限りである。一日一日を乗り切る、という意味では重要ではあるが、それらは、「その場限り」の生活になってしまう。
 それでは、人生を本気で楽しむことはできないと思っている。何故ならば、24時間いっときも、どんなときも、必ず「快感情」を生じさせ続けることはできないからである。人生は浮き沈みが激しいものだ、という意見にも、批判はあまりないだろう。つまりそういうものなのだ。いいことあったら悪いこともあったりする、そんなもんである。
 そういった人生というものであったとき、「その場限り」の目標だけでとどめてしまうのは、かなりリスキーな生き方だと僕は思う。だから、長期的な、より長い目標が必要だと思うのだ。それを、言い換えれば、「信念」や「自我」といってもよいかもしれないと思う。

目標の受動装置

 例えば、

「子供の成長」

 といったのは、日々人生に新たな刺激を与えるものであり、「目標」なるものが、天啓のように与えられるのである。

 恋人との甘い生活でもよいし、スポーツに熱狂するのもよい。
 それらは、「目標」を受動的に与えてくれる装置だ。

 でも、本来、そういった「装置」に頼らなくても、目標というのは自ら創造し、生み出すことができるものだと私は思っている。
 つまりだ、僕は、目標自体を創造したいのである。与えられた目標をこなすのも大事だけれども、自分自身で目標を創りあげて、その中で精一杯生きてみたいのである。

 その結果は、失敗だろうが、成功だろうが、きっと充実して、楽しいものに違いないと思うのだ。

ゴールではなくクリエイト

 そうか目標は到達するものではなく、創り上げるものだったのか。
 だから、なんだか、ずっと、得体のしれない違和感が、つきまとっていたのかもしれない。なんか、「ズレ」を感じるな、というのは、そもそも、解釈が間違っていたのかもしれない。

 目標は目指すものではなく、到達するものでもなく、PDCAサイクルでブラッシュアップするものでもなく、ただ――自ずから、創り上げるものだったのか。


 そう考えると、これまでの考えや、感情というものの解釈も、変わってくるかもしれない。これは大きな気付きかもしれない。

 眠い。終わり。――と13分ぐらい。


(かっこ書きである。眠い。眠いけど、睡眠よりも書くことを優先させた。創作ルーチンも進めた。むっちゃくちゃ豪放磊落な人物を描きたくなって、書いていた。メールとか返せていない。今度の飲み会の場所も探さなきゃ。ストレンジトゥエルブも読まなきゃ、某氏のブログに舞い戻れない。これはつらい。仕事が終わんねー。本読まなきゃ。ああ、もう、眠い。筋トレしなきゃ、お風呂はいんなきゃ。時間が――ない、わけではなくて、つくれていない。それは偏に能力の低さである)

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今日の一言「ストレンジトゥエルブ面白い」「ナイツ&マジックも面白そう」


15分スタート

 えーその、画像はって、タイトル買いて、ここまでで一分経過。
 はい、その、カウントダウンタイマーで厳密に15分はかってみることにしました。

ナイツ&マジック

 1話アマゾンで無料で見れたので、見てみました。映像がきれいでよかった。転生モノで、世界観など、真新しさはあまりなかったけれども、キャラクターが何となく好き。主人公の友達になる子たちはあんましビビッとこないけれども、主人公の屈託のなさ(ロボットにあこがれる純な心とその努力行動力)がよかった。でも、なんか、「生涯の友となることを、まだ知らなかった」とかなんとか、ナレーションがイマイチ。こう、第三者視点で語られるのが、あんまり好みじゃない。かといって、必ずしもダメかというとそうでもなくて、このあたりもう少しちゃんと書きたい。
 とりあえず、無料で見れたのは1話だけだったので、続き見るかは保留。

ストレンジトゥエルブ

 AA小説、みたいなジャンル? なんだか面白かった。まだ2話しか読んでいないけれども、続きが気になる。
 とりあえずこれもメモ。

残り10分

 えー焦る。
 その、なんだ、目標の話だ。
僕はやはり目標がないとダメなようだ――というのは、そもそも、その行動や生き方自体が、目標がなければ、「よいのかわるいのか」自体が、自分自身判断ができないからである。……と長くなりそうだので、その「目標の必要性」といった内容を次回

 ということで、

ブログは書くのは何故か? →仲間を求める心性だ!

 という話から派生したのであった。
 どう派生したのか? それは、ブログ=仲間という方程式が成り立つことは間違いないとして、では、私は、その「仲間」というのを、どういった方向性で想定しているのか? ということを考えたわけである。
 そしたとき、そもそも、このブログのテーマは、「どう生きるか」ということであって、もっと書けば、「素晴らしい人生を送るためには」「わが人生にいっぺんの悔いなし」的な感じを得るにはどうしたらいいか、という問題提起である。

 そこに、僕は、「絶対に目標は必要である」というテーゼを置く。これは、「目標はあったほうがいい」というレベルではなく、あるべきだ、というものである。

 何故か?

 例えば、「いやいや、どうせ死ぬんですから、人生楽しんだ方がいいッスよ。目標なんて、かたっくるしいこと考えっこなしッス。うぇーぃ」という人もいるだろう。
 しかし、そういったものを含めて、僕は、「目標」と呼ぶ。
 楽しきゃおっけいーうぇーいの人も、――いやむしろ、そういったひとたちは、すでに人生の目標……ひいては、目的を得ているといえるのだ。
 そこに問題があるとしたら、「目標や目的を無しとする目標や目的」という状態が、10年……50年、臨終、といったときに、それで良かったと思えるかどうか、その点のみである。

 僕は、死に瀕して、「ああ、俺の人生って何だったんだろう?」なんて思うことが、一番悲劇だと思っているわけである。
 そんな可能性があるとしたら、今、一時の快楽を我慢することなど、全然苦にはならないのである。

人生とは

 とはいえ、僕が上に書いているのは、あくまで、概念上の「人生」というキーワードに過ぎない。
 人の一生……といっても、その言葉が表す状況や、各々がイメージするものは異なる。

 例えば、「時間」という概念。これは、「時間は誰にでも平等である」ということが言われたりするけれども、実は、その概念も人が作り上げたものである。もう少し卑近な例で行くと、時間の感じ方は文化によって違うとかいう、そんな話である。

 もう一つ、「人生」や、今わの際、とかいったって、急逝する可能性もあるのだから、そんな、死ぬときのことなど考えるのは無意味だ、という考えもある。

 それもまた事実である。
 それらをひっくるめて、全状況として、「自分……

 ――時間切れ。


(かっこ書きである。エディタ起動してからいろいろで、15分、いやぁ短いなぁ。まずそもそも、ナイツとストレンジは予定外であった。あと、創作ルーチンで、意外に書き進んでしまったことが今日という日がひっ迫した原因であった。一気に書けるときはあるんだなぁ。しかしこう、自分で書いている最中に他の物語に当たるのは、あんまり良くないかもしれない。オンラインゲーム症候群的な意味合いもあれば、書きたいことが分からなくなったりブレちゃったりする可能性もある。行き詰ったときはいいだろうけれども。ええと、それで、次回。結局、なんで目標立てなきゃいけないの? ということが書き切れていない気がする。というよりも、「目標が大事」なんてことは、誰もが何の疑問ももっていないことで、書く必要性がないのでは? という疑問ももっともである。ただ、そりゃあ、個々具体的な「生き方」において――例えば仕事とか、恋愛とか――目標ないし戦略戦術が大切だなんて、分かりきっていることだろう。ただ、僕が書いておきたいというか、念頭に置きたいのは、そういうレベルなんじゃなくて、金言というか、モットーというか、「信念」的なのをもつべきではないか、という提起である。そういう意味で、「目標」というよりかは、「自分がどんな状況でも貫き通したいという生き方」を、持つべきではないか、といったことを表現したいわけである。それは言い換えれば「自我」といったりするわけであるが……と、とにかく強制終了、次回にする)

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今日の一言「アイディアのメモがしたいけれども」「いざ書き出すと陳腐に思えたり」


ブログを書く動機

ブログの更新って、特に何も決めてないけれども、ふと書きたくなるから書いているんだよな……ってそうだ、「それは何故だろう?」という思いが生じたから今回の記事を書き始めたわけだったが、なんだかテーマがそれこそブレブレになったなぁ。明日はそのあたりを書いてみよう

 今日は、書きたくなったわけではなくて、昨日やろうと思っていたから、帰宅早々に書き始めるのである。創作ルーチンは免除規定に該当する時間帯であるが、なんか、毎回書くごとにグラフを上げるのが日課・癖みたいになっていて、取り敢えず書く。しょ……しょぼい、が、まぁその、ええと、続けるってことが大事だよね……(自己弁護)。

 さて、何故ブログを書くのか? という問いについて答えてみよう。

 まず、多くの人がそうであるだろう、お小遣い稼ぎ、という意味は全くない。アマゾンリンクを貼ることはあるけれども、主に単に本当に紹介したいから貼っているのである。別に買ってもらおうと思ってるわけではない。というか、いまだかつてそれで収入が発生したことはない。ほんとに、ブログで儲けるなんてできるのか? なんか、よく見かけるのは、「簡単に設けられました!」「アクセス数少ないけど、月に数百円ぐらいはもうかりまっせ」とかそんなのだけど、信じられんなぁ。

 というか、広告収入というのが、正直あまり好きではなかったりする……というか、「広告」というのがあんまり好きじゃなかったりする。いや、純粋に「良いものを紹介しよう」という動機の果てのビジネス化が広告産業なのだとは理解できるけれども、結局、お金を積めば良いか悪いか別にして、人の目につくように「広告する」というのが、広告という言葉に含まれるイメージである(僕が勝手に思ってるだけ)。

 確かに、複雑化した社会において、広告という行為・仕事がなければ、適切な情報や商品を手にすることができない場合もあるだろう。それは、足りないところに、余っているところから商品を持って行って取引するという、古代からの商業と異なるものではない。その取り扱うのが「情報」であるという点のみが異なる。

 しかしながら……って、あ……。そうだ15分制限時間付きだった。こんなこと書いている場合じゃない。そう、こんな余計なことを書き始めてしまうから、いっつも無駄に長くなってしまうのだ。

動機その2

 上の小見出しでは、「お金を儲けるためにブログを書くのではない」という一言を書けばよかったのに、また余計な話に入ってしまうところだった。危ない危ない。やっぱり、時間制限を意識するのはいいことかも。

 それで、ええと、動機、ね。

 やっぱり、自分の思考の整理、ってのはあると思う。ただ、最近、「イライラ対処」のカテゴリは使っていない。あれは単に、いらいら・むかむかするから、取りあえずタイピングに時間を任せるという感情制御手法の一種である。それ以上の動機などありゃしない。

 しかしそれ以外のカテゴリは、そんなに感情が高ぶっているわけではない時に書いている。

 では、その時に書こうと思った動機とは何か? 日々生活している中で、思ったことや、触れた作品などについて、書き残しておこうという意味である。



 その動機は大きいだろう。この、「書き残さなければ、どんどん記憶から消えて行ってしまう」というある種の強迫観念的なのが、かなり前から僕には存在していた。これは、リアルが充実(この表現があまり好きではないが)していた時期かどうか、という点に依存していないといってよい。むしろ、日々の生活が忙しい(≒充実している)ときほどに、「書かなければ……」という得体のしれない思いに悩まされることすらあったといえる。

 しかし、本当に、それだけが原因なのか?

動機のその3

 ただ書けばいいのであれば、そりゃ、昔ながらにやっていた、紙の日記だとか、ローカルなログとか、そんなんで良いはずだ。
 そこで、疑問としては、「何故、ブログという媒体を選択するのか?」ということである。

 カテゴリ分けしやすいとか、モバイル端末でも読めるとか、そういったアーキテクチャ・インフラ的な意味をいくつか挙げることも可能だと思うが、僕はやはり、次の理由を強調したいと思う。

「公開」

 公開しているということ。
 確かに、独自ドメインの取得や、積極的にブックマークを増やしたり、SEO対策をしたりとか、アクセス数を稼ぐための努力はしていないし、しようとも思わない。

 けれども、この、開かれた、大げさに言ってしまえば世界につながっているこの「公開」という状態。これが、紙やローカルには無い重要な点に思う。

 つまり、僕は、「駄文だ――面白くない――」とか自分で書いておきながら、誰かに読んでもらいたいのだ! なんと矛盾、相反した感情! アンビバレンス!!

それはつまり承認欲求

 ある精神科医さんに言わせたら、それはきっと、「承認欲求」なるものだろう。


 上記の本は、応援のつもりもあって即座に購入したけれども、しっかり読めていない(あちゃあ……)。ただ、その「承認欲求」だけでなく、「所属欲求」も重要なのだよ、という点が新しいというか、重要な本のポイントな気がする……しかし、暴力の人類史を読み進めねば、返却期限が迫る……。


 ええと、なんだ、その、あと時間が何分? 5分?
 15分短いなぁ。厳密にはかってないから、今度はストップウォッチしてやろうか。いや、でも、中途半端になるのはなんかいやだなぁ。


 ええと、でも、まとめに入ろうこの記事の。
 つまり……ああもう! 時間を意識すると書けねえよ! でも書くよ! そうだな、あの、誰かに読まれたいってことは、認められたいという思いが、僕にもあるってことの証左だろうということだ。

 その認められたい思いというのは、まぁ、いろんなところで満たすことができる世の中だ。ローカル閉鎖コミュニティしかなかった時代とは違う。その点、現代は非常に生きやすい世の中だ。

動機4

 しかし、その、認められたいという動機だけでもないと思う。
 これも前に書いたかも分からないけれども、「仲間」が欲しいのである。某方が、鋼鉄城カバネリの感想というかレビューの中で、「ラスボスはずっと仲間を欲していた」という主旨のことを書かれていて、えらく感動した記憶がある。

 なんというか、そう、部下でも、友達でも、恋人でもなくて、「仲間」って表現が、その中で非常にしっくりきたのである。

 確かに、ゴウタマさんとか、尊敬できる人はいるし、彼の方はすでに現代に生きてはいないが、それに近い思想や生き方を持っている人は大勢いる気がする。
 ただ、なんというか、「すでに到達した人」は、師匠とか、メンターとか、指導者だったりして、それもまた、なんか違うんだ。

 そう考えると、「仲間」というのは、非常に難しい概念な気がする。

 ――よしじかんぎれだ!


(かっこ書きである。いやぁ、とても、時間は有意義な気がした! 濃密な15分だった。終わってみると、やっぱり大したこと書いていない気がするが、脳みその活動はいつもよりも濃縮還元だった気がする(いや濃縮還元したら結局薄まってないか?)。しかし、毎回これやってたらブログ書くこと自体が嫌になる気もする。いやでも、そんなんで嫌になるぐらいだったら、長々と今回書いた「動機」ってやつも、しょせんその程度のものだというのか。その、「イライラ対処」的な、「書いてると気持ちが落ち着くぜ」という意味でも、僕は十分に思う。でもそれは同時に、それを公開するというのは、「はいはい、慰めてもらいたいんですね」的な意味が「論理的に」強くなる気がするので、なんか好きじゃないのである。感情を軽視するわけではないけれども、とあるブログさんとかで、いつもいつも、「あいつは許せない!!!1111」的なことを書いている方もいらっしゃるが、……ある意味すごいとは思う。ただ、その「許せなさ」が、様々な表現でなされるのであれば、それはそれで面白いのだけれども、いつも同じ表現で「許せない!!!!1111」しか書かれないと、残念ながら面白くはない。その「面白いと思われる」こと自体不本意なのだろうけれども、しかし、やはりそこは、「公開している」のであれば、その怒りを、苛立ちを、むかつきを、それを誰にでも分かるような表現に落とし込まなければならないと思う。――といった、偉そうなことを書くためにも、僕自身のブログは何なのか、ということを、今一度、整理したかったというのが、先日・本日の記事の目的であったが……十分なのだろうか。何か足りない気がするな。しかしまぁ、「仲間が欲しい」というのを目的に掲げておくのは、一般的・抽象的で、今後も使いやすいかもしれない。――使いやすいとは何だ? ……と、かっこ書きがどんどん長くなるのも、時間制限の結果というか、反作用な気がする。だいたい、時間を意識しないと、1時間以上はずっと書き続けていることが多い。さすがに、どんなに時間があって、体調がよくても、1時間以上書いていると、段々飽きてくるのである。この1時間ぐらいというのが、自分の「リズム」だということか。とか書いていて、だんだん30分に近づいている気がする。とりあえずやめよう、強制終了……の前に、明日以降の書く内容について予告しよう。もう少し、一つのテーマというか話題を、複数日に分けて突き詰めていくということもやった方がいいと思いながら、これまでいろいろ理由をつけてやってこなかった。書くべきは……やはり、近々の目標といったところだろう。目標がなくても生きられる人はいるのかもしれない。ただ、僕はやはり目標がないとダメなようだ――というのは、そもそも、その行動や生き方自体が、目標がなければ、「よいのかわるいのか」自体が、自分自身判断ができないからである。……と長くなりそうだので、その「目標の必要性」といった内容を次回。これも何回か書いているような気がするけれども……)


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今日の一言「ブログは書きたいと思うのだが」「何故書きたいと思うのか」


制限時間つけて書こうか

 こう、ダラダラするのは良くないよな。明日死ぬかもしれないよなメメントモリ。
 ああ、株価が良くないなぁ……と、いっぱしの社会人ティックなことを思う。私の株の師匠が、「ま、投資額が三分の一になるかもしれないけど、がんばんなよ」と言っていたことが思い出される。逆に上がった銘柄もあり、トータルではマイナスだが、もう少し様子を見よう。どうやら、海外情勢が原因で売り傾向が強いという見方が強いようだ。それがどう影響するのかは全く分からないが。

 ええと、そう、制限時間か。以前からそもそも、ブログ、一個ずつの記事が長くて読みにくいよという指摘を頂いている。これは確かに、その通りに思っている。
 ただ、短ければ良いかというと、それは違うと断言できる。過去に、短い記事を連発している時期があったが、それらは、ある程度まとめたらそれはそれで読む価値を見出せたが、「今日は〇〇をした。こう思った。今後はこうしたい」的なの、自分で読んでも面白くない。

 ある程度の長さが必要だ。
 しかし、それはどの程度なのか、分からない。

 そもそも、テーマが、記事の一つごとにまとまっていないから良くない。――それは分かっている。じゃあ、どうすればよいのか、というのが分からない。え? テーマを一つにしぼればよくない? いやいや、それは単にトートロジー(同じ言葉を繰り返すだけで何の説明にも方策にもなっていない)である。

15分感想

 以前、100にも満たなかったが、読んだ本の感想を15分時間限定で書くということをやっていた。
 あれはあれで、短い時間で本の要約をして、キーエッセンスを取り出すという能力を鍛えるうえで非常に有意義であった。

 しかし、いかんせん、飽きる。

 なんか、作業になってくると、面白くない。
 しかし、そうだな、15分時間制限で、今後ブログを書くと決めるのは如何か……この15分という数字も、どう妥当なのかが全然分からない。

 リズム、というのがある。

 睡眠時間も、人それぞれ、必要な時間が異なるのである。しかし、これは短ければ絶対よいかというわけでもない。ちょうどいい、効率的な時間というのが個々にあるのだ。

 それと同じで、この、書く――思考するというのも、リズムというのがあると思う。
 最初は、何だか気分が乗らなくても、だんだんとエンジンがかかってきて、スピードをあげていけるような、そんな感じ。
 その、いきなり最高速にするパワー=トルク×回転数があればいいけれども、いきなり回転数をあげれるには、それだけ強いトルクを短時間で一気にかけなければいけないから、部品(身体や心)に負担を強いることにもなるかもしれない。

 徐々に、――最近の車はアイドリングしてまで暖気運転が必要ないと言われるが、それでも、エンジンが温まるまで低速走行するのがよいと聞く――スピードをあげていくというのが必要ではなかろうか。

タイトルの付け方

 いつも、タイトルは、書き終わってから考えている。小見出しの章タイトルは、本文を書きだす前に付けているが、長くなったら分断して別の小見出しをつけるとか、そもそも他の小見出しのほうが有効だと思ったら変えたりしている。

 上の小見出しは、「15分感想」と最初したけれども、でも、「徐々に温めたほうがよいんじゃない?」的な小見出しのほうが適切な気もする、もう変えないけど。

 あと、さらにどうでもよいというか、関係しないけれども、身体的苦痛を味わった。これはよい経験だった。あまり具体的に書くとアレなので書かないけれども、いやぁ……思考とはそもそも、身体的苦痛がない状態でこそできる、とても大切な時間なのだなぁと思ったもんである。

 あーそれで、残り、9分ぐらいか。あと何書こうか。

何を書くか

 その、有意義なことを書きたいよね。
 でも、それって何だろうね。

 明日は、何をしよう、とか?

 10年……20年……僕の残された時間とは……。
 ふと、うなされながら思ったのは、上のツールのグラフのようなもので、人生の残り時間をプロットしてみたいな、と思ったりした。
 逆に、これまでの30年ぐらいのプロットも作ってみたい気がした。ライフイベントチャートみたいな。

 それ、何の役に立つの?
 まぁ、そういう、WHYは、後でいいじゃないか。仕事でもあるまいし。それに、大きな意味では、WHYなど、明白である。

 ただ、生まれてから10年ぐらいは、そんなに必要ない気がする。
 そんなことを思ったとき、ああ、人生って、10年は、本当に神――親とか環境とか――から与えられた、運命的なものなんだよな、と思った。

 いや、だれもがそうではないかもしれない。自分の意志……ずっと、自分の思う本能を貫いて大人になっていく人もいるだろうし、もっと早くに自我をもって意志によって生きていく人もいるだろう。

 ただ、僕は、20代以降のまとめが重要かなぁと思ったりする。10代は、価値観を決定する要素はあったかもしれないけれども、それを判断することはできないでいた。20代もできてはいないんだけれども、今との連続性みたいなものが感じられるという意味では、近い。

 その、人類の進化の系統図の、猿人、原人、旧人、新人(という進化は同じ系統で脈々連なっているわけではないけれども)という進化における、ネアンデールタール人が10代で、20代から新人(ホモサピエンス)になった的な感じだ、って意味不明かもな!

 とか書いていたら時間切れ。

(15分で2000字ぐらいか。妥当なくらいか。140字だとツイッターレベルなので、その10倍ぐらいはせめて欲しいところ。その、やっぱり、ツイッターが面白いとは思えない。いや、その、「前提共有」がちゃんとできている状態でのつぶやきは面白いかもしれない。けれども、一般人がやるつぶやきで、特に背景もなければ、面白いと思えない。となると、リアルの繋がりにおける共有(つながり)の意味が強いのかと思うけれども、としたら、多分フェイスブックの方が良い気がする……やってないけど。ええと、このかっこ書きは制限時間に含めません。何か物足りないことを書き綴ります、とかいって本文より長くなったりしててへぺろ。そうだな……しばらく、ブログは15分制限にしてみようか。そういや、ブログの更新って、特に何も決めてないけれども、ふと書きたくなるから書いているんだよな……ってそうだ、「それは何故だろう?」という思いが生じたから今回の記事を書き始めたわけだったが、なんだかテーマがそれこそブレブレになったなぁ。明日はそのあたりを書いてみよう(その疑問の気持ちが残っていれば))

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今日の一言「ビールを飲みながら書くとどうなるのか」


近況

 ルーチンが早速とん挫したようなグラフになっているが、他の連載中の作品を書き進めているので、ゼロではない。
 どうも、気が散りやすいのか、一つの作品だけ集中して手掛けるというのは、あまり効率的ではない気がする(精神的に)。でも、「書くなら、締め切りをもうけなければ絶対ダメ」とかいう先人たちのお言葉も見聞きする。そりゃそうなんだけど、気分が乗らないときにWORD開いても、何分立っても真っ白、ってこともあるのだから、それよりかは、複数作品をもぐらたたき的に少しずつ進めていくのも悪くない気がする……とか言えるのは、ある程度完成品を量産させてからだな。
 全部中途半端で投げ出してしまえば、いっくら、1時間向き合って0文字! ってことが続いても、その向き合う空白の時間がいずれ芽吹いて、一気に完成に到達するかもしれないのだ。

 とかって話は、まぁ、気持ちの慰みにはなるかもしれないが、早い話、そんなグダグダいってないでイイから書けよ、と。以上それだけの話である、哀しいかな。

暴力は減ってきているのか

 暴力の人類史、上巻を読み始める。ううむ、面白い。
 サピエンス全史も実は下巻の後半を読み切っていないが、これはセットで読むとより理解が深まって、頭の中が混線スパークして素晴らしいカオスになるかもしれない。

 ギリシャ神話、ヘブライ聖書、騎士道物語、そして現代のアメコミ・CM的なところまで、どんな「物語」が求められてきたのか、という整理された表現は非常に興味深かった。
 とにかく分厚い本である。それでいて、文字が大きくスペースが多いかというとそうではない。図表はあったりするけれどずっしりしている。それを作者も分かっていて、「この本は、分厚いんだけど、人類の歴史の中で暴力は徐々に減ってきているのだよと、誰もが「この作者くるってるのか?」と思うようなことを誰にでも納得してもらえるよう説明をこらしたら、こんなに長くなった。だが反省はしていない」とか言っちゃっている。そこにしびれる惹かれる。

 例えば、キリスト教の聖書では、やけに残酷なシーン、拷問とか、そもそも神様やけに怒りっぽかったりするし、なんででしょうと。それは、罪を背負った人類が、聖者と呼ばれるひとが数時間の苦しみを得ることで、死後永遠に救われるのだから、それが逆に救済なのだと。だから、できるだけ苦しく、惨たらしい残虐な刑罰とかシーンが描かれる必要があったのだと。

 これは単に一例に過ぎないけれども、丁寧に、過去に、どういった物語が登場し、求められて、人々を熱狂させていたのかということが触れられている。

 まだ第一章を読み終えたばかりで、途方もなく高い山の麓にもたどり着いていない状態だが、徐々に読み進めていきたい。

死んだ方がよい人間はいるのか

 そして別の本の話。これも、結構前から読み始めている、ある精神科医の話だけれども、「役に立たない人間は死んだ方がいい」というのは、成り立つのか? というお話。

 これに対して、3つの否定が可能であるという。

1.役に立たないという定義が不可能である。例えば不治の病に侵された人でも、新しい病気の発見や治療に役立つ可能性がある。

2.不治の病であっても、それが絶対に治らないというわけではない。

3.価値のない人間、例えば重度の精神病患者であっても、家族から愛されている場合がある。例えば、皆様のお祖母さんが、縁側でうつらうつらしていて、それは何ら生産性がないかもしれないが、皆さんのお祖母さんであるという価値がある。代替不可能で、愛されているのである。


 うーーーん、なんか、たぶん、僕の読解力不足のせいだろうが、実感レベルで納得できなかった。

 そりゃ、そうかもしれない。愛されている人は、「役に立つ」ことがなくても、それだけで唯一性一回性、生きる意味があるのだろうと思う。

 逆に、「愛されていない人」というのは、少ないのかもしれない。基本、親は子を愛するものだ。子は親を大切に思うものだ。――だがそれは所詮は、「基本」に過ぎない。基本すら成り立っているか、僕は、残念ながら微妙に思う。

 いや、分かるのだ。確かに、「愛されている」ならば、生きる意味はあるのだ。死んではならないのだ。

 では、「愛されていない人」は、死んでもいいということだろうか?

 まぁ、そうかもしれん。誰からも嫌われて、人に迷惑ばかりかけて、生産性のあることなど一つもしないような人がいたら、その人は「いらない人」ということになるだろう。

 しかし、その、「いる・いらない」というのを、一体、だれが、どのように判断できるというのか?
 僕は、そっちの方向で何とか反論の糸口を模索したい。

 結論は、僕は何度も書いているが、世界平和を求めている。ので、「誰も、死んでいい人なんていないんだ!」と叫びたい。でも、僕の理性くんは、殺したいほど憎い人って存在はあるよね? と問いかけても来る。難しい、非常に難しい問題だ。

 こういう問題は、結論を出さずに、「なぁなぁ」としておくのが一番賢いやり方だったりする。
 声高らかに、「犯罪者にも五分の魂!」的なことを言うと、轟々と非難されるのだ。怖い。

絶対間違いのない完璧な生き方

 そんなこんなで、大人さんたちは、人生の大切な問題を考えることを辞めるようになっていく。いやそれが正しいので当たり前なのだ。
 何せ、人生で大切なことは、「よりよく生きる」ことなのだから。

 楽しく、充実して、幸せに人生をまっとうすること、それが人間に課せられた使命なのだから。


 ――ほんとにそう?

 と僕は思っている。残念ながら。
 多分、大人な人たちは、とっくの昔に、自分の生きる意味ってのを見つけて(それは無自覚にだったかもしれないが)、人生という長い道のりを走っているのだろう。

 僕もとりあえず、人生という道のりを歩いてはいるけれども、頭の中では違うことを考えている。

 まぁ、ほんと、いつまでこんなこと続けるつもりなのか、というのを、自分自身に問うたびに、戦慄する。いやーまじやべっすなぁ~って。(全然真剣じゃなさそうだ!)

 なんか、ふと思うのは、「あーよく生きてきたなぁ」という感覚。お風呂場でシャワー浴びてたりすると、「あー生きててよかったなぁ」とかも思ったりする。
 なんか、物語のエピローグ的な感覚である。

 仕事で「ありがとうございます」と感謝されたり、後輩さんから頼られたり、友達とワイワイ遊んだり、愛機で旅に出たり、独りお酒を飲んだりと、楽しく充実している、と書くと、リア充乙といわれるのだろうか?
 そういう意味で、先日、「ゲーマーズ」という作品で、中学時代はがり勉オタクと呼ばれてた男の子が高校デビューを果たしてかわいい彼女もGETしてイケメン化するんだけど、その子に対してパッとしない主人公が、「君みたいなリア充に分かるわけないだろ!」みたいなことを言って、「ふざけんな! リア充なんて言葉で片づけるんじゃねぇ! 俺が今の生活を得たのは俺の努力の結果だ!」って怒るシーンが面白かった。それ以外はあんまり面白くなかった――けど、物語のけつまつ的には気になるから、ダイジェストで最後まで見たいきもする。
 取りあえず、いっつも簡単だから「リア充」という言葉使っててさーせん、と思った(かっこわらい)。

 まぁ昨今、学校とか電車の中とか、会社の中でまで、ゲームとか漫画とかの話題が出ても、別にふつーになった時代において、リア充とオタクという境界はもはや関係ないのかもしれないと思っている。
 外国籍をもっていようが、バイセクシャルであろうが、そこら辺の偏見ってのは、あんまりもうなくなってきてんじゃないのかな。俺は昔からそういうのに疎いというか、興味がなかったけれども、そういう感性の人は少しずつは増えている気がする。というのは、都市部に住んでいるからそう思うだけかもしれない。この都市と地方という区分も、意外と根強かったりするから、無視して書いているとしっぺ返しを食らう。だから、人文系の論文って面白みがないそっけないものになっちゃうのかもね。書きたいことを書くと反論の種になっちゃうから。

長いな

 やっぱり長くなったな。
 俺は一体、この文章群をだれに向けて書いているのだろう。

 最近、よく分からなくなってきた。

 いやー、そう、よくわからなくなってくるのは昔からで、その都度、「ブログに書く理由」みたいな記事を書いて、自己肯定してきたわけだけど、ほんと、「誰かの役に立っている」ということがないと、正直……。

 ま、どっかで、結論を出す必要はある。

 結論を出さないまま、ズルズルやっていって、突如、こと切れる、というのもあるかもしれない。それはそれで、俺は正直だめだとは思っていない。大半の人の人生がそんな感じかもなと思ったりもする傲慢にも。

 うーん、……昨今の悩みを、ごく端的に書くと、「物語」ということになる。
 短すぎてわからないな。

 例えば、すげー人生を送ってきた人がいたとして、まぁそれが事実だとすれば、素直に「すごいなぁ」と思うわけである。
 そこで、「俺もこの人みたいになりたい!」と思うのか、「ほへーすごいなぁ」と思って終わりなのかにもよるけれども、「それはそれ」みたいに思ってしまうのがよくないところ。

 いやぁ、だって、すごい人といったら、ゴウタマさんとか、キリストさんとかすごいじゃないですか。でも、自分がそんな聖人君子になれるとは思えないじゃないですか。
 そしたときに、「自分なりに精いっぱいの」人生、ってやつを目指そうと思うわけじゃないですか。
 そういう意味だと、ある意味、僕は過去に比すると、相当に完成された人生(生活)に到達したわけですよ、はい。


 いや、すごいう傲岸不遜無知蒙昧なことを書いているのは分かる。
「はいはい、そう自分で思わなけりゃやってられないほど惨めってことだね。プギャー」
 と言われるだろう。まぁそれはそうだろう。
 しかしっだ、自分の能力値(ルックス・家柄・財力・身長・筋力・頭の良さ・EQ・その他もろもろすべて総合)を考えたら、よくやってる方だと思うよ。


 でもだ。だからそれが何だ? って感じもある。

「いやいや、おめーさぁ、もっと大変な人だっているんだから、そんな調子のったこといってんじゃねーよ」
 というのも分かる。悪いことが重なって、いまの生活が続けられない状況……例えば内紛が起こったりとか天変地異とか起こったら、そりゃあ、こんなのほほんとしたことは言ってられないだろう。

 でもだ。そういう他者とか他環境とかと比較して発奮させるやり方は、モチベーターとして駄作である。
 色々苦しくて自殺しようとしている人に対して、「もっと大変な人がいるんだから、自殺なんて考えちゃダメ! もっと頑張ろうよ!」って言う? 普通?

 いやいや、おめー、そんな極端な状態じゃあないんだから、やっぱりもっと頑張れよ……となって、ここら辺の話も、これまたきりがない。
 この「きりのなさ」「他者との分かり合えなさ」というのを表現した作品が、18世紀のゲーテさんという方の「若きウェルテルの悩み」という小説である。ウェルテルくんと、彼が愛するロッテしゃんの恋人のアルベルトさんとのやり取りでそんな場面がある(いや例えは全然違うんだけど)。

 そうすってーと、俺が思ってる、感じている問題・悩みってのも、もはや18世紀に表現されたようなもので、古臭くてカビが生えてるようなものかもしれない。そもそも、「青春小説」とか言われるらしい。30代で青春の悩みって(かっこ嘲笑)。

作品を完結させること

 まぁ、なんというか、創作ルーチンは中々手ごわいのである。

 しかし、こんなに大変だなぁと思ったことは、今までなかった気がする。それってのは、「何か表現したいこと」「自己のクライシスへの対応」という直結した問題があったからかもしれない。
 いやー、本当は、そういった自己の切り売り的な作品は、そうとう人格ができて人とか、面白い特殊な人生を送ってきた人じゃあないと、面白い作品にはなりえないのである。凡人が面白い作品を描くとしたら、「エンターテイメント性」というのを追求しなければならない。それはそれで大変だが、努力・研究すればある程度身に着けられるものではある。

 けれども、やっぱり、こう、「面白い物語を創りたい」という思いだけだと、足りない気がする(その、足りないというのは、誰でもあてはまるということではなく、自分にとって)。
 その、面白い物語を創りたいというのは、嘘偽りではないけれども、その「面白い」という意味が、自己に対して明らかにすべき問題に関わること、直結するようなことである必要がある気がする。

 続く……かもしれない。


(話題があっちゃらこっちゃら飛びすぎる。もう少し、同じテーマやら話題やらで、複数回記事を重ねるってのもやってみてもいいかもしれない。ただ、そのテーマが、その書ける実際の時間帯において、それほど重要かどうか、というのがその時々で変わってくるから困るんだよな。あー、来週の土日で空いた時間帯に、この記事のまとめ&続きを書くことにしようか)

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