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離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
カテゴリー「思考及び書くこと」の記事一覧
今日の一言「通常記事は久しぶり」「おバカな記事だって難しいよ」

芸能人のブログ

 芸能人とか、歌手とか、有名な人、知識人とか、とにかくテレビとかに出てる人たち。
 そんな方々がよく利用しているアメーバブログというメディア。

 ぶっちゃけた、正直ベースな感想とすると、中身が薄い!!!

 と、思うのだけれども、でも、適度な改行だったり、写真の貼り方だったり、絵文字とか顔文字とか記号の使い方だったり、歯切れの良い短文だったり、いざ真似すると難しかったりする。

 問題は、……

今日はお仕事がんばったぞ♪
久佐嘉さん(仮名)にも褒められたし!
よーし、明日も私ふぁいとぉ~★

[自撮り写真]


 とか、僕はとくに目指したいと思わないということ、および、そもそも誰もそんなの求めてない!
 ……のだけれども、じゃあ、僕の「イライラ対処」記事とか、それって、結局、何ら変わらないんじゃないかなぁとも思ったりする。


 結局、アメブロとか、副収入目当てなのかもしれないけれども、大勢が見てくれるということ、承認欲求とか、目立ちたいとか、ちやほやされたいというそういった欲求を満たすための媒体の一躍も担っているのではないかと思う。

 その点、僕も、やっぱり、認められたリ、共感してもらえるってのは、すごく嬉しいことだと思う。

 だから、芸能人、その他の有名人の人のブログも、いわゆるダメブロ界の人たちのブログも、同じブログというメディアを使っている仲間なんだ!!

人との繋がり

 あー、その、何を言いたいんだろう。よく分からないんだなぁ、最近……いや、別に最近でもなく、ここずっと、何年もそんな感じかもしれない。
 ただ、一日、一日を、大切に生きたいとは思う。特に最近は、「ああ、生きていて良かったなぁ」って思ったりする。本気で思っているのか分からないけれども、取りあえず、ひとりでいるときは、例えば朝起きたときとか、口に出して言うようにしている、というよりも、自然にそんな言葉が発せられる。

 で、まぁ、その、「寂しい」って感情。
 あんまり、ない。
 あんまり、というと、やっぱりあるのかもしれないが、そこら辺は、よく分からない。

 よく分からないけれども、最近、本をぱらぱらと読めるようになってきた。
 やっぱり、本は、面白いと思う。読んだあとに、特段、語れることがあんまりないんだけど、直喩と隠喩について、とか。直喩の方が、「●●のようだ」という説明的で、隠喩の方が一見、ウィットがきいているというか、ハッとさせられるような表現である、とみなされがちだ。

直喩例)彼の勇敢さはライオンのようだ。
隠喩例)彼はライオンだ!

 けれども、それはあくまで、直喩と、隠喩を対比してみるから、「隠喩いいね!」となるだけであって、いきなり、

 ライオンだ!

 といったら、なんのこっちゃ、となる。
 小説とかで有効なのは、そのシーンにおいて、決してサバンナにいるわけでも、動物園にいるわけでもなく、ごくごく日常生活のなかで、「俺、ちょっと店長にかけあってみますよ」とかバイトくんが言ったときに、「かっこいい! ライオンだ!」みたいに使うと、あー、隠喩なんだなぁ、って分かるということだ。

 だからなんだ。

連載

 取りあえず、最近始めた連載活動、10話分ぐらいまで書き進めた。取りあえず、週刊更新を予定している。何曜日か決めようか、どうしようか、まだブレている。
 取りあえず、10回分と考えると、2か月半後ぐらい分である。そうすると、6月ぐらいだ。今が3月で、6月。
 あー、長いようで、短いような。

 そう考えると、ほんっと、人生短いっすなぁ。取りあえず目標の半年間を達成するには、9月ぐらいまで続けることになる。そこまでに完結させられるだろうか。きっと、10万字も到達しないだろう。ちなみに、文庫本程度は10万字ぐらいであるということである。

 1年に、一作品つくっていくにしても、40歳までに10個いけるかどうか。
 80歳で死ぬとして、40作品つくれるかどうか。

 そう考えると、もう既に、何作品も完結した作品をつくられている方々って、すげーなーと思う。
 ちょっと上から目線と言うか、小ばかにするような表現をこれからすることになるが、最近は本気で、中学生レベルの文章表現力しかなくても、ちゃんとストーリーつくって完結した作品を書ける人ってすごいなと思う。
 何というか、表現力は、後から身に着けてもいいと思う……し、やっぱり、ストーリーメイキングできる能力ってのは、ある意味才能なのかなぁとも思う。
 どんなに素晴らしい作品に触れて摂取しても、それを、自分の物語として再構成して、表現するってのは、やっぱりどこか、違うことだと思う。よくない例えしか今思い浮かばないが、人を殺したいと思うのは誰でもあるが、実際に殺すのとは大きな乖離があるように。

夢いっぱい!

 タイトルはあんまり意味がある分けではないけれども、何だか色々人に触れていて、ぼーぜんとした「すげーなー」って思いが生じた。
 こう、その、「冷めた観方」みたいなのがかっこいいと思っているわけでは、決してないのだが、どっかしらその、ベルトコンベアーに乗り損ねた商品みたいな気分になるのはどうしてなのか。

 例えば、ある精神科医の先生の「認められたい」という承認・所属欲求が、僕に足りない、という診断があったとして。ヴィクトールさんの人間は創造・体験・態度の三つの価値を追究していかねばならないと発破をかけられたとして。

 俺は、何か、うまーく表現できないのだが、その「いきづらさ」か何か、表現できたとして、概念化できたとして、じゃあ、それで問題が解決するのかどうか、と思う。

 苦しい理由、というものを、言語化できたとして、それが解決するかどうか。もちろん、発達障害やら学習障害やらADHDやら、その診断がついたことにより、「ああ、やっぱり、そうだったんだ」という安心感のようなものが得られる人もいることだろう。ただ、結局、問題はそこからの人生であることには違いない。ようやくスタートラインにたったようなものではなかろうか。

 言語、とは、記号である。
 無限の世界を、分類することである。モノ・コトに、延々、名前をつけていっても、終わりはない。

 だから、僕が、いくら、僕のことを、こうしてブログに書いていっても、100記事、1000記事、10000記事になろうが、「僕」という表現は、完結しないのである。
 これについて、「自分」が常に変化しているからである、とコメント頂いたわけであるが、この指摘は非常に鋭くて僕の魂魄に突き刺さった。
 ただし、その観点とは別に、そもそも、表現できることに限りはないのである。自分というものを正確に完璧に表現できる言語など、存在しえないのである。

 ……という面からも、他者との完全理解というのは不可能である、という僕は立場というか、考え方をもっているわけだけれども、この考え方が役に立つかと言うと、気休め程度の役にもたちゃあしない! だからなんだって、話。いやぁ、だからこそ、ちょっとでも、「分かり合えた!」「共感した!」という感覚が重要だし、大切なんだよ、という教訓にはなるかもしれない。分かり合えるというのは難しいことなんだから、ちゃんとコミュニケーションとらなきゃならんのだよ、という教訓にはなるかもしれない、ただ、その程度だ。

幸せいっぱい!

 タイトルに意味はない。
 ただ、表現に限りが無いのであれば、やっぱり、「絶対ポジティブ思考」であるべきだと、僕は思う。
 満たされているなぁ、幸せだなぁ、感謝でいっぱいだなぁ、嬉しいなぁ。

 おぅ、どうした? アップ系の薬でもやったんか? と思うようだが、それでもやっぱり、楽天・楽観的であることが、大切な気がする。

 と、わざわざ書く時点で、僕は、そういう性格ではないのだろう。本当の楽天的な人は、そんなこと自体考えないのではあるまいか。


 んー、でも、いーんじゃないか、と思う(何が?)。その、色んな人がいていーんじゃないの、と思う。毎日のように、愚痴をSNSやらブログに書き散らしているような人もいる。何年も、「あー、俺はダメな奴なんだ、死んだ方がいいんだ」と書きながら、取りあえず生きている人もいる。「孤独でもいーんすよ」という人もいる。「働きたくないでござる」と言い続けている人もいる。

 いーんじゃないか、と思う。

 ただ、みんな、取りあえず、幸せになったらいいんじゃないか、と思う。


 え、ひとごと? お前は?

 俺は……よく分からん。

 何だろ、幸せっちゃあ幸せだろうし、「リア充爆発しろ!」と思えば不幸な気もする。ただ、どっちでもいい気がしている。

 前も書いた気がするけれども、そもそも、「幸せ」とか「ポジティブ」という言語表現にとらわれている時点で、既に罠にはまっている。
 幸せ、ポジティブなんてのは、相対的な概念であり、その言葉に意味を注入できるとすれば、それは、「実感」に他ならんわけだ。

 で、逆に書けば、「実感」があれば、別に「あー幸せだなぁ~」なんてしみじみ言う必要なんてないわけだ。

などと30代おっさんが述べております

 物語つくれる人ってすごいなぁ(唐突)。
 物語って、新学力とかエンプロイアビリティなんてビジネス的な表現すれば、問題解決能力だと思う。

 問題。課題。困難。ハードル。軋轢。葛藤。

 ひっくるめていろーんな問題があって、それにどう対処していくのか、というのが、すべての物語の基本ストーリーである。

 日常ほのぼの系作品にそんなもんないのでは? という指摘もありそうだが、いや、そんなことぁーない。日常の、ほのぼのとした課題などが描かれているはずだ、よく観察してみるといい。

 ここでいう問題は、社会問題だとか、異性問題だとか、その問題の大小を言うのではない。

 自分で設定した問題について、逃げずに立ち向かって何らかの答えを出していくという作業、それが「物語」なのである。

 ドラゴンクエストでは、悪い魔王が街を荒らしている、このままでは世界が滅びてしまう、戦え勇者たちよ! 的な問題解決である。
 ライトノベル的な異世界転生や転移でも、人生やり直すぞ!とか、元の世界に帰らなきゃ!的な問題解決である。
 学園ものでもそうだ。いじめられたり、モテなかったり、勉強できなかったり、スクールカーストの底辺でもがく……問題解決である。


 この、問題解決能力が、生きていく上で、大切なことだと思う。イデオロギーも、宗教も希薄化した現代においては、特にそうなんじゃなかろうか。
 そして、もう少し踏み込んで考えると、この問題解決能力とは、「解決力」が重要ではなく、「問題設定力」が重要なんじゃなかろうか。

 適切な問題を設定して、それを解決していくという人生の繰り返しが、即ち、充実感だとか幸福感だとかに繋がるんじゃなかろうか。



 とかって、こうやって考えている最中は結構楽しかったりするのだが、考えれば考えるほど、その結論的なものが、どうにも、矮小だったり脆弱だったり、くだらないもののように思えてくるというこの病気について、是非命名したい。

 あー、やっぱり、中二病とか、高二病とか大二病的なのになるんかな。

 俺って、「ふつーの人」とちょっと違うことを考えられますよ(キリッ)的なやつをあざ笑う、その様をさらに思って自嘲して……という、無限ループ的な。

(あー、何か、面白いこと書きたい)

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今日の一言「……」

あっという間に

 気づいたら1日が終わっていた。本当に時間が過ぎるのは早い。
 取りあえず、30分を目途に書いてみるか。書くことも、そもそもパソコンを起動させるのも久々である。

 色々と、目標を立てて、それに向けてやってこようとした。生活を、いい方向にしようとした。
 しかし、いろいろと、仕事が忙しくて、上手くいかなかった。

 仕事が忙しいというのは、何だろうか。
 忙しくない仕事などというのはあるのだろうか。無い。そこに問題があるのではない。

 時間。

 存在。

 今僕は、何に向かっているのか。

 何でもできる。しかし、何もできない。

 意味が分からない? 意味、シンボル、記号。シニフィエ、シニフィアン。概念。抽象。答え、真理。

 理解。

 自分。自己。自我。

 コミュニティ、コミュニケーション。

 サイコパス、感情、喜怒哀楽、怒り、焦燥、怖れ。

時間

 詩や、俳句や、短歌や、散文は、陶酔なのか。

 人生は、暇つぶしなのか。すべての芸術は、死からの逃避なのか。

 子どもとは愛するものなのか。生きがいなのか。

 社会とは何か。システムとは何か。効率化の果ては自己のパーツ化なのか。

 唯一性と一回性。すべては、不可逆な時間の中で生み出される。


 ただ、信じることができる概念は何か。

 その根源を、根本を、意味概念を求めて遡っていく作業、それが哲学というならば、今必要なのは哲学なのか。


 夢を見た。夢……それは、日々の業務に押しつぶされること。自分を見失うこと、自分、自分とは。

何をすべきか

 お前は、これをすべきだ。

 そういってもらいたい。同時に、それを認められない。頑迷固執の老害である。

 認められたい。所属欲求と承認欲求を求めたい。充たされない思いが、自己の消耗へとつながっていく。俺は誰だ。俺は、僕は、私は、誰だ。


 表現の違いというが、では、その意味されるものは本当に存在するのか。疑う余地はない、ネコという概念は、catといったり、ロシア語でコーシカ、ドイツ語でカッツェ。呼ばれ方は複数あっても、ネコという概念は疑いようはない。

 だが、その猫の概念とはなんだ。耳が二つ、目が二つ。髭が生えている。四足歩行。体毛に覆われている。これだけでは、ネコにはならない。どこまで条件を挙げていけば、ネコになるのだろうか? しかし、そんなことを考えずとも、私たちは、ネコの画像をみたら、一瞬でその猫の概念を認識することができる。


 生得的なもの。
 自らの身体を信じること。五感。インプットされる情報。それだけが、信じるべき対象。

 現象学とは、猫という概念は一先ず置いておき、まずは現実表出しているものに着目する考え方である。ネコという完璧な定義は、辞書をひいても出てこないけれども、取りあえず、辞書的な意味が理解できれば、他者との共通理解を行うことができる。これがコミュニケーションである。

コミュニケーションとは

 人は、ひとりでは生きていけない。
 でも、時に人は、ひとりの時間を欲する。

 しかしそれは、あくなき、承認欲求を求める、終わりなき戦いではないのか。どこか、小さなサークルでも、会社でも、友人関係のわでもいい。どこか、自分の居場所を求め、そこで、能力を発揮する必要もなく、ただ、存在しているだけで、その所属コミュニティの維持に役立てられるような、そんな存在となること。

 それが、所属欲求である。

 認められたい、という思いよりも、ただ、その場にいるだけでいい、そんな場所。

 ニートや、孤独を愛する人、個人投資家、人間嫌い、そんな人たちも、SNSや、ブログをやったり、記事を書いたりして、何か、繋がりを求めている。
 それは何故か。承認欲求を求める場合、投資家としての成功だとか、俺は人とは違うんだぜ、という自尊心を充たそうとしている場合もあるかもしれない。
 ただ、それだけではなく、単に、そのインターネットというツールが、自分の居場所を与えてくれるのかもしれない。


 本来。家は、家族は、その、居場所であった。
 であるからにして、その家族が崩壊するような、家庭内暴力だとか、別居、離婚、姑嫁の確執だとか、ドメスティックな事件は、その当たり前と思われている崩壊を示唆するがため、センセーショナルな報道へと繋がる。


 報道と言えば、大きな地震から、数年が経った。
 生き残った命は、大切にしなければならない。露命を無常の風に任すること勿れ。


 30分が経った。もう外は真っ暗だけど、散歩にでかけよう。


(お酒を飲んでいるわけでもないが、何だか、陶酔的な気分である)

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今日の一言「日々の断絶という言葉は言い当て妙」

最近の振り返り

 例えば、婚活とか人脈を広げるための作業(努力? なんといえばいいんだ? 単純に「行動」でいいのか)をするにあたって、このブログとかサイト運営とかどうしたらいいんだ?
 自己開示しなければ、「本気で他者と向き合って」みたいなことにはなり得まい。しかしながら、このぐちゃぐちゃーっとした状態の、思考の渦みたいなものの開示は、正直、お忙しい誰もがノーサンキューであるに違いない。これは自己卑下ではない。対面状況において、愚痴や悩みを延々と聞かされたら、恋人友人関係であったとしても、いずれ疲れ果ててしまうであろう。

 であるならば、やはり、ある程度、思考も生活も、整理できた状態であるのが望ましい。
 目標を立てなきゃ、と焦ってしまったが、落ち着こう。今年1月に立てた目標は何だ?

 今年は整理の年にしよう。

 というものであった。
 先日、
1.専門性を追究する・彼女をつくる

 という方策と、
2.「求めるもの」について、再度解釈を試みる

 という方策を検討し、「1.」よりも先に「2.」を整理する必要があることを決定した(導き出した)。
 その「2.」とは、上の引用のとおり、「思考と生活を整理する」というものであった。

 それでは、今回の記事では、その整理する方針について、より具体的に決めていこう。

もう一度整理

 上の、1.と2.の違いについて、分かりにくいかもしれないから、現在の気分に基づき、もう一度表現しなおしてみる。

 1.については、「現実へのアプローチ」といってよい。いわゆる、一般的な目標と大差ない。一般的な目標とは、高校に入学するとか、会社に入社するとか、ダイエットするとか、「現実」と「自分」を分けて考えたとき、自分を現実に向けて「変化させる」ことである。

 2.については、その逆といってよい。自分を現実に合わせていくのが1.である。2.は、自分を成り立たせている根源を明らかにしていく作業である。難しい表現をしてしまった。例えば、フロイトさんの精神分析において、エス(衝動)・エゴ(自我)・スーパーエゴ(超自我)という概念があることはお分かりの通りだろう。

 衝動 → 自我 ← 超自我

 みたいな感じで、自我は成り立っている。
(自分と自己と、自我の言葉は厳密には違うのだけれど、今回の記事では同じように用いている)

 自分とは何か? という問いは深遠であって、それを明らかにして生きている人など、そうそういないと思われる。それでも、多くの人が、特にこの問題を抱えずに生活できているのは、基本的に「自分」と「現実」が一致(※1)しているからである。


 ちなみに、少し余談となるが、「衝動」部分がおかしい(現実とのズレが大きい)場合は、「精神病」と言われるし、「超自我」の部分がおかしい場合は、教育のせいにされたりする。
 ただしどのみち、「大人」という存在においては、そういった自我の保持や安定性というのは、完成されたものとみなされる。「君、大人なんだから、ちゃんとしてよ」と言われるのは、「自我が正常な状態なんだから、正常な判断ができるんでしょ?」ということを言われているのである。もっと俗的に書けば、TPO(とき・場所・条件(場合))の判断がちゃんとできるんでしょ、ということである。


 さらに余談となってしまうが、僕の記事というか、僕が問題視している事柄全般は、一般的社会道徳・ルールを前提(※2)としているし、身体・精神の病気を対象とはしていない。ただ、精神病など、そういった極端な事例などを考えざるをえないのは、その「正常」と「異常」とのグレーゾーンがかなり広がっていると感じているからである。何をもって正常……ちゃんとしてね、といえるのか、正直よく分からないのである。
 くだらない例えを書いてしまおうか。ホロコーストを持ち出すまでもなく、虐殺することはおぞましく悪いことである。では、虐殺することについて、空想したり妄想したり、小説に書き出すことは悪なのだろうか。否である。しかし、完全な大人とか、完全な人間とか、完全な理想というものを考えたときに、そういった「悪い考え」が生じるのは、やっぱり「完全」ではないのではなかろうか。
 くだらない例えであった。ここで、「くだらない」といっているのは、これら、正義とか、悪とか考えることがくだらないというのではなく、単に僕の興味の対象外であるということだ。つまり、実感伴って、そんな「完全な善」なるものを、僕は「否」と思っているのである。清濁あわせもったのが人間であると僕は思っているに過ぎない。で、その実感をもってして、「人間嫌い」という感情エラーというか、表現をたまにしてしまうが、これについては、
 ある時期、様々な愛の形に触れ、めんどうだなと思ったこともありましたが、そもそも大多数の人間は愛の実在を特に疑う余地もない前提として動いたり喋ったりしているという事実は人間世界の現実であり、それは「面倒」ということよりも、よほど重いことなのだと思います
(注:主旨をできるだけ損なわないように原文を大幅に改訂させて頂いている)

 という、ある方のコメントを読んで、いやぁまさに、その通りですよ、と思った。カッコいい。僕も、こういう人になりたい。そう、こういう人になるために、「整理」が、今は、必要なのだ。


※1:誰もが完全に一致しているなど殆どない。だからこそ、日々の生活に悩みや苦しみ、欲求不満が生じるのである。それをもって、「みんな色々大変なんだから」という言葉に正当性を与えている。

※2:この前提に、実感が伴っているかという問題はまた別にある。ただ、やらなきゃならないこと、というのは避けられないのであって、それから単に逃げようというわけではない。問題は、その「やるべきこと」自体の曖昧さ(社会や環境や状況や人によって異なること)である。
 

賞味15分の感傷だって価値がある

 本題の「整理」に入る前に、もう一つ、素晴らしい記事を発見したので書いておきたい。感動などを得るために、どうしたらいいのか、という主旨において、
一生そういうものを味わいたければ、リスクを恐れず生きたい人生を生きればいい
仕事なんて辞めてもいいし、辞めずに打ち込んでもいい
多分、苦しみはあるけど、同じくらいそういうものを味わえると思う

生きたい人生なんて分からないよ?って人もいると思う
そういう人は分かるまで本気で悩んでくれ
それだけで一生、そういう生き方ができるだろうね
案外、もんもんとして辛い人生なんてものは味わえないものです
だいたい、今なんでこんな辛い人生を送っているんだろうって感じている人は、考えることを辞めて、今の辛さを耐えることにせいを出す。懸命な判断だと思う。でも、生きたい人生って何だって本気で考え続けるのは辛いけど、それこそ喜びになるのではないか?

2週間そういうものを味わいたいのであれば、小説を読むか、漫画を読むか、ゲームをすればいい
これだっていう作品に出会うのは難しいけど、出会うことが出来たなら最高に心が揺さぶられることだろう

15分そういうものを味わいたければ、音楽を聞こう
なかなかそういうものには出会えないけどね
でも、出会えれば15分は楽しめる

 かっこいい。惚れる。
 フランクルさん言葉と絡めて理解すると、2週間と、15分は「体験価値」であろう。それでもって、「一生」については、「創造価値」にも思えるが、もはやこれは「態度価値」何ではなかろうか。
 ここまで思考体系を確立されている方は、これからも、悩みや苦しみがあったとしても、きっと、困難があっても乗り越えていくのだろう。思考よりも、最初に挙げた「1.」の、現実へのアプローチについて、尽力していくことが有効であろうと思う。

現実問題へ到達できない

 悔しいというか残念なことに、僕は、10年も20年も前から、その前の次元でとまってしまっている。すなわち、「2.」の部分だ。
 最近、ある東大工学部卒の研究者の著書を読んでいて、そのあとがきか何かに、「自分とは何か」のような、僕と似たようなことを若いころに思っていた、と書かれていた。その方は、勉強もそうだが、理系だけれども、哲学書ばかり読んでいたという。そして結局、だからこそ、取りあえず勉強して東大に入って、自分の明らかにしたいことを精一杯つとめていったという。
 突拍子もないから上手く説明できないけれども、前提として思うのは、「人間とは何か」「生きる意味とは何か」「自分とは何か」という問題意識が生じるのは、別に珍しいことではなく、そこから発展した技術、芸術、思想・思考といったものは、数多く存在するのである。
(分かりやすく代表的なのは仏教であろう)

 芸術や思想分野は、比較的その問題意識が分かりやすいが、技術(例えば、経営だってそうだし、仕事だって、何だって)は、その現実への還元要素が大きいために、その根源にある問題意識は見えにくい。それでも、何らかの、自らの、根源的な問題意識に根差して、人は現実へのアプローチを事欠かないのである。


 であるからにして、単に思考をもってして、問題解決をはかろうというのは、大きな間違いを犯しているのではなかろうか? という疑問はもっともである。
 確かに、家にひきこもって、自分の頭だけで考え続けるということに、限界があることは否定できない。

 ただし、僕は、完全なスタンドアローン状態を目指しているのではなく、現実からのフィードバックも当然受け入れることにしている。これは、単なる中途半端な修正主義になるだろうか。そうではない。むしろ、「思考」というのが、身体を前提にしている以上、完全な単独者として思考することは不可能だし、そもそも、その「問題」そのものも、現実を前提にしていることは言うまでもないことだ。

 分かりにくいな。だとすると、僕の考える「現実」というものは、二つの層(レイヤー)で重ね合わされているのかもしれない。レイヤーという横文字を使ったのは、イメージとして、ペイントソフト的なものを連想したからだ。地層としてしまうと、表層と深層とで、深層の上に完全に表層部分がのっかっているイメージとなる。そうではなくて、一部は深層部分が飛び出ていたりと、表層と深層が折り重なって、一つの絵として認識できる状態、というイメージである。



(何だろう、頭の中で描かれた図を、実際に作成しようとすると、何かちょっと違うくなる。イメージの足りなさってことだろうか)

目標立てる主旨と乖離していないか

 はぁ……。疲れた。
 ダメだダメだ、このままでは、来週を乗り切れない。


 ……ところで、別に、自分だけ辛いとか言ってるんじゃないんだからな!!(逆ギレというか突然ギレ)


 どーせ、こんな愚痴ぐち書いてると、「あーこいつ、自分に浸ってんな~」とか、「はいはい、どーせ、自分が世界の中心で一番大変だって思ってんでしょー」とか、そんな感想しか抱かれんのである。

 そんなことはとうに、分かっているのである。

 みんな大変で、みんな必死にがんばってるのである。

 だから、幸せそうなひとをみると、みんな引きづり下ろそうと、嫉妬したりするのである。みんな一緒に不幸になりましょうね~というわけである。

 ふざけんな、ひとりでやってろ。世界が、苦しみに満ちたものであって言い訳ないだろ。俺はいつでも、世界平和と、みんなの幸せを願ってやまない。俺が、ポジティブしか「ありえない」というのは、そういう意味においてである。


 それは。

 世界思想である。一般常識である、ルールである、法律である、決まりである。
 人が、長い間かけて、必死に構築してきた、社会システムである。それらを疑ったり、逸脱しようとしたり、逃げ出そうとする人は、同時に、それらの恩恵もうけることができない。それらから逃避する人たちは、それらの「恩恵」の理解が不十分である、努力不足である。

 今回の記事の上の方で、
>僕の記事というか、僕が問題視している事柄全般は、一般的社会道徳・ルールを前提としているし、身体・精神の病気を対象とはしていない。

 と書いたのは、そういう意味である。


 それを前提にして、……じゃあ、僕はどうしようか、と。そういう目的である。

生きるのつらい絶対殺すマン

 仕事や人生で疲れている人に、「生きるのつらい絶対殺すマン」はいうのである。

「ほむほむ。でもそれって、義務感だけで生きてる状態だよね」
「〇〇さんは、何のために生きているの? 何かしたいこととか、楽しいこととかないの?」

 と。
 この後の流れは、まったくもって感動的であり、非常に素晴らしい作品だと思った。

 が、問題は、「何のために生きているの? 何かしたいこととか、楽しいこととかないの?」この問いである。

 今まさに、これへの対策を行っているのである。


 どれだけ緊急性のあることかがお分かりであろう!(誰に言っている?)

 感情の希薄化、と書くと、とても大げさになってしまう。今すぐ病院池、となってしまうかもしれない。そこまででは無いのだけれども、ただ、
「何のために生きているの? 何かしたいこととか、楽しいこととかないの?」
 これを聞かれるたびに、「うぁああああ」っとなるのである。パソコンのフリーズ状態だ。


 長くなったので強制終了。


(取りあえず、直近の行動方策と、優先順位を立てなければまずい)

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今日の一言「貢献心が満たされないとつらいんじゃないか」「認められたいという思いへの飢えかもね」

本の大量買い

 ある精神科医さんが、新しく本を出版されるということで、予約してきた。



 いつもブログを楽しく拝見させて頂いているため、少しでも恩返しになればという思いもあるが、昨今抱えている「実存的空虚感」への、一つの処方になればという思いもある。

 そもそも、マズローの五段階欲求説の、所属欲求と承認欲求の違いが自分としてはピンときていなかったが、「今の人たちにとって、所属欲求と承認欲求はある意味同時に起こっているんですよ」という前説からも、おーなるほどな~さすがやな~と思ったのもある。
(けっして、表紙の絵がかわいかったとか、そんな理由じゃないぞ!)


 と同時に、創作系の本も5000円分ぐらい購入。さらに、科学技術系(というかA.I.とかロボットとか)の本も購入。ヴィクトール・エミール・フランクルさんの本も購入。大盤振る舞いである。


 昨今、映画とか娯楽に費やしても、どうにも気分が昂揚しないと書いた。
 その理由は、現状として、「消費」を求めていない心性にあると書いた。
 本をたくさん買うことは消費であり、それを読んだとしても、消費なのではないだろうか? 言ってることとやってることが違うのではないだろうか。

 いや、「インプット」は、消費ではない。

インプットとアウトプット

 消費の対義語は生産である。

 人の思考行為は、消費と生産の二つに分けられる。更に、別の軸として、インプットとアウトプットにも分けられる。

 映画を見るのは、消費であり、インプットである。そこに、生産の要素と、アウトプットの要素はあまりない。
 ブログや小説を書くことは、生産であり、アウトプットである。
 ゲームをするのはどうか。消費であり、アウトプットである。

 ただ、分けられるといっても、明確に二分できるという意味ではなく、その配分が調整されるという意味である。






 図にしてみて尚のこと分かったけれども、全ての思考、行為について、明確にインプットだとか、消費だとか分けることは難しそうだと思った。例えば「料理」とか「ドライブ」とかはどこに入るんだろ。仕事がインプット×消費だけど、生産なんじゃなかろうか、とか。

 ひとりでやる作業ですら色々混ざっているし、「消費」という概念に、「時間」という要素を含めてしまえば、全行為消費に分類される。
 この時点で、論文であれば、ボツ原稿となるけれども、せっかくなのでもう少し続けてみよう。

アウトプットとは何か

 まず、横文字を使った時点でダメだったのかもしれない。
 ここでいうアウトプットとは、「他者へ伝える」という意味はもちろんだが、「整理」という意味も含めている。
 頭の中だけで、ぐちゃぐちゃーっとなっている思考を、解きほぐして、整理していくという作業自体を、アウトプットと呼んでいる。結果として、整理されて分かりやすくなれば、他者へも伝えられる状態になるということである。

 では、思考における整理とは何か。

 これは中々に厄介である。精神病、例えば統合失調症で幻覚妄想、譫妄があるとしたら、それを取り除く必要がある。あり得ない妄想を取り除き、「現実」なるものを直視させることもまた、整理といえる。
 ある人が考えていることを、他者も理解できるような言語表現に分解再構築すること、それもまた整理といえる。

インプットとは何か

 一方で、インプットとは、自分の中で、「わかった!」という感覚になることである。先日、V・E・フランクルの「人間とは何か」を読了したが、どうにも「わかった!」という達成感はあまりなかった、と書いた。
 この、「分かった」という感覚もまた厄介である。これが希薄になっていくと、強迫神経症的な状態になりかねない。「明証感情」というようだが、「これは正しい」「もう大丈夫だ」という感覚が薄れてしまうと、何度も何度も同じことを繰り返しても、「わかった」「これでよし」とすることができなくなってしまう。

 単純な意味として、知識の記憶という意味もある。ジャガイモの芽は毒がある、という知識は、料理のときにしか役に立たない。仕事上の専門知識の多くも、一般的な意味をもたない。〇〇さんは何が好きで何が嫌いというのも単純なインプットである(いや、これは違うかもしれない)。

で、だからどうした?

 うん、それでだ、特にだから何の役に立つという訳でもないが、こうやって考えを整理したりまとめたり、進めたり戻ったり、覚えたり伝えたり、インプットしたりアウトプットしたりすること、それが、何となく、今一番大事なことのような気がする。

 先日、娯楽について記事を書いたけれども、何だか、何やってもイマイチぴんとこないんだよな。

 娯楽ってのは、そもそも、睡眠や家事や学業や仕事といった、義務や責務から、余った時間に行うことである。
 好きなことを仕事にする、って人もいるだろうが、そうなると、娯楽の部分がなくなっちゃうわけで、それはそれで大変だ。

 要はバランスだろ、という、どーでもいい結論になると、本当にこの記事は無価値に過ぎない。
 ここはもう少し、先日コメントくださった方の、「無駄であってもいいじゃない」という言葉を灯台の一筋の光として、進めていこう。

(だが、時間切れである)

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今日の一言「わかるとは何をもってわかると言えるのか」「関連図書全部読む必要なんてないでしょ」

せんぱーい分からないから教えてくださ~い

 可愛い後輩から頼られたら、先輩諸氏は気分よく、「あーそれはだな」と教えてあげるだろう。
 僕はどうにも、「可愛い後輩」的なキャラクターを演じることが苦手だったので、どうにも人間関係の軋轢は多かった。今もそうかもしれないが、まぁ、「大人」な人たちが相手なら、それほど問題にもならない。

 ところで、その、「教える」という行為は、一体全体、誰に認められるものなのだろうか?
 そして、教えた結果、「わかりました! ありがとうございます!」となるのは、どういった条件に基づくのだろうか?

実存主義とは何か?

 いま・ここにいる自分を中心に、主体的な真理を追い求める考え方である。

 と、僕が一言で説明するならそういうだろう。ちなみに、僕は、ヤスパースもハイデッガーも、サルトルも読んでいない。さらに上の言葉は、特段何かを参照したわけではない。完全オリジナリティな言葉だ。

 そして、上の説明だけで、「わかりました!」となる人はいるかというと、多分いないだろう。概念を教えるということの、非常に難しい点である。

 ヤフー知恵袋とか、その他のサイトや、教科書、書籍など、色々参照すると、だんだん「あーこんなもんなのかな」ってわかってくる。そして、テストなんかを解いていて、正解したり間違ったりしているうちに、その間違った理由を考えているうちに、その概念がシェイプアップされて、洗練されていくのである。本当は、その流れが、「わかった」ということなのだ。

 が、そんな面倒な手順をしていると、結局、いつ時点で「わかった!」が起こるのか分からない。いつの間にやら、「あー、多分、こういうことなんやろうなぁ」って、気持ちにはなるかもしれない。しかし、完全に「これはこうだ!」と言い切れるようになるのは、非常に長い時間を要するのである。

本を読むこと

 いっぱい本を読んでいる人はすごい人である。
 しかしそこで、「本を読んだ」というのは、どういうことだろう。大抵の人は黙読をする。目で文字を追う。ぺらぺらめくる。ふむふむ、なるほどなぁってなる。で、最後まで読み切る。あー面白かったなぁ、なのか、つまらなかったのか分からないが、取りあえずそこまでを、「読んだ」ということが多いだろう。

「○○って本を読んだよ~」
「へーそうなんだ。どんな本だったの?」
「えっと、それはねー」

 となって、どのくらいの時間、その本について語ることができたら、「読んだ」と言えるのだろう?
 最近読んだ、サピエンス全史という本があって、上下巻結構なページ数なのだけど、

「サピエンス全史って本読んだよ~」
「へーそうなんだ。どんな本だったの?」
「えっと、歴史の本なんだけどね、単なる事実の羅列じゃあなくて、人間とその社会が成長していく様をみているようで、とっても面白かったよ」

 と言えたとして、それ、読んだっていえるのか?

 確かに、「認知革命」の章はどうだった? とか、そんな風に聞いてくれる人がいれば、「やっぱ、抽象的な言語を使えるようになったことが、他の動物との差異化がはかられた、とか、納得したし、考えの視点が面白いなぁと思ったよ」とか、話題を広げていくことはできるけれども、全く読んだことのない人に対して、じゃあ、どんな風に、何を伝えたら、「読んだ」っていえるのか。

 たぶん、それって、言ったもん勝ちだと思う。
 ぶっちゃけ、目次だけ読んで、何となくこんなこと書いてるんだろうなぁと、ペラペラやっただけでも、読んだって言うことは可能だろう。まして昨今、「速読できるんです!」なんていったら、「すげー!」ってなることもあるだろう。

謙虚な気持ち

 多読なのはすごいことだと思うと、最初に書いたことはその通りである。ただし、その、「多読」のことそのことを人に話したり、自慢したりする人は、胡散臭いと思う。

 本当に頭のいいとか、教え方が上手い人は、他者に、「教えてあげたんだよ」と思わせない。なんか、自分で答えを見つけたような、そんな気にさせてくれる人が、本当のテクニシャンだ。

 どうも、僕は、「ページング」があんまりできていない気がする。
 ページングとは、相手のペースにあわせることだ。話し方も、話すスピードも、抑揚も、タイミング(間)も、相手に合わせて話す。相手は理解しやすいし、納得しやすいし、興味も持ってもらいやすいし、安心してもらいやすいし、いいことづくめだ。だが、これが結構、実際意識してやると難しい。
 ほら、よく、バトル漫画とかであるじゃん。「相手の呼吸を見極めろ!」的な奴。あれだよあれ。野球漫画とかであるじゃん、バッティングボックスで、「落ち着け、ピッチャーの呼吸に合わせろ!」的な奴。あれよあれ。

 と、てきとーに、卑近なことで関連付けたりすると、記憶しやすかったりする。これが記憶術の一つだ。さぁみんなもやってみよう! とかね、お仕着せがましかったりすると、うぜーってなったりする。それに、そんなこと知ってるし、と言う人も、ネット社会では大勢いる。

 皆さま、ご存知のことと思いますが……とか、まくらことば(いいわけ言葉)(クッション言葉)(自己エクスキューズ)を、常においておくぐらいでいいかもしれない。

面白い記事とは何か?

 ここで記事を終わっても良かったが、どうにも面白くない記事にしか思えなかったから、追記していこう。
 そもそも、最近、他者のブログを読む気力があんまりなくなってきている。20ブログぐらい、更新チェッカーで集めているけれども、何かクリックして開く気があんまり起きなくなっている(※)。というのは、毎日更新してくれる人が少なくなってきたからだ。そして、あんまし、目新しいことが無いのだ(うわあああ、やめろおおお、傲慢すぎる、謙虚さどうした、落ち着け、やばいってその感情! 感情エラーだ! この自己愛性パーソナリティ障害のボケカス野郎!!)。

 なんつーか、面白い記事を書いて欲しいのだ。で僕は、ここで決して、その面白いが漫談をやれとか、そんなことじゃない。

 そこでふと思う。俺が今求めている、面白い記事とはいったい何なのか。


※もちろん、更新があるたび、欠かさず拝見させて頂いている方のブログもある。それらは正直面白い。よくもまぁ、そんな更新頻度で、面白い記事を連発させられるもんだなぁと、文章力の高さ、構成の良さ、テーマの着想などなど、感心ひとしきりである。

実存主義とは何か?2

 しばらく、パラパラと記事をめくってみて、読んでみた。うーむ、なんやかんや、今の気持ちで読むと、俺のブログ、ほとんど面白くねええ!
(たぶん、何を読んでも面白いと思わないような状態なのかもしれない)

 若干、比較的、まぁ、いいかなぁ、と思ったのは、

書類整理より頭の整理をしたい

 という記事だった。7000字ぐらいらしく、長いんだけどね。でも逆に、これぐらい長くないと、なんか面白くない。短い言葉で、何か、気持ちが変わるってのは、可能性が低いだろう。

>いま・ここにいる自分を中心に、主体的な真理を追い求める考え方である。

 とか言っても、ほへーっと、あんまり頭に入ってこないだろう。


 実存主義ってのはねぇ……、あ、貴方は、ヘーゲルさんって知ってる? エヴァ好きなら知ってると思うけど、テーゼって言葉があるよね。テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ! っと、あるものと、その否定が合わさると、新しいものになるって奴だよ。それを弁証法って言うんだけど、そのヘーゲルさんはね、僕らの歴史も、弁証法のように、よりよく進化していくんだって言ってたんだよ。それが世界史だってね。
 でもね、それって、何だか僕ら一人一人は、その大きな「世界史」みたいなのの、一つの歯車みたいなイメージじゃないかな? 必死にがんばろうが何しようが、僕らはテーゼ(正)かアンチテーゼ(反)のどちらかで、いずれかはジンテーゼ(合)! って、世界はある方向へ向かっていくってわけだよ。
 まぁいいさ、確かに分かりやすい考えな気がするし、そうやって世界が進化していくっていうなら、それはそれでいい。でも、そんなことよりも、今、ここにいる、僕、自分自身はどうしてくれるってんだ?
「今この瞬間に、僕は、苦しんだり、悩んだりしてるんだよ! そんな、世界のことなんて、どうだっていいよ!」
 とか思う人も、中にはいるんじゃあないかな? 
 ……そう! それだよ! それこそが「実存主義」って奴。すごーく雑な書き方すれば、「うっせー! 世界なんてどうだっていいよ! この俺の問題を何とかしやがれ!!」といって、その個人の問題に焦点を当てていくのが、実存主義ってわけなんだ。

キモイ系哲学

 本田透さんは、そんな実存主義を、キモイ系哲学とか言っていて、それはもう面白かった。喪男の哲学、だっけか。あー、もうその本かったのも、10年ぐらい前なんだなぁ。


(喪男の哲学史、だった)


 まぁ、何だっけ、この記事の主旨は? 完全に迷子だな。

 うーむ。この記事は、数日後の俺にとって、面白いと思ってくれるのだろうか?
 そして、数少ない訪問してくださった方の一人にでも、なーんとなく、面白いなぁと思ってもらえる可能性はあるのだろうか?


 最近、フランクルさんの実存分析、ロゴセラピー的な、生きる意味的なことしか書いていないから、正直どうなんだろうと思っている。前から分かっていることだけれど、この「生きる意味」ってのは、考えること自体をエラーとする人もいるし、そもそもこの考え自体が一切浮かばない人もいるということなのである。そういう人にとって、「生きる意味とはー」「実存とはー」とか、そんな記事は、全くもって面白くないだろう。完全に偏見だが、女子高生なんて、絶対哲学なんて面白いと思わないだろうな(偏見である)。

 まぁ、んじゃー、いったい、何が面白いのかな、というのが難しいところだ。

 ただ、一つ言えることは、自分が興味のないことを、アクセスアップだかSEOだかよく分からんが、そんなことのために書いていたって、面白いはずがないのだ。それは、読んだ他者へもそうだろうし、そもそも、自分で自分の書いたことを、面白いとなど思えないだろう。

 だったら、まぁ、面白いかどうか何て無視して、とにかく、書いたらいいんじゃないかと、僕は思う。
 人気ブロガーの人とか、批判コメとかも多いんだろうし、変なこと書いたら炎上とかつるし上げとかされるのも怖いんだろうし、大変なんだろうとは思う。でも、そんなのつまんないよね。
 言いたいことを、思ったことを、頭の中を整理したいことを、ちゃんとある程度まとまった文章で書いて公開するってのは、大事なことだと思うし、それって結構面白かったり楽しかったりすることだと、僕は思うけどな。

(自己弁護乙!)

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