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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
カテゴリー「思考及び書くこと」の記事一覧
今日の一言「何を書けばいいんだ」

圧倒的時間の経過

 おぉ……もう日曜日が終わるのか。明日学校の方、明日仕事の方、明日予定があるから、お疲れ様です。ゆっくり休んで明日に備えてくださいね。

 ……えーと、書くことないな。
 ああ、メイドインアビス、なんか見る気が起きなくて、「楽園追放」を見た。アニメーション映画だったのか。気づいたら1時間半ずっと見ていた。まぁ、まぁ、面白かったような。ただ、エンディングがあんまり好みじゃないなぁ……惜しい。☆3つか、☆4つか、そのぐらい。中盤はよかったと思う……いや、後半もよかったと思う。ほんと、エンディングがなぁ……。って、俺はきっと、人外のモノ……機械に知性が生まれた系が好きなのか。

 A.I.――アーティフィシャル・インテリジェンス。なんか最近はやりだからワクワク感が反比例してしまっているが、もともと、押井守の「イノセンス」とか、「イヴの時間」とか、タチコマとか好きだったのである。
 前意識とか、クオリアとかも好きなのである。――概念が好きというのは、なんとも奇妙なものか。

 なんだろうなぁ……この感覚。「人」というよりも、ロボットとかアンドロイドとかの方が、なんか純粋性が心に響くんだよなぁ。その行動は、「行為」ではなくて(=意志が介在しない)、あくまでプログラムされた決まりきった行動でしかないのだけれども、その行動自体が人の心を動かすのである。逆に、その行動が、打算も何もない、単に純粋な行動であることに、僕は何故か感動してしまうのかもしれない。

純粋な行動

 あれ、なんだ。書く前は気が乗らずに、5分もしたら打ち切ろうかぐらい思っていたが、書き始めると意外に書けるじゃないか。俺は奇妙な奴だなぁ。

 うん、その、「単に純粋な行動」ってのは、人には難しいのである。

 筋トレとある運動を最近取り入れているが、それは身体に負荷をかけるというよりも、無心で時間を費やすイメージである。仏教の修行に「数息観」という自身の呼吸を数える方法があるが、それとスクワットを組み合わせたような感じ。インナーマッスルを鍛えられてよいかなと思う。腕ふり運動、スワイショウと呼ばれているようだ。
 これを500回ぐらいすると、12分ぐらいである。12分間、ずっと数をかぞえる。いろいろ思考が浮かぶが、集中する。でも、気持ちが浮ついていると、集中できない。仕事のこと、遊びのこと、プライベートのこと、家族のこと、雑事のこと、夢のこと、タスクのこと、ゲームのこと、いろいろ浮かんでくる。
 100回ぐらいだと、雑念で頭がぐちゃぐちゃである。400回ぐらいすると、少し雑念が取り払われる。500回に近づくと、再び集中力が途切れ始める……うーむ、まだまだ修行が足らん(かっこわらい)。

 ええと、何の話だ? そう、純粋な行動だ。人は、いろいろ考えてしまうから、純粋な行動は難しいのである。

 でも、スポーツとか、武道とか、芸術とか、なんでもそうだと思うけれども、「ここぞ!」という時に集中できない奴は弱い。
 自分の心、そして体を、すべてその一点(集中すべき対象)に注ぎ込むイメージだ。それができなきゃ、負ける。……何にだよ(かっこわらい)。

生活の軸をどこかに見出さねば

 あー。えーっと。
 そういや、PSVITA買ったんだった。忘れかけてたよ。
 三国志13も買ったのに、数時間プレイしてやってないよ。

 なんか、最近、いろいろ、集中できないんだよな。「いろいろ」とか言っちゃってる時点でもう駄目じゃないか。
 俺も、もういいお歳なわけで。こんなことを言うと、「まだ若いんだから頑張りんしゃい!」と言われるが……いや、そういう問題じゃないんだ。

 うーむ。

 楽しいことすることを否定するわけじゃないが、やっぱり、俺は、何で生きているのか分からないのである。
 実存的空虚感である。なんかゴロいいよね。中二病ワードっぽくて好き。

 ああ、しかし、そうだ、思い出した。
 俺はやっぱり、ウフコック(※)じゃないが、「これが俺の存在証明(レーゾンデートル)だ」って言い続けなきゃダメなのである。
 だから、それができなくて、平日帰りが遅くて、ブログも書けずに本も読めずにって日が続くと、精神的に摩耗していくのである。

※マルドゥックスクランブルという作品に登場するスーパーネズミ(とかって書くとファンに怒られるのか?)

因果律

 が、少し落ち着こう。
 忙しいから精神的に落ち着かないのか。精神的に落ち着かないから忙しいのか。どっちだ? 無限遡及? 無意味な問い?

 予測できないことばかり起こると、精神的に摩耗する。というのは、「自己コントロール度」が感じられないからだ。運命に翻弄されるだけが人生であれば、なぜ「努力」に意味があるのだろうか?

 努力というのは、目の前の問題・課題を、「自分の力で」解決できるという見込みを、自分自身信じられるから実施できる行為である。
 いや、そんな大上段なことを言えるのは、年の功である。俺も年を取ったのである。昔の俺は、努力したところで、「上手くいく」なんて、全然信じていなかった。信じられなかった。それでも、退路がなかったから、ただがむしゃらに、ひたすらに「頑張った」。

 心理学でいう成功体験みたいな話か? どっちかというと、パブロフの犬のような、学習性無気力のような話か。

 まぁ、それはどうでもいい。

 いま、俺は、いつまでに、何を、するのか、だ。


(かっこ書きである。うーむ。ここで終わってしまうと、この記事、何の価値もないような気がする……それは自分にとっても。とりあえず、先日作成したフローチャートを見てみる。なるほど、直近問題としては、3つある。
「生きるか死ぬか」
「仕事を続けるか辞めるか」
「結婚するかしないか(子どもをつくるかつくらないか)」
 面倒くさいけれども、これらの問題を考えなければ、これから先、ずーっと思考ループしそうである。しかし、いったいぜんたい、これらの問題、どうやったら思考を進められるのか。はっきりいって、「決め」の問題のような気もする。……いや、一個目の、「生きるか?」という問いにおいて、僕は、「生きる意味を徹底して考える」と考えているのだろう。だから、直近考えなければいけない問題に対して取り組んでいることから、この問題に近づいている際は、たとえ解決の見込みが立たなくても、ある程度気分はよいのである。というよりも、その一個目の問いがものすごく強い。二つ目、三つ目は、それに従属する問いにしか思えない。だから俺はダメなんだろうな。一個目の問いがなくて、二つ目、三つ目、あとは異性とかお金の問題とかに取り組める人のほうが、きっと幸せな人生を送れるのだろう。何せ、一つ目の問いは、「そんなん、解決しないよ。古代から偉い人、頭のよいひとが考え続けてきても、もう何千年も立っても解決してないじゃん」ということである。ただ、そうやって諦めさせる方法の他に、ある精神科医は、この問題は現代昨今深刻になっていて、もはや向き合わなければならない状況に陥っている、と言っている。42歳で亡くなったデンマークの哲学者さんは、宗教的実存に意味を求めたわけだけど、それ以外の、何か方法だった、頭の悪い僕でも到達できるような何か手段があるのではないか、と。それを模索し、記憶し、実践し、考えてからでも、一個目の問いに答えを出すのは遅くはあるまい)




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今日の一言「こんなに時間が経っていたとは」

僕はまだ生きている

 気付いたら、前回記事から2週間も経とうとしている。久しぶりだと、自分がどんな口調で書いていたかも思い出せなくなる。……いや、そんなもの無かった。このブログでは、特に決まり事などないのだ。思ったこと――僕の脳内に生じる言葉を、ただ転写(写し取る)だけでよいのだ、いやむしろ、そうあるべきなのだ。

 一つ、実感度合いを高めたことがある。
 やっぱり、くだらなかろうが、他者にとって役に立たなかろうが、短かろうが、とにかく、何か書かないと、僕は落ち着かないのだということである。

 ルーチンも、だいぶ、おざなり(テキトー)になっている。ちなみに、「なおざり」とは、「あまり注意を払わないこと」であって、似ているけれど意味は違うようである。
 部屋もだいぶ整理が行き届かなくなり、それもまた苛立ちにつながる。
 ここで、ある友人の言であるが、「部屋が汚くなると気分が悪くなる」というのは、逆であるということだ。「部屋を片付けるほど気力がなくなるから部屋が汚くなるのだ」と。こういう言説は、「絶対なる真実!」と捉える必要はないが、とても役に立つ思考である。逆転の発想、常に大事にしたいものだ。何故役に立つかって? 「ああダメだ部屋を片付けなきゃ……」と思って、それでもできなくて、「ああ、今日も片づけられなかった……明日こそは……」みたいに思って、次の日も結局できずに悪循環になったり。そういうときは、むしろ「ゆっくり休む」ことの方が急務だったり。


 それでもって。
 僕のその、「休む」というのは、「眠る」ということだけではないというのが、上に書いた実感として強まったもの、イコール、「何か書かなければならない」ということだ。つまりこのブログだ。

 パソコンの画面を見て、指を動かしタイピングして、思考をして文章を作って、と、「書くのがきらいなんです」という人もいるだろうから、それが何故「休む」ことになるのか、不思議に思う人もいるだろう。
 分かりやすい(分かりやすくないかもしれないけど)例を考えれば、「男は、一人になる時間が必要なんだぜ」とか、そんな奴。別に男じゃなくても、女の子でも、「いまは、そっとしておいて欲しい……」とかいうときあるだろう。それだ。

 その一人になって何をするのかといえば、「何もしない」のかもしれない。そういう時間によって、自分を見つめなおし、日々の慌ただしい生活に「待った」をかけて、また日常に戻っていくのかもしれない。
 そういう時間が、僕にとっては、「書く」ということなんだと、そういう風に思ったのだ。

体を動かした方がいいそれも外で

 書かないで、あれこれ頭を巡らせるのもいいかもしれない。
 が、僕にとってそれは絶対ダメだ。何度か思ってきたけれども、今回、この数日間によって、さらにその実感が高まった。

 なんか、「変」になってしまうのだ。
 それが何だかよく分からない。分からないけど、気をつけねばなるまい。


 ただ、先ほど書いた友人の言じゃあないが、「書かないと変になってしまう」のではなくて、「書けないほど忙しい」だったり、「書けないほど具合が悪い」という可能性もある。こういうときはどうするか。

 特効薬はない。ただ、風呂に入るとよくなったりする。筋トレとか体操するのもよい。ただ、できれば、外に出て体を動かすという方がよかったりする。ランニングとかでもよいが、近所のお店に買い物に行くのでもよい。とにかく、「外に出る」ということが、陰鬱な気分を改善させてくれる手だてになるのだ。

 寝てても、ダメだ。
 今日も昼過ぎまで寝てしまったが、一日中体調が悪かった。今回は、前日が遅かったというのもあるけれども、遅くなくても、どうにも頭が病んで起きられないということがある。逆に、起きても、やっぱり具合が悪くて、また寝てしまうということもある。――結論、駄目である。

 今僕は、明日から会社に行かねばならない、来週の土日も予定があるとかいうことで、何とも気力がでない状況であるが、それは、今日一日を上手く使えなかったからである。
 あー、再来週の土曜日か日曜日も予定があるのか……なんだか気分が乗らないなぁ……。

平日の有効活用を検討しなければ

 正直、僕の「僕として生きている」時間は、休日な気がする。いや、仕事は仕事でやるよ。手を抜こうと思っているわけではない。それがゆえに、帰りが遅くなったりもする。残業することはよいことではないけれどもね。
 しっかしなぁ、「オンラインゲーム症候群(どこまで行ってもすごい人は多い)」は、遊びだけじゃなく、仕事においてもそうであって。僕のできることが、「すごいね!」と言われることであっても、別に世界的に見たら普通だったりして。そういうときは処方箋としていつも、「人間は総合力である」と言い聞かせるのだけれども、結局、「人生に答えなんてない」って呪いみたいな言葉が頭をよぎる。

 僕が常に、よいことがあっても悪いことがあっても、こうやって「書いている」とき以外は憂鬱な気持ちがわきあがってくるのは――そのひとつの理由が、その「人生に答えなんてない」って呪いなのかもしれない。

 テーブルトークRPGというジャンルのゲームは、1.ゲームの目標を達成すること 2.登場人物の役割を果たすこと(ルールを守ってゲームを進行すること) 3.登場人物の役割を適切に演じること というのが求められるらしい。(ほんとは4つ目があるのだけど、難しくてやったことがない自分にとってはイマイチぴんとこなかった)
 RPGというジャンルだけじゃなくて、僕らの人生もまた、ロールプレイだと思っている。
 いや、人生は、唯一性・一回性があって、つまりリセットのきかないものなのだと、当たり前のことは理解している。ただ、僕が言いたいのは、人生もまた「物語」であるということだ。
 ――なので、本来は、「自分」というものを追求するのではなく、その「自分」なるものが、世界に・社会に・環境に・友人に・恋人に・家族に求められているその「役割」を果たすことで、自分の人生たるものに「満足」すべきなのである。

 かなしいかな。
 僕はその「役割」を分かっていない。30代にもなって恥ずかしい限りである。いや割とマジで。
 会社の、仕事としての「役割」は何となく分かっている。その「期待」ってものも何となくわかるし、その期待に到達しているかどうかってのも何となく分かる。できてないよ。と、いうか、期待なんてもの、どこまでいっても満たされるようなものじゃないよ。
 だから、PDCAなんて言葉が流行るのである。計画立てて、実行して、結果確認して、改善点を直して再実行する、と。ここで、チェック:Cとかアクション:Aが重要だとか、PDCAを常に回していくのが重要だ、とか言われる。
 けれども、PDCAの一番大事なところは、「P」である。
 プランだ。
 何故か? プランがなければ、つまりゴールがないってことなのだ。
 ゴールがあるから、その実行行為が成り立つ。意味を持つ。やりがいも生まれるかもしれない。

 目的なき行為ほど虚しいものはなかろう。

 よいリーダー足るもの、常に目的を、ビジョンを語り続けなければならない。
 まぁ、リーダーにも、管理型とか牽引型とか、いろいろあるようだが。ただ、僕に言わせれば、その管理するにも、引っ張っていくにも、その目指す先がはっきりしていなければなるまい?

 え、仕事が全部そういうものじゃないだろうと? 気象予報は、決められたデータに基づいて天気を予想するのが仕事であって、そんなにビジョンを語る必要はないんじゃないかって? まぁそうかもしれない。でも、それだって、「気象を予測することで、災害に備えたり、明日のお出かけの日程を決めたり、みんなの役に立つ仕事だ」とかって、ちゃんとやりがいもって語れなきゃダメなんじゃね? そういう目的があるから、きっと難しい勉強もがんばれるんじゃあないかな。

小見出し詐欺になった

 あー、上の記事、「小見出し詐欺」(小見出しと書いている内容が一致しないこと)になったな。
 平日、ちゃんとうまく使わないと、ということだ。
 いや、つまり、帰りが遅いのをなんとかしたいな、ということである。

 うーん……。仕事の状況だけじゃなくて、周囲の環境もあるんだよなぁ……難しいんだよなぁ……。
 あと、目的は……、すっげービックな目的はあるけど、目標管理する人がいないから……ってかそれがリーダー補佐かつ実行部隊的な俺の役目なのかもしれないが、どこまでやったらOKなのかも不明確なんだよな。つーか、「お客様の満足度」的なのって、正直なところ、それこそ答えないじゃん、とも思うわけであって。
 そういうのもあるから、「評価の軸」って重要なんだよな。

 ああもう!(笑) こういう話したくないんだってばよ。
 いやだからさ、仕事の話じゃないのだよ。「僕の」「物語」の話なのだよ。


 だからさ、「仕事」に一生懸命生きる、ってのが僕の人生の物語だって、心底信じられるならそれでもいいんだよ。再び結婚して、温かい家庭を築くのが僕の生まれた意味だって心底信じられるならそれでもいいんだよ。
 限られたリソース(僕のもっているもの全般。資産、ルックス、身体、思考知識、性格特性、人脈その他もろもろ)で、なんとか精一杯やってやるよ。

 問題は、そのリソースを、どこに使おうかってことである。
 まぁ、こうやってダラダラ書いているだけでも、日々なんとか生きてやってるだけでも、リソースは減っていくのであるが。


 あー。だから、そうだ。
 やっぱり、「生きる意味を徹底して考える」これである。

 仕事もする。女の子とデートもする。友人とも遊ぶ。創作もする。ルーチンもする。提出すべき書類(プライベート)も書く。

 それぞれ色々やりつつ、軸にすべきは、その、「僕の人生」に対する目的、評価軸の構築である。言い換えれば、「生きる意味を徹底して考える」ということである。


 その方法論的なので、「もし子どもに生きる意味って? と尋ねられたら」という記事が参考になりそうだったので、リンク貼りつつ、今日はもう終わろう。


(かっこ書きである。「目的やビジョンが大事だよ!」とか俺は自分でいいつつ……。この「生きる意味を徹底して考える」について、目的とか目標がてんで書かれてないのでは? とも思った。まぁここら辺は気を付けなければならない。同語反復といって、同じ意味の言葉を繰り返すことがあるが、これは無意味なことであると辞書的に言われる。目的とは何か? それは何故か? 何だ? どうしてだ? と延々と繰り返す……。こういうのを望んでるわけではない。そういう意味で、「お前は考えることが好きなのだ」とか、「答えを出したくないんでしょ。はいはい分かります」とか言われるが、それは本能的に違う、と思うのだが、まぁそう見えることは致し方ないと思う。これがまぁ、10代……いや、20代ぐらいなら、まだかわいげがあったろうが、30代でこんなことを書いているのは間違いなく異常者の部類である。うむ。ただ、間違いなく言えるのは、このまま、いろいろ日々の仕事や遊びを「楽しく」やっていっても、僕のこの問題というか課題については、きっと解決しないだろうということだ。
 そういや、「メイドインアビス」が面白いという情報をある方のブログを読んでいて知った、かつアマプラで見れることから見始めた。うーむ……人物の絵があまり好みではないのと、1話~3話あたりの展開と主人公たちにあまり興味をひかれなかったが、アビス――竪穴の迷宮に入り込んでいってからは面白くなってきた。関係ないけど関係させれば、記憶を失った凄くて不思議な力をもったレグ君が、「僕は、自分が誰なのか知りたい」「危険なのは分かっているが、好奇心には勝てなかった」というのを聞いて、「ああ、そうだ、そうなのだ」と思った。少年少女の冒険譚って、そういうものなのだ。「何かわからないけど、でも目指す」のだ。主人公の女の子も、「奈落の底にいるという母に会いに行く」という目的を掲げ、信じ疑わず、危険や困難など二の次である。困難を乗り越えて、たどり着いたその答えが、例え凄惨なものであっても、それがまた新たな成長の糧となっていく。そういうものである。とにかくこの作品も最後まで見てみよう。最初があまり面白くなくても、最後まで見て面白かった、となる作品がここ最近、覚えている限りで2作品あったので、期待してもよいだろう。――しかし、それはそうと、おれは、俺自身は、いったい何を目指し、どこに向かって歩んでいるのだろう。物語でいえば、主人公が苦悩してまごまごウダウダしている場面である。読者や視聴者にとって非常に面白くなくて、飽きさせて、イライラさせる場面である(かっこわらい)。まぁ、そういうシーンもあるから、結果的に物語は面白くなる場合もあるのだ。困難……例えば強い敵とか、因縁とかそういうのも必要なのである。と、若干前向きな終わり方にしてみる)

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今日の一言「睡眠と書くこと、優先順位の判断が難しい」

24時を過ぎても書かなければならない

 22時過ぎ帰宅。もろもろ作業をし、23時45分。こっから書き始めたら、まぁ24時は過ぎてしまうだろう。
 しかし、短くても、書かなければならない。そうしないと、多分眠れなくなる。そうしたら、浮かんだ思考は疲れ果てるまで書き出してしまった方がよい。

新しいルーチンの追加

 運動系のルーチン、日課に、一つ追加してみたいものが生じた。
 あるブログさんで推奨されていたので、前から気になっていたのであるが、試しにやってみたら、確かになんだかよい効果がありそうだった。
 しかし、まだ具体的には書かない。結局続けられなかったら恥ずかしいからだ。
 一週間程度継続できたら、ブログ横のカウントアップカウンターに追加しよう。

 そういや、筋トレは全く休まず、340日近く続けられてきた(免除規定該当の場合は除く)が、音読のルーチンは、最近、結構できていないときもある気がする。PDCAサイクルで、そろそろチェック・アクション(=見直し)が必要だろう。

 音読は、気力的にきつい日が多いけれども、効果がある(具体的明確には書けない。ただ、自分の声を録音して聞くというのは、自分の言動がどのように他者に伝わるのか客観的に感じられるので、面白いと思っている。)のは確かなので、免除既定の見直しを含めて再度検討したい。

人生フローチャートの作成



 こんなの作り始めて挫折中。
 参考になる情報がないか探しても、いまいちぴんとくるのがない。

 ――30代が陥りやすい失敗パターン5

 検索で出てくるのは、上のようなもの。この中で、「4.結婚しないこと・子供を持たないこと」というのが、人生の失敗要因として挙げられている。
 理由は、明確に否定すべきものがない。しかし、絶対にそうかと言い切れるだけの根拠もない。ただ、昔の人たち、えらい人たちの経験則のようなものであろう。

 この経験則というのがやっかいなものである。
 世代間や異種文化間の争いがなくならない要因でもある。「わたしはこう思う」ということについて、「いや違う」とは、原理上いえないのだ。客観的に「それは間違っている」ということはあるかもしれない。ただし、「わたしはこう思う」ということが、嘘だったということにはならない。その人は、「そう思った」のである。

 結婚するしない、という問題。――それだけではないが、これも一切結論が出る見込みがない。「年取ったとき伴侶がいないと寂しいでしょ」というのも可能性としてあるし、一方、「結婚したことによって不幸になる人もいる」というのも一つの可能性としてはありえる。

 どう生きるか。
 この問題は、限りなく、判断の連続なのである。

思考ループの原因

 ので。タイムリープマシンがあるならばともかくとして、基本、過去に戻ることはできないので、前に進むしかないのである。で、あるならばして、その「判断」というのは、基本的に「正しかった」としていく必要がある。

 ――このことが、年を取った人たちが、「頑な」である原因でもある。長く生きた人は、それだけたくさんの判断をしてきたのだ。それがたとえ、若い人たちからみたら、おかしな判断だったとしても、それを認めてしまうこと、自分の判断の誤りを認めるということは、すなわち、自分の人生が誤りだったというようなものなのだ。
 だから、「言い訳」として、「私たちの時代はこうだった」というのである。もしくは、そのときの諸条件・環境を理由として挙げるのである。



 正直なところ、他の誰がどんな生き方をしようが、それに対してどうこういうのではない。願わくば、路上で喫煙をするような人には消えていただきたいと思うわけではあるが、基本、他者に迷惑をかけなければよいと思う――という言い回しも好きではないのだが。「迷惑」は、生きていれば多かれ少なかれ必要である。もっと視野を広げれば、他の生命を奪うことでしか人も、その他の生命(植物は除く、か?)も生きられない。

 ので、このあたりの話しはあまり置いておいて、――僕は、言い訳が好きではない。

 主張、であればよいのであるが、自己保存のためだけの正当化はしたくないと思う。言い訳は、さらなる言い訳を必要とする。言い訳をしている時間はとても愚かでもったいないと思う。



 ので、僕は、「正しい判断」を常にしていきたい。
 やや飛躍した表現に言い換えれば、「自己同一性の担保」をしたいということだ。

 私はこういう人間だ。
 だからこういう判断をする。
 だからこういう感じ方をする。
 だからこういう生き方をする……と。

 生きていることについて、「意味」をもたせたいのである。

人の中で生きること

 こういった表現は、おそらく、10年前もできていた。問題は、ここからだ。
 まず、「実感として」、おそらく、自分一人で、自己を満たすことは、不可能であろうということだ。

 これも、10年前に「おそらくそうだろう」とは思っていたが、より実感に近いものになったという点で違いがある。
 これについては、一般に、「人は一人では生きていけない」ということで表現されるもの。ただ、これは単に、専門家・分業化した社会として・消費と生産の経済活動により成り立つ社会として、という意味だけではなく、心理的側面も強調したい。

 つまり、これもやや飛躍した表現をすれば、アカシックレコードや、瑜伽行唯識派の阿頼耶識のように、自己というものは本来的に、「遠藤」といった単一の個体で成り立つものではないという認識・実感故であるということだ。

 何をそんな当たりまえ、と言われてしまいそうだが、僕の世界認識は、「関係」で成り立っていると思っている。関係とは、二つ以上の要素が相互に影響を与え合っている状態、またその条件である。

 自己の中にどこまでもどこまでも沈潜していっても、結局、「自己」なるものは存在しないであろうということだ。
 その自己とは、他者であったり、世界であったりと、そのつながりの中で表層している一側面でしかなかろう、ということである。

承認欲求

 という認識のうえで、であれば、やはり「認められたい」という思いを満たす必要があるのだろうということである。

 しかし、ある精神科医さんの「認められたい」(amazon-link)という本を読んだが、おそらく、多くの人には当てはまるような気もしたが、――僕も、ああそうなのかなぁと思ったが、でも、半年ぐらいして、やっぱりなんか違う気もしてきたのである。

 マズローの5段階欲求は有名だけれども、所属欲求・承認欲求を、僕は本当に求めているのだろうか、ということだ。
 なぜなら、ときおり、人から感謝されたり、頼りにされたり、友人と一緒に遊んだり、上司などと飲みに行ったりして、楽しかったり嬉しかったりする中で、どうにも孤独感というか、寂しさが強まっていく感じがあるからだ。

 それを考えたときに、僕の場合のその「認められたい」というのは、「どれだけ人に根源的に必要とされるか」という強度が問題になっているのではないか、ということだ。

 端的に言い換えると、「生きていて欲しい」と思ってくれる人がどんだけいるかということだ。
 きっと、親はそう思ってくれているという実感がある。――が。

 幼いころ自分をとてもかわいがってくれた祖父は亡くなり、祖母は認知症を患い僕のことを忘れてしまった。

 友人は、きっと僕が死んだら哀しんでくれる人が何人かはいるだろうが、しかし、僕がいなければ生きていけない人がいるかというと、いない。

 仕事でもそうだ。確かに、今、とても重要な仕事を任せてもらい、現場の責任者的な立ち位置で仕事を割り振ったりもしている。僕がいなくなったら、困る人はいるだろう。
 が、じゃあ、絶対僕じゃなきゃいけないのかというと、違う。一時的には混乱するかもしれないし、納期が遅くなったり品質が低くなったりするかもしれないけれども、まぁしばらくしたら何とかなるだろう。

絶対必要な人

 そんなん。
 そんなこと言ったら、絶対必要な人なんて、何人いるのだろうか? いや、僕はいないと思っている。
 いやむしろ、いなくていいと思っている。昔、偉い人がなくなったら、一緒に奴隷が埋められた時代もあった。殉死という言葉もあった。でもそれは、もう時代に合わないものだと思う。逆に、認めていいものではないと思う。個人主義の弊害などいくら言われようが、それは過去――やや極端だが全体主義などに比べて、悪いことではないと思う。

 それでも。
 だからといって、人の一人一人の価値が損なわれているとかそんなことではない。
 あいもかわらず、愛というのは美しいし、親は子どもを愛するし、子どもは親を愛する。
 恋人同士は永遠の愛を信じ、身体を重ねて一つになる。


 それらの行為を、人間の営みを、どうして否定できるというのか。

 できるはずがない。そう、人は、生きているだけでとても素晴らしいものなのだ!


 ――と、なかなか思えない、という苦悩である。

 そして、ここから先が重要なのだが……もう寝よう。


(かっこ書きである。というわけで、子どもをつくろうかと思う――となると唐突過ぎる。そして、そんな自分の何だか欲求を満たすために子どもを育ててみようとか、そんなん理由としてありなの? とも思う。いやというよりも、そもそも、僕自身が心底それに憧れているかもよく分からないし、納得できていない。――そもそも、贅沢な悩みである。昔は、男子たるもの、元気な子を生み育てて、お家を守ることが大事なことだった。いまは、結婚しなくてもいいんじゃん? 子どもがいなくてもいいんじゃん? みたいな価値観も「あり」だといわれる。本当にみんなそう思っているかは別として。まぁとにかく、それはそれとして、先日、いつの日か書いたように、まずは、今の自分として納得できる最大の作品を仕上げたいとは思う。子どもの話と何がどう繋がるのか! 大いに繋がるのである。けれども、もう今日は終わりにしよう――ただ、つまり、言い訳などしたくなくて、最大全力を出し切りたいということだ。中途半端に、ライフワークにしようとか、そんなん寝言は寝ていえ、である)

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今日の一言「ゼロベースで考える・感じることは重要」

少し落ち着く

 土曜日から、これまで、だいぶ精神状態が良くなかった。
 女性は、生理痛(PMS)などで機嫌が悪くなるタイミングがあるという。男性はそういうのがなくてよいね、みたいなことを言われたことがあったようななかったような。まぁ、一般的にはそうかもしれないが、自分には気分の浮き沈み、躁鬱の波があるように思う。

 これはどちらかというと、喫煙者がタバコを断っている、禁断症状に近いかもしれない。
 僕は、「楽しいこと」というよりも、「目的」「意義」みたいなものがないと具合が悪くなるのだろう。

仏教なんて全然理解できない

 あるブログさんで、「諦念をすすめる仏教ってそんなに良いものなの?」といった記事が書かれている。
 なるほど、煩悩なんて、年を取ればだんだんなくなるものかもしれないし、わざわざ20代30代で無くす必要もないのかもしれない。

 仏教を求めなければならなくなる人というのは、「現世な幸福」が続かないことにおいて、それ自体を「苦悩」と感じる人である。
 それは言い換えると、「常に幸福でしかいたくない」という、傲慢な望みをもってしまった人ともいえる。

 どうして、すべての苦悩から解き放たれなければいけないのか。煩悶、懊悩することがいけないことなのか。
 求めるからつらいのだといって、すべてのことを諦めさせようというのは、ルサンチマンに過ぎないのではないか。

 ――おっしゃることは分かる。やっぱり、人間としての感じ方、生き方としては、つらいことを乗り越えていくというものであるべきに思う。
 ただ、少し引用。
「現世的な幸福」「現世的な快」をどうにかしたいと思って仏教に関心を持つ人はいないのであって、あくまで「現世的な不幸」「現世的な不快」をどうにかしたい(1)というのが多くの人の願いである。ところが、仏教の処方箋は「求めるから苦しいのです」としてそもそも快不快というシステムそのものにメスを入れてしまうので、不幸を遠ざけ幸福を招くどころか、何もかも諦めなければならない(2)
――「求めるから苦しいのです」のはてな  
 僕がおかしいのか、病気なのか、それは置いておいて、上記下線(1)の部分についての認識がまず異なる。
 確かに、幸福や快といったものを何とかしたい、と思うことはないだろう。ただし、不幸や不快といったものが、明確にあるかというと、別にない。

 なんかよくわからん感覚。それをなんと表現していいのかわからない。ただ、無気力とか、厭世観とか、茫然自失とか、どうでもいいや的なそんなもの。そんな愚痴を聞かされる人はたまったもんじゃない。まだ人間関係の悩みで相談されている方が、アドバイスのしようもあるし楽だろう。生きているのもやだ、死ぬのも嫌だとか言われたら、どんな聖人君子でも「イラっ」とするのではなかろうか。

 で、上記下線(2)の部分で、「不幸を遠ざけ幸福を招く」ことが仏教はないと書かれているが、それはその通り、仏教ってそういうものじゃないと思っている。御利益仏教……南無阿弥陀仏と唱えたら極楽浄土へいけますよ、というのは幸福追究だと思うが、少なくても原始仏教(ゴウタマ・シッダールタの教え)はそうじゃないと思っている。

 シッダールタ氏は、王族という身分ながら生きるということ自体に悩み、3つの門で老病死を見て、北門で修行者を見て出家する。氏の目的は、決して、幸福を求めるものではなかったと僕は思うのだ。

 確かに、「何もかも諦めなければならない」というのは、そういう面が強いと思う。
 ただ、すべての諦念というよりも、むしろ重要なのは、「執着してはならない」という教えの部分だと思っている。
 何もかも諦めることが真理であれば、やっぱり、さっさと生きることも諦めたほうが正解な気がするからだ。でも、自死を推奨する教えだとしたら、三大宗教とかいわれて広まりもしなかったように思う。

 ので、仏教ってのは、幸福とか不幸とかそういった次元を超えた、〇〇という生き方をするための方法を説いている考え方の体系なんだと思う。これが僕の仏教に対する考えである。あー、その「〇〇」ってのは何だかよく分からない(笑)。それが分かったらそれはもう悟りの境地であろう。この、目指すべき悟りの境地というのが、実は修行者たちには分かっていないのに、厳しい修行に身をおいていくというその仏教のロジックについて、「悟りゲーム」とかいって、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」にかけて解説していた書物があったような気がするけど、なんだっけか。

 ただ、その点、「仏教の目指す境地ってほんとによいものなの? なんか間違ってたりしないの?」という部分について、かのブログの方も触れられていて――「もしも仏教の言うことが何かしら間違っていたとしたら、それに従うことは丸々人生を捨てるようなものである」――さすがだなぁと思った。

現生的な欲求

 なんか、家とか、車とか、土地とか、引っ越しとか、別荘とか、大きな買い物でもしようかな、と思っていろいろ調べてたら無駄(?)に時間が過ぎた。

 その中で、「小屋暮らし」的なことを営んでいる人のブログをいくつか見て、面白そうだなぁと思った。思っただけで、これはちょっと自分ではやらない気がする(笑)。
 しかし、ガレージ付きの、こじんまりした1DKぐらいの家を自分で設計して郊外に建てて生活するとか、なんかちょっと面白そうだなぁと思った。意外と、現状の資産でもできそうな気もする。

 ぶっちゃけ、昔の人は30代にもなればローンでもくんで、マイカーマイホームなんて持ってたということだろうので、別に珍しくもないはずなのだ。ただ、昨今時代を鑑みると、なんかそういった「物的」な魅力って逓減している気がする。

 ただ、そういう「大きな買い物」に着手する前に、例えば、はいている靴下を全部同一のものにそろえるとか、そういう生活品の調整をやってみるのもよい。
 靴下は実際やってみた。これは、洗濯のときの手間を考えてのものである。洗濯して干すときに楽になるのだ。――ただ、そろえて買ってみた靴下が、一足400円ぐらいもするからよいものかと思ったら、あんましよくなかったのが残念。なんか、高級な靴下とかあんのかな。「これは素晴らしい靴下だ! もうこれ以外は履けない!」とか思えるのがあるか探してみるか(笑)。

(0時過ぎたので強制かっこ書きである。少し回復した気がするが、ストレスで怒ったり、まぁあんまり落ち着いてはいない。機嫌が一定しない人は嫌われるよなーと思うし、そもそも、冷静じゃない自分自身を嫌にもなる。悪循環。早急に、物語欠乏症を解消する必要がある。――なかなか更新されないので、某異世界の主人公がエルフの国に召喚されて活躍する作品を最初から読み始める。あー、面白い。物語がある程度進んで、その登場人物についての情景が浮かんだ状態で再度、その「生い立ち」にあたる内容に触れるとまた違った感慨が生じてくる。物語の面白さには、先が知りたいという面白さと、過去を知りたいという面白さの二種類があるというが、まさにその後者であるなぁと思った(いや一度読んでるのだが、時間経過もまた一つの面白さに対する重要な要素だろう)。――ああ、面白い作品を書きたい。しっかし、創作ルーチン1000字/1日を超えないなぁ……)

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今日の一言「人間怖いけれども優しさもある」「いつも以上にメモ的な記事」



体調の回復

 大分体調が良くなった。
 外に買い物に出かけたのも良かったのだろう。家の中にずっといるのは、やはりよくない。朝は平日と同じく起きて、少しでもいいから外出する。目的はどうでもいい。とにかく外出する。これを一つ、習慣にしてみよう。実践できなかった時は、その時はその時で体調の状態を記録することにしよう。
 

温かいコメント

 たくさん、コメントをもらえて遠藤は果報者であることを認識した。
 本当は、弱音を吐くべきではないとはいつも思うけれども、この土日は本当に具合が悪かった。ある意味、明確に風邪ならいいなぁと思うぐらい。

>自分の精神状態をよい風に持っていくには感覚を大切――要するに解釈をいったん捨てる
 これも、外出の目標と同じく、実践してみたいと思います。本当は、坐禅とか生活習慣に取り入れたいと思っているのですが、これも中々定着しないですね。ただ、自分にとっては喫緊必要な習慣かもしれないと今回改めて思いました。

>PSvita
 買い物ついでに見てきました。実物をみると、やはり画面が小さいなぁと感じました。ゲームはやはり大きな画面(PC)でやりたいなぁ。しかし、3DSLLでモンハンやってたころも、やり始めたら全然気にならなくなっていた。要は慣れだろう。ただ、スマホでゲームする気にはなれない。
 とかいいつつ、ペルソナ4ゴールデンとかシュタインズ・ゲートのソフトも一緒に売っていたら衝動買いしてしまいそうだった(笑)。改めてアマゾンさんで注文するか要検討。三国志13とか衝動買いしたものの、結局オープニングみただけで一度もやっていないとかなるともったいない。

原因

 今日も、まぁ、その、うつらうつら、起きているか寝ているかが大半を占めていたけれども、一つ、憂鬱な原因が判明した。
 やっぱり仕事のせいだった。
 夢で仕事しているのを見た。
 おかげで一つ、問題の解決策が浮かんだのは本当に皮肉。

 来週、気が重い案件がたくさん(といっても、問題自体の数的には大きく2つだが、その解決に至るためにすることが多数……)あるので、休日といえ、気持ちが休まらなかったのだろう。

 創作も、投資の勉強もまた、生産カテゴリなので、エネルギーが必要なのである。

 そういう時は、それこそ、感覚を良い方向にもっていくようにした方がいいわけだけれども、ただ、完全なる消費活動は、結局、問題を後回しにしているに過ぎない。

 その点、「書くこと」、ブログは、生産と消費の、ちょうど中間な気がする。文字が残っているからある程度「生産」だし、思うがまま書いているのは(感情の)「消費」でもある。だから具合悪い時にちょうどいい作業なのかもしれない。

 くそー、しかし、気が重いのは変わらないぜ。


(かっこ書きである。うーむ、嫌いなんだよなぁ、嫌な思いを引きずるってのが。しっかし、平身低頭謝るしかないとか、怒られるしかないって状況になってしまうと、まぁもう避けられないわけであり。そうならないようにしてきたのに、それが無駄だった(というと大げさだが)というのも、余計に骨身にこたえる。うーむ。どうしたらいいんだろうなぁ。どうにもならんなぁ。……おっと、このループがアレだ、闇に向かう道である。早速、温かいコメントを活かし、解釈を捨て、快感を見つけるために無心を目指そう)

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