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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
カテゴリー「ポジティブ思考」の記事一覧
今日の一言「よし三連休だぜ」「何の予定も考えていない」

何かしよう(雑)

 よし、ようやく休みだ!
 いや何も、週休二日制を無視していたわけではない。しかし、何もない休日は久しぶりな気がする。
 思うに、その休日に入る前の「準備」が大切だ。ボロボロつかれた状態で休日に突入すると、十中八九、ボロボロな休日になってしまう。

 だが、僕はふと思った。

 休日そのものが嬉しいのではなく、「何もない時間が続くこと」自体がうれしいのではないかと。
 つまり、とりあえず、まぁ、なんか仕事もプライベートもうまくいかないが、三日間は、無為な時間が得られるということである。
 とりあえず、日々の雑事について、思い煩うことがないのである。

 そりゃあ、もちろん、何か予定があるのは良いことのように思う。けれども、予定があるってのは、その予定に対して「思い煩っている」ということになるまいか。いやなるだろう。


 だから、「あー、何しよっかなー」とか、ぼけーっと考えられるってことそれ自体が、とっても幸せなことのように僕は思うのだ、思ったのだ。

何もない

 まずは、この、現状の気持ちを書き残しておこう。とっても、楽しい。
 何だろう、何かこう活動していて充実しているなぁ、楽しいなぁと思うことはあるけれども、何もしていないこの瞬間が、なんかワクワクしてくる。

 こういった時間を多くしていくことが、人生を楽しむっていうことなんだろうか。

 そうすると、日がらずーっと、テレビをみて、縁側で日向ぼっこしながら過ごすお年寄り(こんなモデルはもはや段々くずれていってるだろう。いや老人ホームとかでは日常茶飯事か)になるのが、目指すべきものだろうか。
 しかし、このことに、一つ懐疑はある。今のこのワクワク感は、いつもの「雑事」(=めんどうなこと)から、一時的に解放されたという、その解放感によるものかもしれないということ。

 つまり、そもそも、「雑事」がなくなってしまえば、もはや、そういったわくわく感も得られなくなるのではないか、ということである。

 確かに、そんなことは、一生懸命働いて、定年を迎えてから感じたり考えてもいいかもしれない。

 ――僕は、断じて、否、という。


 将来のために生きるということを、僕は否定する。
 頑張って、報われるという物語を否定する。

 どん底の状況から這い上がるのは必要だ。しかし、物語はそこで終わっても、人生という長い物語は、一つ状況好転したところで決して終わりではない。

 モテない男(女)が、自分を磨き、彼女をつくることができた。意中の彼(彼女)の心をつかんだ。

 素晴らしい物語だ。
 だが、恋愛物語はそこで終わったとしても、その主人公の旅はまだ続く。


 終わりなき物語。
 しかし、たいていの人は、それを受け入れている。

 生涯学習とか、頑張り続けることが大事だとか、日々チャレンジだとか。


 誤解や、批判を恐れずに書けば、そういった方策は、「終わり」ということから目を背けていることに過ぎないと僕は思う。
 終わることが怖いのだ。だから、終わらないように、次々と目標を掲げ、努力し、ゴールを目指そうとする。
 しかし、本当に、ゴールにたどり着きたいと思っているのだろうか? 僕は、否と思う。

這い上がる物語は別だ

 ある意味、心を打つのは、そういった「打算的なゴール」など、一切感じさせない物語(生き方)である。

 のけものにされていた人が、力をつけて、周囲を黙らせるようになる。
 その主人公が、みじめであればみじめであるほどに、そこに「打算」などない。生きるために、ただ、戦わなければならない。現状維持は、何ら福音にはならない。だから目指す。ゴールというよりも、深い穴から抜け出そうとあがくのだ。

「人生に退屈した老人どもに、世界を救うだなど言われて、信じられるはずなかろう」――メイガス中佐(EDENより)。

 
 戦うことに理由などない。ただ、戦わなければ生きられないのだ。


現状維持の難しさ

 話はスパッと変わる。とあるブログさんを読んで思ったこと。

昨日の自分に比べたら、今日の自分は成長してる。何しろ、1日分の体験・情報があるから。しかし、昔の方が色々なことを記憶していたと、昔の自分にすら劣等感を覚える可能性もある。でも、やっぱり、人生経験という点では、昨日より今日の方が成長してるのだろう…
しかし、僕は過去に考えていたことも忘れてしまっていることが多く、ぐるぐる堂々巡りの思索の日々で、進展と後退を繰り返しながら、本当は成長も何もしてないんだろうなあとも思うことが少なくない…カラ回りしてるというか、無駄な無為な日々を送ってるんではないかと落ち込んでしまう…

 
 僕は先日、周りと比べて「自分はなんてダメなやつなんだ……」などと落ち込む必要など、まったくないと書いた。
 それは、すごい人はいっぱいいるし、ダメな人はたくさんいるからだ。比較してもきりがないからだ。そんなたくさんの人がいるこの世界において、自己卑下したところで、それは単に「自己エクスキューズ」(きっぱり言っちゃえば、「言い訳」)に過ぎなかろう。
 ただし、そんな中でも、負けちゃいけない人がいる。誰か? 自分だ。

 自分にゃあ負けるなと。

 他者に負けたっていい。そりゃ、勝ち続けられたらいいが、暴力の世界でも、知識の世界でも、政治の世界でも、技術の世界でも、コミュ力の世界でも、どこでもかしこでも、上がいれば下がいる。

 僕はもう一つ、これも昔に書いたことがあるが、「総合力」で勝負しろと。

「人間とは総合である」(※)とは、実存主義の哲学者キルケゴールさんの言葉だが、様々な要素……それは、体を構成するたんぱく質にとどまらず、自分を取り巻く人、環境も含めて、自分という存在であると、私は思う。
(だから、どこまでが「自分」という境界であるのか、実は、甚だ曖昧なのだと思うが、それはともかく)

 例えば、絵をかくのが得意な人でも、アマチュア・プロ含めて数多の中では、かすんでしまうだろう。しかし、絵の能力と、WEBプログラミングの能力があったらどうだろう。なんだか、人を驚かせる面白いことが少しできる可能性が増えはしまいか。
 仕事で営業トークがうまいとしても、それだけでは大して重宝されないかもしれない。しかし、営業トークにプラスで、権力者に気に入られる能力も高ければ、いい思いができる可能性が増えはしまいか。

 先日暗く感傷的なの書いてしまったので、たまにはポジティブなことも書いてみれば、PHPのプログラミングが少しできるだけでは大したことはないが、エクセルのマクロも少し使えて、パワーポイントが少し使えて、タイピングが少し速くて、小説を少し書くことができて、ピアノが少し弾けて、作曲が少しできて、初音ミクが少し使えて、10kmぐらいは走ることができて、筋トレを少し続けることができて、友人も少しいて、恋人を作ることも何回かできて、法律の文書を少し読むことができて、仕事で中よりは上の評価をもらえて、自動二輪の運転ができて、般若心経は暗唱できて、――と、まぁ、その一つひとつは大したことがないが、全部「総合」してみると、「唯一性」に少しずつ近づくことができる。

 まー。それでも、すべてを超越する人は、たくさんいっぱい、いるんだけどね。哀しいことに。

 だけど、その一つ一つを他者と比べて、「あー、やっぱり俺って駄目な奴だなぁ」なんて思っても仕方がない。無意味だ。じゃあ、そのできることの一つが、本当に、どんな環境で、どんな周囲の人との間であっても、絶対に自分が一番ダメか、って考えたら、そんなことあるまいよ。
 小学生の中にいってみたまえ。「おぉ! おじちゃん、すごい!」っていってもらえる何かが、きっとあるだろうよ。

 小学生の中で褒められても、虚しいだけだって?

 違う、そういう意味ではない。そりゃあ、小さな環境の中で、井の中の蛙やってることを自覚しないで、本当に自分はすごいやつなんだって、勘違いしているのは痛いだけである。
 でも、そんなんでも、周囲の人に何らか良い影響を与えられたら、それだけで、素晴らしいことじゃあなかろうか。
 どんな優れた技術や、思想をもっていたとしても、それが誰にも伝えられなければ、世界にとっては無意味である。
 ゴータマ・シッダールタさんも、最初は、「あー悟ったし、もういいや」と思ったそうだが、梵天という神様に、「いやいや、お願いだから、衆生に教えを広めてやってくださいな」と請われてじゃあいっちょやってやっか、と、80歳で亡くなるまで頑張ってくれたのだ。


 ――ん? はなしそれた! 話を戻す。
 ええと、とにかく、自分に負けるな、ってことを、僕は以前から書いていた、ということだ。しかし、あるブログさんの記事を読んで、僕は、ちょっとこの考えも甘い部分が多大だな、と思ったわけだ。
 次の章にその内容を書く。

現状維持の難しさ2

 つまり、「自分には負けるんじゃないぞ」というのは、ある程度若い人向けの言葉なんじゃないかなぁということだ。

 確かに、若い人だとしても、身体的なピークというのは、10代後半だか20歳前半だか(曖昧)と聞いたことがある。そしたら、「過去の自分には負けるな!」と言い続けても、絶対いつか……いつかというより、結構早い段階で、過去の自分にも勝てなくなる。スポーツ選手の引退とか、そういうもんだろう。
 たまに、現役で、まだまだやれるんじゃあなかろうかと思われていた選手が、現役引退! とかいって、驚かせることがあるけれども、その方にとっての、自分のピークというのはもう過ぎたんだと、類まれな感覚で分かってしまったのだろう。

 確かに、すごい能力をもっているから、ある程度はまだまだ現役で活躍できるかもしれない。しかし、その人にとっては、徐々に、衰えていく自分を感じ続けなければならないということなのだ。それはある意味、つらいことだ。特に、向上心を持って、心身を鍛え続ける必要があるトップアスリートにとっては、自身の成長が望めなくなるというのは、何にもましてつらいことだろう。


 だから、「自分に負けるな」というのは、いつでもどこでも、だれにでも使える魔法の言葉なんかじゃあないということを、しっかり銘記すべきだろう。


 しかしそれでも、いまだ僕は、この言葉は有効だと思っている。

 それはやっぱり、最初に書いた、「総合力」という意味においてだ。


 僕がさっき挙げた「できること」の羅列は、確かに、自分の要素の一つでもある。しかし何も、「できること」である必要すらない。
 例えば、目に見えない、人脈だとか、カリスマ性。カリスマ性って何? って考えるのは面白そうだが、それは置いておいて、他にも、さっきのアスリートの例で行けば、金メダルをとった実績だとか、仕事の営業さんでいけば、大きな契約を取った実績だとか、過去の実績というのも自分を成り立たせる要素の一つだ。
 または「経験」。あまり好きな例ではないが、「修羅場」とか「つらい状況」を乗り越えたといった体験・経験というのも、一つの要素である。


 そういった目に見えるもの、見えないもの含めて、自分の内部・外部含めた「総合」を考えたとき、いまだ、「過去の自分に負けるな」というのは、有効な言葉だと思うのだ。
 確かに、ある分野では、もう過去の自分に勝つことはできなくなってしまったかもしれない。しかし、ピークを過ぎてしまって、挫折や苦しい思いを経験したって、それ自体が一つの自分を成り立たせる要素だとしたとき、自分という総合力は、まだまだ、全体としてマイナスに転じているとは言えないではないか、そう思うのだ。

最後に落とす

 とまぁ、ここでブログを終わっておけば、まぁ前向きな記事になった気がする。

 しかし、僕の思考さんは、残念ながらここで終わらない。というよりも、上のことを書きながら、頭のわきに常にあったのだけれども、「で、その、自分に負けないようにして総合としての成長を感じていって、それで何を目指してるの?」と聞かれている。

 上に書いたのは、
>将来のために生きるということを、僕は否定する。
>頑張って、報われるという物語を否定する。

 ということであった。

 自分に負けずに成長していくということは、僕が上で否定したことと矛盾しまいか。

 つまりだ、徹底的な現状肯定こそが、本来あるべき姿じゃあなかろうか。

 ここで強引だけど、株の勉強で知った言葉を使ってみると、「現在価値(PV)」ってやつだ。
 現金(キャッシュ)ってのは、確かに、それ自体がお金を生む力がないので、ファイナンス理論の中では価値が低いものとされる。しかし、今日得られる100万円は、明日得られる101万円よりも価値が高いのだ。

 頑張って、頑張って頑張って到達できる「ゴールA」があるとする。
 そのゴールは、確かに、自分にとって「幸せ」であったとする。

 一方、目の前に、そのゴールより手近な「ゴールB」があったとする。そのゴールBで得られる幸せは、頑張って到達できる「ゴールA」よりも少なかったとする。

 さて、このとき、ゴールAを目指すのが人生の正解か、ゴールBで満足するのが人生の正解か、どちらであろうか?


 もう一つ提起して、今回は終わっておこう。
 僕はこの記事の最初のほうで、
>物語は終わりがあるが、人生という物語に終わりはない

 と書いた。

 つまり、ゴールAとゴールB問題は、それ自体で難問でありながら、「そもそも」僕は、その「ゴール」という問題提起の在り方そのものに疑問が生じてもいるのである。


(とにかく、三連休わーい)

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今日の一言「他者からの認知が自己の存在規定である」「孤独な生き方は否定されるべきか」

興味をもつということ

 一言で、万人に、興味をもたせることはできない。
 弁論術という、政治家やリーダーが身に着けると、より多くの大衆をひきつけることのできるテクニックは存在するだろう。
 しかし、すでに、この記事の冒頭によって、もしくは、そもそもタイトルによって、読者の関心度合は変わってくるのである。

 僕らは、誰からも好かれたいとか、単にモテたいという言葉を用いることがあるけれども、しかし、それは話のタネや話題作りにすらならない、譫妄による言に過ぎない。無駄、である。
 せいぜい可能なのは、自分が所属する集団、組織において、その内の幾人かに、価値ある人間であると認識して頂くことに過ぎないのである。


 これは、否定的な、ネガティブな言であろうか?

 私はむしろ、これは福音であるように思えるが、果たして、この世界認識が本当に役に立つかどうかについて、自信をもてない。なぜならば、上に書いたことが反転した論証となるからだ。つまり、万人に役立つ「言葉」など存在しない。

 これは、「ありのままでいいんだよ」とか、「自分を許してあげましょう」とか、自己啓発やセラピー的な表現と同様である。これを、便宜的に「スローライフ」と呼んでみよう。


 逆に、鉄血のオルフェンズの鉄華団の面々の「俺たちは、戻るとこなんてねーんだ。ただ、進み続けるしかねーんだ」という価値観については、「どこまでも価値を増大させていく、その過程そのものの肯定」であって、これを便宜的に「攻める人生」と呼んでみよう。


 その中間でもがき続けるのが一般大衆であるが、本来的に、人生に答えを求めるのであれば、「スローライフ」または「攻める人生」の、どちらかを、意識的にもしくは非選択的に選び取って邁進する必要がある。

オルフェンズ

 話をわき道にそらす。
 ガンダムシリーズ、鉄血のオルフェンズ、第一期を視聴完了した。

 三日月くんとマッキーがかっこよかった。以上。

 ん、感想が特に出てこない。自分にとっていつものことだが、後半は、一気に見てしまう傾向がある故、印象が飛び飛びになってしまいがちだ。

 印象的なシーンは、ネットでも話題になっていたようだが、「正々堂々! 決闘を申し込む! セッティングなどに30分の猶予をやろう!」と高貴な申し出をする敵方に対して、言い終わるや否や奇襲をかけて惨殺する三日月主人公。やー、悪役も真っ青なはじけっぷりである。味方からも、「うわっグロっ」とか言われる始末。

 しかしまぁ、生い立ちとか、直前に戦友を殺されていた状況からも考えて、それほど違和感はなかった。下手な正義感とか建前とかない分、好感やリアリティを感じた。んーまぁ、それを言うてしまうと、戦闘中に、外部スピーカーだか共通周波数でやってるのか分からないが、「おめーはよぅ、人殺しを楽しんでるんだ!」とか言い合いながら殴り合い殺しあうってのが、いまいち僕はよぅ分からん。ロボットものをあまり見ないというか、好んでいないのは、そんなシーンが原因かもしれない。
(そういう意味では、とある投稿サイトにて読める、万物に宿る魔素に対しての意思力=魔力を用いて騎兵をかりだす作品は面白い。最近更新がされない。まだかなぁ。)


 言葉って、それが罵りであっても呪詛であっても、それだけで「コミュニケーション」なのである。「死ねぇぇぇ!」とか言いながら襲い掛かってくる敵役が存在する作品は、どこかそれだけでコミカルな印象を抱いてしまう。(もちろん、そうでもしなければ、物語として描きにくいのは確かであるのだが)

 そういう意味で、凶悪三日月とか評価されたりしているようだが、作品全般的な印象として、ダークさをあまり感じなかった。いやこれは、いい意味で、物語として楽しめた、ということなのであるけれども、何となく、雰囲気が「軽い」ように思ってしまった。ゆえに、主要キャラの一人であり、結構好きだったポッチャリした軍師的立ち位置の団員が戦死してしまったシーンも、何となく、そんなに泣けなかったのである。

 んーなんだ。無意味な批判ばっかしてしまったな。なんというか、面白かったか面白くなかったか、といわれると、面白かったと答える。何せ、投げ出さずちゃんと最後まで見たのだから間違いない。そして、第二期も見てみようと思ったことからも、良い作品だったことは疑いえない。

 しかし、何か足りなかった。

 うーむ。ヒロインが好みじゃなかったからなのかなぁ。しかし、よく考えてみると、どんなヒロインが好みなんだ俺? なんか、結構これについては、好みがここ数年、変わってきている気がしてならないが……最近の作品で考えると、進撃の巨人のミカサとかハンジさんは結構好きである(変な人が好きになったのか?)。
 他は……うーん、昔は、最終兵器彼女のちせちゃんが好きだった気がするが、今はもうそんなん無いなぁ。

 なんの話や。

明るい記事について

 拍手コメにて、明るい話を所望されてから暫く経った。
 また、ある方のコメントにて、「敢えてしないことをする」のも大事なんじゃないかと頂いた。

 よしじゃあやってみよう。

 最近、絶好調である。
 特に、仕事で後輩ができて、色々仕事を教えているが、「先輩! ここ、教えてもらっていいですか?」「さすがですね、よくそれほど深いところまでご存知ですね」「(仕事のスピードが)早いですね……」と、よく慕ってついてきてくれている。正直、やってること自体は、もはや自分においては当たり前のレベルに思い、むしろ、もっと強烈な先輩とかできる人たちを見てきているので、決して自分が優れているなどとは思えない。思えない、のだけれど、それでも、「すごいです!」「教えて頂いてありがとうございます!」とか言われると、悪い気はしない。
(うまくのせられているとか、お世辞に過ぎないだろうとか、僕は瞬時に同時に思うのだけれども、これは、「明るい記事」なので、そんなことは書かない(書いてるじゃねーか))
 上司からも頼りにされている。職制以上に活躍してもらってありがとうと、褒められもして、評定では実際高い評価も頂いた。

 お客さんから厳しいことを言われることもあるけれども、「話が分かりやすい」とか「面倒なことも親身に対応してくれてありがとう」とか感謝もされた。
 とても充実している毎日である。

 帰りが遅いこともあるけれども、ある程度時間のコントロールを自分でもできるので、調整して早く帰ることもできる。帰りには、美味しいお寿司屋さんによったり、お酒を嗜んだりもできる。

 ゴールデンウィークは何の予定もなくて暇だなぁと思っていたら、転勤により中々会えなくなった親しい友人から、会おうというお誘いもいただいた。

 身体も健康そのものである。時折腹痛で悩まされることもあるが、フルーツ食べたりビタミンCを多くとるようにしているからか、身体の調子もよい。筋トレの成果も、思いがけず出ていることも嬉しい。楽しくなって、筋トレメニューを一つ増やしたりもしている。

 とてもとても、充実している毎日である。
 ああ、生きていてよかった。本当に、人生幸せである。

明るいというか自慢じゃね?

 明るい記事……これ、面白いんだろうか?

 こんなの、よく考えると、まったく書いたことなかったので、新鮮ではある。


 というよりも、これは明るいというより、単なる自慢なんじゃなかろうか?
 しかし、明るいのと自慢との違いもよく分からない。そもそも、だれに僕は自慢しようというのだろうか。というか、上のようなことが、自慢なんだろうか? 他者に認められるということ、認知されるということが自慢なんだろうか? 何か「できること」があるということが、自慢なんだろうか?

 じゃあ、自慢と、誇りとは何が違うのか。そんなの、修辞(レトリック)に過ぎないのではないか。実際、受け手(読者)が、どう感じるか――気持ち良ければ「尊敬」とか「誇り」であり、不快であれば「自慢」とうつるだけではなかろうか。

 そもそも、僕は先日の「不安の概念」の記事だって、反転したポジティブ(明るい)記事だと思っている。そもそも、明るいも、暗いも、そんなの、誰が決めるねん。読んだ人っしょや。書き手が、「明るい」も「暗い」も、意識して書くなんて、そりゃどだい難しいことである。それを成し遂げるのであれば、もはやそれは創作のテクニック的な問題になるだろう。

 果たして、オルフェンズは、「ダークな」表現を意図したものだったのだろうか?
 僕は、その点については感じられなかったが、むしろある程度の「軽さ」によって、安心(世界観崩壊が起こらないだろうという期待をもって)してみることができた。


 そういう意味では、少し論理飛躍であるが、結局、僕自身が、明るい暗いと思ったところで、それは他者にとって意味あるものではない。「反転したポジティブ」なんて、そんなこと、ほとんどの人は理解できない――というよりも、理解する必要がそもそもない。対面コミュニケーションにおいては、表裏なく、明るければそれでいい。

どんどんダークになっていく

 よし、今日は、これぐらいで打ち切っておこう。さもなければ、いつものように、段々とダークに偏っていってしまうだろう(かっこわらい)。



 結局さ、物語も、そして人生も、「ポジティブ」なんて求められていないんじゃないか?

 そりゃ、最終的なハッピーエンドは、みんな求めてるわけじゃん?
 でもさ、ハッピーエンドがあるってことは、そのプロセスは、山あり谷あり激しい起伏があるわけじゃん。

 僕があんまり好きじゃない言葉で、「若いうちは苦労しろ」的なのがあんじゃん?
 あれって、結局、苦労した分だけ、成功したときの嬉しさとか達成感とか、その人自身の価値を高めてくれるから、って理由なわけじゃん。

 んじゃーさ。やっぱり、「人は苦しむために生まれてきた」という表現って、正しいってことだよね。もちろん、「苦しみ」ってのも相対概念に過ぎなくて、上の表現も、「人は幸せになるために生まれてきた」と換言することも容易なわけじゃん。

 でもそもそも、その「幸せ」ってのが、対義の「苦しみ」が前提とされているわけだよね。

 だから、幸せな、明るい人生を送りたいって人は、たくさん苦労しなきゃならんわけだ。その分だけ、リターンがあるかもしれんわけだ。それが、「攻める人生」だ。

 でもさ、どこまで攻め続けるの? 死ぬまで? 株価みたいに、ジグザグ(悩み苦しみ、幸せや成果を掴みを繰り返し)しながら、それでも段々上昇していって、そして、死ぬっての?
 OK。それもまた、とっても人間っぽい。かっこいい。そういう人がきっとモテる。きっと、大半、大勢の人の価値観って、そっちの方なんだと思う。

 が。
 なんつーか、俺は、なんかそれ、「変」だと思ってる。

 
 これまで、表立って言ってこなかったけれども、やっぱり、そういう価値観が絶対ってのは、おかしい気がする。

 むしろ、いつまでたっても人は争い続けて、いじめだってなくならないし、傷つけ、傷ついているその理由の一つが、「攻める人生」の人ばっかだからなんじゃあないかと思う。

 いやさ、非常に、書き損じていること、書き洩らしていることが多いことを思って、恥ずかしい思いでいっぱいな状況ではあるんだけれども、それでも、一度、「変」だと思うことは書き残しておこう。

スローライフ推奨ではない

 いやさ、その「攻める」というのが、自己の内面に向かっていくのであればいいよ。自分の成長を第一義に考えるってことだ。今日の俺は、昨日の俺には絶対勝ってやる! という感覚。それは何かかっこいいと思う。「ストイック」という生き方も、僕はかっこいいと思う。
 決して、「スローライフ」といって、頑張らないことを美徳にしたい、とか、そんなことではないのだ。
 ただ、「我」をぶつけあって、それで、「俺たちは後ろには下がれない。戦い続けるしかないんだ」とかいって、自分たちの生きざまがとことん正しいとしてやっていくということに、僕はなんつーか、違和感というか、――いや、むしろ、嫌悪的なのを感じる。

 そういうところに、オルフェンズへの物足りなさがあったんかなぁ。
 三日月くんもカッコいいんだけど、「オルガ(幼馴染・親友)が言うなら、俺はついてくよ」とか、信頼がとても美しく心をうつのだけれども、今この文脈でよく考えると、なんか肯定できんのだよな。


 んー。というような感想をもつことができたということで、反転してオルフェンズは傑作だったといえるだろう。


(やはり是非2期も見てみよう)


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今日の一言「お金があっても大変なもんは大変だ」

せこせこ働いてどうするのか


 一言、書かせて頂こう。仕事が、忙しい。
 僕の今までの感覚でいくと、70点ぐらいをとるにも、残業を避けられない。
 そりゃね、仕事の内容にもよるが、スピード感というのは大事なので、7割り程度でも、先に進めていくことも必要だから、100点に拘ってやたら時間をかけるのは間違っている。

 しかしながらその、7割り程度をこなすためにも、対応案件が多すぎる。いやもちろん、僕の処理能力不足、と言われたらそうなんだが、取り敢えず現状、どうにもこうにも手詰まり感がある。

 ここまでをこの日までにやろう、としていても、方向性が変わったり、追加案件が発生したりで、アンコントロールである。


 問題は、思い通りにいかないことが多いと、僕は段々イライラしてきてしまうことだ。
 他者への態度にも出てしまう。悪循環である。他者への態度が悪くなってしまうことそれ自体が、ストレスになるからだ。


セレブとの会話



 とそんな感じでイライラしていたある日、とあるお客さんと会話する機会があった。その方が、とてもお金持ち、というか、資産をもっていた。不動産関係だが、軽く億をこえているという。仕事はしているが、不動産投資の方がメインとのことだ。

 投資と、リターンが、もう、けた違いで、僕の全財産が維持コストみたいなレベルである。

 そんな方がおっしゃるには、サラリーマンなんてやって、時間を切り売りしてるなんてばからしいと。もっと大きな考え方をして、夢をもたなきゃダメだと。

 おー、やっぱりこんな人がモテるんやろうなぁ。

羨ましいがしかし



 そんなお金持ちさんのお子さまたちも、やっぱり考え方がビッグだという。そもそも、子供の頃から高級な食べ物や服を与えられていたから、金銭感覚もそれなりだという。

 そういう親に育てられたら、なおさら、サラリーマンとかやってらんないね、ってなるのだろう。

 教育の重要性だ。
 育ってきた環境の重要性だ。

 で、まぁ、そういうのに憧れる人もいるのだろう。
 ただ、負け惜しみにしかならないが、色々な人とかかわり合って、だましだまされ努力して、良い車や旅行を楽しみに頑張って、というのは、リターンが大きい点はまったく違うが、お金持ちもまた、色々大変なんだなぁ、と感じさせた。

コペルニクス的転換


 冒頭の忙しさへの対処についてであるが、これはそろそろ、考え方の転換によって対応すべきかもしれない。

 つまり、忙しいことを当たり前にするということだ。
 最近、ノー残業デーとか、プレミアムフライデーとかそんな、長時間労働はいけないものだという風潮が広まっている。

 ので、僕も、僕の実感からも、長時間労働はよくないことだと思うので、早く切り上げようと効率化を考えてはいるが、しかし、前述の通りがんがん、追加案件が発生するのだ。
 それを、やらないようにするとか、他の人に押し付けるとか、まぁそんな方針をたてたりもしたが、この考え方を変えてしまってはどうか、ということである。

 忙しいのは当たり前。21時から23時が定時であると考えるのだ。
 そうしたら、仮に20時で終わったらよく頑張った! となる。

評価を気にしないことと気にすること



 社畜乙とか、効率悪いとか、頑張ってる感出してキモいとか、そりゃもう、時代に逆行することをいってるから、いくらでも批判可能である。

 それはそうなんだが、取り敢えずアンコントロール状態なら、劇的に状況を変えることなどできないのだから、考え方の転換をして、感情制御に努めたほうがましである。

 もちろん。頑張って頑張った果てに、汚名を着せられたこともあるので、決して頑張ることを肯定するのではない。無理をするつもりもない。成果を求めるつもりもない。ただ、やるべきことをやるだけだ。

 大事なことは、人のせいにも、上司のせいにも、会社のせいにも、社会のせいにも、国のせいにもせず、すべて自分のことであると、人生を引き受けることである。

 と、書くと、じゃあ、人のせいにしてくるくだらない奴との対応はどうしたらよいか? ということが問題になる。そういうやつらとの対応も含めて、それらに対する行動もあわせて、自分で引き受ける必要があるのだ。

(この記事は抱負とかメモ的なものなので、あまりというか、ぜんぜん深い意味はない)

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今日の一言「すべての面のすべてのことが、日々ますます良くなっている」「現状追認の危険は過去の否定と現実誤認でしょうね」

人生を振り返って

 過去の自分の人生について、いったい、どういった評価を与えるのか。
 先日、重要な視点というか、問いかけを頂いた。

 まず、過去の認識、というものに、特段定義は不要だろう。これまで自分が経てきた人生、来歴、それらに対する自分の感覚・思考についてである。
 この記事の目的としては、一般論になるのではなく、僕自身が、一体全体どのように、自分の人生について考えているか、ということをまず明らかにする。
 そのうえで、「良い・悪い」の判断を与えることによる、現時点性に対する影響を考える。

過去に対して良い印象をもっているか?

 基本的に、良いことも悪いこともあった、というのが、通常であるだろう。
 そのバランスの崩れが、神経症や精神病と言った状態である。まずもって、自分の数十年の人生に対して、一元的な評価を与えるというのは、難しい作業であることを確認しておく必要がある。
 次に可能であることとしては、その人生に、期間を設けて分けることである。ここで、スペクトルとかパースペクティヴとかタームとか、よく分からない言葉を用いる必要はない。単純に、小学生のころ、中学生のころ、高校の頃、大学の頃、社会人のころ、と分けていくのが一つ。
 しかし、この期間の分けは、単純な組織(小中学校)に属することだけで済まされない。人によっては、親が転勤族で、転校を繰り返していた場合もあるだろう。親など身近な人の死が影響する場合もある。友人や恋人関係など、取り巻く人々との距離(付き合い方)によっても、分けることができるだろう。

 この自分の人生を「分ける」ということ。
 これについても、実は非常に困難な作業であることを、確認しておく必要がある。確かに、小中学校は義務教育で、もちろん昨今は、フリースクールとか、様々な学習形態もあるわけで、単純にそれが有効な分類ではないわけだが、多くの人にとって有効な「分け方」である。
 もう一つ、住所に着目したこと、引っ越しについても、客観的な事実がもとになるため、分かりやすい。

 しかし、実際に自分の人生に対して判断をしていくためには、そうした分けだけでなく、より「感情的な」「思考的な」分けが必要になってくるのだ。

 しかしそのことは、既に、その行為自体が、自らの「判断」または「感情」が移入されているために、複雑さを増していくことになる。まわりくどく書いてしまったが、単純に、「分ける」その行為自体が、既に判断になっているということである(当たり前のことだ)。

 しかしその、当たり前のことが、考えることに対しての障壁となる。無意識に、「良かった時期」と「悪かった時期」を分けようとする判断がはしるのである。

 これの何が問題なのか?

 当初の目的を振り返ってみる。いま僕たちは、自分の人生について、統一的な判断を与えようとしたのである。しかし、そのままでは「人生」を捉えることが難しいため、ある時期に区切ってみようと試みたわけだ。しかしながら、この時点で既に、「判断」がはしっているのである。

貴方にとって過去は良いものでしたか?

 故に、僕は、「良い人生でしたか?」と問われたときに、「今、まさに」と答えるかもしれない。
 つまり、過去は既に、なかったかのように思うのである。そんなはずはない、過去はまさしく、連綿として続く自分の要素であり続ける。でありながら、過去について語るとき、僕は既に「過去を思う今の自分」でしかなくなっていることに気づくのだ(これも当たり前のことだ)。

 何が言いたいのか。そういう問題ではない、僕は、何を表現したいのか、何を思っているのか。何を感じているのか。

 なんというか、つまるところ、「過去」は、もはや良いものでも悪いものでもないのである。
 良いと判断をする今の自分、悪いと判断する今の自分しか存在していないのだ。

分けが分からない禅問答ですらない

 いじめられた過去があったとする、それは悪いことだ。
 彼女と幸せな時間を過ごした。それは良いことだ。

 いじめられていた時代は悪い時代。楽しく過ごしていた時代は良い時代。
 なるほど、その通りだろう。もっと抽象化してみよう。悪いことがあった時代は悪い時代。良いことがあった時代は良い時代。

 んんッ? よく分からなくならないだろうか?

 最初に書いた通り、人生は、良いこともあれば悪いこともある。それは、もっと小さな時間単位にしたとき、一日を通しても、同様に、よい時間帯もあれば、悪い時間帯もあることだろう。通勤中に嫌なことがあったとして、仕事が終わった帰りに友人と出会い食事をして楽しい会話ができたとしたとき、じゃあ、その日は、良い一日だったのか、悪い一日だったのか。

 長いスパン(期間)にしたとしても、同じことがいえないだろうか。つまり、長い期間をとったとき、その中には、良いも悪いも、酸いも甘いも混濁しているのである。

 それに対して、「良い・悪い」を決めるのは、所詮は、「今の自分」であるのだ。

小見出しの5つ目

 小見出しは一つの記事に5つにしようと決めた。ということで、その5つ目だ。
 さぁ困ったぞ、結論を出せるまで十分に書ききれていない。

 もう一度聞こう。君は、自分の人生について、良いと悪い、どちらだと思う?
 いや、きき方を変えよう。良いことと悪いことの、どちらが多かったと思う?





 ……5分ぐらい悩んで、僕は、やっぱり、「悪いことが多かった」と答えたいと思う。

 ただ、その言葉をつむぐのも、非常に難しい感覚でいる。そもそも、過去の事象に対して、良いも悪いも、あまり思えないのだ。
 いやもちろん、このブログの説明文のように、「離婚したこと」というのは、悪いことなんだろう。いや本当にそうか? じゃあ、その悪いことから連続して、現在も続いている今の僕は、悪い状態なのか?
 いじめられた過去があるとして、そこから続く自分は、悪い状態なのか?

 違和感である。

 過ぎたるは猶及ばざるが如し、ということで、僕は、過ぎてしまったことは本当にどうしようもなくどうでもいいことに思っているのだと思う。であれば、僕は、過去の認識について、良いも悪いも、どちらも思っていないのだろうとすら思う。

 その前提で。

 その上で、やっぱり「悪いことが多かった」というのは、今現在、この時点において、まさしく、良い状態であるとしか思われない、ということなのだ。

 これは何ともバカげた考えである。しかし、だ。この、恐らく、これを読んでいる際の自分は、これを書いているときの自分よりも、良い状態であるのだろう。

 うぉぉものすごく意味わからなくなった! なんだ、その、良いも悪いも考えている時点でその状態が一番良い状態だろうよ! ってことだ! 多分!

(余計よくわからない)


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ネガティブ思考については、誰にも負けない自信がある。


こう書き始められるのは、森達也という方の、「まだ絶望していないあなたへ」という、参院選に向けた記事だ。

http://politas.jp/features/10/article/496


よく読んでいけば、その「ネガティブ」という表現が、決してマイナスのものではなく、積極的に人生を構築していく、前向きなものであることが伝わってくる。

ただ、一般向けに書かれた記事であるがゆえに、結論的には、「まぁどうせ無理だろうけど」と、諦念の表現に思えつつも、実は、皮肉的に「選挙に行かない人に対するプロパガンダ」であることが分かる。

何が言いたいかと言えば、僕が常日頃書いている、ネガティブというか、暗いようにしか思われない、毎日にやる気を感じられない、生きる意味が分からないといった表現、それらは、反転してポジティブであることの表現でしかないということの、一つの示唆であるということだ。

帰りの電車の中で叫ぶ

家に帰ってしまえば、酒を飲んで、新しいゲーム(バージョンアップされた)をやって、読書して、ネットサーフィンして、と、時間はあっというまに過ぎる。
ご飯を食べて、食器を洗って、お風呂に入ってと、家事も含めれば思考なんて暇はない。

それゆえに、仕事を終えて、帰りの電車に乗ったとき、椅子に座れたら、眠りにつくこともできようが、電車の中に立っていると、どうにもこうにも、いろんなことのやる気がわいてこない。


Dead by Aprilの曲がウォークマンから流れてきて、大音量で流しながら、うつろな目をしながらつり革を握る。

気持ちの共有

無性に、誰かと話したくなった。

他者に相談することが無意味であるとあれほど書いておきながら、いや、それはむしろ、「本音」で語り合える友人を欲する心性のあらわれではなかったのだろうか。

とかく、僕のとてつもなくネガティブでありながらポジティブな気持ちを、包み隠さず誰かに話したいと思った……いや、そうではない。誰かに話したいのではない、ゆえに、やはり、相談したいとか、愚痴を吐露してすっきりしたいとか、そういうわけではないのだ。

僕は、誰かと、この気持ちを「共有」したかった、それは、決して、僕の話を聞くことで暗い気持ちに引きずりこまれるのではなくて、普段から、表現のできない「生きづらさ」みたいなものを抱えていて、それがとてつもなく高まってしまい、どうしようもなく自分の存在が矮小に感じ、すべてのやる気が失われていくような感覚、そういった感覚をもった人と、その気持ちが本当に「存在する」のだということを、確かめたいと思ったのだ。


リア充はそれでいい、とてもいいことだ、普段の生活に満足している人もいい、イケメンでもブサメンでもどっちでもいい、お金持ちでも貧乏でもどうでもいい。

そうではなく、現に、今この瞬間に、なぜ自分は存在しているのか、と生きていることそれ自体に実感をえられないような、そんな人たちは、必ずいるわけだし、僕が特殊だなんてそんなはずはないのだけれども、しかし、そうした人たち同士が出会い、ましてやその感覚を共有するというのは、とてつもなく低い確率なのではないだろうか。

共有してどうするのか

すぐに、現実的合理的に問いをかけようとする、この自分の思考というか頭というのは、どうにもコミュニケーションに難ありである、かっこ笑い。

しかし確かに、考えてみれば、そうした感覚を共有して、そのあとどうしようというのか、それは分からない。
そもそも、多くの人に囲まれつつも非常に孤独であるという感覚を与える通勤電車というもののなかで、突発的に襲ってくる感覚なのだから、特に意味はないかもしれない。

そう、いまこうして書いているときは、それほど、苦しめられるものではない。
今日はスマートホンを忘れてしまったから、文章を書くという「逃避」(決して逃避であるとなんて思いたくはないのだが)をすることもできず、ただ、じっと耐えるしかなかった。


貧困から抜け出すには、戦争でも起きるしかないね、とあるモノカキが発言し、非難轟轟となったことがあるが、ハルマゲドン的な感覚、「なんかどえらい事件でも起きないかなぁ」と、日々の生活に退屈する男子高校生的な感性というのは、これまた珍しいものではない、とかいうと、やっぱり気持ち悪いと忌避されるから気を付ける必要があるが、よくあるエンターテイメントですませることはできない。

大抵は、日々の退屈が、本当に大きな事件が起こって、実は、日々の退屈な生活それ自体が幸せだったと気付かされるような構造となっている。エンターテイメントとしては、それはそれで成功するストーリー構成であると思う、が、実際に実存的な人生としてとらえたときに、果たして、世界の終末は起こり得るのだろうか、ということだ。

いや、もっと厳密に書けば、起こるかどうかということは決して推測できるものではない、それがゆえに、自己、自分自身が、「日々の生活が幸せである」と感じられるかどうか、実感の問題に他ならないというわけだ。

ルートは単純、日々の生活が幸せであると結果的に気付けたならばそれでよし、結局それがよく分からなければ、いわゆる「生きる意味」について、広く深く考えていく必要が発生するというわけだ。

ネガティブ思考について

無理やりタイトルに戻ってみれば、ネガティブとかポジティブとか、自分の性格とか他者にどうみられているとか、そんなこと気にしている暇などないのだ。

ポイントは、相対的な言語表現が可能な事象・モノについては、一切真実たる実体は存在しないのだ、ということである。
ポジティブの反義語はネガティブ、という、反対のことが表現できるものは、それそのものとして存在することはできない、僕はネガティブなんですよねーという人がいたところで、もっともっとネガティブな人がいたら、最初の人は(相対的に)ポジティブになる。

極端でつまらない例えだが、身長がほとんどの人が130cmだとして、150cmの人は、背が高いことになる、でも、平均身長は男性で172cmぐらいだというから、150cmの人は背が低い。

次元として、130cmばかりのホビットの世界じゃあないだろうということで、結果として150cm小さい、ということになるのだけれども、この表現においてポイントはそこではなくて、「絶対的」だと思われてようが、それは、その条件下のものであって、大きい、小さい、多い少ない、長い短い、美しい醜い、相対的に表現が可能なものは、それそのものとして存在するわけではない、ということである。


だから、無理やり結論的なのを書いておけば、「すぐにポジティブ思考になれる7つの習慣」とか、「ネガティブ思考のススメ」とか、そういった記事というものは、もし読む必要があるのだとすれば、一歩も二歩も、後ろに下がった位置で読む方がよい。

真に受けると、結局、自分自身がよく分からなくなったり、現実の場面において、どう行動していいのか、考えていいのか分からなくなることだろう。



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