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離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
カテゴリー「ポジティブ思考」の記事一覧
今日の一言「お金があっても大変なもんは大変だ」

せこせこ働いてどうするのか


 一言、書かせて頂こう。仕事が、忙しい。
 僕の今までの感覚でいくと、70点ぐらいをとるにも、残業を避けられない。
 そりゃね、仕事の内容にもよるが、スピード感というのは大事なので、7割り程度でも、先に進めていくことも必要だから、100点に拘ってやたら時間をかけるのは間違っている。

 しかしながらその、7割り程度をこなすためにも、対応案件が多すぎる。いやもちろん、僕の処理能力不足、と言われたらそうなんだが、取り敢えず現状、どうにもこうにも手詰まり感がある。

 ここまでをこの日までにやろう、としていても、方向性が変わったり、追加案件が発生したりで、アンコントロールである。


 問題は、思い通りにいかないことが多いと、僕は段々イライラしてきてしまうことだ。
 他者への態度にも出てしまう。悪循環である。他者への態度が悪くなってしまうことそれ自体が、ストレスになるからだ。


セレブとの会話



 とそんな感じでイライラしていたある日、とあるお客さんと会話する機会があった。その方が、とてもお金持ち、というか、資産をもっていた。不動産関係だが、軽く億をこえているという。仕事はしているが、不動産投資の方がメインとのことだ。

 投資と、リターンが、もう、けた違いで、僕の全財産が維持コストみたいなレベルである。

 そんな方がおっしゃるには、サラリーマンなんてやって、時間を切り売りしてるなんてばからしいと。もっと大きな考え方をして、夢をもたなきゃダメだと。

 おー、やっぱりこんな人がモテるんやろうなぁ。

羨ましいがしかし



 そんなお金持ちさんのお子さまたちも、やっぱり考え方がビッグだという。そもそも、子供の頃から高級な食べ物や服を与えられていたから、金銭感覚もそれなりだという。

 そういう親に育てられたら、なおさら、サラリーマンとかやってらんないね、ってなるのだろう。

 教育の重要性だ。
 育ってきた環境の重要性だ。

 で、まぁ、そういうのに憧れる人もいるのだろう。
 ただ、負け惜しみにしかならないが、色々な人とかかわり合って、だましだまされ努力して、良い車や旅行を楽しみに頑張って、というのは、リターンが大きい点はまったく違うが、お金持ちもまた、色々大変なんだなぁ、と感じさせた。

コペルニクス的転換


 冒頭の忙しさへの対処についてであるが、これはそろそろ、考え方の転換によって対応すべきかもしれない。

 つまり、忙しいことを当たり前にするということだ。
 最近、ノー残業デーとか、プレミアムフライデーとかそんな、長時間労働はいけないものだという風潮が広まっている。

 ので、僕も、僕の実感からも、長時間労働はよくないことだと思うので、早く切り上げようと効率化を考えてはいるが、しかし、前述の通りがんがん、追加案件が発生するのだ。
 それを、やらないようにするとか、他の人に押し付けるとか、まぁそんな方針をたてたりもしたが、この考え方を変えてしまってはどうか、ということである。

 忙しいのは当たり前。21時から23時が定時であると考えるのだ。
 そうしたら、仮に20時で終わったらよく頑張った! となる。

評価を気にしないことと気にすること



 社畜乙とか、効率悪いとか、頑張ってる感出してキモいとか、そりゃもう、時代に逆行することをいってるから、いくらでも批判可能である。

 それはそうなんだが、取り敢えずアンコントロール状態なら、劇的に状況を変えることなどできないのだから、考え方の転換をして、感情制御に努めたほうがましである。

 もちろん。頑張って頑張った果てに、汚名を着せられたこともあるので、決して頑張ることを肯定するのではない。無理をするつもりもない。成果を求めるつもりもない。ただ、やるべきことをやるだけだ。

 大事なことは、人のせいにも、上司のせいにも、会社のせいにも、社会のせいにも、国のせいにもせず、すべて自分のことであると、人生を引き受けることである。

 と、書くと、じゃあ、人のせいにしてくるくだらない奴との対応はどうしたらよいか? ということが問題になる。そういうやつらとの対応も含めて、それらに対する行動もあわせて、自分で引き受ける必要があるのだ。

(この記事は抱負とかメモ的なものなので、あまりというか、ぜんぜん深い意味はない)

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今日の一言「すべての面のすべてのことが、日々ますます良くなっている」「現状追認の危険は過去の否定と現実誤認でしょうね」

人生を振り返って

 過去の自分の人生について、いったい、どういった評価を与えるのか。
 先日、重要な視点というか、問いかけを頂いた。

 まず、過去の認識、というものに、特段定義は不要だろう。これまで自分が経てきた人生、来歴、それらに対する自分の感覚・思考についてである。
 この記事の目的としては、一般論になるのではなく、僕自身が、一体全体どのように、自分の人生について考えているか、ということをまず明らかにする。
 そのうえで、「良い・悪い」の判断を与えることによる、現時点性に対する影響を考える。

過去に対して良い印象をもっているか?

 基本的に、良いことも悪いこともあった、というのが、通常であるだろう。
 そのバランスの崩れが、神経症や精神病と言った状態である。まずもって、自分の数十年の人生に対して、一元的な評価を与えるというのは、難しい作業であることを確認しておく必要がある。
 次に可能であることとしては、その人生に、期間を設けて分けることである。ここで、スペクトルとかパースペクティヴとかタームとか、よく分からない言葉を用いる必要はない。単純に、小学生のころ、中学生のころ、高校の頃、大学の頃、社会人のころ、と分けていくのが一つ。
 しかし、この期間の分けは、単純な組織(小中学校)に属することだけで済まされない。人によっては、親が転勤族で、転校を繰り返していた場合もあるだろう。親など身近な人の死が影響する場合もある。友人や恋人関係など、取り巻く人々との距離(付き合い方)によっても、分けることができるだろう。

 この自分の人生を「分ける」ということ。
 これについても、実は非常に困難な作業であることを、確認しておく必要がある。確かに、小中学校は義務教育で、もちろん昨今は、フリースクールとか、様々な学習形態もあるわけで、単純にそれが有効な分類ではないわけだが、多くの人にとって有効な「分け方」である。
 もう一つ、住所に着目したこと、引っ越しについても、客観的な事実がもとになるため、分かりやすい。

 しかし、実際に自分の人生に対して判断をしていくためには、そうした分けだけでなく、より「感情的な」「思考的な」分けが必要になってくるのだ。

 しかしそのことは、既に、その行為自体が、自らの「判断」または「感情」が移入されているために、複雑さを増していくことになる。まわりくどく書いてしまったが、単純に、「分ける」その行為自体が、既に判断になっているということである(当たり前のことだ)。

 しかしその、当たり前のことが、考えることに対しての障壁となる。無意識に、「良かった時期」と「悪かった時期」を分けようとする判断がはしるのである。

 これの何が問題なのか?

 当初の目的を振り返ってみる。いま僕たちは、自分の人生について、統一的な判断を与えようとしたのである。しかし、そのままでは「人生」を捉えることが難しいため、ある時期に区切ってみようと試みたわけだ。しかしながら、この時点で既に、「判断」がはしっているのである。

貴方にとって過去は良いものでしたか?

 故に、僕は、「良い人生でしたか?」と問われたときに、「今、まさに」と答えるかもしれない。
 つまり、過去は既に、なかったかのように思うのである。そんなはずはない、過去はまさしく、連綿として続く自分の要素であり続ける。でありながら、過去について語るとき、僕は既に「過去を思う今の自分」でしかなくなっていることに気づくのだ(これも当たり前のことだ)。

 何が言いたいのか。そういう問題ではない、僕は、何を表現したいのか、何を思っているのか。何を感じているのか。

 なんというか、つまるところ、「過去」は、もはや良いものでも悪いものでもないのである。
 良いと判断をする今の自分、悪いと判断する今の自分しか存在していないのだ。

分けが分からない禅問答ですらない

 いじめられた過去があったとする、それは悪いことだ。
 彼女と幸せな時間を過ごした。それは良いことだ。

 いじめられていた時代は悪い時代。楽しく過ごしていた時代は良い時代。
 なるほど、その通りだろう。もっと抽象化してみよう。悪いことがあった時代は悪い時代。良いことがあった時代は良い時代。

 んんッ? よく分からなくならないだろうか?

 最初に書いた通り、人生は、良いこともあれば悪いこともある。それは、もっと小さな時間単位にしたとき、一日を通しても、同様に、よい時間帯もあれば、悪い時間帯もあることだろう。通勤中に嫌なことがあったとして、仕事が終わった帰りに友人と出会い食事をして楽しい会話ができたとしたとき、じゃあ、その日は、良い一日だったのか、悪い一日だったのか。

 長いスパン(期間)にしたとしても、同じことがいえないだろうか。つまり、長い期間をとったとき、その中には、良いも悪いも、酸いも甘いも混濁しているのである。

 それに対して、「良い・悪い」を決めるのは、所詮は、「今の自分」であるのだ。

小見出しの5つ目

 小見出しは一つの記事に5つにしようと決めた。ということで、その5つ目だ。
 さぁ困ったぞ、結論を出せるまで十分に書ききれていない。

 もう一度聞こう。君は、自分の人生について、良いと悪い、どちらだと思う?
 いや、きき方を変えよう。良いことと悪いことの、どちらが多かったと思う?





 ……5分ぐらい悩んで、僕は、やっぱり、「悪いことが多かった」と答えたいと思う。

 ただ、その言葉をつむぐのも、非常に難しい感覚でいる。そもそも、過去の事象に対して、良いも悪いも、あまり思えないのだ。
 いやもちろん、このブログの説明文のように、「離婚したこと」というのは、悪いことなんだろう。いや本当にそうか? じゃあ、その悪いことから連続して、現在も続いている今の僕は、悪い状態なのか?
 いじめられた過去があるとして、そこから続く自分は、悪い状態なのか?

 違和感である。

 過ぎたるは猶及ばざるが如し、ということで、僕は、過ぎてしまったことは本当にどうしようもなくどうでもいいことに思っているのだと思う。であれば、僕は、過去の認識について、良いも悪いも、どちらも思っていないのだろうとすら思う。

 その前提で。

 その上で、やっぱり「悪いことが多かった」というのは、今現在、この時点において、まさしく、良い状態であるとしか思われない、ということなのだ。

 これは何ともバカげた考えである。しかし、だ。この、恐らく、これを読んでいる際の自分は、これを書いているときの自分よりも、良い状態であるのだろう。

 うぉぉものすごく意味わからなくなった! なんだ、その、良いも悪いも考えている時点でその状態が一番良い状態だろうよ! ってことだ! 多分!

(余計よくわからない)


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ネガティブ思考については、誰にも負けない自信がある。


こう書き始められるのは、森達也という方の、「まだ絶望していないあなたへ」という、参院選に向けた記事だ。

http://politas.jp/features/10/article/496


よく読んでいけば、その「ネガティブ」という表現が、決してマイナスのものではなく、積極的に人生を構築していく、前向きなものであることが伝わってくる。

ただ、一般向けに書かれた記事であるがゆえに、結論的には、「まぁどうせ無理だろうけど」と、諦念の表現に思えつつも、実は、皮肉的に「選挙に行かない人に対するプロパガンダ」であることが分かる。

何が言いたいかと言えば、僕が常日頃書いている、ネガティブというか、暗いようにしか思われない、毎日にやる気を感じられない、生きる意味が分からないといった表現、それらは、反転してポジティブであることの表現でしかないということの、一つの示唆であるということだ。

帰りの電車の中で叫ぶ

家に帰ってしまえば、酒を飲んで、新しいゲーム(バージョンアップされた)をやって、読書して、ネットサーフィンして、と、時間はあっというまに過ぎる。
ご飯を食べて、食器を洗って、お風呂に入ってと、家事も含めれば思考なんて暇はない。

それゆえに、仕事を終えて、帰りの電車に乗ったとき、椅子に座れたら、眠りにつくこともできようが、電車の中に立っていると、どうにもこうにも、いろんなことのやる気がわいてこない。


Dead by Aprilの曲がウォークマンから流れてきて、大音量で流しながら、うつろな目をしながらつり革を握る。

気持ちの共有

無性に、誰かと話したくなった。

他者に相談することが無意味であるとあれほど書いておきながら、いや、それはむしろ、「本音」で語り合える友人を欲する心性のあらわれではなかったのだろうか。

とかく、僕のとてつもなくネガティブでありながらポジティブな気持ちを、包み隠さず誰かに話したいと思った……いや、そうではない。誰かに話したいのではない、ゆえに、やはり、相談したいとか、愚痴を吐露してすっきりしたいとか、そういうわけではないのだ。

僕は、誰かと、この気持ちを「共有」したかった、それは、決して、僕の話を聞くことで暗い気持ちに引きずりこまれるのではなくて、普段から、表現のできない「生きづらさ」みたいなものを抱えていて、それがとてつもなく高まってしまい、どうしようもなく自分の存在が矮小に感じ、すべてのやる気が失われていくような感覚、そういった感覚をもった人と、その気持ちが本当に「存在する」のだということを、確かめたいと思ったのだ。


リア充はそれでいい、とてもいいことだ、普段の生活に満足している人もいい、イケメンでもブサメンでもどっちでもいい、お金持ちでも貧乏でもどうでもいい。

そうではなく、現に、今この瞬間に、なぜ自分は存在しているのか、と生きていることそれ自体に実感をえられないような、そんな人たちは、必ずいるわけだし、僕が特殊だなんてそんなはずはないのだけれども、しかし、そうした人たち同士が出会い、ましてやその感覚を共有するというのは、とてつもなく低い確率なのではないだろうか。

共有してどうするのか

すぐに、現実的合理的に問いをかけようとする、この自分の思考というか頭というのは、どうにもコミュニケーションに難ありである、かっこ笑い。

しかし確かに、考えてみれば、そうした感覚を共有して、そのあとどうしようというのか、それは分からない。
そもそも、多くの人に囲まれつつも非常に孤独であるという感覚を与える通勤電車というもののなかで、突発的に襲ってくる感覚なのだから、特に意味はないかもしれない。

そう、いまこうして書いているときは、それほど、苦しめられるものではない。
今日はスマートホンを忘れてしまったから、文章を書くという「逃避」(決して逃避であるとなんて思いたくはないのだが)をすることもできず、ただ、じっと耐えるしかなかった。


貧困から抜け出すには、戦争でも起きるしかないね、とあるモノカキが発言し、非難轟轟となったことがあるが、ハルマゲドン的な感覚、「なんかどえらい事件でも起きないかなぁ」と、日々の生活に退屈する男子高校生的な感性というのは、これまた珍しいものではない、とかいうと、やっぱり気持ち悪いと忌避されるから気を付ける必要があるが、よくあるエンターテイメントですませることはできない。

大抵は、日々の退屈が、本当に大きな事件が起こって、実は、日々の退屈な生活それ自体が幸せだったと気付かされるような構造となっている。エンターテイメントとしては、それはそれで成功するストーリー構成であると思う、が、実際に実存的な人生としてとらえたときに、果たして、世界の終末は起こり得るのだろうか、ということだ。

いや、もっと厳密に書けば、起こるかどうかということは決して推測できるものではない、それがゆえに、自己、自分自身が、「日々の生活が幸せである」と感じられるかどうか、実感の問題に他ならないというわけだ。

ルートは単純、日々の生活が幸せであると結果的に気付けたならばそれでよし、結局それがよく分からなければ、いわゆる「生きる意味」について、広く深く考えていく必要が発生するというわけだ。

ネガティブ思考について

無理やりタイトルに戻ってみれば、ネガティブとかポジティブとか、自分の性格とか他者にどうみられているとか、そんなこと気にしている暇などないのだ。

ポイントは、相対的な言語表現が可能な事象・モノについては、一切真実たる実体は存在しないのだ、ということである。
ポジティブの反義語はネガティブ、という、反対のことが表現できるものは、それそのものとして存在することはできない、僕はネガティブなんですよねーという人がいたところで、もっともっとネガティブな人がいたら、最初の人は(相対的に)ポジティブになる。

極端でつまらない例えだが、身長がほとんどの人が130cmだとして、150cmの人は、背が高いことになる、でも、平均身長は男性で172cmぐらいだというから、150cmの人は背が低い。

次元として、130cmばかりのホビットの世界じゃあないだろうということで、結果として150cm小さい、ということになるのだけれども、この表現においてポイントはそこではなくて、「絶対的」だと思われてようが、それは、その条件下のものであって、大きい、小さい、多い少ない、長い短い、美しい醜い、相対的に表現が可能なものは、それそのものとして存在するわけではない、ということである。


だから、無理やり結論的なのを書いておけば、「すぐにポジティブ思考になれる7つの習慣」とか、「ネガティブ思考のススメ」とか、そういった記事というものは、もし読む必要があるのだとすれば、一歩も二歩も、後ろに下がった位置で読む方がよい。

真に受けると、結局、自分自身がよく分からなくなったり、現実の場面において、どう行動していいのか、考えていいのか分からなくなることだろう。



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最近、仏教のことを多く書いているので、宗教に抵抗がある人を遠ざけてしまっていると思う。

数年も前であるが、土日なにしたの、的な雑談になり、写経をしてみた、といったら、マジビキという状況になったことが懐かしい。

宗教とは切り離した仏教


学問としての仏教、と、言葉をかえても、イメージでしか物事を考えられない人にとっては、無意味だろう。

ただ僕は、神に祈りを捧げたり、念仏を唱え続けることで、神や仏が救ってくれる、などとは全く思っていない。

考え方とその実践が素晴らしいと思うのであって、例えば、葬式とか、お墓とか、高貴な戒名だとか、そういった仏教様式に拘るものではない。

釈迦は、別に自分をお墓に埋葬してくれといったわけではないが、心酔する弟子たちは分骨して塔をたてたのである。


一方で、ご利益があるということを、より深く解釈してみる。

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ただ過ぎていく時間が……

苛々は消えることなく

自信の喪失が問題だったのだ、とか悟ったようなことを書いてカタルシスを得たものの、まぁ当然それだけで解決するはずがない。

苛々の根元はやはりどうしようも解決できないのだ。しかも、その責任は私にはない、と思う。まぁ生きてることが悪いならそうだろう。ただ、立場上は悪くないのは明白。とはいえ、そうはいっても、人間は感情で生きるものだ。その感情をぶつけられるとしても、それはコミュニケーション能力の低さからくるだけに過ぎない、ゆえに私が悪い。

くだらない思考だ。とはいえ、理不尽さから抜け出る方法は何ともありえない。

というのは視野狭窄である。

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遠藤
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