明日は、4時起きなのだけれども、この感動は、メモしておかなければならない。
ヘルマン・ヘッセのシッダールタという小説を読んで、心が震えた。
これも、かなり前に購入したものだ。アマゾンで買ったから購入した日も確認できるだろう。ただ、そのときも、かなり感動したのだけれども、心が濁っていたからなのか、今回ほどの感情の動きはなかったのではないだろうか。
シッダールタという青年(釈迦牟尼とは別人。ヘルマンヘッセの創作)と、仏陀(こちらは所謂お釈迦さま)との対話のシーン。
頂上決戦のようだ。もちろん、論破するとか、論争をするとか、そういうことではない。むしろ、そうした喜怒哀楽といった感情的な部分とは一切かけはなれた、崇高な次元での対話。
そして、僕は、その二人の言っていることが、ひどく、回りくどいような、僕がこうやって書いているような、遠回しな表現によって表されているのだけれども、僕はそれが、その真意が、明瞭に明白に透き通るように心に沁みわたってきたのである。
結果として、シッダールタは、仏陀に帰依せず、祇園精舎を後にするのである。しかしそれは、仏陀の教えに、反旗を翻したのではない。仏陀の教えに心から心服し、仏陀という人を無上の聖者として心酔したのである。
それがゆえに、彼、シッダールタは、仏陀のもとを去ったのである。
シッダールタの最愛の友、ゴーヴィンダは、仏陀に帰依した。シッダールタは、仏陀のことを認めてなお、帰依することができなかった。それは、一つの、誤りを、仏陀の教えの中に見出したからだ。
それは、その誤りとは、決して、仏陀の教えの、仏陀その人の誤りではない。
その誤りとは、畢竟、「悟りに到達するというそのこと」自体である。
宗教を研究する社会学者の橋爪氏は、それを、仏教の言語ゲームといったのではなかったか。
つまり、誰もが、悟りとは何かを知らないが、修業により悟りをえられると、「信じている」のである。
これが、仏教が、神という概念もなしに、「信じる」という宗教としての要素を備えている部分である。
話しがそれた。
そろそろ、僕自身の言葉で書いていこう。
結局、仏陀その人はすごい人だけれども、「他者からの教え」によって、自分自身を変えることなんて、できないんじゃないか、ということだ。
自我。
仏陀は、様々な修行によって悟りに至った。けれども、私自身、自我をもった、自己をもった、「私」という存在、それが、果たして涅槃に至ることができるのか、それは、聖者の教えにおいても示されていない、そして、決して示されることはないだろう、シッダールタは、そう感じたのだ。
強引で、傲慢な結論を書いて、そろそろ寝よう。
つまり、僕が最近から強く意識している、「実感」ということ。
この実感こそが、やはり、重要なのだと、思う。
僕は、仏陀や、シッダールタのように賢くないから、まだまだインプットが足りないと思う。
いやはや、彼らのような素晴らしい人でも、相当の苦悩を経るのである。僕が、中途半端に生活を送りながら生きている人間が、一体、「真理」(ここでいう真理とは、万物の普遍かつ根源という意味ではなく、主体的な意味においてのモノ)にたどり着くことができるのだろうか。
この、時間的制約、限界性について、僕は恐れている。
けれども、シッダールタが、仏陀のもとを去ったということ、そのことが、僕に、やはり逃げてはならないのだと、そう教えてくれた気がする。
いやいや、教える、なんてことは、この世の中に存在しないのだ。主体的につかみ取った、「実感」が、唯一存在するのである。
ヘルマン・ヘッセのシッダールタという小説を読んで、心が震えた。
これも、かなり前に購入したものだ。アマゾンで買ったから購入した日も確認できるだろう。ただ、そのときも、かなり感動したのだけれども、心が濁っていたからなのか、今回ほどの感情の動きはなかったのではないだろうか。
シッダールタという青年(釈迦牟尼とは別人。ヘルマンヘッセの創作)と、仏陀(こちらは所謂お釈迦さま)との対話のシーン。
頂上決戦のようだ。もちろん、論破するとか、論争をするとか、そういうことではない。むしろ、そうした喜怒哀楽といった感情的な部分とは一切かけはなれた、崇高な次元での対話。
そして、僕は、その二人の言っていることが、ひどく、回りくどいような、僕がこうやって書いているような、遠回しな表現によって表されているのだけれども、僕はそれが、その真意が、明瞭に明白に透き通るように心に沁みわたってきたのである。
結果として、シッダールタは、仏陀に帰依せず、祇園精舎を後にするのである。しかしそれは、仏陀の教えに、反旗を翻したのではない。仏陀の教えに心から心服し、仏陀という人を無上の聖者として心酔したのである。
それがゆえに、彼、シッダールタは、仏陀のもとを去ったのである。
シッダールタの最愛の友、ゴーヴィンダは、仏陀に帰依した。シッダールタは、仏陀のことを認めてなお、帰依することができなかった。それは、一つの、誤りを、仏陀の教えの中に見出したからだ。
それは、その誤りとは、決して、仏陀の教えの、仏陀その人の誤りではない。
その誤りとは、畢竟、「悟りに到達するというそのこと」自体である。
宗教を研究する社会学者の橋爪氏は、それを、仏教の言語ゲームといったのではなかったか。
つまり、誰もが、悟りとは何かを知らないが、修業により悟りをえられると、「信じている」のである。
これが、仏教が、神という概念もなしに、「信じる」という宗教としての要素を備えている部分である。
話しがそれた。
そろそろ、僕自身の言葉で書いていこう。
結局、仏陀その人はすごい人だけれども、「他者からの教え」によって、自分自身を変えることなんて、できないんじゃないか、ということだ。
自我。
仏陀は、様々な修行によって悟りに至った。けれども、私自身、自我をもった、自己をもった、「私」という存在、それが、果たして涅槃に至ることができるのか、それは、聖者の教えにおいても示されていない、そして、決して示されることはないだろう、シッダールタは、そう感じたのだ。
強引で、傲慢な結論を書いて、そろそろ寝よう。
つまり、僕が最近から強く意識している、「実感」ということ。
この実感こそが、やはり、重要なのだと、思う。
僕は、仏陀や、シッダールタのように賢くないから、まだまだインプットが足りないと思う。
いやはや、彼らのような素晴らしい人でも、相当の苦悩を経るのである。僕が、中途半端に生活を送りながら生きている人間が、一体、「真理」(ここでいう真理とは、万物の普遍かつ根源という意味ではなく、主体的な意味においてのモノ)にたどり着くことができるのだろうか。
この、時間的制約、限界性について、僕は恐れている。
けれども、シッダールタが、仏陀のもとを去ったということ、そのことが、僕に、やはり逃げてはならないのだと、そう教えてくれた気がする。
いやいや、教える、なんてことは、この世の中に存在しないのだ。主体的につかみ取った、「実感」が、唯一存在するのである。
追記。
2012年5月13日購入だった。
ちょうど、4年前ぐらいか。
低いレビューもあって、翻訳がよくないというが、僕は全くそうは思わなかったな。
まぁ、他の翻訳もあるから、それと比べてみないことには分からないけれども、批判する、というのは、具体的でなければいけない、批判が、抽象的であってはならないと思う。
なんとなくツマラナイ、という意見は、何の役にも立たないと思う。感情的にも、不快なだけだろう。面白かった、という一言は、確かに、何かに役立てることは難しいながら、感情的には、快を生じさせることもあるのだろうから。
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