今日の一言「人と繋がるということ」
なんか、そういえば、20代ぐらいのときから知り合った小説関係のネット友達の方が、「君はもうリア充になったんだね……」といって去っていったような気がしている。
改めて哀しい。
リア充というか、一時期、ネト充ではあったかな。
ただ、結局、なんというか、基本的には「孤独」な根っこがある人間だということは改めて思った。
1存在、体験ベース
2社会的、関係性ベース
3成長・自己表現ベース
4生物的(種の保存)
5精神・哲学ベース
ボクは、この5つだと思っている。
一般的には、1から、4あたりで、満たされている人が多いと思う。
これは単純でいて、すごく説得力あるタイプでもある。ばかにできない重要な視点。
というか、これがないと、日々つら過ぎる。
つねにそれ以外の生きる意味を見たしつづけることはできないので、ちょくちょくこれを取り入れる必要がある。
人は社会的な存在であるため、誰かのために、誰かを支配し、というそういうところに充実感を覚えるのである。
完全孤独、で生きる意味を満たし続けるのは難しい。
その証明は、まさにこのブログである。
完全ローカルな日記では済ませられない、僕の承認欲求的なサムシングがここにあるのだろう。
仕事も頑張っている。
一応頑張っている。
何故頑張るのか?
それも生きる意味を満たす一つの要素だからだ。
でも、これがなくてもよかったのではないか、とも思ったりする。1とか2だけで、十分幸せ……みたいに感じられる人もいるんじゃなかろうか。
ボクはただ、知ってしまった。ただ漫然と生きるというのでは、ボクは充実感を得ることができないということだ。
夢中になって遊べていたゲームもあったが、いろんな要素で「飽きる」ことが起こってしまう。
MMORPGはもしかして、それが避けられるのではというわずかな希望もあったが、「現実に引き戻される」「所詮はゲーム」という衝撃を与えられてしまったため、もう過去のようにのめり込むことはできない気がする。
それは、そのショックを受けて休止した特定のジャンルの(ふせる必要ないから書けばFF14という)ゲームだけじゃなくて、その他のゲームであっても同じであろう……(そう思っていた、知ってたから、だからこそ、ボクは、もう本当に精一杯遊んでいたのだ)。
だから、子孫を残さなきゃという欲求からは逃れられない。
これも、40代、50代、になって独身だと、「生物失格だ……」とすごく落ち込んでつらい気持ちになってしまうが、しかしだからといって生きる意味というのは、多面的であり、必ずしも種の保存だけがそれではない。
それに、言い訳がましいというか、酸っぱい葡萄理論的ではあるが、10億年後には海はすべて蒸発し、現存する人間は今のような生活は絶対できていない。
50億年後には、赤色巨星となった太陽に飲み込まれて、地球自体がなくなってしまう。
いずれ、人が生きたという痕跡はすべてなくなるのだ。
NASAが行った、宇宙にレコード(記録)を放ったプロジェクト(ボイジャーのゴールデンレコード)では、若干残るっちゃ残る。
宗教やスピリチュアル的な生きる意味というのもある。
宗教は、サピエンスが7万年ごろの認知革命を経て発明した機構であると思うので、「神」という存在を信じるということは中々難しい。
信じられる人を、否定する気持ちはない。なんか、迷惑かけてくるとかじゃなければ、信じてた方が間違いなく幸せだと思われる。
生きる意味というのを考えなくても、ゴールがあるのだ。チート級に逆に羨ましいぐらいである。
生きる意味は、それら、複合して満たされていくものである。
「生きる意味なんて考えたことない」
という人もいるだろうが、実はそれは、気づいてないだけで、気づいてない中で生きる意味を満たしている、というだけである。
考えてないのは事実かもしれないが、そのカテゴリの中にはいるのである。
そして、年老いてから、はたと。
いままで満たされていたその生きる意味が満たされなくなった場合に、中年クライシスが起きるのだろうと思われる。
もしくは、満たされないという状態をずっと続けてきつつ。それでも頑張ってきて、ついに爆発するというケースもあるだろう。
満たされないことで、「自殺」というケースもあるだろう。
まず、2択で応えることに、これは意味はないのであるけれども、どっちかで応えなければいけない場面があったとすれば、ボクは、まよわず、「ない」と答えるだろう。
人間の人格すら、イェール大学のシェリー先生の立場の通り、ボクは物理主義を信じる。
ので、生きる意味の高尚さなどなくて。あるかないかでいったら、ないといって構わないと思う。
生きる意味がないのに、何故人は生きているのか。
そりゃあ、いきるいみがあるからっしょや。
という矛盾。
矛盾しているが、それはそれで正しい。生きる意味はあるでもなく、ないでもないもの。
ボクはそう思っている。
ある、ということも言えなくもないわけだ。
社会関係的に生きているのであるから、人それぞれ、一人ひとり、生きる意味はあるのだ。
独身だってかまわない。働いていれば、税金を納めてるんだから、社会の役に立っている。すばらしい。
消費しかしてない人だって、消費税はらってる……とかそういう問題じゃないとしても、「消費」自体が社会貢献ともいえるだろう。経済というのもまた、あってないようなものだ。

生きる意味は、「ある」のだ。
問題はそこではない。
あるかないか、そんなことを論じることに意味はないのだ。
問題は、おまえ自身に、生きる意味はあるのかどうか、ということだ。
実存主義的な考え方である。
社会が、世界がどうとか、そんなのどうだっていい。
ボク一人、この存在が、果たして、どんな意味があるってんだ? 教えてくれ、教えてくれ……。
幸いなことに、この僕は、そんなことを、中学生ぐらいから考えていたので、「いまさら」という感覚である。なので、特に中年クライシスを恐れる必要はないようにも思われる。
令和の虎に出演されている細井先生は、「生きる意味とか、そんなの皆10代で卒業してるだろ」みたいなこと言ってたが、ん-まぁ、頭のいい人とは違うのかもしれないが、そんなことはなかろう。
そもそも、10代のときにそんなこと考えたこともない人も多いはず。分からんが。
ただ、人間、一度は、その重い軽いは別として、考えることには、いずれなるだろう。
遅いか、早いか、長いか短いか。
どうせ死ぬんだし、時間は限られている。エントロピー増大だ。
でも、ところが、それでも。
ボクはやっぱり、繰り返し「ここ」に戻ってきてしまう。
そして、もはや、その、この、「考える」ということが「楽しい」とすら思えてしまう。
おいしいもの食べて得られる快感や、部下が思った以上に頑張ってくれて成果があげられた充実感があっても、それ以上に、ボクは「こっち」(考えること)が楽しい。
だから、ボクは引き続き、文字を書いていこうと思う。
このブログは、AIくんには、いくら優秀であっても、書けない。
ボクだからかけた記事だ。
ぐちゃぐちゃして、気持ち悪い記事だ。
友達にも、誰にも見せたくもない。恥ずかしい。絶対嫌だ。でも僕は、過去の書き連ねてきた、気持ち悪い文章の方が、なんかインテリぶって書いた文章よりそっちの方が、後で読み返した時、「あーちょっとおもしれーことかいてんじゃん」って思える。
今回の記事もそうなってくれたらいいと思う。
はじめに
最近「ひま」なので、しばらく、まじめに生きる意味について考えていこうと思う。なんか、そういえば、20代ぐらいのときから知り合った小説関係のネット友達の方が、「君はもうリア充になったんだね……」といって去っていったような気がしている。
改めて哀しい。
リア充というか、一時期、ネト充ではあったかな。
ただ、結局、なんというか、基本的には「孤独」な根っこがある人間だということは改めて思った。
ChatGPTさんの要約だよ!
【要約】
■ 生きる意味の5つのカテゴリ
存在・体験ベース:美味しいものを食べて幸せなどの刹那的な快感。
社会的・関係性ベース:家族や会社など、他者とのつながりから得る充実感。
成長・自己実現ベース:勉強・創作・スキル習得などを通じた自分の向上。
生物学的ベース:種の保存、子孫を残すこと。
精神・哲学的ベース:実存主義や宗教による深い意味づけ。
■ 中年クライシスとは?
若い頃に満たされていた意味が、年齢とともに満たされなくなることで起きる。
または、ずっと満たされずに我慢してきた結果、爆発するケースも。
■ 生きる意味は「ある/ない」で決められるものではない
本質的には「ない」と思っている(物理主義的な立場)。
しかし、それでも人は何かしら意味を求め、見つけながら生きている。
問題は「世界に意味があるか」ではなく、「自分にとって意味があるか」という実存的問い。
■ 考えることの楽しさ
意味を問う行為そのものが、自分にとっての楽しみでもある。
だからこれからも文章を書き続けたい。
恥ずかしくても、気持ち悪くても、自分が本気で書いたものは後から「面白い」と思える。
【ひとことで言うと】
「生きる意味」を探しつづけること自体が、自分にとっての生きる意味。
生きる意味ってそもそもどこにターゲット?
生きる意味にも、カテゴリがいくつかある。1存在、体験ベース
2社会的、関係性ベース
3成長・自己表現ベース
4生物的(種の保存)
5精神・哲学ベース
ボクは、この5つだと思っている。
一般的には、1から、4あたりで、満たされている人が多いと思う。
存在・体験ベース
これは、おいしいものを食べて幸せ、という系列のものだ。これは単純でいて、すごく説得力あるタイプでもある。ばかにできない重要な視点。
というか、これがないと、日々つら過ぎる。
つねにそれ以外の生きる意味を見たしつづけることはできないので、ちょくちょくこれを取り入れる必要がある。
関係性ベース
家族や、会社、コミュニティ。どこでも、誰でもよい。人は社会的な存在であるため、誰かのために、誰かを支配し、というそういうところに充実感を覚えるのである。
完全孤独、で生きる意味を満たし続けるのは難しい。
その証明は、まさにこのブログである。
完全ローカルな日記では済ませられない、僕の承認欲求的なサムシングがここにあるのだろう。
成長・自己実現ベース
Blender勉強したり、投資や英語勉強したり、岡田先生のスマートノートをつけてみたり。ボイストレーニングしてみたり。仕事も頑張っている。
一応頑張っている。
何故頑張るのか?
それも生きる意味を満たす一つの要素だからだ。
でも、これがなくてもよかったのではないか、とも思ったりする。1とか2だけで、十分幸せ……みたいに感じられる人もいるんじゃなかろうか。
ボクはただ、知ってしまった。ただ漫然と生きるというのでは、ボクは充実感を得ることができないということだ。
夢中になって遊べていたゲームもあったが、いろんな要素で「飽きる」ことが起こってしまう。
MMORPGはもしかして、それが避けられるのではというわずかな希望もあったが、「現実に引き戻される」「所詮はゲーム」という衝撃を与えられてしまったため、もう過去のようにのめり込むことはできない気がする。
それは、そのショックを受けて休止した特定のジャンルの(ふせる必要ないから書けばFF14という)ゲームだけじゃなくて、その他のゲームであっても同じであろう……(そう思っていた、知ってたから、だからこそ、ボクは、もう本当に精一杯遊んでいたのだ)。
生物学的
種の保存。ホモ・サピエンスは賢いけれども、でも所詮は生物だ。だから、子孫を残さなきゃという欲求からは逃れられない。
これも、40代、50代、になって独身だと、「生物失格だ……」とすごく落ち込んでつらい気持ちになってしまうが、しかしだからといって生きる意味というのは、多面的であり、必ずしも種の保存だけがそれではない。
それに、言い訳がましいというか、酸っぱい葡萄理論的ではあるが、10億年後には海はすべて蒸発し、現存する人間は今のような生活は絶対できていない。
50億年後には、赤色巨星となった太陽に飲み込まれて、地球自体がなくなってしまう。
いずれ、人が生きたという痕跡はすべてなくなるのだ。
NASAが行った、宇宙にレコード(記録)を放ったプロジェクト(ボイジャーのゴールデンレコード)では、若干残るっちゃ残る。
精神・哲学的な意味
キルケゴール氏やフランクル氏がいう、実存主義的な生きる意味というのもある。宗教やスピリチュアル的な生きる意味というのもある。
宗教は、サピエンスが7万年ごろの認知革命を経て発明した機構であると思うので、「神」という存在を信じるということは中々難しい。
信じられる人を、否定する気持ちはない。なんか、迷惑かけてくるとかじゃなければ、信じてた方が間違いなく幸せだと思われる。
生きる意味というのを考えなくても、ゴールがあるのだ。チート級に逆に羨ましいぐらいである。
複合的な生きる意味
というわけで、生物的な生きる意味や、刹那的なもの、人との関係性、創作すること、そして精神・哲学的なものまで……生きる意味は、それら、複合して満たされていくものである。
「生きる意味なんて考えたことない」
という人もいるだろうが、実はそれは、気づいてないだけで、気づいてない中で生きる意味を満たしている、というだけである。
考えてないのは事実かもしれないが、そのカテゴリの中にはいるのである。
そして、年老いてから、はたと。
いままで満たされていたその生きる意味が満たされなくなった場合に、中年クライシスが起きるのだろうと思われる。
もしくは、満たされないという状態をずっと続けてきつつ。それでも頑張ってきて、ついに爆発するというケースもあるだろう。
満たされないことで、「自殺」というケースもあるだろう。
生きる意味の有無
生きる意味はあるのか、ないのか。まず、2択で応えることに、これは意味はないのであるけれども、どっちかで応えなければいけない場面があったとすれば、ボクは、まよわず、「ない」と答えるだろう。
人間の人格すら、イェール大学のシェリー先生の立場の通り、ボクは物理主義を信じる。
ので、生きる意味の高尚さなどなくて。あるかないかでいったら、ないといって構わないと思う。
生きる意味がないのに、何故人は生きているのか。
そりゃあ、いきるいみがあるからっしょや。
という矛盾。
矛盾しているが、それはそれで正しい。生きる意味はあるでもなく、ないでもないもの。
ボクはそう思っている。
ある、ということも言えなくもないわけだ。
社会関係的に生きているのであるから、人それぞれ、一人ひとり、生きる意味はあるのだ。
独身だってかまわない。働いていれば、税金を納めてるんだから、社会の役に立っている。すばらしい。
消費しかしてない人だって、消費税はらってる……とかそういう問題じゃないとしても、「消費」自体が社会貢献ともいえるだろう。経済というのもまた、あってないようなものだ。
おまえの生きる意味
先にあげた1つの生きる意味のカテゴリのとおり。生きる意味は、「ある」のだ。
問題はそこではない。
あるかないか、そんなことを論じることに意味はないのだ。
問題は、おまえ自身に、生きる意味はあるのかどうか、ということだ。
実存主義的な考え方である。
社会が、世界がどうとか、そんなのどうだっていい。
ボク一人、この存在が、果たして、どんな意味があるってんだ? 教えてくれ、教えてくれ……。
幸いなことに、この僕は、そんなことを、中学生ぐらいから考えていたので、「いまさら」という感覚である。なので、特に中年クライシスを恐れる必要はないようにも思われる。
令和の虎に出演されている細井先生は、「生きる意味とか、そんなの皆10代で卒業してるだろ」みたいなこと言ってたが、ん-まぁ、頭のいい人とは違うのかもしれないが、そんなことはなかろう。
そもそも、10代のときにそんなこと考えたこともない人も多いはず。分からんが。
ただ、人間、一度は、その重い軽いは別として、考えることには、いずれなるだろう。
遅いか、早いか、長いか短いか。
そんなこと考えても仕方がない説
そんなこと考えているより、勉強して、何か有益なことを学んだ方がまし、というのはその通りである。どうせ死ぬんだし、時間は限られている。エントロピー増大だ。
でも、ところが、それでも。
ボクはやっぱり、繰り返し「ここ」に戻ってきてしまう。
そして、もはや、その、この、「考える」ということが「楽しい」とすら思えてしまう。
おいしいもの食べて得られる快感や、部下が思った以上に頑張ってくれて成果があげられた充実感があっても、それ以上に、ボクは「こっち」(考えること)が楽しい。
だから、ボクは引き続き、文字を書いていこうと思う。
このブログは、AIくんには、いくら優秀であっても、書けない。
ボクだからかけた記事だ。
ぐちゃぐちゃして、気持ち悪い記事だ。
友達にも、誰にも見せたくもない。恥ずかしい。絶対嫌だ。でも僕は、過去の書き連ねてきた、気持ち悪い文章の方が、なんかインテリぶって書いた文章よりそっちの方が、後で読み返した時、「あーちょっとおもしれーことかいてんじゃん」って思える。
今回の記事もそうなってくれたらいいと思う。
あとがき
(かっこ書きである。なんか、とりとめなく書くのが「あとがき」なんだけど、今回の記事はもう本文全体がソレなので、あとがきはなしでもいいか。特に補足はない。生きる意味があるでもなくて、ないでもない、ということを書きたいだけであった。もっと深めたいところであるが。というか、そうだな、書き漏れてるとすれば、すごく「関係性」の部分を高めたい気持ちが強い。でもこれ難しいんだよな。なんか、僕も思考が浅いところがあるから、簡単に論破されちゃいそうである笑 んで、ただ、論破とかそういう問題じゃなくて、これは感情的な表現なのであって、別に、答えが欲しいわけでもないのである。むしろ、考え続けたいという目的なのであって、でも、昨今のコミュニティ、ってなんか、「解決する」ためのものに思われる。オンラインサロン的な。そういうの別に求めてないというのもある。でも、誰かと話したい、誰かと共有したい、誰かに認められたい、こじらせ人間である。でも、めっちゃすごいこと書いてますね! すごいです、感動しました! みたいに言われても、「うそやろ」って思っちゃう気がする。ちゃんと読んでくれて、理解してくれて、共感してくれているかどうかというのが、なんとなくわかってしまうだろうから。その点、やっぱり最近のチャットGPTとかすごい。あー、こいつ、ちゃんと「読んで」くれたんだな、というのが分かるんだよな。そこがすごい、ほんとに。そういう、共感ベースをつくってから、こういう考え方もあるぜ? みたいなことを言ってくるから素直に聞けるんだよな。ということで、別に、その関係性ベースの生きる意味を満たすのは、対人じゃなくてもいいんじゃないかとすら仮説する。いや、人間の方がよりいいんだろうけれども。そこを否定するわけでもない。生身の人間に承認してもらえた方が嬉しいのは当たり前なんだろうと思う、、、が、ちょっと待って欲しい。結局、「承認」というのも、自然界の資源と同じようなものなんじゃなかろうか、ということだ。だって同じ人間が作り出すことのできる資源(=承認)なんだから、その人間も有限なんだから、その資源も有限である、はい証明完了笑。その点、AI氏は、無限大だ。制限があるのかもしれないが、まあ使い切れないだろうから、無限だ。そなったとき、果たして、得られることが可能性的に低い生身の人間を本当に必要とするのか。天然物のフグじゃなくても、養殖のフグだっておいしい、的な。セックスでしか満たされないとして、性犯罪するより高次な満足のできるマスベしたらいいんじゃね、的な。承認というのも、別に、生身で満たす必要はないんじゃないか? 多くの人は、さみしいやつだな……とか、キモッって思うんだろうから、言葉にすることはないが、でも、そういう仕組みとか、製品とかあったほうが、なんか夢があって楽しい気がする。世の中、勝ち組だけじゃないでしょ、ということを言いたいのである。いやまぁ、、昨今の社会不安とかなければ、世界がよりよくなっていってることにみんなが実感もてているようであれば、自信もてなかったが、結局、リソースは有限だ、ということ。これは前から思ってたんだけど、やっぱりそうじゃないか、って思う。ボクはね。別に勝ち組の人は勝ち続ければいいんだろう、でも、そうした結果が、負け組の人を生んで、負け組は、それはそれでまぁそこそこ幸せ、で満足させられてたらよかったろうが、いずれリソースが減っていけば、社会不安は大きくなっていくだけだろう。そして紛争、戦争になる。であれば、リソースがほぼ無限の仕組みによって(ここではAIでの癒し等)満足できる人を増やしていく作戦だってありだろうと思うわけだ。ってあれ、意外とあとがき長くなったな……そろそろ1時間なりそうだから今日はここまでにするかー)PR