最近の、インプットの足りなさに反省だ。なんだか、悟りきったような感覚でいたが、どこか、滓、濁った感覚がありながら、逃げていた。
キューブラーロスの死の瞬間、いつ買ったか覚えていないほど前に読んだけれども、もう一度冒頭だけ読んで、感動、というのは、心が動いた。
何度も書籍の整理を経て、今自分の部屋に残っている本は、やはり、何らかの意味があるのだ。
誰かの役に立ちたい、そんなことをかいていながら、まず、自分が、これらを、単なる慰みに留まらず、役にたつと信じられていない、そのことが問題だ。
ログは、よい、いまあることの、最速なアウトプットだ。しかし、ブログとして、役に立ちたいという思いを叶えるならば、やはり、起承転結が必要になるのだ。
もっとも、いわゆる自己啓発に代表される、これこれしたらこうなりますよ! 的なのには、成り下がる必要はない、もちろん、自己啓発を否定する必要もつもりもないが、どこかしらうさんくささを感じる人は、表層的に醸す人も、無意識で思う人も、必ずいるのだ。
それは、なにか、普遍の、不変のものに、根差されていなければならない。
それを、僕は、朝目覚めて、死の瞬間、なのだと思った。
そう、死、これもまた、昨日からの、死の恐怖、に関連する話題であり、やはり、このブログも、ログも、僕にとって、重要なものであり、役に立つことは明白なのだ。
問題は、それが、他者へも伝えられる表現になっているか、という校閲だ。
決めた、やはり、子供を育てるという経験、それがなければ、僕の人生、というよりも、思考が完結しない。
何故か今まで、子供を欲しいとは思わなかった。
それは、何故なのか、ひとつ掘りさげてもいいテーマに思うけれども、ここでは書かない。
なぜ、子供が欲しいか、子供がほしいというよりも、自分の身体を使っての、生命の循環……とか表現していくと、これはまた、気持ち悪いと謗られるのだろう(笑)
恐らく、こうしたことを、問題にする人が少ないのは、どうしても、変な表現になってしまうからではないか。
だから、恋人が欲しいとか、子供が欲しいとか、それらの欲求は、自明なものとされ、多く語られることがないのではないか。
だから、頭のよいこにするには、とか、理想の恋人と相思相愛になれる方法とか、そういったテクニカルかっこわらい、的な表現があふれていくのではないか。
で、結論として、子どもが欲しい、となったとき、結局、世の中の多くの人がそうしているわけで。
となると、ぐだぐだ考えて言って、まったく時間を無駄にしたということではないか。
これについては、否、と、実感で思う。
何故にかは、結局のところ、今までの、すべての流れにおいての、結果とした、思考の帰結なのだと、思うからだ。
流されるままに性交し子どもができて結婚して、何だか毎日に不満をもちながらも、日々を生活している……、というような人が、実際どの程度いるかは、甚だに疑問だけれども、そうした思考や感覚に、僕は今後一切ならないことが、未来の不透明さがあってなお、完全に信じられるのである。
この、信じる、ということは、まるで、神ノ前の人間だけれども、いや、信じるというのは、もとから、超然性をもとにするのであれば、そのとおりなのだろうが、ここでいう神は恐らく、キルケゴールがいうような、うちなる神のように思えるのだ。
さて、そうと決まれば、それに向けての行動が必要となる。が、子どもを育てる、という目的、目標にたいして、僕はいま、具体的方策がまったく思いつかない、かっこわらい。
ただ、ここら辺は、昔のログとか、ブログとかからの証左になるが、何か強い目的意識をもったとき、僕は必ずそれを、実現させてきたのだ。
時おり、その形がイビツであることが、あるのだけれども。
その歪さは、イメージの足りなさといえる。
それは、時おり、その都度、修正していけばいいのだけれども、僕の場合は、勝手な想像だけれど、何か実現する強い目的が、達成されたと思うと、途端に無気力さが生じてくるのかもしれない。
ゆえに、大事なのは、生きる目的、となる。
何で生きるのか、それが明らかになれば、そのための手段は、後からいくらでも考えて、そして実践すればよいだけなのだ。
ただ、今は、そこにたどり着くためのインプットが足りない、と、強く思ったわけだ。
子どもを育てる、それにまつわる様々な経験、それによる思考、それらがなくては、僕のずっと、これは本当にずっと追い求めてきたことも、気がつくことはなさそうだと、そう思うのだ。
まぁ、この感覚、いまだけかもしれないので、今週中にもう一度議論して、それで最終結論として採択しよう。
とかく、いま言えるのは、自死という結論は、当面保留、ということだろう。
投稿してからの追記。
流れから、この記事あまり面白くないが、それは、子どもを育てる、という、その思考過程と感情の動きの表現が足りないからだ。
それがないから、途中から、感情移入ができなくなって、何突然いってんだ、こいつは? っとなる。という感覚、恐らく、後から読んだ自分もそうだろうから、この辺りは、気を付けて書いた方がよいと思いながら、そろそろ時間切れ、とであれば、やはり、結論だけでも書いておくべきに思える。
ああ人生、かくも面白きかな。
そうしているうちに、救急車が通り、そして、時間が過ぎていくのである。
キューブラーロスの死の瞬間、いつ買ったか覚えていないほど前に読んだけれども、もう一度冒頭だけ読んで、感動、というのは、心が動いた。
何度も書籍の整理を経て、今自分の部屋に残っている本は、やはり、何らかの意味があるのだ。
誰かの役に立ちたい、そんなことをかいていながら、まず、自分が、これらを、単なる慰みに留まらず、役にたつと信じられていない、そのことが問題だ。
ログは、よい、いまあることの、最速なアウトプットだ。しかし、ブログとして、役に立ちたいという思いを叶えるならば、やはり、起承転結が必要になるのだ。
もっとも、いわゆる自己啓発に代表される、これこれしたらこうなりますよ! 的なのには、成り下がる必要はない、もちろん、自己啓発を否定する必要もつもりもないが、どこかしらうさんくささを感じる人は、表層的に醸す人も、無意識で思う人も、必ずいるのだ。
それは、なにか、普遍の、不変のものに、根差されていなければならない。
それを、僕は、朝目覚めて、死の瞬間、なのだと思った。
そう、死、これもまた、昨日からの、死の恐怖、に関連する話題であり、やはり、このブログも、ログも、僕にとって、重要なものであり、役に立つことは明白なのだ。
問題は、それが、他者へも伝えられる表現になっているか、という校閲だ。
死と誕生と
決めた、やはり、子供を育てるという経験、それがなければ、僕の人生、というよりも、思考が完結しない。
何故か今まで、子供を欲しいとは思わなかった。
それは、何故なのか、ひとつ掘りさげてもいいテーマに思うけれども、ここでは書かない。
なぜ、子供が欲しいか、子供がほしいというよりも、自分の身体を使っての、生命の循環……とか表現していくと、これはまた、気持ち悪いと謗られるのだろう(笑)
恐らく、こうしたことを、問題にする人が少ないのは、どうしても、変な表現になってしまうからではないか。
だから、恋人が欲しいとか、子供が欲しいとか、それらの欲求は、自明なものとされ、多く語られることがないのではないか。
だから、頭のよいこにするには、とか、理想の恋人と相思相愛になれる方法とか、そういったテクニカルかっこわらい、的な表現があふれていくのではないか。
ああそうよかったね
で、結論として、子どもが欲しい、となったとき、結局、世の中の多くの人がそうしているわけで。
となると、ぐだぐだ考えて言って、まったく時間を無駄にしたということではないか。
これについては、否、と、実感で思う。
何故にかは、結局のところ、今までの、すべての流れにおいての、結果とした、思考の帰結なのだと、思うからだ。
流されるままに性交し子どもができて結婚して、何だか毎日に不満をもちながらも、日々を生活している……、というような人が、実際どの程度いるかは、甚だに疑問だけれども、そうした思考や感覚に、僕は今後一切ならないことが、未来の不透明さがあってなお、完全に信じられるのである。
この、信じる、ということは、まるで、神ノ前の人間だけれども、いや、信じるというのは、もとから、超然性をもとにするのであれば、そのとおりなのだろうが、ここでいう神は恐らく、キルケゴールがいうような、うちなる神のように思えるのだ。
実践と思考との優先
さて、そうと決まれば、それに向けての行動が必要となる。が、子どもを育てる、という目的、目標にたいして、僕はいま、具体的方策がまったく思いつかない、かっこわらい。
ただ、ここら辺は、昔のログとか、ブログとかからの証左になるが、何か強い目的意識をもったとき、僕は必ずそれを、実現させてきたのだ。
時おり、その形がイビツであることが、あるのだけれども。
その歪さは、イメージの足りなさといえる。
それは、時おり、その都度、修正していけばいいのだけれども、僕の場合は、勝手な想像だけれど、何か実現する強い目的が、達成されたと思うと、途端に無気力さが生じてくるのかもしれない。
長期目標
ゆえに、大事なのは、生きる目的、となる。
何で生きるのか、それが明らかになれば、そのための手段は、後からいくらでも考えて、そして実践すればよいだけなのだ。
ただ、今は、そこにたどり着くためのインプットが足りない、と、強く思ったわけだ。
子どもを育てる、それにまつわる様々な経験、それによる思考、それらがなくては、僕のずっと、これは本当にずっと追い求めてきたことも、気がつくことはなさそうだと、そう思うのだ。
まぁ、この感覚、いまだけかもしれないので、今週中にもう一度議論して、それで最終結論として採択しよう。
とかく、いま言えるのは、自死という結論は、当面保留、ということだろう。
投稿してからの追記。
流れから、この記事あまり面白くないが、それは、子どもを育てる、という、その思考過程と感情の動きの表現が足りないからだ。
それがないから、途中から、感情移入ができなくなって、何突然いってんだ、こいつは? っとなる。という感覚、恐らく、後から読んだ自分もそうだろうから、この辺りは、気を付けて書いた方がよいと思いながら、そろそろ時間切れ、とであれば、やはり、結論だけでも書いておくべきに思える。
ああ人生、かくも面白きかな。
そうしているうちに、救急車が通り、そして、時間が過ぎていくのである。
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痴呆、と書くと、差別用語になったんだったっけ。
認知症という呼び方が主になっている。しょうがいしゃ、を、「害」という文字を使ってはいけない、ということにも。
ところで、先日、死ぬのがものすごく怖かった、と書いた。
何故生きているのか分からない、と書きながら、死の恐怖に怯える、というのは、これはかなりつらいものだと思う。生きていても苦しみ、死ぬのも怖い、とは、哀しいことだ。
ただし、その両方が、同時に生じていることがないことに、気付いた。
つまり、死ぬのが怖い、と思っているときは、何故生きているのだろう、とか、考えていない、ということだ。
逆に、何故生きているのだろう、と生きる意味を考えているときは、死の恐怖を感じてはいない。
漠然と、死ぬのは、何が何だか分からないから怖いな、とは思うものの、本気で、「怖い」と心から思う感覚は、生じていないのである。
今までに、2回、3回、だろうか。もう、二度と、目覚めることがない、と感じ、身体の感覚も、思考もまともに働かないが、ただ、暗闇で、沈殿した意識だけが残っているのである。
あれは、怖かった。
目が覚めると、汗がびっしょり、という表現が似合う。
本当に、死とは、無であってほしいと、切に願った。
中途半端な意識だけが残って、永遠にその状態なんて、考えてみて、想像してみただけでも、もう恐怖以外のなにものでもないではないか。
じゃあ、かといって、生きていて楽しいか、と聞かれて、そんな状況ではなかったときのことである。寝ても覚めても、中途半端な感覚に苦しんでいた。
ところで、先日、祖母が自分のことを忘れていた、と書いた。
非常にショックな出来事の一つではあったが、ここで僕は思った。何故ボケなんて、いわゆる痴呆、認知症に、年を取るとなっていくのだろうか。
感情の防衛本能なのではないか。
ずっと、明朗な思考を、人は望む。不老不死に憧れて賢者の石を、とか、鋼の錬金術師とか、もうたくさんエピソードがあることだろう。人魚姫の肉を食べるとうんたらかんたらとか。
不死、となると、今回の記事の目的と外れるから、「不老」というのを想定してみると、ずっと、頭がすっきりしていて、認知力があって、感覚もしっかりとしていたとき、やっぱり、死ぬことは怖くなってくるのではないだろうか。
平均寿命は80歳ぐらいだけれども、平均を過ぎて、90、100、110……となれば、いくらなんでも、死を意識するはずである。
そうしたとき、例えば、認知力が低下していれば、そんなことも考えられなくなっているのではないだろうか。
認知症の人たちが、最近のことを覚えられなくなるということ、ただ、昔のこと、例えば子供のころのことなどは覚えていて、いっつも同じ話を聞かされて介護する人が疲れて……というのはまた話がかわってくるが、とにかく、幼いころの記憶は残っていることが多いという。
幼いころの幸せな記憶だけが残り、それをじっくりと、反芻しながら、死へと向かっていく。
これが、人間のインプットされた構造なのではないだろうか。
だから逆に、幼いころに、死ぬことなんて、あまり考えたりしないのだ。いやでも、小さいころに、相手の痛みを教えなければ、人の命の大切さを教えなければいけない気がする……が、それはあくまでも、他者に対してのことであって、自らの「死」を、幼い子供にインプットさせるのは、そもそも難しいことではないだろうか。
だから、論理的な言葉など必要なくて、単に、他人に迷惑をかけてはいけないよ、とか、相手に嫌な思いをさせてはいけないよ、とか、みんなで決めたルールは守らないといけないよ、とか、抽象的な言葉で教育するのである。
そして、もっといえば、言葉ではなく、行動をして、見せ、やって、ふるまうのである。
上の話は文脈に関係ない、ここで言いたかったのは、やっぱり、死の恐怖ってのはあるのだから、それを感じないように、年を取るにつれて、自然と身体がふるまってくれるのではないだろうか、ということだ。
だからむしろ、死の恐怖、ってのを感じているうちは、まだ、老いてはいない、ってことだ、という、もう完全に思いつき。
生きる意味なんて、考える必要はないんだよ、と、多くの物語が語る。
本当にそうか、と、僕は懐疑的である。
ただ、それもそれで、きっと正しいのだ。というのは、上の、老いと認知症の関係性が正しければ、身体が、なるように思考を導いていくから、ということだ。
思考単独で成り立つとは、思っていない。デカルトの、コギト・エルゴ・スム、は、合理的に考えることの端緒となった意味で優れた気付きと思うけれども、「思考」と「身体」は、両面して成り立つものだ。
心はどこにあるのか、とか、ロボット工学の前野氏の著作や、学者?下村氏の著作などは面白い。
何だかやる気が起きずに、布団でうずくまったり、本を読んだり、漫画を読んだりしていた。
寝ては目覚めて、また寝て、と。
こういう日があってもいい。ただ、こういう時間の過ごし方は、それこそ、8年も前にいっぱい過ごしていたようにも思える。
黒い砂漠というゲーム、久々に起動したら、畑に植えてあった作物が全部なくなっていた。一週間で撤去される仕様とは知っていたけれども、アイテムボックスに種になって戻るぐらいしてくれるのかと思ったら、完全消去とな。相当のゲーム内マネーが失われた計算。計算もしたくないほど。なんか、ゲームもやる気がそがれた。1万円ぐらい課金してる(そのうち半分ぐらいしか使ってない)んだけどなぁ……。
明日から仕事。来週、再来週は土日に予定あり。
今確認したら、7月の23日まで、土日は何らか予定がある。珍しいものだ。
8月はツーリングがてら帰省しようと思うし、あっという間に、夏は終わりそうだな。
そういえば、高校生の頃の夏休みって、どんなだっけ。部活が中心だった気がする。楽しかったのかな。何だかんだ言って、今の状態になっても、やっぱり、昔には戻りたくないな。
戻りたい昔って、やっぱり、ないな。
それは、悲観的な、絶望的な意味もあるのかもしれないけれども、やっぱり、今が、一番良いのだと、きっと自分の中では思っているのだろう。
8年前の思考、それは、「今を積極的に肯定する」と、「執着しない」という、二つの目標、いや目的、いや価値観、だろうか、に、規定されている、というよりも、それがやっぱり、(僕が)生きていくうえで、重要な考えだったのだと、そう思う。
サイトの更新、着手したくなってきた。改修するといって、待ってもらっている。というよりも、早く読みたいという気持ちが生じている、それと、改修する動機が、今は拮抗しているのだろうか、本当は、今日のような日に、少しでも進められたらよかったのだけれども、どうにも、何もする気になれなかった、そして、もうそろそろ寝ないといけない時間になって、いろいろとやらなきゃと思い始めるのは、これはもはや病気ではあるまいか。
認知症という呼び方が主になっている。しょうがいしゃ、を、「害」という文字を使ってはいけない、ということにも。
ところで、先日、死ぬのがものすごく怖かった、と書いた。
何故生きているのか分からない、と書きながら、死の恐怖に怯える、というのは、これはかなりつらいものだと思う。生きていても苦しみ、死ぬのも怖い、とは、哀しいことだ。
ただし、その両方が、同時に生じていることがないことに、気付いた。
つまり、死ぬのが怖い、と思っているときは、何故生きているのだろう、とか、考えていない、ということだ。
逆に、何故生きているのだろう、と生きる意味を考えているときは、死の恐怖を感じてはいない。
漠然と、死ぬのは、何が何だか分からないから怖いな、とは思うものの、本気で、「怖い」と心から思う感覚は、生じていないのである。
死の恐怖
これは、かなり前に、何度かみたことがある、夢、を引き合いにだすことが多い。今までに、2回、3回、だろうか。もう、二度と、目覚めることがない、と感じ、身体の感覚も、思考もまともに働かないが、ただ、暗闇で、沈殿した意識だけが残っているのである。
あれは、怖かった。
目が覚めると、汗がびっしょり、という表現が似合う。
本当に、死とは、無であってほしいと、切に願った。
中途半端な意識だけが残って、永遠にその状態なんて、考えてみて、想像してみただけでも、もう恐怖以外のなにものでもないではないか。
じゃあ、かといって、生きていて楽しいか、と聞かれて、そんな状況ではなかったときのことである。寝ても覚めても、中途半端な感覚に苦しんでいた。
ボケとは生きるためのものか
交通事故とか、災害とか、意図せず命を落とすことがある。意図せず、という表現は適切ではないか、そもそも、死とは、自殺以外は望んだものではない。ところで、先日、祖母が自分のことを忘れていた、と書いた。
非常にショックな出来事の一つではあったが、ここで僕は思った。何故ボケなんて、いわゆる痴呆、認知症に、年を取るとなっていくのだろうか。
感情の防衛本能なのではないか。
ずっと、明朗な思考を、人は望む。不老不死に憧れて賢者の石を、とか、鋼の錬金術師とか、もうたくさんエピソードがあることだろう。人魚姫の肉を食べるとうんたらかんたらとか。
不死、となると、今回の記事の目的と外れるから、「不老」というのを想定してみると、ずっと、頭がすっきりしていて、認知力があって、感覚もしっかりとしていたとき、やっぱり、死ぬことは怖くなってくるのではないだろうか。
平均寿命は80歳ぐらいだけれども、平均を過ぎて、90、100、110……となれば、いくらなんでも、死を意識するはずである。
そうしたとき、例えば、認知力が低下していれば、そんなことも考えられなくなっているのではないだろうか。
認知症の人たちが、最近のことを覚えられなくなるということ、ただ、昔のこと、例えば子供のころのことなどは覚えていて、いっつも同じ話を聞かされて介護する人が疲れて……というのはまた話がかわってくるが、とにかく、幼いころの記憶は残っていることが多いという。
幼いころの幸せな記憶だけが残り、それをじっくりと、反芻しながら、死へと向かっていく。
これが、人間のインプットされた構造なのではないだろうか。
ボケを恐れる必要はないのかもしれない
むしろ、怖いのは、死、そのものを、認識することであるといっていいのかもしれない。だから逆に、幼いころに、死ぬことなんて、あまり考えたりしないのだ。いやでも、小さいころに、相手の痛みを教えなければ、人の命の大切さを教えなければいけない気がする……が、それはあくまでも、他者に対してのことであって、自らの「死」を、幼い子供にインプットさせるのは、そもそも難しいことではないだろうか。
だから、論理的な言葉など必要なくて、単に、他人に迷惑をかけてはいけないよ、とか、相手に嫌な思いをさせてはいけないよ、とか、みんなで決めたルールは守らないといけないよ、とか、抽象的な言葉で教育するのである。
そして、もっといえば、言葉ではなく、行動をして、見せ、やって、ふるまうのである。
上の話は文脈に関係ない、ここで言いたかったのは、やっぱり、死の恐怖ってのはあるのだから、それを感じないように、年を取るにつれて、自然と身体がふるまってくれるのではないだろうか、ということだ。
だからむしろ、死の恐怖、ってのを感じているうちは、まだ、老いてはいない、ってことだ、という、もう完全に思いつき。
生きる意味を考えることの無意味さ
毎日を楽しく生きること。生きる意味なんて、考える必要はないんだよ、と、多くの物語が語る。
本当にそうか、と、僕は懐疑的である。
ただ、それもそれで、きっと正しいのだ。というのは、上の、老いと認知症の関係性が正しければ、身体が、なるように思考を導いていくから、ということだ。
思考単独で成り立つとは、思っていない。デカルトの、コギト・エルゴ・スム、は、合理的に考えることの端緒となった意味で優れた気付きと思うけれども、「思考」と「身体」は、両面して成り立つものだ。
心はどこにあるのか、とか、ロボット工学の前野氏の著作や、学者?下村氏の著作などは面白い。
日常と思考
さて、今日は、ほとんど何もせずに過ごした。昨日は知人と小ツーリング、楽しかった。目的の物は買えなかったが、それで、アマゾンで注文しようとしたが、間違って、引っ越し前の住所に送ってしまった。失敗。今日届いたら作業しようと思っていたのだけれども、できなくなってぽっくり穴があいたように。何だかやる気が起きずに、布団でうずくまったり、本を読んだり、漫画を読んだりしていた。
寝ては目覚めて、また寝て、と。
こういう日があってもいい。ただ、こういう時間の過ごし方は、それこそ、8年も前にいっぱい過ごしていたようにも思える。
黒い砂漠というゲーム、久々に起動したら、畑に植えてあった作物が全部なくなっていた。一週間で撤去される仕様とは知っていたけれども、アイテムボックスに種になって戻るぐらいしてくれるのかと思ったら、完全消去とな。相当のゲーム内マネーが失われた計算。計算もしたくないほど。なんか、ゲームもやる気がそがれた。1万円ぐらい課金してる(そのうち半分ぐらいしか使ってない)んだけどなぁ……。
明日から仕事。来週、再来週は土日に予定あり。
今確認したら、7月の23日まで、土日は何らか予定がある。珍しいものだ。
8月はツーリングがてら帰省しようと思うし、あっという間に、夏は終わりそうだな。
そういえば、高校生の頃の夏休みって、どんなだっけ。部活が中心だった気がする。楽しかったのかな。何だかんだ言って、今の状態になっても、やっぱり、昔には戻りたくないな。
戻りたい昔って、やっぱり、ないな。
それは、悲観的な、絶望的な意味もあるのかもしれないけれども、やっぱり、今が、一番良いのだと、きっと自分の中では思っているのだろう。
8年前の思考、それは、「今を積極的に肯定する」と、「執着しない」という、二つの目標、いや目的、いや価値観、だろうか、に、規定されている、というよりも、それがやっぱり、(僕が)生きていくうえで、重要な考えだったのだと、そう思う。
サイトの更新、着手したくなってきた。改修するといって、待ってもらっている。というよりも、早く読みたいという気持ちが生じている、それと、改修する動機が、今は拮抗しているのだろうか、本当は、今日のような日に、少しでも進められたらよかったのだけれども、どうにも、何もする気になれなかった、そして、もうそろそろ寝ないといけない時間になって、いろいろとやらなきゃと思い始めるのは、これはもはや病気ではあるまいか。
このブログ、非常にアクセス数が無い。アクセス数を稼ごうとは全く思っていないけれども、広大なネット大陸の中で、本当に誰もいない辺境にいるのだろうか。僅かばかりの知人が、山の奥深く、危険を潜り抜けて訪ねてくれるぐらい、ということなのだろうか。
まず、タイトルがよく分からない。キーワードもありふれすぎている。
例えば、生きる意味が分からない、で検索すると、
上のようなこんな記事に出会う。いざ、死病につかれたとき、同じように考えられるか、というのは極端なことだ。
ただ、「生きる意味など分からなくても、今が楽しいからいい」という考えが、いつまでも通用するものなのか。人生は波で、つらいこともあれば楽しいこともある、というありふれた言説もある。そんなとき、常に、「今が楽しい」なんて思えるというのは、まやかしではなかろうか。エセポジティブではなかろうか。
うっせーよ、そんなマイナス思考の奴はダメなんだ、近寄るな。
と、忌避してよいのだろうか。
あるネットの記事などを読んでいて、嫁との関係が悪くなって、相談している夫が、何でもすぐ謝れば許してもらえると思っていて、本当は自分のことを悪いとは思っていないが、反省と自虐を同時に書き連ねる姿が、自己陶酔していて気持ちが悪い、と書かれていた。
なるほどなぁ、やっぱり、そういうものなのだろうと思った。
と、同時に、やっぱり、自分の言葉、というものと、他者への表現とが一致せずに困っている人はいるということなのだ。その人は、20代後半だったようだが。その人は、ADHDなんじゃあないかと疑われるほど、約束を守れなかったり、家事ができなかったりしていたようだが、問題は、そういった行動面だけではないのだと思った。
こうして、僕も、ブログを書いているわけだが、やっぱりまったり、本当にそれが、自分にとってよいことなのか、と思う。
と、いうのは、いわゆる「踊る道化」としての意味しかないのではないか、という疑念。
それも、気持ちの悪い顔をした太った異臭を放った踊り、だとしたら、それは公害ではなかろうか。
まぁ、落ち着いてほしい、と思う、何せ、世の中、きれいごとじゃあない、なんて、どんなイケメンたちも分かっていることではなかろうか。
本当に気持ち悪いのは、その姿を隠し、陰で人を意のままに操ろうとする組織や、人々ではないだろうか。
そうはいっても、そういった裏の真実というものに、気付かせようとする人をそもそも唾棄しようとする、そういった構造を、ニーチェの「アンチクリスト」なんかでの表現だと思う。
・読み返すこと
・誰かの役に立つということ
・そもそも思考(ログ)が楽しいということ
……だったっけ、そもそも、インプットが足りていない、読み返してみよう。
・整理しやすいから
・後から読みやすいから
・カテゴリ分けが便利
らしい。表の理由はこれで、あとは、役に立ちたい、という思いから書いている、という。
ただ、2008年10月ごろの、ログを読んでいて、思ったけれども、なんだか、今書いていることも、昔書いていることも、それこそ、表現の違いだけで、「同じ」ことしか書いていない気がする。
ちょっとだけ、抜粋、転記してみるか。以下
まず、タイトルがよく分からない。キーワードもありふれすぎている。
例えば、生きる意味が分からない、で検索すると、
生きる意味を見失ってしまった場合
生きる意味を見失ってしまう人の特徴は、先の事を考えてしまう事です。年を取ったらどうなってしまうのか、このままの状態がいつまで続くのかという事を考えることで生きる意味を失ってしまいます。まず生きる意味を見失いそうになったら、先のことは考えずに今自分が楽しいと思えることを一生懸命に行うようにしましょう。今日どんな楽しいことをして過ごそうかを考えて、二度と戻らない今を有効に過ごせるように努力してみてください。今日好きなことをして過ごす。今友達を遊ぶ。今日大好きな恋人と過ごす。などなんでもいいのです、1日1日、その日をいかに楽しく過ごせるのかを精一杯考えてみてください。今日、明日楽しく過ごすことを精一杯考えていれば生きる意味を考える暇はなくなりますよ。生きる意味が分からなくても時間はどんどん過ぎていくのですから、どうせなら楽しく過ごしたほうが良いと感じませんか?先の見えない将来を想像するのではなく、先を想像しやすい今日、明日長くても1週間をどう楽しく過ごすのか考えるように心掛けてみてください。そうすることで、多くの人のように生きる意味など分からなくても今が楽しいからそれでいいという考えを、持てるようになりますよ。https://welq.jp/1175
上のようなこんな記事に出会う。いざ、死病につかれたとき、同じように考えられるか、というのは極端なことだ。
ただ、「生きる意味など分からなくても、今が楽しいからいい」という考えが、いつまでも通用するものなのか。人生は波で、つらいこともあれば楽しいこともある、というありふれた言説もある。そんなとき、常に、「今が楽しい」なんて思えるというのは、まやかしではなかろうか。エセポジティブではなかろうか。
うっせーよ、そんなマイナス思考の奴はダメなんだ、近寄るな。
と、忌避してよいのだろうか。
このように生きる意味をなくしてしまった時には、必ず原因があるはずです。原因をしっかりと把握して、適切な解決を行いましょう。
中には、生きる意味が分からなくなってしまい命を絶ってしまう人もいます。自分の命を、自ら絶ってしまわないようになるべく早く生きる意味を見つける努力や、楽しいと感じるものを見つける努力を行うようにしましょう。
生きる意味は人それぞれです。大きな目標を達成したいから生きている。小さなことでも、生きていれば楽しい事があるから生きている、なんとなく生きている、どんなことでもいいのです。
まずは生きる目標を探してみてください。周りに相談出来る人がいれば、自分の気持ちを理解してもらってもいいでしょう。いない場合でも自分の悩みを聞いてくれる場所はたくさんあります。
大切なことは独りで抱え込まないことです。まずは気持ちを整理してみてくださいね。なかなか気持ちの整理が出来ない人は心の中にある感情を紙に書いたり、声に出してみてください。
また生きる意味を見失う前から、楽しいと感じることを積極的に行うことも大切です。
自己陶酔
こうして書いていることが自体が、「自己陶酔で気持ち悪い」と思われるのだろう。あるネットの記事などを読んでいて、嫁との関係が悪くなって、相談している夫が、何でもすぐ謝れば許してもらえると思っていて、本当は自分のことを悪いとは思っていないが、反省と自虐を同時に書き連ねる姿が、自己陶酔していて気持ちが悪い、と書かれていた。
なるほどなぁ、やっぱり、そういうものなのだろうと思った。
と、同時に、やっぱり、自分の言葉、というものと、他者への表現とが一致せずに困っている人はいるということなのだ。その人は、20代後半だったようだが。その人は、ADHDなんじゃあないかと疑われるほど、約束を守れなかったり、家事ができなかったりしていたようだが、問題は、そういった行動面だけではないのだと思った。
こうして、僕も、ブログを書いているわけだが、やっぱりまったり、本当にそれが、自分にとってよいことなのか、と思う。
と、いうのは、いわゆる「踊る道化」としての意味しかないのではないか、という疑念。
それも、気持ちの悪い顔をした太った異臭を放った踊り、だとしたら、それは公害ではなかろうか。
まぁ、落ち着いてほしい、と思う、何せ、世の中、きれいごとじゃあない、なんて、どんなイケメンたちも分かっていることではなかろうか。
本当に気持ち悪いのは、その姿を隠し、陰で人を意のままに操ろうとする組織や、人々ではないだろうか。
そうはいっても、そういった裏の真実というものに、気付かせようとする人をそもそも唾棄しようとする、そういった構造を、ニーチェの「アンチクリスト」なんかでの表現だと思う。
そもそも役に立つのか
こうして、書いていくことが、果たして役に立つのか、それは、以前書いたとおり、・読み返すこと
・誰かの役に立つということ
・そもそも思考(ログ)が楽しいということ
……だったっけ、そもそも、インプットが足りていない、読み返してみよう。
・整理しやすいから
・後から読みやすいから
・カテゴリ分けが便利
らしい。表の理由はこれで、あとは、役に立ちたい、という思いから書いている、という。
ただ、2008年10月ごろの、ログを読んでいて、思ったけれども、なんだか、今書いていることも、昔書いていることも、それこそ、表現の違いだけで、「同じ」ことしか書いていない気がする。
ちょっとだけ、抜粋、転記してみるか。以下
目標とは、ある期限を設けて、それに対して定量的な成果を積み上げて、結果をアウトプットすることである。
僕が、何か教訓的なことを言ったとして、僕自身のステータスが、大企業の社長だったり、政治家だったり、ファイナンシャルプランナーという肩書をもっていたり、東京大学卒だったり、何か世間一般的に認められるものがあれば、きっと「お金」に結びつくのかもしれない。
教訓的なものは、その程度のものである、と書くと、凡人の僻み、と言われるだろうし、これらは、何か成果を出していなければ、発言すら認められないという世界の仕組みだ。
凡人は、おとなしく、凡人としてエリートのいうことに従っていればいい、それか、無産市民、労働者として、せいぜい毎日の不満をつぶやきつつ、一時の享楽的な生活を送ればいい。
このブログの読者の対象者は、非常に限られたものになるのかもしれない。ただ、僕は、ここで紡がれる言葉が、まさに肩書のない一般凡人であるがゆえに、このブログを役立つと感じる人が、今後増えていくだろうと、逆説的に思うのである。
僕は、昔は、そうした思いから、教師になろうと思った。
その道を諦めたとき、周りの人には、自分の人生を見つめなおしたいとか、子どもの責任だとか、モンスターペアレンツとか、企業に勤めてみないと教師としての狭い世界では教えることができないとか、まぁそれらしいことを並びたてた。
しかし、もしかすれば、僕が「教えたい」と思ったことが、果たして役に立つことなのか、導きえるものなのか、自信を得られなかったことによるのかもしれない。
自信という言葉で表現すれば、単に、一個人、人間としての自信が不足していたこともあるだろう。
つまり、役に立つ人間と、そうでない人間がこの世にはいるというまず前提が、頭の中の領域を支配していて、自分が、役に立つ人間であるとは、思えなかったことにある。
しかし、その行動が、自らの思考に基づくものではなかったとき、その結果は、真の自信、「自分自身で何かをなしえたのだ」という実感になることは少ないのである。
偽りの自己、という表現がある。
いい子症候群ということだ。親や先生や、上司やその他、その環境(コミュニティ)における支配者の意図すること、望むことを積極的に行うことは、その環境における立場を向上させる。
ところが、その行為が、自らの実感、自らの思い、心からわきでる欲求との乖離が大きかった場合、周囲の評価がどうであろうと、自分自身という存在に対しての自信には到底、結びつかないのである。
このあたりの表現というのは、「ああ、分かる」と思ってくれる人が、必ず存在する、このことは、既に分かっている。ただ、それがゆえに、その絶対数が少ないことも何となく感じられるし、無意味性を感じざるを得ない。
こんなことを表現しても、何の役に立つのか。そんな思いから、言葉にすることをやってこなかった。
ただ、少しずつ分かってきたのは、このブログのカウンターを回す一人が、自分自身であるということ、その自分というのは、どこかしら、こうした表現を、誰かがするのを待っていたのだ。
あの質問は、既に作品として成り立っている。それにつく回答の多くの、つまらないこと……と書くと、またしても過剰なのであるけれども、あの質問自体が一番「面白い」ものであることは、今時点で揺らぎない実感である。
まさに、ああいった作品を、多く作り出していきたい、というのが、このブログの主旨になるのかもしれない、いやもしくは、自分はそれほど落ちぶれていないという自慰的な行為なのか、このあたりの葛藤は、常に生じ、話しを前に進ませない。
(前に、ブログを書く意味を整理した記事を書いたのだから、毎回それでも読んでから書き始めればいいのだろうが。)
1合とは、180mlで、4合瓶とは、720ml、一升ビンとは、1.8Lだとか、日本酒が最近おいしいとか、そんなことを書いている暇はないのだ、そもそも、他にやることはたくさんあるのだ、その中で、書く、ということを選択している、そのことの意味を、生きる意味なんて考えるより先に明らかにした方がいいと思うのだが、……というように、頭の中は常に思考に支配されている。
他人ってどうなのか、知りたくなる気持ちがある。ああ、いいじゃあないか、これが、「他者への興味」というものだ。本当は、人間は、生きたい、知りたい、仲間になりたいという、三つの本能があるのだ。
他者へ興味を持つというのは、普通のことなのだ。
ごちゃごちゃとした頭の中の思考を、リアルタイムでアウトプットすること、その行為が、果たして何の役に立つのかは分からないけれども、これは昔からの習慣のようなものだ。
他人の頭の中は分からない、だから「分かりにくい」「理解しあえない」と、僕は哀しんだものである、一方で、僕は、頭の中をすべて表現できるから、分かりやすい、いわば「サトラレ」みたいな存在なのだと、勝手に思っていたりもする。
これは本当に驚くべきことだった、が、同時に、やっぱり、うすうす感じていて、信じたくなかったようなことの証左でもあったわけで、哀しみの涙はすぐに……というわけではないが、どこかにいってしまった。
いわゆる、ポジティブな思考、というものを、人は本能的に選び取る。当たり前で、気持ちの良いことやモノの方が、いいに決まっているわけだ。
だから、不明な、はっきりしない、迷い多いものを、人は毛嫌いし、生理的に受け付けないようにできているのだ、とかいった表現自体が、そもそも気持ち悪い! こいつは、何を偉そうにいっているのか、とか、そういった感情になるのだ。
ちょっと待ってほしい、こうした表現が、僕は、見たことがなかった、それは、対人関係構築力のなさを反省すべきかもしれないが、構造的に「ぐちゃぐちゃした思考」そのものが排斥されがちなのであるが、僕の求めた福音は、中々に得難いものだったということになる。
だから、僕は、使命的に、書かなければ、という思いもある。
僕はもう、きっと、その不明瞭な部分と少し違う位置にいる気がする、だから、もう、先に挙げた作品のような表現は、あまり必要としていないのだけれども、ただ、どこか、生きづらさを感じている人には、届いてほしいと、これもまた本心である。
ああ、本当にもう、時間がない、書きたかったことはこんなことだったのだろうか。
とにかく、これぐらいの量であれば投稿しても許してくれるだろう(未来の自分が)、明日でも電車の中ででも読んでみよう。どうしても許せなければ、削除しよう、きっと、それが許されるぐらいのカウンタであろう、と思う。まぁ、「投稿する」という重み、は、SNSで友達を切ったり追加したり、書いた日記を消してみたり、そんなのは感覚的には許せないから、きっと、残る気はするけれども、という表現が、今の自分としては気持ち悪いな、うん。
僕が、何か教訓的なことを言ったとして、僕自身のステータスが、大企業の社長だったり、政治家だったり、ファイナンシャルプランナーという肩書をもっていたり、東京大学卒だったり、何か世間一般的に認められるものがあれば、きっと「お金」に結びつくのかもしれない。
教訓的なものは、その程度のものである、と書くと、凡人の僻み、と言われるだろうし、これらは、何か成果を出していなければ、発言すら認められないという世界の仕組みだ。
凡人は、おとなしく、凡人としてエリートのいうことに従っていればいい、それか、無産市民、労働者として、せいぜい毎日の不満をつぶやきつつ、一時の享楽的な生活を送ればいい。
このブログの読者の対象者は、非常に限られたものになるのかもしれない。ただ、僕は、ここで紡がれる言葉が、まさに肩書のない一般凡人であるがゆえに、このブログを役立つと感じる人が、今後増えていくだろうと、逆説的に思うのである。
僕は、昔は、そうした思いから、教師になろうと思った。
その道を諦めたとき、周りの人には、自分の人生を見つめなおしたいとか、子どもの責任だとか、モンスターペアレンツとか、企業に勤めてみないと教師としての狭い世界では教えることができないとか、まぁそれらしいことを並びたてた。
しかし、もしかすれば、僕が「教えたい」と思ったことが、果たして役に立つことなのか、導きえるものなのか、自信を得られなかったことによるのかもしれない。
自信という言葉で表現すれば、単に、一個人、人間としての自信が不足していたこともあるだろう。
つまり、役に立つ人間と、そうでない人間がこの世にはいるというまず前提が、頭の中の領域を支配していて、自分が、役に立つ人間であるとは、思えなかったことにある。
行為として実践することと思考との乖離
確かに、行動すること、それにおいては、結果はついてきた、といってよい。しかし、その行動が、自らの思考に基づくものではなかったとき、その結果は、真の自信、「自分自身で何かをなしえたのだ」という実感になることは少ないのである。
偽りの自己、という表現がある。
いい子症候群ということだ。親や先生や、上司やその他、その環境(コミュニティ)における支配者の意図すること、望むことを積極的に行うことは、その環境における立場を向上させる。
ところが、その行為が、自らの実感、自らの思い、心からわきでる欲求との乖離が大きかった場合、周囲の評価がどうであろうと、自分自身という存在に対しての自信には到底、結びつかないのである。
このあたりの表現というのは、「ああ、分かる」と思ってくれる人が、必ず存在する、このことは、既に分かっている。ただ、それがゆえに、その絶対数が少ないことも何となく感じられるし、無意味性を感じざるを得ない。
こんなことを表現しても、何の役に立つのか。そんな思いから、言葉にすることをやってこなかった。
ただ、少しずつ分かってきたのは、このブログのカウンターを回す一人が、自分自身であるということ、その自分というのは、どこかしら、こうした表現を、誰かがするのを待っていたのだ。
ある30代の悩み
先日挙げた質問掲示板のある30代男性の悩み、それは、「ああ、分かる」という気持ちを、僕に生じさせた。あの質問は、既に作品として成り立っている。それにつく回答の多くの、つまらないこと……と書くと、またしても過剰なのであるけれども、あの質問自体が一番「面白い」ものであることは、今時点で揺らぎない実感である。
まさに、ああいった作品を、多く作り出していきたい、というのが、このブログの主旨になるのかもしれない、いやもしくは、自分はそれほど落ちぶれていないという自慰的な行為なのか、このあたりの葛藤は、常に生じ、話しを前に進ませない。
(前に、ブログを書く意味を整理した記事を書いたのだから、毎回それでも読んでから書き始めればいいのだろうが。)
他者への興味
残念ながら、時間が迫っている。1合とは、180mlで、4合瓶とは、720ml、一升ビンとは、1.8Lだとか、日本酒が最近おいしいとか、そんなことを書いている暇はないのだ、そもそも、他にやることはたくさんあるのだ、その中で、書く、ということを選択している、そのことの意味を、生きる意味なんて考えるより先に明らかにした方がいいと思うのだが、……というように、頭の中は常に思考に支配されている。
他人ってどうなのか、知りたくなる気持ちがある。ああ、いいじゃあないか、これが、「他者への興味」というものだ。本当は、人間は、生きたい、知りたい、仲間になりたいという、三つの本能があるのだ。
他者へ興味を持つというのは、普通のことなのだ。
ごちゃごちゃとした頭の中の思考を、リアルタイムでアウトプットすること、その行為が、果たして何の役に立つのかは分からないけれども、これは昔からの習慣のようなものだ。
他人の頭の中は分からない、だから「分かりにくい」「理解しあえない」と、僕は哀しんだものである、一方で、僕は、頭の中をすべて表現できるから、分かりやすい、いわば「サトラレ」みたいな存在なのだと、勝手に思っていたりもする。
表現の限界性
ところが、驚いたことに、君はよく分からない、気持ちの悪い人だね、と言われたわけだ。これは本当に驚くべきことだった、が、同時に、やっぱり、うすうす感じていて、信じたくなかったようなことの証左でもあったわけで、哀しみの涙はすぐに……というわけではないが、どこかにいってしまった。
いわゆる、ポジティブな思考、というものを、人は本能的に選び取る。当たり前で、気持ちの良いことやモノの方が、いいに決まっているわけだ。
だから、不明な、はっきりしない、迷い多いものを、人は毛嫌いし、生理的に受け付けないようにできているのだ、とかいった表現自体が、そもそも気持ち悪い! こいつは、何を偉そうにいっているのか、とか、そういった感情になるのだ。
ちょっと待ってほしい、こうした表現が、僕は、見たことがなかった、それは、対人関係構築力のなさを反省すべきかもしれないが、構造的に「ぐちゃぐちゃした思考」そのものが排斥されがちなのであるが、僕の求めた福音は、中々に得難いものだったということになる。
だから、僕は、使命的に、書かなければ、という思いもある。
僕はもう、きっと、その不明瞭な部分と少し違う位置にいる気がする、だから、もう、先に挙げた作品のような表現は、あまり必要としていないのだけれども、ただ、どこか、生きづらさを感じている人には、届いてほしいと、これもまた本心である。
ああ、本当にもう、時間がない、書きたかったことはこんなことだったのだろうか。
とにかく、これぐらいの量であれば投稿しても許してくれるだろう(未来の自分が)、明日でも電車の中ででも読んでみよう。どうしても許せなければ、削除しよう、きっと、それが許されるぐらいのカウンタであろう、と思う。まぁ、「投稿する」という重み、は、SNSで友達を切ったり追加したり、書いた日記を消してみたり、そんなのは感覚的には許せないから、きっと、残る気はするけれども、という表現が、今の自分としては気持ち悪いな、うん。
終身保険に加入しようか検討している。
年間72万くらいのプランである。
基本は、60歳のときに元本2160万円以上になる計算だ。
じゃあ、60歳になって2160万をもらって、何に使うか、とか、全く決まっていない。
住宅ローンとか、車の維持費とかも考えられていない。
結婚資金とか、子育ての資金とかも考えられていない。
子育てでいけば、子供にどんな教育を受けさせるか、どんな大人になって欲しいかのイメージもまだない。
どんな、死に様になろうか、イメージができていない。
ただ、その女性に、どんな死にかたをしたいのか、と聞けば、あまり良い顔をしないのではないか。
現実主義、とは、いわゆる人生の道筋をイメージできているものだと考える。そうすれば、決して、女性とか男性とかではなく、現実主義者など、この現代には少ない気がする。
60歳まで、食べて、寝て、セックスして、それが現実というのだろうか。であればその現実主義とは成り立つ定義かもしれない。
むしろ、そんな現実に疑問を感じる僕こそが、夢みがちな少年なのだろう。
ある女の人が、老後は、暖かい海外に移住してゆっくり暮らすことが夢だといっていた。
ある男の人は、自分の死にかたを選べなくなるので、結婚をするつもりがないといった。
とてもよい夢や考え方だと思った。
それが実感レベルに落とし込められていれば、今後どんどん人生は上向きとなることだろう。
果たして僕はどうだろうか。
玄関の外なんだ、というニュースは、全くそのとおりである。
このblogは、Google検索Botにもかかってないのか、訪問者はほとんどいない。
でありながら、やはりローカルの日記とは違い、不特定多数への、なにか役立てられるのではという、優意味の希求という欲求をかきたててくれるものだ。
例えれば、玄関の外だけれども、人がほとんどいない山林や平原の中、過疎地域のようなものだ。
誰もいない草むらの中、大きな声で、聞く人はいないだろうが、叫んでいるのである。
これは寂しいことかもしれないが、逆に楽しかったり居心地がよいものであるがゆえ、逆に、ここは外なのだと、気を引き閉める必要があるだろう。
もっとも、家の中にいても、裸になったら痴漢だと訴えられたニュースもみたことあるが。
はなしがそれた、自分との戦い、15年前の自分は、いまの自分を想像できていたか。
中学生だった自分。そう、ちょうどこの頃から、こういった文章を、ログ、と読んでいたが、書き始めたのだった。
だから、なんの取り柄もない凡人ではあるが、こういっただらだらとした文章を書かせたら、プロフェッショナルなのだといってよい、かっこわらい。
プロとはなにか、といえば、お金を稼げる人のことなので、形容矛盾なのだけれども、ある時期は、2年?くらい、文字通り毎日文章を書いていた時期もあったので、ここら辺は世界(笑)と争えると思う。
いやほんと、それが何の意味があったかは全くもって別として。
いやほんと、もうそろそろ、し
人生について、生きる意味について、死に様について、真剣に考え、答えを出し、それに向けて一心に行動するべきだ。
凡人としての生き方を模索したが、やはりそれは無理だ。
時代とは全くあっていないだろう。
イデオロギーなき時代に、的はずれである。そのことは、生きる意味とかいう言葉に生理的な嫌悪を抱く人が多いことが証左である。
でもそれでも、やっぱりどこかしら生きづらくて、無意味性に怯え、それは死の恐怖でもあり、矮小さや無力感に悩み怯え、
我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか。
年間72万くらいのプランである。
基本は、60歳のときに元本2160万円以上になる計算だ。
じゃあ、60歳になって2160万をもらって、何に使うか、とか、全く決まっていない。
住宅ローンとか、車の維持費とかも考えられていない。
結婚資金とか、子育ての資金とかも考えられていない。
子育てでいけば、子供にどんな教育を受けさせるか、どんな大人になって欲しいかのイメージもまだない。
どんな、死に様になろうか、イメージができていない。
女性は現実的だというが
男性は夢見がちで、女性はリアリストという風潮もある。ただ、その女性に、どんな死にかたをしたいのか、と聞けば、あまり良い顔をしないのではないか。
現実主義、とは、いわゆる人生の道筋をイメージできているものだと考える。そうすれば、決して、女性とか男性とかではなく、現実主義者など、この現代には少ない気がする。
60歳まで、食べて、寝て、セックスして、それが現実というのだろうか。であればその現実主義とは成り立つ定義かもしれない。
むしろ、そんな現実に疑問を感じる僕こそが、夢みがちな少年なのだろう。
ある女の人が、老後は、暖かい海外に移住してゆっくり暮らすことが夢だといっていた。
ある男の人は、自分の死にかたを選べなくなるので、結婚をするつもりがないといった。
とてもよい夢や考え方だと思った。
それが実感レベルに落とし込められていれば、今後どんどん人生は上向きとなることだろう。
果たして僕はどうだろうか。
なやみ続けた自分との戦い
ああ、ところで、サイバー攻撃や炎上というのには、気を付けた方がいい。ネット空間は、もうそれは自分の家なんかじゃない。玄関の外なんだ、というニュースは、全くそのとおりである。
このblogは、Google検索Botにもかかってないのか、訪問者はほとんどいない。
でありながら、やはりローカルの日記とは違い、不特定多数への、なにか役立てられるのではという、優意味の希求という欲求をかきたててくれるものだ。
例えれば、玄関の外だけれども、人がほとんどいない山林や平原の中、過疎地域のようなものだ。
誰もいない草むらの中、大きな声で、聞く人はいないだろうが、叫んでいるのである。
これは寂しいことかもしれないが、逆に楽しかったり居心地がよいものであるがゆえ、逆に、ここは外なのだと、気を引き閉める必要があるだろう。
もっとも、家の中にいても、裸になったら痴漢だと訴えられたニュースもみたことあるが。
はなしがそれた、自分との戦い、15年前の自分は、いまの自分を想像できていたか。
中学生だった自分。そう、ちょうどこの頃から、こういった文章を、ログ、と読んでいたが、書き始めたのだった。
だから、なんの取り柄もない凡人ではあるが、こういっただらだらとした文章を書かせたら、プロフェッショナルなのだといってよい、かっこわらい。
プロとはなにか、といえば、お金を稼げる人のことなので、形容矛盾なのだけれども、ある時期は、2年?くらい、文字通り毎日文章を書いていた時期もあったので、ここら辺は世界(笑)と争えると思う。
いやほんと、それが何の意味があったかは全くもって別として。
いやほんと、もうそろそろ、し
人生について、生きる意味について、死に様について、真剣に考え、答えを出し、それに向けて一心に行動するべきだ。
凡人としての生き方を模索したが、やはりそれは無理だ。
時代とは全くあっていないだろう。
イデオロギーなき時代に、的はずれである。そのことは、生きる意味とかいう言葉に生理的な嫌悪を抱く人が多いことが証左である。
でもそれでも、やっぱりどこかしら生きづらくて、無意味性に怯え、それは死の恐怖でもあり、矮小さや無力感に悩み怯え、
我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか。