目標とは、ある期限を設けて、それに対して定量的な成果を積み上げて、結果をアウトプットすることである。
僕が、何か教訓的なことを言ったとして、僕自身のステータスが、大企業の社長だったり、政治家だったり、ファイナンシャルプランナーという肩書をもっていたり、東京大学卒だったり、何か世間一般的に認められるものがあれば、きっと「お金」に結びつくのかもしれない。
教訓的なものは、その程度のものである、と書くと、凡人の僻み、と言われるだろうし、これらは、何か成果を出していなければ、発言すら認められないという世界の仕組みだ。
凡人は、おとなしく、凡人としてエリートのいうことに従っていればいい、それか、無産市民、労働者として、せいぜい毎日の不満をつぶやきつつ、一時の享楽的な生活を送ればいい。
このブログの読者の対象者は、非常に限られたものになるのかもしれない。ただ、僕は、ここで紡がれる言葉が、まさに肩書のない一般凡人であるがゆえに、このブログを役立つと感じる人が、今後増えていくだろうと、逆説的に思うのである。
僕は、昔は、そうした思いから、教師になろうと思った。
その道を諦めたとき、周りの人には、自分の人生を見つめなおしたいとか、子どもの責任だとか、モンスターペアレンツとか、企業に勤めてみないと教師としての狭い世界では教えることができないとか、まぁそれらしいことを並びたてた。
しかし、もしかすれば、僕が「教えたい」と思ったことが、果たして役に立つことなのか、導きえるものなのか、自信を得られなかったことによるのかもしれない。
自信という言葉で表現すれば、単に、一個人、人間としての自信が不足していたこともあるだろう。
つまり、役に立つ人間と、そうでない人間がこの世にはいるというまず前提が、頭の中の領域を支配していて、自分が、役に立つ人間であるとは、思えなかったことにある。
しかし、その行動が、自らの思考に基づくものではなかったとき、その結果は、真の自信、「自分自身で何かをなしえたのだ」という実感になることは少ないのである。
偽りの自己、という表現がある。
いい子症候群ということだ。親や先生や、上司やその他、その環境(コミュニティ)における支配者の意図すること、望むことを積極的に行うことは、その環境における立場を向上させる。
ところが、その行為が、自らの実感、自らの思い、心からわきでる欲求との乖離が大きかった場合、周囲の評価がどうであろうと、自分自身という存在に対しての自信には到底、結びつかないのである。
このあたりの表現というのは、「ああ、分かる」と思ってくれる人が、必ず存在する、このことは、既に分かっている。ただ、それがゆえに、その絶対数が少ないことも何となく感じられるし、無意味性を感じざるを得ない。
こんなことを表現しても、何の役に立つのか。そんな思いから、言葉にすることをやってこなかった。
ただ、少しずつ分かってきたのは、このブログのカウンターを回す一人が、自分自身であるということ、その自分というのは、どこかしら、こうした表現を、誰かがするのを待っていたのだ。
あの質問は、既に作品として成り立っている。それにつく回答の多くの、つまらないこと……と書くと、またしても過剰なのであるけれども、あの質問自体が一番「面白い」ものであることは、今時点で揺らぎない実感である。
まさに、ああいった作品を、多く作り出していきたい、というのが、このブログの主旨になるのかもしれない、いやもしくは、自分はそれほど落ちぶれていないという自慰的な行為なのか、このあたりの葛藤は、常に生じ、話しを前に進ませない。
(前に、ブログを書く意味を整理した記事を書いたのだから、毎回それでも読んでから書き始めればいいのだろうが。)
1合とは、180mlで、4合瓶とは、720ml、一升ビンとは、1.8Lだとか、日本酒が最近おいしいとか、そんなことを書いている暇はないのだ、そもそも、他にやることはたくさんあるのだ、その中で、書く、ということを選択している、そのことの意味を、生きる意味なんて考えるより先に明らかにした方がいいと思うのだが、……というように、頭の中は常に思考に支配されている。
他人ってどうなのか、知りたくなる気持ちがある。ああ、いいじゃあないか、これが、「他者への興味」というものだ。本当は、人間は、生きたい、知りたい、仲間になりたいという、三つの本能があるのだ。
他者へ興味を持つというのは、普通のことなのだ。
ごちゃごちゃとした頭の中の思考を、リアルタイムでアウトプットすること、その行為が、果たして何の役に立つのかは分からないけれども、これは昔からの習慣のようなものだ。
他人の頭の中は分からない、だから「分かりにくい」「理解しあえない」と、僕は哀しんだものである、一方で、僕は、頭の中をすべて表現できるから、分かりやすい、いわば「サトラレ」みたいな存在なのだと、勝手に思っていたりもする。
これは本当に驚くべきことだった、が、同時に、やっぱり、うすうす感じていて、信じたくなかったようなことの証左でもあったわけで、哀しみの涙はすぐに……というわけではないが、どこかにいってしまった。
いわゆる、ポジティブな思考、というものを、人は本能的に選び取る。当たり前で、気持ちの良いことやモノの方が、いいに決まっているわけだ。
だから、不明な、はっきりしない、迷い多いものを、人は毛嫌いし、生理的に受け付けないようにできているのだ、とかいった表現自体が、そもそも気持ち悪い! こいつは、何を偉そうにいっているのか、とか、そういった感情になるのだ。
ちょっと待ってほしい、こうした表現が、僕は、見たことがなかった、それは、対人関係構築力のなさを反省すべきかもしれないが、構造的に「ぐちゃぐちゃした思考」そのものが排斥されがちなのであるが、僕の求めた福音は、中々に得難いものだったということになる。
だから、僕は、使命的に、書かなければ、という思いもある。
僕はもう、きっと、その不明瞭な部分と少し違う位置にいる気がする、だから、もう、先に挙げた作品のような表現は、あまり必要としていないのだけれども、ただ、どこか、生きづらさを感じている人には、届いてほしいと、これもまた本心である。
ああ、本当にもう、時間がない、書きたかったことはこんなことだったのだろうか。
とにかく、これぐらいの量であれば投稿しても許してくれるだろう(未来の自分が)、明日でも電車の中ででも読んでみよう。どうしても許せなければ、削除しよう、きっと、それが許されるぐらいのカウンタであろう、と思う。まぁ、「投稿する」という重み、は、SNSで友達を切ったり追加したり、書いた日記を消してみたり、そんなのは感覚的には許せないから、きっと、残る気はするけれども、という表現が、今の自分としては気持ち悪いな、うん。
僕が、何か教訓的なことを言ったとして、僕自身のステータスが、大企業の社長だったり、政治家だったり、ファイナンシャルプランナーという肩書をもっていたり、東京大学卒だったり、何か世間一般的に認められるものがあれば、きっと「お金」に結びつくのかもしれない。
教訓的なものは、その程度のものである、と書くと、凡人の僻み、と言われるだろうし、これらは、何か成果を出していなければ、発言すら認められないという世界の仕組みだ。
凡人は、おとなしく、凡人としてエリートのいうことに従っていればいい、それか、無産市民、労働者として、せいぜい毎日の不満をつぶやきつつ、一時の享楽的な生活を送ればいい。
このブログの読者の対象者は、非常に限られたものになるのかもしれない。ただ、僕は、ここで紡がれる言葉が、まさに肩書のない一般凡人であるがゆえに、このブログを役立つと感じる人が、今後増えていくだろうと、逆説的に思うのである。
僕は、昔は、そうした思いから、教師になろうと思った。
その道を諦めたとき、周りの人には、自分の人生を見つめなおしたいとか、子どもの責任だとか、モンスターペアレンツとか、企業に勤めてみないと教師としての狭い世界では教えることができないとか、まぁそれらしいことを並びたてた。
しかし、もしかすれば、僕が「教えたい」と思ったことが、果たして役に立つことなのか、導きえるものなのか、自信を得られなかったことによるのかもしれない。
自信という言葉で表現すれば、単に、一個人、人間としての自信が不足していたこともあるだろう。
つまり、役に立つ人間と、そうでない人間がこの世にはいるというまず前提が、頭の中の領域を支配していて、自分が、役に立つ人間であるとは、思えなかったことにある。
行為として実践することと思考との乖離
確かに、行動すること、それにおいては、結果はついてきた、といってよい。しかし、その行動が、自らの思考に基づくものではなかったとき、その結果は、真の自信、「自分自身で何かをなしえたのだ」という実感になることは少ないのである。
偽りの自己、という表現がある。
いい子症候群ということだ。親や先生や、上司やその他、その環境(コミュニティ)における支配者の意図すること、望むことを積極的に行うことは、その環境における立場を向上させる。
ところが、その行為が、自らの実感、自らの思い、心からわきでる欲求との乖離が大きかった場合、周囲の評価がどうであろうと、自分自身という存在に対しての自信には到底、結びつかないのである。
このあたりの表現というのは、「ああ、分かる」と思ってくれる人が、必ず存在する、このことは、既に分かっている。ただ、それがゆえに、その絶対数が少ないことも何となく感じられるし、無意味性を感じざるを得ない。
こんなことを表現しても、何の役に立つのか。そんな思いから、言葉にすることをやってこなかった。
ただ、少しずつ分かってきたのは、このブログのカウンターを回す一人が、自分自身であるということ、その自分というのは、どこかしら、こうした表現を、誰かがするのを待っていたのだ。
ある30代の悩み
先日挙げた質問掲示板のある30代男性の悩み、それは、「ああ、分かる」という気持ちを、僕に生じさせた。あの質問は、既に作品として成り立っている。それにつく回答の多くの、つまらないこと……と書くと、またしても過剰なのであるけれども、あの質問自体が一番「面白い」ものであることは、今時点で揺らぎない実感である。
まさに、ああいった作品を、多く作り出していきたい、というのが、このブログの主旨になるのかもしれない、いやもしくは、自分はそれほど落ちぶれていないという自慰的な行為なのか、このあたりの葛藤は、常に生じ、話しを前に進ませない。
(前に、ブログを書く意味を整理した記事を書いたのだから、毎回それでも読んでから書き始めればいいのだろうが。)
他者への興味
残念ながら、時間が迫っている。1合とは、180mlで、4合瓶とは、720ml、一升ビンとは、1.8Lだとか、日本酒が最近おいしいとか、そんなことを書いている暇はないのだ、そもそも、他にやることはたくさんあるのだ、その中で、書く、ということを選択している、そのことの意味を、生きる意味なんて考えるより先に明らかにした方がいいと思うのだが、……というように、頭の中は常に思考に支配されている。
他人ってどうなのか、知りたくなる気持ちがある。ああ、いいじゃあないか、これが、「他者への興味」というものだ。本当は、人間は、生きたい、知りたい、仲間になりたいという、三つの本能があるのだ。
他者へ興味を持つというのは、普通のことなのだ。
ごちゃごちゃとした頭の中の思考を、リアルタイムでアウトプットすること、その行為が、果たして何の役に立つのかは分からないけれども、これは昔からの習慣のようなものだ。
他人の頭の中は分からない、だから「分かりにくい」「理解しあえない」と、僕は哀しんだものである、一方で、僕は、頭の中をすべて表現できるから、分かりやすい、いわば「サトラレ」みたいな存在なのだと、勝手に思っていたりもする。
表現の限界性
ところが、驚いたことに、君はよく分からない、気持ちの悪い人だね、と言われたわけだ。これは本当に驚くべきことだった、が、同時に、やっぱり、うすうす感じていて、信じたくなかったようなことの証左でもあったわけで、哀しみの涙はすぐに……というわけではないが、どこかにいってしまった。
いわゆる、ポジティブな思考、というものを、人は本能的に選び取る。当たり前で、気持ちの良いことやモノの方が、いいに決まっているわけだ。
だから、不明な、はっきりしない、迷い多いものを、人は毛嫌いし、生理的に受け付けないようにできているのだ、とかいった表現自体が、そもそも気持ち悪い! こいつは、何を偉そうにいっているのか、とか、そういった感情になるのだ。
ちょっと待ってほしい、こうした表現が、僕は、見たことがなかった、それは、対人関係構築力のなさを反省すべきかもしれないが、構造的に「ぐちゃぐちゃした思考」そのものが排斥されがちなのであるが、僕の求めた福音は、中々に得難いものだったということになる。
だから、僕は、使命的に、書かなければ、という思いもある。
僕はもう、きっと、その不明瞭な部分と少し違う位置にいる気がする、だから、もう、先に挙げた作品のような表現は、あまり必要としていないのだけれども、ただ、どこか、生きづらさを感じている人には、届いてほしいと、これもまた本心である。
ああ、本当にもう、時間がない、書きたかったことはこんなことだったのだろうか。
とにかく、これぐらいの量であれば投稿しても許してくれるだろう(未来の自分が)、明日でも電車の中ででも読んでみよう。どうしても許せなければ、削除しよう、きっと、それが許されるぐらいのカウンタであろう、と思う。まぁ、「投稿する」という重み、は、SNSで友達を切ったり追加したり、書いた日記を消してみたり、そんなのは感覚的には許せないから、きっと、残る気はするけれども、という表現が、今の自分としては気持ち悪いな、うん。
PR
終身保険に加入しようか検討している。
年間72万くらいのプランである。
基本は、60歳のときに元本2160万円以上になる計算だ。
じゃあ、60歳になって2160万をもらって、何に使うか、とか、全く決まっていない。
住宅ローンとか、車の維持費とかも考えられていない。
結婚資金とか、子育ての資金とかも考えられていない。
子育てでいけば、子供にどんな教育を受けさせるか、どんな大人になって欲しいかのイメージもまだない。
どんな、死に様になろうか、イメージができていない。
ただ、その女性に、どんな死にかたをしたいのか、と聞けば、あまり良い顔をしないのではないか。
現実主義、とは、いわゆる人生の道筋をイメージできているものだと考える。そうすれば、決して、女性とか男性とかではなく、現実主義者など、この現代には少ない気がする。
60歳まで、食べて、寝て、セックスして、それが現実というのだろうか。であればその現実主義とは成り立つ定義かもしれない。
むしろ、そんな現実に疑問を感じる僕こそが、夢みがちな少年なのだろう。
ある女の人が、老後は、暖かい海外に移住してゆっくり暮らすことが夢だといっていた。
ある男の人は、自分の死にかたを選べなくなるので、結婚をするつもりがないといった。
とてもよい夢や考え方だと思った。
それが実感レベルに落とし込められていれば、今後どんどん人生は上向きとなることだろう。
果たして僕はどうだろうか。
玄関の外なんだ、というニュースは、全くそのとおりである。
このblogは、Google検索Botにもかかってないのか、訪問者はほとんどいない。
でありながら、やはりローカルの日記とは違い、不特定多数への、なにか役立てられるのではという、優意味の希求という欲求をかきたててくれるものだ。
例えれば、玄関の外だけれども、人がほとんどいない山林や平原の中、過疎地域のようなものだ。
誰もいない草むらの中、大きな声で、聞く人はいないだろうが、叫んでいるのである。
これは寂しいことかもしれないが、逆に楽しかったり居心地がよいものであるがゆえ、逆に、ここは外なのだと、気を引き閉める必要があるだろう。
もっとも、家の中にいても、裸になったら痴漢だと訴えられたニュースもみたことあるが。
はなしがそれた、自分との戦い、15年前の自分は、いまの自分を想像できていたか。
中学生だった自分。そう、ちょうどこの頃から、こういった文章を、ログ、と読んでいたが、書き始めたのだった。
だから、なんの取り柄もない凡人ではあるが、こういっただらだらとした文章を書かせたら、プロフェッショナルなのだといってよい、かっこわらい。
プロとはなにか、といえば、お金を稼げる人のことなので、形容矛盾なのだけれども、ある時期は、2年?くらい、文字通り毎日文章を書いていた時期もあったので、ここら辺は世界(笑)と争えると思う。
いやほんと、それが何の意味があったかは全くもって別として。
いやほんと、もうそろそろ、し
人生について、生きる意味について、死に様について、真剣に考え、答えを出し、それに向けて一心に行動するべきだ。
凡人としての生き方を模索したが、やはりそれは無理だ。
時代とは全くあっていないだろう。
イデオロギーなき時代に、的はずれである。そのことは、生きる意味とかいう言葉に生理的な嫌悪を抱く人が多いことが証左である。
でもそれでも、やっぱりどこかしら生きづらくて、無意味性に怯え、それは死の恐怖でもあり、矮小さや無力感に悩み怯え、
我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか。
年間72万くらいのプランである。
基本は、60歳のときに元本2160万円以上になる計算だ。
じゃあ、60歳になって2160万をもらって、何に使うか、とか、全く決まっていない。
住宅ローンとか、車の維持費とかも考えられていない。
結婚資金とか、子育ての資金とかも考えられていない。
子育てでいけば、子供にどんな教育を受けさせるか、どんな大人になって欲しいかのイメージもまだない。
どんな、死に様になろうか、イメージができていない。
女性は現実的だというが
男性は夢見がちで、女性はリアリストという風潮もある。ただ、その女性に、どんな死にかたをしたいのか、と聞けば、あまり良い顔をしないのではないか。
現実主義、とは、いわゆる人生の道筋をイメージできているものだと考える。そうすれば、決して、女性とか男性とかではなく、現実主義者など、この現代には少ない気がする。
60歳まで、食べて、寝て、セックスして、それが現実というのだろうか。であればその現実主義とは成り立つ定義かもしれない。
むしろ、そんな現実に疑問を感じる僕こそが、夢みがちな少年なのだろう。
ある女の人が、老後は、暖かい海外に移住してゆっくり暮らすことが夢だといっていた。
ある男の人は、自分の死にかたを選べなくなるので、結婚をするつもりがないといった。
とてもよい夢や考え方だと思った。
それが実感レベルに落とし込められていれば、今後どんどん人生は上向きとなることだろう。
果たして僕はどうだろうか。
なやみ続けた自分との戦い
ああ、ところで、サイバー攻撃や炎上というのには、気を付けた方がいい。ネット空間は、もうそれは自分の家なんかじゃない。玄関の外なんだ、というニュースは、全くそのとおりである。
このblogは、Google検索Botにもかかってないのか、訪問者はほとんどいない。
でありながら、やはりローカルの日記とは違い、不特定多数への、なにか役立てられるのではという、優意味の希求という欲求をかきたててくれるものだ。
例えれば、玄関の外だけれども、人がほとんどいない山林や平原の中、過疎地域のようなものだ。
誰もいない草むらの中、大きな声で、聞く人はいないだろうが、叫んでいるのである。
これは寂しいことかもしれないが、逆に楽しかったり居心地がよいものであるがゆえ、逆に、ここは外なのだと、気を引き閉める必要があるだろう。
もっとも、家の中にいても、裸になったら痴漢だと訴えられたニュースもみたことあるが。
はなしがそれた、自分との戦い、15年前の自分は、いまの自分を想像できていたか。
中学生だった自分。そう、ちょうどこの頃から、こういった文章を、ログ、と読んでいたが、書き始めたのだった。
だから、なんの取り柄もない凡人ではあるが、こういっただらだらとした文章を書かせたら、プロフェッショナルなのだといってよい、かっこわらい。
プロとはなにか、といえば、お金を稼げる人のことなので、形容矛盾なのだけれども、ある時期は、2年?くらい、文字通り毎日文章を書いていた時期もあったので、ここら辺は世界(笑)と争えると思う。
いやほんと、それが何の意味があったかは全くもって別として。
いやほんと、もうそろそろ、し
人生について、生きる意味について、死に様について、真剣に考え、答えを出し、それに向けて一心に行動するべきだ。
凡人としての生き方を模索したが、やはりそれは無理だ。
時代とは全くあっていないだろう。
イデオロギーなき時代に、的はずれである。そのことは、生きる意味とかいう言葉に生理的な嫌悪を抱く人が多いことが証左である。
でもそれでも、やっぱりどこかしら生きづらくて、無意味性に怯え、それは死の恐怖でもあり、矮小さや無力感に悩み怯え、
我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか。
理屈っぽいところは、相性があるが、生きる意味とかその辺の話は、相手によっては気持ち悪いと感じる。
みんな考えていることだけど、いざ言葉にすると、気持ち悪いと感じる。
と、友人(果たして継続できているのか)から言われた。
数少ない本音以上の部分で会話できる相手なので、失うと痛手であるけれども、上のような感想というか知見をもらえたことは、有意義であった。
出会いの場、というのも、別れた話を大っぴらにして、笑いながら話せば、次の機会をと提供してくれる方にも新しく出会うことができる。
こういった書き方をすると、先の記事で想定した30才の男性からは、リア充死ね、的な扱いになり、一切僕の言葉が響かなくなることは明らかであって、ここにおいても、表現のたリナさには、頭を抱えるばかりである。
笑顔の裏にある哀しみや絶望に気づいてくれる人はいないのだ、……と書いていけば、これはこれで、対面コミュニケーションの相手には得たいの知れない気持ち悪い人間、サイコパスのように捉えられるだろう。
この表現の可能性、という面で、どうにもこうにも、言語的な限界性を感じてしまう。
と書くと、これはこれで、何をかっこつけてるんだ、となるし、もうどうにでもなれ、となる。
とにかく、役に立つ文章をかきたいのだ。
言ってはいけない
という書籍を読んだ。これは、性的な役割分担とか、知能の遺伝性とか、犯罪の遺伝とか、女も実は複数の男との性交を望んでいるとか、時おり嫌悪するようなことが書かれている。
僕は別に特になにも感じることなく、ではないが、特段突拍子もないとか、大発見!とかいう感覚はなかったけれども、あぁ、なるほど、僕のつくりだす言葉というのも、同じように受け入れがたい面があるのかもしれない、それを感じることができたことで、有意義な書物だった。800円ぐらいの価値は十分だ。
そうすると、役に立つ、という目的からはずれていると感じざるをえない。
これはかなり苦痛なことだと思う。ゆえに、本当に、ある二人の読者さんには、感謝というよりも、救われたという表現がぴったりなのだ。
ゆえに、本来的には、このblog含めた生活全体が、孤独な戦いにならざるをえない。
本来的というのは、人はみな一人で生まれて一人で死ぬのだ、という標語的なものではなく、求めるものの無意味性との戦い、という水準になる。
これは、もう本当に怖いもので、下手をしたら、悪魔との謗りを受けかねない。
当たり前で、嫌な思いをさせることを信奉するというのは、社会的にも生理的にも、排除されるべきものである。
例えば、科学が、果たして真理を目指しているかは疑問であり、いわゆる人類の幸福、というものを前提にしていることは明らかである。
そこから外れたことを望み、構築することは、せいぜい、憲法で思想信条の自由が保障されている程度の、保障しかない。
本来的には、唾棄すべきものとなる。
アンダーグラウンドが排除されるべきかというレベルと、僕の行為、思考がそもそもそれに当たるのか、という二重、の意味で、反論というか、疑義をつくることができる。
今回は、冒頭の友人(仮)の、意味に対する思考への見解のメモができれば成功だと思う。
孤独な戦い、という実感がえられたこともメモできたことで、十分だ。
スターバックスのストロベリーフラペチーノ美味しかった。
みんな考えていることだけど、いざ言葉にすると、気持ち悪いと感じる。
と、友人(果たして継続できているのか)から言われた。
数少ない本音以上の部分で会話できる相手なので、失うと痛手であるけれども、上のような感想というか知見をもらえたことは、有意義であった。
出会いの場、というのも、別れた話を大っぴらにして、笑いながら話せば、次の機会をと提供してくれる方にも新しく出会うことができる。
こういった書き方をすると、先の記事で想定した30才の男性からは、リア充死ね、的な扱いになり、一切僕の言葉が響かなくなることは明らかであって、ここにおいても、表現のたリナさには、頭を抱えるばかりである。
笑顔の裏にある哀しみや絶望に気づいてくれる人はいないのだ、……と書いていけば、これはこれで、対面コミュニケーションの相手には得たいの知れない気持ち悪い人間、サイコパスのように捉えられるだろう。
この表現の可能性、という面で、どうにもこうにも、言語的な限界性を感じてしまう。
と書くと、これはこれで、何をかっこつけてるんだ、となるし、もうどうにでもなれ、となる。
言ってはいけない
とにかく、役に立つ文章をかきたいのだ。
言ってはいけない
という書籍を読んだ。これは、性的な役割分担とか、知能の遺伝性とか、犯罪の遺伝とか、女も実は複数の男との性交を望んでいるとか、時おり嫌悪するようなことが書かれている。
僕は別に特になにも感じることなく、ではないが、特段突拍子もないとか、大発見!とかいう感覚はなかったけれども、あぁ、なるほど、僕のつくりだす言葉というのも、同じように受け入れがたい面があるのかもしれない、それを感じることができたことで、有意義な書物だった。800円ぐらいの価値は十分だ。
そうすると、役に立つ、という目的からはずれていると感じざるをえない。
これはかなり苦痛なことだと思う。ゆえに、本当に、ある二人の読者さんには、感謝というよりも、救われたという表現がぴったりなのだ。
孤独な戦い
ゆえに、本来的には、このblog含めた生活全体が、孤独な戦いにならざるをえない。
本来的というのは、人はみな一人で生まれて一人で死ぬのだ、という標語的なものではなく、求めるものの無意味性との戦い、という水準になる。
これは、もう本当に怖いもので、下手をしたら、悪魔との謗りを受けかねない。
当たり前で、嫌な思いをさせることを信奉するというのは、社会的にも生理的にも、排除されるべきものである。
例えば、科学が、果たして真理を目指しているかは疑問であり、いわゆる人類の幸福、というものを前提にしていることは明らかである。
そこから外れたことを望み、構築することは、せいぜい、憲法で思想信条の自由が保障されている程度の、保障しかない。
本来的には、唾棄すべきものとなる。
善なるものの肯定が善か
アンダーグラウンドが排除されるべきかというレベルと、僕の行為、思考がそもそもそれに当たるのか、という二重、の意味で、反論というか、疑義をつくることができる。
今回は、冒頭の友人(仮)の、意味に対する思考への見解のメモができれば成功だと思う。
孤独な戦い、という実感がえられたこともメモできたことで、十分だ。
スターバックスのストロベリーフラペチーノ美味しかった。
資産運用を本気で考えるために、ファイナンシャルプランナーとの面談を重ねている。
この機会というのも、離婚して落ち込んで?引っ越しして荷物整理していたら偶然舞い込んできた話。
昨今、祖父がなくなり、その病気についての新しい治療法がうみだされそうだというニュース。
興味のあるニュース出来事に目が行く、というのはあるけれども、人生における運命的な感覚を、思う、と書くと、やはり怪しげな宗教に感化されたように思われるのだろう、どうにも現実的なリアルタイムのコミュニケーションは慎重になる必要がある。
さて、お金のこと、資産運用とか形成を考えることと、生きる意味とは、どう関係するのか。
結局、お金とは、何か行動し、何かをうみだすための材料であるのだ。
つまり、お金を何に使うか、ということがひっきょう重要な問題である。
一方、お金をためることを、増やすことには誰しも熱心だが、どうやって、何に使おうかを、考えて行うことは少ない、というと馬鹿にしすぎかもしれないが、そうではなく、使うことについては、本来的な欲求に従うものだから、その必要性が薄い、ということだ。
おいしいものを食べたい、だからお金を使う、何ら不思議でもない自然なことである。
自然だからこそ、その、いわゆる性欲とか食欲とかに代表される欲求がある以上、お金の大切さとか、増やすこと貯めることに疑問は起こり得ないのである。
ところが、僕が少し変なところは、それ以前に生きる意味を問題視するところにある。
おいしいもの食べて、かわいい人を抱いて、ぐっすり眠れて、それはいわゆる幸せ、という言葉に示される状態だろうが、果たして、それが永遠かは明らかである。
話はあるぬと飛ぶが、バイクでナビがきかない場所を深夜に走っていて、非常に怖くなった、それは不明な土地であるというのと、小石でつまづいて転倒したとき、自分の身体はいともかんたんに、死という状態になるのだ、と。
ここら辺から、もうまったく、気持ち悪いと思われ始めることは確信に近いながら、死、という状態は、何においても重要である。
人は死ぬために生きている、この表現は全く受け入れがたいが、ある側面では真実でしかない、もちろん、いつも補足的に書くように、その真実が万人に必要とは限らない。
しかしながら、それは、十代や二十代では起こらないかもしれないが、いずれ、身体の衰えと共に、思考の隅に発生する可能性が高まってくる。
安心してほしい、と、ここまで言って、誰も信じられないことであるが、こういった文章を読んだところで、人は死の恐怖は発生しない。
そこら辺には、実感、というスタビライザーが備わっている。
だから、ゆえに、僕は、人の言葉でなんか人は変われないんだ、変わる要素は自分のなかにあるのだ、と思っているが、これも一般感覚的には受け入れられない、何故ならば、承認欲求もまた、人にはかかせないからであり、自分が他者への影響力をもっているということを、人は信じたいのである。
これらを、営業テクニックの本とか読めば、分かりにくく説明してくれる。顧客に自己決定したように、自分の営利に向けて誘導するのである、とかね。
それで、WINWINの関係になれば、お互い気持ちよければいいじゃない、というのも最もなんだけれど、どこか欺瞞的で、気持ち悪いと僕は思う、この感覚を、高2病とか大2病
とかいう、かっこわらい。
話が、前にすすまない。まとめようとすれば、人はいずれ死ぬのだから、いまを精一杯生きよ、とかになる。このブログは、そんなことは分かっている、そこで思考停止するんじゃない!と発破をかける。と同時に、生きる意味なんて考えるのは無駄であるとするエセポジ言説への警鐘である。いやもちろん、全否定なんて、こうやって書いてきたことがむしろ、できないことの証左なんだけれども
この機会というのも、離婚して落ち込んで?引っ越しして荷物整理していたら偶然舞い込んできた話。
昨今、祖父がなくなり、その病気についての新しい治療法がうみだされそうだというニュース。
興味のあるニュース出来事に目が行く、というのはあるけれども、人生における運命的な感覚を、思う、と書くと、やはり怪しげな宗教に感化されたように思われるのだろう、どうにも現実的なリアルタイムのコミュニケーションは慎重になる必要がある。
さて、お金のこと、資産運用とか形成を考えることと、生きる意味とは、どう関係するのか。
結局、お金とは、何か行動し、何かをうみだすための材料であるのだ。
つまり、お金を何に使うか、ということがひっきょう重要な問題である。
一方、お金をためることを、増やすことには誰しも熱心だが、どうやって、何に使おうかを、考えて行うことは少ない、というと馬鹿にしすぎかもしれないが、そうではなく、使うことについては、本来的な欲求に従うものだから、その必要性が薄い、ということだ。
おいしいものを食べたい、だからお金を使う、何ら不思議でもない自然なことである。
自然だからこそ、その、いわゆる性欲とか食欲とかに代表される欲求がある以上、お金の大切さとか、増やすこと貯めることに疑問は起こり得ないのである。
ところが、僕が少し変なところは、それ以前に生きる意味を問題視するところにある。
おいしいもの食べて、かわいい人を抱いて、ぐっすり眠れて、それはいわゆる幸せ、という言葉に示される状態だろうが、果たして、それが永遠かは明らかである。
話はあるぬと飛ぶが、バイクでナビがきかない場所を深夜に走っていて、非常に怖くなった、それは不明な土地であるというのと、小石でつまづいて転倒したとき、自分の身体はいともかんたんに、死という状態になるのだ、と。
ここら辺から、もうまったく、気持ち悪いと思われ始めることは確信に近いながら、死、という状態は、何においても重要である。
人は死ぬために生きている、この表現は全く受け入れがたいが、ある側面では真実でしかない、もちろん、いつも補足的に書くように、その真実が万人に必要とは限らない。
しかしながら、それは、十代や二十代では起こらないかもしれないが、いずれ、身体の衰えと共に、思考の隅に発生する可能性が高まってくる。
安心してほしい、と、ここまで言って、誰も信じられないことであるが、こういった文章を読んだところで、人は死の恐怖は発生しない。
そこら辺には、実感、というスタビライザーが備わっている。
だから、ゆえに、僕は、人の言葉でなんか人は変われないんだ、変わる要素は自分のなかにあるのだ、と思っているが、これも一般感覚的には受け入れられない、何故ならば、承認欲求もまた、人にはかかせないからであり、自分が他者への影響力をもっているということを、人は信じたいのである。
これらを、営業テクニックの本とか読めば、分かりにくく説明してくれる。顧客に自己決定したように、自分の営利に向けて誘導するのである、とかね。
それで、WINWINの関係になれば、お互い気持ちよければいいじゃない、というのも最もなんだけれど、どこか欺瞞的で、気持ち悪いと僕は思う、この感覚を、高2病とか大2病
とかいう、かっこわらい。
話が、前にすすまない。まとめようとすれば、人はいずれ死ぬのだから、いまを精一杯生きよ、とかになる。このブログは、そんなことは分かっている、そこで思考停止するんじゃない!と発破をかける。と同時に、生きる意味なんて考えるのは無駄であるとするエセポジ言説への警鐘である。いやもちろん、全否定なんて、こうやって書いてきたことがむしろ、できないことの証左なんだけれども
他者がどう感じるかは全く関係ない、それは、単なる僻みである。
ただ、きれいな側面だけの文章が、どうしても受け付けられない。
ひん曲がった性格なのだろうか、いやこれは恐らく、経験と環境によるものだと思われる、いな、元来の性格なのかもしれない、問題はここではない。
例え、自分の性格が元来のものであろうが、後天的なものであろうが、そもそも、その性格というものは、環境に応じて変化しうるものであって、固定的に、例えば「社交的」だとか「落ち込みがち」だとか、それらの表現で表せる程度の物であれば、そもそも問題になどならないのである。
と、何を書き始めるのか全く分からない文章というものが、果たして価値があるかというと、ないと思う。
だからこそ、こうやって傍若無人というか、気ままに、思いつくままに書き連ねたものが、「面白かった」と、わずかばかりの人ではあっても、言ってもらえたことは、本当に心底うれしいことであったのである。
それらの記事が、では、すべて感動(少しでも感情が発生)させることができたわけではないだろうが、とてもとても、うれしいことなのである。
果たしてそうだろうか。
例えば、宮台真司の「この世からきれいに消えたい。」という、20代前半の若い男性が、自殺したルポルタージュがある。
僕は、その本の序盤の書き出しにおいて、「ああ、そうなんだ、この得体のしれない生きづらさってものが、それこそ小学生ぐらいのときから纏わりついていたんだ」と感動したものだ。
ところが、ショックを受けたのは、その自殺した少年が、実は彼女がいたことである。そして、彼の死を彼女は悼んで哀しんでくれているのである。
「おいおい! まってくれよ、彼女がいて、イケメンのくせに、自殺なんてもったいないことしやがって!」
と、思ったかはあまり覚えていないけれども、当時彼女がいなかった自分としては、どこか違う世界の人間に思えたわけだ。
そこで僕は思った。
所詮、僕が生きづらいとか、人生に生きる意味を見いだせないとか嘆いていたとしたって、所詮、彼女がいなくてひがんでいる童貞野郎じゃあないか、と。
これでは、「絶望」なんて言葉はつかえない。誰かに認められない、彼女ができないという承認欲求が満たされないでウジウジ悩んでいるだけなのだ、と。
上に書いてきたエピソードは、いつものごとく、脚色している気がする、とりあえず、本を購入した時期などから考えても、時系列はてんでバラバラだ。ただ、エッセンスとしては、以下のことである。
ただ、きれいな側面だけの文章が、どうしても受け付けられない。
ひん曲がった性格なのだろうか、いやこれは恐らく、経験と環境によるものだと思われる、いな、元来の性格なのかもしれない、問題はここではない。
例え、自分の性格が元来のものであろうが、後天的なものであろうが、そもそも、その性格というものは、環境に応じて変化しうるものであって、固定的に、例えば「社交的」だとか「落ち込みがち」だとか、それらの表現で表せる程度の物であれば、そもそも問題になどならないのである。
と、何を書き始めるのか全く分からない文章というものが、果たして価値があるかというと、ないと思う。
だからこそ、こうやって傍若無人というか、気ままに、思いつくままに書き連ねたものが、「面白かった」と、わずかばかりの人ではあっても、言ってもらえたことは、本当に心底うれしいことであったのである。
それらの記事が、では、すべて感動(少しでも感情が発生)させることができたわけではないだろうが、とてもとても、うれしいことなのである。
健康でお金があって友人に恵まれてエトセトラ
まず、生きる意味、と検索すると、いままさに落ち込んでいることが前提とされている。果たしてそうだろうか。
例えば、宮台真司の「この世からきれいに消えたい。」という、20代前半の若い男性が、自殺したルポルタージュがある。
僕は、その本の序盤の書き出しにおいて、「ああ、そうなんだ、この得体のしれない生きづらさってものが、それこそ小学生ぐらいのときから纏わりついていたんだ」と感動したものだ。
ところが、ショックを受けたのは、その自殺した少年が、実は彼女がいたことである。そして、彼の死を彼女は悼んで哀しんでくれているのである。
「おいおい! まってくれよ、彼女がいて、イケメンのくせに、自殺なんてもったいないことしやがって!」
と、思ったかはあまり覚えていないけれども、当時彼女がいなかった自分としては、どこか違う世界の人間に思えたわけだ。
そこで僕は思った。
所詮、僕が生きづらいとか、人生に生きる意味を見いだせないとか嘆いていたとしたって、所詮、彼女がいなくてひがんでいる童貞野郎じゃあないか、と。
これでは、「絶望」なんて言葉はつかえない。誰かに認められない、彼女ができないという承認欲求が満たされないでウジウジ悩んでいるだけなのだ、と。
満たされるものを得たのちに考えるべきこと
上に書いてきたエピソードは、いつものごとく、脚色している気がする、とりあえず、本を購入した時期などから考えても、時系列はてんでバラバラだ。ただ、エッセンスとしては、以下のことである。