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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「やっぱり長くなった」「基本的に、『面白い作品を書ききる。今年度中に。』というだけの内容」

神を信じられるなら問題は少ない

 実感のまとめの、実感レベルが高いものを引用。

1人はいずれ死ぬ。有限の存在である。 高
2未来のことは誰も分からない。リスクはゼロにはならない。 高
9実感が大事。実感の積み重ねが価値観。価値観の総体が信念。 高
22理念としては世界平和、自由、平等、正義が大事。しかし実現性が問題となる。 高
23社会とはルールの体系である。体系とは一定の法則のまとまりのことである。 高
24ルールとは約束と決まりである。しかしそのルールの根拠は「信頼」である。だから信頼、信用は大事である。 高
28宗教とは信仰を取り扱う「科学」である。 高
36ルーチン日課を続けることは散漫な注意を集中させることに意味がある。 高
37創作をすることは重要である。人生は物語であるから。 高

 しばらく経ってから読み返しても、大きく批判したい気持ちは起こらない。ただ、もうちょっと、分かりやすく、かつ短めに表現できないものかなぁとは思う。

 他者のブログなど読んでいると、様々な「信じているもの」というものがある。プロフィールに、「私の前世はノアの箱舟プロジェクトに参加したのです」とか「神々との対立から与えられた課題は現在は瞑想によって解決しています」とか書かれていて、びっくりすることもある。

 他者がどんな考えをもっていようが、たいていのことでは驚くことはないのではあるが、やはり世界(日本)は広く、人はたくさんいるのであるなぁと思う。

 馬鹿にしているわけではない。
 たとえば、最近とある作品のことを記事にしているが、「アニメ面白い! まじ感動した」という主張が、そもそも、「うわ……いまどきそんな人いるんだ。アニメなんて子供がみるもんでしょ? 30代で……きも……」と思う人もいるだろうと思うのである。
 そういう人たちの存在を考えたうえで、なおかつそういった記事を書くというのは、「神さまはいまーっす! しんじてまーす!」というのと、あまり変わらない。

 この「変わらない」という表現も難しいものである。ここで言いたいのは、「善」と「偽善」も本質的にはあまり変わらないという意味においてである。実際、アニメが好きというのと、神様が好きというのとでは、次元がまったく異なるともいえる。


 そして、その「神様を信じる」という行為自体、僕は否定する気にはなれない。
 神様なんて信じるのは怪しい宗教である、と切り捨てたくなる気持ちもわからなくもないが、「信じる」ことができるのは、これまた人間としての能力である。恋愛を信じる、友情を信じる、いろんな「信じる」があるが、その対象が、目先のものではなく、より高次なもの(神)に向かっているというのは、逆に素晴らしいことではなかろうかと思う。

 ただ、僕は、残念なことに、「神」を信じることができない。
 いや、それどころか、すべての、「信じる」という行為ができない。

信じることと自分を委託(コミット)すること

 虚脱感。黄昏。
 簡単に表現すると、そういった言葉が適切に思えるが、どうにもこの感情の対処に苦慮している。

 これもとあるブログを読んでいてのことだが、
・テレビ見ていて笑ったり、ご飯食べておいしいと思うことはある。しかししばらくしたらまた暗黒世界だ
・人生がつらいと言っていた人が、仕事を見つけて、頼りにされているというメールをもらった。喜んで、よかったねと声をかけたが、その人は、前と同じように「つらい、さみしい」のだという。

 といった表現に出会った。

 これ、分からない人にとっては、「何甘えてるの?」で一笑で終わる。

 逆に、親しい人に死に別れたとか、彼女にふられたとか、大金を失ったとか、そういったわかりやすい悲劇のほうが「ラク」だったりする。

 明確な弱者に対して、人は優しい。国も社会も集団も、困っている人や弱っている人は大切にしようとする。
 むかーしむかしは、「戦えない奴は潔く腹をかっさばいて死ね」とか言われたかもしれないが、昨今現代社会特に日本は恵まれている。弱者にとっても、居場所が与えられる社会である。男女平等、貧困撲滅、自由平和である。
 そういう意味で、発達障害とか、今まで「変わった人だね」ですまされていたのが、「病気」として扱われるようになるということは有意義であるともいえる。

 ただ、「弱い人や困っている人を助けましょう」ということだけを、学校の道徳で教えていれば、それが「正解」だった時代は、もう終わってしまっていると僕は思っている。
 ここですぐさま書くべきは、僕は、その理念が間違っているとは全然思ってないということだ。実感表の22番、「理念としては世界平和、自由、平等、正義が大事。しかし実現性が問題となる。」ということである。

 この「しかし」の部分が重要だ。
 理念としての「正義」を考えることが、必ずしも役に立つわけではないということだ。無駄ではないと思う。しかし、その正義をどう実現するのか。「力」が必要だ。昔であれば暴力、資本主義社会でいえば「金・資本」。

小見出しおかしくなったな

 上の小見出しは失敗である。
>信じることとは何か

 という問題提起であった。だが、この問題は、僕にとってもうあまり重要性がない。
 神だとか、スピリチュアルとか、お金だとか、よく巷で価値があるとされることがあったとして、それらが「嘘」とは思わない。
 問題は、「僕」が、それらを信じることができるのか(=委託(コミット)できるのか)ということである。

 コミットとか、横文字使ってかっこ悪いと思うが、どうにも、この言葉がしっくりくるのだ。
>委託する、引き渡す、ゆだねる、付する、(…に)身を任す、(審議のために)委員会に付託する、掛かり合いにさせる:、(責任上)引き受ける、(…を)約束する、約束する

 英和辞書をひけば、こんな感じ。僕は、身を任すという意味でよく使っている。(どうでもいいが、これ、マッスルになる会社のCMで使われる前から使っているのだ。だから何だということだが。ちなみに、そのCMでの意味は、結果を約束する、という意味ではなかろうか)


 で、その身を任すということだが、「何に?」というのは明らかで、「自分の人生に」ということになる。

 ここで、実感表の1番、「有限性」についてが重要になる。

愚痴を言う人を否定したいわけではない

 この記事――というか、このブログ全体が、巨大な愚痴のようでもある僕が言えたことではないが、ネガティブな人とか、ぐちぐちした人を否定するつもりも、嫌いでもない。むしろ好きだ。

 が、その行為自体は根本的に否定している。(めんどくせーやつだな)

 実感表の3番、これは、実感レベル中であるが、「楽しむことが重要。苦しみ自体に価値はない。苦しみの低減を望まないのは生存欲求と反する。」というのもある。
 つまり、うえで取り上げた、「少しの幸せはあるが、また歳を重ねるにつれて、気持ちが落ち込んで暗黒になっていく」という人の在り方は、認められないということである。

 中途半端である。
 だったら、早く死んだほうが幸せなのではないか? と、これは割かしマジで思う。こんなことを思う人間は、この幸せな現代社会には認められないだろうとも思う。許されざる人格である。サイコパスで出てくる潜在犯の矯正保護施設に送られるべきであろう。

 いやしかしだ。
 きっと、精神科医フランクル氏は反対するだろうが、不治の病に侵されて、体を蝕まれ、耐え難い苦痛に泣き叫びながら残りの時間を過ごさなければいけないとした場合――いやもちろん極端な例だが――すぐさま死を希うのではなかろうか。

 もちろん。
 人には生存欲求なるものがあるため、潜在的に「死」を恐怖する。(そういった意味で、ドリフターズに出てくるトヨちゃんとか武士の死生観は驚くべきといえる。ただ、その観念を取り入れようというのは愚策である。しかし、ときおり、「大和魂を復活すべきだ」とか主張しだす人も発生する。日本人は平和ボケしてダメだ、もっと対外情勢に対してなど危機感をもたねばダメだという主張もわからんでもないが、これもドリフターズだったかもしれないが、他の作品でもみたことがあるが、人は基本的に「自分の死は信じられない」ものである。あまり好きな表現ではないが、あらゆる芸術(物語)は死からの逃避である――というのは、まぁそんなに外れてないとも思う)
 ので、さっさと腹をかっさばいて死ね、というのも無理がある。

 とはいえ。
 毎日毎日、苦しい、俺なんて死んだほうがいいんだ、人生全然よいことなんてなかった……。
 なんて、どんな拷問ですかと。としたら、その生きていること自体を認めて、愚痴を吐く時間を、「幸せ」とは何かを考える時間にしてはどうかと思うわけである。

 まぁ、上で取り上げた方は、「若いときは楽しかった」と書かれていて、この辺りはちょっと共感できないな、とも思っている。
 僕は、ループものが結構好きかもしれないが、戻りたい過去とか、一切ない。そういう意味では、実感表12番「言い訳や文句、後悔は役にたたない。反省と再行動は役に立つ。」をちゃんと実践できている気がする。

 マジックワードで、
「日々ますます、あらゆる面であらゆることが良くなっている」
 といったようなことを、毎日鏡の前で唱えていると、本当に人生が改善されるという。

 よく覚えていないが、昔、失恋してショックを受けていたころ、1か月ぐらい実践したところ、確かに効果があったと思う。とかいうと、スピリチュアル乙! となるが、まぁ、人の心は、ある意味では、それほど科学的でも複雑でもないということである。

 ただ、じゃあ今この実践をやってみようか、というのはちょっと違う気がする。
 どっちかというと、もうこれは信じているのである。

 前にも書いたけれども、仕事でうまくいかなくても、離婚した後であっても、「ああ、生きていてよかったなぁ」なんてことを、ふと思ったり、口にしたりするのである。


 しっかし。
 実感表6番、「ただ生きてるだけで意味があるというのは認められない。」のである。

生きてることにコミットしやがれ

 あー! 長くなってきた。
 こうならないように、実感表をちゃんと引用して、余計なことを書かないようにしているというのに。

 なんというか、答えは、書き始める前に、考えて、なんとなくメモしていたのである。

・面白い作品を書ききる。今年度中に。


 というものである。
 仕事もする。投資の勉強もする。女の子とデートもする。

 が。
 最大優先順位は、創作に置くということだ。

 なんで? と言われても上手く答えられない。
 ただ、10年後、20年後に、「お前、30代前半に何してたの?」と(自分に)言われたときに、「これを書いた」と言いたい。
 そんな漠然とした感じ。
 とりあえず、前段階として、1~2年前ぐらいに、「作品を完結させる」という目標は達成している。次は、「自分自身本気で面白いと思えるものを創る」ということだ。

 これ、とても難しいものではある。「本気で面白い」って、そもそも俺は、何を面白いと思うのか。
 その、面白いというものを、「感じる」のではなく、「創る」というのが、本当に可能なのか。
 その、「本気」とは、どういう意味なのか。


 ただ、期限をつくる必要はあるのか? というのについては、必要だと思う。
 間違いなく必要だ。

 実感表1番、「人生は有限である」ということだ。
 しかし、理由はそれだけではない。人は、自分の死を有意に想像することはできない。「明日がある」と思ってしまう。その根拠なき「信じる」ということ! 神様やスピリチュアルを信じることと何ら変わらない。我々は、一番大事なことをわかっていながら、その生きてることに対して哀しいほど無自覚なのだ。

目標と実践

 さて、目標が決まれば、実践のための小目標を立てていかねばなるまい。しかし、シュタインズ・ゲートのゲームもやってみたいし、――PSVITA?でも買うか――そもそも今年度と来年度、仕事が忙しい気がする。その後どうなるかは、今年度次第かもしれないし。……と、まぁ、言い訳しようとすればいくらでもできる。仕事ってのは便利である。手軽に、自分の意義っつーのを与えてくれる。どんなつまらない仕事でも、誰かの命令に従うだけでも、そこにいることによって、自分という存在を意識することができる。

 話が若干変わるが、メモしておこうと思ったのは、俺の来歴として、10代ぐらいのとき、非常に大きな欲望(成し遂げたいこと)があって、それが諸所の事情でダメになって、そこから代替的な目標を立てて、上手くいくことがあればダメなこともあったで、まぁ平々凡々やってきた、と。ただ、その10代ぐらいのときの欲望からの挫折(諦念)によって、僕は、人生にコミットすることができなくなったのだと思う。
 わかりやすく書けば、「(自分に対しての)言い訳」が上手くなったのである。

 これは、よいことでもある。失敗しても、それほど落ち込まずに、次の行動にうつることができる。
 でも、だめなことでもある。自分の人生を、自分のものだと思えなくなるのである。

 失敗したことや、苦しいことや悲しいことも、さっさと捨て去ることができる一方で、良いことがあった、上手くいった、成功した――それらの体験も、自分のものだとは思えなくなるのだ。

 僕が、上のほうで取り上げた人に対して「苦しいと思っているならそれを解釈して幸せの方向へもっていかないと人生もったいなくない?」といったのは、つまり、「諦念のススメ」でもあるわけだ。

 それは果たして、万人に勧められる良い方法なのだろうか?

 ここで、実感表2番「未来のことは誰も分からない。リスクはゼロにはならない。」というのも関係してくる。
 完全に、自分の人生にコミットすることは、確かに、人としての生きざまとしてかっこいいことは間違いないが、しかし、漫画やアニメじゃないので、失敗という可能性もあるのである。物語では、失敗した結果、それを糧として成功に導いてハッピーエンドというのが多いけれども、失敗したらすぐさま「腹掻っ捌いて死ぬ」だとか「なーに、失敗したら単に死ぬだけよ」と諦念できるものだろうか。

助けを求める方法

「なーに、人生、なんとかなるさ」

 正直。
 特に問題もなければ、苦痛もなければ、悲しみもなければ、何もない。

 涅槃寂静。
 心が凪のように穏やかである。

 なので、僕が一般に「弱者」なのかというと、たぶん違うと思うし、「ダメ人間」カテゴリにブログ村を選択してよいかというと、それもダメな気がする。

 じゃあ、至極一般、普通の人だと。幸せに生きていく人の一員だと。

 ――そういわれると、なんか、これも、シュタインズ・ゲートの感想がうまく書けなかったのと同じに、なんか違和感なのである。
 繰り返しになるが、この違和感は、「甘ったれるな」で切り捨てられることであるので、誰にも相談ができない。そういう意味で、孤独なのだが、じゃあ、「友達ゼロのおっさんが孤独に生きるブログ」と題せるかというと、ふつうのことを相談できる人はいるし、それもちょっと違う。

 そもそも、この違和感について、特定の誰かに話そうという気になれない。
 いや、話さなかったら理解なんてされるわけないっしょ、というのはもっともだ。

 でも、そもそも、自己責任という言葉が流行るこのご時世、結局最終的には己が判断をくださないといけないとしたら、他者との会話になんの意味があるのか。

 いやいやわかっている、そんなこと言うやつが、そんなことをブログに書くなんて卑怯じゃないかと。
 そう、だから、なんか、一人は嫌なんだ。寂しいんだ。孤独なんだ。だから、「公開」して書いているのだ。
 でも、適切な他者の求め方が分からない。相談の仕方が分からない。相談されることはあっても、人をどう頼っていいかが分からない。教えることはできても、人に教えを請うやり方が分からないのだ。

コミュニケーションとは

 人との会話、コミュニケーションについて、情報伝達であるとしたのは、実感表29番「コミュニケーションとは情報(意思)伝達のことである。そして、コミュニケーションの目的は、相手を自分の意図通りに行動させることである。」の、実感レベル中である。

 これはまぁ、実感が高い方なのであるが、これもいけない、よくない定義かもしれない。

 コミュニケーションのもつ、「感情統制」の機能を書けて(表現できて)いない。

 人と会話することによる、ただそれ自体の効用・意義というものについて、僕は上手く実感できていないのだろう。ただ、その必要性とか、実際に存在するということ自体は信じられている。でも、それをどうやって使えばいいかが分からない。

 この点が、「お前、人に興味ないだろ」と言われる所以だろうとも思っている。
 人に興味がない……のではなくて、その会話の「意義」について、無意識に求めてしまう心性がよくないのだろう。その人が好きな映画とか、好みのタイプとか、デートのときはとても興味をもって聞ける。でもそれは、その人と親しくなるための目的だったり、次にあったときの会話の種にするためだったり、プレゼントするときの材料だったり、目的があるのだ。――あー、なんか、こうやってかくと、やっぱり、おれは最低な人間で生きている価値がない気がしてくるな(かっこかなしいわらい)。ただ、その人が喜ぶ顔がみたいとか、そういった優しい気持ちがないかというと、そんなことはなくて、喜んでくれたらうれしい。――と同時に、喜ばすことができたという自分の行為にとっての安心感もあるのだろうという「邪推」も自分の中に発生してしまうが。


(長くなったので強制かっこ書きである。この、「人への頼り方」と、コミュニケーションの感情機能について、もう少し掘り下げて書かねばなるまい。人に頼るぐらいなら自分でやってしまうタイプである。これはよくない。よくないのは分かっているので、できるだけ人に仕事を割り振ったり、お願いするようにはしているが、それ自体が結構ストレスの原因だったりする。もう一つ、雑談の効用についてもよくわかっている。専門的にはアイスブレイクとかいうのだったか。ただ、それゆえ、そもそも「効用」といった言葉がまっさきに出てきてしまう点がもうダメダメである。心底会話を楽しもうという気持ちがもともとない。――あ、だからか。だから、SNSとか、ツイッターとかも苦手なのか。ブログはどっちかというと独白である。相互コミュニケーションの面もあるが、自分の考えの整理(もしくは、お金系スピ系の場合は「教化」)の面が強い。ああやはり、いろいろな面で実感を37個ぐらいも挙げても、まだ新しい気づきがあるのか。まだまだやること、考えることは多いわけだな。「衛府の七忍」という漫画も面白そうだ。しかし連載中なのか。その前に、「エクゾスカル零」か「覚悟のススメ」を読んでみるか)

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今日の一言「やっぱりあっという間」「充実した時間は過ごせた」

引きこもりはできなかった

 明るい記事を書こう。結構アクティブに過ごしてしまった。「しまった」との表現は、当初立てた、「完全に引きこもろう」という目標が完全崩壊であったからだ。まぁそれは悪くなかった。やっぱり、「本音」でコミュニケーションできるってのはとても楽しいことである。
 とはいえ、

 もう一つ、一般書を読もうと思う。そして、概念記憶を一つ増やそうと思う。
 もう一つ、音楽を一つ創ろうと思う。
 もう一つ、小説を一つ書きすすめようと思う。
 もう一つ、7時に起きて、23時前に寝ようと思う。
 もう一つ、料理をしようと思う。そして、一日三食食事をしようと思う。フルーツを食べようと思う。外食に出向こうと思う。
 もう一つ、買い物をしようと思う。鞄と靴が欲しい。漢字が似ている。
 もう一つ、坐禅を一日15分以上しようと思う。
 もう一つ、ルーチンを続けようと思う。
 もう一つ、ピアノで弾ける曲を増やそうと思う。
 もう一つ、日本株で購入したい銘柄を調べようと思う。
 もう一つ、ブログを書こうと思う。
 もう一つ、カラオケに行こうと思う。
 もう一つ、ボウリングに行こうと思う。
 というのの、殆どはできていない。さて残りの時間を、どう過ごそうか。

 

一つでも多くやってやろう

 よし、できるだけ多くチャレンジしよう。
 まずは、ブログを書いて、23時前に寝て、7時に起きるってところからだな、もう幾何かも時間がないが。

 あとは、買い物系か。靴、鞄、株……うーん。欲しいって思いは強いんだけど、中々よい商品が見つからないんだよな。

 あとは、そうだな、オルフェンズ、これ、面白いんちゃう?

 どのシーンか具体的に分からないけれども、テイワーズというマフィア的組織の下部組織であるタービンズの面々が、内輪もめに巻き込まれて、散り散りなってく様のどこかにおいて思わず泣いてしまったよ。アニキぃ……。

 なんか、某スゲー方が自身のブログで、「オルフェンズの二期って、一期で成しあがった仲間たちが、一人、また一人と倒れていく様を見せられる拷問ッスよ」などと述べられていて、ようやく意味が分かってきた。いやぁなるほどその通り。全き秀逸な表現である。

 残念なのかどうか分からないが、ネタバレとして、もう仲間たち(鉄華団とゆかいな仲間たち)の未来は分かっている。それがなかったら、また違った思いをもって見ていたのだろうか? 例えば、その一人一人と退場していく中で、それでもきっと、どこか救いはあるのだろうという思いが生じていたのだろうか。

 でも、そのネタバレがあったからこそ、非常に楽しめているような気もしないでもない。某氏が感想というかレビューにおいて描かれたシーンが、実際にどのような文脈で、どのような表現がされているのかという「確認作業」というのが、これが意外に意外性をもって僕の感性に飛び込んできたりして、面白いのである。

所与の条件で最大限を目指す

 そして、その作品が、最近思う、「与えられた条件下で、精一杯やるっきゃない」ということの一つのあり方を見せられているようで、なんともタイムリーに思う。

 なんだか色々書きたいこともあるのだけれども、なんだかブラウザがやけに重いのと、さっそく23時前に寝るという目標をもとに、この記事は終わらせるとしよう。


(たまには短い記事も……ま、いっか。こいつは中身がない記事だよね)



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今日の一言「頭痛がするときはチョコレート」「長時間同じことをするのは堪えるね」

長期休みの予定

 よし、何もしないことをしよう。

 この結論を書こうと思って、前回の記事のようになった。頭のおかしな人間である。

 もう少し、掘り下げてみると、「理想の生活をしよう」ということになる。

 理想、とか、また抽象的な言葉が出てきやがった。本当に大丈夫か? この記事は、ちゃんと解決、成果に結びつくのか? そんな疑問を同時に抱きながら書き進めていこう。

随筆とエッセイの違い

「書き進めていこう」(キリッ)とか書いておいて、いきなり脱線する。
 あるエッセイストを取り上げたこちらのブログ記事が面白かった。随筆とエッセイについて、端的に区分けすれば、随筆が少し文学よりで、エッセイはより洒落乙なのだそうだ。

 なるほど、じゃあ、僕のブログは分類としてエッセイなんだな、とか思ったら、「エッセイって、気取らない文体がゆえに、エッセイストは面白くするために頭をかきむしって本気で悩んでいるのである。それでいて、読む人に体力を使わせない」とか書かれていて、うわぁ、そりゃそうだよなと思った。

 僕は基本的に、このブログにおいて書く際には、あまり考えていない。考えて紡ぎだした言葉は、それはそれで重要だけれども、それはどこか、「実感」から離れてしまっているように思える場合があるからだ。
 考え抜いて、「ああ、この言葉こそ僕を本当に示す表現なのだ!」というのに辿り着くこともあるだろうが、しかし、僕は同時に、厳密な言葉というものにも、信頼性をおけていない。

 といったことについて、こちらのブログ記事が面白かった。――哲学の科学「人間はなぜ哲学をするのか」
 上の方の記事のいくつかを読んだけれども、面白い。僕が言いたいこととか、考えていたこととか、表現したかったことの大半が含まれているんじゃなかろうか。だからといって、じゃあ、僕として表現することが完全に無意味かというと、そうではない。そうではないんだけれども、やっぱり、無力感を思ったりはする。

理想の生活について

 さて、2017年。
 長期休み……といっても、5連休であるが、ゴールデンウィークが迫ってきた。これはとても喜ばしいことである。わーい。
 しかし、特に予定がない。
 予定とは何か。仕事をしたり、旅をしたり、友人と遊んだり、趣味にいそしんだり、その他何かすることである。
 そういった予定が、何もない。

 僕はこれまで、「暇だ」という言葉を使ったことがなかった(少し大げさな書き方である)。
 独りで過ごすのも嫌いじゃあなかったし、何かしらすることがあった。実際、特に予定などなくても、時間はあっという間に過ぎていった。暇だ、なんて言葉を発する時間などなかった。

 しかし、たぶん、今度の休みは、とっても「暇」な気がする。仕事の予定もない。

 とはいえ、まぁ、無理やりでも予定をいれたら、簡単に時間を消費することは可能だろう。
 学生時代の夏休みのようである。

 しかし。なんといっても、「今が一番若いし、充実している」のである。

 だから、無為に過ごすのは、本当にもったいない。何かしなければ、何か充実させなければと、強く思う。


旅行とかイベントが重要なのか?

 しかし。ふと思う。
 何か人に語れるような何かが必要なのだろうか? 僕は今日目が覚めて思った。うん、そうだ、何もしないことだって、大事なんだ。

 問題は、何もしないとちゃんと自分で決めたことなのかどうか、である。

 ただ単に、漫然と時間を使ってしまったのであれば、後悔に他ならなかろう。


 GWとか、長期休みとなると、海外旅行とか、キャンプとか、何だかそんなアクティブなことをしなきゃならんとか、そんな風潮がある(気がする)。
 それはそれでいい。長い休みじゃあないとできないことってのはあるだろう。

 でも、それが、本当に自分がやりたいことなのか、否か。

 僕は思った。大事なのは、「いま、自分が一番やりたいことをやろう」ということだ。


 それって何か、を考えたとき、「理想の生活をする」という言葉が浮かんだ。


 いい音楽を聴く。いい作品に出会う。物語をかく。思考をめぐらす。筋トレする。坐禅する。ランニングする。朝起きて夜眠る。おいしいものを食べる。

 いい感じに引きこもりであるが、とても楽しそうである。


 これは、誰かに語れるような過ごし方ではないだろうが、しかし、老後を考える上でも重要に思える。

 仕事が定年を迎え、年金生活になったとき、どんな風に生活するのが楽しいだろうか。
 僕はその時も、ブログを書いているのだろうか。音楽を聴くことができているだろうか。小説を書くことができているだろうか。ランニングできているだろうか。思考するだけの知性が残っている(ボケていない)だろうか。

 その場に、伴侶とか友人といった存在を想定できていないところに、僕の頭がおかしい理由や根拠を求められそうであるが、それはまた別のお話である(ただ、このことも非常に重要な問題の一つである)。

何もしないためにすること

 さて、これにて、5連休は何もしないことに決定したわけであるが、これは、龍樹の四句否定ではないが、「何もしないために何かする必要がある」。

 矛盾するように聞こえるけれども、何もしないための目標が必要になる。

 ということで、一つ、小説を読もうと思う。もしこの記事を読んでくださった方がいたら、ぜひ、コメント欄等でおすすめの作品を教えていただきたい。(というかむしろ、どういった過ごし方をするのか参考に教えていただきたい)

 もう一つ、一般書を読もうと思う。そして、概念記憶を一つ増やそうと思う。

 もう一つ、音楽を一つ創ろうと思う。

 もう一つ、小説を一つ書きすすめようと思う。

 もう一つ、7時に起きて、23時前に寝ようと思う。

 もう一つ、料理をしようと思う。そして、一日三食食事をしようと思う。フルーツを食べようと思う。外食に出向こうと思う。

 もう一つ、買い物をしようと思う。鞄と靴が欲しい。漢字が似ている。

 もう一つ、坐禅を一日15分以上しようと思う。

 もう一つ、ルーチンを続けようと思う。

 もう一つ、ピアノで弾ける曲を増やそうと思う。

 もう一つ、日本株で購入したい銘柄を調べようと思う。

 もう一つ、ブログを書こうと思う。

 もう一つ、カラオケに行こうと思う。

 もう一つ、ボウリングに行こうと思う。

 もう一つ、……いやいや、まてまて、なんかいろいろやってんじゃねーか!

 そして、全部ひとりで可能なことであるという(かっこわらい)。

やりたいこと

 なんだろう。何故か、何かやりたいことを考えると、「誰かと一緒に」という発想がでてこない。
 何でだろう。
 学生時代は、なんやかんや、友人に誘われたりして遊びに行っていた。
 恋人がいた時代は、一緒に過ごしていた。
 会社の先輩たちから誘われて旅行にいったりしていた。

 でも、よくよく考えると、俺、自分から誰かを誘ったことって、あったろうか……。
 主体的に、俺が、誰かと一緒に何かしたいって思ったことって、あったんだろうか。
(完全に蛇足だけど、モテる人って、イケメンなのも一つの要素だけれど、「誰かと一緒に何かする」ことが上手い人なんじゃあないかと思ったりした)



 なんだ、ほんと、独身の人って、ふつう何して過ごしているんだろう。
 こうして、「特になんもすっことねぇなぁ」って人が、寂しさを覚えて、婚活とか友人誘ったりするんだろうが、どうも、あんまりそんな気が起きないんだよな。これは、僻みとか、単にチャレンジに臆病なだけとも解釈できるけれども、今の自分の中ではそんなに悲壮感がない。というより、なんだか、これ、むちゃくちゃ幸せなんじゃなかろうか。

 仕事から解放され、自由に使える時間と、お金がある。これほど恵まれたことはないのではなかろうか。

 次のゴールデンウィークが、僕の人生で、もっとも幸せな時間なんじゃあなかろうか。

(とか書いていると、マジで死亡フラグみたいで笑える、いや笑ってる場合じゃない!)

やるべきでないこと

 逆に、やるべきでないことも書いておこう。まずすぐさま浮かぶのは、

・ネットサーフィン

 である。まとめ系のサイトとかニコニコ動画とかって、ついついリンクたどってみてしまう。けれども、たいてい、何も残らない。刹那な感情の起伏のみだ。現に、今週も2~3時間費やしたような気がするが、まったく何をみたのかすら覚えていない。
(世界の奇人変人のニコ動は面白かった)

 パソコンを起動することや、ネット検索をすることは避けられないだろうが、余計サイトは一切みないことは徹底しよう。

・惰眠

 これは、致し方ない場合がある。創作活動とか、作業をしていると、どうしても、頭痛というか、眠気が襲ってくる場合がある。朝も活動にうつるまで、時間がかかる場合がある。
 これを防ぐには、強靭な意思力が必要だが、事前に、作業計画をインプットしておく必要がある。あとは、効率的に限定的な昼寝を組み入れるなど、対策が必要だろう。

・漫画

 漫画自体は駄目じゃあないんだけれど、これ、いつでも(精神力がないときでも、体力がないときでも、時間がないときでも)見れるので、敢えてやる必要がない。(そういや、先週は、ワンパンマンのリメイクがWEBで読めてしまって、ついつい最新話まで読んで夜更かししてしまった。)
 これは、それほど、やらないことにパワーは必要ないけれども、事前に取り決めしておかないと、気づいたら読みふけっていたという事態に陥ることは目に見えている。

・ゲーム

 これもダメじゃあないけれど、時間を決めてやろう。具合悪くなって、面白くはなくなったんだけれども、何となくやめられない状態に陥るのが、このゲームというジャンルはよくある。


 って。こうやって書いていると、小学生の夏休みの目標みたいだぞ! おい、いいのかこれで30代ッ!!


(もうちょっと休みが近くなってきたら、やること・やらないことをまとめて、紙に書き出しておこう)

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今日の一言「カテゴライズ、整理ってホント重要だな」「今の気分にぴったりの記事を人工知能的に提供してもらいたい」

2017年の目標

 少しずつ、少しずつだけれども、株式投資への意識付けは進んでいる。NISA口座開設にもまた住民票が必要とは思わなかった。先日平日に休みをとったなら、取りに行っておけばよかったよ。それはともかく、ある方が、初心者にも優しい解説してくれたり、分かりやすいサイトを紹介してくれたりとしてくれるので、大変ありがたい。多分その方がいなかったら、未だに口座開設もしてなかった気がするな。

 さて、2017年というよりも、3月の目標を立てようと、先日から試みているわけであるが、難航している。
 寝る前に思ったのだけれども、例えば、婚活とか人脈を広げるための作業(努力? なんといえばいいんだ? 単純に「行動」でいいのか)をするにあたって、このブログとかサイト運営とかどうしたらいいんだ?
 自己開示しなければ、「本気で他者と向き合って」みたいなことにはなり得まい。しかしながら、このぐちゃぐちゃーっとした状態の、思考の渦みたいなものの開示は、正直、お忙しい誰もがノーサンキューであるに違いない。これは自己卑下ではない。対面状況において、愚痴や悩みを延々と聞かされたら、恋人友人関係であったとしても、いずれ疲れ果ててしまうであろう。

 であるならば、やはり、ある程度、思考も生活も、整理できた状態であるのが望ましい。
 目標を立てなきゃ、と焦ってしまったが、落ち着こう。今年1月に立てた目標は何だ?

 今年は整理の年にしよう。

 というものであった。まぁ既に、今年も2か月を過ぎてしまったのだ。早いなぁ。
 本一冊読み終えるとか、目標を立てておいて本当に良かったと思う。そうじゃなきゃ、日々の生活に忙殺されて、何も成し遂げられなかったろう。

3月の目標

 さて、既に、3月に突入したわけであるが。
 言うまでも、書くまでもないことであるが、体調管理は基本である。

 一つ、ルーチンを追加しようか、禁欲と、23時以降のPC消灯。
 基本的に、消極目標は優先しないことにしていたが、最近、生活の乱れが(主に帰宅時間が遅いせいに思われるが)発生しているので、強制力を行使する必要もあるかもしれない。

 取りまず、3月の、1か月限定で施行してみよう。

 最近、料理もたまにしているが、3月には、4回程度実施してみよう。少ないな! しかし、ここ半年ぐらいでは、月に2~3回ぐらいしか料理をしていなかった気がする。そのうち、1回に2品(カレーとみそ汁とか、グラタンにカボチャの煮つけとか)は作るとか、グレードアップしてもいい気がするけれども、ま、いきなりレベルアップするのは難しい。少しずつ生活レベルを上げていく他ないのだ。

希薄な感情

 離人症的気分と表現してしまってよいけれども、何だか、全般的にやる気が起きない状況である。
 ただ、今まで考えると、よくあったことだろう。景気循環みたいに、躁モードと鬱モードが結構激しく訪れるのである。大局として見て、さて、今、すべきことは、と問おう。あんまり、流れにさからってもよくない。ギャンブルで損したからと言って、次で取り返そうみたいに思っても、失敗するのと同じである。

 かといって、鬱々と落ちていってもよくない。こういうときは、守りに入る。できる限り、日々の生活レベルを壊さないようにする。漸次、向上させられたら御の字ぐらいに。


 では、3月いっぱいかけて、4~6月の四半期の目標を立てる。(忘れてはならない、2017年の大目標は、「整理」(体系化)である)

 可能であれば、後期の目標も立てる。

 なんとも、のんびりであるが、これでいいだろう。いつも焦って、生活レベルも壊したり、ろくなことがない。漸次、漸次。

(追加ルーチンは、しばらく触れていかなければ、すぐに破られるだろう。習慣づけは初めが肝心である)

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今日の一言「連載といいつつ、まとめて書いてるよね」「ベースラインは整えておかないと忘れちゃうから……」

まずは求める生活から

 ここに二つの道がある。一つは、その「求めるもの」に対して、現実の変容を決意し、努力を重ねて、目標に到達する道である。もう一つは、その「求めるもの」について、再度解釈を試みること道である。
 一つ目の、現実へのアプローチについては、「専門性の取得」と、「彼女をつくる」という目標に具体化して、検討を加えた。結果的に、そこに至るには、「がむしゃらな行動(体験・経験)」が必要であり、思考的な納得をするには、未だ検討が不十分であることが分かった。

 それでは、二つ目の方策を検討していく必要がある。
 二つ目の方法とは、「その「求めるもの」について、再度解釈を試みること道である。」ということだが、これは、どういう意味だろうか?


 まずいきなり、壁にぶち当たるのだけれども、昨今の、感情等の希薄化問題がまとわりつく。
 これについては、日々の仕事の忙しさや、ルーチンの実施によって、何とか乗り切っているが、それもジリ貧なのは目に見えている。ある意味幸運で、ある意味崖っぷちなのは、離婚という生活基盤の変化によって、とどまるところがなくなっているということである。
 空虚な結婚という言葉があるかはわからないが、いかに問題があろうとも、その社会的制度がある場合においては、まずもって、その状態を修復することを試みるであろう。その意味で、独身生活は、明らかに便利(楽? といっていいのかわからないが、自由ではある)である。

 ゼロから考えることはできない。
 ブログタイトルを読み返してみよう。「離婚を突き付けられた30代男が、自己と仕事と家庭の総合から生きる意味を徹底して考えるブログ。」とある。
 ふーん、そうなんだ。と、俺のことなんだな、何か、他人事感があるな。

俺は誰だ?

 ここじゃない感。と表現すればよかろうか。

 うーむ……。

 俺が、成し遂げたいこととは何だろうか。
 と、書くと、先日コメント頂いたコメントが役に立ちそうに思える。

【その一】

 今回の例で言うと、「そもそも、最初からそのゴールを目指して走り出していたのか? 走り出した時点で想定するゴールは見通せていたのか?(=そもそもゴールがあるという前提のもとで走り出していたのか)」という部分自体が曖昧で、「とりあえず見えてきたゴールに、周りの人たち同様インすることはできる」としつつも「自分の思うゴールはこれとは何か違うんだよなぁ……」と、「一旦ゴールすることもなく、違うゴールを探しに別のルートに行ってしまう」といった印象で、逃げるというよりは、わざわざ険しい方に、遠回りするように、向きを変えて延々とゴールを探し求めて走り続けているような印象と言いますか。 
 私からすれば卑屈だなんて思う以前に、「自分から進んで走る距離を伸ばして凄いなぁ」ぐらいの感覚ですよ。 

 こちら、率直な意見を述べつつ、後段は肯定的に書いてくださっているあたり、大人と言うか、人格者に思える。こういう方、好きだ。
 でまぁ、後段に浮かれて浸っていても良いが、結局賞味期限がある感傷に過ぎないのであれば、むしろ、前段についての注釈解釈が必要である。

「そもそも、最初からそのゴールを目指して走り出していたのか? 走り出した時点で想定するゴールは見通せていたのか?(=そもそもゴールがあるという前提のもとで走り出していたのか)」

 ぐぬぬ……。
 くっそー! それが分かってりゃ苦労しねーぜ!!(かっこ笑い) 的な、感じである。
 いやはや、先日返信したように、全く図星をど突かれるとはこのことである。

 まぁ、若いうちはよかったことにしよう。がむしゃらに、ゴールなんて考えずに、思いつくままに駆け巡るってのも「あり」だろう。
 がしかし、もう、いい歳なのだ。アラサーになっても、少女系ファッションしてる痛い女性にはなりたくないのだ。40歳なっても、俺はミュージシャンになる! なんていって無職ヒモ生活しているような男性にはなりたくないのだ。

 と、こうやって、「なりたくない自分」を挙げていって、消去法的に目指す「ゴール」を明らかにしていく、という手法も、あることは、ある。


 ただ、この方法は、致命的な問題がある。世界は、広いのだ。攻殻の素子さんの言葉を借りれば、「ネットは広大だわ」みたいな。つまり、「消去!」「消去!」「消去!」と、デスノートばりに、ダメな自分像を消していったとしても、現実における選択肢は、中々に多様であるのである。
 もう一つ、こちらの方が致命的かもしれないが、消去法では、結局のところ、残ったいくつかの自分の中から、「じゃあこれにしよう」と、妥結したに過ぎないという思いが残ってしまう可能性があるのである。

【コメントその2】

遠藤さんは考えることが目的なんでしょうね。的を選ていると思います。 
これは私にも当てはまるんですが、結論を出さない議論を繰り替えしているんですよね。
科学者と哲学者の違いは「思考が結論を求めるか、求めないか」だと思っています。だとすれば我々は哲学者っていうことですね。
ちょっと思ったんですが、「生きる意味」について考える前に生きる意味とは何を指すのかについて定義してはどうでしょうか
「生きる意味」と言われても結構漠然としてて何かイメージできない。 
・死ぬまでに成し遂げたいこと 
・この世の中で果たす自分の役割(世界平和のためとかそういうの) 
・神様が自分を生産した理由 
ある程度具体的に定義しないと議論出来ないのでは?と今更ながら思ったんだ。 
別に正解なんて無いと思うし、いくつか定義してみてそれぞれについて考えてみてはどうでしょうか

 この提案も、素晴らしいツールとなった。頭がいい人なんだろうなぁと思った。それでいて押し付けがましくもなく、スマートである。こういう方、好きだ。

 この「生きる意味」であるが、フランクルさんの本を読んだ直近の今として浮かぶのは、「創造的価値」「体験的価値」「態度的価値」の、三つの価値に思われる。

 んで、すぐさま、僕のダメなところとしては、こういった三段論法的なものを出されると、すぐさま、「態度的価値」的なものが一番すごいんだ! 的に思うことである。そうじゃねーんだよ。「体験的価値」で挙げられている、音楽や芸術に触れて感動する、という、もうそれだけで、生きている意味があるってことである。優れた作品……何も劇団四季だとか、ミュージカルだとか、歌舞伎だとか落語だとか、伝統文化でなくてもよい、映画やアニメや漫画だって、ゲームだってよい。心打ちふるえる感動を、自らに引き入れることができたら、それだけで十分価値があることではあるまいか。
 そこで感じたことが、たとえ、すぐに時間とともに薄れゆくものだとしても、その瞬間起こった凛とした煌めきは、無かったことになるだろうか? いや決してそんなことはあるまい。

 仕事をして創造的価値を果たし、エンターテイメント作品に触れて感動を果たし、その繰り返しを積み重ねていくだけで、十分、人は、人として生きる意味があるのである。

創造的価値及び体験的価値に生きること

 上の、その2のコメントで重要なのは、もう一つある。「考えることそれ自体が目的であり、結論を求めていないのではないか?」ということである。

 これについては、追加のコメントにおいて、結論を出すということについては、「一次結論」と「二次結論」とに分類できるのではないかと触れた。二次結論とは、一次結論に対しての実践を指示・示唆する結論である。

 ……と、ここで時間切れである。

 うーむ。今回、このテーマに切り込むのは、何ともかなり精神的に削られる作業である。
 自分自身と向き合った文章を書くというのは、その表現がいかに拙くて、つまらなく、稚拙で、まどろっこしくても、疲れる作業だ。

 傍から見ると、アホちゃう? 状態であるが、残念ながら、これは、必要に迫られてやっているに過ぎない。そういう意味だと、「仲間」が欲しいなぁ……。「彼女」が欲しい、というのは却下されてしまったが、仲間が欲しい、ってのは、自然的ですぐさま承認されそうな感覚だ。

仲間をつくろう

 時間切れ、といいつつ、書き続けているが、一言だけでも、ベースラインを作りたい。
 なかまだなかま。ひらがなにすると間抜けにみえるな、ってそうじゃねえ。っと、恐ろしいこの、せっかくいいアイディアに思えたことが浮かんでも、「おめーさぁ、それって、仲間というより、自分を肯定してくれる「舎弟」みたいなの望んでるんじゃねーの? 教祖様になりたいんじゃないの?」みたいなことが同時に浮かびやがる! 何て奴だ! そうじゃねーんだよ、仲間だよ! 一緒になって、目的を果たそうと努力する仲間だよ!

「いやでもさ、結局、お前の言ってる「目的」ってのは、仏教的にいえば、「小乗」(個人の悟り)じゃねーか。例えば、お前のいう「仲間」ができて、一年ぐらい一緒に頑張って、結果、その「仲間」が先に「解脱」したら、お前、どう思うの?」

 えー……、そ、そりゃ、おめでとうって……「本当か?」 ――いや、もしかしたら、正直、悔しいなって、思うかも……。

 って、そんな、自己卑下、自虐しても意味無いじゃないか! もっと前向きにならなきゃだめだよ!


(といったところで強制終了。上の叫びは、虚しく響き渡るのであった)


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