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生きる意味を考える
2016/11/13 12:04 | Comments(0) | 生きる意味
最初の、一文字目が、中々浮かばない。近況をメモしておこうと思いながら、ああ、昨日は何もしなかったなという罪悪感が芽生える。やはり、最近過去の記事を読んでいても思ったことだけれど、昼まで寝ているとか、睡眠のリズムが狂うとよくない。よくないから、昨日は23時ぐらいに床について寝ようと試みたものの、今度は眠れない。じゃあ起きて何か活動できるほど元気か、というとそうではなく、何となく体のだるさと頭の痛さに苛まれる。

 日課、とはできないだろうけれども、この睡眠のコントロールというのも、一つ生活の一部に組み込む必要がありそうだ、と思いながら、過去の経験は、その失敗の数々、積みあがった屍の無量さにあきれ返るわけなのだけれども、それでも、このタイミングで一度問題提起としよう。

直近の振り返り

・ある女性の婚活ブログを読んだ
・ガンスリンガーガールの漫画とアニメをみた
・アイアムアヒーローの最新刊21巻を読んだ
・四諦と八正道の復習をした
龍樹の中論についてのホームページを見つけた
・合気道についての動画を見た

 これぐらいかなぁ。インプットも、アウトプットも微妙だ。風邪の具合はよくなった気がするけれども、金曜日は帰宅が遅く寝るのが遅くなった(といっても25時ぐらいには床に入った気がするが)ため、昨日は、9時ぐらいには目が覚めたものの、全般的なやる気が起きず、日課をやってからまた寝て、起きて簡単な料理をつくっては寝て、何かしなければ、何か考えなければと思いながら、何だかだるいなと寝て、の繰り返しであった。結果、夜、全然眠れず、今もまた、何だか身体がだるい状態である。

 そうだ、こういうときはカフェラテを作ろう。まぁ、コーヒーがエスプレッソじゃないから、カフェオレなんだけど、カフェオレっていうと、子供の飲み物というか、味が薄いというか、そんな印象が強いから、カフェラテって言ってしまう。これが見栄とか虚飾という奴なのだろう。誰に対して、というわけでもなく、自分に対して、という寂しいものだが。

 ――。

 うん、旨い。こんな簡単に作れるなら、昨日も飲めば良かった。牛乳のストックもあったわけだし。これを飲むか飲まないかで、昨日の時間の使い方が大きく変わった気すらしてならない。まぁ仕方がない、過去の過ぎ去った時間を後悔することは、僕の信念とかポリシーとか考えとか価値観とかその他もろもろに反するものである。というのは、単に自分への言い訳なんじゃね? という反転思考は無視しよう。

 近々、ある方の新しい作品が公開されるということで、楽しみでもある。

アイアムアヒーロー21巻の薄さ

 新しい作品というと、アイアムアヒーローは、相変わらず面白く、先が気になるところだが、アマゾンのレビューにおいて、「作品自体はよいのですが、値段が変わらず21巻は薄っぺらいので、出版社というか提供側のもうけ主義的なのが見え透いて評価☆1です」というのがあって(文意は捉えたつもりだが表現は僕の言葉で置き換えてあり全然違うと思う)、本屋さんで手に取ったとき、僕も、「ああ、ほんと、薄いなこれ(笑)」と思った。
 レビューを読まなければ気付かなかったかな? いや、きっと、僕も思っただろう、それぐらい薄い。本棚に並べてみると、やっぱり薄い(笑)。いや笑いごっちゃないかもな。何だか、連載の書籍って、巻数によって厚みが違うことは知っていたが、それは、最終巻をちょうどいい巻数(10巻とか20巻とか)にするため、最終巻が分厚くなっているとか、そういうことが多かったから、何だか中途半端なタイミングに薄っぺらいというのは珍しいなと思った。
 理由は、そのアマゾンレビューさんに、DVDとかグッズの販売タイミングに合わせたのだろうと書かれていて、ほー、そういうものなのか、と思った。よりもうけを出す、効果的に宣伝するというのは、間違いなく資本主義の方針として正しいものなのだろうけれども、やっぱり、印象は悪いよな。結局、ファンとしては21巻だけ買わないとか、そんな選択肢はないわけだから、ある意味強制徴収である。(この構造で、すぐ思いつくのは、ある放送局である)

書くべきことと書くべきでないこと

 ジレンマというのが、二つの事象があって、どちらを選んでも問題を避けられない、というような状態を示す。
 で、テトラ、というのが、ギリシア数字で、「4」を指すけれど、テトラレンマというのもある。四句否定、とも呼ばれる。

 肉体と精神は同一なのか、肉体と精神は同一でないのか、肉体と精神は同一であって同一でないのか、肉体と精神はどういつではなく同一なのか。

 A、Aの否定、AかつAの否定、Aの否定かつA。……よくわかんねーよ!(かっこ乾いたわらい)。
 ううん、「空の論理」という、中観派の思想に関する本を読んでいたときは、おお、なるほどな、となったのだけれど、今自分の言葉でアウトプットしようとすると、意味を成していない。


 この、自分の言葉でアウトプットできない、という状態のうちは、それは「理解」とは言えない。
 多く、本とか、人の話しとか聞いていて、「ああ、なるほどね」という感覚になることはあるけれども、その殆どが、自分の現在までの知識や経験に置き換えて「納得」したように感じさせているに過ぎず、完全に新しい概念を構築している瞬間ではない。

 そもそも、僕が他者との会話をあまり重要視しないのは、そのインプット性においてである、と言うと、ちょっと堅苦しくて、そもそも他者を蔑ろにするような言いぐさであり、「もうお前と何て話ししてやらねーぜ!」とか言われてしまうから、この表現はよくよく検討すべきなのだけれども、でも、ちょっと待ってくれ、僕が言いたいのは次のようなことだ。

記憶の仕組み

 いつものごとく、天才とか頭のいい人のことは除外する。
 ふつーのひと、もしくは、頭の回転が僕のように遅くて悪い人においては、一を聞いて10を知る、なんて無理である。
 いや、それはそれでちょっと待って欲しい。1を聞いて10を知るって、どういうことだ?
 つまり、その9というのは、「自分自身で考えたこと」ではなかろうか?
 つまり、きっかけは、その1を話してくれた人なのだろうけれども、結局、その人が話をしているうちに、頭のいい人は、とっくに自分の頭の中で他の9を創造しているということなのだ。

 であれば、「他者との会話をあまり重要視しない」と僕が上で表現したことは、むしろ、皆さんの周りにいる頭のいい方々こそそうである、とはいえないだろうか。――足りないな、表現が非常に足りない、もう少し書き進めよう。というより、頭のいい人のことはどうでもいい。


 記憶とはどのようになされるのか。
 面倒だけれども、繰り返し想起することによって、短期記憶から中期記憶へ、そして長期記憶となってそれはときに価値観とか信念とか言われる状態に遷移していくのである。
 
 ここで、先ほどの、他者との会話、について戻るけれども、人と話すことの有用性はもちろん計り知れないほど大きいものだから言うまでもなくて、僕が上に書き残そうと思ったこととしては、「全く新しい概念」について、他者から一度なり二度なり聞いたところで、それが自分自身のインプットとは成りえない、ということである。

 やっぱり、新しい概念については、苦労して、一人で、何度も繰り返して、ああでもないこうでもないと試行錯誤して、過去の経験や知識と照らし合わせながら、帰納的に否定を繰り返し、一つの名前を与え、概念としてインプットする必要があるのだと、そう思ったことを書いておこうと思ったのだ。


 ……ということを、例えば、口頭で表現したとしても、他者(ここでいう他者とは、自分も当然含まれる)に伝えることは困難であろう。こうして、文字として残すことで、少しばかり、結節点になるかならないか、という程度である。

仏典結集

 そう考えると、仏陀の言葉をまとめたスッタニパータとか、各地の弟子たちが集まって、あのとき仏陀はこうおっしゃった、あのように行動された、とか、長い時間をかけて話し合って、それをまとめ上げるという作業はとても困難で、大変なことであったのだろうと思う。
 人の記憶とは移ろいやすく、そのときの感情によってインプットが異なる場合もある。その人の用いる言葉の量や質、経験など、属人的な要素が多大に影響することだろう。

 ……と、ここまで書いて、あれ、僕は何をしようと思ってたのだ、と、はて分からなくなった。結集の歴史を調べようと思った? いや、あまり興味がわかない。何だっけ? 新しい概念をインプットするときの大変さと、その手順について考えようと思った? ああ、それは確かにメモしておこうと思った、けれど、何だ、指が動かない、頭が動かない、どうしたことだ?

 このとき、小見出し(H2)が役に立つ。


 ふむふむ、なるほど、書くべきことと書くべきでないこと、とな。


 そうそう、「理解」ということは何か、という復習をしようと思ったのだ。

理解すること

 人の会話に重要性を置かない、と敢えて、「人間嫌い」みたいな感情エラー(あってはならない、思ってはならないこと)の表現をしたのは、逆に僕が、他者の言葉や感情に対する感受性が高いことによる、デメリットを銘記する必要があると考えたからだ。

 いろんな本がある。いろんな言葉がある。いろんな人がいる。
 故に、その信念や価値観、感情といったものは多岐にわたり、色とりどりで複雑である。

 それに触れれば触れるほどに、僕は、「自分」というものがよく分からなくなっていく。いわゆる、八方美人的な、その場でその時その相手に対して「適切な」行動や言動を取らなければという制約を発するようになるのである。

 しかし、それは、往々にして決して「正解」なんて分からないものだし、すべての事象や対象において対応できるなんてことは不可能なのだ。
 だから僕は、これが初めてではなかろうが、今取り組むべきは、「自分」についての考察だと思うのである。

 ……ここで話を終えてしまえば、今までと何ら変わらないのであり、もう少し書き進めてみようと思う。さて、「自分」と何か、という、モラトリアム期の若者のような問いであるけれども、どこから解決の糸口を見出していけばいいのだろうか?


 それは、「理解」という概念が一つきっかけになるだろう。
 理解とは、ここまで書いてきた通り、単に、「ああ、なるほどね」となっただけでは不十分である。そのインプットしたことを、何も参照せず、いつどんなときも、不変に迅速にアウトプットできること、それが「理解」である。

 ではなぜ、その理解と自分とが関係するのだろうか。
 理解の総体が、自分であるといえるからである。

 人間とは、インプットとアウトプットの総体である。この定義によれば、人工知能(AI)もまた人間なのだろう。コンピュータは、基本的にインプットしかしない。もちろん、ディスプレイはユーザーに画像や文字をアウトプットしてくれるが、それは結局、コンピュータ内部での処理結果であり、アウトプット情報を用いるのは人間でしかない。人工知能がもし、人間に近づくことができるとしたら、その物理環境におけるインプットとアウトプットを繰り返し、相互行為の上発展させていくことができることに拠ることだろう。

 つまり、インプットしかできない人は、人ではない、ということである。
 すぐさま書いておくべきは、そのアウトプットというのが、決して、物理現実における、例えば対面コミュニケーションのみを指すのではない。別にこうやって、誰に聞かせるまでもなく、小さな辺境のブログにおいて書く行為であっても、それはアウトプットと言える。ただ、大学のレポートではないのだから、その他サイトや書籍の引用やコピーをしていてはダメだ。何にもよらず、ただ自分自身の思考のみで構築していく作業、それが理解としてのアウトプットである。

アウトプットすべきこと

 その理解というのは、いわゆる、知識、についての理解だけが重要なのでは無い。
 理解とは、生きるということに対する自らの思考の表現であるべきである。
 これは、宗教者としてのみ必要なものではない。
 最初に書いたある動画において、人が身体を考えて動かすときは、0.5秒のタイムラグが生じているのであり、武術においては、その0.5秒が致命的な遅れに繋がるという。考えて戦うのではなく、古い脳といわれる脳幹で、本能的に動くことができる方が圧倒的に強いということだ。

 僕は、決して、考えることがすべてにおいて優先される大切なことだとは思っていない。
 いやむしろ、その頭に生じる思考というものを嫌悪し、排除しようと試みたことすらある。そのうえで、やはり、「生きる」ということにおいては、その行為は無視できないものだと判断したのである。
 その相互結果として、自動筆記(これ、ヴィトゲンシュタインの流れで書いた記事があった気がしたけど、これ、シュルレアリスムの概念だよな)といった、むしろ思考を排したアウトプットを試みるものでもある。


 随分、「書くべきことと書くべきでないこと」という話しから長くなった気がする。そして、話しがそれていないだろうか。
 この疑義、これが結構大事である。アウトプットに任せてしまうと、どこまでも行ってしまうのであるが、それが果たして「正しい」方向に進んでいるかは分からない。それに、「待って、ちょっとまってよ~」というのが、「自分」という存在規定なのであるが、こう表現してしまうと、やはりそもそも、インプットもアウトプットも、相互密接に関連するものであり、分けられないものだと思われる。

空(シュニャーター)

 空(くう)とは、欠けていること、実体がないこと、を指す。しかし、無という概念とは異なる。ゼロは、確かに何もない状態を指すが、ゼロという概念は存在し、それゆえに1、2、3……という数量が存在する。
 すべては因縁(いんねん)、縁起といって、相互関連しあって存在するものである。真実不変の実体は存在しないが、だからといって、すべてが無であるというわけではないのだ、というのが仏教思想である。

 この概念に初めてふれ、「理解」※したのは、10年以上前になるけれども、これはやはりキリスト教とは全く異なる概念だと思う。
 本来、すべての宗教は人が幸福に善くなるために存在するものだと思うから、キリスト教もユダヤ教も、仏教もバラモン教もジャイナ教も、ゾロアスター教も、ヒンドゥー教もアニミズムも、そのすべてを否定する気はない。
 ただ、宗教については、何か「絶対的な概念」を尊重しそれを信仰するという在り方が多いと思われる。それを否定する気もないのだけれども、どうにも、それについては、僕の頭の在り方は、近しくなれないようであるというのが、10年ぐらいの結果として分かってきた。

 死後の世界だって、あった方がいいかもしれない。
 けれども、無かもしれない。そうそう、その死後は「無」である、というのも、相当に宗教的な考え方である、というある記事というかコメントを読んで、あーなるほどなぁ、と感心したのは最近のことだった気がする。

 その死後の世界とか、精神と肉体とは同一かどうかとか、そういうことについて、シッダールタさんは一切答えなかった。そのことを、「十無記」などと言われるそうだ。(前出の「空の論理」より)
 なんだか、潔いと感じないだろうか。分からないことは分からないんだぜ、という。尊者、真理に到達した人と呼ばれ、持ち上げられた人は、ついつい、思ってもないこと、思い付きで何か言いことを喋ってしまいそうである。でも、分からないことは分からないと、沈黙を貫くのである。この行動指針とか、見習うべきでなかろうか、ついつい、上司とか、親とか、立場が上の人は、分からないことを恥だとして、適当なことをその場しのぎで言ったりしがちだけれども、辞めた方がいいってことだ。すぐさま書いておくべきは、やっぱり、その立場において知っておくべきことってのはあると思う。例えば教師という立場において、勉強のこと何も知らないってのはおかしいわけだ。

※空の論理のことを、僕が学者的に、一般的に、正しく理解できているという傲慢では決して無い。ただ、ここまで書いてきた「理解」という定義――すなわち、自分の言葉で何も参照せずにアウトプット可能であったという事実――により、理解している、と表現した。

今後の指針

 御託は分かったけど、だから何だって言うんだ、と、未来の自分に言われそうだ。
 よく考えると、来週、再来週の休日はずっと予定が入っているのだった。こうしてじっくり思考に時間をまわせるのは昨日と今日ぐらいだった。そう考えるとやはり後悔が……いやいや、落ち着こう。

 とにかく、何か、数量的なやるべきことを定めておく必要がある。それを一般的に目標と呼ぶ。最近ブログを再開されたある方は目標を定められ、着実に成果を出しているようで、何とも焦燥感である。いやはや僕も、このブログ自体を、例えば、月の半分以上は書きます! とか目標を出していれば、十分すぎるほど達成であり、自己肯定感にひたれるはずだったのだ。
 だが、そんなことどこにも書いてないし、思ってもいない。むしろ、このブログは息するようなものだ、まぁそれはそれでいいのかもしれないが。
 そういう意味だと、日課を何とか、危機を乗り越え続けられているのは、プラス要素と言えるだろう。最近、暇があれば、「あ、ルーチンしなきゃ」と思うようになってきたから、いい感じと言える。しかし、カウンタみると、まだ26日なのか。次の危機はおそらく3か月後ぐらいになるだろうな。

 この前作ったライフチャートみても、長期的過ぎていまいち実感がわいてこない。

 これだ、これなんだ。なんというか、主体と客体という問題があって、このあたりがキルケゴールさんの素晴らしい業績なんだけど、客体的な問題(日本の政治とか世界の貧困だとか環境問題とかとっても重要な問題について)について考えているうちは、主体、自分自身の問題の逼迫した重さ、苦しさというものから少しばかり逃れることができるようになるのだ。
 ジョルジュバダイユさんの言う、「すべての芸術は死の恐怖からの逃避なのだ」というのも、言いこというよなぁと思わざるを得ない。

 空(くう)がどうたらとか、理解がどうたらとか、まぁしたり顔で語ってきたところで、それが何の主体的問題に役に立つのだろうか。(いや当然、役に立つとかいう次元ではなく、そもそも、自分自身についての定義をなさなければ、主体的問題も語りえないのであるから、必要なことであるのだけれど)

 だからだ、これから髪を切りに行って、食料を幾ばくか買い足して、お昼ご飯を何食べようかとか、部屋の掃除しなきゃとか、シンク周り磨きたいなとか、洗濯……は朝したからいいか、婚活するかとか明日の仕事の進め方……そりゃどうでもいいや、そろそろ何か「作品」に対しての行動したいなとか、……そういったことの積み重ねが、人生そのものだろう? と。

思考による逃げ

 物語が必要だ、と書いたのは、重大な知見の一つに思われる。

 自己卑下に苛まれて、自分はダメな奴だと言い聞かせて余生を送るのも一つだし、ポジティブ思考で何でも挑戦してやる頑張ってやるぞ! とキラキラ輝くのも一つだし、様々な物語がある。

 物語と書くと、またしても何だか、他人ごとのようで、客体的なことのようだけれども、これはそうではなく、主体的な物語を選択するべきだ、ということである。

 取りあえず、過去の様々なできごとなんて、別に関係ないだろう、と同時に、それは無かったことでも無駄でもあるまい。そのすべては事実であり、そして、重要性は帯びないのだ。重要性があるとしたら、その選択性においてである。






何のために生きるのか ずっと意味を求め続け
求める時間さえも 失われていくのか


 何のために生きるのか、何が大切なのか、何が必要なのか、……様々考えていくその瞬間も、時間は過ぎ去っていくのである。

がむしゃらに生きること

 かといって、ただ、がむしゃらに、日々の生活を忙しく、必死に生きるというのも、また違うと思う。(もちろん、これは一つの選択に過ぎず、全人類普遍のものとは思っていない)

 いい人生だった。我が人生に一片の悔いなしと、そう言い切れるような、積み重ねをしたいわな。

 そのためには何が必要か。ぱっと思いつくのは、

・仕事の成果
・人脈の多さ
・作品の数
・恋人の数
・子供の数
・ブログのPV
・趣味の数
・料理とかできることの数

 とか。ブレーンストーミングのため、批判せずに書いてみる。しかし、何か怪しいものも含まれてるな(笑)。嘘くせぇと自分でも思ったりする。

 何だろな、こうやって具体的にしようとすると、すぐに頭によぎるのは、「まぁ、俺別にいなくても世界困らないよな」という感覚。これが結構つらいものなのだ。
 それゆえに、若いころは、「恋人」という概念に結構期待して縋ったりしていた。この辺りが、「最終兵器彼女」という作品の面白いという感受性から悪害であるとの感覚への変化でもあるが。
 そりゃ、自分の遺伝子残せたら、それだけで生物としては勝ち組だよね。多けりゃ多いほどよいだろうよ。その結果の社会システムだ、というのもまた大分納得させられるものだ。

 いや、これはぶっちゃけ真理なわけであり、どんなに高尚な孤独の思想をうたったところで、生物論的にこられたら太刀打ちできないわけだ。故に、ここら辺、戦っても仕方がない分野である。それがいやなら、さっさと婚活して子供つくって養って死ねばいいのである。それが生きる意味でした~という、孫に看取られて死ぬ瞬間に、「ああいい人生だった喃」と言えば解決なのである。

 はたまた、人類の歴史に残る偉業を達成するか。歴史の教科書に載るようなことを成し遂げるのが生きる意味だというのか。

 それぞれ、事実だろう。

 それは、間違いなく、「意味」だろう。


 しかし、負け犬と謗られても、卑屈と罵られようとも、僕は、それらが、「自分の意味だったのか?」という疑問を投げかけようと思う。

 くだらない例えをもちだせば、鎌倉将軍の源頼朝の嗣子は、三代将軍実朝が暗殺されて途絶えたのではなかったろうか(特に調べてないし、他にも子供がいたような気がするから現代まで脈々と血が受け継がれているのかもしれない)。子孫を残す、という意味において、それは、一代だけ残せれば「意味」として感じられるのか、何百年とお家を存続させることが「意味」として感じられるのか、それもそもそも、その人次第ではなかろうか。

 歴史の教科書に載るという意味では、頼朝さんを知らない日本人は殆どいないだろうが、今後グローバル化がますます進んで、国家という概念がなくなるような未来がきたときに、「統一された世界の歴史教科書」においては、紙面の都合上掲載されない人たちがますます増えていくことだろう。専門的な学術書の一部には、自分の名前が掲載されているかもしれない、でも、そんな、ごくわずかな人にしか知られないような状態が、その人の本当の生きる意味、満足に繋がったことなのだろうか。もちろん、そのことをその人が知る由はないのだが……。

諸行無常

 この世のむなしさについて、適切に表現した最古の現存するものとは、やはりシッダールタさんの言葉と生き方なんじゃないかと、僕は思うので、これらについて、もっとインプットと「理解」を深めるために時間を使いたいと思う。

 この前のライフチャートにおいて、80歳を終点にしたのは、厚労省の生命表から平均余命を考慮してのものだったけれども、シッダールタさんの入滅も同じ歳だからというのもある。
 
 対照理解として必要になるのは、当然キリスト教やイスラム教のインプットも重要だ。専門性とは視野狭窄になることではなく、その普遍性の追究と思うのだけれど、まぁこれは理想であって、凡人の自分がどこまでできるかは分からないが、とかく、自分との折り合いをつけられるレベルまでは追究していく必要があるだろう。



 ので、上に挙げた、仕事とか人脈とか婚活とか、それはまぁ一つの手段として脇に置いておいて、やはり、信念や価値観といったものの強化を、しばらくの目標にしよう。目下、5年ぐらいのスパンとしよう。

 ああ、僕は、あれだな、面接なんかで、「尊敬する人物は誰ですか?」「生き返らせられるとしたら誰を生き返らせますか?」という問いに非常に悩んでしまうだろうが、今のこの感覚で言うと、シッダールタさんです、と素直に答えられそうだ。
 
 そう、だから、思うに、さっきの「歴史の教科書」問題じゃないけれど、名前が載るというのに、大した意味がないと、やはり僕は思っているのだ。
 重要性があるとしたら、その「考え方」とか、「教え」というのが残っていることの方が、よほど価値あることじゃあなかろうか、と。

 そうなってくると、話しが繋がってきて、やっぱり、「物語」って大事だよな、となる。
 その人の、誰か知らない人に対しても、心に突き刺さる、魂魄を揺るがすような、そんな物語が紡げたら、それは存在意義があったと、いえなかろうか。





 ……全然足りない。まだまだ表現すべきこと、書いておくべきこと、考えることがたくさんある。
 が、完全に時間オーバーだ。仕方がない、また夜にでも時間があれば続けたい。

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