今日の一言「理解してもらいたいという思いは充たされえるのか」
文章校正
http://www.kiji-check.com/
自分の書く文章が、どの程度正確なものか、だけでなく、難読とか意味が難しいものも指摘してくれるというのは中々興味深い。
↑をチェッカーにかけたら、「中々」というのが読みづらいというのと、「程度性格」というのが助詞不足と指摘された。
ほほー。「どの程度、正確なものか」と書いた方が確かに読みやすいね。
◎問題
特に解決しなくてよい。よくない状況や事象のこと。
◎課題
問題に対して、対応する必要があること。
という理解であったけど、そもそも合ってるんだっけか、と思って調べてみたのである。
ただ、勘違いとしては、「日本語」としての意味としては、それほど違いがない、ということである。あくまで、昨今のビジネス的な、一般認識的な、方向性においての話しだということである。
信号機の色を青・赤以外の色で言ってもよく分からないし、机と椅子といった物的名称を取り違えていた場合、正しく物事は伝わらない。
名詞に関するものは、それほど問題にならない。人の名前とか、地名とか、固有名詞について、人の認識相違が起こることは滅多にない。滅多にというのは、同姓同名とか、例外的な可能性だけなので、殆ど無視して構わない。
問題は、概念に関する認識・事象についての表現である。
ここで、「表現」という言葉を用いた。この表現というのは、ある物・事柄に対して、他者に伝わりやすいように説明をすることである。(←この文章は、僕のオリジナルなので、既にこれ自体が「表現」となっている)
辞書をひけば、良い表現があった、――あるものを「客観化すること」ということだ。
さて、上で書いた概念の認識・事象等の「問題」とは何か?
それは、概念的な「もの・こと」は、気付くと同語反復(トートロジー)になっている場合があるということだ。
実はノンバーバル(非言語)の方が重要なのだよ、というもの。(ただし、いかなる状況においてもこの法則があてはまるというわけではないことは、メラビアン本人も述べているということだというwiki参照)
ここで強調しておきたいこととしては、「言葉」そのものが、正確に他者に伝えられるわけではないということだ。
そしてその言葉の困難性は、問題や、表現したい事柄の抽象性が高くなるほどに(概念的になるほどに)増していくのである。
一生孤独で構わない、と思う人であっても、ただし、その「孤独で構わない」という感覚を、可能な限り多くの人に理解して欲しいと思うはずである。
(この意味においては、孤独な人に対して、憐憫の念を思うことは、甚だお門違いであるし、人間理解の不足であるし、傲慢な態度である。むしろ必要なのは、孤独であることへの共感である。)
一方で、孤独であることを肯定する人が、「実は君だって、みんなに分かってもらいたいんだよ」と言われたとしたら、何となく、違和感を思うことだろう。孤独であるというのは、他者との関係性に距離をもつことである。それを肯定するにも関わらず、理解を他者に求めるというのは、行動行為矛盾にならないだろうか?
僕がここで表現したいこととしては、孤独であることを望む人たちへの、共感が重要であるということだ。これは、孤独な人を邪険に扱うことをではない。つまり、「そっとしておいて欲しい」という気持ちなどへの理解を示すことである。
一つは、「言葉の意味と表現による他者への情報伝達の意義」について。(1)
二つは、「孤独という生き方の妥当性」について。(2)
相互に、同時に問題を書いているために、分かりづらくなっている気がする。
まずもって、問題意識としては、「自分の瞬間的な状態や感覚を、正確に他者に伝えることは困難である」という、前々からの「実感」における、他者への期待度の低下がある。
この他者への期待度の低下が、孤独への傾向を強める。この他者への期待度の低下が起きる理由は次の通りだ。
それは、この記事の問題の一つ目の、「正確な情報伝達の困難性」と、もう一つ、仮に正確に自分のことを伝えられたとして、それが自己救済に資することになるのか、という疑問である。
整理すれば、「理解してもらえない」ということ、諦めによって、孤独の方向へ向かってしまう人がいる(1)としたとき、その孤独という状態は悪いこと、ダメなことなのだろうか(2)、ということである。
ただし、逆に、この「実感」について、覆るようなことがあれば、「孤独に向かう」という(2)の問題は解決・緩解するのである。
さてここで、この理解してもらえないということについて、この「理解」という次元・レベル感を表現しておく必要に迫られる。
つまり、「正確な」と言ったところで、それが、何をもって正しいというのか、これ自体も、同語反復になるが、言葉の困難性故に結局不明なのである。
だって、日常生活を送るうえで、もしくは、社会生活を送るうえで、もしくは、集団、組織、国家とか世界とか、多くの秩序は成り立っている。「人は一人では生きていけない」という標語のように、人はお互い助け合って生きているのである。これはまた事実だ。これをもって、「理解してもらえない」ということは、矛盾した感覚ではないか、ということになる。
これに対しては、人間という存在に対しての立ち位置、考え、価値観によって異なってくるものだ。
人間社会を、「共同幻想的」と考えるのか、個人主義的な「分かる人と分からない人がいる」と分別して考えるのかによって、この問題のその人に対しての大きさが異なってくる。
ありがとうございます、いただきます、どういたしまして。
個々別の状況において、言語化し、「感謝」とか「嬉しい」とか、そういった「感情」を伝えることで、相互理解はどこまでも、可能である。
それでもなお、「理解してもらえない」という感覚が生じることを、「わかる人」と「わからない人」がいる。
精神医学的には、この程度が深まれば、おそらく病気と診断されるだろう。ただ、もはやこれは、傾向とか、タイプとか、一般化することで解決することができない問題である。これは、「実存」の問題だ。
ところで、こうした表現の積み重ねが、果たして、病気と診断されるようなものなのか、よく分からない。
ただし、「洗脳」的な方法以外において、この仮に病気としたときに、治療をするためには、恐らくこの表現の積み重ねが無い限りは、医師も治療を行えないであろう。
人生に意味はあるのか?
この問いについて、「ある」としておかなければ、すべてが無駄になってしまうから、「ある」のが真理にしかならないことは、僕だって分かっている。
生きていること自体素晴らしいことだ、嬉しいことだ、価値あることだ。分かっている、分かっていながら、「わかっていない」のだ。
これが、「実感」問題である。
いくら他者の言葉が素晴らしく、価値あるものだと思われて、正しくて、真理だと思っても、それを「実感」レベルに落とし込めなかった時の乖離、そのズレを無視して、いくら素晴らしい行為を積み重ねたところで、それは、基礎が柔らかな地盤に打ち付けられた高層ビルに過ぎないだろう。少しの拍子に、強風が吹いただけでも、倒れてしまうかもしれない。
正しい言葉など、何ら必要としていない。結論などどうでもいい。プロセス。過程だ。
何故、人生に意味はあるのか?
という問いこそが正しい。
人間とは、共同幻想の中に秩序を見出している。これは悲観的な表現にも見ることができるが、一方で、だからこそ、人が、一人一人が、価値ある存在であるともいえるのだ。
共同社会の中で生きることが正しいこと、価値あることなのだとすれば、その共同社会の規範や価値観に沿った人間になることが、まさしく真理で素晴らしいものになっていく。
けれどもそれは、一人の人間としての個性、人格を、同調・同一化していくことに他ならない。
思考停止して、全体主義的な方法で自己を救済することも可能だろう。それを明確に否定するための知識と思考を、今僕は持ち合わせていない。ただこれは、感覚的に、否、と僕は思う。
だから問いは、こうあるべきだ。
何故、僕の人生に意味はあるのか?
と。
(さぁ今週の課題まであと30ページ。頑張るか)
文章校正チェッカー
これは面白いなぁ。文章校正
http://www.kiji-check.com/
自分の書く文章が、どの程度正確なものか、だけでなく、難読とか意味が難しいものも指摘してくれるというのは中々興味深い。
↑をチェッカーにかけたら、「中々」というのが読みづらいというのと、「程度性格」というのが助詞不足と指摘された。
ほほー。「どの程度、正確なものか」と書いた方が確かに読みやすいね。
問題と課題の違い
なお、上のサイトを見つけたのは、「問題と課題の違い」という検索キーワードによる。◎問題
特に解決しなくてよい。よくない状況や事象のこと。
◎課題
問題に対して、対応する必要があること。
という理解であったけど、そもそも合ってるんだっけか、と思って調べてみたのである。
「問題」 発生している状況を示す。組織にネガティブな影響を及ぼすもの。「課題」 組織目標を達成するためにこれから成すべきこと。ポジティブに表現される。
つまり、「問題」があって、それに対する解決策が「課題」と言い換えることもできそうです。というわけで、まぁまぁ、合っていたかな、と思う。
ビジネスの現場における「問題」と「課題」
ただ、勘違いとしては、「日本語」としての意味としては、それほど違いがない、ということである。あくまで、昨今のビジネス的な、一般認識的な、方向性においての話しだということである。
正しい言葉を使うことと伝える技術
誰かに、何かを伝えようとするときに、正しい言葉・語彙を用いることは必須である。信号機の色を青・赤以外の色で言ってもよく分からないし、机と椅子といった物的名称を取り違えていた場合、正しく物事は伝わらない。
名詞に関するものは、それほど問題にならない。人の名前とか、地名とか、固有名詞について、人の認識相違が起こることは滅多にない。滅多にというのは、同姓同名とか、例外的な可能性だけなので、殆ど無視して構わない。
問題は、概念に関する認識・事象についての表現である。
ここで、「表現」という言葉を用いた。この表現というのは、ある物・事柄に対して、他者に伝わりやすいように説明をすることである。(←この文章は、僕のオリジナルなので、既にこれ自体が「表現」となっている)
辞書をひけば、良い表現があった、――あるものを「客観化すること」ということだ。
さて、上で書いた概念の認識・事象等の「問題」とは何か?
それは、概念的な「もの・こと」は、気付くと同語反復(トートロジー)になっている場合があるということだ。
同語反復とか無限遡及とか
アルバート・メラビアンの法則というのは、他者に情報を伝達する際に、言語が必ずしも重要ではないということを示した考えである。実はノンバーバル(非言語)の方が重要なのだよ、というもの。(ただし、いかなる状況においてもこの法則があてはまるというわけではないことは、メラビアン本人も述べているということだというwiki参照)
ここで強調しておきたいこととしては、「言葉」そのものが、正確に他者に伝えられるわけではないということだ。
そしてその言葉の困難性は、問題や、表現したい事柄の抽象性が高くなるほどに(概念的になるほどに)増していくのである。
自分の感覚や感情を完全に表現すること
自分を理解してもらいたいという感覚や感情は、誰しももつものだろう。一生孤独で構わない、と思う人であっても、ただし、その「孤独で構わない」という感覚を、可能な限り多くの人に理解して欲しいと思うはずである。
(この意味においては、孤独な人に対して、憐憫の念を思うことは、甚だお門違いであるし、人間理解の不足であるし、傲慢な態度である。むしろ必要なのは、孤独であることへの共感である。)
一方で、孤独であることを肯定する人が、「実は君だって、みんなに分かってもらいたいんだよ」と言われたとしたら、何となく、違和感を思うことだろう。孤独であるというのは、他者との関係性に距離をもつことである。それを肯定するにも関わらず、理解を他者に求めるというのは、行動行為矛盾にならないだろうか?
僕がここで表現したいこととしては、孤独であることを望む人たちへの、共感が重要であるということだ。これは、孤独な人を邪険に扱うことをではない。つまり、「そっとしておいて欲しい」という気持ちなどへの理解を示すことである。
孤独は問題なのか
この記事は、二つの問題を取り扱っている。一つは、「言葉の意味と表現による他者への情報伝達の意義」について。(1)
二つは、「孤独という生き方の妥当性」について。(2)
相互に、同時に問題を書いているために、分かりづらくなっている気がする。
まずもって、問題意識としては、「自分の瞬間的な状態や感覚を、正確に他者に伝えることは困難である」という、前々からの「実感」における、他者への期待度の低下がある。
この他者への期待度の低下が、孤独への傾向を強める。この他者への期待度の低下が起きる理由は次の通りだ。
それは、この記事の問題の一つ目の、「正確な情報伝達の困難性」と、もう一つ、仮に正確に自分のことを伝えられたとして、それが自己救済に資することになるのか、という疑問である。
整理すれば、「理解してもらえない」ということ、諦めによって、孤独の方向へ向かってしまう人がいる(1)としたとき、その孤独という状態は悪いこと、ダメなことなのだろうか(2)、ということである。
理解してもらえないことの正確さ
まず、(1)の問題、「理解してもらえない」ということは、言語表現の困難性という理由により、既に正しいことを述べた。ただし、逆に、この「実感」について、覆るようなことがあれば、「孤独に向かう」という(2)の問題は解決・緩解するのである。
さてここで、この理解してもらえないということについて、この「理解」という次元・レベル感を表現しておく必要に迫られる。
つまり、「正確な」と言ったところで、それが、何をもって正しいというのか、これ自体も、同語反復になるが、言葉の困難性故に結局不明なのである。
だって、日常生活を送るうえで、もしくは、社会生活を送るうえで、もしくは、集団、組織、国家とか世界とか、多くの秩序は成り立っている。「人は一人では生きていけない」という標語のように、人はお互い助け合って生きているのである。これはまた事実だ。これをもって、「理解してもらえない」ということは、矛盾した感覚ではないか、ということになる。
これに対しては、人間という存在に対しての立ち位置、考え、価値観によって異なってくるものだ。
人間社会を、「共同幻想的」と考えるのか、個人主義的な「分かる人と分からない人がいる」と分別して考えるのかによって、この問題のその人に対しての大きさが異なってくる。
ありがとうございます、いただきます、どういたしまして。
個々別の状況において、言語化し、「感謝」とか「嬉しい」とか、そういった「感情」を伝えることで、相互理解はどこまでも、可能である。
それでもなお、「理解してもらえない」という感覚が生じることを、「わかる人」と「わからない人」がいる。
精神医学的には、この程度が深まれば、おそらく病気と診断されるだろう。ただ、もはやこれは、傾向とか、タイプとか、一般化することで解決することができない問題である。これは、「実存」の問題だ。
一般化と実存
ものすごく、分かりやすく書いてきたつもり、であるが、しかし、書けば書くほどに、「乖離感」が強まっていく。いやーこれ、難しいだろうなぁ……。というのは、「難しいこと書いてる俺すげぇ!」という中二病的な感覚でも味わえたらいいのだが、残念なことに、ますますドツボにはまっていくというか、泥沼でもがくような感覚になるのである。ところで、こうした表現の積み重ねが、果たして、病気と診断されるようなものなのか、よく分からない。
ただし、「洗脳」的な方法以外において、この仮に病気としたときに、治療をするためには、恐らくこの表現の積み重ねが無い限りは、医師も治療を行えないであろう。
人生に意味はあるのか?
この問いについて、「ある」としておかなければ、すべてが無駄になってしまうから、「ある」のが真理にしかならないことは、僕だって分かっている。
生きていること自体素晴らしいことだ、嬉しいことだ、価値あることだ。分かっている、分かっていながら、「わかっていない」のだ。
これが、「実感」問題である。
いくら他者の言葉が素晴らしく、価値あるものだと思われて、正しくて、真理だと思っても、それを「実感」レベルに落とし込めなかった時の乖離、そのズレを無視して、いくら素晴らしい行為を積み重ねたところで、それは、基礎が柔らかな地盤に打ち付けられた高層ビルに過ぎないだろう。少しの拍子に、強風が吹いただけでも、倒れてしまうかもしれない。
正しい言葉など、何ら必要としていない。結論などどうでもいい。プロセス。過程だ。
何故、人生に意味はあるのか?
という問いこそが正しい。
一般化と還元論の危険性
もっといえば、ここで、普遍的な「意味」とか、真理というものを求めることについては、全く無意味だと、最初に排除しておく必要がある。人間とは、共同幻想の中に秩序を見出している。これは悲観的な表現にも見ることができるが、一方で、だからこそ、人が、一人一人が、価値ある存在であるともいえるのだ。
共同社会の中で生きることが正しいこと、価値あることなのだとすれば、その共同社会の規範や価値観に沿った人間になることが、まさしく真理で素晴らしいものになっていく。
けれどもそれは、一人の人間としての個性、人格を、同調・同一化していくことに他ならない。
思考停止して、全体主義的な方法で自己を救済することも可能だろう。それを明確に否定するための知識と思考を、今僕は持ち合わせていない。ただこれは、感覚的に、否、と僕は思う。
だから問いは、こうあるべきだ。
何故、僕の人生に意味はあるのか?
と。
(さぁ今週の課題まであと30ページ。頑張るか)
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今日の一言「苛々とか愚痴をさも一般論のように語るのは良くないな」「それもまた人間的にも思えますが」
それに対して、ある賢人たちからコメントを頂き衝撃的体験をすることで、ハッと、目を見開き、様々な考えが頭の中を巡った。
その結果、他のキーワード、例えば「人生の意味喪失」「生きがい」「人生の意義」など、切り口を変えることで、より自分が求める情報に近いものが得られるようになった。
まさにこのことに、僕の感じる疑問的な感覚、他者との理解可能性とか、人工知能による感情の理解とか、そういったことを覚える。そしてその、乖離(ズレ)的な感覚に、自ずからの個性や、その人の「生きる意味」に繋がるのではないかと思う。
これに対しては、まだまだ、言及が非常に足りていなくて、昨今というか、社会生活というものにおいては、「他者との乖離(ズレ)」を、できるだけ無くしていこうということが、求められるのである。いわゆるコミュニケーションの円滑化、的なものである。
語りつくされた言説だろうと思う。こんなことを、さも立派なことを書いてます的な風に書くことに、僕は何の意味も思えない。しかしながら、インプットという面では書かなければという思いと、もう一つ、ある精神科医さんが述べていたけれども、言語化することは、精神療法的(感情の取り扱い)にも大事なことなのだ、と。
例えば哲学、心理学、精神医学、文学、宗教。
人間の生きる意味への探求については、何も今に始まったことではない。
そして、それらの試みは、往々にして失敗に終わっているのである。いやそれはこれまた傲岸不遜、牽強付会か。確かに、ゴウタマ・シッダールタやエピクロスたちは、人生の中に「意義」をみつけ、充足した生活を永続して続けることができたことだろう。
自分も若いころ、といっても、主に10代から20代前半ぐらいだが、哲学や心理学や宗教社会学やら、先人たちの知恵から、「自分にとっての」生きる意味について、学び取ろうと試みた。そして、今をみてみれば、その殆どが既に忘却の彼方である(偉そうに書いているが、単にアホの表明だ!)。
さてこのこと(=忘れてしまうこと)は、それが即ち、真理へ到達できないということになるのだろうか。
で、あれば、すべての諸学問を、古今東西、すべてインプットしたうえでなければ、真理へ到達できず、ずーっとこれからも、悩み苦しみ続けるというのだろうか?
だとしたら、これから時代が進むにつれて、ますますこの世の中は生きることが困難になっていくに違いない。
なぜならば、これからも人間の知への探求は、衰えることがないだろうからだ。そして積み重なっていく知識。それを表面的に学ぼうとすれば、必ず誰かが、「古典にあたったのか」「原文はどうなっているのか」「出典は?」「ソースは?」と問いかけてくるのである。
(故に、この記事は――というよりも、このブログの殆どが、何か調べながら書くことをしていない。これは、単に文章を書くことの怠けだと揶揄されるのであるが、知識のコピペではなく、自分自身のインプット及びアウトプットへの問いかけという意味を重視したい故である。)
そのような集団の中で、自分は役に立っている、みんなのためになっている、嬉しい、楽しいという気持ちを醸成することができれば、それが拡大再生産されて、生きる意味を問いかけるような事態には陥らないだろう。
この意味において、「生きる意味、そんな問いかけが頭に浮かぶ時点で、その人は病的な状況である」とよく言われる所以である。この系統の生き方をする人たちにおいて、「生きる意味」への問いは、「感情エラー」なのである。
で、最初の小見出しに戻るが、グーグル先生は、その時代の多くの人たちの最大公約数的に役に立つ情報を、瞬時に提供してくれる。であるからにして、「生きる意味」という単一なキーワードにおいては、それに対する「一面的な答え」しか提供することができないのである。
いやもちろん、Aという情報に対して、そのAの否定の情報も、同時に提供はしてくれるだろう。ところが、その情報提供は、その時点で既に、かなり相当に、恣意的である。つまり、Aの否定というのは、結局のところ、Aという事柄の肯定のための、修飾語に過ぎないのである。
その前提において、やはり、そのローカルコミニティにおいて、全員がWIN-WINになる可能性は、100%にはならないだろう。もう一つあげれば、そのコミュニティ自体の永続性もまた、疑問符をつけざるをえない。
それは即ち、「生きがいの喪失」という事態を引き起こしかねない。
恋人にふられた、仕事をくびになった、愛する我が子を亡くした……それらはつらく苦しく哀しいことであるが、しかし、だからといって自死を選ぶしかないほど、人生の選択肢はないのだろうか。いや実際、多くの人は、多くの哀しみの経験を経ても、自死をすることはない。
だが一方で、若きウェルテルは、人生にもはや生きる意味を見いだせなくなってしまったのである(※2)。
このことが意味するのは、代替的な生き方をもたず、ただ真理(ここでいう真理は、ローカルコミュニティ内においてのもの)にそって生きていくというのは、幾分かの危険性をはらんでいるということである。
これに対しての処方は、ユーモア(=真剣に考えないこと)と、ひたすらにアンダーグラウンドに向かっていくことが考えられる。しかし後者は、結局のところ、そのアンダーグラウンドの場がコミニティとしての場として変貌する可能性をはらんでいるため、一時的な対処に過ぎないといえる(※3)。
前者の真剣に考えないこと、というのは、今、ここ、を、大事に生きていく、という方策でもある。今起こっていることを、積極的に認め、感じて、その些細なことについて幸せを感受していこうという方策である。
※1いつも書いていることだが、幸福と不幸と、どちらが良いですか? という問いに対して、不幸を選ぶ人はいない、そんな程度のことだ。もちろん、我が子を守るために身を犠牲にするというのは美談的な事実だろうが、それは、我が子を救うことが自らの幸せでもあるのだ(これは甚だ功利主義的な考えだが……)。このポジティブ、に対しての問題点は、その言葉の内在する意味が非常に不透明であるということだ(それを言ってしまえば、「生きる意味」という用語も実に中身が無い)。ただ、ポジティブ語を、その概念的な意味で捉えたとき、それはどこまでいっても、真理とてしか思えない、というわけである。
※2いや、文学的によく分からないけれども、その最期に、彼が逆に宗教的な実存というか美的感覚というか、幸福感や充足感を得ていた可能性だってあるだろうし、悪いこと、良いことの判断はここでは無価値だ。
※3先日書いたように、初音ミクが、最初はニコニコ動画の壱コンテンツに過ぎなかったのが、いつの間にか商業的にも大ヒットした。
この状態において、僕は、これまで、「今、ここ」を重視せよという言説を鵜呑みにして、「まぁ、今がよければいっかぁ。頑張るってことは良いことなのだなぁ」と思って、取りあえず「考える」ことを脇においていた。(20代後半あたり)
まぁ、多分、これを「よし」とすれば、このまま10年ぐらいは今のままで生きていくのだろう。多分それなりに大丈夫なのだろう。
だがこれは失敗だったと言ってよい。「生きる意味」をわきにおいて、取りあえず生きることによって、いずれその意味が喪失して、「普通の人」として生きることができるのだろうと、そういった方針だった。
「お前は間違ったんじゃない、失敗したんだ」というのは、Fateのシロウ君のセリフだということだが、これについては、やっぱり、失敗かつ間違ってたんじゃないかなぁと思わざるをえない。
……いや、まぁ、まてまて、これについては、もう少し、しっかりと考えておく必要がある。単純な過去の否定は、何も生まない。それに、今の自分が、「すっかりいっさいがっさい」忘れてしまっているからといって、昔の自分は、もっと今の自分より知識があったろうし、そのうえで、「もう考えるのやめた!」という結論だったのかもしれない。
だから、上の記述は、取りやめである。間違いだ。
けれども、一時的にでも、そう思ってしまった(過去を否定したい気持ちになった)ことは残しておいた方がよいだろう。
というのも、まさにこの記事で確認しておくべきは、その「生きる意味を考えなくても忙しい毎日に身を投じていればそのうち全ての問題が雲散霧消するよ」(※)ということは、無い、ということである。
※まさに、先日の頂いたコメントにおいて指摘されたように、この「生きる意味」という語の内在性、中身、がとても空虚であることは否めない。というよりも、「定義」という行為、語が、概念の入れ物(容器)なのだとしたら、僕のこの言葉の容器は、穴だらけなのである。
であるからにして、いくら「今、ここ」として忙しさに身を投じて頑張ったとしても、次から次へと水がこぼれていって、溜まることが無いのである。
グーグル先生の検索批判
先日、「生きる意味」というキーワードで調べると、どうにも「くだらない」情報ばかりで、辟易してしまう、と書いた。それに対して、ある賢人たちからコメントを頂き衝撃的体験をすることで、ハッと、目を見開き、様々な考えが頭の中を巡った。
その結果、他のキーワード、例えば「人生の意味喪失」「生きがい」「人生の意義」など、切り口を変えることで、より自分が求める情報に近いものが得られるようになった。
まさにこのことに、僕の感じる疑問的な感覚、他者との理解可能性とか、人工知能による感情の理解とか、そういったことを覚える。そしてその、乖離(ズレ)的な感覚に、自ずからの個性や、その人の「生きる意味」に繋がるのではないかと思う。
これに対しては、まだまだ、言及が非常に足りていなくて、昨今というか、社会生活というものにおいては、「他者との乖離(ズレ)」を、できるだけ無くしていこうということが、求められるのである。いわゆるコミュニケーションの円滑化、的なものである。
語りつくされた言説だろうと思う。こんなことを、さも立派なことを書いてます的な風に書くことに、僕は何の意味も思えない。しかしながら、インプットという面では書かなければという思いと、もう一つ、ある精神科医さんが述べていたけれども、言語化することは、精神療法的(感情の取り扱い)にも大事なことなのだ、と。
厖大なインプットへの恐怖
それで、ネット情報というか、まぁネットに限らず、すべてのこれまでの人間の知識の蓄積。例えば哲学、心理学、精神医学、文学、宗教。
人間の生きる意味への探求については、何も今に始まったことではない。
そして、それらの試みは、往々にして失敗に終わっているのである。いやそれはこれまた傲岸不遜、牽強付会か。確かに、ゴウタマ・シッダールタやエピクロスたちは、人生の中に「意義」をみつけ、充足した生活を永続して続けることができたことだろう。
自分も若いころ、といっても、主に10代から20代前半ぐらいだが、哲学や心理学や宗教社会学やら、先人たちの知恵から、「自分にとっての」生きる意味について、学び取ろうと試みた。そして、今をみてみれば、その殆どが既に忘却の彼方である(偉そうに書いているが、単にアホの表明だ!)。
さてこのこと(=忘れてしまうこと)は、それが即ち、真理へ到達できないということになるのだろうか。
で、あれば、すべての諸学問を、古今東西、すべてインプットしたうえでなければ、真理へ到達できず、ずーっとこれからも、悩み苦しみ続けるというのだろうか?
だとしたら、これから時代が進むにつれて、ますますこの世の中は生きることが困難になっていくに違いない。
なぜならば、これからも人間の知への探求は、衰えることがないだろうからだ。そして積み重なっていく知識。それを表面的に学ぼうとすれば、必ず誰かが、「古典にあたったのか」「原文はどうなっているのか」「出典は?」「ソースは?」と問いかけてくるのである。
(故に、この記事は――というよりも、このブログの殆どが、何か調べながら書くことをしていない。これは、単に文章を書くことの怠けだと揶揄されるのであるが、知識のコピペではなく、自分自身のインプット及びアウトプットへの問いかけという意味を重視したい故である。)
70億人のうちの一人としての生き方
恐らく、単純な生き方として有効なのは、ローカルなコミュニティの中で、ひたすら自己実現と貢献心をみたしていくやり方である。ローカルなコミュニティというのは、会社組織や、家族、友人、サークル、地域など、物理的接触を基礎とする集団内であると、ここでは定義しよう。そのような集団の中で、自分は役に立っている、みんなのためになっている、嬉しい、楽しいという気持ちを醸成することができれば、それが拡大再生産されて、生きる意味を問いかけるような事態には陥らないだろう。
この意味において、「生きる意味、そんな問いかけが頭に浮かぶ時点で、その人は病的な状況である」とよく言われる所以である。この系統の生き方をする人たちにおいて、「生きる意味」への問いは、「感情エラー」なのである。
で、最初の小見出しに戻るが、グーグル先生は、その時代の多くの人たちの最大公約数的に役に立つ情報を、瞬時に提供してくれる。であるからにして、「生きる意味」という単一なキーワードにおいては、それに対する「一面的な答え」しか提供することができないのである。
いやもちろん、Aという情報に対して、そのAの否定の情報も、同時に提供はしてくれるだろう。ところが、その情報提供は、その時点で既に、かなり相当に、恣意的である。つまり、Aの否定というのは、結局のところ、Aという事柄の肯定のための、修飾語に過ぎないのである。
零れ落ちた感情の掬い方
決して、僕は、現実肯定的な生き方を否定するのではない。哲学的に生きることなど、正しいと思っているわけではないし、今、ここ、を大事にするという考え方だって共感するものがあるし、そもそも、僕はポジティブでしかありえない(※1)と思っている。その前提において、やはり、そのローカルコミニティにおいて、全員がWIN-WINになる可能性は、100%にはならないだろう。もう一つあげれば、そのコミュニティ自体の永続性もまた、疑問符をつけざるをえない。
それは即ち、「生きがいの喪失」という事態を引き起こしかねない。
恋人にふられた、仕事をくびになった、愛する我が子を亡くした……それらはつらく苦しく哀しいことであるが、しかし、だからといって自死を選ぶしかないほど、人生の選択肢はないのだろうか。いや実際、多くの人は、多くの哀しみの経験を経ても、自死をすることはない。
だが一方で、若きウェルテルは、人生にもはや生きる意味を見いだせなくなってしまったのである(※2)。
このことが意味するのは、代替的な生き方をもたず、ただ真理(ここでいう真理は、ローカルコミュニティ内においてのもの)にそって生きていくというのは、幾分かの危険性をはらんでいるということである。
これに対しての処方は、ユーモア(=真剣に考えないこと)と、ひたすらにアンダーグラウンドに向かっていくことが考えられる。しかし後者は、結局のところ、そのアンダーグラウンドの場がコミニティとしての場として変貌する可能性をはらんでいるため、一時的な対処に過ぎないといえる(※3)。
前者の真剣に考えないこと、というのは、今、ここ、を、大事に生きていく、という方策でもある。今起こっていることを、積極的に認め、感じて、その些細なことについて幸せを感受していこうという方策である。
※1いつも書いていることだが、幸福と不幸と、どちらが良いですか? という問いに対して、不幸を選ぶ人はいない、そんな程度のことだ。もちろん、我が子を守るために身を犠牲にするというのは美談的な事実だろうが、それは、我が子を救うことが自らの幸せでもあるのだ(これは甚だ功利主義的な考えだが……)。このポジティブ、に対しての問題点は、その言葉の内在する意味が非常に不透明であるということだ(それを言ってしまえば、「生きる意味」という用語も実に中身が無い)。ただ、ポジティブ語を、その概念的な意味で捉えたとき、それはどこまでいっても、真理とてしか思えない、というわけである。
※2いや、文学的によく分からないけれども、その最期に、彼が逆に宗教的な実存というか美的感覚というか、幸福感や充足感を得ていた可能性だってあるだろうし、悪いこと、良いことの判断はここでは無価値だ。
※3先日書いたように、初音ミクが、最初はニコニコ動画の壱コンテンツに過ぎなかったのが、いつの間にか商業的にも大ヒットした。
今後の方針の確認
最近、家に帰ると23時か24時を過ぎていて、平日に殆ど書く時間がない。まぁ換言すれば、仕事が充実しているといえる。対人関係も良好である。生きていく上で事欠かない。換言すれば、忙しくて疲れる、ということである。この状態において、僕は、これまで、「今、ここ」を重視せよという言説を鵜呑みにして、「まぁ、今がよければいっかぁ。頑張るってことは良いことなのだなぁ」と思って、取りあえず「考える」ことを脇においていた。(20代後半あたり)
まぁ、多分、これを「よし」とすれば、このまま10年ぐらいは今のままで生きていくのだろう。多分それなりに大丈夫なのだろう。
だがこれは失敗だったと言ってよい。「生きる意味」をわきにおいて、取りあえず生きることによって、いずれその意味が喪失して、「普通の人」として生きることができるのだろうと、そういった方針だった。
「お前は間違ったんじゃない、失敗したんだ」というのは、Fateのシロウ君のセリフだということだが、これについては、やっぱり、失敗かつ間違ってたんじゃないかなぁと思わざるをえない。
……いや、まぁ、まてまて、これについては、もう少し、しっかりと考えておく必要がある。単純な過去の否定は、何も生まない。それに、今の自分が、「すっかりいっさいがっさい」忘れてしまっているからといって、昔の自分は、もっと今の自分より知識があったろうし、そのうえで、「もう考えるのやめた!」という結論だったのかもしれない。
だから、上の記述は、取りやめである。間違いだ。
けれども、一時的にでも、そう思ってしまった(過去を否定したい気持ちになった)ことは残しておいた方がよいだろう。
というのも、まさにこの記事で確認しておくべきは、その「生きる意味を考えなくても忙しい毎日に身を投じていればそのうち全ての問題が雲散霧消するよ」(※)ということは、無い、ということである。
※まさに、先日の頂いたコメントにおいて指摘されたように、この「生きる意味」という語の内在性、中身、がとても空虚であることは否めない。というよりも、「定義」という行為、語が、概念の入れ物(容器)なのだとしたら、僕のこの言葉の容器は、穴だらけなのである。
であるからにして、いくら「今、ここ」として忙しさに身を投じて頑張ったとしても、次から次へと水がこぼれていって、溜まることが無いのである。
今日の一言「何を書こうか漠然としたまま書き進める」「面白い記事になるかは博打だね」
LONGMANという英英辞典で、定義=definitionを引くと、
a phrase or sentence that says exactly what a word, phrase, or idea means .
ということである。
僕の英語力は乏しいが、「言葉や、単語や、概念を正確に言い表す、単語や文のこと」ということで大体あっているだろう。
日本語の辞書を引けば、
物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること。
GOO辞書
ということである。なるほど「区別」ね。言及したいことと、そうでないことを、明確に分けること。そう定義とは、「分析」、物事の最小単位に分けていく作業であるといえるのではなかろうか。
(多分、真面目に取り組みたいなら、論理学とか学ぶとよいと思う)
ところで、こういった言葉を定義するということについて、僕は一時期面白くて結構やっていたけれども、ふと思ったことがあった。
その言葉そのものの定義について、実際に他者と、明確な共有は可能なのか、という疑念である。これは、同じものを、同じものだとして認識できるのか、という感覚であったのだけれども、「クオリア」という概念を知ったときに、「ああ、そうそう、そういうことを言いたかったんだよ」と思って、取りあえず自分の中では解決した。
(その解決というのは、「人は同じものを同じものだとして認識しているとは限らない。しかし、『教養』を学ぶことで、『同じ』として協調し作業することは可能となっている」というもの。この人間観というか、自然観というか、社会観が、果たして正しいかどうか、ポジティブなのかネガティブなのか、役に立つのか立たないのか、変えるべきなのかそのままでいいのか、――分からない。ただ、これは僕の言葉で言うところの、「実感レベル」の理解となっているため、今時点で問題になることはない)
小見出しの疑念として、ここで書いておきたかったこととしては、明確な言葉の定義は、時として、「実感」を離れて、「他者との共有」を離れていくことがある、ということだ。いや、ここで、頭の良い人とか、ロボット的な思考は、対象としていない。ごくごく一般的な、どちらかというと僕のようにアホに近い人の話しである。というのは、慇懃無礼な書き方だけれども、つまり、あんまり専門的になっていくと、どんどんよく分からなくなっていく、ということだ。
このことについて、いわゆる「できる」人は、すぐに、「努力不足」とか、「優生学」的な、そんな感情を覚える。がんばれば、何だってできる、と。「バカの壁」という本があって、あんまり好きではないのだけれど、一つその本で言いたいこととして、「理解可能性」についての言及については、僕は同意しているところである。もちろんここで、先日書こうとして、衝撃的体験故に完全に優先度が下がってしまった、「身体的限界性」「時間的限界性」「物理的限界性」の、三つの限界性を取り除けば、どんな人とでも共有し理解し合える可能性があると思う。しかしこれは、くだらない思考実験にすらならない、無駄な考えである。
ただ、最初の小見出しで書いたことについて、即ち、「厳密な定義の限界による不可能性」を、忘れてはならないと思う。
ところで、その、定義の必要性の提案のおかげで、そもそも僕は、「目的喪失」というキーワードの方が近いのではないか、と思ったわけだ。
その結果、色々グーグル先生と会話してみると、「ロゴセラピー」「ヴィクトール・エミール・フランクル」というキーワードに出会うことができた。
ロゴ、というのは、ギリシア語で、「意味」であり、意味を求める、見つけるための精神療法であるということだ。これについては、先日購入した書籍を一通り読んで見たいと思う。4000円もしたしな。いやはや分厚いな! サピエンス全史の下巻もまだ読めてないのだが……。
本を読んでいて、読み進めていくうちに、だんだんよく分からなくなってきた、という経験が、きっと誰しもあることだろう。
それは、どこかしら、徐々に、その書いてある言葉の意味を、取り違えている場合に発生するのである。何となく言っていることは分かる、というのは、実は、「言葉を追っているのではなく、自分の考えを追っているのである」。
ちなみに、常日頃、アウトプットとインプットが重要だ、と言っているが、インプットが十分でなければ、本は読めない。もっというと、人とも会話ができない。
そしてインプットとは、アウトプットと両面性がある。表裏一体とでもいえばよいか。アウトプットできない知識は、インプットできているとは言えない。そのアウトプットが、他者に伝えられるレベルかどうか、というのは重要ではない。それは、結局その相手、他者の理解可能性の問題が発生するからであり、「自分自身の言語」としてアウトプットできるのであれば、それは、インプットができている、といえる。故に、辞書とか、ネット検索とかで調べて、コピペで紡ぐ言葉に、僕は意味を見いだせない。
稚拙な表現だって良いじゃないか。かっこいい言葉を書けなくたっていいじゃないか。ブログを書けない、と、すぐに投げ出してしまう人は多いけれども、それは、「自身の言葉」が枯渇してしまったからだ。(つーか、コピペとか面白くねーじゃん、と僕は思うのだけど、まぁ、それでブログ収入とか、「お金」という動機がメインの人は、それはそれでいいのだろう。ただ思うに、そんな努力するなら、ふつーにバイトとかした方が実は、時間対効果は高いのだけれど)
ええと、上は、自分の言葉をインプットすることの重要性……みたいな内容になった。そうじゃなかった、「意味」とはなんじゃ? ということだ。
意味は、意味だよバカ野郎! と、上手く説明できん。
おー、何だかわかりやすい気がする。気がする、が、じゃあ、僕がこれまで使っていた「意味」という語は、1~4のどれなのだろう?
2……いや3かな? 存在の必要性や理由、ということだろうか。理由、としてしまうと、これまた抽象的な言葉遣いなので、「必要性」、必要性ね。ということは、生きる意味といったときに、それは主語として、「私の生きる意味」となるから、換言すれば、「私の生きる必要性」ということになる。
え! なんか違うくないか?!(かっこ笑い) という気持ちが起こる。しかし、明瞭に否定しようとすると、悩ましい。
ちょっとここから進める前に、では「生きる」とは何か。
これもまた、難しい。人はただ食べるために生きるにあらず、とか言ったとして、じゃあ、何だよ、と。むしろこれは、僕は、不要な定義部分に思う。というのは、その「意味」ということの希求なのであって、「生きる」という語自体は、その「結果」に過ぎないと思うのだ。
目的と結果が逆転しているように思うのだ。つまり、「意味」が明らかになることによって、それ自体が「生きる」ことの定義になるのだ、ということである。
(↑言ってること分かるだろうか? 明日の自分が理解してくれる気もあまりしない。ちなみにこれも蛇足で、これまで書いていなかったけれども、僕のブログが誠実なのは、そのすべてにおける言語表現において、僕は、僕自身として理解している語しか使っていない、ことである(ちょっと大げさである。文脈上の例外は許して頂きたい)。よく分からないことは、分からないそのままとして書いている、ということだ。できる限り、「実感言語」で書いている、ということだ。そして、大体他の方のブログなど読んでいると、「実感言語」なのか、そうではないのか、何となく読み取れる。そして、実感言語でない表現……反義語として、「コピペ」とすれば、どちらが面白いか面白くないかは、明白である。)
ので、「生きる」ことの定義は今は不要としよう。
違和感というよりも、むしろ、鋭敏な表現になったことによって、僕が恐れていることが少し浮き彫りになったのではないか。
つまり、この厖大な世界の中で、大勢の人の中で、複雑な社会や自然のなかで、僕一人という存在の「必要性」など、あろうはずがないのだという、その「実感」。
これが、最初に表現した、「目的喪失」ということになるのである。
と、言うことを、件の、ロゴセラピーというか、フランクルさんは問題視して、それについての解決策というか、療法をまとめてくださったということなのである。
2017年の目標として、思考の体系化を図る、としたわけだけれども、その具体的な方法としては、こうした何らかの専門書に準拠した形で、それについての「理解」に努め、同時にそれとの「距離感」(違和感)について、明確にしていく(定義する)作業を行う、ということである。
phrase=単語、句、言葉のまとまり
sentence=文、文法
定義とその伝わり方
この記事、多分面白くないだろう。ただ、今後の方策を固めていくうえで、基盤としての役割の一部は果たすだろうと思われる。LONGMANという英英辞典で、定義=definitionを引くと、
a phrase or sentence that says exactly what a word, phrase, or idea means .
ということである。
僕の英語力は乏しいが、「言葉や、単語や、概念を正確に言い表す、単語や文のこと」ということで大体あっているだろう。
日本語の辞書を引けば、
物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること。
GOO辞書
ということである。なるほど「区別」ね。言及したいことと、そうでないことを、明確に分けること。そう定義とは、「分析」、物事の最小単位に分けていく作業であるといえるのではなかろうか。
(多分、真面目に取り組みたいなら、論理学とか学ぶとよいと思う)
ところで、こういった言葉を定義するということについて、僕は一時期面白くて結構やっていたけれども、ふと思ったことがあった。
その言葉そのものの定義について、実際に他者と、明確な共有は可能なのか、という疑念である。これは、同じものを、同じものだとして認識できるのか、という感覚であったのだけれども、「クオリア」という概念を知ったときに、「ああ、そうそう、そういうことを言いたかったんだよ」と思って、取りあえず自分の中では解決した。
(その解決というのは、「人は同じものを同じものだとして認識しているとは限らない。しかし、『教養』を学ぶことで、『同じ』として協調し作業することは可能となっている」というもの。この人間観というか、自然観というか、社会観が、果たして正しいかどうか、ポジティブなのかネガティブなのか、役に立つのか立たないのか、変えるべきなのかそのままでいいのか、――分からない。ただ、これは僕の言葉で言うところの、「実感レベル」の理解となっているため、今時点で問題になることはない)
小見出しの疑念として、ここで書いておきたかったこととしては、明確な言葉の定義は、時として、「実感」を離れて、「他者との共有」を離れていくことがある、ということだ。いや、ここで、頭の良い人とか、ロボット的な思考は、対象としていない。ごくごく一般的な、どちらかというと僕のようにアホに近い人の話しである。というのは、慇懃無礼な書き方だけれども、つまり、あんまり専門的になっていくと、どんどんよく分からなくなっていく、ということだ。
このことについて、いわゆる「できる」人は、すぐに、「努力不足」とか、「優生学」的な、そんな感情を覚える。がんばれば、何だってできる、と。「バカの壁」という本があって、あんまり好きではないのだけれど、一つその本で言いたいこととして、「理解可能性」についての言及については、僕は同意しているところである。もちろんここで、先日書こうとして、衝撃的体験故に完全に優先度が下がってしまった、「身体的限界性」「時間的限界性」「物理的限界性」の、三つの限界性を取り除けば、どんな人とでも共有し理解し合える可能性があると思う。しかしこれは、くだらない思考実験にすらならない、無駄な考えである。
ロゴセラピー
こんな文脈で書けば、「生きる意味を、まずは定義してはどうか?」という提案に対しての、否定のように思われる。そういうつもりではない。いやむしろ、どちらかというと、大好きな方だ(かっこ笑い)。ただ、最初の小見出しで書いたことについて、即ち、「厳密な定義の限界による不可能性」を、忘れてはならないと思う。
ところで、その、定義の必要性の提案のおかげで、そもそも僕は、「目的喪失」というキーワードの方が近いのではないか、と思ったわけだ。
その結果、色々グーグル先生と会話してみると、「ロゴセラピー」「ヴィクトール・エミール・フランクル」というキーワードに出会うことができた。
ロゴ、というのは、ギリシア語で、「意味」であり、意味を求める、見つけるための精神療法であるということだ。これについては、先日購入した書籍を一通り読んで見たいと思う。4000円もしたしな。いやはや分厚いな! サピエンス全史の下巻もまだ読めてないのだが……。
生きる意味の定義
そもそも、「意味」とはなんじゃい? ということになる。本を読んでいて、読み進めていくうちに、だんだんよく分からなくなってきた、という経験が、きっと誰しもあることだろう。
それは、どこかしら、徐々に、その書いてある言葉の意味を、取り違えている場合に発生するのである。何となく言っていることは分かる、というのは、実は、「言葉を追っているのではなく、自分の考えを追っているのである」。
ちなみに、常日頃、アウトプットとインプットが重要だ、と言っているが、インプットが十分でなければ、本は読めない。もっというと、人とも会話ができない。
そしてインプットとは、アウトプットと両面性がある。表裏一体とでもいえばよいか。アウトプットできない知識は、インプットできているとは言えない。そのアウトプットが、他者に伝えられるレベルかどうか、というのは重要ではない。それは、結局その相手、他者の理解可能性の問題が発生するからであり、「自分自身の言語」としてアウトプットできるのであれば、それは、インプットができている、といえる。故に、辞書とか、ネット検索とかで調べて、コピペで紡ぐ言葉に、僕は意味を見いだせない。
稚拙な表現だって良いじゃないか。かっこいい言葉を書けなくたっていいじゃないか。ブログを書けない、と、すぐに投げ出してしまう人は多いけれども、それは、「自身の言葉」が枯渇してしまったからだ。(つーか、コピペとか面白くねーじゃん、と僕は思うのだけど、まぁ、それでブログ収入とか、「お金」という動機がメインの人は、それはそれでいいのだろう。ただ思うに、そんな努力するなら、ふつーにバイトとかした方が実は、時間対効果は高いのだけれど)
ええと、上は、自分の言葉をインプットすることの重要性……みたいな内容になった。そうじゃなかった、「意味」とはなんじゃ? ということだ。
意味は、意味だよバカ野郎! と、上手く説明できん。
WIKIさんより。意味(いみ)とは、次のような概念である。
- 言葉(単語・用語など)が持っている概念のこと。例えば、「雨」は、音声としては「ア」と「メ」が組み合わさっただけのものであるが、そこには「空から水滴が落ちてくる現象」「空から落ちてくる水滴自体」というような意味が備わっている。
- ある行動や発言が持つ必要性、もしくはそれが行われた理由のこと。
- ある物(物体やシステムなど)が存在する必要性や理由のこと。
- 意味論が対象とするものである「意味」
意味に関しては、多くの研究において問題とされ、例えば、次のような問いがみられる。
おー、何だかわかりやすい気がする。気がする、が、じゃあ、僕がこれまで使っていた「意味」という語は、1~4のどれなのだろう?
2……いや3かな? 存在の必要性や理由、ということだろうか。理由、としてしまうと、これまた抽象的な言葉遣いなので、「必要性」、必要性ね。ということは、生きる意味といったときに、それは主語として、「私の生きる意味」となるから、換言すれば、「私の生きる必要性」ということになる。
え! なんか違うくないか?!(かっこ笑い) という気持ちが起こる。しかし、明瞭に否定しようとすると、悩ましい。
ちょっとここから進める前に、では「生きる」とは何か。
生きることの定義
そもそも、「生きる」とは何じゃい? 生命維持活動だ。これもまた、難しい。人はただ食べるために生きるにあらず、とか言ったとして、じゃあ、何だよ、と。むしろこれは、僕は、不要な定義部分に思う。というのは、その「意味」ということの希求なのであって、「生きる」という語自体は、その「結果」に過ぎないと思うのだ。
目的と結果が逆転しているように思うのだ。つまり、「意味」が明らかになることによって、それ自体が「生きる」ことの定義になるのだ、ということである。
(↑言ってること分かるだろうか? 明日の自分が理解してくれる気もあまりしない。ちなみにこれも蛇足で、これまで書いていなかったけれども、僕のブログが誠実なのは、そのすべてにおける言語表現において、僕は、僕自身として理解している語しか使っていない、ことである(ちょっと大げさである。文脈上の例外は許して頂きたい)。よく分からないことは、分からないそのままとして書いている、ということだ。できる限り、「実感言語」で書いている、ということだ。そして、大体他の方のブログなど読んでいると、「実感言語」なのか、そうではないのか、何となく読み取れる。そして、実感言語でない表現……反義語として、「コピペ」とすれば、どちらが面白いか面白くないかは、明白である。)
ので、「生きる」ことの定義は今は不要としよう。
意味とは何か
話が戻って、生きる「意味」を、「僕の」生きる「必要性」としたとき、それについての違和感は一体何なのか?違和感というよりも、むしろ、鋭敏な表現になったことによって、僕が恐れていることが少し浮き彫りになったのではないか。
つまり、この厖大な世界の中で、大勢の人の中で、複雑な社会や自然のなかで、僕一人という存在の「必要性」など、あろうはずがないのだという、その「実感」。
これが、最初に表現した、「目的喪失」ということになるのである。
と、言うことを、件の、ロゴセラピーというか、フランクルさんは問題視して、それについての解決策というか、療法をまとめてくださったということなのである。
2017年の目標として、思考の体系化を図る、としたわけだけれども、その具体的な方法としては、こうした何らかの専門書に準拠した形で、それについての「理解」に努め、同時にそれとの「距離感」(違和感)について、明確にしていく(定義する)作業を行う、ということである。
phrase=単語、句、言葉のまとまり
sentence=文、文法
今日の一言「本当に求める情報が検索できない」
僕は、とても疑問なのだけれども、皆が求めている情報って、それ何だろうか? どうやって生きるのか、何故生きるのか、自分の欲望とは何か、やりたいことははっきりしていて、欲しいものとか理想の生活というものは、もう明確で、調べる人は誰一人いないのだろうか?
僕は、違うと思うのだけれども、しかし、グーグル先生は、それを上位検索結果に載せるのだ。それだけ多くの「お金」が動くキーワードで、重要視されているのだろう。
だが、僕は、それ以前の部分で悩み、情報を求めている。
「われ十五(15才)にして学(学問)に志(こころざ)し」
「三十(30才)にして立つ」(学問で自立できるようになった)
「四十(40才)にして惑(まよ)わず」(いろいろな迷いがなくなった)
「五十(50才)にして天命を知る」(天が自分に与えた使命を知った)
「六十(60才)にして耳順(したが)う」(どんな人の話も聞けるようになった)
「七十(70才)にして心の欲するところに従(したが)っても矩(のり)をこえず」
(参考サイト)
この、それぞれの人生の時期において、どんな目的をもって、どんな生き方をするべきなのか、どういった方法や考え方があるのか、そういった情報であった。
有名な「論語」の一部である。内容は殆ど覚えていなかったが、高校生ぐらいのときに、何かそんな一節があったような気がしていたから、検索して調べることができた。そういう意味では、学校の勉強というのも、無価値なんかじゃないと思うのだけれども、まぁそれはともかく。
後は、80歳で亡くなるまで、ずっと、正しい教えを広め続けた。
30代~40代で、生涯的な、これをずっと続けようという、ライフワーク的なもの、それを見つけることが大切だ、ということなのだろうと、思う。
少し、自分なりに、人生の流れを簡単に書いてみよう。本当は、孔子の論語みたいな表現が、いっぱい検索にヒットすれば、その中で使えそうなやつを引用した方が、精度も時間も効率的だと思うけれども、見つからないなら仕方がない、自分で考えるしかない。
そんな自分が、70代まで含めたプラニングをたてるというのは、これはかなり異例なことであるのはきっと間違いない、こうしてブログに書くことは初めてのことだろう。
しかしこのことが、果たして、今の状況における、すべての迷いが解決したとか、玲瓏と透き通って落ち着いた心に到達した、ということにはならない。それでも、こうしたことをするというのは、日々、猛然と過ぎ去っていく時間に対しての恐怖という、そんなマイナスの感情故かもしれない。ただ、その行為の結果については、間違ってはいないだろうという安心感はある。
「ああ、やっぱり、俺の感じていることは無価値で無意味で間違っていて、無駄なことなんだろうか……」
と感じざるをえない。しかし、孔子さんの言葉を、僕なりに捉えれば、逆に、40歳ぐらいにならないと、惑わってしまうことが往々にしてあるということだ。
30代というと、世間ではもう「おっさん」なのだろう。スポーツ選手とか、会社社長とか、政治家とか、30代でも沢山活躍している人が多い。(もっといえば、趣味の世界においても、素晴らしい能力をもった人がとっても多い)
そういう人たちと比べると、ああ、なんと、自分は矮小な存在なのか……と、思わざるをえない。
確かに、他者との生活というものは、恋愛ゲームのように理想的ではない。いくら愛する人でも、寝相が悪かったり、いびきがうるさかったりしたら、毎日寝ているとストレスになってしまう。目覚めのキスとか、朝起きると口内は雑菌だらけなのだというから、危険な行為だ! とか。
しかし、それでも、ゲームやアニメやその他エンターテイメントは、「現実」から、理想的な要素を取り出して再構築した「現実」なのである。ということは、二次元的なものは、積極的に、全般的に、現実を否定するものではなく、むしろ、「現実の純化」というようなものであるといえるのだ(と思う)。
二次元最高! という生き方は、これから書いていく、「身体的限界性」「時間的限界性」「言語的限界性」の、3つの限界により、必ずしも否定されるものではない、それどころか、その生き方が真実である可能性すらあるのだけれども、だからといって、「現実的なもの」が全否定されるというわけではない。
現実は、確かに、二次元のように素晴らしいものばかりではない。ただ、だからといって諦めて、現実の中で、より「二次元的な理想」に近づけていくための方策……努力(この言葉の危険性は、前に書いた通り。本来用いたくはない言葉であるが、分かりやすく書くためには必要)を諦めても良いものだろうか、ということである。
標語としては、ブログのタイトルのとおり、生きる意味を徹底して考える、とする。これの深化は、すべての行為において応用可能なものであるため、これから先、決して無駄になることはないことは、徐々に実感めいたものになってきている。何故今後も役に立つと思うのか、ネットで検索すれば、否定されることばかりでてくるというのに? それはそうだけれど、少なくても僕にとっては、いや、もっと多い、10人、100人くらいには、きっと役に立つだろうと思う。
まぁそれについて、「役に立つ」「立たない」を議論する気も無ければ、必要もない。ただ、簡単に書いておけば、お金をたくさん集めて、できる限り長い間生命を維持できることだけが、人間として正しい生き方だとは信じられないから、というわけだ。ご飯食べて、排泄して、寝て、の繰り返しができたら十分だというなら、もっと自殺者は少ないはずだし、逆に、「資本主義」(欲望による消費と生産の循環)自体が成り立たない。
というわけで、カテゴリごとに、できるだけ関連性を持たせて書いていきたい。まずは、30代の目標である、30にして立つという、その「立つ」というのは、自立というか、「自分の生き方について、方針・計画を確立する」というものであるけれども、これを考えるために必要なツールとして、次回は、「身体的限界性」「時間的限界性」「言語的限界性」について書いておこう。
次に、これは繰り返しになるけれども、もう一度、「理想と現実の乖離」という、幸福という概念について書いておこう。
その上で、自己への思考の体系化と、実行動への反映を模索していくこととしたい。
人生プランというとFPが出てくる
人生プラン、として検索すると、「ライフプラン」即ち、何年後に結婚して、何年後にお金がこれぐらい必要で、何年後に家を買って、子供が……と、生活とお金に関することがわんさか出てくる。僕は、とても疑問なのだけれども、皆が求めている情報って、それ何だろうか? どうやって生きるのか、何故生きるのか、自分の欲望とは何か、やりたいことははっきりしていて、欲しいものとか理想の生活というものは、もう明確で、調べる人は誰一人いないのだろうか?
僕は、違うと思うのだけれども、しかし、グーグル先生は、それを上位検索結果に載せるのだ。それだけ多くの「お金」が動くキーワードで、重要視されているのだろう。
だが、僕は、それ以前の部分で悩み、情報を求めている。
孔子先生の論語
僕が欲しかった情報は、「われ十五(15才)にして学(学問)に志(こころざ)し」
「三十(30才)にして立つ」(学問で自立できるようになった)
「四十(40才)にして惑(まよ)わず」(いろいろな迷いがなくなった)
「五十(50才)にして天命を知る」(天が自分に与えた使命を知った)
「六十(60才)にして耳順(したが)う」(どんな人の話も聞けるようになった)
「七十(70才)にして心の欲するところに従(したが)っても矩(のり)をこえず」
(参考サイト)
この、それぞれの人生の時期において、どんな目的をもって、どんな生き方をするべきなのか、どういった方法や考え方があるのか、そういった情報であった。
有名な「論語」の一部である。内容は殆ど覚えていなかったが、高校生ぐらいのときに、何かそんな一節があったような気がしていたから、検索して調べることができた。そういう意味では、学校の勉強というのも、無価値なんかじゃないと思うのだけれども、まぁそれはともかく。
仏陀さんの悟りを開いた歳
ゴウタマ・シッダールタは、29歳のときに出家し、35歳のときに悟りを開いた。後は、80歳で亡くなるまで、ずっと、正しい教えを広め続けた。
30代~40代で、生涯的な、これをずっと続けようという、ライフワーク的なもの、それを見つけることが大切だ、ということなのだろうと、思う。
少し、自分なりに、人生の流れを簡単に書いてみよう。本当は、孔子の論語みたいな表現が、いっぱい検索にヒットすれば、その中で使えそうなやつを引用した方が、精度も時間も効率的だと思うけれども、見つからないなら仕方がない、自分で考えるしかない。
30代
自分の生き方について、方針・計画を確立する。40代
自分の生き方の方針・計画について、迷いがなくなり、より精度や深度を上げる。50代
自分の生き方、自分の存在についての、世界的な意味(天命・使命・運命)を知り、実感する。60代
他者の言葉を素直に聞くことができ、思うままに生きても、人の道に違うことが無くなる。70代
死の覚悟をし、心穏やかに過ごす。10代20代の振り返り
迷いおおき人生だった。とでも、死際につぶやくだろうか。まぁただ、死ぬということや、生きることそれ自体に何ら意味を見いだせずに鬱屈していた時期があったし、未来を考えるたびに苦痛で、日々の生活が緩やかな絶望にしか思えなかったこともあったことだろう。そんな自分が、70代まで含めたプラニングをたてるというのは、これはかなり異例なことであるのはきっと間違いない、こうしてブログに書くことは初めてのことだろう。
しかしこのことが、果たして、今の状況における、すべての迷いが解決したとか、玲瓏と透き通って落ち着いた心に到達した、ということにはならない。それでも、こうしたことをするというのは、日々、猛然と過ぎ去っていく時間に対しての恐怖という、そんなマイナスの感情故かもしれない。ただ、その行為の結果については、間違ってはいないだろうという安心感はある。
生きる意味を徹底して考える
前も書いたけれども、「生きる意味」なんて調べると、「そんなこと考えている時間がもったいないです! いますぐやめて、「いまここ」をしっかりと生きましょう」という内容がわんさかヒットする。「ああ、やっぱり、俺の感じていることは無価値で無意味で間違っていて、無駄なことなんだろうか……」
と感じざるをえない。しかし、孔子さんの言葉を、僕なりに捉えれば、逆に、40歳ぐらいにならないと、惑わってしまうことが往々にしてあるということだ。
30代というと、世間ではもう「おっさん」なのだろう。スポーツ選手とか、会社社長とか、政治家とか、30代でも沢山活躍している人が多い。(もっといえば、趣味の世界においても、素晴らしい能力をもった人がとっても多い)
そういう人たちと比べると、ああ、なんと、自分は矮小な存在なのか……と、思わざるをえない。
雑談
そして、その、矮小な存在であることを、常にグチグチと言いながら、その安定的な自己領域を守り続けていくという方策、それがダメブロ界といった、「ダメ人間」「凡人」としての生き方である。こういった方法もある。それは、「向上する」ということを捨てた生き方である。世捨て人である。ニートである。そういう意味では、仏陀の教えに最も近い人たちなのではなかろうか。そういう人たちもいるかもしれない、ただ、僕は、話しの脈絡と関係なくなるが、例えば、「現実の女なんてクソだな」といって、恋愛ゲームにはまり込む人たちについて、気持ちは非常によく分かるのだけれども、積極的に肯定できないのだ。確かに、他者との生活というものは、恋愛ゲームのように理想的ではない。いくら愛する人でも、寝相が悪かったり、いびきがうるさかったりしたら、毎日寝ているとストレスになってしまう。目覚めのキスとか、朝起きると口内は雑菌だらけなのだというから、危険な行為だ! とか。
しかし、それでも、ゲームやアニメやその他エンターテイメントは、「現実」から、理想的な要素を取り出して再構築した「現実」なのである。ということは、二次元的なものは、積極的に、全般的に、現実を否定するものではなく、むしろ、「現実の純化」というようなものであるといえるのだ(と思う)。
二次元最高! という生き方は、これから書いていく、「身体的限界性」「時間的限界性」「言語的限界性」の、3つの限界により、必ずしも否定されるものではない、それどころか、その生き方が真実である可能性すらあるのだけれども、だからといって、「現実的なもの」が全否定されるというわけではない。
現実は、確かに、二次元のように素晴らしいものばかりではない。ただ、だからといって諦めて、現実の中で、より「二次元的な理想」に近づけていくための方策……努力(この言葉の危険性は、前に書いた通り。本来用いたくはない言葉であるが、分かりやすく書くためには必要)を諦めても良いものだろうか、ということである。
思考の体系化
自分の考えていることを、ツリー図のように体系化する。この目標は、何も今年初めて掲げたものではないだろうが、それでも、今年の主軸とする目標にしたいと思う。これまで、色々と書きなぐってきたが、そろそろ、「整理」も同時に始めて行ってもいいだろう。標語としては、ブログのタイトルのとおり、生きる意味を徹底して考える、とする。これの深化は、すべての行為において応用可能なものであるため、これから先、決して無駄になることはないことは、徐々に実感めいたものになってきている。何故今後も役に立つと思うのか、ネットで検索すれば、否定されることばかりでてくるというのに? それはそうだけれど、少なくても僕にとっては、いや、もっと多い、10人、100人くらいには、きっと役に立つだろうと思う。
まぁそれについて、「役に立つ」「立たない」を議論する気も無ければ、必要もない。ただ、簡単に書いておけば、お金をたくさん集めて、できる限り長い間生命を維持できることだけが、人間として正しい生き方だとは信じられないから、というわけだ。ご飯食べて、排泄して、寝て、の繰り返しができたら十分だというなら、もっと自殺者は少ないはずだし、逆に、「資本主義」(欲望による消費と生産の循環)自体が成り立たない。
というわけで、カテゴリごとに、できるだけ関連性を持たせて書いていきたい。まずは、30代の目標である、30にして立つという、その「立つ」というのは、自立というか、「自分の生き方について、方針・計画を確立する」というものであるけれども、これを考えるために必要なツールとして、次回は、「身体的限界性」「時間的限界性」「言語的限界性」について書いておこう。
次に、これは繰り返しになるけれども、もう一度、「理想と現実の乖離」という、幸福という概念について書いておこう。
その上で、自己への思考の体系化と、実行動への反映を模索していくこととしたい。
今日の一言「他人と比べても意味が無いと思う」
今日は、天気が良いな。寒いけれど。頭が何となく痛い。そんな日もあるさ。
ああ、しかし、何か、やることが終わった。いやまだ沢山、まだまだ色々あるのだけれど、一週間か、二週間前ぐらいにやらなきゃ、やりたい、やろう、と思ったことは、一通り終わった。
しかし、目まぐるしすぎて、フルスロットル過ぎて、終わってみると、本当に終わったのか、何をやれたのか、やったのか、よく分からない。感覚がわかない。
「●●をして、○○の点数をとる」
という目標があって、その通りになったら、それは及第点だろう。しかし、そういった振り返りができたわけでもなく、そもそも「点数」化できるようなものでもない。
だから、記憶の軸として、意味の軸として、こうして、書きとどめなければならないと、そんなことを今思いながら、残り20日ぐらいの今年を振り返って思う。
個人的な生きる意味。
親族や家族といった近しい人たちの中での生きる意味。
人類規模の生きる意味。
生命(宇宙)規模の生きる意味。
生きる意味が分からないと嘆く人は、まず自分がどの次元の問題を抱えているのかを知る必要がある。
といったアプローチも確かに存在するが、そもそも、その1から4つの意味については、相互に関係しあっていることも念頭におくべきである。
と、いいつつも、話しが分かりづらくなってしまうが、個人的な生きる意味をひたすらに追い求めることができる人であれば、その他の問題は大したことではない。家族のため、例えば我が子のためという意味において、必死になれる人はそれでいいし、趣味や仕事を生きがいとして生涯を全うする人だっていいだろう。様々だが、それは、第一類型である。
そのどれの行為に対しても、コミット(自分を委託する、約束する、任せる)できないときに、この中間的な、第二類型としての「生きる意味」が表面化する。
ちなみに、この記事は、コメントを頂こうとか、読了を押してもらおうとか、反応をもらおうとか、いいことを書こうとか、そういった他者性、「わかりやすさ」は完全に無視することを、最初に書いておく。
とにかく、カオス、混沌とした頭の中をそのまま、まずはアウトプットし、今後の自分に後を託そうと思う。
そんなリアルな、命のやりとりにしか、「自己を」「自分を」コミットできない、という人もいる。
戦国時代の武士、戦争に明け暮れる兵士、傭兵、彼らは皆、「愛する祖国、家族を守るため」という美しい理由だけで戦ったのか。そういう人もいただろう。しかし、只人を殺すこと、殺伐として抜き差しならない戦場にこそ生きがいを見出すような人種もいたことだろう。
格闘技のみではない、スポーツが、何故「プロ(=お金をもらう職業)」として成り立っているのか。
そこに、人間の攻撃性が隠れている……というのは暴論だろうが、「戦うこと」(それは命がけでなくても)「競い合うこと」というのが、人間に対して享楽やカタルシスを与えるものなのだということに、反論はあまりないだろう。回りくどい言い方がよくないなら、単純にスポーツは楽しいものなのだ、ということに、批判は少ないように思われてならない。
(蛇足:別に批判がどうあろうが関係なく、ここでは、自分の実感問題こそが重要であることは、常々書いている通りである)
ここで重要になるのは、別に、今、楽しいことが無いとか、鬱々として何もしたくないとか、そういうことではないのだということだ。
(いや、そうはいっても、鬱々とした気分であることは間違いないのだが)
ただ、選択的に、この問題について考えたいと、そういった実感なのである。
いやいや、やめよう、まだ、ちょっと取り繕った言葉を使っているそうじゃないだろう。
最近、だから、こうやって書いている時間を取れなかったせいで、ますます混乱と苛々がましたということだ。
いやいやもちろん、それが単に睡眠時間の短さによるものだという可能性は否定できない。
いやそんなことよりも、実際、その生活を楽しんでいた自分すらいたのではないかという疑問だってある。
よく分からない。
ただ、気付いたら、今、こうしている。
早いものだ。早いなぁ。この「早い」という感覚を「止める」のが、この書くということである。
いや確かに、BARで一人お酒を飲んで、頭の整理をするのだって、かっこいいことかもしれない。が、それは頭のいい人ができることなのだ。俺は無理だ。まず、集中できないし、それよりなによりも、何も残らない。
「考えているようで何も考えていない」のではなく、「考えているけれども、浮かんだときから消えていく」のである。
だから、書かなきゃだめだ。もはや強迫観念になりそうであるが、その通りだ。
前に、書くことは、遊びでも仕事でも、ましてやルーチンでもない、ただそれは独立した行為なのだ、と書いた。
これは中々いい表現だったように思える。
意味を問うとかいって、何もできてないじゃないか。俺はもっといいこと書けるんだ、とでも思ったのだろうか。
高校一年生で自殺した男の子。A4ノート一枚に、遺書が書かれていたという。たったそれだけか。僕もそれぐらいの時期に、日記を書き始めたが、もっとたくさん書いていたと思う。書けばいいってものじゃないけれども、たった一枚程度の紙で、その人の受けたいじめの苦しみとか、そんなの表現しきれるはずはないじゃないか。
もっとたくさん、いろんなことを思ったはずだ。苦しんだはずだ、悩んだはずだ。けれども、死んだらそれまで。いくら専門家が遺書を分析したところで、本当の理由なんて結局分からない。
いや、分かって欲しいなんて気持ちすらなくなっていたことだろうとも思う。ただただ人生が苦しい、痛い、つらいという人に、いったいかけてやる言葉があるのだろうか。
ある無職の人のブログで、昔付き合ってた彼女が結婚してた、みたいな記事があって、それに沢山コメントついてて、「きもい」とか「妄想乙」とか。どうしてそういう感想になるのか。無職で、底辺で、虐げて自分を慰めていたのに、実はその相手は彼女がいてセックス三昧な日々を送っていたことが許せないのか自分は真性童貞だというのに、ということなのか。
よく分からない。いつも僕は思うに、他者と比較したところで、自分の苦しみなんてわかりゃしないというか、意味が無いと思う。何度も書いているのは、そう自分で思いたいだけかもしれない。そう思いたいけど、思えない、みたいな。
でも、確かに、今、とても憂鬱な気分であるとはいえ、高校一年生で自殺するしかなかった男の子の苦しみを思えば、俺、世界で一番幸せなんじゃないかと思うぐらい最高な人生である。ラッキー。
上の感覚。なんと空しいことか。
他者と比較するというのは、上をみても、下をみても、結局はねかえって辛くなるだけなのだ。
徒然赴くままにしていると実感が抜け落ちる
徒然、硯に向かいて指の赴くままに書きたくなったよ。今日は、天気が良いな。寒いけれど。頭が何となく痛い。そんな日もあるさ。
ああ、しかし、何か、やることが終わった。いやまだ沢山、まだまだ色々あるのだけれど、一週間か、二週間前ぐらいにやらなきゃ、やりたい、やろう、と思ったことは、一通り終わった。
しかし、目まぐるしすぎて、フルスロットル過ぎて、終わってみると、本当に終わったのか、何をやれたのか、やったのか、よく分からない。感覚がわかない。
「●●をして、○○の点数をとる」
という目標があって、その通りになったら、それは及第点だろう。しかし、そういった振り返りができたわけでもなく、そもそも「点数」化できるようなものでもない。
だから、記憶の軸として、意味の軸として、こうして、書きとどめなければならないと、そんなことを今思いながら、残り20日ぐらいの今年を振り返って思う。
生きる意味の段階性
生きる意味と単純に言ったところで、それは段階がある。個人的な生きる意味。
親族や家族といった近しい人たちの中での生きる意味。
人類規模の生きる意味。
生命(宇宙)規模の生きる意味。
生きる意味が分からないと嘆く人は、まず自分がどの次元の問題を抱えているのかを知る必要がある。
といったアプローチも確かに存在するが、そもそも、その1から4つの意味については、相互に関係しあっていることも念頭におくべきである。
と、いいつつも、話しが分かりづらくなってしまうが、個人的な生きる意味をひたすらに追い求めることができる人であれば、その他の問題は大したことではない。家族のため、例えば我が子のためという意味において、必死になれる人はそれでいいし、趣味や仕事を生きがいとして生涯を全うする人だっていいだろう。様々だが、それは、第一類型である。
そのどれの行為に対しても、コミット(自分を委託する、約束する、任せる)できないときに、この中間的な、第二類型としての「生きる意味」が表面化する。
ちなみに、この記事は、コメントを頂こうとか、読了を押してもらおうとか、反応をもらおうとか、いいことを書こうとか、そういった他者性、「わかりやすさ」は完全に無視することを、最初に書いておく。
とにかく、カオス、混沌とした頭の中をそのまま、まずはアウトプットし、今後の自分に後を託そうと思う。
漠然とした不安
正直、車やバイクに乗るということは、危険な行為である。しかし、その危険が、命をかけているということ、もっといえば、事故をおこして誰かに怪我を負わせるという人生をかけているということが、何とも楽しいことのように思える。急な車線変更をしてきたトラックに巻き込まれそうになったときの心臓のバクバク感は他に味わえないものである。そんなリアルな、命のやりとりにしか、「自己を」「自分を」コミットできない、という人もいる。
戦国時代の武士、戦争に明け暮れる兵士、傭兵、彼らは皆、「愛する祖国、家族を守るため」という美しい理由だけで戦ったのか。そういう人もいただろう。しかし、只人を殺すこと、殺伐として抜き差しならない戦場にこそ生きがいを見出すような人種もいたことだろう。
格闘技のみではない、スポーツが、何故「プロ(=お金をもらう職業)」として成り立っているのか。
そこに、人間の攻撃性が隠れている……というのは暴論だろうが、「戦うこと」(それは命がけでなくても)「競い合うこと」というのが、人間に対して享楽やカタルシスを与えるものなのだということに、反論はあまりないだろう。回りくどい言い方がよくないなら、単純にスポーツは楽しいものなのだ、ということに、批判は少ないように思われてならない。
(蛇足:別に批判がどうあろうが関係なく、ここでは、自分の実感問題こそが重要であることは、常々書いている通りである)
生きるということはゲームか
いずれやってくる終わりに心を馳せるよりも、今、この場所で、このときの楽しさに身を任せた方が、絶対的に真理のように思われる。ここで重要になるのは、別に、今、楽しいことが無いとか、鬱々として何もしたくないとか、そういうことではないのだということだ。
(いや、そうはいっても、鬱々とした気分であることは間違いないのだが)
ただ、選択的に、この問題について考えたいと、そういった実感なのである。
いやいや、やめよう、まだ、ちょっと取り繕った言葉を使っているそうじゃないだろう。
最近、だから、こうやって書いている時間を取れなかったせいで、ますます混乱と苛々がましたということだ。
いやいやもちろん、それが単に睡眠時間の短さによるものだという可能性は否定できない。
いやそんなことよりも、実際、その生活を楽しんでいた自分すらいたのではないかという疑問だってある。
よく分からない。
ただ、気付いたら、今、こうしている。
早いものだ。早いなぁ。この「早い」という感覚を「止める」のが、この書くということである。
いや確かに、BARで一人お酒を飲んで、頭の整理をするのだって、かっこいいことかもしれない。が、それは頭のいい人ができることなのだ。俺は無理だ。まず、集中できないし、それよりなによりも、何も残らない。
「考えているようで何も考えていない」のではなく、「考えているけれども、浮かんだときから消えていく」のである。
だから、書かなきゃだめだ。もはや強迫観念になりそうであるが、その通りだ。
前に、書くことは、遊びでも仕事でも、ましてやルーチンでもない、ただそれは独立した行為なのだ、と書いた。
これは中々いい表現だったように思える。
この後紡ぐ言葉は何か
日曜日にここまで書いて、はたと、投稿を躊躇ってしまった。意味を問うとかいって、何もできてないじゃないか。俺はもっといいこと書けるんだ、とでも思ったのだろうか。
高校一年生で自殺した男の子。A4ノート一枚に、遺書が書かれていたという。たったそれだけか。僕もそれぐらいの時期に、日記を書き始めたが、もっとたくさん書いていたと思う。書けばいいってものじゃないけれども、たった一枚程度の紙で、その人の受けたいじめの苦しみとか、そんなの表現しきれるはずはないじゃないか。
もっとたくさん、いろんなことを思ったはずだ。苦しんだはずだ、悩んだはずだ。けれども、死んだらそれまで。いくら専門家が遺書を分析したところで、本当の理由なんて結局分からない。
いや、分かって欲しいなんて気持ちすらなくなっていたことだろうとも思う。ただただ人生が苦しい、痛い、つらいという人に、いったいかけてやる言葉があるのだろうか。
ある無職の人のブログで、昔付き合ってた彼女が結婚してた、みたいな記事があって、それに沢山コメントついてて、「きもい」とか「妄想乙」とか。どうしてそういう感想になるのか。無職で、底辺で、虐げて自分を慰めていたのに、実はその相手は彼女がいてセックス三昧な日々を送っていたことが許せないのか自分は真性童貞だというのに、ということなのか。
よく分からない。いつも僕は思うに、他者と比較したところで、自分の苦しみなんてわかりゃしないというか、意味が無いと思う。何度も書いているのは、そう自分で思いたいだけかもしれない。そう思いたいけど、思えない、みたいな。
でも、確かに、今、とても憂鬱な気分であるとはいえ、高校一年生で自殺するしかなかった男の子の苦しみを思えば、俺、世界で一番幸せなんじゃないかと思うぐらい最高な人生である。ラッキー。
上の感覚。なんと空しいことか。
他者と比較するというのは、上をみても、下をみても、結局はねかえって辛くなるだけなのだ。