今日の一言「本当に求める情報が検索できない」
僕は、とても疑問なのだけれども、皆が求めている情報って、それ何だろうか? どうやって生きるのか、何故生きるのか、自分の欲望とは何か、やりたいことははっきりしていて、欲しいものとか理想の生活というものは、もう明確で、調べる人は誰一人いないのだろうか?
僕は、違うと思うのだけれども、しかし、グーグル先生は、それを上位検索結果に載せるのだ。それだけ多くの「お金」が動くキーワードで、重要視されているのだろう。
だが、僕は、それ以前の部分で悩み、情報を求めている。
「われ十五(15才)にして学(学問)に志(こころざ)し」
「三十(30才)にして立つ」(学問で自立できるようになった)
「四十(40才)にして惑(まよ)わず」(いろいろな迷いがなくなった)
「五十(50才)にして天命を知る」(天が自分に与えた使命を知った)
「六十(60才)にして耳順(したが)う」(どんな人の話も聞けるようになった)
「七十(70才)にして心の欲するところに従(したが)っても矩(のり)をこえず」
(参考サイト)
この、それぞれの人生の時期において、どんな目的をもって、どんな生き方をするべきなのか、どういった方法や考え方があるのか、そういった情報であった。
有名な「論語」の一部である。内容は殆ど覚えていなかったが、高校生ぐらいのときに、何かそんな一節があったような気がしていたから、検索して調べることができた。そういう意味では、学校の勉強というのも、無価値なんかじゃないと思うのだけれども、まぁそれはともかく。
後は、80歳で亡くなるまで、ずっと、正しい教えを広め続けた。
30代~40代で、生涯的な、これをずっと続けようという、ライフワーク的なもの、それを見つけることが大切だ、ということなのだろうと、思う。
少し、自分なりに、人生の流れを簡単に書いてみよう。本当は、孔子の論語みたいな表現が、いっぱい検索にヒットすれば、その中で使えそうなやつを引用した方が、精度も時間も効率的だと思うけれども、見つからないなら仕方がない、自分で考えるしかない。
そんな自分が、70代まで含めたプラニングをたてるというのは、これはかなり異例なことであるのはきっと間違いない、こうしてブログに書くことは初めてのことだろう。
しかしこのことが、果たして、今の状況における、すべての迷いが解決したとか、玲瓏と透き通って落ち着いた心に到達した、ということにはならない。それでも、こうしたことをするというのは、日々、猛然と過ぎ去っていく時間に対しての恐怖という、そんなマイナスの感情故かもしれない。ただ、その行為の結果については、間違ってはいないだろうという安心感はある。
「ああ、やっぱり、俺の感じていることは無価値で無意味で間違っていて、無駄なことなんだろうか……」
と感じざるをえない。しかし、孔子さんの言葉を、僕なりに捉えれば、逆に、40歳ぐらいにならないと、惑わってしまうことが往々にしてあるということだ。
30代というと、世間ではもう「おっさん」なのだろう。スポーツ選手とか、会社社長とか、政治家とか、30代でも沢山活躍している人が多い。(もっといえば、趣味の世界においても、素晴らしい能力をもった人がとっても多い)
そういう人たちと比べると、ああ、なんと、自分は矮小な存在なのか……と、思わざるをえない。
確かに、他者との生活というものは、恋愛ゲームのように理想的ではない。いくら愛する人でも、寝相が悪かったり、いびきがうるさかったりしたら、毎日寝ているとストレスになってしまう。目覚めのキスとか、朝起きると口内は雑菌だらけなのだというから、危険な行為だ! とか。
しかし、それでも、ゲームやアニメやその他エンターテイメントは、「現実」から、理想的な要素を取り出して再構築した「現実」なのである。ということは、二次元的なものは、積極的に、全般的に、現実を否定するものではなく、むしろ、「現実の純化」というようなものであるといえるのだ(と思う)。
二次元最高! という生き方は、これから書いていく、「身体的限界性」「時間的限界性」「言語的限界性」の、3つの限界により、必ずしも否定されるものではない、それどころか、その生き方が真実である可能性すらあるのだけれども、だからといって、「現実的なもの」が全否定されるというわけではない。
現実は、確かに、二次元のように素晴らしいものばかりではない。ただ、だからといって諦めて、現実の中で、より「二次元的な理想」に近づけていくための方策……努力(この言葉の危険性は、前に書いた通り。本来用いたくはない言葉であるが、分かりやすく書くためには必要)を諦めても良いものだろうか、ということである。
標語としては、ブログのタイトルのとおり、生きる意味を徹底して考える、とする。これの深化は、すべての行為において応用可能なものであるため、これから先、決して無駄になることはないことは、徐々に実感めいたものになってきている。何故今後も役に立つと思うのか、ネットで検索すれば、否定されることばかりでてくるというのに? それはそうだけれど、少なくても僕にとっては、いや、もっと多い、10人、100人くらいには、きっと役に立つだろうと思う。
まぁそれについて、「役に立つ」「立たない」を議論する気も無ければ、必要もない。ただ、簡単に書いておけば、お金をたくさん集めて、できる限り長い間生命を維持できることだけが、人間として正しい生き方だとは信じられないから、というわけだ。ご飯食べて、排泄して、寝て、の繰り返しができたら十分だというなら、もっと自殺者は少ないはずだし、逆に、「資本主義」(欲望による消費と生産の循環)自体が成り立たない。
というわけで、カテゴリごとに、できるだけ関連性を持たせて書いていきたい。まずは、30代の目標である、30にして立つという、その「立つ」というのは、自立というか、「自分の生き方について、方針・計画を確立する」というものであるけれども、これを考えるために必要なツールとして、次回は、「身体的限界性」「時間的限界性」「言語的限界性」について書いておこう。
次に、これは繰り返しになるけれども、もう一度、「理想と現実の乖離」という、幸福という概念について書いておこう。
その上で、自己への思考の体系化と、実行動への反映を模索していくこととしたい。
人生プランというとFPが出てくる
人生プラン、として検索すると、「ライフプラン」即ち、何年後に結婚して、何年後にお金がこれぐらい必要で、何年後に家を買って、子供が……と、生活とお金に関することがわんさか出てくる。僕は、とても疑問なのだけれども、皆が求めている情報って、それ何だろうか? どうやって生きるのか、何故生きるのか、自分の欲望とは何か、やりたいことははっきりしていて、欲しいものとか理想の生活というものは、もう明確で、調べる人は誰一人いないのだろうか?
僕は、違うと思うのだけれども、しかし、グーグル先生は、それを上位検索結果に載せるのだ。それだけ多くの「お金」が動くキーワードで、重要視されているのだろう。
だが、僕は、それ以前の部分で悩み、情報を求めている。
孔子先生の論語
僕が欲しかった情報は、「われ十五(15才)にして学(学問)に志(こころざ)し」
「三十(30才)にして立つ」(学問で自立できるようになった)
「四十(40才)にして惑(まよ)わず」(いろいろな迷いがなくなった)
「五十(50才)にして天命を知る」(天が自分に与えた使命を知った)
「六十(60才)にして耳順(したが)う」(どんな人の話も聞けるようになった)
「七十(70才)にして心の欲するところに従(したが)っても矩(のり)をこえず」
(参考サイト)
この、それぞれの人生の時期において、どんな目的をもって、どんな生き方をするべきなのか、どういった方法や考え方があるのか、そういった情報であった。
有名な「論語」の一部である。内容は殆ど覚えていなかったが、高校生ぐらいのときに、何かそんな一節があったような気がしていたから、検索して調べることができた。そういう意味では、学校の勉強というのも、無価値なんかじゃないと思うのだけれども、まぁそれはともかく。
仏陀さんの悟りを開いた歳
ゴウタマ・シッダールタは、29歳のときに出家し、35歳のときに悟りを開いた。後は、80歳で亡くなるまで、ずっと、正しい教えを広め続けた。
30代~40代で、生涯的な、これをずっと続けようという、ライフワーク的なもの、それを見つけることが大切だ、ということなのだろうと、思う。
少し、自分なりに、人生の流れを簡単に書いてみよう。本当は、孔子の論語みたいな表現が、いっぱい検索にヒットすれば、その中で使えそうなやつを引用した方が、精度も時間も効率的だと思うけれども、見つからないなら仕方がない、自分で考えるしかない。
30代
自分の生き方について、方針・計画を確立する。40代
自分の生き方の方針・計画について、迷いがなくなり、より精度や深度を上げる。50代
自分の生き方、自分の存在についての、世界的な意味(天命・使命・運命)を知り、実感する。60代
他者の言葉を素直に聞くことができ、思うままに生きても、人の道に違うことが無くなる。70代
死の覚悟をし、心穏やかに過ごす。10代20代の振り返り
迷いおおき人生だった。とでも、死際につぶやくだろうか。まぁただ、死ぬということや、生きることそれ自体に何ら意味を見いだせずに鬱屈していた時期があったし、未来を考えるたびに苦痛で、日々の生活が緩やかな絶望にしか思えなかったこともあったことだろう。そんな自分が、70代まで含めたプラニングをたてるというのは、これはかなり異例なことであるのはきっと間違いない、こうしてブログに書くことは初めてのことだろう。
しかしこのことが、果たして、今の状況における、すべての迷いが解決したとか、玲瓏と透き通って落ち着いた心に到達した、ということにはならない。それでも、こうしたことをするというのは、日々、猛然と過ぎ去っていく時間に対しての恐怖という、そんなマイナスの感情故かもしれない。ただ、その行為の結果については、間違ってはいないだろうという安心感はある。
生きる意味を徹底して考える
前も書いたけれども、「生きる意味」なんて調べると、「そんなこと考えている時間がもったいないです! いますぐやめて、「いまここ」をしっかりと生きましょう」という内容がわんさかヒットする。「ああ、やっぱり、俺の感じていることは無価値で無意味で間違っていて、無駄なことなんだろうか……」
と感じざるをえない。しかし、孔子さんの言葉を、僕なりに捉えれば、逆に、40歳ぐらいにならないと、惑わってしまうことが往々にしてあるということだ。
30代というと、世間ではもう「おっさん」なのだろう。スポーツ選手とか、会社社長とか、政治家とか、30代でも沢山活躍している人が多い。(もっといえば、趣味の世界においても、素晴らしい能力をもった人がとっても多い)
そういう人たちと比べると、ああ、なんと、自分は矮小な存在なのか……と、思わざるをえない。
雑談
そして、その、矮小な存在であることを、常にグチグチと言いながら、その安定的な自己領域を守り続けていくという方策、それがダメブロ界といった、「ダメ人間」「凡人」としての生き方である。こういった方法もある。それは、「向上する」ということを捨てた生き方である。世捨て人である。ニートである。そういう意味では、仏陀の教えに最も近い人たちなのではなかろうか。そういう人たちもいるかもしれない、ただ、僕は、話しの脈絡と関係なくなるが、例えば、「現実の女なんてクソだな」といって、恋愛ゲームにはまり込む人たちについて、気持ちは非常によく分かるのだけれども、積極的に肯定できないのだ。確かに、他者との生活というものは、恋愛ゲームのように理想的ではない。いくら愛する人でも、寝相が悪かったり、いびきがうるさかったりしたら、毎日寝ているとストレスになってしまう。目覚めのキスとか、朝起きると口内は雑菌だらけなのだというから、危険な行為だ! とか。
しかし、それでも、ゲームやアニメやその他エンターテイメントは、「現実」から、理想的な要素を取り出して再構築した「現実」なのである。ということは、二次元的なものは、積極的に、全般的に、現実を否定するものではなく、むしろ、「現実の純化」というようなものであるといえるのだ(と思う)。
二次元最高! という生き方は、これから書いていく、「身体的限界性」「時間的限界性」「言語的限界性」の、3つの限界により、必ずしも否定されるものではない、それどころか、その生き方が真実である可能性すらあるのだけれども、だからといって、「現実的なもの」が全否定されるというわけではない。
現実は、確かに、二次元のように素晴らしいものばかりではない。ただ、だからといって諦めて、現実の中で、より「二次元的な理想」に近づけていくための方策……努力(この言葉の危険性は、前に書いた通り。本来用いたくはない言葉であるが、分かりやすく書くためには必要)を諦めても良いものだろうか、ということである。
思考の体系化
自分の考えていることを、ツリー図のように体系化する。この目標は、何も今年初めて掲げたものではないだろうが、それでも、今年の主軸とする目標にしたいと思う。これまで、色々と書きなぐってきたが、そろそろ、「整理」も同時に始めて行ってもいいだろう。標語としては、ブログのタイトルのとおり、生きる意味を徹底して考える、とする。これの深化は、すべての行為において応用可能なものであるため、これから先、決して無駄になることはないことは、徐々に実感めいたものになってきている。何故今後も役に立つと思うのか、ネットで検索すれば、否定されることばかりでてくるというのに? それはそうだけれど、少なくても僕にとっては、いや、もっと多い、10人、100人くらいには、きっと役に立つだろうと思う。
まぁそれについて、「役に立つ」「立たない」を議論する気も無ければ、必要もない。ただ、簡単に書いておけば、お金をたくさん集めて、できる限り長い間生命を維持できることだけが、人間として正しい生き方だとは信じられないから、というわけだ。ご飯食べて、排泄して、寝て、の繰り返しができたら十分だというなら、もっと自殺者は少ないはずだし、逆に、「資本主義」(欲望による消費と生産の循環)自体が成り立たない。
というわけで、カテゴリごとに、できるだけ関連性を持たせて書いていきたい。まずは、30代の目標である、30にして立つという、その「立つ」というのは、自立というか、「自分の生き方について、方針・計画を確立する」というものであるけれども、これを考えるために必要なツールとして、次回は、「身体的限界性」「時間的限界性」「言語的限界性」について書いておこう。
次に、これは繰り返しになるけれども、もう一度、「理想と現実の乖離」という、幸福という概念について書いておこう。
その上で、自己への思考の体系化と、実行動への反映を模索していくこととしたい。
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今日の一言「他人と比べても意味が無いと思う」
今日は、天気が良いな。寒いけれど。頭が何となく痛い。そんな日もあるさ。
ああ、しかし、何か、やることが終わった。いやまだ沢山、まだまだ色々あるのだけれど、一週間か、二週間前ぐらいにやらなきゃ、やりたい、やろう、と思ったことは、一通り終わった。
しかし、目まぐるしすぎて、フルスロットル過ぎて、終わってみると、本当に終わったのか、何をやれたのか、やったのか、よく分からない。感覚がわかない。
「●●をして、○○の点数をとる」
という目標があって、その通りになったら、それは及第点だろう。しかし、そういった振り返りができたわけでもなく、そもそも「点数」化できるようなものでもない。
だから、記憶の軸として、意味の軸として、こうして、書きとどめなければならないと、そんなことを今思いながら、残り20日ぐらいの今年を振り返って思う。
個人的な生きる意味。
親族や家族といった近しい人たちの中での生きる意味。
人類規模の生きる意味。
生命(宇宙)規模の生きる意味。
生きる意味が分からないと嘆く人は、まず自分がどの次元の問題を抱えているのかを知る必要がある。
といったアプローチも確かに存在するが、そもそも、その1から4つの意味については、相互に関係しあっていることも念頭におくべきである。
と、いいつつも、話しが分かりづらくなってしまうが、個人的な生きる意味をひたすらに追い求めることができる人であれば、その他の問題は大したことではない。家族のため、例えば我が子のためという意味において、必死になれる人はそれでいいし、趣味や仕事を生きがいとして生涯を全うする人だっていいだろう。様々だが、それは、第一類型である。
そのどれの行為に対しても、コミット(自分を委託する、約束する、任せる)できないときに、この中間的な、第二類型としての「生きる意味」が表面化する。
ちなみに、この記事は、コメントを頂こうとか、読了を押してもらおうとか、反応をもらおうとか、いいことを書こうとか、そういった他者性、「わかりやすさ」は完全に無視することを、最初に書いておく。
とにかく、カオス、混沌とした頭の中をそのまま、まずはアウトプットし、今後の自分に後を託そうと思う。
そんなリアルな、命のやりとりにしか、「自己を」「自分を」コミットできない、という人もいる。
戦国時代の武士、戦争に明け暮れる兵士、傭兵、彼らは皆、「愛する祖国、家族を守るため」という美しい理由だけで戦ったのか。そういう人もいただろう。しかし、只人を殺すこと、殺伐として抜き差しならない戦場にこそ生きがいを見出すような人種もいたことだろう。
格闘技のみではない、スポーツが、何故「プロ(=お金をもらう職業)」として成り立っているのか。
そこに、人間の攻撃性が隠れている……というのは暴論だろうが、「戦うこと」(それは命がけでなくても)「競い合うこと」というのが、人間に対して享楽やカタルシスを与えるものなのだということに、反論はあまりないだろう。回りくどい言い方がよくないなら、単純にスポーツは楽しいものなのだ、ということに、批判は少ないように思われてならない。
(蛇足:別に批判がどうあろうが関係なく、ここでは、自分の実感問題こそが重要であることは、常々書いている通りである)
ここで重要になるのは、別に、今、楽しいことが無いとか、鬱々として何もしたくないとか、そういうことではないのだということだ。
(いや、そうはいっても、鬱々とした気分であることは間違いないのだが)
ただ、選択的に、この問題について考えたいと、そういった実感なのである。
いやいや、やめよう、まだ、ちょっと取り繕った言葉を使っているそうじゃないだろう。
最近、だから、こうやって書いている時間を取れなかったせいで、ますます混乱と苛々がましたということだ。
いやいやもちろん、それが単に睡眠時間の短さによるものだという可能性は否定できない。
いやそんなことよりも、実際、その生活を楽しんでいた自分すらいたのではないかという疑問だってある。
よく分からない。
ただ、気付いたら、今、こうしている。
早いものだ。早いなぁ。この「早い」という感覚を「止める」のが、この書くということである。
いや確かに、BARで一人お酒を飲んで、頭の整理をするのだって、かっこいいことかもしれない。が、それは頭のいい人ができることなのだ。俺は無理だ。まず、集中できないし、それよりなによりも、何も残らない。
「考えているようで何も考えていない」のではなく、「考えているけれども、浮かんだときから消えていく」のである。
だから、書かなきゃだめだ。もはや強迫観念になりそうであるが、その通りだ。
前に、書くことは、遊びでも仕事でも、ましてやルーチンでもない、ただそれは独立した行為なのだ、と書いた。
これは中々いい表現だったように思える。
意味を問うとかいって、何もできてないじゃないか。俺はもっといいこと書けるんだ、とでも思ったのだろうか。
高校一年生で自殺した男の子。A4ノート一枚に、遺書が書かれていたという。たったそれだけか。僕もそれぐらいの時期に、日記を書き始めたが、もっとたくさん書いていたと思う。書けばいいってものじゃないけれども、たった一枚程度の紙で、その人の受けたいじめの苦しみとか、そんなの表現しきれるはずはないじゃないか。
もっとたくさん、いろんなことを思ったはずだ。苦しんだはずだ、悩んだはずだ。けれども、死んだらそれまで。いくら専門家が遺書を分析したところで、本当の理由なんて結局分からない。
いや、分かって欲しいなんて気持ちすらなくなっていたことだろうとも思う。ただただ人生が苦しい、痛い、つらいという人に、いったいかけてやる言葉があるのだろうか。
ある無職の人のブログで、昔付き合ってた彼女が結婚してた、みたいな記事があって、それに沢山コメントついてて、「きもい」とか「妄想乙」とか。どうしてそういう感想になるのか。無職で、底辺で、虐げて自分を慰めていたのに、実はその相手は彼女がいてセックス三昧な日々を送っていたことが許せないのか自分は真性童貞だというのに、ということなのか。
よく分からない。いつも僕は思うに、他者と比較したところで、自分の苦しみなんてわかりゃしないというか、意味が無いと思う。何度も書いているのは、そう自分で思いたいだけかもしれない。そう思いたいけど、思えない、みたいな。
でも、確かに、今、とても憂鬱な気分であるとはいえ、高校一年生で自殺するしかなかった男の子の苦しみを思えば、俺、世界で一番幸せなんじゃないかと思うぐらい最高な人生である。ラッキー。
上の感覚。なんと空しいことか。
他者と比較するというのは、上をみても、下をみても、結局はねかえって辛くなるだけなのだ。
徒然赴くままにしていると実感が抜け落ちる
徒然、硯に向かいて指の赴くままに書きたくなったよ。今日は、天気が良いな。寒いけれど。頭が何となく痛い。そんな日もあるさ。
ああ、しかし、何か、やることが終わった。いやまだ沢山、まだまだ色々あるのだけれど、一週間か、二週間前ぐらいにやらなきゃ、やりたい、やろう、と思ったことは、一通り終わった。
しかし、目まぐるしすぎて、フルスロットル過ぎて、終わってみると、本当に終わったのか、何をやれたのか、やったのか、よく分からない。感覚がわかない。
「●●をして、○○の点数をとる」
という目標があって、その通りになったら、それは及第点だろう。しかし、そういった振り返りができたわけでもなく、そもそも「点数」化できるようなものでもない。
だから、記憶の軸として、意味の軸として、こうして、書きとどめなければならないと、そんなことを今思いながら、残り20日ぐらいの今年を振り返って思う。
生きる意味の段階性
生きる意味と単純に言ったところで、それは段階がある。個人的な生きる意味。
親族や家族といった近しい人たちの中での生きる意味。
人類規模の生きる意味。
生命(宇宙)規模の生きる意味。
生きる意味が分からないと嘆く人は、まず自分がどの次元の問題を抱えているのかを知る必要がある。
といったアプローチも確かに存在するが、そもそも、その1から4つの意味については、相互に関係しあっていることも念頭におくべきである。
と、いいつつも、話しが分かりづらくなってしまうが、個人的な生きる意味をひたすらに追い求めることができる人であれば、その他の問題は大したことではない。家族のため、例えば我が子のためという意味において、必死になれる人はそれでいいし、趣味や仕事を生きがいとして生涯を全うする人だっていいだろう。様々だが、それは、第一類型である。
そのどれの行為に対しても、コミット(自分を委託する、約束する、任せる)できないときに、この中間的な、第二類型としての「生きる意味」が表面化する。
ちなみに、この記事は、コメントを頂こうとか、読了を押してもらおうとか、反応をもらおうとか、いいことを書こうとか、そういった他者性、「わかりやすさ」は完全に無視することを、最初に書いておく。
とにかく、カオス、混沌とした頭の中をそのまま、まずはアウトプットし、今後の自分に後を託そうと思う。
漠然とした不安
正直、車やバイクに乗るということは、危険な行為である。しかし、その危険が、命をかけているということ、もっといえば、事故をおこして誰かに怪我を負わせるという人生をかけているということが、何とも楽しいことのように思える。急な車線変更をしてきたトラックに巻き込まれそうになったときの心臓のバクバク感は他に味わえないものである。そんなリアルな、命のやりとりにしか、「自己を」「自分を」コミットできない、という人もいる。
戦国時代の武士、戦争に明け暮れる兵士、傭兵、彼らは皆、「愛する祖国、家族を守るため」という美しい理由だけで戦ったのか。そういう人もいただろう。しかし、只人を殺すこと、殺伐として抜き差しならない戦場にこそ生きがいを見出すような人種もいたことだろう。
格闘技のみではない、スポーツが、何故「プロ(=お金をもらう職業)」として成り立っているのか。
そこに、人間の攻撃性が隠れている……というのは暴論だろうが、「戦うこと」(それは命がけでなくても)「競い合うこと」というのが、人間に対して享楽やカタルシスを与えるものなのだということに、反論はあまりないだろう。回りくどい言い方がよくないなら、単純にスポーツは楽しいものなのだ、ということに、批判は少ないように思われてならない。
(蛇足:別に批判がどうあろうが関係なく、ここでは、自分の実感問題こそが重要であることは、常々書いている通りである)
生きるということはゲームか
いずれやってくる終わりに心を馳せるよりも、今、この場所で、このときの楽しさに身を任せた方が、絶対的に真理のように思われる。ここで重要になるのは、別に、今、楽しいことが無いとか、鬱々として何もしたくないとか、そういうことではないのだということだ。
(いや、そうはいっても、鬱々とした気分であることは間違いないのだが)
ただ、選択的に、この問題について考えたいと、そういった実感なのである。
いやいや、やめよう、まだ、ちょっと取り繕った言葉を使っているそうじゃないだろう。
最近、だから、こうやって書いている時間を取れなかったせいで、ますます混乱と苛々がましたということだ。
いやいやもちろん、それが単に睡眠時間の短さによるものだという可能性は否定できない。
いやそんなことよりも、実際、その生活を楽しんでいた自分すらいたのではないかという疑問だってある。
よく分からない。
ただ、気付いたら、今、こうしている。
早いものだ。早いなぁ。この「早い」という感覚を「止める」のが、この書くということである。
いや確かに、BARで一人お酒を飲んで、頭の整理をするのだって、かっこいいことかもしれない。が、それは頭のいい人ができることなのだ。俺は無理だ。まず、集中できないし、それよりなによりも、何も残らない。
「考えているようで何も考えていない」のではなく、「考えているけれども、浮かんだときから消えていく」のである。
だから、書かなきゃだめだ。もはや強迫観念になりそうであるが、その通りだ。
前に、書くことは、遊びでも仕事でも、ましてやルーチンでもない、ただそれは独立した行為なのだ、と書いた。
これは中々いい表現だったように思える。
この後紡ぐ言葉は何か
日曜日にここまで書いて、はたと、投稿を躊躇ってしまった。意味を問うとかいって、何もできてないじゃないか。俺はもっといいこと書けるんだ、とでも思ったのだろうか。
高校一年生で自殺した男の子。A4ノート一枚に、遺書が書かれていたという。たったそれだけか。僕もそれぐらいの時期に、日記を書き始めたが、もっとたくさん書いていたと思う。書けばいいってものじゃないけれども、たった一枚程度の紙で、その人の受けたいじめの苦しみとか、そんなの表現しきれるはずはないじゃないか。
もっとたくさん、いろんなことを思ったはずだ。苦しんだはずだ、悩んだはずだ。けれども、死んだらそれまで。いくら専門家が遺書を分析したところで、本当の理由なんて結局分からない。
いや、分かって欲しいなんて気持ちすらなくなっていたことだろうとも思う。ただただ人生が苦しい、痛い、つらいという人に、いったいかけてやる言葉があるのだろうか。
ある無職の人のブログで、昔付き合ってた彼女が結婚してた、みたいな記事があって、それに沢山コメントついてて、「きもい」とか「妄想乙」とか。どうしてそういう感想になるのか。無職で、底辺で、虐げて自分を慰めていたのに、実はその相手は彼女がいてセックス三昧な日々を送っていたことが許せないのか自分は真性童貞だというのに、ということなのか。
よく分からない。いつも僕は思うに、他者と比較したところで、自分の苦しみなんてわかりゃしないというか、意味が無いと思う。何度も書いているのは、そう自分で思いたいだけかもしれない。そう思いたいけど、思えない、みたいな。
でも、確かに、今、とても憂鬱な気分であるとはいえ、高校一年生で自殺するしかなかった男の子の苦しみを思えば、俺、世界で一番幸せなんじゃないかと思うぐらい最高な人生である。ラッキー。
上の感覚。なんと空しいことか。
他者と比較するというのは、上をみても、下をみても、結局はねかえって辛くなるだけなのだ。
最初の、一文字目が、中々浮かばない。近況をメモしておこうと思いながら、ああ、昨日は何もしなかったなという罪悪感が芽生える。やはり、最近過去の記事を読んでいても思ったことだけれど、昼まで寝ているとか、睡眠のリズムが狂うとよくない。よくないから、昨日は23時ぐらいに床について寝ようと試みたものの、今度は眠れない。じゃあ起きて何か活動できるほど元気か、というとそうではなく、何となく体のだるさと頭の痛さに苛まれる。
日課、とはできないだろうけれども、この睡眠のコントロールというのも、一つ生活の一部に組み込む必要がありそうだ、と思いながら、過去の経験は、その失敗の数々、積みあがった屍の無量さにあきれ返るわけなのだけれども、それでも、このタイミングで一度問題提起としよう。
・ガンスリンガーガールの漫画とアニメをみた
・アイアムアヒーローの最新刊21巻を読んだ
・四諦と八正道の復習をした
・龍樹の中論についてのホームページを見つけた
・合気道についての動画を見た
これぐらいかなぁ。インプットも、アウトプットも微妙だ。風邪の具合はよくなった気がするけれども、金曜日は帰宅が遅く寝るのが遅くなった(といっても25時ぐらいには床に入った気がするが)ため、昨日は、9時ぐらいには目が覚めたものの、全般的なやる気が起きず、日課をやってからまた寝て、起きて簡単な料理をつくっては寝て、何かしなければ、何か考えなければと思いながら、何だかだるいなと寝て、の繰り返しであった。結果、夜、全然眠れず、今もまた、何だか身体がだるい状態である。
そうだ、こういうときはカフェラテを作ろう。まぁ、コーヒーがエスプレッソじゃないから、カフェオレなんだけど、カフェオレっていうと、子供の飲み物というか、味が薄いというか、そんな印象が強いから、カフェラテって言ってしまう。これが見栄とか虚飾という奴なのだろう。誰に対して、というわけでもなく、自分に対して、という寂しいものだが。
――。
うん、旨い。こんな簡単に作れるなら、昨日も飲めば良かった。牛乳のストックもあったわけだし。これを飲むか飲まないかで、昨日の時間の使い方が大きく変わった気すらしてならない。まぁ仕方がない、過去の過ぎ去った時間を後悔することは、僕の信念とかポリシーとか考えとか価値観とかその他もろもろに反するものである。というのは、単に自分への言い訳なんじゃね? という反転思考は無視しよう。
近々、ある方の新しい作品が公開されるということで、楽しみでもある。
レビューを読まなければ気付かなかったかな? いや、きっと、僕も思っただろう、それぐらい薄い。本棚に並べてみると、やっぱり薄い(笑)。いや笑いごっちゃないかもな。何だか、連載の書籍って、巻数によって厚みが違うことは知っていたが、それは、最終巻をちょうどいい巻数(10巻とか20巻とか)にするため、最終巻が分厚くなっているとか、そういうことが多かったから、何だか中途半端なタイミングに薄っぺらいというのは珍しいなと思った。
理由は、そのアマゾンレビューさんに、DVDとかグッズの販売タイミングに合わせたのだろうと書かれていて、ほー、そういうものなのか、と思った。よりもうけを出す、効果的に宣伝するというのは、間違いなく資本主義の方針として正しいものなのだろうけれども、やっぱり、印象は悪いよな。結局、ファンとしては21巻だけ買わないとか、そんな選択肢はないわけだから、ある意味強制徴収である。(この構造で、すぐ思いつくのは、ある放送局である)
で、テトラ、というのが、ギリシア数字で、「4」を指すけれど、テトラレンマというのもある。四句否定、とも呼ばれる。
肉体と精神は同一なのか、肉体と精神は同一でないのか、肉体と精神は同一であって同一でないのか、肉体と精神はどういつではなく同一なのか。
A、Aの否定、AかつAの否定、Aの否定かつA。……よくわかんねーよ!(かっこ乾いたわらい)。
ううん、「空の論理」という、中観派の思想に関する本を読んでいたときは、おお、なるほどな、となったのだけれど、今自分の言葉でアウトプットしようとすると、意味を成していない。
この、自分の言葉でアウトプットできない、という状態のうちは、それは「理解」とは言えない。
多く、本とか、人の話しとか聞いていて、「ああ、なるほどね」という感覚になることはあるけれども、その殆どが、自分の現在までの知識や経験に置き換えて「納得」したように感じさせているに過ぎず、完全に新しい概念を構築している瞬間ではない。
そもそも、僕が他者との会話をあまり重要視しないのは、そのインプット性においてである、と言うと、ちょっと堅苦しくて、そもそも他者を蔑ろにするような言いぐさであり、「もうお前と何て話ししてやらねーぜ!」とか言われてしまうから、この表現はよくよく検討すべきなのだけれども、でも、ちょっと待ってくれ、僕が言いたいのは次のようなことだ。
ふつーのひと、もしくは、頭の回転が僕のように遅くて悪い人においては、一を聞いて10を知る、なんて無理である。
いや、それはそれでちょっと待って欲しい。1を聞いて10を知るって、どういうことだ?
つまり、その9というのは、「自分自身で考えたこと」ではなかろうか?
つまり、きっかけは、その1を話してくれた人なのだろうけれども、結局、その人が話をしているうちに、頭のいい人は、とっくに自分の頭の中で他の9を創造しているということなのだ。
であれば、「他者との会話をあまり重要視しない」と僕が上で表現したことは、むしろ、皆さんの周りにいる頭のいい方々こそそうである、とはいえないだろうか。――足りないな、表現が非常に足りない、もう少し書き進めよう。というより、頭のいい人のことはどうでもいい。
記憶とはどのようになされるのか。
面倒だけれども、繰り返し想起することによって、短期記憶から中期記憶へ、そして長期記憶となってそれはときに価値観とか信念とか言われる状態に遷移していくのである。
ここで、先ほどの、他者との会話、について戻るけれども、人と話すことの有用性はもちろん計り知れないほど大きいものだから言うまでもなくて、僕が上に書き残そうと思ったこととしては、「全く新しい概念」について、他者から一度なり二度なり聞いたところで、それが自分自身のインプットとは成りえない、ということである。
やっぱり、新しい概念については、苦労して、一人で、何度も繰り返して、ああでもないこうでもないと試行錯誤して、過去の経験や知識と照らし合わせながら、帰納的に否定を繰り返し、一つの名前を与え、概念としてインプットする必要があるのだと、そう思ったことを書いておこうと思ったのだ。
……ということを、例えば、口頭で表現したとしても、他者(ここでいう他者とは、自分も当然含まれる)に伝えることは困難であろう。こうして、文字として残すことで、少しばかり、結節点になるかならないか、という程度である。
人の記憶とは移ろいやすく、そのときの感情によってインプットが異なる場合もある。その人の用いる言葉の量や質、経験など、属人的な要素が多大に影響することだろう。
……と、ここまで書いて、あれ、僕は何をしようと思ってたのだ、と、はて分からなくなった。結集の歴史を調べようと思った? いや、あまり興味がわかない。何だっけ? 新しい概念をインプットするときの大変さと、その手順について考えようと思った? ああ、それは確かにメモしておこうと思った、けれど、何だ、指が動かない、頭が動かない、どうしたことだ?
このとき、小見出し(H2)が役に立つ。
ふむふむ、なるほど、書くべきことと書くべきでないこと、とな。
そうそう、「理解」ということは何か、という復習をしようと思ったのだ。
いろんな本がある。いろんな言葉がある。いろんな人がいる。
故に、その信念や価値観、感情といったものは多岐にわたり、色とりどりで複雑である。
それに触れれば触れるほどに、僕は、「自分」というものがよく分からなくなっていく。いわゆる、八方美人的な、その場でその時その相手に対して「適切な」行動や言動を取らなければという制約を発するようになるのである。
しかし、それは、往々にして決して「正解」なんて分からないものだし、すべての事象や対象において対応できるなんてことは不可能なのだ。
だから僕は、これが初めてではなかろうが、今取り組むべきは、「自分」についての考察だと思うのである。
……ここで話を終えてしまえば、今までと何ら変わらないのであり、もう少し書き進めてみようと思う。さて、「自分」と何か、という、モラトリアム期の若者のような問いであるけれども、どこから解決の糸口を見出していけばいいのだろうか?
それは、「理解」という概念が一つきっかけになるだろう。
理解とは、ここまで書いてきた通り、単に、「ああ、なるほどね」となっただけでは不十分である。そのインプットしたことを、何も参照せず、いつどんなときも、不変に迅速にアウトプットできること、それが「理解」である。
ではなぜ、その理解と自分とが関係するのだろうか。
理解の総体が、自分であるといえるからである。
人間とは、インプットとアウトプットの総体である。この定義によれば、人工知能(AI)もまた人間なのだろう。コンピュータは、基本的にインプットしかしない。もちろん、ディスプレイはユーザーに画像や文字をアウトプットしてくれるが、それは結局、コンピュータ内部での処理結果であり、アウトプット情報を用いるのは人間でしかない。人工知能がもし、人間に近づくことができるとしたら、その物理環境におけるインプットとアウトプットを繰り返し、相互行為の上発展させていくことができることに拠ることだろう。
つまり、インプットしかできない人は、人ではない、ということである。
すぐさま書いておくべきは、そのアウトプットというのが、決して、物理現実における、例えば対面コミュニケーションのみを指すのではない。別にこうやって、誰に聞かせるまでもなく、小さな辺境のブログにおいて書く行為であっても、それはアウトプットと言える。ただ、大学のレポートではないのだから、その他サイトや書籍の引用やコピーをしていてはダメだ。何にもよらず、ただ自分自身の思考のみで構築していく作業、それが理解としてのアウトプットである。
理解とは、生きるということに対する自らの思考の表現であるべきである。
これは、宗教者としてのみ必要なものではない。
最初に書いたある動画において、人が身体を考えて動かすときは、0.5秒のタイムラグが生じているのであり、武術においては、その0.5秒が致命的な遅れに繋がるという。考えて戦うのではなく、古い脳といわれる脳幹で、本能的に動くことができる方が圧倒的に強いということだ。
僕は、決して、考えることがすべてにおいて優先される大切なことだとは思っていない。
いやむしろ、その頭に生じる思考というものを嫌悪し、排除しようと試みたことすらある。そのうえで、やはり、「生きる」ということにおいては、その行為は無視できないものだと判断したのである。
その相互結果として、自動筆記(これ、ヴィトゲンシュタインの流れで書いた記事があった気がしたけど、これ、シュルレアリスムの概念だよな)といった、むしろ思考を排したアウトプットを試みるものでもある。
随分、「書くべきことと書くべきでないこと」という話しから長くなった気がする。そして、話しがそれていないだろうか。
この疑義、これが結構大事である。アウトプットに任せてしまうと、どこまでも行ってしまうのであるが、それが果たして「正しい」方向に進んでいるかは分からない。それに、「待って、ちょっとまってよ~」というのが、「自分」という存在規定なのであるが、こう表現してしまうと、やはりそもそも、インプットもアウトプットも、相互密接に関連するものであり、分けられないものだと思われる。
すべては因縁(いんねん)、縁起といって、相互関連しあって存在するものである。真実不変の実体は存在しないが、だからといって、すべてが無であるというわけではないのだ、というのが仏教思想である。
この概念に初めてふれ、「理解」※したのは、10年以上前になるけれども、これはやはりキリスト教とは全く異なる概念だと思う。
本来、すべての宗教は人が幸福に善くなるために存在するものだと思うから、キリスト教もユダヤ教も、仏教もバラモン教もジャイナ教も、ゾロアスター教も、ヒンドゥー教もアニミズムも、そのすべてを否定する気はない。
ただ、宗教については、何か「絶対的な概念」を尊重しそれを信仰するという在り方が多いと思われる。それを否定する気もないのだけれども、どうにも、それについては、僕の頭の在り方は、近しくなれないようであるというのが、10年ぐらいの結果として分かってきた。
死後の世界だって、あった方がいいかもしれない。
けれども、無かもしれない。そうそう、その死後は「無」である、というのも、相当に宗教的な考え方である、というある記事というかコメントを読んで、あーなるほどなぁ、と感心したのは最近のことだった気がする。
その死後の世界とか、精神と肉体とは同一かどうかとか、そういうことについて、シッダールタさんは一切答えなかった。そのことを、「十無記」などと言われるそうだ。(前出の「空の論理」より)
なんだか、潔いと感じないだろうか。分からないことは分からないんだぜ、という。尊者、真理に到達した人と呼ばれ、持ち上げられた人は、ついつい、思ってもないこと、思い付きで何か言いことを喋ってしまいそうである。でも、分からないことは分からないと、沈黙を貫くのである。この行動指針とか、見習うべきでなかろうか、ついつい、上司とか、親とか、立場が上の人は、分からないことを恥だとして、適当なことをその場しのぎで言ったりしがちだけれども、辞めた方がいいってことだ。すぐさま書いておくべきは、やっぱり、その立場において知っておくべきことってのはあると思う。例えば教師という立場において、勉強のこと何も知らないってのはおかしいわけだ。
※空の論理のことを、僕が学者的に、一般的に、正しく理解できているという傲慢では決して無い。ただ、ここまで書いてきた「理解」という定義――すなわち、自分の言葉で何も参照せずにアウトプット可能であったという事実――により、理解している、と表現した。
よく考えると、来週、再来週の休日はずっと予定が入っているのだった。こうしてじっくり思考に時間をまわせるのは昨日と今日ぐらいだった。そう考えるとやはり後悔が……いやいや、落ち着こう。
とにかく、何か、数量的なやるべきことを定めておく必要がある。それを一般的に目標と呼ぶ。最近ブログを再開されたある方は目標を定められ、着実に成果を出しているようで、何とも焦燥感である。いやはや僕も、このブログ自体を、例えば、月の半分以上は書きます! とか目標を出していれば、十分すぎるほど達成であり、自己肯定感にひたれるはずだったのだ。
だが、そんなことどこにも書いてないし、思ってもいない。むしろ、このブログは息するようなものだ、まぁそれはそれでいいのかもしれないが。
そういう意味だと、日課を何とか、危機を乗り越え続けられているのは、プラス要素と言えるだろう。最近、暇があれば、「あ、ルーチンしなきゃ」と思うようになってきたから、いい感じと言える。しかし、カウンタみると、まだ26日なのか。次の危機はおそらく3か月後ぐらいになるだろうな。
この前作ったライフチャートみても、長期的過ぎていまいち実感がわいてこない。
これだ、これなんだ。なんというか、主体と客体という問題があって、このあたりがキルケゴールさんの素晴らしい業績なんだけど、客体的な問題(日本の政治とか世界の貧困だとか環境問題とかとっても重要な問題について)について考えているうちは、主体、自分自身の問題の逼迫した重さ、苦しさというものから少しばかり逃れることができるようになるのだ。
ジョルジュバダイユさんの言う、「すべての芸術は死の恐怖からの逃避なのだ」というのも、言いこというよなぁと思わざるを得ない。
空(くう)がどうたらとか、理解がどうたらとか、まぁしたり顔で語ってきたところで、それが何の主体的問題に役に立つのだろうか。(いや当然、役に立つとかいう次元ではなく、そもそも、自分自身についての定義をなさなければ、主体的問題も語りえないのであるから、必要なことであるのだけれど)
だからだ、これから髪を切りに行って、食料を幾ばくか買い足して、お昼ご飯を何食べようかとか、部屋の掃除しなきゃとか、シンク周り磨きたいなとか、洗濯……は朝したからいいか、婚活するかとか明日の仕事の進め方……そりゃどうでもいいや、そろそろ何か「作品」に対しての行動したいなとか、……そういったことの積み重ねが、人生そのものだろう? と。
自己卑下に苛まれて、自分はダメな奴だと言い聞かせて余生を送るのも一つだし、ポジティブ思考で何でも挑戦してやる頑張ってやるぞ! とキラキラ輝くのも一つだし、様々な物語がある。
物語と書くと、またしても何だか、他人ごとのようで、客体的なことのようだけれども、これはそうではなく、主体的な物語を選択するべきだ、ということである。
取りあえず、過去の様々なできごとなんて、別に関係ないだろう、と同時に、それは無かったことでも無駄でもあるまい。そのすべては事実であり、そして、重要性は帯びないのだ。重要性があるとしたら、その選択性においてである。
何のために生きるのか ずっと意味を求め続け
求める時間さえも 失われていくのか
何のために生きるのか、何が大切なのか、何が必要なのか、……様々考えていくその瞬間も、時間は過ぎ去っていくのである。
いい人生だった。我が人生に一片の悔いなしと、そう言い切れるような、積み重ねをしたいわな。
そのためには何が必要か。ぱっと思いつくのは、
・仕事の成果
・人脈の多さ
・作品の数
・恋人の数
・子供の数
・ブログのPV
・趣味の数
・料理とかできることの数
とか。ブレーンストーミングのため、批判せずに書いてみる。しかし、何か怪しいものも含まれてるな(笑)。嘘くせぇと自分でも思ったりする。
何だろな、こうやって具体的にしようとすると、すぐに頭によぎるのは、「まぁ、俺別にいなくても世界困らないよな」という感覚。これが結構つらいものなのだ。
それゆえに、若いころは、「恋人」という概念に結構期待して縋ったりしていた。この辺りが、「最終兵器彼女」という作品の面白いという感受性から悪害であるとの感覚への変化でもあるが。
そりゃ、自分の遺伝子残せたら、それだけで生物としては勝ち組だよね。多けりゃ多いほどよいだろうよ。その結果の社会システムだ、というのもまた大分納得させられるものだ。
いや、これはぶっちゃけ真理なわけであり、どんなに高尚な孤独の思想をうたったところで、生物論的にこられたら太刀打ちできないわけだ。故に、ここら辺、戦っても仕方がない分野である。それがいやなら、さっさと婚活して子供つくって養って死ねばいいのである。それが生きる意味でした~という、孫に看取られて死ぬ瞬間に、「ああいい人生だった喃」と言えば解決なのである。
はたまた、人類の歴史に残る偉業を達成するか。歴史の教科書に載るようなことを成し遂げるのが生きる意味だというのか。
それぞれ、事実だろう。
それは、間違いなく、「意味」だろう。
しかし、負け犬と謗られても、卑屈と罵られようとも、僕は、それらが、「自分の意味だったのか?」という疑問を投げかけようと思う。
くだらない例えをもちだせば、鎌倉将軍の源頼朝の嗣子は、三代将軍実朝が暗殺されて途絶えたのではなかったろうか(特に調べてないし、他にも子供がいたような気がするから現代まで脈々と血が受け継がれているのかもしれない)。子孫を残す、という意味において、それは、一代だけ残せれば「意味」として感じられるのか、何百年とお家を存続させることが「意味」として感じられるのか、それもそもそも、その人次第ではなかろうか。
歴史の教科書に載るという意味では、頼朝さんを知らない日本人は殆どいないだろうが、今後グローバル化がますます進んで、国家という概念がなくなるような未来がきたときに、「統一された世界の歴史教科書」においては、紙面の都合上掲載されない人たちがますます増えていくことだろう。専門的な学術書の一部には、自分の名前が掲載されているかもしれない、でも、そんな、ごくわずかな人にしか知られないような状態が、その人の本当の生きる意味、満足に繋がったことなのだろうか。もちろん、そのことをその人が知る由はないのだが……。
この前のライフチャートにおいて、80歳を終点にしたのは、厚労省の生命表から平均余命を考慮してのものだったけれども、シッダールタさんの入滅も同じ歳だからというのもある。
対照理解として必要になるのは、当然キリスト教やイスラム教のインプットも重要だ。専門性とは視野狭窄になることではなく、その普遍性の追究と思うのだけれど、まぁこれは理想であって、凡人の自分がどこまでできるかは分からないが、とかく、自分との折り合いをつけられるレベルまでは追究していく必要があるだろう。
ので、上に挙げた、仕事とか人脈とか婚活とか、それはまぁ一つの手段として脇に置いておいて、やはり、信念や価値観といったものの強化を、しばらくの目標にしよう。目下、5年ぐらいのスパンとしよう。
ああ、僕は、あれだな、面接なんかで、「尊敬する人物は誰ですか?」「生き返らせられるとしたら誰を生き返らせますか?」という問いに非常に悩んでしまうだろうが、今のこの感覚で言うと、シッダールタさんです、と素直に答えられそうだ。
そう、だから、思うに、さっきの「歴史の教科書」問題じゃないけれど、名前が載るというのに、大した意味がないと、やはり僕は思っているのだ。
重要性があるとしたら、その「考え方」とか、「教え」というのが残っていることの方が、よほど価値あることじゃあなかろうか、と。
そうなってくると、話しが繋がってきて、やっぱり、「物語」って大事だよな、となる。
その人の、誰か知らない人に対しても、心に突き刺さる、魂魄を揺るがすような、そんな物語が紡げたら、それは存在意義があったと、いえなかろうか。
……全然足りない。まだまだ表現すべきこと、書いておくべきこと、考えることがたくさんある。
が、完全に時間オーバーだ。仕方がない、また夜にでも時間があれば続けたい。
日課、とはできないだろうけれども、この睡眠のコントロールというのも、一つ生活の一部に組み込む必要がありそうだ、と思いながら、過去の経験は、その失敗の数々、積みあがった屍の無量さにあきれ返るわけなのだけれども、それでも、このタイミングで一度問題提起としよう。
直近の振り返り
・ある女性の婚活ブログを読んだ・ガンスリンガーガールの漫画とアニメをみた
・アイアムアヒーローの最新刊21巻を読んだ
・四諦と八正道の復習をした
・龍樹の中論についてのホームページを見つけた
・合気道についての動画を見た
これぐらいかなぁ。インプットも、アウトプットも微妙だ。風邪の具合はよくなった気がするけれども、金曜日は帰宅が遅く寝るのが遅くなった(といっても25時ぐらいには床に入った気がするが)ため、昨日は、9時ぐらいには目が覚めたものの、全般的なやる気が起きず、日課をやってからまた寝て、起きて簡単な料理をつくっては寝て、何かしなければ、何か考えなければと思いながら、何だかだるいなと寝て、の繰り返しであった。結果、夜、全然眠れず、今もまた、何だか身体がだるい状態である。
そうだ、こういうときはカフェラテを作ろう。まぁ、コーヒーがエスプレッソじゃないから、カフェオレなんだけど、カフェオレっていうと、子供の飲み物というか、味が薄いというか、そんな印象が強いから、カフェラテって言ってしまう。これが見栄とか虚飾という奴なのだろう。誰に対して、というわけでもなく、自分に対して、という寂しいものだが。
――。
うん、旨い。こんな簡単に作れるなら、昨日も飲めば良かった。牛乳のストックもあったわけだし。これを飲むか飲まないかで、昨日の時間の使い方が大きく変わった気すらしてならない。まぁ仕方がない、過去の過ぎ去った時間を後悔することは、僕の信念とかポリシーとか考えとか価値観とかその他もろもろに反するものである。というのは、単に自分への言い訳なんじゃね? という反転思考は無視しよう。
近々、ある方の新しい作品が公開されるということで、楽しみでもある。
アイアムアヒーロー21巻の薄さ
新しい作品というと、アイアムアヒーローは、相変わらず面白く、先が気になるところだが、アマゾンのレビューにおいて、「作品自体はよいのですが、値段が変わらず21巻は薄っぺらいので、出版社というか提供側のもうけ主義的なのが見え透いて評価☆1です」というのがあって(文意は捉えたつもりだが表現は僕の言葉で置き換えてあり全然違うと思う)、本屋さんで手に取ったとき、僕も、「ああ、ほんと、薄いなこれ(笑)」と思った。レビューを読まなければ気付かなかったかな? いや、きっと、僕も思っただろう、それぐらい薄い。本棚に並べてみると、やっぱり薄い(笑)。いや笑いごっちゃないかもな。何だか、連載の書籍って、巻数によって厚みが違うことは知っていたが、それは、最終巻をちょうどいい巻数(10巻とか20巻とか)にするため、最終巻が分厚くなっているとか、そういうことが多かったから、何だか中途半端なタイミングに薄っぺらいというのは珍しいなと思った。
理由は、そのアマゾンレビューさんに、DVDとかグッズの販売タイミングに合わせたのだろうと書かれていて、ほー、そういうものなのか、と思った。よりもうけを出す、効果的に宣伝するというのは、間違いなく資本主義の方針として正しいものなのだろうけれども、やっぱり、印象は悪いよな。結局、ファンとしては21巻だけ買わないとか、そんな選択肢はないわけだから、ある意味強制徴収である。(この構造で、すぐ思いつくのは、ある放送局である)
書くべきことと書くべきでないこと
ジレンマというのが、二つの事象があって、どちらを選んでも問題を避けられない、というような状態を示す。で、テトラ、というのが、ギリシア数字で、「4」を指すけれど、テトラレンマというのもある。四句否定、とも呼ばれる。
肉体と精神は同一なのか、肉体と精神は同一でないのか、肉体と精神は同一であって同一でないのか、肉体と精神はどういつではなく同一なのか。
A、Aの否定、AかつAの否定、Aの否定かつA。……よくわかんねーよ!(かっこ乾いたわらい)。
ううん、「空の論理」という、中観派の思想に関する本を読んでいたときは、おお、なるほどな、となったのだけれど、今自分の言葉でアウトプットしようとすると、意味を成していない。
この、自分の言葉でアウトプットできない、という状態のうちは、それは「理解」とは言えない。
多く、本とか、人の話しとか聞いていて、「ああ、なるほどね」という感覚になることはあるけれども、その殆どが、自分の現在までの知識や経験に置き換えて「納得」したように感じさせているに過ぎず、完全に新しい概念を構築している瞬間ではない。
そもそも、僕が他者との会話をあまり重要視しないのは、そのインプット性においてである、と言うと、ちょっと堅苦しくて、そもそも他者を蔑ろにするような言いぐさであり、「もうお前と何て話ししてやらねーぜ!」とか言われてしまうから、この表現はよくよく検討すべきなのだけれども、でも、ちょっと待ってくれ、僕が言いたいのは次のようなことだ。
記憶の仕組み
いつものごとく、天才とか頭のいい人のことは除外する。ふつーのひと、もしくは、頭の回転が僕のように遅くて悪い人においては、一を聞いて10を知る、なんて無理である。
いや、それはそれでちょっと待って欲しい。1を聞いて10を知るって、どういうことだ?
つまり、その9というのは、「自分自身で考えたこと」ではなかろうか?
つまり、きっかけは、その1を話してくれた人なのだろうけれども、結局、その人が話をしているうちに、頭のいい人は、とっくに自分の頭の中で他の9を創造しているということなのだ。
であれば、「他者との会話をあまり重要視しない」と僕が上で表現したことは、むしろ、皆さんの周りにいる頭のいい方々こそそうである、とはいえないだろうか。――足りないな、表現が非常に足りない、もう少し書き進めよう。というより、頭のいい人のことはどうでもいい。
記憶とはどのようになされるのか。
面倒だけれども、繰り返し想起することによって、短期記憶から中期記憶へ、そして長期記憶となってそれはときに価値観とか信念とか言われる状態に遷移していくのである。
ここで、先ほどの、他者との会話、について戻るけれども、人と話すことの有用性はもちろん計り知れないほど大きいものだから言うまでもなくて、僕が上に書き残そうと思ったこととしては、「全く新しい概念」について、他者から一度なり二度なり聞いたところで、それが自分自身のインプットとは成りえない、ということである。
やっぱり、新しい概念については、苦労して、一人で、何度も繰り返して、ああでもないこうでもないと試行錯誤して、過去の経験や知識と照らし合わせながら、帰納的に否定を繰り返し、一つの名前を与え、概念としてインプットする必要があるのだと、そう思ったことを書いておこうと思ったのだ。
……ということを、例えば、口頭で表現したとしても、他者(ここでいう他者とは、自分も当然含まれる)に伝えることは困難であろう。こうして、文字として残すことで、少しばかり、結節点になるかならないか、という程度である。
仏典結集
そう考えると、仏陀の言葉をまとめたスッタニパータとか、各地の弟子たちが集まって、あのとき仏陀はこうおっしゃった、あのように行動された、とか、長い時間をかけて話し合って、それをまとめ上げるという作業はとても困難で、大変なことであったのだろうと思う。人の記憶とは移ろいやすく、そのときの感情によってインプットが異なる場合もある。その人の用いる言葉の量や質、経験など、属人的な要素が多大に影響することだろう。
……と、ここまで書いて、あれ、僕は何をしようと思ってたのだ、と、はて分からなくなった。結集の歴史を調べようと思った? いや、あまり興味がわかない。何だっけ? 新しい概念をインプットするときの大変さと、その手順について考えようと思った? ああ、それは確かにメモしておこうと思った、けれど、何だ、指が動かない、頭が動かない、どうしたことだ?
このとき、小見出し(H2)が役に立つ。
ふむふむ、なるほど、書くべきことと書くべきでないこと、とな。
そうそう、「理解」ということは何か、という復習をしようと思ったのだ。
理解すること
人の会話に重要性を置かない、と敢えて、「人間嫌い」みたいな感情エラー(あってはならない、思ってはならないこと)の表現をしたのは、逆に僕が、他者の言葉や感情に対する感受性が高いことによる、デメリットを銘記する必要があると考えたからだ。いろんな本がある。いろんな言葉がある。いろんな人がいる。
故に、その信念や価値観、感情といったものは多岐にわたり、色とりどりで複雑である。
それに触れれば触れるほどに、僕は、「自分」というものがよく分からなくなっていく。いわゆる、八方美人的な、その場でその時その相手に対して「適切な」行動や言動を取らなければという制約を発するようになるのである。
しかし、それは、往々にして決して「正解」なんて分からないものだし、すべての事象や対象において対応できるなんてことは不可能なのだ。
だから僕は、これが初めてではなかろうが、今取り組むべきは、「自分」についての考察だと思うのである。
……ここで話を終えてしまえば、今までと何ら変わらないのであり、もう少し書き進めてみようと思う。さて、「自分」と何か、という、モラトリアム期の若者のような問いであるけれども、どこから解決の糸口を見出していけばいいのだろうか?
それは、「理解」という概念が一つきっかけになるだろう。
理解とは、ここまで書いてきた通り、単に、「ああ、なるほどね」となっただけでは不十分である。そのインプットしたことを、何も参照せず、いつどんなときも、不変に迅速にアウトプットできること、それが「理解」である。
ではなぜ、その理解と自分とが関係するのだろうか。
理解の総体が、自分であるといえるからである。
人間とは、インプットとアウトプットの総体である。この定義によれば、人工知能(AI)もまた人間なのだろう。コンピュータは、基本的にインプットしかしない。もちろん、ディスプレイはユーザーに画像や文字をアウトプットしてくれるが、それは結局、コンピュータ内部での処理結果であり、アウトプット情報を用いるのは人間でしかない。人工知能がもし、人間に近づくことができるとしたら、その物理環境におけるインプットとアウトプットを繰り返し、相互行為の上発展させていくことができることに拠ることだろう。
つまり、インプットしかできない人は、人ではない、ということである。
すぐさま書いておくべきは、そのアウトプットというのが、決して、物理現実における、例えば対面コミュニケーションのみを指すのではない。別にこうやって、誰に聞かせるまでもなく、小さな辺境のブログにおいて書く行為であっても、それはアウトプットと言える。ただ、大学のレポートではないのだから、その他サイトや書籍の引用やコピーをしていてはダメだ。何にもよらず、ただ自分自身の思考のみで構築していく作業、それが理解としてのアウトプットである。
アウトプットすべきこと
その理解というのは、いわゆる、知識、についての理解だけが重要なのでは無い。理解とは、生きるということに対する自らの思考の表現であるべきである。
これは、宗教者としてのみ必要なものではない。
最初に書いたある動画において、人が身体を考えて動かすときは、0.5秒のタイムラグが生じているのであり、武術においては、その0.5秒が致命的な遅れに繋がるという。考えて戦うのではなく、古い脳といわれる脳幹で、本能的に動くことができる方が圧倒的に強いということだ。
僕は、決して、考えることがすべてにおいて優先される大切なことだとは思っていない。
いやむしろ、その頭に生じる思考というものを嫌悪し、排除しようと試みたことすらある。そのうえで、やはり、「生きる」ということにおいては、その行為は無視できないものだと判断したのである。
その相互結果として、自動筆記(これ、ヴィトゲンシュタインの流れで書いた記事があった気がしたけど、これ、シュルレアリスムの概念だよな)といった、むしろ思考を排したアウトプットを試みるものでもある。
随分、「書くべきことと書くべきでないこと」という話しから長くなった気がする。そして、話しがそれていないだろうか。
この疑義、これが結構大事である。アウトプットに任せてしまうと、どこまでも行ってしまうのであるが、それが果たして「正しい」方向に進んでいるかは分からない。それに、「待って、ちょっとまってよ~」というのが、「自分」という存在規定なのであるが、こう表現してしまうと、やはりそもそも、インプットもアウトプットも、相互密接に関連するものであり、分けられないものだと思われる。
空(シュニャーター)
空(くう)とは、欠けていること、実体がないこと、を指す。しかし、無という概念とは異なる。ゼロは、確かに何もない状態を指すが、ゼロという概念は存在し、それゆえに1、2、3……という数量が存在する。すべては因縁(いんねん)、縁起といって、相互関連しあって存在するものである。真実不変の実体は存在しないが、だからといって、すべてが無であるというわけではないのだ、というのが仏教思想である。
この概念に初めてふれ、「理解」※したのは、10年以上前になるけれども、これはやはりキリスト教とは全く異なる概念だと思う。
本来、すべての宗教は人が幸福に善くなるために存在するものだと思うから、キリスト教もユダヤ教も、仏教もバラモン教もジャイナ教も、ゾロアスター教も、ヒンドゥー教もアニミズムも、そのすべてを否定する気はない。
ただ、宗教については、何か「絶対的な概念」を尊重しそれを信仰するという在り方が多いと思われる。それを否定する気もないのだけれども、どうにも、それについては、僕の頭の在り方は、近しくなれないようであるというのが、10年ぐらいの結果として分かってきた。
死後の世界だって、あった方がいいかもしれない。
けれども、無かもしれない。そうそう、その死後は「無」である、というのも、相当に宗教的な考え方である、というある記事というかコメントを読んで、あーなるほどなぁ、と感心したのは最近のことだった気がする。
その死後の世界とか、精神と肉体とは同一かどうかとか、そういうことについて、シッダールタさんは一切答えなかった。そのことを、「十無記」などと言われるそうだ。(前出の「空の論理」より)
なんだか、潔いと感じないだろうか。分からないことは分からないんだぜ、という。尊者、真理に到達した人と呼ばれ、持ち上げられた人は、ついつい、思ってもないこと、思い付きで何か言いことを喋ってしまいそうである。でも、分からないことは分からないと、沈黙を貫くのである。この行動指針とか、見習うべきでなかろうか、ついつい、上司とか、親とか、立場が上の人は、分からないことを恥だとして、適当なことをその場しのぎで言ったりしがちだけれども、辞めた方がいいってことだ。すぐさま書いておくべきは、やっぱり、その立場において知っておくべきことってのはあると思う。例えば教師という立場において、勉強のこと何も知らないってのはおかしいわけだ。
※空の論理のことを、僕が学者的に、一般的に、正しく理解できているという傲慢では決して無い。ただ、ここまで書いてきた「理解」という定義――すなわち、自分の言葉で何も参照せずにアウトプット可能であったという事実――により、理解している、と表現した。
今後の指針
御託は分かったけど、だから何だって言うんだ、と、未来の自分に言われそうだ。よく考えると、来週、再来週の休日はずっと予定が入っているのだった。こうしてじっくり思考に時間をまわせるのは昨日と今日ぐらいだった。そう考えるとやはり後悔が……いやいや、落ち着こう。
とにかく、何か、数量的なやるべきことを定めておく必要がある。それを一般的に目標と呼ぶ。最近ブログを再開されたある方は目標を定められ、着実に成果を出しているようで、何とも焦燥感である。いやはや僕も、このブログ自体を、例えば、月の半分以上は書きます! とか目標を出していれば、十分すぎるほど達成であり、自己肯定感にひたれるはずだったのだ。
だが、そんなことどこにも書いてないし、思ってもいない。むしろ、このブログは息するようなものだ、まぁそれはそれでいいのかもしれないが。
そういう意味だと、日課を何とか、危機を乗り越え続けられているのは、プラス要素と言えるだろう。最近、暇があれば、「あ、ルーチンしなきゃ」と思うようになってきたから、いい感じと言える。しかし、カウンタみると、まだ26日なのか。次の危機はおそらく3か月後ぐらいになるだろうな。
この前作ったライフチャートみても、長期的過ぎていまいち実感がわいてこない。
これだ、これなんだ。なんというか、主体と客体という問題があって、このあたりがキルケゴールさんの素晴らしい業績なんだけど、客体的な問題(日本の政治とか世界の貧困だとか環境問題とかとっても重要な問題について)について考えているうちは、主体、自分自身の問題の逼迫した重さ、苦しさというものから少しばかり逃れることができるようになるのだ。
ジョルジュバダイユさんの言う、「すべての芸術は死の恐怖からの逃避なのだ」というのも、言いこというよなぁと思わざるを得ない。
空(くう)がどうたらとか、理解がどうたらとか、まぁしたり顔で語ってきたところで、それが何の主体的問題に役に立つのだろうか。(いや当然、役に立つとかいう次元ではなく、そもそも、自分自身についての定義をなさなければ、主体的問題も語りえないのであるから、必要なことであるのだけれど)
だからだ、これから髪を切りに行って、食料を幾ばくか買い足して、お昼ご飯を何食べようかとか、部屋の掃除しなきゃとか、シンク周り磨きたいなとか、洗濯……は朝したからいいか、婚活するかとか明日の仕事の進め方……そりゃどうでもいいや、そろそろ何か「作品」に対しての行動したいなとか、……そういったことの積み重ねが、人生そのものだろう? と。
思考による逃げ
物語が必要だ、と書いたのは、重大な知見の一つに思われる。自己卑下に苛まれて、自分はダメな奴だと言い聞かせて余生を送るのも一つだし、ポジティブ思考で何でも挑戦してやる頑張ってやるぞ! とキラキラ輝くのも一つだし、様々な物語がある。
物語と書くと、またしても何だか、他人ごとのようで、客体的なことのようだけれども、これはそうではなく、主体的な物語を選択するべきだ、ということである。
取りあえず、過去の様々なできごとなんて、別に関係ないだろう、と同時に、それは無かったことでも無駄でもあるまい。そのすべては事実であり、そして、重要性は帯びないのだ。重要性があるとしたら、その選択性においてである。
何のために生きるのか ずっと意味を求め続け
求める時間さえも 失われていくのか
何のために生きるのか、何が大切なのか、何が必要なのか、……様々考えていくその瞬間も、時間は過ぎ去っていくのである。
がむしゃらに生きること
かといって、ただ、がむしゃらに、日々の生活を忙しく、必死に生きるというのも、また違うと思う。(もちろん、これは一つの選択に過ぎず、全人類普遍のものとは思っていない)いい人生だった。我が人生に一片の悔いなしと、そう言い切れるような、積み重ねをしたいわな。
そのためには何が必要か。ぱっと思いつくのは、
・仕事の成果
・人脈の多さ
・作品の数
・恋人の数
・子供の数
・ブログのPV
・趣味の数
・料理とかできることの数
とか。ブレーンストーミングのため、批判せずに書いてみる。しかし、何か怪しいものも含まれてるな(笑)。嘘くせぇと自分でも思ったりする。
何だろな、こうやって具体的にしようとすると、すぐに頭によぎるのは、「まぁ、俺別にいなくても世界困らないよな」という感覚。これが結構つらいものなのだ。
それゆえに、若いころは、「恋人」という概念に結構期待して縋ったりしていた。この辺りが、「最終兵器彼女」という作品の面白いという感受性から悪害であるとの感覚への変化でもあるが。
そりゃ、自分の遺伝子残せたら、それだけで生物としては勝ち組だよね。多けりゃ多いほどよいだろうよ。その結果の社会システムだ、というのもまた大分納得させられるものだ。
いや、これはぶっちゃけ真理なわけであり、どんなに高尚な孤独の思想をうたったところで、生物論的にこられたら太刀打ちできないわけだ。故に、ここら辺、戦っても仕方がない分野である。それがいやなら、さっさと婚活して子供つくって養って死ねばいいのである。それが生きる意味でした~という、孫に看取られて死ぬ瞬間に、「ああいい人生だった喃」と言えば解決なのである。
はたまた、人類の歴史に残る偉業を達成するか。歴史の教科書に載るようなことを成し遂げるのが生きる意味だというのか。
それぞれ、事実だろう。
それは、間違いなく、「意味」だろう。
しかし、負け犬と謗られても、卑屈と罵られようとも、僕は、それらが、「自分の意味だったのか?」という疑問を投げかけようと思う。
くだらない例えをもちだせば、鎌倉将軍の源頼朝の嗣子は、三代将軍実朝が暗殺されて途絶えたのではなかったろうか(特に調べてないし、他にも子供がいたような気がするから現代まで脈々と血が受け継がれているのかもしれない)。子孫を残す、という意味において、それは、一代だけ残せれば「意味」として感じられるのか、何百年とお家を存続させることが「意味」として感じられるのか、それもそもそも、その人次第ではなかろうか。
歴史の教科書に載るという意味では、頼朝さんを知らない日本人は殆どいないだろうが、今後グローバル化がますます進んで、国家という概念がなくなるような未来がきたときに、「統一された世界の歴史教科書」においては、紙面の都合上掲載されない人たちがますます増えていくことだろう。専門的な学術書の一部には、自分の名前が掲載されているかもしれない、でも、そんな、ごくわずかな人にしか知られないような状態が、その人の本当の生きる意味、満足に繋がったことなのだろうか。もちろん、そのことをその人が知る由はないのだが……。
諸行無常
この世のむなしさについて、適切に表現した最古の現存するものとは、やはりシッダールタさんの言葉と生き方なんじゃないかと、僕は思うので、これらについて、もっとインプットと「理解」を深めるために時間を使いたいと思う。この前のライフチャートにおいて、80歳を終点にしたのは、厚労省の生命表から平均余命を考慮してのものだったけれども、シッダールタさんの入滅も同じ歳だからというのもある。
対照理解として必要になるのは、当然キリスト教やイスラム教のインプットも重要だ。専門性とは視野狭窄になることではなく、その普遍性の追究と思うのだけれど、まぁこれは理想であって、凡人の自分がどこまでできるかは分からないが、とかく、自分との折り合いをつけられるレベルまでは追究していく必要があるだろう。
ので、上に挙げた、仕事とか人脈とか婚活とか、それはまぁ一つの手段として脇に置いておいて、やはり、信念や価値観といったものの強化を、しばらくの目標にしよう。目下、5年ぐらいのスパンとしよう。
ああ、僕は、あれだな、面接なんかで、「尊敬する人物は誰ですか?」「生き返らせられるとしたら誰を生き返らせますか?」という問いに非常に悩んでしまうだろうが、今のこの感覚で言うと、シッダールタさんです、と素直に答えられそうだ。
そう、だから、思うに、さっきの「歴史の教科書」問題じゃないけれど、名前が載るというのに、大した意味がないと、やはり僕は思っているのだ。
重要性があるとしたら、その「考え方」とか、「教え」というのが残っていることの方が、よほど価値あることじゃあなかろうか、と。
そうなってくると、話しが繋がってきて、やっぱり、「物語」って大事だよな、となる。
その人の、誰か知らない人に対しても、心に突き刺さる、魂魄を揺るがすような、そんな物語が紡げたら、それは存在意義があったと、いえなかろうか。
……全然足りない。まだまだ表現すべきこと、書いておくべきこと、考えることがたくさんある。
が、完全に時間オーバーだ。仕方がない、また夜にでも時間があれば続けたい。
一週間が終わった。
トラブルもあり、久々にいらっとすることもあったが、概ね順調だったといえる。その順調とは所詮、現実性のものであって、思考レベルの深化は進んでいないと思う。
なんだか、もやもやして、とある牛丼屋でビールが100円台で提供されているのにひかれて、飲んできた。
特に薄いとかもなく、普通のビールだ。さすがに量は少ないが、ちょっと飲むのには十分だろう。
しかし、酒を飲んで何か解決するかというとそうではない、ただ、こうして真面目に向き合う気になったのは、効能に思える。
さて、僕は、教養があるのだろうか。教養とは、シェイクスピアを全集読んでいることか。とういそくみょうな言動が重要か。
こういった問いは、面白いかもしれないが、何ら成長には貢献しないかもしれない。
この無意味性が、意味を考えることの真髄を示している。
つまり、意味、なんてものは、それ自体役に立つものではないのだ。
人は、なにかを、させられている感覚を嫌う。
主人公になりたいのだ、権力をもちたいのだ。
しかし、誰しもそうはなれない。すると、論理という、別の超越的なものを求めるようになる。
すなわち、僕はお前に言われたからこうしているのではない、これが、ルールとして定められていて正しいからそうしているのだ、と。
カントの道徳律みたいだ。
とにかく、論理とは、世界的に真実のようでありながら、それは、自らを納得させて、現実に生きさせる、慰みもの、自慰のようなものなのだ。
何事もすべて自由にできるようになったら、敢えてルールになんて従わないかもしれない。
もちろん、その先を考える能力、未来思考こそが人間の長所であり、傍若無人、きょうけんふかい、支離滅裂でありつづければ、そのうち革命的事変が起こって、その地位から引きずりおろされる可能性を考慮すれば、知的な権力者の誕生である。
論理的に考えることを重要視していることが、常々あらわれている記事も多いように思う。
しかし、この論理の否定は、実際は試してみたものでもある。感覚的に生きてみた、という表現がそれである。
結局その試みは成功しなかった。もちろん、すべて失敗ではなかったものの、その永遠性安定性の意味においては役に立たなかったのだ。
上の表現は、珍しく誰にでも当てはまる普遍性がある。
いわゆるリア充とは、その努力という行為を含めて、理想自己と現実世界の事象が一致しているのである。
残念なことに、とても残念ながら、僕は、リア充ではなかったのだ。
ここでいうリア充とは、単にルックスのことを指さない。不細工だろうが性格が悪かろうが、リア充である可能性がある。
それは、メタな次元において、自分自身であるということだ。
メタな次元、と表現を加える必要があるのは、リア充だからといって不快な気持ちになることはあるし、失敗して落ち込むことだってあるということだ。
しかし、自己の深い部分において、世界と、自分とは一致しているのだ、バラモン教の梵我一如のようだ。
それでもって、僕のこの思考の目的は、その一致への試みというわけだ。
理想自己が低ければ低いほどいい、というわけではない。というよりも、理想自己はそれ自体が普遍性であり、代えられる目標のようなものではない。
いま現時点、自分がそうあるしかありえない、その瞬間における思考であり、感情であり、身体であり、行動のことである。
つまり、理想自己とは、楽しいとか苦しいとかそういう相対概念などではなく、真実である。
すぐさま書くべきは、その真実という表現は、決して、神とか、超越的なものを求めるものではない。
例えばなにか失敗したときに、僕たちは、ああしておけばよかったとか、後悔を感じる。
しかしそれは、真実ではなかったということだ。
いや、感じるのは仕方がないにしても、すべて、そのときそのすべての条件においては、そうせざるをえなかったという強い実感、それこそが理想自己との一致をした状態である。
難しい表現になっているな。ここで簡易的に書いておくべきは、理想自己となっていれば、実は後悔なんて発生しないのだ。
すぐに書くべきは、これをこじらせたり勘違いすると、人の話を認められない自己正当化の亡者になるのである。
まぁ、さらに本当にこれを極めると、その他者に与えることも含めて、自分に満足することになる。こうなってくると醜悪である。
先日、誰かは分からないが、拍手してくれる人がいて嬉しいが、そうした気持ちを認めるためには、いくら気恥ずかしい気持ちであっても、自己の分析に手を抜いてはならない、と書いた。
拍手のあるなしにかかわらず、僕は書くことは変わらないし、自分のために書いているというのは変わらない、という、クールな自分がいて、読者の反応の多い少ないで、気持ちが左右されるわけではない冷静沈着な自分によっているのだ、とか。
そこまで考えているかはわからないけど、何か蓋をしようとする自分の気持ちから、逃げてはダメだ。
それをすると、もう自己正当化のためだけの思考となる。そんなの気持ち悪い、というか、そもそも僕の理想自己ではないのだ。
理想自己と現実とのギャップを少なくするのが、思考の役割である。
ギャップを変えずに、現状維持という安定性を求めるのであれば、すぐにでも思考はやめて、限りない快楽の世界を探すべきだ。
どうせギャップが縮まらず、うだうだ不平をいい続けるのなら、よっぽど毎日楽しく過ごす、現実的な方法をさがすべきである。
最初に書いた通り、思考は、それだけであったとき、現実に何も与えない。
考えただけで何か現象化したらそれは魔法である。
というより、考えただけ、という事態はそもそもない。何せ、考えとは、身体というフィードバックを常にうけつづけているのだから。
勝手にすれば、というよりも、君がそう思うならいんじゃない?、というのは、僕にとって、愚か者といわれるよりもイラッとする可能性がある。
結局その相手は、僕のことを認めてはいないし、そのどこがよくないかを話すつもりもない、という態度なわけだ。
まだ、俺は違うと思う、といわれたほうがましだ。なぜなら、僕は自己正当化のために思考するのではないから、指摘や指導は重要に思うのだ。
ここまで、繋がっているかは分からないが、ポイントは、思考自体は無駄であること、しかしながら、だからこそ、様々な事象に対応できる思考の構築が重要だということだ。
何か起こったとき、いちいち解答を考えていては、いくら時間があってもきりがない。
考える時間の排除と効率化が、ライン生産、トヨタの看板方式、マニュアル主義である。
それは、一定以上、豊かな日本をつくりだすことに成功した。
しかし、そのマニュアル化がうまくいくのは、豊かさとは何かという、根元的な目的、目標がはっきりしていたからだ。
ここに、また、反転した目的の重要性、すなわち、思考の重要性が生じるのである。
……この先、の記述が大事だが、時間切れのためと、長くなったので、今回はここまで。
トラブルもあり、久々にいらっとすることもあったが、概ね順調だったといえる。その順調とは所詮、現実性のものであって、思考レベルの深化は進んでいないと思う。
なんだか、もやもやして、とある牛丼屋でビールが100円台で提供されているのにひかれて、飲んできた。
特に薄いとかもなく、普通のビールだ。さすがに量は少ないが、ちょっと飲むのには十分だろう。
しかし、酒を飲んで何か解決するかというとそうではない、ただ、こうして真面目に向き合う気になったのは、効能に思える。
さて、僕は、教養があるのだろうか。教養とは、シェイクスピアを全集読んでいることか。とういそくみょうな言動が重要か。
こういった問いは、面白いかもしれないが、何ら成長には貢献しないかもしれない。
この無意味性が、意味を考えることの真髄を示している。
つまり、意味、なんてものは、それ自体役に立つものではないのだ。
人は、なにかを、させられている感覚を嫌う。
主人公になりたいのだ、権力をもちたいのだ。
しかし、誰しもそうはなれない。すると、論理という、別の超越的なものを求めるようになる。
すなわち、僕はお前に言われたからこうしているのではない、これが、ルールとして定められていて正しいからそうしているのだ、と。
カントの道徳律みたいだ。
とにかく、論理とは、世界的に真実のようでありながら、それは、自らを納得させて、現実に生きさせる、慰みもの、自慰のようなものなのだ。
何事もすべて自由にできるようになったら、敢えてルールになんて従わないかもしれない。
もちろん、その先を考える能力、未来思考こそが人間の長所であり、傍若無人、きょうけんふかい、支離滅裂でありつづければ、そのうち革命的事変が起こって、その地位から引きずりおろされる可能性を考慮すれば、知的な権力者の誕生である。
生きる意味とは
この、論理の否定は、これまでの僕の書いてきたことの根本からの否定のようである。論理的に考えることを重要視していることが、常々あらわれている記事も多いように思う。
しかし、この論理の否定は、実際は試してみたものでもある。感覚的に生きてみた、という表現がそれである。
結局その試みは成功しなかった。もちろん、すべて失敗ではなかったものの、その永遠性安定性の意味においては役に立たなかったのだ。
リア充
そのわけは、残念なことに、現実と理想自己との隙間が、自分という存在の限界性において、矯正なく一致することはなかったからだ。上の表現は、珍しく誰にでも当てはまる普遍性がある。
いわゆるリア充とは、その努力という行為を含めて、理想自己と現実世界の事象が一致しているのである。
残念なことに、とても残念ながら、僕は、リア充ではなかったのだ。
ここでいうリア充とは、単にルックスのことを指さない。不細工だろうが性格が悪かろうが、リア充である可能性がある。
それは、メタな次元において、自分自身であるということだ。
メタな次元、と表現を加える必要があるのは、リア充だからといって不快な気持ちになることはあるし、失敗して落ち込むことだってあるということだ。
しかし、自己の深い部分において、世界と、自分とは一致しているのだ、バラモン教の梵我一如のようだ。
それでもって、僕のこの思考の目的は、その一致への試みというわけだ。
理想自己との一致
理想自己が低ければ低いほどいい、というわけではない。というよりも、理想自己はそれ自体が普遍性であり、代えられる目標のようなものではない。
いま現時点、自分がそうあるしかありえない、その瞬間における思考であり、感情であり、身体であり、行動のことである。
つまり、理想自己とは、楽しいとか苦しいとかそういう相対概念などではなく、真実である。
すぐさま書くべきは、その真実という表現は、決して、神とか、超越的なものを求めるものではない。
例えばなにか失敗したときに、僕たちは、ああしておけばよかったとか、後悔を感じる。
しかしそれは、真実ではなかったということだ。
いや、感じるのは仕方がないにしても、すべて、そのときそのすべての条件においては、そうせざるをえなかったという強い実感、それこそが理想自己との一致をした状態である。
難しい表現になっているな。ここで簡易的に書いておくべきは、理想自己となっていれば、実は後悔なんて発生しないのだ。
すぐに書くべきは、これをこじらせたり勘違いすると、人の話を認められない自己正当化の亡者になるのである。
まぁ、さらに本当にこれを極めると、その他者に与えることも含めて、自分に満足することになる。こうなってくると醜悪である。
思考について
以上から、考えるということが、そもそも深まっていくと、いくつもの罠にひっかかる可能性が多いのだ。先日、誰かは分からないが、拍手してくれる人がいて嬉しいが、そうした気持ちを認めるためには、いくら気恥ずかしい気持ちであっても、自己の分析に手を抜いてはならない、と書いた。
拍手のあるなしにかかわらず、僕は書くことは変わらないし、自分のために書いているというのは変わらない、という、クールな自分がいて、読者の反応の多い少ないで、気持ちが左右されるわけではない冷静沈着な自分によっているのだ、とか。
そこまで考えているかはわからないけど、何か蓋をしようとする自分の気持ちから、逃げてはダメだ。
それをすると、もう自己正当化のためだけの思考となる。そんなの気持ち悪い、というか、そもそも僕の理想自己ではないのだ。
理想的な思考とは
理想自己と現実とのギャップを少なくするのが、思考の役割である。
ギャップを変えずに、現状維持という安定性を求めるのであれば、すぐにでも思考はやめて、限りない快楽の世界を探すべきだ。
どうせギャップが縮まらず、うだうだ不平をいい続けるのなら、よっぽど毎日楽しく過ごす、現実的な方法をさがすべきである。
最初に書いた通り、思考は、それだけであったとき、現実に何も与えない。
考えただけで何か現象化したらそれは魔法である。
というより、考えただけ、という事態はそもそもない。何せ、考えとは、身体というフィードバックを常にうけつづけているのだから。
君がそう思うならいんじゃない?
勝手にすれば、というよりも、君がそう思うならいんじゃない?、というのは、僕にとって、愚か者といわれるよりもイラッとする可能性がある。
結局その相手は、僕のことを認めてはいないし、そのどこがよくないかを話すつもりもない、という態度なわけだ。
まだ、俺は違うと思う、といわれたほうがましだ。なぜなら、僕は自己正当化のために思考するのではないから、指摘や指導は重要に思うのだ。
ここまで、繋がっているかは分からないが、ポイントは、思考自体は無駄であること、しかしながら、だからこそ、様々な事象に対応できる思考の構築が重要だということだ。
何か起こったとき、いちいち解答を考えていては、いくら時間があってもきりがない。
マニュアル主義
考える時間の排除と効率化が、ライン生産、トヨタの看板方式、マニュアル主義である。
それは、一定以上、豊かな日本をつくりだすことに成功した。
しかし、そのマニュアル化がうまくいくのは、豊かさとは何かという、根元的な目的、目標がはっきりしていたからだ。
ここに、また、反転した目的の重要性、すなわち、思考の重要性が生じるのである。
……この先、の記述が大事だが、時間切れのためと、長くなったので、今回はここまで。
虫瞰(ちゅうかん)のブログ
http://blog.syu-kora.jp/
思考分野で戦うってことは、これらに挑むってことだ、自信をなくすなぁ。
でもきっと、こういったすごい人と、そこにたどり着けずもんもんとする人との、きっとつなぎ目がある。そこの橋渡しができたら、僕の価値もあるんじゃあないだろうかと。
と、書き残したのが一週間ほど前だろうか。
すっかり、このメモの存在を忘れている。
としをとると、なまじ経験が多いから、新しいことも、それほど感動できなくなる。
あの、雨上がりの匂いとか、冬が終わったあとの気候、夏の匂い、黄昏時の夕日を、大きな橋の上からみたときの感動。
失恋のショック。
友人との軋轢。
先輩からのいじめや罵倒。
さきほど、通りすがりのおじさんに、したうちされて、糞が! みたく捨て台詞いわれた。
混雑した通りでちょっとぶつかりそうになっただけだ。
僕は、なんだこの生き物は、と怒りを感じたものの、こういうときは深呼吸を一度してみると、思考さんが問題の解釈を猛スピードで始める。
結論として、一瞬でもイライラしている時間がもったいないし、顔もおぼえてないしもう二度と会うこともない人にたいしての思考は無意味だということで、すぐに落ち着いた。
いちいち感動している暇もなくなってくるのだろうか。
基本、人は、死ぬことを意識せずに、いやもちろん事故や事件、戦争のニュースはたくさん目に入るけど、そのなかでまさか自分が死ぬとは思わないようにできている。
そうはいっても、老いは避けられない。
死ぬのは怖い、でも身体は老いていく、この矛盾と恐怖の解消が、ボケ、認知症などの症状なのではないか。
また別に詳しく書くかもしれないが、あるアルツハイマー型認知症が進んだ人の話を聞いていて、そう思った。
日常的なこともできなくなる。人のことも認識できなくなる。そして、自分自身のことも分からなくなっていく。
いな、これは、自分自身の世界として完結している可能性もあるわけだし、その、他者との関係上のちぐはぐ、というものが、決して、自己世界の崩壊を意味するものではないだろう。
言語表現が本人にできないだけで、ものすごい死の恐怖と戦っているのかもしれない。
しかし、脳の機能の萎縮は、確実にさまざまなものの認識能力を低下させていくだろう。
であるならば、人間とは、脳なのか。意識的な信号、記憶をつかさどっているのは、やはり脳だろう。感覚器官としての手足その他がなければフィードバックはえられない
仕事も早々に切り上げ、帰路につく。いままで、一人暮らしの時は、映画みたり、ゲームしたり、本を読んだり、作曲したり、小説を書いたり、と、何かと楽しんでいた。
結婚してからはそういった時間がなくなり、もっぱら家事とか、……というより、ちょうど仕事が毎日遅かったようだ。
いま、自由な時間があったとき、様々なことに時間を使えて、その判断は自分でできる。
それってとても幸せなことなのであって、それはそう思うのだけど、何に時間を使おうか、悩んでしまう。
残りの人生は折り返し地点といってよくて、三十代には既に、自分の生き方を見つけている人は多いと思う、本当か?
多いとは思わない、大半の人は、その自分の生活を、自分のものだと信じているのであって、それが揺るぎない確信もないと思う。という表現はとても挑発的なのだけど、実際の僕の感覚をメモする。それに、そんなこと確かめようがないのだから、真偽のほどはどちらでもよいことだ。将来に不安がありますか? とかいうアンケートが何になるかという問題に過ぎない。
事例をあげれば、例えばプロ野球選手が現役の頃は活躍して、辞めたら離婚したり薬物にのめりこんだり、賭博しちゃったりと、落ちぶれる例とか、探せば事欠かない。
この記事はなので、いや俺はいまの生きざまが自分自身なのだ、と強く主張する人がいたとして、ふうん、君がそう思うなら、いいんじゃない、と、上から目線で語る、意識高い系とは違うけど、とかく、不愉快な内容だ。
人間関係の構築に関する言説にも、ネガティブな人とは付き合わない方がいいとも書かれているから、この記事は是非とも忌避したほうがいい。
つまり、こういった思考は即刻やめるべきではないか、ということだ。
先日書いた、舌打ちとか罵倒されて腹が立ったとき、僕は深呼吸して瞬時に感情をコントロールしたではないか。
まさに、こういったネガティブ的な思考も、深呼吸して、取り払ったほうがいいのでは?
違うと、メモしておく。
作曲したり映画みたりいろいろ、それらの楽しみは、確かに楽しかった、しかし、それらの時間は、無駄ではなかったものの、結局生きる軸を作り出すことはできなかった。
人生における行動は、生産と消費とがある。
生産する人は魅力的だが、消費が悪いわけではない。消費による感動が、生産の原動力となっている場合もあるし、消費者がいなければ価値の創造もありえない。
その意味で、いままでの自分の行為を、行動を、後悔する必要は一切ない。
しかし、目的なき消費は、いずれ訪れる死に対して無力であるといえる。
ここで脇道にそれてみて、生存欲求がみたされない場合、例えば紛争地帯での生活を考えてみる。
ジャングルの奥地でゲリラとして戦うとかでもいい。その状況で、生産とか消費とか、生きる目的とか考えてられるはずがない。
ただ、その後、例えば平和になったとき、戦争していた生活を思って、いまが単純に幸せと思えるのか。亡くなった戦友のことを思い、惨殺した住民が夢に現れ、失った手足がウズいたとき、いまの生活をどう思うのか。
こうした極端な事例は、いやそれほど極端でもなくありふれたことなのかもしれないが、とにかく、考える必要はない。
そんな事例に頭をはしらせるまでなく、京都の列車事故だってあるし、バイクではしっていて、後ろから追突されてペシャンコなんてことだってあるし、突然病魔が襲うかもしれない。
こうしたことは、考える必要はない、考えてしまうかもしれないが、それは、そもそも、生きる意味を強固に保持していないがための妄執である。
先程のジャングルの事例は、生きたいという思いが強くあるのだから、それだけで尊いものだ。
死にたくないとの本能がありながら、死んでも満足するという生き方。
これは、矛盾している。
本能に逆らう思考である、うまくいくはずはないのではないか。
しかし僕は、やはり、ここから逃げてはいけないと思うのだ。
仕事から逃げようが、家族から逃げようが、友人や恋人から逃げようが、この、生きる意味を求める思考からは逃げてはいけないと思うのだ。
これは、理由は、この思考を否定する人たちと同じ構造である。
それは、死は必ず訪れるから、である。
ある人は、どうせ死ぬんだから、ぐだぐだ考えず、毎日楽しめばいいじゃん、という。
それは、いまこの時点、なんの不満なく楽しんでいる人、もしくは、過去に満足する経験を長期に味わっていた人たちである。
人は、育った環境により、外界にたいする反応が異なるから、別に、そういう人たちを否定する気は一切ない。きっとそういう人たちばかりであればよい世界に……なるとは限らない。そういう人たちは、物理世界肯定主義になりがちだから、ネガティブな人とは関係をたちきればいいとか、取り巻く世界をどんどん変えていけばいいと考える。
それが、社会主義革命とか、カンボジアのポル・ポトの虐殺とかに繋がる……と書くとオーバーだろうけど、とにかく、無批判に肯定できるものではないと、僕は思う。
そして、何よりここで言いたいことだが、そもそも、そういう物理世界第一主義の人たちだけでも、ないはずだ、という僕の考えだ。
きっと多数派そうした人たちだから、狭間で苦しむ人たちも少なくないのでは、と思うのだ。
物理世界肯定主義の人たちとも僕はうまく関係をつくれるのは、なにも不思議でなくて、思考による精神と身体の統制ができるのであれば……
と、こうやって書いていて、昔のようにユーロビートを流していると、とても気持ちが高揚するのが分かった。
ああ、やっぱり、こうやって書いているのは楽しいのだな、と。
なんだか、いいことかいた気もした。のわりに、アクセスカウンタはちっとも回らない。やはりグーグル先生には、全然良い内容とは思われていないのだろうカッコわらい。
それでいいのだ、とも思う、何せこの記事は特に、大多数であろう人生楽しんでいる人たちへの警鐘……と書くとかっこいいが、ただのひがみのようにも思える。
問題は、僕が楽しいかどうかだ。
そして、先程の瞬間は、僕は確かに楽しかった。その楽しいというのは、性欲や食欲を満たしたときのそれとは全く異なる、僕が求める感覚である。
で、あるならば、僕はもしや、この生きる意味をとか言うことに対して、答えを本気で探しているわけではないのかもしれない。
このことは、またしても、新しいことだ。しっかりメモしておく必要があるだろう。
つまり、トートロジーとか、マッチポンプ、とか、そんな表現ができる状態ではないか。
もっと噛み砕けば、惨めな自分に酔っている、みたいな状態ではないか。
だとしたら、これは、僕自身として、許せないことであるはずだ。
仮に、その、考え続けることが自分の使命だとかして、思考を続けるならばわかる。でも、なんだか社会を斜めからみて、斜に構えて、批判ばかりするってのは、許せない生き方である。
何をしようとそれは良いが、その答え自体が、真に、自分自身の実感として、本当に正しいのだと、信じられる状態が、僕の求める姿だ。
答えをみいだせず、考え続けるのだとしても、その答えを見いだせないことを肯定するのであってはならない、なぜならば、それこそ、生きる意味なんて考えても仕方がないという、くだらない対処法が正しかったと、反転した解になる。
掲げた正義に反する敵を倒そうとして、自らがその正義に反することをするというものである。
笑い話や、小説のネタ……特に悪役とかにはいいかもしれないが、いやいや待ってくれ、自分の人生にそれはありえないだろう。
必要なのは、主体的な、実存的な真理である。
人類社会に貢献する科学は、まさにそうした普遍性を自然界や人間界に求めようとするものだけれども、その真理は、決して個人とした自らに当てはまるものではない。当てはまったとしても、その普遍性は、自分自身とおう、個体、ユニークな存在を完全に表現できるものではない。
他者の言説が、役に立たないとか、他者に頼ったり、相談したり愚痴いったりするのが意味ないというのは、日常生活のことをいっているのではない。
この、自己の問題、何故自分は生きているのか、この存在の意義は、という問いに、他者は一切答えてくれない、どころか、そんなこと考えることは無意味であると、そう突き放すのである。
孤独、凄まじい孤独。
この感覚は、きっと、わかる人にはわかると思う。
これは、いくら楽しいことしても、他者と交わっても、美味しいもの食べても癒されるものではない。
僕はこうやって表現できるから、一応自己を保ってられるけど、この感覚におそわれて、表現することができないと、薬物にはしったり、リストカットしたり、無気力になったり……。
全員がそうじゃないにしても、こうした孤独感で自分が押し潰されそうになった人は、決して少ないとは思わないのだけど、何故か僕はあまりそういう人に出会ったことがない。
というのは、珍しくなくて、この孤独は先に書いた通り、他者と一緒にいて、楽しそうにしていてもぬぐえるものではないから、そういう人は一見わからないのだ。
ちょっと、書くのを躊躇ったが、まぁ、アクセス少ないからいいだろうという甘えで書くと、僕が結婚した相手は、そのことがわかる人だと思ったのだ、が、それは完全な勘違いと分かった。
これはトラウマ、というよりも、むしろ、他者のことは分からない、分かりあえない、ある一線をこえるとついてこられないのだ、という確信になったといえる。
だから、この孤独感というのを、誰かに理解してもらおうとは、本気で思っていない。
でも、そういう人に実際に出会えなくても、この記事とかの表現が、今まさに苦しんでいる人の一つの助けになったら、本気で嬉しいんだけど。
と、同時に、こういった表現が、例えばYouTubeの動画だとしたら、グットが20くらいで、バットが1000件とかつきそうだなって思う。
で、そのバッドって、なんなのか、といえば、ただの愚痴とか僻みとか、頑張ることから逃げてるだけだとか、判断できない優柔不断だとか、そういう批判なんだと、思う。
違うのかな? 意外に受け入れられるのか?
にこにこ動画で、サラリーマンのうた、が、かなり人気を博したし、最近そのリニューアルが公開されているのを知ったけど、いい歌だったし、評価も結構高かった。
ぐだぐだっと、このブログのように書いて、それを評価してくれとか、役立ててくれとか、そんな傲慢過ぎるな。
プロの作家は、よく、本当に書きたいこと、表現したいことと、売れる作品のギャップに苦悩するというが、僕はプロではないので、書きたいことを書けるわけだ。
その書きたいことに対する表現を学ぶってのは、大事なことだ。
拘束時間でも、自由な時間でもよいが、とにかく、何か生活の軸に基づいて、その軸というのが、確実に、答え、に近づいているという実感をもてることが、これはもう未来思考なんかではなく、今すぐこの瞬間にも必要なことである。
http://blog.syu-kora.jp/
思考分野で戦うってことは、これらに挑むってことだ、自信をなくすなぁ。
でもきっと、こういったすごい人と、そこにたどり着けずもんもんとする人との、きっとつなぎ目がある。そこの橋渡しができたら、僕の価値もあるんじゃあないだろうかと。
と、書き残したのが一週間ほど前だろうか。
すっかり、このメモの存在を忘れている。
記憶と感動の関係
若い頃の方が物覚えがいいとか、吸収が早いというのは、感動が大きいからかもしれない。としをとると、なまじ経験が多いから、新しいことも、それほど感動できなくなる。
あの、雨上がりの匂いとか、冬が終わったあとの気候、夏の匂い、黄昏時の夕日を、大きな橋の上からみたときの感動。
失恋のショック。
友人との軋轢。
先輩からのいじめや罵倒。
さきほど、通りすがりのおじさんに、したうちされて、糞が! みたく捨て台詞いわれた。
混雑した通りでちょっとぶつかりそうになっただけだ。
僕は、なんだこの生き物は、と怒りを感じたものの、こういうときは深呼吸を一度してみると、思考さんが問題の解釈を猛スピードで始める。
結論として、一瞬でもイライラしている時間がもったいないし、顔もおぼえてないしもう二度と会うこともない人にたいしての思考は無意味だということで、すぐに落ち着いた。
いちいち感動している暇もなくなってくるのだろうか。
ボケと死ぬこと
本能的に、人は生きることを欲するから、死ぬことは何となく怖いことである。基本、人は、死ぬことを意識せずに、いやもちろん事故や事件、戦争のニュースはたくさん目に入るけど、そのなかでまさか自分が死ぬとは思わないようにできている。
そうはいっても、老いは避けられない。
死ぬのは怖い、でも身体は老いていく、この矛盾と恐怖の解消が、ボケ、認知症などの症状なのではないか。
また別に詳しく書くかもしれないが、あるアルツハイマー型認知症が進んだ人の話を聞いていて、そう思った。
日常的なこともできなくなる。人のことも認識できなくなる。そして、自分自身のことも分からなくなっていく。
いな、これは、自分自身の世界として完結している可能性もあるわけだし、その、他者との関係上のちぐはぐ、というものが、決して、自己世界の崩壊を意味するものではないだろう。
言語表現が本人にできないだけで、ものすごい死の恐怖と戦っているのかもしれない。
しかし、脳の機能の萎縮は、確実にさまざまなものの認識能力を低下させていくだろう。
であるならば、人間とは、脳なのか。意識的な信号、記憶をつかさどっているのは、やはり脳だろう。感覚器官としての手足その他がなければフィードバックはえられない
日常の過ごし方
と、上まで書いてまた日が過ぎた。仕事も早々に切り上げ、帰路につく。いままで、一人暮らしの時は、映画みたり、ゲームしたり、本を読んだり、作曲したり、小説を書いたり、と、何かと楽しんでいた。
結婚してからはそういった時間がなくなり、もっぱら家事とか、……というより、ちょうど仕事が毎日遅かったようだ。
いま、自由な時間があったとき、様々なことに時間を使えて、その判断は自分でできる。
それってとても幸せなことなのであって、それはそう思うのだけど、何に時間を使おうか、悩んでしまう。
残りの人生は折り返し地点といってよくて、三十代には既に、自分の生き方を見つけている人は多いと思う、本当か?
多いとは思わない、大半の人は、その自分の生活を、自分のものだと信じているのであって、それが揺るぎない確信もないと思う。という表現はとても挑発的なのだけど、実際の僕の感覚をメモする。それに、そんなこと確かめようがないのだから、真偽のほどはどちらでもよいことだ。将来に不安がありますか? とかいうアンケートが何になるかという問題に過ぎない。
事例をあげれば、例えばプロ野球選手が現役の頃は活躍して、辞めたら離婚したり薬物にのめりこんだり、賭博しちゃったりと、落ちぶれる例とか、探せば事欠かない。
この記事はなので、いや俺はいまの生きざまが自分自身なのだ、と強く主張する人がいたとして、ふうん、君がそう思うなら、いいんじゃない、と、上から目線で語る、意識高い系とは違うけど、とかく、不愉快な内容だ。
人間関係の構築に関する言説にも、ネガティブな人とは付き合わない方がいいとも書かれているから、この記事は是非とも忌避したほうがいい。
現時点の肯定
うえの、役に立たない害悪であるという説明は、僕自身にもあてはまるのではないか?つまり、こういった思考は即刻やめるべきではないか、ということだ。
先日書いた、舌打ちとか罵倒されて腹が立ったとき、僕は深呼吸して瞬時に感情をコントロールしたではないか。
まさに、こういったネガティブ的な思考も、深呼吸して、取り払ったほうがいいのでは?
違うと、メモしておく。
作曲したり映画みたりいろいろ、それらの楽しみは、確かに楽しかった、しかし、それらの時間は、無駄ではなかったものの、結局生きる軸を作り出すことはできなかった。
人生における行動は、生産と消費とがある。
生産する人は魅力的だが、消費が悪いわけではない。消費による感動が、生産の原動力となっている場合もあるし、消費者がいなければ価値の創造もありえない。
その意味で、いままでの自分の行為を、行動を、後悔する必要は一切ない。
しかし、目的なき消費は、いずれ訪れる死に対して無力であるといえる。
ここで脇道にそれてみて、生存欲求がみたされない場合、例えば紛争地帯での生活を考えてみる。
ジャングルの奥地でゲリラとして戦うとかでもいい。その状況で、生産とか消費とか、生きる目的とか考えてられるはずがない。
ただ、その後、例えば平和になったとき、戦争していた生活を思って、いまが単純に幸せと思えるのか。亡くなった戦友のことを思い、惨殺した住民が夢に現れ、失った手足がウズいたとき、いまの生活をどう思うのか。
こうした極端な事例は、いやそれほど極端でもなくありふれたことなのかもしれないが、とにかく、考える必要はない。
そんな事例に頭をはしらせるまでなく、京都の列車事故だってあるし、バイクではしっていて、後ろから追突されてペシャンコなんてことだってあるし、突然病魔が襲うかもしれない。
こうしたことは、考える必要はない、考えてしまうかもしれないが、それは、そもそも、生きる意味を強固に保持していないがための妄執である。
明日死ぬとして
明日死んだとして、自分自身に満足できるか、やり残したことはないか、それを考えるべきだ。先程のジャングルの事例は、生きたいという思いが強くあるのだから、それだけで尊いものだ。
死にたくないとの本能がありながら、死んでも満足するという生き方。
これは、矛盾している。
本能に逆らう思考である、うまくいくはずはないのではないか。
しかし僕は、やはり、ここから逃げてはいけないと思うのだ。
仕事から逃げようが、家族から逃げようが、友人や恋人から逃げようが、この、生きる意味を求める思考からは逃げてはいけないと思うのだ。
これは、理由は、この思考を否定する人たちと同じ構造である。
それは、死は必ず訪れるから、である。
ある人は、どうせ死ぬんだから、ぐだぐだ考えず、毎日楽しめばいいじゃん、という。
それは、いまこの時点、なんの不満なく楽しんでいる人、もしくは、過去に満足する経験を長期に味わっていた人たちである。
人は、育った環境により、外界にたいする反応が異なるから、別に、そういう人たちを否定する気は一切ない。きっとそういう人たちばかりであればよい世界に……なるとは限らない。そういう人たちは、物理世界肯定主義になりがちだから、ネガティブな人とは関係をたちきればいいとか、取り巻く世界をどんどん変えていけばいいと考える。
それが、社会主義革命とか、カンボジアのポル・ポトの虐殺とかに繋がる……と書くとオーバーだろうけど、とにかく、無批判に肯定できるものではないと、僕は思う。
そして、何よりここで言いたいことだが、そもそも、そういう物理世界第一主義の人たちだけでも、ないはずだ、という僕の考えだ。
きっと多数派そうした人たちだから、狭間で苦しむ人たちも少なくないのでは、と思うのだ。
物理世界肯定主義の人たちとも僕はうまく関係をつくれるのは、なにも不思議でなくて、思考による精神と身体の統制ができるのであれば……
と、こうやって書いていて、昔のようにユーロビートを流していると、とても気持ちが高揚するのが分かった。
ああ、やっぱり、こうやって書いているのは楽しいのだな、と。
なんだか、いいことかいた気もした。のわりに、アクセスカウンタはちっとも回らない。やはりグーグル先生には、全然良い内容とは思われていないのだろうカッコわらい。
それでいいのだ、とも思う、何せこの記事は特に、大多数であろう人生楽しんでいる人たちへの警鐘……と書くとかっこいいが、ただのひがみのようにも思える。
楽しいことの模索
でも、ひがみでも、なんでもいいと思う。問題は、僕が楽しいかどうかだ。
そして、先程の瞬間は、僕は確かに楽しかった。その楽しいというのは、性欲や食欲を満たしたときのそれとは全く異なる、僕が求める感覚である。
で、あるならば、僕はもしや、この生きる意味をとか言うことに対して、答えを本気で探しているわけではないのかもしれない。
このことは、またしても、新しいことだ。しっかりメモしておく必要があるだろう。
つまり、トートロジーとか、マッチポンプ、とか、そんな表現ができる状態ではないか。
もっと噛み砕けば、惨めな自分に酔っている、みたいな状態ではないか。
だとしたら、これは、僕自身として、許せないことであるはずだ。
仮に、その、考え続けることが自分の使命だとかして、思考を続けるならばわかる。でも、なんだか社会を斜めからみて、斜に構えて、批判ばかりするってのは、許せない生き方である。
何をしようとそれは良いが、その答え自体が、真に、自分自身の実感として、本当に正しいのだと、信じられる状態が、僕の求める姿だ。
答えをみいだせず、考え続けるのだとしても、その答えを見いだせないことを肯定するのであってはならない、なぜならば、それこそ、生きる意味なんて考えても仕方がないという、くだらない対処法が正しかったと、反転した解になる。
掲げた正義に反する敵を倒そうとして、自らがその正義に反することをするというものである。
笑い話や、小説のネタ……特に悪役とかにはいいかもしれないが、いやいや待ってくれ、自分の人生にそれはありえないだろう。
万物の真理は求めてはならない
例え、その万物普遍の真理なんてない、ということが反転した真理だったとしても、決して、そういった真理を求めてはならない。必要なのは、主体的な、実存的な真理である。
人類社会に貢献する科学は、まさにそうした普遍性を自然界や人間界に求めようとするものだけれども、その真理は、決して個人とした自らに当てはまるものではない。当てはまったとしても、その普遍性は、自分自身とおう、個体、ユニークな存在を完全に表現できるものではない。
他者の言説が、役に立たないとか、他者に頼ったり、相談したり愚痴いったりするのが意味ないというのは、日常生活のことをいっているのではない。
この、自己の問題、何故自分は生きているのか、この存在の意義は、という問いに、他者は一切答えてくれない、どころか、そんなこと考えることは無意味であると、そう突き放すのである。
孤独、凄まじい孤独。
この感覚は、きっと、わかる人にはわかると思う。
これは、いくら楽しいことしても、他者と交わっても、美味しいもの食べても癒されるものではない。
僕はこうやって表現できるから、一応自己を保ってられるけど、この感覚におそわれて、表現することができないと、薬物にはしったり、リストカットしたり、無気力になったり……。
全員がそうじゃないにしても、こうした孤独感で自分が押し潰されそうになった人は、決して少ないとは思わないのだけど、何故か僕はあまりそういう人に出会ったことがない。
というのは、珍しくなくて、この孤独は先に書いた通り、他者と一緒にいて、楽しそうにしていてもぬぐえるものではないから、そういう人は一見わからないのだ。
ちょっと、書くのを躊躇ったが、まぁ、アクセス少ないからいいだろうという甘えで書くと、僕が結婚した相手は、そのことがわかる人だと思ったのだ、が、それは完全な勘違いと分かった。
これはトラウマ、というよりも、むしろ、他者のことは分からない、分かりあえない、ある一線をこえるとついてこられないのだ、という確信になったといえる。
だから、この孤独感というのを、誰かに理解してもらおうとは、本気で思っていない。
でも、そういう人に実際に出会えなくても、この記事とかの表現が、今まさに苦しんでいる人の一つの助けになったら、本気で嬉しいんだけど。
と、同時に、こういった表現が、例えばYouTubeの動画だとしたら、グットが20くらいで、バットが1000件とかつきそうだなって思う。
で、そのバッドって、なんなのか、といえば、ただの愚痴とか僻みとか、頑張ることから逃げてるだけだとか、判断できない優柔不断だとか、そういう批判なんだと、思う。
違うのかな? 意外に受け入れられるのか?
にこにこ動画で、サラリーマンのうた、が、かなり人気を博したし、最近そのリニューアルが公開されているのを知ったけど、いい歌だったし、評価も結構高かった。
表現と作品
やっぱり、ためしに、これらの表現を、ひとつ、作品、にして、反応をみてみる、というのは面白いかもしれない。ぐだぐだっと、このブログのように書いて、それを評価してくれとか、役立ててくれとか、そんな傲慢過ぎるな。
プロの作家は、よく、本当に書きたいこと、表現したいことと、売れる作品のギャップに苦悩するというが、僕はプロではないので、書きたいことを書けるわけだ。
その書きたいことに対する表現を学ぶってのは、大事なことだ。
生活の軸
話が奇跡的に戻るけれども、こういった何か、自分の探し求める本当の目的、これに対する行動というのがないと、資格の勉強だって、お金に繋がる仕事だって、楽しいゲームだって、やらなきゃいけない家事だって、途端に色褪せて、やる気が起きなくなるのだ。拘束時間でも、自由な時間でもよいが、とにかく、何か生活の軸に基づいて、その軸というのが、確実に、答え、に近づいているという実感をもてることが、これはもう未来思考なんかではなく、今すぐこの瞬間にも必要なことである。