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5月も終わり(人間関係について)
2023/05/27 00:04 | Comments(5) | 対人関係
今日の一言「やっぱり1か月に1回になるのか」

まえがき

 普段と違うことをするとやっぱり疲れる。
 新しいことをし続けないと暇、という人もいるだろうけれども、ボクはもともと、同じことを繰り返しても楽しいと思っていた、むしろそれが安心安全に思っていた。

自己分析

「傾聴」の訓練みたいな場だった。
 大勢の前で話したり聞いたりすることが多くあって、疲れた。

 しかし、ボクの話し方の、トーンとか表情、態度など、安心して話せるし、よく聞いてもらえていると言ってもらえた。

 自分の中では、コミュニケーションにすごく苦手意識があるが、いわゆる「テクニック」と、実践と感情を紐づけるようにすれば、表面的には「ふつう」に振舞えるということなのだろう。


 それは、口に出していることと、心とが真逆なことをいっているサイコパスという意味ではない。
 基本的に、人混みやら、身体的な安全が脅かされるような状況においては心理的負担がかかっているが、そうではない時は別にそんな負の感情ばかりなわけではないのだ。


知らない人との交流

 それでも、知らない人と話すのは疲れる……。

 会議の前日などは、よく眠れなくて、明け方に目覚めたりした。

 心身的に、気にしないようにしていてもやっぱり負担にはなっているのだなと思った。身体は正直である。


 オンライン上は、アバターというか、「身体」の制御がいらないので、その点の負担が少ないのがとてもよいのだと思った。

 身体を維持するのが難しい。。

 例えば、ネットゲームしているとき、フレンドと話をしているとき、もう眠くて話したくない……みたいな状況になったとしても、ある程度交流を続けることができる。身体があるリアルベースの交流の際はそれができない。

 さらに、身体ベースの場合は、いくら楽しい飲み会を過ごしたとしても、その後、公共交通機関で帰らなければいけない。これも面倒くさい。

褒められて嬉しかったことは確か

 自分の振る舞いが褒めてもらえて、嬉しかったことは事実である。
 それは確かに、オンライン上では得られないことだったのかもしれない。

 それでも、ボクは、やっぱり、オンラインの関係は悪くないと思う。悪くないというよりも、そっちの方がよいと思う。

こう見せたいという自分

 自分の全部を認めて、そして、愛して欲しい……そんなことは、赤ん坊や幼児期以外不可能だ。
 他者とは、適切な距離というか、付き合い方が必要だ。

 コミュニケーション力というのは、幅広い人という存在のパターンに、より多く対応できる技術といってよいだろう。

 コミュニケーションとは、情報伝達のことだ。コミュニケーション力というのは、情報伝達する力のことだ。
 しかし、それはどういったものか、それを数値化するにはどうしたらよいのか? という課題を出されたら、それは、より多くの人に好ましいと思われるということだろうと思う。

 共通のプロトコルというのが、ビジネスマナーである。プロトコルというのは規格のことだ。


 いろんな考えがあっていい。色んな人の感じ方があっていい。それでも、この部分は共通化をはかりましょう……というのが、マナーというものだ。だから、それすら、別に絶対的なものではない。

 法律という体系はとても優れているとは思うが、それも、人間が開発したツールである。絶対普遍に正しいものではない。多くの人間が「よいと思う」という価値の共有がはかれて、そして、共感できるから今の法律が優れているということになる。そして、問題発生が少ないというのが維持すべきという条件だ。

色んな人に好かれても

 100人に、1%「いいね」と思ってもらえるよりも、1人に100%いいねって思ってもらった方が良いのか。
 100人に、100%「いいね」って思ってもらいたい。そうある方が望ましい。

 極端な数値化に意味はない。前者も後者も、どちらも不可能で、そのバランスでしかない。
 基準は、今、であるだろうと思う。今、30人に25%いいねって思ってもらえるのなら、それが、60人に30%いいねって思ってもらえるようになったら「幸せ」かもしれない。

そもそも他者が必要なのか

 FF14でフレンドと遊んで楽しいと思う経験をする前までは、「他者不要説」を唱えていた。

 どうやって、一人でも、……いや厳密に一人はきっと耐えられないが、少数でも、共感してくれたり、反応してくれる友人をつくって、最高に満足に人生を過ごすか、それがテーマであった。

 しかし、いくら「表面的」な関係であったとしても、他者と付き合って行動するというのは、悪いことではないというよりも、むしろ今までにないようなとても素晴らしい経験だと思えるようになったこと、それはここ数年2~3年ぐらいのことだったと思う。

 いまでも、喪男な独り身であることはかわりないのである。そのことについての、肯定感を得たということではなくて、それはむしろ、6年~7年前に、そういった方向性になってきていたと思う。いわゆる離婚した後ぐらいだと思う。

 色んな意味で、「離婚してよかった」と思っている。離婚は切り出されたのであるから、とても哀しいできごとだったが、それ自体は、とてもむしろ相手に感謝すべきに思う。

 このブログとして価値があるとすれば、離婚して、もしくはしそうでとても困っている諸氏がいたときに、思った以上に「大したことがない」ということであるということを伝えられることである。

 引っ越しとか財産分与とか、役所の諸手続きとか、双方家庭の云々とか色々あるとはいえ、一つずつこなせば大したことない。時間はかかるかもしれないが。

 むしろ心配懸念すべきは、心理的な面だが、それは、繰り返すと、今はそれでよかったと思っている。

歳をとっても色んな経験ができるし感動できる

 もう30代後半である。恐ろしい。
 完全に中年。初老も近い。

 それでも、FF14やったことで、色んな世界や価値観が変わったのはすごいと思った。FF14というよりも、オンラインゲームというものをやったということだろうか。オンラインゲームはやったことがあるから、MMORPGをやったということが大きかったのか。

 これが、「モテ」を目指して、テニスサークルとか入っても、絶対つまらなかったと思う。
 ボルダリング(壁上る奴?)は楽しそうだと思ったけれども。

 もっと周りに、ゲーム好きな友人が(これはリアルの中で)いたら、もっと早くから楽しい人生おくれてたのだろうか。
 ある意味、「優秀」な友人ばっかりで、あんまし心を開けなかったのかもしれないな。
 数人は、ネットカフェとか行って、一緒に遊んでくれた。一時期はすごくたくさん行ってた。それは楽しかったし、その友人とはたまに会いたいとも思う。

 でも、「会う」労力を考えると、自分で企画したり、会いに行ったりとか行動を起こすまでにはならない(ごめんね……かっこわらい)。だから、誘われたら嬉しいのだけれども(かっこわらい)。

 基本、自分から誘ったり相互の関係がないと、ゆるやかに、もしくは急速に関係は離れている。

 人間関係にもメンテナンスが必要だ。

人間関係の維持

 お金ってやっぱり便利だと思う。
 人間関係の維持って、すごく難しいことだ。時間が必要だ。考える力(相手が望むこと、ものを思い描くこと)も必要だ。

 一方で、お金があると、スーパーにいって、食料を買うことができる。

「お前は、気に食わない奴だから、売ってやらない」

 とはならない。人間関係は不要だ。最低限は必要だった……しかし、無人レジの普及でそれすらもいらなくなってきている。


 人間って、ほんとに、人間とかかわることをストレスとして感じているのだ。
 知らない人と話すと、ストレスになるのだ(と、まわりまわって、最初の方に書いていたことに戻っていく)。


 だから、これからも、人間関係は、ある方面ではどこまでも希薄化して、ある方面では濃厚に……それは、寂しいから、どこか反動的に他者を求める面もでていくのではないかと思う。

人は

 人は、人の世界でしか生きられない。
 オンラインも、仮想空間もメタバースも、それは人が作った世界である。

 社会といわれる、法律や資本主義でなりたつ世界も、それもまた人が作った世界だ。

 ボクは、人がやっぱり苦手だ。怖い。コミュニケーション障害だ。

 それは、ボクが僕を見る目。でも、ある一定な基準においては、他者から見たボクはコミュニケーション能力は高いように見えるという。
 こういったらこう思われるのではないか、こうしたらこういった反応になるのではないか、ということをシミュレーションしているからである(意識的、無意識的に)。

 だから、絶対的に疲れる。。。

 人と話をすることで満たされて元気になる……という人のことはやはり、自分は良く分からない。
 今までもそうだけれども、やっぱり、こうして、もしくは誰にも見られない紙のノートに自分の言葉を延々と書き綴っていった……それによって気持ちは整理されていくのだ。

 もちろん、それは、他者に話すことで同じ効果があるとボクも思う。誰かに相談して、心が軽くなったというのは、まさにそういう仕組みだと思う。

 ところが、僕らのような(仲間が欲しいから「ら」という言葉を付け加えた)コミュ障は、他者がいると、その他者が、ボクの相談を聞いたことで「こんな風に思うのではないか」「こんな風に感じられているのではないか」というのも同時に想定が走るのである。自動的に、だ。

 そうしてさらに、「ちゃんと聞いてくれているようでも、実は裏では違うことを感じているのではないか」という疑念も生じるのである(信じたいという気持ちも同時にあったとしても、だ)。


 だから、もう誰もいらない、と。ひとり、孤独に書いていくことで、それが誰の目に留まることもないとしても、ボクは確かにここに生きていたんだ、という気になって……なのかどうかはわからないが、気持ちは落ち着くのである。

 ボクはたぶん、中学? 少なくても、高校1年生から、そうしてやってきた。

 その、書くということについて、いつかは卒業できるのかと思ったこともあったが、まぁ、きっとこれは、これからも続くのかもしれない。

 しかし、どうだろう。このブログの場所が、リアルの人にばれて晒されてしまったら、それはとても嫌な気持ちになる。きっと素早く閉鎖することだろう。

何故リアルでは嫌なのか

 オンラインと、リアルは、どうしても分けたい……。

 そもそも、誰も、そんな、ボクのことなど知りたくないはずなのである。そんな暇ないのだ絶対に。帰ってかわいい子供の顔をみて和んだり、日々家事に追われたり介護したり、そもそも激務で残業だったり……。

 みんな忙しいのに、こんなブログだれも本当はみたくないはず。

 それに、特定の何かを批判したりしているわけではなく、ただ、自己の内面を書いているだけだから、「うわ……気持ち悪い中年……」とは思われることだろうが、別に炎上はしないと思うのだ、多分。

「痛い大人wwwww」みたいに煽られるだろうとは思う。最近耳にするようになったのは「お気持ち表明」みたいな。

 そこらへんは分かっているのである。

 でも、別にお気持ち表明してもいいじゃん? とも開き直っている部分もある。

 ただそれは、やっぱり、リアルとは別だからである。利害関係ある人が知ったら、「なめられる」もしくは「気持ち悪がられる」から、今後のコミュニケーションがうまくいかなくなるだろうことが考えられる。

 それは単にデメリットしかない(たぶんお互いに)なので、バレたくない、というわけなのだ、と、初めて分析してみた。

 何となく思っていたことだが、書いてみるとそういうことだな。

 いやそもそも、実名でブログ書くメリットが何もない、というのが前提なのであるが。

 別にボクは、リアルにおける○○(氏名)を癒したいとかそういう思いはないのだ。
 ボク自身(氏名とかに関係ない、「魂」みたいなもの。レーゾンデートル? なんといえばいいんだっけそういうの。アイデンティティ……とも違う。なんだ、キルケゴール氏風にいえば、本来的自己……?)について整理したいという思いが一番なのだ。

 だから、リアルのことはあまり関係ないと思っている。難しいな、関係なくはない。身体はまさにボクなのだから。ボクにまつわる全ても、リアルは関係している。ただ、表現したいのは、リアルのボクと他者存在との関係ではなく、「本来的自己の在り方」なのである。



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コミュ力の前に他者に興味があるか
2019/09/23 13:54 | Comments(0) | 対人関係
今日の一言「落ち着かないので複数の記事をまとめよう」「風が強い日」

前書き

 この記事では、いつも大事にしている「僕の考え」というのは、あまり踏み込めない気がする。とりあえず、ばたばたした日常の中で、スマホでながら見して「おっ」とか「むっ」とか思った記事を抜粋しておくことにとどめよう。そう決めると、あまり「書く」ことに積極的な気持ちになれない――というか、なんもする気が起きないときにも、何かができる、そんな気がする。

人の皮

 シロクマさんの記事。
人間の皮が剥げそうだ

 一言感想。「分かる」。特に、
「げだもののようにひきこもりたい」
 という点が面白く「よーわかるなー」っと思った。
 そう、「ひきこもりたい」という気持ち。


 もう一つ、「人と会うと疲れる」というルポライター氏の記事。
生きづらくても生きていく。

 要は、先日いただいたコメントにもあったが、「人はそれしかできない」という点も関係しそうだ。
 しかし、そうは言っても、他者も同じように感じているかどうか、という点は、あまり考慮する必要もない。要するに疲れるものは疲れるのだ。

何故疲れるのか

 これは、上の記事で触れられているように、「楽しい」「楽しくない」は関係ない。

 よく言われるところの、「素直にさらけ出していけばいいじゃない」というのも、全く当たらない。そういう次元の話ではないのである。

 むしろ、重要な点は、「自分をさらけ出せば」「今すぐに帰りたい」となることである(かっこ笑い)。
 家族や、彼女と、家でゆっくり過ごすのは悪くない、よいことである。しかしそれはむしろ、「一人」の延長である。

 家族等と、その他他人とを一緒にできるわけはなかろう。
 先の無責任なアドバイス氏における、「自分をさらけ出せばいいじゃない」は、他者を他者と思わなくてもいい、という支離滅裂さがある。

 他者は他者だから、相応の刺激があるのであり、重要なのだ。家族の安定性や、居心地の良さとは別である。


治療されるべきか

 一方で、人は生きていくのに、多くの人の繋がりが必要だ。このブログを書くための電気も、発電所ではある程度オートメーションされているのかもしれないし、特に電線を伝ってくる電気に人の意思があるわけではないが、それでも、維持運用してくれている人のおかげだ。

 ――ということと、「人と会うと疲れる」とか、「仕事めんどくせぇ」とか、「あと何年生きるんだろう」とかいう「空虚感」というのは、別問題である。

 今を生きることに必死にならなければいけない、紛争地帯とか飢餓とか、パワハラ上司とか幼児虐待とか、ひっでぇ事象と比べて、「ああ、自分はましなんだなぁ」とかって思考停止は、もうやめようじゃないか、ということを、僕は、カクヨムでの投稿の、1話目で書きたかったのである。たぶん。


 それはそうと、人等との繋がりは断ち切れない。
 そうしたときに、こうした気質性質は、治療されるべきか。皆がパーティーピーポーになるべきかのか。

 シロクマ先生でさえも、「あああひきこもりてええ」ってなるのだから、別に治療されるべきではないのではないか。――しかし、ある程度社会的地位がある人たちは、自由が許される。ホリエモン氏らが、「好きなように生きてそれを仕事にできなきゃクソ以下だぜ」と好き勝手言っても、誰しもそう振舞えるほどのステータスも財力も環境もない。「うぜぇ、そういって言い訳してばっかいるからクズのままなんだ」って言われるだろうが、たぶん、平行線になる部分である。

好きなこととは何か

 と、いうよりも、問題にすべきなのは、その「好きなこと」である。
 こっちの方がよほど問題であることを最近思う。

 いや、自分の記事を丁寧に読み返せば、数年前からちゃんとそのあたりに気づいてはいるように思う。思うが、明確に、何度も、「問題だ!」と主張していなかったから、今回は主張したい。

 どういう状態が望ましいのか。好きなのか、幸せなのか。

幸せについて

 で、この、幸せ、については、僕の古い記事を一度参照しておくべきだろう。

幸福について

 これは、2010年の記事であるが、まぁ未だに、僕が「ああ、そうだな」と思って違いはない。

 僕の言葉で、「相対概念」といってるものがあるが、要するに、長い短いとかのことだが、幸福もまた、相対概念である。
 なんか、そう、最近の記事でも、自分自身でもそういった傾向で書いてきた気がするが、なんというか、別に「幸福」を僕は求めているわけではない――というのはまた違うのだけれども、「幸福」という概念自体に執着しようというのではないのだ。

 ああ、そうそう、最近では、「満足」という言葉を使っていたか。
 満足、もまた、相対概念である。求めても、得られるものではないのである。


 それが、僕の中には、アカシックレコードばりに底流にあるわけだが、そう、最初の「人といて疲れる」的な意味における「人」(他者)に、そこまでの価値観の共有を求めるのは不可能だし、失礼だろう。
 そして、僕自身も別に理解してもらおうと思ってるわけではないから、理解してもらうための努力をするつもりもない、する必要もないと思う。

 ――というか、こういった問題は、誰かと会話をしていく中で見いだされるものでもなく、解決するものでもない。これらには、書物は有効だと思う。――しかしながら、書物でさえも、所詮は「他人」である。「ああ、この表現は使えるかな」ぐらいの役にしかたたない。


 それほど難しい問題を、このブログでは取り扱っているのだ――と書くと気どり過ぎなわけだが、そういった面倒くさい問題に立ち向かう必要がある人を、僕は無条件で応援する。

他者に興味はあるか

 もう一つ。この記事に関して、どこで読んだか思い出せないのであるが、――確かBooks APPさんだったような気がするが、見つけられない。
 あ、たぶんコレ(しんざき氏の記事)だ。


 そうそう。他者に興味ないんだよな、俺。

 いや、ある。ある人はいる。たくさんいるぞ! ――いるけれども、現実には少ない。ってか、「仕事」というコミュニティにおいて、他者に興味はない。

 うーん……なんかちょっと違うような。興味はなくはなくはない……というか。
 孤立したら仕事も進みにくいしな。

 っでもなー、そういった気を遣うことができる人が出世するとか、管理職に向いている、という傾向があるんだとしたら、俺は全然向いてないと思う。

 ――いや、そんなこともない、というか、「人に役に立つことはしたい」と思うわけだが、……うーむ、このあたりを上手く表現できないな。このあたりをうまく表現しないと転職はできないな(笑)。

あとがき

(かっこ書きである。でも、だな。今回の記事は、いくつかの記事を切り張りしたリンク集みたいなもんであるが、全部関連しているともいえる。人間社会で生きていくにおいて、幸福的であるには、他者に興味をもつべきである、という前提に縛られていると思う。先日、「君は、様々なものに縛られすぎのように見えるよ」というコメントを頂いたわけであるが、その自縛の一つが「他者性」であるのではなかろうか。いやぁしかし、それは俺も、切って破いて捨てたいよ(かっこわらい)。捨てたいけれども、捨てたら、それって「死ぬ」のと同義にならないか、ということで慎重に検討しているのである。いやいつも極端に思われることを書いてしまうが、例えば次に、「ようし、俺は好き勝手自分の生きたいように生きるぞ!」というのを「正解」としたとしても、今回の記事で触れた、「好きなことって何よ」という問題にぶちあたるのである。要は、袋小路のように陥っている。ええい面倒くせえやつめ、じゃあもう考えること自体やめちまえ、という意見もごもっともである。しかし、これは、休日に何もしたくないとずっと布団の中でうずくまっていても、睡眠薬を服用してずっと寝続けたとしても、思考が不要になるということにはならないのである)

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純粋性と無垢について
2017/05/06 10:19 | Comments(0) | 対人関係
今日の一言「ひとのこころはおもしろきかな」

理想のヒロイン像

 鉄血のオルフェンズ(ガンダム)のクーデリアお嬢様とアトラさんは駄目で、進撃の巨人のミカサとハンジさんは良いのは何故か?
 先日書いた時にはよく分かっていなかったが、モリエールという作家の「守銭奴」という話と、「ドン・ジュアン」という話のあらすじを読んで、ふと思った。
 これは、性格気質の「純粋性」が問題なのではなかろうか、と。

 クーデリアさんたちは、内面葛藤を抱えていながら頑張っていて、ミカサは命を救ってもらった主人公のエレンを守ることのみを生きがいとしているという点。どっちも頑張っている点は同じだけれども、後者はより特化しているというか、ある意味病的ですらある点に好印象だということだ。

 と、書いて、んじゃあ、アトラさんは駄目なの? 彼女も、命を救ってもらった主人公の三日月くんを支えることを生きがいにしてるんじゃあないの? と思った。確かに、そうだ。でもなんか違うんだ。こんなこと書くと、アトラさんファンに石礫を投げられそうだが、ブレているというか、中途半端というか、微妙なのである。
 何故そんな風に思ってしまうかというと、まぁ、序盤の登場からの印象がよくなかったというのもあるが(なんか、ちっちゃくて可愛い女の子だしときゃいいんだろ、みたいなテンプレ臭を思ってしまった。ただこれは偏見に過ぎなかろう)、当初は、「三日月のそばにいられるだけでいいんです」的な感じで、クーデリアさんの方が似合ってるだろうなぁとか言っているのに、段々と、「(クーデリアと)一緒に三日月をつなぎとめましょう!」となって、「あなたの子供が欲しい!」となる。
 まぁ、言うなれば、ふつうの、かわいらしい、少女の恋愛が描かれているわけであるが、……いやだから、嫌いだとか見てられないとか、そういう文脈で書いているのではなくて、「理想のヒロイン」というか、心がきゅんとなるか、という意味においては、オルフェンズの女性陣にときめくことがなかったということである。

純粋性とは

 ヒロインの話と、タイトルにある「純粋性」とに、何の関係があるのか、ということだけれども、もっといえば、それと「てめーが生きる意味」というのと何の関係があるのか、ということだけれども、大事な要素がある気がしている。

 まず、ユーモア、お笑いというのは、ある種、人間の性格を極端に増幅ピックアップしたときに面白くなってくる。先に挙げたモリエールさんの喜劇というのは、「守銭奴」という性格類型だったり、「無神論者(好色家)」という性格類型だったりする。そういった極端な人格と、周囲の(ふつうな)人たちとのかけあい、軋轢なんかが面白かったりするのである。

 物語には悪が必要だ、と言われたりする。その悪が巨大で、醜く、とことん突き詰められているとストーリーに起伏がつけやすい。それに立ち向かう主人公陣営も魅力的に描きやすい。その「悪」が、「いや実は、こうこう、こういった事情がありまして……」的な感じのが最近多い気がするけれども、「いやーそうですか、貴方にもそういったご事情があるんですねぇ」「そうなんですよーあっはっはー」的な感じになってくると、何だか肩透かしに思えてくる。いやおめーよぅ、その程度で和解できるんだったら、はなっから話し合いでもなんでも他の方法があったんじゃねえかよ。


 それでだ、話を「純粋性」に戻すと、みんな、誰でもそもそも、純粋なものって好きなんじゃあないかと思う。
「不純物ゼロ! 純粋に素材を活かした商品です!」
 いやそれ、ただの水でしょ、みたいな。それは極端か。
 他には、ヤリマンビッチよりも処女の方がいいとか。
 そういった「純なるもの」への憧れって、どこかしら人の根源になかろうか。

 例えば信仰とか。
 神への信仰は、時に、疑うこと自体を悪とされる。そもそも聖書では、楽園エデンで暮らしていた男女が、知恵の実を食べてしまうことによって、純粋性を失って、神様から怒られてしまった。これは、逆説的に、純なるもの、無垢なることへの憧れの表れなのではなかろうか。


 まぁ、僕は別に処女信仰をもっているわけではないけれども、それでも、純粋な女の人の方が好きだ。その純粋なというのは、性交経験ではなく、性格特性としてのものである。じゃあその、純粋な性格特性って何なんだ? ということで、ようやくこの記事の本題に近づいていく。

分かるということ

 その前に、「わかる」ということについて、書いておく必要がある。

 この「わかる」とか、知識をもつとか、そういったことと、純粋性とは、切っても切り離せない問題だ。

 わかるとは何か? 端的に答えるならば、それは、「分類できる状態」、もっと平易に書けば「わけられる」ということだ。


「答えを出せる状態」
 という表現もできるかもしれないが、それはやや具体性にかける表現である。

 確かに、何かの問い、問題、課題があったときに、適切な答えを出せるというのは、その問い等について、「分かっている」といえるだろう。

 では、その答えを出せるというのは何か?
 言語上であれば、YES/NOだったり、善悪だったり、AタイプorBタイプだったり、何からの分類ができて、そこに整合性が保たれている状態、それが答えということだ。

 ということは、つまり、その問い自体について、「わかっている」必要があるわけであり、ここでいつもお決まりの無限遡及が生じる可能性を見出せるのだけれども、そもそも、言語というもの自体、カオスな自然状態を、適切に生活するために便宜上「区切っている(わけている)」のである。
 その根源を辿れば辿るほど、いつまでたっても答えがでないという状態に陥るのは、仕方がないことであるともいえる。

思考実験の意味について

 ちょっと蛇足だけれど、カントという哲学者さんは、形式的な倫理(定言命法)を重視したといわれている。有名な例として、自分の親友Aが殺人鬼に追われていて、自分の家にやってきて、匿っていた。そこへ、殺人鬼が自分の家にきて、「Aはいるか!」と訪ねてきた。嘘をついてはいけないという倫理観がある場合は、一時の感情やその状況に応じて変えてはならないのであり(仮言命法)、親友のAはここにいる、と殺人鬼に言わなければならない、という話である。
 これは、倫理的・道徳的になんかおかしいから、カントの言ってることは矛盾だよね、といった文脈が多いように思う。

 けどまー、その場の対処はいろいろあると思う。
「Aはここにいる! が、お前には引き渡さない!」
 とインターホンで対応して、そもそも玄関のドアを開けないのだっていいし、すぐに警察よんでもいいし。

 功利主義の正義の問題とか、暴走列車で、Aの引き込み線では3人、Bの引き込み線では1人死ぬとしたら、Bが正しいとか。でもなんでそんな暴走した大事件発生中にもかかわらず未だ線路上に人がおるん? とか。


 こういった議論というか、仮定というのは、その時々のシチュエーションにおける対処をその場で、瞬時に選ばなければならなくて、結局言語上の、思考実験に過ぎない。
 たぶん、あんまり「正義」とか道徳とか考えていない人だったら、3人と1人という選択ができる状態にあったとしても、「何もしない」という選択をとることだって考えられる。それは、どちらを「選んでも」それは、自らの選択で人を殺めた、という解釈もできるからだ。そうしたとき、人は思考停止に陥って、合理的な判断ができない可能性だってある。
 だから、思考実験と、実際に僕らの生き方・選択という問題は、実は関係してそうで関係していない場合があることを、忘れてはならない。

 話がずれた。

無垢な少女

 汚れを知らない、うら若き乙女。
 うーむ、陳腐な表現である。ともかく、「少女」という言葉がもつ響きには、どうにも、「純なるもの」という意味が込められているような気がする。

 じゃあその「純なるもの」って何なの? ということを表現することによって、理想のヒロイン像を明らかにしようというのがこの記事の試みである(そうだったのか!)。


 聖書の創世記に出てくるエヴァはどうか(この文脈では、アダムでもいいが)。
 明らかに、蛇にそそのかされて「知恵の実」なるものを食べる前は、「純真無垢」であったのだろう。では、無垢とは、知恵の反義語ということか。

 いつものごとく、辞書をひいてみる。別に無垢と知恵が対称関係にあるとか、そんなこと書かれてはいない。

 ただ、無垢というのは、「まじりけがなく、完全であること」のように表現されている。純粋という語においても似たり寄ったりである。

 ふむふむ、なるほど、もしかしてこれって、最近よく表現しているものに似ているのではなかろうか?


 それは、「無」である。なーんにもない、ということだ。思考も感覚も無い、絶対無の状態。それが無垢である。
 そうしたとき、思考のもととなるモノ、――すなわち「知恵」というのが、まさにその無垢の、純粋性の対義語ではなかろうか。



 知恵がないというのは、それは、「バカ」ともいえる。なるほど、では僕らは、できるだけ思考をすて、馬鹿になっていく必要がある! 考えることは悪だ、思考は悪だ!

 そして、理想のヒロイン像というのは、「アホの子」なのだ! 知的だったり、努力家だったりする必要はないのだ。ただ馬鹿であればいいのだ!

ハンジさんはどうか

 いやでも、進撃の巨人のハンジさんはどう考えても知的キャラではないですか。

 いやそうか? ちょっと待ってほしい。彼女の巨人に対する研究心は、明らかに度を越している。自らの命の危険なんてしょっちゅう度外視されている。副官のモブリットさんが大変そうである。
 その持ちえたる知識、頭の回転の良さ、判断力、そして行動力。どれをとっても馬鹿ではなかろう。
 ただし、その巨人の生態を明らかにしたいという思い、それへのひた向きさは、「バカ」と表現しても構わないような、そんな一途さを感じられる。

 それもまた、「純粋性」といっても構わないのではないだろうか。

 としたとき、一つ新しい定義がわいてでてきている。つまり、純粋性とは、決して、「知恵がないこと」「何も知らないこと」である必要がないということだ。

 ある「モノ・コト」に対して、わき目もふらず、ただ一途にそれを目指し続ける、それが「純粋」というものなのではなかろうか。



 ミカサは、幼馴染のエレンを守ることだけを目的としている。
 だから、同じく幼馴染のアルミンと、カリスマ的指導者の命が天秤にかけられる場面に出くわしたとき、アルミンを助ける決断を諦め、いち早く身を引いた。これは、非情なのではない。ミカサにとっての第一義は、エレンの存在なのである。これが、エレンとカリスマ的指導者の命の天秤であれば、ミカサは何らためらいもなく、周囲の同僚をも下手したら殺害してでも、エレンを助けただろう。

(と、いった感想というか解釈をもっているので、進撃の巨人の実写版のキャラクターメイキングというか、ストーリー構成は納得いかなかったというか、つまらなかった。まぁ単に好みの問題だろう)

現実にいないだろうそんなヒト

 といったわけで、僕の変態な嗜好を垂れ流してきたわけであるが、これ、いったい、何の役に立つ奴じゃ?

 一つ言えるのは、お笑いコントは、喜劇は、物語は、その「極端さ」(純粋性)をピックアップできるがゆえに、「面白い」という感動を与えるのである。

 でも実際、僕は、人間という存在について、そこまで楽観的な感覚を頂けない。
 時に両価性の感情をもつことだってあるのが人間である。
 好きという感情の中に、憎しみだって内包できる高度で複雑な「こころ機能」。

 これを「わかる」ためには、「こころ」ということそれ自体の分析をしても足りないのであって、その「問い」が放たれる状況、文脈の理解……しかもその理解は、刻一刻と変わっていく「こころ」を正確にとらえるために、瞬時に、リアルタイムに行われねばならないのだ。

 原理的に無理じゃないかと思う。
 だから、誤る可能性はあるにせよ、「たいていは、こういう状況において、人はこういった感情をもつ」という、何となくの感覚を総動員してコミュニケーションを図っているのである。

 コミュニケーションをするってのは、とってもすごいことなのだ。そんなことを、何の気なしに、僕らはやっているのである。
 だから、コミュ障とか最近よく聞くけど、それも、当たり前っちゃあ当たり前なのだ。だって難しいことやってるんだから。



 だから(この「だから」は、いささか強引な気がしている。ただ、今回の記事としては、いったん締めくくっておこう(※))、ある程度のテンプレ(物語)が必要なのである。

 えーと、しかし、そうなってくると、純粋性というのもまた、単に「解釈」上の話に過ぎないのだろうか。
 だとすると、この記事はなおのこと何の意味があるんだということになってくる。
 そもそも、分かりやすく、お前は、純粋性というものに賛成なのか、反対なのか。善なるものだと思っているのか悪だと思っているのか。目指したいのか唾棄すべきなのか。どっちなのだ?

 うーん、でもやっぱり、みんな、純粋になるっきゃないんじゃないかなぁ。そういったものが価値あるものだと、共通認識がもたれるような世の中になっていく必要があるんじゃないかなぁ。


(なんやかんや、中途半端ではあるが、しかし、何かのたたき台にはなりそうな記事になった気がする)





※原理的に人の心を瞬時に完璧に理解してコミュニケーションしていくのは不可能だろうということ。であるなら、「こういうときはこうだ」「こうすればこうなる」というのを、自分の中である意味勝手に解釈するしかないのである。このことについて、「人はもはや、信じることしかできないのである」表現で書いたことがあった。だまされようがなんだろうが、結局他者というのは、自分の解釈の中での存在であるということだ。
 しかし、この感覚にがんじがらめになってしまうと、色々な弊害に見舞われるのはすぐにわかることである。


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短く書く試みと孤独について
2016/11/21 23:23 | Comments(0) | 対人関係
「お前のブログは長すぎていかん」
 とコメント頂いた。うん、確かにそう思う。

 実際、最近、「カテゴリ分けが重要だ」として、何とか整理を試みているが、あまりにも長すぎて、その長い記事というのが、往々にして複数のカテゴリにまたがったことを書いているものだから、もうカオス状態になる。
 ここで、もう面倒くさいから、「ゼロベースで作り直しだ」と考えてしまうのが、僕の悪い癖で、その度に過去を清算しようとする。しかしこれは、女子高生がスマートフォンの友人たちのアドレスをリセットするような、SNSで退会してまた別アカウントで登録するような、そんな行為と同義であろう。

 過去からの、連綿とした繋がりにおける自己の表現、カッコよく書けばそんな感じ。何とか、ポイント絞って、目指すはミーシー(MECE:漏れなく重複なく)である。

 とか書いてみると、以前の記事で、「思考の体系化が今年の目標だぜ!」とか書いているのも見つかって、お前、ほんと、成長していないなぁと辟易とする。

短く書くこと

 というわけで、長い記事がよくないという、当たり前の、一般的に言われていることの実感ベースの表現である。
 とはいえ、これ、ある程度の長さもやっぱり必要に思えるんだよな。

 いやいや、問題はそこではないかもしれない。そもそもにおいて、僕が書き始めるときは、一体全体、この記事が、どのカテゴリに属するのか、どの程度の長さになろうというのか、全く想像もつかないのである。

 ただ、書いているうちに、だんだんと、書きたいことが生じていくのである。残念なことに、何か、「これについて」というテーマを決めると、途端に興味がなくなって、書けなったりする。
 いろいろ書いていくうちに、書きたいことが見つかる、という構造のため、それはそれは、無駄に長くなっていくのである。

 だが、今日のところは、その、書くことそのことに焦点を当てているので、許すことにしよう。

考え込んでしまう時間が無駄に思える

 あー、その、何だ、やっぱり、何か「整理して書こう」とすると、タイピングの指ではなく、そもそも、思考が止まってしまっている。何か考えているようで、何も考えていない状態。非常にもったいない。
 いやきっと、その時点も、「何かは考えている」。ただ、それがアウトプットされないために、無限ループに陥っている可能性がある。かくも思考とは取り扱いが難しいものである。

 よし、では、完全に思い付きだが、自分の最近のある記事について言及してみよう。

生きる意味を考えるということ

人生における行動は、生産と消費とがある。
生産する人は魅力的だが、消費が悪いわけではない。
消費による感動が、生産の原動力となっている場合もあるし、消費者がいなければ価値の創造もありえない。
その意味で、いままでの自分の行為を、行動を、後悔する必要は一切ない。

しかし、目的なき消費は、いずれ訪れる死に対して無力であるといえる。
 2016年7月20日の記事の抜粋である。

 あーその、なんだ、手前みそだが、結構いい表現な気がする。
 自分の性格的に、自己肯定というのを、中々できない。にも拘わらず、この表現はまぁまぁいいんじゃない? と上から目線に思えるのは、もう、この3か月前ぐらいの記事のことを、すっかり忘れているからである。

 そして、いくら上から目線でも、自分の記事に対しては全く問題ない点が、書きやすい、ああ書きやすい。

 ここで言いたかったことは恐らく、ただ惰性で流されて、好き勝手楽しんでいても、その瞬間瞬間はきっと楽しいだろうから、「いま、ここに生きる」という仏教的な正しい生き方に思いながらも、それは怠惰な方向への逃げであるということだろうと思う。

 そして僕はさらに、「逃げ」の何が悪いの? ということすらすぐさま言及する。工事現場で重機でハリーポッターやって楽しんでいる若者たち、いわゆるDQNと言われるような人たちが、本当に人生失敗なのか、というと、全くそんなことはないだろう。
 ちょっと調べてしまったが、「ハマータウンの野郎ども」という本があって、そこでは、ホワイトカラーと対比された、ブルーカラー(ここでは不良)たちが、独自の文化体系をつくりあげているということを、フィールドワークによって描き出した本なのだけれど、それを思い出した。




 難しい概念は僕は分からないし、この本自分で読んだことがあったのかもよく分からない(図書館で借りたのか、授業で習ったのか、レビューを読んだのか分からない。一つ言えるのは、買ったことは無い)が、取りあえず一つインプットとして、今も記憶に残っているのは、「文化」は、どんな状況でもどこにでも発生するのである、と。

 この「文化」の生成を、そもそもの起点について、恐らくサピエンス全史において明らかにしてくれるだろうので、僕はとても楽しみに思っている。

 サピエンスの所以は、「文化」なのだ。虚構の言語なのだ。認知革命なのだ、と。

 だから、敢えて差別的な言葉遣いになってしまうが、ホームレスの人たちであっても、恐らく、独自の「文化」というのが形成されていくことだろうと思う。もっとも、150人の壁(噂で成り立つ集団の限界人数)ほどにも、ホームレスの集団というのは無いのだろうけれども。

凄まじい孤独

必要なのは、主体的な、実存的な真理である。人類社会に貢献する科学は、まさにそうした普遍性を自然界や人間界に求めようとするものだけれども、その真理は、決して個人とした自らに当てはまるものではない。当てはまったとしても、その普遍性は、自分自身とおう、個体、ユニークな存在を完全に表現できるものではない。他者の言説が、役に立たないとか、他者に頼ったり、相談したり愚痴いったりするのが意味ないというのは、日常生活のことをいっているのではない。

この、自己の問題、何故自分は生きているのか、この存在の意義は、という問いに、他者は一切答えてくれない、どころか、そんなこと考えることは無意味であると、そう突き放すのである。

孤独、凄まじい孤独。

この感覚は、きっと、わかる人にはわかると思う。これは、いくら楽しいことしても、他者と交わっても、美味しいもの食べても癒されるものではない。僕はこうやって表現できるから、一応自己を保ってられるけど、この感覚におそわれて、表現することができないと、薬物にはしったり、リストカットしたり、無気力になったり……。全員がそうじゃないにしても、こうした孤独感で自分が押し潰されそうになった人は、決して少ないとは思わないのだけど、何故か僕はあまりそういう人に出会ったことがない。というのは、珍しくなくて、この孤独は先に書いた通り、他者と一緒にいて、楽しそうにしていてもぬぐえるものではないから、そういう人は一見わからないのだ。
 なんか、引用(blockquote)使うと、改行が全部無視されるんは、忍者ブログの仕様なのだろう。ちょっと読みづらいな。無理やり改行。

「孤独、凄まじい孤独」

 って、何だか、カイジの表現みたいだ、って、カイジ、読んだこと無いけれど。
 孤独って何だろな。
 こんなこと、考えるなんて、書き始めたときはホント思ってない。
 ましてや、知り合い何かに、「孤独、感じることってある?」なんていきなり話し出せば、間違いなく気が狂った人のレッテルを貼られることだろう。

 サピエンス全史に限った話ではないけれども、基本的に、どの分野のどの書物を読んでも、基本、「人間は社会的な動物である」という前提にたっている。
 孤独でもええんちゃう?
 とか言うような本はない。「自立」を促すような言説はあるけれども、それは、孤立を意味しない。

 孤独と孤立の違いはなんだろうか。

https://happylifestyle.com/11556

 ↑のサイトを参考にすると、孤独とは、夢や理想を同じくする人がいなくて、仕方がなく一人になってしまうこと。孤立は、ガチで一人、という状態。

 一人、という状態については同じだけれども、その目的と、経緯(プロセス)の違いを示す言葉だという。

 おー、こういうのが、まさしく「虚構の言語」ですわな。7万年前の認知革命でサピエンス種が手にするまで、この世界では発見されていなかったことだろう。


 恐らく、サピエンス以外の種(しゅ)は、孤独と孤立の違いを説明できないだろうし、そもそも説明する必要性がないだろう。取りあえず一人でいたら、ライオンに襲われて餌食になるだけだ。一致団結して敵対者と戦うということは、ネアンデルタール人たちでもあったはずである。

 小賢しいサピエンスは、孤独と孤立という言葉を巧みに用いて、一人でいるという事態を、ときに正当化するのである。

孤独が好きなのか?

 大分、「思考のための思考」になっている。こういう文章はどうだっけ、後から読んだら面白いのだったろうか、よく分からない。
 ただし、書いておくべきは、これはダメなパターンだということだ。

 ホモ・サピエンスがどうであろうが、そもそも、俺、僕、私が、どうなんだという話し、それが大事だ。

 この記事で、今後も役に立たせるために、一つぐらいは確定的な何かを書いておきたい。

 よし、僕は、孤独が好きなのかどうか、という問いを掲げよう。


 ……うーん。

 どうなんだろう。これは結構悩ましい。

 何だか、本当に気が合って、理解があって、目指す方向が同じで、感覚が同じで、いろんなことが同じで……というような人がいたら、きっと、何かするのも、2倍、3倍と楽しいのではないかと思う。
 が、そんなの、エンターテイメントだってありえないことである。みんな違ってみんないい、ではないが、そもそも、多様性が生物としての生存戦略であって、同じコピーであれば、環境の変化であっというまに絶滅してしまう、ということがよく謡われる。

 だから、人間関係ってのは、そもそも、その気があったり、時にぶつかりあったり、喧嘩したり、仲良くなったり、感心したり、嫌悪したりと、様々な関係が発生すること自体、そのこと自体が「楽しい」ものなのであって、それが「楽しい」かどうか、その辺りに、孤独が好きなのか、群れが好きなのかの違いがみてとれそうだ。

孤独の反義語は?

 そもそも、孤独の反意語ってなんぞや、と調べてみると、「連帯」と出てきた。まぁ、みんなと一緒にいる、というような意味だろう。

「人と一緒にいると、だんだん孤独を感じてくるのです……」

 というような表現をされている人の記事を見かけた。
 ふむ、これはしかし、当たり前のことだといえる。上に書いた通り、人は、「みんな違う」わけであって、多くの時間を他者と共有しているうちに、だんだん、自分との差異というのが明確に輪郭が浮き上がってくるのである。
 そのことが、「面白い」と思うか、ああ、「僕はやはりこの人とも違うんだ」という対人関係に対しての絶望になるかは、その人次第である。

 おい、そんな、他者のことはどうだっていいんだ、そういう分析紛いのことは、相当20代のころやってきただろ?

 分かってるよ、俺が、どうなのか、ってことだろう?

 うーむ……。

 別に、人と一緒にいることが、それほど嫌なわけでもない。
 というか、働いている以上、大半の時間を他者と過ごしているというわけでもあるし。がしかし、昼休みの時間まで、誰かとずっと一緒というのは面倒な気もする……ああいや、しかし、週の半分ぐらいは同僚と一緒にランチに行ったりしている。それが無理やり嫌々やってるかというとそうでもない。

 ただ、仕事とプライベートとは、この面においては分離して考えるべきだ。仕事はあくまでも、「ある一定の目的」を、共有する集団であるのだから、その「共同幻想」(サピエンス全史の言葉でいけば、「神話」とか「想像上の現実」)を信じているうちは、安定的でありえるのだ。

 プライベートにおいては、「誰かと何となく繋がってないと不安」といった状態が、起こりえる。学生、特に女の子はそういった状況になりがちだという。
 あはは、若いねぇ♪ と、笑ってられる程、事態は、自分にとって思わしくない。

 なぜならば、そもそも、このブログ、この記事事態も、僕が「連帯」を求めているという証左に他ならないのではないか、という疑義が発生することである。

 それもあって、僕が果たして、本来的に「孤独」が好きなのかどうか、よく分からない。


 ここで、「好きな人とは一緒にいてもいいけれど、嫌いな人とは一緒にいたくない」とかいう、そんなバカげた、当たり前の、幼稚なことはどうでもいい。僕が今ここで、書いておこうと、明らかにしようと試みたのは、もっと、根源的な方針がどっちなのだ、ということである。


 一方で、だ、そもそも、こうして表現するということにおいて、果たして、「孤独が好き」という表現はOKなのか、エラーなのか、その点も考慮する必要がある――おい、長いぞ。

強制終了

 やっぱり、短く書く、というのも、中々難しい作業であることが分かった。
 いや、書かないというのは簡単にできるのだけれども、短いながらも書くというのが至難の業である。

 書き始めると長くなるし、短くしようと思うと、何も浮かばないというか、思考停止状態になる。もう今の状態だと、まだまだしばらく指を動かし続けられる、ノンストップで。割かし何度か、腱鞘炎じみた状態になったことすらある。手の甲がズキズキしてきたりもする。

 ということで、強制終了。カテゴリは、そうだな、要素が多そうな「対人関係」にしておくか。
 うーん、今年中に、カテゴリの整理をする、という目標立てたような気がする。最近。大丈夫か、いけるか?
 そもそも、創作したいという意欲もわきあがってきたというのに、こんなこと書いてていいのか? でも、サピエンス全史も読み進めたいし……。

 あれ、結構、欲求が戻ってきている気がする。これはまぁ、悪い傾向じゃない。こういうときの注意は、睡眠時間だ。よし、ルーチンはOK、寝よう。

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頭の使い方と論理性
2016/11/18 21:00 | Comments(0) | 対人関係
さて、今日は対人関係のカテゴリだ。
そもそも、対人関係は、異性と、友人と、会社と、趣味とに大別される。

今日は僕は何について書こうと思ったのか。
どちらかといえば、会社、だが、異性要素もあり、友人要素もある。
カテゴリ分けという作業は、中々困難である。

頭の使い方


もっというと、対人関係というより、論理的な話し方と頭の使い方と他者の気持ちのそんたく、について書こうと思ったのだ。




なんだかんや、うまくいかないことが多い。
が、そのなかで、まぁなんとかやっている。

やっぱり、頭のいい人はいるんだが、それをどう目指せばいいのか。

責任感。

協調性。

倫理観、そしてチャレンジ精神、と。

組織として重きをおくことというのはある。

で、まぁ、そういう標語ってのを、俺は好きじゃないので、分解してやろうじゃないか。



まず責任感ってなんだよ?
責任って言葉は、結果にたいして、自らのものだとして行動することである。その行動ってなんだよ? 基本的に失敗したことや、問題が起こったことに対して使われる言葉である。

で、だ、まぁこの世界は、正直者が必ずしも得をしないようにできている、ブラック企業であることをロウキに言ったら干されたとか。

何をもって、責任感をはかるのか?
なんでもかんでも、私の責任です! と公言する人が評価される?
違和感である。

ゆえに僕は、目指すべき人間像としての責任感という言葉を、自分で達成可能なこととそうでないことの分類が正確にできる人、と定義しよう。

となると、次に、チャレンジ精神がポイントになる。


チャレンジ精神とは?



何でもかんでも、興味をもつことは正しい。興味をもてないことは、脳のA10神経群でマイナスの感情とレッテルを貼られ、前頭前野や海馬などに伝達しにくくなる。結果、記憶ができにくくなる。

何でも面白いと思うことは重要である。

しかしながら、責任感という言葉と矛盾する。

責任感は、僕の定義では、できることとできないことを明確にして、結果を約束することである。
それが、チャレンジ精神でやることを増やし続けたらどうか?
物理時間は限られている。
どこかで破綻するだろう。


そもそも、何でも新しいことをするのが正しいのか。
いまある目の前の仕事を、丁寧に確実にすることが悪いことなのか。

それは違う。ただし、ここでポイントになるのは、現状維持というのは難しいことなのだ。

ラーメン屋が常連をはなさないのは、微妙に味の更新をしているからだという。
そして、脳機能的にも、単純な同じことだけしていると、パフォーマンスが落ちるのだ。


ゆえに次は、目的設定力が重要になる。


仕事について



ここまで書いて、ああ、今回、カテゴリ対人関係じゃなかったなと気づくわけだ。厳しく野ったら、前半部分は全削除になる。



まぁさておき。

すべての仕事というのは、人の欲求を満たすものである。

欲求とは別に、愛欲や食欲に限らない。

安全欲求だってそうだ。
歳をとっても、豊かに暮らしたい、安定的に暮らしたいという欲求により、保険という仕組みが生まれ、それに纏わる仕事が生じた。

新人は、書類整理だけかもしれない。
何年たっても、複雑な複利計算だけかもしれない。それが人の欲求を満たしている実感はないかもしれない。

でも、直接的ではないにせよ、それは欲求充足のための仕事なのだ。


ブラック企業とは、ある意味、その他者への欲求充足のための、自己犠牲精神なのかもしれない。
だが、見落としているのは、そこに働く個個人の存在だ。ワークライフバランスなんて言葉は、単に残業削減みたいな感覚しか与えないようになっているが、理念としては悪くないし、資本主義的ですらある。


奴隷制は経済的か?



奴隷制が現代なくなったのは、人の博愛精神によるものか?


否。

という考えに僕は衝撃をうけた。つまり、これも経済なのだと。
どういうことか、奴隷は、生産するだけの存在で、消費をしない。しかし、経済とは消費と生産の循環で発展する。

つまり、消費をせず、ただ生産意欲が低い奴隷というのは、主人の所有意識を充足させてくれようが、社会全体としての発展は望めないのである。


代替してきたのがAIである。

AIの議論になると、人間が仕事を奪われる!!
ということになるが、本来おかしな話だ。

AI、ロボットさんがいっぱい働いてくれて、人間がたくさん消費して享楽を得て、働かずに生活できるようになれば、何ら問題はない。まさに楽園の実現であろう。


そうならずに、富のかせんが起こる理由とか、様々あるのだろうが、AIの発展は、ターミネーターみたいなことがない限り、全人類にとって幸せなことであるはずだ。  

結婚制度と女性の消費



実際日本社会においても、似たことが最近まであったではないか。


男は会社でもーれつに働き、女性は優雅に女子会ランチ。
ブランドバックに服。楽しみ放題。

ま、そんなんで上手く社会がまわってたこともあった。

女性の社会進出というのも、家で家事して、夫の稼ぎ以上の消費がない状態で、その夫もだんだん給料がさがってくる、となれば、消費が増えないからやっぱり、経済は停滞する、じゃあ女も働くか、となる。

別にフェミニンな運動がすべて功ではなく、経済的な要素が多いに関係するのである。
で、その経済とはなにかととえば、はじめにもどって、欲求、ということになる。



だから、欲求が非常に大事なのだ。


まとまらなくなった




うーん、難しい、テーマをしぼってかくというのは、どうにも面白味にかける。

本当は、いい感じに成功できる人間関係のための頭の使い方、的なのを整理したったが失敗やなぁそして時間ぎれ。



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