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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
カテゴリー「対人関係」の記事一覧
今日の一言「ひとのこころはおもしろきかな」

理想のヒロイン像

 鉄血のオルフェンズ(ガンダム)のクーデリアお嬢様とアトラさんは駄目で、進撃の巨人のミカサとハンジさんは良いのは何故か?
 先日書いた時にはよく分かっていなかったが、モリエールという作家の「守銭奴」という話と、「ドン・ジュアン」という話のあらすじを読んで、ふと思った。
 これは、性格気質の「純粋性」が問題なのではなかろうか、と。

 クーデリアさんたちは、内面葛藤を抱えていながら頑張っていて、ミカサは命を救ってもらった主人公のエレンを守ることのみを生きがいとしているという点。どっちも頑張っている点は同じだけれども、後者はより特化しているというか、ある意味病的ですらある点に好印象だということだ。

 と、書いて、んじゃあ、アトラさんは駄目なの? 彼女も、命を救ってもらった主人公の三日月くんを支えることを生きがいにしてるんじゃあないの? と思った。確かに、そうだ。でもなんか違うんだ。こんなこと書くと、アトラさんファンに石礫を投げられそうだが、ブレているというか、中途半端というか、微妙なのである。
 何故そんな風に思ってしまうかというと、まぁ、序盤の登場からの印象がよくなかったというのもあるが(なんか、ちっちゃくて可愛い女の子だしときゃいいんだろ、みたいなテンプレ臭を思ってしまった。ただこれは偏見に過ぎなかろう)、当初は、「三日月のそばにいられるだけでいいんです」的な感じで、クーデリアさんの方が似合ってるだろうなぁとか言っているのに、段々と、「(クーデリアと)一緒に三日月をつなぎとめましょう!」となって、「あなたの子供が欲しい!」となる。
 まぁ、言うなれば、ふつうの、かわいらしい、少女の恋愛が描かれているわけであるが、……いやだから、嫌いだとか見てられないとか、そういう文脈で書いているのではなくて、「理想のヒロイン」というか、心がきゅんとなるか、という意味においては、オルフェンズの女性陣にときめくことがなかったということである。

純粋性とは

 ヒロインの話と、タイトルにある「純粋性」とに、何の関係があるのか、ということだけれども、もっといえば、それと「てめーが生きる意味」というのと何の関係があるのか、ということだけれども、大事な要素がある気がしている。

 まず、ユーモア、お笑いというのは、ある種、人間の性格を極端に増幅ピックアップしたときに面白くなってくる。先に挙げたモリエールさんの喜劇というのは、「守銭奴」という性格類型だったり、「無神論者(好色家)」という性格類型だったりする。そういった極端な人格と、周囲の(ふつうな)人たちとのかけあい、軋轢なんかが面白かったりするのである。

 物語には悪が必要だ、と言われたりする。その悪が巨大で、醜く、とことん突き詰められているとストーリーに起伏がつけやすい。それに立ち向かう主人公陣営も魅力的に描きやすい。その「悪」が、「いや実は、こうこう、こういった事情がありまして……」的な感じのが最近多い気がするけれども、「いやーそうですか、貴方にもそういったご事情があるんですねぇ」「そうなんですよーあっはっはー」的な感じになってくると、何だか肩透かしに思えてくる。いやおめーよぅ、その程度で和解できるんだったら、はなっから話し合いでもなんでも他の方法があったんじゃねえかよ。


 それでだ、話を「純粋性」に戻すと、みんな、誰でもそもそも、純粋なものって好きなんじゃあないかと思う。
「不純物ゼロ! 純粋に素材を活かした商品です!」
 いやそれ、ただの水でしょ、みたいな。それは極端か。
 他には、ヤリマンビッチよりも処女の方がいいとか。
 そういった「純なるもの」への憧れって、どこかしら人の根源になかろうか。

 例えば信仰とか。
 神への信仰は、時に、疑うこと自体を悪とされる。そもそも聖書では、楽園エデンで暮らしていた男女が、知恵の実を食べてしまうことによって、純粋性を失って、神様から怒られてしまった。これは、逆説的に、純なるもの、無垢なることへの憧れの表れなのではなかろうか。


 まぁ、僕は別に処女信仰をもっているわけではないけれども、それでも、純粋な女の人の方が好きだ。その純粋なというのは、性交経験ではなく、性格特性としてのものである。じゃあその、純粋な性格特性って何なんだ? ということで、ようやくこの記事の本題に近づいていく。

分かるということ

 その前に、「わかる」ということについて、書いておく必要がある。

 この「わかる」とか、知識をもつとか、そういったことと、純粋性とは、切っても切り離せない問題だ。

 わかるとは何か? 端的に答えるならば、それは、「分類できる状態」、もっと平易に書けば「わけられる」ということだ。


「答えを出せる状態」
 という表現もできるかもしれないが、それはやや具体性にかける表現である。

 確かに、何かの問い、問題、課題があったときに、適切な答えを出せるというのは、その問い等について、「分かっている」といえるだろう。

 では、その答えを出せるというのは何か?
 言語上であれば、YES/NOだったり、善悪だったり、AタイプorBタイプだったり、何からの分類ができて、そこに整合性が保たれている状態、それが答えということだ。

 ということは、つまり、その問い自体について、「わかっている」必要があるわけであり、ここでいつもお決まりの無限遡及が生じる可能性を見出せるのだけれども、そもそも、言語というもの自体、カオスな自然状態を、適切に生活するために便宜上「区切っている(わけている)」のである。
 その根源を辿れば辿るほど、いつまでたっても答えがでないという状態に陥るのは、仕方がないことであるともいえる。

思考実験の意味について

 ちょっと蛇足だけれど、カントという哲学者さんは、形式的な倫理(定言命法)を重視したといわれている。有名な例として、自分の親友Aが殺人鬼に追われていて、自分の家にやってきて、匿っていた。そこへ、殺人鬼が自分の家にきて、「Aはいるか!」と訪ねてきた。嘘をついてはいけないという倫理観がある場合は、一時の感情やその状況に応じて変えてはならないのであり(仮言命法)、親友のAはここにいる、と殺人鬼に言わなければならない、という話である。
 これは、倫理的・道徳的になんかおかしいから、カントの言ってることは矛盾だよね、といった文脈が多いように思う。

 けどまー、その場の対処はいろいろあると思う。
「Aはここにいる! が、お前には引き渡さない!」
 とインターホンで対応して、そもそも玄関のドアを開けないのだっていいし、すぐに警察よんでもいいし。

 功利主義の正義の問題とか、暴走列車で、Aの引き込み線では3人、Bの引き込み線では1人死ぬとしたら、Bが正しいとか。でもなんでそんな暴走した大事件発生中にもかかわらず未だ線路上に人がおるん? とか。


 こういった議論というか、仮定というのは、その時々のシチュエーションにおける対処をその場で、瞬時に選ばなければならなくて、結局言語上の、思考実験に過ぎない。
 たぶん、あんまり「正義」とか道徳とか考えていない人だったら、3人と1人という選択ができる状態にあったとしても、「何もしない」という選択をとることだって考えられる。それは、どちらを「選んでも」それは、自らの選択で人を殺めた、という解釈もできるからだ。そうしたとき、人は思考停止に陥って、合理的な判断ができない可能性だってある。
 だから、思考実験と、実際に僕らの生き方・選択という問題は、実は関係してそうで関係していない場合があることを、忘れてはならない。

 話がずれた。

無垢な少女

 汚れを知らない、うら若き乙女。
 うーむ、陳腐な表現である。ともかく、「少女」という言葉がもつ響きには、どうにも、「純なるもの」という意味が込められているような気がする。

 じゃあその「純なるもの」って何なの? ということを表現することによって、理想のヒロイン像を明らかにしようというのがこの記事の試みである(そうだったのか!)。


 聖書の創世記に出てくるエヴァはどうか(この文脈では、アダムでもいいが)。
 明らかに、蛇にそそのかされて「知恵の実」なるものを食べる前は、「純真無垢」であったのだろう。では、無垢とは、知恵の反義語ということか。

 いつものごとく、辞書をひいてみる。別に無垢と知恵が対称関係にあるとか、そんなこと書かれてはいない。

 ただ、無垢というのは、「まじりけがなく、完全であること」のように表現されている。純粋という語においても似たり寄ったりである。

 ふむふむ、なるほど、もしかしてこれって、最近よく表現しているものに似ているのではなかろうか?


 それは、「無」である。なーんにもない、ということだ。思考も感覚も無い、絶対無の状態。それが無垢である。
 そうしたとき、思考のもととなるモノ、――すなわち「知恵」というのが、まさにその無垢の、純粋性の対義語ではなかろうか。



 知恵がないというのは、それは、「バカ」ともいえる。なるほど、では僕らは、できるだけ思考をすて、馬鹿になっていく必要がある! 考えることは悪だ、思考は悪だ!

 そして、理想のヒロイン像というのは、「アホの子」なのだ! 知的だったり、努力家だったりする必要はないのだ。ただ馬鹿であればいいのだ!

ハンジさんはどうか

 いやでも、進撃の巨人のハンジさんはどう考えても知的キャラではないですか。

 いやそうか? ちょっと待ってほしい。彼女の巨人に対する研究心は、明らかに度を越している。自らの命の危険なんてしょっちゅう度外視されている。副官のモブリットさんが大変そうである。
 その持ちえたる知識、頭の回転の良さ、判断力、そして行動力。どれをとっても馬鹿ではなかろう。
 ただし、その巨人の生態を明らかにしたいという思い、それへのひた向きさは、「バカ」と表現しても構わないような、そんな一途さを感じられる。

 それもまた、「純粋性」といっても構わないのではないだろうか。

 としたとき、一つ新しい定義がわいてでてきている。つまり、純粋性とは、決して、「知恵がないこと」「何も知らないこと」である必要がないということだ。

 ある「モノ・コト」に対して、わき目もふらず、ただ一途にそれを目指し続ける、それが「純粋」というものなのではなかろうか。



 ミカサは、幼馴染のエレンを守ることだけを目的としている。
 だから、同じく幼馴染のアルミンと、カリスマ的指導者の命が天秤にかけられる場面に出くわしたとき、アルミンを助ける決断を諦め、いち早く身を引いた。これは、非情なのではない。ミカサにとっての第一義は、エレンの存在なのである。これが、エレンとカリスマ的指導者の命の天秤であれば、ミカサは何らためらいもなく、周囲の同僚をも下手したら殺害してでも、エレンを助けただろう。

(と、いった感想というか解釈をもっているので、進撃の巨人の実写版のキャラクターメイキングというか、ストーリー構成は納得いかなかったというか、つまらなかった。まぁ単に好みの問題だろう)

現実にいないだろうそんなヒト

 といったわけで、僕の変態な嗜好を垂れ流してきたわけであるが、これ、いったい、何の役に立つ奴じゃ?

 一つ言えるのは、お笑いコントは、喜劇は、物語は、その「極端さ」(純粋性)をピックアップできるがゆえに、「面白い」という感動を与えるのである。

 でも実際、僕は、人間という存在について、そこまで楽観的な感覚を頂けない。
 時に両価性の感情をもつことだってあるのが人間である。
 好きという感情の中に、憎しみだって内包できる高度で複雑な「こころ機能」。

 これを「わかる」ためには、「こころ」ということそれ自体の分析をしても足りないのであって、その「問い」が放たれる状況、文脈の理解……しかもその理解は、刻一刻と変わっていく「こころ」を正確にとらえるために、瞬時に、リアルタイムに行われねばならないのだ。

 原理的に無理じゃないかと思う。
 だから、誤る可能性はあるにせよ、「たいていは、こういう状況において、人はこういった感情をもつ」という、何となくの感覚を総動員してコミュニケーションを図っているのである。

 コミュニケーションをするってのは、とってもすごいことなのだ。そんなことを、何の気なしに、僕らはやっているのである。
 だから、コミュ障とか最近よく聞くけど、それも、当たり前っちゃあ当たり前なのだ。だって難しいことやってるんだから。



 だから(この「だから」は、いささか強引な気がしている。ただ、今回の記事としては、いったん締めくくっておこう(※))、ある程度のテンプレ(物語)が必要なのである。

 えーと、しかし、そうなってくると、純粋性というのもまた、単に「解釈」上の話に過ぎないのだろうか。
 だとすると、この記事はなおのこと何の意味があるんだということになってくる。
 そもそも、分かりやすく、お前は、純粋性というものに賛成なのか、反対なのか。善なるものだと思っているのか悪だと思っているのか。目指したいのか唾棄すべきなのか。どっちなのだ?

 うーん、でもやっぱり、みんな、純粋になるっきゃないんじゃないかなぁ。そういったものが価値あるものだと、共通認識がもたれるような世の中になっていく必要があるんじゃないかなぁ。


(なんやかんや、中途半端ではあるが、しかし、何かのたたき台にはなりそうな記事になった気がする)





※原理的に人の心を瞬時に完璧に理解してコミュニケーションしていくのは不可能だろうということ。であるなら、「こういうときはこうだ」「こうすればこうなる」というのを、自分の中である意味勝手に解釈するしかないのである。このことについて、「人はもはや、信じることしかできないのである」表現で書いたことがあった。だまされようがなんだろうが、結局他者というのは、自分の解釈の中での存在であるということだ。
 しかし、この感覚にがんじがらめになってしまうと、色々な弊害に見舞われるのはすぐにわかることである。


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「お前のブログは長すぎていかん」
 とコメント頂いた。うん、確かにそう思う。

 実際、最近、「カテゴリ分けが重要だ」として、何とか整理を試みているが、あまりにも長すぎて、その長い記事というのが、往々にして複数のカテゴリにまたがったことを書いているものだから、もうカオス状態になる。
 ここで、もう面倒くさいから、「ゼロベースで作り直しだ」と考えてしまうのが、僕の悪い癖で、その度に過去を清算しようとする。しかしこれは、女子高生がスマートフォンの友人たちのアドレスをリセットするような、SNSで退会してまた別アカウントで登録するような、そんな行為と同義であろう。

 過去からの、連綿とした繋がりにおける自己の表現、カッコよく書けばそんな感じ。何とか、ポイント絞って、目指すはミーシー(MECE:漏れなく重複なく)である。

 とか書いてみると、以前の記事で、「思考の体系化が今年の目標だぜ!」とか書いているのも見つかって、お前、ほんと、成長していないなぁと辟易とする。

短く書くこと

 というわけで、長い記事がよくないという、当たり前の、一般的に言われていることの実感ベースの表現である。
 とはいえ、これ、ある程度の長さもやっぱり必要に思えるんだよな。

 いやいや、問題はそこではないかもしれない。そもそもにおいて、僕が書き始めるときは、一体全体、この記事が、どのカテゴリに属するのか、どの程度の長さになろうというのか、全く想像もつかないのである。

 ただ、書いているうちに、だんだんと、書きたいことが生じていくのである。残念なことに、何か、「これについて」というテーマを決めると、途端に興味がなくなって、書けなったりする。
 いろいろ書いていくうちに、書きたいことが見つかる、という構造のため、それはそれは、無駄に長くなっていくのである。

 だが、今日のところは、その、書くことそのことに焦点を当てているので、許すことにしよう。

考え込んでしまう時間が無駄に思える

 あー、その、何だ、やっぱり、何か「整理して書こう」とすると、タイピングの指ではなく、そもそも、思考が止まってしまっている。何か考えているようで、何も考えていない状態。非常にもったいない。
 いやきっと、その時点も、「何かは考えている」。ただ、それがアウトプットされないために、無限ループに陥っている可能性がある。かくも思考とは取り扱いが難しいものである。

 よし、では、完全に思い付きだが、自分の最近のある記事について言及してみよう。

生きる意味を考えるということ

人生における行動は、生産と消費とがある。
生産する人は魅力的だが、消費が悪いわけではない。
消費による感動が、生産の原動力となっている場合もあるし、消費者がいなければ価値の創造もありえない。
その意味で、いままでの自分の行為を、行動を、後悔する必要は一切ない。

しかし、目的なき消費は、いずれ訪れる死に対して無力であるといえる。
 2016年7月20日の記事の抜粋である。

 あーその、なんだ、手前みそだが、結構いい表現な気がする。
 自分の性格的に、自己肯定というのを、中々できない。にも拘わらず、この表現はまぁまぁいいんじゃない? と上から目線に思えるのは、もう、この3か月前ぐらいの記事のことを、すっかり忘れているからである。

 そして、いくら上から目線でも、自分の記事に対しては全く問題ない点が、書きやすい、ああ書きやすい。

 ここで言いたかったことは恐らく、ただ惰性で流されて、好き勝手楽しんでいても、その瞬間瞬間はきっと楽しいだろうから、「いま、ここに生きる」という仏教的な正しい生き方に思いながらも、それは怠惰な方向への逃げであるということだろうと思う。

 そして僕はさらに、「逃げ」の何が悪いの? ということすらすぐさま言及する。工事現場で重機でハリーポッターやって楽しんでいる若者たち、いわゆるDQNと言われるような人たちが、本当に人生失敗なのか、というと、全くそんなことはないだろう。
 ちょっと調べてしまったが、「ハマータウンの野郎ども」という本があって、そこでは、ホワイトカラーと対比された、ブルーカラー(ここでは不良)たちが、独自の文化体系をつくりあげているということを、フィールドワークによって描き出した本なのだけれど、それを思い出した。




 難しい概念は僕は分からないし、この本自分で読んだことがあったのかもよく分からない(図書館で借りたのか、授業で習ったのか、レビューを読んだのか分からない。一つ言えるのは、買ったことは無い)が、取りあえず一つインプットとして、今も記憶に残っているのは、「文化」は、どんな状況でもどこにでも発生するのである、と。

 この「文化」の生成を、そもそもの起点について、恐らくサピエンス全史において明らかにしてくれるだろうので、僕はとても楽しみに思っている。

 サピエンスの所以は、「文化」なのだ。虚構の言語なのだ。認知革命なのだ、と。

 だから、敢えて差別的な言葉遣いになってしまうが、ホームレスの人たちであっても、恐らく、独自の「文化」というのが形成されていくことだろうと思う。もっとも、150人の壁(噂で成り立つ集団の限界人数)ほどにも、ホームレスの集団というのは無いのだろうけれども。

凄まじい孤独

必要なのは、主体的な、実存的な真理である。人類社会に貢献する科学は、まさにそうした普遍性を自然界や人間界に求めようとするものだけれども、その真理は、決して個人とした自らに当てはまるものではない。当てはまったとしても、その普遍性は、自分自身とおう、個体、ユニークな存在を完全に表現できるものではない。他者の言説が、役に立たないとか、他者に頼ったり、相談したり愚痴いったりするのが意味ないというのは、日常生活のことをいっているのではない。

この、自己の問題、何故自分は生きているのか、この存在の意義は、という問いに、他者は一切答えてくれない、どころか、そんなこと考えることは無意味であると、そう突き放すのである。

孤独、凄まじい孤独。

この感覚は、きっと、わかる人にはわかると思う。これは、いくら楽しいことしても、他者と交わっても、美味しいもの食べても癒されるものではない。僕はこうやって表現できるから、一応自己を保ってられるけど、この感覚におそわれて、表現することができないと、薬物にはしったり、リストカットしたり、無気力になったり……。全員がそうじゃないにしても、こうした孤独感で自分が押し潰されそうになった人は、決して少ないとは思わないのだけど、何故か僕はあまりそういう人に出会ったことがない。というのは、珍しくなくて、この孤独は先に書いた通り、他者と一緒にいて、楽しそうにしていてもぬぐえるものではないから、そういう人は一見わからないのだ。
 なんか、引用(blockquote)使うと、改行が全部無視されるんは、忍者ブログの仕様なのだろう。ちょっと読みづらいな。無理やり改行。

「孤独、凄まじい孤独」

 って、何だか、カイジの表現みたいだ、って、カイジ、読んだこと無いけれど。
 孤独って何だろな。
 こんなこと、考えるなんて、書き始めたときはホント思ってない。
 ましてや、知り合い何かに、「孤独、感じることってある?」なんていきなり話し出せば、間違いなく気が狂った人のレッテルを貼られることだろう。

 サピエンス全史に限った話ではないけれども、基本的に、どの分野のどの書物を読んでも、基本、「人間は社会的な動物である」という前提にたっている。
 孤独でもええんちゃう?
 とか言うような本はない。「自立」を促すような言説はあるけれども、それは、孤立を意味しない。

 孤独と孤立の違いはなんだろうか。

https://happylifestyle.com/11556

 ↑のサイトを参考にすると、孤独とは、夢や理想を同じくする人がいなくて、仕方がなく一人になってしまうこと。孤立は、ガチで一人、という状態。

 一人、という状態については同じだけれども、その目的と、経緯(プロセス)の違いを示す言葉だという。

 おー、こういうのが、まさしく「虚構の言語」ですわな。7万年前の認知革命でサピエンス種が手にするまで、この世界では発見されていなかったことだろう。


 恐らく、サピエンス以外の種(しゅ)は、孤独と孤立の違いを説明できないだろうし、そもそも説明する必要性がないだろう。取りあえず一人でいたら、ライオンに襲われて餌食になるだけだ。一致団結して敵対者と戦うということは、ネアンデルタール人たちでもあったはずである。

 小賢しいサピエンスは、孤独と孤立という言葉を巧みに用いて、一人でいるという事態を、ときに正当化するのである。

孤独が好きなのか?

 大分、「思考のための思考」になっている。こういう文章はどうだっけ、後から読んだら面白いのだったろうか、よく分からない。
 ただし、書いておくべきは、これはダメなパターンだということだ。

 ホモ・サピエンスがどうであろうが、そもそも、俺、僕、私が、どうなんだという話し、それが大事だ。

 この記事で、今後も役に立たせるために、一つぐらいは確定的な何かを書いておきたい。

 よし、僕は、孤独が好きなのかどうか、という問いを掲げよう。


 ……うーん。

 どうなんだろう。これは結構悩ましい。

 何だか、本当に気が合って、理解があって、目指す方向が同じで、感覚が同じで、いろんなことが同じで……というような人がいたら、きっと、何かするのも、2倍、3倍と楽しいのではないかと思う。
 が、そんなの、エンターテイメントだってありえないことである。みんな違ってみんないい、ではないが、そもそも、多様性が生物としての生存戦略であって、同じコピーであれば、環境の変化であっというまに絶滅してしまう、ということがよく謡われる。

 だから、人間関係ってのは、そもそも、その気があったり、時にぶつかりあったり、喧嘩したり、仲良くなったり、感心したり、嫌悪したりと、様々な関係が発生すること自体、そのこと自体が「楽しい」ものなのであって、それが「楽しい」かどうか、その辺りに、孤独が好きなのか、群れが好きなのかの違いがみてとれそうだ。

孤独の反義語は?

 そもそも、孤独の反意語ってなんぞや、と調べてみると、「連帯」と出てきた。まぁ、みんなと一緒にいる、というような意味だろう。

「人と一緒にいると、だんだん孤独を感じてくるのです……」

 というような表現をされている人の記事を見かけた。
 ふむ、これはしかし、当たり前のことだといえる。上に書いた通り、人は、「みんな違う」わけであって、多くの時間を他者と共有しているうちに、だんだん、自分との差異というのが明確に輪郭が浮き上がってくるのである。
 そのことが、「面白い」と思うか、ああ、「僕はやはりこの人とも違うんだ」という対人関係に対しての絶望になるかは、その人次第である。

 おい、そんな、他者のことはどうだっていいんだ、そういう分析紛いのことは、相当20代のころやってきただろ?

 分かってるよ、俺が、どうなのか、ってことだろう?

 うーむ……。

 別に、人と一緒にいることが、それほど嫌なわけでもない。
 というか、働いている以上、大半の時間を他者と過ごしているというわけでもあるし。がしかし、昼休みの時間まで、誰かとずっと一緒というのは面倒な気もする……ああいや、しかし、週の半分ぐらいは同僚と一緒にランチに行ったりしている。それが無理やり嫌々やってるかというとそうでもない。

 ただ、仕事とプライベートとは、この面においては分離して考えるべきだ。仕事はあくまでも、「ある一定の目的」を、共有する集団であるのだから、その「共同幻想」(サピエンス全史の言葉でいけば、「神話」とか「想像上の現実」)を信じているうちは、安定的でありえるのだ。

 プライベートにおいては、「誰かと何となく繋がってないと不安」といった状態が、起こりえる。学生、特に女の子はそういった状況になりがちだという。
 あはは、若いねぇ♪ と、笑ってられる程、事態は、自分にとって思わしくない。

 なぜならば、そもそも、このブログ、この記事事態も、僕が「連帯」を求めているという証左に他ならないのではないか、という疑義が発生することである。

 それもあって、僕が果たして、本来的に「孤独」が好きなのかどうか、よく分からない。


 ここで、「好きな人とは一緒にいてもいいけれど、嫌いな人とは一緒にいたくない」とかいう、そんなバカげた、当たり前の、幼稚なことはどうでもいい。僕が今ここで、書いておこうと、明らかにしようと試みたのは、もっと、根源的な方針がどっちなのだ、ということである。


 一方で、だ、そもそも、こうして表現するということにおいて、果たして、「孤独が好き」という表現はOKなのか、エラーなのか、その点も考慮する必要がある――おい、長いぞ。

強制終了

 やっぱり、短く書く、というのも、中々難しい作業であることが分かった。
 いや、書かないというのは簡単にできるのだけれども、短いながらも書くというのが至難の業である。

 書き始めると長くなるし、短くしようと思うと、何も浮かばないというか、思考停止状態になる。もう今の状態だと、まだまだしばらく指を動かし続けられる、ノンストップで。割かし何度か、腱鞘炎じみた状態になったことすらある。手の甲がズキズキしてきたりもする。

 ということで、強制終了。カテゴリは、そうだな、要素が多そうな「対人関係」にしておくか。
 うーん、今年中に、カテゴリの整理をする、という目標立てたような気がする。最近。大丈夫か、いけるか?
 そもそも、創作したいという意欲もわきあがってきたというのに、こんなこと書いてていいのか? でも、サピエンス全史も読み進めたいし……。

 あれ、結構、欲求が戻ってきている気がする。これはまぁ、悪い傾向じゃない。こういうときの注意は、睡眠時間だ。よし、ルーチンはOK、寝よう。

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さて、今日は対人関係のカテゴリだ。
そもそも、対人関係は、異性と、友人と、会社と、趣味とに大別される。

今日は僕は何について書こうと思ったのか。
どちらかといえば、会社、だが、異性要素もあり、友人要素もある。
カテゴリ分けという作業は、中々困難である。

頭の使い方


もっというと、対人関係というより、論理的な話し方と頭の使い方と他者の気持ちのそんたく、について書こうと思ったのだ。




なんだかんや、うまくいかないことが多い。
が、そのなかで、まぁなんとかやっている。

やっぱり、頭のいい人はいるんだが、それをどう目指せばいいのか。

責任感。

協調性。

倫理観、そしてチャレンジ精神、と。

組織として重きをおくことというのはある。

で、まぁ、そういう標語ってのを、俺は好きじゃないので、分解してやろうじゃないか。



まず責任感ってなんだよ?
責任って言葉は、結果にたいして、自らのものだとして行動することである。その行動ってなんだよ? 基本的に失敗したことや、問題が起こったことに対して使われる言葉である。

で、だ、まぁこの世界は、正直者が必ずしも得をしないようにできている、ブラック企業であることをロウキに言ったら干されたとか。

何をもって、責任感をはかるのか?
なんでもかんでも、私の責任です! と公言する人が評価される?
違和感である。

ゆえに僕は、目指すべき人間像としての責任感という言葉を、自分で達成可能なこととそうでないことの分類が正確にできる人、と定義しよう。

となると、次に、チャレンジ精神がポイントになる。


チャレンジ精神とは?



何でもかんでも、興味をもつことは正しい。興味をもてないことは、脳のA10神経群でマイナスの感情とレッテルを貼られ、前頭前野や海馬などに伝達しにくくなる。結果、記憶ができにくくなる。

何でも面白いと思うことは重要である。

しかしながら、責任感という言葉と矛盾する。

責任感は、僕の定義では、できることとできないことを明確にして、結果を約束することである。
それが、チャレンジ精神でやることを増やし続けたらどうか?
物理時間は限られている。
どこかで破綻するだろう。


そもそも、何でも新しいことをするのが正しいのか。
いまある目の前の仕事を、丁寧に確実にすることが悪いことなのか。

それは違う。ただし、ここでポイントになるのは、現状維持というのは難しいことなのだ。

ラーメン屋が常連をはなさないのは、微妙に味の更新をしているからだという。
そして、脳機能的にも、単純な同じことだけしていると、パフォーマンスが落ちるのだ。


ゆえに次は、目的設定力が重要になる。


仕事について



ここまで書いて、ああ、今回、カテゴリ対人関係じゃなかったなと気づくわけだ。厳しく野ったら、前半部分は全削除になる。



まぁさておき。

すべての仕事というのは、人の欲求を満たすものである。

欲求とは別に、愛欲や食欲に限らない。

安全欲求だってそうだ。
歳をとっても、豊かに暮らしたい、安定的に暮らしたいという欲求により、保険という仕組みが生まれ、それに纏わる仕事が生じた。

新人は、書類整理だけかもしれない。
何年たっても、複雑な複利計算だけかもしれない。それが人の欲求を満たしている実感はないかもしれない。

でも、直接的ではないにせよ、それは欲求充足のための仕事なのだ。


ブラック企業とは、ある意味、その他者への欲求充足のための、自己犠牲精神なのかもしれない。
だが、見落としているのは、そこに働く個個人の存在だ。ワークライフバランスなんて言葉は、単に残業削減みたいな感覚しか与えないようになっているが、理念としては悪くないし、資本主義的ですらある。


奴隷制は経済的か?



奴隷制が現代なくなったのは、人の博愛精神によるものか?


否。

という考えに僕は衝撃をうけた。つまり、これも経済なのだと。
どういうことか、奴隷は、生産するだけの存在で、消費をしない。しかし、経済とは消費と生産の循環で発展する。

つまり、消費をせず、ただ生産意欲が低い奴隷というのは、主人の所有意識を充足させてくれようが、社会全体としての発展は望めないのである。


代替してきたのがAIである。

AIの議論になると、人間が仕事を奪われる!!
ということになるが、本来おかしな話だ。

AI、ロボットさんがいっぱい働いてくれて、人間がたくさん消費して享楽を得て、働かずに生活できるようになれば、何ら問題はない。まさに楽園の実現であろう。


そうならずに、富のかせんが起こる理由とか、様々あるのだろうが、AIの発展は、ターミネーターみたいなことがない限り、全人類にとって幸せなことであるはずだ。  

結婚制度と女性の消費



実際日本社会においても、似たことが最近まであったではないか。


男は会社でもーれつに働き、女性は優雅に女子会ランチ。
ブランドバックに服。楽しみ放題。

ま、そんなんで上手く社会がまわってたこともあった。

女性の社会進出というのも、家で家事して、夫の稼ぎ以上の消費がない状態で、その夫もだんだん給料がさがってくる、となれば、消費が増えないからやっぱり、経済は停滞する、じゃあ女も働くか、となる。

別にフェミニンな運動がすべて功ではなく、経済的な要素が多いに関係するのである。
で、その経済とはなにかととえば、はじめにもどって、欲求、ということになる。



だから、欲求が非常に大事なのだ。


まとまらなくなった




うーん、難しい、テーマをしぼってかくというのは、どうにも面白味にかける。

本当は、いい感じに成功できる人間関係のための頭の使い方、的なのを整理したったが失敗やなぁそして時間ぎれ。



拍手[1回]


誰か人に見せるために書いているわけではないけれども、アクセスがないというのは、何となく寂しいものだ。
泊りの旅行に出かけて、ワイワイ楽しんで帰ってきた、メモするポイントは何か、何から書き始めればいいのか……。
他者を意識すると、途端に書きたいことが、書くべきことが、書くことそれ自体が分からなくなる。

であれば、やっぱり、アクセスがあるとかないとか、そういった点を考える必要はない、というよりも、やめた方がいいと思う。
と同時に、やっぱり、「自己顕示」的な欲求が強いのだろうな、と思わざるをえない。
好きなように、楽しんで書いているからいいのだ、といいつつも、どこか、「考えている俺ってかっこいいでしょ」「みんな、俺を知ってくれ!」的な感じがあるのかもしれない。ということ自体が、僕自身、何だか非常にかっこわるくて気持ち悪いように思ってしまう、ゆえに、その点を感じさせてしまう可能性があるならば、やっぱり、話すべきでもなければ、そもそも書くべきではなく、こういった「自己顕示」を感じないような、そんな生活、思考、感情発生するような生き方をするべきではなかろうか。

話題とはインプットである

少し、話を変えてみる。会話の中で、やっぱり、インプット、事実、という点があると面白い。あとは、「経験」である。
趣味について、他者と共有し、話をするときに、知識がないと、話が盛り上がらない。そして、僕はある程度「問題を避ける」方向で何事も考えてきたから、「失敗した」「ミスをした」「ひどいめにあった」「バカをした」という経験があまりない。
この点が、あんまし面白くないのだろうと、思う。

特に、「バカをした」というのが、結構、その人となりをみるのに役立ったり。それが、異性との会話の中では、「ひいた」「どんびき」という、ちょっと共感できそうもないわぁという、そういった感情を引き起こす可能性がありながらも、ああ、この人と一緒にいるとなんだか楽しそうだなぁと、そういった感覚を引き起こす可能性も秘めているのである。もっとも、それが、パートナーとして求められる部分かどうかは別であるが。いわゆる、「いいひと」で終わってしまうとかなんとか。

他者との共有次元におけるインプット

いやはや、全く頭が整理されていなくても、こうやって書いてこれるわけであって、これはいわゆる、饒舌、というやつなのかもしれないが、ところが、何か他者と共有しながら会話をするという点においては、一切役に立たない、というと言い過ぎだけれども、「思考」というのは、あまり面白いものではない。

先述の、バカをやった、ような経験……、お金を浪費してしまったとか、欲しいものを手に入れるためにいろんな店をかけずりまわったとか、トラブルあって焦って他者を頼ったりとか、そうした経験がたくさんある人が、きっと「面白い人」なのだろうなぁ、と思う。


ここで、ふと冷静に、一人になってから考えてみたときに、じゃあ、そういった「面白い人」に、僕はなるべきなのか、ということはもちろんのこと、「なれるのか」ということもよく考えてみようではないか。


下手に、会話にあわせて、笑顔をつくって、楽しく笑っていたとしても……ああ、これは決して、無理をしているとか、楽しくないとかそういう意味ではなくて、その、他者に合わせようとする次元においてのものであるけれども、いわゆる「楽しい人」になろうと試みること、このことが、果たして今後も成功するのかどうか、ということだ。

よく言われるのが、外見上、「真面目そう」とみられるということである。

この「真面目そう」というのが、いいのか悪いのか、そこは全く問題ではなく、ここに、「いや実は自分は楽しい人間なんですよ」というアピールをしていくことが有効なのか、むしろその「真面目そう」というイメージを熟成させることに尽力するべきなのか、そのことを考えるべきということである。

自分のイメージを、無理やり変える必要はない。
というよりも、イメージは、結局、他者がどうとらえるか、という点に過ぎないのである。

もっといえば、自分のイメージどおりに、他者が動かないとき、その他者を、「よくわかんない人」とか、排除する感情の動きが発生する。

この、理解不能性、という点をよくおさえておけば、人間関係の悩みなんて、存在しなくなる。

コミュニケーションとは、自分のスキルを高めることだけが重要なのではなく、必要なのは、「自己理解」である。

コミュニケーションに関する研修を受けたことがある人は多いだろうが、それにおいて学んだことは、きっと事実であるのだけれども、それを「実践」するのは、あくまで、自分自身であり、その自分自身とは何かといえば、「自己」であり、その「経験」のインプットであるということだ。

自分はどうみられているのか

自分を知るということは、自分自身の、思考を深めるということだけを示すのではない。
自分が、他者に、もっといえば「世界」(社会とかコミュニティとか森羅万象)に、どのようにみられているのか、あつかわれているのか、そのことが、「自分を知る」ということである。


僕が若いころに受け入れられなかった思想は、「人は一人では生きていけない」というものである。

え、そんなことも分からなかったの、という感情が起こるだろうが、これは、単純な意味ではなく、自己中心主義の思考から逃れられなかったことにある、というよりも、そこを突き詰めれば、今であっても、それから逃れられてはいない、この「生きる意味」という難題、これこそが「自己中心主義」の支配を示している一つの証左である。


自己中心主義とは、この世界って、結局僕一人しかいないんじゃね?
とか、自分というものが世界の中心にあるような、そういう意識・感情の総体である。

この意識というのは、幼児期には当然あるものということで、自分の感情と他者の感情の区別がつかなかったりするのが、成長するとともに、他者の痛みみたいなものが分かるようになるということだ。

それで僕は、では他者の痛みが分からなかったかというと、そうではない。世界に自分一人しかいないんじゃないか、と思っていたわけでもなければ、自分一人で生きていくことができると思っていたわけでもない。

問題は、生きることそれ自身のために、他者を尊重する必要があるということが、信じられなかったということだ。

……この表現は難しいな。
どちらかというと、人はみな利己的な生き物である、ということの気持ち悪さが受け入れられなかった、のかもしれない。

世界における自己の位置づけが信じられなかったというか、よく分からなかったというか。
結局のところ、表現を精査していけば、きっと、誰しも同じように感じていたことにしかならないと思う。それが、自分の能力のなさゆえに表現が難しくなって、それが他者との乖離を生んでいる可能性だってある。

そのことが、「自己顕示」的に、俺は特別な人間なのだ、ということを示したいがために思考から逃れられないのだとしたら、それはとても虚しいものだ、と思う。

でも、一ついえるのは、このブログを書き始める際に感じていた、不愉快な気持ち、悶々としたもの、ぐちゃぐちゃとした頭の中、明日へ向かうやる気のなさといった諸々のモノ。

それは、書いて表現するしか、整理する手段はない、ということだ。
そしてもっといえば、やはり、誰かに読んでもらえる可能性がある、という事実、これが重要である、ということだ。



















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22時近くまで仕事があると、帰って12時を過ぎる。

10月16日、日曜日が、基本情報技術者試験の受験日だ。

ちょうど、仕事の忙しい時期と重なるが、一発合格したい。

この時間に帰って、勉強をできるようにならないと、合格できないだろう。
いまのところ、一週間に十五分程度の勉強量だ。

資格の有無が、人間の価値ではない、とか、そういった中学生的な、いわゆる何で勉強しなきゃいけないの? 的なことを、僕は思うのではない。

何で勉強を、ということを思ったのは、確かに中学生くらいだったが、それよりも何よりも、何で生きてるんだ、と、実存の危機は小学校高学年からである。

思えば、学校が終わったあと、クラブというか部活というかが始まるまでの、16時半か、17時までの時間が、ものすごく苦痛だった。

児童館みたいなところで、漫画を読めていたが、ああ、そこで金田一少年の事件簿とかみて、怖かったのを覚えているが、その漫画を読んでいる時間も、迫ってくるクラブの時間が、とてつもなく嫌だった。

ずっと封印していた記憶


高校ぐらいから、ログを書き始め、その内容にふれることはやってきた。

が、小学校高学年、4年生の頃に、親友に、死にたいと思ったことある? と、通学路の帰り道、坂の途中で尋ねたとき、まさか、そんなことあるわけないじゃないか、と言われて、ショックを受けた記憶、ここまでは、書いてきた。


そもそも、何故、小学校四年生、10歳の子どもが、死にたいなんて思ったのか、このことを、僕はいまのいままで、しっかり考えたことがなかった。


いちご同盟という小説の冒頭で自殺した少年は、12歳だったか。それより若いのだ。


その10歳以前の記憶は、いま少し考えたが、思い出せない。であれば、僕という自己が生まれたのは、その頃であったか。


僕のことを忘れてしまった、おばあちゃんが、通学路の途中まで一緒に着いてきてくれて、そのことでからかわれて、嫌な気持ちになったというのも、その頃か、もう少し前か。


いま考えると、そこらにいる小学生たちをみていると、到底そのころの僕の気持ちなんて、そんな感情があるなんてわからないくらい、ばか騒ぎして、笑顔で、はしゃいでいる。

そういうのが、小学生という時代なのか。


これらは、不幸自慢なんてことではなくて、フロイトの精神分析の自分でやってみた、みたいなものだ。

まぁ、こうかいても、自慢に聞こえるだけだろう。寝てない自慢みたいなものだ。
周りの人は、あっそ、自己管理ができてないのね、みたいに思うだけという、よくあるそれと同じことのように思えるだろう、それは分かっているが、逆に、今まで四年生に触れてこなかったことが、今回の記事の新しいところ。

自己の発生が死



僕、という存在を意識したのが、その、死にたいと思ったことであるならば、いまなお、生きる意味を探していることも、何ら疑問はない。

さすがに、それはまずいだろうと、意識に蓋をしていたのか。
 
まぁもう、なにも隠すこともない。考えてみよう、まぁでも、小中高と、思い出せる楽しかったことはないな。

高校生の終わりぐらいから、ホームページをつくって、楽しかったりしたけれども、むしろほとんど大学生に近い時期だ。

10歳から18歳の終わりまで、地元の、実家で暮らしていた時期がつまんねぇ時代だったというのは、感謝もして大事な両親や家族に対して申し訳ない気もするのだけれども、まぁ、年齢があがるにつれ、家にいる時間よりも外にいる時間が多くなるのだから仕方がないかもしれない。

とはいえ、これは親とかには見せられないな(笑)


という構造になるのであれば、誰にも相談できず、一人で抱え込んで、自殺してしまう子どもたち、というのも、よく分かる。

何で相談してくれなかったのかと、両親や、親友たちは嘆くかもしれない。けれども自殺した彼らは、むしろ、君たちを大事に思っていたから、相談できなかったのだ。

しかし、その死が、より深い哀しみを与えるだろうことは、思いやれるだけの力がなかったのか、それを考えるだけの余裕がないほど疲れはてていたのか……。



この次元の話は、殆どの人は必要としないのだろう。
にもかかわらず、人間理解とか、コミュニケーションとか、生きる力だとかのたまうひとたちの多いこと。

もう何年も前に、そういうものだとは思っているので、特になにも期待してはいないけれども、掘り下げて書いていけば、やっぱり、他者への期待のなさがあらわれている、このことが、昨日の記事にある、他者を頼る、ことの希薄さになり、頼らないから頼られないみたいな状態となっているのだとしたら、やはり特段、この辺りは考える必要性を感じない。


もよりの駅に着きそう。時間切れだ。目もまたはんびらき。最近身体が疲れてくると、特に目が疲れて、あかなくなってくる。

とりあえず、五分だけは勉強した。

















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