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離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
カテゴリー「対人関係」の記事一覧
「お前のブログは長すぎていかん」
 とコメント頂いた。うん、確かにそう思う。

 実際、最近、「カテゴリ分けが重要だ」として、何とか整理を試みているが、あまりにも長すぎて、その長い記事というのが、往々にして複数のカテゴリにまたがったことを書いているものだから、もうカオス状態になる。
 ここで、もう面倒くさいから、「ゼロベースで作り直しだ」と考えてしまうのが、僕の悪い癖で、その度に過去を清算しようとする。しかしこれは、女子高生がスマートフォンの友人たちのアドレスをリセットするような、SNSで退会してまた別アカウントで登録するような、そんな行為と同義であろう。

 過去からの、連綿とした繋がりにおける自己の表現、カッコよく書けばそんな感じ。何とか、ポイント絞って、目指すはミーシー(MECE:漏れなく重複なく)である。

 とか書いてみると、以前の記事で、「思考の体系化が今年の目標だぜ!」とか書いているのも見つかって、お前、ほんと、成長していないなぁと辟易とする。

短く書くこと

 というわけで、長い記事がよくないという、当たり前の、一般的に言われていることの実感ベースの表現である。
 とはいえ、これ、ある程度の長さもやっぱり必要に思えるんだよな。

 いやいや、問題はそこではないかもしれない。そもそもにおいて、僕が書き始めるときは、一体全体、この記事が、どのカテゴリに属するのか、どの程度の長さになろうというのか、全く想像もつかないのである。

 ただ、書いているうちに、だんだんと、書きたいことが生じていくのである。残念なことに、何か、「これについて」というテーマを決めると、途端に興味がなくなって、書けなったりする。
 いろいろ書いていくうちに、書きたいことが見つかる、という構造のため、それはそれは、無駄に長くなっていくのである。

 だが、今日のところは、その、書くことそのことに焦点を当てているので、許すことにしよう。

考え込んでしまう時間が無駄に思える

 あー、その、何だ、やっぱり、何か「整理して書こう」とすると、タイピングの指ではなく、そもそも、思考が止まってしまっている。何か考えているようで、何も考えていない状態。非常にもったいない。
 いやきっと、その時点も、「何かは考えている」。ただ、それがアウトプットされないために、無限ループに陥っている可能性がある。かくも思考とは取り扱いが難しいものである。

 よし、では、完全に思い付きだが、自分の最近のある記事について言及してみよう。

生きる意味を考えるということ

人生における行動は、生産と消費とがある。
生産する人は魅力的だが、消費が悪いわけではない。
消費による感動が、生産の原動力となっている場合もあるし、消費者がいなければ価値の創造もありえない。
その意味で、いままでの自分の行為を、行動を、後悔する必要は一切ない。

しかし、目的なき消費は、いずれ訪れる死に対して無力であるといえる。
 2016年7月20日の記事の抜粋である。

 あーその、なんだ、手前みそだが、結構いい表現な気がする。
 自分の性格的に、自己肯定というのを、中々できない。にも拘わらず、この表現はまぁまぁいいんじゃない? と上から目線に思えるのは、もう、この3か月前ぐらいの記事のことを、すっかり忘れているからである。

 そして、いくら上から目線でも、自分の記事に対しては全く問題ない点が、書きやすい、ああ書きやすい。

 ここで言いたかったことは恐らく、ただ惰性で流されて、好き勝手楽しんでいても、その瞬間瞬間はきっと楽しいだろうから、「いま、ここに生きる」という仏教的な正しい生き方に思いながらも、それは怠惰な方向への逃げであるということだろうと思う。

 そして僕はさらに、「逃げ」の何が悪いの? ということすらすぐさま言及する。工事現場で重機でハリーポッターやって楽しんでいる若者たち、いわゆるDQNと言われるような人たちが、本当に人生失敗なのか、というと、全くそんなことはないだろう。
 ちょっと調べてしまったが、「ハマータウンの野郎ども」という本があって、そこでは、ホワイトカラーと対比された、ブルーカラー(ここでは不良)たちが、独自の文化体系をつくりあげているということを、フィールドワークによって描き出した本なのだけれど、それを思い出した。




 難しい概念は僕は分からないし、この本自分で読んだことがあったのかもよく分からない(図書館で借りたのか、授業で習ったのか、レビューを読んだのか分からない。一つ言えるのは、買ったことは無い)が、取りあえず一つインプットとして、今も記憶に残っているのは、「文化」は、どんな状況でもどこにでも発生するのである、と。

 この「文化」の生成を、そもそもの起点について、恐らくサピエンス全史において明らかにしてくれるだろうので、僕はとても楽しみに思っている。

 サピエンスの所以は、「文化」なのだ。虚構の言語なのだ。認知革命なのだ、と。

 だから、敢えて差別的な言葉遣いになってしまうが、ホームレスの人たちであっても、恐らく、独自の「文化」というのが形成されていくことだろうと思う。もっとも、150人の壁(噂で成り立つ集団の限界人数)ほどにも、ホームレスの集団というのは無いのだろうけれども。

凄まじい孤独

必要なのは、主体的な、実存的な真理である。人類社会に貢献する科学は、まさにそうした普遍性を自然界や人間界に求めようとするものだけれども、その真理は、決して個人とした自らに当てはまるものではない。当てはまったとしても、その普遍性は、自分自身とおう、個体、ユニークな存在を完全に表現できるものではない。他者の言説が、役に立たないとか、他者に頼ったり、相談したり愚痴いったりするのが意味ないというのは、日常生活のことをいっているのではない。

この、自己の問題、何故自分は生きているのか、この存在の意義は、という問いに、他者は一切答えてくれない、どころか、そんなこと考えることは無意味であると、そう突き放すのである。

孤独、凄まじい孤独。

この感覚は、きっと、わかる人にはわかると思う。これは、いくら楽しいことしても、他者と交わっても、美味しいもの食べても癒されるものではない。僕はこうやって表現できるから、一応自己を保ってられるけど、この感覚におそわれて、表現することができないと、薬物にはしったり、リストカットしたり、無気力になったり……。全員がそうじゃないにしても、こうした孤独感で自分が押し潰されそうになった人は、決して少ないとは思わないのだけど、何故か僕はあまりそういう人に出会ったことがない。というのは、珍しくなくて、この孤独は先に書いた通り、他者と一緒にいて、楽しそうにしていてもぬぐえるものではないから、そういう人は一見わからないのだ。
 なんか、引用(blockquote)使うと、改行が全部無視されるんは、忍者ブログの仕様なのだろう。ちょっと読みづらいな。無理やり改行。

「孤独、凄まじい孤独」

 って、何だか、カイジの表現みたいだ、って、カイジ、読んだこと無いけれど。
 孤独って何だろな。
 こんなこと、考えるなんて、書き始めたときはホント思ってない。
 ましてや、知り合い何かに、「孤独、感じることってある?」なんていきなり話し出せば、間違いなく気が狂った人のレッテルを貼られることだろう。

 サピエンス全史に限った話ではないけれども、基本的に、どの分野のどの書物を読んでも、基本、「人間は社会的な動物である」という前提にたっている。
 孤独でもええんちゃう?
 とか言うような本はない。「自立」を促すような言説はあるけれども、それは、孤立を意味しない。

 孤独と孤立の違いはなんだろうか。

https://happylifestyle.com/11556

 ↑のサイトを参考にすると、孤独とは、夢や理想を同じくする人がいなくて、仕方がなく一人になってしまうこと。孤立は、ガチで一人、という状態。

 一人、という状態については同じだけれども、その目的と、経緯(プロセス)の違いを示す言葉だという。

 おー、こういうのが、まさしく「虚構の言語」ですわな。7万年前の認知革命でサピエンス種が手にするまで、この世界では発見されていなかったことだろう。


 恐らく、サピエンス以外の種(しゅ)は、孤独と孤立の違いを説明できないだろうし、そもそも説明する必要性がないだろう。取りあえず一人でいたら、ライオンに襲われて餌食になるだけだ。一致団結して敵対者と戦うということは、ネアンデルタール人たちでもあったはずである。

 小賢しいサピエンスは、孤独と孤立という言葉を巧みに用いて、一人でいるという事態を、ときに正当化するのである。

孤独が好きなのか?

 大分、「思考のための思考」になっている。こういう文章はどうだっけ、後から読んだら面白いのだったろうか、よく分からない。
 ただし、書いておくべきは、これはダメなパターンだということだ。

 ホモ・サピエンスがどうであろうが、そもそも、俺、僕、私が、どうなんだという話し、それが大事だ。

 この記事で、今後も役に立たせるために、一つぐらいは確定的な何かを書いておきたい。

 よし、僕は、孤独が好きなのかどうか、という問いを掲げよう。


 ……うーん。

 どうなんだろう。これは結構悩ましい。

 何だか、本当に気が合って、理解があって、目指す方向が同じで、感覚が同じで、いろんなことが同じで……というような人がいたら、きっと、何かするのも、2倍、3倍と楽しいのではないかと思う。
 が、そんなの、エンターテイメントだってありえないことである。みんな違ってみんないい、ではないが、そもそも、多様性が生物としての生存戦略であって、同じコピーであれば、環境の変化であっというまに絶滅してしまう、ということがよく謡われる。

 だから、人間関係ってのは、そもそも、その気があったり、時にぶつかりあったり、喧嘩したり、仲良くなったり、感心したり、嫌悪したりと、様々な関係が発生すること自体、そのこと自体が「楽しい」ものなのであって、それが「楽しい」かどうか、その辺りに、孤独が好きなのか、群れが好きなのかの違いがみてとれそうだ。

孤独の反義語は?

 そもそも、孤独の反意語ってなんぞや、と調べてみると、「連帯」と出てきた。まぁ、みんなと一緒にいる、というような意味だろう。

「人と一緒にいると、だんだん孤独を感じてくるのです……」

 というような表現をされている人の記事を見かけた。
 ふむ、これはしかし、当たり前のことだといえる。上に書いた通り、人は、「みんな違う」わけであって、多くの時間を他者と共有しているうちに、だんだん、自分との差異というのが明確に輪郭が浮き上がってくるのである。
 そのことが、「面白い」と思うか、ああ、「僕はやはりこの人とも違うんだ」という対人関係に対しての絶望になるかは、その人次第である。

 おい、そんな、他者のことはどうだっていいんだ、そういう分析紛いのことは、相当20代のころやってきただろ?

 分かってるよ、俺が、どうなのか、ってことだろう?

 うーむ……。

 別に、人と一緒にいることが、それほど嫌なわけでもない。
 というか、働いている以上、大半の時間を他者と過ごしているというわけでもあるし。がしかし、昼休みの時間まで、誰かとずっと一緒というのは面倒な気もする……ああいや、しかし、週の半分ぐらいは同僚と一緒にランチに行ったりしている。それが無理やり嫌々やってるかというとそうでもない。

 ただ、仕事とプライベートとは、この面においては分離して考えるべきだ。仕事はあくまでも、「ある一定の目的」を、共有する集団であるのだから、その「共同幻想」(サピエンス全史の言葉でいけば、「神話」とか「想像上の現実」)を信じているうちは、安定的でありえるのだ。

 プライベートにおいては、「誰かと何となく繋がってないと不安」といった状態が、起こりえる。学生、特に女の子はそういった状況になりがちだという。
 あはは、若いねぇ♪ と、笑ってられる程、事態は、自分にとって思わしくない。

 なぜならば、そもそも、このブログ、この記事事態も、僕が「連帯」を求めているという証左に他ならないのではないか、という疑義が発生することである。

 それもあって、僕が果たして、本来的に「孤独」が好きなのかどうか、よく分からない。


 ここで、「好きな人とは一緒にいてもいいけれど、嫌いな人とは一緒にいたくない」とかいう、そんなバカげた、当たり前の、幼稚なことはどうでもいい。僕が今ここで、書いておこうと、明らかにしようと試みたのは、もっと、根源的な方針がどっちなのだ、ということである。


 一方で、だ、そもそも、こうして表現するということにおいて、果たして、「孤独が好き」という表現はOKなのか、エラーなのか、その点も考慮する必要がある――おい、長いぞ。

強制終了

 やっぱり、短く書く、というのも、中々難しい作業であることが分かった。
 いや、書かないというのは簡単にできるのだけれども、短いながらも書くというのが至難の業である。

 書き始めると長くなるし、短くしようと思うと、何も浮かばないというか、思考停止状態になる。もう今の状態だと、まだまだしばらく指を動かし続けられる、ノンストップで。割かし何度か、腱鞘炎じみた状態になったことすらある。手の甲がズキズキしてきたりもする。

 ということで、強制終了。カテゴリは、そうだな、要素が多そうな「対人関係」にしておくか。
 うーん、今年中に、カテゴリの整理をする、という目標立てたような気がする。最近。大丈夫か、いけるか?
 そもそも、創作したいという意欲もわきあがってきたというのに、こんなこと書いてていいのか? でも、サピエンス全史も読み進めたいし……。

 あれ、結構、欲求が戻ってきている気がする。これはまぁ、悪い傾向じゃない。こういうときの注意は、睡眠時間だ。よし、ルーチンはOK、寝よう。

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さて、今日は対人関係のカテゴリだ。
そもそも、対人関係は、異性と、友人と、会社と、趣味とに大別される。

今日は僕は何について書こうと思ったのか。
どちらかといえば、会社、だが、異性要素もあり、友人要素もある。
カテゴリ分けという作業は、中々困難である。

頭の使い方


もっというと、対人関係というより、論理的な話し方と頭の使い方と他者の気持ちのそんたく、について書こうと思ったのだ。




なんだかんや、うまくいかないことが多い。
が、そのなかで、まぁなんとかやっている。

やっぱり、頭のいい人はいるんだが、それをどう目指せばいいのか。

責任感。

協調性。

倫理観、そしてチャレンジ精神、と。

組織として重きをおくことというのはある。

で、まぁ、そういう標語ってのを、俺は好きじゃないので、分解してやろうじゃないか。



まず責任感ってなんだよ?
責任って言葉は、結果にたいして、自らのものだとして行動することである。その行動ってなんだよ? 基本的に失敗したことや、問題が起こったことに対して使われる言葉である。

で、だ、まぁこの世界は、正直者が必ずしも得をしないようにできている、ブラック企業であることをロウキに言ったら干されたとか。

何をもって、責任感をはかるのか?
なんでもかんでも、私の責任です! と公言する人が評価される?
違和感である。

ゆえに僕は、目指すべき人間像としての責任感という言葉を、自分で達成可能なこととそうでないことの分類が正確にできる人、と定義しよう。

となると、次に、チャレンジ精神がポイントになる。


チャレンジ精神とは?



何でもかんでも、興味をもつことは正しい。興味をもてないことは、脳のA10神経群でマイナスの感情とレッテルを貼られ、前頭前野や海馬などに伝達しにくくなる。結果、記憶ができにくくなる。

何でも面白いと思うことは重要である。

しかしながら、責任感という言葉と矛盾する。

責任感は、僕の定義では、できることとできないことを明確にして、結果を約束することである。
それが、チャレンジ精神でやることを増やし続けたらどうか?
物理時間は限られている。
どこかで破綻するだろう。


そもそも、何でも新しいことをするのが正しいのか。
いまある目の前の仕事を、丁寧に確実にすることが悪いことなのか。

それは違う。ただし、ここでポイントになるのは、現状維持というのは難しいことなのだ。

ラーメン屋が常連をはなさないのは、微妙に味の更新をしているからだという。
そして、脳機能的にも、単純な同じことだけしていると、パフォーマンスが落ちるのだ。


ゆえに次は、目的設定力が重要になる。


仕事について



ここまで書いて、ああ、今回、カテゴリ対人関係じゃなかったなと気づくわけだ。厳しく野ったら、前半部分は全削除になる。



まぁさておき。

すべての仕事というのは、人の欲求を満たすものである。

欲求とは別に、愛欲や食欲に限らない。

安全欲求だってそうだ。
歳をとっても、豊かに暮らしたい、安定的に暮らしたいという欲求により、保険という仕組みが生まれ、それに纏わる仕事が生じた。

新人は、書類整理だけかもしれない。
何年たっても、複雑な複利計算だけかもしれない。それが人の欲求を満たしている実感はないかもしれない。

でも、直接的ではないにせよ、それは欲求充足のための仕事なのだ。


ブラック企業とは、ある意味、その他者への欲求充足のための、自己犠牲精神なのかもしれない。
だが、見落としているのは、そこに働く個個人の存在だ。ワークライフバランスなんて言葉は、単に残業削減みたいな感覚しか与えないようになっているが、理念としては悪くないし、資本主義的ですらある。


奴隷制は経済的か?



奴隷制が現代なくなったのは、人の博愛精神によるものか?


否。

という考えに僕は衝撃をうけた。つまり、これも経済なのだと。
どういうことか、奴隷は、生産するだけの存在で、消費をしない。しかし、経済とは消費と生産の循環で発展する。

つまり、消費をせず、ただ生産意欲が低い奴隷というのは、主人の所有意識を充足させてくれようが、社会全体としての発展は望めないのである。


代替してきたのがAIである。

AIの議論になると、人間が仕事を奪われる!!
ということになるが、本来おかしな話だ。

AI、ロボットさんがいっぱい働いてくれて、人間がたくさん消費して享楽を得て、働かずに生活できるようになれば、何ら問題はない。まさに楽園の実現であろう。


そうならずに、富のかせんが起こる理由とか、様々あるのだろうが、AIの発展は、ターミネーターみたいなことがない限り、全人類にとって幸せなことであるはずだ。  

結婚制度と女性の消費



実際日本社会においても、似たことが最近まであったではないか。


男は会社でもーれつに働き、女性は優雅に女子会ランチ。
ブランドバックに服。楽しみ放題。

ま、そんなんで上手く社会がまわってたこともあった。

女性の社会進出というのも、家で家事して、夫の稼ぎ以上の消費がない状態で、その夫もだんだん給料がさがってくる、となれば、消費が増えないからやっぱり、経済は停滞する、じゃあ女も働くか、となる。

別にフェミニンな運動がすべて功ではなく、経済的な要素が多いに関係するのである。
で、その経済とはなにかととえば、はじめにもどって、欲求、ということになる。



だから、欲求が非常に大事なのだ。


まとまらなくなった




うーん、難しい、テーマをしぼってかくというのは、どうにも面白味にかける。

本当は、いい感じに成功できる人間関係のための頭の使い方、的なのを整理したったが失敗やなぁそして時間ぎれ。



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誰か人に見せるために書いているわけではないけれども、アクセスがないというのは、何となく寂しいものだ。
泊りの旅行に出かけて、ワイワイ楽しんで帰ってきた、メモするポイントは何か、何から書き始めればいいのか……。
他者を意識すると、途端に書きたいことが、書くべきことが、書くことそれ自体が分からなくなる。

であれば、やっぱり、アクセスがあるとかないとか、そういった点を考える必要はない、というよりも、やめた方がいいと思う。
と同時に、やっぱり、「自己顕示」的な欲求が強いのだろうな、と思わざるをえない。
好きなように、楽しんで書いているからいいのだ、といいつつも、どこか、「考えている俺ってかっこいいでしょ」「みんな、俺を知ってくれ!」的な感じがあるのかもしれない。ということ自体が、僕自身、何だか非常にかっこわるくて気持ち悪いように思ってしまう、ゆえに、その点を感じさせてしまう可能性があるならば、やっぱり、話すべきでもなければ、そもそも書くべきではなく、こういった「自己顕示」を感じないような、そんな生活、思考、感情発生するような生き方をするべきではなかろうか。

話題とはインプットである

少し、話を変えてみる。会話の中で、やっぱり、インプット、事実、という点があると面白い。あとは、「経験」である。
趣味について、他者と共有し、話をするときに、知識がないと、話が盛り上がらない。そして、僕はある程度「問題を避ける」方向で何事も考えてきたから、「失敗した」「ミスをした」「ひどいめにあった」「バカをした」という経験があまりない。
この点が、あんまし面白くないのだろうと、思う。

特に、「バカをした」というのが、結構、その人となりをみるのに役立ったり。それが、異性との会話の中では、「ひいた」「どんびき」という、ちょっと共感できそうもないわぁという、そういった感情を引き起こす可能性がありながらも、ああ、この人と一緒にいるとなんだか楽しそうだなぁと、そういった感覚を引き起こす可能性も秘めているのである。もっとも、それが、パートナーとして求められる部分かどうかは別であるが。いわゆる、「いいひと」で終わってしまうとかなんとか。

他者との共有次元におけるインプット

いやはや、全く頭が整理されていなくても、こうやって書いてこれるわけであって、これはいわゆる、饒舌、というやつなのかもしれないが、ところが、何か他者と共有しながら会話をするという点においては、一切役に立たない、というと言い過ぎだけれども、「思考」というのは、あまり面白いものではない。

先述の、バカをやった、ような経験……、お金を浪費してしまったとか、欲しいものを手に入れるためにいろんな店をかけずりまわったとか、トラブルあって焦って他者を頼ったりとか、そうした経験がたくさんある人が、きっと「面白い人」なのだろうなぁ、と思う。


ここで、ふと冷静に、一人になってから考えてみたときに、じゃあ、そういった「面白い人」に、僕はなるべきなのか、ということはもちろんのこと、「なれるのか」ということもよく考えてみようではないか。


下手に、会話にあわせて、笑顔をつくって、楽しく笑っていたとしても……ああ、これは決して、無理をしているとか、楽しくないとかそういう意味ではなくて、その、他者に合わせようとする次元においてのものであるけれども、いわゆる「楽しい人」になろうと試みること、このことが、果たして今後も成功するのかどうか、ということだ。

よく言われるのが、外見上、「真面目そう」とみられるということである。

この「真面目そう」というのが、いいのか悪いのか、そこは全く問題ではなく、ここに、「いや実は自分は楽しい人間なんですよ」というアピールをしていくことが有効なのか、むしろその「真面目そう」というイメージを熟成させることに尽力するべきなのか、そのことを考えるべきということである。

自分のイメージを、無理やり変える必要はない。
というよりも、イメージは、結局、他者がどうとらえるか、という点に過ぎないのである。

もっといえば、自分のイメージどおりに、他者が動かないとき、その他者を、「よくわかんない人」とか、排除する感情の動きが発生する。

この、理解不能性、という点をよくおさえておけば、人間関係の悩みなんて、存在しなくなる。

コミュニケーションとは、自分のスキルを高めることだけが重要なのではなく、必要なのは、「自己理解」である。

コミュニケーションに関する研修を受けたことがある人は多いだろうが、それにおいて学んだことは、きっと事実であるのだけれども、それを「実践」するのは、あくまで、自分自身であり、その自分自身とは何かといえば、「自己」であり、その「経験」のインプットであるということだ。

自分はどうみられているのか

自分を知るということは、自分自身の、思考を深めるということだけを示すのではない。
自分が、他者に、もっといえば「世界」(社会とかコミュニティとか森羅万象)に、どのようにみられているのか、あつかわれているのか、そのことが、「自分を知る」ということである。


僕が若いころに受け入れられなかった思想は、「人は一人では生きていけない」というものである。

え、そんなことも分からなかったの、という感情が起こるだろうが、これは、単純な意味ではなく、自己中心主義の思考から逃れられなかったことにある、というよりも、そこを突き詰めれば、今であっても、それから逃れられてはいない、この「生きる意味」という難題、これこそが「自己中心主義」の支配を示している一つの証左である。


自己中心主義とは、この世界って、結局僕一人しかいないんじゃね?
とか、自分というものが世界の中心にあるような、そういう意識・感情の総体である。

この意識というのは、幼児期には当然あるものということで、自分の感情と他者の感情の区別がつかなかったりするのが、成長するとともに、他者の痛みみたいなものが分かるようになるということだ。

それで僕は、では他者の痛みが分からなかったかというと、そうではない。世界に自分一人しかいないんじゃないか、と思っていたわけでもなければ、自分一人で生きていくことができると思っていたわけでもない。

問題は、生きることそれ自身のために、他者を尊重する必要があるということが、信じられなかったということだ。

……この表現は難しいな。
どちらかというと、人はみな利己的な生き物である、ということの気持ち悪さが受け入れられなかった、のかもしれない。

世界における自己の位置づけが信じられなかったというか、よく分からなかったというか。
結局のところ、表現を精査していけば、きっと、誰しも同じように感じていたことにしかならないと思う。それが、自分の能力のなさゆえに表現が難しくなって、それが他者との乖離を生んでいる可能性だってある。

そのことが、「自己顕示」的に、俺は特別な人間なのだ、ということを示したいがために思考から逃れられないのだとしたら、それはとても虚しいものだ、と思う。

でも、一ついえるのは、このブログを書き始める際に感じていた、不愉快な気持ち、悶々としたもの、ぐちゃぐちゃとした頭の中、明日へ向かうやる気のなさといった諸々のモノ。

それは、書いて表現するしか、整理する手段はない、ということだ。
そしてもっといえば、やはり、誰かに読んでもらえる可能性がある、という事実、これが重要である、ということだ。



















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22時近くまで仕事があると、帰って12時を過ぎる。

10月16日、日曜日が、基本情報技術者試験の受験日だ。

ちょうど、仕事の忙しい時期と重なるが、一発合格したい。

この時間に帰って、勉強をできるようにならないと、合格できないだろう。
いまのところ、一週間に十五分程度の勉強量だ。

資格の有無が、人間の価値ではない、とか、そういった中学生的な、いわゆる何で勉強しなきゃいけないの? 的なことを、僕は思うのではない。

何で勉強を、ということを思ったのは、確かに中学生くらいだったが、それよりも何よりも、何で生きてるんだ、と、実存の危機は小学校高学年からである。

思えば、学校が終わったあと、クラブというか部活というかが始まるまでの、16時半か、17時までの時間が、ものすごく苦痛だった。

児童館みたいなところで、漫画を読めていたが、ああ、そこで金田一少年の事件簿とかみて、怖かったのを覚えているが、その漫画を読んでいる時間も、迫ってくるクラブの時間が、とてつもなく嫌だった。

ずっと封印していた記憶


高校ぐらいから、ログを書き始め、その内容にふれることはやってきた。

が、小学校高学年、4年生の頃に、親友に、死にたいと思ったことある? と、通学路の帰り道、坂の途中で尋ねたとき、まさか、そんなことあるわけないじゃないか、と言われて、ショックを受けた記憶、ここまでは、書いてきた。


そもそも、何故、小学校四年生、10歳の子どもが、死にたいなんて思ったのか、このことを、僕はいまのいままで、しっかり考えたことがなかった。


いちご同盟という小説の冒頭で自殺した少年は、12歳だったか。それより若いのだ。


その10歳以前の記憶は、いま少し考えたが、思い出せない。であれば、僕という自己が生まれたのは、その頃であったか。


僕のことを忘れてしまった、おばあちゃんが、通学路の途中まで一緒に着いてきてくれて、そのことでからかわれて、嫌な気持ちになったというのも、その頃か、もう少し前か。


いま考えると、そこらにいる小学生たちをみていると、到底そのころの僕の気持ちなんて、そんな感情があるなんてわからないくらい、ばか騒ぎして、笑顔で、はしゃいでいる。

そういうのが、小学生という時代なのか。


これらは、不幸自慢なんてことではなくて、フロイトの精神分析の自分でやってみた、みたいなものだ。

まぁ、こうかいても、自慢に聞こえるだけだろう。寝てない自慢みたいなものだ。
周りの人は、あっそ、自己管理ができてないのね、みたいに思うだけという、よくあるそれと同じことのように思えるだろう、それは分かっているが、逆に、今まで四年生に触れてこなかったことが、今回の記事の新しいところ。

自己の発生が死



僕、という存在を意識したのが、その、死にたいと思ったことであるならば、いまなお、生きる意味を探していることも、何ら疑問はない。

さすがに、それはまずいだろうと、意識に蓋をしていたのか。
 
まぁもう、なにも隠すこともない。考えてみよう、まぁでも、小中高と、思い出せる楽しかったことはないな。

高校生の終わりぐらいから、ホームページをつくって、楽しかったりしたけれども、むしろほとんど大学生に近い時期だ。

10歳から18歳の終わりまで、地元の、実家で暮らしていた時期がつまんねぇ時代だったというのは、感謝もして大事な両親や家族に対して申し訳ない気もするのだけれども、まぁ、年齢があがるにつれ、家にいる時間よりも外にいる時間が多くなるのだから仕方がないかもしれない。

とはいえ、これは親とかには見せられないな(笑)


という構造になるのであれば、誰にも相談できず、一人で抱え込んで、自殺してしまう子どもたち、というのも、よく分かる。

何で相談してくれなかったのかと、両親や、親友たちは嘆くかもしれない。けれども自殺した彼らは、むしろ、君たちを大事に思っていたから、相談できなかったのだ。

しかし、その死が、より深い哀しみを与えるだろうことは、思いやれるだけの力がなかったのか、それを考えるだけの余裕がないほど疲れはてていたのか……。



この次元の話は、殆どの人は必要としないのだろう。
にもかかわらず、人間理解とか、コミュニケーションとか、生きる力だとかのたまうひとたちの多いこと。

もう何年も前に、そういうものだとは思っているので、特になにも期待してはいないけれども、掘り下げて書いていけば、やっぱり、他者への期待のなさがあらわれている、このことが、昨日の記事にある、他者を頼る、ことの希薄さになり、頼らないから頼られないみたいな状態となっているのだとしたら、やはり特段、この辺りは考える必要性を感じない。


もよりの駅に着きそう。時間切れだ。目もまたはんびらき。最近身体が疲れてくると、特に目が疲れて、あかなくなってくる。

とりあえず、五分だけは勉強した。

















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友人ができた


よく、社会人になると友人ができない、といわれる。
ただ、それらは根本の人間関係を知らないがゆえに発生する誤解である。


ジョハリの窓、という研究があり、それは自分でも自分の知らない部分があるということだが、それよりも、信頼関係をえるには、自己開示が必要だということ証左である。

社会人になって友人ができない、というのは、その人の来歴の共有不足である、これは物理環境と時間の由来であり、もはや覆しのできない事実でありながら、そこに、友人という言葉の何を求めるか、になる。


ともに新しい目的、遊び、行為、それらを作り上げるとき、もはや、その来歴を確認する作業が面白いものとなりえる。
これは、友人という表現でよいと考える。

親友という存在がどれほど重いかはわからない、そう、その友人と親友の違い、というものを、卒業論文のテーマにそえようとしつつも、その意味の無さに気づいて、やめたのであった。


深い人間になること



表層的な、コミュニケーションの構築は、もう大体おっけーだと思う。お世辞かなにかはわからないが、話しやすい雰囲気です、とか、話なれてますね、とか言われた、これは全くもって、こういった文章を書く人間とは思われないくらいの技術の構築を示しているといえる。

人との関係構築にどれだけ怯え、学び、実践し、調整してきたことか、それは一切伝わることがない。
伝えてはならない、それはすべての覆しを意味する。

そして、その過程を知ってなお、自分という今を見つめてくれる人、それが友人だとしたら、僕は友人が一人もいないことになるし、そんな友人を欲しいとは思わない。


それらの過程は、自己の自信のなさによるものかもしれない。いやはや現に、いまにおいても、その所属コミュニティにおいては、僕はかなり厳しい立場状況におかれるし、一方あるコミュニティでは、ある程度の価値が認められるのである。

そして、たいていは、その認められるコミュニティを重要視して、拠り所とするが、僕はただ、そのコミュニティさえも、不安定な、崩れやすいものとしか思えないという、表層的な問題である。


かっこよくあるために


人は、かっこよくあることを要求される。愚痴愚痴してマイナス思考な人は排除される仕組みである。



……、生きづらいとは思わないか。この投げ掛けに、呼応する人はいない、それは、まさにこれに共感する人こそが、排除の対象になる仕組みだからだ。

エセポジティブとは、臭いものに蓋をして、なんとかやりきろうとする、対処療法である。


イデオロギーがあり、ある方向に人々が向かっていた時代は、よかっただろう、いまは、マニュアル人間は塵で使えない、と断罪される。

自分の力で考えろ、という。

それをしていいのは、次の前提を実感できている人たちだ。


世界がよいものであると


世界がよいものであると、世界をよくしたいと、自分に価値があると、自分には力が備わっていると。


後二分しか、時間がない。

一言で説明できないことから、僕の頭のなかは、まだまだ十分に整理できていないのだ、ただ、ひとつ、笑顔をたやさず、目的をはっきりとし、自己を開示していけば、この世界の動き、それはすなわち自分を取り巻く環境は、少しずつ変化するのである。














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