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離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「やりがいの搾取とかいうけれど」「たのしきゃいいよね」

バージョンアップ


>入力が終日なかった日は自動的に前日の文字数を転写する感じになったら便利じゃねえかな

 仰るとおりと思い、機能追加した。

創作進捗グラフ作成ツールVer.0.4(←DLはこちら)


 その程度指摘されなくても作れよ、的な感じでもある。
 ただ、「前日の文字数を転写」というのが、意外に悩んだ。前日転写っていっても、その前日が空白のこともある。結局マクロのループ処理でセルを一つずつ調べながら、入力日より前のセルにおいて、初めて空白が発生したセルの前日の文字数を順番に貼り付けていく仕様とした。

 あわせて、前月の末日を検索し、当月シートの前月の末日セル(C8)に転写する機能を追加した(これは関数により実装)。



 それにしても、度重なる仕様追加により、ご利用の方に、データ移行の負荷をおかけしている。申し訳ない限りです。この場でお詫びいたします。

 せめて、年次集計機能はデータ移行不要で実装できるよう検討しよう。

たのしい

 まぁしかし、こういったツール作ったり、現状のルーチン業務を効率化するプログラムを考えるのは好きである。
 そういった仕事ばかりであればいいんだけど、そうじゃないのも多いし、実際案を出しても文句ばっかり言われたりもするので辟易なところ。文句と要望の違いは難しいけれども、「こういうのがあったらいいなぁ」というのはいいのだけれども、「できて当然だろ」とかいわれると、何だか哀しくなる。まー仕事にそんな感情を持ち込むな、と言われそうだが、やりがいってのはあった方がいいと思う。

 しかし今度は、そのやりがいを搾取するような、労働基準法を無視するような働かせ方をするところがあったりと、そのバランスは非常に難しい。


 まーあれだよな、大工さんが趣味で日曜大工はやらないだろうし、プログラマーが趣味でプログラム書くことはないだろうし、小説家が趣味で小説書かないだろうし、ま、ほどほどやるのがよいってのもある。

 だから、本当に好きなことを仕事にするというのは、ある意味危険なことかもしれない。仕事になってしまうと、好きなことが、好きに思えなくなったりすると、その人の本当に好きなことが反転して無くなってしまうということだから。

 でもまー、そうだなぁ、「楽しいこと」してお金が得られて、衣食住が満たされて生活できるってのが、一般的に「幸せ」って奴なんだろうな。

 

趣味

 ある方が、「自分は、興味のあることを調べてまとめることに楽しいと感じる」と仰っていた。そういった自己分析ができるのはかっこいいなぁって思っていたが、そうだな、僕は、何か「つくる」ことが楽しいのかもしれない。

 そのつくるというのは、創るであったり、作るであったり。


 やっぱり、生きている以上は、何か「生産」したいよね。

 なんとなく、(そんな典型的な人など殆どいないだろうが)グルメだとか、ギャンブルだとか高級ブランド商品を購入するだとか、そういった消費がメインの生き方の人を、僕はどこかしら馬鹿にしている、軽蔑している気がする(そんなこと思ったこともなかったが)。

 コミュニケーションってのも、何らか生産的であるべきだなぁと思っていたこともあったけれども、これは、最近ある精神科医さんが、「空疎なコミュニケーションってのも非常に重要。それができない奴は上手く生きてけない」とか仰ってて、それもそうだなぁと思った。
 というか、この話になると、そもそも、「生産的」とは何か、というのがそもそも僕は疑問に思ってしまうが。生きる意味とか、そんな非生産的な代表のようなことをテーマにしたりしている僕が、生産的とか言葉を使うのは甚だお笑い草である。


 でもやっぱり、何だかつくりたいよね。


(ブログ書いているとイライラしてるのが落ち着く、とか書いたことが何度かあるけれども、それってつまり、有意味かどうか別として、記事を作り出しているという点が、僕の「欲動」を刺激しているからなのかもしれない。でもどうせつくるなら、やっぱり意味があるものがいいよなぁ)

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今日の一言「つらつら無為に書いていこう」「これはイライラ対処の記事である」

宣伝:創作進捗グラフ作成ツールVer0.3として、文字数カウント機能等を追加しました。

浄土信仰について

 僕は、「仏教すげーぜ!」的なことをたまに書いている。それは本心なのだけれども、儀式的な仏教や極楽浄土を説くような信仰、全部が全部好きというわけではない。

 浄土宗や浄土真宗において拠り所とされるのは、浄土三部経といわれる、「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」であるが、そのあらすじを読んでみたけれども、深く感銘を受けるには至らなかった。(迦稜頻伽(カラヴィンカ)や共命鳥の話など、面白い内容は多かった)

 そもそも、何故面白いと思えないかというのは、「浄土(極楽)」という考え方が馴染まないからである。
 無量寿経の中に、極楽の描写がある。
「無量寿国のもろもろの天人、衣服・飲食・華香・瓔珞・繒蓋・幢幡・微妙の音声・所居の舎宅・宮殿・楼観、その形色に称う。高下大小なり。61あるいは一宝・二宝、乃至、無量の衆宝、意の所欲に随いて、念に応じてすなわち至る。」
 無量寿国(極楽浄土)は、清く美しく、着るものも食べるものも住むところも、心の思うがままに現れる、と。とにかく幸せなところなのだと。



 ここら辺の教化は、キリスト教の天国の描写と変わらないのではないか。
 阿弥陀様を、神やキリスト様と置き換えても問題ないように思われる。

 その点においては、仏教が特別な何かだとは思えていない。そうではなく、僕が、仏教に対して期待しているのは、その「無常観」、諸行無常や諸法無我といった娑婆世界の見方である。
 

極楽浄土に至る道

 諸行無常諸法無我とは、世のモノ・コトは永遠不変絶対なものはなく、移り変わっていくものである、ということである。
 で、あるならば、6つの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の輪廻を抜けて仏となるというのも、涅槃が達成されている極楽浄土というのも、それを「絶対視」するというのは矛盾に思える。

 そういう点では、修行と悟りは同じことである(修証一如)といったり、悟りを得るためには悟ろうとすることすらやめねばならないとする、道元さんなど、禅の考え方はしっくりくる。
「只座る。それこそが仏の道であります」(只管打座)


 宗教を信じない人のことを、無神論者、と言ったりするけれども、それは厳密には異なる。
 宗教というのと、神を信じるというのとは異なるのだ。

 仏教は、キリスト教やイスラム教の聖書のような、絶対的な拠り所となる書物はなくて、数万といわれる数の経典がある。だから、浄土信仰のようなものもあれば、密教的な(ヨーガの実践により悟りに至る)ものもあって様々である。

 宗教という語を、「超越的なものへの信仰」という意味であれば、なるほど神を信じていなくても、それは宗教と呼ばれるべきものはあるかもしれない。

 なるほど、そういう意味では、僕は、生きる意味を考えなければならないという、宗教にはまってしまっているのかもしれない。けれども、僕は完全に無神論者だといえよう。それも極度の。なにせ、神も、仏も、極楽すらも信じることができない、それどころか倦厭してしまうのだから。

欲望を満たし続ける一切皆苦

 さて。ところで、今、僕はとてもイライラしているのである。
 最近、ツール作って、使ってもらって、いい感じだね~って言ってもらえて、とても楽しく充実した時間を過ごしていたら、仕事でとても不愉快極まりないことに出くわしたのである。
 せっかくの楽しい気分が台無しである。そしてこの気分は、家に帰ってからも続いている。

 そんな不愉快な思いを与えた人も、それも縁なのです。その人によって、どうふるまうべきかを学ぶことができて、よかったではありませんか。

 ……なんて思えるか! ボケ! ◎ね!(かっこわらい)



 凡人、衆生は、悩みが尽きない生き物である。

 しかし最早最近は、その悩みや怒りというのすら、それを軽減させていくことが良いことなのかどうかすらよく分からない。
 とにかく、気付いたことがある。いや、分かったことだ。
 楽な仕事なんてないし、楽をして生きられることなんてないのだ。
 この世の中は苦しみに満ちている。どこまでいったって、ずっと永遠に苦しみが続くわけだ。
 なんて、仏教の一切皆苦と同じことなのだけど、言葉じゃなくて、実感として分かったよ。
 公務員なら楽、先生ならきついとか、そんなことを考えるようではもう 自殺 するしかない。
 死ぬしかないのだよ。
 分かってたんだけど、忘れてた。
 思い出したよ。
 人生は、特に、ボクの人生は苦しみしかないのだ。
 その苦しみの中で、どう苦しみと付き合っていくのかを、それを考えるしかなかったのだ。
――生きる意味を徹底して考える(2007/2/3)
 10年ぐらい前の文章である。
 もっと前には、
 欲望が満たされなくなったとき、人は悩むのだ。苦しむのだ。辛いのだ。結局人は、死ぬ。その直前まで、欲望を満たし続けなければならないのである。
 人の個性というのは、すなわち欲望の違いということができるであろう。無償の愛の典型とされるボランティア活動さえも、「人の役に立ちたい。」という欲望の域を抜けていないのだ。
 人はもっと、正直になるべきなのだ。もっと自分の利益を積極的に肯定し、追求してよいのだ。その個々人の欲望を調整するのが国家であるといえよう。
――生きる意味を徹底して考える(2004/11/22)
 こんなことも言っている。
 基本的に、ここら辺の思想信条というか、価値観というものは、今の今まで変わっていない、と言える。色々と、試みたことはあったけれども、しかし、根本は変わらなかった。
 というよりも、「この世は苦しみである」というのは、全然、僕が思いついたことではなく(僕が強く感じたことではあるが)、紀元前5世紀ぐらいのゴウタマさんが仰ったことである。それが「仏教」という一大宗派が築かれて、現代も信者が大勢いるというのだから、僕の感覚を変えるというのは土台無理な話なのかもしれないのである。


 ところが、最近の問題としては、上の過去記事において前提とされている、「楽」とか、「欲望」といったもの。
 それがよく分からなくなっているのである。

自己言及的な生き方

 そこで、現在新たに提示しているのが、フランクルさんとかが仰る、「人は皆、生きているだけで意味があるのだ」ということ。

 いや全然新しくないじゃん、そんなの小学校の道徳の授業であるようなもんじゃん。


 仰る通り。
 言葉にすると難しい。踏み込んで書くとすると、自己言及的な生き方、ということである。

 欲求と欲望の違い、ということで以前どこかで触れたことがあった。欲求とは、何か足りていないものを満たそうとすること。欲望とは、足りているか足りていないかにかかわらず、その対象を求めてやまないこと。そんな感じで定義した。(気がする)

 ただ、この用語区別は分かりづらい部分があるので、ここで、「欲動」という、フロイトさんが仰る表現を使ってみようと思う。

 欲動とは、もうそれ自体が目的となっているような欲求や欲望のこと。
欲動
精神分析学の用語。人間を常に行動へと向ける無意識の衝動。フロイトによれば、心的なものと身体的なものとの境界概念と位置付けられ、自己保存欲動と性欲動(のちに生の欲動と死の欲動)とに二分された。――大辞林

 無意識で兎に角求めちゃう! というのが欲動である。

 自己言及的に生きるとは、生きていることに意味があるかどうかを考えるのではなく、ただ生きていることそれこそが目的なのだと、欲求・欲望・欲動だとして生きるということである。



 ……。
 気分が高揚しているときであれば、「おお、素晴らしい教えだ! そうだ、生きているそれだけで十分なのだ!」などと思うかもしれない。
 しかし今は、イライラの真っ最中である。そういった場合では、

・生きる意味を考えるということからの逃避ということではないか。
・現に不愉快な事象に面したり、理不尽な状況に陥ったり、まさに死に際したとき、生きることそのものが目的であったら、死という避けられない事象に対して何ら意味をなさない考えではないか。
・努力すること頑張ることストイックになることの否定ではないか。
・他者に胸を張って伝えられるものか。世界規模で肯定される生き方といえるのか。


 などと否定語が浮かぶ。


全然書きたいことに到達しない

 イライラに任せて書いては、到底まとまるはずはなかった。
 時間切れである。

 しかし、何か、表現したいことにまったく到達しなかった。

 結局かけたのは、仏教は仏教でも、キリスト教的な(神様の信仰)的な仏教は好きじゃない、ということぐらいか。
 いや、まぁ、このあたり(浄土信仰など)は、もう少し勉強してみるつもりである。少しさわりを読んだ限りだと、おそらく、可能性として、「阿弥陀仏」という、「ナンマイダー」と唱え帰依する対象の仏さまは、偶像としての神ではなく、涅槃の境地の象徴であるとも考えられるからだ。
「衣食住が満たされた極楽」という表現も、「悟りの境地」の、たとえ話――豪華絢爛酒池肉林という意味ではなくて、そういった衣食住に心が惑わされないような安らかな状態の表現であるとも考えられるからだ。


「南無阿弥陀仏とただ唱えるだけで極楽浄土にいけますよ」

 というのも、それだけ聞けば、幼稚な迷信のように思ってしまうが、心を統一して、一つのことに集中して世の中の些事にとらわれなくなるという、実践的な意味もあるかもしれない。(そういった側面の強調が、密教やヨーガである)



 本当は、「思考することの意味について」この記事と頂いたコメントについて、もうちょっと踏み込んだことを書きたかった、書いておきたかった。
 恥ずかしい記事だと、上の記事では書いていたが、よほど今回の記事の方が退化しているといえるだろう。困った困った。

 やはり、身体と精神が好調な状態でなければ、思考も十分にできないということなのだろう。

(いやしかし、そういったよくない状態の時にどれだけまともな記載ができるかというのが重要な気もする)


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今日の一言「面白そうだったので作ってみた」「後悔はしていない」

バージョンアップVer.0.3(5月15日)

あとは文字数を自動で数える機能があったら便利ですけど、人によって使ってるエディタ違うだろうし、難しいでしょうかね。
 早速ご意見をいただいたので、対応してみることにした(レスポンスを即座に頂けるので非常にやりがいのある仕事である)。

 とはいえ、「文字数を自動で数える」ってどういうことだろうかと帰りの電車で頭を悩ます。
 ご意見の通り、エディタはおそらく人それぞれ。
 であれば、ツール上に作品を、各自のエディタからコピーしてもらって、それをツールに貼り付けると自動で文字数のカウントをする機能であればどうだろうと思いつく。
 しかし、エクセルのセルの文字数上限を調べてみると、3万文字ぐらいであった。ヘビーな作品を書かれる方が浮かぶ。とてもじゃ無いが足りない。
 であれば、「ユーザーフォーム」機能をこの際覚えてみるか、と調べながらやってたら、できた。

使い方

 ツールを起動すると、入力フォームが表示される。入力欄に作品をコピーして頂くと、「入力日」(当日の日付を自動貼付)に該当するシートの日付に、ペタッと貼り付けられるようになった。
 一応、メニュー画面でも、各シートにおける「入力フォーム起動」ボタンでも、どちらからでも該当日にペタッと貼りつく。結構楽になったのではなかろうか、と自画自賛。

01画像:起動すると入力フォームが自動起動する


02画像:入力欄に各自のエディタから作品をコピーして「登録」ボタンを押下すると、


03画像:「入力日」欄と同じ日付に文字数が貼りつく。なお、「入力日」欄は手動で修正も可能。


※なお、フォームからの入力は、事前に入力シート(シート名が「YYYYMM」型)が作成されていることが条件となります。

バージョンアップVer.0.2(5月14日)

 標記ツールについて、早速使ってくださっている方もいるようで、ありがたい限りです。
 そのため、以下点を修正しました。

創作進捗グラフ作成ツールVer.0.2(←DLはこちら)

1.累計グラフ出力機能(ボタン)を追加
2.日単位グラフ出力機能(ボタン)を追加
3.データ入力欄が空白(NULL)の場合、各データ要素を繋げてグラフを作成するように修正

3.については、更新をしない日を「空白」とした場合、グラフをきれいに表示できない(データが点と点になってしまい、グラフ線を引けない)ことが分かったため修正しています。
 =更新しなかったとき、文字数(累計)を入力しなくても大丈夫ということです。


※データ移行については、お手数ですが、旧ツールの入力欄をコピーして、新ツールの入力欄に貼り付けて頂きたいと思います。
※原本をそのままコピーして使用することも可能ですが、シート名については「YYYYMM」(※※)形式にして頂けると、今後追加予定の年次集計機能が使えると思います。(メニューの「シート追加」ボタンでシートを追加するとその形式になります)

※※ YYYY:西暦、MM:月(二ケタ整数)



(以下、公開時の記事)


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・・・つづきはこちら


今日の一言「何だか気持ちが曇っているときは、とにかく書いていきましょう」「面白くないことを書いてしまうことの不安や恐怖もまた生ず」

当たり前の生活

 5月も中旬である。
 エアコンが不要になってから久しい。新入生、新入社員も、新しい環境に慣れ始め、五月病が深刻化している時期である。
 気づけば、こんな時期である。

 月日が経つスピードに唯々圧倒される。

 そういえば、昨年の今頃は、「いろいろ」あった。主に、生活面で変化が大きかった。
 一睡もできない日々が続いた、と書けたら分かりやすいけれども、厳密な徹夜は若いころから全然できない。ただ、1~2時間で目が覚めて、みたいな状態はあった。

 離婚、以外に、大事な人との永遠の別れもちょうど重なった。いろいろ、であった。

 けれども、終わってみると、何とあっけないものであろうか。



 ふと、数日間、異なる環境で生活していたけれども、いつもと違う人たちと生活すると、「ふつう」「常識」という言葉が、相当、かなり、自分の人生というものに対し影響していると気づかされる。

 
 例えば、学校に行って、部活動をして、友人をつくって、大学に行って、恋人をつくって、バイトをして、就職して、車を買って、部下を育成し、昇格して、結婚し、マイホームを買って、子どもをつくって、育てて、子どもとキャッチボールをして、両親の介護をして、二人目をつくって、退職をして、両親とお別れをして、孫をみて、……死ぬ。

 その順番とか、内容の深度とかは兎も角、なんとなく、地元で暮らしていた頃はそんなことを、当たり前だと思っていた、気がする。
 そいで、まぁ、そんなルートに外れないようにと、せっせと、「頑張って」いた気がする。

 小学生低学年の頃までは良かった。思考というものは殆ど生じていなかった。それ以降、その時々で、「当たり前」というのに、亀裂や懊悩が生じ、翳りを見せ始めていった。何とか、修正しようと試みた。しかし、それを「努力」と呼ぶことの、なんと哀しいことか。

幼いころの夢

 上のようなことを書いてしまうのは、自分はテレビを殆どみないけれども、テレビを長時間見る機会があったからだと思う。
 特に、若者の将来について、大人が夢を語るような、そんな番組をみた。

 それ自体は面白かったし、高校生や大学生が、真剣に議論する様は、応援したい気持ちになった。

 若者には未来がある。

 俺には、無い。


 いや、俺にも夢はあった……のか?
 漠然と、俺は、悩んでいる人に寄り添って、助けてあげたかった。生きていていいんだ、つらいのは貴方だけじゃないんだ、って、そんな風に励ましてあげるような、見守ってあげられるような、そんな仕事をしたかった。そういった仕事をして、お金をもらって生きていけたらいいなって思った。

 けれども、どこまで真剣に考えたかは置いておいて、そういった「導ける人」ってのは、根本から「明るい人」じゃないとダメなんだなって、そう思わされた。楽天的な人というのか、「人は何故生きるのか?」なんて考えないような人。そういった、カリスマ性がある人。ルックスや、腕力で人を納得させられる人。

 俺はどうやら、そういう人間ではないようだと、気づかされた。
 せいぜい、馴れ合い程度しかできない。「つらいんだね。僕もつらいんだよ」と、共感するぐらいしかできない。しかし、それは本当の意味での「救い」ではない。結局何も変えられない。


 だったら、悩んでいる人への救いは、そうした、カリスマ性のある人に任せる。俺には、向いていないのだ、と。

何故生きるのか、生きているからだ

 同語反復的に、自己言及的に生きよ、というのを、本で読んだ。

 宮台さんは、終わりなき日常を生きろという。

 フランクルさんは、人生に意味を求めるのではない、人生から意味を問われているのだ、と仰っている。

 ある方は、「生きる意味を考えるというのは、自分自身を知ることである」と仰っていた。その方は、自分を見つめる中で、自分のしたいことを漠然とした中で、少しずつ具体化していっている。

 俺は、まだ立ち止まっているのか。

 
 
 余談だが、俺はこう、夜更けに、もしくは黄昏時に、一人思索に耽っているのが好きだ。
 毎週バイトだり、出かける用事があったり、忙しい日々が続き、ふと予定がなくなった日などとても良い。
 窓から差し込む燃ゆる夕陽が、部屋に明暗の縞をつくる様など、思考を止めて侘寂の思いを生じさせる。
 ただ、こうした思いは、日々の生活の「切れ目」にあるからこそ、静かに心を打つのであって、その「日常」が無いときには、黄昏の思いは生じないのではないかと思う。


 閑話休題。

 5月は、あっという間に終わるだろう。

 一年は、あっという間に過ぎるだろう。


 気づけば、いろんなものを手にして、そしてそれ以上に無くしているのだろう。

 お金は大事。だが、それ以上に、時間が大事。

役に立つことを書きたい

 と、まぁ、つらつら書いていくのはいつものことだけれども、まぁ、公開する以上は、なんらか、役に立つことを書きたい。

 役に立つというのは、そう、別に、お金になる儲け話とかじゃなくてもいいし、ライフハック的な何かじゃなくてもいい。
 ただ、誰かに、何らかの影響を与えられるような、そんな可能性が欲しい。

 その影響は、できれば、プラスのものであったら嬉しい。
 いやむしろ、マイナスな影響何て与えたくない。

 よし、何か最近のことメモをしてみるか。

笑うセールスマン

 笑うセールスマンNEWをアマゾンプライムで見た(無料の奴だけ)。オープニングの曲とアニメーションのセンスがいいと思った。NEWというか、NEWじゃない奴はみたことないのだけれど。
 話は、うーん、見たやつがたまたまだったのかもしれないけれども、世にも奇妙な物語とかの方が話の深さ的には面白いと思う。ただ、何か作業中に見るのはいい気がする。

アラビアの夜の種族

 一巻を読了す。
 アニメーションと同じで、途中まではちまちま読んでいて、後半が近づくにつれて一気に読んでしまう。電車から降りても中々やめられず、そのまま立ち尽くしながら読んでいた。それだけ引き込まれていった。
 序盤は、詳細な歴史の教科書を読んでいるようで、少々退屈であった。章立てのタイトルも分かりづらい。きっと意味があるのだろうけれども、一巻を読み終えてもまだ分かっていない。「読者諸氏に置かれては、主人公の人となりについて、まずはこのような描写に止めておくことで満足されたい」とか、そんな視点(書き方)も気持ちを倦厭させた。時折入る訳注は、確かに、アラビア(イスラム圏)についての知識が足りない自分にとってはありがたかったものの、何だか物語の趣向を削がれてしまう。

 おそらく、某氏の勧めがなければ、書店で手に取ったとしても購入することはなかったであろう。しかし、一巻を読み終えた今だから分かる。これは面白い。ということで、二巻、三巻の購入も決定した。

 しっかし。一巻に登場する稀代の魔術師である主人公は、なんとも醜悪な男である。
 途中までは、ルックスから疎まれ、蔑まされた王子が知略をもってし成り上がる話だと思っていたが、――いやその予測はある意味当たってはいたのだが――とんでもなかった。

 だがこの物語はまだ始まったに過ぎない。二巻、三巻とどのように展開していくか楽しみである。

創作進捗グラフ作成ツール

 どうやら、さっそく使ってくださっている方がいるようなので、バージョンアップをしてみた。
 ブログ公開用のグラフ画像をワンクリックで出力できる機能を追加。
 現状、一か月おきの集計なので、半年ぐらいしたら、年次のグラフを出力できる機能を追加して、ひとまず完成ということにしようかと検討している。

 そして、某WEBサイトでも、大きな改修を近々に行うことを宣言したため、これもスケジュールを組んで対応していきたいと思う。

黒い砂漠

 相変わらずストーリーや戦闘(狩り)によるレベルアップを進める時間がなく、単に放置でできる料理とか、野菜果物栽培、まき割りと、生活をしている。
 まとまった時間があれば、いろいろ進めてみたいと思いつつ、平日とか、優先度はどうしても低くなる。

役に立たないこと

 うーむ。最近、何だか、某氏に教えてもらって気に入って使っているブラウザ「スレイプニール」がもっさりしている。
 文字がかなり綺麗に見えるし、クロームで書いていて頻発したクラッシュ問題も一度も起こったことがなくて気に入っていたのだが……。試しに、クロームを起動したら、やっぱりサクサク動く。となると、やはりブラウザに原因がありそうだ。他にも、クリックごとに新しいタブが開いたり、使いづらい点が多かったりするが、だが、文字の表示のきれいさは、段違いである。やはりスレイプニールを使いたい。遅い原因を探ろう。

 そして、次回は、「コンプレックス」について書こう。もう時間がなくなってしまった。

 役に立つ情報とは、「客観的」なものだ。つまり、事実であれば再現性があって、思考ならば論理性が求められるものである。
 それ以外のものは、一人称に過ぎず、つまり、「あー、君がそう思うんなら、そうなんじゃないの」程度のものである。

 仕事って、そういうものである。感情は、唾棄される。

 コミュニケーションとかいうけれど、それは、再現性と論理性を円滑にまわしていくための「技法」に過ぎない。本当の、人間的な、カオスの、アナログな、複雑な感情というのは、もともとノーサンキューなのである。

 という観点でいけば、僕のブログの役に立つ度は、0.001%に満たないだろう。

 唯一、かどうか分からないが、真理に近いのは、「唯一絶対普遍の真理など存在しない」というものであるが、じゃあこれが「論理的」かというと、そうではないし、むしろ、真理に対する否定である命題のため、甚だ役に立つか不明である。

 だがここで、僕は一つ言いたくなることがある。「役に立つ情報」=「客観的」(=再現性があり、論理的であるもの)という等式が、果たして役に立つのか。

 もちろん、「役に立つ情報」∋「客観的」(※1)というのは正しいだろう。その逆は疑問だ。客観的であれば、必ず役に立つかは疑問だからだ。
 必要条件というのと、十分条件という言葉が、何回覚えても忘れてしまう(※2)が、「役に立つ情報」と「客観的」というのは、

 (1)役に立つ情報 ⇒ 客観的
 (2)客観的 ⇒ 役に立つ情報

 結局どちらも成り立たないから、必要条件でも、十分条件でもないってことか。
 つまり、反例が一つでもあればよいので、(1)は、役に立つ情報が、必ずしも客観的ではないこともあるから、偽。
 (2)は、同じく、客観的であるからといって、必ずしも役に立つとは限らないから、偽。



 じゃあ、役に立つ情報って、なんだよ!

 となったとき、それは、「人の心を動かすもの」(感動させるもの)ではなかろうか。
 些末な情報だとしても、「へー、そうなんだ」と少しでも思わせたなら、それは感動したということであり、何らかの影響をその人に与えられたということだ。「よくわらかない」「つまらなかった」というのは、確かに「なんの役にも立たなかった」と言いたくなってしまうが、しかしそれでも、感動ではある。
 ということは、「あれはつまらなかった」ということが分かったということで、それは一種、「役に立つ情報」と言えるのではなかろうか。

 ということは、以下の図式が成り立つ。

 役に立つ情報 ⇒ 感動する

 逆に、

 感動する ⇒ 役に立つ情報

 とも言えるのではなかろうか。ということは、感動させる情報というのは、役に立つ情報の「必要十分条件」なのではなかろうか。



※1 A∋B としたとき、BはAに属する、つまり、包含されること(BはAの要素であること)を示す。

※2 p⇒(ならば)q が真のとき、「pは、qの十分条件」「qはpの必要条件」となる。
 例)遠藤⇒人間 は真
   人間⇒遠藤 は偽
   この場合、「遠藤⇒人間」が真なので、遠藤は人間であるための十分条件。
   人間は、遠藤であるための必要条件。(=遠藤であれば、必ず人間である)



(だから何だ? という突っ込みが生じたところで、今日は終わり)

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今日の一言「やっぱり最後はまとめて一気に見てしまう」
※本記事はネタバレを多分に含むために注意願います。

鉄血のオルフェンズ第二期視聴完了

 見終わった。
 ああ、なんだか、良い作品が終わると、黄昏時の気分になる。ラスト8話ぐらい一気に見たため、どっと疲れがおしよせて、23時に寝るという目標を立てつつも床に倒れこんで寝てしまった。

 この作品は、以下の点において、忘れられない作品になったと思う。

・ガンダムシリーズで初めて面白いと思った(ただし、本作を除き、初代の劇場版しかみたことはない)

・ほぼネタバレ状態で見た

・二期まである作品を短期間で見終わった(というよりも、二期まである作品で最後まで見ることができたのって、攻殻機動隊以外ないかもしれない。ガンスリ、おめーは駄目だ(※))



※ガンスリンガーガール:一期は名作。あの重苦しくも健気な雰囲気がよい。原作漫画も、後半はなんだかぐちゃぐちゃ感があったけど、全体的に良かった。二期目の方向転換は残念だった。なんだか、最初は「おとな」向けの作品だったのを、モンハンとかデジモンとかの低年齢向けにしたような……。いや、いい大人がアニメなんてみるなということなのか。

傑作かどうか

 自分の中で敢えて評価をするのなら、上位にランクインするのは間違いないだろう。ただし、傑作か、名作かどうか、とか、そういった基準はあまり意味がないだろうとするレビューというか感想のとおり、様々な要素が詰め込まれているので、様々な感想があるんだろうなぁと思う。

 ある方が挙げられていた第二期の問題点、

・ラストバトルに挑む主人公たちの動機の薄さ

・マクギリス・ファリドことマッキーの肩透かしによる後半の一本調子

 であるが、僕は、一気にまとめて見たのも影響するかもしれないが、一点目については特に気にならなかった。

 確かに、演出がおざなりじゃあないかと、そんな感覚もあると思うし、
早急な結果を求めるあまり、自分のものではない主事主張に乗せられて受動的に戦争を始めてしまったことへの、これは因果応報を描いたものだったのかもしれない。だがしかし、やはり俺は、どのような理屈があろうと最終決戦に主人公陣営が挑むときに切実な動機がないことは正当化されるべきではないと思う。――螺旋のモノリス
 という、「切実な動機の不在」というものが、物語(創作)においては必要だというのも最もに思える。

行き当たりばったり感

 でも、なんか、鉄華団の面々は、一期目から、必ずしも切実な動機(この表現を、合理的判断と読み替えるとより僕の表現したいことに近い気がするが)のもとに戦ってきたわけじゃあない気がしていた。いってみれば、行き当たりばったり感がずっと付きまとっていた。

 名瀬のアニキと、結果的に義兄弟になったとはいえ、最初は「俺の傘下に入らないか?」と持ち掛けられていたが、「鉄華団の仲間たちをバラバラにするわけにはいかねぇ!」とオルガ団長は足蹴にしたり、メルビットさん(大人の女性)からは何度も、「戦わない道もあるのでは……?」と諫められつつも、結局、「俺たちは戻るとこなんかない。前に進むしかねーんだ!」と突っ走り続ける。(そしてそれを後押しする三日月主人公とその仲間たち(※))

 僕はそれを「攻めの人生」と表現して、「んー、なんか、違和感があるなぁ」と書いたけれども、結局彼らは、最初から最後まで、自分たちの「筋を通した」のではなかろうか。


 そういった意味で、オルガ団長のあの無意味であっけない死というのも、
 私は、この48話と49話を観ていた二週間、かなり苛立っていました。制作側が「どんな物語をやりたいのか」は伝わってくる。けれども「どう物語を魅せたいのか」が伝わってこない。キャラクター達の死亡フラグ管理は整然としているけれども、その死に、説得力が伴っていない。そんな説得力不在の物語のきわみに、オルガのあっさり風味な銃撃があったと私は感じました。なんだよ、オルガまでこんなにぞんざいな手つきで殺しちまうのか、と。――シロクマの屑籠
 と、ぞんざいな感じはあるとはいえ、僕は、「立ち止まるんじゃねーぞ」と言い残して倒れるその姿には感動を覚えた。
 いやむしろ、このあっけなさというのは、もっと他のシーンでもあったではないか。ある女性パイロットが、ひと仕事を終え、これから違った人生を歩んでいこうと、恋心を抱いた男性とも今は別れを決意し、でもその人の面影がみえるテディベアを手に取った、その瞬間、あっけなくマフィアの凶弾に倒れる。
 さらにその女性は、モビルスーツに乗っては、才能あふれ強かった。それが、道端で、ふつーの鉄砲で殺されてしまうのだ。主要人物は(敵ですら)モビルスーツに乗ってるときに何らか命を散らすものだと、あまりロボットものを見ないからなのかもしれないが、そんな先入観が自分にあったことを確認したその瞬間に完全に砕け散るという非常に面白い体験だった。


※しかしその仲間たちの中には、突っ走るしかないその危なっかしさについて、一期で参謀役を努めていたビスケットくんとか、二期で妹との生活のために鉄華団を辞める決意をしたタカキくんとか、「おめーら、こんなわけわかんねー戦いに参加するなんて、頭悪すぎだろ!」と戦闘前に出ていったザックくんとか、気づき、行動していた人たちもいた。
 そういった人物も描いているということは、鉄華団全体としては、戻ることができなく、戦うしかできない子供たちという表現だろうと思う。

マッキー

 一点目は、一期から短期間で一気に見たのと、毎週毎週じわじわと見ていったのによっても、感覚が違うところがあるだろうし、鉄華団の面々も、途中で「なんかやべーな」と気づき始めた描写もあったし、何か気づいた時にはもう引き返せなくなってたということで、僕はあまり気にならなかった。

 ただ、二点目の、マッキーの戦略のなさには、確かにもはや「不思議」な感覚すら覚えた。
 まぁそれも、彼の生い立ちとか、「アグニカ」という伝説を頼るしかなかった幼少期のことを思えば、伝説の機体バエルに期待が大きくなっていたということで、仕方がなかったようにも思える。
 しかし確かに、一期目の、あの冷徹沈着、先を見通す戦略性などの印象とは異なり、戦力がどんどん削がれて不利になっていくなか、なんか言い訳じみた感じで鉄華団に、「君たちらしくないな」とか言って戦力をあてにしている様は、あれ、本当にこれ、同じ人だっけ? ぐらいに思わせられた。

 幼妻に背徳を罵られ、ナイフを突き付けられた際のシーンとか、カッコよかったんだけどなぁ……。



 たぶん。
 勝手な感想だけれども、ヒロインの一人、クーデリアもまた、世界を改革したいと考える一人であって、その人も、「革命の乙女」の「物語」を自らの根拠としていた。
 マッキーも、現政治体制(軍事組織)の創立者とされる「アグニカ」の「物語」を根拠としていた。

 両者は似ている。
 しかし、マッキーは、他者を頼ることができなかった。
 自分に恋心を寄せてくれる女性(権力もあり、自身もモビルスーツのパイロット)をも捨て駒にし。
 自分に憧れをもってくれて、良き理解者たりたいと願う幼馴染をも捨て。
 ――ただ絶対的な力だけで世界の改革を望んだ。

 そういう意味では、敵組織の親玉は、戦略性もさることながら、人脈も盤石たるものだった。
 いくら理念が素晴らしいものでも、「こころ」が伴わない暴力では、世界を救うことはできないと、そんなことが表現したかったのではなかろうか。いやー軽い言葉を吐いてるなぁ。まぁ単なる戯言であろう。



追記:某氏の仰るマッキーサードガッカリ事変とは、幼馴染の友との最後の会話ではなかろうか。最後まで信念を貫いて果てるというよりも、多分「憧れ」とか「嫉妬」の感情でしかなかったところがガッカリなのかもしれない。まぁでも、そういうキャラというか、立ち位置だったんだろうなぁと、全体を見てからだと思ってしまうところが少し哀しき哉。

いい作品だった

 いろいろ書いたけれども、なんだか、もっと書きたいと思ったことがあった気がする。
 一気に見ると、その感覚が全体感として薄まってしまう点が問題である。

 とはいえ、「いろいろ思った」ってことは、それは、僕の中の基準では、名作・傑作であったということになる。

 こういった、いろいろ思いを馳せられる作品を次から次へと消費していくというのもいいなぁ。


 いやいや。

 それはきっと、いずれ行き詰りに陥るだろう。

 エンタメと現実を同一視しなけりゃならないとか、そういうことではないけれども。
 エンタメはエンタメ。
 現実は現実。

 仕事は仕事。
 遊びは遊び。

 そんな風に、「人生」という総体を、その時その時で分割して生きてくというやり方。
 フェイスブックとかでアカウントを変えて、そのサークル(集団)ごとに役割(ロール)を変えて適切な「個性」を選択して生きていくってのが、上手い生き方なのかもしれないが、俺はやっぱり、そういった生き方はできない気がしてなない。
(精神的、技術的にはできるし、そうやってうまくやってきた面も多くあるわけであるけれど)

 で、まぁそういうのもいいんじゃないかと思う。「俺はこれはできない」というのは、逃げだったり、老害だったりするわけだけど、でも、「自分」ってのを貫き生きてくのって、やっぱりかっこいいと思う。
 ああ、いや、その、かっこいいかどうかはどうでもいいけれども、僕自身、やはり、憧れあているということなんだろうか。


(さてここで問題です。では「自分」とは何でしょう? ある方のコメントのとおり、自分とは、「変化するもの」であるとも言える。で、あるならば、「自分を貫く」というのは、一体全体本当に可能なことなのだろうか? そうした問いは、本記事ではやめておこう。とにかく、今は、良い作品を見終わった後の、感傷的な気分に浸っていたい。なに浸っちゃってるの? ウケるんだけど(わら)という批判はもっともだけど、いやそうなのだ、浸っていたいのだ。これはとても、贅沢な時間の使い方だよ)

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