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離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「他者からの認知が自己の存在規定である」「孤独な生き方は否定されるべきか」

興味をもつということ

 一言で、万人に、興味をもたせることはできない。
 弁論術という、政治家やリーダーが身に着けると、より多くの大衆をひきつけることのできるテクニックは存在するだろう。
 しかし、すでに、この記事の冒頭によって、もしくは、そもそもタイトルによって、読者の関心度合は変わってくるのである。

 僕らは、誰からも好かれたいとか、単にモテたいという言葉を用いることがあるけれども、しかし、それは話のタネや話題作りにすらならない、譫妄による言に過ぎない。無駄、である。
 せいぜい可能なのは、自分が所属する集団、組織において、その内の幾人かに、価値ある人間であると認識して頂くことに過ぎないのである。


 これは、否定的な、ネガティブな言であろうか?

 私はむしろ、これは福音であるように思えるが、果たして、この世界認識が本当に役に立つかどうかについて、自信をもてない。なぜならば、上に書いたことが反転した論証となるからだ。つまり、万人に役立つ「言葉」など存在しない。

 これは、「ありのままでいいんだよ」とか、「自分を許してあげましょう」とか、自己啓発やセラピー的な表現と同様である。これを、便宜的に「スローライフ」と呼んでみよう。


 逆に、鉄血のオルフェンズの鉄華団の面々の「俺たちは、戻るとこなんてねーんだ。ただ、進み続けるしかねーんだ」という価値観については、「どこまでも価値を増大させていく、その過程そのものの肯定」であって、これを便宜的に「攻める人生」と呼んでみよう。


 その中間でもがき続けるのが一般大衆であるが、本来的に、人生に答えを求めるのであれば、「スローライフ」または「攻める人生」の、どちらかを、意識的にもしくは非選択的に選び取って邁進する必要がある。

オルフェンズ

 話をわき道にそらす。
 ガンダムシリーズ、鉄血のオルフェンズ、第一期を視聴完了した。

 三日月くんとマッキーがかっこよかった。以上。

 ん、感想が特に出てこない。自分にとっていつものことだが、後半は、一気に見てしまう傾向がある故、印象が飛び飛びになってしまいがちだ。

 印象的なシーンは、ネットでも話題になっていたようだが、「正々堂々! 決闘を申し込む! セッティングなどに30分の猶予をやろう!」と高貴な申し出をする敵方に対して、言い終わるや否や奇襲をかけて惨殺する三日月主人公。やー、悪役も真っ青なはじけっぷりである。味方からも、「うわっグロっ」とか言われる始末。

 しかしまぁ、生い立ちとか、直前に戦友を殺されていた状況からも考えて、それほど違和感はなかった。下手な正義感とか建前とかない分、好感やリアリティを感じた。んーまぁ、それを言うてしまうと、戦闘中に、外部スピーカーだか共通周波数でやってるのか分からないが、「おめーはよぅ、人殺しを楽しんでるんだ!」とか言い合いながら殴り合い殺しあうってのが、いまいち僕はよぅ分からん。ロボットものをあまり見ないというか、好んでいないのは、そんなシーンが原因かもしれない。
(そういう意味では、とある投稿サイトにて読める、万物に宿る魔素に対しての意思力=魔力を用いて騎兵をかりだす作品は面白い。最近更新がされない。まだかなぁ。)


 言葉って、それが罵りであっても呪詛であっても、それだけで「コミュニケーション」なのである。「死ねぇぇぇ!」とか言いながら襲い掛かってくる敵役が存在する作品は、どこかそれだけでコミカルな印象を抱いてしまう。(もちろん、そうでもしなければ、物語として描きにくいのは確かであるのだが)

 そういう意味で、凶悪三日月とか評価されたりしているようだが、作品全般的な印象として、ダークさをあまり感じなかった。いやこれは、いい意味で、物語として楽しめた、ということなのであるけれども、何となく、雰囲気が「軽い」ように思ってしまった。ゆえに、主要キャラの一人であり、結構好きだったポッチャリした軍師的立ち位置の団員が戦死してしまったシーンも、何となく、そんなに泣けなかったのである。

 んーなんだ。無意味な批判ばっかしてしまったな。なんというか、面白かったか面白くなかったか、といわれると、面白かったと答える。何せ、投げ出さずちゃんと最後まで見たのだから間違いない。そして、第二期も見てみようと思ったことからも、良い作品だったことは疑いえない。

 しかし、何か足りなかった。

 うーむ。ヒロインが好みじゃなかったからなのかなぁ。しかし、よく考えてみると、どんなヒロインが好みなんだ俺? なんか、結構これについては、好みがここ数年、変わってきている気がしてならないが……最近の作品で考えると、進撃の巨人のミカサとかハンジさんは結構好きである(変な人が好きになったのか?)。
 他は……うーん、昔は、最終兵器彼女のちせちゃんが好きだった気がするが、今はもうそんなん無いなぁ。

 なんの話や。

明るい記事について

 拍手コメにて、明るい話を所望されてから暫く経った。
 また、ある方のコメントにて、「敢えてしないことをする」のも大事なんじゃないかと頂いた。

 よしじゃあやってみよう。

 最近、絶好調である。
 特に、仕事で後輩ができて、色々仕事を教えているが、「先輩! ここ、教えてもらっていいですか?」「さすがですね、よくそれほど深いところまでご存知ですね」「(仕事のスピードが)早いですね……」と、よく慕ってついてきてくれている。正直、やってること自体は、もはや自分においては当たり前のレベルに思い、むしろ、もっと強烈な先輩とかできる人たちを見てきているので、決して自分が優れているなどとは思えない。思えない、のだけれど、それでも、「すごいです!」「教えて頂いてありがとうございます!」とか言われると、悪い気はしない。
(うまくのせられているとか、お世辞に過ぎないだろうとか、僕は瞬時に同時に思うのだけれども、これは、「明るい記事」なので、そんなことは書かない(書いてるじゃねーか))
 上司からも頼りにされている。職制以上に活躍してもらってありがとうと、褒められもして、評定では実際高い評価も頂いた。

 お客さんから厳しいことを言われることもあるけれども、「話が分かりやすい」とか「面倒なことも親身に対応してくれてありがとう」とか感謝もされた。
 とても充実している毎日である。

 帰りが遅いこともあるけれども、ある程度時間のコントロールを自分でもできるので、調整して早く帰ることもできる。帰りには、美味しいお寿司屋さんによったり、お酒を嗜んだりもできる。

 ゴールデンウィークは何の予定もなくて暇だなぁと思っていたら、転勤により中々会えなくなった親しい友人から、会おうというお誘いもいただいた。

 身体も健康そのものである。時折腹痛で悩まされることもあるが、フルーツ食べたりビタミンCを多くとるようにしているからか、身体の調子もよい。筋トレの成果も、思いがけず出ていることも嬉しい。楽しくなって、筋トレメニューを一つ増やしたりもしている。

 とてもとても、充実している毎日である。
 ああ、生きていてよかった。本当に、人生幸せである。

明るいというか自慢じゃね?

 明るい記事……これ、面白いんだろうか?

 こんなの、よく考えると、まったく書いたことなかったので、新鮮ではある。


 というよりも、これは明るいというより、単なる自慢なんじゃなかろうか?
 しかし、明るいのと自慢との違いもよく分からない。そもそも、だれに僕は自慢しようというのだろうか。というか、上のようなことが、自慢なんだろうか? 他者に認められるということ、認知されるということが自慢なんだろうか? 何か「できること」があるということが、自慢なんだろうか?

 じゃあ、自慢と、誇りとは何が違うのか。そんなの、修辞(レトリック)に過ぎないのではないか。実際、受け手(読者)が、どう感じるか――気持ち良ければ「尊敬」とか「誇り」であり、不快であれば「自慢」とうつるだけではなかろうか。

 そもそも、僕は先日の「不安の概念」の記事だって、反転したポジティブ(明るい)記事だと思っている。そもそも、明るいも、暗いも、そんなの、誰が決めるねん。読んだ人っしょや。書き手が、「明るい」も「暗い」も、意識して書くなんて、そりゃどだい難しいことである。それを成し遂げるのであれば、もはやそれは創作のテクニック的な問題になるだろう。

 果たして、オルフェンズは、「ダークな」表現を意図したものだったのだろうか?
 僕は、その点については感じられなかったが、むしろある程度の「軽さ」によって、安心(世界観崩壊が起こらないだろうという期待をもって)してみることができた。


 そういう意味では、少し論理飛躍であるが、結局、僕自身が、明るい暗いと思ったところで、それは他者にとって意味あるものではない。「反転したポジティブ」なんて、そんなこと、ほとんどの人は理解できない――というよりも、理解する必要がそもそもない。対面コミュニケーションにおいては、表裏なく、明るければそれでいい。

どんどんダークになっていく

 よし、今日は、これぐらいで打ち切っておこう。さもなければ、いつものように、段々とダークに偏っていってしまうだろう(かっこわらい)。



 結局さ、物語も、そして人生も、「ポジティブ」なんて求められていないんじゃないか?

 そりゃ、最終的なハッピーエンドは、みんな求めてるわけじゃん?
 でもさ、ハッピーエンドがあるってことは、そのプロセスは、山あり谷あり激しい起伏があるわけじゃん。

 僕があんまり好きじゃない言葉で、「若いうちは苦労しろ」的なのがあんじゃん?
 あれって、結局、苦労した分だけ、成功したときの嬉しさとか達成感とか、その人自身の価値を高めてくれるから、って理由なわけじゃん。

 んじゃーさ。やっぱり、「人は苦しむために生まれてきた」という表現って、正しいってことだよね。もちろん、「苦しみ」ってのも相対概念に過ぎなくて、上の表現も、「人は幸せになるために生まれてきた」と換言することも容易なわけじゃん。

 でもそもそも、その「幸せ」ってのが、対義の「苦しみ」が前提とされているわけだよね。

 だから、幸せな、明るい人生を送りたいって人は、たくさん苦労しなきゃならんわけだ。その分だけ、リターンがあるかもしれんわけだ。それが、「攻める人生」だ。

 でもさ、どこまで攻め続けるの? 死ぬまで? 株価みたいに、ジグザグ(悩み苦しみ、幸せや成果を掴みを繰り返し)しながら、それでも段々上昇していって、そして、死ぬっての?
 OK。それもまた、とっても人間っぽい。かっこいい。そういう人がきっとモテる。きっと、大半、大勢の人の価値観って、そっちの方なんだと思う。

 が。
 なんつーか、俺は、なんかそれ、「変」だと思ってる。

 
 これまで、表立って言ってこなかったけれども、やっぱり、そういう価値観が絶対ってのは、おかしい気がする。

 むしろ、いつまでたっても人は争い続けて、いじめだってなくならないし、傷つけ、傷ついているその理由の一つが、「攻める人生」の人ばっかだからなんじゃあないかと思う。

 いやさ、非常に、書き損じていること、書き洩らしていることが多いことを思って、恥ずかしい思いでいっぱいな状況ではあるんだけれども、それでも、一度、「変」だと思うことは書き残しておこう。

スローライフ推奨ではない

 いやさ、その「攻める」というのが、自己の内面に向かっていくのであればいいよ。自分の成長を第一義に考えるってことだ。今日の俺は、昨日の俺には絶対勝ってやる! という感覚。それは何かかっこいいと思う。「ストイック」という生き方も、僕はかっこいいと思う。
 決して、「スローライフ」といって、頑張らないことを美徳にしたい、とか、そんなことではないのだ。
 ただ、「我」をぶつけあって、それで、「俺たちは後ろには下がれない。戦い続けるしかないんだ」とかいって、自分たちの生きざまがとことん正しいとしてやっていくということに、僕はなんつーか、違和感というか、――いや、むしろ、嫌悪的なのを感じる。

 そういうところに、オルフェンズへの物足りなさがあったんかなぁ。
 三日月くんもカッコいいんだけど、「オルガ(幼馴染・親友)が言うなら、俺はついてくよ」とか、信頼がとても美しく心をうつのだけれども、今この文脈でよく考えると、なんか肯定できんのだよな。


 んー。というような感想をもつことができたということで、反転してオルフェンズは傑作だったといえるだろう。


(やはり是非2期も見てみよう)


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今日の一言「実体のある言葉と修辞的な言葉の違いに注意」「言葉で表現される世界と実感の世界との違いにも注意」

不安の概念

 この記事においては、そもそも、不安(≒焦燥)とは何かを定義し、それに対しての対応策について述べることとする。

 さて、そもそも、不安とは何かということであるが、

「不安とは、原罪の根源である。同時に原罪を解明する方向にも働く」

 と、キルケゴール(1813-1855)さんは、著書『不安の概念』で述べている。

 何のこっちゃ、だろう。それよりも、広辞苑さんの定義を先に参考にしようか。

1「安心のできないこと。気がかりなさま。心配」
2「実存主義哲学の重要概念の一つ。キルケゴールでは実存の持つ本質的矛盾に、ハイデッガーでは根源的無に根差し、両者とも特定の対象への恐怖とは異なる」


 うーむ、1の定義はトートロジー。結局、「安心」ってなんだよ、となる。「心配」という言葉で言い換えたところで、それはレトリック(修辞)的な価値しかなかろう。実体をもった言葉で、一体全体、不安とは何なのか。または、「僕」にとって、不安とは、どういった状態を指すのか。



 僕は、タイトルにもあるように、まずは、不安≒焦燥、として取り扱おうと考えている。そんなこと、広辞苑には書いていない。何故そう思うのか、と問われたところで、その根拠は明確に示すことはできない。この時点で、この記事が身に合わないと思われた方は、そっとブラウザを閉じていただくことになるだろう。

 さてでは、「焦燥」とは何か。感覚的な表現をすれば、「何かに追われて落ち着いていられないこと」である。

「落ち着いていられない」という表現を換言すれば、「不安」となる。そう考えると、不安≒焦燥というのも、納得されるのではなかろうか。

 では、その焦燥という語に秘めたる実感的な意味を少し考えてみれば、それは、「何かに追われていること」というのが際立っている。具体例を挙げてみよう。
(重複した表現のものも敢えてあげていこう。以下の例の後ろに、「に追われている」と加えて成り立つ点に注意)

・計画
・スケジュール
・敵
・はやる気持ち
・希望
・目標
・仕事
・時間


 色々と挙げられるだろう。事例の精査については特に重要ではない。抽象化すると、モノ・コト・ジカンの、どれかに、僕らは追われることになるのだ。

実感の表現

 上の小見出し(節)において、不安と焦燥の、表層的な定義については明らかにできた。

 不安≒焦燥 ⇒ モノ・コト・ジカンに追われて落ち着かないこと

 ということだ。


 次に、その定義を、より、自分自身に引き付けて考える必要がある。そもそも、不安や焦燥は、よいことなのか、悪いことなのか?

 単純に二分した考えをするというのは、時に危険なことであるが、脳科学的なうんちゃらとして、僕らは、入ってきた情報に対して、まずは「レッテル」(役に立つか立たないか・好きか嫌いか)をはりつける。そのうえで、判断などを司る前頭前野に情報が送られ、有用な情報は自己報酬神経群に送られ、長期記憶になりやすくなる。

 なので、より実感を伴った記憶として考えていくには、不安と焦燥という状態について、好きか嫌いかをはっきりさせるべきだ。


 さぁどうだ。不安は、よいことか、わるいことか?

 結論:悪いこと


 この結論について、真剣に反論する人は少ないように思われる。安心できるのと、不安なのと、どっちがいいですか? と聞かれたら、たいていの人は、安心と答えるはずだ。

 何をいまさら。当たり前だろうと思うかもしれない。しかし、実際に不安への対応を検討するためには、何故、その不安が悪いことであると、そうした感覚が生じるのか、その点を考える必要がある。

不安を何故避けようと思うのか

 僕らは、何故、不安を忌避するのだろうか。安心を求めるのだろうか?

 それは、広く考えていけば、「欲求」のためである。
 例えば、上司から、いついつまでに終わらせておけと仕事を命じられたとしよう。その期日が、だんだん迫ってきた。しかし、進捗は芳しくない。こうした状況で、僕らは、不安を感じ始める。

 これは、不安の先に起こるだろう事象について、恐れているのである。

 この事例では、「命じられた仕事をこなすことができないこと」が、発生するだろう事象である。しかし、これだけでは不安は生じない。僕らはこの時同時に、(仕事をこなせないことによる)上司からの叱責や、周囲からの評価の低下について恐れているのである。

 その好ましくない事象が発生する「恐れ」が、不安の原因である。



 ここまで書いてくることによって、不安という概念が、少し変化してきている。
 不安≒焦燥 ←(原因)恐れ

 という図式が発生しているのだ。
 つまり、原因と結果を同一視することが可能であれば、不安≒恐れ とも換言できる。

 そして、その「恐れ」が何故起きるかというと、「欲求」のためである。厳密に書けば、満たされている(現在進行)又は満たされるだろう(未来形)欲求が損なわれる可能性を、僕らは恐れるのである。

恐れの根源への旅

 もう一つ具体的な事例で考えてみよう。

「ああ、明日のプレゼンで、失敗するかもしれない……」

 こんなことを思った人は、「不安を抱えている」と表現して構わないだろう。
 その人が、そのプレゼン資料のため、えっさほいさと仕事を頑張っているのなら、「焦燥感を覚えている」と言っても差し支えないだろう。

 では、先ほどからの不安の定義によって、それは、何か失敗するかもしれない(欲求が損なわれるかもしれない)「恐れ」であるとして、その「恐れ」とは何かを突き詰めていこう。


 おそらく、その恐れとは、「プレゼンの失敗」である。
 では、何故プレゼンを失敗すると怖いのか、恐れなければならないのか。

 失敗すると、上司から怒られるかもしれない、顧客からクレームがくるかもしれない、同僚から迷惑の目でみられるかもしれないからだ。
 そして、給料が下がるかもしれない、いじめにあうかもしれない、解雇になるかもしれないからだ。
 そして、定期収入がなくなり、資産が底をつくかもしれないからだ。
 食事ができなくなるかもしれないからだ、住居が維持できなくなるかもしれないからだ、着るものがなくなるかもしれないからだ、頼る人も誰もいなくなるかもしれないからだ。

 死ぬ、からだ。

不安への対処

 ここまで書いてくると、不安への対処がだんだんとわかってくる。
 その失敗したときの影響、すなわちリスクについて適切に考えるべきだ、ということである。

 つまり、確かに、敷衍していって、遡っていって、積み重ねていって、原因と結果を追求していけば、その不安≒恐れについては、際限なく続いていくことになる。いきつくところは、大凡、簡単に考え付くのは「死」という状態である。

 でも、本当にそうか?

 と、問うてみるとよい。そもそも、「プレゼン失敗」が、一瞬で「死」に直結するということは、ふつう、考え付かない。思考レベルでは考えることができたとしても、「実感」レベルで、そこまで行きつくことはふつうはありえない。

 ここですぐさま、「過労死」とかうつ病とか、通常とは異なる事態や状態を想定することは可能である。しかしそれは、もはや単なる「プレゼン失敗」という事象ではなく、そこに至るまで相当な(負の)積み重ねがされてきている点が問題なのであって、不安という概念で表現できるレベルではないだろう。


 そのため、日常的に僕らが感じる「不安」の対処については、冷静に、落ち着いて、その発生するかもしれない「恐れ」ている事態について、よく想定してみることである。



 ああ、なるほどなぁ、と少しでも思ってくださった方は優しい方である。
 僕はここで、またしても、トートロジーを覚える。そもそも、「冷静に落ち着いて」ということができる状態であれば、「不安」などではないじゃないか、と。

 ここで、「思考の次元」という考え方が必要になってくる。

思考次元

 僕らの思考は、単一のものに向いていると思いきや、実は何層もの次元が生じている場合がある。
 しかもしれは、地層のように、古い地層の上に新しい地層が重なり合っているのではなく、リアルタイムに、流転するように、ある地層面が飛び出してはある面が飛び出してと、目まぐるしく移り変わっている場合がある。

 つまり、「プレゼン失敗」という次元と、それを外的に「冷静に分析する」という次元は、別次元であるがゆえに、矛盾なく、一人の、一つの心の中に二律背反することなく存在可能なのである。


 これについては、アクラシア(わかっちゃいるけどやめられない 又は 悪いことだと分かっていてもやってしまう)という概念の解釈において、少し書いたことがある。
 試験間際になって、勉強しなきゃいけないのに、ゲームとかして遊んでしまう人は、「勉強しなきゃいけない」ことを分からないはずはなかろう。そうではなく、勉強するということもある次元においては正しくあり、同時に、遊びたいという気持ちも、ある次元においては正なのだ。

 なので、葛藤(コンフリクト)というのが問題になるのは、その次元間の闘争である。


 話が少し飛躍するが、僕らの生きる世界は、善悪の価値基準が曖昧になったり、そもそも見えにくくなってきている。理由は、グローバル化とか、価値多様化とか、使い古されて胡散臭い言葉でしか今は説明できないが、例えば、「男性同士で結婚するのはおかしい、駄目だ」というのが、今では、そんな生き方があってもいいんじゃあないかと思う人も少なくなかろう。結婚して男児をもうけなければ男ではない、とか、そんなこと今の若者は言われないだろう。

 それがゆえに、次元間のぶつかり(葛藤)が生じる可能性が大きくなっているのだ。

漠然とした不安

 今日は、この辺で締めくくろうと思うが、最後に、話をもう一度「不安」に戻そう。

 ここまで、
1.不安の概念については、モノ・コト・ジカンに追われていることであると定義し、
2.その具体例を考える中で、
3.その不安の根源(=恐れていたこと)が何かを明確に見つけていくという対処をすることで、
4.不安の現実的な実現範囲(影響)を分析し、
5.その分析結果を実感を伴わせること

 によって、不安を対処しよう、と述べた。


 しかし、昨今僕らが心配し、恐れ、困っているのは、むしろ、原因のよく分からないような「漠然とした不安」ではなかろうか。

 それを、ヴィクトール・エミール・フランクルさんは、「実存的空虚感」なんて言ったりするけれども、単純に原因を辿っていけないような不安について、僕らは、どうやって対処していったらいいのだろうか。


 それは、「原罪」から来る不安なのではなかろうか。
 キルケゴールさんは、アダムの原罪が、アダムその個人のもの、または人類とは切り離された神聖な(特別な)ものなどではなく、僕ら人類一人ひとりにとって関係する、実存的なものであるということについて、前出書にて結構な紙面を割いて説明しているのであるが、キリスト教の教義学に興味がない人にとっては、残念ながらあまり意味のある説明ではない。

 ただし、ポイントとして抑えておくべきところは、「実存」すなわち、僕らが存在しているそのこと自体について、「不安」という概念が発生する可能性がある、という示唆である。


 広辞苑の定義では、

2「実存主義哲学の重要概念の一つ。キルケゴールでは実存の持つ本質的矛盾に、ハイデッガーでは根源的無に根差し、両者とも特定の対象への恐怖とは異なる」

 とあり、実存主義哲学においては、(不安とは)特定の対象への恐怖とは異なる、ということである。
 僕が上で挙げた「プレゼンの失敗」は、「特定の対象への恐怖」の事例である。
 それについては、葛藤(コンフリクト)が生じやすく、対策が難しくなってきてはいるとはいえ、具体的な「恐怖の対象」の分析(影響範囲の確認と、それの実感化)によって対応が可能だろう。


 ゆえに、僕が、本来的に解決しなければならないのは、――ならないと感じているのは、2の「実存的不安」であるといえる。それについての解決策や対処については、今後……いや、これまでも、これからも、考えていくことにしたい。


(んー。この記事、誰かの役に立つんだろうか。というか、伝わるんだろうか? 可能な限り分かりやすく単純に書いてみたのだけれども、上手くいってるんだろうか。こういうときは、明日の自分さんに聞いてみることとしよう)

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今日の一言「頭痛がするときはチョコレート」「長時間同じことをするのは堪えるね」

長期休みの予定

 よし、何もしないことをしよう。

 この結論を書こうと思って、前回の記事のようになった。頭のおかしな人間である。

 もう少し、掘り下げてみると、「理想の生活をしよう」ということになる。

 理想、とか、また抽象的な言葉が出てきやがった。本当に大丈夫か? この記事は、ちゃんと解決、成果に結びつくのか? そんな疑問を同時に抱きながら書き進めていこう。

随筆とエッセイの違い

「書き進めていこう」(キリッ)とか書いておいて、いきなり脱線する。
 あるエッセイストを取り上げたこちらのブログ記事が面白かった。随筆とエッセイについて、端的に区分けすれば、随筆が少し文学よりで、エッセイはより洒落乙なのだそうだ。

 なるほど、じゃあ、僕のブログは分類としてエッセイなんだな、とか思ったら、「エッセイって、気取らない文体がゆえに、エッセイストは面白くするために頭をかきむしって本気で悩んでいるのである。それでいて、読む人に体力を使わせない」とか書かれていて、うわぁ、そりゃそうだよなと思った。

 僕は基本的に、このブログにおいて書く際には、あまり考えていない。考えて紡ぎだした言葉は、それはそれで重要だけれども、それはどこか、「実感」から離れてしまっているように思える場合があるからだ。
 考え抜いて、「ああ、この言葉こそ僕を本当に示す表現なのだ!」というのに辿り着くこともあるだろうが、しかし、僕は同時に、厳密な言葉というものにも、信頼性をおけていない。

 といったことについて、こちらのブログ記事が面白かった。――哲学の科学「人間はなぜ哲学をするのか」
 上の方の記事のいくつかを読んだけれども、面白い。僕が言いたいこととか、考えていたこととか、表現したかったことの大半が含まれているんじゃなかろうか。だからといって、じゃあ、僕として表現することが完全に無意味かというと、そうではない。そうではないんだけれども、やっぱり、無力感を思ったりはする。

理想の生活について

 さて、2017年。
 長期休み……といっても、5連休であるが、ゴールデンウィークが迫ってきた。これはとても喜ばしいことである。わーい。
 しかし、特に予定がない。
 予定とは何か。仕事をしたり、旅をしたり、友人と遊んだり、趣味にいそしんだり、その他何かすることである。
 そういった予定が、何もない。

 僕はこれまで、「暇だ」という言葉を使ったことがなかった(少し大げさな書き方である)。
 独りで過ごすのも嫌いじゃあなかったし、何かしらすることがあった。実際、特に予定などなくても、時間はあっという間に過ぎていった。暇だ、なんて言葉を発する時間などなかった。

 しかし、たぶん、今度の休みは、とっても「暇」な気がする。仕事の予定もない。

 とはいえ、まぁ、無理やりでも予定をいれたら、簡単に時間を消費することは可能だろう。
 学生時代の夏休みのようである。

 しかし。なんといっても、「今が一番若いし、充実している」のである。

 だから、無為に過ごすのは、本当にもったいない。何かしなければ、何か充実させなければと、強く思う。


旅行とかイベントが重要なのか?

 しかし。ふと思う。
 何か人に語れるような何かが必要なのだろうか? 僕は今日目が覚めて思った。うん、そうだ、何もしないことだって、大事なんだ。

 問題は、何もしないとちゃんと自分で決めたことなのかどうか、である。

 ただ単に、漫然と時間を使ってしまったのであれば、後悔に他ならなかろう。


 GWとか、長期休みとなると、海外旅行とか、キャンプとか、何だかそんなアクティブなことをしなきゃならんとか、そんな風潮がある(気がする)。
 それはそれでいい。長い休みじゃあないとできないことってのはあるだろう。

 でも、それが、本当に自分がやりたいことなのか、否か。

 僕は思った。大事なのは、「いま、自分が一番やりたいことをやろう」ということだ。


 それって何か、を考えたとき、「理想の生活をする」という言葉が浮かんだ。


 いい音楽を聴く。いい作品に出会う。物語をかく。思考をめぐらす。筋トレする。坐禅する。ランニングする。朝起きて夜眠る。おいしいものを食べる。

 いい感じに引きこもりであるが、とても楽しそうである。


 これは、誰かに語れるような過ごし方ではないだろうが、しかし、老後を考える上でも重要に思える。

 仕事が定年を迎え、年金生活になったとき、どんな風に生活するのが楽しいだろうか。
 僕はその時も、ブログを書いているのだろうか。音楽を聴くことができているだろうか。小説を書くことができているだろうか。ランニングできているだろうか。思考するだけの知性が残っている(ボケていない)だろうか。

 その場に、伴侶とか友人といった存在を想定できていないところに、僕の頭がおかしい理由や根拠を求められそうであるが、それはまた別のお話である(ただ、このことも非常に重要な問題の一つである)。

何もしないためにすること

 さて、これにて、5連休は何もしないことに決定したわけであるが、これは、龍樹の四句否定ではないが、「何もしないために何かする必要がある」。

 矛盾するように聞こえるけれども、何もしないための目標が必要になる。

 ということで、一つ、小説を読もうと思う。もしこの記事を読んでくださった方がいたら、ぜひ、コメント欄等でおすすめの作品を教えていただきたい。(というかむしろ、どういった過ごし方をするのか参考に教えていただきたい)

 もう一つ、一般書を読もうと思う。そして、概念記憶を一つ増やそうと思う。

 もう一つ、音楽を一つ創ろうと思う。

 もう一つ、小説を一つ書きすすめようと思う。

 もう一つ、7時に起きて、23時前に寝ようと思う。

 もう一つ、料理をしようと思う。そして、一日三食食事をしようと思う。フルーツを食べようと思う。外食に出向こうと思う。

 もう一つ、買い物をしようと思う。鞄と靴が欲しい。漢字が似ている。

 もう一つ、坐禅を一日15分以上しようと思う。

 もう一つ、ルーチンを続けようと思う。

 もう一つ、ピアノで弾ける曲を増やそうと思う。

 もう一つ、日本株で購入したい銘柄を調べようと思う。

 もう一つ、ブログを書こうと思う。

 もう一つ、カラオケに行こうと思う。

 もう一つ、ボウリングに行こうと思う。

 もう一つ、……いやいや、まてまて、なんかいろいろやってんじゃねーか!

 そして、全部ひとりで可能なことであるという(かっこわらい)。

やりたいこと

 なんだろう。何故か、何かやりたいことを考えると、「誰かと一緒に」という発想がでてこない。
 何でだろう。
 学生時代は、なんやかんや、友人に誘われたりして遊びに行っていた。
 恋人がいた時代は、一緒に過ごしていた。
 会社の先輩たちから誘われて旅行にいったりしていた。

 でも、よくよく考えると、俺、自分から誰かを誘ったことって、あったろうか……。
 主体的に、俺が、誰かと一緒に何かしたいって思ったことって、あったんだろうか。
(完全に蛇足だけど、モテる人って、イケメンなのも一つの要素だけれど、「誰かと一緒に何かする」ことが上手い人なんじゃあないかと思ったりした)



 なんだ、ほんと、独身の人って、ふつう何して過ごしているんだろう。
 こうして、「特になんもすっことねぇなぁ」って人が、寂しさを覚えて、婚活とか友人誘ったりするんだろうが、どうも、あんまりそんな気が起きないんだよな。これは、僻みとか、単にチャレンジに臆病なだけとも解釈できるけれども、今の自分の中ではそんなに悲壮感がない。というより、なんだか、これ、むちゃくちゃ幸せなんじゃなかろうか。

 仕事から解放され、自由に使える時間と、お金がある。これほど恵まれたことはないのではなかろうか。

 次のゴールデンウィークが、僕の人生で、もっとも幸せな時間なんじゃあなかろうか。

(とか書いていると、マジで死亡フラグみたいで笑える、いや笑ってる場合じゃない!)

やるべきでないこと

 逆に、やるべきでないことも書いておこう。まずすぐさま浮かぶのは、

・ネットサーフィン

 である。まとめ系のサイトとかニコニコ動画とかって、ついついリンクたどってみてしまう。けれども、たいてい、何も残らない。刹那な感情の起伏のみだ。現に、今週も2~3時間費やしたような気がするが、まったく何をみたのかすら覚えていない。
(世界の奇人変人のニコ動は面白かった)

 パソコンを起動することや、ネット検索をすることは避けられないだろうが、余計サイトは一切みないことは徹底しよう。

・惰眠

 これは、致し方ない場合がある。創作活動とか、作業をしていると、どうしても、頭痛というか、眠気が襲ってくる場合がある。朝も活動にうつるまで、時間がかかる場合がある。
 これを防ぐには、強靭な意思力が必要だが、事前に、作業計画をインプットしておく必要がある。あとは、効率的に限定的な昼寝を組み入れるなど、対策が必要だろう。

・漫画

 漫画自体は駄目じゃあないんだけれど、これ、いつでも(精神力がないときでも、体力がないときでも、時間がないときでも)見れるので、敢えてやる必要がない。(そういや、先週は、ワンパンマンのリメイクがWEBで読めてしまって、ついつい最新話まで読んで夜更かししてしまった。)
 これは、それほど、やらないことにパワーは必要ないけれども、事前に取り決めしておかないと、気づいたら読みふけっていたという事態に陥ることは目に見えている。

・ゲーム

 これもダメじゃあないけれど、時間を決めてやろう。具合悪くなって、面白くはなくなったんだけれども、何となくやめられない状態に陥るのが、このゲームというジャンルはよくある。


 って。こうやって書いていると、小学生の夏休みの目標みたいだぞ! おい、いいのかこれで30代ッ!!


(もうちょっと休みが近くなってきたら、やること・やらないことをまとめて、紙に書き出しておこう)

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今日の一言「なんだか久々な気がする」「過去の記事を読むと最近のことのようだ」

敢えて何もしない日をつくる

 何かを求めて、何かをしなければと焦燥にかられる毎日である。休日であっても、何かを充実させなければならないという強迫観念が生じる。やめよう。

 自由とは何か、責任とは何か。お金を稼ぐとは何か、生きるとは何か。そういった問いはわきに置いておこう。完全に捨て去るのではない、ちょっとばかり、保留にするのである。



 最近ふと思うのだけれども、「冒頭」が大事だと思う。面白い物語というのは、これからどういった展開がまっているのか、最初に期待させてくれるものだ。もちろん、優れた作者・創作者の作品は、序盤がふつーでも、これまでの経験から後半にきっと楽しませてくれるだろうという信仰があるがゆえに、読み進めることができる。(しかし、村上春樹さんの1Q84は、50ページぐらいで投げ出した。前編後編まとめて新品で買ったのに、そのまま中古本屋いきとなった珍しいパターンだ。その後、レビューとかあらすじとか紹介しているのを見ると、後半は結構面白そうな気もしたけれども、また買って読もうとは思えない)

 本当に心の底までしみ込んでくるような作品というのは、小説媒体が多いと思う。しかし、小説というのは、頭を使うし、その、「読む」という行為を行うだけの環境整備が必要になる。ページをめくる腕や指は、その読むという作業に特化する必要がある。簡単な言葉で表現するなら、小説媒体はコストがかかるのだ。
 一方で、映像作品(映画・アニメ)は、食事中でも見ることができる。視聴コストが低いのである。(漫画は、その中間か)

オルフェンズ

 ガンダムシリーズは、初代の総集編映画を見てから、二作目となるが、鉄血のオルフェンズをみている。これは、あるエンターテイナーが面白いレビューというか感想を書かれているから興味をもったわけであるが、多分、そうした紹介を目にしなければ、一生見ることはなかったように思える。多分、対面コミュニケーションで、友人から薦められても、食指が動かなかったろうと思う。
 実際、序盤、1話~5話? あたりは、そんなに引き込まれてはいなかった。ただ、中盤以降に描かれるという主人公のダークさ、「ま、いっか、こいつは殺してもいい奴だから」という台詞のシーン(※)みたさに、流しで見ていった。
 そうこうしているうちに、だんだん引き込まれていった。主人公の一団が、テイワーズというマフィア的な企業と提携することになり、義兄弟の契りを結ぶシーンとか、楽しかった。
 現在、オープニングテーマが変わる話数まで視聴完了したが、一期については、最後までみようという意思が強くなっている。


※噂で聞くのと、実際に自分で見るのとは、やはり印象が異なっている。まさか、こんなにもさらっと描かれる(OP前の)シーンだったとは。前知識なく自分一人で観ていたら、気にもとめないシーンだったかもしれない。けれども確かに、主人公の葛藤を描く重要なシーンの一つであることは疑い得ない。
 それ以外にも、ヒロインの唇をあまり深く考えず奪ったあたりで手が震えていたり、農園をひらきたいと夢を語るところとか、文字の勉強をするところとか、幼馴染のオルガくんと、同じ「我」という文字があるところにちょっと嬉しそうにしたりとか、子どもらしい可愛いところがある。それと反して、敵は容赦なく殺しちゃうところが、こうして思い返すと、ダーク系主人公としていい感じだなぁ。
 しかし、序盤、あまりのめり込めなかった理由は、ヒロインの二人に魅力が感じられなかったところだ。なんだろう、10年前ぐらいだったら、ときめいていた気もするが……。話しが段々それていくが、マクロスFの二人のヒロインも、どちらにも魅力が殆ど感じられなかったので、途中でほおりだしてしまった。
 うーむ、そういう意味だと、オルフェンズも、誰か応援したいような、強い感情移入というか、憧れ的なキャラクターはいないなぁ。強いてあげれば、タービンズの名瀬さんとか、ギャラルホルンという軍事組織の尉官であったクランクさんはかっこよかった。超序盤で某少年兵に惨殺され物語の舞台から退場してしまうが……。
 そういえば、初代ガンダムの、ランバ・ラル大尉もかっこよかった。逆に、それ以外、あまり魅力的なキャラクターがいなかった気がする。ガンダムシリーズって、群像劇(小説で言えば、第三者視点)なわけなので、魅力的なキャラクターが仰山いるか、ストーリーが目まぐるしく面白いかしないと、継続してみようという気になれないのである(※※)。

※※とか、熱烈なファンが多いガンダムシリーズについて批判的なことを書くと、ファンの方々から石を投げられるだろう。しかしこれは単に、今現在、自分にとっては合わない、というレベルに過ぎず、大した問題ではない。僕はエヴァとか攻殻が好きだけれども、それを面白くないという人もいるわけだ。僕も、そういう人には、面白い点を是非知ってもらいたいと思って色々話したくなってしまうだろうけれども、合わないもんはしょうがない。それこそ多様性だ、価値観だ。

最近みた作品

・外見至上主義
・鉄血のオルフェンズ
・攻殻機動隊実写版(ゴーストインザシェル)
・映画リセット

 殴り書きしたメモが残っていなかったら、「リセット」とか、見たことすら忘れていた。
 
 この映画は、不完全燃焼だった。なるほど、アマゾンレビューにあるように、キリスト教の原罪と天地創造(ノアの大洪水後の再生のような)をテーマにしているようなことは、神への冒涜を口走るごとに危険が発生するような描写から感じ取ることができた。
 しかし、この記事の冒頭で書いたように、その「冒頭」において、そもそも、これが何を描いた作品なのかが、全く分からず、非常に退屈だったといえる。結局、「闇」とは何だったのかも明確に明かされることもない。深い意味はともかく、ドンパチアクションで楽しませる作品もあるけれども、取りあえず人がどんどん闇に飲み込まれていくというパニックが描写されるだけで、よく分からない。

 ああ、その、よく分からなさでいくと、もう一つ思い出した。

・映画フィギュアなあなた

 18禁作品だが、ふとアマゾンプライムであったので見てみた。女の人の裸体をみることが目的であればよかろうが、これもストーリーがひどかった。
 序盤の、主人公が会社において、損失を出した失敗を上司から一人に押し付けられて、左遷させられるシーンとか、まぁ掴みとしてはいいと思う。主人公の怒りというか、苛立ちというか、憎しみというか、哀しみというか、自暴自棄になっていく様がよく表現されていたように思う。しかし、肝心な、等身大フィギュアを拾った後のストーリーがどうにもこうにも冗長で、早送りなしには見ることができなかった。


 この残念さ加減。これが、小説媒体で、無理して最後まで読み続けて、結局やっぱり駄目だった、となると、もうこの時間を無駄にした感じが多大なものになる。だらだらと、昼まで寝てしまったときの方が、まだマシに思えてしまうから不思議である。

ルーチン(筋トレと音読)

 この記事の右にあるブログパーツ、カウントアップを観れば、180日を超えている。半年を継続することができたということである。これは結構頑張ったといえるだろう。
 音読、の成果は分からないが、筋トレは、正直、大したことをやっていないのだけれども、身体の見た目に分かる程効果はあった。始める前に写真とっておけばよかったけれども、僧帽筋、上腕二頭筋が太くなり、腹筋のしわが深くなった。
筋肉の名称

 正しい筋トレの仕方とか、健康器具とか、健康サプリとか、まぁ色々あるけれども、とにかく、継続することができなければ、成果には結びつかない。だからこそ、「何を」継続するかについて、非常に重要なのである。だから、目標とか、目的をしっかりもちなさいと、僕はいつも自分に言っている、のであるが、残念ながら迷走中である。

ゴールデンウィークと夏休みの予定(を立てたかった)

 さて。
 ようやく、ここから、書こうと思ったことに取り掛かれる。

 ……のだけれども、どうにも長くなってしまったのでいったん打ち切ろう。

 後編へ続く、的な。この記事は、最近みた作品についてのコメントのみで終わってしまったようだ。一つ、書いておくべきは、作品への批判が目的ではないということだ。あくまでも、「自分はこう思った」ということへのメモである。


 聖書くらいしか物語がなかった中世以前とは異なり、今や、小説、映画、漫画、ドラマ、演劇、落語、オペラ、数々の物語と、その表現技法に溢れているのが現代である。

 どんなに頭が良くて、時間の使い方が上手い人でも、そのすべてに触れることは不可能である。
 であるからにして、自分はどういった作品を求めているのか、これまでどういったものを観たとき、どういった感覚を抱いたのか、それを表現しておくことは、非常に重要なのである。


 ということを書いてみて、もう一つ、最近取りあげようと思ったものを思い出した。

読者と作者のための地雷作品回避法三種
――限界まで耐える、途中で打ち切る、読まずに避ける

 地雷作品の回避、と銘打っているが、実際は、面白い作品に効率的に出会う方法とも読み替えることが可能だろう。
 僕も、無意識的に、ここで挙げられている三種の方法を実践していたわけだけれども、こうして、理論的というか、緻密に表現されているのを読んで、直観的に「長い!」と思ったけれども、それ以上に唯々すごいなぁと思った。

 僕の記事も長さでは時おり負けてはいないと思うけれども、話しがあっちらこっちら飛んでいったり、理論的ではなく感覚的に「こう思う」と断じてしまっていたりと、似ても似つかない構成である。
 上のブログの方は、頭が良くて実直な方なんだなぁと思う。

 こういう方の記事を読んでいると、いやぁ俺ってダメな奴だなぁと思ってしまうのだけれども、まぁ僕のように、こんなテキトーに記事を書くというのも、時おり面白かったり、大事だったりするんだよ、ということを、どこかの誰かにちょっとでも伝えられたらいいなぁと、そんな淡い期待を抱きつつ。


(続く)

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「初めまして、ご主人様。ええと、何と御呼びしたらよろしいでしょうか?」

 そんなことを考えながら、しばらく向き合って目を合わせると、そいつは、明るくあどけない声でそう話しかけてきた。
 それはいわゆる、ロボットの合成音声のようなものではなく、流暢に話す10代の少女のものだった。
 だが――。
 そのとき僕に、何故だか理由は分からないけれども、言葉に表せない不快感が生じた。

「え……なんだよ。そんなの、最初に登録してあるんじゃないの」

 次の瞬間には、つっけんどんに言ってしまっていた。 
 向こうから話しかけてくるとは思っておらず、驚いたのもあったのかもしれない。
 しかし、この感覚は、どちらかというと、怖さに似たような感覚だった。
 デフォルメされたヒト型は愛くるしいが、それをリアルに近づけるにつれ、ある段階で奇妙さが生まれるとは聞く。――とはいえ、目の前にいるのは、どう見ても艶やかで美しい銀髪の少女。それがどうして、こんな不安にも似た怖さを生じさせたのか、僕自身分からなかった。

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