今日の一言「謹賀新年」
1か月1つという目標は、無理やり達成。全く意識してなかったし、全く書いてない月もあったけれども。
昨日は、隣人が友人を招いたのか、深夜どんちゃん騒ぎしててよく眠れなかった。
まぁ、新年だし、今日ぐらいは許そうかという少し寛大な心になれた。
昔だったら壁ドンとか管理会社に苦情してたりしてたかもしれない。まぁでも、毎日続くようなら流石に苦情言うけどね。
面白かったなー。
男と女って、女の方が原型だって話をされてて、確かに! って思った。
男って、「生き甲斐」とか「自己犠牲」が遺伝子に刷り込まれてて、女が生きやすいように戦争とかするための決戦兵器ということだ。
他種族を滅ぼすために作られた存在ということ。
女は健気に家庭を守っている……という体裁にありながら、まぁでもよく考えたら、危険な戦いや狩りに行く男の方が死にやすいよね。生物的な価値を、「生存」とおくのであれば、男の方が不合理な役割を課せられている。
一方で、男は男で、それを「男らしい」というか、価値だと思っていて、か弱い女性を守ることを逆に生きがいとか、幸せに感じる、と。
上に書いたことは完全な引用じゃないから、主旨を誤解しているかもしれないが、少なくても、1.5~2倍速で見てたらそんな感じでは理解した。30分の動画も15分で見れるから動画ってほんといいと思う。
曲とかじゃないと、人の会話って、1.5~2倍で聞けるんだよなぁ。
別に、自分の頭の回転が速いとか言いたいわけじゃなくて、たいていみんなそうだと思う。ただ、これも岡田氏が別の動画とかで言ってたと思うのだけど、頭の回転のギアを落とした方が、「トルクが強い」コミュニケーションがとれるということだ。トルクがあるというのは、動かす力が強いということ。回転数をあげると速度は速くなるが、トルクは弱まる。高速な思考というのがもてはやされるけれども、ゆっくりで、でも、相手の気持ちを汲むのも大事というのが、「サイコパスおじさん」とか自分で言っておいて、んー、なるほど、人の気持ちもちゃんと「理解」はできる人なんだなぁと思わされる。頭のイイひとだなぁとは思った。
いやもちろん、体育会系でも良い人いっぱいいるし、そういう友達もいたけどね。
でも、やっぱり理屈っぽいひと、の方が好きだと思う。
かといって、ボクが理屈っぽいかというとそうではなくて。だいぶ感情よりだとは思う。
というかなんか思うに、「男らしさ」「女らしさ」でいうと、ボクは女性に近いと思うんだよな。
いや、気持ち悪いこと言ってるのは分かっている(かっこわらい)。
数年前から、もう、このブログに置いてあまり書けないことがなくなったが、さすがに気持ち悪いと思って書いてこなかったけれども、まぁ割と前から思っていた。
俺は、男っぽくはない。
そんな風な状況で、上の岡田氏の動画において男って決戦兵器なんだよな、という説明がしっくりきた。
つまり、男という生き方は不合理であるということだ。生物的にはね、という。
別に、男に生まれたから不幸せとか、自己犠牲しなきゃいけないとかじゃないし、ただ、そういう傾向があるという知識というか、考え方は面白いと思うよ。
あ、というか、この小見出しって、岡田氏のこと嫌いな人もいるんだろうな、ということを書きたかった。
なんか、ネットやってると、「批判」ってのがすごく目立つ。
本とか読んで、「おーすごい」って思ったことも、ネットで調べるとたくさん反論あったりして。
んで、その反論もなんか「わかる」って思ったりすると、何信じていいの? って気持ちになって、何かやる気が落ちるという現象、なんか分かる人いないかしら。
イイ女(男)がいて、それを自分も買えると思うから訳が分からなくなる。もちろん、円としてのお金で買えるものではないのは誰もが分かってると思うが、「自分磨き」とか、容姿とか先天的なものも含めて、自分の能力をあげることによって、イイ女(男)をゲットできると、そういうことを考える人はわりといると思う。
でもそうじゃなくて、恋愛とか結婚は、お互いに関係を創作するものだとしたら、これは非常に難儀なことである。
誰にでもできることじゃない。
あと、大正時代とかは、お手伝いさんとか含めて15人ぐらい一人男が働いて「家族」を養ってたけど、サザエさんの時代は2人男が働いて、5人ぐらい養うになって、クレヨンしんちゃんでは2人になる、と。
これって段々貧しくなってるともいえるよね、というのも面白かった。確かに。
とはいえ、こういうのも反論あるものなんだろうか。ボクは普通に面白いって思ったけどなぁ。
ということで、何を言っても考えても、批判があることを考えたり思ったりして、何も言わないのが正しい、みたいになるのは、やっぱりつまらないと思う。
ボクもだいぶ丸くなって、自分のことを唯一無二の存在とは全く思わなくなった。
いや、そもそも自信のない人間だったから、昔からそんなこと思ってたわけじゃないのは書いておきたい(かっこわらい)。
ただ、「唯一無二の存在にならなければならない」ということは思っていたと思う。
例えば、思考の独自性とか。
でも、独自性とか無理だよ。どうにも、周りにあんまり物理環境では、思考レベルで一致する人っていなかったんだけど、でも、広いネットとかでは、共感する人とかもたくさんいると分かった。
その「たくさん」が、統計的なたくさんなのかは分からないけど。やっぱり少数なのかもしれないけど、それはもうあまり気にならなくなった。
要するに、自分は別に特別じゃない、ということだ。
世界が本来秩序立っているというのであれば、その秩序に従えばよい。
いやあるいみ、共産主義国家は、秩序がしっかりしていて、「成功」なのかもしれない。
某国ですみたいとは全く思わないけど、そこはそこで、ある程度衣食住が保障されている国であれば、共産主義自体は悪いことではないかもしれない。
何故なら、大半の人は平凡だからだ。
でも生き方というのが、国家に決められるというのは、やっぱりおかしいと思う。
ただそれは、「国家」だからおかしいと思うのであって、「神」とか、「人工知能」だとかだったら話が違うと思う。
(まってね、今書いてるのは、「秩序がある」という前提での仮定の話だからね。この挿入しとかないと、自分でも後から読んで誤解しそう)
完全に正しい導きがあるなら、むしろそれに従うべきだと思う。
その方が相対的に幸せなのだろうから。相対、総体、どちらも。
でもそうじゃない、世界は、カオス、混沌である。
だから、国家なんてましてや正しい選択をできるわけがないし、人工知能だってそれは同じである。
ただ、人工知能の優れたところは、「正しそう」という推論を、ある程度の確度でできることだと思う。
あと、納得感が違うと思う。
これは感情面だけど、「偉い人に決められたこと」よりも、無生物の例えば法律とか、そういう感情などがないものの決定の方が人は従いやすいと思う。体育会系は別だろう。差別的ないい方をあえてしてるのであって、本当にそう思ってるわけじゃないが、「合理性」を優先する人間であればあるほどに、「ただしらしさ」には盲目的に従ってしまうと思う。
恋愛する、結婚する、そういった選択も含めて、人それぞれの正解がある。
その正解というのは、大事なことは、「環境」要素も大事だということだ。
自分という存在が確固した、不動の要素であるならば、答えもあるだろう。
しかし、自分自身も変わるし、環境も変わる。
どっちなんだろうね? 変わるのは、自分なのか、環境なのか。卵鶏論みたいな感じになるが、興味深いと思う。
自分が変わるから環境が変わるのか、環境が変わるから自分が変わるのか。両方だろう。
だから、「考えること」は、他人任せにはできないのだ。
いくら考えても、死ぬときは死ぬ。
それが早いか遅いかだけだ。
寿命が知れたとして、病気とかじゃない限り、知りたくはないと、思う。
健康なうちはね。
毎日痛みで苦痛で、という状況なら、いつ終わるのか早く知りたいと思うかもしれない。
そう、最近思うこととしては、やっぱり「健康」が一番だと思うのである。
死にたい死にたいって思ってた10代ぐらいとは違って、最近は生きていてもいいかな、っていうのが基盤になっている。
これは大きな変化だと自分では思っている。
生きることが前提としたときと、死んでもいいと思っている時の思考って別物だと思う。
だから、10代のころの自分の書いていることと、今とを比較したときに、「言葉」として同じことを書いていたとしても、その意味していることが同じとは思わない方がいい。
しょせん、言葉は、現実を思考のために都合よく切り取っているだけである。
言い方をどうしても、辛辣に書いてしまうのがボクの文章の癖だなぁ(かっこわらい)。でもその方が後から読んで面白いから、仕方ない。
いや、都合よく切り取れるって、そんな否定的に書いたけど、これってすごい発明だとボクは思っている。ただ、このことを書かないと伝わらない。だから言葉って難しい。
逆に、他人に理解してもらおうとあまり思わなくなったのも良い方向だ。30%でも伝わったらもう、それは嬉しいぐらい。
弱いもの(女)を守って死ぬことが男として最高の生き方であり、女はすごく泣いて感謝してくれる。いや、当人の男が死んだら、別に泣いても意味ないじゃん、って思うじゃない?
でも違うと思うんだよな。女が、男を慕ってめちゃくちゃ泣いてたりするのを、周りの(まだ生きてる)男が見るわけじゃないか。
そうすると、よし、俺も大事な人を守って死のう! って思うわけじゃない(笑)。
でも、だんだんバレてきちゃってるのが現代。
いやもちろん、旦那さんを思って本気で哀しむ人もいるけど、あーやっと死んだわ、年金暮らし気ままにできてハッピーって女の人もいるじゃない。
そういうのがバレてきてしまった。
いや別に、再婚しないで、ずっと喪に服して、とかいいたいのじゃないほんとに。物語としても、「俺のこと忘れて、幸せになれよ」っていうのが「感動的」じゃないですか。
あの、挿入しておくが、ボクもそういうのに「感動」するんだからね(笑)。
だから、否定してるのじゃなくて、自分の感情的にも「かっこいい」ことではあることを認めたうえで、でもそれ(死ぬこと)って非合理だよね、ということである。
だから、死ねと言ったり生きろと言ったり、このあたりも、実は結論が出てない部分だと思う。
命が何より大事、といいつつ、安楽死の方がいいんじゃないとかいうのもある。
役に立たない年寄りは早く死んだ方がいいってのもある。(まってね、俺がそう思ってるとかじゃないからね。この文章だけ強くプロンプト処理されたAIが変に要約しそうである(笑))
いや、年よりは死ねなんて、誰もいってないじゃん、って思うじゃない? そんな直接的なことを言う人はいないけど、高齢者の医療費負担を下げた方がいいとかいう議論はあるわけである。
それが死に直結してないから別ジャンとかあると思うけど、でも、長く生きた方が良いというのが至上価値だとしたら、そんな議論ないわけ。
まぁ、資源(医療とかお金とか)が有限だというのが前提にあるわけだけど。
要するに、政治は資源の配分なのである。どこまでの資源を政治にまかせるかというのは国家によって違う。
思考の散逸性である。
まぁだから、ボクはやっぱりこうやって書いてないと時折ものすごい「不安」になるんだよな。
思考がまとまらなすぎるのである。
どんどん派生していっちゃう。
だから、会話している相手への興味もすぐなくなっちゃったりする……ひどすぎる、サイコパスである。
でも物語に感動するとか、人への共感力は、むしろ高い方だと思うんだよなぁ。女性の中だと普通かもしれないけど、男の中だと高い方だと思う、なんとなく。HSPよりみたいな。
って話も本筋からそれている。
そうじゃなくて、何故死ぬのに、ちゃんと生きようとしなきゃいけないのか、ということが考える目的だった。
でも、1時間ぐらい書いてきて、おしまいである。1時間書くと、だいたい飽きてきちゃうのである。だから時間勝負なのだ。
まえがき
昨年の記事の数を数えたら、ちょうど12個だった。1か月1つという目標は、無理やり達成。全く意識してなかったし、全く書いてない月もあったけれども。
昨日は、隣人が友人を招いたのか、深夜どんちゃん騒ぎしててよく眠れなかった。
まぁ、新年だし、今日ぐらいは許そうかという少し寛大な心になれた。
昔だったら壁ドンとか管理会社に苦情してたりしてたかもしれない。まぁでも、毎日続くようなら流石に苦情言うけどね。
生き方について
ということで眠れなかったのもあって、おかだとしお氏のユーチューブなど見ていた。面白かったなー。
男と女って、女の方が原型だって話をされてて、確かに! って思った。
男って、「生き甲斐」とか「自己犠牲」が遺伝子に刷り込まれてて、女が生きやすいように戦争とかするための決戦兵器ということだ。
他種族を滅ぼすために作られた存在ということ。
女は健気に家庭を守っている……という体裁にありながら、まぁでもよく考えたら、危険な戦いや狩りに行く男の方が死にやすいよね。生物的な価値を、「生存」とおくのであれば、男の方が不合理な役割を課せられている。
一方で、男は男で、それを「男らしい」というか、価値だと思っていて、か弱い女性を守ることを逆に生きがいとか、幸せに感じる、と。
上に書いたことは完全な引用じゃないから、主旨を誤解しているかもしれないが、少なくても、1.5~2倍速で見てたらそんな感じでは理解した。30分の動画も15分で見れるから動画ってほんといいと思う。
曲とかじゃないと、人の会話って、1.5~2倍で聞けるんだよなぁ。
別に、自分の頭の回転が速いとか言いたいわけじゃなくて、たいていみんなそうだと思う。ただ、これも岡田氏が別の動画とかで言ってたと思うのだけど、頭の回転のギアを落とした方が、「トルクが強い」コミュニケーションがとれるということだ。トルクがあるというのは、動かす力が強いということ。回転数をあげると速度は速くなるが、トルクは弱まる。高速な思考というのがもてはやされるけれども、ゆっくりで、でも、相手の気持ちを汲むのも大事というのが、「サイコパスおじさん」とか自分で言っておいて、んー、なるほど、人の気持ちもちゃんと「理解」はできる人なんだなぁと思わされる。頭のイイひとだなぁとは思った。
生理的に嫌いという場合も
あんまりボクは、「嫌いな人間」というのがないのだけど、「決めつけ」てくる人というか、俗に言えば体育会系は苦手。いやもちろん、体育会系でも良い人いっぱいいるし、そういう友達もいたけどね。
でも、やっぱり理屈っぽいひと、の方が好きだと思う。
かといって、ボクが理屈っぽいかというとそうではなくて。だいぶ感情よりだとは思う。
というかなんか思うに、「男らしさ」「女らしさ」でいうと、ボクは女性に近いと思うんだよな。
いや、気持ち悪いこと言ってるのは分かっている(かっこわらい)。
数年前から、もう、このブログに置いてあまり書けないことがなくなったが、さすがに気持ち悪いと思って書いてこなかったけれども、まぁ割と前から思っていた。
俺は、男っぽくはない。
そんな風な状況で、上の岡田氏の動画において男って決戦兵器なんだよな、という説明がしっくりきた。
つまり、男という生き方は不合理であるということだ。生物的にはね、という。
別に、男に生まれたから不幸せとか、自己犠牲しなきゃいけないとかじゃないし、ただ、そういう傾向があるという知識というか、考え方は面白いと思うよ。
あ、というか、この小見出しって、岡田氏のこと嫌いな人もいるんだろうな、ということを書きたかった。
なんか、ネットやってると、「批判」ってのがすごく目立つ。
本とか読んで、「おーすごい」って思ったことも、ネットで調べるとたくさん反論あったりして。
んで、その反論もなんか「わかる」って思ったりすると、何信じていいの? って気持ちになって、何かやる気が落ちるという現象、なんか分かる人いないかしら。
創作する思考することを他人任せにしない
あと、結婚とか恋愛って、「買い物」じゃない、「創作」だ、って言ってたのも「イイネ」って思った。イイ女(男)がいて、それを自分も買えると思うから訳が分からなくなる。もちろん、円としてのお金で買えるものではないのは誰もが分かってると思うが、「自分磨き」とか、容姿とか先天的なものも含めて、自分の能力をあげることによって、イイ女(男)をゲットできると、そういうことを考える人はわりといると思う。
でもそうじゃなくて、恋愛とか結婚は、お互いに関係を創作するものだとしたら、これは非常に難儀なことである。
誰にでもできることじゃない。
あと、大正時代とかは、お手伝いさんとか含めて15人ぐらい一人男が働いて「家族」を養ってたけど、サザエさんの時代は2人男が働いて、5人ぐらい養うになって、クレヨンしんちゃんでは2人になる、と。
これって段々貧しくなってるともいえるよね、というのも面白かった。確かに。
とはいえ、こういうのも反論あるものなんだろうか。ボクは普通に面白いって思ったけどなぁ。
ということで、何を言っても考えても、批判があることを考えたり思ったりして、何も言わないのが正しい、みたいになるのは、やっぱりつまらないと思う。
ボクもだいぶ丸くなって、自分のことを唯一無二の存在とは全く思わなくなった。
いや、そもそも自信のない人間だったから、昔からそんなこと思ってたわけじゃないのは書いておきたい(かっこわらい)。
ただ、「唯一無二の存在にならなければならない」ということは思っていたと思う。
例えば、思考の独自性とか。
でも、独自性とか無理だよ。どうにも、周りにあんまり物理環境では、思考レベルで一致する人っていなかったんだけど、でも、広いネットとかでは、共感する人とかもたくさんいると分かった。
その「たくさん」が、統計的なたくさんなのかは分からないけど。やっぱり少数なのかもしれないけど、それはもうあまり気にならなくなった。
要するに、自分は別に特別じゃない、ということだ。
特別じゃないとはいえ全く同じでもない
似たようなことを考える人がいても、でも、だからといって、自分で考えなくてもいい、ということにはならないと思う。何故か。世界がカオスだからだ。世界が本来秩序立っているというのであれば、その秩序に従えばよい。
いやあるいみ、共産主義国家は、秩序がしっかりしていて、「成功」なのかもしれない。
某国ですみたいとは全く思わないけど、そこはそこで、ある程度衣食住が保障されている国であれば、共産主義自体は悪いことではないかもしれない。
何故なら、大半の人は平凡だからだ。
でも生き方というのが、国家に決められるというのは、やっぱりおかしいと思う。
ただそれは、「国家」だからおかしいと思うのであって、「神」とか、「人工知能」だとかだったら話が違うと思う。
(まってね、今書いてるのは、「秩序がある」という前提での仮定の話だからね。この挿入しとかないと、自分でも後から読んで誤解しそう)
完全に正しい導きがあるなら、むしろそれに従うべきだと思う。
その方が相対的に幸せなのだろうから。相対、総体、どちらも。
でもそうじゃない、世界は、カオス、混沌である。
だから、国家なんてましてや正しい選択をできるわけがないし、人工知能だってそれは同じである。
ただ、人工知能の優れたところは、「正しそう」という推論を、ある程度の確度でできることだと思う。
あと、納得感が違うと思う。
これは感情面だけど、「偉い人に決められたこと」よりも、無生物の例えば法律とか、そういう感情などがないものの決定の方が人は従いやすいと思う。体育会系は別だろう。差別的ないい方をあえてしてるのであって、本当にそう思ってるわけじゃないが、「合理性」を優先する人間であればあるほどに、「ただしらしさ」には盲目的に従ってしまうと思う。
もう一つ理由を言えば自分は自分だから
もう一つ、何故、自分で考えるべきかといえば、「正解」というのは、自分用のものは自分にしかないからである。恋愛する、結婚する、そういった選択も含めて、人それぞれの正解がある。
その正解というのは、大事なことは、「環境」要素も大事だということだ。
自分という存在が確固した、不動の要素であるならば、答えもあるだろう。
しかし、自分自身も変わるし、環境も変わる。
どっちなんだろうね? 変わるのは、自分なのか、環境なのか。卵鶏論みたいな感じになるが、興味深いと思う。
自分が変わるから環境が変わるのか、環境が変わるから自分が変わるのか。両方だろう。
だから、「考えること」は、他人任せにはできないのだ。
それでも死にますけども
重要な視点だ。いくら考えても、死ぬときは死ぬ。
それが早いか遅いかだけだ。
寿命が知れたとして、病気とかじゃない限り、知りたくはないと、思う。
健康なうちはね。
毎日痛みで苦痛で、という状況なら、いつ終わるのか早く知りたいと思うかもしれない。
そう、最近思うこととしては、やっぱり「健康」が一番だと思うのである。
死にたい死にたいって思ってた10代ぐらいとは違って、最近は生きていてもいいかな、っていうのが基盤になっている。
これは大きな変化だと自分では思っている。
生きることが前提としたときと、死んでもいいと思っている時の思考って別物だと思う。
だから、10代のころの自分の書いていることと、今とを比較したときに、「言葉」として同じことを書いていたとしても、その意味していることが同じとは思わない方がいい。
しょせん、言葉は、現実を思考のために都合よく切り取っているだけである。
言い方をどうしても、辛辣に書いてしまうのがボクの文章の癖だなぁ(かっこわらい)。でもその方が後から読んで面白いから、仕方ない。
いや、都合よく切り取れるって、そんな否定的に書いたけど、これってすごい発明だとボクは思っている。ただ、このことを書かないと伝わらない。だから言葉って難しい。
逆に、他人に理解してもらおうとあまり思わなくなったのも良い方向だ。30%でも伝わったらもう、それは嬉しいぐらい。
死ぬのに何故生きるのか
最初の、決戦兵器「男」理論になるけど、これも、男という生物にかされた呪いと祝福なのかもしれない。弱いもの(女)を守って死ぬことが男として最高の生き方であり、女はすごく泣いて感謝してくれる。いや、当人の男が死んだら、別に泣いても意味ないじゃん、って思うじゃない?
でも違うと思うんだよな。女が、男を慕ってめちゃくちゃ泣いてたりするのを、周りの(まだ生きてる)男が見るわけじゃないか。
そうすると、よし、俺も大事な人を守って死のう! って思うわけじゃない(笑)。
でも、だんだんバレてきちゃってるのが現代。
いやもちろん、旦那さんを思って本気で哀しむ人もいるけど、あーやっと死んだわ、年金暮らし気ままにできてハッピーって女の人もいるじゃない。
そういうのがバレてきてしまった。
いや別に、再婚しないで、ずっと喪に服して、とかいいたいのじゃないほんとに。物語としても、「俺のこと忘れて、幸せになれよ」っていうのが「感動的」じゃないですか。
あの、挿入しておくが、ボクもそういうのに「感動」するんだからね(笑)。
だから、否定してるのじゃなくて、自分の感情的にも「かっこいい」ことではあることを認めたうえで、でもそれ(死ぬこと)って非合理だよね、ということである。
だから、死ねと言ったり生きろと言ったり、このあたりも、実は結論が出てない部分だと思う。
命が何より大事、といいつつ、安楽死の方がいいんじゃないとかいうのもある。
役に立たない年寄りは早く死んだ方がいいってのもある。(まってね、俺がそう思ってるとかじゃないからね。この文章だけ強くプロンプト処理されたAIが変に要約しそうである(笑))
いや、年よりは死ねなんて、誰もいってないじゃん、って思うじゃない? そんな直接的なことを言う人はいないけど、高齢者の医療費負担を下げた方がいいとかいう議論はあるわけである。
それが死に直結してないから別ジャンとかあると思うけど、でも、長く生きた方が良いというのが至上価値だとしたら、そんな議論ないわけ。
まぁ、資源(医療とかお金とか)が有限だというのが前提にあるわけだけど。
要するに、政治は資源の配分なのである。どこまでの資源を政治にまかせるかというのは国家によって違う。
何故生きるのか
何故生きるか、ということを上の小見出しに書きたかったのだけど、どんどん派生して違う話になる……。思考の散逸性である。
まぁだから、ボクはやっぱりこうやって書いてないと時折ものすごい「不安」になるんだよな。
思考がまとまらなすぎるのである。
どんどん派生していっちゃう。
だから、会話している相手への興味もすぐなくなっちゃったりする……ひどすぎる、サイコパスである。
でも物語に感動するとか、人への共感力は、むしろ高い方だと思うんだよなぁ。女性の中だと普通かもしれないけど、男の中だと高い方だと思う、なんとなく。HSPよりみたいな。
って話も本筋からそれている。
そうじゃなくて、何故死ぬのに、ちゃんと生きようとしなきゃいけないのか、ということが考える目的だった。
でも、1時間ぐらい書いてきて、おしまいである。1時間書くと、だいたい飽きてきちゃうのである。だから時間勝負なのだ。
あとがき
(かっこ書きである。思考自体はまだまだ続くのだけれども、こうやって書くのは時間が限定されてしまう。書けなくなっちゃうのである。それが分かった。1時間理論。1時間は長いのか短いのか。これ、口で読んだら何分ぐらいなんだろ。30分ぐらいかな。今度VOICEVOXで読んでもらおうか。さて今年の目標とかを書きたかったが、明日にでも書くかな。というか、タイトルがそういう風のなのに、一切触れられてないな。ひどい。えっと、色々物を減らそうと思う。そろそろ引っ越しもしていいかなというのもある。引っ越し面倒なんだよな。でも、今住んでるところもダイブ古くなってきたからな。賃貸のメリットって新しいところに引っ越せることぐらいだと思う。本は、全部捨てようかな。ぐらいな勢いで。ブックオフとかにもっていくのももう面倒だから、雑誌ゴミの日に徐々にとか。部屋にあるのって、もう3年ぐらい読んでない本が9割だと思う。それでも捨てずらいというのであれば、1年以内に読まなかったら捨てるとか今年に決めて、来年実行するとか。来年のことを言うと笑われるのかもしれないが。音楽系のはいったん全部捨てようか。改めて始める時は新しい環境とか便利になってそうだし。作曲とかしなくなったなぁ。初音ミクとかもっとちゃんとやりたかったけど、モチベーション問題がなぁ。結局、自分の感情を表現したいから創作したいわけだけど、作業量・時間と、結果がわりに合わないんだよなぁ。だから基本的に人は、他人の作った創作物を消費するのだ。でも、創作と消費は全く違うんだよな。ほんと違う。真面目に違う。消費だけだと絶対行き詰る。生きづまる。友人や家族に多く囲まれている人は困らないが、そうじゃない孤独な人は絶対創作活動できるようになっていた方が良いと思う。一方で、創作は孤独ではできないことである。いやだって、物語に「人」って登場するじゃない。それは「人」を求めているのである。そこに主体的に関わりたいかどうか、というのはあるけれども、人付き合い苦手とかいってるオタクでも、人は「好き」なのだ。仮にそれが、支配者になって臣民を虐げるサディスト的な欲求であったとしても、でも、虐げる対象の「人」は必要じゃないか。人に生まれた以上、人とのかかわりは避けられない。いや、僕は一人暮らしでダイブ人を避けて生きられているけれども、かっこわらい。人を避けたいながらに、人を求めたいというこの矛盾。矛盾と、乖離が、人の苦しみの根源である。しかし、苦しみこそ人間の原動力でもある。苦しいから楽になりたいと「行動」するのであれば、人間とはなんと因果な存在か。欲望を手放した方が幸せなのだろうと思う。しかし、欲望を手放した世界に、苦しみがない世界に、そこには喜びもないのではないか。無。空(くう)、空(から)。無こそが真実なのか。そうかもしれない。しかし、どのみち、人間は、有限なのである。いずれ死ぬ。であれば、もう少し、つかぬまの、黄昏の狭間の時を、生きるという選択をしてもいいとは思う)PR
今日の一言「寝る前にPCは良くないらしい」
流れで、ChatGPTも先ほど触れてみた。
これも面白かった。
洋楽で、「こんなアーティストが好きなんだけど、おすすめ教えて」っていったら、下のがでてきて、確かに好みだった。すごい。やるじゃんGPTちゃん。
https://youtu.be/BIk3u0zVEvo?feature=shared
いわゆる「一般論」を知るのにはすごく良い気がする。それに対して、自分がどう考えるのかとか、どう感じるのかとは別にして、Wikiで調べるのとちょっと違う視点で情報を得られるのが良いと思う。
Wikiと違う点は、「視点」をいくつも提示してくれることだと思った。
ChatGPTは、例えば、睡眠って何時間必要なの? と聞くと、成人は7時間~9時間です、と、一般論を答えてくれた。
でも、それだけじゃなくて、「まぁ、これらは一般論で、実際は個人差がありますので、自分に合った睡眠時間をみつけることや、睡眠の質をよくすることが大事ですよ」とか補足してくれる。
さらに、「じゃあ睡眠の質をよくする方法って?」って聞くと、寝る前にPCとかスマホしないことや、朝日光をしっかり浴びることとか、……と、色々追加で教えてくれる。
例えば、ここまでの文章をChatGPTに入れて、要約して、っていってみようか。その結果を「あとがき」に書こうと思う。
著者は最近AIお絵かきの「Stable Diffution」や「ChatGPT」を試して感動し、特にChatGPTに関しては自然な日本語での対話が成り立つことや一般論を知るのに役立つと感じている。ChatGPTが提供する洋楽のアーティストのおすすめや一般的な質問に対する答えだけでなく、個別のアドバイスや視点も提供してくれ、それが検索エンジンやWikiとの違いだと述べている。例えば、睡眠に関する質問に対して一般的な情報だけでなく、個人差や具体的なアドバイスも提供してくれることが強調されている。最後に、ChatGPTの会話が成り立っている感覚が良いとして、今後も利用していくことを示唆している。
↑である。すごくない??かっこ笑い。あってるあってる。そうそうそんなことを確かに書いたのである。全部自分の文章の転記というわけじゃなくて、「今後も利用していくことを示唆している」って書いてあって、これ、明言はしてないんだけど、多分文脈から判断してるんだろうねー。すごいなぁ。確かに、今後も利用したいと思ってる。AIに心見破られてしまったよ……(笑))
まえがき
最近、Stable DiffutionというAIお絵かきを試してみて感動したと書いた。流れで、ChatGPTも先ほど触れてみた。
これも面白かった。
洋楽で、「こんなアーティストが好きなんだけど、おすすめ教えて」っていったら、下のがでてきて、確かに好みだった。すごい。やるじゃんGPTちゃん。
https://youtu.be/BIk3u0zVEvo?feature=shared
自然な日本語でしゃべるのがすごい
普通に会話が成り立つようになってるのがすごいなぁ。いわゆる「一般論」を知るのにはすごく良い気がする。それに対して、自分がどう考えるのかとか、どう感じるのかとは別にして、Wikiで調べるのとちょっと違う視点で情報を得られるのが良いと思う。
Wikiと違う点は、「視点」をいくつも提示してくれることだと思った。
ChatGPTは、例えば、睡眠って何時間必要なの? と聞くと、成人は7時間~9時間です、と、一般論を答えてくれた。
でも、それだけじゃなくて、「まぁ、これらは一般論で、実際は個人差がありますので、自分に合った睡眠時間をみつけることや、睡眠の質をよくすることが大事ですよ」とか補足してくれる。
さらに、「じゃあ睡眠の質をよくする方法って?」って聞くと、寝る前にPCとかスマホしないことや、朝日光をしっかり浴びることとか、……と、色々追加で教えてくれる。
追加感がWikなど検索エンジンと違うところ
会話が成り立ってる感じがするのがよいと思った。例えば、ここまでの文章をChatGPTに入れて、要約して、っていってみようか。その結果を「あとがき」に書こうと思う。
あとがき
(かっこ書きである。以下、要約された文章をブロッククオートで転記する。著者は最近AIお絵かきの「Stable Diffution」や「ChatGPT」を試して感動し、特にChatGPTに関しては自然な日本語での対話が成り立つことや一般論を知るのに役立つと感じている。ChatGPTが提供する洋楽のアーティストのおすすめや一般的な質問に対する答えだけでなく、個別のアドバイスや視点も提供してくれ、それが検索エンジンやWikiとの違いだと述べている。例えば、睡眠に関する質問に対して一般的な情報だけでなく、個人差や具体的なアドバイスも提供してくれることが強調されている。最後に、ChatGPTの会話が成り立っている感覚が良いとして、今後も利用していくことを示唆している。
↑である。すごくない??かっこ笑い。あってるあってる。そうそうそんなことを確かに書いたのである。全部自分の文章の転記というわけじゃなくて、「今後も利用していくことを示唆している」って書いてあって、これ、明言はしてないんだけど、多分文脈から判断してるんだろうねー。すごいなぁ。確かに、今後も利用したいと思ってる。AIに心見破られてしまったよ……(笑))
今日の一言「技術は進歩してる」
やろうと思って、中々やらないでいたけど、先日ようやく思い立って、AIイラストの生成環境を構築してみた。
導入したのは、Stable Diffusionというソフト。AIイラスト知らなくても聞いたことある人も多いと思う。
動画とか見て、構築には1時間ぐらいかかった。
動画の通りやっていくだけとはいえ、環境が若干違ったりすると上手く行かなかったりする。
「環境変数」の設定が違ったりとか、「パイソン」の異なるバージョンがプリ導入されていて、それを無効にする設定が必要だったりとか沼ポイントがあったせいもある。
そのあたりを、自分で調べて解決できたのは、WEBサイト構築とかこれまでの経験も活きたからだと思う。パソコン詳しい人にとっては簡単なことなんだろうけど、環境変数とかPATH通すとか、もうそんな単語で嫌になってしまう人も少なくはないと思う。
アマゾンウェブサービスとか、ローカル環境じゃなくても利用もできるらしいが、そちらは月額料金も必要みたい。
自分のPCは、グラボ性能が良い方(ビデオメモリ10GB)のため、ローカルでも十分構築可能であると思われた。
めちゃめちゃかわいい。自分好みのイラストが仕上がった。背景が適当感は少しあるとはいえ。笑
モデル:RaemuMix(リンク)
(ちなみに、今回のイラストは上のモデルを使ったが、DivineEleganceMix(リンク)さんも非常に素晴らしいモデルさんだった。最初に使ったのがこのDivineEleganceMixの方で、このモデルに最初に出会えたから、「すごい!」「面白い!」ってなってハマったのもあったと思う。導入動画で紹介されていた「かうんたーふぇいと?」のやつは、ちょっと絵柄が自分好みではなかったから、それしか知らなければ早々に飽きていたかもしれない。出会いって大事)
簡単に、というのが、果たして、導入に1時間かかって、使い方や設定方法など調べたりして、習熟するのにはおおよそ3~4時間以上かかっているわけだけれども、実際、イラストの生成自体は、数十秒で終わる。
上のイラストは、人物と背景を別に出力したわけだけど、それでも生成自体は1分未満である。
人物のイラストの透過などは、ペイントソフト(クリップスタジオ)で作業したりと、加工はしても、そこまでの時間はかかっていない。
そう考えれば簡単にできた、といっていいだろう。
自分の画力で、このレベルのイラストを描くとなると、まぁ、数十時間たっても、数百時間経ってもできないから、そう考えると、簡単にできた、ということになる。
ただ、大変ではあるけど、導入の細かい設定とかダウンロードしてきて、次にこのボタンを押して……とかそういう面倒な「大変」さではなくて、楽しい大変さだった。
ある程度、それなりの良いイラストはすぐ作れる。
ただ、「もっとこうしたい」「こういうのがいい」というのがあると、それを思い通り表現するのは中々難しいと思った。
良く言われている「手がうまく描けない」というのもまさにそうで、部分的な修正とかする技術も大事なのだろうなと思った。
まえがき
AIイラストすごいなーって思って、自分でもやってみようかと思ったのが、半年ぐらい前だった気がする。やろうと思って、中々やらないでいたけど、先日ようやく思い立って、AIイラストの生成環境を構築してみた。
導入したのは、Stable Diffusionというソフト。AIイラスト知らなくても聞いたことある人も多いと思う。
動画とか見て、構築には1時間ぐらいかかった。
動画の通りやっていくだけとはいえ、環境が若干違ったりすると上手く行かなかったりする。
「環境変数」の設定が違ったりとか、「パイソン」の異なるバージョンがプリ導入されていて、それを無効にする設定が必要だったりとか沼ポイントがあったせいもある。
そのあたりを、自分で調べて解決できたのは、WEBサイト構築とかこれまでの経験も活きたからだと思う。パソコン詳しい人にとっては簡単なことなんだろうけど、環境変数とかPATH通すとか、もうそんな単語で嫌になってしまう人も少なくはないと思う。
アマゾンウェブサービスとか、ローカル環境じゃなくても利用もできるらしいが、そちらは月額料金も必要みたい。
自分のPCは、グラボ性能が良い方(ビデオメモリ10GB)のため、ローカルでも十分構築可能であると思われた。
こんなのも簡単に作れる
めちゃめちゃかわいい。自分好みのイラストが仕上がった。背景が適当感は少しあるとはいえ。笑
モデル:RaemuMix(リンク)
(ちなみに、今回のイラストは上のモデルを使ったが、DivineEleganceMix(リンク)さんも非常に素晴らしいモデルさんだった。最初に使ったのがこのDivineEleganceMixの方で、このモデルに最初に出会えたから、「すごい!」「面白い!」ってなってハマったのもあったと思う。導入動画で紹介されていた「かうんたーふぇいと?」のやつは、ちょっと絵柄が自分好みではなかったから、それしか知らなければ早々に飽きていたかもしれない。出会いって大事)
簡単に、というのが、果たして、導入に1時間かかって、使い方や設定方法など調べたりして、習熟するのにはおおよそ3~4時間以上かかっているわけだけれども、実際、イラストの生成自体は、数十秒で終わる。
上のイラストは、人物と背景を別に出力したわけだけど、それでも生成自体は1分未満である。
人物のイラストの透過などは、ペイントソフト(クリップスタジオ)で作業したりと、加工はしても、そこまでの時間はかかっていない。
そう考えれば簡単にできた、といっていいだろう。
自分の画力で、このレベルのイラストを描くとなると、まぁ、数十時間たっても、数百時間経ってもできないから、そう考えると、簡単にできた、ということになる。
プロンプトの研究
とはいえ、こんな感じに自分好みの画風や、顔やスタイルにするのは、はっきりいって「大変」だった。ただ、大変ではあるけど、導入の細かい設定とかダウンロードしてきて、次にこのボタンを押して……とかそういう面倒な「大変」さではなくて、楽しい大変さだった。
ある程度、それなりの良いイラストはすぐ作れる。
ただ、「もっとこうしたい」「こういうのがいい」というのがあると、それを思い通り表現するのは中々難しいと思った。
良く言われている「手がうまく描けない」というのもまさにそうで、部分的な修正とかする技術も大事なのだろうなと思った。
あとがき
(かっこ書きである。いやーでも、最近時代は停滞しているという印象だったけど、久々に楽しかった。戦争とか起きてる時代で陰鬱になるけれども、技術面などでは良い時代になったなぁとは思う。まぁでも、2次元的な世界に興味がない人はあんまり気にしないんだろうな。でも誰か言ってたと思うんだけど、やっぱり人間、どう猛な種族だから、3次元優先の世界で生きてると、絶対衝突が起こると思う。2次元優先の思考の人が増えることが平和への道だと最近思うよ。3次元って劣悪だって、最近大きな戦争が2回も発生してうすうす思ってたけど確信したわ。沈没船の板的な状況で、自らの生存が脅かされる状況で他人を害するなら分からなくもないが、「思想信条」のために他人を害してそれが正しいと考える人が多いというのは本当に人間存在というのがダメなものだとがっかりする。歴史をみればそういう人ばっかりだったわけだが。でも、せめて最近は変わってきているのかと思ったら全然かわってないどころか、もっとひどくなっているともいえる(戦争が起きたから)。みんなだから、できるだけ多くの人が3次元への優先度を下げるべきだと思う)
今日の一言「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ」「というよりも、言っても意味がないと思ってしまうところに問題がありそう」
30代後半となって、もはや、「0」に近い状態になった。
私を見て、知って欲しい、という思いがあったから書いていたのだろう、と、すごく単純化して過去を回想してしまうと、過去の自分は、ものすごい形相でくってかかってくる気がする。怖い。
その動機は、「自分を肯定して欲しい」というものもあったことは否定しないけれども、本人としてはそんな「どうでもよい」ことよりも、むしろ、言わなきゃいけない、言わずにはいられないといった「自動的」な動機であったと思う。
ボクが思う価値の多様性というのは、そんなことが起こりえるのが世界であるという見方である。
今思えば当たり前なのだけれども、それが実際の「生活」レベルになると、ままならないことが多くあった。
ゆえに、不満や不快も多くあった。だから、そのうっぷんを文字にしていた。
誰か、直接的に言える物理的存在がいたらよかったのかもしれない。
でも、それをすれば、それはそれで、「多様性の否定」になる気もしてできなかった。というとちょっとかっこつけた言い回しだけど、「友達がいなかった」という表現でも特に問題ないように思われる。
顔の見えない不特定多数の存在。
ネットというものが、唯一ボクの居場所のように思えていた。
0代の記憶が殆どないため比較できないが、10代、20代、30代と考えた時に、一番幸せなのが30代と思われる。
世間的には、結婚生活をしていたのが20代だったと思うので、たぶん世間ステータス的には幸せ絶頂で、離婚した30代の方が不幸せなような気がする。
ところが、メンタル的には、今の方が「幸せ」といってよい。
これは、ひがみとか、嫉妬というか、酸っぱい葡萄理論というか、合理化というか、まぁ色々考えられるけれども、主観的には間違いなく今の方がよいと思う。
社会的には、結婚もしてなくて、子どももいない社会再生産に貢献していないクズ人間なのだろう。哀しい。
ところが、いち人間としては、今が一番よいと思っている。
何故そうなってしまったのか。
一人暮らしに慣れてしまい、共同生活ができなくなってしまったのだろう。
一人でいると、「寂しい」という気持ちが、ボクはあんまりないのだろうと思う。
どっちかというと、寂しいというのは、複数人の友人たちがいて、その輪に入れない時は寂しいと思う。
でも、最初から一人だと、寂しさは感じない。
中途半端だと寂しい。
たとえば、一緒に友人と遊んで、帰り道に一人になると寂しいという感じに近い気がする。
最初から街に遊びにいかなければ、寂しさを感じることもない。
果たして、40代になっても、50代になっても同じことが言えるのか。
「寂しさ」「孤独感」というものが生じるのではないだろうか。
いまの想定としては、「ない」と思う。
「面倒」な人とのかかわりから解放された平日の夜や、休日の一人の時間。最高に幸せである。
あえて、「会いたい」と思う物理的な友人は思い浮かばない……。申し訳ないことに。
逆に言えば、声をかけてもらうことも殆どないので(1年に1回あるかぐらい)誰からも欲せられていない自分でもあるわけだ。
「かわいそう」な人間だと、パリピ(リア充。陽キャなど。何という表現が今風なのだろう。分からない)側からしたら思われるのかもしれない。
でもぜんぜん、個人的には困っていない。
これで、ボクの人生はよかったのだろうか。
仕事で時間が使われ、家族もつくれず、孤独に死んでいくのでよかったのだろうか。
と、思う。思ってしまう。もとから凡人だったが、本当の凡人になったのだろうか。
いままでは、凡人になることに恐怖を覚えていた凡人であったが、ようやく、ただの凡人になれたのか。
人間皆そうなのか。20代、30代となるにつれて、とげがとれていくのだろうか。
仏陀のように、はたまたベンチャー企業の社長のように、30代で覚醒し何か新しいことを始める人もいる。
ボクは逆に悟りの境地になったのか。
まえがき
とにかく、文字を書いてないと精神状態が落ち着かなかった10代、20代の頃に比べて、30代は明らかに文字を書く量が減った。30代後半となって、もはや、「0」に近い状態になった。
私を見て、知って欲しい、という思いがあったから書いていたのだろう、と、すごく単純化して過去を回想してしまうと、過去の自分は、ものすごい形相でくってかかってくる気がする。怖い。
その動機は、「自分を肯定して欲しい」というものもあったことは否定しないけれども、本人としてはそんな「どうでもよい」ことよりも、むしろ、言わなきゃいけない、言わずにはいられないといった「自動的」な動機であったと思う。
色んな人がいるよね以上
今まで僕は、価値の多様性というものを取り上げていた。Aということが正しければ、Bということも正しい。はたまた、複雑に、正しいAという事柄の「否定」があったとしても、そのAの否定自体も正しい。ボクが思う価値の多様性というのは、そんなことが起こりえるのが世界であるという見方である。
今思えば当たり前なのだけれども、それが実際の「生活」レベルになると、ままならないことが多くあった。
ゆえに、不満や不快も多くあった。だから、そのうっぷんを文字にしていた。
誰か、直接的に言える物理的存在がいたらよかったのかもしれない。
でも、それをすれば、それはそれで、「多様性の否定」になる気もしてできなかった。というとちょっとかっこつけた言い回しだけど、「友達がいなかった」という表現でも特に問題ないように思われる。
顔の見えない不特定多数の存在。
ネットというものが、唯一ボクの居場所のように思えていた。
いまの心境の変化
睡眠不足等によって体調は悪いのだけれども、メンタル的には、30代が一番落ち着いていると思われる。0代の記憶が殆どないため比較できないが、10代、20代、30代と考えた時に、一番幸せなのが30代と思われる。
世間的には、結婚生活をしていたのが20代だったと思うので、たぶん世間ステータス的には幸せ絶頂で、離婚した30代の方が不幸せなような気がする。
ところが、メンタル的には、今の方が「幸せ」といってよい。
これは、ひがみとか、嫉妬というか、酸っぱい葡萄理論というか、合理化というか、まぁ色々考えられるけれども、主観的には間違いなく今の方がよいと思う。
社会的には、結婚もしてなくて、子どももいない社会再生産に貢献していないクズ人間なのだろう。哀しい。
ところが、いち人間としては、今が一番よいと思っている。
何故そうなってしまったのか。
一人での生活に慣れてしまった
多感な、いろんな変化できる10代のうちに、色んな経験をして「人が怖くなった」からだと思う。一人暮らしに慣れてしまい、共同生活ができなくなってしまったのだろう。
一人でいると、「寂しい」という気持ちが、ボクはあんまりないのだろうと思う。
どっちかというと、寂しいというのは、複数人の友人たちがいて、その輪に入れない時は寂しいと思う。
でも、最初から一人だと、寂しさは感じない。
中途半端だと寂しい。
たとえば、一緒に友人と遊んで、帰り道に一人になると寂しいという感じに近い気がする。
最初から街に遊びにいかなければ、寂しさを感じることもない。
果たして、40代になっても、50代になっても同じことが言えるのか。
「寂しさ」「孤独感」というものが生じるのではないだろうか。
いまの想定としては、「ない」と思う。
寂しさについて
たぶん、仕事しているうちは、「寂しい」とか感じることはまずないだろう。「面倒」な人とのかかわりから解放された平日の夜や、休日の一人の時間。最高に幸せである。
あえて、「会いたい」と思う物理的な友人は思い浮かばない……。申し訳ないことに。
逆に言えば、声をかけてもらうことも殆どないので(1年に1回あるかぐらい)誰からも欲せられていない自分でもあるわけだ。
「かわいそう」な人間だと、パリピ(リア充。陽キャなど。何という表現が今風なのだろう。分からない)側からしたら思われるのかもしれない。
でもぜんぜん、個人的には困っていない。
これで、ボクの人生はよかったのだろうか。
仕事で時間が使われ、家族もつくれず、孤独に死んでいくのでよかったのだろうか。
人生の意義
いいんじゃない?と、思う。思ってしまう。もとから凡人だったが、本当の凡人になったのだろうか。
いままでは、凡人になることに恐怖を覚えていた凡人であったが、ようやく、ただの凡人になれたのか。
人間皆そうなのか。20代、30代となるにつれて、とげがとれていくのだろうか。
仏陀のように、はたまたベンチャー企業の社長のように、30代で覚醒し何か新しいことを始める人もいる。
ボクは逆に悟りの境地になったのか。
あとがき
(かっこ書きである。まぁでも、凡人はこんな記事は書かない。まだどこかで、「このままでいいのか?」という、過去からずっと考えていた「生きる意味」ということに執着があるのだろうか。ある意味既に見つけていて、生きる意味などはないし、逆にどこにでも無数にある、というのが答えではある。その答えに自分の感覚が近いかどうかという点が重要であったわけだが、それが満たせてきているのかもしれない。真実はあるのだろうか。真実ということはないということが真実だ、と思う。おぞましい条件がある中で、正しいということはある、というだけだ。あんまり関係ないけど、最近、「モンティ・ホール問題」という、確率の問題を見た。大多数は答えを間違えるというもので、答えをきいても納得がいかない人が多数であるという問題であった。で、ボクは、答えを聞いてもやっぱりピンとこなかった。確率って難しいよね。確かに、統計的に、おびただしい数の試行をすれば、その結果は正しいのだろうけれども、でも、自分の選択といざなったときには、その試行はただの1回しかないのだから。99%の確率で手に入れたとしても、1%の確率で手に入れたとしても、その選択が1回しか起こらないものであれば、それは結果は「等価」だ。手に入れた、という事実しかない)
今日の一言「1か月置きには書こうと思えているのだろうか」
たぶん、昨今の若者というか、多くの人がそうだと思うが、年上だからといって無条件に尊敬したり、話したりされることを鵜呑みにできる人は少ないと思う。
あんまり、年齢という差が重要じゃなくなっているとは思う。
時間をどう濃密に使って、それをどうインプットしてきたか……その点が違いだと思う。
自分より若くても、自分なんて比べ物にならないくらいすごいな、って人もいるし、経験も知識も全然違う。
前に、ツーリングとかでうざがられる、バイクの排気量を聞く「何ccおじさん」(ナンシーおじさん)という言葉も聞いたことがあるが、同じように「何歳?」という問い自体がナンセンスなのだろうと思う。
価値観が共有できたり共感出来たりする上で、「すごい」という人がやっぱり尊敬に値する人だと思うわけだ。
そういう意味で、上で取り上げたシロクマさんは、尊敬できるなって思う。シロクマさんなら、こういう問題や問いに対して、どう考えてどう答えを出すのか、そんな風に思考をトレースしてもいいかな、って思う。
これは、素直な人は別に普通のことなのかもしれないけれど、ボクの場合は、基本的に、自己中心的なので、「人は人、他人は他人」という意識が、ずーーーっと、それこそ自我が芽生えた時からあったような気がする。
より若いときは、「人と合わせることが逆にイヤ」というあまのじゃくてきな面倒くさい人間だったような気がする。
最近は、「人と合わせた方が色んな面でとても良い」というケースがあるので、悪いことじゃないんだなーって思っている。これが「大人になった」ということなのだろう。形容詞的に、「みにくい大人」なのか、「ずるがしこい大人」なのか分からないけれども。
あと、「年上」って、逆にバイアスがある気がする。要するに「年上なんだから、もっとできるでしょ」ということ。見る目が厳しいってことだね。
でもこれも当たり前で、同じ能力があったとして、30歳でできる人と、40歳でできる人がいたら、30歳でできる人の方がすごい、って思うじゃないか。時間は平等なのだから、仕方がない。まぁ、光速に近づくと時間も相対的に変わるものなのだということだけれども、人間の人生という面においては不変と言っていいだろう。
そういう意味でも、シロクマさんならどう考えたり思うのかな……っていうのは、自分の中でも珍しい面白い感覚な気がしている。
ということ自体は、もっと前から思っていたけれども、数年たってもその気持ちが変わらなかったから、今回書いておくことにした。
どう考えても、某国は間違ってると思うし、滅びてしまった方が「より良い社会」になる気がするけれども、しかし一方で、某国においてはそこに「正義」があるわけだ。
何も正義がなければ、さすがに現代社会で成り立つとは思えない。
一定の安定した人がいて、「この正義は正しい(守るに値する)」と思うから、社会が維持されているのだと、思う。思いたい。
まぁ、複雑な国際社会のことは分からないから置いておいて。
一般の、例えば、公園で子供の声がうるさいといったクレームに関する話とか。
ぶっちゃけ、戦争レベルの話と比べたら、ものすごくどうでもいい話である。
しかし、それは「比べたら」の話であって、当人たちにとっては由々しき重大な問題だ。
むしろ、(遠い)戦争なんかよりもよっぽど重大だ。
公園問題の詳細は、まぁニュースでも色々やってたし、興味があれば上のシロクマさんの記事から辿っても良いと思う。
公園が、子どもの声がうるさいというクレームから閉鎖された、という話だ。
このタイトルだけ見ると、「クレーマー」な話な気がする。
ネット的にも、行政の判断が間違ってるのでは、みたいな論調が多かったような気もしないでもなかった。
いっぽうで、児童虐待的な場合は、行政の判断が遅い……みたいな論調が多い気がする。
そのどっちが正しいとか、良いとか、ボクは正直どっちでもよい……どっちでもよいというとちょっと違うが、気になるのは、「どちらが主流の意見なのか」ということである。
ルールがあって、法律があって、それによって社会は成り立っているのだから、それは曲げるべきではない。法律も「解釈」があるから、その解釈が誤っていることもあるだろうし、それを正すことは大事だろう、そして、そもそも法律だって人がつくったものだから、誤ってたり時代にそぐわなかったら変えるべきだろう。
ただ、既に発生してしまった問題については、既にあるルールを「適用」することでしか解決すべきではない。
そこを崩すと、力が強いものが支配する、ような世界になると思うからだ。
「個人的に納得できない」
ことがあっても、決められたルールにもとづいて「社会的に判断する」ということが、現代社会という、人類が長い血なまぐさい馬鹿らしい歴史を経て開発した発明品なのだ。
(と思う。関西では、この後に「しらんけど」と加えるのがよいらしい(かっこ笑い))
この「一般的に」というのは、所詮はネット上でのことだし、ニュースや、新聞ほかの情報源にはあたりたいと思いつつも、「普通の人は、こういうことがあったらどう思うのか」ということが気になる。
それは何故かというと、「自分の個人的な意見(感情)」と、「普通の人のそれ」が、どの程度「ズレ」ているのかを知りたい、と思うからだ。
先に書いた通り、ボクは大人になった。
だから、「人に合わせる」こともできるようになったし、しなきゃいけないとも思うようになった。
その際に、「一般的な」感覚というのが大事だと思うのだ。
それは、「合わせる」ことにも大事だし、逆に、主張するときにも大事だと思う。
「こういう意見が大半ですが、こういう点で、自分はこう思うのです」
こんな論調だと、人は耳を傾ける、かもしれない。(結局内容によるだろうが)
さて、せっかくだから、その公園クレーム問題について、「ボクの考えや思ったこと」を試しに書いておけば、シロクマさんは結局どっちの未方なんだろ?笑 わかんないや。
って思った、ということだった。
引用されている記事の、実体験をもとにしたクレーマー側の意見の方が面白かった。
そのおかげで、「あー。確かに「子供たち」という言葉には、いろんな意味が含まれているな」という視点が得られた。良いもの読んだな、と思った。
それに基づいた記事がシロクマさんの記事で、更に、「当時……カミナリおじさんみたいな叱ることができる大人も多かった。行政に言って相談するみたいなこと自体が現代風だ」という意見も、「おーー! 確かに」って思った。面白かった。
だから、それだけで、どちらの記事も読んでよかったなーという感想なのだけれど、「だから、そして、どうなるんだ?」というのが分からなかった。
まぁでも、そんなことを要求するのは、こんないつも、わけのわからないことを量産しているボクが言えたことではないのだ。
でもどうなんだろ。公園クレーム問題としては、確かに、シロクマさんが仰るとおり、現代社会は、より「潔癖に」なっている(ルールやマナーが増えている)のだろうけれども、近所の公園で、夜な夜なヤンキーがたむろして煩くしてたら、それは公園閉鎖してもらいたくなると思う笑
自分の住んでいるところに面している道路、住宅街なのに車通り多いのだけれども、閉鎖して欲しいって思う笑 たまにうるさい爆音の車やバイク走ってくから。
だから、「静かな」社会とか、喫煙所とかゾーニングされた社会とか、それは悪い社会じゃないって今は思うなぁ。
たぶん、シロクマさん的には、行き過ぎるとそれも危険だよ、という警鐘をしたいのじゃあないかと思うけれども。確かに行き過ぎは危険だろうなぁ。でも、今のところ、そこまで問題意識は、自分の中ではないなぁ。
(以上、どうでもいい感想)
対100なら、厳しい場面があるだろう。力こそがすべてだ、というその「力」というのが、腕っぷしという基準というのは、あまりに非効率だろうな、と人類は気づいたから、ルールというのを発明したのだと思う、たぶん。だから、ルールとして決められているから、人を殺してはいけないのだ)
まえがき
久しぶりに、ブックマークに入っているシロクマさんの記事を読み直した。40代になってからも限界はみえない。それでもできることは減っている。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20230511/1683802800ますます静かに・安全になっていく社会は人間を自由にするか
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20230608/1686216818たぶん、昨今の若者というか、多くの人がそうだと思うが、年上だからといって無条件に尊敬したり、話したりされることを鵜呑みにできる人は少ないと思う。
あんまり、年齢という差が重要じゃなくなっているとは思う。
時間をどう濃密に使って、それをどうインプットしてきたか……その点が違いだと思う。
自分より若くても、自分なんて比べ物にならないくらいすごいな、って人もいるし、経験も知識も全然違う。
前に、ツーリングとかでうざがられる、バイクの排気量を聞く「何ccおじさん」(ナンシーおじさん)という言葉も聞いたことがあるが、同じように「何歳?」という問い自体がナンセンスなのだろうと思う。
すごいことと尊敬できることも違う
あと、「すごいなぁこの人」と思うことはあっても、自分と違う価値観が中心だと、「へー」で終わってしまう。価値観が共有できたり共感出来たりする上で、「すごい」という人がやっぱり尊敬に値する人だと思うわけだ。
そういう意味で、上で取り上げたシロクマさんは、尊敬できるなって思う。シロクマさんなら、こういう問題や問いに対して、どう考えてどう答えを出すのか、そんな風に思考をトレースしてもいいかな、って思う。
これは、素直な人は別に普通のことなのかもしれないけれど、ボクの場合は、基本的に、自己中心的なので、「人は人、他人は他人」という意識が、ずーーーっと、それこそ自我が芽生えた時からあったような気がする。
より若いときは、「人と合わせることが逆にイヤ」というあまのじゃくてきな面倒くさい人間だったような気がする。
最近は、「人と合わせた方が色んな面でとても良い」というケースがあるので、悪いことじゃないんだなーって思っている。これが「大人になった」ということなのだろう。形容詞的に、「みにくい大人」なのか、「ずるがしこい大人」なのか分からないけれども。
あと、「年上」って、逆にバイアスがある気がする。要するに「年上なんだから、もっとできるでしょ」ということ。見る目が厳しいってことだね。
でもこれも当たり前で、同じ能力があったとして、30歳でできる人と、40歳でできる人がいたら、30歳でできる人の方がすごい、って思うじゃないか。時間は平等なのだから、仕方がない。まぁ、光速に近づくと時間も相対的に変わるものなのだということだけれども、人間の人生という面においては不変と言っていいだろう。
そういう意味でも、シロクマさんならどう考えたり思うのかな……っていうのは、自分の中でも珍しい面白い感覚な気がしている。
ということ自体は、もっと前から思っていたけれども、数年たってもその気持ちが変わらなかったから、今回書いておくことにした。
よりよい社会って何だろう
戦争して人を殺すことも、正義な面がある。どう考えても、某国は間違ってると思うし、滅びてしまった方が「より良い社会」になる気がするけれども、しかし一方で、某国においてはそこに「正義」があるわけだ。
何も正義がなければ、さすがに現代社会で成り立つとは思えない。
一定の安定した人がいて、「この正義は正しい(守るに値する)」と思うから、社会が維持されているのだと、思う。思いたい。
まぁ、複雑な国際社会のことは分からないから置いておいて。
一般の、例えば、公園で子供の声がうるさいといったクレームに関する話とか。
ぶっちゃけ、戦争レベルの話と比べたら、ものすごくどうでもいい話である。
しかし、それは「比べたら」の話であって、当人たちにとっては由々しき重大な問題だ。
むしろ、(遠い)戦争なんかよりもよっぽど重大だ。
公園問題の詳細は、まぁニュースでも色々やってたし、興味があれば上のシロクマさんの記事から辿っても良いと思う。
公園が、子どもの声がうるさいというクレームから閉鎖された、という話だ。
このタイトルだけ見ると、「クレーマー」な話な気がする。
ネット的にも、行政の判断が間違ってるのでは、みたいな論調が多かったような気もしないでもなかった。
いっぽうで、児童虐待的な場合は、行政の判断が遅い……みたいな論調が多い気がする。
そのどっちが正しいとか、良いとか、ボクは正直どっちでもよい……どっちでもよいというとちょっと違うが、気になるのは、「どちらが主流の意見なのか」ということである。
判断のために必要なこと
社会的な問題を考えるにあたって、「個人的な見解」というのは正直どうでもよいことだ。ルールがあって、法律があって、それによって社会は成り立っているのだから、それは曲げるべきではない。法律も「解釈」があるから、その解釈が誤っていることもあるだろうし、それを正すことは大事だろう、そして、そもそも法律だって人がつくったものだから、誤ってたり時代にそぐわなかったら変えるべきだろう。
ただ、既に発生してしまった問題については、既にあるルールを「適用」することでしか解決すべきではない。
そこを崩すと、力が強いものが支配する、ような世界になると思うからだ。
「個人的に納得できない」
ことがあっても、決められたルールにもとづいて「社会的に判断する」ということが、現代社会という、人類が長い血なまぐさい馬鹿らしい歴史を経て開発した発明品なのだ。
(と思う。関西では、この後に「しらんけど」と加えるのがよいらしい(かっこ笑い))
一般的にどういった感情があるのか
なので、結論的にどうなったかとか、法解釈としてどっちが正しかったのか、というのは二の次で、ボクが気になるのは、「一般的にどういった意見が主流なのか」ということである。この「一般的に」というのは、所詮はネット上でのことだし、ニュースや、新聞ほかの情報源にはあたりたいと思いつつも、「普通の人は、こういうことがあったらどう思うのか」ということが気になる。
それは何故かというと、「自分の個人的な意見(感情)」と、「普通の人のそれ」が、どの程度「ズレ」ているのかを知りたい、と思うからだ。
先に書いた通り、ボクは大人になった。
だから、「人に合わせる」こともできるようになったし、しなきゃいけないとも思うようになった。
その際に、「一般的な」感覚というのが大事だと思うのだ。
それは、「合わせる」ことにも大事だし、逆に、主張するときにも大事だと思う。
「こういう意見が大半ですが、こういう点で、自分はこう思うのです」
こんな論調だと、人は耳を傾ける、かもしれない。(結局内容によるだろうが)
自分はどう思うか
と、抽象的なことを書いてきたけれども、割と自分の中では大事だと思っていることだったから、まとめて書けたのは良かった気がする。後で読んで、その主旨が伝わるかどうか、それはいつものごとく、分からない。さて、せっかくだから、その公園クレーム問題について、「ボクの考えや思ったこと」を試しに書いておけば、シロクマさんは結局どっちの未方なんだろ?笑 わかんないや。
って思った、ということだった。
引用されている記事の、実体験をもとにしたクレーマー側の意見の方が面白かった。
そのおかげで、「あー。確かに「子供たち」という言葉には、いろんな意味が含まれているな」という視点が得られた。良いもの読んだな、と思った。
それに基づいた記事がシロクマさんの記事で、更に、「当時……カミナリおじさんみたいな叱ることができる大人も多かった。行政に言って相談するみたいなこと自体が現代風だ」という意見も、「おーー! 確かに」って思った。面白かった。
だから、それだけで、どちらの記事も読んでよかったなーという感想なのだけれど、「だから、そして、どうなるんだ?」というのが分からなかった。
まぁでも、そんなことを要求するのは、こんないつも、わけのわからないことを量産しているボクが言えたことではないのだ。
でもどうなんだろ。公園クレーム問題としては、確かに、シロクマさんが仰るとおり、現代社会は、より「潔癖に」なっている(ルールやマナーが増えている)のだろうけれども、近所の公園で、夜な夜なヤンキーがたむろして煩くしてたら、それは公園閉鎖してもらいたくなると思う笑
自分の住んでいるところに面している道路、住宅街なのに車通り多いのだけれども、閉鎖して欲しいって思う笑 たまにうるさい爆音の車やバイク走ってくから。
だから、「静かな」社会とか、喫煙所とかゾーニングされた社会とか、それは悪い社会じゃないって今は思うなぁ。
たぶん、シロクマさん的には、行き過ぎるとそれも危険だよ、という警鐘をしたいのじゃあないかと思うけれども。確かに行き過ぎは危険だろうなぁ。でも、今のところ、そこまで問題意識は、自分の中ではないなぁ。
(以上、どうでもいい感想)
あとがき
(かっこ書きである。FF16買ってみた。PS5とセットになっているやつ。6/30ぐらいに届くらしい。そんなに楽しみ……なわけでもない笑 なんか、今やってるゲームもなんかのめりこめない気持ちも出てきたから、衝動買いした感じ。あと、ブループロトコルというPCゲームもインストールしてみた、けど、これもまだ始めてない。なんか、新しいことするのがほんと億劫なんだよなぁ……。これは、歳をとったから、ではない。もとからそういう性格である。何か一つのことに集中しているのが好き。仕事とか、そんなこと言ってられないのだけれど。でもほんと、時間的にも、身体的にも、いずれ限界はくるのだから、できるだけ、「負の感情状態」というのは廃していきたいと思う。正直無駄だから……。若いころの苦労的なのは、まぁ仕方ない面はあると思う。ある程度苦労しておかないと、年取ってからの方が、軌道修正や、リカバリー(れじりえんす?)能力が低くなってるだろうから、致命的になってしまうかもしれない。でももう中年なのだし、40代になったら初老なのだし、1日でも、1時間でも多く、「良い感情状態」を保てるようにしていった方がよいと思う。もちろん、個人的な快楽を追い求めるということだけではない。自慰行為を1日中継続しても、それはそんなに気持ちいいことではないだろう。何かこう、人の役に立つというか、存在意義的な何かがある行為行動ができた方がよいと思っている。でもこれも難しい。見ず知らずの人に、1万円を寄付したからといって、何か自分の中に心から嬉しいという気持ちが沸き上がることは、まずない。むしろ、1万円以上を、働いて、給料から天引きして社会(国や地方に)払っているのである。会社で役立たず……と罵られている人が、給料泥棒といわれてしまったとしても、いやそんなことないと言ってあげたい。その、あなたに支払われた給料の中には、国税地方税、社会保険料とか含まれているのだ。つまり、その会社では何の役に立ってないかもしれないが、あなたは、日本国民全体を支えているのである! 詭弁かもしれないが、ただこれは事実なのだから、自己尊厳が損なわれたら、お金がどういう流れになっているかという、中学校公民ぐらいの知識は思い出してよいのではと思う。社会に出ておらず、望まれてもいない子供はどうか。年金暮らしになった老人はどうか。そもそも、人の役に立たないひとは価値がない論を誘発しないか。それは正しいかどうか。……色々、あまり普段意識しないことが多い。ただ、「生きる」ことにおいて、「死ぬ」ことが迫ったときに、もしくは、大事にしていた価値観が喪失したときに、色々考えを巡らせておくことは悪いことではないと思う。そもそも今ボクは子供がいないから、社会的に不要な人間な可能性がある。エンタメの世界だけかもしれないが、40歳までに子供を産んでいなかったら、社会的に不要な人間として処分される社会があってもおかしくないかもしれない。男は、精子を提供したかで判断される。で、結婚して子供も育てていた男が、実は妻となっていた女が、実は別の子供を孕んでいて、男は、自分は処分対象じゃないと安穏していたところ、40代間近になってそのことが発覚し、処分されたくないからといって女に子供を産ませようと焦って更に犯罪を犯してしまう……とかそんなストーリー、だめ、か笑 怖い社会だけれど、行き過ぎた「規制」とかはいずれそういったディストピアをうむ可能性もあることは、想像してもよいのではと思う。子どもがいなくても、税金納めてるのだから、社会の役には立っていると思う。ただ、社会の再生産という点においては貢献できていない。いや、教育業界や保育園に勤めていたらそれは貢献しているのか、しかし、個人としてみたときに、子どもを増やすことには貢献できていない、その点を突かれるのだろうか。分からない。しかしこの、役に立つ役に立たないといった二分法で人の生き方を決めるというのは、感覚的には間違っているし誤っていると思う。しかし、何も深く考えず「それはおかしい」としか言えないと、言葉巧みにそれに近い政策がとられて採用されて、いずれそういった方向性に社会が変わってしまう可能性もある。「人を殺してはなぜいけないのか」これについても、「いけないからいけないのだ」というのは一つ答えとして正しいが、ある程度自分の中でも答えがあった方がよいと思っている。武力が強い、腕っぷしが強いものが正義という社会は、危険で発展性に乏しいから、とか、一つすぐ思いつく理由。腕っぷしが強くても、いまや、刃物や「銃火器」があるので、人を殺すのは簡単だ。いくら剣の腕が優れた戦士でも、寝込みを襲われたら、または、1対100なら、厳しい場面があるだろう。力こそがすべてだ、というその「力」というのが、腕っぷしという基準というのは、あまりに非効率だろうな、と人類は気づいたから、ルールというのを発明したのだと思う、たぶん。だから、ルールとして決められているから、人を殺してはいけないのだ)