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離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「価値あるものに投資を」「無駄なものはカットを」

情報整理

 先週、株式投資を始めた。現在の評価額は、8600円ほどプラスである。
 なるほど、単に消費をする趣味よりも、面白いかもしれない。何が面白いかと言えば、企業や、景気といった、経済に関する情報収集の積極性が向上するということだ。

 そして、もう一つ、行動に変化が現れたのは、コスト意識である。
 確かに、投資で利益を生むというのは大切なことかもしれない。しかしながら、8000円だかのお金を生むよりも、今、自分にかかっている費用を削減することの方が、よほど効果は高いと思われる。

 その最たるところが、通信費である。

スマートホン
6,165円-500円(スマートバリュー) = 5,565円

ネット
4,860円

 高い。何もしなくても、1万円が消費されるのだ。確かに、不満が現状あるわけではない。しかし、もっとコストダウンができるはずだ。というわけで、格安SIMというものを検討してみることにした。

格安SIMをゼロから調べる

 格安SIM。
 言葉は知っている。しかし、何だかよく分かっていないのが正直のところであった。恥ずかしい。
 SIMカード? SDカードと違うの? ……と、さすがにそこまでは思っていなかったが、auとかのキャリア(会社)ってのと、何が違うのかとか、どういった手続きをすれば乗り換えられるのかとか不明だった。


格安SIMへの乗り換え手順
http://www.hitode-festival.com/entry/2016/04/03/094919

 上のサイトが参考になった。
 MVNOとか、MNPとか、まったくわからなかったが理解した。
 記憶定着のために書くと、MVNOは、モバイルヴァーチャルネットワークオペレーターの略称で、まぁauとかドコモとか大手以外の通信業者である。大手キャリア(会社)の通信網を間借りしているという。通信費を安く提供できるので、格安SIMと呼ばれる。
 MVNO≠格安SIMである。MVNOが、安いSIMカードを販売しているのだ。SIMカードって何かというと、通信するためのIDみたいなもんだ。認証装置。それによって月額請求される。(微妙に理解が違うかもしれない)

 MNPは、モバイルナンバーポータビリティーの略。各通信業者間で、同じ電話番号が使える仕組み。3000円かかる。

 まぁ、細かい仕組みはともかく、株式投資と同じで、まずは実践である。
 実践のため、見積もりを自分でしてみた。

 大きく作業の流れは3つに整理できる。

1.MNP申し込み(au解約手続き)(※1)
2.欲しいフリーSIM対応のスマホを選ぶ(※2)
3.フリーSIMカードのプランを選ぶ(その際、1.の予約番号を入力)

※1:要確認だが、MNP申し込み=auの解約になるっぽい。
※2:新しいスマホの人はそのまま使える場合があるらしい。が僕は古すぎるので×。

(疑問:1.の解約手続きしたら、その時点でスマホの通信すべて使えなくなるのでは?⇒アンサー:多分ならない。MNPは15日間有効。で、切り替え作業を、転入先のSIM&スマホで行わない限りは、転出元のスマホの通信は生きていると思われる。根拠このサイト

どこから購入するか

 モバレコ
 というサイトから購入すると、初期手数料(事務料)が無料になるとのことで、検索。

U-MOBILE
通話プラスダブルフィックス
https://sumaho-mania.com/products/detail/37
一か月あたり1,598円
というプランを発見。
データのみ、ってのもありかなぁと思いつつ、スマホをもっていない人とは電話ができないので、通話は必須と考える。データ通信は、1GB以下でよいのだが、それより安いのが見つからなかったので、1GB~3GBのプランとする。


 次に、欲しいスマホの本体機種を探す。そのプランで対応している機種を調べる。

U-MOBILE
対応機器一覧(通話プラス)
https://umobile.jp/support/devices/d/

 次にこの中から、びびっと来る奴を探す。

 格安SIM(フリーSIM)対応のスマホって、中国とか韓国とか台湾製品が多かった。SAMUSUNGは韓国で、PCのディスプレイはそのメーカーで、特に不具合もなく不満はないものの……。
 ASUSは有名な台湾メーカーだけど、昨今のPC不具合の諸悪の根源の気がして印象が悪い。

 そんな中目を引いたのは、

FLEETEL極
https://sumaho-mania.com/products/detail/114
一か月あたり2025円(2年分割)

 フリーテルとか、初めて聞いたが、どうやら日本のメーカーらしい。じゃあこれでいいや(テキトー)。


 ふと気づく。
 現在の月額料金には、ウイルスソフトの使用料も込みである。それも足してあげないと、正確な見積もり比較にはならないだろう。ということで、ウイルスバスターを検索。

トレンドマイクロ
ウィルスバスターモバイル
http://safe.trendmicro.jp/purchase/vbma.aspx
一か月あたり235円


 以上から、SIMプラン+端末分割費用+ウイルスソフトを計算すると、

見積もり
1,598+2,025+235 = 3,858円

 となる。

 おお。安そうである。そいでもって、基本、僕は新しい機種を買うことは殆どなかろう。AUの契約は16年ぐらいで、今のスマホは4年ぐらい使っている。ガラケーで機種変更したのは、2回か、3回ぐらいだったと思う。平均、4年に一度交換って感じだ。

 じゃあ、今すぐ手続きをしようか、どうか。

マイナス要素

 しかし、違約金という存在を忘れてはいけない。

違約金

au契約解除料
https://www.au.com/support/service/mobile/procedure/contract/cancel/cancellation/
9500円(誰でも割り)+3000円(MNP手数料)= 12500円

 ということで、僕の次の更新は、

(次回更新月2017.12~2018.01)
12500÷ 6か月 = 2083円

 

(ちなみに、auウォレットポイントという奴が2000Pほどあったが、面倒だからこれの考慮は無視)

比較

 というわけで、違約金の支払いも含めて、検討。

07月~12月

5,565円 < 3,858円+2,083円(違約金)= 5,941円

差額:376円
損:376×6か月=2,256円

01月以降

5,565円 > 3,858円

差額:1,707円
得:1,707円

1,707×2か月 > 2,256円

∴2018年2月以降に得をする(違約金分の回収ができる)。


 という結果になった。

 結論として、最新の機種を使えるというメリットはあるが、出費という面では、むしろ高上り(月額400円弱)になるため、敢えて今の時期解約する必要はないと判断。

逆に、もっと安いプラン、もしくは、安い機種にすれば、今すぐ解約してももとは取れることになる。
(仮に、契約更新時期が、6か月よりも長かった場合も、今すぐ解約してももとは取れるという場合がある。例えば、12か月後が更新時期だったら、12500円÷12か月となり、1041円が月額に付加される。そしたら、違約金込みの月額は、3858+1041=4899円となり、現在の月額5565より安いので、すぐ解約した方が得)

まとめ

 格安SIMへの乗り換えは行おう。ただそれは、2017年12月からとする。

 ちなみに、ここまでの検討に、3時間ぐらいかかった。
 もっと他のプランがないか、もっと他によい機種がないかとか考え始めると、もっともっと時間が過ぎていく気がする。

 こういった時間の消費というのも、実はコストの一種である。

 こういう煩わしいことを考えなくて済む、という意味で、大手キャリアauドコモソフトバンクへの支払いというメリットは、考えてもいいと思う。取り敢えず安定してサービスが受けられるってのは大事。

 ただ、株式投資とかするんだったら、どっちかっていうと、初めにすることは、企業の損益計算書を見るのも大切だが、自分の所得費用の収支をしっかりおさえることだ。

 株で10万もうけても、無駄な出費を30万したら、いつまで経っても貧乏のままである。


(その「無駄な出費」ってのが何かってのはよくよく検討の余地がある。例えば、僕はオートモービル系を所有しているが、その税金とか車検整備とかの費用ってバカにならないわけであって、そんなんうっぱらって、自転車生活でもすりゃあコストダウンじゃん? ってのは最もだが、果たして、それでいいのだろうか、ということだ。価値あるものに投資し、無駄なもとのをカットする。当たり前のことで、当たり前に重要で、誰もがうんうんそうだよねということであるが、しかし、その個々基準を考えることの重要性については、結構みんな無意識な気がする。例えば飲み会の費用とかコンパとかって――強制終了)

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今日の一言「少し直近のことを整理しよう」「書かなければ落ち着けないという哀しい性哉」

政治について

(この章は、先日メモしたものである)
 とある国々で、大統領選挙が迫っているという。

 このブログでは、政治・宗教に関する主張は一切行われない。どういった政党や政策が良いだとか、どの宗教が正しいだとか、そういうことは一切書いたことはないし、これからも書かれないだろう。

 理由は、無意味だからである。政治や宗教は、「信仰」の問題である。または、「ゲーム」である。議論の様相を見せることがあっても、議論にならない。ある「正しいこと」について、他者をどれだけ多く巻き込めるか、その点だけが重要なのである。



 しかし、これらの問題は、「自己」という、極めて個人的な問題を考えるにおいても、無視することはできない。何故ならば、自己もまた、単一で成り立つ独立した存在ではなく、他者を始めとるする関係性の中で存在するものだからである。

 この感覚については、納得のいかない人も多いだろう。「自分は自分だぜ!」と思う人もいるだろう。このことも、ある意味宗教的な……というと語弊があるが、「信仰」に過ぎないものである。「どの次元での成立(存在)を前提としているか」によって、自己と環境との関係性に係る実感は変わってくる。


 先に、このブログでは「政治宗教は扱わない」と書いたが、この意味は、「信仰全般」を扱わないという意味である。もっと厳密に書けば、「誰かが正しいと思っていることについて、それを否定するつもりはない」ということだ。


 このことを前提として、それでも、「政治問題」「国際情勢」については、考えたり、情報収集しておく必要はある。
 ただそれは、「みなさん、ちゃんと選挙には行きましょうね」という主張なのではなく(※)、どういった仕組みで法律が、政策が決まっていくのかという仕組みを理解することが先決である。と、同時に、どういった社会(政治)が、自分にとって望ましいのか、何が「幸せ」なのかということについて、考えておくことが必要であるということだ。


 医療、老後(年金)、子ども、教育、外交(防衛)、経済。

 様々な問題がある。それらを、一発で解決できる法律も存在しなければ、政策も存在しない。ちなみに、どんな政策も、基本的に「法律」に拠っていることについて、覚えておいてよいだろう。政治とは極論、法律をつくる仕事だ。僕らの生活は、基本的に、法律のもとに成り立っているのである。役所に行けば、住民登録されているのが分かるけれども、それだって、住民基本台帳法という法律で、どんなことを書かなければいけないかなど決まっている。それは社会保障など、明らかに政治に関係しそうなことだけでなく、経済活動だってそうだ。消費者向けの法律は製造物責任法が有名だろうが、会社法など、僕らの所属する組織だって法律で定められたことに則っている。



※でも、路上のデモ活動とか、ヒップホップで政治批判とか、飲み屋の愚痴でも何でもいいけど、そういったことを言ったりしたりする人たちは、当然、選挙には行っているんだよね? とは思う。国会で通過した法案について、「やめろ! 廃案だ!」とか言ってるのは、手遅れである。もちろん、まったく無意味とは言わないが、それよか、議員の方々に嘆願書を送ったほうがよい。もっといえば、そんな法案を通過させてしまうような議員を選んでしまったことが問題なのである。
 ただし、この問題は、そう単純でもない。何せ、どの議員が、どんな政治信条をもっているかなんて中々分からないし、それが、さらに事細かな政策について(例えば、漫画やアニメの表現の自由についてとか)にまでどんな感覚をもっているのかだって、分からないのである。Aという政策に共感したからα議員に投票したけど、その人は実はBという政策も主張する人だったとして、Bという政策はほんっとうに許せないと思ったとしても、後の祭りである。であれば、できることはデモくらいになる。

余すことなく主義主張と思考を書く

 なんでこんな、政治に関するリスキーなことを書いたかというと、そろそろ、「自己」に関することについて、大体全部書ききったような気がしているからだ。

2016年5月の記事において、以下のキーワードを挙げていた。

「生きる意味」「肯定感」「潜在意識」「ポジティブ」「ネガティブ」「対人関係」「コミュニケーション」「苦悩」「苛々」「ロジック」「整理」「感情処理」「空(仏教)」「宗教」「科学」「記憶」「アイデンティティ」「ストレス」「小説」「エンターテイメント」「創作」「凡人」「仕事」「価値観」「ルーチン」「学習」「計画」「目標」「目的」「死」「理想自己」「幸せ」「自己実現」「真実」「永続性」「アウトプット」「インプット」


 多分、それぞれのキーワードについて、僕がどういった感覚(実感)をもっているのかは、大体全部書き終わっていることだろう。
 もちろん、具体的な方策だとか、その記載内容を深めたり、表現の見直しなどは必要だろうと思う。ただ、例えば「幸せ」「死」なんていうキーワードで記事を書いたところで、これ以上はあまり変化は見られないだろう。

 であれば、もうちょっとそういったキーワードを体系的に整理するか、もしくは、違った視点から書いていく必要があると思うわけである。

生きる意味とは自分を知ることである

 ある方からコメントを頂き、うんうん、なるほどと首肯した。

 しかし、同時に、何か、違和感があるのである。
 それが何か、はっきりと表現できない。彼の方が真理に到達し、自分が到達できていないことへの焦りや瞋恚があるのだろうか?

 恐らく、だが、「自分」への拘りについての危険を思っているのだろう。
 僕は昔(いや、今もだろうが)、自分の内面をとことん探っていった。しかし、現在の結論としては、「自分」というものは、世界(物理的かつ精神的な全てを含む概念として用いる)を、他者と分けて考えたものであるということだ。
 故に、自分を知るというのは、自己の内面の深淵に到達するという行為では成しえないものだと思っている。何故ならば、自分と他者との境界というのは、非常に曖昧であると考えられるからだ。

 ということは、自分を知るというのは、その他者との境界線を引いていくという作業を指すことになるが、明確なラインを引けたところで、その根拠は覚束ないものに他ならない。その瞬間、その環境では「自分」の定義ができたところで、次の条件では変わってしまうことがどうしても起こるだろう。

 そんな風に感じるようになってから、僕は、「自分」というものに拘ることができなくなっていった。

 こんな表現をすると、いやそもそも、お前はお前に過ぎないだろう? と思われるだろう。
 そのとおりであり、物理的身体としての自分というものは、否定できるものではない。

 僕は、僕として存在する。そのことについて否定したところで、何ら意味は無いだろう。


 しかし、否定はしないけれども、積極的に肯定することもできない。

自分を否定して生きる意味を考えることはできない

 自分、を、前提に置かずして、そもそも文章は成り立つのだろうか?

 先日、「頭がいい人はすごいなぁ」と取り上げた文章の一つに、「文章は所詮、一人称になってしまう」というものがあった。思考には論理性、事実には再現性が重要であるという、あれだ。


 しかし、世界の真理がどうであれ、個人として、自分として、世界に対してどう生きるのかということを問うときに、その問いを放つ主体、それを「自分」というわけであるが、その自分を考えないで、そもそも生きる意味など考えることなどできないに違いない。

1.生きる意味を考える ならば 自分が存在しなければならない
2.自分が存在する ならば 生きる意味を考えなければならない

 ここで、2.は矛盾である。しかし、

3.私は遠藤である
4.遠藤である ならば 生きる意味を考えなければならない

 というのは、今のところ、真である。

 では、

5.幸せである ならば 生きる意味を見つけられている
6.生きる意味がなければ幸せではない

 というのは成り立つだろうか?

 そもそも、問いが矛盾なのだろうか?

 いや、問いをすること自体に、正も偽も存在しない。問いの内容が正しいか、矛盾かどうかである。
 その、文章のことを、論理学では「命題変項」という。真偽というのを、「命題定項」という。

生きる意味があることの証明

 証明、なんて仰々しい言葉を用いたが、ただの言葉遊びである。

 ただ、自分は、生きる意味があることの証明をしてみようと思う。

1.意味とは価値のことである
2.価値は、相互関係(影響)により生じる
3.私は生きている
4.生きているならば相互関係が生じる
5.私は生きていて(3)、相互関係を生じさせているから(4)、価値がある(2)
6.私が生きていること(3)は価値がある(2)ことだから、意味がある(1)
7.6を簡略化すると、私には生きている意味があることを導ける
[以上証明完了]


 なんてつまらない証明だろうか!

 しかし、僕は普段から、「ああ、僕なんて、生きている意味があるんだろうか……」なんていっているが、しかし、上の証明の次元においては、生きる意味があることを、ちっとも疑っていないのである。

 しかし、上の証明が、多くの、自殺を企図する人たちに、何ら救いにならないことは明らかである。

 では、何が足りないのか?

 ……。一見、矛盾は見当たらない。しかし、不思議と、上の証明は嫌悪される。何故か? どこに綻びがあるのか?



 それは、いっちばん最初からである。つまり、意味とか、価値の定義がよろしくないのである。

意味とは

 いや、定義自体は間違っていない。ただ、「生きる意味とは何だろうか?」と問うときの言語表現には、言外の意味が込められているのである。
 それは、「生きる【良い】意味とは何だろうか?」ということだ。

 良い。

 このカッコ内の言葉は、良いでも、充実したでも、幸せでも、何でもかんでも構わない。
 ここで分かることは、「意味」という言葉を用いたとき、僕らは、非常に「恣意的な」意味を内包させているということである。


 例えば、「無駄な意味」という表現は成り立つのだろうか?

 僕は、成り立つ、と思う。ただし、意味という語に、「価値」という同義語をあてるならば、成り立たなくなるだろう。
 価値とは何か? それは、「良い」とか「役に立つ」性質や程度のことである。無駄、というのは、役に立つという語の反義語である。ということは、無駄な価値というのは、形容矛盾である。
 しかし、広義にとらえるならば、無駄な価値(反価値)を含めて、「価値」という語で表現することも構わないだろう。

 ただし、こういった言葉の用い方は、言葉遊びに過ぎないだろう。言語は、文脈において意味を放つ。「価値がある!」といったときに、「無駄だ!」という意味を込めて叫ぶ人はいない。
 価値という語自体には、反価値という意味が込められていようが、文脈においては明らかに「役に立つ性質」という意味で用いられるのである。


 話を戻す。

 生きる意味とは何か。

 さっきの証明からもう一度引用しよう。

>1.意味とは価値のことである
>2.価値は、相互関係(影響)により生じる

 2.の、相互関係を生じさせるもの、ということだが、ここに、「良い」という意味を含ませてみる。

 そうすると、中間的な表現はすっ飛ばして、

>6.私が生きていること(3)は価値がある(2)ことだから、意味がある(1)

 という部分に、

「6.私が生きていること(3)は【良い意味での】価値がある(2)ことだから、意味がある(1)」

 という「良い性質」を加えてみて、もう一度考えてみる。

 さぁ、遠藤くん、君は、良い相互関係(影響)を生み出しているのだろうか?

良い影響

 生きる意味を考えることは意味がある または 生きる意味を考えることは無意味だ

 上の論理式は、真(正しい)ものである。

 意味があるかは不明であるが、論理的には正しい。
 何故ならば、悪魔の証明のように、どちらの文章(命題変項)も、100%証明することは不可能だからである。

 生きる意味が完全に無意味だということを、証明できる人はいるだろうか?

「俺は、そんな難しいこと考えることは、絶対に無意味だと思うね!」
 という人がいたとしよう。しかしそれは結局、一人称の文章である。論理的ではない。再現性もない。

 そう、君がそう思うならそうなんだろうね。と言われるレベルである。
 しかし、逆もしかり。

 生きる意味を考えることは絶対に正しい! と言い切ることもできない。


 そうなってくると、だ。
 結局、最初に取り上げた、彼の方の仰る通り、「信じられるのは、己の感覚のみ」みたいなことになってくる。
 思考によってこねくりまわされた論理や言葉には、感情がこもっていない。実感がない。それらは、ふぅと息を吹きかけるだけで飛んで壊れてしまうような、幻影に過ぎないのではなかろうか。


 そうするとやっぱり、自分とは何かってのを、とことん突き詰めていくしかないってことなのか。

 きっとそれは正しいのだ。

 にもかかわらず、僕は、まだ、違和感を覚えている。何故か?

 それは、良いという感覚自体もまた、盤石なものとは思えないからなのだ。(最初に書いた違和感のように、自分と他者との境界線が曖昧である以上、自分の感覚というものが絶対的な拠り所であると思えないという事態に起因しそうだ)


 であれば僕は何がしたいのか?

 僕は何なのか?

 僕は誰なのか?


(続く……のか? 例えば、「良い」というのが良く分からないと書いたけれども、先日の「ぐちゃー」っとした記事について、書いているときは本当に消そう消そうと思っていたし、次の日にも消そうと思っていたのだけれども、拍手ボタンが2回という表示になっていたため、ああ、じゃあ消さなくてもいいかなって思い始めてしまった。ということは、僕自身の「良い」という感覚は、他者の評価によって簡単に翻ってしまうものなのだろうか。だがこのことも、人間としてはさほど不思議ではない。例えば、良いのか悪いのか分からないような作品ができあがったときに、自分の尊敬する方が、「おお、これは面白いじゃないか」と言ってくださったら、そりゃあもう傑作を生みだしたような気持になるのではなかろうか。そして、そんなときの評価ってのが、実は嘘や欺瞞だったとき、「裏切られた」という心性は高ぶるのではなかろうか。でもそれって、勝手な感情に思える。結局、芯をもって、自分を信じられていれば、他者の流動的な評価になど惑わされずに済むのだから。)

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今日の一言「衝撃を受けたときに言葉は中々生まれない」「ホントは本のまとめをする気だったのにね」

音読の勧め

 今週の目標を達成。V.E.フランクルさんの「人間とは何か」を、180ページまで読了した。
 ちなみに、いずれ書いておこうと思うけれども、「音読」はお勧めできる勉強(学習・理解)方法である。寺子屋で漢文を素読していた古臭い感じを受ける人は、脳科学の川島さんの本を読んでもいいだろうし、まぁ、理論的な云々はさほど重要ではないけれども、僕の「実感」として、黙読している時よりも内容が頭に入ってきているし、銘記もできている。
 もう一つ、音読のメリットとしては、スマホか、ICレコーダーをお持ちであれば、是非録音してみるといい。それで、ウォークマンとかiPodとかスマホに入れて、何だか勉強する気になれない時にただ流すだけでもいい。「聞くだけで英語力がUP!」というのは嘘っぽいが、自分の声で、自分が一度読んだ本の内容を聞くのは、復習の効果を格段に高めてくれる。
 さらに、録音することのメリットは、学習時間の記録が同時にできるということだ。目標を達成するには、明確なゴールを設定することも大切であるが、同時に、自分の実績を把握することも大事である。小学校ぐらいのときに、宿題の提出記録を、模造紙に貼りだされたグラフに、金ぴかのシールで段々積み上げていったようなことがなかったろうか。まぁ、ビジネスの営業成績のグラフみたいで、今考えると何とも言えない不快な感覚にもなるけれども、幼いころは、その金ぴかシールが段々増えていくのが単純に楽しかった。
 単純に楽しい、そういう感覚、非常に重要である。

実感を大切にすること

 宗教、信仰、価値、意義(意味)、これらのキーワードについて整理したい。ただし、根底にあって、最近僕が絶対視しているというか、常に忘れないように、心に深く銘記しようと試みているのは、「実感」というキーワードである。

 先日の記事で、「どいつもこいつも好き勝手言いやがって」と書いたが、これはとにかく、このブログにコメントをくださる方々を対象としているわけではないことを最初に書いておこうか。実はまた予約投稿が実行されて、気になっていたのである。これ(物理環境とコメントと、苛々の根源に対する記述問題)については、また、別途書いておこう、今回は一切触れないこととする。

 それはともかく、実感、この言葉の意味を定義しておきたい。
 これを書いていくには、まず、宗教とか信仰とか、価値観ということに対しての、僕の立場というか、考えを打ち立てておく必要がある。
 まず、僕は、無神論者である。「神はいない」という立場である。一方で、悪魔の証明ではないが、いないことの証明もできないと思っている(神を悪魔というか! この罰当たりめが!)。
 一方で、宗教についての価値は認めている。ただし、これは、宗教一般の概念への肯定であって、何か特有の宗教を信じているということではない。キリスト教、仏教、ユダヤ教、イスラム教、マニ教、ゾロアスター教、アニミズム、古今東西様々な宗教がある。その中で、かなり信仰者が多いキリスト教に対して、僕は違和感がある、いやすぐさま書けば、キリスト教をモチーフにして「説法」をする人たちの言説に対してである。例えば、「聖書ではこう書かれてます」「神はこうおっしゃいました」だから、こうしましょう、とすることを言う人や書く人が多い印象である。この「だから」というのについて、それを「納得」できる人はよい。ただ、その「だから」を十分に吟味せずに、誰にでも当てはまる普遍的なもののように語る切り口が許せない、というか、苛々の原因になる。

 これが、「実感」問題だ。上のキリスト教の例においては、別に、キリスト教が悪いとか、間違っているとか、そんなこと思っているわけじゃないのだ。ただ、キリスト教が生まれる前から人類は集団をつくって生きてきたし、現代社会においても、キリスト教以外の宗教を信じている人たちが大勢いる。そんな中で、キリスト教だけが絶対です、というのは無理があると思う。実際問題、キリスト教を信じていないから、僕が苦しみに満ちた人生を送っているのだ、という可能性だってある。それは否定できないだろう。だからそれゆえに、そのロジックで、「神を信じなさい」とされる。これはコマーシャリズムと同じく、不安をあおって商品を買わせる技術そのものである。

 ただし、これは、「高2病」という、既存の概念や一般的に正義と呼ばれるものに対して、何から何まで否定したくなってしまう病気、であるともいえる。ので、昨今僕は、できるだけ「信じる」ことをしようと試みてきたわけであるが、それを具体化、詳細化する前に、生活の大きな変化が発生したために、混乱中であるというわけだ。

信仰についての考え

 中々、書ききれない、これらの問題については、簡単には済まされない。様々な(僕の)問題に派生してしまうため、収拾がつかなくなってしまうから、この記事では、取りあえず、「実感」という言葉の意味を明らかにすることに集中したい。

 まず、信仰という語を考えたとき、これは、「何か超越したものを信じる」ことである。ロジック、論理があって、それでもって納得するものは、「信じる」とはいわない。客観的である、といわれる。
 一方で、信仰という語を用いる場合は、その何か仕組みや原因やらが自分の中で分かっていなくても、「正しい」と信じられるものを指すのである。

 この信仰というのと、「実感」とは、何が違うのか。本質的には違わない。どちらも、信じ、心から感じることである。
 ただし、僕が、これまで、そしてこれからも、この「実感」という言葉を使うときは、「信仰」という意味と、「論理的な納得」という意味の、両方を含んだ概念として用いることになるだろう。

(実感が大事だという例の一つ)

 例えば、最近感じた一つの「実感」を例として書いておこう。ちなみに、良いことがあった日だった(なくなったものが見つかったのだ。大事なものだったから嬉しかった)。
 その日、僕は電車に乗って街にでかけた。行く道すがら、そしてその街の中には、たくさんの人たちがいた。会社に向かう人や、休日としてゆっくりしている人、家族といる人、一人の人、恋人といる人、子どもたち、たくさんの人たちがいた。
 僕は思った。何か、「寂しい」なぁ、と。この感覚! この感覚を認めるのは、中々、僕の中では困難であることを書いておかなければならない。(一般的に間違いであろうけれども、僕は以前、人間きらいだとか、孤独が好きだ、とか書いてしまった、これは認めなければならない)
 何故驚きがはしったかといえば、例えば、今現在、一人で哀しきブログを書いているこの瞬間においては、「さみしい」という感情など、豪釐(ごうり)(少しも)も発生していないのである。
 つまりだ、多くの人たちが、楽しそうに輪になっているのをみると、「うらやましいなぁ」という感覚が生じるのだ、ということだ。ただし、強調して自分に言い聞かせなければならないことだが、そういった「流れ」に任せて、取りあえずの集団の中にいることは、間違いなく僕にとって苦痛であり、精神値を削っていくことになるのだ、ということだ。
 ただ、この感覚が僕に与える「実感」のもう一つの有用点は、脳機能に関する林先生の仰る、「脳神経細胞には、生きたい、知りたい、仲間になりたいという三つの本能があります」ということに対する実感的理解である。
 本能的には、僕も、孤独が好きとか言っちゃいながら、やっぱり皆とわいわい楽しみたい、という思いが発生することがある、ということなのだ。であるならば、その集団に属したときに感じる「つまらなさ」という原因や課題を解決する方策という、問題解決の問いを立てるべきだ、ということが明確になってくる。これは非常に重要だ。この「僕も仲間になりたい! という「実感」はもっているんだ」という実感がなければ、そもそも、孤独の在り方について追求すべき、という問題解決の問いにすべきかもしれないというわけだ。

価値について

 さて、本記事の最後の小見出しといこうか。価値、価値観についての定義というか意味の確認である。もちろん、この確認作業も、「実感」という語の意味の具体化であるという目標へのアプローチである。

 価値が多様化している社会に僕たちは生きている、といつぞやから書いているけれども、これは、「実感」レベルというわけではなくて、知識的に思っているに過ぎないことだ。ただ、身分制度が廃止され、「お家」という拘束力が緩和され、資本主義と社会主義といったイデオロギーが緩解し、神は死んだと言われ宗教性が薄れ、科学の発展により迷信が薄れていった、この現代を考えたときに、やっぱり価値が分散化していくのだろうなぁというのは思うことである。
 だから、反動的に、画一主義的な運動や、全体主義的な思想や、暴力的な現実の中の現実への回帰とかが発生(某国の政治不安や過激派組織の台頭など)するのだ……というのは、それはそれで、価値が多様化した結果による反動であるという意味においては、やっぱり、「神の審級」といったものの強い拘束力は失われていっていると言えるだろう。
 まぁ代わりに、「金融資産」、お金、というものに対しての信仰が強まっている印象であるけれども、まぁそれについては、本記事の目的からそれるから置いておこう。

 では、その価値というものと、実感というものの関係性についてであるけれども、言葉で表すと、「実感の総体が抽象化されて、意味に昇華されたもの」と言える。ものすごく分かりづらくて、多分、後から読んだ僕自身も分からないと思ったから、図示しよう。


(遠藤作:そこそこテキトウ所要1分くらい)

 図を描いていて思ったけれど、価値観、それが即ち、自分自身(自己)であるのだ、ということだ。
 逆に、これまで僕に足りていなかったのは、紫枠の「信仰」要素である。
 疑い深いというか、頑固というか、そういった性格気質が、そもそも誰かを信じるということを苦手にさせていたのだろう。今でも、「この人すごいな!」と思うことはあるけれども、全人格的に見習いたいというか、すごい……と思う人は、現実世界には殆どいないし(殆ど……? 俺は今誰を想像している?)、過去の偉人を含めても中々難しい(こっちは最近増えてきた)。
 こういう人をなんというか。プライドが高い奴、という。プライドが高くて、実行力とか知識とか行動力とかその他諸々、スペックが足りているならそれはそれで有能な人間だが、プライドだけ高くて何もできない奴は、ただのクズよりももっとたちの悪いクズである。「俺だって、頑張ればできるけどね。頑張らないだけだけど」とかいう奴は、ほんっとに救いようがない(お前だ!(かっこわらい))。
 自己エクスキューズってのがあって、「いやぁ、時間が無いけど、取りあえずこんぐらい書いときますわ。まぁ、本当はもっと言いたいことあるんだけどね~」とか、それは違う。お前にとって、それは全力なんだ。全力疾走だったのだ。頑張った結果がそれだ。自惚れるな屑が!
(……と、序盤の方に書いたけれども、他者に対して僕はこういうことを思うことはあまりない。基本的に、自分自身に向かう言葉である。ので、誰かを想定して書いているわけではないことを明確に書き残しておきます)

 この自己エクスキューズが多いと、何が問題か、というと、「実感」が乏しくなっていくのである。
 本当はこうだった。
 本当の自分はこうなんだ。
 頑張れば本当はできるんだ。

 とか、その「本当は」という自己エクスキューズばっかりだと、実感は充実しない。それどころか、これまで培ってきた実感も、徐々に亀裂が(疑問が)入っていくのである。

 その結果がどうなるか、という点に関して言えば、自画自賛だが、上の図はよくできたと思う。即ち、実感が壊れていけば、自己も壊れていくということである。

まとめ

 まとめ、って、苦手なんだよなぁ、一方で得意なんだ。
 この記事をまとめると、「実感を大事にしましょう」以上、だ。

 まとめの難しさというか、苦手意識を思うのは、結局、良いまとめ、というのは、「他者に対して」どれだけよく伝えられるか、に尽きるからである。
 ただ、その「他者」というのが、「誰」を想定するかによって、まとめの仕方が変わってくる。これがめんd……げふんげふん、難しいのだ(この表現は、仕事でのストレスの表現である)。

(長くなったなぁ、30分ぐらいかかったかな。5000字ぐらいか。小説の方は2000字ぐらい進んだ。このブログのペースで小説書けたらいいんだけどなぁ……)


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今日の一言「朝型になろうという試みはかなりの確率で失敗している」「自分でコントロールできない要素が多い問題は解決しづらい」

5時に自然に目が覚める

 目覚ましいらずに、自然に目が覚めるというのは、悪いことではない。ただ、その後、行動的になれるかどうかは、前日の準備次第だったりする。
 あるブログにおいて、朝起きたら、ガッツポーズをするように、とアドバイスされていた。なるほど、これは結構有効かもしれない。ただ、先日僕も書いたけれども、この方も「継続すること」の重要性を述べている。いいな、と思ったことでも、それを書き留めて、心にとめて、実践することなくしては、何かを変えること、改善することはできない。
 この、5時に起きることができた、というのは、良いことではあったけれども、所詮はラッキーに過ぎなくて、再現性はかなり低いわけだ。

ブログを書くこと

 大抵、この書くことは、夜にやっているので、朝に何か書こうと思うと、結構難しい。でももしかしたら、朝に書く内容の方が、能率的で、内容に富んで、ポジティブで良いもの、なのかもしれない。

 書くこと、において、「何を書こうか」ということ、本当は、それが生じているのは、その時点で楽しい行為ではない。僕は大体、自然に書いている、ノンストップだ、ゼロ秒思考だ。
 先日、「ゼロ秒思考」というのが、メソッドとして本になっている、と述べたが、やっていることは似たようなことだけれども、多分、言っている意味は違いそうだな、と今瞬間的に思った。僕が言ってるのは、「思考をゼロにすること」であるが、その本が言いたいのは、「ゼロ秒で思考すること」なのだろう、多分。その「思考する」ことに対しての態度が、多分違いそうである。そういう意味では、ぱらぱら書店でめくるだけじゃなく、ちゃんと本を購入して、その意味をしっかり見定めるのは、レビューをするなら必要なのだろうけれども、必要ないだろう。続けたい方針ではない。

君の名は。ショック

 夢を、見ていたのだけれども、確か、レシプロ機が、二階建ての家の中のガレージに帰ってくるのを迎え入れたのと、友人たちとトランプをしている夢であったような気がする。
 そして、何となく、心がざわついている、――ざわつく、というのは、落ち着かないというか、不安というか、焦燥というか、後悔というか、何だかあまりよくない気分というわけだ。体調が悪いわけではない。何か憂鬱なことがあったわけでもない……と思い、ああもしや、先日みた映画のせいじゃないか、と思った。

 君の名は。は、良い作品だった――それは、自分に対して、「感動」を与えたという意味で。その感動とは、「感傷」なのかもしれない。傷跡をのこしたのかもしれない。
 ああ、しかし、そうだな、書くことは良いことである、そう間違いなく言えるのは、まさに先日、映画を見終わって、何だかざわつく気持ちを、しかし何も言葉が浮かばないときに、取りあえず文字を紡いでいったことで、先日の記事のようになった。

 先日の記事が、果たして良い記事なのかは分からないが、ここに、「自分にとっては良かった」というのは、自信をもっていえる。この感覚、……そうさな、何か「創作」をしたことがある人は分かると思うけれども、自分が生み出した「作品」が、何だか面白いのか面白くないのか分からなくなって、筆をおいてしまう経験はあるだろう。これはもったいないことである。誰にとって、何がどのように「意味」をもつかというのは、とてもタイミング性、偶然性が強いものである。
 ただ、そこには、「わかりやすさ」、例えば定義がしっかりしているとか、表現が美しいとか、ある程度の教養、技術が必要である。
 僕がその教養や技術が十分なのだ、ということを言いたいのではない、そうではないのだが、上の「自分にとって良かった」というものについては、書けるようになってきた、という自信なのである。

 で、あるはずだったのだが、しばらく時間が経って、またしてもその傷跡(映画を見た後の感傷)が痛み出した、ということだ。

書きたいことの枯渇

 ふむ……、うーむ、何だか、やはり朝に書くというのは、中々慣れないというか、書いているうちにテンションが下がってくる。もう少しで出発しなければいけないという、そういう焦燥感もあったりして、あまり落ち着いて書けない。
 この落ち着かないというか、急いで行動をしなければ! という意味において、朝の活動は有効なのだろう。「創作」において朝の活動がよいものかというのは、必ずしも良いとはいえないのではなかろうか。

 何となく、朝にコーヒーを煎れて飲んでいると、優雅な時間の使い方ができているような気がするけれども、ニュースなんかをみていると、気分が現実的になって何とも憂鬱さは晴れない。

 おいおい、最初に書いたガッツポーズはどうしたというのか。

小見出しの数を決めてみようか

 ↑のサブタイトルみたいな奴を小見出しと呼んでいる。HTML的には「h2」タグである。
 読みやすくしようとは思うのである。今年の目標は、繰り返しインプットするために何度も書くけれども、思考の体系化である(いやもちろん、大目標という意味であり、運営サイトの改築とか作品の創作とか、その他仕事とかルーチンとかやるべきこと、目標を立てていることはある。先日書いたように、それら「細かい」目標が、どうにもやる気にならない、という人間としてのモチベーション低下問題が、最近の、いやここ数年の問題である)。

 その体系化するためには、できるだけ「定義」、辞書的な、辞典的な役割をもたせていくことが重要に思う。
 例えば、「幸せとは?」という問いに対して、すぐさま「理想と現実との乖離」と答えることはできるけれども、その意味するところが、記事としては相当ばらけてしまっているため、それに至るまでの思考過程を導出することは非常に困難になってしまっている。そういったのを整理しようというわけだ。

 あはは、笑えることに、なんでそんなことが必要なの? とすぐさま僕の頭は考えるのである。心理学者にでも、カウンセラーにでもなろうというのか、そうではない。であれば、別に他者に分かりやすいように教えてあげる必要などないのではないか? その通りだ、ただ、これについての、必要性についても、もう何度も書いている「気がする」。それは確認のしようがないのだが。

 と、ようやく、小見出し5つくらい書いていると、エンジンがかかってくるのであるが……、ここに至るまで、いろいろ何を書こうかとか考えていたから、30分ぐらいかかってしまっている。いつものペースの半分ぐらいだ。

 思い出したのだけれども、仕事の、人生への結び付け方について、書こうと思ったのだ、そういえば。しかし、すっかり忘れていた。

 ああ、そうだ、小見出しを5つぐらいにしよう。一つの記事を。できるだけ、複数の内容は書かないようにしよう。時間切れ。

(朝は本当に強制的に時間切れだ)

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今日の一言「寒いな」

穏やかな連休

 体調も悪くなく、久々に穏やかな休みを過ごせている。
 こういった、何もない時間、無為に過ごせることというのが、本当の幸せではないかと思う。今後のことを考えると、不安や焦燥だらけかもしれないが、今このときをしっかりと生きることが重要であると、改めて思うわけである。


 上のようなことを思ったとき、僕は、いくつか、気分を悪くする言葉が含まれていることに気づいてしまう。そのことが、何とも、普段の苛々などに繋がっている可能性について、無視するわけにはいかないだろう。

 まず一点、「本当の幸せ」という言葉。他のサイトなど読んでいて、「真理」とかそういう言葉をやたらめったら、吹聴して目指させようとする、そんな表現が好きではない。逆に、「今この時をしっかり」というのも同様に違和感である。

 サピエンス全史という本の中で、科学革命についての興りが記載されているのであるけれども、それは、「テクノロジー」としての発展というよりも、もっと重要な人間の「意識的な革命」が含まれていることが、特筆に値するものである。


 それは後ほど書いてみようと思うけれども、まずは、近況と、それに伴う自分の感情感覚の変化を先にメモしておこう。大したことではないため、逆にそれゆえ、すぐに忘れてしまいそうだ。

身の回りの整理や掃除

 整理整頓という言葉がある。整理と、整頓とは別の概念である。
 整理とは、いるものといらないものを分けることであり、結果としていらないものは捨てることである。
 整頓とは、あるものを、使いやすいようにカテゴライズ、並べることである。

 さらに、掃除とは、チリやごみやカビなどを除去し、綺麗にすることである。

 掃除は好きだけど、整理整頓は苦手、もしくは、整理はできるけど整頓が苦手、みたいに、身の回りの環境を良くするためには、整理、整頓、掃除、これらを総合的に高めていく必要がある。

 まず自分は、整理が苦手なのか、整頓が苦手なのか、はたまた掃除が苦手なのか、自分の長所短所を見定めることが必要なのは、勉強も仕事も恋愛もスポーツも、すべてに通じる大切なことである。


 といった概念的なことって、僕は結構好きだったりするけれども、今の時代(すなわち、すぐに役立つことや効率的なことを重視する傾向)においては、見向きがされないことである。
 まぁそれもそのはずで、結局、そんな概念があったところで、自分がどうするか、という実践面がなければ、ゴミよりも邪魔な知識となるに過ぎない。


 というわけで、水回り、――台所、洗面所、風呂場、トイレの掃除を行った。ピカピカになった。これは結構、気分がよい。廊下に置かれたもの、洋服、スーツなどを整理した。すっきりした。これは結構、気分がよい。

 昨年の引っ越しで、かなり整理(ものを捨てた)が進んだけれども、やはりまだまだ物は多い。
 逆に、新しい趣味的なのを始めたために、物が増えている側面もある。

 例えば、大学の授業や仕事関係のノートとか、資料とか、それらはもう要らないかな。本当は、結構大事なエッセンス(こう、ブログに書いていることの漠然とした知識や話題の、根拠となるもの)だったりするのだけれども、別にこれから先、誰かを絶対説得しなきゃいけないようなことなんて無いだろうし、あったとしたら、それはそれで別の根拠立てすればいいことだし、昔の資料に頼るなんて非効率なのかもしれない。

 ただ、記憶の保持性という面においては、その費やした時間における「場所」や「タイミング性」というのが結構重要なので、残しておいてしまっている、のだけれども、むしろそういうのは、このブログに集約させていってしまった方がよい気がしてくる。

情報の集約性

 うーむ。本当は、タイトルの、思考言語と口頭言語と文章言語について書きたいと思っているけれども、やはり話が中々進まなそうだ。こういうときの書き方、というのも、今後洗練させていきたいものだ。例えば、記事を二つ以上にわけるとか、どのタイミングでジャッジするか、など。

 ええと、前の小見出しの話を引き継ぐと、そうさな、大学とか仕事関係の情報は、個別具体的には書くことができないため、そういう意味で、ピンポイント記憶復元資料として、ブログを活用するのは困難だろう。

 ただ、応用可能性のあること以外の記憶は、正直もう要らないかな、とも思う。

 つまり、大学の時あの授業をしているときに、隣の友人とこんなことを話していたとか、ファミレスで遅くまで遊んだり会話していたこととか、そういうローカルな記憶。
 そういえば、そんなことしてたな~楽しかったね~みたいな、そういった、郷愁的な記憶。

 いわゆる、思い出。

 あったらあったで、いいことだろうし、大事なものだとも思いながら、それが、何らかの資料がなければ復元できないようなものなら、もう捨て去ってもいいんじゃないかと。

 何か分からないけど、いつか役に立つかもしれない。そんな風に思ってしまうことは、恐らく多くの人にとって共通的にあることだろう。何せ、捨ててしまったら、なくしてしまったら、それは「死」と同じ、取り返しがつかないことなのだ。何かを手放すというのは、中々、勇気のいることではあるまいか。

 それはそうなのだけれども、でも、例えば厖大なデータベースの情報があったとしても、それにアクセスするための手段がなければ、それは何ら意味をもたない情報、つまり、ゴミと同じだということだ。
 もちろん、ただ、その管理方法があろうがなかろうが、「情報がここに存在する」というその事実があることは、それだけで「神話的な」意味を持つ場合がある。もっといえば、「安心感」的な充足。それはそれで、価値あることだと思われる。

 ただ、容量オーバーになってしまうと、身体も思考も、処理速度の低下が避けられない。ようは程度の問題だが。
 その程度の問題に過ぎないため、どうにも中々、大きなライフイベントがあるタイミングでしか、整理が中々進まないのである。


 例えば、ポイントカードとか。もしかしたら、またこの店に行くんじゃないかとかね。もう1年は行ってないけど、例えば、この中古品を売るなら、また使うしなぁという、必要な理由があったりすると、さらに判断が難しくなる。

整理の方法

 整理とは、いるものといらないものを分けることであると、先ほど書いた。
 けれども、前の小見出しのとおり、いるorいらないの判断は、中々難しい場合がある。

 なので、実際に整理を本気で始めようとするときは、そのいるorいらないの判断基準を、明確に決めておく必要がある。

 それは、数値化できるものでなくてはならない。

 何となく使うかもしれない……とか、そんな気持ちになったとき、「1年以内に使ってないものは、捨てる」という明確な数値基準があれば、行動に移すことができる。
 それでも、悩ましい場合もある。そんなときは、保留ボックスを使うといい。捨てるものについて、すぐさまごみ処理場に送るのではなく、3か月ぐらい、段ボールか何か箱の中にいれておくのだ。それでも使わなければ、今度こそ捨て去るのである。

物語を創る能力

 もう一つ大事なことは、コアコンピタンス、である。
(流行りの(既に流行りでもないが)横文字を使うと、一部かっこよくみえ、一部アホにみえる。敢えて使ってみるのは、自分自身の記憶の結節点のためである)

 コアコンピタンスとは、競合他社(他者)に負けない能力や分野のことである。
 ここでは独自解釈として、自分の軸となるもの、行為、思考のこととする。

「俺はこの分野ならだれにも負けない!」

 まぁそういう感覚を得られるような能力や分野が大事だよね、ということだ。
 しかし、これらの方策について書くとなると、また一本他の記事にした方がいいぐらい色々いいたいことが出てくるので、あまり深く触れない。

 取りあえず、昨年か、一昨年か、どこかで書いたように、「物語(ストーリー)を創る」という能力について、僕はこれからも着手していきたいと思っている。
 これは、別に小説とか、エンターテイメントに限らず、もっと広く書くならば、「意味や価値を創る」といってもよいかもしれない。

 非常に漠然としていて、何がどうすれば、どう鍛えられるのか、そもそも「分野」としてカテゴライズできるものかも分からない。
 ただし、自分の中では、ようやく、何となく分かってきている気がしている。それでもって、恐らく、これは、積極的な意味だけでなく、僕としては、そうせざるを得ないような、そんな消極的な意味すらあるように思えてきている。
(例えば、生きる意味なんて考えても無意味だけれども、今後もそうせざるを得ないだろうという記述から読み取れる)


 話が少しそれているけれども、整理において、その、自分の重要視すること、コアコンピタンスに合致する「もの」かどうか、それも基準として明確にしておいた方がよいということだ。

「そのモノが、自分を幸せにしてくれるかどうかで判断しなさい」
 といったアドバイスをみたり読んだりしたことがあるけれども、初めに僕が書いて、何か気にくわない表現だ、と言っていたように、その「幸せ」という表現も僕は嫌いである。
 いや厳密に書けば、「幸せ」の概念はもちろん大好きだし、目指したいところだけれども、表現として用いられる幸せというのは、結局のところ、「何も示してなどいない」のである。
 ああ……このことも、まだ書き足りない、もっと掘り下げなければいけないことだ。しかし何故だ、こう、やらなければいけないことは沢山あるにも関わらず、こうやって書き始めるまで、ものすごく、何もやる気がしないのだ。始めてしまえば体力が尽きるまでやり続けられるというのに、何か始めるという、そのエンジンをかけるのが中々難しい。

 そうだな、今年の目標としてたてるとしたら、そのエンジン始動までの時間を短くする、というのも大事なことな気がする。


 取りあえず、次回、「思考言語と口頭言語と文章言語」について書こう。





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