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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
カテゴリー「創作について」の記事一覧
また、文脈無視である。シュタインズゲート・ゼロ、結局全然やれてないしな!

電磁気学について、学びたいと思って、本など読んでいたのも、もう何年も前になってしまった。

つまり、魔法、という言葉を使いたくなかったけれども、ファンタジーを書きたかったのである。
その点、無職転生は、ハーレム要素があるから問題とはいえ、その魔法という論理体系が序盤から整理されているなぁと感じて、読み進めることができた作品であった、、、とか上から目線で書けるだけの創作力もなければ、読解力も、知識もないのだけれども、まぁ好きなように書く。



そもそも、電気、天災の雷でもいいが、これは、存在自体魔法といってよい。

何せ、得たいのしれないものなのだから。

それを、科学という名前がついているが、電磁気学として、系統立てて整理して、その発生の機序を操って、インプットとアウトプットを制御できるようになったとしたら、それは魔術といってよいではないか。

科学者は、とんでもない、というだろう。学問と魔法を一緒にするな! と。
しかし、素人にとって、分子の運動が熱なのだといわれたり、光とは光の粒の波の運動だと言われてもやっぱりピンとこない。

電車が何故動くのか。パソコンで文書を作れるのは何故なのか。
突き詰めればそれなりに答えはわかる。パソコンの文字は、文字コードといわれる体系で決められた数字やアルファベットの組み合わせで表現されており、それらはビットと呼ばれる1か0の信号の集合体である。1か0というのは、電気信号のオンオフにより表現される。だから、その1と0の両方を保持できる量子コンピューターってのはものすごい処理能力をもつ、とか。

とはいえ、パソコンを使うのに、そんな知識は必要ない。
アルファベットと、ローマ字の知識と、キーボードの打ち方、パソコンの電源の位置とアプリケーションの起動が分かってれば、まぁ要はすませられる。



昔、ファンタジー世界の魔法も、同様という設定で考えてみた。要するに、術者としては、細かい魔法の体系などはよくわかっていないけれども、身体や思考をどのようにすれば、どういった結果……すなわち、炎や雷を発生させられるということは、分かっている、ということである。

こういった、設定であれば、まぁ細かい体系や知識は不要である……のだけれども、そうするとやっぱり、表現としてつまらなくなるのである。

ので、これも一年も前になりそうだが、イラストで物理法則を描く本を買って、流し読みしてまぁ面白かったけど、しっかり読めていない。



脈絡なく続ける。
雷って、やっぱり、電流であると考えられる。
雷撃となれば、凄まじい電流を生じさせ、敵を貫く魔法だろう。


そうしたとき、電流とは何かを考える。
電流とは、電子の動きである。
伝導体、電子が流れることができる物体を通じた、電子の移動の量が、電流である。

陰極線の実験とか、中学とかであった気がするが、真空でも、電子が流れる。

その、電子を操るのが、雷魔法の使い手である。

んじゃあ、電子ってなんぞ?

電子って、物体を構成する素粒子である。
有機物の、炭素とか酸素とかにも電子は含まれる。ので、僕らの体にも電子が含まれている。
まぁ、脳の体を動かす信号も電気だというから、電子で体か構成されているというのもそれほど不思議ではないのかもしれない。けれども、僕はまぁまぁ違和感があるけれど。

とはいえ、電子という目に見えない存在も、ありふれている物質なのだ。珍しくはない。

けれども。
だからといって、それらを操るってのは、一体どうしたらいいのか?
それが、電磁気学である、と、僕は勝手に思ってる。


電気、電子を考えるにあたって大事なのは、



という考え方だといわれる。
僕はどうにも、高校物理のときはよくわからなかったけれども、今のところ、向きと、移動スピード(加速度)が決まる場所、という理解である。

その、場、というのが、日常用語でもあるので分かりづらいが、専門用語として考えた方がよいのかもしれない。

とにかく、場という考え方が必要なのは、目に見えない大量の物質を扱うからだ。
電子なんて、さっき書いた通りありふれているから、一個二個と数えていてはきりがない。
その一個よりも、他の強い大きな一個によって、全く別の運動になるかもしれない。

だから、アンペアとかボルトとか、あんまし実感がわかない単位が登場する。これらは、そういうもの、として覚えないと勉強が進まない、でも、あんまし納得したり、イメージできないまま、数式だけ、公式だけ覚える勉強は苦痛である。


話がそれた。
場の、話。

恐らく、雷魔法の術者は、電子の運動を支配する場、を操ることができるのである。

電子は、マイナスの電荷をもち、プラスの方向に流れる。
雷魔法で敵を貫くのであれば、ブラックホールのように、強力なプラスの電荷を空間に生じさせればよい。そのプラスの電荷が生じる場所に、大量の電子が流れ込み、激しい熱運動をともない、敵の身体を構成する電子をも巻き込み、再生不能なほど損傷を与えるのだ!!
科学的には、電位(ボルト)の差を作り出すといえる。電位差魔法だ。


脇道にそれるが、電気が流れるところに磁場が生じる。というの提唱したのがマクスウェルで、電気学と磁気学があわさって、電磁気学といわれている。
ということは、電子の制御に重きをおいて鍛練を積んできた魔術師に対抗して、磁場を生じさせることでレジスト(打ち消す)したりする展開も面白そうだ。



しかしそもそも、術者は、どうやってその場なるものを、制御できるのか。
自分とは離れた空間に適切に作り出せないと、結局自爆しそうである。

空気のように目に見えないもの、といったところで、真空以外であれば、それは、大気が存在し、大気とは気体、ガスの集まりである。
ファンタジーでは、マナとか、魔素とか、超常物質が存在したりする。
そういった物質を媒介に、魔法という現象を生じさせる……といった説明を読んだりする。

しかし、それでは説明になっていない、と、思う。
超常現象を、超常物質の導入で説明しては、それは同語反復、トートロジーではなかろうか。
考えなければならないのは、その術者と、世界法則の関係性である。
何故その術者は、世界に対してアクセスできるのか。干渉できるのか。

通常は、物理的身体によって干渉する。
しかし今は、魔法という、離れた場所においても、直接触れなくても事象を起こす自体を考察せねばならないのだ。



しかし、ここでそもそも、最初の電気や磁気というのは、直接物質同士が触れなくても、発生している事象ではないか。
例えば、磁石同士を近づけると、触れていないのに反発しあったりする。

文脈無視だが、もっといえば、言語。
空気の振動によって、音という現象を生じさせ、他者の感覚器官である耳にはいることにより、新たな思考や行動を引き起こさせる。

そう、言語、言葉というのも、遠隔作用する魔法の一種なのではないだろうか。


……とかとりとめなく書いていたら時間切れ。






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今日の一言「諦めではなく可能性」「連載は水曜日、だが形骸化している」

分かりづらさ

「何言ってるかさっぱり分からん」

 といったコメントを頂いた。
 傷ついて、哀しくなった。しかし同時に、大切な感想だなぁと思った。

 僕は、昔から理解可能性というものを信じていない。
 このことは、「1」か「0」と割り切れるものではない。
 信じていないといったところで、結局、日本語という言語を使えばコミュニケーションは可能だ。
 一方で、コミュニケーションを信じている人たちだって、その「気持ちの伝わり具合」に微細な変化が存在することは百も承知なはずである。

 僕はその、理解可能性について、「0」というのではなく、一般の人たちよりも低いと自覚している、ということだ。

 1000字連載は、個人的にはそれほど分かりにくくはない――というよりも、いつもの記事と同じレベル感である。中学生でも分かる表現を使っている。

 問題は、その表現の先に、「何を言いたいか」ということなのであるが、その最終結論なるものが伝わらないと、結局その文章というのは、「さっぱり分からん」という結論に繋がる。

1000字連載(1)~(3)の要点

・努力することは大事だ
・しかしその努力は自らの欲望を果たすことに基づいている必要がある
・何故そう思うかといえば、僕は(自分の身体・精神・環境の限りで)努力をしてきたが、これまでの人生はつまらなかったからである
・もっといえば、今もつまらない
・しかし物質的・欲求的には充足している(強いて言えば時間がない)
・だから自分の欲求・欲望に基づく未来をイメージすることが重要だ

 といったことである。これらを、誰かと議論しようというつもりはない。単なる思考の整理である。――もっといえば、整理する必要すらあまり感じていない。要するに、最後の点、「未来」の具体化が目的であるということである。



 ある方が、「自分の本当に重要視する分野については人と話すことが困難で(出会える可能性も低いし、レア故の馴れ合いが生じる可能性もあるため)メリットも薄い」と仰っていたがこれはその通りと思う。

 哀しいことであるけれども、これは大切な感覚だと思う。
 僕は、昔から(10代前半から)ずっとそれ(理解が中々しあえないこと)を感じて、「生きづらいなぁ」と思ってきたけれども、これはこれで、大事な考え方であるし、だからこそ人間は面白いのかもしれない。
 そういった感覚を分からない人が、自分の価値観を押し付けたり、横暴にふるまったりするのだろう。要するに子供である。

だけど冷めてもいけない

 という上のことについては、数年前から書いてきたことである。
 問題は、「そうはいっても、それでも、価値観を共有して尊重して高めあっていくのが本来あるべき人間社会の在り方ではないか」という問いである。

 これは、問いは問いとして正しいと思う。あっていいと思う。存在価値はあるだろう。

 ただ、それを、「実存問題」(要は自分の問題)とすべきか、という点は、選択である。岐路である。



 僕は、30代になって、そろそろ「保留」もできなくなってきたこれらの問題に対して、非常に焦燥している。
 焦っているけれども、答えがでないし、行動は環境に命ぜられるまま、思考を介在させられないままに動き、過ぎていく。

 この焦り、というものが、「鬱屈」としたエネルギーとして、文章を書かせているのだろうと思う。
 僕が動いているのは、行動できているのは、この「鬱屈」したエネルギーなのだろう。

 そういえば、10代前半のころ、僕は「負のエネルギー」という言葉を使っていた。
 エネルギーとはプラスのものなので、本来表現としておかしいけれども、「いらいら」とか「むかついた」とか「くやしい」とか「うらやましい」とかそういった負の感情をもとに行動することをそう名付けていた。

 ああ、それを、何か、社会の役に立つことに使えたらよかったのであるが、まぁ、うまくはいかなかった。

教育について

 手段とかどうでもいい。
 問題は、どういった人間が必要か、ということだ。国が学習指導要領というものを作っていて、それに基づいて公立の学校は授業を行う。
 しかし、その、国が定めた指導要領なるものは、果たして、本当に、あるべき人間像を体現した素晴らしいものなのだろうか?

 僕は、否とも、正しいともいえない。

 というか、現代の日本人――否、世界の人類に、そうした「あるべき人間像」を表現できる能力があるとは思えない。

 単に、「その時代に」「その国にとって」「その条件において」は、正しいものだろう。

 最初の話に戻るけれども、「人はみんな違ってそれでいい」ということであるのだから、それと「教育」という手段は初めから相いれないのである。要するに、「コミュニケーションの土台」を作るに過ぎないのである。

 土台に過ぎないのである。最初の話のように、本当にその個人が話したい事、重要視したいことなんてのは、往々にして、理解可能性レベルを超えているのだ。

創作について

 ふと、むかし、2010年ぐらいに作った曲を聴いた。
 あー。
 音圧とか、調教とか、粗削りだけれども、しかし、歌詞はいいなぁ。
何のために歌うのか ずっと探し続け
時間は平等だけど 無常に過ぎ去る時は
冷たい痛み与える 心がいたみだす
美しく広がる景色 あたたかな人の優しさ
充たされる思いも今は 幻のように
漫然と過ぎ去るとき 忙しさにおわれるとき 僕は
何か大切なものを 僕であるためのものを なくして
本当の自分なんてどこに あるというのだろう
今は白い世界――
何のために生きるのか ずっと意味を求め続け
求める時間さえも失われていくのか
疲れ弱音はくとき 何かいいわけするとき 僕は
あの日に信じていた 確かな思いすら 忘れて
孤独が怖いというだけで 誰かを求めていた
夢の中の自分がいた――
何のために生きるのか ずっと意味を求め続け
求める時間さえも失われていくのか
だから僕は歌い続け 「無意味」の言葉はねのけ
生きる意味は何なのか 今分かる気がした
僕は歌う いつまでも――
 まさに、僕の価値観がよく表現されている。まぁ、当時、どういう気持ちで作っていたのかは正直もう覚えていないが、彼女にもふられて、あまり精神状態はよくなかった状態だった気がする。

 この当時から、初音ミクの作品は作れていないが、やっぱり、歌にのせるってのはいいなぁと思った。今、これ以上の作品をつくる気力も、時間もないなぁ……。

 しかし、言い訳をしていても仕方がない、と、創作中枢が少し刺激されたので2時間ぐらいで一つ作った。
2018/2/11作曲(インスト)DL
(実質30秒ぐらいの曲をリピートして1分ぐらいにしている……)


(かっこ書きである。あー月曜からまた忙しそうだ。先日、友人たちと会話する機会があって、みんなまぁまぁ仕事に対しての不満はもっているようだった。みんな大変。お前は恵まれているなぁって言われたりもした。――が、ぶっちゃけもう、そういった比較は本当に無意味だと思っている。仕事の内容も全く違うわけだし、時間的拘束が長ければ大変かってのも俺は違うと思う。同じ業種だって、取り巻く環境・取引先とかそういう意味で、異なるだろうし。「じゃあテメーがやってみろ!」という苛立ちや怒りがよく生じる(友人たちに対してではない。そんなことを思っても仕方がない)。まぁ……ただ、できることをするだけだ。とにかく、自分のパフォーマンスを落とさないようにすることが大事だ。ひいては、勤め先の会社にもそれは良いことなのだ。社員が役に立ったほうが会社としては良いはずだから。しかし、6分でわかる金持ち父さん、貧乏父さんを見る。うーん、なんか、図書館で借りられるから読んでみてもいいかと思ったけど、興味はほとんどわかなかった。というか、なんとなくそういった本だろうと思っていて、その確認ができたのはよかったかもしれない。正直、僕は大人になってから(働き始めてから)お金に困ったことが今までない。もちろんこれは、無尽蔵にお金を手にしているということではない。そもそも「欲求」がわかないのである。久兵衛の寿司を食べてみたい気はするけれども、まぁ、一度ぐらいならそれに費やすことは可能である。それを毎日食べるとしたらすぐに破産するだろうが、そうしたい欲求は特にない。上の動画で、「勉強をたくさんしなさい」というのは、金持ち父さんも貧乏父さんも共通していたが、その目的が、「良い会社を買うこと」と「良い会社に入ること」という違いなどは面白いと思った。一方、どちらも価値観レベルの問題に思う。たしかに、金持ち父さんの方が、「あー楽して生活したいなぁ」って友人がいっていたけれども、みんな憧れなんだろうと思う。が、しかし、「コンテンツ」を作る人がいなくなって、「買う」人だけの世界なんてありえんだろう。投資家だけの世界ってのはありえないのである。ま、もっとも、そんな極端な事態になど早々ならないのであって、賢く勉強して、賢くお金を運用できる人のほうが、コツコツ真面目に働くよりもお金持ちになれるってのはその通りだと思う。――が、まちたまえ。「コツコツ真面目」ってのが、本当にいいことだと思っているのだとしたら大間違いである。「コツコツ真面目」という事象を、一体どのように考えているのか? 人から言われたことをしっかり丁寧にこなすだけでは到底、「コツコツ真面目」などではないが、まぁ、一般にそういった表現のうちに含まれることになるのである。僕は、投資家を、決して楽して生活できる人だと思ってはいない。彼らは彼らで、とっても勉強して、リスクある判断をし、苦労をして生きているのである(当然、全員ではない。宝くじに当たった人が、努力をして当たったなどとは思わないだろう。そういうことだ)。あー、なげーなぁ。要するに、努力は否定しない、ってことだ。1000字記事と同じ。大したことなど、常に言っていない。というか、「大した事」なんて、どれほどこの世界にあるというのだ。僕は、「表現」ぐらいしか、差異を表現できないと思っている。あー、この辺の価値観も、きっとあまり伝わらんのだろう。ま、構わない――構わないわけではないが、仕方がない)


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今日の一言「トップダウンとボトムアップは同時並行が必要」

実践せねばなるまい

 先日の記事、
創作を進めるための方針(その1)
創作を進める方針(その2)
 は、合計1万字を超える長文となった。

 ヤフーニュースで、「それ、正月病では?」といった記事が、おそらく6000字ぐらいだが、「何言ってるかわからない」「結局どうすればいいの?」「長い」といったコメントが多かったことを考えると、まぁ、相当面白い(起承転結がしっかりしていて波乱万丈)記事でなければ、まともに読まれることはないのであるのが良く分かる。

 ただ、別に長くても、ポイントというか、段落というか、文章構成が理解できる範囲であれば、読み飛ばしていい部分がすぐ分かるので、それほど苦痛ではない。
 全部の文章がつながっていて、段落も改行も何もなされていないにも関わらず、話がポンポン切り替わったり、話の前提が何もないまま進んでいく文章はつらい。
 というか、そう、この「前提」というのが非常に大事。「新型うつ」といったところで、そもそも、普通のうつ病に関する前提知識がなければ、それを比較して考えることすらできない。もっと突き詰めて言えば、「うつ病」という概念について「知っている」というのは、人それぞれレベルが異なるわけだ。一般的に言われていることを知っているレベルから、自身がうつ病を経験したことがある人から、専門医まで様々。そうした場合、とりあえず文章としては、その、「この記事において」必要となる範囲での概念について、振り返っておく必要がある。その「前提」の記述というのが、記事を面白くできるかどうかを左右する。

 これは、小説といったエンターテイメントであっても同じ。これは、「世界観」と言われたりする。この世界観を共有できないと、小説は面白くならない。同じようなシーンを描いても、感動できるかどうかは異なる。

 僕は、このブログにおいて、以前書いたけれども、中学生レベルで分かることを目標として、いつも書いている。その中学生レベルってのが何かってのは、厳密に定義などできないのだけれども、とりあえず「自分」基準だ。中学生ぐらいから、こういった日記的な、思考の記録というか、ログというか、ブログというかを書き始めたわけだけれども、その当時の自分に語って聞かせて、ある程度理解させられるレベルを目指している。

 という、ここら辺が「前提」であって、すなわちさっさとこの小見出しにおける目的を書けば、先日の記事を振り返ろうということである。
 で、振り返ると、以下のサイクルが重要であるという確認だ。

「目的の概念を描くこと」→「気持ちを固めること」→「目標を定めること」→「生活に組み入れること」

生活に取り入れる必要性

 何か新しいことを始めるときに必要なのは、その目的を明確化することである。

 ――というのは当たり前なのであるが、じゃあ、具体的にどうしたら、明確化できるのか、ということを記述する。

ステップ1:概念化・言語化

 まず、言語化である。
 先日の記事にならって書けば、「目的の概念を描くこと」となる。

「創作をしよう」

 というのは、標語である。それだけでは目的ではない。
 定義が必要。創作とは「ブログ」「小説」「作曲」である。そのうち、「小説」に絞って。ではその「小説」をするのは何故必要なのか? ……と考えていくのが概念化(言語化)である。

 先日の記事から引用すれば、
 人生は困難である
   ↓
 だから物語が必要だ
   ↓
 感銘を受ける物語に出会うのは運による
   ↓
 だから自分でも創り出したい
 といった流れによって、「小説」をすることを今年の目標にした、と。ここまでで、ステップ1の、「目的の概念を描くこと(概念化(言語化))」が完了となる。

ステップ2:気持ちの固定化(価値のインプット)

 軽視されがちなのが、このステップ2である。
 たいてい、「目的を立てる」ということをイメージするとき、ステップ1の概念化だけで終わってしまう人が多い。そういう人は、計画倒れする。
 ステップ1だけでは、目的とは言わない。目的を立てるというのは、ステップ2までが必要。

 会社の販売目標とか、学校でいい成績をとるとか、そういった目標がどうにも嫌になったりするのは、このステップ2が十分にできていないからだ。たいてい、他者から与えられた目標の場合、面倒くさかったりする。

 それは、目標自体が悪いこともあるけれども、それだけとは限らない。
 気持ちの固定化ができていない場合があるからいけないのだ。

 気持ちの固定化というのは、先日の記事の引用であって、よい表現が浮かばないけれども、価値のインプットとか、良い表現ではないが、刷り込みとか、そういったもの。

 ステップ1で打ち立てた目的というのが、「ああ、これを、僕は達成したいんだ!」といった思いを、強くもてるかどうかってのが大事。


 逆に。
 このステップ2をできない場合、ステップ1がよくないか、もしくは、それこそ現状の心身体調の悪さ疑ったほうがいい。
 もちろん、ステップ2を飛ばして、次のステップ3を実践することも可能だけれども、その目的が困難であればあるほど、挫折や、計画倒れになる可能性が非常に高いことを意識しておくべきだ。



 では、具体的に、このステップ2を進めるためにはどうしたらいいか?
 これは、残念なことに、体系化できていないから、うまく説明できない。ただ、僕の場合は、ものすごい長い文章だったり、思考時間だったりが必要である。要はとにかく「なぜ?」「どうして?」と突き詰めていくのである。
「創作しよう」
 が目的であるのに、数時間と1万字が必要だったのだ。いやむしろ、まだ全然足りない。けれども、いつまでもこれをやっていても、進みがよくないのは確かなので、次にうつる。

ステップ3:目標設定

1.目的を立てる
2.気持ちを固める
3.目標設定する

 ここまでのまとめは上のとおり。
 さて、目標とは何か。数値化できて、検証できるものが、目標である。
 検証というのは、実績を測れるものである。「レビューを15つ書く」というのが、先日立てた目標である。本当は、そのレビューの文字数とか、「いついつまでに」といった期限を決めたりとか、事細かに設定が必要なのであるが、とりあえず、「15」という数字を挙げれば、数値化・検証が可能になるので、これは目標といえる。

 補足。繰り返し書いていることだけれども、「目的」と「目標」は違う。「目的」は、「創作しよう」というものなので、これだと、なんだか、具体性がないわけだ。数字じゃないし、検証できない。だから、目標ではない。

 さて、インプット側はそれとして、アウトプット側としては、「連載作品の完結」であった。

 ので、さっそく、一つの、このブログでも連載している作品の続きを検討した。
 久しぶりであったので(というのは単に言い訳)、600字ぐらいで集中力が切れた。

 実際は、未投稿分を含め、読み返してみて、いくつか表現やシーンの追加などを行ったので、もう少し書いている気はする。とはいえ、このペースだと終わる気がしない。

 ただ、しばらく時間をおいて、よいところもあった。一部面白いかな、と思った場面もあったりした。
 自分の作品であっても、しばらく経つと、他人の作品である。
 あと、プロットレベルで、表現とか一切きにせず書いた内容も、まぁそれはそれで使えるんじゃないか、といった部分もあったりしてよかった。ので、思いついたら、取り敢えず書いておくのがいいんじゃなかろうか。

 ただ、このブログみたいに、ほんとうにゼロ秒思考で書いていると、後からまとめて使うなんてことができないぐらい量が多くなってしまうので、絶対的に良い方法かというとそれも悩ましいけれども。

ステップ4:生活に組み入れること(習慣化)

 あー、それで、一番かもしれない重要なのが、このステップ4である。

 僕は「継続は力なり」という言葉が好きなのであるが、習慣化するというか、続けることがとても大事だと思っている。

 コツコツ真面目にやるだけが人生じゃない。

 とか、そんなこと言われたり、聞いたことあるかもしれないが、まぁ、まともに受け取ってはいけない。
 継続することと、真面目にやることは、イコールではない。

 人は元来飽きっぽいものであるし、「面倒くさい」ということを回避するために、様々な道具を生み出したり、知恵を絞ったりしてきたのである。「知恵を絞る」というのは、実はそっちの方が面倒なんじゃあ……? という場面もあるにせよ、そこはやっぱり、「同じことをコツコツやる」ことが脳のパフォーマンスを衰えさせることを、感覚的に知っていたのであろう。

 まぁなんと言われようが、一朝一夕で完成したり身に着けたりできることなんて、大したことではないのである。――いやもちろん、素晴らしい能力を持った人は、一日で素晴らしいものを作れるだろう。涼宮ハルヒ氏は、いろんな部活動に所属して能力を発揮したけれど、やっぱりつまらねぇって思ってしまった、とか。先日、ゲーム廃人のインタビュー的なのを見たが、定職に就かずYOUTUBEで収入を得ているというその方は、中学生ぐらいまで、勉強もスポーツも万能で、モテにモテていたらしい。自分に相手になる人がいなくて、気づいたら、世界中と競えるオンラインゲームの世界にのめりこんでいったのだという。羨ましいような羨ましくないようなエピソードであるが、そんな例外的な話は、「ふんふん、へー」的に聞いておけばよい。ゲームや漫画のヒーロー・ヒロインに憧れている場合じゃない。お前は、どうなんだ、と。凡人としての自分を認められているのか? と。

 凡人であれば、だ。やっぱり一朝一夕で完成したり身に着けたりできることは少ないのだから、やり続ける必要がある。――でこの「やりつづける」というのを、徹夜で根詰めて、とかいうのは、またしても愚かしいことである。人間の集中力は、5分だか15分だか30分だかが限界とか、聞いたことがあるだろう。もう一つ、コツコツ続けていても、効率は上がらないのである。

 だから、様々、間に挟みながらやっていくのがいい。

 あー、最初に取りあげたヤフーニュースでもあったけれど、「元気ってのは、行動しているとわきあがるものである。エネルギー切れで休めばいいってのは浅慮だ」みたいなのは、僕もそういう面があると思う。「頑張ったね。休みな」というのは、励ましとしてはいいかもしれないが、必ずしもまともなアドバイスなどではない。このバランス感覚は、なかなか表現が難しい。このあたりの理解がない人は、上のヤフーニュース読んでも、「で、結局なんなの?」と思うことだと思う。
 逆に、そのあたりを分かってくると、「他者のアドバイス」の意味がよく分からなくなってきてしまうのが、困ったところであるが、この辺りも、まだまだ表現が足りなくてモヤモヤするところである、がこれは別の話なので今回はカット。

 要は、続けることは大事なのだけど、「ぶっ続け」ではない、ということだ。
 だから、習慣化するのがとても大事、ということ。

 だから、ステップ4の、生活に取り入れる(習慣化)が大事、ということ。

習慣化をするには

 さて。本記事の主題がここからなのだけれど、ここまでで5000字に届こうとしている。
 うーむ、この小説との落差よ……。
 まぁいいや、取り敢えずメモを中心に書いていく。

その1:環境整備

 ある方が、ネット用と執筆用のPCを分けていると書かれていて、非常に有用な方法だと思っている。あー、ノートPCだかタブレットだか欲しいな。
 ぶっちゃけ、タブレットに、マウスとキーボードつなげりゃいいわけだよな。
 ただ、ここは、この「創作」よりも大目標たる、住環境整備というか、モノを少なくしようという方針と抵触するので難しいところ。

 ただ、その、別の場所で書くというのも大事なんだよな。
 例えば、会社帰りに、どっか喫茶店によって書く、とか。近くに図書館があればいいけど。そういう手段をとるなら、やっぱりタブレット欲しいな。会社の鞄に入れても重くないぐらいだとベスト。

 なんか面白そうだなぁと思いながら、少しこのあたりは冷静に考えなければいけない。
 仕事が21時に終わったとして、30分だか1時間だかの時間捻出のために喫茶店などによるというのはちょっと無駄が大きい。
 んじゃー、朝は? とか、代替案はいろいろ浮かぶけれども、要は、そんなことしてたらもっと大きな目標というか目的である、「体調」面がダメだろう。
 なんといっても、「身体」「仕事」「友人」「家族・恋人」「趣味・遊び」「学び」「富」「環境」といった、8つの項目のうち、「身体」「環境」の保持は大前提である。

その2:取り敢えず書く

 生活に取り入れるには、とにかく、その行為に費やす時間を強制的に確保することである。

 そのとき、あんまり大きく生活を変えないほうがいい。無理は禁物。
 例えば、朝の時間の活用がよいと、いろんな本とか記事で言われている。一理ある。けれども、これまで朝にちゃんと起きてなかった人が、さぁ、朝に自己啓発するぞ! と思ったところで、無理である。いや、無理ではないけれども、エネルギーが非常に大きくかかる。そのエネルギーの大きさは、ステップ1:目的の概念化とステップ2:気持ちの固定化が、どこまでしっかりできているかによって変わってくる。それがしっかりしてたら、たいていのことではブレない。

 とにかく、来週一週間(1/9~1/15)は、毎日、必ず、「書くことに向かう」ことにする。たとえ、アウトプットできなくてもよしとする。

 それをやってみて、まず、できるか、できないか。
 できたのなら、それが続けられそうかを検証する。
 できなかったのなら、その原因を確認し、方針を再度練る。

 この「習慣化」は、地道な作業である。すぐにできるなんて思わない方がいい。失敗することもある。
 そう、その失敗のとき、再度立ち上がれるかどうかってのも、やっぱり、ステップ1・2が重要なのだけれども、とりあえず時間切れのためここまで。


(かっこ書きである。「時間切れ」って体よくいつも使っているが、出かける予定時間前だったり、普段であれば、24時を過ぎるとやめることにしている。寝る時間だ。あとは、飽きてしまってどうしても先を書けなくなった場合もある――がそれって、時間切れじゃあないな。「強制終了」ってのも使うけれども、ほぼ「時間切れ」と同じ意味である。飽きて書けなくなったときだけ「強制終了」にしようか。どうでもいいことのようで、結構重要である。ちなみに、創作を再開して思ったのは、こう、「いい表現」や「いいシーン」を描こうとすると、何度も同じところを読み返したりするわけだけれども、その行為が段々、その作品自体への「面白さ」ってのを失わせていくのである。ある人が言っていたというか書いていたというか、「実験的にとかって思って書いていると、大抵失敗する」というのがあった。少し違うかもしれないが、僕は、「自分で面白いと思っていないと、完結させようという気持ちがなくなる」のかなぁと思った。前回の記事で書いたけれど、やっぱり、「エタる」のを避けて完結させるってのは、とても大変なことだと思う。ま、「人生」は、「エタ」ろうがどうだろうが、やる気があろうがなかろうが、時間経過は止められないのであって、その点楽なものだと思う。ある意味において、生きるというのは楽なことである。もちろん、戦争や紛争がない命の値段が高い地域において。ただ、幸せに生きるとか、満足して生きるとか、何らか修飾語が付き始めると、これは難しい)





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今日の一言「続いた」

バランス感覚

 長くなったけれども、結局は、

 人生は困難である
   ↓
 だから物語が必要だ
   ↓
 感銘を受ける物語に出会うのは運による
   ↓
 だから自分でも創り出したい

 という流れである。
 だから、上に書いてきたけれども、そもそも、人生が困難じゃなかったら、創作も必要ない。
 ここで、もっといえば、「ひだまりスケッチ」的な、日常ほのぼの的な物語を欲しているわけではないということだ。
 すぐさま書いておけば、日常ほのぼの系を否定するのでは決してない。しかしそれは、例えば「ゲーム」のようなものだと思っている。僕はゲームも好きだし、今でもやったりしているけれど、時間的消費であるという認識が強まっている。ああ……こういう表現をするから誤解というか敵をつくりやすいのであるが、別に消費するのも悪いことだとは思っていないのだけれども、要は、結果的に精神がすり減ってしまう、ということなのであって……。要は人生楽しく過ごしたいという、凡人誰しも思うのと同じなのであるけれども、そのための手段として、それだけだと足りないなと思うのであって……と、このあたりは書けば書くほど失敗するので強制終了。

 さて、バランス感覚ということであるが、創作をするというのが必要だ、というところまでは確認したとして、どこまで重要視するか、ということになる。
 ここまで、身体と思考と大別して、思考部分について記述してきたのであった。
 しかし当然ながら、身体というのも重要な要素である。

 身体があるから欲望があるともいえる。
 終わりがあるから芸術が尊いものになるように。

 永遠なる美とか真理ってものが美しいと思われるのは、永遠ってものが、どこを探しても存在しないからともいえる。
「侘び・寂び」や黄昏って表現によって、日本人はよくその「終わり」ってものを理解していた……とかいう、民族うんたらはまぁどうでもいいけれども、僕もどこからしら、そういった儚さ的な表現に心をうたれることがある。

 それは、「お涙頂戴」的に忌避されがちな感情ではあるけれども、その根源たるテーマは、僕は嫌いではない。ただ、こう、なんだろう、ドキュメンタリーというのが、どうにも苦手ではある。特殊清掃のドキュメンタリーは面白かったけれども、何か「切り取られた感」があって嫌だ。(いや、見始めるときっと見入ってしまうのだけど)

 それよりだったら、いっそのこと、もう完全に物語(創造)の方がよかったりする。その方が……きっとこれは納得される方が少ないと思うけれども、僕は、その方が「純粋」に思えるのだ。
 前書いたけれども、アンドロイドとか、ロボット系に僕が弱いのは、逆にこう、複雑性がないからな気がしている。
プラネタリアンという作品が、アマゾンプライムに追加されて見たけれど面白かった。前に動画サイトで断片的に見て興味をもっていたけれど、完全版が見られてよかった。よかったけれども、その、回想編だけでよかったかなぁ。星の人になった主人公のその後の話――シェルターで子供たちに星について教えてあげる――は、世界観を知るにはよかったけれど、まぁなくてもよかったかなぁ)

住環境の整理状況

 なんだっけ……そう、身体だ。
 住環境も大切。最近、だいぶ部屋の物を少なくした。先日も、服や下着を45L分ぐらい処分した。クローゼットが7割ぐらいになった。スーツとYシャツがまぁ多いけれど、これは仕方がないか。クリーニング屋で、シーズンオフで預かってくれるサービスとかもあった気がするが、検討してみようかな。アウトソーシング(外部委託)大事。
 そもそも資本主義の発展は、専門化、分化した方がより大きな価値を生み出せるという理論から成っている。

 本もだいぶ減ったので、本棚も7割ぐらいである。
 あとは、古いノートPCと外付けHDDの処分、ぐらいかな。しばらくは、現状を維持する方向でよいかもしれない。


 って、長いなこの記事。数えてみると7000字を超えている。途中コーヒーを淹れながら1時間ぐらい経った。一度切ろうか。

 小説も、これぐらいのペースで書いていけたらいいんだけど。
 というか、これは、余計な話しが多すぎるのがよくない。しかし、こう、余計な話がないと考えられないのも事実である。ただ、余計な話ばっかりで、最初に書こうと思った「実践」的なことが書けないとダメだ。次の小見出しに託す。

創作を推し進めるためには

 インプットとアウトプットが大事なのは言うまでもない。
 しかし、先の「サイコパス的な」とおり、理念を語るだけでは殆ど何の意味もない。会社では効率が重視されるが、同時に「ゆとり」がなければ自己(組織)批判・内省も進まずに、価値を高めていくことができない。そうした「ゆとり」の大切さがわかっていても、目の前の業務が積み重なれば、そうした理念は形骸化する。

 要するに、インプットとアウトプットは大切だが、それをどうやって自分の生活に取り入れていくのか、その実践的な記述を、本記事に託そうと思ったわけである――が、みてのとおり、7000字は定義的な、理念的な、感想的な表現に終始したわけである。

 創作は大切だ! 俺はやるぜッ!

 この一行で本来、7000字はOKであったのである。
 しかしこの面倒くさい自分は、ここまで時間を費やさないと、しっかりと動けないのである。

 しかし同時に、仕方がないとも思う。それは、日々が忙しいからだ。「仕事が」とか、そういう意味ではなくて、ノイズ的な……いや、そんな表現はよくない。ご飯食べたり、睡眠とったりと、生活や身体状況のことだ。生活をする、――これだけで、とても忙しいのである。

 だから、本当に素晴らしい業績をする場合、内助の功的な、家族のサポートが大事だったりする――のは、昔の話(か、本当に一握りの業種)であって、今や夫婦ともに働いていることだってあるし――まぁそうはいっても、家電の充実や24時間のストアなど、それこそアウトソーシングできる要素が増えているから、一概に昔と比較することもできない。――そうだから、本当に、何かと比較するということが、僕は本当に無駄であると思っている。比較してどうこう思い悩んでいる時間があれば、自分でも、周囲の環境でも、少しでも良くする行動をすべきだろうと思う。

 話がやっぱりそれる。そんなことは置いておいて、つまり、みんな誰しも「忙しい」のであるから、しっかりと「気持ち」をもっていないと、簡単に周囲の状況に流されてしまうのである。

 400日ぐらい筋トレのルーチンをやってきたわけだけれども、これは、それこそ誰かと比較したら、もっとハードなトレーニングや、効果を出している人もいるわけである。しかし、自分としては、一時期はとても大変だった。疲れたり、イライラしながら帰宅した後に、悶々としたり眠かったりする中、全然関係ない筋トレをするという気持ちの切り替えは、今、こうやって書いているときは想像できないほど大変である。
 それでも続けることができたのは、「気持ち」を整えたからである。もちろん、ブログに書いて、コメントもらったり反応を頂いたことや、免除規定(例外規定)というテクニック的なものも関係するけれども、何事においても、プライオリティ(優先順位)を最大にするという気持ち(意志)を固めたからである。

 これは、単に「ダイエットしよう!」とか思うのと、まったく違う。
 何が違うのか……ちょっと未だ表現できないけれども、つまり、「自己と一致」しているかどうかである。

 陳腐な表現になってしまうが、「本当にやりたいこと」かどうか、である。筋トレとか、苦しいことが何故やりたいことになるのかといえば、刹那的な苦しさを超えて、得たいものがあるからである。卑近な自分の例であれば、単純に筋肉を付けたいということだけではなくて、「継続することができる」という自分の意志の確認でもある。このことからすれば、筋トレをさぼってしまうというのは、「自分に対しての裏切り」なのである。

 もちろん、他者を騙したり裏切ったりするのは最悪なことだ。
 しかし、それと同様に、自分を騙したり裏切ったりするのも最悪である。

 他人に負けてもいい。だが、(過去の)自分には絶対に負けんじゃねぇ!

 って表現が好きである。
 いやもちろん、他人に負けちゃいけない場面だってあるし、体力の衰え的に過去の自分に絶対勝てるかっていうとそれも違うわけだから、単に表現だけれども、標語としてはそういうことだ。



 ――という、また、概念的なことを書いてしまったが、そうじゃなくて、要はどうやったら、今年の目標である「創作」を進められるのか、ということである。

創作目標:小説インプット

 創作とは、三つあると書いた。本記事ではとりあえず、「小説」に絞って書いていこう。
 まず、インプットを増やすためには、小説読むことである。
 じゃあ、初めにどうすればよいかといえば、数値目標を決めることである。

 この、数値を決めるというのは、目標設定においてよく言われることであるが、単純にこれだけでは役に立たない考え方である。
 例えば、じゃあ、一年間に100冊読もう! としても、その100冊の根拠が全く不明である。
(そもそも、たくさん読んだからよいか、どうか、というのは別の次元の話なので置いておく)

 数値目標を立てるのは勿論重要だが、その際、どうやって数値目標を立てるのかの方策が必要だ。
 これは、現状理解が不可欠である。
 つまり、今としては、どれぐらい読んでいるのか、ということだ。
 ――昨年は……うーん、よく分からない。紙の本だと5冊……ぐらい。キンドルで3、4冊ぐらい……か。後はWEB(小説サイト)の方では、まぁまぁ読んでいる気がする。少なくても10作品以上。

 こうやって思い返すと、思った以上に少ないなぁという感想になる。
 ただ、こうやって考えると、そもそも、冊数で数えるのも(文量が違うだろうし、面白さも違うだろうし)妥当かとか思ってくるし、同じ本を読み返したくなって読んだのはどうなのかとかも考えなきゃいけないし、とにかく、いきなり「100冊!」とかって数字を挙げようとも思わなくなるだろう。

 それと、これも僕が勝手に思っているだけだけれども、面白い本を読んだとして、今度それをアウトプットに転じようとするには、「感想」や「批評」を考える(書く)のも重要だと思う。
 この、とても長い記事の最初の方に書いたけれども、これは、「言葉でしか思考できない」というものに繋がる。どういった場面だったからどう思ったのか、どういった描写に対してどう感じたのか。これが無いと、「感動したッ!」となって、以上……、となる。まぁそれはそれでいいのだけれども、ちょっともったいなくもあるのだ。

 ええと、中々先に進まないので、暫定目標として、2018年中に、15本の感想・批評を書く、ということを挙げる。
 何故15本かというと、一か月一本だと12本だから……とかそういうわけではなくて、2017年に読んだ本数が15ぐらいだからである。感想や批評を書きたくなる作品に出会うには、それ以上読まなきゃいけないだろうし、ちょうどよいかと思ったのだ。

創作目標:小説アウトプット

 次に、アウトプットのための目標。
 現在連載中の作品が2作品ぐらいあるが、これを完結させたい。どういった方向性でもいいから。打ち切りみたいな終わり方でもいいから、終わらせたい。そんないい加減でいいのか、というのはあるけれども、「エタる」(エターナル(永遠)になる=未完になる)作品が多い中、「終わらせる」というのは一つ重要なことだと思っている。

 先日、バイオハザードの映画(ダムネーション)を見て面白かったけれど、何かこう、問題が完全に解決したのか、というとそういうわけでもないし、明確な「終わり」って感じはしなかったけれど、ちゃんと物語としては完結していたと思う。

 以前、アイアムアヒーローについて、終わり方が打ち切りみたいで不満だと書いたけれど、「もう主人公にこれ以上、物語の革新に迫る起伏は起こりません」という意味であれば、十分完結しているとは思うわけである。当然、現実世界においては、無意味に人は死んでいくのであり、名もなき、世界の真理にかすりもしない人なんて大多数である。ただ、「物語」、「作品」として存在する以上、外連味でもいいから、「意味」をもたせて欲しいのである。ましてや、序盤からずっと期待し楽しんでいた作品なのであれば、期待も大きくなるしなおさらである。


 ということで、目標は立ったわけだが、なんか足りない。これだけでは、確実に失敗する気がする。
 これはまだ、具体的な行動方策にまで落とし込めていないからである。

 こんだけ書いてきたけれども、まだもう少し考え、書く必要がありそうだ。


(かっこ書きである。結局、ちゃんと具体策が出せなかった。かなしい。基本的に、「目的の概念を描くこと」→「気持ちを固めること」→「目標を定めること」→「生活に組み入れること」といった流れでなければ、明確に行動ができない(僕は)。しかし、日々の生活でこんなサイクルを実施することなんてできないので、まぁ流されるように行動することが大半になる――そしてそれがつらいのだ。だから、より大きな目的、すなわち「生きる意味」なんてものを求めるのである。「生きる意味」については、概念化段階と、気持ちの固定化の中間ぐらいの状態なので、まだまだフラフラしている。「創作する!」ってのも、今年最初の記事が、「目的の概念化」に位置付けられて、今回の記事がようやく、「気持ちを固めること」と「目標を定めること」の中間あたりに位置づけられる。これだと、風が吹けば飛んでいくぐらいの、弱い状態だ。たぶん、少しでも生活変化が加われば、簡単になくなってしまうだろう。まだ足りない)

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今日の一言「体調管理、住環境、人間関係も重要」「創作をする理由とは」「単純なことを表現するだけなのにものすごい長い記事になりそう」

ブログは創作なのか(創作定義)

 概要としての今年、2018年の目標は先日記載した。
 本記事においては、目標の一つ、「創作」について十分に推し進めるための方策について記載したい。

 何度も「創作」という言葉を使っているが、これは以下に分類される。

・ブログ
・小説
・作曲

 ブログが創作に含まれるというのは違和感があるが、僕が創作という言葉に込めている意味は、「想像して新しく作品をつくり(創り)だすこと」ということである。

 つくる――という言葉は、漢字で「作る」(無形・小規模)と、「造る」(有形・大規模)に大きく分かれるが、さらに、「新しく・初めて」という意味が込められると、「創る」と書かれる。

 僕のブログは、何か調べて構築するという「作る」という意味よりは、自分の思考の表現であると思っている。この言い方は、「思考の垂れ流し」「落書き」のようなネガティブな表現も可能である。けれども、悪いとは思っていなくて、その理由は、結局のところ、「日本語」という表現をこえて、「自分」なるものの表現はできないと思っているからである。
 もちろん、自分を構成する要素というのは、身体であったり(もっと細かくすると、顔だったり乳房の大きさだったり)、感情だったり、価値観だったり、様々存在する。しかし大別すると、物理的な所有物(身体)と、目に見えない思考に属するものとで、二つに分けられる。心身二元論――そのとき、身体のことは脇に置けば、思考系(信仰とか価値観とかその他目に見えない自分の構成要素)は、「日本語」という表現に依拠している。

 なるほど、上の考えは、中学生ぐらいから思っていたことではあるけれども、最近は、更に日本語(言葉)で表現もできない、「感情要素」という存在についても考慮するようになった。つまり、口でいかに立派なことを言ってようが、「いざ」という時の行動……言動は、そのまま「自分」であるのであって、その動きは言葉を超えるものであるといえる。

 その、感情的な面というのを忘れてはいけないと思う。
 それは、人間であるというカテゴリに属する以上は、逃げ出せない、無視できないものだ。どんなエリートや年配者、高僧であっても、感情という縛りは無視できない。
 それに、こういった文脈で書けば、「感情」というのは、まぁまぁ、ネガティブな表現に思われる。「女性は感情的だ」的な表現もその最たる一つだと思う。ただ、当然感情とは悪いことばかりではない。「良い感情」なるものも当然あるわけだ。



 ――話しがそれている。
 ブログ、小説、作曲、これが僕の考える創作活動である、ということだ。そのうち、ブログというのが、「どこが創作なのか?」と思ったため、その説明を書きたくなったのであるが、あまり重要ではないな。

 いやむしろ、その「ブログ」を、創作活動としてしまうことの危険を思ったのである。
 簡単に書けば、ブログはとても「楽」なのである。

 商品レビューとか、何か哲学とか、テーマを絞って書くブログってのは、大変だと思う。一言でブログといっても、その種類はいろいろあるわけだ。
 もちろん、ある程度、文の量があるブログというのは、まぁまぁ大変なのである。一方、ツイッターでもいいような短い記事が多いブログとか、日記のような、一言二言だとか、料理の写真を掲載するだけのものだったり(まぁ写真は大変なのだが)、そういったものもブログというツールを使っていればブログなのである。

 僕が書いているブログは、基本的に、100%全力である。
 たまに、力を発揮できていないときもあるけれども、これ以上ない表現で書いている。別に、専門用語とか、難しい言葉を使うという意味ではなくて、「最大限分かりやすく書いている」ということである。

 先日、やたら「全裸」と書いたけれども、目指すところはソレである。
 突き詰めたいのである。

 それは、「成長」を目的にはしているけれども、むしろ、「現状を余すことなく表現すること」を目的にしている。

「立派なこと」は言えるし、書ける。

 世界平和のため、日本のため、会社のため、家族のため。
 会社の経営理念(の主旨)だって暗唱できるし、日本国憲法で謳われる理念だって覚えている。

 ただ、それは「サイコパス」でも可能である。――というのは、非常に最近興味がある部分なのだけれども……つまり、感情と行動がどこまで一致するべきなのだろうか、という点に興味がある。

 そうではなくて、「自分」というのが、自分というのに、本当に一致したいという欲求である。――分かりづらい表現になった。このあたりがまだまだ非常に不十分。


 ――話しがそれている。小見出しと内容がそもそも一致していないじゃないか。(最初に書いた小見出しは「創作をするためには身体がクリアーである必要がある」といったものだった)
 小見出しを直そう。
→ブログを書くことは創作としていいのか。
→よい。自己がしっかりしていないと、描きたいテーマも定まらない。

何故創作が必要か

 創作の定義を上の章で書いた。
 では次に、何故創作をする必要があるのか、という点について考えていこう。

 まず、先日「8つの輪」という、人生で重要な項目を挙げた。
1.健康
2.家族
3.友人
4.趣味
5.仕事
6.富
7.時間

 暗唱したらこの程度しか浮かばなかった。なんか足りない。読み返してみる。――「自己啓発・学び」が足りなかった。
 ふむ、しかし、この「自己啓発」ってのは、僕は基礎だと思う。
 自己啓発書とかいって、なんか怪しげな雰囲気がつきまとう言葉になってしまっているけれども、そもそも、人生に軸を持たずに生きるってのは、僕は逆にきついことだと思う。

 絶え間ない快楽が与えられる恵まれた環境をもっている人であれば良いのだけれども、たいていは、「現実」と「自分」の間には深い溝がある。

 その溝を埋めるのは、「努力」と「運」である。

 なんでこの話しになったかというと、その溝を埋めるのが、「物語」であるからだ。

 ここでいう物語は、おとぎ話といった意味だけではない。さっき書いた憲法や、会社の経営理念も物語の一種だ。
 ようは、信仰のことである。宗教や、スピリチュアル的な書き方が気に食わなければ、テーマでも、目的でも何だっていい。


 これまで、「困難」を味わったことがない人は、おそらく殆どいないだろう。
 もしかしたら、挫折的なのはない人がいるかもしれない。けれども、誰しも「努力」したことはあるはずだ。勉強なんて全然したことがないっていうヤンチャな人だって、かわいい子をGETしようと頑張ったり、スクールカーストを維持するため体力増強に力を入れたりしたかもしれない。

 基本的に、人生ってのは、困難の連続だと考えてよい。
 それでもって、その困難を乗り越えて「生きていく」のが人生というものである。

 上の表現は、僕の考えなので、もしかしたら違う認識の人もいるかもしれない。上の認識がもし「絶対的な誤り」であれば、これまでの、そしてこれからの僕の思考については全般的にパラダイムシフト(使ってみたかっただけ。「変更」という表現で構わない)する必要があるが、まぁ、これまでの経験やその他学習的なのから考えて、間違ってはいないと思っている。要は、ゴウタマさんや、ショーペンハウアーさんが言っている、「人生は苦しみである」ということである。

 話しが少しそれているが、物語とは、その「困難」を乗り越えるために必要不可欠なものである。

 上の表現も僕の考えなので、これは更に認識が違う人も多くなっていくだろう。
 別に物語なんてなくても、困難を克服し、生きていくことは可能である、という人もいるだろう。――単に、僕は不可能である、と思っているに過ぎない。しかし、これは(僕にとって)ある程度、この10年くらいで強固になった考えである。

 そもそも、きっとこれからも、僕は何らか、「書く」こと(そして読むこと)をやめられないと思うのである。

 ちなみに、話しがまたそれてしまいそうだけれども、さっきから登場している「自分」ってのは、「記憶」であるとも思っている。
 認知症という問題は、介護の現場を少しみるだけでも相当難しい問題であるとわかる。
 介護は家族でするもの、というのが従来日本社会の在り方であったということであるが、これは本当に難しいと思う。その難しさは、むしろ「家族」であることに由来すると僕は思う。家族は、やはり、大事なものであって、「好き」なものであって、一緒にいるべきものであると思う。――もちろん、そうではない「家族」もあるわけだが、それは本来の意味での家族ではなくて、制度上の、形式的な家族である、と思う。もちろん、その形式が、本来の家族に近づくための一つの要素でもあるのだけれども、「決定的に壊れた家族」なるものもあるのだし、決して、絶対的な関係であるとは思わない方がいい、と僕は思う。
 その前提で考えたとき、認知症――特に今回強調したいのは、「忘れてしまう」ということについてだ。つまり、家族の存在を忘れてしまうということ。
 とても可愛がっていた子どもや孫たちの顔も、さらには存在すらも忘れてしまう。献身的に支えてくれていた周囲の家族のことも、誰だったのか覚えていない。優しい介護士さんぐらいに思っている。

 被介護者がそんな状態であったとき、介護をする側はどう思うだろうか。
 姿かたちは、愛する人だったとして、その人が自分のことを一切覚えていなかったら?

 話は少し飛躍するけれども、その時必要になるのも「物語」だと思う。
「愛する妻が自分のことをもう思い出せないとしても、自分の中には、彼女と過ごした思い出がたくさん詰まっているから、これからも彼女はずっと大切な存在だ――」
 その信念を、「物語」という表現にしてしまうのは、あまりにも残酷だと思う。――だから、これも飛躍するけれども、基本的に、他者と分かり合おうなんて、思わない方がいい。いやむしろ、分かり合わなくていい。理解しようと、努力しさえすればいい。価値観の共有なんて、しなくていい。ただ、共感しようと努めればいい。

何故創作が必要か(続き)

 ひどいこと書いているし、こんなこと思ったり書いたりできる人間は、人間失格だといわれそうだし、サイコパスだといわれそうだし、「こんな人だと思わなかった」とか、まぁまぁ言われそうだし、言われたことも実際あるから、やっぱりどこか神経質になってしまう。

 でも、上の介護の例において考えたとき、「家族は大事だ」という価値観を絶対視したとき、どうしても、その相手を愛しく思えず、憎しみの感情すら発生しだしたらどうだろう。
 きっと、家族を心から愛せない自分と、愛さなければいけないという価値観との狭間で、精神はどんどん擦り減っていくことだろう。

 そうした困難。

 別に介護だけじゃないし、若い人は困難がないとか、年をとれば困難が減っていくとか、そんなこと全く関係ない。
 裕福な人は困難がないとか、善人だったら困難が少ないとか、そんなことも関係ない。

 困難だらけである。

 いじめ、リストラ、DV、冤罪、事故、災害。

 偉い人の引用が欲しければ、探せば簡単に見つかると思う。いやむしろ、単純に人生は素晴らしいものだと賞賛するような表現の方が少ないかもしれない。

 

 ――それでも。それでも生きていくのが大切だ。

 と、そう心から思えるために必要なのが、物語である。


 分かったと、その「物語」なるものが大切なのは分かったとしよう。
 そうしたとき、じゃあ、「自分」として、その物語を創るということが、どうして重要になるのだろうか、という点を書かなければいけないだろう。

 好きだからだ。以上。

 結論は簡単だ。だが、それでは納得しない(自分も)。何故好きか。物語に触れるだけでいいのではないか。何故自分で創らなければいけないのか。

 確か、EDENという漫画の作者が言っていたことだと思うのだけれども、
「エヴァンゲリオンという作品を最初みて、『ああ、やられた。自分のやりたいこと全部やられた』と思った。けれども、終わってから、何か、どこか、零れ落ちているものがある気がした。その両手から掬い損ねて零れたものを、何とか表現したかった」
 的なことを読んだことがある。(上の文章は僕の創造であって、引用ではない。そもそもどこで読んだのか覚えていない)


 好きだからだ、と理由を書いたけれども、もっといえば、自分のためだからだ、というのもある。

 素晴らしい作品が多いこの世の中は、本当に素晴らしいと思う。

 思うが、その素晴らしい作品に触れるインターバル(間隔)が、ものすごく辛いのである。

 これもどっかで見たことある表現だが、
「私はライブに行くのが好きだ。その好きなアーティストのライブに参加するためには、全国津々浦々、いくら費用がかかろうが飛んでいく。ライブでは、この瞬間のために生きているのだというくらい熱狂する。そのライブが終わった後は、本当に死んだように何もする気がなくなる。そして、また次のライブに行く……」
 といったもの。(上の文章も、僕の創造だ。元は何かあった気がするけれども、どこだったか思い出せない)

 こう……なんだろう。「ふつーに」面白い作品はたくさんあるのであるけれども、こう、魂魄を揺るがせられるような、「自分」が揺るがせられるような、強い作品レベルになると、中々ない。

 これは、単純ではない問題であって、同じ作品でも、見るタイミングや環境・条件によって、まったく違う印象になったりする。
 本当に、偶然性が高い行為であるといえる。

 まぁそもそも、本記事のわりかし最初に書いた通り、人生は「運」でもあるので、それはいたしかたない部分もある。

 が、繰り返すが、何か失ったときは、「本当に辛い」のである。

 本当に辛い。
 鬱病の病的な辛さとは違うかもしれないが、この、本当に何もしたくなくなるほどの無気力感というのは、恐怖ですらある(自殺するなんて元気すらでない。ゆえに、うつ病で自殺するというのも、ある程度回復期に危険だったりするらしい)。

 ので、そういった「運」に自分の人生を任せるというのも嫌だ、というのも一つある。人生は、「努力」と「運」の天秤、バランスによって進んでいくものなのだ。運だけ、努力だけではどうにもならない。

 だから、自分でも作品を創ろうというわけである。


(かっこ書きである。長くなったので2回に分ける)

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