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離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「面白い物語欲しいようがー」「感動する曲がききたいようがー」

キャッシュ

 面白い物語に触れたい! と同時に書きたい! と思って、ちまちまと書き進める。しかし、面白いのか自分で分からない、というか、これ、説明多すぎやろ! 物語性ないやろ! うがーダメダダメダダメだ!!

 と思って布団で転がり続けていると、書棚に小林泰三さんの「海を見る人」の小説が目に入る。

「そういやー、量子テレポーテイション関連で、門ってエピソード読んで、面白かったなーと思ってそのままだったな。その他のエピソードも読んでいたけど、まだ読んでない奴があった気がする」

 手に取ってぱらぱらしてみる。
「キャッシュ」という話を、まだ読んでいなかったことが分かる。

 ふむふむ。星間航海が何百年とかかるから、コールドスリープの技術を開発したと。でもコールドスリープで、身体の保存はできても、何十年も経っちゃうと記憶とか人格の保持は難しいことが分かると。

 んじゃー、眠ってる間も、仮想空間で思考させときゃいいんじゃね?

 ということで、コールドスリープ中も頭の中だけで生活できる「世界」がつくられる。そこでの生活は、あんまり単調だと飽きちゃうので、魔力ポイントみたいなもので、魔法を使えるようにしたり、その世界の維持管理をするコンピュータのリソースを枯渇させないため、「キャッシュ」という疑似現象作用(※)を開発したりと、工夫がこらされる。

 そんなこんなで、みんな楽しい星間航海をしていたが、何十年かして、ある日、仮想世界を維持しているコンピュータのリソースが枯渇して、世界に綻びが生じ始めていることが発覚する。

※バタフライ効果のように、僕らの世界は複雑系である。例えば、ガラスを割ったら、当然音が出て、破片が飛び散って、周りの人にも音が聞こえて、と、連綿と状況が反映されていかなければならない。それらを、コンピュータで計算し、逐一再現するのはいくら高性能のコンピュータがいくらあっても足らない。かといって、現実世界に近づけた現象がないと、仮想世界にリアリティがなくなって飽きてしまうのも早いだろう。ということで、取りあえず身の回りに起こる現象ってのは、取りあえずその人だけに感じられる程度の現象として生じさせるようにした。その機能を「キャッシュ」というそうだ。
 これ、オンラインゲーム(MMORPG)とかで、ネットワークリソースを枯渇させないために、ローカル側で環境情報やエフェクトなどをDLしておき、重い処理はクライアント側のPCで処理させるっていう方法とも似てるし、PCのCPUにおけるキャッシュメモリの考え方にも似てるし、設定自体すげー面白いなぁ。

まどかマギカ

 魔法少女まどかマギカの、オープニングテーマは好きで、曲は知っていた。
 けれども、絵柄が少女漫画ちっくで、作品自体はあまり興味はなかった。昨今、ストーリーを虚淵玄さんという、Fate/Zeroとか手掛けた方が携わっているということと、何だか絵柄と合わない鬱ちっくな展開であるということを耳にし、みてみたいなぁと思っていた。

 そんなところ、なんと、アマゾンプライムさんで見れるじゃないか! 最近買い物あんまりしてないから微妙に思っていたが、ダテに高い年会費はらってるわけじゃないな。やるじゃんアマゾンプライム!

 と思って視聴。あー、なるほど、まだ3話までしか見ていないけれども、ちょっとこれは面白そうだ。最後までみれる気がする。

エンターテイメント

そもそもエンタテインメントというものは「人生の意味を問いかける」純文学とは違って、「人生は生きるに値する」という前提から出発します。哲学や芸術を追求するのならばエンタメに手を出してはいけません。ここは徹底的に技術だけが支配する職人の世界です。目的はただ一つ、時間を忘れて楽しんでもらうこと。エンタメとは、不条理な人生を生きる人たち、弱っていたり傷ついている人たちを支え、癒し、応援するために求められる存在であることをけして忘れないでください。自分の主張や意見をただ発表してもしょうがないんです。読者に心の底から愉しんでもらえないと意味がないんです。http://www.0874296.com/skillup/process
 という講座を読んだ。

「エンターテイメントは楽しくなきゃだめだ!」と、僕も以前の記事で書いた気がするので、全体的に賛成だ。
 しかし、エンタメだから、哲学や芸術を追究しちゃあかん、というのは如何だろうか。まぁ、結論が「楽しくない」「不気味なもの」ものになる可能性があるから、よろしゅうない、という意味ではそうなんだろう。
 でも、「不条理な人生を生きる人たち、弱っていたり傷ついている人たちを支え、癒し、応援するために求められる存在」というのは、どうなんだろ。いや、そうあることを否定するのではない、無いんだけど、「それが前提」とされている物語を、どうにも手放しでオモシレー! って言えない感覚が、俺にはある気がしてならない。

 色々書きたいことがある気がするが、取りあえず一つ書き残せば、「すげー面白かった!」作品を見た後の、ものすごい憂鬱な感覚を皆さんは感じたことがないだろうか。
 最近思い起こせば、「君の名は。」とか「ソードアートオンライン」とか見て、確かに面白かったし、ハッピーエンドだった。が、その後、帰宅の路についた僕は、何とも言いようなく、侘寂を重く感じていた。

 心の底から愉しんでもらう。この結論は賛成だ。しかし、物語の紡ぎ手自身が、最初からそのハッピーエンドを求めて、言わば読者に迎合するような形でストーリーを紡ぐというのでは、本当に良い作品が生まれるのだろうか。

 いや、生まれるんだろうな。でも、それって、結局、最初に否定している哲学や芸術の「ここは徹底的に技術だけが支配する職人の世界」というのと、同じようなテクニーク的な話しにならないだろうか。作者さんが、「はいはい、どうせこんな展開にすると萌えブタ読者は悦ぶんでしょ」的につくった作品が、もえーっと喜ばれる。消費財的な作品ってのはそんなもんだ。

 ただ、なんつーか、その、狂気的な作品が読みたい。シグルイという刀剣バトル漫画は、ぶっちゃけ、あれ、ハッピーエンドなんかじゃあなかった気がする。(というより、解説サイトを見なけりゃエンディングが何のこっちゃか全然わからんかった)
 でも、面白かった。取りあえずこの先ずっと忘れない気がする。
 時たま例で取り上げる遠藤浩紀さんのEDENって漫画も、あれ、ハッピーエンドだったんだろうか。「この先の未来も、人類は子を生み育て生きていくのだろう」的なパターンである。正直あんまり問題は解決していない。でも、面白かった。

消費的なエンタメと生産的なエンタメ

 思うに、「うひゃひゃ! おもろかった! さーて、明日から仕事かー」的な作品と、触れた後、しばらく茫然自失して、己の魂魄や信念が揺さぶられるような、そんな生産的(再構築的)な作品と、二種類ある気がする。

 後者は、あんまし、需要がないのかもしれない。

 そんな重苦しいのに触れるぐらいだったら、現実の大きな問題や課題に立ち向かった方が、よほど達成感なんてのも味わえるかもしれない。

 それは否定せん。が、特に今の僕にとっては、後者が非常に重要に思える。
 だったら、シェイクスピアとかドストエフスキーとか、古典的文学を読んだ方がいいのかもしれない。
 だが、消費的なエンタメも、生産的なエンタメも、共通して、重要なことが一つあるのだ。

 面白くなきゃダメだ!!

 どんな高尚なエッセンスが詰まっていても、面白くなきゃあダメだ、心が揺さぶられない、感動できない。
 感動しないと、インプットできない。インプットできないと、思考や行動に反映できない。



 というわけで、今日も俺は面白い作品を探して夜な夜な徘徊する。承認欲求や所属欲求、そして面白い作品に飢え彷徨うゾンビのように。

(しかし、面白いという感情、これまた難解である)

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今日の一言「近況を書いてみよう」

SAOオーディナル・スケールを視聴

 ソードアートオンライン劇場版、オーディナリースケールを映画館で視聴。きっかけは、先日、「君の名は。」を見に行った時に宣伝を目にしたから、が一つ。もう一つは、どうやら、かなりの鬱アニメっぽいという噂を聞いた(※1)からだ。マゾっ子としては見ないわけにはいくまい!(※2)

 感想としては、いやぁ、最近のアニメーションは、ほんと綺麗だなぁ。けもフレを、ある評論家の方がやれ構図がだめやらパースがだめやら声優演技がダメやら、批判をしていたけれども、何かアニメって一言で言っても、もはや語る次元がちゃうねんなぁと思う。ひだまりスケッチと、サイコパスと比べても仕方がないし、何というかその、生命の進化の樹形図みたいなんあるやん? 霊長類っていっても、ボノボとかゴリラとかチンパンジーとか人間とか、いっぱいおるやん、その中で、属に分かれて、種に分かれて細分化されていくじゃん。何かそんな感じ! いやその、大人(※3)向けのアニメと、子供向けのアニメ(※4)とがあるみたいな、そんなもんかな。


※1:いや、かなりリア充的要素が多量に含まれているという見た方のレビューと言うかコメントを読んだだけである。

※2:俺ってマゾだったんや?! というつまらない自己突っ込みはさておき、「いやだなぁ」と感じるその中に、逆転した欲求なんてものがあったりするのであるからにして、何とも希薄な感情に飢えているならば、敢えて進もう茨の道。

※3:大人って言葉が微妙である、と先日書いた通りだけれども、まぁこういうときは便利なんだよな。例えば、中高生が結構見に来ていたけれども、彼らは、子ども、何だろうか?

※4:最近やってるらしいモンハンのアニメとか、NHKでやっているようなアニメとか。そういう意味で、クレヨンしんちゃんのアニメは、先日、モーレツ大人帝国を見たけれども、あれはどっちかっていうと、大人向けなんじゃなかろうか。「郷愁」って表現が上手い具合にできている。おかげで、「大人は泣いて、子どもは笑える」というキャッチコピーの、ロボとーちゃんを借りてしまった。今度観よう。

オーディナル・スケールの感想というか

 感想、……感想、だと?
 うーん、「リア充爆発しろ!」? みたいな(※)。これ以後も、ネタバレ記事は書かないでおこう。というか、ネタバレって、誰に対しての配慮なんだろう。というか、そんなに中身に書きたいようなことは特になさそうである。


 SAOについて自分は、一期と二期の途中しか見ていなかったから、ライフル使う女の子のことは殆ど知らなかった。ただ、基本的に、今回は一期の初めのゲーム「ソードアートオンライン」のアインクラッドの世界が、カギになっているので、一期しかみたことない人でも十分ついていけると思う。

 取って付けたように、物語の最初に、キリトくんとアスナさんのアインクラッドでの「約束」が描写されるので、一応、初めて今作見る人へも配慮されているんだろうなぁとは思った。けれどもやっぱり、少なくても、一期は見てから見た方が楽しめると思う。


 あ、感想ね、感想。そうだな、「リア充爆発しろ」(これももう古いスラングなんだろうなぁ)以外としたら、VRとARとの違いが分かって良かったと思う。
 VRのVは、ヴァーチャル。SAO内では、「フルダイブ」というワードで、いわゆる催眠状態でゲームプレイするスタイルである。
 ARのAは、「Augmented」(オーギュメント)で、「拡張された」ということだ。
 今作は、主にARのゲームが舞台となる。即ち、ほぼ生身で戦ったり、プレイするということだ。VRでは無敵だったキリトくんも、ARとなると、日ごろの運動不足からか上手く戦えなかったりする。

 最近は、SONYが発売したVRのゲームが流行りだしたようである。ちなみに、SONYとLAWSONが、これみよがしにスポンサーであることがアニメの中でもすぐ分かった(からあげくんとか液晶とかSONYのロゴがばっちり!)、逆に面白かった。
 話しの流れとしては、ARが爆発的に流行っているけれども、VRもいいよね、みたいな感じであった。SONYの圧力か! とは思わなかったけれども、このARとVRの対比というのは面白いなぁと思った。

※映画館に来てたの、ほとんど男の子だったぞ。「君の名は。」のときはカップルも多かったけれども、これはどういうことだ。

.hackとSAOの比較

 ゲームの世界がリアルに及ぶ、というのは、ソードアートオンライン(SAO)が初めてではなくて、多分、僕が知る限りは、.hackという作品がある。自分は、.hack//signをみたことがあるぐらいで、ゲームも何もやったことなかったけれど、先日、ある方がブログで、.hackシリーズの解決をされていて、非常に分かりやすかった(なるほど、黄昏の腕輪はまた時系列が後なのか)。

 そんな自分が上の小見出しのようなことを書けるはずもないけれども、取りあえず思ったこととしては、SAO(一期)が面白かったのは、その「デスゲーム具合」のリアリティであった。いやー、ゲームで死んだら現実でも死にますって、そんな中二病的な発想構想、よく描けたなぁって、これは皮肉でなくてよくできた作品だと思った。
 そして、プラス要素として、主人公の俺TUEEE具合と、ヒロインの可愛さが良かった。いやー、オンラインゲーマーの欲望を余すことなく具現化したような作品だと思った。それゆえに、ちょっと一歩引いてみないと、色々とまずい。例えば、「ユニークスキル」なんてありゃせんし、課金しないで効率的にレベリングなんてありゃせんし、システムに組み込まれていない設定とか効果なんてありゃせんし、ゲームで知り合って結婚とかそんなもんありゃせんがな!(最後のは単に僻みである(笑))

娯楽への意欲

 けなしてるのか、褒めてるのかよく分からなくなってきた。
 いやー、まぁ、面白かったよ? ただねぇ、やっぱり、最初に一期を見たときの「何だこれ面白そうだな!」というワクワク感はなかった。当たり前だけどね。
 今作も、「いやー、ARは何かしっくりこないなぁ」とか言ってるキリトくんも、いきなりバシバシ強くなっちゃって、上位ランカーの人も倒しちゃう(もちろん理由付けはしっかりしている。妹の技の伝授とか、チート装置を見破ったとか。)のも何だかなぁって気になった。まぁそういうこまけーことに拘る作品じゃあないってことだ。
 けものフレンズの、絶妙のおかしいコマ割り(演出)とか、敵(=セルリアン)のとってつけたような存在感とか、そんなのどうでもいいんだ。何かその、「すごーい!」って言ってりゃいいんだよ!!(1話しか見ていない。続きみたい)


 ゲーム、好きなんだけど、最近あんまりできんのだよなぁ。
 時間がない、っというのもあるけれども、何だかやる気が起きない。ある方がクロノトリガーのレビューとか書いていて、久々にやりたいなぁと思うのは結構一瞬に過ぎない。むしろ感想とかレビューとか読んでいた方がいいと思ってしまう。
 ただこれは、ゲームに限ったことではなくて、生活全般に及んでいることの、一現象に過ぎないとは思う。

 映画。
 小説。
 漫画。
 ゲーム。
 アニメーション。
 音楽。
 スポーツ。

 他、娯楽って何かあるんだろうか?
 料理、手芸とか?

 何でこんなこと書いているかを考えてみると、「君の名は。」に引き続き映画みたわけだけど、なんつーかその、晴れ晴れとした気持ちになれていないということがある。
 いやいや、だから、鬱アニメだって前評判を知っていったわけだろ? というのはその通りであり、うん、その意味で、行った意味はあったな。

言の葉の庭

 そうそう、忘れていた。この記事は、近況の記事だった。最近、新海誠さんの、「言の葉の庭」も視聴した。50分弱の短いアニメーション作品。これもまた、鬱アニメだった。どうした俺、そんなに自虐したいのか?!

 モーレツ大人帝国(=郷愁と家族愛)
  ⇒ 言の葉の庭(=10代と20代の恋愛)
   ⇒ SAOオーディナル・スケール(=リア充)


 精神を痛めつけようとしているとしか思えない(かっこ笑い)。

 いやいや、かっこ笑いとかいって、笑いごっちゃねえぜ。

 上に、娯楽を挙げたけれども、どうにもピンとこない。これは何故なんだぜ? 何故なんだ、と書きながら、原因は分かっている。今は、「消費」を求めていないということだ。

 ……小見出し5つ目だし、長くなりそうだからここまでにしよう。

(何ともこの記事はダメ記事の見本だ。タイトルと後半が全然マッチしていない。でも人との会話ってこんな感じだったりする。脳は常に論理的な会話を好むわけではない、とか言い訳乙!)

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今日の一言「青春をテーマにした作品はエンディングに関わらず黄昏を思う」「時間の不可逆性が虚しくさせるのかもね」

「君の名は。」を映画館で見てきた

 映画って、何か月上映するかというのは決まっていないらしい。1か月で上映を終える作品もあるらしい。シン・ゴジラは4か月ぐらいで、君の名は。は、それを超えてロングランになっている。

 おかげで、遅ればせながら、映画館で見ることができた。DVDでも出たら借りてみようかと思っていたけれども、結果的に、見て、後悔とか、時間の無駄、という感じは無かった。
 結構、「万人受け」すると思う。前作(厳密な意味ではない)の「秒速5cm」は見る人を選ぶと思う。しかし、その意味で、秒速5cmを見てからこの作品をみると、いろいろ思うところが増えて面白いと思う。

 ストーリーについては、この後書くとして、とにかく、映像がきれいである。日常生活感がばっちりな高校生の部屋から始まり、東京の街並み、走る電車のディテール、駅構内の雑然とした感じ、そして対照的な長野か岐阜の田舎の村の自然と、その自然の中に切り開かれた人の痕跡、伝統的な神社、そこに伝わる紡がれる糸。

 新海誠さんは、本当に、ディテール、繊細な「日常」を切り取るのが上手いと思う。美しいものを美しいように描くのではなく、普段ありふれた些末なものを、美しく描くのではなく、それを兎に角繊細に細かく詳細に描くのだ。その描写が、実写と異なるアニメーションであるという媒体と、これが本当に綺麗に綯交ぜになり、それが見る人に美しさを、押し付けではなく自然に感じさせるのである。

記憶と思い出の大切さ

※ここから若干ストーリーについても触れるため、ネタバレほどにはならないですが、気になる方は注意頂ければと思います。ただ、まだ見たことない方にもそれほど影響はないように配慮はしています。が、ハッピーエンドかバッドエンドか、それすら知りたくない人はブラウザバックでお願いします(ただ、何をもってハッピーとするかは人それぞれでしょうが)。


 本作を、恋愛もの、としてみると、ちょっと違う気がする……というか、今の自分をはじめとして、恋愛とか結婚とか、異性とか、そういった事柄に興味がなかったり、逆に嫌悪をしている人は、面白くないと思う。

 ただ、そこは少し、見方を変えることができれば、冒頭に書いた、より広く万人受けする作品であることは間違いないと思う。

 それは、記憶や思い出の大切さ、美しさ、重要性、というテーマとしてみることである。

 本作の前半は、高校生の男の子と女の子が、互いの人格が入れ替わって、ドタバタ劇をやるのであるが(と書いてしまうと、さもつまらなそうに思えてしまうが、そこは心配なく、冒頭の綺麗な映像と、飽きさせない撮影(=構図やカットイン・アウトなど、連続した映像の見せ方についての技術のこと。アニメーション作品においても非常に重要なポイントである。これは蟲師の特典映像の監督インタビューみたいなので語られていた)によって、普通に楽しむことができるだろう)、物語が動き出すのは後半である。

 田舎の村と、東京と、二人の高校生の心とが交錯し、そして、不吉な彗星が二人の運命を大きく変えていく。(彗星の名が、ティアマトとかいって、確かティアマトってギリシア神話の神で、伝説のオウガバトルとかにティアマットって闇属性の龍が登場したりするから、何だか悪いもののような気がしていたけれども、案の定大変なことになる)

 で、まぁ、その、二人は何やかんやで出会うのだけれども、その出会ったタイミングが、黄昏時なのである。
 この黄昏というのは、昼でもなく、夜でもなく、境界が曖昧になった時間帯なのである。誰そ彼ということで、君は何者なのか、という、よく分からなくなる時間帯、逢魔が時ということなのだ。
 そんな時間だから、二人は、出会うことができた、しかし、その黄昏時はあっという間に過ぎ去っていく。そうすることで、二人は、大切な、相手の名前を、思い出せなくなっていく。「君の名は?」というわけである。

5年が過ぎる

 そして更に、5年が過ぎ去る。
 そうなると、もう二人は、二人が出会ったことすら完全に忘れてしまう。確かに、男の子の方は、東京から田舎の村の山に行ったことは覚えている。けれども、それが何故、何をしに行ったのか、思い出すことができない。

 しかし、どこか、心の奥底では、沈殿した、何か大切な人の思いが残っているように思えるのである。
 しかし、それが何かは、どうしても思い出せない。

 けれども、……これは、ネタバレだけれども、物語的には重要ではない(僕としては重要なことではなかったし、恐らく、この作品が大ヒットしたということで、エンディングはハッピーになっているのだろうということが分かっていた)から、書くと、最後で、二人は何か惹かれるものを感じ、再び、出会うのである。

秒速5cmとの違い

 秒速5cmを見ていると、最後のシーンが、単純にああよかったね~で終わらず、何だかしみじみとした、感傷というか、何とも表現しがたい思いになることができる。

 秒速5cmは、鬱アニメと呼ばれているように(呼ばれてないかもしれない)、最後、結局、踏切のところで、出会いそうで、出会わないのである。擦れ違いである。そして男の子は、何かよく分からなくなって、仕事を辞めて、それでEND、なのである。これは辛い。

 そういう意味で、今作「君の名は。」が、きっとハッピーなんだろうと思いつつ、「し、新海先生、このあと、え、どうなるんですか、ま、まさか、まさかまたすれ違うんですか……? こ、ここは作品としては、出会った方がよいと思いますよ、映画作品的に!」と思いながらみていた。そういう意味で、最後までハラハラどきどきだった。いやぁへんな意味で面白かった。

さてここから感想

 まとめとして、ストーリーとか、そういう点はともかく、映像が綺麗だし面白かったので、満足である。特に批判とかはありません、良い作品だったと思います。

 で、ありつつ、この、終わった後にですね、この、モーレツな虚無感というか、やるせなさというか、つらさというか、哀しさがこみ上げてきたので、やはり危険な作品だと思います。(ここからが書きたいこと。上までのことは、あまり書きたかったわけではないのですが、書いておかないと忘れてしまうし、ここから先の文脈がぶれぶれになりそうだった)

 なんというかですね、

・記憶や思い出
・男女仲・友情

 というキーワード、ポイントが、やはり相当美化されているが故に、「青春」という時代における輝かしい思い出が希薄な人が見るとですね、これは相当「後悔」的なものを生じさせるのです。

 そういう意味においては、若い人がみるのも、きっと危険と思いますが、まぁ、それはまだ「無限の可能性(笑える言葉だ)」があるので、おっさんおばさんが見るよりはマシだと思います。

 なにかこう、若いとき、青春と呼ばれる時期においては、恋愛とか、冒険とか、その他生き生きとした人生の経験、体験をしなければいけない、そんなような、強迫観念的なものを植え付けるわけです。
 いやこれは別に、若いときいじめられていたとか、彼女もできずに童貞だったとか、そういう寂しい思いをしたことがある人に限らず、大抵の人、多くの人は、そんな大それた恋愛も冒険も無いわけです。
 日々の些細な楽しみ、面白さ、大きなことはなくても、それなりに楽しく過ごしていくわけです。
 田舎に生まれた人は、今作のように、東京に出ていくこともなく、出ていったとしても、ディズニーランドで遊ぶとかスカイツリーの展望台に行くとかそんな程度で、もしくはずーっと田舎の村で過ごして終わるわけです。

 逆に、だからこそ、そんな失われた青春を取り戻すため、こうした作品において……これは、多くのエンターテイメント作品が、若者を主人公にしていることが一つ理由と思われますが、その若い時代がテーマに描かれるのです。それを追体験して、ひと時の癒しをえるのです。

虚しさを乗り越えるために

 まぁ、こんな感想を持つ人は、殆どいないだろうな。
 ハッピーエンドだったからこそ、哀しく、虚しくなるというのは、物語の消費として、使用方法が完全に誤っている。
 だからこそ、最初に述べたように、この作品を、「恋愛」とか「青春」とか、そういった観点でとらえてはならないのである。


 僕は先日、衝撃的な体験をしたことで、生きる活力を、いくばくか回復させることができた。それは、これまでの多くの、「自らの再生産」ではなく、他者の存在から与えてもらったものだった。
 そしてそのとき、僕は言った。
答えが欲しい、けど足りない
 俺は、まさに、これである、と、自信をもって言いたい。
 それが例え、過去の自分を否定することになろうとも、その人生の終わりの際に、ああ、実り多き人生だったと、「実感レベル」で感じていきたい。
 しかし同時に、傲岸不遜で強欲であるが、「終わりよければすべてよし」的な思考も大否定したい。その、目的へのプロセス、道筋、道すがらすべて、その目的自体であることを望んでやまない。
 と。
 上記下線の感覚について、今回の作品は、「否」と語りかけてくるのだ。

 かなり極端にストーリーを書けば、高校時代の記憶・思い出によって、就職活動中で自分を見失っていた男の子が(及び、女の子が)、再び自らの求めていた「生き方」に立ち戻っていく、ということである。

 即ち、高校時代(=青春時代)から、現代(社会人)までの、連綿とした繋がり(これは本作では何度も重要に示唆されている、「糸」の「結び」ということがメタファーに思われる)についての、重要性(ないしは、美化、又は「お勧め」)を示しているということである。



 故に、この作品が「合う人」、「合わない人」(面白いと思えるか、思えないか)を、分けるとすれば、その「連続性」を肯定できるかどうか、と言える。

 もっと極端に書けば、これまでの人生を「満足」してきたか、そうではないか、ということでもある。
 ここまで、「青春」と簡単に書いてきたが、別に中高生時代に限らない。どこまでが青春かというのは、いまや、30歳までを青春時代、モラトリアムとみなすこともあるというぐらいであり、ここで特段重要な問題ではない。
 ただ、忘れたい過去、嫌な思い出、振り返りたくない時代をもった人は、残念ながら、本作は「合わない」ということになるだろう。

 難しいのは、そんな人でも、最初に書いたように、映像が綺麗だし、撮影テクニックは秀逸だし、音楽の挿入も絶妙だしで、それなりに面白く思ってしまう可能性が多大にある。それがまた、今作を大ヒット、させた一つの理由でもある。必ずしも、ストーリーが良いからヒットするわけでもない。(良い例が、ジュラシックパークは、それほどストーリーが巧みで面白いかというとそうではないが、とにかく恐竜がかっこよく迫力あって楽しいじゃないか、ということだ)

 ただ、僕は、正直なところ、映画を見終わって、帰る前に喫茶店に入って、取りあえずキーワードだけメモしようとしていたときに、何だか、非常に、この天気の良い日の思ったより寒くなく麗らかな気候の中で、どうにもこうにも、うら哀しい気持ちが広がっていったのである。

 感情移入状態から、現実に戻っていくような感覚。いま、ここ、にいる自分についての懐疑。

たき君とみつはさんのその後

 何度も書いたが、今作の主人公・ヒロインの二人は最後に出会った。名前は思い出せずに、「君の名は……」と同時に問いかけるシーンで終わる。感動的なシーンだ。

 きっと二人は、すれ違っていた時間を乗り越えるべく、お互い二人で過ごす時間を大切にしていくのだろう。
 しかし、その後は、いったいどうなるのだろうか?

 幸せに暮らし、幸せに結婚し、幸せに子供を生んで育てて、幸せな老後を過ごすのだろうか?

 分からない。そして、そも、「幸せ」とは何ぞや?


 そこからは、みなさん、視聴者、読者の皆さんで考えましょう、ということである。
 カップルでこの作品を見た人は、些細な生活の中ですれ違ったり、ケンカしたりもするだろうが、お互い思いやりをもって、二人で過ごした楽しい時間などを忘れないようにして、お互い助け合って生きていきましょう、と?
 失恋したばかりで一人できた女の子は、素敵な出会いがあるように、今は自分磨きに勤しみましょうと?
 離婚した30代のおっさんは、これまた素敵な出会いがあるようにと、婚活パーティーに出席しましょうと?

 今作は、「生き方」を与えてくれるものではない。
 今作は、「記憶」と「思い出」の大切さを教えてくれる作品である。

 そこに、僕が感じた、……というよりも、今も感じて中々行動できないでいる虚しさの原因があるのである。

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今日の一言「正解は、無い。あるのは妥協だけだ」

オタクとアニメ

 昔、アニメが好き、とか言うと、スクールカースト最下層であった。
 いわゆる、「オタク」という言葉が、連続幼女殺害事件あたりで最高潮に有名になって、その余波がじわじわと浸透していた時期である。アニメ=気持ち悪いの図式、もちろん、小説とか漫画とかラノベとかそういった趣味も認められるものではない。スポーツと勉強、あと女の子、それがスクールカースト上位の条件であった。
(注:脚色して書いている)

 それが今や、先日資格試験の関係で、とある高校の教室に入る機会があったけれども、図書室の前を通ると、ふつーに、リゼロ(読んだことない)とかゼロの使い魔(とかその辺の奴だった気がする)が新刊コーナーとかおすすめ図書的に紹介されているのである。これはちょっと驚いたものだ。

 そもそも、あまりアニメに詳しくないから分からないけれども、「今期はどうだった」「来期のあれは期待できる」とかそういった記事とか会話とかも耳にするようになった。そんな、アニメって、毎年ラインナップされるようなものだったのだろうか。それは、1990年代ぐらいから、ずっとそんな毎年何本もの作品が放映されていたのだろうか? 多分そうなんだろう。そしたら、今やすごい数の作品があふれているのだろう。

厖大な数の作品

 その中には、低予算でつくられて、放映時間もあんまりよくなくて、殆ど見られず忘れられていった作品も多いことだろう。

 しかし、それを嘆く暇なんてない、オンライン小説の世界も大きく様がわった。そもそも、膨大な数の作品にあふれ、(という感覚は、既に10年前にも思ったものだが、今はそれよりももっと、もっとだ)それを公表する場すら増えて、その中には、書籍化するような作品もますます増えていっている。
 しかし、その中でも、カーストはあって、落ちぶれていく奴や、歯牙にもかけられない作品も増えているし、面白いし品質もよいにもかかわらず、宣伝が不足しているため目が出ないものだってたくさんある。

 厖大に増えていく表現媒体。

 そしてそれを、日々の食事のように摂取し排泄している私たち。

 本来、「趣味」というのは、個々人の価値観を集約し、共通の場や会話を得るための手段であった。イギリスなどの喫茶店では新聞がおかれ、サロンでは、多くの人たちが集まって、社会世相についてああでもないこうでもないと言い合ったという。他愛ない世間話が言論となり、世論となり、社会に影響を与えることもあったのだろう。

趣味の枝分かれによる個人化

 ところが、今は、趣味の多様化、分化が進んでいると思われる。(注:勝手な妄想だ)

 例えば、アニメが趣味です、といったところで、その相手が、全然自分と異なるジャンルの作品ばかりをみていたら、例えばロボットアニメが好きな人と、ひだまりスケッチとか仄々萌えアニメが好きな人とでは、残念ながらまり会話がはずまないだろう。
 進撃の巨人とか、テラフォーマーズとかしか見てませんというライト層と、深夜アニメを録画もしてかかさずみている人とでは全く違う人種と言ってよいだろう。

 ますます個人化していく社会。一方で、学校教育は、未だ集団での生き方を教えようとする。社会秩序、連帯責任、協調性エトセトラ。


 年末・年始になれば、忘年会や新年会で会社の人たちと一致団結してがんばろうと。あまり関わらない人とも話をしようと。人脈が大事だぞ、と。

 うん、それはとても大事だ。
 大事なんだけど、一方で、社会自体が、人々の心のありよう(もちろんここでの人々とは、個々人に還元されるレベルのものではなく、集団的傾向としてのありようである。もっといえば空気感みたいな)自体が個人化、個別化が進んでいるのではなかろうか。

一般論の無意味性とその標準化

 まぁ、それは究極的にどうでもいい話である。上のような疑問立てをして、それを検証していくのが、文系学問の命題やお仕事である。
 しかしその証明は、往々にして、普遍化すればするほど(当然、学問における真理とは、万人万物に通用する普遍化である)一般人に理解しがたいものへと変容していく。

 本当に自分が明らかにしたかったこと、証明したかったこと、例えば僕がずーっと長い間感じてきた「なんか違う」という感覚(それを閉塞感やら生きづらさやら、いろんな言葉で表現してきたが、結局その表現はその場その場で変わるような流動的なものにしかなり得ない。だから、厳密な言葉の定義はここでは重要ではない。単に「なんか違う」というズレ、その認識)を明らかにしたいと思って、様々本を読んだり人と話したり自分で考えたりしたとしても、結局のところ、その「普遍性を求める」方針は、自己に対して有用な語り部にならなかった(ならない場合が多かった)ということなのだ。

(↑なんか、大事なことを書いた気がする。明日の俺……は、色々予定が入っていて多分読んでる時間がないが、2017年新年になってからの俺は、是非読み返して、赤面するか、感心するか、是非そのことを記事にすべきだ)

あれアニメ感想じゃなかったの?

 先日の記事で、サイコパスの公安局の局長が、「悪役っぽいんだけど明快な説明してくれるんだよね~悪役っぽいけど」って書いてたら、ホントに悪役だった(笑)。
 ただ、ほんとにそれが悪なのだろうか、という問いなのだろう。結局、その人はマキシマさんに負けちゃうのだ。しかしその人は実は……という展開は、中々しびれた、面白かった。

 ただ、シビラシステムの正体の説明というのが、うーん……何か、ちょっと、並列負荷分散と言われていたけれども実は○○でした、というのが、何だろう、あまり驚かなかった。局長さんも、その前話あたりで「黒幕感」出しちゃったしなぁ。やっぱり、今作はある程度「わかりやすさ」を前面に押し出してる気がする。ちゃんと順番にみていけば、話においてけぼりになることができるだけないように、色々工夫されてるんだなぁ、と。

 まぁそんな感じではあったけれども、その後の展開がまた一局面動いて、「おぉぉ! まだ続きますか!」と感動した。
 なんだろう、音楽で言うコード進行で、セブンスコードでテンションをずっと保ってる感じで、なんというか、そろそろトニックコードに戻って落ち着いてくれよ! と思わせてくれるほどだ。
 例えが分かりづらいな、何というか、執行官のやよいさんパートぐらいしか、本筋からズレている話がなくて、ある意味初めからずっとマキシマ氏を追い続けているような流れである。いや、これは悪いことじゃないな。


 何というか、まだ途中だけれども、この後数話でどんな展開になるか分からない。
 敵の敵は味方だぜ、みたいになるのか。楽しみである。

深くシニカルな群像劇

 そして、群像劇が面白い。マサオカのとっつぁんカッコいい。上司と部下との軋轢に悩むギノザ監察官。「いったい何が正解なんだ……」それに答えるマサオカのとっつぁん、「正解はない、あるのは妥協だけだ」って。
 いやー、これ、単にシニカルな批判者だったら、クソ役にも立たないゴミ野郎の台詞なんだけれども、この言葉が似あう人物って、いいね、よく表現されてる、描かれている、かっこいい、素晴らしい、ここら辺は手放しで称賛である。他の誰が何といおうが、僕は良いと思った! 感動した。

 いやでもこれは、中二病的心性によると、ついつい傾倒しちゃうんだけど、これにかまけちゃうとね、無気力とか、その他さまざま問題を抱えるようになるんだけどね。

 でも、よくいってくれた、よく言った! と、僕は思ったわけだ。アニメだけど。
 もう一個引用すると、

「ご主人様とボール遊びする犬なんだよ。犬になりきるしかないんだよ。でもな、それもできないなら、ボールになればいいんだよ。好き勝手投げられて大変に思えるかもしれないが、その場に合わせてどんな風にもなれるんだよ」(ちょっと引用がテキトウである)

 とか、まぁ、歳食った老害みたいなこと言うんだよ、このマサオカさんは。
 ところが、同僚のある一人の脱走を見過ごしたことを「そんなに正義のヒーローになりたいってのか! かっこつけたいってのか!」と咎められたとき、「正義? いいや、違うね。これは男の意地だ」とか言っちゃうんだよこの人は! 「男のロマン」とかも言っちゃいそうだよこの人! まったくどこの時代遅れの老人だよ、でもな、何かすげーいい感じの生き方だなって思ったよ!

まぁ自分の参考にはあまりならない

 いやぁ面白いけど、このまま最後まで見てたら時間がやばい、ということで、そんなことを思っていたら、この記事の最初みたいなことを書いていたわけだ。

 何だろな、やっぱりその、何というか、「真理を追い求める生き方」というのは、誤りなんだということは思った。いやもちろん、きっとこれからサイコパスの展開でも、それと反する在り方の存在が登場するだろう、それがきっと、ツネモリ監視官に与えられるロールモデルなんだろうと、勝手なこの予測が当たるかどうかは別として、

 僕としては、恐らく、幼いころの感覚とは反するのだろうけれども、いわゆる、「他者に合わせた生き方」というのは、これから先、自分にとっては役に立つものではないだろうという感覚である。

 その感覚が強まる程に、孤独感や、疎外感や、そもそも生きることへの懐疑といった、無気力の覆いに包まれていくのだけれども、ただ、そこに負けてはならないなと、そんな珍しく前向きに思ったわけだ。(いや、いつも自分は前向きでしかないのだが)
 今日も、最近のいつものごとく、どうしようもなく苛々というか、焦燥というか、不安というか、とにかく感情が落ち着かないのが24時間中半分以上を占めていたという状態だったのもあるかもしれない。
 いや、逆に、そのような状態であっても、良い作品に出会うと、ちょっとまだ精神を保てるんじゃないかという感覚を呼び起こしてくれる。メンタルポイント(精神力)の回復である。睡眠時間は5時間未満で体調はよくないけれども、やはり、ただ「休む」んじゃなくて、良い作品にふれる、というのが、メンタルポイント回復の方法なんだろう、僕にとっては。

精神力の回復

 今年……いや去年かに読んだ、ある超人完璧な高校生が、神と合体して悪魔を倒していくという小説読んだときや、ヘルマンヘッセのシッダールタを読んだときとか、ああそう、無職転生も面白かったし、その他、色々思い返せばあるだろう。
 その、ずがーんと、雷でうたれたような、心の内から爆発するような感覚、ありていにいえば「感動」こそが、精神力を回復させてくれる方法なのだ、と。



 願わくは、自らも、そういった作品をつくりたい。

 しかしどうなんだろ。自分でつくった作品でずがーんと、回復するものなんだろうか?
 確かに、作品を一つ完成させられたときは、大きな充実感や達成感のようなものを得ることができる。
 しかし、それが、まるで自慰のように、自己回復い資するものになっているだろうか? これは結構難しい問いな気がする、そもそも、感動というのは、自分の知識経験言語からあまりにも乖離している場合は発生しえない、一方で、「ああまたか」といったような従来の感覚を踏襲するものであってもそれは……



 時間切れと、話が変わりまくってるためここで終わり。

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今日の一言「映像が綺麗でもストーリーがダメだと総じてダメだよな、というのは映画でもゲームでも同じ何だよな」

人間(オーク)関係が希薄

 オークと人間の橋渡し的存在を担うことになった女性性をもつハイブリットさんが、何故人間に心を寄せていくのかイマイチ理解ができなかった(というよりも、描写が足りなすぎる。一目ぼれして恋に落ちるレベルで理由が希薄)。

 うーむ。ユニバーサルスタジオジャパンさんが手がけているので、少し期待したけれども、結論的には残念であった。2時間を使うほどの価値はなかった。というよりもこれ、完結してねーじゃねーか! 主要キャラクターみんな退場しちゃって、え、これからどうなるの、って状態で、本当にそのまま終わっちまうという。これでヒットしたら続編つくろうかなみたいな考えらしい。
 それなら最初から、「1」とかうたってほしい。これは詐欺といっていいのではなかろうか、と思うぐらいだ。(前に、同じように、映像はきれいだけど、ストーリーは「今後にご期待だぜ!」的に終わった映画があった。あれ以来だ。その作品が何だったか思い出せないが)

 なんだっけ、シュレックとかいう作品は、結局スリーぐらいまで続いていた気がするけど、あれは、イチだけでも十分面白かった。ジュラシックパークとかもそうだろう。基本、映画は一本で完結して頂きたい。2時間の中にどうストーリーを描くか、そこが重要なんだろうと思うのだけど。

 うーむ。重厚なファンタジーであれば、やっぱりゲームオブスローンズにかなわないな。まぁあれは18禁といっていいほどで、一方これは全年齢向けなのだろうから、仕方がないと思うけれども、ただ、グロテスクとかエロティックが表現できないのならば、もっとストーリーの面で力を入れて欲しいと思わざるをえない。

 具体的にどこがどうだからよくなかったか、というのは、時間をかければできるけれども、もうそろそろ寝る時間だからそれはやめる。

その割に高評価である

 と、正直、全くおすすめできる作品ではないのだけれども、案の定(?)、高評価なのである。
 マス・コミュニケーションにおける宣伝効果なんだろうか。しかし、アマゾンさんでも高評価である。
 これ、実はシミュレーションゲームを題材にしているらしい。だから、そのファンとかが映像だけ期待していたり、という層もあるのかもしれない。

 僕も、ジュラシックパークの最新作は、とりあえず恐竜がかっこよく動いてたからストーリーはともかく満足した。しかし、このウォークラフトについては、原作を知らない自分としては正直楽しめなかった。


 というわけで、今回の記事として書いておくべきは、まぁ、いつも書いてることだけど、やっぱり、他者のレビューとか、あまりあてにならん、というわけだ。

 と、同時に、もう少し踏み込んで書けば、結局、「読者(視聴者)に受け入れられるような作品」を描こうとしても、万人受けするような作品なんて、昨今相当に困難なのである。
 みんな感覚違うのだ。来歴が異なっているのだ。普遍的な美、というのはあるかもしれない。かわいい女の子や綺麗なお姉さんは僕も好きだ。けれども、その「かわいい」とか「きれい」というのは、誰しも共通ではないのである。
 もっと複雑だ。例えば、最近流行っていたらしいドラマの女優さんは僕もかわいいし綺麗だと思うが、じゃあ近しい場面で一緒になったときに、その女性を選ぶかというと、これまたちょっと違うと思う。それは何故か、「様々な社会性」が影響するからだ。これについて書くと長くなりそうだからやめる。

周りに流されるな自分を信じろ

 取りあえず、思ったのは、その、なんだ、好き勝手やるしかないってことだよ。
 いや、他者の言葉を無視するとか、そういうことじゃない。そもそも、自分一人の考え何てモノ自体、幻想に過ぎない。
 その上で、他人の気持ちなんてもうおもんぱかるのを、できるだけやめようと思う。

 いろいろ考えて考えて、何時間もかけてメールしたとしても、思いなんて半分も伝わらない。
 いろんなパターンを考えて、会話に臨んだとしても、思ったように会話が進むなんて滅多にない。

 そもそも、「僕がどう思ったか」というのは、他者にとって全く関係ないことである。哀しいことだけど。

 だから、他人のことなんて考えても無駄だ。

 というのは、すぐさま書いておかなければいけないのは、そんなこと全くないということだ。他者を気遣い、優しくし、情けは人の為ならず、愛し、めでて、慈しみ、大切にすることが重要だ。

 その上で、やっぱり、他者のことに頭を及ぼす時間を、可能な限り小さくするべきだ。


 ものすごーく、端折って書いている。
 恐らく、自分ですら、読み返したときに、この意味をひろうことはできない気がする。でも、だ。
 とても大事なことを書いている気がする。

 明日になると、きっと、あまりの恥ずかしさに赤面して悶えるだろうけれども、でも、この感覚は、酒も入っていない素面におけるこの感覚は、書き残すに値するだろう。

目的を果たす

 他者の感情が重要なのではない。
 他者に幸せになってもらうという「目的」があった場合、それを達成するための行動方策が一番重要なのだ。

 こういったら、こう感じさせるのじゃないか、こう思われるんじゃないか、そんなことに頭を使うことが無意味であるというわけだ。

 愛して欲しい?

 そうじゃない、それは目的としてよくない。お前さんがどうしたいかだよ。愛されたいじゃあだめだ。「愛したい」であるべきだ。
 愛という概念がたとえで分かりやすい気がしたからそうしたけど、別にそれだけに限ることじゃあない。全部だ。生き方すべて。

主体的に生きる

 結局、主体的に生きるしかないんだ、そう思った。

 彼女がいらないわけじゃないが、積極的につくりたいと思うわけでもない、とある方にコメントを頂いて、まさに重要な感覚であると思った。
 それが目的になっていないなら、する必要が無いのであるが、しかし、いい歳して恋人もいないのか、とか、クリスマスに一人過ごすのか、とか、そういった外野的な言葉が脳内を占有する場合に注意する必要がある。
 そしてそれは、時に、実在する他者ではなくて、自分自身の声だったりもするから、よーく耳を傾ける必要があると思う(実のところ、彼女を欲しているというわけだ。しかし、それは何故かということを再度考えたときに、自分の周りはみんないるし……というものだったりして、これはよくよく無限ループとなる場合がある。危険やのぅ)。

モテたいという感覚への懐疑

 なんだっけ、話しがそれた。
 モテたい、というのは違うのだ。それって、女の子からちやほやされて、ハーレムをつくりたいということなんだろうか? そしたら、あ、暗くなってきたね、ちょっと灯りをつけましょうか、といって一万円に火を灯すぐらいお金がなきゃだめだろう。それに、ハーレムって、物語の中ではとっても素敵に思えるけれども、実際問題、お金たくさんもって、高級住宅たてて、5人ぐらいの女性を住まわせて、とかできたとして、その女性たちから「本当に愛されている」とか思えるだろうか? どーせ金にむらがってんだろ? とか思わなかろうか。いや、むしろ超越した感覚になるのだろうか、それはなってみなきゃ分からない。ただ一ついえるのは、何だかすげーめんどくさそうだ、という、僕の感覚である(かっこわらい)。

 となると、モテたいというのは、目的として何かおかしい。
 けれども、同時に、だ。イケメンの方が、はるかに得した人生を送れることは間違いない。(イケメンの定義は不十分だ。しかし、ここでは大して意味はない。単純に、ルックスが良い方がよい、というだけである。当たり前である。不細工よりは美しい方がいいし、汚いよりは綺麗な方がいい、単純な真理である。それに真っ向から喧嘩をうる仏教さんはんぱねーっす!)

 話がそれている。そうじゃなくて、つまりだ、モテたいとか目的になりえないことを考える暇があったら、誰か一人でも本気で愛してみろってんだ!

 ダメブロ界の方々の多くは、彼女欲しいとかそもそも思わないという。それに対して、負け惜しみだ、本当は欲しいに違いないとか、そんな批判をするのは全くもって無意味である。
 そうじゃねーんだよ、愛すべき対象がいないんだよ。
 というのは、「女性」という存在に対しての理想というか、求めるものがなくなってしまっているんだ。「彼女」や「結婚」といった事実が欲しいだけであれば、困難を極めるであろうが、それでも、努力で解決する範囲のことなのである。

 北村透谷という文芸家は、一夫一婦制のロマンティックラブに対して憧れ、一人の女性を愛することにした。しかし、現実の女性は違った。絶望した透谷さんは25歳の若さで自殺した。

 いやいや透谷さん、自殺何てしなくても、女性になんて憧れなくても、人生楽しむ方法がありんすよ、というのが、昨今増えてきている、おひとり様という新たな生き方、人生プランである。

プロットを書かないと収拾がつかなくなる

 あれ、この記事って、ウォークラフトの感想じゃなかったの?(かっこわらい)

 というか、上のロマンティックラブの話も、もう何度も書いてきたようなことの気がするし、ああ、やっぱり歳とってくると同じ話を繰り返しするようになっちまうのかのぅ……。

 ただ、脳科学的な、ダイナミックセンターコアという思考をつかさどる神経群の働きとして、繰り返し同様のことを思考することによって、斬新なアイディアが生み出される、ということなのだそうだ。
 人間、結局、興味のないことだとか、重要性が無い、と判断したことは、頭の記憶からすっぽり抜け落ちていくのである。一週間前の夕食が何だっか覚えている人は、ちょっと人生の重要度がおかしいんじゃないか、ということである。(もちろん、くだらないことだが書いておけば、その一週間前が彼女と祝ったクリスマスパーティーだったりしたら、話は別である)

 インプット無くして、アイディア無し。

 何か煮詰まったら、インプットに励むといい。そこから新たな解決策が見出すことができるようになるのだ。


 反対に、インプットもしたくないが、何だか悶々と苦しんでいるようなときは、取りあえずどんどんアウトプットするべきである。
 くだらない、と思っていることであっても、それは、数日後の自分にとっては発見になるかもしれないのだから。


 ……うーん、何か、うまい具合にまとまるかと思ったけど、残念、諦めよう。おやすみなさい。




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