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1000字で書くということ(1)
2018/01/24 00:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「小説で泣いたのは久しぶり」「感動ってどうしたら発生するのか」

喪失というより優しさに弱い俺

 泣いた。
 大切な人を失ってしまうといったストーリーの小説を読んで泣いてしまった。

 しかし、前から(というのは、ここ数年の間で)気づいていたのであるが、僕は、何か喪失したというよりも、「人の優しさ」というものに弱い気がする。

 こう、なんだろ、死にゆく人が、残された人に対してみせる優しさだったり、逆に、その死にゆく人を取り巻く人の思いやりだったりするものに、心が動かされる。もしくは、喪失感を乗り越えようとする人たちの姿にも。




 涙を流しているときの俺は、純粋に泣いているのであるが、しかし、日々の生活において、僕はそんな「優しさ」的な感じを全くもてていない。
 仕事のことで頭がいっぱいになり、不機嫌でイライラしているときに、駅のホームでうずくまって苦しんでいる人をみても、何ら感情はわかないだろう。そして、何もせず通り過ぎたことを、一秒たりとも後悔しないだろう。というよりも、そもそも気づかないほど周りがみえていない。冷たい人間だ。

 しかし、さほど卑下しようとも思わない。現に、この世の多くの人が、そういった「冷たい人」だと思っている。「そんなんじゃない! それはお前が思ってるだけだ!」と、多くの人はいうだろうが、しかししかし、遠くの国でおこった戦争や紛争や、飢餓や貧困にまで意識を飛ばすことはあまりできない。それは飛躍しているといわれるだろう。けれども、自分の子供と赤の他人(どっかのおっさん)じゃあ、優劣はある。そんなバカげた比較をしても意味がない? 意味はないだろう。でも、人の冷たさや温かさなんてのは、その場の関係性によるものである。
 この文脈でエンターテイメントを持ち出すのは滑稽だろうが、ウォーキングデッドのリック氏は、「仲間」を守るために必死ではあるが、「仲間」以外は切り捨てることも厭わない。さらに、その「仲間」っていう区分もかなり恣意的で、変遷していく――。

 が、まぁ、このあたりのことをいくら書いても、結局、「お前の心の卑屈さや矮小さを自己弁護したいだけだろ乙」という風に言われたらオシマイなので、上のようなことは僕は一切言わない。言うもんか。――この「言うもんか」ってのが、それはそれでストレスなのであるのは愚かしいほど皮肉だ。


(かっこ書きである。次回1/31(水)更新予定「忙しいことを認めた後で」。今回の記事は、自分の卑屈な考え(感情)の整理であるが、次回は、世の中がどうであるかは一旦おいておいて、自分はどういった人間になりたいのかを考える)

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30分で書くということ
2018/01/22 22:07 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「雪がすごいね」「グレートウォール見た」

30分1000字

 先日の記事は3000字ぐらいになったので、「まだ長い」とコメントを頂いた。
 書くのはいいけれども、書いて、1000字にまとめてみたら? とコメントを頂いた。

 ふむ。今日も時間があまりないため、30分だけ書くことにしよう。
 しかし、時間を区切ると、途端にテンションが下がるんだよな。これは何故だろう。

 ある方が、「何も考えずに書き始めると取っ散らかる」と書かれていて、なるほどそれはそうだろうと思った。けれども、取っ散らかって悪いのだろうか? 悪くない。
 先日、「論戦なんてしない方がよい」と書いた。何か、強い主張をしたり、誰かを納得させたり、引っ張って行ったりするならば、短く明確な文章を書くことは大事だ。そういった誰かを納得させる文章が、長すぎたり、論旨があっちらこっちらしていたら、目的は達せられないだろう。

 書く、という行為について、大きく二種類あることを意識すべきである。

 一、誰かに主張を伝えるもの。
 一、自分の思考を整理するもの。

 いうまでもなく、ビジネスにおける文書や、一般書籍は前者である。
 後者は、日記と言われる。

 随筆、エッセイは、どちらかというと前者である。
 ブログは、日記と、随筆・エッセイの中間あたりで、どちらともいえる。


 と、まぁ、上のような内容について、どこまで他者に伝えたいのか、納得してもらいたいのか、その点で大別できるというわけだ。

要約するということ

 上の小見出しぐらいで、500字かな? ――600字。うん、だいたいあってた。

 で、まぁ、5分ぐらいなわけなのであるが、30分かけるとすると、やっぱり、3000字ぐらいいくのである。で、もって、1時間ぐらいかけると、6000字オーバーぐらいで……、なるほど、やっぱり普段5000字ぐらいに収束されているということか。

 いっぱい書いて、それを1000字ぐらいに要約する、と。

 先日の記事を、要約すれば、
・忙しい人はたくさんいるけれども、取り敢えず自分が忙しいことを認めよう。
・ブログを書かないとゾンビになる。
・ゾンビとは、ただ惰性で生活を送っている状態のことである。
・ゾンビ状態では、創作や生きる意味を考えるといった今年の目標を果たせない。
・だから、ブログを書く時間を取るようにして、人間状態を保っていこう。
・マジェスティックプリンスを劇場版含めて見終わった。面白かったが、今一歩感動するのに足りなかった面があると思った。それが何かは未だ明確ではない。
 といった感じ。224字。

 短い。そして、要約するとものすごく面白くない(笑)。

 いや、昨日の記事が面白かったと自画自賛したいわけではないが、なんというか、生きた心地がしない。言葉が空虚である。

 ――ここまで、15分ぐらい。そして1000字超えた。終わり、となる。


(かっこ書きである。なるほど。ブラウザ起動して、タイトル入力してカテゴリ選んで……という作業も含めても、15分ぐらいで1000字は超えるのか。これは考える時間も含めてである。そしたら、まぁ、どんだけ忙しくても書くことに時間をとることは可能だなぁ。しかし、ブログを書くことをルーチンにしようとは全く思わないし、そもそも、そんな意識しなくても、いずれ戻ってくるような状況である。フェレンゲルシュターデン現象の「息をするように嘘をつきやがった」のように、息をするようにブログを書いてしまうのである。病気である。きっと誰しも、それぞれの精神統一や気合を入れる「儀式」ってもんがあるだろう。それが僕の場合ブログだったのだろう。ちょ……さすがに面白くなさすぎる記事である。このままだといずれ削除されてしまうだろう。あーどうしよう。あー、アマゾンプライムで表示された、グレートウォールみる。万里の長城かっこよかった。「トウテツ」ってエイリアンみたいな生き物怖かった。女王を倒したらみんな死ぬって設定、どうなのよ(笑)。しかし、マジェスティックプリンスの、軍団長以外の兵士ってのも、要は働きバチというか、クローンみたいな、そんなもんで似ている。グレートウォールの話だった。えっと、面白かった。主人公が、宴で腕前をみせてみろって言われて、弓を三本速射して、一本目は投げた盃にあてて方向を変え、二本目を盃と柱にあてて、三本目で盃を柱に固定した、ってシーンが超かっこよかった。ちょっと皮肉で嫌味っぽい中国の武将も、「こいつは認めざるをえんな」って顔で拍手しているのも何かよかった。あと、えっと、軍隊が、赤とか青とか黒とかで色分けされているのもきれいに思った。ストーリーは、特にどんでん返しとか、この後はどうなるんだ!? といったワクワク感はないものの、王道的で分かりやすく、見ていて楽しめた。やはりユニバーサルスタジオの作品は中々よいと思う。いやしかし、ウォークラフト、おめーはダメだ。何がダメって? うーん、前に書いたような気がするけれども、よく思い出せないが、もう、なんかいろいろダメだった。とりあえずストーリーがぐしゃぐしゃしていた気がする。なんだろう? しかし、俺は、何がよくて、何がダメなんだろう? 明確に言語表現できていない気がする。別に、悲劇的なのがダメなわけではない。陰鬱な雰囲気だろうが別にそれはいい。もちろん、視聴した後の気分が良い感じかというとそうではないが、別にそれをもって、「ダメだダメだ!」などと思うことはない。あーしかし、「リセット」という映画があって、これは、キリスト教的な原罪を扱う作品であって、とにかく得体のしれない闇が迫ってくるという作品であって、その闇ってのが神様の、「信仰失った奴ら全部消してやり直しちゃうよー」ってな裁きなのであって、「神様なんてくそったれだ!」とか言ったりするとポルターガイスト的なサムシングが起こって消されちゃいそうになったりして、なんか気になって最後まで見ちゃったのだけれども、結局、「面白くはなかった」。グレートウォールは、「感動した!」「魂魄揺さぶられた!」とは全く思わなかった。ふつーに、作品として楽しかったというか、面白かった。マジェスティックプリンスも、ふつーに面白かった。良い作品だったと思う。思うし、面白かったんだけど、なんだろう、もっともっと、心を揺さぶってくれる作品を欲しているのである。前も書いたけれども、なかなか存在しない。というか、出会えない。その出会えないってのは、僕の努力が足りないだけなんだろうが。というか、あれだ、シロクマさんが書いていた気がするが、歳取ってくると、作品みるのにも体力・精神力がいるのである。だから、できるだけ外したくない。非常に傲慢なことを書いているのであるけれども、単に良い作品に出あいたいのである。ああそれに、この「時間性」ってのが、非常に重要である。何故ならば、同じ作品でも、出会う時期によって、まったくもって違った感想や感動が発生する可能性があるのである。繰り返し書いているのであるが、最終兵器彼女は――)

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ブログを書く時間は貴重で幸せである
2018/01/21 12:00 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「結節点としての役割」「超人たれ」

超人

 いきなり引用から始める。
正直俺は永劫回帰的な意味での超人に近づきつつあるような気がする。この一生を何度繰り返そうが、別の道は歩まないという強い肯定感。幼少期にオタ方面の満足を得てしまったら、きっと俺の小説作品はなにひとつ生まれることなく終わっていただろう
――螺旋のモノリス
 リンクフリーなのか分からないが、非常に、強く感銘を受けたために引用してしまった。
 なんと力強い文章だろうか。
 かっこいい。熱い。強い。頑強だ。

 いやしかし、これは、単に文章の力強さだけの問題ではない。
 何のことはない――たいてい人は、自分のことを肯定したいのであって、歩んできた道のりが誤りであったなどと思いたくはないのであって、似たようなことを思って生きているのである。私、自分も例外ではないだろう。

 言葉としてではなく、現に、僕がその文章を書いた人、その人自身に対する尊敬の念が、上の引用文に魂を、活きた力強さを感じさせているのであろう。

 ここに、言葉が先か、結果が先かという疑問が生じるのであるが、その二者択一的な思考自体が、無価値とまでは言わないが、重要なことではないと思う。結局、相互関連し、僕は感動した、ということである。

短い記事を書くためには

 1時間の可用時間がなければ、僕は最近ブログを書いていない。
 1時間ぐらいで、大体5000字を超えるのであるが、それぐらいの時間がないと、頭を切り替えられない。

 しかし、1000字ぐらいが、読む人にとってちょうどいいと、コメントを頂いた。
 その通りだと思う。
 思うのであるが、やはり、5000字ぐらいが最小のまとまりなのである。書いていることはループしている部分があるし、些末なことや、本筋と関係ないことや、そもそも脱線することが多いけれども、それをひっくるめて一つのまとまりなのである。

 プロセスのメモという点が強い。思考過程。

 だが、今回は、30分の時間制限である。
 時間が取れない。

 繰り返し書いているが、決して物理時間として、1時間が捻出できないのではない。
 身体が、気持ちが全く動かないのである。
 昨日は休日であった、にも関わらず、一日中なにもできなかった。一回の食事と、部屋に掃除機をかけたぐらいだ。

 こうやって書くと、「なにやってんの?ワラ」としか思わないのであるが、しかし、昨日の俺は、動けなかった。まったく。

 今、こうしてPCに向かって、ブログを30分でも書いておこうと思っている、この今の感覚からは、到底想像できないほどの倦怠感。「ナニモシタクナイ」「ナニモカンガエタクナイ」

 ――それでも、最小限のルーチン、筋トレ・腕振り運動はやった。

1000字を超えた

 はい。ということで、上の二つの小見出しまでで、1000字ちょい、である。
 時間としては、15分ぐらいだ。

 うーむ、しかし、ものすごい物足りなさがある。

 だからなんだっつー気持ちが強い。いや、じゃあ、いつもの記事はどうなんだ、というと、結局「で?」という終わり方をしているのであるが、「とりあえず全部吐き出した」的な思いはあるのである。

 思うに、5000字は、気持ちの整理も含めた時間・量なのだろう。
 ――であれば、これを短くすることで、頭の切り替えを素早くして、効率的な人生を送れるようになるのかもしれない。

 しれない、が、まぁ、すぐには無理だろう。ああ、しかし、昨日の、24時間のうちに、どうして、一つの記事ぐらい書けなかったのか。本当に、今考えると思い返すと疑問である。しかし、どうしようもなく動けなかった。これだけは、事実として書いておこう。

 あの、どうしようもなく動けないときに、どこまで活動できるかが、これまでも、今年としても重要になりそうである。

残業(平日)

 話しに関連はないが、家に帰る時間が、21時を超えるかどうかが、平日の活動を左右する気がする。
 いっつも、この手のことを書こうとすると、「いや、もっと忙しい人もいるだろうし」というのが浮かぶのであるが、もういい、そういうの、無視する。俺は忙しい、と、宣言しよう。
 俺は忙しい。
 忙しい。
 忙しいのである。

 ああ、そうだったのか。
 自分で認めていなかったのか。

 そもそも、「残業が多いってのは、それは能力が足りないからだ」という言説を、僕自身信じている気がする。まぁそれはいい。それは事実だとしよう。
 が、現実問題として、自分の能力として、時間がかかるのである。それだけの量なのである。

 一月に入ってから、体感で平日の8割ぐらいが、21時、22時まで残業である気がする。具体的に時間をかけば、「いや、俺もっと遅いし」という人が大勢いるだろうので、気が引けるけれども、その人は家まで15分の距離なのかもしれないし、自家用車での通勤かもしれないし、いろいろ条件は異なるだろうし、仕事の内容にもよるだろうし、まぁだから繰り返しになっているが、比較はしても仕方がない。
 俺はどう思っているかというと、忙しい、のである。


 平日が忙しいと、休日にも影響するということも認めておこう。
 昨日は何もできなかった。悔しい。

ブログを書く時間は貴重であり幸せである

 幸せ、って言葉は最近嫌いなのであるが、まぁしかし、この時間は大事である。

 ああ、ようやく、「自分」になってきた気がする。
 この状態になってようやく、活動的なことができる。

 考えることができる。制御できる。動ける。

 ここ最近は、ゾンビ的であった。

 人の言葉が頭に入ってこなくなる。

 ニュースとかブログとか読んでも、意味は分かるのに、何も感じなくなる。



 ゾンビから人間に戻るための結節点がブログなのだと、そう思う。
 そして、今年の目標の「考える」とか「創作」ってのは、人間状態じゃなきゃできない。
 ルーチンは、ゾンビ状態でもできる。
 ルーチンができていても、同じやり方で人生を改善できるわけではないということ、それを今回の気づきということで書いておこうか。

 といったところで、30分、2500字ぐらい。まだ全然書き足りないけれども、お出かけなので時間切れ。

(かっこ書きである。あー。昨日何もできなかったと書いたけれども、マジェスティックプリンスを最後までみた。面白かった。劇場版までアマゾンプライムでやっていたのでみてしまったぐらい面白かった。面白かった、のだけれども、なんか、どこで感動すればいいのか分からなかった。うーん……。搭乗型ロボットものがあまり好みじゃないのかなぁ。「ブラスト・オフ」(発進)のシーンは、かっこいい……のだろうか。ポーズ決めて、バーン! っと飛び出していくシーンに、なんか大げさ感があって、微妙に思った。あと、「覚醒」って概念がちょっと受け入れがたかった。もちろん、最初からアッシュという機体の「ジュリアシステム」をどう乗りこなすのか、というのがテーマであったし、伏線としても十分に思うのだけれど――エネルギーの羽みたいなの生えて、ってのが、いや、映像としてはかっこいいんだけど、なんだか僕の気持と作品の熱量とに距離感があった。――でも、劇場版の、プロトタイプがピーキーすぎて扱えなかったんだけど、仲間がそれぞれの機体の特徴を伝えて、なんとか扱えるようになっていった、というシーンはとってもかっこよかったし、面白かった。ただ、ガンダムのオルフェンズと比べると、オルフェンズの方が面白かった気がする、けど、それは機体がどうこうというよりかは、群像劇としての云々による感覚な気がする。うーん、何かここら辺も書き足りないけれども、ほんと時間切れ)


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継続は力なりは嘘なのか(近況メモ)
2018/01/17 03:18 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「眠れない夜に書く」「眠れないというか生活リズムが狂ったというか」

継続は力なりは思考停止なのか

 余計なモノを捨てる、持たないということは大切だ。
 何故なら、例えそれが小さなモノであっても、それにかかる物理スペース(空間)や、思考スペースが占有されるからだ。

 といったようなことを読んだり思ったりして、整理を進めているということは昨年ぐらいから書いている。その中で、とあるブログさんを見つけた。

ミニマリズムの本質を履き違えている人多すぎるから、本当のミニマリズムを教えてやる

 ふむふむ……と読んでいて、面白いなぁと思ってブックマークしていた。先日、ふと、他の記事を読んでいると、以下の記事を見つけた。

「続ければ上手くいく」は人生を無駄にする、思考停止の合言葉

 ――つまり、「継続は力なり」というのは、思考停止でよくないことだ、と。
 ちょうど、「継続は力なり」という言葉が好きだ、と書いていたので、これについて少し書かねばならない。

 上の記事の主張としては、
・成功の原因を成功者が「コツコツ続けてきたことだ」というのが嫌い
・継続できたのは結果でしかない
・継続できた原因を考えるべき
 というものである。(ざっくり)

 あれ、なんか、僕の思っていることとそれほど違いはないのでは、と思った。
 さらに、
>「継続は力なり」という言葉を言ってる側からしたら、その背景にある継続できた理由があって、試行錯誤した上で継続したら成功できたという前提を理解した上で言っているかもしれません。けど、成功者を神格化している聞き手からしたら「とにかく上手くいくまで続けよう!」という思考停止状態に陥ってしまうんじゃないか。そういう言葉を真に受けて、「続ける」以外のコマンドを失って延々と勝ち目のないフィールドで戦い続けてる人は沢山いる。
 といったことも書かれている。うん、まさにその通りと思う。

 なるほど確かに、「継続は力なり」という言葉は、何も考えずに受け取ろうとすると、非常に危険な標語(プロパガンダ)かもしれない。
 カズレーザー(?)という、金髪赤い服のお笑い芸人さんのインタビュー記事みたいなので、「好きなことしか続けられないッス」みたいなことが書かれていた気がするが、その通りだと僕も思っている。

 一方で、「大きなこと」は、続けなければ成し遂げられないと思っている。

 上のブロガーさんが、続けること自体の否定をしたいのであれば、僕は、「いや、続けることは大事だ」と否定する。けれども、そうではなくて、要は、「上手くいかない」「勝ち目のない」場所(フィールド)で、無理やり続けさせられている状態というものを否定しようという趣旨なのだろう。

 それであれば、僕は大いに賛成である。

言葉に込める意味

 昔、「バカの壁」という本があった。早々に、書籍整理の対象になって、今は手元にないけれども、要するに、「想像力」があるかどうか、というのが「壁」だ。
「バカ」というセンセーショナルな言葉によって、「え、俺って、バカなんだろうか……?」と気になって、本を手に取るような人は、たいてい大丈夫である。「おめでとう、君はバカではない」――一方で、読んでみてもチンプンカンプンだったら、危ないかもしれない。

 その一方で。別に、「バカ」だからといって、気に病む必要もない。賢いことと幸せとが相関しないだろうということは、何となく感じ取れるはずだ。

 何を言いたいかというと、「僕はバカではない!」と、言いたいだけかもしれない、思いたいだけかもしれない……が、そこが重要ではなくて、要するに、「継続は力なり」という言葉一つとってみても、単純に賛成・反対と言えない、ということである。

 初めの小見出しで挙げたブログさんにおいて、「継続は力なり、なんて言ってるのは思考停止だ」というのを見て、「いやそんなことない!」とムキになってしまえば、それはバカなのである。

 よく読めば、それは表現的な差異でしかなく、向かっていること、考えていることというのは、近いはずなのである。



 もう一つ、幸茸さんという方の「論戦に振り回されないための二十の原則」という記事も読んだけれども、納得した(個々の方策がどうこう、というよりも、そもそも、論戦をするべきかどうかという点の考え方について)。

 話がちょっと変わるけれども、ある友人が、「共感だけを求める関係なんて、俺にはいらない」と仰っていた。僕は、「是(なるほど)」と思いつつも、でも、たぶん、大半の人は「共感」して欲しいんじゃあないかなぁと思った。

 だから、論戦なんてのは、普段すべきことではないと思うわけである。引用:「最も重視するのは論戦から利益を得る或いは損害を受けないことである」「論戦に振り回されて時間や労力を空費することを避けるためにどうすればよいか」

 さて、もちろんこの後に、「そうはいっても、仕事をする上では、前提を共有しなければいけないし、成果物のイメージを共有しないといけないし、その過程で軋轢や衝突が発生する場合があるのであって、論戦は避けられない。ましてや、政治や外交といった場も無視するわけにはいかない」といったことが必要になっていくが、僕のブログの主旨からそれる……というより、単に興味がわかないから小見出しをチェンジ。

久しぶりの記事

 前回記事から2週間も経とうとしているのか。
 全然、書く暇をとれなかった。

 にも関わらず、僕は、この場を欲した。

大の大人がブログを書き続けているんだぞ!わかっているのか!

 上のは、ときたま引用させてもらっているシロクマさんの記事であるが、いやあよく分かる。ブログを書くというのは、まぁ、たいしたことではない。始めようと思えばネット環境があれば誰でもすぐに始められる。問題は、「続ける」ことである。
彼らは既に何年もブログを書き続けて、それが生活の一部となっているわけだ。尊いことも、卑しいことも、ユニークなことも、平凡なことも、とにかくもブログ記事として書き続けている。それも、アラサー、アラフォーといった人々が、何年もブログを続けているのである。そのことの意味を、そののっぴきならなさを、決して軽くみることはできない。
 上のは引用のとおり、ブログなんてのは「恥部」であるともいえる。
 先の論戦の話ではないが、「言葉に残る」というのは、それだけ弱点でもある。
 バカの壁の話ではないが、想像力が欠如(それは意図的に行うことだってある)した状態で言葉をとらえれば、誤解の嵐になる。単に表現の差異にどこまでも拘って、論戦の主旨がずれていく、ってこともある。

 何を言いたいのか? 「俺すごいんだぜ?」ということか? まぁその、「すごい」方向性が、果たして社会的優位性があるかどうかは別として、「すごい」といっていいと思う。ただまぁ、いつもの「ネットゲーム症候群」に陥りそうになるが、別に、上の幸茸さんやシロクマさんのように、何年も良質な記事を書き続けている人も多いわけである。
 その中で、思ったことを単に文字にしている、楽な作業をしているだけの僕が、「すごい」だなんておこがましいことこの上ないだろう。

 これまで、言葉には、口には書いてこなかったが、上のように。これまでの記事から分かるように、僕は、他者と比べてすぐに落ち込む癖がある。
 頑張っている人、すごい人をみると、自分の不甲斐なさを感じて、やる気がなくなる。真面目系屑だ。社会不適合者だ。

 そういうのを矯正しようということで、
・他者と比べてはいけない
・継続は力なり
 ということを標語にしているのである。

 ただ、それは単に「現時点で」、「僕が」、やっているに過ぎない。最初に取り上げた、「継続は力なりは思考停止だ」と仰っていたブロガーさんの言うように、無理やり、嫌々頑張ることなんてのは、限度があるのだ。

 だいたい。その頑張るってのは、何を目的に、何を達成するためにやっている行為なんだ?

 ――って書いてすぐさま書きたくなるのは、頑張ることを否定するわけではないということだ。大いに頑張るべきだ。必死にストイックに頑張るべきであるが、その達すべき目標や目的――そしてそれが自分にとってよいものかどうか、そこが重要だ。


 ああ、だから、本筋とは異なるが、「頑張ることは大切だ!」という標語も、「頑張らなくていいんだよ」という標語も、僕はどーでもいいのである。だから、他者のアドバイス的なサムシングも、あんまり必要と思えないのである。必要なこととしては、「共感」ぐらいのものである。
 が、しかし、その「共感」なんてものも、結局は、「ああ、この人は僕のことを分かってくれている」と「自分が」思うかどうかである。実際問題、本当に心から共感してもらっているかどうかなんて分からない――分かりようがない。
 わかんないんだけど、まぁそういうのに、「まぁまぁ」って折り合いをつけていくのが大人なんだよ、と、シロクマさんの著書で書かれていた気がする。逆に、それを拗らせちゃうって人もいるってのが、承認欲求の問題だ。


 という、他者がどうこう、というのは置いておいて、結局僕は、共感を欲しているんだろうか? だから、ブログを書かねばならぬ、と思うのだろうか? ……今の時点で僕自身もよく分からない。よく分からないのだけれども、「そうだよ、君は認められたいだけなんだ」というアドバイス的な何かを言われると、なんかムッとしそうである(かっこわらい)。たぶん、表現するとすれば、「認められたいと思っている自分を認めたくない」ということなのかもしれない。うーむ、だいぶ拗らせている奴だな(かっこわらい)。

ブログの必要性

 というような、こじらせ系のことについては、ブログでしか扱えないと思うのである。

 なるほど確かに、「共感」として、「ああそうだよね。大変だよね。でも、君だけじゃなくて、みんないろいろ、苦労しているんだよ」といった結論
 他者との会話ってのは、どっかしらそういった結論が見えている。見て取ってしまう。いや、僕がそう思い込んでるだけなのか? いや違う。
 もしくは、「そうかそうか。君がそう思うならそうなんだろうな。君の中ではな」といった結論


 ある友人が、「自分と同じレベルの人間がいないから、話してもかみ合わないし、つまらない」といっていた。上だけ切り取って書くと、すごい傲慢な人間のようであるが、そうではなくて、その「同じレベル」というのは、上も下もいる中でということである。自分より下のレベルの人と話してもつまらないし、上の人はレベルが高すぎて何言ってるかわからない。同じぐらいのレベルの人と話をしたい、といった趣旨である。
 これはよくわかる話ではなかろうか。

 んで、テレビの話題とか、共通の知人の話といった話題であれば、まぁ、共有・共感ってのはできる可能性が高いけれども、その友人が興味のある分野や、僕の興味のある分野なんかは、まぁ特殊といえば特殊なので、周りに話しても噛み合う可能性が相対的に低くなるのだ。


 そして、これは、仕方がない。ものすごーっく、仕方がないことである。

 この仕方がなさは、僕はもう諦めている。
 一方で、この仕方のなさは、情報社会といわれる現代は、解決の見込みがあると思っている。いや逆に、解決の見込みがあるゆえに困難な時代であるとも思うのであるけれども――とまわりくどい言い方を避ければ、要は、インターネットである。

 人生とは時間と空間である。そのうち、時間の扱いは昔から大きく変わっていないが、空間というのは進歩している。航空機の発達という、物理的な空間面から、テレビ電話など一瞬で地球の裏側まで情報を伝達するということもそうだ。
 だがそれ以上に、ワールドワイドウェブということで、クモの巣のように、不特定多数に情報が発信できるようになったことが、大きな進歩だと思う。(テレビ電話を広げて、テレビ会議だとしてもコミュニケーションは「複数:複数」であるが、WWWは、「個人(又は複数):不特定多数」である)

 要するに、物理的環境でコミュニケーションに満足できなくても、間口を広げることが容易になったということである。

 それがゆえに、インターネットは、「リアルな関係を損ねる」ものであると、何十年か前はそんな言論が飛び交っていた気がする。人間関係の希薄化、とか。僕はなんか、嘘っぽいなぁと思っていたけれども、まぁそれが事実なのかどうかは置いておいて、結局、幼い子供が将来の夢はユーチューバーですというようになってきた。

 歴史をみれば、保守派と革新派の対立の繰り返しだ。せめぎあいながら、変化は止められない。


 だからまぁ、もう、今後は、物理的環境にとらわれるだけの必要もないと思う。経済的な面を会社に依存していると、追いつめられる可能性が高くなるように……。

共感とか時代とか面白くない

 面白くない。
 面白くない面白くない面白くない!

 なんだ、上の小見出しは。内容は。記事は。つまんねぇえええ!!

 どうでもいいよ。他の人がどんな記事を書こうが、どう思おうが。政治がどうとか、時代がどうとか、仕事がどうとか、どうでもいいんだよ!

 そんなことよりも、創作、1/9~1/15まで、毎日取り組むって目標どうなったんだよ!
 ――忘れてはいなかった。そのうち、3日ぐらいは、アウトプットした。2500字ぐらい書いた。――全然ダメじゃん!

 うーむ。やはり、現状の生活(および設備・装備の状態)を続けていると、上手い具合に時間の確保ができない。
 このままだと、去年と同じような感じになってしまうだろう。

 原因の一つはわかっている。頭と心の切り替えがちゃんとできていないからだ。
 仕事で疲れたなぁ、友人や彼女と遊んで楽しかったなぁ……の後に、一人の時間は、ある程度存在するのである。しかし、その余韻(疲れた・楽しかった)によって、何も有意な行動ができなくなる時間が発生している。
 単に精神的な問題だけなら、気合いだ!! って感じで奮い立たせてもいいが、どうにもこうにも、身体が本当にだるい、という状態になったりする。これはいかんともしがたい。今日なんてある程度早く帰ったものの、もう何もできないぐらい疲れて、だるくて、動けなかった。



 ……ああ、そうだ。こういった、より実態に近いことを書いておかないとダメだ。
「自分は認められたいのか?」とか、そんな問いは、もはや(というか、今年としては)まったくもってどうでもいいことなのである。

 生きる意味を(徹底して)考える、というのと、創作に力を入れる(作品を完成させる)を目指さなければならないのだ。

 しかし、今回はもうだめ。強制終了。体がだるい……。


(かっこ書きである。「継続は力なり」という標語に対しての僕の考えをメモしておきたかった故に書き始めたが、正直時間の無駄だった気がする。別に、自分の中では前から分かっていたことだし、改めて書いておく必要性なんて感じられないからだ。ただ、まぁ、アウトプットしておくことによって、「いつ頃は間違いなく思っていた」ということは分かるから、歴史的な意味では意味があるが、でもその程度である。「共感」(承認欲求をみたすこと)が大事、という意味のことも書いた気がするが、これもまぁあまり重要性は思えない(この重要性は思えない、というのは、共感すること・されることの重要性という意味ではなくて、今ここで僕が記事にすること自体についての意味)。しかし、では一体、何を書いておけば、何から書き始めればよかったんだろう? と思うと、よく分からない。とりあえず、書きたくなったから書き始めた。変な時間にも関わらず、体がだるいにも関わらずだ。しかし、こう、なんだ。ブログ書いていないと死にそうになるのである。死にそうというのは飛躍表現だが、消えそうになるというか、イライラで思考が占有されるような。いやまぁもちろん、イライラだけじゃなくて、彼女とデートとかいちゃいちゃしていると心地よいのであるが、要は脳内麻薬のような、麻酔のような、一時的な痛みを止めるような感じ――ああ、こんな表現は不適切と思うけれども、ゲームとか、「消費的」な快楽を思うのである。ゲームも好きなんだけど、なんだろう、「仕事」とかがある以上、だいぶ満たされないのである。ああ、こうやってかっこ書きだと、なんか率直に書ける気がするが、要は、このあたりのことを書きたかったのだ。ゲームとか彼女と一緒にいて楽しいんだけど、仕事に引き戻されると単純に大変だったりつらい。その落差というか、「没頭のできなさ」が、余計にイライラというか苦しいのである。このまま、だらだらと(別にだらだらしている気もないけれど……)生きていくことはできる。楽しいこともあって苦しいこともあって、その繰り返しで生きていく。それでいいなら、今はとても幸せなんだろう……が、ものすごく違和感。この違和感を書いておく必要があるから、ブログを書く意味、続ける意味があるのだ。「ブログの必要性」って小見出しのところで、そこに少し気づいていた気がするのに、うまくもっていけなかった。それは何故か。久しぶりだからだ。ならば仕方がない。次の記事に託そう)

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ブログはツールか目的か
2017/12/31 12:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「今年もお世話になりました」

師走年末

 時間が、あまりとれない。本当は、一日または半日、まるごとブログに使える時間だと望ましいのだが。
 でもまぁ、たいてい、4時間も使えば、飽きるというか、体力的限界によって、もうPCに向かうことができなくなる。
 ので、残り1時間、ちょうどよいかもしれない。

 なんやかんや、今年、2017年、最後のブログになる気がする。

 皆様お疲れさまでした、今年はどのような年でしたか……的な、総括的な時間が欲しいところだが、仕事も特に区切りもなければ、思考的区切りもない。まぁ、帰省して家族と過ごす時間があれば、一度リセットといった気になる気はする。


 毎年毎年だけれども、こう、ぎりぎりに迫って、ああ、来年の目標が全然決まってないなぁという気持ちにさせられる。
 でも、そんなことはなくて、「創作」と「生きる意味」の二軸の追求というのが、2018年の目標である。

 逆に、今年、2017年の目標はなんだっけ?

「整理」

 であった。
 これは、ある程度成功した、達成できたといってよい。
 後半、かなーり後半ではあるが、モノの破棄をずいぶんと進めることができた。

 思考の整理という面においても、ブログを、160記事ぐらい書くことができたので、整理――できたかはアレだが、ただ、自分の能力から考えれば十分よくやったといえる。(もちろん、ほぼ毎日、または毎月面白い記事を更新された方もいらっしゃるし、創作のルーチンを達成された方もいる中、僕ができたことは大した事ないわけだが、他者と比較することに意味はない、と、このフレーズ今年何回言ったのかなぁ)

創作と生きる意味

 生きる意味という言葉、あんまし気に入っているわけではない。
 何故ならば、そのキーワードで検索すると、あんまし良いHPとかブログとかがヒットしないからである。――と、「人生の意味」さんでも仰られていた(そちらでは、「人生の意味」というワードであるとのことであるが、「生きる意味」でもだいたい同じ)。

 どっちかというと、「実存的追求」という表現が近いのだけれど、そのワードだと更にヒットしない。
 哲学は参考になるけれども、哲学をやりたいわけではないのである。「利己的な遺伝子」を読むと、「へーっ!」とはなるかもしれないが、それと「実存」は別なのである。



 どっかしら俺には、「虚無」なるものが潜んでいる気がする。いや潜んでいるどころか顕在しているかもしれない。「創作」だとか「生きる意味」だとかいうキーワードで虚飾しても、単に「死ぬのが怖い」ということなのかもしれない。「死んでもかまわない」「自死もまた選択だ」とか常々言っているが、それも結局は恐怖の気晴らしなのかもしれない、メメントモリ、死を思えハイデガー。

 しかしその虚無に浸るには、あまりにも煩悩にまみれているので、日々忙しく生きている。しかし同時に僕はそれを、ゾンビ的生活――つまり、死んでいるのに動いているように思ってしまう。 

 OK、君は、生きていたい、それでいいんだね?

 その問いに対しては悩んでしまう。「死んだ方が楽なのに」「死にたい」「つまらない」「全部壊れてしまえ」そういったネガティブな思考と僕は仲良しだったのではなかろうか? いやそうだったはずだ。その痕跡は、様々な過去の言葉の群れの中に読み取ることができる。

 ただ、そうした情熱的(ッ! ああ、そんな言い方をしたらきっと過去の彼は怒るのだ!)な感覚は、今はないのである。

 日々沸き起こる様々な暖かいもの、時に冷たく痛々しい感情を、大事にすくいとらなければ、すぐに流れて消えてしまうような……、そんな感覚。

認められたい

 まぁ、気持ち悪いかもしれない。「かも」、じゃないって? そうだな。

 ただ、一つ確信しているのは、僕は、もう、書かなければ生きていられないということである。きっと、「彼女」という存在に見せても、理解してもらえるものでもないだろう。

 ああ……、しかし、この「彼女」というワードによって僕は少し、自分の理想に気づいてしまった。

 思い出した。昨年だったか、とても哀しい出来事のあとに、いつものように、こんな感じのブログに対して、コメントを頂いたときのことを。
 それは幻想だったかもしれない。僕の妄想だったかもしれない。それでも、僕は、嬉しかったのだ。この、「自分」という存在が、ただ、「自分」であるということそれだけが、ようやく「認められた」、そんな気がしたのだ。


 つまり、ぼくは、認められたいのだろう。
 そして、その「認められたい」(※)というのは、とてもとても、なんてこったい――とても、幼稚で自分勝手で、傍若無人なのである。

 僕は、ただ、純粋に「僕」として認められたいのだ。母親が、我が子を無償に愛するように。

 ……! ああ、思考が止まらなくなってくる、その「無償」なる存在、概念、僕はそれを信じられていない。そんなもの存在しない……そう思いながら、同時に僕は、それを希っているというのである。なんたる矛盾した存在だろう。

※このワードが出てきたのは、間違いなくシロクマさんの「認められたい」という書籍に関係するだろう。本というのは、読んだ瞬間に何か得られるというだけでなく、あとから、遅延して、じわじわと何かが芽生えてくる場合もある。表現が気持ち悪いな(かっこわらい)。


でも無理である

 この僕が求める「認められたい」という内容については、現実世界で満たされることはない。
 ない。絶対にない。
 これは、架空の、机上の、形而上的なものでしかない。

 だから、このブログは、やっぱり、絶対に誰にも公開してはならないのだ。

 でも、「認められたい」から、公開する。人の役に立ちたいとか、表向き書いているけれども、深遠なる理由はそっちの方なんだろう。

 つまり、「俺の全部を受け入れろ!」ということだ。気持ち悪いことこの上ない。
 だがまぁ、この感覚は、それなりにみんなあるとは思う。ただ、その全部が受け入れられるなんてことはないだろう。

 別れた女性が、「全部を受け入れるのが好きってこと」と言っていた気がするが、俺は、それは無理だと思う。
 そりゃ、確かに、理想ではあると思う。
 けれども、それは、お互いに、「高い人格」なるものを持っていなければ成立しない、高尚な関係だ。


 ああ……こんな表現は哀しいけれども、人との関係は、妥協が重要だと思うのだ。
 全部の自分を見せては、いけないと思うのだ……違う。違う、それは、ただ、「俺が」そうなだけである。

 素晴らしい人格の人は、全部、見せてしまえばいいのだ。その高尚なる、カリスマ性がある人格……そこに一寸の隙もないのであれば、その人は、常に「自分」として、全部を認められることを求め続けてもよいのである。

抽象化したが実存に戻す

 しかし、僕は、このブログに、そんな神なる人格の「あり方」を記す気はない。
 確かに、広い世界において、神なる人格を持つ人が存在しようが、じゃあ、己はどうかと問うわけだ。

 僕は、30歳にもなって、幼い子供のように、「自分のすべてを見て、認めて欲しい!」と駄々をこねる、愚かな矮小な人間である。

 そんな人間においては、せいぜい、理想たる人格を学び、それに近しい行動思考をとるように努めるだけである。


 ああ……! しかし、その努力が、なんと、なんともう空しいと感じることか。空虚だ。

 てか、年末に書く時間が残り30分もないというのに、何を僕は書いているのだ。


 これは、ほぼノンストップで書いている、この思考の流れが、そのまま「僕自身」である。
 そりゃあもう、普段こんなこと考えている人間なんて、気持ち悪いに過ぎるわけである。

 別に仕事中にこんなこと考えている暇もなければ、人と会っているときとか、何かつくっているときとかは別だ。そんな、器用に同時に考えられない。

 ただ、仕事よりも、断然僕はこっちのことを考える方が「楽しい」し、有意義に思ってしまうのである。あらまぁ……残念な人である。

 んで、まぁ、そんなこと書こうと思ったのではなく、「生きる意味を考えることとブログを書くことの相関」について書いておこうと思ったのであった。
 直接的には関係しないけれども、現状、ブログ以上に有用なツールはないので、今後も続けることとなるだろう。あと、これらを音読するというのも、たびたび行っているが、これもまぁ続けることになるだろう。音情報で入ってくるものと、視覚情報から入ってくるのとでは全然違ったりするのが面白い。

 ただし、ブログを書くのが、それ自体が目的になってはよくないと思う。
 ブログでお金がもらえたら、きっとそれは面白いと思うけれども、それだと、本来の目的が達成できないと思う。このことは、「警鐘と現象」さんがたびたび仰っている。俺は別に、誰かに迎合したいわけではないのだ……あれ? 認められたい、って言ってなかったっけ?

ブログを書く時間は貴重

 ああ、でも、ほんと、最近気づいた、というか思うのは、ブログ書いているときが、「生きてるって気がする」、気がする。

 生活していると、いろいろ思うところはあるのだけれど、数分したら消えてしまう。
 ただ、無数に、見えない塵芥が心の中に沈殿していくような、そんな感覚。

 生理現象――腹減った眠いは強烈なので、ブログ書く(思考する)暇もなく布団に倒れこんだりする。


 そんな生活をしていると、本当にすり減ってくる。何が減っているのかわからないが、MP(精神ポイント)である。いくらちゃんと食べてよく眠っていても、HP(ヒットポイント)はあっても、MPがないと活動できなくなっていく。

 んで、そのMPって何かって考えると、先日ある方がおっしゃっていたが、「好奇心」的なのが一要素だと思う。動機とか「何かをやりたい」と思う心。

 そのMPを回復させる手段は、きっと人それぞれ、愚痴を言いあったり、旅行に行ったり、性欲を満たしたり、いろいろあるんだろうけれど、僕は、ブログ書いたり創作することな気がする。


 だから、来年は、もっと、そのことを、充実させていきたいと思う。
 先日、ようやく俺はゼロ地点にたどり着いた、と書いたけれども、まぁその事実がどうだろうが、しばらくは、当面、来年は、その「生きる意味」と「創作」を中心に生活をつくりあげていきたいと思う。

 ああ、でも、2017年は、まだ終わってないけど、よくやったと思う。2016年もまぁよかった。2018年は、さらに良くやったと思えるようになりたい。まだその具体策は全然浮かばないが、まぁそれは毎年恒例、1月中に考えるのでいいだろう。

 そう、今年は、坐禅もはじめて体験した。家の中でやり方を調べてやっていたけれども、やっぱり禅堂でやるのとは全然違う。2018年の具体目標の一つは、坐禅を継続して実施したいと思う。ああもちろん、筋トレルーチンは継続したい。――時間切れ。

(かっこ書きである。他者への感謝というのが、自分もできるということが分かってホッとしたのは、今年だっけ去年だっけ。人の言葉などが、なかなか受け入れられない面があるけれども、それはそれで良いのだと思えてよかった。受け入れられることもあるのだ、という事実が分かれば、受け入れられないことは、それだけに理由があるということだ。……うーん、年末的な表現で締めくくりたいところはあるが、思いつかないし、結局いつものごとく強制終了)

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