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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
継続は力なりは嘘なのか(近況メモ)
今日の一言「眠れない夜に書く」「眠れないというか生活リズムが狂ったというか」

継続は力なりは思考停止なのか

 余計なモノを捨てる、持たないということは大切だ。
 何故なら、例えそれが小さなモノであっても、それにかかる物理スペース(空間)や、思考スペースが占有されるからだ。

 といったようなことを読んだり思ったりして、整理を進めているということは昨年ぐらいから書いている。その中で、とあるブログさんを見つけた。

ミニマリズムの本質を履き違えている人多すぎるから、本当のミニマリズムを教えてやる

 ふむふむ……と読んでいて、面白いなぁと思ってブックマークしていた。先日、ふと、他の記事を読んでいると、以下の記事を見つけた。

「続ければ上手くいく」は人生を無駄にする、思考停止の合言葉

 ――つまり、「継続は力なり」というのは、思考停止でよくないことだ、と。
 ちょうど、「継続は力なり」という言葉が好きだ、と書いていたので、これについて少し書かねばならない。

 上の記事の主張としては、
・成功の原因を成功者が「コツコツ続けてきたことだ」というのが嫌い
・継続できたのは結果でしかない
・継続できた原因を考えるべき
 というものである。(ざっくり)

 あれ、なんか、僕の思っていることとそれほど違いはないのでは、と思った。
 さらに、
>「継続は力なり」という言葉を言ってる側からしたら、その背景にある継続できた理由があって、試行錯誤した上で継続したら成功できたという前提を理解した上で言っているかもしれません。けど、成功者を神格化している聞き手からしたら「とにかく上手くいくまで続けよう!」という思考停止状態に陥ってしまうんじゃないか。そういう言葉を真に受けて、「続ける」以外のコマンドを失って延々と勝ち目のないフィールドで戦い続けてる人は沢山いる。
 といったことも書かれている。うん、まさにその通りと思う。

 なるほど確かに、「継続は力なり」という言葉は、何も考えずに受け取ろうとすると、非常に危険な標語(プロパガンダ)かもしれない。
 カズレーザー(?)という、金髪赤い服のお笑い芸人さんのインタビュー記事みたいなので、「好きなことしか続けられないッス」みたいなことが書かれていた気がするが、その通りだと僕も思っている。

 一方で、「大きなこと」は、続けなければ成し遂げられないと思っている。

 上のブロガーさんが、続けること自体の否定をしたいのであれば、僕は、「いや、続けることは大事だ」と否定する。けれども、そうではなくて、要は、「上手くいかない」「勝ち目のない」場所(フィールド)で、無理やり続けさせられている状態というものを否定しようという趣旨なのだろう。

 それであれば、僕は大いに賛成である。

言葉に込める意味

 昔、「バカの壁」という本があった。早々に、書籍整理の対象になって、今は手元にないけれども、要するに、「想像力」があるかどうか、というのが「壁」だ。
「バカ」というセンセーショナルな言葉によって、「え、俺って、バカなんだろうか……?」と気になって、本を手に取るような人は、たいてい大丈夫である。「おめでとう、君はバカではない」――一方で、読んでみてもチンプンカンプンだったら、危ないかもしれない。

 その一方で。別に、「バカ」だからといって、気に病む必要もない。賢いことと幸せとが相関しないだろうということは、何となく感じ取れるはずだ。

 何を言いたいかというと、「僕はバカではない!」と、言いたいだけかもしれない、思いたいだけかもしれない……が、そこが重要ではなくて、要するに、「継続は力なり」という言葉一つとってみても、単純に賛成・反対と言えない、ということである。

 初めの小見出しで挙げたブログさんにおいて、「継続は力なり、なんて言ってるのは思考停止だ」というのを見て、「いやそんなことない!」とムキになってしまえば、それはバカなのである。

 よく読めば、それは表現的な差異でしかなく、向かっていること、考えていることというのは、近いはずなのである。



 もう一つ、幸茸さんという方の「論戦に振り回されないための二十の原則」という記事も読んだけれども、納得した(個々の方策がどうこう、というよりも、そもそも、論戦をするべきかどうかという点の考え方について)。

 話がちょっと変わるけれども、ある友人が、「共感だけを求める関係なんて、俺にはいらない」と仰っていた。僕は、「是(なるほど)」と思いつつも、でも、たぶん、大半の人は「共感」して欲しいんじゃあないかなぁと思った。

 だから、論戦なんてのは、普段すべきことではないと思うわけである。引用:「最も重視するのは論戦から利益を得る或いは損害を受けないことである」「論戦に振り回されて時間や労力を空費することを避けるためにどうすればよいか」

 さて、もちろんこの後に、「そうはいっても、仕事をする上では、前提を共有しなければいけないし、成果物のイメージを共有しないといけないし、その過程で軋轢や衝突が発生する場合があるのであって、論戦は避けられない。ましてや、政治や外交といった場も無視するわけにはいかない」といったことが必要になっていくが、僕のブログの主旨からそれる……というより、単に興味がわかないから小見出しをチェンジ。

久しぶりの記事

 前回記事から2週間も経とうとしているのか。
 全然、書く暇をとれなかった。

 にも関わらず、僕は、この場を欲した。

大の大人がブログを書き続けているんだぞ!わかっているのか!

 上のは、ときたま引用させてもらっているシロクマさんの記事であるが、いやあよく分かる。ブログを書くというのは、まぁ、たいしたことではない。始めようと思えばネット環境があれば誰でもすぐに始められる。問題は、「続ける」ことである。
彼らは既に何年もブログを書き続けて、それが生活の一部となっているわけだ。尊いことも、卑しいことも、ユニークなことも、平凡なことも、とにかくもブログ記事として書き続けている。それも、アラサー、アラフォーといった人々が、何年もブログを続けているのである。そのことの意味を、そののっぴきならなさを、決して軽くみることはできない。
 上のは引用のとおり、ブログなんてのは「恥部」であるともいえる。
 先の論戦の話ではないが、「言葉に残る」というのは、それだけ弱点でもある。
 バカの壁の話ではないが、想像力が欠如(それは意図的に行うことだってある)した状態で言葉をとらえれば、誤解の嵐になる。単に表現の差異にどこまでも拘って、論戦の主旨がずれていく、ってこともある。

 何を言いたいのか? 「俺すごいんだぜ?」ということか? まぁその、「すごい」方向性が、果たして社会的優位性があるかどうかは別として、「すごい」といっていいと思う。ただまぁ、いつもの「ネットゲーム症候群」に陥りそうになるが、別に、上の幸茸さんやシロクマさんのように、何年も良質な記事を書き続けている人も多いわけである。
 その中で、思ったことを単に文字にしている、楽な作業をしているだけの僕が、「すごい」だなんておこがましいことこの上ないだろう。

 これまで、言葉には、口には書いてこなかったが、上のように。これまでの記事から分かるように、僕は、他者と比べてすぐに落ち込む癖がある。
 頑張っている人、すごい人をみると、自分の不甲斐なさを感じて、やる気がなくなる。真面目系屑だ。社会不適合者だ。

 そういうのを矯正しようということで、
・他者と比べてはいけない
・継続は力なり
 ということを標語にしているのである。

 ただ、それは単に「現時点で」、「僕が」、やっているに過ぎない。最初に取り上げた、「継続は力なりは思考停止だ」と仰っていたブロガーさんの言うように、無理やり、嫌々頑張ることなんてのは、限度があるのだ。

 だいたい。その頑張るってのは、何を目的に、何を達成するためにやっている行為なんだ?

 ――って書いてすぐさま書きたくなるのは、頑張ることを否定するわけではないということだ。大いに頑張るべきだ。必死にストイックに頑張るべきであるが、その達すべき目標や目的――そしてそれが自分にとってよいものかどうか、そこが重要だ。


 ああ、だから、本筋とは異なるが、「頑張ることは大切だ!」という標語も、「頑張らなくていいんだよ」という標語も、僕はどーでもいいのである。だから、他者のアドバイス的なサムシングも、あんまり必要と思えないのである。必要なこととしては、「共感」ぐらいのものである。
 が、しかし、その「共感」なんてものも、結局は、「ああ、この人は僕のことを分かってくれている」と「自分が」思うかどうかである。実際問題、本当に心から共感してもらっているかどうかなんて分からない――分かりようがない。
 わかんないんだけど、まぁそういうのに、「まぁまぁ」って折り合いをつけていくのが大人なんだよ、と、シロクマさんの著書で書かれていた気がする。逆に、それを拗らせちゃうって人もいるってのが、承認欲求の問題だ。


 という、他者がどうこう、というのは置いておいて、結局僕は、共感を欲しているんだろうか? だから、ブログを書かねばならぬ、と思うのだろうか? ……今の時点で僕自身もよく分からない。よく分からないのだけれども、「そうだよ、君は認められたいだけなんだ」というアドバイス的な何かを言われると、なんかムッとしそうである(かっこわらい)。たぶん、表現するとすれば、「認められたいと思っている自分を認めたくない」ということなのかもしれない。うーむ、だいぶ拗らせている奴だな(かっこわらい)。

ブログの必要性

 というような、こじらせ系のことについては、ブログでしか扱えないと思うのである。

 なるほど確かに、「共感」として、「ああそうだよね。大変だよね。でも、君だけじゃなくて、みんないろいろ、苦労しているんだよ」といった結論
 他者との会話ってのは、どっかしらそういった結論が見えている。見て取ってしまう。いや、僕がそう思い込んでるだけなのか? いや違う。
 もしくは、「そうかそうか。君がそう思うならそうなんだろうな。君の中ではな」といった結論


 ある友人が、「自分と同じレベルの人間がいないから、話してもかみ合わないし、つまらない」といっていた。上だけ切り取って書くと、すごい傲慢な人間のようであるが、そうではなくて、その「同じレベル」というのは、上も下もいる中でということである。自分より下のレベルの人と話してもつまらないし、上の人はレベルが高すぎて何言ってるかわからない。同じぐらいのレベルの人と話をしたい、といった趣旨である。
 これはよくわかる話ではなかろうか。

 んで、テレビの話題とか、共通の知人の話といった話題であれば、まぁ、共有・共感ってのはできる可能性が高いけれども、その友人が興味のある分野や、僕の興味のある分野なんかは、まぁ特殊といえば特殊なので、周りに話しても噛み合う可能性が相対的に低くなるのだ。


 そして、これは、仕方がない。ものすごーっく、仕方がないことである。

 この仕方がなさは、僕はもう諦めている。
 一方で、この仕方のなさは、情報社会といわれる現代は、解決の見込みがあると思っている。いや逆に、解決の見込みがあるゆえに困難な時代であるとも思うのであるけれども――とまわりくどい言い方を避ければ、要は、インターネットである。

 人生とは時間と空間である。そのうち、時間の扱いは昔から大きく変わっていないが、空間というのは進歩している。航空機の発達という、物理的な空間面から、テレビ電話など一瞬で地球の裏側まで情報を伝達するということもそうだ。
 だがそれ以上に、ワールドワイドウェブということで、クモの巣のように、不特定多数に情報が発信できるようになったことが、大きな進歩だと思う。(テレビ電話を広げて、テレビ会議だとしてもコミュニケーションは「複数:複数」であるが、WWWは、「個人(又は複数):不特定多数」である)

 要するに、物理的環境でコミュニケーションに満足できなくても、間口を広げることが容易になったということである。

 それがゆえに、インターネットは、「リアルな関係を損ねる」ものであると、何十年か前はそんな言論が飛び交っていた気がする。人間関係の希薄化、とか。僕はなんか、嘘っぽいなぁと思っていたけれども、まぁそれが事実なのかどうかは置いておいて、結局、幼い子供が将来の夢はユーチューバーですというようになってきた。

 歴史をみれば、保守派と革新派の対立の繰り返しだ。せめぎあいながら、変化は止められない。


 だからまぁ、もう、今後は、物理的環境にとらわれるだけの必要もないと思う。経済的な面を会社に依存していると、追いつめられる可能性が高くなるように……。

共感とか時代とか面白くない

 面白くない。
 面白くない面白くない面白くない!

 なんだ、上の小見出しは。内容は。記事は。つまんねぇえええ!!

 どうでもいいよ。他の人がどんな記事を書こうが、どう思おうが。政治がどうとか、時代がどうとか、仕事がどうとか、どうでもいいんだよ!

 そんなことよりも、創作、1/9~1/15まで、毎日取り組むって目標どうなったんだよ!
 ――忘れてはいなかった。そのうち、3日ぐらいは、アウトプットした。2500字ぐらい書いた。――全然ダメじゃん!

 うーむ。やはり、現状の生活(および設備・装備の状態)を続けていると、上手い具合に時間の確保ができない。
 このままだと、去年と同じような感じになってしまうだろう。

 原因の一つはわかっている。頭と心の切り替えがちゃんとできていないからだ。
 仕事で疲れたなぁ、友人や彼女と遊んで楽しかったなぁ……の後に、一人の時間は、ある程度存在するのである。しかし、その余韻(疲れた・楽しかった)によって、何も有意な行動ができなくなる時間が発生している。
 単に精神的な問題だけなら、気合いだ!! って感じで奮い立たせてもいいが、どうにもこうにも、身体が本当にだるい、という状態になったりする。これはいかんともしがたい。今日なんてある程度早く帰ったものの、もう何もできないぐらい疲れて、だるくて、動けなかった。



 ……ああ、そうだ。こういった、より実態に近いことを書いておかないとダメだ。
「自分は認められたいのか?」とか、そんな問いは、もはや(というか、今年としては)まったくもってどうでもいいことなのである。

 生きる意味を(徹底して)考える、というのと、創作に力を入れる(作品を完成させる)を目指さなければならないのだ。

 しかし、今回はもうだめ。強制終了。体がだるい……。


(かっこ書きである。「継続は力なり」という標語に対しての僕の考えをメモしておきたかった故に書き始めたが、正直時間の無駄だった気がする。別に、自分の中では前から分かっていたことだし、改めて書いておく必要性なんて感じられないからだ。ただ、まぁ、アウトプットしておくことによって、「いつ頃は間違いなく思っていた」ということは分かるから、歴史的な意味では意味があるが、でもその程度である。「共感」(承認欲求をみたすこと)が大事、という意味のことも書いた気がするが、これもまぁあまり重要性は思えない(この重要性は思えない、というのは、共感すること・されることの重要性という意味ではなくて、今ここで僕が記事にすること自体についての意味)。しかし、では一体、何を書いておけば、何から書き始めればよかったんだろう? と思うと、よく分からない。とりあえず、書きたくなったから書き始めた。変な時間にも関わらず、体がだるいにも関わらずだ。しかし、こう、なんだ。ブログ書いていないと死にそうになるのである。死にそうというのは飛躍表現だが、消えそうになるというか、イライラで思考が占有されるような。いやまぁもちろん、イライラだけじゃなくて、彼女とデートとかいちゃいちゃしていると心地よいのであるが、要は脳内麻薬のような、麻酔のような、一時的な痛みを止めるような感じ――ああ、こんな表現は不適切と思うけれども、ゲームとか、「消費的」な快楽を思うのである。ゲームも好きなんだけど、なんだろう、「仕事」とかがある以上、だいぶ満たされないのである。ああ、こうやってかっこ書きだと、なんか率直に書ける気がするが、要は、このあたりのことを書きたかったのだ。ゲームとか彼女と一緒にいて楽しいんだけど、仕事に引き戻されると単純に大変だったりつらい。その落差というか、「没頭のできなさ」が、余計にイライラというか苦しいのである。このまま、だらだらと(別にだらだらしている気もないけれど……)生きていくことはできる。楽しいこともあって苦しいこともあって、その繰り返しで生きていく。それでいいなら、今はとても幸せなんだろう……が、ものすごく違和感。この違和感を書いておく必要があるから、ブログを書く意味、続ける意味があるのだ。「ブログの必要性」って小見出しのところで、そこに少し気づいていた気がするのに、うまくもっていけなかった。それは何故か。久しぶりだからだ。ならば仕方がない。次の記事に託そう)

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