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ブログはツールか目的か
2017/12/31 12:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「今年もお世話になりました」

師走年末

 時間が、あまりとれない。本当は、一日または半日、まるごとブログに使える時間だと望ましいのだが。
 でもまぁ、たいてい、4時間も使えば、飽きるというか、体力的限界によって、もうPCに向かうことができなくなる。
 ので、残り1時間、ちょうどよいかもしれない。

 なんやかんや、今年、2017年、最後のブログになる気がする。

 皆様お疲れさまでした、今年はどのような年でしたか……的な、総括的な時間が欲しいところだが、仕事も特に区切りもなければ、思考的区切りもない。まぁ、帰省して家族と過ごす時間があれば、一度リセットといった気になる気はする。


 毎年毎年だけれども、こう、ぎりぎりに迫って、ああ、来年の目標が全然決まってないなぁという気持ちにさせられる。
 でも、そんなことはなくて、「創作」と「生きる意味」の二軸の追求というのが、2018年の目標である。

 逆に、今年、2017年の目標はなんだっけ?

「整理」

 であった。
 これは、ある程度成功した、達成できたといってよい。
 後半、かなーり後半ではあるが、モノの破棄をずいぶんと進めることができた。

 思考の整理という面においても、ブログを、160記事ぐらい書くことができたので、整理――できたかはアレだが、ただ、自分の能力から考えれば十分よくやったといえる。(もちろん、ほぼ毎日、または毎月面白い記事を更新された方もいらっしゃるし、創作のルーチンを達成された方もいる中、僕ができたことは大した事ないわけだが、他者と比較することに意味はない、と、このフレーズ今年何回言ったのかなぁ)

創作と生きる意味

 生きる意味という言葉、あんまし気に入っているわけではない。
 何故ならば、そのキーワードで検索すると、あんまし良いHPとかブログとかがヒットしないからである。――と、「人生の意味」さんでも仰られていた(そちらでは、「人生の意味」というワードであるとのことであるが、「生きる意味」でもだいたい同じ)。

 どっちかというと、「実存的追求」という表現が近いのだけれど、そのワードだと更にヒットしない。
 哲学は参考になるけれども、哲学をやりたいわけではないのである。「利己的な遺伝子」を読むと、「へーっ!」とはなるかもしれないが、それと「実存」は別なのである。



 どっかしら俺には、「虚無」なるものが潜んでいる気がする。いや潜んでいるどころか顕在しているかもしれない。「創作」だとか「生きる意味」だとかいうキーワードで虚飾しても、単に「死ぬのが怖い」ということなのかもしれない。「死んでもかまわない」「自死もまた選択だ」とか常々言っているが、それも結局は恐怖の気晴らしなのかもしれない、メメントモリ、死を思えハイデガー。

 しかしその虚無に浸るには、あまりにも煩悩にまみれているので、日々忙しく生きている。しかし同時に僕はそれを、ゾンビ的生活――つまり、死んでいるのに動いているように思ってしまう。 

 OK、君は、生きていたい、それでいいんだね?

 その問いに対しては悩んでしまう。「死んだ方が楽なのに」「死にたい」「つまらない」「全部壊れてしまえ」そういったネガティブな思考と僕は仲良しだったのではなかろうか? いやそうだったはずだ。その痕跡は、様々な過去の言葉の群れの中に読み取ることができる。

 ただ、そうした情熱的(ッ! ああ、そんな言い方をしたらきっと過去の彼は怒るのだ!)な感覚は、今はないのである。

 日々沸き起こる様々な暖かいもの、時に冷たく痛々しい感情を、大事にすくいとらなければ、すぐに流れて消えてしまうような……、そんな感覚。

認められたい

 まぁ、気持ち悪いかもしれない。「かも」、じゃないって? そうだな。

 ただ、一つ確信しているのは、僕は、もう、書かなければ生きていられないということである。きっと、「彼女」という存在に見せても、理解してもらえるものでもないだろう。

 ああ……、しかし、この「彼女」というワードによって僕は少し、自分の理想に気づいてしまった。

 思い出した。昨年だったか、とても哀しい出来事のあとに、いつものように、こんな感じのブログに対して、コメントを頂いたときのことを。
 それは幻想だったかもしれない。僕の妄想だったかもしれない。それでも、僕は、嬉しかったのだ。この、「自分」という存在が、ただ、「自分」であるということそれだけが、ようやく「認められた」、そんな気がしたのだ。


 つまり、ぼくは、認められたいのだろう。
 そして、その「認められたい」(※)というのは、とてもとても、なんてこったい――とても、幼稚で自分勝手で、傍若無人なのである。

 僕は、ただ、純粋に「僕」として認められたいのだ。母親が、我が子を無償に愛するように。

 ……! ああ、思考が止まらなくなってくる、その「無償」なる存在、概念、僕はそれを信じられていない。そんなもの存在しない……そう思いながら、同時に僕は、それを希っているというのである。なんたる矛盾した存在だろう。

※このワードが出てきたのは、間違いなくシロクマさんの「認められたい」という書籍に関係するだろう。本というのは、読んだ瞬間に何か得られるというだけでなく、あとから、遅延して、じわじわと何かが芽生えてくる場合もある。表現が気持ち悪いな(かっこわらい)。


でも無理である

 この僕が求める「認められたい」という内容については、現実世界で満たされることはない。
 ない。絶対にない。
 これは、架空の、机上の、形而上的なものでしかない。

 だから、このブログは、やっぱり、絶対に誰にも公開してはならないのだ。

 でも、「認められたい」から、公開する。人の役に立ちたいとか、表向き書いているけれども、深遠なる理由はそっちの方なんだろう。

 つまり、「俺の全部を受け入れろ!」ということだ。気持ち悪いことこの上ない。
 だがまぁ、この感覚は、それなりにみんなあるとは思う。ただ、その全部が受け入れられるなんてことはないだろう。

 別れた女性が、「全部を受け入れるのが好きってこと」と言っていた気がするが、俺は、それは無理だと思う。
 そりゃ、確かに、理想ではあると思う。
 けれども、それは、お互いに、「高い人格」なるものを持っていなければ成立しない、高尚な関係だ。


 ああ……こんな表現は哀しいけれども、人との関係は、妥協が重要だと思うのだ。
 全部の自分を見せては、いけないと思うのだ……違う。違う、それは、ただ、「俺が」そうなだけである。

 素晴らしい人格の人は、全部、見せてしまえばいいのだ。その高尚なる、カリスマ性がある人格……そこに一寸の隙もないのであれば、その人は、常に「自分」として、全部を認められることを求め続けてもよいのである。

抽象化したが実存に戻す

 しかし、僕は、このブログに、そんな神なる人格の「あり方」を記す気はない。
 確かに、広い世界において、神なる人格を持つ人が存在しようが、じゃあ、己はどうかと問うわけだ。

 僕は、30歳にもなって、幼い子供のように、「自分のすべてを見て、認めて欲しい!」と駄々をこねる、愚かな矮小な人間である。

 そんな人間においては、せいぜい、理想たる人格を学び、それに近しい行動思考をとるように努めるだけである。


 ああ……! しかし、その努力が、なんと、なんともう空しいと感じることか。空虚だ。

 てか、年末に書く時間が残り30分もないというのに、何を僕は書いているのだ。


 これは、ほぼノンストップで書いている、この思考の流れが、そのまま「僕自身」である。
 そりゃあもう、普段こんなこと考えている人間なんて、気持ち悪いに過ぎるわけである。

 別に仕事中にこんなこと考えている暇もなければ、人と会っているときとか、何かつくっているときとかは別だ。そんな、器用に同時に考えられない。

 ただ、仕事よりも、断然僕はこっちのことを考える方が「楽しい」し、有意義に思ってしまうのである。あらまぁ……残念な人である。

 んで、まぁ、そんなこと書こうと思ったのではなく、「生きる意味を考えることとブログを書くことの相関」について書いておこうと思ったのであった。
 直接的には関係しないけれども、現状、ブログ以上に有用なツールはないので、今後も続けることとなるだろう。あと、これらを音読するというのも、たびたび行っているが、これもまぁ続けることになるだろう。音情報で入ってくるものと、視覚情報から入ってくるのとでは全然違ったりするのが面白い。

 ただし、ブログを書くのが、それ自体が目的になってはよくないと思う。
 ブログでお金がもらえたら、きっとそれは面白いと思うけれども、それだと、本来の目的が達成できないと思う。このことは、「警鐘と現象」さんがたびたび仰っている。俺は別に、誰かに迎合したいわけではないのだ……あれ? 認められたい、って言ってなかったっけ?

ブログを書く時間は貴重

 ああ、でも、ほんと、最近気づいた、というか思うのは、ブログ書いているときが、「生きてるって気がする」、気がする。

 生活していると、いろいろ思うところはあるのだけれど、数分したら消えてしまう。
 ただ、無数に、見えない塵芥が心の中に沈殿していくような、そんな感覚。

 生理現象――腹減った眠いは強烈なので、ブログ書く(思考する)暇もなく布団に倒れこんだりする。


 そんな生活をしていると、本当にすり減ってくる。何が減っているのかわからないが、MP(精神ポイント)である。いくらちゃんと食べてよく眠っていても、HP(ヒットポイント)はあっても、MPがないと活動できなくなっていく。

 んで、そのMPって何かって考えると、先日ある方がおっしゃっていたが、「好奇心」的なのが一要素だと思う。動機とか「何かをやりたい」と思う心。

 そのMPを回復させる手段は、きっと人それぞれ、愚痴を言いあったり、旅行に行ったり、性欲を満たしたり、いろいろあるんだろうけれど、僕は、ブログ書いたり創作することな気がする。


 だから、来年は、もっと、そのことを、充実させていきたいと思う。
 先日、ようやく俺はゼロ地点にたどり着いた、と書いたけれども、まぁその事実がどうだろうが、しばらくは、当面、来年は、その「生きる意味」と「創作」を中心に生活をつくりあげていきたいと思う。

 ああ、でも、2017年は、まだ終わってないけど、よくやったと思う。2016年もまぁよかった。2018年は、さらに良くやったと思えるようになりたい。まだその具体策は全然浮かばないが、まぁそれは毎年恒例、1月中に考えるのでいいだろう。

 そう、今年は、坐禅もはじめて体験した。家の中でやり方を調べてやっていたけれども、やっぱり禅堂でやるのとは全然違う。2018年の具体目標の一つは、坐禅を継続して実施したいと思う。ああもちろん、筋トレルーチンは継続したい。――時間切れ。

(かっこ書きである。他者への感謝というのが、自分もできるということが分かってホッとしたのは、今年だっけ去年だっけ。人の言葉などが、なかなか受け入れられない面があるけれども、それはそれで良いのだと思えてよかった。受け入れられることもあるのだ、という事実が分かれば、受け入れられないことは、それだけに理由があるということだ。……うーん、年末的な表現で締めくくりたいところはあるが、思いつかないし、結局いつものごとく強制終了)

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