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加古歩さんへの返信(11月12日)へ
2020/01/22 23:50 | Comments(1) | 思考及び書くこと
今日の一言「23時14分帰宅」

まえがき

 そろそろ、ルーチン更新が飽きてくるころである。面倒だなぁという気持ちになってくる。今日くらいはいっかな、という気持ちになってくる。明日まとめてやれば、まいっかな、という気持ちになってくる。そもそもこんなこと続けても何にもならないよ、という気持ちになってくる。

 様々な怠惰な誘惑……さぼりたいという気持ち。
 それらをはねのけて、今僕はここにいる。

コメント返信


話題元


>そして温厚か、神経質かそれは目的に対して影響度が低いものに関しては無関係であるから温厚でいられるし影響度が高いものに関しては関心が強い分、その成否に関してイライラするってことなんだと思います。
例えばですが朝、仕事に行く前にコンビニによったときにレジがもたついていたり、並んでいるとイライラします。(700円以上買い上げのくじの期間とかは最悪ですね)でも、これはレジに時間がかかっていることに対してイラつくのではなく仕事に遅刻したらどうしようという不安からイライラしているのです。だから夜だとか後ろに何も急ぎの予定がないときにコンビニに列が出来ていても別にイライラしない。携帯でもいじりながらゆったり待ってます。そういう部分を見るとイライラしないというのは技術(とよんでいいかわからないが)であったりする部分もあるのです。朝のコンビニの列がイライラするならば事前に買い物をしておくかもうちょっとだけはやく家を出ればいいという話ですからね。
 なるほど。ここでの文脈としては、「温厚」というのが、必ずしも良い意味ではない気もしてきますね。
 一面的な性格についての見方を変えてくれる視点だと思います。

 性格、というものがあるのではなくて、「目的」が存在していて、その目的に向かう影響度や興味の多寡によって、自己の振る舞いが変わってくる。その一面を切り取ったものを、人は「性格」と呼ぶ、そんな気がしました。

コメント返信2

そして遠藤さんのいう初対面の人には「温厚そう」といわれ家族には「火のような性格だね」といわれるのもどういう場所や場面で会うかどういう繋がりがによって見えてくるものも違ってくると思うんですよ。というのも基本的に人ってなんらかの目的を持って繋がっています。そして、人ってその目的の部分や環境の一側面しか見ることができません。というのも家族であればプライベートの部分しか見ることができないですよね(遠藤さんの「火のような性格だね」といわれたのがどの時期のものかわからないのはありますが、それを学生時代だと想定すると)だって、家族と一緒に学校で勉強をしているわけでもないし逆にいうと親と一緒に仕事をしているわけでもない。家というその環境の一側面でしか、接点がないのです。そして、特に子供の頃はパワーバランスでいうと親側に傾いている。だから子供は親の機嫌を伺ったり、ある程度、歳をとって自分でこうしたいという思いやできる年頃になると反抗期ってのも出てくるんだと思います。そうなったときに「火のような性格だね」という元を辿ればそういわれる状況だったりそういう環境だった何かが出てくるのではないかな?という思っています。
で、話を戻しますが温厚である、神経質であるというよりも元を辿れば何が大事で、何が大事じゃないのかのほうか重要であるといえるしそれはどういう葛藤を抱えているか(いたか)やそのことに対してどういう情報を持っているかで動き方や見え方も変わってくるのだと思います。だから、性格というのはその人にどのような目的がありその目的にたどり着くためにその人の能力や技術であったりどういった方法論をとっているかという部分を簡略化して説明しているもの、と僕は捉えています。

 太字下線は僕が行った部分。
 前の小見出しにおいて、僕は今日「性格、というものがあるのではなくて、「目的」が存在していて、その目的に向かう影響度や興味の多寡によって、自己の振る舞いが変わってくる。その一面を切り取ったものを、人は「性格」と呼ぶ」と表現したけれども、コメント主さんも同じ意味を表現しているのではないかと思う。コメ主さんの表現の方が分かりやすい気がする。

あとがき

(かっこ書きである。ルーティンなので、今後もコメント返信は続けていくが、しかし、ふと思ったのは、個々のポイントに返信することで、全体が見えなくなってしまってはいないか、ということである。要は、このブログは、「生きる意味を徹底して考える」ものを「目的」としているのであって、それに対しての知見というか考えというか感情というか思考というか技術というか知識というか、そういったサムシングについてが、求められていることなのではないか。そうした内容になっていない記事は、無価値なのではないか、そんな感想を(自分の書いている記事自体に)抱いたのである。整理しよう――というか、僕の現状の考えはどうなのか。生きる意味はあるのか、ないのか。これに対しての答えは、あるともいえるし、ないともいえる、という回答になる。生きる意味は「ない」とすれば、考える必要すらないのであるから、そもそも問いの立て方(生きる意味を徹底して考える)が意味をなさないのではないか(だから、消去法的に「ある」としかいえないのではないかと)、と言われるかもしれないが、「ない」としても、だからといって、考えることそれ自体の否定にはならないと、僕は思うのでその批判は当たらないと考える。ただ、生きる意味は「ない」という結論になったときに、それは即ち速やかな自殺の勧奨となるのだろうから、生きる意味は「ある」と言っておくことが正しいと思われる。もう一つ言えることとしては、生きる意味とは、万人共通普遍に存在するものでは「ない」ということである。生きる意味の次元について、コメ主さんは以前「>1.宇宙と私 2.人類と私 3.社会と私
 4.個人と私」と挙げられていた。生きる意味とは、何かとの関係の中で生じるものであるという考えに僕は同意する。そして、自己と世界(環境すべて)の関係性は、流転し、予測のつかないものである。そうしたときに、確固たる自己――ないしは、生きる意味というのは、見出しようが「ない」と、僕は考える。その次元において、僕は、生きる意味は「ない」と回答するだろう。一方で、家族と自分――としたとき、家族にとってみれば、自分がいなくなってしまうと、悲しい思いをするだろう。夫ないしは妻、兄ないしは弟、子供ないしは親……その所属的な役割は、「生きる意味」と呼称するのに、十分ではないだろうか。その意味においては、生きる意味は「ある」と僕は回答するだろう。――しかし、一方で、その所属としての役割が強固だとしても、それでも僕自身の存在が「何か」において必ず必要か、というと、そうではないのである。僕は「世界」の十分条件であって、必要条件ではないのだ(僕は世界の一部であるが、世界であれば僕であるわけではない)。つまり、僕の回答としては、最初に戻るが簡単に言えば、「生きる意味はあるけれども、ない」ということになるのだ。ただ、あるけれどもないとかという、仏教の禅問答や空(くう)のような答えというのは、いささかに座りが悪いので、「徹底して考える」必要があるということになる。ここでふと思うに、キリスト教的な生き方というのは、そうした不安定な要素を、「神が認めてくれる(神がみている)」として信仰することにより、それ以外の(人生)活動を円滑にしてくれるというわけである。つまり、僕の問題意識を換言すれば、「信仰」の対象を探している、といえるかもしれないのである)

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加古歩さんへ(11月12日コメントへの返信)
2020/01/20 23:54 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「22時半ぐらい帰宅」

まえがき

 時間がNOぉぉということで、早速ルーティーンに入る。

返信


話題元
>まず、「性格」の話から。遠藤さんは「性格」に対して絶対不変なものだとは思えていない、それが、ある意味、不変なものである、と思えている人が自己認識、自信の強度が強い人だと考えている、というように僕は理解しましたが僕のスタンスでは逆です。(いや、逆ではないか)というのも自分がこういう性格だ、という自己認識している人のほうが自己に対する理解がない人なのだと、僕は思っています。なぜなら、私はこういう性格だ、と認識していることは「性格」というものを絶対不変なものだ、と認識しているようなもので「性格」というものは絶対不変なものではなくそのときの「目的」や「環境」によって変わるものだ、という認識のほうが僕は正しい(というよりは認識の精度が高い)と考えているからです。


 太字部分は僕が引いたところ。重要な点だと思う。
 僕も、同じように思う。いや、大人たちは、みんなそんなこと分かっているのか。そのあたりがよく分からない。ただ、「こういうキャラクター」という、そんな表現が用いられることがあるだろう。テレビの中だけではなく、聞いたこと、みんなあるだろう。いったことがある人もいるかもしれない。「俺って(私って)〇〇だから~」というのも似たようなものだ。

 自己認識、というのは誰しも持っている。
 その自己認識を広く表現したもの、それが「性格」なのだと僕は思う。しかし反転して、その「性格」とされる表現……例えば、「まじめ(そう)」「がんこ(そう)」「ちゃら(そう)」「面白(そう)」(?)といったものは、逆に自己表現の幅を狭くしていると思う。つまり、性格というのは、自己表現の手段などではなくて、「分かりやすい自分」「理解されやすい自分」を作るための手段なのだと、僕は思う。

返信その2

(たぶん、返信その4ぐらいまでいきそうであるが、それは明日にまわす)
例として僕のことをあげるとするとちょっと前まではバイクのツーリングが趣味でした。そして、だいたい、いつも友達と一緒にいっていました。で、僕と友達のツーリングの日程を他の人から見ると計画性がないといわれると思います。というのも、僕はツーリングのだいたいの目的地を決めて、適当に走る(最短距離ではなく)のです。でもね、「計画性」というのはねツーリング、まあ、旅行みたいなもので旅行の計画性というとこの時間にここにいって、この店でご飯を食べて、次はどこにいって…というようなここに行きたい、という想定があるから計画するもので僕と友達はこの辺り、ここに行きたいという目的地はあるけれどもその目的地につくまでの道のりや、そこで出会う想定していないもの、食事もなんとなくそこで出会うものある意味、偶然を楽しみにして、旅行に出掛けています。だから、計画性を重視するとその偶然性が消えてしまう。そういうところでいうと僕と友達のツーリングというものは計画性がない、というよりは偶然の出会いを目的としていて計画してしまうと偶然性を失ってしまうから計画しないのだ、そして、偶然を目的としていることを計画しているのだ、といえます。

 ちょっと前までは……ということで、今は違うのかもしれませんが、私は今もツーリング趣味(といえば趣味)です。
 一人でも、複数人でも行ったりします。複数人のときは、自分でプランニングはしないですね。単に面倒だというか、思いつかないだけなのか。一人で行くときは、そりゃあ一人なので何らかの「計画」は必要です。が、「この道を通ろう」「この施設(温泉とか)に行こう」とか、漠然と決めて、僕も偶然性を楽しみたいと思ったりしている気がします。それははたから見れば計画性がないようであり、一方で、それ自体が旅行なりツーリングの「目的」なんですよね。だから、それはある意味で計画的、でもある、と思います。

あとがき

(かっこ書きである。吾輩は遠藤である、名前はまだない。自己韜晦(とうかい)に浸る。と、覚えたての言葉を使って、記憶に定着させようと頑張る。そんな怯懦(きょうだ)な性格な自分である、なんちゃって。ええと、その、なんだ、「感情」を表現することが重要だ。このブログは、ブログでいて、「日記」なのである。日誌ではない。心情の吐露だ。吐き出せ、吐き出せ。肩こりがひどい、目が重い、これは寝相が悪いからか。枕をメンテナンスしに行ったほうがいいかもしれない。ちなみに、布団については、昨年か一昨年か忘れたが、10万円ごえの割と高い敷布団を使っている。それによって劇的に睡眠が改善した、と書けたら、情報商材売る人の才能が開花するかもしれないが、そんなに劇的ではなかった。まぁ、今までよりは良いかな、といった感じ。一番よかったのは、敷布団を、2枚重ねて使っていたところが、その高い布団だと、1枚で十分だということ。あと、コンパクトにたたみやすいというのもあって、メンテナンス性に優れていると思った。それが、10万円ごえの価値なのかというと、うーっむ、やっぱり睡眠の質の向上にもっとステータスふって欲しいところ。10年以上使えるという触れ込みだったので、当面買うことはなかろうが、なんかの拍子で買い替えが必要になったら、また同じのにリピートするかというと、微妙。ただ、最近試しに、あまり期待しないで買ってすげーよかった! のは、→これである

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好きな人について(加古歩さんへ返信)
2020/01/18 21:24 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「昨日は、免除だったのか」「帰るなり寝てしまった」

まえがき

 22時ぐらいの帰宅だった気がしたが、疲れが半端ない状態であり、寝てしまっていた。電気もエアコンも付けっぱなしだった。寝るつもりはなかった。
 パソコンの前に座ることができる、というのが更新条件の一つだから、まぁ、免除ということでよいだろうと思う。

返信について続けよう

引用

>で、好きな人となったときに大きく分けると3タイプあるのですね。まず、その一つめから話すとしてそれがどういったものかというと「ドキドキする」といったものですね。そんでね、これに関してなかなか言っていることは正しいなと思える内容が書かれていた本があってその内容とは恋愛というものは自分の穴を埋めることだというものなんですね。
 恋愛とは、自分の穴を埋めること。
 ふーむ、自分の穴とは、何か。なんだか、概念としては分かる気がするが、いざ自分に当てはめようと思うと、よく分からない。
>でね、それだけじゃあ、よくわからないと思うので僕の過去の好きになった人の例を出して説明したいと思います。

 ありがたい。(この、読者への配慮能力の高さがコメ主の頭の良さを感じさせる)
>で、僕は高校生、大学に入りたてくらいのころは可愛い、美人な人が好きでした。というのも僕は当時、顔にコンプレックスがあってイケメンな人を見たりすると「かっこよかったら幸せだったのに」(といった思考停止もあります)と思っていました。

 私は今でも「かっこよかったら人生イージーモードだったのに」といった思考停止は割と生じます(かっこ笑い――の中に真剣な目つき)。
>そしてとあることで僕の顔に対するコンプレックスは消え次に好きになった人は真面目で普通な人でした。―中略―僕はぐちゃぐちゃな生活をしてきて普通、真面目ということに羨ましさを感じていたときだったんですね。
 なるほど……。自分に足りないものを他者に求めるというか、それを羨ましいと感じることは自然に思えます。それが恋愛の一つのきっかけということなのか、という話の流れを予測しつつ次を読んでいきます。
>恋愛とは自分の穴を埋める行為だというのはそのときにコンプレックスに思っていること(コンプレックスというものはある意味、~だったら良かったのに、でも僕は~だ、といった、ある意味、自分の幸、不幸の源泉というかなんというか)を埋める目的があるということなんだと思います。で、あることにコンプレックスがあってそれを思い起こす女性と接するとそのコンプレックスを思い起こしそこを承認されるか、どうか不安でドキドキするってことなのかな?と思っています。

 なる……ほど。まず、そもそもコンプレックスとは、「〇〇だったら良かったのに(でも自分は違う)」と自分が感じること。それについて「〇〇である」人に出会ったとき、自分との差異が認められるか心配になるのが「ドキドキ」であると。
 ここで、疑問というか思ったこととしては、「女性」であるかが関係なく、同性であっても発生する可能性がある理論な気がします。先般他の方からコメント頂いた際の、「嫉妬」に関連するものなのかもしれないと思いました。
>(恋愛のどきどきについては、二つ目の理由が性欲であり、)三つ目はこれは男友達とも被る部分がありますが「信仰」です。まあ、「目的」と言い換えてもいいでしょう。というのも自分にとってこれが正しい、これで良いと思うものが共通しているとき人と人は繋がります。その繋がりの中でできた人間関係というものが友人であると思うんです。

 恋愛の話から「信仰」に繋がる流れにやや頭がおいていかれてしまったものの、当初の話の、「好きな人」ということに戻って思い返すと、確かに関係するのかなと思いました。

>で、友人がどういう関係で変わるのかと書きましたが、それは過去に繋がりのあった人か、現に繋がっている人か、その繋がりの形の違いがあるのだと思います。それと同様に女性に関しても同じ目的を持つ人は協力するために繋がります。ある意味これは一つ目の穴を埋めるというよりは一緒に協力して目的を達成するための仲間といった感じかなーと思います。

 目的、良いと思うことの一致――それが起こる関係が、「好きな人」という関係。価値観の一致という表現も可能でしょうか。
 

コメント全般について

 性欲、というものは、何か特別な、時にイヤらしい感情のように取り扱われるが、喜怒哀楽といった様々な感情の中の一つに思われる。心は、仏教の説一有部という宗派の、心心所相応説では、46個か、75個に分けて考えられるという。その中に性欲が含まれているかは分からないが、人間の心の働きはとにかく複雑怪奇であることは誰しも認めるところであろう。

 そこに、「好き」というラベルを貼るわけであるが、逆に、大きく、できるだけ抽象的に心の分類をするのであれば、「好き」か「嫌い」か、の2分になると思われる。
 脳科学的には、情動をつかさどる扁桃体が、入ってきた情報について、好きか嫌いのラベリングをする。心理学(?)的には、視線のカスケード現象(長く見ていたほうを好きと判断する)が起こる。

あとがき

(かっこ書きである。と、思った。という返信であった。実は、コメントの返信は難しい気がした。しかしこれは、「コメントの返信」が難しいのではない。コミュニケーションそのものの難しさであるといえる。要は情報伝達なのであるが、サバイバル環境下において大切なこととは何か? 敵が来た! 猛獣が近づいてきている! といった情報を伝えることは重要だ。だが、それは、複雑な言語表現を必要としないだろう。僕らが、日常生活でも、仕事でもいいが、伝えるべき情報とは何なのか。知的好奇心を満たしてくれる人が「好き」となるのだろうか。僕らは、何を伝えればいいのか。小説家が伝えるのは、「感動」だ。僕らのこの経済的営みにおいて、本当に必要なことは何なのか。環境保全家は、持続的な地球資源の活用を求めているのか。地球そのものは重要なのか。地球そのものが重要ならば、人間は絶滅した方がいいのか。違う、人の命こそ何よりも尊いのだ、であれば、家畜のように、ディストピア状態(管理された社会)でも構わないのか。違う、自由こそ、人類が血なまぐさい歴史の中で叡智を振り絞って手に入れたスキームだ。自由な活動と、環境保全、弱者の保護、「大人の社会は難しい」と言われる所以は、要するに「複雑」であるからだ。問題は複雑。その複雑な問題をシンプルに説明してくれる人を、「好き」と思うのかもしれない。しかしそれは、「思考する」という人間の大切な営みを鈍化させることになりかねない。最短ルートの生き方は資産を増やすのには適切だろうが、果たしてそれは楽しいのか、感動するのか、僕は少々懐疑する。都心の1億円のタワーマンションに住めたら確かに幸せかもしれない、しかし、郊外の1500万ぐらいの一戸建てでも幸せかもしれない。狭くても通勤時間が短くなれば幸せかもしれない。よく分からないが、「時間」は、人生から減っていっていることだけは事実に思う)

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加古歩さんへ(好きな人について)
2020/01/15 00:40 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「23:56帰宅」

まえがき

 昨夜……なんだか眠れなくて……というか、眠りたくなくて、気づいたら4時44分だった。朝の。そこから、2時間ぐらい寝て、出社。そして今に至る。
 割と忙しかったので、途中何度か眠りオチしそうだったが、耐えられた。

 意外と大丈夫なもんだな、と率直な感想。まぁ、4時過ぎまで起きていたのは完全に自業自得であるのであるが。

コメント返信(10月30日)

リンク

引用①

それでは好きな人について書いていきますが「好き」って、曖昧で色んな意味や感覚を含んでいますよね。でね、自分を例にして考えていくと僕はね、だいたいの人が好きです。じゃあ、そのだいたいの人が「好き」というのはどういうものか考えていきたいと思います。まず、仕事で会う人から考えていくと僕は、仕事が速い人が好きです。というのも僕は仕事は速く終わらせて帰りたいといった「目的」があります。でね、その目的に合った人はだいたい好きです。そして、そのような人はコミュニケーションをとって、協力するし早く帰ろう、といって仕事をします。ただ、その目的に沿っていない人が嫌いかというとそういうわけでもなく、仕事が遅い人は仕方ないとある意味、諦めている部分もありますが仕事中に冗談をいったり、雑談をしながら作業をして、気を紛らわすといったこともできますし、その部分に関してはある意味、協力できているといってもいいかもしれません。で、僕は基本的に一緒の仕事していなくても他の人でなにか仕事の接点がある人というのはコミュニケーションもとるしできることはする、といったスタンスをとっています。というのもそういう状況をつくっておくと楽に仕事ができるんですよね。


 あー、よく分かる。その、「だいたいの人が好き」という感覚、よく分かる。
 氏が後述されているところだが、「嫌いな人もいない」というのがまさに言い当てていると思う。ので、特に、コメントすることがない。

 人を憎む、というのも、労力が必要なことである。嫌いになるというのも体力を使う。

コメント返信難しい

 よくわかる、といった感想になってしまい、書くことが見当たらない(眠気がだいぶ高まっているというのも原因の一つだが)ので、コメントをさらに引用してみる。

引用②
で、だいたいの人が好きといったのはそういうことでほとんど、嫌いな人はいません。嫌いな人といったら向こうから先に攻撃を仕掛けてきた人でそのスタンスを解かない人くらいですかね。そしてそれ以外の人はというか接点のない人というのは無関心ですね。ただね、そういう感じで仕事中は冗談を言い合ったりたまにはプライベートな話をすることもあるのですがかといって、プライベートで会いたいかというと正直、そうでもないです。(というか、プライベートで話したいことがないから会いたくないといってもいいでしょう)
引用③
そして次にプライベートの友人はどうかというと正直、今の僕はほとんどの誰とも会いたくありません。というのもプライベートの友人というのは「楽しむ」というのが目的であって(そして、いつぞやのコメントで書いたようにお互いの問題の解決に協力できない関係である)今の僕は楽しむことで今の問題が解決するかというとそうでもなくその問題を抱えたままで楽しくできるかというとできません。だから今はプライベートの友人と会いたくありません。誘われたらまあ、行ってもいいかな、くらいです。
 引用②部分、③部分含めて、異論なし。
 プライベートで友人を積極的に誘いたいかというとそういう気持ちになっていないというのが、僕のここ数年の傾向に思われる。

 ということで、「わかるー」的なことしか書けなかった。引き続きコメント返信を進めていきたい。

あとがき

(かっこ書きである。引用するとなんかちゃんと記事書いた感出すのは勘違いである。いやしかしそれでも、特に新たに書きたいことが浮かばなかった。というのは悪い意味では決してなく、あまりにもコメント自体が僕が表現したいことを既になしてしまっていたからである。……あ、やばい、座りながら寝てしまっていた、今日はもうここまでにする)

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嫉妬について(イミフさん(10月30日)へ返信)
2020/01/13 15:43 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「13時半ごろ起床」

まえがき

 今日は、特に予定がない。家の片づけなどを進めよう。その前に、日課更新を行おう。

コーヒーもつけてほしいへ返信

リンク

 アップルパイが美味しい、とのコメントへのコメントを受けてのタイトル。センスがいい。そしてアップルパイが食べたくなる。今日買いに行ってこようかな。まだ売ってるものだといいな。

 さて、引用する。

>ギャップ
人のことを理解することなんて無理なんだから、理解されることもそもそも不可能として割り切ってしまえばいい、と私は思っています
だから、私の場合、人から見た自分の性質と私から見た自分の性質に差異があっても違和感はないですね
つまり、自分にフォーカスを当てます

 人のことを理解するのも、されるのも無理。というのは、私も至極最もだと思います。共感するところです。一方で、「何だか寂しいな」という気持ちも、自分の中にあるような気がしています。若いころは――という表現が適切かはともかく、10代20代ぐらいのときは、それは自分の中で認められない感情だった気がします。

 ジョハリの窓、というのが、心理学なのかな、自己啓発なのかな、分かりませんが、そういう考え方があります。自己を開放、秘密、盲点、未開、に分けて考えるというもの。目指すべきは、すべて開放していけ、という方向性なのだと思います。実際難しいのでしょうが。

 そもそも、閉ざされた部分――自分も他者も知らない部分が人にはある、とすれば、そもそも「理解」というのは永遠に不可能なもののように思われます。にもかかわらず、理解されないことを「寂しい」と思うのは、感情エラーに思うのですよね。

 と、同時に、隠した部分――自分は知っているが他者は知らない部分については、むしろ敢えて隠しているのだから、知ってほしいとは思っていないはず。そこも理解してもらいたいと思うのであれば、言動矛盾に思われます。

 とすれば、問題になるのは、自分は開示しているのに、分かってくれない! という状態でしょうか。ただ、僕においては、特にそういうのはない気がします。むしろ、分かってもらわなくてもいい――というか、「偽りの自己」というと表現がマイナスですが、「外面上の自己」をその通りに理解してもらえていれば全然問題ないですね。
 具体的に書けば、「こういうことが起きた時、こいつはこういう感情を抱くのだ」「――こういう行動をするのだ」といったもの。そうしたセルフマネジメントが成功していたほうが、「感情的な理解」をしてもらうよりも、僕はいいなと思っている。
 ――それがむしろ、「何だか寂しいな」なのかもしれない。そうした必死にマネジメントしていることも含めての理解を、誰かにしてもらいたいのか。そうかもしれない、そうでないかもしれない。

要約できないことについて

>要約できない
要約できないっていうことは、無駄なことではなく、単純にコミュニケーションを取ることが難しいということだと、今何となく思いました
つまり、コミュニケーションを取る必要がないなら無駄ではないということです。自己消化、単為生殖。

 自分の場合、「イライラ対処」カテゴリのときはまさにそれですね。自己消化、単為生殖、――もう一つ足すなら自己満足でしょうか。

 僕は、中学校3年生か高校1年生ぐらいから、日記的(※)なのを始めたのですが、――って文体がまた変わっている。「である」調で統一するのだ。「素」を出してはいけない。敢えて「である」調にしているのだ。
 えっと、日記を書いていた。で、それは、ブログを始める前、もっと細かく書けばMIXIをやる前までは一切公開などしていなかったので、完全なる自己消化だったわけである。
 ただ今は、一応公開しているので、それは、「一般的な他者」に対しても、読んで何となくでも、主旨が分かるようになっていなければならないと思われる。意味が分からなくても、共感ができなくても、「何について考えているのか」ということは分かるようにしなければならないと思っている。

 そこが、単なる自己消化のものと違う、と僕は考えている。それが成功しているか、別。
 とあるブログにおいては、怨嗟を日々書き連ねている。最初はイイネ、と思ったのだが、あまりにも表現が単調すぎて、「同じ話題」(過去に発生したことについてを繰り返し述べる)に終始しているがために、面白くないと思ってしまった。
 いや僕のブログも同じようなものかもしれない。同じようなことを繰り返し書いているだけかもしれない。ただ、「表現」は変わっていると思う。コピペなどしていないので、毎回タッチタイピングしているのだ。そこに何らか意義があると思っている。

 イライラ対処カテゴリにおいても、単に「得体のしれない感情」の可視化というか、表現に終始しているので、「コミュニケーション」は必要としていないと思われる。しかし、それでも、「何についての話なのか」については分かるようになっていなければならないと思う。

 そうしなければ、今後の、未来の自分が読んだ時も当然意味が分からなくなるので、まったく意味不明な文章になってしまうからだ。意味不明な文章は、価値がない。


※ 今日あったことを書くというよりも、思いついたこと、感情的なことを書いていたという意味で、「的」という表現をした。それも含めて日記なのであれば、単に日記。僕は単純な日記と区別するために「ログ」という表現もしていた。特に深い意味はない。中2病的行為であり微笑ましい。

嫉妬について

>嫉妬について
話が変わるんですが、遠藤さんは最近誰かに嫉妬したことってありますか?
最近じゃなくてもいいけど。
 嫉妬。ジェラシー。妬み。法界悋気(自分と関係ない人へのやきもち)――はちょっと違うか。
 
 そうだなぁ……ある意味、全人類に嫉妬している気もする。どうしてみんなそんな楽しく人生謳歌しているんだ!! っと(かっこ笑い)。
 嫉妬って、僕が思うに、「自分の軸」がしっかりしている人じゃないと、抱きようがないものだと思うのですよね……ってまた文体がぶれる。思う。
 自分の軸というのは、こういう考え方が正しい、とか、こういう生き方が望ましい、とか、この道に成熟したい、とか。

 そういう目指すべき姿というのがあって、そして、それを体現している人がいたときに、「ああ、この人はなんてすごいんだ」と嫉妬が生じるのではないかと思います。違うかな、今思いました。というのも、嫉妬ということを考えたことがそもそもありませんでした。

 恋路……という意味では、そうだなぁ、好きになった人と他の人が付き合うことになったとき、「いいなぁ……羨ましいなぁ」と思ったことはあった。それも嫉妬なのか。ただそれは、もう「最近」レベルじゃあない。

 結論から先に書かないとビジネスでは怒られるが、ご質問回答としては、「最近はありません。過去にはあったと思いますが記憶が定かではありません」となりそうだ(面白味が全くねぇえ)。

 所見というか言いたいこととしては、「嫉妬とは、自分が得たいと思う事物を得ている人に対して発生する感情の一つである」というのが僕の中の定義なのだろうということ。それに依れば、僕は最近嫉妬したことはない、となる。何故ならば、「自分が得たいと思う事物」が漠然としていて(生きる意味を得ること……?)嫉妬以前の問題になってしまうからだ、と。

あとがき

(かっこ書きである。なんやかんや、1時間この記事に使った。ジョハリの窓とかうろ覚え部分を検索していた時間もあったけれども、ほぼノンストップで書いていた。推敲は殆どしていない、すんません。そう考えると、まぁその、10月30日にコメント頂いてから、2か月以上経過したわけであるが、すぐに返信ができなかったのも仕方がないと、……自己弁護の感が沸き起こる。物理的な時間はあるはずなのだ。しかし、それでもできないことを、僕は非常にストレスになる。「物理的にできるなら、やれよ、ほらやれよ」と思うのだ(自分に対して自分で)。ただ、体がいうこときかないのである。それを「怠慢」と僕は思うのであって、それがさらにストレスになるのだが……こうやって、数値を見せると(最近の帰宅時間の記録とか)、「まぁ、仕方がないか」と思えなくもない。――人間はアナログな生き物であるが、しかし、数値はやはり大事だなと思う)

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