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今しかできないことをするべき
2019/09/16 10:25 | Comments(6) | 生きる意味
今日の一言「今しかできないことが分かれば苦労しない」「素直になるってことかな」

前書き

 今回の記事は、割とこう、「〇〇について書こう」ということが明確になっている上で書き始める。逆に、いつもの記事は、なんかよう分からん気持ちのままで書き始めるか、ルーチンだから仕方がないかといった形で書き始めている。そのうち筆が進む場合もあれば、憂鬱のまま終わるときもある。
 今回は違うので、どういった方向や感覚になるかは少し楽しみである。

 さて、本題としては、タイトルのとおり、「今しかできないこと」というのに着目しようというわけであるが、まずはこれについて書こうと思った理由に触れる。

 3人のコメントだ。
 例によって、IM氏、SG氏、KK氏とさせて頂く。まずはポイントとなるコメントを引用。

●IM氏
周りを見渡すと大体の人が欲しいものがわかっているし、どうしたら幸せになれるかわかっているように「感じる」んだよな。

●SG氏
「ここで自分にしか出来ない何かがあるはず! 発展に貢献できる!」みたいな主張をして就活していくことに割と嫌気がさしていました。

KK氏
「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がすると仰っていましたが僕は本当にそうなのかなと疑問に思っています。
 ついでに、というと失礼だが、もうひとつシロクマ氏の記事も引用させていただく。

●シロクマ氏
実際には人は変わっていくものだし、人が変わっていくにつれて、書けること・表現できることも変わっていくものだ。変わっていくからこそ、今しか書けないことは貴重で、今書かなければ喪われてしまうものだと心得なければならない。
――シロクマの屑籠

ペルソナ

 ペルソナはユングという方が述べた心理学の用語である。アトラス社のゲームシリーズではない(※)。
 仮面。
 人は、外界で生きていくうえで、外向きの顔をつくらなければならない。

 僕は、この辺が、高校生か、大学時代ぐらいか、よく覚えていないが、そのあたりから特に、ものすごく気持ち悪いと思っていた。
 気持ち悪いが、仕方がないものだと思った。
 だから僕は、「感情のコントロール」的な表現をよく使っていた(自分用の日記の中で)。

 今思えば、「適切なふるまい」というものを、いつも強く意識しようとしていたのだと思う。

 適切!
 噴き出してしまいそうだ。いやしかし、当時はえらく真面目だったのだ。
 いやむしろその傾向は、今もないとは言えないだろう。

 が、しかし、これこそがペルソナともいえる。
 自分が見せたい自分ともいう。ペルソナを被るのは社会的要請かもしれないが、その被るペルソナを選ぶことはできるんじゃないだろうか。


※ いや、「ペルソナ」といったとき、それはゲームシリーズのことも指す。今回はそちらについて書こうという意味ではない、ということ。これは、文脈上明らかだが、一部の人には伝わらない可能性がある。――というつまらない言及は、実は重要でもある。これは明らかな例であるが、「感情」的なものを書いていくと、途端に膨大な解釈が生まれ、その共感はより困難なものになるからだ。


自分と他者とのずれ

 「今しか書けないことを」という話と、「ペルソナ(役割ベースの顔)」と、一体何が関係あるのか、と思ってしまい、筆が止まる。
 いやぁしかし、懐かしい思いもある。レポートとか書くとき、至極形式的に書こうとすると「止まる」のだ。ほんとにこれ、説得力あるのか? 論理的な文章になっているのか? ここの表現というか文章は必要なのか? とか、いろいろ浮かぶから。

 楽しくない文章たちだ。

 もう少し、素直になって書いていくべきだ。

 さて、しかし、ペルソナと今しか書けないことは、無関係ではないと思う。思う、がまだ、そこに到達するまでの前提が書ききれていいない。

 ええと、まず明らかなのは、「みんな外向きの顔をもって生活している」だろう、ということが、三者のコメントから分かるということである。
(KK氏の引用部分だけでは読み取れないが、方向性的にはそう思われる)

 いや確かに、僕は前の記事で「自分以外の人はみな自己を確立してしっかり生きているのだ」(キリッ)的なことを書いて、KK氏から、「そんなことないのでは?」とご指摘いただいたわけであるが、言い訳がましいが、そこまで思ってるわけではないのだ。いやむしろ、IM氏の仰る様に、「相手が幸せがどうかなんて絶対にわからないという命題というか、事実もある」のである。

 ただ思うのは、他者存在は、「自分ってこういう人間だ」という認識については、ちゃんとあるのではないかということである。
 その「自分ってこういう人間だ」というのは、内面的なものであり、他者に映っている自分、とは違う。ああ、このあたりが話を難しくする。次の小見出しで少し整理しよう。

自分という語を用いるときの注意

 一人称における「僕」と、「自分」という語を用いるときに示しているものは、違うと思う。「自分」には、二つの意味がある。
・僕が思う「自分」(a)
・他者から見える僕(b)

 そして、違う観点からも2つある。

・思考内面的な「自分」(c)
・身体物理的な「自分」(d)

 階層化して表現すれば、
1 内面的な自分
 (1) 僕が思う自分
 (2) 他者から見える自分
2 身体的な自分

 というようになる。

 今後、どっちの「自分」の意味で使っているかは、明確にしていかないと話が分かりづらくなるだろう(自分にとっても)。

今しかできないことをするべきな理由

 話が、まとまらないが、先に結論めいたことを書けば、僕らが使える手段としては、「今しかできないことをする」しかないからだ。
 理由は、時間は不可逆だからだ。以上。

 ……もう一つ理由を挙げれば、身体的な自分の規定も無視できないからだ。

 身体的、といったときに、すぐさま浮かぶのは「顔」であるが、それだけではない。筋骨隆々具合とか、背の高さとかメタボリックシンドロームなのかとか、皴が多いか、男女どちらかなどなど、身体的属性というのも非常にたくさんある。

 そして、そうした身体的属性というのも、時間とともに変化する。
 だから、今しかできないことをする……むしろ、するしかないともいえる。

 しかしそれは詭弁で、本当に、本当に今しかできないか、というのは、きっと違う。
 ロッククライミングをするのは、別に今じゃなくても、70歳になってからでもできるかもしれない。(相応の準備が必要だろうが)

 そういう意味で、「今しかできないこと」が何か、というのは難しい。
 難しいものの、しかし、僕は、「素直になる」ということで、それに近いことは分かると思っている。

素直になるとは

 IM氏の言葉で、「まじで自分の欲しいものって何で、どうしたらよい気分になれるかなんて本当にわからん」というのもあった。
 本当にそうだ。僕が苦しいというか、目標というか目的が定まらない理由がコレでもある。

 とことん素直になるのだ。
 思考的な面における解決策としては、とにかく素直に書いていく、ということであり、それがこのブログの目的でもある。

 いやこれ、難しいことなんだよ。
 最初に書いたペルソナの話のとおり、仮面はなかなか外せない。その中で、素直になれる場所というのは、中々ないのだ。
 一つ笑えない笑い話を書けば、僕は彼女とか元妻(妻! って表現が非常に違和感だ。20代での出来事であったが、妻と書くとなんだかもう長年連れ添って――的な印象がある)にその仮面を外すことをしてしまったことが、上手くいかなかった原因なのではないかと思われる。

 要は、確かに、文章としてこのブログを読む分には、それほど影響はないが、身近にこういった「変な」人間がいると、非常に具合が悪い、ということなのだろう。



 そういう意味で、シロクマ氏は妻子もいて、社会的にも自身のブログもつながっていて、すごい、というか、羨ましい妬ましい(かっこわらい)。
(ただそれは、精神科医という特殊な状況によるものといえる。氏は自分を「凡庸な人間」と仰られているが、まぁ、本人も恐らく本気でそう思っているわけではなかろうし、周りもそんな風にみていないだろう)
 僕は今のところ仕事しているから社会的身分(かっこわらい)的なのはあるのだろうが、同じことを、無職のニートが書いていたらどうだろう。途端に気持ち悪さ度が上がるだろう。ニートをでぃすったのはではない、どちらにせよ、こうした文章は一般的に気持ち悪いということだ)

 要は、素直になるのは難しい。(けれども、それを目指すべきだ)

あとがき

(かっこ書きである。うーむ。まとまらなかったな。俺って文章力ないんだな……と落ち込むというよりも、そもそも「表現したいこと」というのが曖昧なのだから仕方がないともいえる。むしろ、明確に言語表現できる程度の悩みなら、さっさと行動にうつして解決をはかったほうがよいのである。よく分からないことを頑張って表現しようとすること自体に意義がある。ああ、だから、そう、誰かと愚痴を言い合って解決する可能性もなきにしもあらずだが、僕はその方法に価値は見出していない。だって消えるじゃん。いや、録音という現代文明テクノロジーを使ってもいいが、逆に無駄が多い。口頭というのは、伝える速度は速いだろうが、しかし、再利用性が低い。文書も、このブログの量になってくるとわけわからん、だが、それでも、口頭よかましだ。――いや、音読した分という意味では、口頭も悪くない。ただ、音読はあくまで音読なのであって、口頭でこれらの文章内容が導かれるための時間的な意味においてであって……ってまぁ、このあたりのことは、これぐらい書いておけば自分には意味が通じるからいいか。そう、素直になるための方法の一つに、「未来の自分にも伝わるか」という視点で書いてみるとよいと思う。2つ効果がある。一つは、分かりやすくなっているかのセルフチェックが入ることと、未来の自分という想定があることによって、今の自分を相対的に視ることができるというメリットだ。――話が変わるが、「コメント」感謝である。「ああ、そう、そうなんですよ!」「ああもう、ほんとよくわかります!」って感じな部分が多いが、しかし、それを返信にするのも如何かと思ったりする。小学生並みの感想。気が利いてウィットに富んだ返信をしたいものだ。難しいのは、「よく分かります」といったときに、「じゃあその分かったことを言ってみろや!」ってなったとき、口頭なら、可能な限りオウム返しすることが、「分かった」ことの証明になるだろうが、文書の場合、じゃあ、相手のコメントをコピペしたら分かったことになるのか、ならない。じゃあ、相手のコメントを要約したらよいのか、違う。要約するよりも、そのままコピーしたほうが、「分かった」度は高いだろう当たり前だ。そうしたとき、コメントの返信って、何をすべきなのか、――とかそういうことを思ったりするのが、僕の思考の無駄部分なのだろうが、しかし、割とそういうのは楽しかったりする)

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コメント

ご無沙汰しておりました。

ちと、個人的なところが忙しく、そちらに労力が取られていたので
書き込むことができませんでした。

ようやく、そのことが落ち着いてきたので(といっても、大丈夫かというと、大丈夫ではないのですが、最大限できることはやった感じ)、書き込む方に力を回せるようになったので
久しぶりに書き込みたいと思います。


さて、遠藤さんの記事の内容からですが
自分ってこういう人間だ、というのはなにがあるかと

・役割
・性格
・過去
・身体的特徴
・自信
・信念
・目的

と色々、あげられますね。


そこで、遠藤さんのいう
自分ってこういう人間だ、というのは
もう少し具体的にいうとどういうことを指すのでしょうか?

そして、その指すものが何に関係して
どういうことになるのでしょうか?

例えば、他人には~があって(ようにみえて)、自分には~がない(わからない)、だから~だ、というように。

そこを聞いてみたいです。


あと、僕は性格というものは
世間一般の意味合いレベルのもの
(と、こんな書き方をするとややこしいのかも知れませんが)はない、と思っています。

というのは
僕は~な性格だから、~な行動をするのだ、は違うってことですかね。


そこで、まずは具体的に自分自身の経験を例に出して考えていきたいと思います。
posted by 加古歩at 2019/10/13 03:06 [ コメントを修正する ]

昔、学生のときにスーパーの裏方作業のバイトをしていたときに
バイトの先輩から大雑把と言われたことがあります。


それは主に2つの点で言われていました。

一つめは
スーパーの制服の規定として
黒の長ズボンを履く、というのがあったのですが
清掃の作業で漂白剤がかかって
黒の染料が所々落ちて
まだら模様になっているズボンを見て、言った。

2つめは
とある作業があって
その作業が所々、抜けていたこと。

大きく、この2つを見て、大雑把だねと言われていました。

そのことについて当時は
自分自身の認識について
確かに大雑把なところはある、でも神経質なところもあるんだよな、くらいにしか思っていませんでした。
(そして、思っていませんでしたというよりも自分自身でそのことをより深く捉える方法がわからなかったということでもあります)



それを今の認識で
説明すると

まず、僕はズボンの見た目が悪いことをいいこととは思っていないし
(というよりもむしろ、嫌だと思っている部分の方が大きい)
指摘された作業も適当でいいと思って、作業しているわけではないということです。
(というのも、僕は作業がちゃんとできていると思っていて、指摘されて気付くという感じでした)


そして、その当時は
就職活動の真っ最中で
上手く行かず、悩んでいた時期でした。
(そして、他にもプライベートの面での悩みもありました)

バイトの最中に悩むことはあまりなかったですが、家にいるときはずっとそのことを考えていました。

だから
そこから考えると
僕は就職活動で悩んでいる分
バイトの方に注げるエネルギーが減っている状態だったと言えるのだと思います。

その分、作業の抜けが発生していたと言えるでしょう。
(そして、その作業が抜けていることで、店側に損失があるか、というと影響の及ぼす部分はほとんどない、と思っていたというということもあるでしょう)


そして
ズボンについてですが

バイトの管理者からズボンについての注意をうけたことがなかったこと。

そして
僕の担当している部門のバイトに
女性がいなかったこと。
(他の部門、例えばレジには学生の女性のバイトはいましたが、接点はありませんでした)

この2つがあげられるかなと思います。


一つめのバイトの管理者から注意を受けたことがないというのは
そのバイト先の立場を維持することが目的だと言い換えることができるのだと思います。

というのも
バイト先で注意を受けて、もしそれが原因で
シフトを減らされたり、クビになったりしたら困るということです。

そして、それくらいそのバイト先は
僕にとってよい場所でもあったということです。
(それは家からの近さ、稼ぐことのできる額、人間関係の三点です)

だから、もし管理者から
ズボンの見た目が悪いことで
クレームがあった、もしくはクレームが出るかも知れないということを伝えられたならば、買い換えていたでしょうし
ズボンの見た目が悪いことで、他の男性のバイトと仲が悪くなるような傾向があれば、同様に買い換えていたと思います。


次に、二つ目のバイト先に女性との接点がなかったというのも大事なところです。

もし、自分の担当している部門に
気になる女性が入ってきたら
多分、ズボンは買い換えていたことでしょう。

そして、バイト先では
見た目が悪いズボンを履いているからといって、他の部分はどうかというと大雑把なわけではなくて
学校に通うときは
服装は自分なりに綺麗な服装で行くし、眉毛も剃るし、切る。

鼻毛も出ていないか確認するし、シャワーを浴びて、髪の毛は整えて、学校へ行っていました。



と、書くとまだまだ書けるのですが
加古さんは大雑把だねと言った人は
僕の他の部分を知らない、情報を持っていない人だということです。



そして、相手の立場に立ったとき、
加古さんは大雑把だね、といった理由はこうかな、推測すると

作業に関しては
その人と比べて(もしくは他のバイトの人と)、作業内容が雑だ
(だから、作業をもっとしっかりしてほしい)というところですかね。


そして、その一方で
数年経った今は
仕事では、加古さんは
几帳面ですねとも言われました。


几帳面ですね、と言われたのは
とある作業をしている時に他の人(もしくはその人)と比べて丁寧にしていることを見て言われました。

ただ、そのひとつをとって見ると
僕がその作業を丁寧にするのは
その後に他の人が関わっていて
その作業を丁寧にした方が
その次の人が助かるだろうと考えているから丁寧にしているだけで
僕は逆に他の人は雑なのではないか?と思っています。

(でも、本当のところはそれが正しいのかどうかわからない面もあって
その作業のことについて、クレームが耳に入っていない以上
効率化という意味では周りの人の作業程度でいいのかも知れませんし
本当のところはその作業の引き継ぎ先の人がどう考えているかわからないのもあります。というのも引き継ぎ先の人は複数人数いて、あまり接点もなく、そういった打ち合わせもないのです。そして、他の人がその作業のことについてどうか考えているか知らないというのも、わからないことのひとつですね)
posted by 加古歩at 2019/10/13 03:07 [ コメントを修正する ]
だから
人がいう性格というのは
何かの目的において
それを判断基準として
自分と相手を比較し、どうなのかということなのだと思います。

そして
人は余裕がないときは
それを裏返していうと
何かに集中しているときは
基本的に他のことは雑になりやすいし
余裕があるときは
優先順位が低いものにも手をつけられる。


次に
大事になってくるのは目的です。

私はこういう人だの
例にあげた中に役割がありましたが
役割ごとに目的があると思います。

私の例では仕事を出しましたが
仕事の目的は売上をあげること。
(ドラッカーの話もありますが、それを語ると話が長くなりますので、一旦は目的は売上ということにしておいてください)

その目的に即して
どうなのかを判断基準を通して見ることが性格だと思うのです。


そして、例にあげた学生時代のバイトの話もありますが
仕事はプライベートの目的にも関わってくる。

じゃあ、プライベートはどうなのかというと
プライベートの人間関係にも
目的がありますね。

友達と遊ぶとなれば
楽しむ、といった目的がある。

家族であれば
父親=子育てといった目的がある。

その目的が
どのようなものか
そのことについて、どれくらい知っていて、どれくらい考えているか
(僕は大事なことだと思っていることをどれくらい知っていて、考えているかがあります。というのも人はその経過がないと、言葉としてアウトプットできないのだと思います)
その上で、自分はどれくらいできるかも関わってきます。
(これが自信ですね。これは目的に対して何ができるかという点で技術とも言えますね。そして、どのくらい考えているかは未来に対して、できるかはどうかを置いておいて、何を成したいかに関係してきます。)



でね、
目的があるからこそ
手段がある。

先に例に出した
僕の学生時代であれば
就職活動が目的で
そのための手段として、バイトや他の時間に思考することが必要でした。

そして、例にあげだズボンの話で気になる女性がいれば、という話であるならば、女性との人間関係が目的ということになりますね。

だから、僕は
そこに女性がいない以上、ズボンを買い換える=綺麗な服装でいることは
優先順位が低いことであるし
お金があるならば
就職活動や就職活動関連の悩みに対しての行動にお金を使うということです。


でね、こうやって長々と性格について
書いていきましたが
何故、これを書いたかというと
文書中でも出てきた「目的」に関連してくるからです。

僕の例で
そのとき、大事だったことに
就職活動がありますが
それはそのときの目的であり、
でも、それは手段でもあるということです。

何故、そうなのかというと
就職したら終わりなのではなく、就職したら人生は続いていきますし
その先で得たいことがあるから、就職するという手段をとるということです。


そこでね、つめていくと
どうしても目的がでてくる。


何のためにこうするのか。


これです。


これをつめて、考えていくと

何のために?

がやっぱりでてくるのです。


これが
生きる目的や生きる意味を考える理由でもあると思うのです。
(そして、仕事をしていて幸せだと言えるのならば、そこを考える必要はなく、何故なら、生きる目的や生きる意味を考えることは幸せとは何ぞや?と問うことと同義だと思うからです。仕事をしていて幸せだと思うのならば考える必要はないですからね。)



ここで、今まで書き込んだ話に戻ると
信仰が重要になってくる。

何故なら
信仰=未来の幸せ
と僕は考えるからです。



さて
今日はこのくらいで止めておきますが、最近、書き込むことが止まっていたのは、私用で忙しかったこともありますが
僕の書き込む内容、
要は僕の考える生きる意味についての結論まであともう少しのところまで
書き込めているからというのも関係していると思います。


というのも
結論が近い以上、書き込んでしまうと
もう、僕の書くことがなくなってしまうのですね。

それは
ある意味、僕と遠藤さんの関係の終わりが近いということも意味している。

勿論、書き込んで、その内容に返信があった後に、考え方が変わって
また、書きたいことができるかもしれない。

そうであるならば
いいのでしょうけれども
僕は自分の考えから動くことは
ほぼないだろうな、と思っています。


まあ、僕がどう考えているかは置いておいて、多分(遠藤さんの返信によって変わるとは思いますが)、次の書き込みは自分の中で結論編です。


僕としては
早く書き込みたいつもりではありますが
もしかしたら、上に書いた通り、遅くなるかもしれません。

なので、待っていただけるとありがたいです。

それと長々となりましたが
お読みいただき
ありがとうございます。
posted by 加古歩at 2019/10/13 03:08 [ コメントを修正する ]
●内容1
 加古さんこんにちは。コメントありがとうございます――もう、10日以上も経ってしまってたんですね。ここ最近、時間経過が、1週間単位ぐらいに感じられていて、感覚としてはつい先日コメント頂いていた気すらしています。

 コメントとしては、「関係がもう終わりに近づいている」というのが衝撃的ではありますが、しかし、その点は敢えて考えないようにして返信を考えていきたいと思います。

 まずは、ご質問いただいた点について。
>自分ってこういう人間だ、というのはもう少し具体的にいうとどういうことを指すのでしょうか? そして、その指すものが何に関係してどういうことになるのでしょうか?

「自分ってこういう人間だ」=自己認識、という意味で使っていましたが、これでは何も説明してないですね。
 自分で考える自分と、他者からどう見えているかという自分の両方を指すと思っています。そしてその両方が一致している状態である人が、「自分ってこういう人間だ」という意識がある人だと思っています。
 もう少し具体的に書けば、「性格」のことだと思います。明るい性格、誰とでも打ち解けられる性格、頭がいい自分、優しい自分、温厚な自分、勉強ができる自分など。加古さんが挙げてくださった、身体的特徴も過去も含まれると思います。
 そして大事なのは、そういった「特徴」=性格や身体的特徴等に対して、「自信」があることだと思います。自信、「揺るがなさ」とでもいうべき、確固とした意識。それが「自己認識」がある状態だと思うのです。

 加古さんの質問としては、「遠藤が自分にはないと思っていて、他者にはあるように見えるというのは具体的に何なのか」ということだと思いましたので、そこを初めに考えたのですが、悩みました。悩んで、結局出てきませんでした。しかし、ふと思ったのは、その「出てこなかった」のは、具体的な特徴が「自分にはない」と感じているのではなくて、むしろ、それらに対する「強度」の差だということです。

 今日の記事でも書きましたが、私は割と初対面の人には、「温厚」「真面目」といった印象を抱かせるようです。実際、僕は自分でも「温厚」と思っていましたが、割と熱しやすいというか、イライラしやすい。この辺りは、まだ実家で暮らしていた頃、親から、「火のような性格だね」といったことを言われた気がして、すっかり忘れていましたが、確かにそうだなと今は思います。

 ただ、僕は、そういった特徴というものが、絶対不変なものとは思えていない、というのがあります。それらの特徴が、「自分のものだ」という強い思いがないということです。過去からの連続性をもつもの、根底にあるもの、今後も続いていくもの、といった意識がもてない、ということです。そこが、僕が「他者にはあるように見えて、自分にはない」と思うところです。


●内容2
 内容1からして、僕は、加古さんの仰る「人がいう性格というのは何かの目的においてそれを判断基準として自分と相手を比較し、どうなのかということ」という考えに賛成です。だから、性格というものは、そもそも、普遍的に存在するものではないと。

 話の本筋からはそれると思いますが、一方でこの「性格」なり特徴に対しての強度、認識というのは、コミュニケーション(他者との関わり)において非常に重要なことだと思ってます。
 なぜ就職・転職活動のエントリーシート・履歴書では、性格をかくのか。自己アピールするのに必要になるのか。
 自然はそもそもカオスであって、量子論でいう観測しないと未来は定まっていないということや超ひも理論のように1か0の粒子ではないということはあるかもしれませんが、「決まっていないこと」を法則に当てはめて人類は進歩してきた。性格という枠組みがあることによって、他者を扱いやすいようにしている、というのは穿った見方かもしれませんが、予測できないことは人を不安にさせるということです。

 サルの脳の社会性にかかわる部分を一部切除して、そのサルを集団に戻してみると、そのサルではない、周囲のサルたちがパニックになったという実験を聞いたことがあります。本来恐れるべき相手を恐れなかったり、取るべき行動が取れないということによって、周囲のほうが混乱したということのようですが、当然人間集団にも「適切なふるまい」というのがある。
 それを若い言葉で表すと、「空気」というものだと思いますが、その場の空気が読めない人は扱いにくいから、いじめや排除の対象になりえる。
 そしてその空気というのは、その属する集団によって異なる。その空気に馴染めるかは、運ゲー要素もある(どの集団に属するかの選択の余地はあるけれども、その「空気」までを外部に属していて把握するのは困難)。


●内容3「信仰について」

 まず引用させてもらいます。
>どうしても目的がでてくる。何のためにこうするのか。
>何のために?がやっぱりでてくるのです。
>これが生きる目的や生きる意味を考える理由でもあると思うのです。
>仕事をしていて幸せだと言えるのならば、そこを考える必要はなく、何故なら、生きる目的や生きる意味を考えることは幸せとは何ぞや?と問うことと同義だと思うからです。仕事をしていて幸せだと思うのならば考える必要はないですから

 僕が、加古さんが僕と同じ思考の次元に立っているのだなと思う理由が上のような記述からです。(次元、という言葉を使うと、レベル、高い低い、優劣的な意味で捉えようとする人がいるかもしれませんが、そういう意味ではないのですが、誤解を与えやすいということは知りつつ、それ以外に良い表現が浮かばないため、そのまま思った通りに書きます)

 内容2のところで、「空気」と書きましたが、属する集団によって、その集団の目的は違うし、求められる性格も違うし、そこで与えられる役割も違うし、ましてやその集団の存続やその意義すら変わる可能性がある。無色透明で無臭そして風によって流されていくという空気の特徴そのままに、僕らが求められるものは変わっていく可能性がある。
 こうした特性をもった時代に生きることを前提としたとき、もしくは、そうした時代であると信じてしまったときに、僕らは「目的」を、その集団に託することはできなくなる。

 自分で導かなければいけない。
 そうなったときに、再び問われるのが、「性格」に代表される、「自分って何?」という問いだと思います。

 加古さんから初めてコメント頂いたのが8月ごろと思いますが、そこで、生きる意味についての輪郭が見えてきたと聞いたとき、強く惹きつけられました。そこに至るまでの3つのトピックとして、「信仰と虚構」「環境の影響」「人間の特性」を挙げて頂いたと思います。

 今回、「信仰=未来の幸せ」とのことですが、僕もこの、「信仰」というのは非常に重要な要素と思っています。なので、次が結論編(になってしまう)ということですが、それは僕にとっても重要になるだろうと思っています。


●あとがき的な
 ここからは、あまり頂いたコメントと関係ない気がしますが、思ったことを書きたいと思います。加古さんは初め、見出したであろう生きる意味が、そもそも良いものではなく、悪いものの可能性があり、それを書いてもよいものかと仰られてました。私は、「生きる意味を徹底して考える」といったブログを書いている以上、「考え続けている」ことになっていますが、ある次元においては、既に生きる意味は「分かってる」のです。「無い」と。
 奇しくも、加古さんのトピックで、「信仰と虚構」というワードが出てきて驚きましたが、僕は、生きる意味というか人という存在は、ニーチェ氏がいうような、永劫回帰であり、ハイデガー氏のいうダスマン(ただの人)なんだろうと思ってるのです。もしくは、バタイユ氏のいうように、生のあらゆる営みは、死からの逃避なのだろうと。

 多分、その考えは、これからも僕の根底に付きまとう気がしています。そういう意味で、僕が思う生きる意味は、「悪い意味」でしかない。

 しかし、だからといって、全人類の、個々のその人生そのものが、すべての営みが、生活が、感情が、思考が、生み出す創作物が、無価値だなどとは思わない。以前から白銀氏が仰られるように、「意味は自ら見出すもの」というのはそのとおりと思っています。

 ――だからといって、自分自身の生を、積極的に肯定できるための材料というか強い思い(強度)もない……というのが、僕の今なんだと思っています。
「人間って素晴らしいものだ!!」という無条件の礼賛がない中でのもがき。苦しい戦いにならざるえない。もっともそれは、若いころいじめられたり、学校(というか部活)がつまんなかったり、勉強が苦しかったりと、そもそもの生活が苦しかったのもありますが、まぁそれらから解放されても、マイナスがゼロに近づいたぐらいなものであり、賛美する気にはなれない、という単にルサンチマンなのかもしれませんが。

 とかく。そんな感じで、いったん返信はここまでにします。次のコメント、最後とは言わず、お待ちしております。
posted by 遠藤at 2019/10/27 10:21 [ コメントを修正する ]
こちらにもコメントを貰っていることを気づきませんでした。

そのコメントを読んでいて
思うことが出てきたので、コメントを残します。

まず、「性格」の話から。

遠藤さんは「性格」に対して
絶対不変なものだとは思えていない、それが、ある意味、不変なものである、と思えている人が自己認識、自信の強度が強い人だと考えている、というように
僕は理解しましたが
僕のスタンスでは逆です。
(いや、逆ではないか)

というのも
自分がこういう性格だ、という自己認識している人のほうが
自己に対する理解がない人なのだと、僕は思っています。

なぜなら、
私はこういう性格だ、と認識していることは
「性格」というものを絶対不変なものだ、と認識しているようなもので
「性格」というものは
絶対不変なものではなく
そのときの「目的」や「環境」によって変わるものだ、という認識のほうが
僕は正しい(というよりは認識の精度が高い)と考えているからです。


例として
僕のことをあげるとすると
ちょっと前まではバイクのツーリングが趣味でした。

そして、だいたい、いつも友達と一緒にいっていました。

で、僕と友達のツーリングの日程を
他の人から見ると
計画性がないといわれると思います。

というのも、僕はツーリングのだいたいの目的地を決めて、適当に走る(最短距離ではなく)のです。

でもね、「計画性」というのはね
ツーリング、まあ、旅行みたいなもので
旅行の計画性というと
この時間にここにいって、この店でご飯を食べて、次はどこにいって…
というような
ここに行きたい、という想定があるから
計画するもので
僕と友達は
この辺り、ここに行きたいという目的地はあるけれども
その目的地につくまでの道のりや、そこで出会う想定していないもの、食事もなんとなくそこで出会うもの
ある意味、偶然を楽しみにして、旅行に出掛けています。

だから、計画性を重視すると
その偶然性が消えてしまう。

そういうところでいうと
僕と友達のツーリングというものは
計画性がない、というよりは
偶然の出会いを目的としていて
計画してしまうと偶然性を失ってしまうから
計画しないのだ、
そして、偶然を目的としていることを計画しているのだ、といえます。

で、ある意味、そこを目的としている友人だからかそ、一緒にツーリングに行くことができるということなんでしょう。


でもね、僕は買い物に行くときは
買うものを決めてから、買い物に出掛けることが多いです。

だから、
目的なく買い物に付き合うのはめんどくさいし
買い物に行った時は
ささっと済ませています。

というのも
僕は買い物に偶然性を求めていないからです。

最初から、これを買うと決めて
これくらいお金がかかってと計算して
それを事前に調べて
買い物に出掛けている。

それはある意味、「計画性」でもありますね。

(そういう意味でいうとファッションやショッピングが趣味の人はそこに偶然性を求めているということなのかもしれません)


そして
温厚か、神経質か
それは
目的に対して
影響度が低いものに関しては
無関係であるから温厚でいられるし
影響度が高いものに関しては
関心が強い分、その成否に関して
イライラするってことなんだと思います。

例えばですが
朝、仕事に行く前にコンビニによったときに
レジがもたついていたり、並んでいるとイライラします。(700円以上買い上げのくじの期間とかは最悪ですね)

でも、これはレジに時間がかかっていることに対してイラつくのではなく
仕事に遅刻したらどうしようという不安からイライラしているのです。

だから
夜だとか後ろに何も急ぎの予定がないときに
コンビニに列が出来ていても
別にイライラしない。

携帯でもいじりながら
ゆったり待ってます。

そういう部分を見ると
イライラしないというのは
技術(とよんでいいかわからないが)であったりする部分もあるのです。

朝のコンビニの列がイライラするならば
事前に買い物をしておくか
もうちょっとだけはやく家を出ればいいという話ですからね。
posted by 加工歩at 2019/11/12 20:14 [ コメントを修正する ]
そして
遠藤さんのいう初対面の人には「温厚そう」
といわれ
家族には「火のような性格だね」
といわれるのも
どういう場所や場面で会うか
どういう繋がりがによって
見えてくるものも違ってくると思うんですよ。

というのも
基本的に人ってなんらかの目的を持って繋がっています。

そして、人ってその目的の部分や環境の一側面しか見ることができません。

というのも
家族であれば
プライベートの部分しか見ることができないですよね
(遠藤さんの「火のような性格だね」といわれたのが
どの時期のものかわからないのはありますが、それを学生時代だと想定すると)

だって、家族と一緒に学校で勉強をしているわけでもないし
逆にいうと親と一緒に仕事をしているわけでもない。

家というその環境の一側面でしか、接点がないのです。

そして、
特に子供の頃は
パワーバランスでいうと親側に傾いている。

だから
子供は親の機嫌を伺ったり、ある程度、歳をとって自分でこうしたいという思いやできる年頃になると反抗期ってのも出てくるんだと思います。

そうなったときに
「火のような性格だね」という元を辿れば
そういわれる状況だったり
そういう環境だった何かが出てくるのではないかな?という思っています。


で、話を戻しますが
温厚である、神経質である
というよりも
元を辿れば
何が大事で、何が大事じゃないのか
のほうか重要であるといえるし

それはどういう葛藤を抱えているか(いたか)や
そのことに対してどういう情報を持っているかで
動き方や見え方も変わってくるのだと思います。

だから、性格というのは
その人にどのような目的があり
その目的にたどり着くために
その人の能力や技術であったり
どういった方法論をとっているかという部分を
簡略化して説明しているもの、と僕は捉えています。



次は
空気に関してですが
人がたくさん集まると
曖昧に成らざるを得ないのだと思います。

というのも
誰が誰と繋がっているか
どういうことを思っているか
力を持っているのは誰か等
情報を持っていないと動けないんですよね。


上に例にあげたツーリングの話でも
偶然性という目的が合致する友達だからこそ
計画がなくても楽しめるわけで
ツーリングに参加する人数が増えれば増えるほど
こうしたい、ああしたいという思いが
バラバラになりやすいです。

だから
ある程度、皆、妥協して
着地点を探す。
(といっても、それがめんどくさいから、僕は大人数でツーリングや旅行に行きたくないんですけれどね)



忖度も気遣いも同じようなことで
相手がこう思っているだろうな、という推測の元の行動であり(というか忖度というのはパワーバランスが一方に傾いていて、弱い立場にいる人がすること)、本当かどうかは動いてみないとわからないことでもある。



そして
仕事でも同じ。

新しい仕事を始めた時は
「~しといて」
といわれても、
その行動の目的は?
何に気を付ければいいか?
どこまでしていいのか?
と、わからないことだらけであり
間違っていたり、失敗したら困るので
あんまり動けない人が多いと思います。
(てか、僕もそうです)

でも、慣れて、仕事への理解が進んでくると
「~しといて」
といわれただけで
だいたいのことは出来るようになるし
むしろ、「~しておきます」
と言えるようにもなってくる。

だから
僕は仕事に関して
「考えてやれ」
というのはある部分では
宜しくない言動だと思います。

というのも
仕事に関する情報が少ない場合であれば
考えて行動するための元がないということになりますからね。

ただ、ある程度、慣れている人に関しては
考えてやって欲しいという希望や期待というものが
生まれるということに関しては否定しないですが。

だから、本来(希望か期待か)は
できる人ができない人に対する理解を示す
という行動、思考が必要なのだと思います。


で、遠藤さんのいう
就職活動の「性格」や「自己PR」に関しても
同じようなことだと思うんです。

多分、いくらかの面接官は
それが正しいとは思っていないだろうし
(でも、じゃあどうしよう、という部分が難しい)、
指示されてやっている、ある意味、仕事の処理として考えている人もいるでしょう。

そして、面接官が
基本的に年上である以上、コミュニケーション能力も高いであろうし
そうなったとき意図を読む
話を誘導するのは受験する側ではなく
面接官側であるはずです。
(ただ、こちら側が意図を読む必要がないわけではなく、レベルの高い方が引っ張っていくということ)
(といっても、実はその能力を見ているのかもしれないという非公開な部分があるからよくわからん)

でも
多分、だいたいの面接官ってそこまで考えていないのではないかなと思うんですよね。

それと面接なんてものは
不完全なシステムとしか言いようがないですね。

だから
仕方なしに
「性格」や「自己pr」といったようなものが必要なのかもしれないとも思います。


そして、理解というものは
自分が理解していること以上のことは理解できないものだと思っていて
それは人間関係にもあてはまると思っています。

だから
自分が自分をどう捉えているか
それがそのまま、他人への捉え方にも関わってくるのかなと
僕は思っています。

でね、わかり合うということは
そこに合致する目的があるからわかりあうことができるものだとも思っています。


それと最後に
あとがきに対しての返信ですが
ある次元においては
生きる意味のないことは分かっている
と仰っていました。

それを見る前は
次の結論部分を書き込むことを躊躇っていたのですが
書き込んでもいいかなと思えました。

その理由については
結論部分で書き込むことにします。


ただ、また書きたいことがあれば
結論の前に書き込むかもしれません。

次の内容としては
「葛藤」についてですかね。

もしかしたらですけれども。
posted by 加工歩at 2019/11/12 20:15 [ コメントを修正する ]

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