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無差別に人を殺したいと思う人
2019/05/31 23:13 | Comments(19) | 思考及び書くこと
今日の一言「タイミングがよいのか悪いのか」「ルーチン更新扱いにしたい」

前書き

 正義について、人殺しについて、という内容でブログを書いた当日かその次の日ぐらいに、神奈川県で痛ましい事件が発生した。
 無職の男性が、子供を含む数人を殺傷したのである。

 青猫さんというかたが、5月29日の記事で書かれていたが、「きもいおっさん」は大変である。これは他人ごとではない。
https://kodokunikki.minibird.jp/nikki/

追記

 珍しく、投稿後に追記。
 かっこ書きの部分を書いていて思ったが、なんでもかんでも清潔にする、という方法では、解決しない問題は多いと思う。
 例えば、風俗とか。
 例えば、人殺しをするゲームとか。
 俺は認めたくないが、タバコとか。

 生きていくうえで、困難は避けられない。乗り越えられる問題もあれば、どうしようもない問題もあるのだ。本記事では、「居場所」が重要だと書いたが、同時に「逃げ場所」も必要だと思う。

 俺の場合、ここが、居場所でもあり、逃げ場所でもあり、そして、思考を少し前に進めるための場所でもある。

――以下、本文再開――

ゲームしていたらきもいのか

 ニュース記事のタイトルで驚いたが、「犯人の自宅からテレビとゲームが発見」と書かれていた。
 おいおい、テレビとゲームがない人、どんぐらいおるんねん。他に書くことなかったんだろうなぁ。

 漫画はなかったんだろうか。えっちな小説はなかったんだろうか。
 要するに、二次元的要素があると危険だと、世間は判断したいと思っているのだろうか。
 じゃあ、えっちな実写本ならOKなんだろうか。

 まぁ、そういった大人になってもゲームやってるやつは危険、という露骨なレッテルはりはむしろ、昔からあったわけだし、そんなに驚かないが、「テレビ発見」ってのは、え、なにそれ(笑)と思った。

 減ってきているとは思うが、今のところは、テレビを持っていない人の方が少ないと思う。

死にたいなら一人で死ぬべきは危険

 死にたいなら一人で死ぬべき、というのは避けるべきだ、と、藤田さんという方が主張されていた。
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20190528-00127666/

 きっと上のURLはしばらくしたらリンク切れになるだろうから、抜粋しておけば、
秋葉原無差別殺傷事件など過去の事件でも、被告が述べるのは「社会に対する怨恨」「幸せそうな人々への怨恨」である。
要するに、何らか社会に対する恨みを募らせている場合が多く、「社会は辛い自分に何もしてくれない」という一方的な感情を有している場合がある。
類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している。
 ということである。
 
 様々な背景や、理由や、条件があるのだろうが、僕は上の意見に全面的に賛成だし、共感できる。
 俺は、歩きたばこや車の運転中にたばこを窓をあけて吸っている奴は死んでもらって構わないと思っているし、よっぱらって路上や車内に吐き散らかす奴も死んでもらって構わないと思っているが、それでも、すぐさま更生の機会もなく処断されるような社会は間違っていると思う(個人的には、死んでもらいたい……おっと、言葉が最近きつくなっている。ストレスという言い訳は通用しまい)。

 そうした機会もなく、殺人というのは、すべての可能性を奪う行為なので、断じて許されるべきではない……って、話がずれている。最近上の出来事に出くわしたせいで挿入されたエピソードだが、本記事の事件についてとは関係なかった。

 まずもって、通り魔殺人の犯人は、許容されてはならない、ということは前提にすべきだ。だが、「幸せな奴らが憎い」という感情そのものは、果たして、発生しては絶対にならないほどのものなのだろうか。

居場所が必要

 人にとって一番大切なものはなにか。
 金ではない。
 金があると、その大切なものを得る手段や可能性が増えるので、金はあったほうがいい。だが、必要条件ではない。(もっといえば十分条件でもないが)

 一番大切なものは、自己肯定感だ。

 自分は存在していてもいいんだという自信だ。敷衍すれば、自分は誰かの役に立っていると思える確信だ。


 それを得るために必要なのは、居場所だ。

 誰しも、居場所が必要なのだ。

 しかしたいてい、人は、親の元で育つ。親は子供を愛する。家族、というのが、居場所ではないのか。

 ……しかし、昨今のひきこもりや、実家暮らしという状況は、そう簡単でもないだろう。
 確かに血のつながりはあっても、世間体が悪い状況が続けば、親ですら、子に対して、嫌悪感を抱くことであろう。

 親と子。
 という関係は、例えばの数字だが、50歳ぐらいと、18歳ぐらいで成り立つのだ(てきとーな数字だ)。

 70歳と50歳は、親子ではないのだ。(戸籍上は親子だ。いっぱんに「言語」としてイメージされる親子ではない)

居場所がなくなるとき

 誰からも必要とされなくなった(と、自分で思うようになった)とき、人は凶行に奔るのだろう。

 だから、上の藤田さんがいうところの、「社会は何もしてくれないと思わせてはいけない」というのは、正しいことだと思う。


 が、しかし。
 正直言って、こっからは、個人的なことなのだが、なにかこう、「社会」ないし「他者」に対しての信頼感がものすごく薄い人を扱うのは、非常に難しいことだろうと思う。

 おそらく、そういう人は、「プライド」は非常に高いのである。

「もっと俺はできるんだ」「何者かになれるのだ」

 という思いだけはあるのである。
 実際は大した能力はないのである――いや、ふつーの能力はあるのだ。ある程度はできることがあるのだ。だが、そのある程度のことで評価されうる程度では、「承認欲求」が満たされないのである。

 そのギャップ。

 ゆえに、ずーっと前から、10年前ぐらいから書いてきているが、「理想と現実の差異を埋めることが重要」なのである。

 適切に自己評価して、その評価を甘んじて受け入れられる人じゃないと、生きづらさは一生解決しないのだ。

 が、もちろん、その、評価に満足できないがゆえに、奮起して成果を出す人もいる。
 が、それは、「基盤」があればこそである。
 自己肯定感の基盤、戻れる居場所、が重要なのだ。

 一切の基盤がなくて、さらにそのギャップが広がり続ける人は、もうすべてが嫌になるだろう。そして、すべてを壊したくなるかもしれない。

殺人のコスパの悪さ

 いや、気持ち悪いと思われるのを覚悟で書けば、殺人で得られる快楽は、どう考えてもコスパが悪いのである。

 仮に、1人殺せば、10ptの快楽を得られるとする。爆弾をコンサート会場にしかけて、数千人を殺せたとしよう。それは、快楽ポイントは、10pt×1000になるのか。ならない。手ずから殺さない場合は、1pt程度しか得られないだろう。数千人死んだ、というのを、自ら確認するすべがないのだ。

 じゃあ、トラックで歩行者天国に突っ込んで、そのあとナイフで襲いまくる、という方法で、秋葉原の事件では、7名が死亡した。それぐらいの大きな事件を起こせば、必ず逮捕され、絞首刑になるだろう。
 川崎の事件では、2名が死亡した。犯人は自殺した。

 帰結は、死である。
 秋葉原の事件で犯人は、やや後悔した記述もしていた。


 殺人で、犯人たちは幸せになったのか。否である。

 そもそも、彼らは、人を殺して快楽を得たというわけではないだろう。
 津山30人殺しの犯人も、快楽を得たわけではないだろう。
 ロンドンの切り裂きジャックは、もしかすると楽しんでいたのかもしれない。

 津山、秋葉原、川崎の犯人は、怨恨であった。
 浮気した妻か、間男を殺すのと同じような、「憎しみ」という感情による殺人である。それは、マイナスを、少しでも埋めようかというものであって、プラスになどならない。30人でも、100人殺したところで、決して幸せになどなれないのである。

快楽殺人犯は例外にする理由

 いつも、念頭には置くが、快楽殺人犯については、いろいろなことを考える際に、例外として切り捨てている。
 それはもはや、地震や台風などの、自然災害と同じである。思考の埒外である。

 一方、怨恨――自暴自棄による凶行は、僕は、何か救える手立てがあるんじゃないかと思うのである。
 僕自身が、承認欲求が中々満ちない穴だらけの容器的人間だからなのかもしれないが、しかしそれは、現代的な病理の一つであると思う。

 もうほんと、人を殺すのが楽しくて楽しくてしょうがない人は、人の社会から退場いただくしかないだろう。

 しかし、秋葉原の人も、川崎の人も、弱い人間を虐げて喜んでいるような人間や、いじめをしていじめ被害者が間接的に死亡しても死刑にもならずにのうのうと幸せに生きているような人間よりかは、僕は同情したくなるのである。(もっとも、そんな同情できるような感情的余裕などほとんどないわけだが)

 ↑のことをもう少しわかりやすく書こう。
 例えばの話だが、パワハラによって、もう何人も心の病におちいらせて、一方自分は出世して金ももって、美人な妻もいて、子供にもめぐまれて、ベンツ乗って庭付き一戸建てに住んでいる奴と、なんか分からないけどテレビとゲームしか持ってなくて独身で発作的に子供を含む多くの人を切りつけた人とを比べた時、僕は、前者の人の方を憎いと思う、というわけである。

 別に、どっちが良いとかじゃないからな。どっちも許されない。死ぬべきだ、と思うのだが、それはそうとして、俺が神で、どちらにチャンスをやるかといえば、間違いなく後者を選ぶ、というわけである。

(もう一つかっこがきしておけば、「死ぬべきだ」と書いたが、同時に僕は最初のほうで、「すぐさま社会が人を処断するようなことは避けるべきだ」とも書いている)

とはいえ役立たずはやはり排除される

 だから、みんなが必要とされて、弱いものも守られて、生き生きと、自分らしく生きられる社会にしよう!

 とはいえ、仕事でいっつもミスをして、足を引っ張り、それでいて卑屈で成長する気もなさそうな奴は、やっぱり排除されるだろう。


 みんなが必要とされているんだ。のけものはいない。みんな大切だ。

 とはいえ、役立たずは、「あいつ、うぜーよな」って言われるのだ。怖い。

 だから俺は、そうならないように、余計な気苦労をしながら頑張ってきたのだが、ほんと余計な気苦労である。


 そして何より、世界的真実において、別に人の数人が死のうが、たいせいに影響はないのである。
(とかいうことを、大学時代から言っていたから、「お前、変なことばっかいってたようなぁ」と言われたのだろう。当たり前である。だが、そこじゃあないのだ。違うんだ。そっから先が重要だったのだ、俺の気持ちが、全然伝わっていなかったのだ、それが悲しかったのだ)

 数人死のうが影響ないが、ないのだが、それでも、人の命は尊重すべきで、大切なのである。
 大切なのだが、別にどうでもいいことなのである。

 この矛盾が、俺が非常に苦しい理由なのだ。

 いや、論理的に、両者は矛盾しないのかもしれない。次元が違う話で、極論で、詭弁なのかもしれない。
 だが、俺の感情的に、その問題は、解決不能になっているのである。

 そこが問題だったのだ


(かっこ書きである。きもいおっさんの話にならなかったな。5月も終わりである。いやその、俺の関心はそこにはもはやないのだが、ないんだけど、表現的に、文字にしていくと、どうしてもそのレベルの話を書かなくてはならなくなる。なにせ、今のところ、妻と子供に恵まれた人が、通り魔事件なんか起こしてないからな。先日、恋人の必要性について書こうかと思って飽きてしまったと書いたが、要は異性の承認というものがないと、人格が狂いだすのではないかということである。つまり、若いころでも若くなくてもいいが、「女の子と付き合えた」という事実(ここでいう事実は、「実感」という意味)が必要だということである。だから、独身男性でも、風俗やキャバクラやガールズバーなどで充実した時間を過ごせている人は、きっと通り魔事件は起こさないのではなかろうか。本文の中で、殺人はコスパが悪い、と書いたが、風俗でとにかくエロいことするのじゃあ、満足できなかったんだろうか、と思う。行くお金がなかったのかな。じゃあやっぱりお金が諸悪の根源なのか。でもどうなのか、50代ぐらいになると、性欲はなくなるのだろうか。性欲がなくなってしまって、しかし、異性からの承認欲求が満たされていないと、もうどうしようもなく他者を殺したくなるのだろうか。わからない。俺は今回の記事でも、相当変なことを書いてきたし、おそらく世間的に気持ち悪いことを書いてきたし、こいつやべーなと思われるのだろうが、しかしそれでも、誰でもいいから人を積極的に殺したいという気持ちにはならないし、なったこともない。「死んでしまえ」とはよく思う(危険だっ!)のだが、「殺したい」とは思わないのである。しかし、この違いは結構重要だと思う。「殺したい」というのは、相当激しい欲求である。人を憎むのも、結構精神も、体力も使うのである。「死ね」というのは、危険でひどい言葉だが、ある意味、無責任な言葉である。命令しているだけなのだ。自ら責任取って排斥しようとはしていないのだ。だから、「死ね」と言われているうちは大丈夫である。その言ってくる奴は、大した力はないのだ。「殺してやる」と言われたら危険だ。そのときは逃げよう(もう何の話だよ……(かっこ乾いた笑い))

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コメント

 規制すべきだと言い出すのであれば、
「犯人は車に乗っていた」→「車は犯罪を助長する、人を轢いて殺傷できるから規制」
「犯人は刃物を持っていた」→「刃物は人を殺傷できる、助長するから規制」
「犯人は部屋に引き篭もっていた」→「家があるから引き篭もる、規制すべき」
「犯人は服を着ていた」→「服が精神に影響した可能性、規制すべき」
「風俗、キャバクラ、ガールズバー」→「性犯罪を助長するので規制すべき」
「犯人は人間」→「人は危険、規制すべき」
 と、いくらでもこじつけられるんでテレビだゲームだマンガだアニメだを原因の一端として規制の槍玉に挙げるのには反感しかありませんね。
 犯人の部屋には椅子や机やベッドや布団、もしかしたら冷蔵庫やエアコンだってあったかもしれないわけですし。
 そもそも、今の時代スマホやケータイ、パソコンがあればテレビ番組なんて簡単に見れますし、1人1台レベルで所持するぐらいに普及していますから、槍玉に挙げるのは「それが気に食わない」って言ってるようにしか感じられないんですよね。

 私だって、命のやり取りするような小説バンバン書いてるわけですし、それがアウトだと言われたら世の中の娯楽の幅は狭まるなんてもんじゃないです。
 それこそ、ストレス発散や解消できなくて犯罪率増えるんじゃないかと思うんですけどね。
 もっとも、マスコミやテレビ局、偉い人たちは何かしら規制を推進したりすることで利益を得られたりするようですし、既得権益というか、そういう行動で利益を得られる構造そのものがおかしいんだとは思うんですけれど……。
posted by 白銀URLat 2019/06/01 03:35 [ コメントを修正する ]
>「犯人は人間」→「人は危険、規制すべき」

 不謹慎に笑ってしまいました(笑)。
 いやいや、真面目に、ほんとそうですよ、この手の話は。

 なので、「その行為」を罰するべきであり、問題視するべきであり、それと環境とを安易に結びつけるのは間違っていると思います。

 手軽に納得しようとする人が多いんでしょうね。
 早めに結果や効率を求められる社会だから仕方がないのか。
 今回の犯人は、秋葉原とは異なり50代ということなので、それはもう長い年月があったわけで、人それぞれの来歴がある。
 確かにそういう意味では、「環境」は大きな影響があったと思います。しかし、テレビ等等の存在は、単にツールに過ぎないわけで、そういう意味ではやはり人間関係が重要な要因でしょう。
 ――人間関係、と書くと、すぐさま、コミュニケーションが大事だー的な話になりそうですが、そういう問題じゃなくて、コミュニケーションをする・しないも含めた関係というか。人間、「仲間になりたい」という欲求は、よいにせよ、悪いにせよある、と思っています。逆にそれが、「周囲の人が仲間とは思えない」となれば、それは疎外感になり、孤独感になるでしょう。


 と、いうか、一般の人たちは、どう思っているのか。
「ふつーの人間が、アニメやゲームをすることで、異常な人間になる」
 というストーリーで納得したがっているのか。
 ということは、犯人たちを、まだ「理解の範囲内」に置こうと試みているということか。

 しかし、そのことと、隣人がいきなり包丁で切り付けてくるということとは、まったく別の対処をしなければならない気がする。
 くだらないことを書けば、荒野やジャングルでは、隣の村に行くにも、途中で盗賊や野生の動物に襲われる可能性があったことだろう。そういう危険よりは、断然安全な社会な気がする。

 でも、非人道的なことを書いてしまうと、非常に痛ましい事件だと思うということを書いたうえで、交通事故と違いはあるのか。
 交通事故は、もう事故だから、「意味」を求められないのかもしれない。一方で、事件は、それが人の意志がなしたものだから、何か「意味」を見いだせるのかもしれない、そういう違いなのかもしれない。

 でもほんと、「理解の範囲に置く必要があるのか」ということも考えていいと思う。「別に理由なんてない。殺したいから殺しただけだ」という快楽殺人の被害者や遺族になったとき、どう感情を乗り越えればいいのか。

 逆に、今こうして生きているのが、奇跡的な確率のさらに奇跡が起こっていて、生きているのかもしれない。しかし、そんなこと分からず、生きていることを皆自明のものとしか感じない――感じないようにできている。


 ――いやだから、そう、意味、人は否が応なく、意味を求める生き物なんだろうと思います。
 そういった意味で、俺(私)が生きている意味はなんなのか、その問いはどうしても重要になると思うわけですが、きっと固執してしまうのは変な奴なんだろうなぁとは思うようにします。

 って、話がまたそれた。


>既得権益

 規制規制!! っていうのは簡単ですが、規制するのにはお金も人も必要だし、管理のコストってのは考えなければいけない。第一、人が悪いことしない存在なら、法という管理システムだって不要なのである。
 どう考えても、悪い奴を発生させないように、ツールを規制するというよりかは、その発生する原因を発見し、修正(治療)する方法を考えるべきである。

 いや、違うか。一般の方々は、そのツールが原因だから、それを排除することで問題が解決すると思っているのか。
 けれども、その先にあるのは、白銀氏が書いていただいた通り、ディストピアである。


 と、いうか、しかし、しかし、非人道的なことをやはり書いておけば、

・年間の交通事故死者は、3,532(H30)であるそうだ。
・年間の自殺者数は、20,840(H30)だそうだ。

・アキバの事件は、2008年で、7人が亡くなった。
・今回は、2019年で、2人が亡くなった。

 理不尽な死をなくすために、対策するべきは、費用をかけるべきは、力をいれるべきは、「数字」の面だと明らかだと思う。

 センセーショナルな事件であることは間違いないが、しかし、「管理だ」「規制だ」という議論が、変な方向にいかないようになることを祈るばかりである――というか、そういうまともなことを考えられる人に投票すべきだが、正直、だれがまともかがよく分からない。政治的無関心の原因はそこにあると思う。
 ――いや、その話を書き出すとまた長くなりそうだが、政治家という人を選ぶというシステムがまずもってもう限界であるように思う。例えば、バイクの駐車場をもっと増やそうとする政策と、エンタメ規制を推し進めたいという政策を、同一の政治家がもっていたとして、じゃあ、そいつに投票できるか、という問題である。
 社会の高度化・複雑化したときに、「総合的に政治を進められる人・機関」を選ぶしかなくなる。しかし、そこには自分の本当の要望が反映されるとは思えない。政治的無関心けしからん、ということだが、本当にみんなが政治的無関心だとは到底思えない。ゴミ問題とか、道路交通の問題だとか、身近に感じている問題はたくさんあるわけで、そういったことが政治的に決められていくということの理解もないわけではないだろう。だが、Aという政策とBという政策が、それぞれ納得できなくても同時に進められざるを得ないのである。「どっちみち納得できないのなら、別に誰に投票しても同じか。むしろ投票しなくても同じか」となるのである。
 左派右派とか、保守革新とか、そういう二項的に決められるような、単純な問題などもはや存在しないのだ。

 そうなってくると、サイコパスのシビュラシステムみたいなのや、攻殻機動隊の2期、だったかな、トグサくんが冤罪で捕まった時の裁判の仕組みとか、beatlessのAI裁判官みたいに、総体としての採決みたいなのが必要になるかもしれない。
 ――しかしそれもまた、「個人の感情」を十分に汲んでくれるとは限らないだろう。結局、どこまでいっても、「どう納得するか」という、意味的問題になってしまう。
posted by 遠藤at 2019/06/01 09:21 [ コメントを修正する ]
上のコメントにおいて、読み返してやはり大事だと思ったので、短めにメモしておく。

運用、保守や、管理のコストを、みな意識すべきである。
なんでもかんでも、会社でも、評価する際に、何か新しいことをしたら「すごい」となっているするが、間違っている。
成長は大事だ。
だが、維持するということにも、不断の努力が必要だ。現状維持できている、というのは、それだけで十分すごいことなのだ、という認識を持つべきである。
そうならないと、絶対生きづらい世の中になる、と思う。

今回のケースでは、非常に痛ましく、哀しい事件であり、犯人は許せないものであることは間違いなかろうが、しかし、これがあったからといって、何か社会システムを変えるほどのことではない、と僕は思う、ということである。
これによって、国会議員の頭のいい方々が何かしなければと無駄な議論に時間を使う必要はない、と僕は思う、ということである。

今までのルールの中で、補償・処罰すればいいと思う。
これによって、何か新しい対策をしなければと、人や時間が使われて、それによって疲弊する人が出て、誰かにやつあたったり、不快になる人が増えて……とか、目に見えない悪循環が広まることはないと、誰が言いきれるのか。

お前が当事者じゃないから、そんな非人道的なことが書けるのだ。

そうかもしれない。というか、俺も当事者になったら、情けなく泣きわめき、厳罰化を叫ぶかもしれない。それでも、本当にやるべきこと、というのは、見極めなければいけない。お金も、人も、時間も、みな有限のリソースなのだ。
posted by 遠藤at 2019/06/01 09:40 [ コメントを修正する ]

【1】
今回の事件についての私の意見は

「議論することにまず意味がある」ということ。

原因は何か。それを防ぐにはどのような方法があるのか。それを実現するためにコストを支払う価値があるか(費用対効果はよいか?)

原因がわからない場合、どのように対処したらよいか?


今だったら、動画からその人物が危険行為を働くかどうかを検出する仕組みが存在しているから、重要な地点に監視カメラを入れて、検出したら警備員を派遣するとかできるわけですよ。

社会的コストに見合うかどうかは、小規模・重要な場所からはじめて効果を検証していけばいい。

これが解決方法とは言わないが。みんながこの事件について原因を考えてどうしたらよいか意見を出したらいいとおもう。


もちろん、その人の生まれや環境もあると思うから、そっち方面での議論もあったらいいよね。



【2】
> いや、論理的に、両者は矛盾しないのかもしれない。次元が違う話で、極論で、詭>弁なのかもしれない。
> だが、俺の感情的に、その問題は、解決不能になっているのである。

これも私の意見。遠藤殿にとって正しいとは限らないので注意。

まず、人間は論理機械ではないから、矛盾したものを抱えていてもいいんじゃね?


> 数人死のうが影響ないが、ないのだが、それでも、人の命は尊重すべきで、大切
>なのである。

「1人の死は悲劇だが、100万人の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉にもあるように、人の性質として自然なものなんじゃないかって思う。

どうも人間は些細なことには敏感で、大きなことには鈍感な性質があるようで、投資でも、少ない損は痛いとはっきり自覚できるが、大きな損にはよくわかんなくなるっていうことがある。

つまり、物事の大きさと感覚は線形に対応しているわけではなく、非線形になっており、ある地点を超えると感覚はある大きさに収束するどころか、下手をすれば小さなものよりも大きなものが小さく見えるということが起こりうるようだ。


【3】

> この矛盾が、俺が非常に苦しい理由なのだ。
>
> いや、論理的に、両者は矛盾しないのかもしれない。次元が違う話で、極論で、詭>弁なのかもしれない。
> だが、俺の感情的に、その問題は、解決不能になっているのである。

あんまり突っ込まないほうがいいのかもしれないけど、なんで苦しいの?
解決できないから苦しいってこと??

そもそもなぜ解決できないと苦しいの?

論理的に矛盾がない存在になりたいってこと?
でもそれが実現できないからつらいってこと?

posted by イミフat 2019/06/03 02:44 [ コメントを修正する ]
イミフさんありがとうございます。

【1】
 議論することに意味はあると思います。
 その上で、個人的には、この事件を殊更に取り上げる必要はないと思っています。
センセーショナル(感情的に動的)ですが、人の命(数人)を量的に考えたときに、それほどコストをかけるほどのものではないと考えるからです。
 他に人の命が奪われるケースは、自殺(広い意味でこれも今回の事件も自殺なのか)や交通事故などありますので、引き続きその対策をすべきではないでしょうか(僕は興味がありませんが)。
 まぁ、報道はされるべきで、それによって「けしからん」とか「そういう人もいるんだ」という問題意識を皆もつべきとは思います。

 ただし、その感情は、当事者以外はすでに薄れていることでしょう。2008年の秋葉の通り魔事件に今も業を煮やしている人はいません。

【2】
>1人の死は悲劇だが、100万人の死は統計上の数字に過ぎない

 どこの偉人の言葉かと思って調べたら、ナチス親衛隊アドルフ・アイヒマンの言葉なんですね。
 考えさせられますね。

 後半の、「小さな損失には敏感で、大きな損失には鈍くなる」というのは、確かにそうだと思いますが、上のアイヒマンの言葉は、「大きな損失」(=人命)が軽いという意味ではなくて、直接手を下さない(命令されただけ)のような場合とは異なる、という意味ではないかと思いました。
 アイヒマンが死刑になったのに異論はありませんが、しかし、もっと裁かれるべき人間がいて、そいつらは上手く生き延びたんじゃないかとも思います。なんといっても、当時のドイツ国民がユダヤ人弾圧をする党を支持したということに、責任がないわけではない。究極のところ人類にはアダムの原罪があって――と、話がそれました。

【2】【3】
>なんで苦しいの? 解決できないから苦しいってこと?? そもそもなぜ解決できないと苦しいの? 論理的に矛盾がない存在になりたいってこと? でもそれが実現できないからつらいってこと?

 私が、矛盾自体に苛々するから、というのが問題と思っています。
 人は論理機械じゃないから、矛盾を内包している、ということは事実だと思います。
 一方でその矛盾が、非常に気持ち悪い。表面的には笑顔でいた人が、陰で悪口を言っているとか、人の命は大事だとか言いつつも、別に自分と関係ない人の死には無関心でいられるとか。

 私自身がどうこう、というよりも、そうした人の存在自体が気持ちが悪い。
 自分がなりたいか? というと、そういう問題でもない。きっと、そういう人間は、デスノートのライト君みたいになるだろう。どこか歪んでいる。歪んでいる、というか、「完璧な正義」を求めると、生き残れる人は僅かしかいなくなる。能力的に凡人の自分がその僅かに入れるわけがない。

 つまり、その気持ち悪さにいつも苛々させられるわけであって、そういう意味では、「論理的矛盾を解決できないから苦しい」という表現は遠からず正解、なのですが、それは理想でありつつも実現が不可能であると考えられるわけです(何故か? 解決すると人は人ではなくなるから)。

 逆に、誰しも、イミフさんのように、「人間は論理機械ではないから、矛盾したものを抱えていてもいいんじゃね?」と心底思えているのならば、僕はそれほど生きづらくない可能性がある。
 しかし、どうにも、そうとは思えない。
 そして逆に、「矛盾」した存在である自覚がありつつも、「正義たるべきだ!」という人がいるとしたとき、それは、より一層に気持ち悪さがあふれ出てきて、僕は気分が悪くなる。
posted by 遠藤at 2019/06/09 11:20 [ コメントを修正する ]
遠藤さんから書いていいと許可がおりたので
続きを書かせていただきますね。

まず、コメント欄で書いたトピックの

1.信仰と虚構
2.環境の影響
3.人間の本質的な特性

この3つを自分なりに解釈しながら
続きを書いていきます。


そして、もうひとつ
重要な話があるのですが
それは何かというと
「穴居人(けっきょじん)の原理」です。
(僕は一時期、これからのテクノロジーに興味があり、色々と調べていた中で見つけたものです)


これは理論物理学者のミチオ・カクが提唱する原理です。

穴居人の原理とは、人類の脳や身体が10万年間変わってこなかったことから、今後の10万年間にも同じ行動原理が採られるだろう、という考え方であり
それを以下に記すと


穴居人の原理とは、人類の脳や身体が10万年間変わってこなかったことから、今後の10万年間にも同じ行動原理が採られるだろう、という考え方だ本書では次のように説明される。


遺伝子と化石の証拠は、われわれとそっくりの見かけをした現生人類が10万年以上も前にアフリカに現れたことを示しているが、以後人類の脳や人格が大きく変わったという証拠は見つかっていない。その時代の人類をだれか連れてくれば、われわれとそっくり同じ身体構造をしているはずだ。(中略)

ならば、われわれの望み、夢、人格、欲求は、この先10万年はきっと変わるまい。まだ穴居人だった祖先と同じような考え方をしているにちがいない。

問題は、現代のテクノロジーと原始的な祖先の欲求との軋轢があるところでは必ず、原始の欲求が勝利を収めていることだ。それが「穴居人の原理」である。


『2100年の科学ライフ』より引用

です。


(ブログ 希望は天上にあり
「第4の波」「完璧な資本主義」「穴居人の原理」に基づき予想される未来の社会(『2100年の科学ライフ』備忘録として) から引用させてもらいました。)



そして、ここで重要なのは
「人類の脳や身体が10万年間変わってこなかったことから、今後の10万年間にも同じ行動原理が採られるだろう、という考え方 」であり
この考え方は
人間の脳や身体は
狩猟採集時代の頃とあんまり変わっていないよねという仮説からできています(なはず)。

それでは
もし、この仮説が正しいと仮定したとき
(いや、この理論の前提条件が正しいとしたときか?)

トピック3の六原則のような性質を人間は持ちあわせている

トピック2の環境の影響は大きいと考えたとき、10万年前の狩猟採集時代と現代の文明が発達した時代と比較すると全然、環境が違う
といえるのではないでしょうか?


そして
その上で
人間は六原則のような性質を持ち合わせているが
それは狩猟採集時代に必要だった性質であり、現代の文明が発達した時代の環境に合わせて、進化が追い付いておらず、その環境との齟齬が起きているのではないか?
という仮説を提唱します。
posted by 加古歩at 2019/08/16 17:59 [ コメントを修正する ]
それはではどのような部分が狩猟採集時代と現代の環境の違いがあるのでしょうか?

・社会の形成
狩猟採集時代
数十~150人程度
(目に見える範囲)

現代
80億人弱
世界の裏側も少なからず物流等で関係している
(見えない範囲にも同種がいると認識している)

・生活
狩猟採集時代
協力して、他の動物と戦ったり(または逃げたり)、狩りをして生きていた。

現代
基本的に戦う必要はない。
むしろ人間同士で協力といいながらも
人間同士で競争している。

という違いがあると言えるでしょう。


そして
生きる意味
すなわち満たされた感覚というものは
人間が協力して生きていくために必要だった感覚なのではないでしょうか?

一人、一人の力は他の獣と比べると弱いけれども、協力することで力を発揮できる。

そして、生きる残るためにお互い助け合い、相互関係を築いていく。
それは目の前にいる数十~150人程度の社会の中で循環している関係であり、その場所が唯一の居場所あったはずです。

だから
その満たされた感覚というものは
未知の恐怖(例えば病気や天災)、他の獣の恐怖、そういった恐怖感が大きかったからこそ、危機的状況であったからこそ、その反面の一緒にいることで得られる安心感や精神的な繋がりなのではないかなと思うのです。
(というのも東日本大震災のときに「絆」という言葉が年間の一文字に選ばれたのも、危機的状況であったからこそ、人と人が繋がらないといけなかったからなのではないかと、なにかしら関連あるのではないかと思っています)

特にこの部分というのは
遠藤さんのいう「代替不可能性」の話も関わってくるのだと思うんですね。



その反面
現代は協力して他の種と戦う必要はなくなって、地球にいる生物の中ではほぼ一人勝ちのような状態になっています。
(ある意味、全クリしたRPGの世界みたいなものです。)
そして、他の種との競争は(ほぼ)終わったけれども、次は人間同士で競争しあっている。

じゃあ、現代の人達がどのように繋がるかというと
信仰で繋がるのではないか?と思うのです。

その信仰というのは
「宗教」であったり、「夢」や「目標」「思想」「ヴィジョン」であったりするのだと思います。
(僕なりの解釈でいうと「信仰」というのは未来に向けてのものであり、~になったら幸せであろうという推測のもとなりたつものだと思っています)

そして、信仰というものは
人それぞれ違うものだと思うんです。

それは価値観の違いといっても良いでしょう。

その中で人は近しい信仰を持ったもの同士で協力しあって生きていくのではないのかなと思います。

そして、信仰と「虚構」といったのは
現実に経験していないことを信じているから「虚構」とも言えると思うんです。
(逆の側面から見ると知らないからこそ信じられる部分もあるかもしれませんね。未知のことを知りたい願望というか欲望というか)




そして、僕がコメントでも書いた

人間は完ぺきな満足ができない → 永遠に次なる刺激を求め彷徨う存在 → 不幸である

の構造が不幸の源泉になりえるのではないかという理由は
遠藤さんのいう

「幸せ」という言葉の定義を、「理想と現実の乖離」として捉えているからである

にも関係してくることでしょう。

なぜなら、「夢」や「目標」を持つということはそもそも
理想と現実の解離から生まれるものだと思うからです。

でも、夢を持った100人中100人が夢を叶えることができるわけではありません。

競争社会な以上、どこかで夢が砕ける人もいるでしょう。
(夢が砕けるということはその夢に関して一生、現実と理想のギャップが埋まらないということです。となるとまた、新しい夢を見るしかないのでしょう)

そして、その夢を叶えたら
人生が満たされた状態になるかというと
現実として束の間はその感覚が持続するかも知れませんが、またその夢の先には競争社会が待っているということです。


そして

人間は完ぺきな満足ができない → 永遠に次なる刺激を求め彷徨う存在 → 不幸である

これを消費行動に当てはめた場合どうでしょうか。

僕は消費行動が空しさを生むのではなく
消費行動では空しさを埋めることができないということだと思うんですね。

ただ、人はその空しさを感覚的に埋めようと、酒を飲んで騒いだり、ギャンブルをしたり、そういった快楽にはしるのだと思います。
(もしかしたら、snsでいいねを集めようとするのもこの辺に近いのかもしれませんね)

でも、その快楽では空しさは埋まらないのです。
むしろ、ふとした瞬間にその空しさを際立たせるかもしれません。



一旦はこの辺で。
posted by 加古歩at 2019/08/16 18:00 [ コメントを修正する ]
さて、続きを書いていきます。


上に書いた仮説ですが
何人かの現実の友人に話しました。
そこで、いくらか批判?を受けました。


それは

・狩猟採集時代の人は骨が年輪みたいになっている。それは栄養が足りていなかったからである。今の時代はそんなことは起こり得ない。だから今の時代より狩猟採集時代の人の方が幸せであったは違うのではないか?


・(遠藤さんがいったように)今の時代は暴力が減った時代である。
むしろ、狩猟採集の時代に近づくほど、暴力や競争は多かったのではないか?
そうであるならば、狩猟採集時代の人は不幸だったのではないか?


といった感じです。


僕は生物学、考古学の文献にあまり目を通せていないので、批判に関してはこうだ!とは言えない部分はあります。
(ちょっと勉強不足だとは思っています)


ただ、生きるそのものに近いほど、同種間の繋がりは強くなるはすだとは思っています。



■知らないこと、見えないこと、繋がらないこと


さて、次は
遠藤さんの
「無差別に人を殺したいと思う人」
に書かれていたことにコメントしたいと思います。
というのも、僕自身、僕なりの意味の答えについて書く前から、遠藤さんの書いていたことに答えたいと思っていたのと
遠藤さんの記事に関連して、書き残したいことがあったので、このタイミングですがコメントを残させていただきます。


まずは引用部分から


数人死のうが影響ないが、ないのだが、それでも、人の命は尊重すべきで、大切なのである。
 大切なのだが、別にどうでもいいことなのである。

 この矛盾が、俺が非常に苦しい理由なのだ。

 いや、論理的に、両者は矛盾しないのかもしれない。次元が違う話で、極論で、詭弁なのかもしれない。
 だが、俺の感情的に、その問題は、解決不能になっているのである。

 そこが問題だったのだ。

以上


僕はこの、論理的矛盾ってこういうことなのかなーと思うんです。

(この矛盾、遠藤さんがどの点について
解決不能になっているのかがわからないのはありますが)
この矛盾について僕なりの解釈を書くと
人って自分の目の前に起きたことでしか感情が湧かないんだ(もしくは湧きづらい)と思います。


例え話をすると
遠藤さんと僕が現実の友人だと仮定して
そして二人ともと仲が良かった友人が亡くなったとしましょう。

じゃあ、僕らは
こいつとはこんなことがあったな、こんなこともしたなと昔を思い出しながら、話し合うでしょう。


でも、もし
遠藤さんと僕が友人で
遠藤さんが知らない人で、そして僕と仲が良かった友人が亡くなったとしましょう。

そしたら遠藤さんは僕を見て
仲が良い友人を亡くして悲しんでいるんだろうなと思いやることはできますが
遠藤さんは自分の感覚として
悲しさが湧くというと正直なところ、微妙かもしれません。
posted by 加古歩at 2019/08/19 00:45 [ コメントを修正する ]
それと同様で
概念として
人の命は大切であるし
人が亡くなることは悲しいことである(悲しむ人がいる)ということは理解できるけれども
関係性がない以上(現実として目の前に人がいない以上)、感情か湧かないということなんだと思うんですよ 。


こういった話に近いものって他にもありますよね。

アフリカの救われない子供達の話とかもそうですよね。


この、遠藤さんのいう矛盾感ってなんなのかなと考えると
これは僕なりの考えですが
これって共感と理解の違いだと思うんですよね。


理解は何が起きているか順序立てて物事を把握することであり、情報の整理という側面が強いと思うんです。

その一方、共感というものは
もっと体験からくる感覚を伴うもので、仲間を作ったり、仲間と一緒に生きるためのものだと思うんです。
(もしくは言語取得前のコミュニケーション法かも?)

狩猟採集時代を例えに出すと
仲間が痛がっていたり、苦しんでいたら助ける、仲間が敵を前にして、闘争本能をむき出しにしていたら一緒に戦うし、怯えていたら一緒に逃げる
仲間が食べているものが、おいしそうな顔をしたら自分も食べるし、まずそうな顔をしたら自分は食べないといった感じですかね。


だから、遠藤さんのいう矛盾の

数人死のうが影響ないが、ないのだが、それでも、人の命は尊重すべきで、大切なのである。
 大切なのだが、別にどうでもいいことなのである。


を書き換えて


人の命は尊重すべきで、大切であると思う。
でも、目の前の人や関係のある人が亡くなっていないので感覚として湧いてくるものがない。


とすると、矛盾は生じなくなるのだと思います。
(ただし、パターンとしては別のものがあると思います。それは情報の理解→その情報をから自分もしくは関係性のある人を想起→感情が湧くというものです)


ただ、もうひとつ
遠藤さんの言う矛盾の先に
もしかしたら
遠藤さんの思うことがあるのではないかということです。


今日は一旦、この辺で。
posted by 加古歩at 2019/08/19 00:46 [ コメントを修正する ]
とても興味深く読ませていただいてます、というコメントまで。理解と共感の違いなど、共感レベルでなるほどなと思ってます。
確かに、矛盾という点は解決しそうです。そうすると、六原則のところでの、道徳=こうあるべき、という要請が自分の中で優勢なのが原因にありそうです。

六原則のリンク先の後半を読んでいるところです。六原則は、頭に入れようと、復習してます。
自分が傷つけられない限り相手を傷つけない、善行にはお返しをする、強者は弱者に配慮する、嘘をつかない、……うーむ、残り二つ、まだ全部覚えられてないです。インプットが中長期記憶レベルになってから、もう一度加古さんのコメントを最初から全部読みたいと思ってます。
posted by 遠藤at 2019/08/20 07:37 [ コメントを修正する ]
さて、今日は一週間ぶりくらいですが
続きをば。


上にコメントした関連で
これは遠藤さんの思う「矛盾」に近いものかも知れないと思い、
僕が抱えている矛盾をお話します。


僕が今から書くことは
仕事のやりがいってなんぞや?
と問うていたときにふと、考えたことです。


僕は単発のバイトで結構、色んなところに行ったことがあります。

そして、その中で
二度と行きたくないなと思った場所がありました。

それは製本工場と食品工場です。


製本工場は八時間、立ちっぱなしで
数秒間隔ごとにひたすら本を投入していくだけ。

隣の人とは数メートル離れていて話すこともできないので、1日、事務的なやりとりを除いて、誰とも話さずに仕事は終わり。

これ、きつい。


食品工場も同じように
1日立ちっぱなしで、巻き寿司のネタを流れ作業でひたすら入れていくだけ。
(確か自分の担当はかんぴょうだったような…1日、かんぴょう。)


そして
ちょっと、話は変わりますが
僕はほとんど物欲がありません。

というのも、何かものが僕の気持ちを満たしてくれるかというとそうでもないなと思う経験があったからで、あんまり欲しいものがないんです。

でも、本だけはたくさん持っています。

そこでふと、思ったのは
僕が二度とやりたくない仕事があって、その仕事をしている人がいるからこそ、僕の手元に本が届く、ということです。


これが一つめの矛盾です。


そして、もうひとつ
仕事のやりがいってなにか?
と考えたときに色々と出てきますよね。

お金?
成長?
好きなこと、楽しいことをやる?
人間関係の良し悪し?
労働時間?

なんてことを考えていました。
(といっても、実際はここにあることは全て重要でバランスの問題だと思うんですよね)

でも、ただ一つ、一番大事なものが抜けているのではないかと思ったんです。

それは繋がりです。

これは前のコメントにも書いた(かも)ように人にとって幸せなことって、人の役に立つこと、そして助け合いの相互関係であると思うんですね。

ここの相互関係というのが重要で、
人に何かをして喜んでくれた、だから僕も嬉しいだけで終わるのではなくて、それがお互いの中で循環することが重要なことだと思うんです。
posted by 加古歩at 2019/08/29 01:02 [ コメントを修正する ]
ちょっと、ここも話が変わりますが
僕たち、人は食事をとらないと生きていけません。

それくらい重要なものです。

でもね、それくらい重要なもののはずなのに僕たちはそれを一人で獲得できないんですね。


そして、僕はコンビニ弁当をよく買うのですが
それは農業や漁業から始まり、それを工場に運ぶドライバーの人達がいる。
運ぶために必要なトラックだっているし、それを整備する技術者だっている。
ガソリンがないと車は動かないから、ガソリンスタンドだって必要だし、そもそもガソリンだって製油する工場だって必要。
道路がないと運べないから、道路を舗装する土建屋の人達がいて、そして食品工場で働く人達が加工して、またドライバーの人達が、倉庫業の会社に運んで、そこで仕分けをして、またドライバーが店舗に運ぶ。
店舗を運営するには電気、ガス、水道が必要だし、冷蔵庫だって必要、そして勿論、店員がいるから、僕がコンビニ弁当を買えるのです。

そして、ここであげたのは一部であって、もっとたくさんの人達が関わっています。

でも、僕はどれだけの人が関わっていて、そして、勿論、どんな人が関わっているのかわかりません。

僕が知っているのは
よく行くコンビニの店員くらいで
そして、その店員も軽く挨拶して、たまーに一言、二言、話すくらいのものです。


そして、僕の素性を少し明かすとすると
訳あって、つなぎのつもりで物流倉庫で働いています。

最初はつなぎのつもりでしたが
ある程度、時間がたって(しまった…)、色んな人達と人間関係が出来てきました。

他のバイトの人、社員の人、倉庫に出入りするドライバーの人達etc.

そして
日々、お互い冗談を言い合ったり、些細なことですが助けたり、助けてくれたり。

そんな感じで日々、過ごしています。


そして、僕は結構、優遇されているなと思う部分もありますし、結構、可愛がってもらっています。


それでもね、僕は目の前にいる人達のこと、割りとどうでもいいのです。
(どうでもいいといいましたが、それは適当でいいということではありません。むしろ、僕は自分から積極的に関わりにいっていますし、仕事はしっかりしています。
)


というのも、僕の時間はあるときから止まっています。

そして、そのときに、もし、こういった選択をしておけば、と、
そうであったならば、そこで色んな人達と(いま、色んな人達と仲良くやっているように)、仲良くやっていけたんだろうなと、思ってしまいます。

でも、ぐるっと回って、
それでは今、目の前にいる人達が、僕の一緒にいたかった人達と比べると劣っているのだろうか、と考えるとそういう訳でもないのだと思うのです。
(確かに、学力的には劣っているかも知れませんが、人間的に劣っているか、それはそう思えないです)


でもその内、一人二人が止めていったとしても、最初にちょっとだけ寂しいなーと思うくらいだろうと思うし
話している最中は楽しいけれども、帰ってくると悩みに悩むし、そこでその人達のことを思い出すことはほとんどなく、自分から積極的に関わっているんだけれども
何とも言えない
どうでもいいという部分がかなりあって、その矛盾が気持ち悪いのです。


そして、話を戻すとすると
倉庫の側から見ても、商品を持って来ているドライバーより上流の人達は見えませんし、同じく配達するドライバーの先の人は見えません。

勿論、流通経路として
繋がっている、それは理解しています。

たとえバイトといっても、働いて賃金を貰っている以上、誰かの役に立っているはずだと理解はできるのだけれども
でも、僕の感情として、人として繋がっているとは思えないし、感じないのです。
posted by 加古歩at 2019/08/29 01:03 [ コメントを修正する ]
と、続きもある程度、書き留めているのですが、どういう流れで書けばいいのかな、と悩むところもあり
(本当のところは、あまり気にせず、サクサク書いていくのがいいのかもしれませんが)
今日はこの辺りで止めておきます。

なので、続きはまた。
posted by 加古歩at 2019/08/29 01:06 [ コメントを修正する ]
>それでもね、僕は目の前にいる人達のこと、割りとどうでもいいのです。
(どうでもいいといいましたが、それは適当でいいということではありません。むしろ、僕は自分から積極的に関わりにいっていますし、仕事はしっかりしています。 )

 なんというか、月並み平凡な表現しか浮かびませんが、「よく分かります」 。
 そう、他者について、当然、どうでもいい、という訳ではないのですが、それほど重要とは思えないのですよね。

 いろんな理屈は考えられる。
 仕事もやっている。
 役に立っていること。自分の発言で反応してくれたり、行動を変えてくれたこと。感謝されたり、ときに笑いあうこと。

「繋がり」が、無いなんてことは、客観的にありえない。

 が、「どうでもいい」。

 この感覚は、自分の中でも、今でも、かなり謎です。
 加古さんは、とあるタイミングで時間が止まってしまったからだと言及されてますが、私は、いつからだったのだろうと少し考えましたが、よく分かりませんでした。きっかけとなりそうなことはいくつか浮かびつつも、……逆に、少しずつの積み重ねで、そのどうでもよさ――稀薄性が強くなっていったのかもな、とも思います。

 僕は、最近思うのは、繰り返しになりますが、「代替不可能性」が希薄なんだろうなと。つまり、「その人じゃなきゃいけない!」というのが「ない」。

「仕事」なんて最たるものであって、いくらでも代わりなんている。どんだけ優秀な人でも、いなきゃ、いないなりに何とかなる。(確かにエースがいなくなれば、その企業の業績が大きく下降するかもしれない……ただ、だから何だという話。その分他の企業のチャンスになるだけかもしれない)

 じゃあ、「家族」はどうか。これはちょっと違うと思う。
 思うけれども、しかし、家族だって、所詮は――という表現はよくないながら、他人、他者である。親殺し、子殺し、とまでいかなくても、ネグレクト系の事件が大きく取り挙げられるのは、その「家族」というものが、人類普遍に重要な「代替不可能性」の拠り所であるにもかかわらず、揺らいでしまう事態だからではないか。

 ……こんなん批判的、自虐的、悲観的なことは、何の役にも立たないだろう。僕も別に、これらに執着しようというのではない。
 ただ、「感覚」として、いったいどうしたらいいのか、どう扱ったらいいのか、どう生きていけばいいのか。
 こういったかなり根深い問題だと思うのです、僕は。

 ……このコメントは、特に発展もなければ、新しい話でも全然ないのですが、書きたくて書きました。
 なんか、「このあたりの感覚」というのが、多くの人に理解されてこなかった、そもそもされがたいものである、という点が、今回コメントでは「希薄」という言葉を使いましたが、実存的空虚感やら、承認欲求やらが満たされない原因なんじゃあないかとも思います。

 ――また今度時間をとって、「理想」「現実」のあたりについて考えたいと思ってます。
posted by 遠藤at 2019/09/04 23:41 [ コメントを修正する ]
すみません。

二週間振りくらいになりましたが
続きを書いていきます。

(というのも、遠藤さんの記事に感化されたかどうかわかりませんが、久しぶりにゲームをしてみると楽しくて、止まらないので、その分、筆が進んでいませんでした)


と、その前に
コメントありがとうございます。

僕の時間が止まった時というのは
遠藤さんのコメントの中では書いていないので、多分、考えてもわからないと思います。

ただ、最初の方(かな?)に書いた、立ち止まって色々、再度、考えるようになったきっかけ、というのが僕の時間が止まった時です。

それは緩やかに、というより(いや、湯緩やかな部分も存在するかもしれませんが)、ガツンとダメージが来た感じのことがあったのです。

それはいまからだいたい、一年半前くらいですかねー
ある程度は書いてもいいのですが
身バレないとは思いますが
プライベートのことはどこまで書いていいのか悩むところもあるのです。
(プライベートなことを書けば、説明はしやすいのですが、それこそ、自分の情報を出す、それが嫌なのです。というのも遠藤さんに出すのが嫌なのではなく、もし、自分の身の回りの人が遠藤さんのブログを読んでいたら、そんな万が一、よりも確率が低いことですが、気になっているそんな感じです)

とりあえずは生きる意味のことについて書いていって、その後に個人のことは書くかもしれない、そんな感じですね。
posted by 加古歩at 2019/09/11 20:23 [ コメントを修正する ]
Re:無題
>ある程度は書いてもいいのですが
>身バレないとは思いますが
>プライベートのことはどこまで書いていいのか悩むところもあるのです。

 すっごくよく分かります。私も同様のスタンスで書いています。
 ――というよりも、むしろ、プライベートが明らかではないからこそ、「本音」的なことが書けるのでは……という、某巨大掲示板の管理人氏(元?)が討論会などで仰られてた気がします。
 というより、むしろ我々(勝手に仲間にしてすみません)の意識としては、個別具体的なサムシングを求めているのではないのではないかと思われます。――というのは、具体的ではないわけではなくて、「やまと たける」的な固有名詞としてのものではないのではないかと。属性的な(身体的・精神的・環境的)影響というのはもちろん無関係ではないので、今置かれた状況(男女関係・友人関係・家族関係・職場関係等)をある程度開示したほうが「わかりやすい」とは思われますが、抽象度の違いと思いますので、大きな問題にはならないと。
 ……ああ、このあたり、もう少し書きたい気持ちになってきました。「他者のアドバイスが役に立たない理由」の記事を先日触れて頂きましたが、割とあの記事は大事なんじゃないかと思ってきました。
2019/09/19 23:11
前の文章では仕事について思うことを書いたので、次はプライベートの友人関係の話をします。


僕には学生の頃からの長い付き合いの
友人がいるのですが
その友人は
仕事が精神的に疲れる、仕事にいきたくない、死にてーと日々、愚痴をいいます。
(といっても、友人の勤める会社は世にいうホワイト寄りな会社であるし、仕事が嫌といいながらも、話を聞いている分には、割かしちゃんと仕事はしているんですけどね)


そこで僕は話を聞くことはできるんですけれども
何か現実的に手出しをして助けることはできません。

そして、それは逆に
友人は僕の悩みにも手出しをして
助けることはできないということでもあるのです。

ただ、出来るのは話を聞くことだけ。

僕はそこにもどかしさを感じる。

そして
一緒に遊んで、その日、その間は現実を忘れ去ることが出来たとしても
それはその時間が過ぎれば
現実として、そこにあるのです。

(でも、友人がそういった悩みも話してもいいと思ってくれている相手だからこそ、空しさに直面するのです。友人は誰にも彼にもこんな話をしないと、言っていました。そして、僕も同様でバイト先の人にはほとんど自分の悩みは伝えていません。)

でも、逆にね、
嫌なことは楽しいことをして忘れよう
という友人もいるのですが
正直、そういう友人とはあんまり会いたくなかったりします。
(でも、会ったとしたら、なんだかんだ楽しい部分もあるのですがね…)


となったときに
遠藤さんはゲーム依存は危険だが解決は難しいしすべきかも要検討の記事で

「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がする

と仰っていましたが
僕は本当にそうなのかなと疑問に思っています。

というのも
ほとんどの人って
仕事の場は外向きの
役割ベースの顔(ペルソナ)で生きているのだと思います。

立場や人間関係の問題であったり、会社での政治的な面を考えると仕事の関係で本音のところまで話せるかというと
なかなか言えないと思うんですよね。

そして、人によってはただ愚痴を吐いても解決しないことをわかっている。

人からのアドバイスだって対して役に立たなくて、自分で考えるほかない。
(遠藤さんも書いていましたね)

話さない人は愚痴がないのではなく
ただ話さないだけなのでは
そして、それはもっと近しい人だけに話しているのかも知れません。


そんな生きる意味やうだうだと哲学している僕ですが
最近、バイト先で
加古さんって悩みなさそうですね、と言われました。
(そういやちょっと前にも他の人にも言われたな)


(昔ならばこの人達は僕のことを理解していないな、と思うところでしたが)
毎日、帰ってきては頭を悩ませているような
そんな自分でも、働いているところをだけ見れば、そうは見えていないということです。

でも、それって他の人にも当てはまることなんだと思うんですね。

だから、実際のところ、目に見える範囲だけではなんとも言えないと思うんです。

遠藤さんの記事の中で
仕事帰りに同僚とお酒を飲みにいって、愚痴をいう人の話がでていたと思います。

僕はそれは現実的な解決策として
意味がないと思いますが
むしろ、僕らはそこまでしかできない、ということなのではないでしょうか?


そして、その見えないことって
男女関係にも当てはまると思うんです。

僕はね、男女の差はあれども
人間という同じ生き物だと考えれば
根底は一緒なのではないかと思っています。

同じということは
同じようなところで、悩み、苦しみ、そして、その解決策を探しているのだと思います。


そして、上にも書いたように
僕は昔からの友人ですら
会って話していても
上の空なところもあるし
空しい感じがする。

それはその友人が「男」だから、空しいのでしょうか?

それでは、その人がもし、「女」だったら、もっというと
「好きな女性」だったら、空しさはないということなのでしょうか?


と、とりあえず、今日はここまでにしておきます。
posted by 加古歩at 2019/09/11 20:25 [ コメントを修正する ]
Re:無題
>友人に関して

「そうですよね……」
 という感想しか出てこずに、コメントがしづらかったです(ものすごく共感しましたというポジティブな意味で)。

 その友人は、話を聞いてもらうだけで、きっと感情的問題が解決に向かっているのだと思います。だから、加古さんが無力感を思うことなんてない、と思いますが、そうなんですよね、そういう問題じゃないんですよね。
 まぁその、他者に話をすることで「なんか解決する」人と、そうじゃない人がいるんだと最近は思ってます。私は後者ですね。

>僕は本当にそうなのかなと疑問に思っています。
>ほとんどの人って
>そして、人によってはただ愚痴を吐いても解決しないことをわかっている。
>人からのアドバイスだって対して役に立たなくて、自分で考えるほかない。
>話さない人は愚痴がないのではなく
>ただ話さないだけなのでは
>そして、それはもっと近しい人だけに話しているのかも知れません。
>だから、実際のところ、目に見える範囲だけではなんとも言えないと思うんです。

 ――という話の続きに、「あー、さすがだなぁ」と。
 その可能性大いにありますよね。他者に対しての一面的な決めつけはよくないと思いました。
 ただ、まぁその、私個人的には、特に「近しい人」にも話そうと思わないんですよね。
 前にどっかの記事で書いた気がしますが、逆に近しい人には話さないかもなぁと(関係を壊したくないという怯えではという批判がありそう)。


>僕はそれは現実的な解決策として
>意味がないと思いますが
>むしろ、僕らはそこまでしかできない、ということなのではないでしょうか?

 まぁそうですよね……。
 これについて、自分のこと矮小だなぁといつも思うのですが、他者からの愚痴など聞いたときに、たいてい、「ふーん」レベルな面があります。「大変だね」とは思うものの、「割とこっちも大変だしな」と思ってしまうという自己中的な(かっこにがわらい)。
 まぁ最近は少しましになってきた気もしますが、これって、前に波グラフ「~」みたいなの描いた記事で、「ゼロベース」問題が引きずられているせいなんかなとも思いました。
 前の記事読み返してないのでうろ覚えですが、「満たされ具合」で「頑張る」という意味が違うんじゃないかということの表現だった気がします。同じ頑張るって表現でも、マイナスからゼロに向かうのと、ゼロからプラスに向かうのでは全然違うんじゃないかって。

>そして、その見えないことって
>男女関係にも当てはまると思うんです。
>僕はね、男女の差はあれども
>人間という同じ生き物だと考えれば
>根底は一緒なのではないかと思っています。
>それはその友人が「男」だから、空しいのでしょうか?
>それでは、その人がもし、「女」だったら、もっというと
>「好きな女性」だったら、空しさはないということなのでしょうか?

 なるほど。このあたりあまり考えたことなかったですね。
 続きをお待ちしたいと思っています。
 一つ思ったのは、「好き」度合いが影響するのかなぁと。このあたりは、哀しくなるのであまり書きたくなかったりしますが(かっこわらい)、自然に「好き」になったのは、初恋ぐらいなのかなぁと思ったりしています。それ以降は、「しなきゃ」的な。いや、それは、「好き」ではない、ということと全く違うと思うことは思いますが、ただ、自然発生的な好きではないような――「思考」が介在しているような、そんな気がしてなりません。そしてそれが「代替不可能性」を満たせない原因なのだと今のところ断定(というほど強くはありませんが)しているのですが、ただ、これについての解決策(解決すべきかも含めて)は全く分かりません。
 ――そして、こういった問題意識について、特に誰かと相談しようとか、思わないんですよね……思わないから、ブログにすら書いてませんでしたが、つい、コメント返信という場を借りて書いてしまいました。
2019/09/19 23:33
 人の表裏とは良く言いますが、やはり目に見えている範囲と見えない部分に関しては思うところがあります。

 私自身、小説などで人物の内面や人間関係を描いたりする際に良く考えたり悩んだりしているところがまさにこの部分で、「相手の言ったこと(表面に見えた部分)をどう受け取るか」というのは創作でなくても考え出すとキリがないんですよね。
 大雑把に言えば、「その言葉はどれだけその人の本音なのか」「その言葉や表情、態度を見たまま受け取ることがその人の本質なのか」ということ。これ、疑い出せばキリがないんですよね。
 加古さんも仰っていますが、いわゆる仕事をしている時の「外向けの顔」と、自宅に帰ってきての「素の顔」とに差がある人は多いと思っています。
 同時に、これは大抵の人が「素ではない外向けの顔」をお互いに突き合わせて人間関係や社会を構築しているということでもあると思っています。
 疑い出せばキリがなく、本音や本質が人間関係や社会構築に対してマイナスになるようであれば排斥される恐れもあるため、割り切って「外向けの自分」を構築している人も多いと見ています。
 というか、就職活動とかがまさに良い例な気がするわけですが、私の場合「ある程度自分の趣味に不自由しないなら仕事なんて何でもいい。楽な仕事のがいい。拘束時間も少ない方がいい。最大限効率的にはやるから」とか本音があったわけですが、採用する立場になって考えればそんな怠惰な人間が戦力になるのか分かりませんし、企業にプラスになる存在になってくれるかも疑問に思えるわけで、学生時代の就職活動では「自分が働くならここしかない! ここで働かせて! きっと貢献できるから!」みたいな主張をしなければならない雰囲気や空気感に辟易していましたし、周りの就活生たちは何を考えたり思ったりしてその場に臨んでいるのか、本音はどうなっていて、何を思ってその主張をしているのか、気になっていました。
 そして、最近遠藤さんが記事でも書いているように、現代社会は代行不可能性を極力排する方向性で発展してきています。
 何かが1つでも欠けたら動かなくなってしまわないようにすることで、種としての全体を維持できるように、というのが社会という枠組みの基本的な考え方だと思うわけです。強者が弱者に配慮するだとか、手助けしあうだとかもこれに一部通じていると思っていて、自分が休んだ時に助けてもらえるように誰かが休んだ時に手助けをする、みたいなの感じのところもあると思うわけです。
 で、そんな社会になっているのに「ここで自分にしか出来ない何かがあるはず! 発展に貢献できる!」みたいな主張をして就活していくことに割と嫌気がさしていました。
 いや、実際、何かしらの働き掛けをし始めるきっかけの人がいなければ何かを為したり、発展させたりとかもできないとは思うので間違っているわけではないとは思うんですけどね?

 恐らくは、そういうところを深く考えたりせずに外に発する自分と本音の自分の差にさして疑念を抱かず、特に意識せずに自然と使い分けて過ごしていける人たちこそが「普通」と呼ばれる人たちにカテゴライズされていくのかなと思っています。

 でまぁちょっと話は戻りますが、例えば自分が本音で愚痴ったりをしたことでも、相手がそれを正しく意図通りに受け取ってくれているのか、ということも疑いだせばキリがなくて、人間関係めんどくさい、とかって本質的にはそういうところから来ていたりするんじゃないかなと思ったりもしているわけです。
 遠藤さんが常々書いている「そういうこと言ってるんじゃないんだよなー」的なのって、私の抱く感覚や意図と、それを聞いた相手が考える「白銀が考えていることや思っていること、感覚」が一致しない気持ち悪さというか、もどかしさが大きいんじゃないかなと。
 で、これが「外向けの顔」でいる時にも「素の顔」でいる時にもそれぞれ色んな形で生じたりしてどんどんぐちゃぐちゃになっていく。
 加古さんが書かれている、「本当はこんなに悩んでいるのに、周囲には悩みがないように見える。悩みがないように振る舞えている」というのもこの手の話に近いんじゃないかなと。

 私がこれまでに言ってきた「意味は後付け」という考え方も、そんな感じで「人それぞれ付ける意味や見え方が違うだろう」という意図もあって、万人共通の普遍的な価値や意味というものなんてないだろうからそこに拘らない方が良い、みたいなニュアンスもあったりするんです。

 結局、目に見えているものが正しいのか、意図通りなのか、相手に聞いたとして返ってくる答えをその人の意図や感覚通りに正しく受け取れるのかは、意識を共有した完全同一存在でもない限り判別できないと思いますし、そうなるともう自分の感覚や価値観を信じて判断していく以外にないとも思うんですよね。
 その判断基準や価値感覚が自分の中で確立できない、ってことなのかもしれませんね。
posted by 白銀URLat 2019/09/12 18:29 [ コメントを修正する ]
Re:何を信じるのか
 そうなんですよね……という、小学生並み感想しか浮かばずに、コメントしづらいです(もちろん良い意味です)。コメントしづらいので、関係しそうなことをつらつら書くことで返信的存在にしたいと思います。

 創作においては、「アーク」(変化)っていうらしいです。
 現実においては、アークは知りようがない(意図せず明らかになる場合はありそうですが、まぁ、主観的証明は難しい)ですが、創作ではむしろ積極的に描いていかなければいけない、「人物」を描く重要な要素ということだそうな。
 3つの面があると。1面は、白銀さんや加古さんがおっしゃるペルソナ的なもの。2面は、その裏にひそむ動機(本音)的なもの。ここまでは、現実でも、分かるか、はおいておいて存在しますが、創作では、1面と2面を経てさらに変化するもの、もしくは、1面と2面の根底にあるものが浮かび上がってくることが、魅力的な人物を描くコツなんだそうな。
 終始一貫、確固たる自己をもって物語を歩む主人公や登場人物も多いと思いますが、そういった変化をもつ人物が描かれると「活き活き」する物語になる気がします。

 就活に関しての言及も、まったくそうですよね……。

>その判断基準や価値感覚が自分の中で確立できない、ってことなのかもしれませんね。

 そうなんですよね……。
2019/09/19 23:56
すみません。

コメントを貰っていることに気付きませんでした。 (というのも、返信があるなと気づくときはコメント数が増えている時でして、Reではコメントが増えていないみたいで気付くのが遅れました)


それと、次の内容が結論だ!という風に書きましたが、その中で書こうと思った内容で
どうしたらうまくまとめられるかわからないところで「好きな人について」がありましたので
こっちで先に書いておこうと思います。


それでは
好きな人について書いていきますが
「好き」って、曖昧で色んな意味や感覚を含んでいますよね。

でね、自分を例にして考えていくと
僕はね、だいたいの人が好きです。

じゃあ、そのだいたいの人が「好き」というのは
どういうものか考えていきたいと思います。



まず、仕事で会う人から考えていくと
僕は、仕事が速い人が好きです。

というのも
僕は仕事は速く終わらせて帰りたい
といった「目的」があります。

でね、その目的に合った人はだいたい好きです。

そして、そのような人は
コミュニケーションをとって、協力するし
早く帰ろう、といって仕事をします。

ただ、その目的に沿っていない人が嫌いかというとそういうわけでもなく、仕事が遅い人は仕方ないとある意味、諦めている部分もありますが
仕事中に冗談をいったり、雑談をしながら
作業をして、気を紛らわすといったこともできますし、その部分に関してはある意味、協力できているといってもいいかもしれません。


で、僕は
基本的に一緒の仕事していなくても
他の人でなにか仕事の接点がある人というのは
コミュニケーションもとるし
できることはする、といったスタンスをとっています。

というのも
そういう状況をつくっておくと
楽に仕事ができるんですよね。


で、
だいたいの人が好き
といったのはそういうことで
ほとんど、嫌いな人はいません。

嫌いな人といったら
向こうから先に攻撃を仕掛けてきた人で
そのスタンスを解かない人くらいですかね。

そして
それ以外の人は
というか接点のない人というのは無関心ですね。


ただね、そういう感じで仕事中は冗談を言い合ったり
たまにはプライベートな話をすることもあるのですが
かといって、プライベートで会いたいかというと
正直、そうでもないです。
(というか、プライベートで話したいことがないから会いたくないといってもいいでしょう)




そして次に
プライベートの友人はどうかというと
正直、今の僕はほとんどの誰とも会いたくありません。

というのも
プライベートの友人というのは
「楽しむ」というのが目的であって
(そして、いつぞやのコメントで書いたようにお互いの問題の解決に協力できない関係である)
今の僕は
楽しむことで
今の問題が解決するかというと
そうでもなく
その問題を抱えたままで
楽しくできるかというと
できません。

だから
今はプライベートの友人と
会いたくありません。

誘われたら
まあ、行ってもいいかな、くらいです。
(といってもこれは最近の話で、前はどちらかというと僕は自分から誘う方だったんですけれどね)

(ここで、ちょっと
話はそれますが
「友人」といっても
その友人がどういう関係かで
話は変わります。
で、その内容は後のところで関わってくると思うので、そこで)




そしてね、
コメントに書いた
女性だったら?
もっというと
好きな女性だったら?

という部分について
書いていきたいと思います。
posted by 加工歩at 2019/10/30 20:13 [ コメントを修正する ]
で、
好きな人と
なったときに
大きく分けると3タイプあるのですね。

まず、その一つめから話すとして
それがどういったものかというと
「ドキドキする」といったものですね。


そんでね、これに関して
なかなか言っていることは正しいな
と思える内容が書かれていた本があって
その内容とは
恋愛というものは自分の穴を埋めることだ
というものなんですね。


でね、それだけじゃあ、よくわからないと思うので
僕の過去の好きになった人の例を出して
説明したいと思います。


で、
僕は高校生、大学に入りたてくらいのころは
可愛い、美人な人が好きでした。

というのも
僕は当時、顔にコンプレックスがあって
イケメンな人を見たりすると
「かっこよかったら幸せだったのに」
(といった思考停止もありますご)
と思っていました。


そして
とあることで僕の顔に対するコンプレックスは消え
次に好きになった人は
真面目で普通な人でした。

その人は
一目見たとき
まあまあ可愛いな、と思ったのは
ありますが、好き、とまではいきませんでした。

ただ、その子が
授業中に講師から
マイクを渡されて、みんなの前で
質問に受け答えしていたときに
急に大笑いをし始めて
それを見たときに
僕はぐっときたのでした。


というのも
その当時は
僕は精神的、肉体的、金銭的に厳しく
(でも、この当時、僕は幸せだったんですよね)
あんまり、笑ったりすることがありませんでした。

そして
僕はぐちゃぐちゃな生活をしてきて
普通、真面目ということに羨ましさを感じていたときだったんですね。


という風に
恋愛とは自分の穴を埋める行為だというのは
そのときに
コンプレックスに思っていること
(コンプレックスというものはある意味、~だったら良かったのに、でも僕は~だ、といった、ある意味、自分の幸、不幸の源泉というかなんというか)
を埋める目的がある
ということなんだと思います。

で、あることにコンプレックスがあって
それを思い起こす女性と接すると
そのコンプレックスを思い起こし
そこを承認されるか、どうか不安で
ドキドキするってことなのかな?と思っています。
(他にも理由はあると思います。そして、もう2つくらいかな、大きな理由があると思いますが、その内、ひとつは結論部分の方で書こうかなと思っています。でもうひとつは妄想、想像ってところかな)



それと
2つ目は
性欲です。

これは男である以上(いや人である以上か?)、なくすことはできないし、仕方ない面もあることですが
やっぱり、可愛い、美人、スタイルがいい
といった人には反応してしまいます。

僕だって、街を歩いていて
可愛い人が前から歩いてきたら
やっぱり気になります。

ここはある程度、切り分けて
考えています。


で、三つ目は
これは男友達とも被る部分がありますが
「信仰」です。
まあ、「目的」と言い換えてもいいでしょう。

というのも
自分にとってこれが正しい、これで良い
と思うものが共通しているとき人と人は繋がります。

その繋がりの中で
できた人間関係というものが
友人であると思うんです。

で、友人がどういう関係で変わるのかと書きましたが、それは過去に繋がりのあった人か、現に繋がっている人か、その繋がりの形の違いがあるのだと思います。

それと同様に
女性に関しても
同じ目的を持つ人は
協力するために繋がります。

ある意味これは
一つ目の穴を埋めるというよりは
一緒に協力して目的を達成するための仲間
といった感じかなーと思います。




と、書きましたが
他にも「好き」というのは色々あると思います。

でも、そのあたりについては
僕がその点について
あまり思考していないということもあって
いったんはこの辺にしておこうかなと思います。
(続きや書きたいことが出てきたら、また書き込もうと思います。)

そして、結論の部分に関しては
二週間後、もしくは三週間後あたりになると思います。
posted by 加工歩at 2019/10/30 20:14 [ コメントを修正する ]

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