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加古歩さんへの返信(11月12日)へ
2020/01/22 23:50 | Comments(1) | 思考及び書くこと
今日の一言「23時14分帰宅」

まえがき

 そろそろ、ルーチン更新が飽きてくるころである。面倒だなぁという気持ちになってくる。今日くらいはいっかな、という気持ちになってくる。明日まとめてやれば、まいっかな、という気持ちになってくる。そもそもこんなこと続けても何にもならないよ、という気持ちになってくる。

 様々な怠惰な誘惑……さぼりたいという気持ち。
 それらをはねのけて、今僕はここにいる。

コメント返信


話題元


>そして温厚か、神経質かそれは目的に対して影響度が低いものに関しては無関係であるから温厚でいられるし影響度が高いものに関しては関心が強い分、その成否に関してイライラするってことなんだと思います。
例えばですが朝、仕事に行く前にコンビニによったときにレジがもたついていたり、並んでいるとイライラします。(700円以上買い上げのくじの期間とかは最悪ですね)でも、これはレジに時間がかかっていることに対してイラつくのではなく仕事に遅刻したらどうしようという不安からイライラしているのです。だから夜だとか後ろに何も急ぎの予定がないときにコンビニに列が出来ていても別にイライラしない。携帯でもいじりながらゆったり待ってます。そういう部分を見るとイライラしないというのは技術(とよんでいいかわからないが)であったりする部分もあるのです。朝のコンビニの列がイライラするならば事前に買い物をしておくかもうちょっとだけはやく家を出ればいいという話ですからね。
 なるほど。ここでの文脈としては、「温厚」というのが、必ずしも良い意味ではない気もしてきますね。
 一面的な性格についての見方を変えてくれる視点だと思います。

 性格、というものがあるのではなくて、「目的」が存在していて、その目的に向かう影響度や興味の多寡によって、自己の振る舞いが変わってくる。その一面を切り取ったものを、人は「性格」と呼ぶ、そんな気がしました。

コメント返信2

そして遠藤さんのいう初対面の人には「温厚そう」といわれ家族には「火のような性格だね」といわれるのもどういう場所や場面で会うかどういう繋がりがによって見えてくるものも違ってくると思うんですよ。というのも基本的に人ってなんらかの目的を持って繋がっています。そして、人ってその目的の部分や環境の一側面しか見ることができません。というのも家族であればプライベートの部分しか見ることができないですよね(遠藤さんの「火のような性格だね」といわれたのがどの時期のものかわからないのはありますが、それを学生時代だと想定すると)だって、家族と一緒に学校で勉強をしているわけでもないし逆にいうと親と一緒に仕事をしているわけでもない。家というその環境の一側面でしか、接点がないのです。そして、特に子供の頃はパワーバランスでいうと親側に傾いている。だから子供は親の機嫌を伺ったり、ある程度、歳をとって自分でこうしたいという思いやできる年頃になると反抗期ってのも出てくるんだと思います。そうなったときに「火のような性格だね」という元を辿ればそういわれる状況だったりそういう環境だった何かが出てくるのではないかな?という思っています。
で、話を戻しますが温厚である、神経質であるというよりも元を辿れば何が大事で、何が大事じゃないのかのほうか重要であるといえるしそれはどういう葛藤を抱えているか(いたか)やそのことに対してどういう情報を持っているかで動き方や見え方も変わってくるのだと思います。だから、性格というのはその人にどのような目的がありその目的にたどり着くためにその人の能力や技術であったりどういった方法論をとっているかという部分を簡略化して説明しているもの、と僕は捉えています。

 太字下線は僕が行った部分。
 前の小見出しにおいて、僕は今日「性格、というものがあるのではなくて、「目的」が存在していて、その目的に向かう影響度や興味の多寡によって、自己の振る舞いが変わってくる。その一面を切り取ったものを、人は「性格」と呼ぶ」と表現したけれども、コメント主さんも同じ意味を表現しているのではないかと思う。コメ主さんの表現の方が分かりやすい気がする。

あとがき

(かっこ書きである。ルーティンなので、今後もコメント返信は続けていくが、しかし、ふと思ったのは、個々のポイントに返信することで、全体が見えなくなってしまってはいないか、ということである。要は、このブログは、「生きる意味を徹底して考える」ものを「目的」としているのであって、それに対しての知見というか考えというか感情というか思考というか技術というか知識というか、そういったサムシングについてが、求められていることなのではないか。そうした内容になっていない記事は、無価値なのではないか、そんな感想を(自分の書いている記事自体に)抱いたのである。整理しよう――というか、僕の現状の考えはどうなのか。生きる意味はあるのか、ないのか。これに対しての答えは、あるともいえるし、ないともいえる、という回答になる。生きる意味は「ない」とすれば、考える必要すらないのであるから、そもそも問いの立て方(生きる意味を徹底して考える)が意味をなさないのではないか(だから、消去法的に「ある」としかいえないのではないかと)、と言われるかもしれないが、「ない」としても、だからといって、考えることそれ自体の否定にはならないと、僕は思うのでその批判は当たらないと考える。ただ、生きる意味は「ない」という結論になったときに、それは即ち速やかな自殺の勧奨となるのだろうから、生きる意味は「ある」と言っておくことが正しいと思われる。もう一つ言えることとしては、生きる意味とは、万人共通普遍に存在するものでは「ない」ということである。生きる意味の次元について、コメ主さんは以前「>1.宇宙と私 2.人類と私 3.社会と私
 4.個人と私」と挙げられていた。生きる意味とは、何かとの関係の中で生じるものであるという考えに僕は同意する。そして、自己と世界(環境すべて)の関係性は、流転し、予測のつかないものである。そうしたときに、確固たる自己――ないしは、生きる意味というのは、見出しようが「ない」と、僕は考える。その次元において、僕は、生きる意味は「ない」と回答するだろう。一方で、家族と自分――としたとき、家族にとってみれば、自分がいなくなってしまうと、悲しい思いをするだろう。夫ないしは妻、兄ないしは弟、子供ないしは親……その所属的な役割は、「生きる意味」と呼称するのに、十分ではないだろうか。その意味においては、生きる意味は「ある」と僕は回答するだろう。――しかし、一方で、その所属としての役割が強固だとしても、それでも僕自身の存在が「何か」において必ず必要か、というと、そうではないのである。僕は「世界」の十分条件であって、必要条件ではないのだ(僕は世界の一部であるが、世界であれば僕であるわけではない)。つまり、僕の回答としては、最初に戻るが簡単に言えば、「生きる意味はあるけれども、ない」ということになるのだ。ただ、あるけれどもないとかという、仏教の禅問答や空(くう)のような答えというのは、いささかに座りが悪いので、「徹底して考える」必要があるということになる。ここでふと思うに、キリスト教的な生き方というのは、そうした不安定な要素を、「神が認めてくれる(神がみている)」として信仰することにより、それ以外の(人生)活動を円滑にしてくれるというわけである。つまり、僕の問題意識を換言すれば、「信仰」の対象を探している、といえるかもしれないのである)

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コメント

 仮に「生きる意味は無い」という結論に達した時に取り得る次なるステップについて、いくつか思いついたので特に深く考えず書いてみることにします。

 その1「生きる意味を生み出す、に問いの目的をシフトする」
 「意味」を「価値」に変えてもいいかもしれません。
 客観的な結論としての「生きる意味は無い」はそのままに、自分だけの、主観的な意味や価値、理由について考えを巡らせていくという方向性で「生きる意味を徹底的に考える」というもの。

 その2「自殺の勧奨にならない生きる意味の無さ、を考える」
 生きる意味が無かったとしても生を放棄しなくて良いとするためのあれこれを考えていく方向への問いのシフト。
 「生きる意味、という概念的哲学に頼らない生き方を考える」と言い換えても良いかもしれません。

 その3「一度否定的結論に達した生きる意味を何とかして有ることにするため考え続ける」
 特に問いの目的を変更せず、「ではどうしたら、どのように考えたら生きる意味はある、と結論付けられるのか?」を考え続けていくという方向性。

 ちなみに私はどちらかと言うと1に該当する方向へ進んで思考的・哲学的ループから脱したような感じです。
posted by 白銀URLat 2020/01/23 17:23 [ コメントを修正する ]

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