もう、24時を過ぎていて、お酒も入っていて、寝るべきなのだけれども、少しだけメモをしておく。
まずは、タイトルを、「生きる意味を考える」と変更した。
生きる意味、で検索すると、非常にたくさんの言葉が溢れていることが分かる。
その中で、僕なんかが、一人、またその海の中に入っていくのは、おぼれ死ぬだけではないだろうか。
否、こればかりは、いくら多くの言葉に溢れようが、70億人が同じことを考えていようが、関係ない。
ただ、唯一、自分自身に必要な思考というものが、あるということだ。
これを、「実存」という。
他者の言葉を参考にするのはいい。ただ、自分自身、自己、実感、とにかく、意識している身体において、積み重ねていく必要があるのだ、それが、生きるということなのだ。
このまま、短い記事のまま、投稿してしまうのは、非常に無駄だ。
人生はゲームである、とか、生きる意味はない、だとか、人それぞれ見付けていくものだとか。
氾濫した言葉に惑わされてはいけなくて、結局、自分自身を納得させるには、学習というインプットが大事なのだ。
スピリチュアルとか自己啓発とか、それらの論理というのはもちろんしっかりしているから、論理的思考ができるひと、読解力があるひとは、
理解ができる。
しかし、それは正しいと思う、けれども、僕はそれができない、というのは、自己疎外を生む。
自己疎外とは、自分自身を認められずに、最も大切な実感が失われていくことである。
これらは、正確な言語表現を要求しない。
生きる意味を考えることは間違いである、それは、それを考えるときは必ず不満を感じ、不愉快な気持ちだからだ、という記述も世界には存在している。
それはそうだと、私も思う、しかしながら、果たして、この思考というものが、不愉快なものなのだろうか、これは、いまいちど、ウェイト、である。
トルストイは、三十代で人生の苦悩を、生きる意味を求め続けたという。
彼自信は、周囲の導師として、名声もあったのだという、ただ、彼には生きる意味が見いだせなかったのだ。
愚者は経験に頼る、知者は歴史に学ぶ、という。
おお、かっこいい言葉だ、と思う。愚者は信仰に頼る、賢者は科学に頼る、とか、他に言い換えて、どんどんかっこいい言葉をつくっていくこともできる。
僕はそういった言葉を信じていた時期もあった。
理想なる自己というものを作り上げようと、書物を読み漁った。この表現も過剰で、僕なんかよりたくさん読んでいる人もいるだろう、この感覚、この感覚こそが非常に危険なものだと、なかなか、誰も教えてくれない、いや、この危険さは、僕一人で気づいたのだと、そう慢心したくなるほどである。
理想自己を追い求める果てに、現実の自分がおきざりになるからだ。
とにかく、自分の中ではたくさん本を読んだ、それが100冊だったとして、その数をおおすごい、といわれるのか、たったそれだけといわれるのか、それは、所属コミュニティーによるだけの話。
それをネット社会は、コミュニティの範囲をひろげ、物理環境的制約をみえにくくするため、この心情が起こりやすいと思う。
現実の友人が大事だよ、といわれる所以である。
問題となるのは、所属コミュニティーが、必ずしもよいものではないことだ。
これは運命的でもある。
もちろん、個の努力は影響するが、世界的規模の圧力に抗えるはずはない。
物理的環境制約を意識しつつも、広大な電脳世界に毒されてもいけない。
こうなってくると、凡庸なつまらない言葉しかでてこない。
理想をもちつつ、現実をみつめ、努力を重ねて生きていかなければならない。
ただ、このなんの役にもたたないような教訓は、ひとつの問題提起なのである。
現に、死に希望を感じ、十歳に満たずに自死する現象が起こる。
本能の欠損か、しかし、
先程、失敗をおかした、つまり、自分自身の感情を放置すると、危険が発生するのだ、自分の発言で窮地にたったこともある。
マナーとか様式とか常識とか。
それらは、身を守るものなのだ。話が壊れてきたな、精神変調である、この、こうあったらいいな、とか、他者に嫌われてしまうということ、これが自分にとって危険シグナルなのであって、だからこそ、思考も発言も正確に、落ち着いて、冷静に、安全にならざるをえないのだ。
時間切れ、また夜にでも続けたい。
まずは、タイトルを、「生きる意味を考える」と変更した。
生きる意味、で検索すると、非常にたくさんの言葉が溢れていることが分かる。
その中で、僕なんかが、一人、またその海の中に入っていくのは、おぼれ死ぬだけではないだろうか。
否、こればかりは、いくら多くの言葉に溢れようが、70億人が同じことを考えていようが、関係ない。
ただ、唯一、自分自身に必要な思考というものが、あるということだ。
これを、「実存」という。
他者の言葉を参考にするのはいい。ただ、自分自身、自己、実感、とにかく、意識している身体において、積み重ねていく必要があるのだ、それが、生きるということなのだ。
このまま、短い記事のまま、投稿してしまうのは、非常に無駄だ。
人生は暇潰しである
人生はゲームである、とか、生きる意味はない、だとか、人それぞれ見付けていくものだとか。
氾濫した言葉に惑わされてはいけなくて、結局、自分自身を納得させるには、学習というインプットが大事なのだ。
スピリチュアルとか自己啓発とか、それらの論理というのはもちろんしっかりしているから、論理的思考ができるひと、読解力があるひとは、
理解ができる。
しかし、それは正しいと思う、けれども、僕はそれができない、というのは、自己疎外を生む。
自己疎外とは、自分自身を認められずに、最も大切な実感が失われていくことである。
これらは、正確な言語表現を要求しない。
生きる意味を考えているとき不愉快なはずだ
生きる意味を考えることは間違いである、それは、それを考えるときは必ず不満を感じ、不愉快な気持ちだからだ、という記述も世界には存在している。
それはそうだと、私も思う、しかしながら、果たして、この思考というものが、不愉快なものなのだろうか、これは、いまいちど、ウェイト、である。
トルストイは、三十代で人生の苦悩を、生きる意味を求め続けたという。
彼自信は、周囲の導師として、名声もあったのだという、ただ、彼には生きる意味が見いだせなかったのだ。
愚者は歴史に学ばないというが
愚者は経験に頼る、知者は歴史に学ぶ、という。
おお、かっこいい言葉だ、と思う。愚者は信仰に頼る、賢者は科学に頼る、とか、他に言い換えて、どんどんかっこいい言葉をつくっていくこともできる。
僕はそういった言葉を信じていた時期もあった。
理想なる自己というものを作り上げようと、書物を読み漁った。この表現も過剰で、僕なんかよりたくさん読んでいる人もいるだろう、この感覚、この感覚こそが非常に危険なものだと、なかなか、誰も教えてくれない、いや、この危険さは、僕一人で気づいたのだと、そう慢心したくなるほどである。
危険な比較心情
理想自己を追い求める果てに、現実の自分がおきざりになるからだ。
とにかく、自分の中ではたくさん本を読んだ、それが100冊だったとして、その数をおおすごい、といわれるのか、たったそれだけといわれるのか、それは、所属コミュニティーによるだけの話。
それをネット社会は、コミュニティの範囲をひろげ、物理環境的制約をみえにくくするため、この心情が起こりやすいと思う。
現実の友人が大事だよ、といわれる所以である。
かといって物理環境が万全ではない
問題となるのは、所属コミュニティーが、必ずしもよいものではないことだ。
これは運命的でもある。
もちろん、個の努力は影響するが、世界的規模の圧力に抗えるはずはない。
物理的環境制約を意識しつつも、広大な電脳世界に毒されてもいけない。
こうなってくると、凡庸なつまらない言葉しかでてこない。
理想をもちつつ、現実をみつめ、努力を重ねて生きていかなければならない。
ただ、このなんの役にもたたないような教訓は、ひとつの問題提起なのである。
努力してまで何故生きるのか
現に、死に希望を感じ、十歳に満たずに自死する現象が起こる。
本能の欠損か、しかし、
先程、失敗をおかした、つまり、自分自身の感情を放置すると、危険が発生するのだ、自分の発言で窮地にたったこともある。
マナーとか様式とか常識とか。
それらは、身を守るものなのだ。話が壊れてきたな、精神変調である、この、こうあったらいいな、とか、他者に嫌われてしまうということ、これが自分にとって危険シグナルなのであって、だからこそ、思考も発言も正確に、落ち着いて、冷静に、安全にならざるをえないのだ。
時間切れ、また夜にでも続けたい。
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いわゆる、自分のことは、いくら書き込んだとしても、理解されるものではない。
自分は特別な人間ではないと、そう感じたのだ、しかし、やはり、ある意味においては、特別な人間でしかありえないのだ。
それは親が子を大事に思う気持ちとか、名前をもった個体であるとか、それら自明なことを別として、人は自分自身の世界において、世界、他者をみているのである。
これは、正しいとか、誤っているとか、決して科学的ではなくて、こうして世界を考えた方がうまくいくのだという、知恵というか、処世術的なものである。
第一そもそも、他者と分かり合えるとか、そんなこと、別に問題にされてはいないのだ。
現に、人間関係がうまくいっているならば、対人関係、コミュニケーションの問題など不要である。いっぽうで、対人関係というのは、常に仕事でも学校でも問題の上位になるのだから、本当は誰しも、絶望をかかえているのだ。
仏教的には、愛は執着から起こる、そして愛は触れることで、感覚器官によっておこる。
人間なら誰しも愛をもっているという前提、まぁそれはそうとして、なにかを自分のものにしたいという思い、その抽象化されたものが愛である。
あるときは、僕は、愛とは性欲のことだ、ととらえた。それも一面であるが、例えば親の子供への愛とか、性愛をこえたものを表現するならば、執着こそ愛であるといっていいだろう。
結婚とは、社会制度であり、別に感情は関係しない。
ゆえに、制度自体のしばりが希薄になった現代において、離婚率がさんぶんのいちなのは、何もめずらしいことではない。
子供をつくらないといけないとかいう周囲の強制もほとんどないことだろう。
財産分与とか、相続とか、それら社会制度としての機能をはたすための便宜手段である。
ところで、愛とはなにか?
遺伝子レベルで一致すると、匂いでひかれあうらしい。
ひとめぼれとか、ロマンスである。
しかし、セックスが気持ちいいのはよいことだろうが、偶発的な感覚において、ひととひととの関係は、どこまで維持できるのだろうか。
家庭とはなんだろうか。役割分担、なんのため?
生きるため。
では、何故その人とともに生きるのだろうか。
結局のところ、自分が何のためにどのように生きるのか、それがポイントにしか、いまの私は思えない。
死にたくないというのが、希望であるわけではなく、むしろ死すら希望になりえない状態が、死に至る病におかされているという、いわゆる絶望である。
絶望は誰しも抱くゆえに、神の信仰こそが救いである、ただ、ここでの神は、大きなゆういつしんではなく、個個人が一対一で向かい合う、心の拠り所となる存在であるという。
それを、恋愛に対して求めて、失敗し絶望したのが、北村透谷である。
僕も女性に審美を求めたこともあったが、やはり人間は人間でしかなく、いやむしろ、それをするということは、自分自身の内にある信仰心そのものの、もはや偶像崇拝である。
といった表現をしていると、離婚して自暴自棄になっている、と感じられることだろうが、そうではないのだが、冒頭の理解可能性という部分で、もはや一切伝わることはありえないのである。
ともかく、自己の内にある真実、永遠なるもの、拠り所になるもの、それがすなわち、キルケゴールのいう神なのである。
こんな表現で本を出したら、宗教コーナーに割り振られるだろう。
いやいや、そうじゃないんだ。
むしろ、哲学、自己啓発、いや、生き方、雑学、そんなものである。
ただ、あながち、宗教じゃないかといえば、単に宗教という言葉が日本人にうけが悪いので、わざと否定しているだけで、ある意味宗教といってもいい。それは、資本主義が宗教だという表現レベルのものである。
でまぁ、そこらへんは今は重要ではなく、その神様ってどこにおるんや、ということだ。
時間切れなので、それはまた次にしよう。
自分は特別な人間ではないと、そう感じたのだ、しかし、やはり、ある意味においては、特別な人間でしかありえないのだ。
それは親が子を大事に思う気持ちとか、名前をもった個体であるとか、それら自明なことを別として、人は自分自身の世界において、世界、他者をみているのである。
哲学的ゾンビ
これは、正しいとか、誤っているとか、決して科学的ではなくて、こうして世界を考えた方がうまくいくのだという、知恵というか、処世術的なものである。
第一そもそも、他者と分かり合えるとか、そんなこと、別に問題にされてはいないのだ。
現に、人間関係がうまくいっているならば、対人関係、コミュニケーションの問題など不要である。いっぽうで、対人関係というのは、常に仕事でも学校でも問題の上位になるのだから、本当は誰しも、絶望をかかえているのだ。
愛とはなにか
仏教的には、愛は執着から起こる、そして愛は触れることで、感覚器官によっておこる。
人間なら誰しも愛をもっているという前提、まぁそれはそうとして、なにかを自分のものにしたいという思い、その抽象化されたものが愛である。
あるときは、僕は、愛とは性欲のことだ、ととらえた。それも一面であるが、例えば親の子供への愛とか、性愛をこえたものを表現するならば、執着こそ愛であるといっていいだろう。
結婚制度と愛
結婚とは、社会制度であり、別に感情は関係しない。
ゆえに、制度自体のしばりが希薄になった現代において、離婚率がさんぶんのいちなのは、何もめずらしいことではない。
子供をつくらないといけないとかいう周囲の強制もほとんどないことだろう。
財産分与とか、相続とか、それら社会制度としての機能をはたすための便宜手段である。
ところで、愛とはなにか?
ホルモンバランスとか生物学的な要素
遺伝子レベルで一致すると、匂いでひかれあうらしい。
ひとめぼれとか、ロマンスである。
しかし、セックスが気持ちいいのはよいことだろうが、偶発的な感覚において、ひととひととの関係は、どこまで維持できるのだろうか。
家庭とはなんだろうか。役割分担、なんのため?
生きるため。
では、何故その人とともに生きるのだろうか。
結局人生プラン
結局のところ、自分が何のためにどのように生きるのか、それがポイントにしか、いまの私は思えない。
死にたくないというのが、希望であるわけではなく、むしろ死すら希望になりえない状態が、死に至る病におかされているという、いわゆる絶望である。
絶望は誰しも抱くゆえに、神の信仰こそが救いである、ただ、ここでの神は、大きなゆういつしんではなく、個個人が一対一で向かい合う、心の拠り所となる存在であるという。
それを、恋愛に対して求めて、失敗し絶望したのが、北村透谷である。
僕も女性に審美を求めたこともあったが、やはり人間は人間でしかなく、いやむしろ、それをするということは、自分自身の内にある信仰心そのものの、もはや偶像崇拝である。
といった表現をしていると、離婚して自暴自棄になっている、と感じられることだろうが、そうではないのだが、冒頭の理解可能性という部分で、もはや一切伝わることはありえないのである。
ともかく、自己の内にある真実、永遠なるもの、拠り所になるもの、それがすなわち、キルケゴールのいう神なのである。
神さまの探し方
こんな表現で本を出したら、宗教コーナーに割り振られるだろう。
いやいや、そうじゃないんだ。
むしろ、哲学、自己啓発、いや、生き方、雑学、そんなものである。
ただ、あながち、宗教じゃないかといえば、単に宗教という言葉が日本人にうけが悪いので、わざと否定しているだけで、ある意味宗教といってもいい。それは、資本主義が宗教だという表現レベルのものである。
でまぁ、そこらへんは今は重要ではなく、その神様ってどこにおるんや、ということだ。
時間切れなので、それはまた次にしよう。
私は何故生きるのか、その長年の問いに答えてみる。
死にたくないからだ、という理由は、消極的でありながら、人間の本能である、生きたい、知りたい、仲間になりたいという欲求にもとづくものであり、何ら不足するものではない。
一方、人間を精神的な存在、自己をもつ存在として、その他動物と区別するのであれば、その答えは不足である。
ある名前をもった、個人としての存在を規定したとき、人間一般の理由でも不足である。社会のため、会社のため、家族のため、子供のため、それらはすべて尊いものだろうが、今回の問いは、それら一般の理由ではなく、個人としての、一人の自分としての、自己の理由である。
それは、例えば、家族のため、という答えが、誤りであるのではない。問題は、その答えが、心のそこから沸き上がる、実感としての強い欲求なのかどうか、その具体性が重要なのだ。
いま、たまたま、離婚という経験をし、すべてとはいえないが、大きな生活の一部を失い、一方で衣食住の安定はみたされているため、考えるための時間と場所はつくられている。
まず、本当は、この状況自体すばらしく貴重で、様々な人に感謝すべきであることを強く実感するべきだ。
ただ、食べて寝るだけの生活が、決して人としての幸せではないことーー幸せとはなにか、これ自体重要なてーまだ。ただ、この記事ではふれないーーは、人間を精神的な存在として考えているため、明らかである。
さて、では、その沸き上がる強い実感を、その声をきくためには、何が必要か。
インプットが必要である。
経験が必要である。
ただ、それらに、流されるのではなく、その体験ごとに、自分の内面をみつめ、声をきくことに注視するのである。
経験やインプットのもとになる行動の指針は、具体的に紙に書き出してみるとよい。
それは、ブレーンストーミングとして、これは無理そうだとか、批判はいっさいやめにしなければならない。
そして実行し、その結果を振り返ってみるのだ。
そうと決まれば、これ以上この記事に価値はない、実行にうつろう。
お前は何故生きているのか
死にたくないからだ、という理由は、消極的でありながら、人間の本能である、生きたい、知りたい、仲間になりたいという欲求にもとづくものであり、何ら不足するものではない。
一方、人間を精神的な存在、自己をもつ存在として、その他動物と区別するのであれば、その答えは不足である。
ある名前をもった、個人としての存在を規定したとき、人間一般の理由でも不足である。社会のため、会社のため、家族のため、子供のため、それらはすべて尊いものだろうが、今回の問いは、それら一般の理由ではなく、個人としての、一人の自分としての、自己の理由である。
それは、例えば、家族のため、という答えが、誤りであるのではない。問題は、その答えが、心のそこから沸き上がる、実感としての強い欲求なのかどうか、その具体性が重要なのだ。
考えるための方法とは
いま、たまたま、離婚という経験をし、すべてとはいえないが、大きな生活の一部を失い、一方で衣食住の安定はみたされているため、考えるための時間と場所はつくられている。
まず、本当は、この状況自体すばらしく貴重で、様々な人に感謝すべきであることを強く実感するべきだ。
ただ、食べて寝るだけの生活が、決して人としての幸せではないことーー幸せとはなにか、これ自体重要なてーまだ。ただ、この記事ではふれないーーは、人間を精神的な存在として考えているため、明らかである。
さて、では、その沸き上がる強い実感を、その声をきくためには、何が必要か。
インプットが必要である。
経験が必要である。
ただ、それらに、流されるのではなく、その体験ごとに、自分の内面をみつめ、声をきくことに注視するのである。
経験やインプットのもとになる行動の指針は、具体的に紙に書き出してみるとよい。
それは、ブレーンストーミングとして、これは無理そうだとか、批判はいっさいやめにしなければならない。
そして実行し、その結果を振り返ってみるのだ。
そうと決まれば、これ以上この記事に価値はない、実行にうつろう。
幸せとは何か。
愛とは何か。
生きるとは、人生とは何か。
コミュニケーションとは何か。
様々な事柄に対して、繰り返しでも構わないから、自分が実感してきて、「正しい」「真実」と思える、強く感じられることを、メモしていく。
すなわち、なりたい自分になれていること、それが幸せといえる。
中古書店で、ある外科医の新書にあったが、幸せのハードルは可動式であるということ。
がんになってよかった、と、例ではあがっているけれども、そこまでの心境にいたるには、相当の訓練、修業が必要だと思われる。
私のような凡人――この凡人という言葉も、よくよく書いておかなければ、たぶん誤解のもとになるだろう――においては、神や仏のレベルに至ることを目的としてはならない。もちろん、なってもいいのだけれども、それこそ、高すぎる理想は、不幸を呼び寄せることになる。
同時に、本当に望んだことというのは、必ず実現するように、世界はできていることも忘れてはならない。
こんなことを書くと、怪しげな宗教に思われるだろう、だから、この辺りも注意して書いていく必要がある。
そもそも、「本当に望んだこと」という定義が、あやふやでしかない。この辺りも、注意深く書いていく必要があるだろう。
ああ、やるべきことが、書くべきことが、それらはほとんどが「前提」となることなのだけれども、多い。
まず、この記事では、「理想自己」と関係させ、自分の望むことを掘り下げていくことを目標にしよう。
愛とは何か。
生きるとは、人生とは何か。
コミュニケーションとは何か。
様々な事柄に対して、繰り返しでも構わないから、自分が実感してきて、「正しい」「真実」と思える、強く感じられることを、メモしていく。
幸せとは何か
理想自己と現実自己の乖離が無い状態である。すなわち、なりたい自分になれていること、それが幸せといえる。
中古書店で、ある外科医の新書にあったが、幸せのハードルは可動式であるということ。
がんになってよかった、と、例ではあがっているけれども、そこまでの心境にいたるには、相当の訓練、修業が必要だと思われる。
私のような凡人――この凡人という言葉も、よくよく書いておかなければ、たぶん誤解のもとになるだろう――においては、神や仏のレベルに至ることを目的としてはならない。もちろん、なってもいいのだけれども、それこそ、高すぎる理想は、不幸を呼び寄せることになる。
同時に、本当に望んだことというのは、必ず実現するように、世界はできていることも忘れてはならない。
こんなことを書くと、怪しげな宗教に思われるだろう、だから、この辺りも注意して書いていく必要がある。
そもそも、「本当に望んだこと」という定義が、あやふやでしかない。この辺りも、注意深く書いていく必要があるだろう。
ああ、やるべきことが、書くべきことが、それらはほとんどが「前提」となることなのだけれども、多い。
まず、この記事では、「理想自己」と関係させ、自分の望むことを掘り下げていくことを目標にしよう。
理想自己とは何か?
時間がないため、できるだけ簡潔に。
キングダムを40巻まで読む機会があった。その際に、後の始皇帝と実権を握る大臣との対話。
大臣は、人の本質は我執であり、天下とは金(貨幣制度)であるという。そして、戦争はなくならず、国を豊かにすることが大事だという。自国が豊かになれば、周りの国からも人が流れてきて、富を循環させる仕組みを作るという。
一方、始皇帝は、人の本質は「光」であり、戦争はなくならないというのは人間への諦めだ。人は光をもっているから、よりよい世界に変えていく力がある。だから俺の時代で戦争は終わらせる。その方法は武力でだ。
結局、二人の弁舌は、お互いのもつ「前提(人に対しての理解、考え方)」があまりにも違うため、これ以上対話をしてもお互いが納得することはないだろうと、終わりになる。
戦争はなくならないというのと、戦争は終わらせることができるという考えと、そういった面の違いもあるけれども、僕が思ったのは、その、「終わらなさ」であった。
キングダムを40巻まで読む機会があった。その際に、後の始皇帝と実権を握る大臣との対話。
大臣は、人の本質は我執であり、天下とは金(貨幣制度)であるという。そして、戦争はなくならず、国を豊かにすることが大事だという。自国が豊かになれば、周りの国からも人が流れてきて、富を循環させる仕組みを作るという。
一方、始皇帝は、人の本質は「光」であり、戦争はなくならないというのは人間への諦めだ。人は光をもっているから、よりよい世界に変えていく力がある。だから俺の時代で戦争は終わらせる。その方法は武力でだ。
結局、二人の弁舌は、お互いのもつ「前提(人に対しての理解、考え方)」があまりにも違うため、これ以上対話をしてもお互いが納得することはないだろうと、終わりになる。
戦争はなくならないというのと、戦争は終わらせることができるという考えと、そういった面の違いもあるけれども、僕が思ったのは、その、「終わらなさ」であった。