資産運用を本気で考えるために、ファイナンシャルプランナーとの面談を重ねている。
この機会というのも、離婚して落ち込んで?引っ越しして荷物整理していたら偶然舞い込んできた話。
昨今、祖父がなくなり、その病気についての新しい治療法がうみだされそうだというニュース。
興味のあるニュース出来事に目が行く、というのはあるけれども、人生における運命的な感覚を、思う、と書くと、やはり怪しげな宗教に感化されたように思われるのだろう、どうにも現実的なリアルタイムのコミュニケーションは慎重になる必要がある。
さて、お金のこと、資産運用とか形成を考えることと、生きる意味とは、どう関係するのか。
結局、お金とは、何か行動し、何かをうみだすための材料であるのだ。
つまり、お金を何に使うか、ということがひっきょう重要な問題である。
一方、お金をためることを、増やすことには誰しも熱心だが、どうやって、何に使おうかを、考えて行うことは少ない、というと馬鹿にしすぎかもしれないが、そうではなく、使うことについては、本来的な欲求に従うものだから、その必要性が薄い、ということだ。
おいしいものを食べたい、だからお金を使う、何ら不思議でもない自然なことである。
自然だからこそ、その、いわゆる性欲とか食欲とかに代表される欲求がある以上、お金の大切さとか、増やすこと貯めることに疑問は起こり得ないのである。
ところが、僕が少し変なところは、それ以前に生きる意味を問題視するところにある。
おいしいもの食べて、かわいい人を抱いて、ぐっすり眠れて、それはいわゆる幸せ、という言葉に示される状態だろうが、果たして、それが永遠かは明らかである。
話はあるぬと飛ぶが、バイクでナビがきかない場所を深夜に走っていて、非常に怖くなった、それは不明な土地であるというのと、小石でつまづいて転倒したとき、自分の身体はいともかんたんに、死という状態になるのだ、と。
ここら辺から、もうまったく、気持ち悪いと思われ始めることは確信に近いながら、死、という状態は、何においても重要である。
人は死ぬために生きている、この表現は全く受け入れがたいが、ある側面では真実でしかない、もちろん、いつも補足的に書くように、その真実が万人に必要とは限らない。
しかしながら、それは、十代や二十代では起こらないかもしれないが、いずれ、身体の衰えと共に、思考の隅に発生する可能性が高まってくる。
安心してほしい、と、ここまで言って、誰も信じられないことであるが、こういった文章を読んだところで、人は死の恐怖は発生しない。
そこら辺には、実感、というスタビライザーが備わっている。
だから、ゆえに、僕は、人の言葉でなんか人は変われないんだ、変わる要素は自分のなかにあるのだ、と思っているが、これも一般感覚的には受け入れられない、何故ならば、承認欲求もまた、人にはかかせないからであり、自分が他者への影響力をもっているということを、人は信じたいのである。
これらを、営業テクニックの本とか読めば、分かりにくく説明してくれる。顧客に自己決定したように、自分の営利に向けて誘導するのである、とかね。
それで、WINWINの関係になれば、お互い気持ちよければいいじゃない、というのも最もなんだけれど、どこか欺瞞的で、気持ち悪いと僕は思う、この感覚を、高2病とか大2病
とかいう、かっこわらい。
話が、前にすすまない。まとめようとすれば、人はいずれ死ぬのだから、いまを精一杯生きよ、とかになる。このブログは、そんなことは分かっている、そこで思考停止するんじゃない!と発破をかける。と同時に、生きる意味なんて考えるのは無駄であるとするエセポジ言説への警鐘である。いやもちろん、全否定なんて、こうやって書いてきたことがむしろ、できないことの証左なんだけれども
この機会というのも、離婚して落ち込んで?引っ越しして荷物整理していたら偶然舞い込んできた話。
昨今、祖父がなくなり、その病気についての新しい治療法がうみだされそうだというニュース。
興味のあるニュース出来事に目が行く、というのはあるけれども、人生における運命的な感覚を、思う、と書くと、やはり怪しげな宗教に感化されたように思われるのだろう、どうにも現実的なリアルタイムのコミュニケーションは慎重になる必要がある。
さて、お金のこと、資産運用とか形成を考えることと、生きる意味とは、どう関係するのか。
結局、お金とは、何か行動し、何かをうみだすための材料であるのだ。
つまり、お金を何に使うか、ということがひっきょう重要な問題である。
一方、お金をためることを、増やすことには誰しも熱心だが、どうやって、何に使おうかを、考えて行うことは少ない、というと馬鹿にしすぎかもしれないが、そうではなく、使うことについては、本来的な欲求に従うものだから、その必要性が薄い、ということだ。
おいしいものを食べたい、だからお金を使う、何ら不思議でもない自然なことである。
自然だからこそ、その、いわゆる性欲とか食欲とかに代表される欲求がある以上、お金の大切さとか、増やすこと貯めることに疑問は起こり得ないのである。
ところが、僕が少し変なところは、それ以前に生きる意味を問題視するところにある。
おいしいもの食べて、かわいい人を抱いて、ぐっすり眠れて、それはいわゆる幸せ、という言葉に示される状態だろうが、果たして、それが永遠かは明らかである。
話はあるぬと飛ぶが、バイクでナビがきかない場所を深夜に走っていて、非常に怖くなった、それは不明な土地であるというのと、小石でつまづいて転倒したとき、自分の身体はいともかんたんに、死という状態になるのだ、と。
ここら辺から、もうまったく、気持ち悪いと思われ始めることは確信に近いながら、死、という状態は、何においても重要である。
人は死ぬために生きている、この表現は全く受け入れがたいが、ある側面では真実でしかない、もちろん、いつも補足的に書くように、その真実が万人に必要とは限らない。
しかしながら、それは、十代や二十代では起こらないかもしれないが、いずれ、身体の衰えと共に、思考の隅に発生する可能性が高まってくる。
安心してほしい、と、ここまで言って、誰も信じられないことであるが、こういった文章を読んだところで、人は死の恐怖は発生しない。
そこら辺には、実感、というスタビライザーが備わっている。
だから、ゆえに、僕は、人の言葉でなんか人は変われないんだ、変わる要素は自分のなかにあるのだ、と思っているが、これも一般感覚的には受け入れられない、何故ならば、承認欲求もまた、人にはかかせないからであり、自分が他者への影響力をもっているということを、人は信じたいのである。
これらを、営業テクニックの本とか読めば、分かりにくく説明してくれる。顧客に自己決定したように、自分の営利に向けて誘導するのである、とかね。
それで、WINWINの関係になれば、お互い気持ちよければいいじゃない、というのも最もなんだけれど、どこか欺瞞的で、気持ち悪いと僕は思う、この感覚を、高2病とか大2病
とかいう、かっこわらい。
話が、前にすすまない。まとめようとすれば、人はいずれ死ぬのだから、いまを精一杯生きよ、とかになる。このブログは、そんなことは分かっている、そこで思考停止するんじゃない!と発破をかける。と同時に、生きる意味なんて考えるのは無駄であるとするエセポジ言説への警鐘である。いやもちろん、全否定なんて、こうやって書いてきたことがむしろ、できないことの証左なんだけれども
PR
他者がどう感じるかは全く関係ない、それは、単なる僻みである。
ただ、きれいな側面だけの文章が、どうしても受け付けられない。
ひん曲がった性格なのだろうか、いやこれは恐らく、経験と環境によるものだと思われる、いな、元来の性格なのかもしれない、問題はここではない。
例え、自分の性格が元来のものであろうが、後天的なものであろうが、そもそも、その性格というものは、環境に応じて変化しうるものであって、固定的に、例えば「社交的」だとか「落ち込みがち」だとか、それらの表現で表せる程度の物であれば、そもそも問題になどならないのである。
と、何を書き始めるのか全く分からない文章というものが、果たして価値があるかというと、ないと思う。
だからこそ、こうやって傍若無人というか、気ままに、思いつくままに書き連ねたものが、「面白かった」と、わずかばかりの人ではあっても、言ってもらえたことは、本当に心底うれしいことであったのである。
それらの記事が、では、すべて感動(少しでも感情が発生)させることができたわけではないだろうが、とてもとても、うれしいことなのである。
果たしてそうだろうか。
例えば、宮台真司の「この世からきれいに消えたい。」という、20代前半の若い男性が、自殺したルポルタージュがある。
僕は、その本の序盤の書き出しにおいて、「ああ、そうなんだ、この得体のしれない生きづらさってものが、それこそ小学生ぐらいのときから纏わりついていたんだ」と感動したものだ。
ところが、ショックを受けたのは、その自殺した少年が、実は彼女がいたことである。そして、彼の死を彼女は悼んで哀しんでくれているのである。
「おいおい! まってくれよ、彼女がいて、イケメンのくせに、自殺なんてもったいないことしやがって!」
と、思ったかはあまり覚えていないけれども、当時彼女がいなかった自分としては、どこか違う世界の人間に思えたわけだ。
そこで僕は思った。
所詮、僕が生きづらいとか、人生に生きる意味を見いだせないとか嘆いていたとしたって、所詮、彼女がいなくてひがんでいる童貞野郎じゃあないか、と。
これでは、「絶望」なんて言葉はつかえない。誰かに認められない、彼女ができないという承認欲求が満たされないでウジウジ悩んでいるだけなのだ、と。
上に書いてきたエピソードは、いつものごとく、脚色している気がする、とりあえず、本を購入した時期などから考えても、時系列はてんでバラバラだ。ただ、エッセンスとしては、以下のことである。
ただ、きれいな側面だけの文章が、どうしても受け付けられない。
ひん曲がった性格なのだろうか、いやこれは恐らく、経験と環境によるものだと思われる、いな、元来の性格なのかもしれない、問題はここではない。
例え、自分の性格が元来のものであろうが、後天的なものであろうが、そもそも、その性格というものは、環境に応じて変化しうるものであって、固定的に、例えば「社交的」だとか「落ち込みがち」だとか、それらの表現で表せる程度の物であれば、そもそも問題になどならないのである。
と、何を書き始めるのか全く分からない文章というものが、果たして価値があるかというと、ないと思う。
だからこそ、こうやって傍若無人というか、気ままに、思いつくままに書き連ねたものが、「面白かった」と、わずかばかりの人ではあっても、言ってもらえたことは、本当に心底うれしいことであったのである。
それらの記事が、では、すべて感動(少しでも感情が発生)させることができたわけではないだろうが、とてもとても、うれしいことなのである。
健康でお金があって友人に恵まれてエトセトラ
まず、生きる意味、と検索すると、いままさに落ち込んでいることが前提とされている。果たしてそうだろうか。
例えば、宮台真司の「この世からきれいに消えたい。」という、20代前半の若い男性が、自殺したルポルタージュがある。
僕は、その本の序盤の書き出しにおいて、「ああ、そうなんだ、この得体のしれない生きづらさってものが、それこそ小学生ぐらいのときから纏わりついていたんだ」と感動したものだ。
ところが、ショックを受けたのは、その自殺した少年が、実は彼女がいたことである。そして、彼の死を彼女は悼んで哀しんでくれているのである。
「おいおい! まってくれよ、彼女がいて、イケメンのくせに、自殺なんてもったいないことしやがって!」
と、思ったかはあまり覚えていないけれども、当時彼女がいなかった自分としては、どこか違う世界の人間に思えたわけだ。
そこで僕は思った。
所詮、僕が生きづらいとか、人生に生きる意味を見いだせないとか嘆いていたとしたって、所詮、彼女がいなくてひがんでいる童貞野郎じゃあないか、と。
これでは、「絶望」なんて言葉はつかえない。誰かに認められない、彼女ができないという承認欲求が満たされないでウジウジ悩んでいるだけなのだ、と。
満たされるものを得たのちに考えるべきこと
上に書いてきたエピソードは、いつものごとく、脚色している気がする、とりあえず、本を購入した時期などから考えても、時系列はてんでバラバラだ。ただ、エッセンスとしては、以下のことである。
もう、24時を過ぎていて、お酒も入っていて、寝るべきなのだけれども、少しだけメモをしておく。
まずは、タイトルを、「生きる意味を考える」と変更した。
生きる意味、で検索すると、非常にたくさんの言葉が溢れていることが分かる。
その中で、僕なんかが、一人、またその海の中に入っていくのは、おぼれ死ぬだけではないだろうか。
否、こればかりは、いくら多くの言葉に溢れようが、70億人が同じことを考えていようが、関係ない。
ただ、唯一、自分自身に必要な思考というものが、あるということだ。
これを、「実存」という。
他者の言葉を参考にするのはいい。ただ、自分自身、自己、実感、とにかく、意識している身体において、積み重ねていく必要があるのだ、それが、生きるということなのだ。
このまま、短い記事のまま、投稿してしまうのは、非常に無駄だ。
人生はゲームである、とか、生きる意味はない、だとか、人それぞれ見付けていくものだとか。
氾濫した言葉に惑わされてはいけなくて、結局、自分自身を納得させるには、学習というインプットが大事なのだ。
スピリチュアルとか自己啓発とか、それらの論理というのはもちろんしっかりしているから、論理的思考ができるひと、読解力があるひとは、
理解ができる。
しかし、それは正しいと思う、けれども、僕はそれができない、というのは、自己疎外を生む。
自己疎外とは、自分自身を認められずに、最も大切な実感が失われていくことである。
これらは、正確な言語表現を要求しない。
生きる意味を考えることは間違いである、それは、それを考えるときは必ず不満を感じ、不愉快な気持ちだからだ、という記述も世界には存在している。
それはそうだと、私も思う、しかしながら、果たして、この思考というものが、不愉快なものなのだろうか、これは、いまいちど、ウェイト、である。
トルストイは、三十代で人生の苦悩を、生きる意味を求め続けたという。
彼自信は、周囲の導師として、名声もあったのだという、ただ、彼には生きる意味が見いだせなかったのだ。
愚者は経験に頼る、知者は歴史に学ぶ、という。
おお、かっこいい言葉だ、と思う。愚者は信仰に頼る、賢者は科学に頼る、とか、他に言い換えて、どんどんかっこいい言葉をつくっていくこともできる。
僕はそういった言葉を信じていた時期もあった。
理想なる自己というものを作り上げようと、書物を読み漁った。この表現も過剰で、僕なんかよりたくさん読んでいる人もいるだろう、この感覚、この感覚こそが非常に危険なものだと、なかなか、誰も教えてくれない、いや、この危険さは、僕一人で気づいたのだと、そう慢心したくなるほどである。
理想自己を追い求める果てに、現実の自分がおきざりになるからだ。
とにかく、自分の中ではたくさん本を読んだ、それが100冊だったとして、その数をおおすごい、といわれるのか、たったそれだけといわれるのか、それは、所属コミュニティーによるだけの話。
それをネット社会は、コミュニティの範囲をひろげ、物理環境的制約をみえにくくするため、この心情が起こりやすいと思う。
現実の友人が大事だよ、といわれる所以である。
問題となるのは、所属コミュニティーが、必ずしもよいものではないことだ。
これは運命的でもある。
もちろん、個の努力は影響するが、世界的規模の圧力に抗えるはずはない。
物理的環境制約を意識しつつも、広大な電脳世界に毒されてもいけない。
こうなってくると、凡庸なつまらない言葉しかでてこない。
理想をもちつつ、現実をみつめ、努力を重ねて生きていかなければならない。
ただ、このなんの役にもたたないような教訓は、ひとつの問題提起なのである。
現に、死に希望を感じ、十歳に満たずに自死する現象が起こる。
本能の欠損か、しかし、
先程、失敗をおかした、つまり、自分自身の感情を放置すると、危険が発生するのだ、自分の発言で窮地にたったこともある。
マナーとか様式とか常識とか。
それらは、身を守るものなのだ。話が壊れてきたな、精神変調である、この、こうあったらいいな、とか、他者に嫌われてしまうということ、これが自分にとって危険シグナルなのであって、だからこそ、思考も発言も正確に、落ち着いて、冷静に、安全にならざるをえないのだ。
時間切れ、また夜にでも続けたい。
まずは、タイトルを、「生きる意味を考える」と変更した。
生きる意味、で検索すると、非常にたくさんの言葉が溢れていることが分かる。
その中で、僕なんかが、一人、またその海の中に入っていくのは、おぼれ死ぬだけではないだろうか。
否、こればかりは、いくら多くの言葉に溢れようが、70億人が同じことを考えていようが、関係ない。
ただ、唯一、自分自身に必要な思考というものが、あるということだ。
これを、「実存」という。
他者の言葉を参考にするのはいい。ただ、自分自身、自己、実感、とにかく、意識している身体において、積み重ねていく必要があるのだ、それが、生きるということなのだ。
このまま、短い記事のまま、投稿してしまうのは、非常に無駄だ。
人生は暇潰しである
人生はゲームである、とか、生きる意味はない、だとか、人それぞれ見付けていくものだとか。
氾濫した言葉に惑わされてはいけなくて、結局、自分自身を納得させるには、学習というインプットが大事なのだ。
スピリチュアルとか自己啓発とか、それらの論理というのはもちろんしっかりしているから、論理的思考ができるひと、読解力があるひとは、
理解ができる。
しかし、それは正しいと思う、けれども、僕はそれができない、というのは、自己疎外を生む。
自己疎外とは、自分自身を認められずに、最も大切な実感が失われていくことである。
これらは、正確な言語表現を要求しない。
生きる意味を考えているとき不愉快なはずだ
生きる意味を考えることは間違いである、それは、それを考えるときは必ず不満を感じ、不愉快な気持ちだからだ、という記述も世界には存在している。
それはそうだと、私も思う、しかしながら、果たして、この思考というものが、不愉快なものなのだろうか、これは、いまいちど、ウェイト、である。
トルストイは、三十代で人生の苦悩を、生きる意味を求め続けたという。
彼自信は、周囲の導師として、名声もあったのだという、ただ、彼には生きる意味が見いだせなかったのだ。
愚者は歴史に学ばないというが
愚者は経験に頼る、知者は歴史に学ぶ、という。
おお、かっこいい言葉だ、と思う。愚者は信仰に頼る、賢者は科学に頼る、とか、他に言い換えて、どんどんかっこいい言葉をつくっていくこともできる。
僕はそういった言葉を信じていた時期もあった。
理想なる自己というものを作り上げようと、書物を読み漁った。この表現も過剰で、僕なんかよりたくさん読んでいる人もいるだろう、この感覚、この感覚こそが非常に危険なものだと、なかなか、誰も教えてくれない、いや、この危険さは、僕一人で気づいたのだと、そう慢心したくなるほどである。
危険な比較心情
理想自己を追い求める果てに、現実の自分がおきざりになるからだ。
とにかく、自分の中ではたくさん本を読んだ、それが100冊だったとして、その数をおおすごい、といわれるのか、たったそれだけといわれるのか、それは、所属コミュニティーによるだけの話。
それをネット社会は、コミュニティの範囲をひろげ、物理環境的制約をみえにくくするため、この心情が起こりやすいと思う。
現実の友人が大事だよ、といわれる所以である。
かといって物理環境が万全ではない
問題となるのは、所属コミュニティーが、必ずしもよいものではないことだ。
これは運命的でもある。
もちろん、個の努力は影響するが、世界的規模の圧力に抗えるはずはない。
物理的環境制約を意識しつつも、広大な電脳世界に毒されてもいけない。
こうなってくると、凡庸なつまらない言葉しかでてこない。
理想をもちつつ、現実をみつめ、努力を重ねて生きていかなければならない。
ただ、このなんの役にもたたないような教訓は、ひとつの問題提起なのである。
努力してまで何故生きるのか
現に、死に希望を感じ、十歳に満たずに自死する現象が起こる。
本能の欠損か、しかし、
先程、失敗をおかした、つまり、自分自身の感情を放置すると、危険が発生するのだ、自分の発言で窮地にたったこともある。
マナーとか様式とか常識とか。
それらは、身を守るものなのだ。話が壊れてきたな、精神変調である、この、こうあったらいいな、とか、他者に嫌われてしまうということ、これが自分にとって危険シグナルなのであって、だからこそ、思考も発言も正確に、落ち着いて、冷静に、安全にならざるをえないのだ。
時間切れ、また夜にでも続けたい。
いわゆる、自分のことは、いくら書き込んだとしても、理解されるものではない。
自分は特別な人間ではないと、そう感じたのだ、しかし、やはり、ある意味においては、特別な人間でしかありえないのだ。
それは親が子を大事に思う気持ちとか、名前をもった個体であるとか、それら自明なことを別として、人は自分自身の世界において、世界、他者をみているのである。
これは、正しいとか、誤っているとか、決して科学的ではなくて、こうして世界を考えた方がうまくいくのだという、知恵というか、処世術的なものである。
第一そもそも、他者と分かり合えるとか、そんなこと、別に問題にされてはいないのだ。
現に、人間関係がうまくいっているならば、対人関係、コミュニケーションの問題など不要である。いっぽうで、対人関係というのは、常に仕事でも学校でも問題の上位になるのだから、本当は誰しも、絶望をかかえているのだ。
仏教的には、愛は執着から起こる、そして愛は触れることで、感覚器官によっておこる。
人間なら誰しも愛をもっているという前提、まぁそれはそうとして、なにかを自分のものにしたいという思い、その抽象化されたものが愛である。
あるときは、僕は、愛とは性欲のことだ、ととらえた。それも一面であるが、例えば親の子供への愛とか、性愛をこえたものを表現するならば、執着こそ愛であるといっていいだろう。
結婚とは、社会制度であり、別に感情は関係しない。
ゆえに、制度自体のしばりが希薄になった現代において、離婚率がさんぶんのいちなのは、何もめずらしいことではない。
子供をつくらないといけないとかいう周囲の強制もほとんどないことだろう。
財産分与とか、相続とか、それら社会制度としての機能をはたすための便宜手段である。
ところで、愛とはなにか?
遺伝子レベルで一致すると、匂いでひかれあうらしい。
ひとめぼれとか、ロマンスである。
しかし、セックスが気持ちいいのはよいことだろうが、偶発的な感覚において、ひととひととの関係は、どこまで維持できるのだろうか。
家庭とはなんだろうか。役割分担、なんのため?
生きるため。
では、何故その人とともに生きるのだろうか。
結局のところ、自分が何のためにどのように生きるのか、それがポイントにしか、いまの私は思えない。
死にたくないというのが、希望であるわけではなく、むしろ死すら希望になりえない状態が、死に至る病におかされているという、いわゆる絶望である。
絶望は誰しも抱くゆえに、神の信仰こそが救いである、ただ、ここでの神は、大きなゆういつしんではなく、個個人が一対一で向かい合う、心の拠り所となる存在であるという。
それを、恋愛に対して求めて、失敗し絶望したのが、北村透谷である。
僕も女性に審美を求めたこともあったが、やはり人間は人間でしかなく、いやむしろ、それをするということは、自分自身の内にある信仰心そのものの、もはや偶像崇拝である。
といった表現をしていると、離婚して自暴自棄になっている、と感じられることだろうが、そうではないのだが、冒頭の理解可能性という部分で、もはや一切伝わることはありえないのである。
ともかく、自己の内にある真実、永遠なるもの、拠り所になるもの、それがすなわち、キルケゴールのいう神なのである。
こんな表現で本を出したら、宗教コーナーに割り振られるだろう。
いやいや、そうじゃないんだ。
むしろ、哲学、自己啓発、いや、生き方、雑学、そんなものである。
ただ、あながち、宗教じゃないかといえば、単に宗教という言葉が日本人にうけが悪いので、わざと否定しているだけで、ある意味宗教といってもいい。それは、資本主義が宗教だという表現レベルのものである。
でまぁ、そこらへんは今は重要ではなく、その神様ってどこにおるんや、ということだ。
時間切れなので、それはまた次にしよう。
自分は特別な人間ではないと、そう感じたのだ、しかし、やはり、ある意味においては、特別な人間でしかありえないのだ。
それは親が子を大事に思う気持ちとか、名前をもった個体であるとか、それら自明なことを別として、人は自分自身の世界において、世界、他者をみているのである。
哲学的ゾンビ
これは、正しいとか、誤っているとか、決して科学的ではなくて、こうして世界を考えた方がうまくいくのだという、知恵というか、処世術的なものである。
第一そもそも、他者と分かり合えるとか、そんなこと、別に問題にされてはいないのだ。
現に、人間関係がうまくいっているならば、対人関係、コミュニケーションの問題など不要である。いっぽうで、対人関係というのは、常に仕事でも学校でも問題の上位になるのだから、本当は誰しも、絶望をかかえているのだ。
愛とはなにか
仏教的には、愛は執着から起こる、そして愛は触れることで、感覚器官によっておこる。
人間なら誰しも愛をもっているという前提、まぁそれはそうとして、なにかを自分のものにしたいという思い、その抽象化されたものが愛である。
あるときは、僕は、愛とは性欲のことだ、ととらえた。それも一面であるが、例えば親の子供への愛とか、性愛をこえたものを表現するならば、執着こそ愛であるといっていいだろう。
結婚制度と愛
結婚とは、社会制度であり、別に感情は関係しない。
ゆえに、制度自体のしばりが希薄になった現代において、離婚率がさんぶんのいちなのは、何もめずらしいことではない。
子供をつくらないといけないとかいう周囲の強制もほとんどないことだろう。
財産分与とか、相続とか、それら社会制度としての機能をはたすための便宜手段である。
ところで、愛とはなにか?
ホルモンバランスとか生物学的な要素
遺伝子レベルで一致すると、匂いでひかれあうらしい。
ひとめぼれとか、ロマンスである。
しかし、セックスが気持ちいいのはよいことだろうが、偶発的な感覚において、ひととひととの関係は、どこまで維持できるのだろうか。
家庭とはなんだろうか。役割分担、なんのため?
生きるため。
では、何故その人とともに生きるのだろうか。
結局人生プラン
結局のところ、自分が何のためにどのように生きるのか、それがポイントにしか、いまの私は思えない。
死にたくないというのが、希望であるわけではなく、むしろ死すら希望になりえない状態が、死に至る病におかされているという、いわゆる絶望である。
絶望は誰しも抱くゆえに、神の信仰こそが救いである、ただ、ここでの神は、大きなゆういつしんではなく、個個人が一対一で向かい合う、心の拠り所となる存在であるという。
それを、恋愛に対して求めて、失敗し絶望したのが、北村透谷である。
僕も女性に審美を求めたこともあったが、やはり人間は人間でしかなく、いやむしろ、それをするということは、自分自身の内にある信仰心そのものの、もはや偶像崇拝である。
といった表現をしていると、離婚して自暴自棄になっている、と感じられることだろうが、そうではないのだが、冒頭の理解可能性という部分で、もはや一切伝わることはありえないのである。
ともかく、自己の内にある真実、永遠なるもの、拠り所になるもの、それがすなわち、キルケゴールのいう神なのである。
神さまの探し方
こんな表現で本を出したら、宗教コーナーに割り振られるだろう。
いやいや、そうじゃないんだ。
むしろ、哲学、自己啓発、いや、生き方、雑学、そんなものである。
ただ、あながち、宗教じゃないかといえば、単に宗教という言葉が日本人にうけが悪いので、わざと否定しているだけで、ある意味宗教といってもいい。それは、資本主義が宗教だという表現レベルのものである。
でまぁ、そこらへんは今は重要ではなく、その神様ってどこにおるんや、ということだ。
時間切れなので、それはまた次にしよう。
私は何故生きるのか、その長年の問いに答えてみる。
死にたくないからだ、という理由は、消極的でありながら、人間の本能である、生きたい、知りたい、仲間になりたいという欲求にもとづくものであり、何ら不足するものではない。
一方、人間を精神的な存在、自己をもつ存在として、その他動物と区別するのであれば、その答えは不足である。
ある名前をもった、個人としての存在を規定したとき、人間一般の理由でも不足である。社会のため、会社のため、家族のため、子供のため、それらはすべて尊いものだろうが、今回の問いは、それら一般の理由ではなく、個人としての、一人の自分としての、自己の理由である。
それは、例えば、家族のため、という答えが、誤りであるのではない。問題は、その答えが、心のそこから沸き上がる、実感としての強い欲求なのかどうか、その具体性が重要なのだ。
いま、たまたま、離婚という経験をし、すべてとはいえないが、大きな生活の一部を失い、一方で衣食住の安定はみたされているため、考えるための時間と場所はつくられている。
まず、本当は、この状況自体すばらしく貴重で、様々な人に感謝すべきであることを強く実感するべきだ。
ただ、食べて寝るだけの生活が、決して人としての幸せではないことーー幸せとはなにか、これ自体重要なてーまだ。ただ、この記事ではふれないーーは、人間を精神的な存在として考えているため、明らかである。
さて、では、その沸き上がる強い実感を、その声をきくためには、何が必要か。
インプットが必要である。
経験が必要である。
ただ、それらに、流されるのではなく、その体験ごとに、自分の内面をみつめ、声をきくことに注視するのである。
経験やインプットのもとになる行動の指針は、具体的に紙に書き出してみるとよい。
それは、ブレーンストーミングとして、これは無理そうだとか、批判はいっさいやめにしなければならない。
そして実行し、その結果を振り返ってみるのだ。
そうと決まれば、これ以上この記事に価値はない、実行にうつろう。
お前は何故生きているのか
死にたくないからだ、という理由は、消極的でありながら、人間の本能である、生きたい、知りたい、仲間になりたいという欲求にもとづくものであり、何ら不足するものではない。
一方、人間を精神的な存在、自己をもつ存在として、その他動物と区別するのであれば、その答えは不足である。
ある名前をもった、個人としての存在を規定したとき、人間一般の理由でも不足である。社会のため、会社のため、家族のため、子供のため、それらはすべて尊いものだろうが、今回の問いは、それら一般の理由ではなく、個人としての、一人の自分としての、自己の理由である。
それは、例えば、家族のため、という答えが、誤りであるのではない。問題は、その答えが、心のそこから沸き上がる、実感としての強い欲求なのかどうか、その具体性が重要なのだ。
考えるための方法とは
いま、たまたま、離婚という経験をし、すべてとはいえないが、大きな生活の一部を失い、一方で衣食住の安定はみたされているため、考えるための時間と場所はつくられている。
まず、本当は、この状況自体すばらしく貴重で、様々な人に感謝すべきであることを強く実感するべきだ。
ただ、食べて寝るだけの生活が、決して人としての幸せではないことーー幸せとはなにか、これ自体重要なてーまだ。ただ、この記事ではふれないーーは、人間を精神的な存在として考えているため、明らかである。
さて、では、その沸き上がる強い実感を、その声をきくためには、何が必要か。
インプットが必要である。
経験が必要である。
ただ、それらに、流されるのではなく、その体験ごとに、自分の内面をみつめ、声をきくことに注視するのである。
経験やインプットのもとになる行動の指針は、具体的に紙に書き出してみるとよい。
それは、ブレーンストーミングとして、これは無理そうだとか、批判はいっさいやめにしなければならない。
そして実行し、その結果を振り返ってみるのだ。
そうと決まれば、これ以上この記事に価値はない、実行にうつろう。