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エセポジティブ思考に苛立つ
2016/05/27 00:08 | 生きる意味
他者がどう感じるかは全く関係ない、それは、単なる僻みである。

ただ、きれいな側面だけの文章が、どうしても受け付けられない。

ひん曲がった性格なのだろうか、いやこれは恐らく、経験と環境によるものだと思われる、いな、元来の性格なのかもしれない、問題はここではない。
例え、自分の性格が元来のものであろうが、後天的なものであろうが、そもそも、その性格というものは、環境に応じて変化しうるものであって、固定的に、例えば「社交的」だとか「落ち込みがち」だとか、それらの表現で表せる程度の物であれば、そもそも問題になどならないのである。

と、何を書き始めるのか全く分からない文章というものが、果たして価値があるかというと、ないと思う。

だからこそ、こうやって傍若無人というか、気ままに、思いつくままに書き連ねたものが、「面白かった」と、わずかばかりの人ではあっても、言ってもらえたことは、本当に心底うれしいことであったのである。

それらの記事が、では、すべて感動(少しでも感情が発生)させることができたわけではないだろうが、とてもとても、うれしいことなのである。

健康でお金があって友人に恵まれてエトセトラ

まず、生きる意味、と検索すると、いままさに落ち込んでいることが前提とされている。

果たしてそうだろうか。
例えば、宮台真司の「この世からきれいに消えたい。」という、20代前半の若い男性が、自殺したルポルタージュがある。
僕は、その本の序盤の書き出しにおいて、「ああ、そうなんだ、この得体のしれない生きづらさってものが、それこそ小学生ぐらいのときから纏わりついていたんだ」と感動したものだ。

ところが、ショックを受けたのは、その自殺した少年が、実は彼女がいたことである。そして、彼の死を彼女は悼んで哀しんでくれているのである。

「おいおい! まってくれよ、彼女がいて、イケメンのくせに、自殺なんてもったいないことしやがって!」
と、思ったかはあまり覚えていないけれども、当時彼女がいなかった自分としては、どこか違う世界の人間に思えたわけだ。

そこで僕は思った。
所詮、僕が生きづらいとか、人生に生きる意味を見いだせないとか嘆いていたとしたって、所詮、彼女がいなくてひがんでいる童貞野郎じゃあないか、と。

これでは、「絶望」なんて言葉はつかえない。誰かに認められない、彼女ができないという承認欲求が満たされないでウジウジ悩んでいるだけなのだ、と。

満たされるものを得たのちに考えるべきこと


上に書いてきたエピソードは、いつものごとく、脚色している気がする、とりあえず、本を購入した時期などから考えても、時系列はてんでバラバラだ。ただ、エッセンスとしては、以下のことである。




つまり、何か満たされなくて悩んでいるうちは、まだ本当に希望をなくしたわけではない。満たされるべき、理想とするべきものが存在しているにも関わらず、それが遠くにいってしまった、又は得ることが困難であることが、耐えがたい諦念を生じさせているだけなのである。

それは主に、身体的な面や、恋といった事象によく起こり得ることだ。
いわゆる思春期に、自分の顔を嫌悪したり、初恋の人が他の男と付き合ったりしたり、大変な苦痛なのである。

ただ、それらは、まだ代替欲求により満たすことができるものである。

いやもちろん、ここで賢明な読者諸氏は(とかかっこつけた表現をしていると、後で読んで赤面するのであるが、頗るミスをして落ち込んでいることを紛らわすためにも思いつくまま書いていこう)、「秒速5センチメートル」などの作品を思い浮かべるに違いない。
この作品は、初恋の人をずっと忘れられずに、七転八倒し、就職するものの無為な時間に辟易して結局会社を辞めちゃう話だ(悪意のあるあらすじ)。


「初恋」が成就するかどうかで、その人の人生は決まるといっても過言ではない。
(とは、今の時点で思っていないが、この文脈の流れでは、そう書かざるを得ないのである)


ただし、初めて好きになった人と結ばれるという体験がなくても、大抵の人は、他の誰かを好きになり、いちゃいちゃ楽しく生きていくものなのである。

なので、所詮は、彼女ができないとか、就職がうまくいかないとか、友人ができないとか、顔が悪いとか……いやこれは大きな問題なのだけれども、それでも、何か自分自身の中で問題が認識されているうちは、それは「絶望」とはいえないのである。

絶望とは何か

キルケゴールさんの言葉を借りると、絶望とは死に至る病である。
同名の著書は、岩波文庫の訳は難しいので、
こちらの、ちくま学芸文庫の『死に至る病』をお勧めする。
ポイントは、死に至る病とは、その文字のごとく、死んではいないが、十分に生きているともいえない状態であるということだ。
「死」が希望にすらなりえない状態、それが死に至る病である、という。

生きる意味を考えるということ

ここで話しを一気に核心にもっていきたい、まぁ失敗しても構わない、このブログにおいては、まさに、思考の過程を書き連ねることが目的であって、ワードプレスとかで綺麗にエッセンスがまとめられたような、読者数、というよりもPV数を稼いで副収入にすることが目的のものではない。

もちろん、僕の性格上書かなくてもいいような、ことを書いてしまうのだけれども、では、僕がお金がいらないかというと、そういうわけではない。もらった方がうれしい。いやむしろ、自分が書きたいように書いて、それが評価されてお金までもらえるなんて、もう最高に楽しい、そんなことになったら、それが「生きる意味」にでもなってしまいそうだ。

ただ、そんなことはない。いや、書き方を変えれば、つまり、エセポジティブ思考のように表現することによって、あとはレイアウトとか、SEO対策とか頑張れば、それなりの成果はあげられるだろう。

ただ、それを目指すブログではない。気持ち悪いような、よく分からないような、話しが脱線するような、そんなぐちゃぐちゃしたものである。

むしろ、そこにこそ価値がある、その価値は、万人に対してでは、決してない。


さっそく話がそれているけれども、生きる意味を考えること、それは何のために必要なのか。
むしろ、いまこそ、考えるべきことであると、それは確信する。


8つの人生の輪という考え方がある。

1.仕事・キャリア
2.健康
3.自己啓発・学び
4.恋人・家族
5.友人
6.物理環境・時間
7.富
8.趣味

これらが、全体的に高まっていくことが、人生にとって重要なのだ、というわけだ。

では自分は、といったとき、今現在離婚したという状況であるけれども、それほど全体的に悪いわけではないのだ。

総じて恵まれているといってよい。それは、下を見ればきりがなく、上をみればきりがない、というレベルではなく、所詮は、自己満足の、人生ゲームなのだから、という達観でもなく、だいたいまぁまぁ満たされている、というわけなのだ。


ここら辺の記述は、いくら精緻にしたとしても、主観の域をでないし、前の記事で書いたように比較の罠に陥ってしまえば話は一切進まなくなるから、未来の自分でも他者でも、自分の現状に合わせて「そういうものだ」と思いながら考える必要があるけれども、大体恵まれているにも関わらず、生きがいというものを見いだせなくなる事実、この事実の存在を認識する必要があるのだ。

これは、言葉にして誰かに言うと、傲慢極まりない不遜な奴だということになって大変危険な、門外不出の真言であるのだけれど(かっこ笑い、と入れたくなるほど大げさな記述であるが、果たして、このいわば笑いを、どこまで他者に伝えられるか、これは本当に心が折れることであるのだけれども、これらも一切話の主旨とは関係ない)、いわゆる一般的な自己啓発とか、宗教とか、友人や家族の言葉とか、尊敬する先輩とか上司とか、メンターとか、他者との交流においても、どうしても、自分の心の奥底に残る滓(オリ:ゴミ・カス)のようなものを感じる人は、上に書いたような事象が、認められないという矛盾に陥っているからである。

簡単に記述を試みれば、もっと大変な人はいるんだから、貴方は幸せなんだよ、という励まし……。
これは結局、前の記事に書いた、比較の危険、と同じことにしかならない記述だが、それでは書ききれていないと思う。

あるべき、理想とする自己に、現実がおいついていない状態……これも僕のいつもの表現であり、目新しさはないのだけれども、いわゆるこれが「不幸」という言葉の定義である。



30分が過ぎてしまった、今日はここまでにする。
とかく、この記事では、「エセポジティブ思考」に苛立ちを覚えた、というメモだけできたので、十分であると考えよう。
この言い訳がましい記述こそ、むしろ本来の意味でのポジティブ思考なのだけれども、まだまだこの辺りは書ききれない、表現しきれていない、気がする。

少なくても、もう少し、書き連ねないことには、これから先、再び結婚するか、子供を育てるか、一人で生きるか、それとも死ぬか、すべての選択肢を考えつつ、選び取るまで至ることができなそうである。

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