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一つずつ実感できる答えを創っていく
2016/05/05 06:13 | Comments(0) | 生きる意味
幸せとは何か。
愛とは何か。
生きるとは、人生とは何か。
コミュニケーションとは何か。

様々な事柄に対して、繰り返しでも構わないから、自分が実感してきて、「正しい」「真実」と思える、強く感じられることを、メモしていく。

幸せとは何か

理想自己と現実自己の乖離が無い状態である。
すなわち、なりたい自分になれていること、それが幸せといえる。
中古書店で、ある外科医の新書にあったが、幸せのハードルは可動式であるということ。
がんになってよかった、と、例ではあがっているけれども、そこまでの心境にいたるには、相当の訓練、修業が必要だと思われる。
私のような凡人――この凡人という言葉も、よくよく書いておかなければ、たぶん誤解のもとになるだろう――においては、神や仏のレベルに至ることを目的としてはならない。もちろん、なってもいいのだけれども、それこそ、高すぎる理想は、不幸を呼び寄せることになる。

同時に、本当に望んだことというのは、必ず実現するように、世界はできていることも忘れてはならない。
こんなことを書くと、怪しげな宗教に思われるだろう、だから、この辺りも注意して書いていく必要がある。
そもそも、「本当に望んだこと」という定義が、あやふやでしかない。この辺りも、注意深く書いていく必要があるだろう。

ああ、やるべきことが、書くべきことが、それらはほとんどが「前提」となることなのだけれども、多い。

まず、この記事では、「理想自己」と関係させ、自分の望むことを掘り下げていくことを目標にしよう。

理想自己とは何か?


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人の本質は光であるか我執であるか
2016/03/07 01:31 | Comments(0) | 生きる意味
時間がないため、できるだけ簡潔に。

キングダムを40巻まで読む機会があった。その際に、後の始皇帝と実権を握る大臣との対話。

大臣は、人の本質は我執であり、天下とは金(貨幣制度)であるという。そして、戦争はなくならず、国を豊かにすることが大事だという。自国が豊かになれば、周りの国からも人が流れてきて、富を循環させる仕組みを作るという。

一方、始皇帝は、人の本質は「光」であり、戦争はなくならないというのは人間への諦めだ。人は光をもっているから、よりよい世界に変えていく力がある。だから俺の時代で戦争は終わらせる。その方法は武力でだ。

結局、二人の弁舌は、お互いのもつ「前提(人に対しての理解、考え方)」があまりにも違うため、これ以上対話をしてもお互いが納得することはないだろうと、終わりになる。

戦争はなくならないというのと、戦争は終わらせることができるという考えと、そういった面の違いもあるけれども、僕が思ったのは、その、「終わらなさ」であった。

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生きる意味を考える上で重要なこと
2016/02/06 22:46 | Comments(0) | 生きる意味

あるべき姿

十二縁起ぐらい諳んじて言えない状態で、「僕って何」とか「生きる意味とは」とか「正義とは」とか、片腹痛い。
仏教でなくても、キリスト教でも、何だっていいが、インプット(知識)がなくては、考えることなどできはしない。

インプットとは、暗記だ。そして暗記とは、自分の「実感できること」をベースに、言葉を作り出せることである。
一字一句覚えることではない。学校のテストでも、イイハコつくろう鎌倉幕府、との知識、記憶が必要なものは少なくなっているに違いない。かといって、年号を覚えることを軽視するわけではない。ただ、人生どうあるべきか、を考えるときに、それほど重要ではないというわけだ。

またくだらなく長くなるかもしれない、タイトルからして、結論は、「重要なのは、記憶である」ということだ。
つまり、勉強しなければ、苦悩がなくなることは無い、といってよい。もっとも、人生とはすなわち苦悩なのであって、四諦と八正道をもってして、悟りを得るしか道はないのだ、という考え方もある。
四諦とは何か。四諦、という言葉の記憶、それだけでは役に立たない。それは、「実感できる言葉」になっていないからだ。

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知性と死について戯れでありながら重要なこと
2012/11/15 18:47 | Comments(0) | 生きる意味
本を読むために必要な、透明ふせんがなくなったため、時間を日記を書くことに費やす。

知性とは、自分が知らないこと、できないことを知ろうとする、やろうとすることだ。
実用的(プラグマティック)な知識があれば、生活することはできる。


それだけで十分な人もいる。しかし多くは、孤独になったとき、死を思う。多細胞生物の宿命である。
四六時中人と一緒で、孤独が怖いという人は、死を恐れているのかもしれない。

わたしたちはどこからきて、どこへいくのか。

誰しも思うことだが、怖いから口にしない。口にする人は、鬱だ変人だと斥ける。

大人はポジティブであるべきで、自分の生きる意味を知っているとされる。宗教、民族、祖先、コミュニティー、イデオロギー、国家、会社、金……。
例をあげればきりのない、「神」という概念の中身。過去の歴史は、中身の入れ替わりは、幾度となく革命的に変化した。
しかし、構造主義、構築主義の台頭により、「神は死んだ」のだった。


ニーチェの超人や、ハイデガーのダーザイン。哲学は、神の代わりに、「個人」を提示した。
しかし、結果は散々だった。

人はそれほど賢くはなかった。今のところは、無自覚に「資本主義」を肯定するもの、消去法として「資本主義」を追求するもの、スローライフに憧れるものの、3パターンである。

無自覚な資本主義肯定派は、今後減っていくので気にしなくてもよい。消去法で選択する派も、既存の概念があるからよい。問題はスローライフ派だ。

スローライフとは、つまるところ、自分らい生き方だ。
しかし、自分らしさとは、形容矛盾ながら、他者が存在しないことにはありえない。奇抜な考え方や行動をしようが、無限の相対化により、それらは意味をなさない。
自給自足が至高とする。カンボジアのポル・ポト政権は、知識人を抹殺した。

現実は、物理法則に従う。資源は限られる。正義とは、限られた資源を正当に分配することだ。
かつて日本のその正当性は、努力の多寡であった。努力は誰でも平等に実行できることだという幻想のもと、日本の企業は発展した。
成果主義は、安定をとりはらった。努力しても、そのことが評価の対象ではなくなった。自分の行動が、神である「金」に結び付くとは限らなくなった。

そこまで神(=金)をあがめなくてもいいか。

これがスローライフである。


この考え方がいきつくのは、生活を成り立たせる知識である。知性から乖離している。
そうだとしても、やはり、僕たちは、何故生きるのかを、孤独になったとき考えないわけにはいかない。


こうした不安が、年間3万人の自殺につながってはいないか。もちろん、大半は、経済的理由による。そうだとしても、何故、経済的な理由程度で、死を選ばなければならないのか。
死を選んだ人は、自殺が人生の目標だったのだろうか。違うはずだ。にもかかわらず死んだ。経済的理由をこえるだけの、生きる意味を見いだせなかったからだ。

歳をとるほど、考えることができなくなる。悩むのは、よい上司ではないし、大人としてカッコ悪い。


ただし、自分の神(宗教だけでなく、例えばお金など)を知らなかったり、個人(自己啓発)のみが意味であったとき、現代人は、昔ほど幸せそうな顔で死ぬことはない。

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80年代ローリング族
2012/11/03 10:21 | Comments(0) | 生きる意味
80年代、今から30年前、僕が生まれた時代。
僕の先輩たちは、こんなことをやっていたんだ。

夢を失った時代に若者は~

といったナレーションがあるが、大澤真幸氏の時代区分を持ち出せば、戦後1945年から、70年代までが理想の時代、95年までが虚構の時代、そして今は不可能性の時代ということになる。
1983年はTDL(東京ディズニーランド)の開園。

理想を失い、虚構(夢)に生きた時代。
それでも、若者の一部は、夢なんか見られなかった。むしろ、不可能性の時代にあるような、現実を極限化した現実を、ここでいえば、コーナーに猛スピードで突入するような、危険こそが「現実(リアル)」と感じていたのだろう。


時代区分は、分かりやすい考え方だけれども、アンダーグラウンドな世界や人々を持ち出せば、途端に分かりにくくなる。
しかし、時代に通底する変数Xを考えることは無駄ではないと思う。村八分にされるような人が、今の時代は成功者になったりもするのだ。





PDさんの作品において、実力とは、「才能」「努力」「運」の総合ということだ。
理想の時代、虚構の時代では、「努力」に重きが置かれていた。その努力とは、勉強ができることを指していた。
それも、1970年代後半から、いじめ・校内暴力が起こるようになる。
詰め込み教育の弊害と言われるが、ホントに勉強ができるやつが偉いのかよ、という疑念の顕在化かもしれない。




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