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生きる意味を考える上で重要なこと
2016/02/06 22:46 | Comments(0) | 生きる意味

あるべき姿

十二縁起ぐらい諳んじて言えない状態で、「僕って何」とか「生きる意味とは」とか「正義とは」とか、片腹痛い。
仏教でなくても、キリスト教でも、何だっていいが、インプット(知識)がなくては、考えることなどできはしない。

インプットとは、暗記だ。そして暗記とは、自分の「実感できること」をベースに、言葉を作り出せることである。
一字一句覚えることではない。学校のテストでも、イイハコつくろう鎌倉幕府、との知識、記憶が必要なものは少なくなっているに違いない。かといって、年号を覚えることを軽視するわけではない。ただ、人生どうあるべきか、を考えるときに、それほど重要ではないというわけだ。

またくだらなく長くなるかもしれない、タイトルからして、結論は、「重要なのは、記憶である」ということだ。
つまり、勉強しなければ、苦悩がなくなることは無い、といってよい。もっとも、人生とはすなわち苦悩なのであって、四諦と八正道をもってして、悟りを得るしか道はないのだ、という考え方もある。
四諦とは何か。四諦、という言葉の記憶、それだけでは役に立たない。それは、「実感できる言葉」になっていないからだ。

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知性と死について戯れでありながら重要なこと
2012/11/15 18:47 | Comments(0) | 生きる意味
本を読むために必要な、透明ふせんがなくなったため、時間を日記を書くことに費やす。

知性とは、自分が知らないこと、できないことを知ろうとする、やろうとすることだ。
実用的(プラグマティック)な知識があれば、生活することはできる。


それだけで十分な人もいる。しかし多くは、孤独になったとき、死を思う。多細胞生物の宿命である。
四六時中人と一緒で、孤独が怖いという人は、死を恐れているのかもしれない。

わたしたちはどこからきて、どこへいくのか。

誰しも思うことだが、怖いから口にしない。口にする人は、鬱だ変人だと斥ける。

大人はポジティブであるべきで、自分の生きる意味を知っているとされる。宗教、民族、祖先、コミュニティー、イデオロギー、国家、会社、金……。
例をあげればきりのない、「神」という概念の中身。過去の歴史は、中身の入れ替わりは、幾度となく革命的に変化した。
しかし、構造主義、構築主義の台頭により、「神は死んだ」のだった。


ニーチェの超人や、ハイデガーのダーザイン。哲学は、神の代わりに、「個人」を提示した。
しかし、結果は散々だった。

人はそれほど賢くはなかった。今のところは、無自覚に「資本主義」を肯定するもの、消去法として「資本主義」を追求するもの、スローライフに憧れるものの、3パターンである。

無自覚な資本主義肯定派は、今後減っていくので気にしなくてもよい。消去法で選択する派も、既存の概念があるからよい。問題はスローライフ派だ。

スローライフとは、つまるところ、自分らい生き方だ。
しかし、自分らしさとは、形容矛盾ながら、他者が存在しないことにはありえない。奇抜な考え方や行動をしようが、無限の相対化により、それらは意味をなさない。
自給自足が至高とする。カンボジアのポル・ポト政権は、知識人を抹殺した。

現実は、物理法則に従う。資源は限られる。正義とは、限られた資源を正当に分配することだ。
かつて日本のその正当性は、努力の多寡であった。努力は誰でも平等に実行できることだという幻想のもと、日本の企業は発展した。
成果主義は、安定をとりはらった。努力しても、そのことが評価の対象ではなくなった。自分の行動が、神である「金」に結び付くとは限らなくなった。

そこまで神(=金)をあがめなくてもいいか。

これがスローライフである。


この考え方がいきつくのは、生活を成り立たせる知識である。知性から乖離している。
そうだとしても、やはり、僕たちは、何故生きるのかを、孤独になったとき考えないわけにはいかない。


こうした不安が、年間3万人の自殺につながってはいないか。もちろん、大半は、経済的理由による。そうだとしても、何故、経済的な理由程度で、死を選ばなければならないのか。
死を選んだ人は、自殺が人生の目標だったのだろうか。違うはずだ。にもかかわらず死んだ。経済的理由をこえるだけの、生きる意味を見いだせなかったからだ。

歳をとるほど、考えることができなくなる。悩むのは、よい上司ではないし、大人としてカッコ悪い。


ただし、自分の神(宗教だけでなく、例えばお金など)を知らなかったり、個人(自己啓発)のみが意味であったとき、現代人は、昔ほど幸せそうな顔で死ぬことはない。

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80年代ローリング族
2012/11/03 10:21 | Comments(0) | 生きる意味
80年代、今から30年前、僕が生まれた時代。
僕の先輩たちは、こんなことをやっていたんだ。

夢を失った時代に若者は~

といったナレーションがあるが、大澤真幸氏の時代区分を持ち出せば、戦後1945年から、70年代までが理想の時代、95年までが虚構の時代、そして今は不可能性の時代ということになる。
1983年はTDL(東京ディズニーランド)の開園。

理想を失い、虚構(夢)に生きた時代。
それでも、若者の一部は、夢なんか見られなかった。むしろ、不可能性の時代にあるような、現実を極限化した現実を、ここでいえば、コーナーに猛スピードで突入するような、危険こそが「現実(リアル)」と感じていたのだろう。


時代区分は、分かりやすい考え方だけれども、アンダーグラウンドな世界や人々を持ち出せば、途端に分かりにくくなる。
しかし、時代に通底する変数Xを考えることは無駄ではないと思う。村八分にされるような人が、今の時代は成功者になったりもするのだ。





PDさんの作品において、実力とは、「才能」「努力」「運」の総合ということだ。
理想の時代、虚構の時代では、「努力」に重きが置かれていた。その努力とは、勉強ができることを指していた。
それも、1970年代後半から、いじめ・校内暴力が起こるようになる。
詰め込み教育の弊害と言われるが、ホントに勉強ができるやつが偉いのかよ、という疑念の顕在化かもしれない。




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思想(生き方)について
2012/02/23 23:00 | Comments(0) | 生きる意味
東浩紀とか、宮台真司とか、大澤真幸とか、好きな思想家がいる。

彼らの考える世界が、自分にとってよいものなんだろう、そう思えるからだ。

とはいえ、そうしたすごい人であっても人なのだから、完全にその人の思想が実現したとしても、それが普遍的幸福なものとは限らない。

さらに、その人の思想を完全に理解することも不可能である。

最近仕事をしていて思うのだけど、人の理解は本当に曖昧だと思う。
言葉を突き詰めていけば、実は勘違いがあったり、分かってなかったりということが往々にしてある。


だから、ある特定の人を盲信するのは思考停止である。カリスマヒーローなど、複雑化したこの世にもはや存在しないのだと、誰しも銘記すべきである。

橋下氏がなんでも知っている救世主で、すべて正しいことをするわけではないのだ。


だからこそ、対話を、できるだけ多くの人と重ねることが重要である。

そのことを、東氏はルソーを援用して一般意志2.0と呼んでいる。



僕は、それに、「人は所詮分かり合えない」というニヒリズム的な、というより中2病的な感覚に答えてくれるものだという気がした。

けれども、それはやはり、感情レベルのものである。


しかし思うのは、もはや真理が存在しない世界においては、感情の総和こそが代替の意志なのではないかと。

みんながそう思えば、それが正しいことなのだと、それはまさに思考停止のようだがそうではない。

むしろ、だからこそ、自分はこう考えると表現できる者が、それは理系文系かかわらず、重要になるだろうということだ。




詰め込み教育が批判されて久しいが、多くの人間を説得するには膨大な知識が必要という意味で、詰め込みは重要なことになるだろう。

いくらネットの検索性が向上しても、絶妙のタイミングで言葉を紡げる人の方が、説得力がある、すなわち感情を動かす能力があるということだ。


そう考えると世界は少しだけ分かりやすい。
結局人は、論理を用いて感情的な安定を望んでいるのだ。

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残り僅かな日数の中で
2011/12/28 00:36 | Comments(0) | 生きる意味
忙しくて今日も今が帰りという事態だが、思うに、忙しい状況に陥ることがミスであり、能力不足という認識はある。

下請け会社をいじめてグレーゾーンに買いたたきしわ寄せがくるという事態に、下請け会社に非はないといいたいが、個人レベルでは、その会社に就職したことがミスである。


思うに、事象を他者のせいにする人間ばかりである。

環境も含めて自分の責任とする。
そうした主体性がない人ばかりである、そうした批判もまた他者のせい環境のせいにするその他大勢と同じである。


津波は防げなかった、ということを政府がいってはならないが、個人がいうのは自由とすることもできる。


思うに、戦国時代と思うのだ、下手な君主に仕えると、個人の裁量むなしく打ち首となる。

三国志などでは忠臣が美しく描かれるが、実際問題弱小劉備に仕えるのはリスクでしかない。


とはいえ、ここで短絡的に戦国時代と現代の戦国時代を比べてはいけない。ワーカホリックとの言葉はあれど、武人の最高の死に場所は戦場なのだ。

戦で死ぬ価値観が本当に普遍的な時代があったのかは分からない。とはいえ、自分の尻拭いを配下の首をはねることでとる者もいるし、同じようにも思える。


ところで現代の武器は、蛇矛ではなく言葉であり情報であるが、人脈が重要なのはいうに及ばない。

結局一旗あげるのは、個人の能力ではなく、大きな潮流に思える。

だから、中卒でも年収何億とかいうのはあながちでもない。


みもふたもないが、バランスに過ぎない。ルックスも声も、親の名声も、頭の良さも体つきも、笑顔の上手さも価値観や考え方、感情さえも、すべて構成要素にすぎない。

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