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タイトルを変えるべきか孤独な戦い
2016/06/06 21:00 | Comments(0) | 生きる意味
理屈っぽいところは、相性があるが、生きる意味とかその辺の話は、相手によっては気持ち悪いと感じる。
みんな考えていることだけど、いざ言葉にすると、気持ち悪いと感じる。

と、友人(果たして継続できているのか)から言われた。
数少ない本音以上の部分で会話できる相手なので、失うと痛手であるけれども、上のような感想というか知見をもらえたことは、有意義であった。


出会いの場、というのも、別れた話を大っぴらにして、笑いながら話せば、次の機会をと提供してくれる方にも新しく出会うことができる。

こういった書き方をすると、先の記事で想定した30才の男性からは、リア充死ね、的な扱いになり、一切僕の言葉が響かなくなることは明らかであって、ここにおいても、表現のたリナさには、頭を抱えるばかりである。

笑顔の裏にある哀しみや絶望に気づいてくれる人はいないのだ、……と書いていけば、これはこれで、対面コミュニケーションの相手には得たいの知れない気持ち悪い人間、サイコパスのように捉えられるだろう。

この表現の可能性、という面で、どうにもこうにも、言語的な限界性を感じてしまう。
と書くと、これはこれで、何をかっこつけてるんだ、となるし、もうどうにでもなれ、となる。


言ってはいけない



とにかく、役に立つ文章をかきたいのだ。
言ってはいけない

という書籍を読んだ。これは、性的な役割分担とか、知能の遺伝性とか、犯罪の遺伝とか、女も実は複数の男との性交を望んでいるとか、時おり嫌悪するようなことが書かれている。

僕は別に特になにも感じることなく、ではないが、特段突拍子もないとか、大発見!とかいう感覚はなかったけれども、あぁ、なるほど、僕のつくりだす言葉というのも、同じように受け入れがたい面があるのかもしれない、それを感じることができたことで、有意義な書物だった。800円ぐらいの価値は十分だ。

そうすると、役に立つ、という目的からはずれていると感じざるをえない。
これはかなり苦痛なことだと思う。ゆえに、本当に、ある二人の読者さんには、感謝というよりも、救われたという表現がぴったりなのだ。



孤独な戦い



ゆえに、本来的には、このblog含めた生活全体が、孤独な戦いにならざるをえない。

本来的というのは、人はみな一人で生まれて一人で死ぬのだ、という標語的なものではなく、求めるものの無意味性との戦い、という水準になる。

これは、もう本当に怖いもので、下手をしたら、悪魔との謗りを受けかねない。

当たり前で、嫌な思いをさせることを信奉するというのは、社会的にも生理的にも、排除されるべきものである。


例えば、科学が、果たして真理を目指しているかは疑問であり、いわゆる人類の幸福、というものを前提にしていることは明らかである。


そこから外れたことを望み、構築することは、せいぜい、憲法で思想信条の自由が保障されている程度の、保障しかない。

本来的には、唾棄すべきものとなる。
 

善なるものの肯定が善か



アンダーグラウンドが排除されるべきかというレベルと、僕の行為、思考がそもそもそれに当たるのか、という二重、の意味で、反論というか、疑義をつくることができる。


今回は、冒頭の友人(仮)の、意味に対する思考への見解のメモができれば成功だと思う。

孤独な戦い、という実感がえられたこともメモできたことで、十分だ。

スターバックスのストロベリーフラペチーノ美味しかった。

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