忍者ブログ
   
博打と株式投資の違い
2017/07/15 08:08 | Comments(0) | 学習勉強インプット
今日の一言「ギャンブルは好きではない」「乾坤一擲ってギャンブル?」

ギャンブルとは何か

 競馬、宝くじ、パチンコ、博打、賭博、カイジ……。

 僕は、ギャンブルが嫌いである。理由は、三つ。

1.運が弱い
2.例え利益が得られても継続しない
3.ドキドキするのが別に楽しくない

 競馬とか行ったことはある。ビール片手に、お馬さんが走るのを見るのは楽しかった。数千円負けて、数千円勝った。まぁ、ネカフェとかと比べて、時間対費用で考えると、別に悪いものじゃない気もした。

 パチンコも行ったことある。うるさくてイライラした。金属玉がピコピコはじかれて画面のルーレットが回った。あんまり楽しくなかった。どう考えてもゲームとかやってた方が、「ゲーム性」として楽しいと思う。お金がかからずとも、単純にあれを楽しいというのは如何なものか。まぁ、競艇や競馬や宝くじはまぁよいが、パチンコは、収益構造が気に入らないというのもあるだけかもしれないが。

 僕は別に誰がどんな趣味をもっていたとしても否定しない。とあるブログさんで、「ボーイズラブ好きなのが彼氏にばれたらひかれた」とか描かれていたが、そんな全然かまわないじゃないか、と思う。

 けれども、ギャンブルが好きです、趣味です、という人はどうだろう。もちろん、それが、身持ちを崩さない程度の、あくまで趣味である分には構わないと思うけれども、あまりお近づきになりたくはないなというのが正直なところだ。
 どうせだったら、道端で女の子をナンパしてお持ち帰りできるかというギャンブルの方が面白くなかろうか。ベンチャー、新しい会社を興すとかいうギャンブルだったら面白いかもしれない。

 そう考えると、そもそも、僕は「ギャンブル」という用語に、どこまでを含めて考えているのだろうか。そして、どこまでは許せて、どこまでは気に食わないと思っているのだろうか。


 本記事の目的と少しずれるので、簡単にまとめておこう。

1.ギャンブルとは、運の要素が強い行為(趣味・娯楽)である。なお、プロ・ギャンブラーという用語もあるかもしれないが、例外として考えないこととする。

2.事業構造が公共の福祉に利するものであれば嫌悪しない。

3.2.に関わらず、趣味の範囲を超えて生活に困窮するレベルで行為に没頭するものを嫌悪する。

株式投資とギャンブルの違いは?

 先日触れた、「株式投資入門――井出正介」の第一章をさかのぼって読む。
 第一章は、株式投資とはそもそも何なんだ、ということが書かれている。

 未だ、多くの日本人は、株式投資は、ギャンブルのようなものだと考えている(※1)

 実際問題、家計の資産(貯金・預金)は、1500兆円ということで、国内総生産(GDP)(※2)の3倍近くもあるらしい。

 よく比較される、個人金融資産の割合の他国との比較について、日本は、約50%が預金であり、株式投資は10%満たないのに対し、アメリカは預金が10%程度に対し、株式投資が30%である。
     日本    アメリカ
株式投資 10%   30%
預金   50%   10%

 面白かったのは、イギリスが、50%を保険・年金が占めていたということだ。なるほど、ゆりかごから墓場まで、というのは、こういうところで数値に表れているんだなぁ。


 ただし、現金・預金を重視していた人たちを、金融の勉強が足りていないとか、馬鹿にすることなど全くできない。
 なぜなら、実際問題、株式投資より現金・預金のほうが非常に合理的な時代が、日本の場合続いていたからだ。

 定期預金の金利が、6%もあった時代があったことを、いま若い人たちは知らないだろう。
 元本が保証され、年利6%の金利がつくというのは、相当魅力的である。それが、90年代からどんどん下げられ始めて、1996年には、1%を切って、株式の配当利回りをしたまわった。

 金利6%なら、1000万円預けていたら、1年で60万円生み出されるのだ。今はどうだ? 先日調べたのは普通預金だったが、0.001%だった。なんじゃそりゃ。暗算すらできない(わらい)。電卓で計算したら、100円だった。ゴミだ。


 時代が、変わったのである。
 預金なんてしていても、お金は一切増えない。しかし、こんな単純なことに、多くの優秀な日本人が気付かないのだろうか? そんなはずはない。何故そんな大きな問題にならなかったかというと、これは僕の推測だが、デフレ(物価が下がること)が起こっていたからだ。いわゆる不況。

 お金が増えなくても、身の回りの物・サービスの価格が低くなっていけば、まぁそんなに生活水準が下がるということはあるまい。
 だから、国や経済界は、できるだけ預金(ストック)を金融市場にまわしてもらおうといろいろ対策をしていたようだけれども、日本人の意識がすぐさま革命を起こすことはなかったのだろう。
 これは、上から目線でも何でもないが、人は、危機に直面しないと、そうそう自分の考えを改めようとしない。僕も同じ。まぁそりゃそうだ。今までうまくいっていたのなら、これからもうまくいくだろうと考えるのは、それはそれで合理的である。わざわざリスクを冒して、間違うことや失敗する可能性があることをする必要もないだろう。


 不思議だなと僕は思っていた。
 不況だ、景気が悪いとか、巷ではみんな言って、経済対策が必要だとか言うのに、みんなうんうんと言いながら、預金が多くて、金融市場にはお金が回らないという。
 景気が良いということって、どういう意識なんだろうか? それって単純に、自分の給料が増えるってことを想像しているのだろうか? 僕は、そもそも、景気がよくなって給料が増えても、物価が上がったら別に生活水準がよくなるわけじゃないのに、なぜそんな「景気をよくすること」が必要なのか、いまいち実感がなかった。その点は、今もない。――話は少しそれるが、そういう意味で、「成長すること」というのが、何故みんな無批判に大切なことなのかと思っているのかというのも疑問なのである。本当に、人類世界の幸福を考えたとき、「成長し続けること」が絶対必要なのか。「ワム」(無限の電力を供給できる)とか資源があるならそうだろう。でも、地球という全体資源が有限であるのならば(そもそも、恒星(自分で熱を発する星)には寿命がある)、そもそも成長し続けることなど考え方として矛盾ではなかろうか(いやもちろん、有限であろうと、使用できる範囲を桁違いに超えていれば、無限として扱うことも可能だろうが)。


 閑話休題。
 株とギャンブルの違い、だったな。
 確かに、先日書いたように、PER(純利益に対して株価が何倍の値段になっているか)は、バブル(1989年)前から50倍程度と高かったが、バブルをこえて、現在は、10倍~20倍の、国際水準に落ち着いているという。
(逆に言えば、これから株を購入しようとするときに、PERが10倍~20倍であるというのが、目安になるだろう。ただし、当然これだけがポイントではない)

 確かに、株は、ハイリスクの、ギャンブル性が強い状態が続く状態があった。バブル後に一気に株価が下がった瞬間など、まさにギャンブルといった感覚を生じさせたかもしれない。
 けれども、日本の証券市場や、国の政策(新会社法とか、NISAもその一つだろう)も、預貯金から、株や保険や債券といった金融資産にシフトさせようとしていることからも、株とギャンブルは異なるといえるだろう。

 もう一つ、違いとしては、ギャンブルは、固有の商品に過ぎない。他の表現を用いれば、再分配に過ぎないということだ。もっと他の表現にすれば、付加価値を生み出さない、ということだ。
 どういうことか。宝くじを例にすれば、くじを、300円で10,000人が購入したとする。3,000,000円集まる。胴元が、100万円ぐらいもらう。200万円を、一等賞の一人に渡す。一人はハッピー、300円が200万円になった。他の9,999人は残念。でも、「夢が買えた」ということで、とりあえず満足する。

 株とギャンブルの違い、という表題にしてしまったが、株・債権・保険・年金に、預金を含めても、金融資産とギャンブルは構造がまったく違うのである。

 金融資産とは、「市場」(しじょう)に流れるお金である。
 ギャンブルは、胴元(国だったり、某店の経営者だったり)が集めて、購入者に再分配する仕組みである。


※1:ような気がするだけ。というのは、株式投資をやっている方のブログなど拝見していると、周囲の人たちの反応がいまいちだと触れられていることが多いからだ。「へー株やってるんだ。それってもうかるの?」と反応はするものの、いざ真面目にやろうとか、勉強しようとする人はあんまりいないということである。そういったフレーズが、いくつかのブログさんで書かれていたので、やっぱりそういった傾向が強いのかなと思ったわけだ。

※2:GDPとは、日本国内で生産された付加価値の総額である。よく比較されるGNP(国民総生産)との違いは、「場所(ドメスティック)」にこだわるか、「人(ネイション)」にこだわるか、である。GDPは、日本人以外が生産した価値も含めるが、海外で働く日本人の生産した価値は含めない。GNPは、海外で働く日本人の生産した価値も含めるが、国内で日本人以外が生産した価値は含めない。
 ⇒って理解してたら、大きく間違っていた。要は、「海外からの純所得」を含めるかどうか、ということで、日本人かどうかは関係ないらしい。――GDPとGNPの違いって?中学生にも分かるように解説!
 例であがってたのが、イチロー選手。彼は日本国籍をもっているが、海外で働いていて、海外で税金を納めているので、GNPにも含まれないということだ。当然、日本のGDPにも含まれない。ポイントは、日本に住んでいる人の所得かどうか、という点。
・GNP=GDP+海外からの純所得
・GDP=GNP-海外からの純所得
 つまり、日本に住んでいる人に対して(国籍問わず)、海外から純所得(給料など)が支払われた場合、そのお金を含めるかどうか、ということ。含める場合は、GNP。含めない場合はGDPということ。
 じゃあ何故GDPが重視されるように昨今なっているかというと、純粋に各国の生産性を見る指標として役に立つからだ。GNPでも、その国の活性状況がみれるかもしれないが、他国がお金を引き上げたときの影響が大きくなるだろう。
 GDPとGNPの併記を各国で比較してみると面白いかもしれない。


まとめ

 あんまり面白い記事じゃあないなぁ。まぁ、学習カテゴリなので仕方がないか。
 でも、本来、学習ってのは楽しいことなんだと僕は思うのだが。

 その、面白くない理由は、上の章の内容は、別に今初めて思ったことでも、初めて学んだことでもないというのが一つ。なんとなく、思っていた感じていたことではあった。ただ、こうやって文章でまとめたのは初めてな気がする。

 そういう意味で、銀行にお金を預けておくというのが、非常に無駄……とは言わないが、眠っている状態であるというのは感じていた。
 ただ、じゃあそれをどう運用すべきか、ということについては、明確に、具体的行動ができるほど知識も、そもそもやる気が出なかったのである。つまり面倒だったということだ(かっこわらい)。ので、多くの人は、「銀行にお金を預けておくこと」が、これからインフレ(物価が上がること)になっていったら、どんどん損(目減り)するんだろうなぁと感じていながら、なかなか金融市場に参画できないのは、「合理的判断ができない」というよりかは、単に面倒である、というのもあるのかもしれない。

 何せ毎日忙しいのだ、誰しも。

 だから、「忙しい」という言葉自体、僕は価値を思っていない。忙しくない人なんて、どこにいるの?
 ――まぁいる。大富豪は資産家は、アーリーリタイアした人たちは、悠々自適な自分の時間を過ごしているのだろう。でもそういう人たちは、逆に、金融市場の仕組みを理解していたか、もともと自身の環境に恵まれていたのだろう(もともとお金持ちの家庭だった)。
 だから、「貧乏暇なし」という諧謔は、なんとも皮肉にも、正しいように思われる。



 でも、別に、僕はいつも書いている(つもり)だが、その「忙しい」というのが本当に悪いことだとも思っていない。
 仕事を、「いやー大変だよね~」といいながら、実は楽しんでいるという人も大勢いるだろう。仕事をすることで、自身を成長させてくれるのだと、そんな風に信じている人も大勢いるだろう。それらは、「すべて」間違ってなどいない。

 別に、どんな生き方も、人生も、正解も、間違いもないのだ。その人にとって正しければ、それでいいのだ。そんなもんだ。万物普遍の真理などない。


 けれども。
 逆に。
 それら、「すべて」正しい故に、「衝突」(コンフリクト)が起こる。
 無差別テロや暴力は、断じて許されることではないが、しかし、「テロリスト」とレッテルを貼ることは簡単だが、それら行為をなす人々にとって、その暴力的行為は「正義」なのである。これが未だ、人類が解決できていない問題だ。
 平和主義者たち。戦争反対を主張する人たち。大いに賛成だ。人同士で殺しあう世界が正しいはずないだろう。けれども、「テロリスト」が、果たして、必ず間違っているといえるのか。
 もちろん、自己の利益や、欲求のみを追求する存在に、正義などなかろう。そういった存在は、「悪」としてよいかもしれない。しかし、その「幸福の範囲」は、自民族や、同じ宗教を信じる者たちに限定されたとしても、それが「悪」だと唾棄し殺戮して浄化してよいというのか。別に、右の腕を切り落とされたら、左の腕も差し出せと言っているのではない。「テロリスト」や危険な国を容認すべきといっているのではない。ただ、正義を主張する者たちを、別の正義で押しつぶすということを、人類は長い歴史で繰り返してきたわけだが、本当にこれからも、同じ方法でやっていくのが「正解」なのだろうか?
 と、自分にとって、あんまし、どうでもいいことを書いてしまった。ただ、こういった点も、ずっと今まで思って考えていたことでもある(愛とは何か、友人とは何かとかいうのと同じぐらいのレベルで)。

 ――そんなことはない、人類は徐々に平和へと向かっているんだ!




 というのが、上の本で書かれているらしいと、先日ふとアマゾンのおすすめに上がってきたので、レビューなどみてみた。面白そうである。しかし、ちょっと高いな……。
 近くの図書館などにおいてないか探してみるか……。


(取りあえず、「株式投資入門」の第一章、第二章は理解しながら読めた。二章の金利計算はまだちょっと難しそうだが……)

拍手[1回]

PR

株式投資の超超基礎(豆)知識
2017/07/09 16:00 | Comments(0) | 学習勉強インプット
今日の一言「今の知識を恥ずかしげもなく公開」「中学生で分かるレベルを目指す」

新しい概念とは何か

 やる気が少し戻ったところで、学習を開始する。しかしまずは、自分の知識体系の整理が必要である。

 最近始めた株についてだ。
 6月の中旬ぐらいから始めて、先週までで、3万円ぐらいプラスになっている。しかし、目的も、投資理論もまったく脆弱なものであって、特に意味がある金額ではない。
 そのため、ある程度は、自分の投資に根拠をもてるようになりたいと思う。マイナスになろうが、プラスになろうが、その根拠を自分の中で理解できるようになるということを目標にするわけだ。
 そのために、まずは、株というものについて、自分の理解していることを、特に何も参照せずに整理していきたい。



 さてしかし、新しいこと(概念)を覚えるということは、非常に難しい。
 そんなことは当たり前だと言われるが、しかし、何故難しいのだろう?

 59873947

 上の、無意味な数字の羅列は、新しいことであるが、覚えること自体はさほど難しくないだろう。
「鬱」という漢字も、覚えようとすれば、さほど時間を書けなくても覚えられるだろう。

 しかし、「概念」となると別だ。
 概念自体も、分解していけば、それぞれ、単一の知識に還元されるものであるが、単なる個々の集合知識ではないことに留意する必要がある。
 社会とは、確かに人の集まりであるが、個々人の思惑とは違った結果を生み出すことがあることは、多くの人が頷くことであろう。卑近な例にすれば、一人一人は良い子なのに、集団になると悪さをするとか。

 では、新しい概念を、どうしたら「覚えた!」「分かった!」ということになるのだろうか。

 それは、トップダウンと、ボトムアップの両方の学習が必要になる。

トップダウンとは

 トップダウンとは、抽象的な知識である。
 例えば、「株とは、企業が、資本を集めるために用いる手段である」というのは抽象的な知識である。
 しかし、抽象的な知識というのは、一見万能に役立つように思いきや、何の役に立たない場合もある。「人とは、霊長類で、サピエンス種である」と言ったところで、それが何だ? と。

 重要なのは具体性だ。

ボトムアップとは

 ボトムアップとは、具体的な知識である。
 証券会社に口座を開いて、普通銀行からお金を振り込んで、ある企業の株を注文すれば、それが「株」の知識である。インターネットが普及していなかった頃は、株券として、紙媒体で届いていたのだろうか。その場合、株券が、株のことである。

どこまでいけば覚えたことになるのか

 このように、ボトムアップの知識(具体的)を蓄えて、トップダウンの知識(抽象的)に結び付けていくことが、「覚えた」「分かった」ということになる。
 人の脳神経細胞の本能とは、「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」というものであるが、この観点からいくと、「覚えた」「分かった」ということは、僕らにとって「快」であるはずなのだ。
 しかし、学校の勉強とかが、面倒だ、面白くないと思うのは、往々にして、「暗記」的なものになりがちだからである。暗記ができるのは、若いうちの方が有利なので、それが必ずしも悪いことだとは思わないが、脳神経細胞的には面白くなかろう。
 もう一つ学校教育の弊害をあげれば、抽象的知識の優位性を重視しがちだということだ。これも、昨今の情報社会においては仕方がない部分も多い。何せ、一昔前では優位だった知識が、時代遅れどころか、間違っていたことが発覚することもあるからだ。だとしたら、できるだけ、誤ることが少ない、抽象概念のインプットに努めたほうが、応用ができるだろう。

 そろそろ話を株の方にもっていこうか。

株式とは

 株、株式、と言い方が異なるが、そもそも、その違いを分かっていない。辞書で調べてみたが、あまり違いは無いようだ。
 そうそう、新しい概念を覚える際に気を付ける必要があるのは、「些末なこと」とそうでないことの違いがよく分からないこともある。何せ新しい概念なのだから、何が重要で、何が枝葉末節なのかも、判断がつかないのだ。そういう意味で、先人・先生から学ぶというのは大事である。しかし、知っている人から学ぶというのは、あくまで、学習のきっかけや、方向性についての師事を受けるということであり、実際は、自ずからのインプットが必要になる。

 また話はそれるけれども、よく情報商材とか、インターネットで見かける、「これを読めばあなたも億万長者!」「すぐに分かる女性にモテる7つの秘訣!」とか、もっといえば、自己啓発本とかメンタリズムの書籍なんかを読んで、すぐさま効果がでるはずはない。最近はやりの、映像商品とか音声商品とかも同じ。もっともっといえば、塾のカリスマ講師の授業を受けたところでそれも同じ。

 読んだり聞いただけで効果がでるはずなどない。
 学習ってのは、結局のところ、自分自身の鍛錬が必要になるのである。他者の言葉を聞いて、実感して、やる気があがって、行動できるようになるという効果はあるだろう。カリスマ講師とか言われるのは、生徒らをやる気にさせるのが上手いってのもあるのだ。

 話がそれた。
 株、についてである。

 僕が中高生だったころ、なんかの漫画とかドラマとかみて、大人はみんな、新聞読んで、「今日は景気がいいですね~」「株価があがりましたな!」とか言って会話しているもんだと思っていた。よく分からないけれども、楽しくなさそうだな、と思っていた。

 で、まぁ、その株というと、「株価」といった方が、一般に関心が高そうなネタである。

株価とは

 株価とは、株の価値のことである。つまり、株の値段のことである。

 しかし、物やサービスと違って、株のお値段といわれても、何のことだろう? そもそも、どこで購入するのだろう?

「株券の値段のことだよ」と言われたところで、よく分からなさは変わらない。

 まず、株を買うことができるのは、「証券会社」である。だが、証券会社とはそもそも何ぞや。

 それを理解するためには、株式市場、証券市場について理解する必要がある。

株式市場とは

 そしてちなみに、僕は、株式市場と証券市場の違いについてもよく分かっていない。しかしここは、些末なことであろうとして調べることもスルーする。この記事の中では、「株式市場」=「証券市場」(証券取引所)ということである。

 さて株式市場とは何か、ということだが、株式を売買するための「市場」のことである。

 市場(しじょう)ときくと、市場(いちば)のようなものをイメージするかもしれない。
 あながち間違いではなかろう。広い意味では、市場とは、物やサービスの取引が行われる場のことである。「場」というと、これまた、「スペース」「場所」といったイメージが浮かぶけれども、そういった具体的な空間があるわけではない。では何があるのか、と疑問に思うだろう。それは、「ルール」である。

 ルール、規則、決まりともいう。
 この企業の株式は1株当たり300円で、この企業は1000円で、1万株発行されているとか、そんなことが決まっている。そうしたルールを取り仕切るのが、株式市場というわけだ。

証券会社とは

 では、証券会社とは何か。マネックス証券やら松井証券やらGMOクリック証券やら、みずほ証券やら沢山ある。
 それらのやってることは全部同じだ。違いは、サービスや、提供してくれるツール、手数料などである。今回の記事レベルでは、気にすることはない。

 じゃあ証券会社は何をやってるのか。株式市場という「場」で、投資家からの注文をさばいているのである。
 実は、株式市場を通さなくても、株は買えるのである。もっといえば、株式市場で購入できるのは、「上場」している株だけだ。
 どこで買うのか? 企業に直接出向いて、「買います!」って言えばいいのである。ちょっと大雑把過ぎる例だけれども、株式会社といっても、親戚が、身内だけで資本を集めている会社だったら、直接株を買い取るのもありなのだ。

 ただ、そういった手続きは非常に面倒である。
 そういった煩雑さを代わりにやってくれるのが証券会社であるというわけだ。

 そういう意味で、株式投資を始めるのは、まったく難しくない。

1.証券会社に口座を開く
2.普通預金口座から、証券会社の口座にお金を振り込む
3.証券会社のツール(ネット・サイト)から、企業の株式を購入する

 これだけである。
 じゃあ株を売った後の現金はどうやって手に入れるのだ、というと、これはまだ僕はやったことがないが、証券会社の口座から、自分の普通預金口座に「出金」の依頼をするだけである。

どの企業の株を買うか

 以上、
・株とは何か
・株価とは何か
・株式市場(証券取引所)とは何か
・証券会社とは何か

 と、整理してきた。
 まぁ、一般知識だろう。「大人」なら、投資をしてようがしてまいが、誰でも知ってるだろう。

 問題は、多くの人が気になるのは、「株ってもうかるの?」ということである。

 株式投資をする目的が何かといえば、利益を得ることである。これ以外の抽象化は不可能であろう。損しようとして投資する人はいないだろうから。

 そこで、株のもうけかたということについて、「株式投資入門」という、私の株の師匠がすすめてくださった本の、第3章を参照しながら整理してみよう。

ファンダメンタル・リターン

 ファンダメンタルと、横文字がでてきた。これは難敵である。
 英語の辞書を引いても、「基本の」「基盤の」としか出てこない。なんぞ……ファンダメンタル。
 しかし、株式投資とか経済とかの分野では、よく聞く言葉なので、これは覚えたほうがよさそうである。

 上記本の中で記載されていることを強引にまとめると、「配当で得る利益」のことである。きっと、もっと深い意味があるのだろう。でなきゃ、こんなわざわざ横文字をみんな使いたがるはずがない。

 配当とは、株を保有していると、ある一定の期間で企業から支払われるお金である。利子みたいなものだと思っている。これもきっと違うのだろう。でなきゃ、「配当」とか言葉をあえて使わないだろう。利子でいい。

 ちなみに、僕が所有しているある企業の株は、年2回の配当があって、1株あたり2円と4円であった。1000株所有しているので、年間6,000円振り込まれることになる。
 ちなみに、僕が使っている銀行の普通預金の利子(金利)は、0.001%である。仮に、30万円預けていたとして、……3円、である。
 ファッ!?
 安!!

 ハッ、思ったより安くて驚いた。なるほど、そんなもんか。0.001倍じゃなくて、0.001なのね。
 まぁ以前書いたけれども、お金を預かってもらって、それで利子までくれるんだから、ありがたいとか思っている人もいそうだな、と。実際は、お金を預かってもらっているのではなく、お金を貸しているのだから、お利息ぐらい頂いても不思議ではないというわけだ。ただでお金貸してくれるなんて、友人だって中々いないだろう。

 とにかく、そう考えると、株式投資の、配当というのも、悪くはなさそうだ、と思う。

 しかし、株式投資では、ファンダメンタル・リターン以外にも、もう一つ重要な「もうけかた」がある。

評価リターン

 今度は日本語だ。しかし、逆にわかりづらい。何が評価だ? ん?


 まず、この本で学んだこととして、ハッと気づいたことだが、証券会社で株式を注文しても、それが、企業に直接お金が振り込まれるわけではない、ということである。

 つまり、企業は、株式市場に上場する際に、すでに発行する株式の数を決めているのである。
 その際の株価って、どうやって、だれが決めているんだろうというのが、新たな疑問が浮かんだが、話がそれるので、仮に、企業が自分で決めているのだとしよう。

 例えば、ある企業は、「1万株を、300円で上場します!」と宣言する。
 そうすると、上場したての企業はみんな関心があるので、投資家たちはみんな、「買います! 買います!」と手を挙げる。
 そうすると、株価は、ぐんぐん上がる。中学校で習ったろう、需要と供給の関係だ。みんな欲しいと思っても、その供給数が少なければ、価格が上がるのだ。
 ただ、あんまり無法地帯に価格が上がり下がりすると皆、企業も投資家も混乱するので、ストップ高とかストップ安といって、一日あたりに変動する量も決めたりしている。そういう役目を果たしているのが証券市場である。

 ということは、企業が、「新しく株券発行します!」というまで、証券市場に出回っているのは、すでにほかの投資家たちが購入した株券なのである。
 ここらへんで、疑問は、「株価」って、誰が決めてるんだろう? 人? 企業? 証券市場? ルール? というのがポンポン浮かんでくるが、まぁこれもわきに置いておこう。

 とにかく今回押さえておくべきは、株価は、需要と供給の関係で決まるということだ。
 ので、企業の価値が高いと思われたら、株価は上がっていく。逆に、危ないなと思われたら、下がっていく。ここでさらに気がかりなのは、「やばいなこの企業、売りたい!」と思っても、「買いたい人がいないんで、売れません」って言われることはあるのだろうか? それとも、証券会社などが、ある程度留保している株券があるから、そこで融通したりするのだろうか? でもまぁ、1万株が300円で売られて、株価が極端な話、1円になったら、300万円が1万円になったということだ。しかし、企業自体には、最初に発行した際に、300万円が振り込まれているはずなので、企業が潰れないのであれば、1万円ぐらい、ちょっとリスクを冒してでも支払って、仮にその企業が復活して株価が仮に100円にでもなれば、1万円が100万円になるってことだ。
 そう考えれば、まぁ、「売りたい!」と思ったときに、「買いたい!」という人もある程度いるような気もしないでもない。この辺りは、まだ売ったことないからよく分からない。


 で、なんだっけ? 評価リターンだ。
 雑談で書いたことがそのまま説明にもなりそうだが、その、株価の上下によって、買ったり売ったタイミングによって発生する損益が、評価リターンということだ。

 僕が保有している株は、1株300円ぐらいの頃に購入した。それが仮に301円になったとしよう。1000株保有しているので、1000円の利益になる。逆に、299円になったら、1000円の損失になる。
 これぐらいの評価リターンであれば、まぁ、配当をもらえたら十分プラスになる(手数料や税金の計算はこれから覚えよう)。
 しかし、仮に290円になってしまったとしよう。そしたら、1万円の損失になる。配当が6000円でたとしても、マイナス4000円だ。
 2年目まで持ち越したとしよう。そうしたら、配当金は6000円さらにもらえるから、プラス2000円になる。しかし、株価が290円のまま保持されるとも限らない。

 この意味で、僕の師匠は、「配当とか優待とか目当てってのは薦められないね~」と仰っているのだろう。

まとめ

 今日のところはここまで。

 まずは、株ってそもそも何ぞや、というのを、知識ゼロから整理してみた。
 多分、間違ってることとか、あいまいなこととか、足りないこととかたくさんある気がする。ご指摘等大いに歓迎である。
 中学生でも分かる超超基礎というつもりで書いているので、ここで大きな勘違いしていると、今後の知識体系づくりに支障をきたしそうだ。――ただ、ある程度積み上げていって、壁にぶつかって、「あーもうやりなおしだ!」とバラバラにしてもう一度組みなおしていくというのも面白いといえば面白いのだけれど、まぁ時間は有限だ。


 PERとか、ROEとか、整理しなきゃいけないことが盛りだくさんである。

 純利益、経常利益の違いとかね。

 円高に強い企業、弱い企業とか。ポートフォリオとか。

 景気循環の、在庫整理の数年の波とか、10年規模の設備投資の波とか、建設需要の20年規模の波とか、技術革新の50年の波とか。しかし、なんで学校では、キチン、ジュグラー、クズネッツ、コンドラチェフとか、そんなことテストに出すのかね。そんな名前覚えても殆ど役に立たん。建設需要は20年単位であるとか、実は人口要因も関係するとか、そういった知識の方が少しは役に立ちそうだ。が、しかし、そういうのも、じゃあ、結局いまってどこにあたるの? それって企業とか国々によって違うんじゃない? 建設需要とかいっても、みんな同じタイミングに建てるわけでもないよね? そもそも、コンドラチェフの技術革新の波って、ほんとにあるの? windows95が一つの革新だとしたら、2040年ぐらいになんか来るの? それまじ? とか、きりがない。

 知識ってのは、面白いといえば面白いが、結局、それをどう「納得」して、どう「行動」するかってのにかかっている。
 であるからにして、自分で納得して行動した結果であれば、それは当然「リスク」というのも知っているのだろうから、結果失敗だろうが成功だろうが、それ自体はさほど気にならないはずなのだ。

 批判や不満の多い人ってのは、納得も行動もできない人に多い(ように思う)。

 かといって、愚痴が多い人は別に嫌いじゃあない。なんか、「ネガティブな人とは付き合わないようにしましょう! マイナスオーラで、自分までネガティブになっちゃいます!」とか、そんな啓発系ニュースをよく目にするけど、正直アホちゃうか、と思っている(じゃあ見なきゃいいんだが)。
「自分なんて、ダメですよ……」
 という人がいたら、僕は、「へー、すごいじゃん! 君はいったい、だれと比較して、自分がダメだっていってるの? 世の中って、いっぱいいっぱいすごい人いるじゃん。君の会社にもすごい人いるでしょ。そんなすごい人たちと比べて、君は自分がダメだって思ってるってこと? すごいなぁ……そんな向上心があるんだね。でもさ、そんなすごい人たちと比べなくてもいいんじゃない? 大事なのは、昨日の自分には勝ってやるって、そんな気持ちなんじゃあないかな」
 とか言うかもしれない。
 何やっても駄目だ、とか言うけれども、本当にそうなの? と問いたい。全世界、70億人の中で、一番ダメってこと? それはそれですごいんじゃない? と思う。上見ても、下見てもきりがない。できることはせいぜい、自分の与えられた環境の中で、精一杯できる限りのことをするのみである。

 だから、……ではないが、とにかく、「感性」ってのが大事だと思う、今日この頃である。


(こういった考え方自体がポジティブだって? 僕は全然そう思っていない。これはどっちかというとネガティブな思考である。諦念である。しかし、最近ポジティブオーラに満ち溢れているせいか、「自分、暗い人間ッス」とかいっても、冗談で言ってるとしか思われない。まぁ、こうやって文字おこししても、やっぱりポジティブに映るのだろうか? それは、未来の自分さんに判断してもらおうか。だが、数年前の自分の記事を読んでみると、やっぱりしっくりくるのは、「反転したポジティブ」という表現だったりする。まぁどうでもいいか。ポジもネガも、結局相対概念に過ぎないのだから、読む人聞く人触れる人によって、その受け取り方(感覚:ヴェーダナー)が異なるのだ。だから、繰り返しになるが、その感性、感覚が大事だなぁと、そんな風に思う)



拍手[1回]


人間とは何か:はじめに(要約)
2017/02/17 12:00 | Comments(0) | 学習勉強インプット
人間とは何か P.3~19 要約

精神療法と医術と技術

 精神療法にとって、「健康とは何か?」という問いに明確に答えるのは難しい。
 精神療法は、医師の人格によるものと、技術(〇〇法といった法則の体系)によるもの、両方の極を交互に選択、し、計算に入れなければならない。
 これは、安易な折衷主義ではない。
精神療法はもはや排他的な要求をしてはならないということである。われわれは、一つの絶対的真理を直接理解することができない以上、相対的な真理を相互に修正することで満足しなければならないのである。それどころか、一面性への勇気を奮い起こさねばならない。――P.6
 上の引用について、少し解釈というか、感想を入れたい。

 この、一面性という語は、この後も何度もでてきて、「唯一性と一回性」という表現に変遷していくのだけれども、非常に大事な観点である。
 ここでの例として、ある交響曲のフルート奏者が持ち出される。フルート奏者は、オーケストラの一部、一面でしかないが、フルート奏者がそれを超えて他の楽器を演奏することはできないし、求められるものではない。ただし、複雑なタペストリー(織物)の一部が、無くてはならないように、一部であること、一面的であることは、決して恐れるものでも無駄でもないのである。

 遠藤浩紀さんの「EDEN」という作品で、主人公のエリヤくんが、「僕は世界の欠片に過ぎない。けれども、僕が死んだら、世界は、世界の一部を確実に失うんだ」なんて思いにふける。

 そうは言っても、やっぱり、一部だとか、欠片だとかいうのは、大そう心もとないものである。子どもの頃はみな、世界が自分を中心に回っていると思っていたり、大きな夢を抱いていたり、することだろう。それが、大人(※)へと向かっていくにつれて、段々「現実」なんてものに打ちひしがれていく。その中で、一部だとか欠片に過ぎない、という思いが助長されていくこともある。

 それでも、フランクルさんは、
「一面性への勇気を奮い起こさねばならない」
 と言うのである。


※「大人」という言葉も嫌いな言葉の一つである。昨今、「高齢者」という定義も見直されようとしている。成人=20歳というのはまだいいが、大人という言葉は甚だ曖昧であろう。モラトリアム期が30歳までとされる見解もあるという。じゃあ大人って何だろうね。ただし、大人という言葉を今後も使う必要性は感じないが、「責任」というキーワードは、重要になるように思われる。

実存的空虚感

 20世紀という時代から、精神医学会に新たな問題が立ち現れてきたという。
「私たちが今経験しているような危機の時代においては、意志はどうしても哲学に専心しなければなりません。私たちの時代の最大の病は、目標喪失、退屈、意味と目的の欠如なのであります」――P.9~10「あるアメリカの大学教授の講演」
 多くの患者たちは、自分の人生の意味を疑っているか、意味を見出すことについて絶望しているという。
 これを、「実存的空虚感」とフランクルさんは言う。
 そして、これが神経症の症状として現れることについて、精神因性神経症(noogene Neurose)というのである。

 ここで、素人はつまづくのであるが、「精神因性以外に、何があるの?」と思うのである。それは、「身体因性」「心因性」のことであるが、「身体因性」というのは、脳機能や内分泌機能の障害によるものとして理解できたとして、「心因性」というのが難しい。ひとまず現時点では、「精神因性」と「心因性」の区別としては、「心因性」については、ある原因(例えばトラウマ的な、直接的原因になるような事象が影響している場合)によるもの、としておこうと思う。
(逆に、「精神因性」は、特段直接的な原因が見いだせないものという理解をする、ということである)

 さて、その精神因性神経症に対して必要なのは、「意味と価値への人間の方向づけ」であるという。
 これについては、「患者に多大な負担を強いるのではないか」との批判など多く受けるだろうとフランクルさん自身は述べている。しかしそうはいっても、トランキライザー(抗不安剤)で病状を取り除いたり、心理学主義的に、意味とか価値を求める人間の心性というものを、「防衛機制ないしは二次的な合理化に過ぎない」などということはできないだろう、ということだ。少なくとも私はそんなことのために人生を賭けたくないと。

 さらに、実存的空虚感は、社会的な、集団的な影響も考えられる。
今日、人間は本能の乏しさに苦しんでいるだけでなく、伝統の喪失にも苦しんでいる。今ではもはや、本能は人間に何をしなければならないかを告げず、また伝統も人間に何をなすべきかを告げることがなくなっている。やがて人間は何をしたいのかもわからなくなり、ただ他の人々のするとおりにするだけになるであろう。つまり、画一主義(コンフォーミズム)に陥ってしまうのである。――P.12~13

実存分析とロゴセラピー

 と、いうわけで、新しい精神療法として、「実存分析」、「ロゴセラピー」が必要になっている。この「人間とは何か」においては、実存分析とロゴセラピーについての、解説がなされている、というわけである。

 ここまで、「はじめに」の要約だけれども、多分に僕の恣意的なまとめになっていることを、ここで書いておこう。最近書いていることであるけれども、あくまで、僕の目的の第一義は、僕自身の救済である。ただ、それは、まさしくこのロゴセラピー的な内容とも関連することになるが、「僕自身の救済」はそれだけで完結するものではなく、他者との連関から考えられねばならないということが問題を複雑かつ大きくさせているわけである。
 即ち、「僕自身の救済は、まさに、それが他者の救済へと繋がる時においてはじめてなされる」という点である。

 陽明学の知行合一とかプラグマティズムの実践主義とか、そんな考え方を持ち出すまでもなく、僕が成したことは何らかの「意味」が無ければならない。そしてその、意味を見出すための方策、方法論が、ロゴセラピーなのである(と、僕は思った、というに過ぎないが。はて、ロゴセラピー協会の人が読んだらどう思うのだろうか……。ただ、まだ300ページぐらいで、全部読み終わっていない状態なのでお許し願いたいところ)。


(本の内容に沿って書くというのは、大学時代を思い出すなぁ。最近、ほぼノンストップリアルタイム自動記述で書いていたから楽だったけれども、このまとめながら、自分の考えと本の内容を書き分けていく作業は結構苦痛である。ただ、一回音読しているためか、内容自体はパラパラ読んで思い出せる点はいい感じ。)

拍手[1回]


フロイトとアドラーの勉強
2017/01/24 19:00 | Comments(2) | 学習勉強インプット
今日の一言「専門書は基礎知識がないと辛い」「もっと嚙み砕いた本もあったのに見栄をはるから……」

「人間とは何か」を読み進める

 ヴィクトール・エミール・フランクル氏の、「人間とは何か」を読み進める。はじめに、が終わって第一章に少し入ったところ。難しいぞ! 頭に入ってこない。こういうときは、音読である。そして、電車の中で聞く。繰り返し聞く。そのうち、何が分からなくて、何が分かりづらいのかが分かってくる。そうしたらようやく、分からないことの解決につとめることができる。

 サピエンス全史を読んでいたときは、それほどつっかかるところがなかった。ある意味、スラスラ読めた。もちろん初めて知ることも多かったし、面白かったのだけれども、論理的に、何が書かれているのかが分かりやすかった。この「人間とは何か」は、まずは、既存の精神療法、心理学において、どこまでがカバーしていて、どこからが不足しているのか、という確認作業から入っている。

 ――巨人の肩の上に立つ小人は、巨人よりも遥かに遠くを見渡せるのである。


 ここで言われる「巨人」とは、フロイトさんと、アドラーさんである。

基礎知識の確認

 取りあえず、フロイトについて知っていることを、何もみずに書く。ヨーロッパ(確かドイツ)の精神科医。エス・エゴ・スーパーエゴということで、動物的な衝動=エスと、親からの規律規範といったスーパーエゴとがあり、自我は、その両者を調整しているのだ。エディプスコンプレックスとか、性の欲望を明らかにした。男は父親を殺して母親と寝たい欲望をもっている、とか。

 アドラーさんについては、……うーん、フロイトと最初は一緒に研究していたけど、後に離反した、くらいしか知らない。

 ちょっと調べてみる。……。

アドラー自身は自分の心理学について、個人心理学individual psychology)と呼んでいた。それは、個人(individual)が、in(=not) + L.dividuus(=devisible 分けられる) + al(の性質)=分割できない存在である、と彼が考えていたことによる。日本では、アドラー心理学(Adlerian psychology)の呼称が一般的である。


アドラーが自分の心理学について個人心理学と呼んだように、アドラー心理学では、個人をそれ以上分割できない存在であると考えることから、人間の生を、個人という全体が個人の必要な機能等を使って目的に向かって行動している、というふうに考えている。より具体的には、人間は相対的にマイナスの状態(劣等感を覚える位置)から、相対的にプラスの状態(優越感を覚える位置)を目指して行動している、と考えている。


WIKIより

 この、「個人心理学」というキーワードは、フランクルさんの本にもたびたび登場する。覚えておいた方がよいだろう。ああ、「アドラー心理学」というのは何か聞いたことがある。内容は全然分からなかったが、なるほど、「個人」という単位を、絶対視しているということか。

 確かにこれだと、フロイトさんとは合わなそうだ。
 ふむふむ、ざざっと調べて読んで見ると、アドラーさんは、「共同体感覚」という、全体としてより良い方向へ向けていく、他者のためになるような感覚を醸成していくことを目指していたということだ。楽観的で、目的論的だな。

 この、目的論的なところは、ヘーゲルさん(テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼぇぇ!!)っぽいな。キルケゴールさんが、「うっせー、世界的な目的なんて知るか! ばーかばーか!」といったの情景が思い浮かぶなぁ。

しばらく学習記事が続くのか

 ふむ、しかし、これ(フランクルさんの本を読み進めること=もっといえば、それを理解して自分の思考に取り入れること)、真面目に取り組んでいくと、相当大変だな。目標やチェックポイントを決めていかないと、かなりの確率で挫折するだろう。

 この、新しいことをする、というのは、最初が肝心である。
 筋トレ、音読、ストレッチは、もう大体毎日のルーチンというか、儀式というか、やるのが当たり前レベルになっているが、初めの頃は結構大変だった。

ルーチンの危機
ルーチンの危機2

 ↑のように、相当意識を、そのやることに向けていかなければいけなかった。一日でもルールを破ったならば、もうなし崩しに崩壊していただろうとも思う。

 取りあえず、大きな目標を定める。2月中までに、最後まで読み進める。(黙読で可)
 あとがきを除くと、456ページある。これを、2月末まで、とすれば、週単位で考えたとき、残り5週間である。(多分、土日がほぼその充てられる時間になる)

 456÷5≒91

 おぉ……一週間に90ページか。これは結構厳しいペースだな。(簡単な本なら余裕だろうが……)

 そして、読み終えた後に、3月には、概括をする。つまり、ポイントになるキーワードやセンテンスをまとめ、それをインプットする。
 その時点で、この本から、「生きる意味」を見つけられるのか、そのための「手段」が見つけられるのか、それとも「資するものはない」のか、分かるだろう。
 もし価値があれば、6月までに、再度読み直し、インプットを確実なものとする。6月の理由としては、2017年を前半、後半として分けたとき、後半は、「実践」に力をいれたいところ。仕事が更に慢性的に忙しくなることが見込まれるため、あまり考える時間も取れないだろう。それについての対策も、6月ぐらいまでには立てておかないといけないなぁ……。

やることは結構ある

 2017年12月には、2018年の目標もたてなければいけないし、忙しい。
 仕事、家庭、勉強、自己、趣味、創作……。

8つの人生の輪という考え方がある。

1.仕事・キャリア 2.健康 3.自己啓発・学び 4.恋人・家族 5.友人 6.物理環境・時間 7.富 8.趣味

これらが、全体的に高まっていくことが、人生にとって重要なのだ、というわけだ。
2016年5月27日の記事


 うん。これも、忘れていた。8つあるんだったね。4番、7番あたりが微妙だなぁ。これに対しての意識は、もう少し高めないといけないかな。





 ――うーん。何か、毎回記事の「オチ」をつけようとして、最近、ずだだだーっと書いてから、最後でウンウン唸っている気がする。別にオチなんてつけなくていいじゃないか、ということにすればいいんだけど、それだと芸がないし、未来の自分に怒られそうだ。

 どうしよう、いい方法はないものか。あ、これもある方の真似をして、ルーチン化してみようか。最後に一言、みたいに。

(その一言が浮かばずに頭を抱える)

拍手[0回]


サピエンス全史上巻とサイコパス視聴完了
2016/12/30 08:00 | Comments(0) | 学習勉強インプット

サピエンス全史の下巻突入

 共産主義や資本主義などイデオロギーも、超越したものの信仰に基づく点で宗教と同じであるという見解自体は、僕もかなり前から思っていて、記事にも何度もしていたけれど、それを体系的な本のなかで指摘されているのは中々刺激的であった。
 考えるポイントは、ああ、僕が思っていて、周りの人たちと何だか感覚があわないなぁとの孤独感につながっていたことの確認と、カタルシスではなまったくもって、なく、このサピエンス全史という本がベストセラーになっているこの事実の方にある。
 これが意味するのは、結局何年かして一笑にふされる可能性があることは、この際は脇において、例えば一神教の矛盾、すなわち悪の概念を孕んでいることなど、想像上の秩序と共同主観的な秩序によって、僕らの社会が維持されていることの認識が広まっていくだろうことである。
 もう1つ重要なことをメモすれば、歴史に必然はなく、僕らの未来も、統計学的な大量のデータによってある程度の推測は可能だとしても、ヨーロッパ連合からの主要国の脱退やとある国の大統領選のように、何が起こるかは基本的に定まってなどいないということについて。
 科学革命は、テクノロジーの進歩、というよりも、無知を認める態度の出現が重要であるとする知見は勉強になった。
 何が、ベストセラーであることが重要なのかは、僕らの社会が想像上の秩序に維持されるものであるのだから、この、超越したことへの批判の心が、多くの人に共通した見解になっていったとき、私たちの現実直面する生活にも、大きく影響が考えられることだ。
 先日の記事で、アニメやゲームに対する危険な意識は、この数十年で大きく変わったことについて、書いた。これは、まぁ僕にしてみれば良かった変化といえようが、果たして、良い方向の変化だけが起こる保障もまたないのである。

サイコパス第一期完了

 法律というのは、いくらマキシマ氏の様な異常殺人者を裁けないとしても、人の、よりよい社会をつくりたいという希う思いの総合なのだから、例え、その1つの事例が感情的に許せなくても、法律それ自体を遵守することが大事なのだ。
 ――というのは、サイコパスというアニメーション作品の、ツネモリ監視官の台詞。
 全部見終わった。結論、これは傑作だった。エンディングまでテンションを維持した作品は珍しいと思った。それほとアニメを見ているわけではないから分からないけど、どうしても24話くらすの作品は、全部みる気になかなかなれない。
 勝手な思い込みなのは承知だが、最初や中盤や終盤が面白くても、結局エンディングはまぁよくあるものになりがちと思ってしまう。
 いやこれは仕方がないのだ。最近よく考えてしまうのは、結局、物語って、ハッピーか、バッドか、この後も戦いは続いていく、か、その三通りしかない。
 その後の彼らを知るものはいない、とか、そんな投げ捨てられたダメな終わり方の作品も少なくない。
 だから、僕はあまりエンディングに拘らないというか期待しない。だから、途中まで見て、それぞれの話がまぁ面白ければそれでいいと思う。でもそれは、それで満足してるというわけではなく、もちろん、見終わった、読み終わったあとに、しばらく思考もわかないぐらい、感動して動きがとれないような、そんな体験をずっと期待しているのである。

感動欠乏症

 感動することを求め続けているのかもしれない。仏教的にはダメなパターンとされることだが。
 サイコパスは面白かったなぁ。ツネモリさんと、シビラシステムと、鴻上さんと、マキシマ氏の四者の価値観のぶつかりが良かったね。シビラさんは、価値観なんていったら気に食わないんだろうけどさ。

2016年に思う来年の目標

 良書にであい、10冊をめざす。とか数は必要ないな。一冊でいい。これは生き方に影響するものを見つけられたらそれでいい。
 だいたい、俺の生き方というのも、わかってきた。他者との比較や、常識というものそれは、たとえば、年功序列とか旧来の価値観もあれば、株をやったり資産形成をしなければいけないとか、結婚とか子孫繁栄とか、新しいものであっても俺は懐疑してしまうだろう、これからも。
 サピエンスの本は面白かったが、これが普遍的になった社会に、僕は埋没できるのか、これも疑問だ。
 恋愛資本主義への懐疑は、もはや、この社会で受け入れられつつあるだろう。もちろんこれからも、ナンパして付き合った数を自尊心につなげられる人は絶えないだろうが、そこから離脱を試みる人も増えていくだろう。
 情報通信技術の発展は、僕らにつながりをもたらしつつも、個別化をも深めていくだろう。
 そしてこの感覚に反駁する人もいれば、共感する人もいるだろう。

 シビラシステムは、特殊性を持つ人の集合脳を普遍化した秩序であった。
それは、いささかに気持ち悪さや嫌悪を抱かせるのであるが、ツネモリ監視官はそれを批判するが全否定はできない。
 快楽が普遍化し、システムが生き死にを、生きざまを決定する時代になり、
 どうやって生きるかを悩めた時代は、それは素晴らしかったという。
 描かれ方としては、多くの人にそういった感じを抱かせたろう。
 しかし、それは才能のあるツネモリさんだからだ。
 能力がないひとにとって、なんでもできる環境というのは、なにもできないことはその人の努力不足と糾弾される。

 ある方が、多くの人が満足しているなら、それはそれでシステムとして完成されているといった。
 そのとおり。
 完璧なシステムは存在しない。
 システムを使うのは、運用者たる人間である。

 人間をなめるなよ、と。ツネモリさんは、よりよい社会をつくりたいという思いの総合が法律だから、感情を拝してでも、守らなければならないという。

徒然故郷へ移動中

 移動中にかいていたら、記事が消えた。よくあることとはいえ、悲しいなぁ。
 クラウドとか、ネットワークサービスの向上というけれども、やっぱり、ローカルな媒体の方が安心するよなぁ。

拍手[1回]



<<前のページ | HOME | 次のページ>>
忍者ブログ[PR]
アクセスランキング