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文字の発明と人工知能による支配
2016/12/19 19:00 | Comments(2) | 学習勉強インプット
今年の目標その3

前書き

 休日に、読書に時間をあてるというのは、如何なものだろうか。
 もっと友人たちと遊んだり、クリスマスプレゼントを買いにイルミネーションが輝く街に繰り出したり、そんなリア充的なことをしては如何だろうか。

 それはそれでとても楽しいことだろう。それらの有用性について思いをはせる前に、自分の先日打ち立てた目標を達成すべく、自らの行動を決定する、この決定するという自由意志こそが、人として生きる、ということではあるまいか。

 という言語表現ができるようになったのは、今回の記事のインプット目的の「文字」よりも前の、7万年前の認知革命によるものである。
 しかし、こうした口承によるものは、150人程度の噂話で繋ぎとめられる集団をはるかにこえ、大きな国という概念に発達したサピエンスの集団を維持するシステムには不十分だった。

数理的データの取り扱いの必要性

 国を維持するには、税金が必要である。
 税を徴収するには、国の成り立ちを物語る、神話や法律の制定を繰り返し口頭で伝えるだけでは不十分だ。何故ならば、人は、大量の数理的データをインプットできるような脳構造をしていない。
 狩猟採集民は、我々現代人(の個々人)よりはるかに深遠で幅広い自然についての知識をインプットしていた。しかしその知識は、どの木に食べられる実がなっているか、にとどまり、その木に何百の実がなっているから、自分の集団に必要な量はこれぐらいで、残りは他の部族との貴重品の交換に用いよう、とはならない。

 税金を徴収する場合は、国に住む人たちの数の把握はもちろん、個々人の所有、負債、控除や割引の情報、滞納金や罰金といった数の情報を保持しておく必要がある。
 数万人単位の国において、それらを、どんな天才的な記憶力を保持する人がいたとしても、正確に処理するのは難しいだろう。


 ということで、紀元前の3500年ごろ、それよりもっと前から発明されたのは、書記という体系だった。

不完全な書記体系と完全な書記体系

 まず、私たちの用いる言語表現は、「完全な書記体系」である。一方、はじめに使われ始めた文字、書記といった体系は、もっぱら、「数理的データ」を取り扱うものだった。

 2万9千 大麦 37年 クシム

 みたいな。クシムというのは、肩書かもしれないし、名前かもしれないということだが、署名だとのことである。もしそうだとしたら、人類初めの認識できる当時の名前をもった個人である、とのことだ。


 不完全な書記体系というのは、話し言葉によるものではなく、一定の、限定された領域の表現を目的とした書記体系のことである。

 アンデス文化においては、縄目のキープと呼ばれる書記体系が用いられた。縄にコブをつくり、それによって数を現したということだ。スペイン人に支配されるまで、それで十分高度な文明を維持発展させることができたということだ。

今回インプットすべきこと

 本の内容をまとめる作業というのは、大学のレポートなどでは重要だろうが、正直面倒なものである。しかし、ここで、正確な引用(例えばページの何ページにこう書いてあるから、これはこういう意味である、とか)を行って考察するということは必要ない。
 本のレビューをしようというのではないのだ。


 例えば、キープという文字の存在は、「ああ、そういえばそんなのあったね」という記憶はあっても、その記憶を呼び起こすだけに本を読んだのでは、あまりにもったいない。

 そうではなくて、知見としてインプットしたいこととしては、

 文字は、まずは数を保存するために用いられたこと


 ということだ。
 同時に、忘れないようにすべきなのは、「認知革命」が起こったのは、7万年前であり、人類が決して、文字の使用を始める前に、「神話」的ものがたりを想像しうる言語を使っていたということである。

 巨大な柱や、ラスコー、アルタミラの洞窟壁画といった、宗教性を帯びた作品を狩猟採集民たちも残しているということだ。

 もっと思い出してみると、言語は、サピエンスだけの特有のものではない。

「ライオン きたぞ やべえ 逃げろ」

 というのはネアンデルタール人も発していただろうし、霊長類、いや、それいがいの動物においても、集団の仲間に情報を伝えるために発声するということは行っている。

 サピエンスの進化で重要だったのは、「事実」の伝達以外に、「物語」を語ることができる言語を発明したことであった、そのことである。

文字とそれをアウトプットする方法

 流れに沿って書いていくのに飽きてきた。
 今後、僕の言葉で書くと、「概念記憶」の重要性が高まっていくように思える。これも別に新しい概念ではなく、「ストーリーをつくる技術」とか、ビジネスにおいても重要だよ、ということがうたわれていたりする。

 虚構の言語の発明、集団の巨大化、文字の発明、思考方法の変化。

 こうやってインプットしていると、つい忘れてしまうのだけれど、サブカルチャー的な存在も念頭においておく必要がある。
 確かに、言語や、文字による集団の統一かがはかられていたことは疑い得ないだろう。しかし、それ以外の、例えば、音楽的な要素……または、踊りや舞いといった、人々の感性にうったえかける概念が集団の統一化に寄与していた面はあることだろう。
 そういったものの証明は今後も不可能に思われる。文字の発明の起源は、年代の特定技術や発掘技術の向上により徐々に明らかになっていくかもしれないが、音楽は証拠として残されるものは何もないからだ。

 初期のメソポタミアのシュメール人が残したのは、もっぱら行政上の処理であり、不完全な書記体系であった。それが、紀元前3000年ごろになると、象形文字や粘土板に刻まれた楔形文字、中国の亀甲文字など、数理的なものだけでなく、口頭での表現や、神話や愛の歌も記せるようになっていったという。


 だが、それでめでたしめでたしではなかった。
 たくさんの情報を保存できたとしても、それを適切に管理し、必要な時に引き出す方法がなければ、机の周りに積み重なる書類の山でで辟易してしまうことだろう。

 それにより、官僚制や、文書管理責任者(法律家や会計士など)の役職が固定化することとなっていった。

コンピュータへの教育

 そして今私たちは、更に思考方法を変えて、コンピュータに対して分かりやすい言語を用いるようになっている。1か0の世界。2進法。
 外部記憶装置(ハードディスクやUSB記憶媒体)に記憶(日記やブログ)すらも保存するようになった。

 人工知能は、1か0の書記体系で、サピエンスがどのように思考し、感情を有し、表現するのかを教えようとする試みだ。
 そうすることで、私たちの生活や人生がより豊かになることを信じて。

 この、人間とサイボーグとアンドロイドとの違いという部分については興味のある分野だ。
 精巧なラブドールがつくられ、リアルなアンドロイドが作られている。

https://www.youtube.com/watch?v=KmTRU04AvRc
 ↑これはまだ不気味の谷が残ってる

https://www.youtube.com/watch?v=BQvX8UKN4VI
 ↑これは3DCGだが、ここまでくるとアリだ、と思う

 見た目の問題は解決するかもしれない。
 しかし、思考については如何だろうか。

感情の体系

 不確定な要素があるから、人間は人間なのだ。と言い切ってしまえば、人工知能など不要である。
 治水のために暦を発明し、効率的に人を殺すために兵法を深め、自然を支配し自らが豊かになるように人は知識と行動を積み重ねてきた。

 人工知能も、人の生活をよりよくしてくれるものだと、そう信じているから今投資が投資をよんでいるのだろう。

 サピエンス全史でもふれられているが、それに対して懐疑することは、さほど意味をなさない。
 共同幻想(共同客観)が醸成された場合、個々人、少ない集団の考えは、当然「異端」として排除されるか無視されるだけである。

 マトリックスやターミネーターのような、人工知能の反乱が描かれていても、昨今人工知能への期待が高まっているのは、やっぱりそれが、「金になる」と同時に「人にとってよいもの」だという期待があるからだろう。


 しかし恐らく、「人工知能」に対しての印象というのは、今の時点、多くの人にとって統一をみていない。
 例えば、自動運転の技術だって、人工知能なんじゃあないかと僕は思ってしまう。前の車との距離を確認し、白線の内側を走っていることを確認し、アクセルとブレーキ(エンジンブレーキ)によってスピードを調整して目的地を目指す。というのは、人間が行っている思考や行動と何ら変わらない。それを自動的に行っているのだ。

人工知能

 複雑な製造を行う工場でのロボットたちも、「知能」をもっていると言っていいのではないか?

 多分、違う。

 人工知能といっているのは、もっと高次の思考体系……つまり、「創造」ができることを指しているのではなかろうか。
 つまり、プログラミングされたこと(自動運転や工場で製品をつくること)ではなく、新たに、現存する情報から、必要な情報をピックアップし、そこからシミュレートし、新しい結論生み出すようなこと、そういった創造ができるのが、人工知能と呼ばれ、期待されているものなのではなかろうか。

(上のは、完全に世迷い事、というか、何も調べず書いているから、適当極まりない単なる個人的な感想ですらないメモというか落書きだ。)


 そうなったとき、果たして、人間が果たすべきこと、これから学ぶべきことって何だろうか。

 いやそもそも、理想の社会って何だろうか。
 汗水たらして働くことが重要ではない、ということだろう。汗水たらして働くことが重要なのだとしたら、ロボットや工業化や人工知能は不要だ。
 楽して効率的に食糧や価値を生産することが大事だ、ということだ。

(とか考えると、完全蛇足だけれども、やっぱり、「頑張ること」とか、修羅場をくぐりぬけるとか、そういったことが昨今の時代要請に逆行しているように思えるのであるが、これはまた別の機会に)

 と、本の内容と段々かけ離れてきた段階で、終了とする。何だかこのまま続けても終わりがなさそうだ。


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想像上の秩序で膝を叩く
2016/12/17 19:00 | Comments(0) | 学習勉強インプット
今日の一言「自分の感じていることを明確に文字にされると感動するね」
今年の目標その2

ハンムラビ法典もまた秩序である

 腹を抱えて笑った。
 いやぁ、狩猟採集民の生活の分析も面白かったけれども、まだまだ面白さは加速しそうである。




 最近の、というよりもこれまでの中で買ってよかった本のベスト10ぐらいに入りそうだ。
 これを紹介してくれた方には感謝感謝である。

 いやまさか、こうした学術書? といっていいのか分からないが、歴史学的な本で、笑わせてもらうとは思わなかった。
 いや、端的に書けば、紀元前1776年のハンムラビ法典と、紀元1776年のアメリカ独立宣言との対比が秀逸だった。
 そもそも、同じ1776年を対照させるアイディアが面白い、のだけれども、結論的に、どっちも「想像上の秩序」であるという説明が、小気味よいほど面白かったのだ。

人間は自由か平等か

 ハンムラビ法典は、神に認められたハンムラビ王が、上層自由人と、自由人と、奴隷および、男女によって人を分けている。
 一方、アメリカ独立宣言は、同じく神(造物主)によって、生まれながらに自由で平等であると謡われる。

 でも、本当にそうなの? 生物学的にどうなの? という投げかけ。

「我々は以下の事実を自明のものとみなす。即ち、万人は異なった形で進化しており、変わりやすい特定の特徴を持って生まれ、その特徴には、生命と、快感の追求が含まれる。」

 アメリカ独立宣言を、生物学的に再解釈した文章。これがどう面白くて、僕が大笑いしたかは、P.133~から読んでみる必要がある。

 とにかく、僕は思った。
 つい先ほどまで、「あー、こんなくだらないこと書いてたりするのは、きもいって思われるんだろうなぁ」とか思っていたけれども、この本の著者の方がよほどキモチワルイじゃないか!(失礼? いや、敬服である)

傲慢だけれども気持ちいい感覚

 正直なところ、これらの表現類は、僕にとって真新しさはなかった。
 というよりも、むしろ、「ああ、よく書いてくれた」的な感覚である。傲慢である。しかしながら、ちょっと歴史の勉強が好きでしてきた身としては、「人類って、そんな素晴らしいものだろうか」、という感覚がずっとあったのだ。
 自由と平等。美しい国、ああ、そういった表現は素晴らしいし、それに根差す社会システムもまた批判されるべきものではない。

 けれども、どっかしらおかしくないか? という感覚。「法律」は、絶対的なものだと、現代特に日本人は思っている。けれども、その法律なんて、その時代それぞれで変わってきたものだし、今この時点でさえも、国会では法改正の議論がされている。
 法律とか憲法とか、そうしたルールというもの、それ自体が「共同幻想」的(みんなそれが正しいと思うから正しい)なものに過ぎないのではないか、という感覚。

 その感覚は、「正しい」かどうか別として、「危険」なものだから、多くの人に忌避されるし、「お前は何をいってるんだ?」「ガキだな」「危険な思考だ!」と排除されることとなる。

 賢いエリート層は、そんなこと気付いたうえで、一般大衆を操るためのツールとして活用する。

 僕は賢いエリート層ではないが、一方で、社会(もそうだし、人間そのもの)の矛盾(というか、不十分性)にも気付かないままでいられなかった(真の凡人足りえなかった)ため、「中間派の苦悩」とか、意味不明な言語表現で、なんとか生きづらさというか、「くっそつまんねーな人生」という感覚を表現しようと試みてきた。


 まぁ、その試みは、未だ何ら成果もないし、表現し尽すこともできずに、中途半端なままなのであるけれども、だからこそ、この本で書かれていることが、非常に痛快に面白かった。

カオスを認めるということ

 著者も、その点も当然分かっていて、「ハンムラビ法典が神話だというのは受け入れられても、人権も神話だということも受け入れるのは、多くの読者にとって難しいだろう」と。

 でも、僕が生きるこの何十年かでは変わらないかもしれないが、きっと、もう数十年、数百年したら、きっともう、サピエンスが、「神話」に基づいて協力体制をしいていることは、多くの人に受け入れられていくことだろうと思う。

 漫画とか、アニメとか、映画とか、小説とか、その他エンターテイメント作品においても、この世界の不平等さ、矛盾、カオス、絶望といったものの取り扱いが、どんどん鋭敏になっているように感じられる。

 それは、個々の作品においては、単なるカタルシスかもしれないが、僕は、決して、人々を厭世的にさせ、絶望を与え、破滅に追いやるものではないと思う。


 僕の言葉で書けば、

「反転したポジティブ」

 ということになる。落ち込んで、嫌になって、憎しみ、哀しみ、怒り、絶望し、無気力になって……そのうえで、「ああ、くそみたいな人生で無茶苦茶楽しいな」と、反転して感じられるようになること……、うーむ、何か表現がやっぱり気持ち悪いけれども、まぁ、何となく分かるだろう。

 その上で。

 生きる意味なんてないし、人類はいい人ばかりじゃないし、くだらなくつまらないとした上で、だからこそ、「こうする」「こうしたい」「こうあるべきだ」という感覚。

 そうしたものを選択していくということが、先日こき下ろした、「自分の頭で考える」ということなんじゃないのかな、と思う。



 あり得ないのは分かっているけれども、最近特に、「ああ、どうせ俺の感覚に共感してくれる人などいないのだろう」という感覚が、実感として深まってしまっていた。70億人いるんだぜ、人類? それなのに、お前みたいな凡人レベルの感覚や思考が、世界でたった一人のオンリーワンなんてありえるはずがない。それは「知識」としてそう思いつつも、実感としては、そう思わなかった。(この知識と実感の乖離という問題は、長らく自分の中で大問題であり、今も解決できていない重大案件の一つである)

 それが、この作品(敢えて物語性を含めて作品と表現する)によって、この本がベストセラーになっていることから、そのうち何人かは自分と同じように大笑いした人がいるだろうと、少し信じられて、孤独感が少し薄れた、そんな気がした。

孤独感

 いやはや、それにしても傲慢な記事である。
 こういうのを、「黒歴史」というのだろう。視野狭窄に陥った中学生的な邪気眼的発想。

 まぁでも、そう感じてしまう、感じてしまったのだから、仕方がないだろう。それが「大人として」「社会人として」思考(感情)エラーだということは分かっていても、内なる心として発する声を無視してはいけないと、そう思う。

 その結果、友人を失い、恋人を失い、家族に勘当され、職を失ってでも……ということは「無い」のだから、まぁ、せめて、ブログとしてだけにとどめておこうというわけである。


 そしてふと思ったのだけれど、俺はやっぱり、寂しいのかなぁ。
 それでいて、他者と一緒にいる時間が多いほど、その孤独感ってのが深まってくという感覚は、恐らく、「本当の自分を誰も分かってくれない」という思いが深まっていくからなのではないかと思う。

 でた、でた、これまた気持ちの悪い表現である。うら若き女子中学生か、と(女子中学生をバカにするわけではない)。
 エリートは孤独だとか、出世して立場が上になると孤独になるとか、そんなこと言われたりするけれども、エリートでも地位が高いわけでもないのに孤独を感じるとは、まったくもってこの世界は不平等である(かっこわらい)。


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農業革命がもたらした悲劇
2016/12/12 19:00 | Comments(2) | 学習勉強インプット
今日の一言「僕たちはお米の奴隷なのだ」

サピエンス全史ようやく農業革命へ

 遅読にもほどがある。ようやく紀元前1万年あたりの農業革命に到達する。
 ちょっと今、何も見ずに、覚えていることをまとめてみようか。

○種は、生殖で繁殖する生物同士の集まり。属は、先祖を同じくする種の集まり。えっと、科って何だっけ……? 何か、もっと広い共通する集まり。

○サピエンスは、認知革命(虚構の言語)の使用により7万年前ごろから爆発的に発展した。東アフリカに達して、ネアンデルタール人とかは絶滅した。1万年~3万年前ぐらいまでの間に、サピエンスが唯一の人類となった。

○サピエンスは、その多くを狩猟採集によって生活していた。狩猟採集は、危険もあったが、狩りは三日おきぐらいでよかったし、採集も毎日数時間でよかった。現代人のように一日中働かなくてもよかった。

○狩猟採集生活は、100人程度の集団であった。その集団は、様々な信仰や様々な生活様式がありえた。一様に論じることはできず、非常にバラエティに富んでいた。例えば、20世紀の暴力による死者は5%ぐらいである。狩猟採集民の中では、部族の中でほとんど暴力で死んだと見受けられない集団もあれば、4%に匹敵するほどの暴力による死者がいた集団もあった。

○狩猟採集民も、30メートルもの巨大な石柱を建てたり、宗教的な活動をしていた。


 などが、印象に残っているポイントかな。

 今日読み進めた部分では、危険な種ということで、オーストラリア大陸に到達したり、北アメリカ大陸に到達して、2000年かそこらで大型動物を絶滅においやった張本人だということだ。
 大型動物の絶滅は、気候変動だとする学者もいるが、人類の関与を覆い隠すことはできないという。

農業革命

 食糧生産革命ともいう。
 現代にも続く、農耕社会の基盤は、約1万年前に積み上げられたものだということは、既にあった知識であるけれども、この本で学んだこととしては、そもそも、何故狩猟採集民が、農耕に精を出そうとしたのか。

 それは、農耕が優れた生存手段だったからではない。

 むしろ、農耕は、モノカルチャー(単一作物)に頼ることの旱魃等へのリスクや、狩猟採集生活のおおらかで余裕のあった(本当にそうかは別として、働く時間は少なかったとされている)生活を手放さざる得なくなった。
 焼き畑農業で、適当に種をまくよりも、地中深くに種を埋めて、せっせと水くみをして、雑草を取り除き……。

 豊かになるはずの生活は、他集団との抗争にも発展したり、子供が増えると養うためにもっと多くの食料を必要としていった。


 ……と、農耕社会の負の側面が描かれている。

 インターネットや電子メールは、不特定多数の、即座の、コミュニケーションを可能にしたが、それによって私たちの時間に余裕はできたのか。必ずしもよいことだけではなかろう、と。

不可逆的な発展

 だから、自然の、過去の、豊かな自然との共存を目指しましょう!

 となると、よくある環境保護論者と同じになってしまうが、この辺りへの苦言も中々面白い。というのは、狩猟採集民は、上で書いたように、恐ろしく大規模に、多くの動物たちを、自然を破壊していったのだ。
 農耕民も言うに及ばず、家畜化した動物たちへの虐げは中々のものである。ある部族では、豚の所有が身分の高さ、富の高さを象徴していた。ので、豚の鼻をそいだり、目をくりぬいたりして、豚を逃げ出さないようにするとか、そもそも、今の畜産業への言及も、いうにおよばず。

 とはいえ、個々の生物的には、別に農耕することが、今後ますます自分たちを奴隷化させていくなどとは、思ってもみなかったろう、というわけだ。
 そのうち、狩猟採集の生活様式を覚えている人たちもいなくなり、今目の前にある農業、小麦をどう育てるか、収穫量をどう増やすか、盗賊や他集団の敵から守るために環濠を築き監視をおいて戦うための武器をつくるか、……そうした、「前向きな」考えが心をとらえたことだろう。

前向きな生き方とは

 この記事は、インプット目的のものなので、あまり自分の感想をはさむ余地はないが、「戻ることもできないが、ただ、目の前の課題にだけコミットしていては、結局我ら人類が農耕を始めてしまった計算違いと同じ過ちを繰り返すだけではないか」という感覚である。

 先日書いた通り、虫、キモチワルイ、長野のアルプスで新種のゴミムシが見つかったというが、ものすげー興味がない。狩猟採集民は好んでタンパク源である昆虫も食べたろうが、そんな生活をしたいとは一切したいと思わない。

 ただ、重要な視点を、この書籍が与えてくれるのは、生物学的な「進化」と、個々の幸福や満足とは、関連しない、ということである。

 ウシ、ヒツジ、ニワトリといった家畜たちは、稀にみる大発展を遂げた。ウシヒツジ10億、ニワトリは250億もいるという。先日、鳥インフルエンザが流行ったということで、数万羽ものニワトリが殺処分されたとみて、「おぉ……」と思ったが、そもそも、世界中に250億羽もいるのか。1%にもみたないというわけか。

 でも、それって、「進化」的には大成功なわけだ。

 人間の都合で数万、数億単位で殺され、自然的な欲求とはかけ離れた生涯しかおくれないとしても、生物的には成功なのだ。それって、なんという皮肉だろうか。


 しかしこの問題は、哀れな家畜たちだけではない。

 僕らもまた、70億人の人々のうちの、たった一人でしかない。

 矮小な存在でしかない。家族とか、会社組織とか、国民国家とか、そんな大きな枠組みに自分をコミットしたところで、結局、人類といった大きなフレームの中では、歯車ですらないのである。

 会社社長はちょっとは影響力があるかもしれない。国家規模の資産をもつ資産家たちは個人の影響力は強いかもしれない。

 しかし、古今東西存在し、反映した帝国、英雄たちも、いまや伝説として残るか、残らないかに過ぎない。その陰には、歴史にすら残らなかった名も知れない多くの無価値なサピエンスの屍に溢れていることだろう。

厭世的になろうというのではない

 だから、生きていても意味はないんだ、死のう。

 俺は、別にその選択を決して無視しない。

 むしろ、考え抜いて、その上での自死は、平凡な生涯を送り、悩み多い人生を長い時間過ごし、人類という発展のため寄与するよりも、よほど、人間的で尊厳的な在り方なのではないかとすら思う。

 だがもちろん、そうではない生き方だってあるはずで、人類の発展への寄与が悪いことであるという確固たる根拠だってない。

 どちらにせよ、「考え抜いて」……このブログで言うところの、徹底して、という形容表現に未だ到達していないとしたら、どちらの道も自信をもって選ぶことはできない。


 だから、こうした表現すべては、厭世的でもなければ、諦念でもなく、新しい価値や創造のための試金石、思考実験なのだけれども、多分、多くの人に誤解というか(いやそれは決して誤解ではなく、恐らく、「その人にとっての真実」なのだろうが)不安や恐怖を与えてしまうことだろう。

 その可能性を、決して、6歳の少年ではないのだから、分かっているのであって、それは対人コミュニケーションにおいて、自動的にストップが、自分の中でかかる。すげーこれが、めんどくさいと思う。しかもこれ、正常に働けば働くほど、他者に興味がなくなるという危険極まりないトラップだ。ので、せめて「徹底して」考えるときぐらいは、すべてのリミッターを外してやろうと思うのだ。
(ものすごい関係ないことを書けば、東京マグニチュード8.0で、「僕だってパパやママが無事じゃないかもしれないなんてこと、分かってるよ!」と姉にぶつける少年、感動した)


 しかし、時間切れだ、取りあえず、非常に気に入った表現を最後に書いておく。

 農業革命は、人類を、小麦の奴隷(家畜)にしたのだ、と。

 つまり、風に種子を飛ばして偶発的に発展するしかなかった小麦や稲やジャガイモやカボチャたちは、人間たちにせっせと世話をさせることで、稀に見る発展を遂げたのだ、ということだ。
 先ほどのウシやヒツジやニワトリといった家畜との同じロジックだが、植物はより単純な生物ということで、より分かりやすいように思える。「小麦たちの幸せを思えば、偶発的に生息していた方が自由で良かった」とはあまり思えないから。

 いやぁ面白い本だと思う。ようやく上巻の半分ぐらいだ。ただ、どちらかというと、この、人類の発展的な部分が、ここ数年一番調べたいというか、興味をもっていた部分だったから、この後の流れはどうなんだろうかとも、若干懐疑的でもある。(一般的な世界史的な書物は読んだことがあるけれども、このサピエンス以前から、狩猟採集民としての生活部分をこれほどの紙面を割いて説明しているのは初めて知った)







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概念を学ぶとはどういったことか?
2016/11/23 12:46 | Comments(0) | 学習勉強インプット
(ナーガールジュナの中論の解説を読んだ感想から)

起承転結

 知識や記憶には、名称的なものと、概念的なものとがある。

 例えば、「起承転結」という、文章を書く上で、他者に伝わりやすいとされている概念の解説を試みてみよう。【起】

 起承転結とは、まず、
・問題提起
・問題提起を受けた説明
・見方を変えた説明、例示など
・まとめ、結論
 という流れで文章を書くことである。【承】

 初めてこの概念を聞いた人に分かりやすく伝えるには、まずは、「起」と、「結」だけを覚えておくように、と伝えてもよいかもしれない。伝えたいことを初めに簡潔に挙げて、それのまとめをする、というやり方。これはそれほど意識しなくても、普通行っている話し方や書き方だと思われる。
 ビジネスの世界などでは、結論を先に話して、後から理由を述べる(三つくらい)ということも言われるが、実はそもそも、いきなり「結論」なんて言っても、上司どころか誰にも言いたいことは伝わらないのである。というのは、「結論」といいつつも、必ず、何の話かという小さなごくわずかな、「起」が組み込まれているからだ。【転】

 故に、起承転結という話し方や文章の書き方について、いきなり実践するということでなくても、まずは、起として問題提起を行って、次に結としてまとめる、ということを意識することが、新しい概念としてインプットする際には有効になるだろう。
 それが慣れてきたときに、より面白く、印象的な話や文章にするために、起承転結の、承や、転といった方法を学んでいけばよいのだと、私は思う。【結】

概念のインプット

 上の、起承転結の説明において、僕が言いたかったことは、何となく伝わると思う。表現的に回りくどかったり、その説明必要か? という部分もあるだろうし、論文的にはたくさん添削がされそうである。
 ただ、新しい概念を覚えようとしたときに、一気に全部完璧に覚えようとするのではなく、まずは、大きなところ、簡単なところ、本質的なところに絞って、それを実践して使っているうちに、自分の記憶や価値観や信念といった部分まで浸透していく、身についていくと、そういうことが言いたかったということが、何となく伝わるはずだ(え、そんなことどこに書いてあったかって?!)。

 別に、起承転結の説明がしたかったわけではない。ただ、僕が上に書いた説明というのは、多分、明日になると、また違ったものになっていると思う。恐らく、表現も全然別なものだろう。起承までは、かろうじて似ているかもしれないが、転結の部分は、全く異なっているかもしれない。

 けれども、僕は恐らく、この先も、何度でも、起承転結という「概念」の説明を、行うことができる。
 これが、概念としてのインプットが成された状態である。つまり、表現や言葉が異なっても、論理的な、流れに沿った説明(アウトプット)が可能な状態、それが概念としてのインプットなのだ。

世俗諦と勝義諦

 書こうと思ったことと、全く関係ないことなのだけれど、この「諦」という漢字、「あきらめる」と読めるけれど、仏教的には、「真理」を意味する言葉でもある。
「違和感ありますな~」とどこか、前の記事で書いたことがあったけれども、でも、今思ったのは、仏教は、ある種「諦めの思想」であるともいえるから、「諦」という漢字が「真理」を意味するというのも、何だかそう考えると深イイ話な気がする。

 で、今回のインプットとして、本来的に書こうとしたことにようやくたどり着いたが、この世俗諦という概念と、勝義諦という概念のインプットを試みようというものであった。

 昨日、空の論理、を読んでいて、登場した概念である。



 簡単に今時点でインプットできたことを書けば、世俗諦とは、言葉で説明できる、概念化可能な世界のことであり、勝義諦は、言葉で説明できず、概念化もできない世界(涅槃とか悟り)のこと。

 こういった対比にしてしまうと、単純に、「ああ、じゃあ、真理的な、勝義諦を目指していきましょうって話しなんだね、はいはい」となってしまいがちであるが、ポイントはそこにはない。
 どっちも大事だよ、ということを、1世紀~2世紀ぐらいに活躍されたナーガールジュナさんが言うのである。
 
 いやむしろ、

・概念的認識によらなければ、究極的な真実(空性)は認識できない

 という意味でもちいているのだ、という解説をされている方もいらっしゃる。

補足、否蛇足

 短く書こうという実践でもあるので、取りあえずこの記事はここまで。

 これから先は、その概念化できないこと、言葉にできないこと、というのが、どういったものなのか、もう少し深いインプットをしていきたいと思う。(ああ、どうしても、こういったことを求め始めると、いわゆる怪しげな宗教にはまっていくのではないか、という疑念が発生する。ただ、僕がキリスト教をどうしても深く調べようと思えない理由が、その「絶対的帰依」によるものだという点において、無批判な信仰という状態には、恐らくなれないと思う。一方で、宗教にはまる人とは、ある程度知識があってしかし主体性を見いだせない人だ、という分析などもあり、ありゃーやばいんちゃうか、と思ったりもするが、「他者」から学ぶ、ということを行わない(行えない)故に、その安全性は確保されていると思われる。これが、まさしく孤独、という感覚なのであり、同時に、他者への懐疑という哀しき性質なのであるけれども……おっとと、短く書こうという気持ちを排すると、瞬く間に無駄な文量が増えていく)

 概念化できないことって、思考からの逃げ、にも思えてしまうけれども、ただ、人は言葉によってしか考えることができない、という意味において、その言葉を排した世界というのを想定するということは、同時に可能になるのである。
 ここに、7万年前の認知革命で生じた虚構の言語、の物凄い可能性が秘められているのだな、と実感レベルで思わざるをえない。

 いやぁ、だってですね、虚構、として、神話とか、創造上の物語を語れるってだけで、人間(サピエンス)が用いる言語のすごさは分かるけれども、更には、「言外のこと」まで想像できてしまうのだから、やっぱり、(虚構の)言葉の力ってすごいよね。

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虚構の言語
2016/11/20 22:03 | Comments(0) | 学習勉強インプット
サピエンス全史まだ紀元前から進んでいない。
ただ、むしろ思うに、この初期の人類の構成、そして発展こそが、非常に重要な点だと思う。

言語は人だけのものにあらず

 言われてみれば当たり前だと思いつつも、明確に文章になっていると改めて感心する。
 250万年だか、200万年だかその辺り、原人やホモ・エレクトス辺りの時代から、ヒト属は、言語を用い始めたという。

 しかしながら、言語は、別に人だけが扱えるものではない。

 人の特徴として、学校教育においては、二足歩行、火の使用、言語、の3つを挙げるが、何のことない、クジラやチンパンジーやオウムなど、他の、ヒト(ホモ)属以外の種においても、言語は用いる。

 サバンナモンキーという種は、「気を付けろ! ライオンだ!」という言語と、「気を付けろ! 鷲だ!」という言語を使い分けるという。

 しかし、現生人類(サピエンス)は、「虚構の言語」を用いることができる点で、他のヒト属と大きく異なり、結果的に、1万年~3万年ごろには、サピエンスオンリーの状態になった。

認知革命

 虚構の言語を用いることができるようになった時期、7万年ごろを認知革命というらしい。

 虚構の言語とは何か。
 それは、噂話とか、想像上の物語を表現する言語のことである。
 サバンナモンキーという種も、嘘はつけるということなので、嘘が人間固有のものかというと、それもまた異なる。ただし、神話や伝説、宗教といった表現、物語をつくり、信じることができるのは、人(サピエンス)だけだ。

 この、認知革命が、何故サピエンスという種だけに発生したのかは、分からないという。ただ、この認知革命がもたらしたこと、その必要性について、この「サピエンス全史」は、これから先突き止めていくという。

想像が何の意味があるのか

「ちょっと、森にユニコーン探してきますわw」
 とかいう人は、シカやキツネなど、食料を求めて森に入る人に比べて、生存確率が相当低いだろう。

「我が部族ライオンの守護神への祈りを!!」
 とかいってるより、狩りしたり生殖に励んだり、他にすることあるだろう?


 果たして、何故、想像の言語、「虚構の言語」が必要だったのか。(逆に、そうした能力をもつサピエンスだけが絶滅を免れ生き残ったのか?)


 神話や伝説、宗教は、その「集団」で信じることができるからだ。
 前述の、噂話は、確かに、ある集団において、誰が信頼できる人間かを取捨選択する際に非常に有効である。といったような記述を見て、僕は、世の女性たちが噂話が好きな理由もそこにあるのではと邪推した。
 会社の昼休みなどでも、女性たちはよく親しい仲間と一緒にランチして、短い休憩時間のほとんどをお喋りで費やす。そしてその中身は、だれだれのうちの息子はどうしたとか、他の部署のだれそれが仕事でどうしたとか、そんな噂話が中心となる。

 それら噂話は、サピエンスが手にした、高度な生存戦略だったのだ!

 そう考えると、変な同調圧力とか、理由はよく分かる。まさに、「誰がいらない人間か」「誰が信じられない人間か」を、ふるいにかけているのが、まさに女性たちのお喋りなのである。居心地がいいはずもない。
 しかし恐るべきは、その居心地の悪いはずの空間を、女性たちは本当に楽しんでいるのである。楽しめる能力も手にしているのである! 何故か、とまた邪推すると、女性たちは生物的に体力や腕っぷしがないため、そうした言語という武器によって、より優れた男とセックスして子孫を増やせるように特化していったのではないか。

 とまぁ、本の内容とはかけはなれた邪推であるが、ただ、敢えて強調するために、わざと「女性たち」という表現を使ったが、これは別に男性も同じだと思っている。僕はもともと、女性がどうこう、男性がどうこうとかいう、ジェンダー論的なのも胡散臭さを感じている。男性だって、居酒屋で夜な夜な上司や同僚の噂話や愚痴に花を咲かせているではあるまいか。
(同時に、生物学的な男女の差異や、社会的性差の存在が皆無だという主張をするのでもない、立場的というか思想的に、「興味がない」というのが近い表現)

150人を超える集団の統率

 その噂話で維持できる集団の限界が、150人程度だという。では、サピエンスはどのようにして、巨大な集団の維持を可能にしたのか。
 もう何度も書いてきてしまっている(起承転結がなってない文章だ)が、神話や伝説や宗教である。
 社会的構成概念、虚構の言語、想像の現実。

 これは、前から書いてきている、「資本主義もまた信仰の一つだよね」というのと似ていたから理解がしやすかった。
 この本においては、有限株式会社が例に挙げられていた。即ち、法人という想像上の人格を創り上げることで、個人では責任を負いきれないことも可能にしたのだ。プジョーという会社は、創始者が死んでも、従業員が入れ替わっても存続するが、法的根拠がなくなると、一瞬にして、幹部職員が残っていても、会社の機械が残っていても死に絶えるのである。

 法律が絶対だ、と思っている我々であるが、その法的根拠、といったものも、サピエンスが培ってきた発明品なのである。

まとめ

 宗教や、ナショナリズムだとか、神話や、資本主義、法律といった様々な高度な文化。
 もちろん、その中でも資本主義と法律については、密接に僕たちの生活にかかわっているから、逃れることはできないことは十分に理解しつつも、どうしても、それらの「信仰」に対しては、違和感を覚えていた。

 その原因の一つを、この本では明らかにしてくれる(完全に新しい概念を生み出すというよりも、モヤモヤ悶々として霧がかった状況を、明瞭に表現してくれるのではないかという期待)のではないかと思った。

 まぁ、忘れてはいけないのが、バタイユさんやキルケゴールさんがおっしゃる、「芸術はすべて死の恐怖からの逃避である」とか「客体の問題は主体的な問題の苦悩を遠ざける」といった言語表現であろう。
 ただ、インプットとアウトプットは両面必要なことなのだ、というのも、明確にここで残しておこう。
 それにもう一つ、これは単に妄想に過ぎない気もするけれども、やっぱり、「物語」というのが重要なのだ、ということの示唆や確信、実感にも繋がるのではないかという期待もある。そうであれば、まさに、今ここで、主体的な問題に取り組んでいるともいえるだろう。

追記というか蛇足というか

 ところで、ある方からコメントを頂いた。自分が尊敬している人から褒められるというのは、何だかあまり無い経験なので、何だかとても嬉しい気持ちになった。どんだけ褒められる体験が少ないんだ、ということでもあるが、親や教師や上司や同僚や友人や恋人やその他大勢の人がいても、何だか、その「役割」的な部分における行為が褒められても(いやもちろん、それはそれで嬉しいし、やりがいになるし、生きがいになることなのだが)、どこか「できて当たり前」的な感覚が生じ、「嬉しい」という感情の抑圧に繋がっているように思えてならない。

 つまり、「素の自分」に対する承認という部分である。

 無茶苦茶な、厳しい言い方になってしまうが、「お手伝いができて当たり前」「仕事ができて当たり前」「女性に優しくできて当たり前」ということである。その「役割」において、何が求められているか、というのが、何となく感じ取れてしまう(と書くと、傲慢に過ぎないし、他者が本当に何を求めているかなんて、エスパーじゃないのだから分かるはずがない。ただ、ここで表現しておきたいのは、そうした「感覚」についてだ)。
 その求められる役割について、何となく、その方向に行為してしまう。そして、それと違う行動をとってしまったとき、イライラが生じたり、落ち込んだりする、と。まぁ自己分析すれば、よくあるパターンである。
 で、さらに悲しき哉、その求められる役割に対して、何らかの行為を行い、それが褒められたり、成果になったとしても、何となく嬉しいのだが、さほどのモノではないのだ。

 そのため、昨日の記事は、特にあまり意識していたわけでも、言いこと書こうとしていたわけでもないため、(いや実際、今読んで見るといつものようにグダグダな文章であるわけだが……)、「よかったですよ~」的な一言であっても、かなり真に迫って嬉しいものになるのである。

 それはそうと、ネアンデルタール人の女の子可愛かった。


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