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「オタクを降りた。何も残ってない」を読んでの感想は「労働や生活も虚しい」と思ったこと
2025/12/15 23:59 | Comments(0) | 思考及び書くこと

AIさんに要約してもらった忙しい人向けまとめ

他人の「オタクを降りて虚しい」という告白を読み、共感しつつも違和感を覚える。
労働・生活・趣味のどれかが特別に偉大なのではなく、突き詰めればすべて等しく虚しいと考える。
それでも、過去に熱中して楽しかった時間は否定されるべきではなく、それ自体が人生の価値だという立場を取る。
生きる意味は本質的にはなく、人は偶然生きているだけだが、それでも生きていて問題はない。
誇りや意味に縛られず、今あるものを見つめ、理不尽な破壊に向かわずに踏みとどまってほしいと結ぶ。

ここから人間の文章

 生きる意味を徹底して考えるブログの私としては、見過ごせない記事を読んだ。

■オタクを降りた。何も残ってない
https://anond.hatelabo.jp/20251125192426
悲しい。
ほんま悲しい。
オタク趣味は虚しいわ。
つーか「趣味」が虚しい。
「労働」や「生活」は偉大よ。
生きてきた時間に誇りが持てる。
俺も誇りを持ちたかった。
 なるほど、上の記事の筆者は、「オタク」をやってきたが、歳をとってそこまで熱中できなくなったのだろう。
 筆者が何歳かは分からないが、やり直しはいくらでもきくと思う……ということはどうでもよくて、私が気になった点は大きく二つ。

 一つは、「労働」や「生活」を偉大とみなしていることだ。
 これは、よくある勘違いだと思う。未婚だと、結婚している人が羨ましく思うのと同じように、それぞれの生活は、メリットもデメリットもある。そして、そのメリデメリは、その人自身にとっての享受がどの程度かにもよる。

 いやもしかしたら、ずっと引きこもりないし生活保護などで、本当に労働をしていなかった人なのかもしれない。
 だとしたら、確かに、「趣味」よりかは、「偉大」なのかもしれない。



 まぁなので、筆者の置かれた立場によって、共感できるか、そうではないか、というのは変わってくるように思える。
 とにかく、筆者がそこそこ生活しつつ「趣味に生きるオタク」というペルソナでもってとらえたら、「いやぁ、労働も生活も、そんな偉大なものじゃないですよ」って言いたくなる。

 まず一つ目の違和感はその点である。



 二つ目として、虚しさレベルの感じ方である。
 等しく、虚しい、と感じる。

 生きていること自体が、虚しいし、労働も、生活も、そして趣味も、等しく、虚しい。

 私はそう感じている。

 虚しくないことがあるとすれば、それは、「虚しくない」と自分で思えるかどうか、である。

 虚しさでいえば、この記事自体がそもそも虚しい。

 私がこうして文章を書いていること自体も虚しい。

 何にもならない。意味がない。

 いやこの文章を書くことで、誰かがチップで、コーヒー代を出してくれるのであれば別であるが。

 コーヒーもぴんきりだからな。仮に200円としようか。コンビニコーヒー。おいしいよね。




 2つ、違和感があると最初に書いた。
 一つは、労働や生活が偉大という点。
 二つ目は、趣味が虚しいという主張に対しての、そもそも全部虚しいんですけども……という点。

 筆者に対して、前々慰める気が起きない点が私の酷いところなのだろう。

 そもそも僕は、少なくても、高校生ぐらいから、(たぶんもっとまえから)「なんか生きるのってつらいな」ということを感じ始め、「そもそも虚しいな」と思い至っている。

 だましだまし、これまで生きてきてしまった。

 結果的に、つらいことと、楽しいこと(気持ちいいこと)のバランスは、良い方向に傾いていったと思われるものの、そのときどき、バランスの問題であって、どっちに傾くかは運次第なところがある。

 故に、生きていてよかったのか、早く死んでしまっていた方がコスパがよかったのか、総括して、断じることはできない。



 筆者は、その、オタク趣味から降りることになった方は、どうだったのだろう。

 いまは、きっと、つらい気持ちでいるんだろうと思う。かわいそうに、思う。憐れむとか憐憫とかではなく、本当に、かわいそうで、共感してつらくなる。

 でも、その方は、オタク趣味全開で楽しんでいるときは、どうたったのだろう?

 楽しかった、のではなかろうか?


 そしたら、その方の人生は、とてもとても、素晴らしいものだったのではないだろうか?

 死ぬ瞬間だけが、人生の+-を決める一瞬になるのだろうか?


 人生とは、そういうものではなくて、総括されるものではなかろうか。
 ものすごく、熱く、楽しい期間があったのなら、それでいいのではないだろうか。

 あとはもう、燃えカスのように、過去の自分を卑下して、悔やんで生きていくだけだとしても、それでいいのではないだろうか。

 そんな風に、僕は思う。



 昨今、長い文章は読まれないらしいので、まぁ気にする必要はないけれども、誤解を生まないように、もう一度僕の書きたかったこと、感情を書いておこう。

 筆者は、今はつらいんだと思うので、かわいそうだなと思う。
 でも、慰めようとは思わない。
 オタク趣味で楽しんでたその瞬間の「自分」というものは、なかったものではない。
 今燃え尽きているのだとしたら、それこそが、当時の自分の熱中を示していたのでは?
 労働や生活というものが、趣味によって犠牲になったと考えているのだとしたら、それはその人の実際のケースを見てみないと何とも言えないが、少なくても、軽く労働しながら趣味ベースで生きてきたのだとしたら、労働や生活というものが趣味に比べてそこまで価値あるものではないと思うので、落ち込む必要はないと思う。
 それは、趣味<労働とか、趣味>労働という意味では全くなくて、等しく虚しいということだ。趣味<虚しさ、労働<虚しさ。虚しさこそが真理に思う。
 生きていることに意味はなく、ただ単に、偶然、生きているというだけに過ぎない。
 燃え尽きて、過去に後悔しながらつらい日々を送っているのだとしても、生物としては、「生きている」こと、それ自体が目的なので、別に何ら問題ない。
 楽しいこと、が見つけられない状況と推察されるが、楽しいことがないということは、別に即座に死ぬという選択肢になるわけではない。後悔しているうちは、まだ死なないと思う。
 生きている意味があるとしたら、死んでいない、ということだと思われる。
 ただそれだけなので、とにかく、誇りとかそういうの気にせずに、まずは自分の、いまある「もの」を書き出してみるとよいと思う。
 身体。貯蓄、資産。人間関係。物。少なくても、ネットにカキコしてるんだから、スマホか、PCはあるってことだろう。スマホかPCがあれば、できること、めちゃくちゃたくさんあると思う。
 まぁ、なんだ、その。
 話し相手が欲しいというのなら、僕が聴いてあげるから、とりあえず、テロとかそういうのは、思いとどまって欲しい。
 なんというか、理不尽さが僕は嫌いだ。
 理不尽に通り魔事件で害されるといのは、かわいそうだと思う。
 何かその、前にニュースであったが、同じ職場の同僚にキレて害した事件があったと思う。せめてそういうのであれば、分からなくはない。いや許されることではないと思うが、一応、理不尽さは、通り魔事件よりは幾段もマシだ。
 いや繰り返し述べるが、害人はよくない。原則として。
 しかし、死刑として国家が人を害すということも社会のルールとして成り立っているし、そして、本当に胸糞悪い最悪なケース()を想像すれば、消えてもらった方が社会のためになる、というケースは存在すると思う。
 ましてや、「戦争」という人を害すということも、大義名分の中で、この現代でも起こることが証明されている。害人はよくないというのは、所詮は「原則として」という前提をおかなければならないのだ。
 だが、その、趣味を見失って絶望してしまった筆者が、無差別に人を害するというのは、なんだか違うと思うのだ。
 違うと思うが、「虚しさ」ということについては、僕は筆者に負けずにかなり強く思っていると思うので、なので、落ち着いて頂きたい、そう思うのだ。

(●人とか、サツという漢字が怖いので、害するという表現にしておいた)



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