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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「睡眠と書くこと、優先順位の判断が難しい」

24時を過ぎても書かなければならない

 22時過ぎ帰宅。もろもろ作業をし、23時45分。こっから書き始めたら、まぁ24時は過ぎてしまうだろう。
 しかし、短くても、書かなければならない。そうしないと、多分眠れなくなる。そうしたら、浮かんだ思考は疲れ果てるまで書き出してしまった方がよい。

新しいルーチンの追加

 運動系のルーチン、日課に、一つ追加してみたいものが生じた。
 あるブログさんで推奨されていたので、前から気になっていたのであるが、試しにやってみたら、確かになんだかよい効果がありそうだった。
 しかし、まだ具体的には書かない。結局続けられなかったら恥ずかしいからだ。
 一週間程度継続できたら、ブログ横のカウントアップカウンターに追加しよう。

 そういや、筋トレは全く休まず、340日近く続けられてきた(免除規定該当の場合は除く)が、音読のルーチンは、最近、結構できていないときもある気がする。PDCAサイクルで、そろそろチェック・アクション(=見直し)が必要だろう。

 音読は、気力的にきつい日が多いけれども、効果がある(具体的明確には書けない。ただ、自分の声を録音して聞くというのは、自分の言動がどのように他者に伝わるのか客観的に感じられるので、面白いと思っている。)のは確かなので、免除既定の見直しを含めて再度検討したい。

人生フローチャートの作成



 こんなの作り始めて挫折中。
 参考になる情報がないか探しても、いまいちぴんとくるのがない。

 ――30代が陥りやすい失敗パターン5

 検索で出てくるのは、上のようなもの。この中で、「4.結婚しないこと・子供を持たないこと」というのが、人生の失敗要因として挙げられている。
 理由は、明確に否定すべきものがない。しかし、絶対にそうかと言い切れるだけの根拠もない。ただ、昔の人たち、えらい人たちの経験則のようなものであろう。

 この経験則というのがやっかいなものである。
 世代間や異種文化間の争いがなくならない要因でもある。「わたしはこう思う」ということについて、「いや違う」とは、原理上いえないのだ。客観的に「それは間違っている」ということはあるかもしれない。ただし、「わたしはこう思う」ということが、嘘だったということにはならない。その人は、「そう思った」のである。

 結婚するしない、という問題。――それだけではないが、これも一切結論が出る見込みがない。「年取ったとき伴侶がいないと寂しいでしょ」というのも可能性としてあるし、一方、「結婚したことによって不幸になる人もいる」というのも一つの可能性としてはありえる。

 どう生きるか。
 この問題は、限りなく、判断の連続なのである。

思考ループの原因

 ので。タイムリープマシンがあるならばともかくとして、基本、過去に戻ることはできないので、前に進むしかないのである。で、あるならばして、その「判断」というのは、基本的に「正しかった」としていく必要がある。

 ――このことが、年を取った人たちが、「頑な」である原因でもある。長く生きた人は、それだけたくさんの判断をしてきたのだ。それがたとえ、若い人たちからみたら、おかしな判断だったとしても、それを認めてしまうこと、自分の判断の誤りを認めるということは、すなわち、自分の人生が誤りだったというようなものなのだ。
 だから、「言い訳」として、「私たちの時代はこうだった」というのである。もしくは、そのときの諸条件・環境を理由として挙げるのである。



 正直なところ、他の誰がどんな生き方をしようが、それに対してどうこういうのではない。願わくば、路上で喫煙をするような人には消えていただきたいと思うわけではあるが、基本、他者に迷惑をかけなければよいと思う――という言い回しも好きではないのだが。「迷惑」は、生きていれば多かれ少なかれ必要である。もっと視野を広げれば、他の生命を奪うことでしか人も、その他の生命(植物は除く、か?)も生きられない。

 ので、このあたりの話しはあまり置いておいて、――僕は、言い訳が好きではない。

 主張、であればよいのであるが、自己保存のためだけの正当化はしたくないと思う。言い訳は、さらなる言い訳を必要とする。言い訳をしている時間はとても愚かでもったいないと思う。



 ので、僕は、「正しい判断」を常にしていきたい。
 やや飛躍した表現に言い換えれば、「自己同一性の担保」をしたいということだ。

 私はこういう人間だ。
 だからこういう判断をする。
 だからこういう感じ方をする。
 だからこういう生き方をする……と。

 生きていることについて、「意味」をもたせたいのである。

人の中で生きること

 こういった表現は、おそらく、10年前もできていた。問題は、ここからだ。
 まず、「実感として」、おそらく、自分一人で、自己を満たすことは、不可能であろうということだ。

 これも、10年前に「おそらくそうだろう」とは思っていたが、より実感に近いものになったという点で違いがある。
 これについては、一般に、「人は一人では生きていけない」ということで表現されるもの。ただ、これは単に、専門家・分業化した社会として・消費と生産の経済活動により成り立つ社会として、という意味だけではなく、心理的側面も強調したい。

 つまり、これもやや飛躍した表現をすれば、アカシックレコードや、瑜伽行唯識派の阿頼耶識のように、自己というものは本来的に、「遠藤」といった単一の個体で成り立つものではないという認識・実感故であるということだ。

 何をそんな当たりまえ、と言われてしまいそうだが、僕の世界認識は、「関係」で成り立っていると思っている。関係とは、二つ以上の要素が相互に影響を与え合っている状態、またその条件である。

 自己の中にどこまでもどこまでも沈潜していっても、結局、「自己」なるものは存在しないであろうということだ。
 その自己とは、他者であったり、世界であったりと、そのつながりの中で表層している一側面でしかなかろう、ということである。

承認欲求

 という認識のうえで、であれば、やはり「認められたい」という思いを満たす必要があるのだろうということである。

 しかし、ある精神科医さんの「認められたい」(amazon-link)という本を読んだが、おそらく、多くの人には当てはまるような気もしたが、――僕も、ああそうなのかなぁと思ったが、でも、半年ぐらいして、やっぱりなんか違う気もしてきたのである。

 マズローの5段階欲求は有名だけれども、所属欲求・承認欲求を、僕は本当に求めているのだろうか、ということだ。
 なぜなら、ときおり、人から感謝されたり、頼りにされたり、友人と一緒に遊んだり、上司などと飲みに行ったりして、楽しかったり嬉しかったりする中で、どうにも孤独感というか、寂しさが強まっていく感じがあるからだ。

 それを考えたときに、僕の場合のその「認められたい」というのは、「どれだけ人に根源的に必要とされるか」という強度が問題になっているのではないか、ということだ。

 端的に言い換えると、「生きていて欲しい」と思ってくれる人がどんだけいるかということだ。
 きっと、親はそう思ってくれているという実感がある。――が。

 幼いころ自分をとてもかわいがってくれた祖父は亡くなり、祖母は認知症を患い僕のことを忘れてしまった。

 友人は、きっと僕が死んだら哀しんでくれる人が何人かはいるだろうが、しかし、僕がいなければ生きていけない人がいるかというと、いない。

 仕事でもそうだ。確かに、今、とても重要な仕事を任せてもらい、現場の責任者的な立ち位置で仕事を割り振ったりもしている。僕がいなくなったら、困る人はいるだろう。
 が、じゃあ、絶対僕じゃなきゃいけないのかというと、違う。一時的には混乱するかもしれないし、納期が遅くなったり品質が低くなったりするかもしれないけれども、まぁしばらくしたら何とかなるだろう。

絶対必要な人

 そんなん。
 そんなこと言ったら、絶対必要な人なんて、何人いるのだろうか? いや、僕はいないと思っている。
 いやむしろ、いなくていいと思っている。昔、偉い人がなくなったら、一緒に奴隷が埋められた時代もあった。殉死という言葉もあった。でもそれは、もう時代に合わないものだと思う。逆に、認めていいものではないと思う。個人主義の弊害などいくら言われようが、それは過去――やや極端だが全体主義などに比べて、悪いことではないと思う。

 それでも。
 だからといって、人の一人一人の価値が損なわれているとかそんなことではない。
 あいもかわらず、愛というのは美しいし、親は子どもを愛するし、子どもは親を愛する。
 恋人同士は永遠の愛を信じ、身体を重ねて一つになる。


 それらの行為を、人間の営みを、どうして否定できるというのか。

 できるはずがない。そう、人は、生きているだけでとても素晴らしいものなのだ!


 ――と、なかなか思えない、という苦悩である。

 そして、ここから先が重要なのだが……もう寝よう。


(かっこ書きである。というわけで、子どもをつくろうかと思う――となると唐突過ぎる。そして、そんな自分の何だか欲求を満たすために子どもを育ててみようとか、そんなん理由としてありなの? とも思う。いやというよりも、そもそも、僕自身が心底それに憧れているかもよく分からないし、納得できていない。――そもそも、贅沢な悩みである。昔は、男子たるもの、元気な子を生み育てて、お家を守ることが大事なことだった。いまは、結婚しなくてもいいんじゃん? 子どもがいなくてもいいんじゃん? みたいな価値観も「あり」だといわれる。本当にみんなそう思っているかは別として。まぁとにかく、それはそれとして、先日、いつの日か書いたように、まずは、今の自分として納得できる最大の作品を仕上げたいとは思う。子どもの話と何がどう繋がるのか! 大いに繋がるのである。けれども、もう今日は終わりにしよう――ただ、つまり、言い訳などしたくなくて、最大全力を出し切りたいということだ。中途半端に、ライフワークにしようとか、そんなん寝言は寝ていえ、である)

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今日の一言「結局耐えられずに見る」


※グラフの文字数は多いけれども、全然「表現」になっていないから、今後減っていくだろう。

我慢は半日も持たなかった

 欲望など自由にコントロール可能である(キリッ)とかいっておいて、これである。
んじゃあ、すぐ見て元気出せばいいじゃないか、ということだが、なにせ、1時間半ぐらいしかないのである。もったいな過ぎる……。俺の寿命があと半日しかなければ、まずMAXプライオリティでみるんだけど……。
 シュタインズ・ゲート劇場版――負荷領域のデジャヴを視聴する。
 これはアマプラで見れなかったので、レンタル屋さんで借りたものである。

 感想。面白かった(小学生並み感想)。
 なんか、『涼宮ハルヒの消失』(映画)がなんとなく思い浮かんだ。あれも面白かった。
(なんか、微妙に伏線? というか描写の説明が結局なされない点がいくつかあったけれども、まぁ些末事である)(1.空港および公園にいたのは誰なのか? 2.BBQ後に助手を介抱した後の時間経過はどうなっていたのか? 3.サイクリングの描写は何の意味が? 4.助手はなぜ2005年が結節点となる時代だと知っていたのか? 5.シュタインズ・ゲート世界線において、鈴羽は何故そもそもオカリンの存在を観測できていたのか?→あ、これは書いていて気付いた。助手が観測したからだ)

 いや、もっと率直に書けば、短かった……。
 足りないよ、全然足りないよ! もっと長く、もっと深く見たかった。時折、巻き戻しながらみるなんて、いったい俺はどうしてしまったんだ。涙が込み上げてきて一時停止とか俺は何をやっているんだ。


 ただ、見終わった後に、虚脱感はなかった。むしろ、元気になった。
 そう、こういう作品を求めていたんだ。見終わった後に、がんばろうって、あんまり好きじゃないことばだけど、俺もやってやる、生きてやるぞって、そんな風に思えるような。

 そういう意味では、間違いなく、ここ数年、5年~10年? ぐらいの間でトップクラスの作品であった。
 何度か触れているが、『夜天を引き裂く』という作品も、僕に力を与えてくれた。


 何が面白いんだろう? 何が僕にここまでうったえかけてくるんだろう。

 一つ今の自分に書けるとしたら、選べる無数の選択の中で、それが悲劇的な結末になろうとも、自らの意志で選択していくという点ではなかろうか。

株主優待券と格安SIM新規加入特典が届く



 初めての優待券が届いた。また、配当金の受け取りの権利書が入っていた(配当金って、証券会社の口座に振り込まれるものだと思ったのだけれども、郵便局で受け取る方式なのか。この会社がそうなだけなのか)。
 ほぼ同時に、先日切り替えたUQmobileからJCB商品券5000円分が届いた。そして、当月の請求額は、MNP(番号そのまま使える契約)切り替え料金3000円が除かれた純粋な、当月の請求額になっており、2300円ぐらいであった。安いねやっぱり。(あれ、でも、資産予測だと約2000円になるんじゃなかったっけ? 消費税分? あとで調べてみるか)

 使用感としては、一か月に一回ぐらい、ネットワークがつながらなくなったりすることがある。その際は再起動すると直る。格安SIMじゃない人もそういった現象はあるとのことなので、原因はわからない。
 ただ、それ以外の不便さは一切感じない。むしろ、AUのとき1GBまでだったのが、3GBまでLTE(高速通信)使えるようになったので、ニュース見るとか、好き放題使えている。

面白い作品について

 話しは変わる。
 面白い作品について、ちょっと振り返ってみよう。(死に至る病とかウェルテルの悩みとかその辺の(哲学的? 文学的? なのは除く。エンタメ方向で)

 攻殻機動隊、Fate、シュタインズ・ゲート、無職転生、夜天を引き裂く、EDEN……このあたりがトップクラスな気がする。

 あとは、
・ガンスリンガーガール
・サイコパス
・まどかマギカ
・オルフェンズ
・フルメタルパニック
・進撃の巨人
・ドリフターズ
・空の境界
・君が望む永遠
・涼宮ハルヒの憂鬱
・イブの時間


 挙げるのが難しいのは、ガンツとか、ひだまりスケッチとか。最後まで見ていないというのも一つあるけれども、なんかその、「一時的感」がある。言い換えれば、完全消費的なイメージ(「いやエンタメ全部消費だろう?」という人もいるだろうが、僕はそうは思っていない)。
 けものフレンドは機会があったら全部みてみたい。ワンピースとかも読んではいるんだ、が、どうなんだ、面白いことは面白いが、あえてこう書き残しておこうという気になれない。


 うーむ、クレヨンしんちゃんの映画とか、基本面白い。シリアスな場面と、おバカな場面とのマッチングが非常に参考になる気がする。ドラえもんの映画も面白いのはある。雲の上に都市をつくるはなしとかよかった。

 秒速5cmとか、ストレンヂアとか、思い返せばいろいろ面白かったものはある。ディズニー映画、ピクサー映画もほとんど見ているんじゃなかろうか。トイストーリーとかウォーリーとか、ベイマックスとか好み。あ、ペルソナ4書き忘れてた。

 あー、WEB漫画だと、十字道とか、ワンパンマン、妄想テレパシー、外見至上主義なんかも面白かった。ああ、書いていて思い出したが、十字道か、これは面白かったなぁ。

 ジョジョ、ヘルシング、からくりサーカス、うしおととら、ジパング、ガンパレードマーチ、キノの旅、ちょびっツ、マスターキートン、…………いやこれ書ききれん。(アイアムアヒーローも、惜しかったなぁ……最後がなぁという意味で記憶には残っている)

 実写映画系もまだ書いてないのが多そう。ワイルドスピードは大好き。他にも、アバター、インセプション、ダヴィンチコード、トランスフォーマーとか、ジュラシックパーク、ショーシャンクの空に、リアルスティール、ゲーム(←はアマゾンリンク。古い映画)……ネバーエンディングストーリーもいれてもいいか、悩む。

 小説系、シッダールタ(ヘルマンヘッセ)はここ数年で読んでも面白かった。キャッチャーインザライ、風の歌を聴け(村上春樹)、僕は勉強ができない、あたりは高校生・大学生ぐらいに読んで面白かったが、今はどうなのか。
 海を見る人(小林泰三)、「風よ。竜に届いているか」も面白かった。夢枕獏の魔獣狩りも読み始めたらこれは面白い。


 やっぱり、きりがないし、方向性がバラバラな気がする。
 ただ、サスペンスとかホラー系はあんまし含まれない気がする。

何が面白かったのかよく覚えていない

 書き出してみたが、分かった、もう、全部記憶しておくのは不可能なぐらいである。
 よくもまぁ、この現代世界は多くの作品があるのだなぁと感心する、素直に。

 現代社会の、100年前、200年前と異なる点は、この創作物の多さにあるのではなかろうか。
 確かに、技術革新といった面では、携帯電話、インターネットなど大きな変化があった。その結果ともいえるが、多くの作品が生み出され、そしてそれを多くの人が享受できるようになったということは、特筆に値する点に思う。

 昔は、オペラにいったり、歌舞伎をみにいくぐらいしかエンタメはなかった。その題目も、新しいものが次々と生み出されるというよりも、伝統的に大切に継がれてきたのである。


 今や、星の数ほど作品があふれている。
 多くの作品があることを知るにつれて、僕は、「面白い作品を創りたい」という動機が、徐々に失われてきたような気がする。
 ただ、「面白かった」作品は多いけれども、何が、何故、面白いのか、というのが、うまく語れない。
 いやもちろん、その面白かったという感覚自体が大事なのだけれども、それを抽象化することができなければ、自分で創作することはできないだろう。


(強制かっこ書きである。長くなりそうだし、話が分断されているので一回切ろう。なんだろ、言いたかったことは、「いろいろ見てきたけど、その中でもシュタインズ・ゲートは面白かった」ということと、「いろいろ見てきた割に、何が面白いのかを語れない」のがもったいないなぁという点である。ある方は、面白さを自分の言葉で解釈し、そのエピソードを具体的に挙げ、見たことがない人にも分かりやすく伝える能力をもっている。見直して、時間をかけて書いていけばできるとは思う(「君の名は。」は、見終わった直後になんか話題性がある作品だし、喋れるようにしておこうと最初から思っていた)が、特に意識せず見終わってしまうと、「あー面白かったなぁ」という感想だけで終わってしまうのである。というか、それでもいいんじゃないかとも思う。「所詮エンタメはエンタメなんだ。日々生きている中で一瞬のカタルシス(快感・満足・癒し)を与えられたらいいんだ」って考えもあるだろう。そういう意味で、エンタメは、悉く面白くあるべきだ、ということだ。しかし、その「面白さ」とは……強制終了)

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今日の一言「無気力である」「劇場版シュタインズ・ゲートは楽しみ」

眠れない夜

 昨夜はとにかく眠れなかった。
 布団に入っても、体がうずくような感じがして、目をつむっても思考がとまらず、眠気は一向にやってこない。窓の外で打ち付ける雨の音も気になった。
 結局、明け方まで眠りにつくことはできなかった。そして気づくと昼過ぎであった。天気は相変わらずよくなかった。

 途中。起き上がることもできず、眠ることもできなかった間思ったのは、「そういえば、音楽や写真の整理をしていて、結局ブログを書くことがなかったな」ということであった。

 ある程度、思ったことがあったときに、それを整理して書いておくということ、それをしなければ、もはや眠ることもできないというのか。

 記憶に残したいと思ったこととは、おおよそ、

・ティッシュペーパーの予備がなくなったから買わなければいけない、クリーニングにいかなければ、などと家事のこと
・友人との会話のこと(投資、政治および仕事について)
・光子(フォトン)、通信技術の発展について

 ぐらいであったと思うが、自分の記憶力を最初から信用していないから、トピックスだけでもどこかにメモしておくべきだった。――しかしメモとは、一元管理しなければ、結局どこにメモしたことなのか、いつメモしたものなのかも分からなくなってしまうため、現時点、このブログが一番よいのだが――ただし、リアルタイム性は損なわれる。
(もう一つ後から思い出した。過去の写真など整理していて、自分の愛馬、やっぱりかっこいいなと思う。他者から見たら全部同じなんだろうが、小石で傷ついた身体とか、美しい毛並み(色艶)とか、眺めているだけでもワクワクする。これもとあるブログをみて、「愛馬の選び方」みたいな記事で、いろいろ特徴など書かれていた上で、最後は「自分が最高にかっこいいと思うのを買え」とあった。なんか、わかる。結局、――スペックとか数値にあらわれる部分も大事だけど、最後はフィーリングとかインスピレーションなんだと思う)

 他にもトピックはあった気がするが、ほらみたまえ、もう半日以上過ぎてしまうと記憶から抜け落ちてしまっている。

思い煩い

 ただ、何時間も、体の不快さと合わせて、思考の不快さに耐えていたことも、今となっては悪いことではないと思う。

 悩むことや苦しむことに対して、一定の価値は認めるのだ。

 それは、目的にはならないが、手段ではある。


 ……その、眠れない夜に思ったのは、思考の結節点というか、始まりというか、セーブポイントを、先般の「実感表」と合わせて作成しておこうということだ。

 頭の悪い人は、思考がループする。
 その原因は、一つ、記憶力のなさに起因する。その記憶力とは、知識的な「暗記」とは少々異なり、「実感」としての銘記である。
 先日つくった実感表は、30いくつに及んだが、この場ですぐに暗唱できるかというと怪しい。読めば、「ああ、そうだ、これは僕の感じ方だ」とは思うだろうが、しかし、すぐにアウトプットできないものは、完全な知識とはいえない。

 とはいえ、その30いくつを、丸暗記しても意味がない。必要なのは、連関、つながりである。

 もう一つ、実感表で表現されていないことは、「目的」である。あくまで個々の記憶(実感)を表現しているに過ぎず、それがどこに向かうものなのかを示したものではない。

 というわけで、アドベンチャーゲームというか、ノベライズゲームの、シナリオ分岐の際にセーブをしておくようなイメージで、思考について「どこでセーブしておいて、どこからロードすべきか」といったことを本記事では表現していく。

セーブポイントその1:オープニング

 はじめに、実感表の1「人生には限りがある」、これがスタートになる。
 自分は不老不死であると信じている人はいないだろう。――ただ、何度も書くが、そのことを意識できている人は少ないと思うが。
 だから、キャッチーな始まりとなる。

 人生に限りがある……人は有限の存在であり、いずれ訪れる死は避けられない。

 このセーブポイントは、いつどんなときも当てはまると思う。
 しかしながら、このポイントからは、すぐさま、たくさんの分岐が発生する。

 ――だから、好き勝手生きるべきだ
 ――だから、人のために生きるべきだ
 ――だから、歴史に名を残すように生きるべきだ
 ――だから、自分の生まれた意義を探求し生きるべきだ

 すでに、この次の分岐時点で、それぞれが「正しい」。
 僕は、これらをどれか一つ選択できているわけではなく、ときおりブレてしまう。
 だから、現時点では、セーブポイントとして、「人生は有限だ」ということを残しておかなければならない。

セーブポイントその2:やることがある時

 次に、ある条件、それは、「やりたいこと」や「やるべきこと」が存在している場合のセーブポイントである。

 やんなきゃならない仕事。
 みたい映画や漫画やアニメ。
 やりたいスポーツ、ゲーム。

 など。

 ただ、このときの多くは、ブログなど書いていられる場合ではないことが多い。
 そもそも、思考があまり発生しない場合が多い。なので、あまり書いておくこともない。

 問題は、次だ。

セーブポイントその3:無気力な時

 もう慣れてしまったけれども、この無気力感は、相当やっかいである。

 眠いというならまだ良いのである。ちょうど、昨日の夜のような、眠れないけれども起きれもしない状態が続くのである。
 大学時代だけれども、あんまり具合がよくないから、思い切って病院にいって睡眠薬を処方してもらったこともある。あれはよいものだ。気絶するような眠気がやってくる。お酒でも同じことができるけれども、それに慣れて量が必要になってくると、今度は二日酔いのような頭痛に悩まされるので一長一短である。

 他の方法として、――ある友人と会話していて共通認識であったのだが、運動したらよく眠れるというのは、そもそも、運動できるだけの精神状態が良好である必要があるということだ。
 昨日は、眠くなるまで何度も筋トレを繰り返して体を疲れさせようと試みた。ただ、思い切って外に走りに行って汗をかいてお風呂に入って……というぐらいやらないと、完全なる眠気を呼び起こすには足りないのだ。


 この無気力な時。

 これがあるから、僕はこのブログを書いているようなものだといっても、あながち、過言ではない。

 たいていが元気なのであれば、なんか好きな作品の感想など書くようなブログであってよいのである。

 多分、健常な人がみれば、「おまえ、こんな、生きる意味とか考えてるから具合が悪くなるんだよ」という感じなのだろうが、――逆なのだ。
 逆。運動したらよく眠れるというのと同じ。具合が悪くならなければそもそも書く必要はないのである。


 原因については、先日記事に書いた。少し面倒だが探して引用してみる。

 欲望をそぎ落としていけば、なるほど、きっと「悩み」は消える。
 大好きだった彼が死んでしまったことに、「どうして自分じゃなかったのか」「もっと一緒にいたかった」「周りの人は愛する人との子供にも恵まれて楽しそうにしているのに、どうして自分はこんな目にあわないといけないのか」……。
 その人は、「理想の生活」を欲していた。
 それが、死別という運命によって、引き裂かれた。
 ここで「物語」は、その人に、「新たな恋人」を描くだろう。ファンタジーなら、霊魂が動植物に宿ったり、霊体となって戻ってきたりするだろう。
 そうして、その主人公が、「人生に再び前向きになること」を描くのである。
 僕は、以前から、その構造に疑問をもってしまった。(もってしまったというのは、自分自身それが良いこととも思えていないからである)
 最初の欲求を「諦めて」、新たな欲求を見つけるということ。抽象化すると、物語のプロットはそういうことになる。
 それってのは、「人生」ってもんが結局、「諦めの連続」であるという証左でなかろうか?
――人格について(2017年8月)

 うーん。ぴったりの内容がなかった。たくさん書いているはずなのに、いざ、必要なものを探すと完全一致がみつからない。だから、どんどん長くなっていくんだろうな。
 補足する。
 人は欲望によって生きている。これも、否定する人はいないんじゃなかろうか。「ご飯食べたい」というものもそうだし、「誰かのためになりたい」というのもここでは同じ欲望とする。欲望の低次元高次元はここでは問わないということだ。

 それで、人の幸せというのは、「理想」と「現実」の乖離(ギャップ)が小さい場合を指すと僕は定義している。
 客観的な幸せという基準は存在しないという立場である。世界の幸福度ランキングといった指標もあるようだが、面白いとは思うけれども、あまり重要な指標とは思っていない。話はずれるが、「僕幸せです!」ということを、日本人は避けようとする傾向がある気がする。ま、日本人だけじゃないのかもしれない。「嫉妬」という感情は、人間の性質の一つだろうと思うので。

 ので。
 何が言いたいかというと、「適切な欲望」を抱ける人が、「能力」をもつことよりも、よほど幸せな人生を送れるということである。

 自己啓発とかスピリチュアルとか、心理学とか哲学とか、偉い人のたくさんの方法言葉などあるだろうが、いろいろ触れてきたけど、僕は、この「理想と現実の乖離」ということ以上の方策を知らない(実感を得られなかった)。

理想と現実の乖離

 「適切な欲望」というのと、「理想と現実の乖離(ギャップ)」というのに、少し飛躍がある気がしたので補足する。
 理想というのは、どうやって作り出されるのだろうか。人の欲望である。以上補足終わり。

欲望の抱き方

 ので。
 僕は、今大事だと思っているのは、どうやったら「欲望」をもてるのだろうか、ということである。

 たいてい、世の中にあふれるキャッチーな記事ってのは、「〇〇を短期間で達成する方法!」といったものである。

 逆に、僕は、どういった欲望をもつのが「正しいのか」ということについて知りたい。

 ……と書いていて思ったが、確かに、そんなキーワードで探したことはなかったな。一応、調べてみるか。でてこなそうだけど。

――欲望が満たされると楽だが 欲望を抱かなければもっと楽である

 こんなのが出てきた。うーん。こんなことを書くから、仏教に対して消極性がスポットされるんだろうなぁ。傲慢な書き方をすれば、正直、この境地はとっくに得ている。はっきりいって、あんまり欲望がないのだ。とても満たされた生活がおくれているのだ。
 が、それが「楽か」といわれると、とてもハテナなのである。

――「少欲知足」という言葉が示すように、生きるうえで必要十分なところで満足できるようになることは、とても大切なことに思われます

 はぁ? そんなの分かってるよ、と拒否反応がでる。これはよくないことだとは思うのだが……。とにかくつまらない記事である……が、まぁ俺のブログの全体もこの思想に半分つかっているんだから、きっと同族嫌悪なのかもしれない。

 他は、赤ちゃんの抱き方、とか出てきた(笑)。


 他は、「欲望の持ち方」とキーワードを変えて調べてみると、
――欲望とはエネルギーのことです
 こんなのが出てきた。一部引用。
 しかし、仕事は「面倒臭い」「自信がない」「やる気が出ない」などというのは、エネルギー不足です。
エネルギーとは下記のような欲望のこと。
 ベンツが欲しい
家族をもっと経済的に豊かにしたい
有名になりたい
社会に貢献したい
色々とあるかと思います。

 ねーよ!!!(笑) だから、その欲望ってどうやって持つんだか聞いてるんだよ!
 と、突っ込んでしまった。

 そうなんだよな……やっぱり、「正しい欲望の抱き方」ってのはあんまり重要視されていない。
 というか、ふつう、当たり前にもっているべきもの、とされているんだろうな。
 確かに、身の回りの人、特に年上の人を見ていると、欲望に事欠かなそうだなぁと思う。
 こんなことを思ったりするから、平成生まれの人たちが「悟り世代」とか言われるのかもしれないが、そういう意味だと、俺は昭和生まれだが最新鋭だったのかもしれないな、えっへん(虚脱した目)。


 なんというか、「欲望のコントロール」ってのは色々論じられているが、そもそもその欲望ってどっから湧き出るのか、創り出すのか、そんな方面は薄い気がする。

うつ状態とネガティブ思考について

 専門家じゃないからテキトーなことを書くだけだけれど、薬飲んで、脳の状態が回復したとして、本当に正しく欲求(行動力)が復活するのだろうか。

 うつ病になるのは、普段元気な人がなりやすい、と言われるが、それは、バリバリ活動している人が突然行動できなくなる(うつ状態)になるから目立つのはあるんじゃないかなと思う。

 そもそもうつ気味の人は、「ああ、そういう人なんだね」って見られているから、「ネガティブ思考の人」とか思われてそれが普通だとされているのかもしれない。


 まぁ、今回の記事においては、「無気力」という状態について、「欲望」という言葉で置き換えて考える方法を提示できたので、それだけで価値がある。

「なぜ無気力なのか?」

 と考えるよりも、

「なぜ欲求(欲望)が生じないのか?」

 と自分に問うた方が、方向性を導きやすい気がする。


(かっこ書きである。無気力である。のだけれども、劇場版シュタインズ・ゲートを入手したので、正直楽しみで早くみたいのである。序盤25分だけみたけれども、なんだ……、なんだこれは! アニメ版の最後の方で感じた「ちょっと物足りない」感だけれども、それが劇場版への布石だったとするならば、再度全体評価が上がるのではなかろうか。すごい楽しみである。――んじゃあ、すぐ見て元気出せばいいじゃないか、ということだが、なにせ、1時間半ぐらいしかないのである。もったいな過ぎる……。俺の寿命があと半日しかなければ、まずMAXプライオリティでみるんだけど……。ああ、もうちょっと、こんなレベルの作品がたくさんあれば、もっと人生楽しく生きていける気がするんだが、いつもの傲岸不遜であるが、プロ・アマ問わずあんまり無いのである。いや、面白い作品はたくさんある。ただ、魂魄揺るがしてくれるレベルのものを言っている。ハイスピードで峠を愛馬で風を切って走るレベルのワクワク感を求めてやまないのである。――そうなってくると、やっぱり、創作しなきゃ! という欲求は生じてくるのである。他者に任せていては、そういった作品に出会えるのは、いつまでたっても偶然性によってしまう。だったら、自ら創り出せるようになれば、その行為自体も、結果として完成する作品も、自分自身をワクワクさせてくれるんじゃないかと思うのだ(しかし、紙面に向かうたびに自分の筆力のなさに頭を抱える→そして無気力へ→いやいやこんなんじゃダメだ(以下ループ)))

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今日の一言「ゼロベースで考える・感じることは重要」

少し落ち着く

 土曜日から、これまで、だいぶ精神状態が良くなかった。
 女性は、生理痛(PMS)などで機嫌が悪くなるタイミングがあるという。男性はそういうのがなくてよいね、みたいなことを言われたことがあったようななかったような。まぁ、一般的にはそうかもしれないが、自分には気分の浮き沈み、躁鬱の波があるように思う。

 これはどちらかというと、喫煙者がタバコを断っている、禁断症状に近いかもしれない。
 僕は、「楽しいこと」というよりも、「目的」「意義」みたいなものがないと具合が悪くなるのだろう。

仏教なんて全然理解できない

 あるブログさんで、「諦念をすすめる仏教ってそんなに良いものなの?」といった記事が書かれている。
 なるほど、煩悩なんて、年を取ればだんだんなくなるものかもしれないし、わざわざ20代30代で無くす必要もないのかもしれない。

 仏教を求めなければならなくなる人というのは、「現世な幸福」が続かないことにおいて、それ自体を「苦悩」と感じる人である。
 それは言い換えると、「常に幸福でしかいたくない」という、傲慢な望みをもってしまった人ともいえる。

 どうして、すべての苦悩から解き放たれなければいけないのか。煩悶、懊悩することがいけないことなのか。
 求めるからつらいのだといって、すべてのことを諦めさせようというのは、ルサンチマンに過ぎないのではないか。

 ――おっしゃることは分かる。やっぱり、人間としての感じ方、生き方としては、つらいことを乗り越えていくというものであるべきに思う。
 ただ、少し引用。
「現世的な幸福」「現世的な快」をどうにかしたいと思って仏教に関心を持つ人はいないのであって、あくまで「現世的な不幸」「現世的な不快」をどうにかしたい(1)というのが多くの人の願いである。ところが、仏教の処方箋は「求めるから苦しいのです」としてそもそも快不快というシステムそのものにメスを入れてしまうので、不幸を遠ざけ幸福を招くどころか、何もかも諦めなければならない(2)
――「求めるから苦しいのです」のはてな  
 僕がおかしいのか、病気なのか、それは置いておいて、上記下線(1)の部分についての認識がまず異なる。
 確かに、幸福や快といったものを何とかしたい、と思うことはないだろう。ただし、不幸や不快といったものが、明確にあるかというと、別にない。

 なんかよくわからん感覚。それをなんと表現していいのかわからない。ただ、無気力とか、厭世観とか、茫然自失とか、どうでもいいや的なそんなもの。そんな愚痴を聞かされる人はたまったもんじゃない。まだ人間関係の悩みで相談されている方が、アドバイスのしようもあるし楽だろう。生きているのもやだ、死ぬのも嫌だとか言われたら、どんな聖人君子でも「イラっ」とするのではなかろうか。

 で、上記下線(2)の部分で、「不幸を遠ざけ幸福を招く」ことが仏教はないと書かれているが、それはその通り、仏教ってそういうものじゃないと思っている。御利益仏教……南無阿弥陀仏と唱えたら極楽浄土へいけますよ、というのは幸福追究だと思うが、少なくても原始仏教(ゴウタマ・シッダールタの教え)はそうじゃないと思っている。

 シッダールタ氏は、王族という身分ながら生きるということ自体に悩み、3つの門で老病死を見て、北門で修行者を見て出家する。氏の目的は、決して、幸福を求めるものではなかったと僕は思うのだ。

 確かに、「何もかも諦めなければならない」というのは、そういう面が強いと思う。
 ただ、すべての諦念というよりも、むしろ重要なのは、「執着してはならない」という教えの部分だと思っている。
 何もかも諦めることが真理であれば、やっぱり、さっさと生きることも諦めたほうが正解な気がするからだ。でも、自死を推奨する教えだとしたら、三大宗教とかいわれて広まりもしなかったように思う。

 ので、仏教ってのは、幸福とか不幸とかそういった次元を超えた、〇〇という生き方をするための方法を説いている考え方の体系なんだと思う。これが僕の仏教に対する考えである。あー、その「〇〇」ってのは何だかよく分からない(笑)。それが分かったらそれはもう悟りの境地であろう。この、目指すべき悟りの境地というのが、実は修行者たちには分かっていないのに、厳しい修行に身をおいていくというその仏教のロジックについて、「悟りゲーム」とかいって、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」にかけて解説していた書物があったような気がするけど、なんだっけか。

 ただ、その点、「仏教の目指す境地ってほんとによいものなの? なんか間違ってたりしないの?」という部分について、かのブログの方も触れられていて――「もしも仏教の言うことが何かしら間違っていたとしたら、それに従うことは丸々人生を捨てるようなものである」――さすがだなぁと思った。

現生的な欲求

 なんか、家とか、車とか、土地とか、引っ越しとか、別荘とか、大きな買い物でもしようかな、と思っていろいろ調べてたら無駄(?)に時間が過ぎた。

 その中で、「小屋暮らし」的なことを営んでいる人のブログをいくつか見て、面白そうだなぁと思った。思っただけで、これはちょっと自分ではやらない気がする(笑)。
 しかし、ガレージ付きの、こじんまりした1DKぐらいの家を自分で設計して郊外に建てて生活するとか、なんかちょっと面白そうだなぁと思った。意外と、現状の資産でもできそうな気もする。

 ぶっちゃけ、昔の人は30代にもなればローンでもくんで、マイカーマイホームなんて持ってたということだろうので、別に珍しくもないはずなのだ。ただ、昨今時代を鑑みると、なんかそういった「物的」な魅力って逓減している気がする。

 ただ、そういう「大きな買い物」に着手する前に、例えば、はいている靴下を全部同一のものにそろえるとか、そういう生活品の調整をやってみるのもよい。
 靴下は実際やってみた。これは、洗濯のときの手間を考えてのものである。洗濯して干すときに楽になるのだ。――ただ、そろえて買ってみた靴下が、一足400円ぐらいもするからよいものかと思ったら、あんましよくなかったのが残念。なんか、高級な靴下とかあんのかな。「これは素晴らしい靴下だ! もうこれ以外は履けない!」とか思えるのがあるか探してみるか(笑)。

(0時過ぎたので強制かっこ書きである。少し回復した気がするが、ストレスで怒ったり、まぁあんまり落ち着いてはいない。機嫌が一定しない人は嫌われるよなーと思うし、そもそも、冷静じゃない自分自身を嫌にもなる。悪循環。早急に、物語欠乏症を解消する必要がある。――なかなか更新されないので、某異世界の主人公がエルフの国に召喚されて活躍する作品を最初から読み始める。あー、面白い。物語がある程度進んで、その登場人物についての情景が浮かんだ状態で再度、その「生い立ち」にあたる内容に触れるとまた違った感慨が生じてくる。物語の面白さには、先が知りたいという面白さと、過去を知りたいという面白さの二種類があるというが、まさにその後者であるなぁと思った(いや一度読んでるのだが、時間経過もまた一つの面白さに対する重要な要素だろう)。――ああ、面白い作品を書きたい。しっかし、創作ルーチン1000字/1日を超えないなぁ……)

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今日の一言「短いですが暗い内容のため部屋を明るくして心が落ち着いているときに読みましょう」


暗黒モード

 以前、2016年の12月に、暗い記事を書いた。危険なくらい暗い日記(暗黒モード)

 それよりは、暗くはならないと思うけれども、中途半端は好きではないので、ちょっとやそっとで、明るくなれないのならば、むしろ反転、突き進んで暗黒にひた走りたい。

 まず、話のネタとして、いくつか箇条書きにする。

・障害のある人の姿を見て強く生きようとするということ
・戦場や紛争地などの凄惨・残酷な場面をみて平和を意識するということ
・動物を解体するということ・と殺するということ、それを見て必ず発生する「かわいそう」という感情をいかに考えるか
・ペットの去勢や避妊は残酷なのか

暴力の人類史

 暴力の人類史、下巻を超スピードでまとめの部分のみ読む。

 結論。中世の騎士道とか、近代以前の時代が牧歌的で平和だったとか、暴力的な死を迎えるという確率や婦女暴行・子どもの虐待が発生する確率をみれば、ありえない空想であるということである。
 20世紀の世界大戦、核爆弾の恐怖、内線紛争、到底平和な時代などと思えなくても、あらゆる面で暴力は減少しているということだ。
 これは、今後も減り続けるという予言ではない。ただ、暴力が減ってきたという条件は、以下のように挙げられるという。(矢印の右側が、僕の超速解釈。読んだことある人で間違っていると思ったら指摘願いたい)

・リヴァイアサン→集権国家によって、当事者間の闘争の調整(第三者の審級・裁判)がされるため、暴力が割に合わなくなる

・穏やかな通商→正当な取引ができる方が儲かるなら、戦争は割に合わなくなる。(これ、『ドリフターズ』のシャイロック?協会の人たちの考え方を思い浮かべるとよいと思う。「軍船作ってた分を商船にしてたらもっと儲かっていたはず……」と)

・女性化→男性は女性の性的アクセスを巡って競争しがち。伝統とか地位や栄誉・名誉とかも重視しがち。女性はあんまりそういうのない。(まぁここはあんまり実感が少なかった。「女性はあまり争わないというのも「?」だけれど、それよりそもそもなんで女性化が進むようになったのかが疑問。ただ確かに事実として、女性の権利拡大はいろんな面で進んでいることだろう)

・輪の拡大→グローバル(コスモポリタン)な社会によって、同情心が芽生えだした。たとえ暴力で勝利しても、相手への同情心で罪悪感で心が痛みやすくなれば、暴力は抑制される可能性が高くなる。(確かにそうかもしれないと思うけれども、とある国などでナショナリズム(自国優先主義)的な政策が支持され始めたという傾向から、「輪の拡大」なるものがちゃんと広まっているのかは疑問。ただ、暴力が抑制されるという理由(条件)としてはアリだと思う。その点、上にあげた話のネタの、平和主義者や動物愛護者や菜食主義者などの「かわいそう」という気持ちは、必ずしも否定されるべきものではないかもしれない。とはいえ、人は肉を食らう)

・理性のエスカレーター→人身供犠、魔女狩り、血の中傷、異端審問、特定民族のスケープゴート、奴隷制、独裁制、拷問、宗教迫害、動物虐待、児童虐待、女性への暴力、浅はかな戦争、同性愛者の迫害……は、理性的に、正義ではないとされるようになっていった。

学術的な意味と実存的な意味

 人類、暴力はよくないという方向に進んでいるということである。よいことだ。
 しかし大事なのは、それが生得的になされるものではなく、「とある条件」によって成り立っていると考えることである。それが、歴史を学ぶ意義であると僕は思う。

 誰と誰が敵対して、争って、戦争になって、どっちが勝ったとか、その結果などどうでもよい(いやテストでは点を取れないが)。意味がある歴史学習としては、「何故?」その争いが起こったのかを突き詰めることである。「金」の場合もある。「宗教」の場合もある。「名誉」の場合もあるかもしれない。息子を王にしたかったとか、見栄とか復讐とかいろいろあるかもしれない。
 その「理由」を学ぶことで、外交交渉に役立つ……かは分からないが、とりあえず、相手の主張を知らずして、調整ごとなど出来やしないのだ。

 まぁ、それはそれで良いとして、僕が歴史を(大したほどではないが)勉強して思ったのは、「人間って……」ということである。

 そういう意味において、暴力の人類史は、書いてある内容は結構具体的な記述がされていて、ところどころグロテスクな表現が散見されるけれども、結論的にはとってもポジティブなお話で、僕はとても良い本だと思った(ほとんど流し読みであるが。いやはや、とても長いのである)。

 
 で、まぁそれはよいとしてだ。
 仮に世界は良い方向に向かっていっているとして、実存的にはどうなのだ? ということである。

かわいそうという感情へのいら立ち

 最初に挙げた話のネタに戻るが、「かわいそうな人」や「かわいそうな動物」をみて、「何々しよう!」というロジックが嫌いである。

 なんでかというと、「自分より悲惨な人をみて悦に浸る」のと同じだと思うからである。

 人と比べるのが嫌いだ。競争が嫌いというのではなくて、上を見てもきりがないし、下を見てもきりがないと思っているのである。

 にもかかわらず、なんで、「障害のある人」とか、あえて取り上げないといけないというのか。
 僕はメガネをかけているが、目がよい人に比べたらハンディキャップである。(喧嘩になって眼鏡を飛ばされたらまず確実にボコられるだろう)
 ――などというのは、卑近なつまらない例であるが、まぁどこまでを支援が必要なレベルとして、どこからを健常とみなすかなど、介護の要支援・要介護の判定などもそうであるが、一定の基準・解釈なのだ。


 あともう一つ、「かわいそう」というのは、どうにも、「自分じゃなくてよかった!」という感情が見え隠れしているような気がする。いや、純粋な「同情心」なるものがあるのかもしれない。
 が、そもそも、同情って、なんか嫌な雰囲気ないだろうか? 俺だけか?

 共感はなんかよい。何らかの目的や目標に対して、同じ感情の方向を向いているといった場合に使う気がする。
 同情というと、なんだか、「上から目線」な気がする。だから、「同情するなら金をくれ!」と昔のドラマで怒られたのかもしれない(みたことないけど)。

代替不可能性について

 なんだか、暴言を単に書き連ねただけな気がする。
 まぁ、なんというか、色々書こうと思った矢先、「危険なくらい暗い日記(暗黒モード)」を読んで、「あー、結局、9か月前ぐらいと大体同じ感情気分状態になってるわけね。やっぱ、これが初めてじゃないとは思ってたけど、つまりそういうことね。はいはいループループ」と思ってしまい、何だか書くべきこと、書きたいことがよく分からなくなってしまった(では書くなという話ではない。何せもう書いてしまった)。
 昔の記事でも、煽られている。

 おーい。その程度? 暗い日記だよーとか書いておいて、その程度なの? もっと心底、読んだ人9割ぐらい憂鬱にさせるぐらいのこと書けないの?
 うわー中途半端だねぇ。ポジティブでもないし、ネガティブなことも中途半端。あっはは、本当に何にもできない半端野郎だな。
 この記事読んでさ、読んだ人がさ、「ああ、こんなダメな奴がいるんだ……、俺はまだましなほうだな。よし、もうちょっと頑張ってみっか」とか思わせられるぐらいダメ人間アピールしてみろよ。ほら、ほら!
 ……。
 過去の自分、厳しい(かっこわらい)。

 うーむ、自分の過去記事を読んで癒されでもしたら、それは完全に自慰であるなぁ。
 しかし、かの記事に、確かに今の僕は共感するのである。

 先日、「代替不可能性」の部分で書こうとして、あまりに暗くなるから書けなかったが、昔の記事では書かれていた。
 僕じゃなきゃいけないって思ってくれるのは、期待をしてくれる仕事じゃあなくて、両親なんだろうなぁと。

 そういう意味で、「恋人」って存在を、すっげー希求していた時期もあった。
 けど、そんな幼稚な心性じゃあ、恋愛なんてうまくいきはしない。
 ある程度「お作法」を身に着けて、恋人をつくって結婚するということもしてきた。しかし、そこには、実は最初のほうから「恋」ってもの、「好き」って感情が、「お作法」とともに抜け落ちていっていたんじゃあなかろうかと、そんな風にも、いまや思う。

 先日、美人で若い女性が、婚活市場で男を見定めするブログを読んだと書いたけれども、なんか、僕が求めるのは「シンデレラ的な恋」なのであって(キモッ!)、そういう女性ばっかりだとしたら、全然絶対独身を選ぶなぁと思う。

 でも正直、「代替不可能性」を異性に求めるってのが、そもそも、女性の社会進出的なのとともに、なくなって(なくなりはせずとも希少になって)きているのではなかろうか……とか書くと、フェミニストさんたちから石を投げられるか。

とにかくイライラするぜぃという記事

 はぁ……。
 まぁその、いってしまえば、「あーなんか面白いことないかなぁ」と嘆く記事である。
 そういう奴、嫌いなんだよな! ぐだぐだ言ってないで、自分で楽しいこと見つけろよ! しっかり生きろよ! って、思う。それが、自分の「超自我」(理性)的な奴。
 一方で、僕の「イド」(無意識の欲動)とか自我的には――僕の言葉だと「実感」では――
「ああ、もうつまんねーよ! 何でもかんでもどうでもいいよ!」ということになっている。

 この相反する感情! アンビバレンス!

 ははは、情けなくて愚かしくて笑いがこみあげてくるぜ。

この記事意味あるの?

 意味?
 意味とは自ら付与するものだろうよ!

 そう、例えば、「暗黒モード」と書いておいて、所詮はこの程度なのである。
 もっともっと暗い気持ちに引きずり込めるようなことを書けないのか?

 こんなの、10代の少年が時折頭によぎる程度のことじゃあなかろうか。
 この程度の「暗さ」なんて、何にも面白くない、深くもない広くもない。

 しかしだ。いきなり、そんな「暗い」ものを表現しようとしても、凡人の俺には難しい。
 ならば、この記事はひとつ、踏台、たたき台としての意味を与えてやってはいかがであろうか。

(かっこ書きである。えーまぁ、こういう日もある。そういうときは、酒を飲んで風呂に入って寝よう。しかし睡眠とは、確かに体調を回復させる効果はあるかもしれないが、精神を必ず回復させるかというと、そうではないと思う。で思うのだけれども、この症状は、「面白い物語不足症候群」な気がする。こう、魂魄を刺激させられる作品の欠乏である。現実生活を刺激的なものにすればいいじゃない! と、マリーアントワ何ちゃらさんは言うかもしれないが、そういう問題ではない。シュタインズ・ゲートはかなりいい線いっていたが、最後の爆発力に欠けていた気がする。しかしそれでも、最近触れた作品の中ではかなり良かった。サムライチャンプルーを見始めたが、――確かに面白いが、片手間のテレビ的なレベルの面白さである。そういう、お菓子を食べて美味しいといったレベルの作品はとても沢山ある、が、本当に心をぐらつかせてくれる作品は中々見当たらない。――ああ別に、作品じゃなくても、現実生活の中でもいいのだけれども、正直、「事実は小説を中々超えない」。やはりこれはPSvitaを買ってしばらくゲームに身をやつす必要があるのか。いやいや、ちょっと待て。先般、高らかに宣言したのをもう忘れたのか。自分で、自分を揺るがせられるような作品を書きたいと、書くのだと、いったではなかろうか。言った。言った確かに書いた。しかし……どうなんだろうか。僕が小説を書き始めたときは、自分の中にある思いというか物語を外在化させたいという動機だった。それは確かに自分自身が面白いと思ったものであった。残念ながら、それを表現するだけの力が、中学生ぐらいの自分にはなかったわけであるが、逆に言ってしまうと、今の自分に、「面白い!」と手放しで感じられるモノが、自分の中にはない気がする。……なんて、大作家がスランプに陥った時みたいなことを書いてしまい汗顔の至りである。ああ……しかし、ほんと、どうしたもんか)

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プロフィール
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遠藤
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