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離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「日々の断絶という言葉は言い当て妙」

最近の振り返り

 例えば、婚活とか人脈を広げるための作業(努力? なんといえばいいんだ? 単純に「行動」でいいのか)をするにあたって、このブログとかサイト運営とかどうしたらいいんだ?
 自己開示しなければ、「本気で他者と向き合って」みたいなことにはなり得まい。しかしながら、このぐちゃぐちゃーっとした状態の、思考の渦みたいなものの開示は、正直、お忙しい誰もがノーサンキューであるに違いない。これは自己卑下ではない。対面状況において、愚痴や悩みを延々と聞かされたら、恋人友人関係であったとしても、いずれ疲れ果ててしまうであろう。

 であるならば、やはり、ある程度、思考も生活も、整理できた状態であるのが望ましい。
 目標を立てなきゃ、と焦ってしまったが、落ち着こう。今年1月に立てた目標は何だ?

 今年は整理の年にしよう。

 というものであった。
 先日、
1.専門性を追究する・彼女をつくる

 という方策と、
2.「求めるもの」について、再度解釈を試みる

 という方策を検討し、「1.」よりも先に「2.」を整理する必要があることを決定した(導き出した)。
 その「2.」とは、上の引用のとおり、「思考と生活を整理する」というものであった。

 それでは、今回の記事では、その整理する方針について、より具体的に決めていこう。

もう一度整理

 上の、1.と2.の違いについて、分かりにくいかもしれないから、現在の気分に基づき、もう一度表現しなおしてみる。

 1.については、「現実へのアプローチ」といってよい。いわゆる、一般的な目標と大差ない。一般的な目標とは、高校に入学するとか、会社に入社するとか、ダイエットするとか、「現実」と「自分」を分けて考えたとき、自分を現実に向けて「変化させる」ことである。

 2.については、その逆といってよい。自分を現実に合わせていくのが1.である。2.は、自分を成り立たせている根源を明らかにしていく作業である。難しい表現をしてしまった。例えば、フロイトさんの精神分析において、エス(衝動)・エゴ(自我)・スーパーエゴ(超自我)という概念があることはお分かりの通りだろう。

 衝動 → 自我 ← 超自我

 みたいな感じで、自我は成り立っている。
(自分と自己と、自我の言葉は厳密には違うのだけれど、今回の記事では同じように用いている)

 自分とは何か? という問いは深遠であって、それを明らかにして生きている人など、そうそういないと思われる。それでも、多くの人が、特にこの問題を抱えずに生活できているのは、基本的に「自分」と「現実」が一致(※1)しているからである。


 ちなみに、少し余談となるが、「衝動」部分がおかしい(現実とのズレが大きい)場合は、「精神病」と言われるし、「超自我」の部分がおかしい場合は、教育のせいにされたりする。
 ただしどのみち、「大人」という存在においては、そういった自我の保持や安定性というのは、完成されたものとみなされる。「君、大人なんだから、ちゃんとしてよ」と言われるのは、「自我が正常な状態なんだから、正常な判断ができるんでしょ?」ということを言われているのである。もっと俗的に書けば、TPO(とき・場所・条件(場合))の判断がちゃんとできるんでしょ、ということである。


 さらに余談となってしまうが、僕の記事というか、僕が問題視している事柄全般は、一般的社会道徳・ルールを前提(※2)としているし、身体・精神の病気を対象とはしていない。ただ、精神病など、そういった極端な事例などを考えざるをえないのは、その「正常」と「異常」とのグレーゾーンがかなり広がっていると感じているからである。何をもって正常……ちゃんとしてね、といえるのか、正直よく分からないのである。
 くだらない例えを書いてしまおうか。ホロコーストを持ち出すまでもなく、虐殺することはおぞましく悪いことである。では、虐殺することについて、空想したり妄想したり、小説に書き出すことは悪なのだろうか。否である。しかし、完全な大人とか、完全な人間とか、完全な理想というものを考えたときに、そういった「悪い考え」が生じるのは、やっぱり「完全」ではないのではなかろうか。
 くだらない例えであった。ここで、「くだらない」といっているのは、これら、正義とか、悪とか考えることがくだらないというのではなく、単に僕の興味の対象外であるということだ。つまり、実感伴って、そんな「完全な善」なるものを、僕は「否」と思っているのである。清濁あわせもったのが人間であると僕は思っているに過ぎない。で、その実感をもってして、「人間嫌い」という感情エラーというか、表現をたまにしてしまうが、これについては、
 ある時期、様々な愛の形に触れ、めんどうだなと思ったこともありましたが、そもそも大多数の人間は愛の実在を特に疑う余地もない前提として動いたり喋ったりしているという事実は人間世界の現実であり、それは「面倒」ということよりも、よほど重いことなのだと思います
(注:主旨をできるだけ損なわないように原文を大幅に改訂させて頂いている)

 という、ある方のコメントを読んで、いやぁまさに、その通りですよ、と思った。カッコいい。僕も、こういう人になりたい。そう、こういう人になるために、「整理」が、今は、必要なのだ。


※1:誰もが完全に一致しているなど殆どない。だからこそ、日々の生活に悩みや苦しみ、欲求不満が生じるのである。それをもって、「みんな色々大変なんだから」という言葉に正当性を与えている。

※2:この前提に、実感が伴っているかという問題はまた別にある。ただ、やらなきゃならないこと、というのは避けられないのであって、それから単に逃げようというわけではない。問題は、その「やるべきこと」自体の曖昧さ(社会や環境や状況や人によって異なること)である。
 

賞味15分の感傷だって価値がある

 本題の「整理」に入る前に、もう一つ、素晴らしい記事を発見したので書いておきたい。感動などを得るために、どうしたらいいのか、という主旨において、
一生そういうものを味わいたければ、リスクを恐れず生きたい人生を生きればいい
仕事なんて辞めてもいいし、辞めずに打ち込んでもいい
多分、苦しみはあるけど、同じくらいそういうものを味わえると思う

生きたい人生なんて分からないよ?って人もいると思う
そういう人は分かるまで本気で悩んでくれ
それだけで一生、そういう生き方ができるだろうね
案外、もんもんとして辛い人生なんてものは味わえないものです
だいたい、今なんでこんな辛い人生を送っているんだろうって感じている人は、考えることを辞めて、今の辛さを耐えることにせいを出す。懸命な判断だと思う。でも、生きたい人生って何だって本気で考え続けるのは辛いけど、それこそ喜びになるのではないか?

2週間そういうものを味わいたいのであれば、小説を読むか、漫画を読むか、ゲームをすればいい
これだっていう作品に出会うのは難しいけど、出会うことが出来たなら最高に心が揺さぶられることだろう

15分そういうものを味わいたければ、音楽を聞こう
なかなかそういうものには出会えないけどね
でも、出会えれば15分は楽しめる

 かっこいい。惚れる。
 フランクルさん言葉と絡めて理解すると、2週間と、15分は「体験価値」であろう。それでもって、「一生」については、「創造価値」にも思えるが、もはやこれは「態度価値」何ではなかろうか。
 ここまで思考体系を確立されている方は、これからも、悩みや苦しみがあったとしても、きっと、困難があっても乗り越えていくのだろう。思考よりも、最初に挙げた「1.」の、現実へのアプローチについて、尽力していくことが有効であろうと思う。

現実問題へ到達できない

 悔しいというか残念なことに、僕は、10年も20年も前から、その前の次元でとまってしまっている。すなわち、「2.」の部分だ。
 最近、ある東大工学部卒の研究者の著書を読んでいて、そのあとがきか何かに、「自分とは何か」のような、僕と似たようなことを若いころに思っていた、と書かれていた。その方は、勉強もそうだが、理系だけれども、哲学書ばかり読んでいたという。そして結局、だからこそ、取りあえず勉強して東大に入って、自分の明らかにしたいことを精一杯つとめていったという。
 突拍子もないから上手く説明できないけれども、前提として思うのは、「人間とは何か」「生きる意味とは何か」「自分とは何か」という問題意識が生じるのは、別に珍しいことではなく、そこから発展した技術、芸術、思想・思考といったものは、数多く存在するのである。
(分かりやすく代表的なのは仏教であろう)

 芸術や思想分野は、比較的その問題意識が分かりやすいが、技術(例えば、経営だってそうだし、仕事だって、何だって)は、その現実への還元要素が大きいために、その根源にある問題意識は見えにくい。それでも、何らかの、自らの、根源的な問題意識に根差して、人は現実へのアプローチを事欠かないのである。


 であるからにして、単に思考をもってして、問題解決をはかろうというのは、大きな間違いを犯しているのではなかろうか? という疑問はもっともである。
 確かに、家にひきこもって、自分の頭だけで考え続けるということに、限界があることは否定できない。

 ただし、僕は、完全なスタンドアローン状態を目指しているのではなく、現実からのフィードバックも当然受け入れることにしている。これは、単なる中途半端な修正主義になるだろうか。そうではない。むしろ、「思考」というのが、身体を前提にしている以上、完全な単独者として思考することは不可能だし、そもそも、その「問題」そのものも、現実を前提にしていることは言うまでもないことだ。

 分かりにくいな。だとすると、僕の考える「現実」というものは、二つの層(レイヤー)で重ね合わされているのかもしれない。レイヤーという横文字を使ったのは、イメージとして、ペイントソフト的なものを連想したからだ。地層としてしまうと、表層と深層とで、深層の上に完全に表層部分がのっかっているイメージとなる。そうではなくて、一部は深層部分が飛び出ていたりと、表層と深層が折り重なって、一つの絵として認識できる状態、というイメージである。



(何だろう、頭の中で描かれた図を、実際に作成しようとすると、何かちょっと違うくなる。イメージの足りなさってことだろうか)

目標立てる主旨と乖離していないか

 はぁ……。疲れた。
 ダメだダメだ、このままでは、来週を乗り切れない。


 ……ところで、別に、自分だけ辛いとか言ってるんじゃないんだからな!!(逆ギレというか突然ギレ)


 どーせ、こんな愚痴ぐち書いてると、「あーこいつ、自分に浸ってんな~」とか、「はいはい、どーせ、自分が世界の中心で一番大変だって思ってんでしょー」とか、そんな感想しか抱かれんのである。

 そんなことはとうに、分かっているのである。

 みんな大変で、みんな必死にがんばってるのである。

 だから、幸せそうなひとをみると、みんな引きづり下ろそうと、嫉妬したりするのである。みんな一緒に不幸になりましょうね~というわけである。

 ふざけんな、ひとりでやってろ。世界が、苦しみに満ちたものであって言い訳ないだろ。俺はいつでも、世界平和と、みんなの幸せを願ってやまない。俺が、ポジティブしか「ありえない」というのは、そういう意味においてである。


 それは。

 世界思想である。一般常識である、ルールである、法律である、決まりである。
 人が、長い間かけて、必死に構築してきた、社会システムである。それらを疑ったり、逸脱しようとしたり、逃げ出そうとする人は、同時に、それらの恩恵もうけることができない。それらから逃避する人たちは、それらの「恩恵」の理解が不十分である、努力不足である。

 今回の記事の上の方で、
>僕の記事というか、僕が問題視している事柄全般は、一般的社会道徳・ルールを前提としているし、身体・精神の病気を対象とはしていない。

 と書いたのは、そういう意味である。


 それを前提にして、……じゃあ、僕はどうしようか、と。そういう目的である。

生きるのつらい絶対殺すマン

 仕事や人生で疲れている人に、「生きるのつらい絶対殺すマン」はいうのである。

「ほむほむ。でもそれって、義務感だけで生きてる状態だよね」
「〇〇さんは、何のために生きているの? 何かしたいこととか、楽しいこととかないの?」

 と。
 この後の流れは、まったくもって感動的であり、非常に素晴らしい作品だと思った。

 が、問題は、「何のために生きているの? 何かしたいこととか、楽しいこととかないの?」この問いである。

 今まさに、これへの対策を行っているのである。


 どれだけ緊急性のあることかがお分かりであろう!(誰に言っている?)

 感情の希薄化、と書くと、とても大げさになってしまう。今すぐ病院池、となってしまうかもしれない。そこまででは無いのだけれども、ただ、
「何のために生きているの? 何かしたいこととか、楽しいこととかないの?」
 これを聞かれるたびに、「うぁああああ」っとなるのである。パソコンのフリーズ状態だ。


 長くなったので強制終了。


(取りあえず、直近の行動方策と、優先順位を立てなければまずい)

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今日の一言「カテゴライズ、整理ってホント重要だな」「今の気分にぴったりの記事を人工知能的に提供してもらいたい」

2017年の目標

 少しずつ、少しずつだけれども、株式投資への意識付けは進んでいる。NISA口座開設にもまた住民票が必要とは思わなかった。先日平日に休みをとったなら、取りに行っておけばよかったよ。それはともかく、ある方が、初心者にも優しい解説してくれたり、分かりやすいサイトを紹介してくれたりとしてくれるので、大変ありがたい。多分その方がいなかったら、未だに口座開設もしてなかった気がするな。

 さて、2017年というよりも、3月の目標を立てようと、先日から試みているわけであるが、難航している。
 寝る前に思ったのだけれども、例えば、婚活とか人脈を広げるための作業(努力? なんといえばいいんだ? 単純に「行動」でいいのか)をするにあたって、このブログとかサイト運営とかどうしたらいいんだ?
 自己開示しなければ、「本気で他者と向き合って」みたいなことにはなり得まい。しかしながら、このぐちゃぐちゃーっとした状態の、思考の渦みたいなものの開示は、正直、お忙しい誰もがノーサンキューであるに違いない。これは自己卑下ではない。対面状況において、愚痴や悩みを延々と聞かされたら、恋人友人関係であったとしても、いずれ疲れ果ててしまうであろう。

 であるならば、やはり、ある程度、思考も生活も、整理できた状態であるのが望ましい。
 目標を立てなきゃ、と焦ってしまったが、落ち着こう。今年1月に立てた目標は何だ?

 今年は整理の年にしよう。

 というものであった。まぁ既に、今年も2か月を過ぎてしまったのだ。早いなぁ。
 本一冊読み終えるとか、目標を立てておいて本当に良かったと思う。そうじゃなきゃ、日々の生活に忙殺されて、何も成し遂げられなかったろう。

3月の目標

 さて、既に、3月に突入したわけであるが。
 言うまでも、書くまでもないことであるが、体調管理は基本である。

 一つ、ルーチンを追加しようか、禁欲と、23時以降のPC消灯。
 基本的に、消極目標は優先しないことにしていたが、最近、生活の乱れが(主に帰宅時間が遅いせいに思われるが)発生しているので、強制力を行使する必要もあるかもしれない。

 取りまず、3月の、1か月限定で施行してみよう。

 最近、料理もたまにしているが、3月には、4回程度実施してみよう。少ないな! しかし、ここ半年ぐらいでは、月に2~3回ぐらいしか料理をしていなかった気がする。そのうち、1回に2品(カレーとみそ汁とか、グラタンにカボチャの煮つけとか)は作るとか、グレードアップしてもいい気がするけれども、ま、いきなりレベルアップするのは難しい。少しずつ生活レベルを上げていく他ないのだ。

希薄な感情

 離人症的気分と表現してしまってよいけれども、何だか、全般的にやる気が起きない状況である。
 ただ、今まで考えると、よくあったことだろう。景気循環みたいに、躁モードと鬱モードが結構激しく訪れるのである。大局として見て、さて、今、すべきことは、と問おう。あんまり、流れにさからってもよくない。ギャンブルで損したからと言って、次で取り返そうみたいに思っても、失敗するのと同じである。

 かといって、鬱々と落ちていってもよくない。こういうときは、守りに入る。できる限り、日々の生活レベルを壊さないようにする。漸次、向上させられたら御の字ぐらいに。


 では、3月いっぱいかけて、4~6月の四半期の目標を立てる。(忘れてはならない、2017年の大目標は、「整理」(体系化)である)

 可能であれば、後期の目標も立てる。

 なんとも、のんびりであるが、これでいいだろう。いつも焦って、生活レベルも壊したり、ろくなことがない。漸次、漸次。

(追加ルーチンは、しばらく触れていかなければ、すぐに破られるだろう。習慣づけは初めが肝心である)

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今日の一言「連載といいつつ、まとめて書いてるよね」「ベースラインは整えておかないと忘れちゃうから……」

まずは求める生活から

 ここに二つの道がある。一つは、その「求めるもの」に対して、現実の変容を決意し、努力を重ねて、目標に到達する道である。もう一つは、その「求めるもの」について、再度解釈を試みること道である。
 一つ目の、現実へのアプローチについては、「専門性の取得」と、「彼女をつくる」という目標に具体化して、検討を加えた。結果的に、そこに至るには、「がむしゃらな行動(体験・経験)」が必要であり、思考的な納得をするには、未だ検討が不十分であることが分かった。

 それでは、二つ目の方策を検討していく必要がある。
 二つ目の方法とは、「その「求めるもの」について、再度解釈を試みること道である。」ということだが、これは、どういう意味だろうか?


 まずいきなり、壁にぶち当たるのだけれども、昨今の、感情等の希薄化問題がまとわりつく。
 これについては、日々の仕事の忙しさや、ルーチンの実施によって、何とか乗り切っているが、それもジリ貧なのは目に見えている。ある意味幸運で、ある意味崖っぷちなのは、離婚という生活基盤の変化によって、とどまるところがなくなっているということである。
 空虚な結婚という言葉があるかはわからないが、いかに問題があろうとも、その社会的制度がある場合においては、まずもって、その状態を修復することを試みるであろう。その意味で、独身生活は、明らかに便利(楽? といっていいのかわからないが、自由ではある)である。

 ゼロから考えることはできない。
 ブログタイトルを読み返してみよう。「離婚を突き付けられた30代男が、自己と仕事と家庭の総合から生きる意味を徹底して考えるブログ。」とある。
 ふーん、そうなんだ。と、俺のことなんだな、何か、他人事感があるな。

俺は誰だ?

 ここじゃない感。と表現すればよかろうか。

 うーむ……。

 俺が、成し遂げたいこととは何だろうか。
 と、書くと、先日コメント頂いたコメントが役に立ちそうに思える。

【その一】

 今回の例で言うと、「そもそも、最初からそのゴールを目指して走り出していたのか? 走り出した時点で想定するゴールは見通せていたのか?(=そもそもゴールがあるという前提のもとで走り出していたのか)」という部分自体が曖昧で、「とりあえず見えてきたゴールに、周りの人たち同様インすることはできる」としつつも「自分の思うゴールはこれとは何か違うんだよなぁ……」と、「一旦ゴールすることもなく、違うゴールを探しに別のルートに行ってしまう」といった印象で、逃げるというよりは、わざわざ険しい方に、遠回りするように、向きを変えて延々とゴールを探し求めて走り続けているような印象と言いますか。 
 私からすれば卑屈だなんて思う以前に、「自分から進んで走る距離を伸ばして凄いなぁ」ぐらいの感覚ですよ。 

 こちら、率直な意見を述べつつ、後段は肯定的に書いてくださっているあたり、大人と言うか、人格者に思える。こういう方、好きだ。
 でまぁ、後段に浮かれて浸っていても良いが、結局賞味期限がある感傷に過ぎないのであれば、むしろ、前段についての注釈解釈が必要である。

「そもそも、最初からそのゴールを目指して走り出していたのか? 走り出した時点で想定するゴールは見通せていたのか?(=そもそもゴールがあるという前提のもとで走り出していたのか)」

 ぐぬぬ……。
 くっそー! それが分かってりゃ苦労しねーぜ!!(かっこ笑い) 的な、感じである。
 いやはや、先日返信したように、全く図星をど突かれるとはこのことである。

 まぁ、若いうちはよかったことにしよう。がむしゃらに、ゴールなんて考えずに、思いつくままに駆け巡るってのも「あり」だろう。
 がしかし、もう、いい歳なのだ。アラサーになっても、少女系ファッションしてる痛い女性にはなりたくないのだ。40歳なっても、俺はミュージシャンになる! なんていって無職ヒモ生活しているような男性にはなりたくないのだ。

 と、こうやって、「なりたくない自分」を挙げていって、消去法的に目指す「ゴール」を明らかにしていく、という手法も、あることは、ある。


 ただ、この方法は、致命的な問題がある。世界は、広いのだ。攻殻の素子さんの言葉を借りれば、「ネットは広大だわ」みたいな。つまり、「消去!」「消去!」「消去!」と、デスノートばりに、ダメな自分像を消していったとしても、現実における選択肢は、中々に多様であるのである。
 もう一つ、こちらの方が致命的かもしれないが、消去法では、結局のところ、残ったいくつかの自分の中から、「じゃあこれにしよう」と、妥結したに過ぎないという思いが残ってしまう可能性があるのである。

【コメントその2】

遠藤さんは考えることが目的なんでしょうね。的を選ていると思います。 
これは私にも当てはまるんですが、結論を出さない議論を繰り替えしているんですよね。
科学者と哲学者の違いは「思考が結論を求めるか、求めないか」だと思っています。だとすれば我々は哲学者っていうことですね。
ちょっと思ったんですが、「生きる意味」について考える前に生きる意味とは何を指すのかについて定義してはどうでしょうか
「生きる意味」と言われても結構漠然としてて何かイメージできない。 
・死ぬまでに成し遂げたいこと 
・この世の中で果たす自分の役割(世界平和のためとかそういうの) 
・神様が自分を生産した理由 
ある程度具体的に定義しないと議論出来ないのでは?と今更ながら思ったんだ。 
別に正解なんて無いと思うし、いくつか定義してみてそれぞれについて考えてみてはどうでしょうか

 この提案も、素晴らしいツールとなった。頭がいい人なんだろうなぁと思った。それでいて押し付けがましくもなく、スマートである。こういう方、好きだ。

 この「生きる意味」であるが、フランクルさんの本を読んだ直近の今として浮かぶのは、「創造的価値」「体験的価値」「態度的価値」の、三つの価値に思われる。

 んで、すぐさま、僕のダメなところとしては、こういった三段論法的なものを出されると、すぐさま、「態度的価値」的なものが一番すごいんだ! 的に思うことである。そうじゃねーんだよ。「体験的価値」で挙げられている、音楽や芸術に触れて感動する、という、もうそれだけで、生きている意味があるってことである。優れた作品……何も劇団四季だとか、ミュージカルだとか、歌舞伎だとか落語だとか、伝統文化でなくてもよい、映画やアニメや漫画だって、ゲームだってよい。心打ちふるえる感動を、自らに引き入れることができたら、それだけで十分価値があることではあるまいか。
 そこで感じたことが、たとえ、すぐに時間とともに薄れゆくものだとしても、その瞬間起こった凛とした煌めきは、無かったことになるだろうか? いや決してそんなことはあるまい。

 仕事をして創造的価値を果たし、エンターテイメント作品に触れて感動を果たし、その繰り返しを積み重ねていくだけで、十分、人は、人として生きる意味があるのである。

創造的価値及び体験的価値に生きること

 上の、その2のコメントで重要なのは、もう一つある。「考えることそれ自体が目的であり、結論を求めていないのではないか?」ということである。

 これについては、追加のコメントにおいて、結論を出すということについては、「一次結論」と「二次結論」とに分類できるのではないかと触れた。二次結論とは、一次結論に対しての実践を指示・示唆する結論である。

 ……と、ここで時間切れである。

 うーむ。今回、このテーマに切り込むのは、何ともかなり精神的に削られる作業である。
 自分自身と向き合った文章を書くというのは、その表現がいかに拙くて、つまらなく、稚拙で、まどろっこしくても、疲れる作業だ。

 傍から見ると、アホちゃう? 状態であるが、残念ながら、これは、必要に迫られてやっているに過ぎない。そういう意味だと、「仲間」が欲しいなぁ……。「彼女」が欲しい、というのは却下されてしまったが、仲間が欲しい、ってのは、自然的ですぐさま承認されそうな感覚だ。

仲間をつくろう

 時間切れ、といいつつ、書き続けているが、一言だけでも、ベースラインを作りたい。
 なかまだなかま。ひらがなにすると間抜けにみえるな、ってそうじゃねえ。っと、恐ろしいこの、せっかくいいアイディアに思えたことが浮かんでも、「おめーさぁ、それって、仲間というより、自分を肯定してくれる「舎弟」みたいなの望んでるんじゃねーの? 教祖様になりたいんじゃないの?」みたいなことが同時に浮かびやがる! 何て奴だ! そうじゃねーんだよ、仲間だよ! 一緒になって、目的を果たそうと努力する仲間だよ!

「いやでもさ、結局、お前の言ってる「目的」ってのは、仏教的にいえば、「小乗」(個人の悟り)じゃねーか。例えば、お前のいう「仲間」ができて、一年ぐらい一緒に頑張って、結果、その「仲間」が先に「解脱」したら、お前、どう思うの?」

 えー……、そ、そりゃ、おめでとうって……「本当か?」 ――いや、もしかしたら、正直、悔しいなって、思うかも……。

 って、そんな、自己卑下、自虐しても意味無いじゃないか! もっと前向きにならなきゃだめだよ!


(といったところで強制終了。上の叫びは、虚しく響き渡るのであった)


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今日の一言「連載記事とか難しいね」「何らかの結論が出るといいんだけど……」

現実への試み

 ここに二つの道がある。一つは、その「求めるもの」に対して、現実の変容を決意し、努力を重ねて、目標に到達する道である。もう一つは、その「求めるもの」について、再度解釈を試みること道である。
 一つ目の、まずは、現実へのアプローチについて検討しよう。

 まず、先日の記事において提起された問題を確認する。
 羨ましいなぁ。 という感情であったと、まず仮定しよう。その羨ましいとは、若さへであったり、一途さであったり、充実さであったり、彼女だったり、特異な能力などが挙げられるであろう。 そして、それとの、自分との距離感による、「喪失感」であったと推定しよう。
 時間と空間を除いて考えることは不可能である。故に、現時点性において、達成できうるものだけを抽出する必要がある。

 上の問題においては、「一途さ」「充実さ」「彼女」「特異な能力」がピックアップできる。
 次に、カテゴライズ(分類)を試みる。「一途さ」「充実さ」については、内面の達成すべき目標である。「彼女」と「特異な能力」は、外面(現実)において具現化させるべき目標である。

 「一途さ」と「充実さ」については、非常に曖昧であり、それらは、ある物事・事象に対しての情動(感覚)であるが故、これ自体での達成は困難なことから、いったん除外(わきにおいておく)ことにする。

 では、「彼女」と「特異な能力」はどうか。

特異な能力

 先日の記事でこうやって表現したから、そのまま使ってきたが、まず、これは、「専門性」と換言してもよいだろう。
「これだけは誰にも負けない!」
 といったものや、
「この分野は最前線で戦える!」
 とかそういったものだ。

 これは、もうこの時点で、非常に困難な目標であるといっていい。70億人もいて、インターネットで繋がっている世の中においては、ローカルなコミュニティを維持するのは難しいから、その中でトップや最前線である、なんて大変なことだ。
(オンラインゲームの中だってそうだろうし、お金がかかる分野であればなおさらである)

 しかし、だからといって、「自分はダメだ」と諦めてしまうのは、あまりにも短絡的であり、堕落的である。
 一日、二日、ばかいってんじゃない。1か月? 一年? アホか。10年20年続けて、ようやっとスタートラインに立てるぐらいの、そんな気構えを持てずして、何が専門性だ。笑わせてくれる。

 そういった思いをもってあたることができれば、専門性は、決して、得られないようなものではない。

専門性の絞りこみ

 故に、専門性(特異な能力)を得られないという、諦念は抱いてはならないということが分かった。そりゃあ確かに、エンタメの主人公のように、先天的な、あるいは啓示的な力の付与によって覚醒するという方がカッコいいけれども、そんな魔法少女に憧れる童じゃああるまいし、そんなものを求めるわけがない。

 ただし、ここで立ちふさがるのが、「じゃあ、自分は、何を求めればいいのだろうか?」という思いである。


 ここで、この問題は、これ以上進められない。未だ解決への道筋が見えないからである。

彼女について

 専門性の獲得についての方策が頓挫してしまった。では次に、「彼女」をつくることについて検討してみよう。

 そして、いきなり頓挫する。出会いがねぇ!!(笑) というのは、まぁ大した問題ではない。
 もう少し主体的に動けば、例えば出会い系のサイトや、街コンやパーティーや、友人知人の紹介やら、ジムやらサークルへの参加へやら、方法はある。

 それへの動機の希薄さは否定できないが、しかしながら、それよりも先に解決すべきは、「そもそも目的と結果が逆転してないか?」ということである。

 それは、より自然なことであるのだけれども、そもそも、「好きな人」がいるから、彼女にしたいと思うし、結婚して、子供を授かりたいと思うんじゃあなかろうか。上のような問題提起の仕方では、結局、「ステータスとしての彼女」を求めているに過ぎないのではなかろうか。

 いやいや、それは単なる童貞的思考だよ、と。そもそも、出会いがあるような場に身を置くことで、誰かを好きになる、みたいなことが起こるのだよと。待っていては何も起こらないよ、と。

 あー、まー、そうなんだろう。火のない所に煙は立たぬからな! 女の子がいない場にいても、女の子を好きになるなんてことはないわな! 男の子を好きになっちゃうわな!(かっこわらい)


 では、問題を次に進めよう。彼女がいて、どんな生活をしたいの?

求める生活について

 生活、も、そうだけど、まず、「愛」って何かをしっかり分かっているか、ということだ。

 いやいや、いきなり何いっちゃってんの? というのはそうだが、大事なことである。もっといえば、これがはっきりしていないと、そもそも、「どんな彼女」が欲しいか分からない。

 可愛い彼女。

 と言ってしまえば簡単だが、じゃあ、それって何よ。性的魅力があることが重要なの? 外見至上主義? 化粧はあり? 整形は?

 いやいや、外見じゃないよ、やっぱり中身が大事だよ。

 おーおー、よくある話の流れだ。中身、ね。その通り、中身が大事だよ。そんなこと分かってんだよ、じゃあ、お前の言う中身って何だよ?


 ……な、なんでしょうね。

 ということになるのだ、「愛」って何かが分かっていないと。


 こんな問題は、リア充には起こらない。ここでいうリア充とは、いわゆる、自然環境において、女性関係が発生する人たちのことである。イケメンでも、雰囲気イケメンでも、優しそうな人でも、塩顔でも何でもいいが(全部外見のことを挙げたが、もちろん、人は顔だけじゃない、そんなことが問題なのではない)、普段の生活において、「好き」あるいは「好かれた」が発生する状況がある人たちである。

 自然環境において、いわゆる「恋」が発生するのであれば、それは、その相手について、その相手の人格(または顔や身体かもしれないが)について、好ましく思う感情が生じているのである。

 ところが、恋活とか、婚活とか言われる作業(※)では、その「自然さ」がない。

「うっせーよ童貞根暗野郎。そんな自然とか、ガキっぽいこといってんじゃねーよ。お前いくつだよ? ああん? もっとビジネスライクに考えろよ。相手が求めることと、自分が求めることのすり合わせができればいいんだよ。それが婚活なんだよ、結婚なんだよ、ロマンなんてねーんだよ」

 というのは簡単だが、本当に、そこまで言っちゃっていいんだろうな?


※「作業」とは甚だ否定的な意味を含んでいるが、他によい表現が浮かばなかった。お金もかかるし、時間もかかるし、完全に作業じゃね?

モチベーションの低下

 うだうだ言ってるんじゃない。まずは行動だ!

 という方策に、僕は懐疑的である。
 まずもって、僕は多分、この思考を手放すことができない気がしてならない。
 もしも、それができるとしたら、只管打座、坐禅をして仏道に向かわねばなるまい。

 逆に。
 であるがしたら、そもそも、「彼女を作ろう!」という目標が、迷子である。


 話がズレてしまったが、「愛」なき婚活は、結局、失敗を想起させるということである。

 まずもって、婚活婚活簡単に書いているが、そんな簡単なもんじゃないことは分かっている。
 婚活とは、営業活動である。自分という商品を、どれだけ価値あるものだと説明し、納得させ、消費者(女の子)に売り込むのである。

 そのためには、もちろん、自分自身の長所短所も知っていなきゃならないし、自分が求める生活を思い描けなければならない。


 生きている意味が分かりません

 なーんて、頼りない男なんて、どんなイケメンでもノーサンキューである(※)。


 というわけで、第一の道、「専門性を獲得する」「彼女をGETする」という目標については、現時点で保留(却下)とする。

 次に、第二の道「求めるものの解釈・再構築」について検討する。


(この連載テーマ、ドッと疲れる……。ダラダラ仕事してた方がよほど楽な気がするほどだ。まぁ、しかし、このテーマを進めるために、ここ数か月書き続けてきたといっていい。これに着手するのが、2月の目標達成と、二つの映画によるショック(ダメージ)という契機というのは、何とも恥ずかしいが……)

※いや、きっと、イケメンなら、「守ってあげたい!」「そんなギャップが素敵!」みたいになりそうだ!(ルサンチマンである。かっこ笑い)


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今日の一言「苛々と焦燥感と無気力感に負けるな!」「日々の生活の中に答えがあるのでは……?」

3月の目標を立てよう

 目標を立てよう。ダメだこりゃ、毎週毎週が、サバイバル状態である。毎日毎日が、断絶状態である。もちろん、記憶障害もなければ、譫妄(せんもう:幻覚や錯覚)があるわけでもない。

 何だろうか、表現するならば、日々の生活が「虚しい」。空虚な感じがする。「実存的空虚感」という表現は、言い得て妙だと思った。

 と同時に、書棚を眺めていて、「あー、一時期、宮台先生(※)の『終わりなき日常を生きろ』だとか、『この世から綺麗に消えたい』だとか、よく言ってくれたと思っていたこともあった」が、結局一時的な処方にしかならなかったのではないか――もしくは、結局僕自身の生き方としては「信じ切ること」ができなかったのではないか、と思った。

 社会学は、所詮は、僕らが生きている時代や環境の、外的な(客観的な)位置づけについては役に立つが、結局は、実存的な問題には寄与しないのだ。
 僕らが生きる社会がどうであれ、僕が立っているのは、紛れもなく僕だけの場所なのだ。その場所が、文脈によってどのように定義付けられようが、「僕自身」からみる場所は、外的な定義によって虹色に変化することはないのだ。僕がみるのは、あくまでも、僕自身の眼によってなのだから。


※エリート社会学博士。イケメンで妻子持ちである。

恥ずかしい表現ではなかろうか?

 おーい、30代男性が、上のようなことを書くなんて、恥ずかしくない? 気持ち、悪いよ?

 と、俺は思う。が、僕は、仕方がないと諦めている。

 むしろ、てきとーに、逃げてきたことを、恥ずべきだと思う。何が体験重視だ。何ががむしゃらに、だ。何が子どもはバカやって学ぶもの、だ。いい加減に、他者の言説に惑わされるのをやめろ。不安なのはよく分かる。「自分自身」をもっていないと、非常に不安で、「あれをやらなきゃ」「これをやらなきゃ」という様々流布される言葉に、焦燥を掻き立てられる。

 僕の記事らに、「実感」という言葉が登場し出したのはいつ頃だろうか? 意識し出したのは、最近のことに思われる。少なくても、15年前ぐらいには、無かった気がする。
 厳密に考えていけば、「自己の考え」と、「他者の考え」を明確に分離させることは困難である。完全にクローズされた環境で育てられたのなら別だろうが、そもそも、それは正常な人間としての成長があるとは思われない。

最近求める面白い記事について

 んで、最近思ったのは、他者のブログにおいて、面白いと思うのは、それが、ポジティブだとか、ネガティブだとか、そこがポイントなのではないことだ。愚痴でもいいんだけど、その向かう先が、外部になっている記事は、おもろーない。
 これは、社会批判の記事を否定するのではない。「自分はこう思うから、社会がこうあるのはおかしい」という主張は、有意義に思える。科学技術についてだとか、漫画を描く技術だとか、そういったテクニックに関するものも面白いものだ。ただ、これらは僕が、今クリティカルに求めているものではない。

 僕が今求めているのは、実存的問題を取り扱った記事であるが、これが中々多くない。というのも、単なる「愚痴ブログ」なものは、ちょっと違う、からだ。

 ここで僕が(面白くないもの)想定しているのは、同じグチグチしているブログ(俺はダメな奴だーとか)であっても、何だか面白くないなと思うときの大半が、それを、「誰かのせい」にしているのである。

 家族の誰々のせいだ。
 社会のせいだ。
 会社の上司のせいだ。
 友人のせいだ。
 彼氏のせいだ。


 誰かのせいにするってのが、僕は嫌いである。(んじゃー、なんでいっつも苛々するんだよ、という突っ込みは、非常に鋭い。これはまた別途、検討に値する気がする。ただ、取りあえず一次感情(実感)としては、僕は人のせいにするのが嫌いだ)

 いや、誰かに責任を負わす、ということは、仕事のうえでも、友人関係のうえでも、重要なことに思われる。ただ、責任とは何ぞや。部下が失敗して、叱責をしたとして、問題が解決するのだろうか(※)。それよりも、何らかの解決に向けて思考を使った方が有意義なのは言うまでもない。

 怒りの発散としての記述は、読んでいても面白くない。(え、お前の苛々対処の記事は何なんや! というのも鋭い突っ込みだ。やっぱり俺も同じことやってんじゃねーか、と更に鬱になる)

 ……ということは、やっぱり、俺の記事は面白くない、ということになる。


※叱責の不要を主張するのではない。ただそれは、次のミスを防止するためのものであるべきだ。人格攻撃して、悦に浸るような人間も存在するが、できるだけ避けた方がいい。

問題の提起

 別に、今、苛々しているわけじゃあないんだが、とにかく、色々、このままではまずい。

 この状況を、『君の名は。』『SAO』ショック、とか言ってふざけている場合ではないのだ。

 整理しよう。
 まず、何故、種々の作品の視聴が、「ショック」であったのか。

 羨ましいなぁ。

 という感情であったと、まず仮定しよう。その羨ましいとは、若さへであったり、一途さであったり、充実さであったり、彼女だったり、特異な能力などが挙げられるであろう。

 そして、それとの、自分との距離感による、「喪失感」であったと推定しよう。


 フランクルさんの言葉を借りれば、「若さは憧れるものではない。自分自身の積み重ねてきた過去の一つ一つが、かけがえのない価値なのだ」となるだろう。
 確かに、それは正論であって、そうあるべきものなのであるが、しかし、「実感」としてそのことを落とし込めてはいない。


 ここで、二つの道がある。

 一つは、その「求めるもの」に対して、現実の変容を決意し、努力を重ねて、目標に到達する道である。

 もう一つは、その「求めるもの」について、再度解釈を試みること道である。


(分割して書く。まず、第一の道について掘り下げて検討する)

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