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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「ギャンブルは好きではない」「乾坤一擲ってギャンブル?」

ギャンブルとは何か

 競馬、宝くじ、パチンコ、博打、賭博、カイジ……。

 僕は、ギャンブルが嫌いである。理由は、三つ。

1.運が弱い
2.例え利益が得られても継続しない
3.ドキドキするのが別に楽しくない

 競馬とか行ったことはある。ビール片手に、お馬さんが走るのを見るのは楽しかった。数千円負けて、数千円勝った。まぁ、ネカフェとかと比べて、時間対費用で考えると、別に悪いものじゃない気もした。

 パチンコも行ったことある。うるさくてイライラした。金属玉がピコピコはじかれて画面のルーレットが回った。あんまり楽しくなかった。どう考えてもゲームとかやってた方が、「ゲーム性」として楽しいと思う。お金がかからずとも、単純にあれを楽しいというのは如何なものか。まぁ、競艇や競馬や宝くじはまぁよいが、パチンコは、収益構造が気に入らないというのもあるだけかもしれないが。

 僕は別に誰がどんな趣味をもっていたとしても否定しない。とあるブログさんで、「ボーイズラブ好きなのが彼氏にばれたらひかれた」とか描かれていたが、そんな全然かまわないじゃないか、と思う。

 けれども、ギャンブルが好きです、趣味です、という人はどうだろう。もちろん、それが、身持ちを崩さない程度の、あくまで趣味である分には構わないと思うけれども、あまりお近づきになりたくはないなというのが正直なところだ。
 どうせだったら、道端で女の子をナンパしてお持ち帰りできるかというギャンブルの方が面白くなかろうか。ベンチャー、新しい会社を興すとかいうギャンブルだったら面白いかもしれない。

 そう考えると、そもそも、僕は「ギャンブル」という用語に、どこまでを含めて考えているのだろうか。そして、どこまでは許せて、どこまでは気に食わないと思っているのだろうか。


 本記事の目的と少しずれるので、簡単にまとめておこう。

1.ギャンブルとは、運の要素が強い行為(趣味・娯楽)である。なお、プロ・ギャンブラーという用語もあるかもしれないが、例外として考えないこととする。

2.事業構造が公共の福祉に利するものであれば嫌悪しない。

3.2.に関わらず、趣味の範囲を超えて生活に困窮するレベルで行為に没頭するものを嫌悪する。

株式投資とギャンブルの違いは?

 先日触れた、「株式投資入門――井出正介」の第一章をさかのぼって読む。
 第一章は、株式投資とはそもそも何なんだ、ということが書かれている。

 未だ、多くの日本人は、株式投資は、ギャンブルのようなものだと考えている(※1)

 実際問題、家計の資産(貯金・預金)は、1500兆円ということで、国内総生産(GDP)(※2)の3倍近くもあるらしい。

 よく比較される、個人金融資産の割合の他国との比較について、日本は、約50%が預金であり、株式投資は10%満たないのに対し、アメリカは預金が10%程度に対し、株式投資が30%である。
     日本    アメリカ
株式投資 10%   30%
預金   50%   10%

 面白かったのは、イギリスが、50%を保険・年金が占めていたということだ。なるほど、ゆりかごから墓場まで、というのは、こういうところで数値に表れているんだなぁ。


 ただし、現金・預金を重視していた人たちを、金融の勉強が足りていないとか、馬鹿にすることなど全くできない。
 なぜなら、実際問題、株式投資より現金・預金のほうが非常に合理的な時代が、日本の場合続いていたからだ。

 定期預金の金利が、6%もあった時代があったことを、いま若い人たちは知らないだろう。
 元本が保証され、年利6%の金利がつくというのは、相当魅力的である。それが、90年代からどんどん下げられ始めて、1996年には、1%を切って、株式の配当利回りをしたまわった。

 金利6%なら、1000万円預けていたら、1年で60万円生み出されるのだ。今はどうだ? 先日調べたのは普通預金だったが、0.001%だった。なんじゃそりゃ。暗算すらできない(わらい)。電卓で計算したら、100円だった。ゴミだ。


 時代が、変わったのである。
 預金なんてしていても、お金は一切増えない。しかし、こんな単純なことに、多くの優秀な日本人が気付かないのだろうか? そんなはずはない。何故そんな大きな問題にならなかったかというと、これは僕の推測だが、デフレ(物価が下がること)が起こっていたからだ。いわゆる不況。

 お金が増えなくても、身の回りの物・サービスの価格が低くなっていけば、まぁそんなに生活水準が下がるということはあるまい。
 だから、国や経済界は、できるだけ預金(ストック)を金融市場にまわしてもらおうといろいろ対策をしていたようだけれども、日本人の意識がすぐさま革命を起こすことはなかったのだろう。
 これは、上から目線でも何でもないが、人は、危機に直面しないと、そうそう自分の考えを改めようとしない。僕も同じ。まぁそりゃそうだ。今までうまくいっていたのなら、これからもうまくいくだろうと考えるのは、それはそれで合理的である。わざわざリスクを冒して、間違うことや失敗する可能性があることをする必要もないだろう。


 不思議だなと僕は思っていた。
 不況だ、景気が悪いとか、巷ではみんな言って、経済対策が必要だとか言うのに、みんなうんうんと言いながら、預金が多くて、金融市場にはお金が回らないという。
 景気が良いということって、どういう意識なんだろうか? それって単純に、自分の給料が増えるってことを想像しているのだろうか? 僕は、そもそも、景気がよくなって給料が増えても、物価が上がったら別に生活水準がよくなるわけじゃないのに、なぜそんな「景気をよくすること」が必要なのか、いまいち実感がなかった。その点は、今もない。――話は少しそれるが、そういう意味で、「成長すること」というのが、何故みんな無批判に大切なことなのかと思っているのかというのも疑問なのである。本当に、人類世界の幸福を考えたとき、「成長し続けること」が絶対必要なのか。「ワム」(無限の電力を供給できる)とか資源があるならそうだろう。でも、地球という全体資源が有限であるのならば(そもそも、恒星(自分で熱を発する星)には寿命がある)、そもそも成長し続けることなど考え方として矛盾ではなかろうか(いやもちろん、有限であろうと、使用できる範囲を桁違いに超えていれば、無限として扱うことも可能だろうが)。


 閑話休題。
 株とギャンブルの違い、だったな。
 確かに、先日書いたように、PER(純利益に対して株価が何倍の値段になっているか)は、バブル(1989年)前から50倍程度と高かったが、バブルをこえて、現在は、10倍~20倍の、国際水準に落ち着いているという。
(逆に言えば、これから株を購入しようとするときに、PERが10倍~20倍であるというのが、目安になるだろう。ただし、当然これだけがポイントではない)

 確かに、株は、ハイリスクの、ギャンブル性が強い状態が続く状態があった。バブル後に一気に株価が下がった瞬間など、まさにギャンブルといった感覚を生じさせたかもしれない。
 けれども、日本の証券市場や、国の政策(新会社法とか、NISAもその一つだろう)も、預貯金から、株や保険や債券といった金融資産にシフトさせようとしていることからも、株とギャンブルは異なるといえるだろう。

 もう一つ、違いとしては、ギャンブルは、固有の商品に過ぎない。他の表現を用いれば、再分配に過ぎないということだ。もっと他の表現にすれば、付加価値を生み出さない、ということだ。
 どういうことか。宝くじを例にすれば、くじを、300円で10,000人が購入したとする。3,000,000円集まる。胴元が、100万円ぐらいもらう。200万円を、一等賞の一人に渡す。一人はハッピー、300円が200万円になった。他の9,999人は残念。でも、「夢が買えた」ということで、とりあえず満足する。

 株とギャンブルの違い、という表題にしてしまったが、株・債権・保険・年金に、預金を含めても、金融資産とギャンブルは構造がまったく違うのである。

 金融資産とは、「市場」(しじょう)に流れるお金である。
 ギャンブルは、胴元(国だったり、某店の経営者だったり)が集めて、購入者に再分配する仕組みである。


※1:ような気がするだけ。というのは、株式投資をやっている方のブログなど拝見していると、周囲の人たちの反応がいまいちだと触れられていることが多いからだ。「へー株やってるんだ。それってもうかるの?」と反応はするものの、いざ真面目にやろうとか、勉強しようとする人はあんまりいないということである。そういったフレーズが、いくつかのブログさんで書かれていたので、やっぱりそういった傾向が強いのかなと思ったわけだ。

※2:GDPとは、日本国内で生産された付加価値の総額である。よく比較されるGNP(国民総生産)との違いは、「場所(ドメスティック)」にこだわるか、「人(ネイション)」にこだわるか、である。GDPは、日本人以外が生産した価値も含めるが、海外で働く日本人の生産した価値は含めない。GNPは、海外で働く日本人の生産した価値も含めるが、国内で日本人以外が生産した価値は含めない。
 ⇒って理解してたら、大きく間違っていた。要は、「海外からの純所得」を含めるかどうか、ということで、日本人かどうかは関係ないらしい。――GDPとGNPの違いって?中学生にも分かるように解説!
 例であがってたのが、イチロー選手。彼は日本国籍をもっているが、海外で働いていて、海外で税金を納めているので、GNPにも含まれないということだ。当然、日本のGDPにも含まれない。ポイントは、日本に住んでいる人の所得かどうか、という点。
・GNP=GDP+海外からの純所得
・GDP=GNP-海外からの純所得
 つまり、日本に住んでいる人に対して(国籍問わず)、海外から純所得(給料など)が支払われた場合、そのお金を含めるかどうか、ということ。含める場合は、GNP。含めない場合はGDPということ。
 じゃあ何故GDPが重視されるように昨今なっているかというと、純粋に各国の生産性を見る指標として役に立つからだ。GNPでも、その国の活性状況がみれるかもしれないが、他国がお金を引き上げたときの影響が大きくなるだろう。
 GDPとGNPの併記を各国で比較してみると面白いかもしれない。


まとめ

 あんまり面白い記事じゃあないなぁ。まぁ、学習カテゴリなので仕方がないか。
 でも、本来、学習ってのは楽しいことなんだと僕は思うのだが。

 その、面白くない理由は、上の章の内容は、別に今初めて思ったことでも、初めて学んだことでもないというのが一つ。なんとなく、思っていた感じていたことではあった。ただ、こうやって文章でまとめたのは初めてな気がする。

 そういう意味で、銀行にお金を預けておくというのが、非常に無駄……とは言わないが、眠っている状態であるというのは感じていた。
 ただ、じゃあそれをどう運用すべきか、ということについては、明確に、具体的行動ができるほど知識も、そもそもやる気が出なかったのである。つまり面倒だったということだ(かっこわらい)。ので、多くの人は、「銀行にお金を預けておくこと」が、これからインフレ(物価が上がること)になっていったら、どんどん損(目減り)するんだろうなぁと感じていながら、なかなか金融市場に参画できないのは、「合理的判断ができない」というよりかは、単に面倒である、というのもあるのかもしれない。

 何せ毎日忙しいのだ、誰しも。

 だから、「忙しい」という言葉自体、僕は価値を思っていない。忙しくない人なんて、どこにいるの?
 ――まぁいる。大富豪は資産家は、アーリーリタイアした人たちは、悠々自適な自分の時間を過ごしているのだろう。でもそういう人たちは、逆に、金融市場の仕組みを理解していたか、もともと自身の環境に恵まれていたのだろう(もともとお金持ちの家庭だった)。
 だから、「貧乏暇なし」という諧謔は、なんとも皮肉にも、正しいように思われる。



 でも、別に、僕はいつも書いている(つもり)だが、その「忙しい」というのが本当に悪いことだとも思っていない。
 仕事を、「いやー大変だよね~」といいながら、実は楽しんでいるという人も大勢いるだろう。仕事をすることで、自身を成長させてくれるのだと、そんな風に信じている人も大勢いるだろう。それらは、「すべて」間違ってなどいない。

 別に、どんな生き方も、人生も、正解も、間違いもないのだ。その人にとって正しければ、それでいいのだ。そんなもんだ。万物普遍の真理などない。


 けれども。
 逆に。
 それら、「すべて」正しい故に、「衝突」(コンフリクト)が起こる。
 無差別テロや暴力は、断じて許されることではないが、しかし、「テロリスト」とレッテルを貼ることは簡単だが、それら行為をなす人々にとって、その暴力的行為は「正義」なのである。これが未だ、人類が解決できていない問題だ。
 平和主義者たち。戦争反対を主張する人たち。大いに賛成だ。人同士で殺しあう世界が正しいはずないだろう。けれども、「テロリスト」が、果たして、必ず間違っているといえるのか。
 もちろん、自己の利益や、欲求のみを追求する存在に、正義などなかろう。そういった存在は、「悪」としてよいかもしれない。しかし、その「幸福の範囲」は、自民族や、同じ宗教を信じる者たちに限定されたとしても、それが「悪」だと唾棄し殺戮して浄化してよいというのか。別に、右の腕を切り落とされたら、左の腕も差し出せと言っているのではない。「テロリスト」や危険な国を容認すべきといっているのではない。ただ、正義を主張する者たちを、別の正義で押しつぶすということを、人類は長い歴史で繰り返してきたわけだが、本当にこれからも、同じ方法でやっていくのが「正解」なのだろうか?
 と、自分にとって、あんまし、どうでもいいことを書いてしまった。ただ、こういった点も、ずっと今まで思って考えていたことでもある(愛とは何か、友人とは何かとかいうのと同じぐらいのレベルで)。

 ――そんなことはない、人類は徐々に平和へと向かっているんだ!




 というのが、上の本で書かれているらしいと、先日ふとアマゾンのおすすめに上がってきたので、レビューなどみてみた。面白そうである。しかし、ちょっと高いな……。
 近くの図書館などにおいてないか探してみるか……。


(取りあえず、「株式投資入門」の第一章、第二章は理解しながら読めた。二章の金利計算はまだちょっと難しそうだが……)

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今日の一言「よし三連休だぜ」「何の予定も考えていない」

何かしよう(雑)

 よし、ようやく休みだ!
 いや何も、週休二日制を無視していたわけではない。しかし、何もない休日は久しぶりな気がする。
 思うに、その休日に入る前の「準備」が大切だ。ボロボロつかれた状態で休日に突入すると、十中八九、ボロボロな休日になってしまう。

 だが、僕はふと思った。

 休日そのものが嬉しいのではなく、「何もない時間が続くこと」自体がうれしいのではないかと。
 つまり、とりあえず、まぁ、なんか仕事もプライベートもうまくいかないが、三日間は、無為な時間が得られるということである。
 とりあえず、日々の雑事について、思い煩うことがないのである。

 そりゃあ、もちろん、何か予定があるのは良いことのように思う。けれども、予定があるってのは、その予定に対して「思い煩っている」ということになるまいか。いやなるだろう。


 だから、「あー、何しよっかなー」とか、ぼけーっと考えられるってことそれ自体が、とっても幸せなことのように僕は思うのだ、思ったのだ。

何もない

 まずは、この、現状の気持ちを書き残しておこう。とっても、楽しい。
 何だろう、何かこう活動していて充実しているなぁ、楽しいなぁと思うことはあるけれども、何もしていないこの瞬間が、なんかワクワクしてくる。

 こういった時間を多くしていくことが、人生を楽しむっていうことなんだろうか。

 そうすると、日がらずーっと、テレビをみて、縁側で日向ぼっこしながら過ごすお年寄り(こんなモデルはもはや段々くずれていってるだろう。いや老人ホームとかでは日常茶飯事か)になるのが、目指すべきものだろうか。
 しかし、このことに、一つ懐疑はある。今のこのワクワク感は、いつもの「雑事」(=めんどうなこと)から、一時的に解放されたという、その解放感によるものかもしれないということ。

 つまり、そもそも、「雑事」がなくなってしまえば、もはや、そういったわくわく感も得られなくなるのではないか、ということである。

 確かに、そんなことは、一生懸命働いて、定年を迎えてから感じたり考えてもいいかもしれない。

 ――僕は、断じて、否、という。


 将来のために生きるということを、僕は否定する。
 頑張って、報われるという物語を否定する。

 どん底の状況から這い上がるのは必要だ。しかし、物語はそこで終わっても、人生という長い物語は、一つ状況好転したところで決して終わりではない。

 モテない男(女)が、自分を磨き、彼女をつくることができた。意中の彼(彼女)の心をつかんだ。

 素晴らしい物語だ。
 だが、恋愛物語はそこで終わったとしても、その主人公の旅はまだ続く。


 終わりなき物語。
 しかし、たいていの人は、それを受け入れている。

 生涯学習とか、頑張り続けることが大事だとか、日々チャレンジだとか。


 誤解や、批判を恐れずに書けば、そういった方策は、「終わり」ということから目を背けていることに過ぎないと僕は思う。
 終わることが怖いのだ。だから、終わらないように、次々と目標を掲げ、努力し、ゴールを目指そうとする。
 しかし、本当に、ゴールにたどり着きたいと思っているのだろうか? 僕は、否と思う。

這い上がる物語は別だ

 ある意味、心を打つのは、そういった「打算的なゴール」など、一切感じさせない物語(生き方)である。

 のけものにされていた人が、力をつけて、周囲を黙らせるようになる。
 その主人公が、みじめであればみじめであるほどに、そこに「打算」などない。生きるために、ただ、戦わなければならない。現状維持は、何ら福音にはならない。だから目指す。ゴールというよりも、深い穴から抜け出そうとあがくのだ。

「人生に退屈した老人どもに、世界を救うだなど言われて、信じられるはずなかろう」――メイガス中佐(EDENより)。

 
 戦うことに理由などない。ただ、戦わなければ生きられないのだ。


現状維持の難しさ

 話はスパッと変わる。とあるブログさんを読んで思ったこと。

昨日の自分に比べたら、今日の自分は成長してる。何しろ、1日分の体験・情報があるから。しかし、昔の方が色々なことを記憶していたと、昔の自分にすら劣等感を覚える可能性もある。でも、やっぱり、人生経験という点では、昨日より今日の方が成長してるのだろう…
しかし、僕は過去に考えていたことも忘れてしまっていることが多く、ぐるぐる堂々巡りの思索の日々で、進展と後退を繰り返しながら、本当は成長も何もしてないんだろうなあとも思うことが少なくない…カラ回りしてるというか、無駄な無為な日々を送ってるんではないかと落ち込んでしまう…

 
 僕は先日、周りと比べて「自分はなんてダメなやつなんだ……」などと落ち込む必要など、まったくないと書いた。
 それは、すごい人はいっぱいいるし、ダメな人はたくさんいるからだ。比較してもきりがないからだ。そんなたくさんの人がいるこの世界において、自己卑下したところで、それは単に「自己エクスキューズ」(きっぱり言っちゃえば、「言い訳」)に過ぎなかろう。
 ただし、そんな中でも、負けちゃいけない人がいる。誰か? 自分だ。

 自分にゃあ負けるなと。

 他者に負けたっていい。そりゃ、勝ち続けられたらいいが、暴力の世界でも、知識の世界でも、政治の世界でも、技術の世界でも、コミュ力の世界でも、どこでもかしこでも、上がいれば下がいる。

 僕はもう一つ、これも昔に書いたことがあるが、「総合力」で勝負しろと。

「人間とは総合である」(※)とは、実存主義の哲学者キルケゴールさんの言葉だが、様々な要素……それは、体を構成するたんぱく質にとどまらず、自分を取り巻く人、環境も含めて、自分という存在であると、私は思う。
(だから、どこまでが「自分」という境界であるのか、実は、甚だ曖昧なのだと思うが、それはともかく)

 例えば、絵をかくのが得意な人でも、アマチュア・プロ含めて数多の中では、かすんでしまうだろう。しかし、絵の能力と、WEBプログラミングの能力があったらどうだろう。なんだか、人を驚かせる面白いことが少しできる可能性が増えはしまいか。
 仕事で営業トークがうまいとしても、それだけでは大して重宝されないかもしれない。しかし、営業トークにプラスで、権力者に気に入られる能力も高ければ、いい思いができる可能性が増えはしまいか。

 先日暗く感傷的なの書いてしまったので、たまにはポジティブなことも書いてみれば、PHPのプログラミングが少しできるだけでは大したことはないが、エクセルのマクロも少し使えて、パワーポイントが少し使えて、タイピングが少し速くて、小説を少し書くことができて、ピアノが少し弾けて、作曲が少しできて、初音ミクが少し使えて、10kmぐらいは走ることができて、筋トレを少し続けることができて、友人も少しいて、恋人を作ることも何回かできて、法律の文書を少し読むことができて、仕事で中よりは上の評価をもらえて、自動二輪の運転ができて、般若心経は暗唱できて、――と、まぁ、その一つひとつは大したことがないが、全部「総合」してみると、「唯一性」に少しずつ近づくことができる。

 まー。それでも、すべてを超越する人は、たくさんいっぱい、いるんだけどね。哀しいことに。

 だけど、その一つ一つを他者と比べて、「あー、やっぱり俺って駄目な奴だなぁ」なんて思っても仕方がない。無意味だ。じゃあ、そのできることの一つが、本当に、どんな環境で、どんな周囲の人との間であっても、絶対に自分が一番ダメか、って考えたら、そんなことあるまいよ。
 小学生の中にいってみたまえ。「おぉ! おじちゃん、すごい!」っていってもらえる何かが、きっとあるだろうよ。

 小学生の中で褒められても、虚しいだけだって?

 違う、そういう意味ではない。そりゃあ、小さな環境の中で、井の中の蛙やってることを自覚しないで、本当に自分はすごいやつなんだって、勘違いしているのは痛いだけである。
 でも、そんなんでも、周囲の人に何らか良い影響を与えられたら、それだけで、素晴らしいことじゃあなかろうか。
 どんな優れた技術や、思想をもっていたとしても、それが誰にも伝えられなければ、世界にとっては無意味である。
 ゴータマ・シッダールタさんも、最初は、「あー悟ったし、もういいや」と思ったそうだが、梵天という神様に、「いやいや、お願いだから、衆生に教えを広めてやってくださいな」と請われてじゃあいっちょやってやっか、と、80歳で亡くなるまで頑張ってくれたのだ。


 ――ん? はなしそれた! 話を戻す。
 ええと、とにかく、自分に負けるな、ってことを、僕は以前から書いていた、ということだ。しかし、あるブログさんの記事を読んで、僕は、ちょっとこの考えも甘い部分が多大だな、と思ったわけだ。
 次の章にその内容を書く。

現状維持の難しさ2

 つまり、「自分には負けるんじゃないぞ」というのは、ある程度若い人向けの言葉なんじゃないかなぁということだ。

 確かに、若い人だとしても、身体的なピークというのは、10代後半だか20歳前半だか(曖昧)と聞いたことがある。そしたら、「過去の自分には負けるな!」と言い続けても、絶対いつか……いつかというより、結構早い段階で、過去の自分にも勝てなくなる。スポーツ選手の引退とか、そういうもんだろう。
 たまに、現役で、まだまだやれるんじゃあなかろうかと思われていた選手が、現役引退! とかいって、驚かせることがあるけれども、その方にとっての、自分のピークというのはもう過ぎたんだと、類まれな感覚で分かってしまったのだろう。

 確かに、すごい能力をもっているから、ある程度はまだまだ現役で活躍できるかもしれない。しかし、その人にとっては、徐々に、衰えていく自分を感じ続けなければならないということなのだ。それはある意味、つらいことだ。特に、向上心を持って、心身を鍛え続ける必要があるトップアスリートにとっては、自身の成長が望めなくなるというのは、何にもましてつらいことだろう。


 だから、「自分に負けるな」というのは、いつでもどこでも、だれにでも使える魔法の言葉なんかじゃあないということを、しっかり銘記すべきだろう。


 しかしそれでも、いまだ僕は、この言葉は有効だと思っている。

 それはやっぱり、最初に書いた、「総合力」という意味においてだ。


 僕がさっき挙げた「できること」の羅列は、確かに、自分の要素の一つでもある。しかし何も、「できること」である必要すらない。
 例えば、目に見えない、人脈だとか、カリスマ性。カリスマ性って何? って考えるのは面白そうだが、それは置いておいて、他にも、さっきのアスリートの例で行けば、金メダルをとった実績だとか、仕事の営業さんでいけば、大きな契約を取った実績だとか、過去の実績というのも自分を成り立たせる要素の一つだ。
 または「経験」。あまり好きな例ではないが、「修羅場」とか「つらい状況」を乗り越えたといった体験・経験というのも、一つの要素である。


 そういった目に見えるもの、見えないもの含めて、自分の内部・外部含めた「総合」を考えたとき、いまだ、「過去の自分に負けるな」というのは、有効な言葉だと思うのだ。
 確かに、ある分野では、もう過去の自分に勝つことはできなくなってしまったかもしれない。しかし、ピークを過ぎてしまって、挫折や苦しい思いを経験したって、それ自体が一つの自分を成り立たせる要素だとしたとき、自分という総合力は、まだまだ、全体としてマイナスに転じているとは言えないではないか、そう思うのだ。

最後に落とす

 とまぁ、ここでブログを終わっておけば、まぁ前向きな記事になった気がする。

 しかし、僕の思考さんは、残念ながらここで終わらない。というよりも、上のことを書きながら、頭のわきに常にあったのだけれども、「で、その、自分に負けないようにして総合としての成長を感じていって、それで何を目指してるの?」と聞かれている。

 上に書いたのは、
>将来のために生きるということを、僕は否定する。
>頑張って、報われるという物語を否定する。

 ということであった。

 自分に負けずに成長していくということは、僕が上で否定したことと矛盾しまいか。

 つまりだ、徹底的な現状肯定こそが、本来あるべき姿じゃあなかろうか。

 ここで強引だけど、株の勉強で知った言葉を使ってみると、「現在価値(PV)」ってやつだ。
 現金(キャッシュ)ってのは、確かに、それ自体がお金を生む力がないので、ファイナンス理論の中では価値が低いものとされる。しかし、今日得られる100万円は、明日得られる101万円よりも価値が高いのだ。

 頑張って、頑張って頑張って到達できる「ゴールA」があるとする。
 そのゴールは、確かに、自分にとって「幸せ」であったとする。

 一方、目の前に、そのゴールより手近な「ゴールB」があったとする。そのゴールBで得られる幸せは、頑張って到達できる「ゴールA」よりも少なかったとする。

 さて、このとき、ゴールAを目指すのが人生の正解か、ゴールBで満足するのが人生の正解か、どちらであろうか?


 もう一つ提起して、今回は終わっておこう。
 僕はこの記事の最初のほうで、
>物語は終わりがあるが、人生という物語に終わりはない

 と書いた。

 つまり、ゴールAとゴールB問題は、それ自体で難問でありながら、「そもそも」僕は、その「ゴール」という問題提起の在り方そのものに疑問が生じてもいるのである。


(とにかく、三連休わーい)

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今日の一言「思い出って良いものとは思えない」「振り返りたい過去などない」

古い携帯が出土した

 最近珍しく、早く帰ることができたので、部屋の片づけを実施。
 そしたら、古い携帯が出てきた。
 ふと。ACアダプタもセットになっていたので、接続し、スイッチを入れる。

 ついた。

 もう3年以上はとっくに過ぎているだろうに、古い、日焼けして黄ばんだ携帯は、ピロリンと安っぽい音を出して起動した。



 ――こんなこと書くと、僕のブログに、みじめな男であるということを期待して頂いた方々をがっかりさせるだろうが、いろいろ、「リア充」的な写真や、メールなどが見つかった。古い携帯は、ちょうど、「彼女」がいたころが、直近として時を止めていたのだった。


 とある作品を最近読んで、感傷的な気分もあいまったのだろう。ついつい、こんなことを書いてしまっている。
 他にも、「愛とは何か」について書かれたブログさんを読んだのもあったのかもしれない。

 とにかく、他にすべきことはたくさんあるだろうに、何をもってしても、この感傷としか言えない、役立たずな気持ちを、少しばかり書き残したいと思ってしまった。

ある人のメール

 あー。
 せっかく、早く帰れたのに、腹痛が、ひどい。たまに、こうなる。超音波検査などいってみたが、異常はなかった。空腹とか、そんなせいかもしれない。

 感傷。
 今を生きる人には役に立たない感情。

 よく言われるのは、「つらいことだって、そういった感情があるから、人生って素晴らしいんだ」というようなもの。人生は波であるとか、そんな風なもの。

 それはそうなんじゃないかな、と思う。ただ、その思いは、「まぁ、君がそう思うならそうなんだろうね」といったレベルだ。
 それに関して思うのは、「つらいことや苦しいことだって、人生を鮮やかにするために必要なんだ」なんて言えるのは、その「つらかったことや苦しかったこと」(以下「マイナス事象」という)を、乗り越えた人たちだけだ。

 そのマイナス事象の、重い軽いはここでは問題にならない。
 人それぞれ、乗り越えられる苦難なんて別々だ。「え、なんでそんなことで?」というので死んでしまう人だっているだろう。それに、他者の苦難について、どの程度「重いか」なんてのは、主観で決まってしまう。他者がその重さを、本当の意味で分かってあげることなどできない。

 そういう意味で、僕のこの、おもっ苦しい気持ちを、誰かに理解してもらおうなんてのは、やめた。あきらめた。
 でもそれは、他者を敬遠するということではない。他者と、適切な距離をとるってことを学んだに過ぎない。さめた人間? ――かもしれない。人とかかわることが臆病な人間? ――かもしれない。けれども、こうした諦めによって、僕の「世界」は、ずいぶんと住みよく、心地よく変化したことは、間違いないのである。


 話しが分かりにくくなった。
 なんというか、感情のまま生きるって、いいことだなぁ、と。……いや、そうなると、言いたいことが真逆になってしまう。おかしいな、混乱しているんだな、俺は。お腹痛い。

他者の痛みが分かる人間

 僕は人間が好きだ。
 僕は人間が嫌いだ。

 どちらでもあって、どちらでもない。

 こんな表現、読んだだけで気分が悪くなるだろう。人は無意識に分かりやすさを求める。答えを求める。

 ゼロから、自分で考えるなんて、非効率なことは誰もがしたくない。

 答えをくれる人を頼りたい。道を示してくれる人に付き従いたい。



 僕はそんな凡人たちとは違う! などと表現したいわけではない。僕も、分かりやすさが欲しいし、答えが欲しい。一般的な人間だ。

 でも。

 そう、こんなとき。

 突如、ふとした瞬間、とても、感傷的な気分になったとき。



 積み上げられたものも、自分という人格も、知識も、技術も、お金も、持ち物も、身体さえも、――ほんとうに、無常を思う。

 そんな気持ちに浸りたいだけ?
 自分は他の人たちと違うんだって思いたいだけ?
 卑屈になることで自分のいたらなさを慰めている?

 いろいろ批判はできるだろう。簡単に言ってしまえば、いわゆる、気持ちの悪い人間だろう。そうだ、だから、僕は、多くの人前では、そんなこと絶対言うまい、思うまいと思っていた。

 人生は、前向きに、ポジティブに、建設的に、楽しく、みんなでワイワイ、パーティピーポーになるのが大事なんだって、そう思っていた――思うようにしていた。
 いや、今も思っている。それがきっと、「正しい」。正しいんだ。だって時間は有限だ。人生は限りがある。楽しく、うれしくやっていくのが当たり前に大事なんだ。



 ――でも。


 それでも、無常だなって、思う。


親の死

 僕の友人の何人かは、親がいなかったりする。
 僕は、両親ともに生きている。素晴らしいことだ。ひどく、落ち込んでいた時期も、とりあえず、親が生きているうちは生きてみるか、と思ったりもしていた。

 とりあえず、親は、僕が死んだら悲しんでくれるだろうと、そう「信じれる」から。

 親が若いうちに死んでしまった人たちは、一般的には、「かわいそう」だろう。
 しかし、悲しみを乗り越える機会が早いほうが、その後自分が長く生きるとしたらよいのかもしれない。
 人は、環境になれてしまう。

 僕も、僕を大切にしてくれた肉親の死を最近経験した。いろいろ思い出もあいまって、泣いた。悲しんだ。

 でも、それも、もう1年くらい経って、慣れてしまった。

 今でも、思い出すと、もう会えないことにとても残念な気持ちになる。それでも、毎日目を真っ赤に泣きはらすことはない。


無常

 素晴らしいものや、ことや、人はたくさんあったり、いたりするという前提で。

 そのうえで、やっぱりこの世は無常なんだと思う。



 楽しんだり、笑ったり、喜んだり、うれしかったり、恥ずかしかったり、怒ったり、泣いたり、苦しんだり、嫉妬したり。

 いっぱい、いろんなことがある。

 仕事だとか勉強だとか創作だとか遊びだとか世話だとかやることもたくさんある。


 それでも、どうして、「生きる意味を徹底して考える」みたいなことを、僕はしなきゃならないのかって、たまに疑問になることもある。
 やっぱり、感情的に、物欲的に生きるのが「正解」なんじゃないかって、良いことがある度に思ったりする(まぁ、そんなにイイことなんてあんまないが)。

 でもやっぱり、こうやって、感傷的な感覚になると、よく分かる。
 やっぱり、すべては、うつろいゆくものなのだということ(諸行無常)。

 すべて幻影だとか、幻想だとか、そういうわけではない。

 すべての物や、事や、人は、「ある」。

 ただそれは、「現象」しているだけである。唯一不変の根源などもっていない(諸法無我)。

 それを信じたくない人が、量子物理学を研究するのかもしれない。物質の根源は、「ある」のだと。分子、原子、陽子・中性子・電子、クォーク……と、小さく、小さく自然を探求していく。
 物質の根源はあるのだと。そして、僕ら人間の根源もあるのだと、そう信じて。

中学生ぐらいならありかな

 とまぁ、こういった文章が、彼女にふられたばかりの、中学生、高校生ぐらいならありかもしれない。
 何をまぁ、30代のおっさんが言っているのか。

 慕ってついてきてくれる後輩も、先日知り合った女性も、こんなん読んだらドン引きである。



 ――と、いつもそうおもうのだけど、実際どうだろうか。
 まぁ、経験上、ドン引きされる確率が高いのだけれども、ただ、よく考えると、だれしもこの手のことは考えているのではなかろうか。

 だって、人はいずれ死ぬってことに、異議を唱えるひとはいまい。
 小学生ぐらいだったら、死という概念もわからないかもしれない。他者の死というのは、動かなくなったり、会えなくなるということで、理解できるかもしれない。でも、自分の死というのは、幼い子は理解できるのだろうか?

 いや、それを言ったら、僕らも同じだ。人の死は容易に想像できるが、自分の死というのは、どこか、遠い事象のように思っている。明日、無事目が覚めることを疑うことはない。
 ――そうやって、脳機能ができている。死の恐怖に取りつかれないようになっている。死刑を宣告され、ずた袋をかぶされ、首をはねられる瞬間まで、自分の死を覚悟することはない(わけでもなかろうが)。

 いやいや、当たり前だ。こんなことばかり考えていたら、まともに生活など送れない。
 死なんて、どっか遠いできごとなのだ。
 だから、どこか遠い死を実感するために、僕らは物語を欲する。どこか知らない誰かの死を思うことで、自分ではなかったと、自分は違うのだと信じるために。

感傷に浸っている?

 僕は、文章を書くのが好きだ。

 好き、なのだが、今楽しんでいるかというと、非常に陰鬱な気分である。


 じゃあやめればいい。誰も、お前に、そんな苦しみながら書くことを求めていない。
 わかっている、わかっているが、しかし、やっぱり、書かないといけないだろう。


 なぜか?
 できるだけ多くの人に、こんなめんどくさい思いをさせなくて済むようにだ。

 みんな忙しいだろう。家族に、恋人に、友人に、子供に、後輩に、上司に、お客さんに、いろいろ、やることたくさんあるだろう。考えている暇なんてないだろう。

 でも、たまーに、ごくまれに、「〇〇」という思いが生じる人もいるだろう。
 そういった人のために、少しでも、考えるプロセスというか、要素の洗い出しというか、流れの整理というかを、先んじてやっておきたい。

 僕なんかがやらなくても、いろいろ、先人の「表現」がいろいろあるだろう。
 けれども、「僕の」表現言語によってしか、伝わらないことってのもあると思う。大雑把なくくりの中で、30代の男ってカテゴライズされてしまうに過ぎないけれども、それでも、僕の「感覚」によって表現する「〇〇」というのは、きっと、唯一性と一回性が備わっているのである。



(携帯つながりで最後にメモだけれど、格安SIMに切り替えたスマホの調子は悪くない。MVNOだからといって、やはり回線スピードが著しく遅くなるなんてことはなかった。通話料は、auだと、5分間以内は無料で、5分超は30秒20円であり、格安SIMのプランは、5分間以内無料がないだけで、料金は同じである。電話をよく使う人は、MNOの方がよい場合もあるかもしれないが、大半の人はMVNOで十分なんじゃあないかと思う。まぁ、首都圏でのレビューであって、地方の回線事情とかとは違うかもしれないが)



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今日の一言「メモ」

ペルソナ4のアニメ

「ペルソナ」。仮面と訳されることもある。

 人は、他者と関わる際に、社会的な人格をもちいる。社会的な人格とは、建前だったり、礼儀だったり、マナーだったり。それが「ペルソナ」(仮面)である。
 誰しも、「本音」と呼ばれる部分がある。――本心、潜在意識と呼ばれたりもする。それを、ペルソナによって隠しているのだ。

 そして、このアニメーション作品では、どっちのこと言ってるんだろう? 
 まぁそんな難しいことおいておいて、第二の自分(つよい!)(≒スタンド)をもちいて、敵を倒していく作品だ!(雑)

 よく分からないな、と思っていたが、第三話までみて、あれ、よく考えたら第二話みてないな、と気づいた。そりゃあよく分からないはずだ。

 多分、真夜中テレビという異次元に入り込むと、自分の「本心・本音」の具現化したのが存在している。そいつは、時に醜悪な感情を表出している。でもそれを認めて、そんな気持ちの悪い自分というのも、自分の一つの要素なのだと理解することを通じて、「ペルソナ」(≒スタンド)が使えるようになるのだろう。

 とすると、本心の方がペルソナってこと? でもそうすると、原義としての、「社会的人格」「仮面」といった意味が反転していないか? と思う。
 いや違うのだろう。本心とか、仮面とか、そういった区別自体がさほど意味をもたない、ということを表現しているのだろう。獰悪で邪悪な心もまた、自分の一部なのだと。

 取り敢えず2話をみよう。話はそれからだ。

 しかし、3話目の、ちえちゃんが自分のペルソナに追い込みかけられるのは結構面白かった。

 大人は引き受けるものだ、と先日の記事で触れたけれども、大人とは、自分の複数の要素を統合して認めることができる人のことを言うのかもしれない。
 いや確かに、子供を育てたり、部下を育てたりと、「育てることができる人」(誰かの模範となれる)というのが、大人の要素ではあるだろう。むしろ社会的には、その要素だけで十分に思われる。
 けれども、いかに言動が品行方正で立派な大人であろうと、自身の人格の陶冶ができていなければ、大人として不十分なのではなかろうか。なんてね、どうでもいいか。

サイトの改修

 プログラミング実施。大体2~3時間所要。作品の情報を増やすため、データベースに新しい項目を追加し、新規投稿・編集・一覧表示・1件表示のロジック部分を改修。
 SQLも、使っているうちにだんだん覚えてきた。次の目標は、検索機能の強化だなぁ。せっかく情報があっても、それを上手く検索したり使えなかったりしたら、意味がない。

 そして、今更ながら、CSSをもう一度勉強しなおそうかと思った。CSSも、HTMLも、当時サイト構築したころからヴァージョンがあがっていて、色々便利な機能やかっこいい機能なども手軽に使えるようになっている。
 クライアント端末のスペックも――何かっこつけた書き方してんだ、単に、利用する人たちの使うパソコンの性能も全般的に向上しているから、ブラウザ側の処理で多少負荷をかけても大丈夫になってきている。それどころか、最近、広告が多いサイトが多い。大昔は、あんなん、表示するだけで大変だった。僕が小学校ぐらいのときのパソコンなんて、数百キロバイトの画像を開くだけで一苦労だった。

 時代は変わって、いろいろ便利になっていっている。しかし、「やりたいこと」というのが明確になっていないと、使える技術だけが広がっていき、覚えることばかりが増えていき、結局、何が「やりたいこと」なのか分からなくなってしまうことになりかねない。

 そういう意味で、実践って、とっても大事だなぁと思うわけである。

プライス・アーニングス・レシオ

 PERの略。
 何って、株の話だ。

 非常に基本的な用語のようであるが、なかなか概念が自分の中に定着しないので、これまた何も参照せずに、いったん、自分の知識を整理する。

 まず求め方。

 時価総額 ÷ 純利益

 または、

 株価 ÷ 一株当たり利益

 となる。

 時価総額とは、株価×発行株式数である。
 ある企業で、発行株式数が「5,090,000」であった。して、株価が319円であった。
 5090000×319 = 1,623,710,000 が、時価総額。

 この企業の有価証券報告書を参照し、28年度末の純利益が、131百万円であった。

 すると、1623百万円 ÷ 131百万円 = 約12倍 となる。

 これが、PERである。


 もう一つの求め方。

 株価(319円) ÷ 一株当たり利益(26円) = 約12倍 となる。

 これで、どれぐらいの期間(何年間)で、株価のもとがとれるか、ということを見る指標ということだ。
 当然、少ないほうが、株価に対して利益が大きいということだから、お得な銘柄であるといえる。
 100万円で事業をはじめて、1年で100万円の利益を出せるならPER1倍。これだけ考えると、単純にPERが低い銘柄を買えばよいような気になるが、そう単純でもないようである。これから勉強が必要だ。

 例えば、割り返す数字に、「純利益」が使われている点。
 純利益とは、その企業のメインの以外の活動も含めた、最終出た利益のこと。つまり、本事業でうまくいっていなくても、資産(土地とか建物とか、人とか)を売り払って、臨時で利益が出ているだけの可能性もある。
 そしたら、一時的にPERは小さい数字をはじくかもしれないが、翌年にはあえなく倒産、とか、そんな可能性もあるだろうたぶん。

(そのほか、例えば、業界の平均を調べるとか、その企業における推移を調べるとかも必要)


まとめ

「お前のブログはなげーんだよ。もっとテーマしぼって短く書けよ」

 と、そこまで言われてはいないが、気を付けようとは思った。しかし、どうにも難しい、というか、短い記事だと面白くない。ので、三つまとめてみた。

 PCの調子がよくなくなったので、強制終了。


(しかし、近況メモ的なのは、書いていてもあんまり面白くないな。あとから読んだら、どうだろうか。まぁ、しばらくして読み返してみよう。あんまりダメそうなら修正するか消そう)



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今日の一言「今の知識を恥ずかしげもなく公開」「中学生で分かるレベルを目指す」

新しい概念とは何か

 やる気が少し戻ったところで、学習を開始する。しかしまずは、自分の知識体系の整理が必要である。

 最近始めた株についてだ。
 6月の中旬ぐらいから始めて、先週までで、3万円ぐらいプラスになっている。しかし、目的も、投資理論もまったく脆弱なものであって、特に意味がある金額ではない。
 そのため、ある程度は、自分の投資に根拠をもてるようになりたいと思う。マイナスになろうが、プラスになろうが、その根拠を自分の中で理解できるようになるということを目標にするわけだ。
 そのために、まずは、株というものについて、自分の理解していることを、特に何も参照せずに整理していきたい。



 さてしかし、新しいこと(概念)を覚えるということは、非常に難しい。
 そんなことは当たり前だと言われるが、しかし、何故難しいのだろう?

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 上の、無意味な数字の羅列は、新しいことであるが、覚えること自体はさほど難しくないだろう。
「鬱」という漢字も、覚えようとすれば、さほど時間を書けなくても覚えられるだろう。

 しかし、「概念」となると別だ。
 概念自体も、分解していけば、それぞれ、単一の知識に還元されるものであるが、単なる個々の集合知識ではないことに留意する必要がある。
 社会とは、確かに人の集まりであるが、個々人の思惑とは違った結果を生み出すことがあることは、多くの人が頷くことであろう。卑近な例にすれば、一人一人は良い子なのに、集団になると悪さをするとか。

 では、新しい概念を、どうしたら「覚えた!」「分かった!」ということになるのだろうか。

 それは、トップダウンと、ボトムアップの両方の学習が必要になる。

トップダウンとは

 トップダウンとは、抽象的な知識である。
 例えば、「株とは、企業が、資本を集めるために用いる手段である」というのは抽象的な知識である。
 しかし、抽象的な知識というのは、一見万能に役立つように思いきや、何の役に立たない場合もある。「人とは、霊長類で、サピエンス種である」と言ったところで、それが何だ? と。

 重要なのは具体性だ。

ボトムアップとは

 ボトムアップとは、具体的な知識である。
 証券会社に口座を開いて、普通銀行からお金を振り込んで、ある企業の株を注文すれば、それが「株」の知識である。インターネットが普及していなかった頃は、株券として、紙媒体で届いていたのだろうか。その場合、株券が、株のことである。

どこまでいけば覚えたことになるのか

 このように、ボトムアップの知識(具体的)を蓄えて、トップダウンの知識(抽象的)に結び付けていくことが、「覚えた」「分かった」ということになる。
 人の脳神経細胞の本能とは、「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」というものであるが、この観点からいくと、「覚えた」「分かった」ということは、僕らにとって「快」であるはずなのだ。
 しかし、学校の勉強とかが、面倒だ、面白くないと思うのは、往々にして、「暗記」的なものになりがちだからである。暗記ができるのは、若いうちの方が有利なので、それが必ずしも悪いことだとは思わないが、脳神経細胞的には面白くなかろう。
 もう一つ学校教育の弊害をあげれば、抽象的知識の優位性を重視しがちだということだ。これも、昨今の情報社会においては仕方がない部分も多い。何せ、一昔前では優位だった知識が、時代遅れどころか、間違っていたことが発覚することもあるからだ。だとしたら、できるだけ、誤ることが少ない、抽象概念のインプットに努めたほうが、応用ができるだろう。

 そろそろ話を株の方にもっていこうか。

株式とは

 株、株式、と言い方が異なるが、そもそも、その違いを分かっていない。辞書で調べてみたが、あまり違いは無いようだ。
 そうそう、新しい概念を覚える際に気を付ける必要があるのは、「些末なこと」とそうでないことの違いがよく分からないこともある。何せ新しい概念なのだから、何が重要で、何が枝葉末節なのかも、判断がつかないのだ。そういう意味で、先人・先生から学ぶというのは大事である。しかし、知っている人から学ぶというのは、あくまで、学習のきっかけや、方向性についての師事を受けるということであり、実際は、自ずからのインプットが必要になる。

 また話はそれるけれども、よく情報商材とか、インターネットで見かける、「これを読めばあなたも億万長者!」「すぐに分かる女性にモテる7つの秘訣!」とか、もっといえば、自己啓発本とかメンタリズムの書籍なんかを読んで、すぐさま効果がでるはずはない。最近はやりの、映像商品とか音声商品とかも同じ。もっともっといえば、塾のカリスマ講師の授業を受けたところでそれも同じ。

 読んだり聞いただけで効果がでるはずなどない。
 学習ってのは、結局のところ、自分自身の鍛錬が必要になるのである。他者の言葉を聞いて、実感して、やる気があがって、行動できるようになるという効果はあるだろう。カリスマ講師とか言われるのは、生徒らをやる気にさせるのが上手いってのもあるのだ。

 話がそれた。
 株、についてである。

 僕が中高生だったころ、なんかの漫画とかドラマとかみて、大人はみんな、新聞読んで、「今日は景気がいいですね~」「株価があがりましたな!」とか言って会話しているもんだと思っていた。よく分からないけれども、楽しくなさそうだな、と思っていた。

 で、まぁ、その株というと、「株価」といった方が、一般に関心が高そうなネタである。

株価とは

 株価とは、株の価値のことである。つまり、株の値段のことである。

 しかし、物やサービスと違って、株のお値段といわれても、何のことだろう? そもそも、どこで購入するのだろう?

「株券の値段のことだよ」と言われたところで、よく分からなさは変わらない。

 まず、株を買うことができるのは、「証券会社」である。だが、証券会社とはそもそも何ぞや。

 それを理解するためには、株式市場、証券市場について理解する必要がある。

株式市場とは

 そしてちなみに、僕は、株式市場と証券市場の違いについてもよく分かっていない。しかしここは、些末なことであろうとして調べることもスルーする。この記事の中では、「株式市場」=「証券市場」(証券取引所)ということである。

 さて株式市場とは何か、ということだが、株式を売買するための「市場」のことである。

 市場(しじょう)ときくと、市場(いちば)のようなものをイメージするかもしれない。
 あながち間違いではなかろう。広い意味では、市場とは、物やサービスの取引が行われる場のことである。「場」というと、これまた、「スペース」「場所」といったイメージが浮かぶけれども、そういった具体的な空間があるわけではない。では何があるのか、と疑問に思うだろう。それは、「ルール」である。

 ルール、規則、決まりともいう。
 この企業の株式は1株当たり300円で、この企業は1000円で、1万株発行されているとか、そんなことが決まっている。そうしたルールを取り仕切るのが、株式市場というわけだ。

証券会社とは

 では、証券会社とは何か。マネックス証券やら松井証券やらGMOクリック証券やら、みずほ証券やら沢山ある。
 それらのやってることは全部同じだ。違いは、サービスや、提供してくれるツール、手数料などである。今回の記事レベルでは、気にすることはない。

 じゃあ証券会社は何をやってるのか。株式市場という「場」で、投資家からの注文をさばいているのである。
 実は、株式市場を通さなくても、株は買えるのである。もっといえば、株式市場で購入できるのは、「上場」している株だけだ。
 どこで買うのか? 企業に直接出向いて、「買います!」って言えばいいのである。ちょっと大雑把過ぎる例だけれども、株式会社といっても、親戚が、身内だけで資本を集めている会社だったら、直接株を買い取るのもありなのだ。

 ただ、そういった手続きは非常に面倒である。
 そういった煩雑さを代わりにやってくれるのが証券会社であるというわけだ。

 そういう意味で、株式投資を始めるのは、まったく難しくない。

1.証券会社に口座を開く
2.普通預金口座から、証券会社の口座にお金を振り込む
3.証券会社のツール(ネット・サイト)から、企業の株式を購入する

 これだけである。
 じゃあ株を売った後の現金はどうやって手に入れるのだ、というと、これはまだ僕はやったことがないが、証券会社の口座から、自分の普通預金口座に「出金」の依頼をするだけである。

どの企業の株を買うか

 以上、
・株とは何か
・株価とは何か
・株式市場(証券取引所)とは何か
・証券会社とは何か

 と、整理してきた。
 まぁ、一般知識だろう。「大人」なら、投資をしてようがしてまいが、誰でも知ってるだろう。

 問題は、多くの人が気になるのは、「株ってもうかるの?」ということである。

 株式投資をする目的が何かといえば、利益を得ることである。これ以外の抽象化は不可能であろう。損しようとして投資する人はいないだろうから。

 そこで、株のもうけかたということについて、「株式投資入門」という、私の株の師匠がすすめてくださった本の、第3章を参照しながら整理してみよう。

ファンダメンタル・リターン

 ファンダメンタルと、横文字がでてきた。これは難敵である。
 英語の辞書を引いても、「基本の」「基盤の」としか出てこない。なんぞ……ファンダメンタル。
 しかし、株式投資とか経済とかの分野では、よく聞く言葉なので、これは覚えたほうがよさそうである。

 上記本の中で記載されていることを強引にまとめると、「配当で得る利益」のことである。きっと、もっと深い意味があるのだろう。でなきゃ、こんなわざわざ横文字をみんな使いたがるはずがない。

 配当とは、株を保有していると、ある一定の期間で企業から支払われるお金である。利子みたいなものだと思っている。これもきっと違うのだろう。でなきゃ、「配当」とか言葉をあえて使わないだろう。利子でいい。

 ちなみに、僕が所有しているある企業の株は、年2回の配当があって、1株あたり2円と4円であった。1000株所有しているので、年間6,000円振り込まれることになる。
 ちなみに、僕が使っている銀行の普通預金の利子(金利)は、0.001%である。仮に、30万円預けていたとして、……3円、である。
 ファッ!?
 安!!

 ハッ、思ったより安くて驚いた。なるほど、そんなもんか。0.001倍じゃなくて、0.001なのね。
 まぁ以前書いたけれども、お金を預かってもらって、それで利子までくれるんだから、ありがたいとか思っている人もいそうだな、と。実際は、お金を預かってもらっているのではなく、お金を貸しているのだから、お利息ぐらい頂いても不思議ではないというわけだ。ただでお金貸してくれるなんて、友人だって中々いないだろう。

 とにかく、そう考えると、株式投資の、配当というのも、悪くはなさそうだ、と思う。

 しかし、株式投資では、ファンダメンタル・リターン以外にも、もう一つ重要な「もうけかた」がある。

評価リターン

 今度は日本語だ。しかし、逆にわかりづらい。何が評価だ? ん?


 まず、この本で学んだこととして、ハッと気づいたことだが、証券会社で株式を注文しても、それが、企業に直接お金が振り込まれるわけではない、ということである。

 つまり、企業は、株式市場に上場する際に、すでに発行する株式の数を決めているのである。
 その際の株価って、どうやって、だれが決めているんだろうというのが、新たな疑問が浮かんだが、話がそれるので、仮に、企業が自分で決めているのだとしよう。

 例えば、ある企業は、「1万株を、300円で上場します!」と宣言する。
 そうすると、上場したての企業はみんな関心があるので、投資家たちはみんな、「買います! 買います!」と手を挙げる。
 そうすると、株価は、ぐんぐん上がる。中学校で習ったろう、需要と供給の関係だ。みんな欲しいと思っても、その供給数が少なければ、価格が上がるのだ。
 ただ、あんまり無法地帯に価格が上がり下がりすると皆、企業も投資家も混乱するので、ストップ高とかストップ安といって、一日あたりに変動する量も決めたりしている。そういう役目を果たしているのが証券市場である。

 ということは、企業が、「新しく株券発行します!」というまで、証券市場に出回っているのは、すでにほかの投資家たちが購入した株券なのである。
 ここらへんで、疑問は、「株価」って、誰が決めてるんだろう? 人? 企業? 証券市場? ルール? というのがポンポン浮かんでくるが、まぁこれもわきに置いておこう。

 とにかく今回押さえておくべきは、株価は、需要と供給の関係で決まるということだ。
 ので、企業の価値が高いと思われたら、株価は上がっていく。逆に、危ないなと思われたら、下がっていく。ここでさらに気がかりなのは、「やばいなこの企業、売りたい!」と思っても、「買いたい人がいないんで、売れません」って言われることはあるのだろうか? それとも、証券会社などが、ある程度留保している株券があるから、そこで融通したりするのだろうか? でもまぁ、1万株が300円で売られて、株価が極端な話、1円になったら、300万円が1万円になったということだ。しかし、企業自体には、最初に発行した際に、300万円が振り込まれているはずなので、企業が潰れないのであれば、1万円ぐらい、ちょっとリスクを冒してでも支払って、仮にその企業が復活して株価が仮に100円にでもなれば、1万円が100万円になるってことだ。
 そう考えれば、まぁ、「売りたい!」と思ったときに、「買いたい!」という人もある程度いるような気もしないでもない。この辺りは、まだ売ったことないからよく分からない。


 で、なんだっけ? 評価リターンだ。
 雑談で書いたことがそのまま説明にもなりそうだが、その、株価の上下によって、買ったり売ったタイミングによって発生する損益が、評価リターンということだ。

 僕が保有している株は、1株300円ぐらいの頃に購入した。それが仮に301円になったとしよう。1000株保有しているので、1000円の利益になる。逆に、299円になったら、1000円の損失になる。
 これぐらいの評価リターンであれば、まぁ、配当をもらえたら十分プラスになる(手数料や税金の計算はこれから覚えよう)。
 しかし、仮に290円になってしまったとしよう。そしたら、1万円の損失になる。配当が6000円でたとしても、マイナス4000円だ。
 2年目まで持ち越したとしよう。そうしたら、配当金は6000円さらにもらえるから、プラス2000円になる。しかし、株価が290円のまま保持されるとも限らない。

 この意味で、僕の師匠は、「配当とか優待とか目当てってのは薦められないね~」と仰っているのだろう。

まとめ

 今日のところはここまで。

 まずは、株ってそもそも何ぞや、というのを、知識ゼロから整理してみた。
 多分、間違ってることとか、あいまいなこととか、足りないこととかたくさんある気がする。ご指摘等大いに歓迎である。
 中学生でも分かる超超基礎というつもりで書いているので、ここで大きな勘違いしていると、今後の知識体系づくりに支障をきたしそうだ。――ただ、ある程度積み上げていって、壁にぶつかって、「あーもうやりなおしだ!」とバラバラにしてもう一度組みなおしていくというのも面白いといえば面白いのだけれど、まぁ時間は有限だ。


 PERとか、ROEとか、整理しなきゃいけないことが盛りだくさんである。

 純利益、経常利益の違いとかね。

 円高に強い企業、弱い企業とか。ポートフォリオとか。

 景気循環の、在庫整理の数年の波とか、10年規模の設備投資の波とか、建設需要の20年規模の波とか、技術革新の50年の波とか。しかし、なんで学校では、キチン、ジュグラー、クズネッツ、コンドラチェフとか、そんなことテストに出すのかね。そんな名前覚えても殆ど役に立たん。建設需要は20年単位であるとか、実は人口要因も関係するとか、そういった知識の方が少しは役に立ちそうだ。が、しかし、そういうのも、じゃあ、結局いまってどこにあたるの? それって企業とか国々によって違うんじゃない? 建設需要とかいっても、みんな同じタイミングに建てるわけでもないよね? そもそも、コンドラチェフの技術革新の波って、ほんとにあるの? windows95が一つの革新だとしたら、2040年ぐらいになんか来るの? それまじ? とか、きりがない。

 知識ってのは、面白いといえば面白いが、結局、それをどう「納得」して、どう「行動」するかってのにかかっている。
 であるからにして、自分で納得して行動した結果であれば、それは当然「リスク」というのも知っているのだろうから、結果失敗だろうが成功だろうが、それ自体はさほど気にならないはずなのだ。

 批判や不満の多い人ってのは、納得も行動もできない人に多い(ように思う)。

 かといって、愚痴が多い人は別に嫌いじゃあない。なんか、「ネガティブな人とは付き合わないようにしましょう! マイナスオーラで、自分までネガティブになっちゃいます!」とか、そんな啓発系ニュースをよく目にするけど、正直アホちゃうか、と思っている(じゃあ見なきゃいいんだが)。
「自分なんて、ダメですよ……」
 という人がいたら、僕は、「へー、すごいじゃん! 君はいったい、だれと比較して、自分がダメだっていってるの? 世の中って、いっぱいいっぱいすごい人いるじゃん。君の会社にもすごい人いるでしょ。そんなすごい人たちと比べて、君は自分がダメだって思ってるってこと? すごいなぁ……そんな向上心があるんだね。でもさ、そんなすごい人たちと比べなくてもいいんじゃない? 大事なのは、昨日の自分には勝ってやるって、そんな気持ちなんじゃあないかな」
 とか言うかもしれない。
 何やっても駄目だ、とか言うけれども、本当にそうなの? と問いたい。全世界、70億人の中で、一番ダメってこと? それはそれですごいんじゃない? と思う。上見ても、下見てもきりがない。できることはせいぜい、自分の与えられた環境の中で、精一杯できる限りのことをするのみである。

 だから、……ではないが、とにかく、「感性」ってのが大事だと思う、今日この頃である。


(こういった考え方自体がポジティブだって? 僕は全然そう思っていない。これはどっちかというとネガティブな思考である。諦念である。しかし、最近ポジティブオーラに満ち溢れているせいか、「自分、暗い人間ッス」とかいっても、冗談で言ってるとしか思われない。まぁ、こうやって文字おこししても、やっぱりポジティブに映るのだろうか? それは、未来の自分さんに判断してもらおうか。だが、数年前の自分の記事を読んでみると、やっぱりしっくりくるのは、「反転したポジティブ」という表現だったりする。まぁどうでもいいか。ポジもネガも、結局相対概念に過ぎないのだから、読む人聞く人触れる人によって、その受け取り方(感覚:ヴェーダナー)が異なるのだ。だから、繰り返しになるが、その感性、感覚が大事だなぁと、そんな風に思う)



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