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離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「貢献心が満たされないとつらいんじゃないか」「認められたいという思いへの飢えかもね」

本の大量買い

 ある精神科医さんが、新しく本を出版されるということで、予約してきた。



 いつもブログを楽しく拝見させて頂いているため、少しでも恩返しになればという思いもあるが、昨今抱えている「実存的空虚感」への、一つの処方になればという思いもある。

 そもそも、マズローの五段階欲求説の、所属欲求と承認欲求の違いが自分としてはピンときていなかったが、「今の人たちにとって、所属欲求と承認欲求はある意味同時に起こっているんですよ」という前説からも、おーなるほどな~さすがやな~と思ったのもある。
(けっして、表紙の絵がかわいかったとか、そんな理由じゃないぞ!)


 と同時に、創作系の本も5000円分ぐらい購入。さらに、科学技術系(というかA.I.とかロボットとか)の本も購入。ヴィクトール・エミール・フランクルさんの本も購入。大盤振る舞いである。


 昨今、映画とか娯楽に費やしても、どうにも気分が昂揚しないと書いた。
 その理由は、現状として、「消費」を求めていない心性にあると書いた。
 本をたくさん買うことは消費であり、それを読んだとしても、消費なのではないだろうか? 言ってることとやってることが違うのではないだろうか。

 いや、「インプット」は、消費ではない。

インプットとアウトプット

 消費の対義語は生産である。

 人の思考行為は、消費と生産の二つに分けられる。更に、別の軸として、インプットとアウトプットにも分けられる。

 映画を見るのは、消費であり、インプットである。そこに、生産の要素と、アウトプットの要素はあまりない。
 ブログや小説を書くことは、生産であり、アウトプットである。
 ゲームをするのはどうか。消費であり、アウトプットである。

 ただ、分けられるといっても、明確に二分できるという意味ではなく、その配分が調整されるという意味である。






 図にしてみて尚のこと分かったけれども、全ての思考、行為について、明確にインプットだとか、消費だとか分けることは難しそうだと思った。例えば「料理」とか「ドライブ」とかはどこに入るんだろ。仕事がインプット×消費だけど、生産なんじゃなかろうか、とか。

 ひとりでやる作業ですら色々混ざっているし、「消費」という概念に、「時間」という要素を含めてしまえば、全行為消費に分類される。
 この時点で、論文であれば、ボツ原稿となるけれども、せっかくなのでもう少し続けてみよう。

アウトプットとは何か

 まず、横文字を使った時点でダメだったのかもしれない。
 ここでいうアウトプットとは、「他者へ伝える」という意味はもちろんだが、「整理」という意味も含めている。
 頭の中だけで、ぐちゃぐちゃーっとなっている思考を、解きほぐして、整理していくという作業自体を、アウトプットと呼んでいる。結果として、整理されて分かりやすくなれば、他者へも伝えられる状態になるということである。

 では、思考における整理とは何か。

 これは中々に厄介である。精神病、例えば統合失調症で幻覚妄想、譫妄があるとしたら、それを取り除く必要がある。あり得ない妄想を取り除き、「現実」なるものを直視させることもまた、整理といえる。
 ある人が考えていることを、他者も理解できるような言語表現に分解再構築すること、それもまた整理といえる。

インプットとは何か

 一方で、インプットとは、自分の中で、「わかった!」という感覚になることである。先日、V・E・フランクルの「人間とは何か」を読了したが、どうにも「わかった!」という達成感はあまりなかった、と書いた。
 この、「分かった」という感覚もまた厄介である。これが希薄になっていくと、強迫神経症的な状態になりかねない。「明証感情」というようだが、「これは正しい」「もう大丈夫だ」という感覚が薄れてしまうと、何度も何度も同じことを繰り返しても、「わかった」「これでよし」とすることができなくなってしまう。

 単純な意味として、知識の記憶という意味もある。ジャガイモの芽は毒がある、という知識は、料理のときにしか役に立たない。仕事上の専門知識の多くも、一般的な意味をもたない。〇〇さんは何が好きで何が嫌いというのも単純なインプットである(いや、これは違うかもしれない)。

で、だからどうした?

 うん、それでだ、特にだから何の役に立つという訳でもないが、こうやって考えを整理したりまとめたり、進めたり戻ったり、覚えたり伝えたり、インプットしたりアウトプットしたりすること、それが、何となく、今一番大事なことのような気がする。

 先日、娯楽について記事を書いたけれども、何だか、何やってもイマイチぴんとこないんだよな。

 娯楽ってのは、そもそも、睡眠や家事や学業や仕事といった、義務や責務から、余った時間に行うことである。
 好きなことを仕事にする、って人もいるだろうが、そうなると、娯楽の部分がなくなっちゃうわけで、それはそれで大変だ。

 要はバランスだろ、という、どーでもいい結論になると、本当にこの記事は無価値に過ぎない。
 ここはもう少し、先日コメントくださった方の、「無駄であってもいいじゃない」という言葉を灯台の一筋の光として、進めていこう。

(だが、時間切れである)

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今日の一言「近況を書いてみよう」

SAOオーディナル・スケールを視聴

 ソードアートオンライン劇場版、オーディナリースケールを映画館で視聴。きっかけは、先日、「君の名は。」を見に行った時に宣伝を目にしたから、が一つ。もう一つは、どうやら、かなりの鬱アニメっぽいという噂を聞いた(※1)からだ。マゾっ子としては見ないわけにはいくまい!(※2)

 感想としては、いやぁ、最近のアニメーションは、ほんと綺麗だなぁ。けもフレを、ある評論家の方がやれ構図がだめやらパースがだめやら声優演技がダメやら、批判をしていたけれども、何かアニメって一言で言っても、もはや語る次元がちゃうねんなぁと思う。ひだまりスケッチと、サイコパスと比べても仕方がないし、何というかその、生命の進化の樹形図みたいなんあるやん? 霊長類っていっても、ボノボとかゴリラとかチンパンジーとか人間とか、いっぱいおるやん、その中で、属に分かれて、種に分かれて細分化されていくじゃん。何かそんな感じ! いやその、大人(※3)向けのアニメと、子供向けのアニメ(※4)とがあるみたいな、そんなもんかな。


※1:いや、かなりリア充的要素が多量に含まれているという見た方のレビューと言うかコメントを読んだだけである。

※2:俺ってマゾだったんや?! というつまらない自己突っ込みはさておき、「いやだなぁ」と感じるその中に、逆転した欲求なんてものがあったりするのであるからにして、何とも希薄な感情に飢えているならば、敢えて進もう茨の道。

※3:大人って言葉が微妙である、と先日書いた通りだけれども、まぁこういうときは便利なんだよな。例えば、中高生が結構見に来ていたけれども、彼らは、子ども、何だろうか?

※4:最近やってるらしいモンハンのアニメとか、NHKでやっているようなアニメとか。そういう意味で、クレヨンしんちゃんのアニメは、先日、モーレツ大人帝国を見たけれども、あれはどっちかっていうと、大人向けなんじゃなかろうか。「郷愁」って表現が上手い具合にできている。おかげで、「大人は泣いて、子どもは笑える」というキャッチコピーの、ロボとーちゃんを借りてしまった。今度観よう。

オーディナル・スケールの感想というか

 感想、……感想、だと?
 うーん、「リア充爆発しろ!」? みたいな(※)。これ以後も、ネタバレ記事は書かないでおこう。というか、ネタバレって、誰に対しての配慮なんだろう。というか、そんなに中身に書きたいようなことは特になさそうである。


 SAOについて自分は、一期と二期の途中しか見ていなかったから、ライフル使う女の子のことは殆ど知らなかった。ただ、基本的に、今回は一期の初めのゲーム「ソードアートオンライン」のアインクラッドの世界が、カギになっているので、一期しかみたことない人でも十分ついていけると思う。

 取って付けたように、物語の最初に、キリトくんとアスナさんのアインクラッドでの「約束」が描写されるので、一応、初めて今作見る人へも配慮されているんだろうなぁとは思った。けれどもやっぱり、少なくても、一期は見てから見た方が楽しめると思う。


 あ、感想ね、感想。そうだな、「リア充爆発しろ」(これももう古いスラングなんだろうなぁ)以外としたら、VRとARとの違いが分かって良かったと思う。
 VRのVは、ヴァーチャル。SAO内では、「フルダイブ」というワードで、いわゆる催眠状態でゲームプレイするスタイルである。
 ARのAは、「Augmented」(オーギュメント)で、「拡張された」ということだ。
 今作は、主にARのゲームが舞台となる。即ち、ほぼ生身で戦ったり、プレイするということだ。VRでは無敵だったキリトくんも、ARとなると、日ごろの運動不足からか上手く戦えなかったりする。

 最近は、SONYが発売したVRのゲームが流行りだしたようである。ちなみに、SONYとLAWSONが、これみよがしにスポンサーであることがアニメの中でもすぐ分かった(からあげくんとか液晶とかSONYのロゴがばっちり!)、逆に面白かった。
 話しの流れとしては、ARが爆発的に流行っているけれども、VRもいいよね、みたいな感じであった。SONYの圧力か! とは思わなかったけれども、このARとVRの対比というのは面白いなぁと思った。

※映画館に来てたの、ほとんど男の子だったぞ。「君の名は。」のときはカップルも多かったけれども、これはどういうことだ。

.hackとSAOの比較

 ゲームの世界がリアルに及ぶ、というのは、ソードアートオンライン(SAO)が初めてではなくて、多分、僕が知る限りは、.hackという作品がある。自分は、.hack//signをみたことがあるぐらいで、ゲームも何もやったことなかったけれど、先日、ある方がブログで、.hackシリーズの解決をされていて、非常に分かりやすかった(なるほど、黄昏の腕輪はまた時系列が後なのか)。

 そんな自分が上の小見出しのようなことを書けるはずもないけれども、取りあえず思ったこととしては、SAO(一期)が面白かったのは、その「デスゲーム具合」のリアリティであった。いやー、ゲームで死んだら現実でも死にますって、そんな中二病的な発想構想、よく描けたなぁって、これは皮肉でなくてよくできた作品だと思った。
 そして、プラス要素として、主人公の俺TUEEE具合と、ヒロインの可愛さが良かった。いやー、オンラインゲーマーの欲望を余すことなく具現化したような作品だと思った。それゆえに、ちょっと一歩引いてみないと、色々とまずい。例えば、「ユニークスキル」なんてありゃせんし、課金しないで効率的にレベリングなんてありゃせんし、システムに組み込まれていない設定とか効果なんてありゃせんし、ゲームで知り合って結婚とかそんなもんありゃせんがな!(最後のは単に僻みである(笑))

娯楽への意欲

 けなしてるのか、褒めてるのかよく分からなくなってきた。
 いやー、まぁ、面白かったよ? ただねぇ、やっぱり、最初に一期を見たときの「何だこれ面白そうだな!」というワクワク感はなかった。当たり前だけどね。
 今作も、「いやー、ARは何かしっくりこないなぁ」とか言ってるキリトくんも、いきなりバシバシ強くなっちゃって、上位ランカーの人も倒しちゃう(もちろん理由付けはしっかりしている。妹の技の伝授とか、チート装置を見破ったとか。)のも何だかなぁって気になった。まぁそういうこまけーことに拘る作品じゃあないってことだ。
 けものフレンズの、絶妙のおかしいコマ割り(演出)とか、敵(=セルリアン)のとってつけたような存在感とか、そんなのどうでもいいんだ。何かその、「すごーい!」って言ってりゃいいんだよ!!(1話しか見ていない。続きみたい)


 ゲーム、好きなんだけど、最近あんまりできんのだよなぁ。
 時間がない、っというのもあるけれども、何だかやる気が起きない。ある方がクロノトリガーのレビューとか書いていて、久々にやりたいなぁと思うのは結構一瞬に過ぎない。むしろ感想とかレビューとか読んでいた方がいいと思ってしまう。
 ただこれは、ゲームに限ったことではなくて、生活全般に及んでいることの、一現象に過ぎないとは思う。

 映画。
 小説。
 漫画。
 ゲーム。
 アニメーション。
 音楽。
 スポーツ。

 他、娯楽って何かあるんだろうか?
 料理、手芸とか?

 何でこんなこと書いているかを考えてみると、「君の名は。」に引き続き映画みたわけだけど、なんつーかその、晴れ晴れとした気持ちになれていないということがある。
 いやいや、だから、鬱アニメだって前評判を知っていったわけだろ? というのはその通りであり、うん、その意味で、行った意味はあったな。

言の葉の庭

 そうそう、忘れていた。この記事は、近況の記事だった。最近、新海誠さんの、「言の葉の庭」も視聴した。50分弱の短いアニメーション作品。これもまた、鬱アニメだった。どうした俺、そんなに自虐したいのか?!

 モーレツ大人帝国(=郷愁と家族愛)
  ⇒ 言の葉の庭(=10代と20代の恋愛)
   ⇒ SAOオーディナル・スケール(=リア充)


 精神を痛めつけようとしているとしか思えない(かっこ笑い)。

 いやいや、かっこ笑いとかいって、笑いごっちゃねえぜ。

 上に、娯楽を挙げたけれども、どうにもピンとこない。これは何故なんだぜ? 何故なんだ、と書きながら、原因は分かっている。今は、「消費」を求めていないということだ。

 ……小見出し5つ目だし、長くなりそうだからここまでにしよう。

(何ともこの記事はダメ記事の見本だ。タイトルと後半が全然マッチしていない。でも人との会話ってこんな感じだったりする。脳は常に論理的な会話を好むわけではない、とか言い訳乙!)

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今日の一言「音読で15時間ぐらいかな」「何時間かけたかは自慢にはならないが指標にはなる」

一冊音読すること

 サピエンス全史の上巻に引き続き、一冊全部音読を完了したのは二冊目になるだろう。
 やってみると、大変だったような、あっという間だったような。ただ、録音された時間を通算し、13時間ほど(※)であると目に見える数字になると、こんなに使っていたんだなぁと感慨がある。
 その十数時間分、何か語れるか、というと、全然無理だ。覚えていることなど、ホンのわずかにすぎないだろう。これをどう活かすかというのは、これからの作業にかかっていると思っている。

 読了までかかったのは、約1か月間である。平日の忙しさからすると、ほぼ、休日における積み上げである。十数時間は、24時間以内であるが、まぁ一日では決して達成することはできない。徹夜で根性詰めてやっても、……というよりも、その仮定がそもそも意味をなさないだろう。もし僕が空を飛べたらとか、瞬間移動を使えたら、という程度の、空想夢想に過ぎないであろう。

※諸事情で、1時間半程度分は失われてしまった。それを足すと、多分、15時間ぐらいになるだろう。

実存的空虚感への対処

 本の感想は、後々、まとめの記事を書いていくとして、今回の記事としては、この読み終えた後の感慨などをメモしておきたいと思う。

 残念ながら、大いなる達成感なるものはあまりない。この理由は明らかで、何分高度で難解かつ詳細具体的であるが故に、完全に消化不良を起こしているからである。仕方がない、凡人能力しか持たない自分が、一回読んだだけで専門的な書物を理解できるなど、映画やアニメの主人公でもあるまいし、当たり前だ。

 ただ、読んで、損をしたとか、時間を無駄にしたとか、そんなことは一切思えない。むしろ、一つ、僕の思考の準拠点にしてもよいだろうという感覚が生じている。

 考えることそれ自体は、10年も、15年も前から続けていたといってよい。ただそれは、確かに、様々な本や、人、社会環境(現実)などに触れてきたとはいっても、それは、「がむしゃら」な体験であり、統一的体系的なものでは決してなかった。

 よく言われてきたこととして、「取りあえずやってみろ」的な。僕自身、やってみなきゃわからない、というのは信じている面もあるため、真面目に、真剣に生きていけば、そのうち何か解決して、幸せな、美しい、充実した人生がまっているのではないかと、信じていた。

 結論としては、それは、失敗だった、と言ってよい。これは、誰にでも当てはまるものではない。さらに言えば、僕のその、「がむしゃらに」というやり方が、実のところ、「一歩引いた」冷笑的で嘲笑的な立場であった可能性も、否定できない。つまり、卑近な説明をすれば、「本気で他者と向き合ってこなかった」という言い方も可能である。もっといえば、自分の殻を破ることはせずに、温室的な位置でぬくぬくとしていたのかもしれないのだ。

 その理由について、「他者への恐怖」という表現によって説明することに、もはや価値はない。過去の解釈……トラウマ的な、フロイトの精神分析的な方法は、確かに、自分自身の人生に、意味を与えてくれる方法の一つであることは疑いえない。
 しかし、その抑圧された無意識を、表層化させることだけでは、今日現代人が多く抱えているだろう「実存的空虚感」に有効な対処ではないのであると、フランクル氏は述べているのである。

精神分析から実存分析へ

 一言でいうならば、V・E・フランクル著「人間とは何か」は、人間とは実存的存在であり、ひとり一人、生きる意味があるのだと、そう主張するのである。

 これだけであれば、よくある、道徳的書物の一つに過ぎない。これについては、受けがたい人の身をこの世に授かったのであれば、当たり前のことである。みんな、誰もに、生きる意味はあるのだと、疑う余地はない。

 しかし、その程度のプラカードに掲げられた標語では、何の救いにもならない。少なくても、自分にとっては。心に響かない。前向きになれない。理由は、いくらでも挙げられるであろう。ブサイクのルサンチマンという表現や、凡人である劣等感であるという表現などによらず、「全てのことはいずれお終いになる」ということについて、何物も揺るがすことはできないのである。
 全てのことはお終いになる、即ち、死は誰にでも平等に訪れるのだから、「だからこそ」積極的に、この世に意味を成していこう、という人がある一方、「全てが無意味である」というこれまた「真理」によって、押しつぶされてしまうような苦悩煩悶に陥る人もいるのである。


 すぐさま、書いておかなければならないのは、僕は、これらの「すべて無意味だ」という表現において、同時に、「絶対的にポジティブにならざるをえないであろう」という、二律背反的な思いを抱いているのである。
 これは、僕の中にある、最後の……というと、大げさな表現に過ぎなかろうが、ただ、決して今までなくならなかった信仰なのである。それらは、10年前、15年前には恐らく、なかったであろう。この変化が起こった理由については、解釈的な表現を重ねることも、恐らく可能であろうが、それは結局のところ、「精神分析的な」意味しかなく、これから目指すべき未来への志向には寄与しないであろう。

実存分析について

 フランクルの著は、読んだ人に、生きる意味を与えてくれるものではない
 これを読んだからと言って、前向きになり、明るくなり、明日に向かって充実した毎日を過ごせるようになるというものではない
 そうした、自己啓発本的な、処世術訓のようなものを求めているのであれば、肩透かしどころか、多分、序章を読んだ時点で放り投げてしまうであろう。

『人間とは何か』から、読み取れて、構築可能なことは、生きる意味を思考することへの肯定である。

 ここで、誤解してはならないことは、その生きる意味というのは、決して、超越論的領域に及んではいないという点である。サルの例がある。サルに病気にならないよう注射をするとする(前著では血清をとるため、とある)。サルは、痛い思いをするのであるが、その意味について、サルは理解することはできない。サルの生活圏内(思考があるとすれば、サルの思考において)では、注射について意味を与えることはできない。ただ痛いだけである。それは、人間の意味圏内のものなのである。
 サルが、その人間の意味圏内である注射を、例えば「愛」であると解することができるとすれば、それは「信仰」に基づくだけである。

 人間も、同様である。この「世界」に対して、何の意味があるのか、という問いは、無意味であるというのは言い過ぎだが、少なくても、その人にとっては無意味だ。世界についての意味は、サルにとっての注射のように、人間ひとり一人において、理解できる範囲を超えているのである。


 しかし。フランクルさんが言いたいのは、それでもなお、ひとり一人の生きる意味については、ある、ということなのだ。
 その、ひとり一人の意味を問うこと、明らかにしようとすること、――これが、「実存分析」であるのだ。
(と、僕は一読して理解した。ロゴセラピー協会の人がみたら、違うというかもしれない。だが、ここで求めるのは、正確な意味ではない。あくまでも、実存――ここでは、僕自身の問題――である。)

5つ目の小見出し

 さて。最後に何を書こうか。大体、最初に書き始めたときの目的は果たせた気がする。
 取りあえず、2月末までに、『人間とは何か』450ページほどを読了するという目標は達成できた。
 これからの目標としては、上に書いたようなことがそもそも正しいのかということと、それが基づく箇所のピックアップ及び引用。
 それができた上で、ようやく、僕自身の実存分析(僕の生きる意味を明らかにしていくこと)に入っていくことになるであろう。


 ところで、体調不良に陥っている。
 精神不良なのは仕方がないが、体調が崩れてしまうと、そもそも、生活圏の崩壊を意味するので、またしても劇的な問題解釈・対処が必要になってくる。
 まずは、体調管理、身体が健康であることを、重要視する必要がある。
 その一つに、住環境の整備である。整理整頓は進めているが、継続して、清掃掃除も必要であろう。水回り(浴室・トイレ・台所)の綺麗さは、精神状態へも無関係ではない。

 次に仕事。取りあえず、物理的時間の確保が難しい状態である。これへの対処は、今のところ、朝時間の活用と、帰宅後のスピード就寝が挙げられる(最近計測したところ、帰宅後ルーチンを含めて布団に入るまでは、1時間は必要である)。

 次に、人間関係。他の方のブログや、本を読みながら感じていたことだけれども、どうやら、最近、「人を好きになること」というのが、大変非常に希薄であることを感じている。これは、異性に対してはもちろんだが、ふつーの人たちに対してもそうだ。以前から、「人間ぎらい」という感情エラーを表現しているが、この傾向が強まっているように感じるのである。人は確かに、悪しき人も存在している。が同時に、美しい善なる人も大勢いるのである。ところが、この「病」にかかると、「どいつもこいつも!」という感情が高まるのである。これは良くない。この感覚を抑えながら、あるいは発散しつつ、より多くの人を好きになることが、今後の課題であるようにも思える。


 課題、たくさんある。
 そして、時間は有限である。
 身体的限界性も考慮に入れねばならない。

 一方で、鬱々として、行動ができなくなる時間も、比例して増えている気がする。
 できる限り、「忙しい」という思いを逓減させていく必要がある。その上で、「充実している」という感覚に昇華していく必要がある。忙しいと充実とは、時間に対する感覚である。同じ時間を過ごすのであれば、どちらが望ましい感情であるかは、書くまでもない。


(やー。難儀な生き方やなーと他人事のように思ったりもする)


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今日の一言「わかるとは何をもってわかると言えるのか」「関連図書全部読む必要なんてないでしょ」

せんぱーい分からないから教えてくださ~い

 可愛い後輩から頼られたら、先輩諸氏は気分よく、「あーそれはだな」と教えてあげるだろう。
 僕はどうにも、「可愛い後輩」的なキャラクターを演じることが苦手だったので、どうにも人間関係の軋轢は多かった。今もそうかもしれないが、まぁ、「大人」な人たちが相手なら、それほど問題にもならない。

 ところで、その、「教える」という行為は、一体全体、誰に認められるものなのだろうか?
 そして、教えた結果、「わかりました! ありがとうございます!」となるのは、どういった条件に基づくのだろうか?

実存主義とは何か?

 いま・ここにいる自分を中心に、主体的な真理を追い求める考え方である。

 と、僕が一言で説明するならそういうだろう。ちなみに、僕は、ヤスパースもハイデッガーも、サルトルも読んでいない。さらに上の言葉は、特段何かを参照したわけではない。完全オリジナリティな言葉だ。

 そして、上の説明だけで、「わかりました!」となる人はいるかというと、多分いないだろう。概念を教えるということの、非常に難しい点である。

 ヤフー知恵袋とか、その他のサイトや、教科書、書籍など、色々参照すると、だんだん「あーこんなもんなのかな」ってわかってくる。そして、テストなんかを解いていて、正解したり間違ったりしているうちに、その間違った理由を考えているうちに、その概念がシェイプアップされて、洗練されていくのである。本当は、その流れが、「わかった」ということなのだ。

 が、そんな面倒な手順をしていると、結局、いつ時点で「わかった!」が起こるのか分からない。いつの間にやら、「あー、多分、こういうことなんやろうなぁ」って、気持ちにはなるかもしれない。しかし、完全に「これはこうだ!」と言い切れるようになるのは、非常に長い時間を要するのである。

本を読むこと

 いっぱい本を読んでいる人はすごい人である。
 しかしそこで、「本を読んだ」というのは、どういうことだろう。大抵の人は黙読をする。目で文字を追う。ぺらぺらめくる。ふむふむ、なるほどなぁってなる。で、最後まで読み切る。あー面白かったなぁ、なのか、つまらなかったのか分からないが、取りあえずそこまでを、「読んだ」ということが多いだろう。

「○○って本を読んだよ~」
「へーそうなんだ。どんな本だったの?」
「えっと、それはねー」

 となって、どのくらいの時間、その本について語ることができたら、「読んだ」と言えるのだろう?
 最近読んだ、サピエンス全史という本があって、上下巻結構なページ数なのだけど、

「サピエンス全史って本読んだよ~」
「へーそうなんだ。どんな本だったの?」
「えっと、歴史の本なんだけどね、単なる事実の羅列じゃあなくて、人間とその社会が成長していく様をみているようで、とっても面白かったよ」

 と言えたとして、それ、読んだっていえるのか?

 確かに、「認知革命」の章はどうだった? とか、そんな風に聞いてくれる人がいれば、「やっぱ、抽象的な言語を使えるようになったことが、他の動物との差異化がはかられた、とか、納得したし、考えの視点が面白いなぁと思ったよ」とか、話題を広げていくことはできるけれども、全く読んだことのない人に対して、じゃあ、どんな風に、何を伝えたら、「読んだ」っていえるのか。

 たぶん、それって、言ったもん勝ちだと思う。
 ぶっちゃけ、目次だけ読んで、何となくこんなこと書いてるんだろうなぁと、ペラペラやっただけでも、読んだって言うことは可能だろう。まして昨今、「速読できるんです!」なんていったら、「すげー!」ってなることもあるだろう。

謙虚な気持ち

 多読なのはすごいことだと思うと、最初に書いたことはその通りである。ただし、その、「多読」のことそのことを人に話したり、自慢したりする人は、胡散臭いと思う。

 本当に頭のいいとか、教え方が上手い人は、他者に、「教えてあげたんだよ」と思わせない。なんか、自分で答えを見つけたような、そんな気にさせてくれる人が、本当のテクニシャンだ。

 どうも、僕は、「ページング」があんまりできていない気がする。
 ページングとは、相手のペースにあわせることだ。話し方も、話すスピードも、抑揚も、タイミング(間)も、相手に合わせて話す。相手は理解しやすいし、納得しやすいし、興味も持ってもらいやすいし、安心してもらいやすいし、いいことづくめだ。だが、これが結構、実際意識してやると難しい。
 ほら、よく、バトル漫画とかであるじゃん。「相手の呼吸を見極めろ!」的な奴。あれだよあれ。野球漫画とかであるじゃん、バッティングボックスで、「落ち着け、ピッチャーの呼吸に合わせろ!」的な奴。あれよあれ。

 と、てきとーに、卑近なことで関連付けたりすると、記憶しやすかったりする。これが記憶術の一つだ。さぁみんなもやってみよう! とかね、お仕着せがましかったりすると、うぜーってなったりする。それに、そんなこと知ってるし、と言う人も、ネット社会では大勢いる。

 皆さま、ご存知のことと思いますが……とか、まくらことば(いいわけ言葉)(クッション言葉)(自己エクスキューズ)を、常においておくぐらいでいいかもしれない。

面白い記事とは何か?

 ここで記事を終わっても良かったが、どうにも面白くない記事にしか思えなかったから、追記していこう。
 そもそも、最近、他者のブログを読む気力があんまりなくなってきている。20ブログぐらい、更新チェッカーで集めているけれども、何かクリックして開く気があんまり起きなくなっている(※)。というのは、毎日更新してくれる人が少なくなってきたからだ。そして、あんまし、目新しいことが無いのだ(うわあああ、やめろおおお、傲慢すぎる、謙虚さどうした、落ち着け、やばいってその感情! 感情エラーだ! この自己愛性パーソナリティ障害のボケカス野郎!!)。

 なんつーか、面白い記事を書いて欲しいのだ。で僕は、ここで決して、その面白いが漫談をやれとか、そんなことじゃない。

 そこでふと思う。俺が今求めている、面白い記事とはいったい何なのか。


※もちろん、更新があるたび、欠かさず拝見させて頂いている方のブログもある。それらは正直面白い。よくもまぁ、そんな更新頻度で、面白い記事を連発させられるもんだなぁと、文章力の高さ、構成の良さ、テーマの着想などなど、感心ひとしきりである。

実存主義とは何か?2

 しばらく、パラパラと記事をめくってみて、読んでみた。うーむ、なんやかんや、今の気持ちで読むと、俺のブログ、ほとんど面白くねええ!
(たぶん、何を読んでも面白いと思わないような状態なのかもしれない)

 若干、比較的、まぁ、いいかなぁ、と思ったのは、

書類整理より頭の整理をしたい

 という記事だった。7000字ぐらいらしく、長いんだけどね。でも逆に、これぐらい長くないと、なんか面白くない。短い言葉で、何か、気持ちが変わるってのは、可能性が低いだろう。

>いま・ここにいる自分を中心に、主体的な真理を追い求める考え方である。

 とか言っても、ほへーっと、あんまり頭に入ってこないだろう。


 実存主義ってのはねぇ……、あ、貴方は、ヘーゲルさんって知ってる? エヴァ好きなら知ってると思うけど、テーゼって言葉があるよね。テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ! っと、あるものと、その否定が合わさると、新しいものになるって奴だよ。それを弁証法って言うんだけど、そのヘーゲルさんはね、僕らの歴史も、弁証法のように、よりよく進化していくんだって言ってたんだよ。それが世界史だってね。
 でもね、それって、何だか僕ら一人一人は、その大きな「世界史」みたいなのの、一つの歯車みたいなイメージじゃないかな? 必死にがんばろうが何しようが、僕らはテーゼ(正)かアンチテーゼ(反)のどちらかで、いずれかはジンテーゼ(合)! って、世界はある方向へ向かっていくってわけだよ。
 まぁいいさ、確かに分かりやすい考えな気がするし、そうやって世界が進化していくっていうなら、それはそれでいい。でも、そんなことよりも、今、ここにいる、僕、自分自身はどうしてくれるってんだ?
「今この瞬間に、僕は、苦しんだり、悩んだりしてるんだよ! そんな、世界のことなんて、どうだっていいよ!」
 とか思う人も、中にはいるんじゃあないかな? 
 ……そう! それだよ! それこそが「実存主義」って奴。すごーく雑な書き方すれば、「うっせー! 世界なんてどうだっていいよ! この俺の問題を何とかしやがれ!!」といって、その個人の問題に焦点を当てていくのが、実存主義ってわけなんだ。

キモイ系哲学

 本田透さんは、そんな実存主義を、キモイ系哲学とか言っていて、それはもう面白かった。喪男の哲学、だっけか。あー、もうその本かったのも、10年ぐらい前なんだなぁ。


(喪男の哲学史、だった)


 まぁ、何だっけ、この記事の主旨は? 完全に迷子だな。

 うーむ。この記事は、数日後の俺にとって、面白いと思ってくれるのだろうか?
 そして、数少ない訪問してくださった方の一人にでも、なーんとなく、面白いなぁと思ってもらえる可能性はあるのだろうか?


 最近、フランクルさんの実存分析、ロゴセラピー的な、生きる意味的なことしか書いていないから、正直どうなんだろうと思っている。前から分かっていることだけれど、この「生きる意味」ってのは、考えること自体をエラーとする人もいるし、そもそもこの考え自体が一切浮かばない人もいるということなのである。そういう人にとって、「生きる意味とはー」「実存とはー」とか、そんな記事は、全くもって面白くないだろう。完全に偏見だが、女子高生なんて、絶対哲学なんて面白いと思わないだろうな(偏見である)。

 まぁ、んじゃー、いったい、何が面白いのかな、というのが難しいところだ。

 ただ、一つ言えることは、自分が興味のないことを、アクセスアップだかSEOだかよく分からんが、そんなことのために書いていたって、面白いはずがないのだ。それは、読んだ他者へもそうだろうし、そもそも、自分で自分の書いたことを、面白いとなど思えないだろう。

 だったら、まぁ、面白いかどうか何て無視して、とにかく、書いたらいいんじゃないかと、僕は思う。
 人気ブロガーの人とか、批判コメとかも多いんだろうし、変なこと書いたら炎上とかつるし上げとかされるのも怖いんだろうし、大変なんだろうとは思う。でも、そんなのつまんないよね。
 言いたいことを、思ったことを、頭の中を整理したいことを、ちゃんとある程度まとまった文章で書いて公開するってのは、大事なことだと思うし、それって結構面白かったり楽しかったりすることだと、僕は思うけどな。

(自己弁護乙!)

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今日の一言「酒うめぇ」

色々と頭が回らなくなっている

 コメント頂いていて、まだ返信ができていない。三国志13のパワーアップキットが発売されていて、更に期間限定10%引きでDL版がアマゾンで売っていたので衝動買いしてしまったが、何もできていない。
 他、ニーサ口座の開設を調べなきゃと思いつつ、高価な失くしたものを探さないとと思いつつ、頭がまわらないなぁと思いながら、取りあえず、30分限定で書こう。

 帰宅は23時半である。風呂入ってもろもろしていると、24時を過ぎる。

 取りあえずルーチンしなきゃ、ほへー。

言い訳野郎が!

 あー。そうだよなぁ、言い訳というか、忙しいアピールうぜーって感じだよなぁ。
 某障碍者施設の事件の犯人が、自己愛性パーソナリティ障害であったと、ある精神科医のブログさんで書かれていた。更に、現代においては、自己愛の健常な取り扱いができない人が多いのではないかという見立てもなされていた。僕も、自己愛偏執自分大好き人間なのだろうか。コメント返信しないまま記事を書くなんて、ダメなやつじゃあないだろうか(※)。

 いやー、でもほんと、気持ちを落ち着けるために書くってのは、大事なんだ。

 ある経営者さんなどは、坐禅や瞑想したり、精神を統一する時間を大切にしているというけれども、僕にとってこの書くというのは、精神統一の一つの方法なんじゃあないかと思うわけだ。

※コメントする内容のメモなどは電車の中で紙に書いたりしているのだ。最近、文章ではなくて、図示が簡単に素早くできる能力を身に着けようと思ってる。

人を好きになること

 本当は、婚活とか、子どもを育てることとか、やってみたいと思っている。
 という表現からしてもう、頭がおかしい人間である。

 やってみたい? 経験したい? アホかと。そういうもんじゃないだろうと。「好きだ! やりたい!」という強いパトス(情熱)があってこそ、そういうもん(異性関係など)は発生するんじゃあないか、と。

 前も書いた気がするけれども、最近、帰宅途中、もう誰とも話したくなくなるんだよな。メールとかラインとかコメントとかは良いんだけど、対人的なのは、ほんとノーサンキュー状態になる。
 多分、死んだゾンビのような目をしている気がする。

 そんな状態で、恋人と同棲生活とか、絶対無理だと思う。他者に時間や気持ちを割けないと思う。


 ……という表現からしてダメダメだ! その、「他者に時間を割く」という感覚がもう、「自己愛性パーソナリティー障害」みたいなもんだ。いや、空間と時間論的には間違っていない。24時間が一日なのであり、他者と触れ合う時間は、そのうち幾ばくかを使用する必要があるのである。

 とはいえ。
 その、「今日は〇〇さんに1時間費やした」とか、そんなこと言われたら、マジムカぷんぷん状態である。おめー何様なんだよ。そんなんだったら、別に付き合ってもらわなくていいよ。一生ひとりでやってろ! と怒られるだろう。

 ということを、よーく分かった上で、ほんと、もう誰とも話したくも会いたくもなくなるのである。
 

彼女が欲しいというのは誤った感情

 まー、こうなってくると、もう、原因と結果が反転することに(コロンブスの卵のように)なる。忙しいから彼女ができないのか、彼女ができないから忙しいのか。

 だいたい、彼女が欲しいというのは、これも危険な感情なのである。「彼女」というのが、特定の誰かを想定されているならばいい。それは正常な「恋」といえるだろう。
 ところが、「彼女」という不特定多数を想定しているのであれば、それは、「彼女がいる自分」という、自分のステータス強化のための一要素として考えているということである。

 彼女のために色々してあげたいんだ!

 という思いは、美しいかもしれない。しかし、そもそも、何をしてもらって嬉しいかどうか、というのは、人それぞれだ。価値多様化社会といって、前面切って否定できる人は少ないだろう。みんなそれぞれ好きなことや嫌いなことは違っている。それなのに、まだ具体化されていない、一般概念である「彼女」に対して、何か献身的になりたいというのは、単なる、その「彼女に対して献身的でいるという自分に価値を覚えている」自己愛に過ぎないのだ。

 何が言いたいかと言うと、「好き」って感情が、もうよくわかんねーってことだ。
 そしてここで、忙しすぎてそもそも「好き」を感じられるだけの状況をつくれていない、ということなのかもしれない、というわけだ。

 


 あー、眠い。って、座ったまま寝ていた。

 自失状態になっていた。30分過ぎていた。終わり。


(ひでー記事だ。しかし、ゲーム買ってもやる時間ないのは哀しい。相州戦神館學園とか剣の街の異邦人とか面白そうでやってみたいんだが……)

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