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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「目標は掲げても心身がついていかない」

人生の8つの輪

(取りあえず、この章では、現状の「ポジティブな」分析として、非常に面白くないことを書く)

 人生には、8つの側面があるという。
1.仕事・キャリア
2.健康
3.自己啓発・学び
4.恋人・家族
5.友人
6.物理環境・時間
7.富
8.趣味
――エセポジティブ思考に苛立つ

 どこか、一点のみを育んでも、全体を輪のように高めていかなければ、幸せには近づけないのだ……そんなような記述をどこかで読んだことがある。

 昨年度の目標であった、「整理」というのは、
2.健康
6.物理環境・時間
7.富
 に関係するものだ。

 仕事も、あるし、大変だが中心となって活動しているので、
1.仕事・キャリア
 は満たされているといえる。

 筋トレルーチンは続けているし、栄養素の取り入れについても気を使っているので、
2.健康
 は満たされているといえる。(追記すれば、健康診断もオールグリーンだった)

 家族も(全員ではないが)元気だし、2017年は彼女もできたので、
4.恋人・家族
 も満たされているといえる。

 ドライブなどを共通の趣味を持つ友人と出かけたりしているので、
5.友人
8.趣味
 も満たされているといえる。

 今年の僕の目標である「創作」というのは、
3.自己啓発・学び
5.友人
8.趣味
 に関わるものだ。

 今年の「創作」を深化させることによって、人生の8つの輪は調和がとれて、全体的に深まっていくだろうということだ。

生きる意味を考えることとは

 それでもって、生きる意味を考えるという、今年2018年の目標、これは、上の8つの輪においては、どれに該当するというのか。
(なお、ブログを書くこと自体は、先日の記事のとおり、ツールとしての位置づけと考える)


 僕は、「生きる意味を考える」というのは、すべてに関係することであると考えている。
 と同時に、逆に、その8つの側面を育むことが、すなわち「生きる意味を考える」ことでもあると考えている。

 つまり、各種それぞれ存在する、難しく大切な各側面の、基盤となるものが、「生きる意味を考える」ことであるという位置づけだ。
 と同時に、それは、「言い訳」でもある。ポジティブな書き方をすれば、緩衝地帯だったり、安全マージンだったり、「ホーム(基地、戻れる場所)」であったりする。


 昨年、特に何度も書いたのは、「他者と比べることに意味はない」ということであった。
 これは、正しいと信じていると同時に、自分自身に言い聞かせようとしていることでもある。
 つまり、絶対的に、人は人の中で生きていくことになるので、「他者と比べない」なんてことは、原理的に不可能であるのであって、僕は矛盾したことを信じ込もうとしているのである。
 ただし、これも同時に絶対的に(ああ二律背反よ)、凡人たる自分は、突き詰めて事物を深めようとも、「トップ」にはなれないということである。
 故に、努力は人を救わず、ただ終わりなき戦いが続くだけである。それでも、「幸せ」という概念を求め、8つの側面を満たしていこうと目標を掲げるのであれば、何度となく矛盾と向き合い、傷つくことが求められるのである。


 そんなとき、「生きる意味を考える」というのは、よりどころとなる。福音ではない。
 追い詰められた、じめじめとして居心地が悪いところかもしれない。
 それでも、「自分」という存在を、その「自分」として唯一規定し続けるための、最後の砦。

毎度のことながら自分の書く文章に恐れを抱く

 ああ……この記事の文章は、僕が対面コミュニケーションにおいて巡らす思考に準じているようで、非常に居心地が悪い。気持ちが悪い。

 つまり、自分を着飾っている感じがして嫌だ。

 裸になれ。

 全部脱ぎされ。

 気持ちの悪い思考も、人格が疑われるような感情も、面倒くさいと忌避される言動も、全部解き放て。それがこのブログというツールの唯一必要な目的であるのだ。


 とはいえ。
 この、脱ぎされという方針は、実は難しい。

 皮膚をはぎ取ることはできないので、シャツとパンツを脱ぎ去ってしまえば、全裸となる。
 しかし、思考や心については、幾重もの見えない服飾で着飾られているのである。

 そうしたとき、思考や心を裸にするというのは、一体どうしたらよいのだろうか?


「こんな人だと思わなかった」

 と言われたとして、それは、自分を着飾って相手と接していたことによる「誤解」なのだろうか?
 それとも、相手が単に、単に相手が「自分」という身体や言動に描いた「想像」であったのか。

他者と関わることの恐怖

 この小見出しにおいて、カテゴリを、「目標・目的」から、「異性関係」に変更した。
 何故かというと、今回メモしておこうと思ったことが変わったのだ。

「今年はこんなことを目指していこう」
 という内容にしようと思ったけれども、今、直近、自分が抱いている得体のしれない恐怖をメモしておく方が重要に思った。

 彼女ができて、彼女を好きになった。

 この表現は不思議であるけれども、「好き」という気持ちが正直分からなかった。けれども、通常時の脳内占有率の高まり(ええと、つまり、その人のことを思い浮かべる時間が増えたということ)によって、「好きになった」んだろうと思った。

 これは、素直に、よかったなぁと思った。
 異性を好きになるということができないのかなぁと思ったりしたのだ。


 ただ、同時に恐怖を感じた。
 何をかといえば、彼女が見ている俺は、本当に俺なんだろうか、ということである。

 若いうちはきっと、「好き」という感情によって、相手との時間をきっと楽しむことができるだろう。
 僕も楽しんでいる。思いがけなく僕のためにしてくれることがとても嬉しい。僕も心底、相手を大事にしたいと思う。

 けれども、この感情というものが、いってしまえば幻想のように思えてしまう。


 ――でまぁ、過去の自分や周囲が、上のようなことを聞けば、「はいはいノロケおつ」ということになるので、まともに誰かに話そうとは全く思わないのであるが、今の自分としては大問題に思っている。

 まぁもちろん、せいぜい「ノロケ」ようとは思っている。楽しいことを、楽しまない手はない。いつもネガティブなことしか書いていないけれども、ネガティブなことが良いと思っているわけではない。むしろ同時にいつも書いているように、「何も考えずに楽しんだもん勝ちである」とも思っている。――問題は、いつも簡単にそれができないから困っているのである。

 先日、ある方が、「生きる意味を考えることで不幸になるとしたら、それでも自分は考えるのだろうか?」という問いを立てていて、とても鋭いと思った。
 僕は、少し考えて、きっとそれでも考えてしまうだろうと思った。

 そもそも、僕はきっと、その「不幸」という言葉の解釈(定義)を考え出してしまうだろうから。

幻想で何が悪いのか

 EDENという作品において、主人公のエリヤは、好きになった女性とのセックスの後で、その女性から「少しは落ち着いた?」とかって聞かれて、「何か、どうでもよくなる……」と答える。それに対して、彼女――なのだろうか? 二人の関係はとても複雑なのだが――は、「たまにはそういう時間もないとな」と答えるのである。

 好きなシーンの一つである。

 なんかこう、僕はギャンブルもタバコも大嫌いではあるが、しかし、どうしようもなくなったとき、思考をぶっぱなして、取り去って、押しつぶして、ただその目の前の事象や快楽に浸りきるというのは、とても人間的だし、大事なことだとも思うのだ。



 だからこう、別に、今が楽しかったり、気持ち良かったりすれば、それでいいんだと思う。
 ――し、それにきっと、たいていの人たちのアドバイス的なサムシングは、そういったものになるだろう。いやはたまた、関係が深い人や親身になってくれる人であれば、「将来のこと」を考えて方がよいというようなアドバイス的なサムシングをするかもしれない。

 それ以外の何かがもし、誰かに話して聞けるのであれば、僕は喜んでその人に自分のことを話すのであるが。

信じられるのはルーチンぐらいだ

 この記事は……一体、どんな風に読み取れるんだろうか。
「彼女ができて毎日楽しいってことを自慢したいだけだろ」などと思われるんだろうか。

 たぶん、俺は、それ以上に、「嫌われる」ことを恐れている気がする。「本当の自分」を見せることで、それを拒絶されることを恐れている気がする。


 ああ、しかし……困った、この表現が、そもそも僕は矛盾しているとしか思えない。

 そもそも、その、「本当の自分」なるものを見つけるというのが、「生きる意味を考える」という、達せていない、見通しも立っていない目標であるのだ。

 ああ、違うか、そうじゃなくて、つまり、今こうして、「悩み中です(かっこわらい)」という状態である「自分」なるものを知られたくはない、ということか。


 なるほど。
 じゃあ、そのことは、今度彼女にも他の人にも話してみようか。

 ――なんというか、この「思考プロセス」を見られたくない、という思いが強い気がする。
 だから、このブログでは、ゼロ秒うんたらっていって、中断したりせず一気に書き上げてそのまま投稿するということに拘ったりしているのだろう。

 なんかこう、「答え」なるものがあって、「自分はこういう人間です」という表現がかたまって、それを話すのは別に怖くないし、それが「気持ち悪い」とか「受け入れられない」と言われても、対して傷つきも気にもしないのである。

 ただ、たいてい、他の人、他者って、「悩んでいる人」というのを気持ち悪いと思う傾向にあると思う。いやいや、もちろん、「青春!」の人たちであれば、それもまた良いかもしれない。ただ、あくまでそれって、「人間」として未熟である、とされるがオチである。

 僕は大人なので、未熟さは隠すことができる。まぁ……最近それも面倒になって、ほとんど気にしていない(感情をあらわにすることが多い)けれども。


 んで、同時に、男女の関係ってのも、別に「全部を受け入れろー!」的なものでなくてもいいと思っている。いってしまえば、単に社会単位である。生活を共同して営む者同士。
 お互いが、お互いを思いやって、気遣いあって、尊重しあわなければ、生活なんて行えない。
 それが面倒くさいから結婚なんて絶対しない、といっている人もいる。それは賢い選択だとも思う。



 時間がないので、飛躍するけれども、その「未熟さ」を少なくする、薄めるための方策が、僕は「生きる意味を考える」ことだと思っている。

 でも、ウォーキングデッドのような世界になったら、もう、「考えている」暇なんてなくて、その都度その都度で行動し、回答してやっていかなきゃならなくなる。
 僕は自分のそのロバスト性(頑強さ)を高めたいので、もう時間があれば、考えていたいのである。

 昨年だったか忘れてしまったが、「君は、考えることが好きなのであって、答えを出したいわけじゃあないのだね」とコメント頂いたこともあったが、やっぱりそれは違うのだと思うのである。

 だって、俺ら、死ぬぜ? いずれ。早いか、遅いか。

 答えを持っていようが、持っていなかろうが、人から尊敬されていようが、金をもってようがなんだろうが、死ぬ、終わる。

 僕の近しい人の一人は、多くの人に尊敬され、人脈も広く、自身も学究や技芸に優れた人だった。でも死んでしまった。
 今も、多くの人の記憶に残っていると思う。僕もそのうちの一人だ。

 でも、死んじゃった。



 僕は……、到達しないまま死にたくはない。ただそれだけだ。
「いい人になりたい」と言って、笑われてしまったこともあるけれども、でも僕は、いい人にやっぱりなりたい。

 そして、今は、その「いい人」というのが、どういう人なのか僕は分からない。
 だから、考えて、行動して、失敗も、悔しい思いも、理不尽や不公平感に怒りを覚えても、それでも、進んでいきたい、いかなきゃいけないと、「思う」。


(かっこ書きである。えっと、今年の抱負みたいな記事になった。もともと、そういう記事を早めに書いておきたかった。それが、それ自体が今年の目標みたいなものだから。まぁ、いいんだ、その、今年は「生きる意味を(徹底して)考える」というのが目標なのだから、恥ずかしがることもなく、書き続け、考え続ければいい。その結果として、来年は、「あーやっぱり違った」と思えば、それはそれで尊いのだ。中途半端に、たかだか「仕事」や「遊び」程度で忙しいとか言い訳して、大事なこと(目標に関すること)をやらない方が重責である、罪である。ええと、まとめると、全裸になれ、ってことか? ――違うか。ルーチンだ。昨年途中で失敗した、創作ルーチンを復活させねばならない。2018年の優先目標だ。筋トレルーチンは、……大丈夫だろう。ストレッチと腕振り運動(スワイショウ)とスクワットができなくなる可能性はあるが、基本の要素は身体に染みついているから多分大丈夫だ。創作ルーチンも身体に組み込みたい。早速、3連休ではあるが、予定があるため、できない可能性が高い。創作ルーチンは、物理的時間以外に、環境と「やる気」を確保する必要があるので、難易度が非常に高いことが分かった。まぁ、それは昨年の成果ともいえる。さぁしかしどうしよう。しかし今日はもう時間がないため、明日また考えるとしよう)

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今日の一言「今年もお世話になりました」

師走年末

 時間が、あまりとれない。本当は、一日または半日、まるごとブログに使える時間だと望ましいのだが。
 でもまぁ、たいてい、4時間も使えば、飽きるというか、体力的限界によって、もうPCに向かうことができなくなる。
 ので、残り1時間、ちょうどよいかもしれない。

 なんやかんや、今年、2017年、最後のブログになる気がする。

 皆様お疲れさまでした、今年はどのような年でしたか……的な、総括的な時間が欲しいところだが、仕事も特に区切りもなければ、思考的区切りもない。まぁ、帰省して家族と過ごす時間があれば、一度リセットといった気になる気はする。


 毎年毎年だけれども、こう、ぎりぎりに迫って、ああ、来年の目標が全然決まってないなぁという気持ちにさせられる。
 でも、そんなことはなくて、「創作」と「生きる意味」の二軸の追求というのが、2018年の目標である。

 逆に、今年、2017年の目標はなんだっけ?

「整理」

 であった。
 これは、ある程度成功した、達成できたといってよい。
 後半、かなーり後半ではあるが、モノの破棄をずいぶんと進めることができた。

 思考の整理という面においても、ブログを、160記事ぐらい書くことができたので、整理――できたかはアレだが、ただ、自分の能力から考えれば十分よくやったといえる。(もちろん、ほぼ毎日、または毎月面白い記事を更新された方もいらっしゃるし、創作のルーチンを達成された方もいる中、僕ができたことは大した事ないわけだが、他者と比較することに意味はない、と、このフレーズ今年何回言ったのかなぁ)

創作と生きる意味

 生きる意味という言葉、あんまし気に入っているわけではない。
 何故ならば、そのキーワードで検索すると、あんまし良いHPとかブログとかがヒットしないからである。――と、「人生の意味」さんでも仰られていた(そちらでは、「人生の意味」というワードであるとのことであるが、「生きる意味」でもだいたい同じ)。

 どっちかというと、「実存的追求」という表現が近いのだけれど、そのワードだと更にヒットしない。
 哲学は参考になるけれども、哲学をやりたいわけではないのである。「利己的な遺伝子」を読むと、「へーっ!」とはなるかもしれないが、それと「実存」は別なのである。



 どっかしら俺には、「虚無」なるものが潜んでいる気がする。いや潜んでいるどころか顕在しているかもしれない。「創作」だとか「生きる意味」だとかいうキーワードで虚飾しても、単に「死ぬのが怖い」ということなのかもしれない。「死んでもかまわない」「自死もまた選択だ」とか常々言っているが、それも結局は恐怖の気晴らしなのかもしれない、メメントモリ、死を思えハイデガー。

 しかしその虚無に浸るには、あまりにも煩悩にまみれているので、日々忙しく生きている。しかし同時に僕はそれを、ゾンビ的生活――つまり、死んでいるのに動いているように思ってしまう。 

 OK、君は、生きていたい、それでいいんだね?

 その問いに対しては悩んでしまう。「死んだ方が楽なのに」「死にたい」「つまらない」「全部壊れてしまえ」そういったネガティブな思考と僕は仲良しだったのではなかろうか? いやそうだったはずだ。その痕跡は、様々な過去の言葉の群れの中に読み取ることができる。

 ただ、そうした情熱的(ッ! ああ、そんな言い方をしたらきっと過去の彼は怒るのだ!)な感覚は、今はないのである。

 日々沸き起こる様々な暖かいもの、時に冷たく痛々しい感情を、大事にすくいとらなければ、すぐに流れて消えてしまうような……、そんな感覚。

認められたい

 まぁ、気持ち悪いかもしれない。「かも」、じゃないって? そうだな。

 ただ、一つ確信しているのは、僕は、もう、書かなければ生きていられないということである。きっと、「彼女」という存在に見せても、理解してもらえるものでもないだろう。

 ああ……、しかし、この「彼女」というワードによって僕は少し、自分の理想に気づいてしまった。

 思い出した。昨年だったか、とても哀しい出来事のあとに、いつものように、こんな感じのブログに対して、コメントを頂いたときのことを。
 それは幻想だったかもしれない。僕の妄想だったかもしれない。それでも、僕は、嬉しかったのだ。この、「自分」という存在が、ただ、「自分」であるということそれだけが、ようやく「認められた」、そんな気がしたのだ。


 つまり、ぼくは、認められたいのだろう。
 そして、その「認められたい」(※)というのは、とてもとても、なんてこったい――とても、幼稚で自分勝手で、傍若無人なのである。

 僕は、ただ、純粋に「僕」として認められたいのだ。母親が、我が子を無償に愛するように。

 ……! ああ、思考が止まらなくなってくる、その「無償」なる存在、概念、僕はそれを信じられていない。そんなもの存在しない……そう思いながら、同時に僕は、それを希っているというのである。なんたる矛盾した存在だろう。

※このワードが出てきたのは、間違いなくシロクマさんの「認められたい」という書籍に関係するだろう。本というのは、読んだ瞬間に何か得られるというだけでなく、あとから、遅延して、じわじわと何かが芽生えてくる場合もある。表現が気持ち悪いな(かっこわらい)。


でも無理である

 この僕が求める「認められたい」という内容については、現実世界で満たされることはない。
 ない。絶対にない。
 これは、架空の、机上の、形而上的なものでしかない。

 だから、このブログは、やっぱり、絶対に誰にも公開してはならないのだ。

 でも、「認められたい」から、公開する。人の役に立ちたいとか、表向き書いているけれども、深遠なる理由はそっちの方なんだろう。

 つまり、「俺の全部を受け入れろ!」ということだ。気持ち悪いことこの上ない。
 だがまぁ、この感覚は、それなりにみんなあるとは思う。ただ、その全部が受け入れられるなんてことはないだろう。

 別れた女性が、「全部を受け入れるのが好きってこと」と言っていた気がするが、俺は、それは無理だと思う。
 そりゃ、確かに、理想ではあると思う。
 けれども、それは、お互いに、「高い人格」なるものを持っていなければ成立しない、高尚な関係だ。


 ああ……こんな表現は哀しいけれども、人との関係は、妥協が重要だと思うのだ。
 全部の自分を見せては、いけないと思うのだ……違う。違う、それは、ただ、「俺が」そうなだけである。

 素晴らしい人格の人は、全部、見せてしまえばいいのだ。その高尚なる、カリスマ性がある人格……そこに一寸の隙もないのであれば、その人は、常に「自分」として、全部を認められることを求め続けてもよいのである。

抽象化したが実存に戻す

 しかし、僕は、このブログに、そんな神なる人格の「あり方」を記す気はない。
 確かに、広い世界において、神なる人格を持つ人が存在しようが、じゃあ、己はどうかと問うわけだ。

 僕は、30歳にもなって、幼い子供のように、「自分のすべてを見て、認めて欲しい!」と駄々をこねる、愚かな矮小な人間である。

 そんな人間においては、せいぜい、理想たる人格を学び、それに近しい行動思考をとるように努めるだけである。


 ああ……! しかし、その努力が、なんと、なんともう空しいと感じることか。空虚だ。

 てか、年末に書く時間が残り30分もないというのに、何を僕は書いているのだ。


 これは、ほぼノンストップで書いている、この思考の流れが、そのまま「僕自身」である。
 そりゃあもう、普段こんなこと考えている人間なんて、気持ち悪いに過ぎるわけである。

 別に仕事中にこんなこと考えている暇もなければ、人と会っているときとか、何かつくっているときとかは別だ。そんな、器用に同時に考えられない。

 ただ、仕事よりも、断然僕はこっちのことを考える方が「楽しい」し、有意義に思ってしまうのである。あらまぁ……残念な人である。

 んで、まぁ、そんなこと書こうと思ったのではなく、「生きる意味を考えることとブログを書くことの相関」について書いておこうと思ったのであった。
 直接的には関係しないけれども、現状、ブログ以上に有用なツールはないので、今後も続けることとなるだろう。あと、これらを音読するというのも、たびたび行っているが、これもまぁ続けることになるだろう。音情報で入ってくるものと、視覚情報から入ってくるのとでは全然違ったりするのが面白い。

 ただし、ブログを書くのが、それ自体が目的になってはよくないと思う。
 ブログでお金がもらえたら、きっとそれは面白いと思うけれども、それだと、本来の目的が達成できないと思う。このことは、「警鐘と現象」さんがたびたび仰っている。俺は別に、誰かに迎合したいわけではないのだ……あれ? 認められたい、って言ってなかったっけ?

ブログを書く時間は貴重

 ああ、でも、ほんと、最近気づいた、というか思うのは、ブログ書いているときが、「生きてるって気がする」、気がする。

 生活していると、いろいろ思うところはあるのだけれど、数分したら消えてしまう。
 ただ、無数に、見えない塵芥が心の中に沈殿していくような、そんな感覚。

 生理現象――腹減った眠いは強烈なので、ブログ書く(思考する)暇もなく布団に倒れこんだりする。


 そんな生活をしていると、本当にすり減ってくる。何が減っているのかわからないが、MP(精神ポイント)である。いくらちゃんと食べてよく眠っていても、HP(ヒットポイント)はあっても、MPがないと活動できなくなっていく。

 んで、そのMPって何かって考えると、先日ある方がおっしゃっていたが、「好奇心」的なのが一要素だと思う。動機とか「何かをやりたい」と思う心。

 そのMPを回復させる手段は、きっと人それぞれ、愚痴を言いあったり、旅行に行ったり、性欲を満たしたり、いろいろあるんだろうけれど、僕は、ブログ書いたり創作することな気がする。


 だから、来年は、もっと、そのことを、充実させていきたいと思う。
 先日、ようやく俺はゼロ地点にたどり着いた、と書いたけれども、まぁその事実がどうだろうが、しばらくは、当面、来年は、その「生きる意味」と「創作」を中心に生活をつくりあげていきたいと思う。

 ああ、でも、2017年は、まだ終わってないけど、よくやったと思う。2016年もまぁよかった。2018年は、さらに良くやったと思えるようになりたい。まだその具体策は全然浮かばないが、まぁそれは毎年恒例、1月中に考えるのでいいだろう。

 そう、今年は、坐禅もはじめて体験した。家の中でやり方を調べてやっていたけれども、やっぱり禅堂でやるのとは全然違う。2018年の具体目標の一つは、坐禅を継続して実施したいと思う。ああもちろん、筋トレルーチンは継続したい。――時間切れ。

(かっこ書きである。他者への感謝というのが、自分もできるということが分かってホッとしたのは、今年だっけ去年だっけ。人の言葉などが、なかなか受け入れられない面があるけれども、それはそれで良いのだと思えてよかった。受け入れられることもあるのだ、という事実が分かれば、受け入れられないことは、それだけに理由があるということだ。……うーん、年末的な表現で締めくくりたいところはあるが、思いつかないし、結局いつものごとく強制終了)

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今日の一言「一人の時間を確保しないと書けない」「目の前にいる人を大事にしたい」

メールとかラインとか見ない

 人と会っているときに、片時もスマホを手放さない人もいるという。
 僕は器用ではないので、そもそも、他の人と話しているときにスマホ操作なんて気が回らない。会話の内容も頭に入ってこないし、スマホで行う作業も頭に入ってこないだろう。

 ので、メールとかラインなどで連絡があっても、即レスとかそんなことは基本ない。基本的に、人は一日の中で、何か作業をしているはずだ。その作業を中断してまで連絡を見るべきかどうか、――人それぞれその人次第だろうが、僕には何らかの作業単位があって、その単位を中断することは望ましくないと思っているのだろう。

 最近の若者は電話が苦手だ、と言われるらしい。その傾向はあるのかもしれないが、逆に、メールで済ませられるものは、そうすべきだと思っている。
 本当に必要な時しか電話をかけるべきではないと思う。ただ、簡単なメールで済むことでも、いちいち反応が薄い人が相手だと、大変だろう(つまり俺だ)。そういう人には、電話をしなければならなくなる。でも、反応が遅い人ってのは、つまり、作業単位を持っている人である可能性が高くて、電話を嫌っているかもしれない、矛盾だ、大変だ。

ブログを書く時間は貴重である

 2017年も、もうすぐ終わりである。はえーなぁ。

 今年のブログ記事の数を数えてみた。164件。
 後半はペースダウンしているが、365日が一年なので、約1/2日のペースである。

 そのうちの殆ど、書いているときは、「こんなん、書いていて何か意味があるんだろうか」と思っていた気がするが、しかし、今こうして概括すると、よかったと思う。

 164件。そのうち、エピソード的に集約すれば、新しいことなど殆どないかもしれない。それでも、自分の思考、感情の流れを、今年は特に記せた気がする。

 来年は、再来年は……分からないが、今年ほど書けない気もする。書くことがよいことかどうかは置いておいて。そう考えれば考えるほど、とても貴重だった。

 創作をするということと、生きる意味を徹底して考えること、この二軸を感じられた、考えられただけでも、意味はあったと思うし、……「思うし」と書いて、もう一つぐらい「意義」を書こうと思ったけど、思いつかなかった(かっこ笑い)。


 とにかく、来年の目標的なのを書けば、その二軸を深めるというのと、もっと具体的に書けば、このブログを何とか続けたいと思う。

要点を「素直に」書く方針を徹底したい

 ええと、回りくどく書いてしまうのは、俺のダメなところである。
 しかし、それも理由があるのだ。あんまり、個々具体的なことを書いても面白くないのである。この面白さというのは、未来の自分や、他者、読んでくれる人にとって。どこどこのカフェが雰囲気が良かったとか、そんなのは、それ用の生活の知恵的ブログさんや情報サイトを参照した方がよほど良質な情報がある。

 なんといっても、このブログは「思考」を扱うのであって、具体的なことを書く場ではないと思っているのだ。この、具体性と抽象性については、ある友人から、「君は普段はあまり考えてなさそうだけど、ブログは抽象的だよね」と言われて、このあたりもネタとして、ちゃんと書きたいと思っているが、その抽象的になりがちな理由は上のとおりである。

 で、まぁそれは置いておいて、彼女ができた。――しかし、彼女とは何かよく分からない。ただ、身体で触れ合うことができるのは彼女といっていいと思う。しかし、セックスフレンドという言葉も存在するし、非常に曖昧な気がする。なので、どういう存在なのか、というのは分からない。
 以前書いたけれど、二人きりでたびたび食事に行く女性もできたりした。そちらは、彼女とは言わないのだろう。しかしプラトニックな関係というのもあるのだろうし、分からない。


 で、思考ブログと書きながら、何故こんなことを書いたのかといえば、これはもう大学生ぐらいまで遡る。
 ルサンチマンという言葉が大好きで、それでいて非常に嫌悪するからだ。

 ああ、しかし、これ以上書くと、人格を疑われそうであるが、「素直に」書かなければ、成長もないので書く。
 つまり、本当の絶望たるものは、「不足」状態では発生するものではない、ということだ。

生きる意味を考える資格的な

 大学生……いやもっと前から、僕は「生きる意味」を考えていたはずだが――先日「自由ネコ」さんが、「自分は他の人たちが合コンとかいろいろしている中、ずっと生きる意味を考え続けていた」と書かれていたが、いや僕もそうだ、と思ったわけだが――それは、どこかしら「劣等感」的な原因だった気がする。
 勉強ができない、彼女ができない、スポーツもできない……何もできない、と。そんな自分が生きるのは何故なのか、と。

 その問いは、生きる意味の問いとしては不十分であると、今は思う。

 世界と自分とが存在していて、その世界に対して望むものがあって、自分がそこに到達できていなくて、その原因について悩むのなら、それよりもすぐさま、その原因を取り除くための「努力」をするべきだ、と思う。

 もちろん、物理的限界はある。しかし、それ以外の可能性は、いくらでも開けているのだ。
 それへの憂慮、失敗への恐怖、努力のめんどくささ、――つまり言い訳や諦めのために「生きる意味」を用いるのは滑稽である。



 僕は、そう思ったから、少ないリソースでいろいろ克服してきた。

 イケメンじゃないけど、彼女もつくったし、結婚もした(離婚もしたけど)。
 頭もよくないけど、大学に入ったし就職もした。同期で合格しない人もいる中、昇任試験も受かった。


 ――けれども、それらは、しかし、全部、ルサンチマンへの否定だったのかもしれない。

本当に欲しいもの

 結局、「なりたい自分」になれなければ、どこまでいっても「不幸せ」に過ぎない。
 そして、気づいたら、僕は、「なりたい自分」ってのが、さっぱり分からなくなっていた。

 そもそも、「幸せ」になりたいと思っていたのかどうかも分からない。


 でも、最近思うのは、先日のグラフにおける、「ゼロ地点」なるものに、ようやくたどり着いたのかな、と思うのだ。




 何かこう、ルサンチマン……というと大げさだけど、「不足」がたくさんあって、それを埋め合わせるようにやってきた、と。
 その甲斐があって、「ゼロ地点」には達することはできたと。

 けれども、今までは、「不足」に対する衝動レベルの欲求によって、「無理やり努力」をしてきたようなもので、その努力自体が自発的なものではなかった、のかもしれない。いやそもそも、「無理やり努力」をしたのは自分の意志といえなくもないし、自発性なんて概念も疑わしいと思う。

 ただ、イメージとしては大体今の実感と近しいとは思えている。
 ある方が、「好奇心を失うとつらい」と述べられていたが、まぁそのとおりだなと思う。

最近の幸せ

 部屋を片づけて、掃除をして、自分でカフェオレ作って、創作やブログを自分のペースで書いているのが楽しい。
 睡眠不足や、仕事のイライラなんかが募ると、落ち着いた気分になれないけれども、少し時間をつくって書くことができると、何かよい。


 心地よい時間というのは、あまり何も考えない時間なのかとも思った。

 一方で、こうやって、何か得体のしれない思考に身を任せるのもまた面白い。


 忙しかった。しかし、仕事納めが終わった。また数日後に仕事ではあるけれども、まぁゆっくりできそうだ。
 忙しいというのは、自分の思考を使えていない、のではなくて、創作と、生きる意味について使えていないからだと思う。

 彼女もできたので、少しそのことについて考えてみた。これから結婚するか。子供をつくるか。子供にもし障害があったら。家をどうするか。お金のことはどうするか。親の介護はどうするか。

 あまり、楽しい思考ではなかった。少し憂鬱にもなった。けれども、「忙しい」という気持ちにはならなかった。
 それらの様々な選択が、自分なのだと思うし、それは、僕の目的である生きる意味を考えるという点にもつながっているから、「やりがいがある」と思えたのだと思う。

(かっこ書きである。まとまらねーなぁ)

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今日の一言「時間制約の中で書くので表現よりもポイント重視」「それはいつも心掛けたい」

人生とは浮き沈みの連続である

 スクールカーストという言葉がある。カーストというのはインドの身分制度であるが、バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラという4つの区分けと、さらに「ジャーティ」という何千にも分化する身分の区分けがある。

 スクールカーストというのは、そのカースト制度を学校組織にあてはめたものだ。スポーツもできて勉強もできてイケメンの上位カーストと、いじめの標的にされることもある下位カースト。下位に属すると学校生活を謳歌などできない。


 その後、何らかの努力で、身分を向上させることができるかもしれない。
 上位カーストに位置づくものも、何らかの失敗で下位に陥るかもしれない。


 学校だけではない。人生のあらゆる面で、――例えば資本を多く持っているかどうかや、優良企業に勤めているかや、よい伴侶に恵まれるか等など、人生は浮き沈みの連続である。

 良いこともあるし、悪いこともある。それが人生だ、と。

 悟りきったことをいう人たちに、僕は異議と不満をぶつけたい。

出発点が違う

 人生が浮き沈み、波のようなものだということに、特に異議はない。確かに、良いことだけの人生なんてのはありえないだろう。

 けれども、まずは下の(簡易な)グラフをみていただきたい。



 左から右へ、時間軸を表していると考えていただき、上下は、その人生の良い悪いであると考えていただく。

 そうしたとき、曲線グラフが3本ならんでいる。

 最初にカーストの話をしたのは、これを分かりやすく説明するためだ。つまり、人生の出発点は、みんな違うということだ。
 親や環境、身体、思考能力、手先の器用さ、生まれた国や地域、その他もろもろの条件によって、人は生まれながらにして差異にあふれている(差別ではない)。


 このグラフにおける、0(ゼロ)地点は、可変であろうと思う。明確に、このラインを超えたら良いとか悪いとかはいえないだろう。結局、「主観」的なものだと思う。

 ただ、概念として人生とはこういったものだ。
 上のグラフで重要なのは、真ん中の(緑の)グラフは、ゼロ地点を行き来している。
 一方で、下のグラフの人は、ゼロ地点を超えられていない。

他者のアドバイスが空虚になりがちな件

 例えば、ミステリーとか小説を書くときに、実際に人を殺してみないと殺人犯の気持ちを描写できない……とするのは早計である。殺人犯にはなれなくても、殺人犯を描くことはできる。その理由は、マックス・ウェーバーの「理解」という言葉の説明を読めば、何となく納得できる気がするが、僕が覚えている理由を書けば、解釈するのは他者である、ということだ。つまり、ある事象に対して、「それが何故起きたのか?」と問うとき、その因果関係を導こうとする。それは、直接的に事象を引き起こした人物・事物の主観的な原因は、あくまで発生した事象の一つであり、その因果関係は環境要因(社会的な条件)にまで広げて考えなければ、一面的な理解になってしまうということである。

 上の例えばは、あまり本旨とは関係なかった。ただ、次に書くことの補足として考えておきたかった。
 要は、上のグラフの一番上の(オレンジ)グラフの人が、一番下の(青い)グラフの人へアドバイスすることは、不可能ではないが、それは空回りになることが多いだろうということだ。

 確かに、違う世界の人たちの考え方や行動原理、価値観を、「想像」することはできる。「理解」することはできる。

 それはそれで、役に立つことだ。自分が生きる環境と異なる環境が広がっているのだと、世界は広いのだと感じられることはとても有意義である。

実存として生き方

 一方で、その、価値観が大きく異なった人からのアドバイスといったものは、実存問題の解決には、殆ど役に立たないと考えるべきだ。

 いやだからこそ、抽象的な、「客観的な」アドバイスというもの……本記事においては、「人生とは波のようなものだ。悪いこともあれば良いこともあるんだから、頑張ろうよ!」といったもの、これは、確かに「波のようなもの」という点に普遍性はありながらも、実際問題どーでもいい言葉である。空虚である。

 その「悪い」ことというのが、どれほどその当人において、悲痛で懊悩たるものだろうか。

 不幸を経験した人は、その自分の不幸と照らし合わせて、他者の不幸をはかろうとする。
 だが、それがいかほどに、当人の苦しみを緩和させるのか。

 苦しみなんてのは、人を殺したいほど憎いと思ったことがある人とない人では分かりあえないように、本当は理解されうるものではないのだ。

 だからこそ、再び「客観的な」アドバイスというものが登場する。「自分の道(人生)は、自分で決めるんだ」というもの。人生は決断の連続だ、的なのでもいい。

 どうでもいいアドバイスだ。時間の無駄だ。そんな、「普遍的な」アドバイスなど、どうでもいい。興味をもてない。

 アドバイスが役に立つとしたら、個々具体的なものでしかない。誰にでも使えるアドバイスなどない。一人ひとり向き合って、そのとき、その瞬間で必要なものでしかない。タイミング……そうこの時機(タイミング)というもの、これが何と重要なことであろうか。

補足:感想や共感は全く別の話である

 僕は本記事で否定したのは、あくまでも、助言(アドバイス)であって、感想や共感は全然違う。他者との関係性がとても重要で、生き生きとしたものになる瞬間である。

 感想等と、助言の違いについては……まぁ書くまでもあるまい。

 時間がなくなってきたので、もう少し絞って書くと、ボトムアップで抽象化をしたいということだ。
 他者の助言というのは、トップダウンである。

 僕は、社会的に、他者的に、客観的に正しくあろうなんて思っていない。思ってはいけないとすら思うが、その理由はいつぞやか書いた気がするが、要は「真理などない」といった「感想」にもとづく。

 だから、僕の書く記事は、あんまし具体的なことが出てこないし、宙に浮いた表現が多く登場したりする。ただ、僕はあくまで、今の自分(実存)を重要視している。どこまでいっても、己として生きるしかない。死んでもいいかもしれないが、どちらにせよ、決めるのは、動くのは、考えるのは自分だ。

 そこら辺の考えに、「お前は人の話を聞かない」と言われる所以があるかもしれない。聞いていないわけではない。
 ただ、「助言」としては聞いていない。ただ単に、「そういった価値観や世界もある」という「知識」として聞いているだけ……という表現が正しいかもしれない。
 世界(人物・事物)を軽んじているわけではないのだ。それは確かに、広大で深遠だ。でもそれがゆえに、自分が理解できる範囲なんてのは、現時点の自分のレベルによるものであるし、「変身」して別人になれるわけでもない。

 上のグラフの、一番下の青が、相当な努力によって、上のオレンジに近づくことはあるかもしれないが、それは決して「飛び級」ではない。「連続性」によるものだ。

 だから、どこまでいっても、僕らは、自分と向き合って生きていったり、死んだりするしかない。それを、「孤独」という表現にするかどうか、それすらも自分で決めたらいい。


(かっこ書きである。この記事は、あまり面白くなかった。でも、必要性はあった。いや記事がどうこうではなく、掲載したグラフを前々から書いておきたかった。自己卑下する人も、したり顔でアドバイスしてくる人も、僕は端的に書けば嫌いだ。ただそれも、「自己の連続性」の理解をしている人であれば、それは反転、面白い人だと思うようになる。「努力しても無駄だ」という人は嫌いだが、僕は、「努力しても無駄だ」と思っている。この矛盾した表現は、「出発点」の問題と、「主観」の理解ができていれば、簡単である。だから、同じことを言っていても、「あいつが言うと何か納得できない」というのは、それは「同じことを言っていない」のである。自分は変えられる――だが、自分というものを再構築することはできない。僕は10代前半ぐらいから当たり前だと思っていたが、いつも、どうにも理解していないのではないかというような人を多く見かける。――まぁそれこそ、他者がどうこうは、あまり重要ではないのだが。ただ、どうしても、知らない人とかと話をすることがあると、本記事のような、僕が「面白い」とようやく感じられるスタート地点に戻って話さないといけないようなことに陥ったりするので、一度整理しておきたかった。でも、あまり整理できたとはいえないし、面白くもなかった。悔しい、びくんびくん。なんだろ、一言で書けないけど、「価値観レベルの助言なんて何の役にもたたない」ということだし、「一方で個々具体的なアドバイスや解決策はとっても大事」だし、「人は現在の自分を無視して変化などできない」のだし、「一方で努力(行動)によって自分など何歳であっても変えられる」のである。まぁでも、飲み会とかフランクなくだけた場において、価値観レベルのぶつけ合いといった会話がなされることがあっても別によいと思うし、絶対無駄だとかそう思っているわけでもない。つまらなそうな顔をしてしまっているかもしれないが。んで、次回かどうか分からないが、一方でこの「価値観レベル」をぶつけ合わないといけない場合もある、ってことを書いておいてもよいかもしれない。一言で予告すると「家族」や「恋人」たる存在の場合)

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今日の一言「これはイライラ対処か」「書くことで気持ちを落ち着けるという意味か」

他者に対しての攻撃性

 ううむ、忙しいと、いろいろと周囲に対して怒りを覚えるようになる。
 そういうときに、部下の残業を減らすために管理職の残業が増えて過労死したとか、そのようなニュースを目にしたりすると、イライラに拍車がかかる気がする。

 クリスマスイブはデートに行こう、そうしよう。リア充爆発しろ? しかし、自分自身、そこを大事に思えない。

 モンスターハンターワールドは面白そうだけれども、シュタインズゲートのゲームも全然すすめられていないけれども、それどころではない。

 大事なものは何か。
 創作することと、生きる意味を考えることの、この二つである。

創作することの重要性

 何故その二つが大事なのだろうか?

 創作することは、それ自体がやはり楽しいのだ。確かに、よい表現が浮かばずに悩んだり苦しんだりすることもある。ただ、それ自体が自分の血肉になっているような気がするし、何せ、その結果として成し遂げられた「作品」という完成品は、とても貴重なものだ。その作品が、果たして、「客観的」たる価値が認められなかろうが、しかし、その作品は「自分」という存在が成し遂げた「存在(事物)」なのである。

 作品をつくりあげるということは、すなわち、それこそが、「自分」たる存在証明のようなものなのだ。何故ならば、その作品は、絶対的に、「自分」でしかつくれなかったのだから。


 ちなみに、ここでの「創作」というのは、プログラムでサイトをつくるのもそうだし、ブログを書くのもそうだし、仕事で資料をつくるのだってそうだ。

 だから逆に、「レポート」という体系にように、「自己」「自分」という主体を排して、「客観性」たるものを満たさなければいけないドキュメントなどは、作品とは言えない。いやでは学術論文はどうなのか? そこらへんの微細な分類を考えるほど暇ではないし、面白そうには思えない。

 とにかく、自分という存在の表現が為されたものが「作品」であるのだ。コピペ? 言語道断である。

生きる意味を考えることの重要性

 創作を突き詰めることができれば、僕は、これからも生きることができるかもしれない。

 ところが、人生はそれだけではままならないものである。いや、創作という生き方――たとえば、音楽家なり、小説家なり、いわゆる芸術家なる生き方をしたとしても、人との軋轢はさけられない。

 いや、人と関わらなければならないということだけでなく、葛藤というものは、人生から取り除くことはできない。
 悩み苦しみも含めて、人生なのである。

 ――同時に、僕は上のことを否定する、と以前書いた。苦しみ悩みながら時折の満足を得ながら生きる姿……ただ、実存として生きることが大事だという考え方を、僕は受け入れられていない。

 何故、今すぐ死ぬということを肯定してはならないのか。この問いは強力な、禁断の呪術のようである。これは、神という概念や、死後の概念を信じられない人にとっては、恐ろしい言葉でありながら、一方で福音の可能性もある。福音の可能性……そう、だから、良いことの可能性もあるというその可能性、蓋然性、よく分からないということ自体が、一切の思考を止めることができなくなるのである。

 これに対する処方箋は、やはりニーチェの永劫回帰(永遠回帰)ということになろうか。
 すなわち、この先苦しんだ結果、「そうだ、やはり人生に意味はない。死のう」として命を絶ったとして、結局、それは、再び、繰り返されるのである。「自分」は、永遠に「自分」なのである。苦しもうが悲しもうが、痛かろうが辛かろうが、それは変えられない。同じ頻度で、同じ順序で、まったく同じ内容のことが、永遠に、いつまでもいつまでも繰り返されるのである!! ――これが永劫回帰の思想だ。

 とすれば、自殺という手段が、決して、救済にもならなければ、正解ともいえないことが分かるだろう。いや、もっと恐ろしいことに!! 正解も失敗も、この世には、人生には一切存在しないのである。


 で、あるならば、これから先……否、この瞬間に! 今なさんとすることについて、それは、本当に、これから先何度も何度も、ずっとずっと繰り返すに値する行為なのかと! 次の、お前の、次に書こうとしているその文章が、指の動きが、思考の流れが、判断が、感情が、すべてすべてすべてすべて! 本当に成すべきことなのかと!!

てなことを考えでもしなければ理不尽さに潰れそうだ

 ああ……上のようなことを考えることが、なんと愚かなようにうつることであろう。こんなこと、デートの会話にはふさわしくなかろう。友人との忘年会にはふさわしくなかろう! だが、しかし、でも。

 もうこれは、俺にとっては、必須である、まったなしに必要なことである。でなければ、今にも怒りやその他もろもろの感情で自壊しそうである。


 だから、珍しく結論としてこの記事においては、もう創作と生きる意味を考えること以外は、些末事として切り捨てる、ということを記そうと思う。
 ああ、しかし、思ったのだ。この、苛立ちというか怒りというかは、とても、ある意味「楽」だなぁと。

 僕は昔から、他者との関係に気を使ってきた。その気の使い方が、適切だったのかどうか、そんなことはどうでもいいし、きっと、「変わったやつだなぁ」という感覚は与えてしまっていただろう。
 だが、それは、気を使っていたからなのだ。この感覚までは、「わかるわかる」って言ってくれる人も何人か見つけたことはある。
 そして、この感覚について、怒りがたかまるにつれて、どうでもよくなっていくのだ。つまり、人に嫌われることや、敵を作ることや、対立することが、怖くなくなっていくのである。

 これが冒頭に書いた、攻撃性というやつだ。でも、自分がこう、攻撃的になってわかったのは、「人のせいにするって、楽なんだな」ということだ。
 だから、理不尽に怒っているような奴をみつけたら、「ああ、あいつ、楽してんな~」と思ってやればいい。まぁ、その「あいつ楽してるな」というのが逆に、「なんであいつだけ楽してるんだ!」と逆に、怒りを増幅する原因にもなるだろうが(かっこわらい)。


(かっこ書きである。ここまで書いて、やっぱりカテゴリをイライラ対処にした。まぁその、書くことで感情を落ち着けられるというのは、やっぱり効果あるなぁと思った。とりあえず、風呂に入ってこようという気持ちになることはできた。ま、こういう記事をだ、何故わざわざ書いて公開しなきゃならねぇのかってのは、いつも思うことである。でもまぁ、こういう、頭がおかしくなりかかっている人の記事って、ちょっと面白いんじゃなかろうか、って思う。だって、先日取りあげた本だって、有名な人のブログとかだって、そりゃあもう、立派なことが書いてあるわけじゃあなかろうか。ごちゃごちゃした、くだらない考えや感情をたれながしたようなものなんて、あんまなかろうよ。……けどまぁしかし、なんか、「くだらない考えや感情の垂れ流し」というのは、確かにあるし、逆に面白くないなぁと思うこともある。この違いが俺はよく分からない。なんだろうか、そのくだらない「表現」が、ただの「コピペ」的であると、面白くないのである。そして、完全に「感情」に支配されてしまうと、これまた面白くないのである。かっこつけて、フロイト流に書いてみれば、エス(衝動・欲動)と、スーパーエゴ(理性)とのせめぎあいの中で書かれる文章が面白いのである。欲動だけでは面白くない(というか、何いってるのか全く不明。これは「いわんとしたことが分からない」というのではなく、文字通り外国語・宇宙語的な意味不明になってしまうということだ)し、理性だけでは、レポートのようで面白くない。レポートなんて、「これこれこういう条件だと、こうなります」というだけだ。その「こうなります」に興味がなければ、その時点で面白くなどない。あああ、しかし、この記事は、この俺の記事は面白いのか? いや、面白いと思う人が多いはずはないことは分かっているのだが、面白いと思ってくれる人は存在するのか? いやいやいや、お前はどれほどを望んでいる? 一人でも面白いと思ってくれる人がいたらOKなのか? それとも、それ以上を望んでいる? それは高望みじゃあなかろうか。せめて、たった一人、未来の自分でも、少しでも面白いと思ってくれるなら、それで満足すべきなのではなかろうか。ああ、しかし、またしても、だらだら・どんどんと続きそうなので、今日はここで強制終了)


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