忍者ブログ

離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「ひとのこころはおもしろきかな」

理想のヒロイン像

 鉄血のオルフェンズ(ガンダム)のクーデリアお嬢様とアトラさんは駄目で、進撃の巨人のミカサとハンジさんは良いのは何故か?
 先日書いた時にはよく分かっていなかったが、モリエールという作家の「守銭奴」という話と、「ドン・ジュアン」という話のあらすじを読んで、ふと思った。
 これは、性格気質の「純粋性」が問題なのではなかろうか、と。

 クーデリアさんたちは、内面葛藤を抱えていながら頑張っていて、ミカサは命を救ってもらった主人公のエレンを守ることのみを生きがいとしているという点。どっちも頑張っている点は同じだけれども、後者はより特化しているというか、ある意味病的ですらある点に好印象だということだ。

 と、書いて、んじゃあ、アトラさんは駄目なの? 彼女も、命を救ってもらった主人公の三日月くんを支えることを生きがいにしてるんじゃあないの? と思った。確かに、そうだ。でもなんか違うんだ。こんなこと書くと、アトラさんファンに石礫を投げられそうだが、ブレているというか、中途半端というか、微妙なのである。
 何故そんな風に思ってしまうかというと、まぁ、序盤の登場からの印象がよくなかったというのもあるが(なんか、ちっちゃくて可愛い女の子だしときゃいいんだろ、みたいなテンプレ臭を思ってしまった。ただこれは偏見に過ぎなかろう)、当初は、「三日月のそばにいられるだけでいいんです」的な感じで、クーデリアさんの方が似合ってるだろうなぁとか言っているのに、段々と、「(クーデリアと)一緒に三日月をつなぎとめましょう!」となって、「あなたの子供が欲しい!」となる。
 まぁ、言うなれば、ふつうの、かわいらしい、少女の恋愛が描かれているわけであるが、……いやだから、嫌いだとか見てられないとか、そういう文脈で書いているのではなくて、「理想のヒロイン」というか、心がきゅんとなるか、という意味においては、オルフェンズの女性陣にときめくことがなかったということである。

純粋性とは

 ヒロインの話と、タイトルにある「純粋性」とに、何の関係があるのか、ということだけれども、もっといえば、それと「てめーが生きる意味」というのと何の関係があるのか、ということだけれども、大事な要素がある気がしている。

 まず、ユーモア、お笑いというのは、ある種、人間の性格を極端に増幅ピックアップしたときに面白くなってくる。先に挙げたモリエールさんの喜劇というのは、「守銭奴」という性格類型だったり、「無神論者(好色家)」という性格類型だったりする。そういった極端な人格と、周囲の(ふつうな)人たちとのかけあい、軋轢なんかが面白かったりするのである。

 物語には悪が必要だ、と言われたりする。その悪が巨大で、醜く、とことん突き詰められているとストーリーに起伏がつけやすい。それに立ち向かう主人公陣営も魅力的に描きやすい。その「悪」が、「いや実は、こうこう、こういった事情がありまして……」的な感じのが最近多い気がするけれども、「いやーそうですか、貴方にもそういったご事情があるんですねぇ」「そうなんですよーあっはっはー」的な感じになってくると、何だか肩透かしに思えてくる。いやおめーよぅ、その程度で和解できるんだったら、はなっから話し合いでもなんでも他の方法があったんじゃねえかよ。


 それでだ、話を「純粋性」に戻すと、みんな、誰でもそもそも、純粋なものって好きなんじゃあないかと思う。
「不純物ゼロ! 純粋に素材を活かした商品です!」
 いやそれ、ただの水でしょ、みたいな。それは極端か。
 他には、ヤリマンビッチよりも処女の方がいいとか。
 そういった「純なるもの」への憧れって、どこかしら人の根源になかろうか。

 例えば信仰とか。
 神への信仰は、時に、疑うこと自体を悪とされる。そもそも聖書では、楽園エデンで暮らしていた男女が、知恵の実を食べてしまうことによって、純粋性を失って、神様から怒られてしまった。これは、逆説的に、純なるもの、無垢なることへの憧れの表れなのではなかろうか。


 まぁ、僕は別に処女信仰をもっているわけではないけれども、それでも、純粋な女の人の方が好きだ。その純粋なというのは、性交経験ではなく、性格特性としてのものである。じゃあその、純粋な性格特性って何なんだ? ということで、ようやくこの記事の本題に近づいていく。

分かるということ

 その前に、「わかる」ということについて、書いておく必要がある。

 この「わかる」とか、知識をもつとか、そういったことと、純粋性とは、切っても切り離せない問題だ。

 わかるとは何か? 端的に答えるならば、それは、「分類できる状態」、もっと平易に書けば「わけられる」ということだ。


「答えを出せる状態」
 という表現もできるかもしれないが、それはやや具体性にかける表現である。

 確かに、何かの問い、問題、課題があったときに、適切な答えを出せるというのは、その問い等について、「分かっている」といえるだろう。

 では、その答えを出せるというのは何か?
 言語上であれば、YES/NOだったり、善悪だったり、AタイプorBタイプだったり、何からの分類ができて、そこに整合性が保たれている状態、それが答えということだ。

 ということは、つまり、その問い自体について、「わかっている」必要があるわけであり、ここでいつもお決まりの無限遡及が生じる可能性を見出せるのだけれども、そもそも、言語というもの自体、カオスな自然状態を、適切に生活するために便宜上「区切っている(わけている)」のである。
 その根源を辿れば辿るほど、いつまでたっても答えがでないという状態に陥るのは、仕方がないことであるともいえる。

思考実験の意味について

 ちょっと蛇足だけれど、カントという哲学者さんは、形式的な倫理(定言命法)を重視したといわれている。有名な例として、自分の親友Aが殺人鬼に追われていて、自分の家にやってきて、匿っていた。そこへ、殺人鬼が自分の家にきて、「Aはいるか!」と訪ねてきた。嘘をついてはいけないという倫理観がある場合は、一時の感情やその状況に応じて変えてはならないのであり(仮言命法)、親友のAはここにいる、と殺人鬼に言わなければならない、という話である。
 これは、倫理的・道徳的になんかおかしいから、カントの言ってることは矛盾だよね、といった文脈が多いように思う。

 けどまー、その場の対処はいろいろあると思う。
「Aはここにいる! が、お前には引き渡さない!」
 とインターホンで対応して、そもそも玄関のドアを開けないのだっていいし、すぐに警察よんでもいいし。

 功利主義の正義の問題とか、暴走列車で、Aの引き込み線では3人、Bの引き込み線では1人死ぬとしたら、Bが正しいとか。でもなんでそんな暴走した大事件発生中にもかかわらず未だ線路上に人がおるん? とか。


 こういった議論というか、仮定というのは、その時々のシチュエーションにおける対処をその場で、瞬時に選ばなければならなくて、結局言語上の、思考実験に過ぎない。
 たぶん、あんまり「正義」とか道徳とか考えていない人だったら、3人と1人という選択ができる状態にあったとしても、「何もしない」という選択をとることだって考えられる。それは、どちらを「選んでも」それは、自らの選択で人を殺めた、という解釈もできるからだ。そうしたとき、人は思考停止に陥って、合理的な判断ができない可能性だってある。
 だから、思考実験と、実際に僕らの生き方・選択という問題は、実は関係してそうで関係していない場合があることを、忘れてはならない。

 話がずれた。

無垢な少女

 汚れを知らない、うら若き乙女。
 うーむ、陳腐な表現である。ともかく、「少女」という言葉がもつ響きには、どうにも、「純なるもの」という意味が込められているような気がする。

 じゃあその「純なるもの」って何なの? ということを表現することによって、理想のヒロイン像を明らかにしようというのがこの記事の試みである(そうだったのか!)。


 聖書の創世記に出てくるエヴァはどうか(この文脈では、アダムでもいいが)。
 明らかに、蛇にそそのかされて「知恵の実」なるものを食べる前は、「純真無垢」であったのだろう。では、無垢とは、知恵の反義語ということか。

 いつものごとく、辞書をひいてみる。別に無垢と知恵が対称関係にあるとか、そんなこと書かれてはいない。

 ただ、無垢というのは、「まじりけがなく、完全であること」のように表現されている。純粋という語においても似たり寄ったりである。

 ふむふむ、なるほど、もしかしてこれって、最近よく表現しているものに似ているのではなかろうか?


 それは、「無」である。なーんにもない、ということだ。思考も感覚も無い、絶対無の状態。それが無垢である。
 そうしたとき、思考のもととなるモノ、――すなわち「知恵」というのが、まさにその無垢の、純粋性の対義語ではなかろうか。



 知恵がないというのは、それは、「バカ」ともいえる。なるほど、では僕らは、できるだけ思考をすて、馬鹿になっていく必要がある! 考えることは悪だ、思考は悪だ!

 そして、理想のヒロイン像というのは、「アホの子」なのだ! 知的だったり、努力家だったりする必要はないのだ。ただ馬鹿であればいいのだ!

ハンジさんはどうか

 いやでも、進撃の巨人のハンジさんはどう考えても知的キャラではないですか。

 いやそうか? ちょっと待ってほしい。彼女の巨人に対する研究心は、明らかに度を越している。自らの命の危険なんてしょっちゅう度外視されている。副官のモブリットさんが大変そうである。
 その持ちえたる知識、頭の回転の良さ、判断力、そして行動力。どれをとっても馬鹿ではなかろう。
 ただし、その巨人の生態を明らかにしたいという思い、それへのひた向きさは、「バカ」と表現しても構わないような、そんな一途さを感じられる。

 それもまた、「純粋性」といっても構わないのではないだろうか。

 としたとき、一つ新しい定義がわいてでてきている。つまり、純粋性とは、決して、「知恵がないこと」「何も知らないこと」である必要がないということだ。

 ある「モノ・コト」に対して、わき目もふらず、ただ一途にそれを目指し続ける、それが「純粋」というものなのではなかろうか。



 ミカサは、幼馴染のエレンを守ることだけを目的としている。
 だから、同じく幼馴染のアルミンと、カリスマ的指導者の命が天秤にかけられる場面に出くわしたとき、アルミンを助ける決断を諦め、いち早く身を引いた。これは、非情なのではない。ミカサにとっての第一義は、エレンの存在なのである。これが、エレンとカリスマ的指導者の命の天秤であれば、ミカサは何らためらいもなく、周囲の同僚をも下手したら殺害してでも、エレンを助けただろう。

(と、いった感想というか解釈をもっているので、進撃の巨人の実写版のキャラクターメイキングというか、ストーリー構成は納得いかなかったというか、つまらなかった。まぁ単に好みの問題だろう)

現実にいないだろうそんなヒト

 といったわけで、僕の変態な嗜好を垂れ流してきたわけであるが、これ、いったい、何の役に立つ奴じゃ?

 一つ言えるのは、お笑いコントは、喜劇は、物語は、その「極端さ」(純粋性)をピックアップできるがゆえに、「面白い」という感動を与えるのである。

 でも実際、僕は、人間という存在について、そこまで楽観的な感覚を頂けない。
 時に両価性の感情をもつことだってあるのが人間である。
 好きという感情の中に、憎しみだって内包できる高度で複雑な「こころ機能」。

 これを「わかる」ためには、「こころ」ということそれ自体の分析をしても足りないのであって、その「問い」が放たれる状況、文脈の理解……しかもその理解は、刻一刻と変わっていく「こころ」を正確にとらえるために、瞬時に、リアルタイムに行われねばならないのだ。

 原理的に無理じゃないかと思う。
 だから、誤る可能性はあるにせよ、「たいていは、こういう状況において、人はこういった感情をもつ」という、何となくの感覚を総動員してコミュニケーションを図っているのである。

 コミュニケーションをするってのは、とってもすごいことなのだ。そんなことを、何の気なしに、僕らはやっているのである。
 だから、コミュ障とか最近よく聞くけど、それも、当たり前っちゃあ当たり前なのだ。だって難しいことやってるんだから。



 だから(この「だから」は、いささか強引な気がしている。ただ、今回の記事としては、いったん締めくくっておこう(※))、ある程度のテンプレ(物語)が必要なのである。

 えーと、しかし、そうなってくると、純粋性というのもまた、単に「解釈」上の話に過ぎないのだろうか。
 だとすると、この記事はなおのこと何の意味があるんだということになってくる。
 そもそも、分かりやすく、お前は、純粋性というものに賛成なのか、反対なのか。善なるものだと思っているのか悪だと思っているのか。目指したいのか唾棄すべきなのか。どっちなのだ?

 うーん、でもやっぱり、みんな、純粋になるっきゃないんじゃないかなぁ。そういったものが価値あるものだと、共通認識がもたれるような世の中になっていく必要があるんじゃないかなぁ。


(なんやかんや、中途半端ではあるが、しかし、何かのたたき台にはなりそうな記事になった気がする)





※原理的に人の心を瞬時に完璧に理解してコミュニケーションしていくのは不可能だろうということ。であるなら、「こういうときはこうだ」「こうすればこうなる」というのを、自分の中である意味勝手に解釈するしかないのである。このことについて、「人はもはや、信じることしかできないのである」表現で書いたことがあった。だまされようがなんだろうが、結局他者というのは、自分の解釈の中での存在であるということだ。
 しかし、この感覚にがんじがらめになってしまうと、色々な弊害に見舞われるのはすぐにわかることである。


拍手[1回]

PR

今日の一言「やっぱりあっという間」「充実した時間は過ごせた」

引きこもりはできなかった

 明るい記事を書こう。結構アクティブに過ごしてしまった。「しまった」との表現は、当初立てた、「完全に引きこもろう」という目標が完全崩壊であったからだ。まぁそれは悪くなかった。やっぱり、「本音」でコミュニケーションできるってのはとても楽しいことである。
 とはいえ、

 もう一つ、一般書を読もうと思う。そして、概念記憶を一つ増やそうと思う。
 もう一つ、音楽を一つ創ろうと思う。
 もう一つ、小説を一つ書きすすめようと思う。
 もう一つ、7時に起きて、23時前に寝ようと思う。
 もう一つ、料理をしようと思う。そして、一日三食食事をしようと思う。フルーツを食べようと思う。外食に出向こうと思う。
 もう一つ、買い物をしようと思う。鞄と靴が欲しい。漢字が似ている。
 もう一つ、坐禅を一日15分以上しようと思う。
 もう一つ、ルーチンを続けようと思う。
 もう一つ、ピアノで弾ける曲を増やそうと思う。
 もう一つ、日本株で購入したい銘柄を調べようと思う。
 もう一つ、ブログを書こうと思う。
 もう一つ、カラオケに行こうと思う。
 もう一つ、ボウリングに行こうと思う。
 というのの、殆どはできていない。さて残りの時間を、どう過ごそうか。

 

一つでも多くやってやろう

 よし、できるだけ多くチャレンジしよう。
 まずは、ブログを書いて、23時前に寝て、7時に起きるってところからだな、もう幾何かも時間がないが。

 あとは、買い物系か。靴、鞄、株……うーん。欲しいって思いは強いんだけど、中々よい商品が見つからないんだよな。

 あとは、そうだな、オルフェンズ、これ、面白いんちゃう?

 どのシーンか具体的に分からないけれども、テイワーズというマフィア的組織の下部組織であるタービンズの面々が、内輪もめに巻き込まれて、散り散りなってく様のどこかにおいて思わず泣いてしまったよ。アニキぃ……。

 なんか、某スゲー方が自身のブログで、「オルフェンズの二期って、一期で成しあがった仲間たちが、一人、また一人と倒れていく様を見せられる拷問ッスよ」などと述べられていて、ようやく意味が分かってきた。いやぁなるほどその通り。全き秀逸な表現である。

 残念なのかどうか分からないが、ネタバレとして、もう仲間たち(鉄華団とゆかいな仲間たち)の未来は分かっている。それがなかったら、また違った思いをもって見ていたのだろうか? 例えば、その一人一人と退場していく中で、それでもきっと、どこか救いはあるのだろうという思いが生じていたのだろうか。

 でも、そのネタバレがあったからこそ、非常に楽しめているような気もしないでもない。某氏が感想というかレビューにおいて描かれたシーンが、実際にどのような文脈で、どのような表現がされているのかという「確認作業」というのが、これが意外に意外性をもって僕の感性に飛び込んできたりして、面白いのである。

所与の条件で最大限を目指す

 そして、その作品が、最近思う、「与えられた条件下で、精一杯やるっきゃない」ということの一つのあり方を見せられているようで、なんともタイムリーに思う。

 なんだか色々書きたいこともあるのだけれども、なんだかブラウザがやけに重いのと、さっそく23時前に寝るという目標をもとに、この記事は終わらせるとしよう。


(たまには短い記事も……ま、いっか。こいつは中身がない記事だよね)



拍手[1回]


今日の一言「グレーゾーンとしての生き方とは」「積極肯定には物語が必要不可欠」

考えるということ

 先日、仏教の唯識派の思想、八識について紹介した。僕らの心のはたらきについて、五感と、自己執着心である末那識(まなしき)、根源心である阿頼耶識(あらやしき)に分けて捉える考え方である。

 ところで、その考えるというのは、心のはたらきの一つ、「意識」である。
 意識とは、何か物事(モノ・コト)に対して心を向けること(=注目すること)である。
 この意味においては、考えないで生きている人は殆どいない。五感によるフィードバックがあったとき、ほぼ反射的に、何らかの「意識」が生じるはずだ。

 例えば、恋人をつくる方法だとか、お金を稼ぐ方法だとか、幸せになる方法だとか、生活するために必要なことを僕たちは考えて生きている。



 では、その、「考えること」について考えるということは可能なのだろうか?

 考えるというのは、その「状態」を指すのであり、具体的、固有の「モノ・コト」があるのではない。言い換えれば、「関係」という言葉であらわしてもよい。
 しかしこれは難しい思考を余儀なくされる。関係について考えたとき、その関係に関係する何かを想定する必要がある。さらに、最初の関係に関係するものについて関係するものについて……と、無限に思考が止まらなくなるのである。

 この無限遡及の原因は、その「関係」という語だったり、状態という語であったり、「考える」という言葉であってもよいが、それが、実際に中身をもたない、「言葉としての言葉」であるからだ。

 自らの手を見てみる。それは存在する。疑いようがない。
 しかし、「自分」というものを考えてみる。果て? 自分とは何か? どこからどこまでが自分なのか? この身体全部? では、身体から分泌される液体は自分なのか? そもそも「全部」という表現をしたとき、既に、「関係」という思考を避けることはできなくなっている。
 身体が総体として「自分」なのだとしたら、自分のパーツを分割していっても、それは自分にはなりえない。せいぜい、細胞や、ミトコンドリアやDNAが見いだされるぐらいである。そのDNAだって、広い意味ではタンパク質、有機物であり、分子であり、原子であり、電子であり中性子であり、クォークであり……。



 答えは、その定義(モノ・コトの次元)の中においてしか存在しない。

中二病からの成長過程について

 話を少し身近なことに戻してみよう。

 まず、生まれた直後、僕らに殆ど「思考」などなかったはずだ。
 それが徐々に、他者(特に両親)との関係において、自分の存在を認識し始める。ただ、この時点ではまだ、自分と他者(世界)との明確な境界を認識できているわけではない。

 そして次に、「他者」の存在自体を認識する。他者についても、自分と同じように「心」をもつということが何となく意識し始められる。
 その時期における他者との葛藤(コンフリクト)が、青春時代と呼ばれたりする。甘酸っぱい思い出が多数ある人も多いだろう。そうした経験によって、僕らは、自分と他者との付き合い方を学んでいく。


 そして、「大人」になる。大人とは、他者の存在を、「心」ある存在であると認め、かつそれでいて、自分の認識(価値観)も確立した存在である。
 例えば、ある作品に対して、自分はこう思っても、他者は違うと思うような場合を認めることができる、そんな存在が大人である。だから、ある要素を良いと思う人がいれば、その要素を許せないと思う人がいるだとか、「人それぞれである」というのは、当たり前のことである。

 そんな当たり前のことを、時折僕らは、「感情」という状態をもっているので、忘れてしまう。どうしても、自分の感じたことを「正しい」と信じたくなってしまう。その原因が、自己執着心(末那識)であったりする。

 だから、できるだけ多くの、おおらかな心をもって、他者を認め、迷惑をかけないように、大人な対応ができるように、スマートになりましょう、と言われる。
 たいていは、この次元において、社会は上手くいっている。こういう人が多くなると、世界はより良い方向にいくだろうし、周りにそういう人が多いと、幸せな生活を送れるだろう。



 そこまでは分かっているし、僕自身も、そういう状況を経験することができた。(※)


 今は、次の段階を目指している。
 次の段階とは何か?



※そういう状況:すなわち、「幸せな生活」というやつである。「俺は一生人から愛されないんだ」という絶望を抱いていた時に、「努力することで」初めて彼女ができて、「ああ、愛って、好きな人と好きでいられるというのは何て素晴らしいことなんだ」と思った。そのあと、別れたり、結婚したり、離婚したりしたが、「ああ、生きているということは素晴らしいことなんだな」と思うことができている。
 しかし問題は、これらが、「意識」して、その結果を思考し、行動して得たものであるということだ。これは、昔の自分に対して、「よく頑張ったね!」と褒めてあげるだけでよいのだが、僕はそう思えない部分がある。その理由はうまく説明できないが、ポイントは、「実感」という奴だと最近思っている。「こうしたい」という強い思い。欲求・欲望。それに従った行動と、その結果は、ある意味、「偶然性」「運命性」により、「信仰」が生じる。どちらかというと、僕はその「実感」というか、欲求・欲望を「思考」によって解釈してしまっていた。
 本当に得たいと思っていたのは、果たして、友人たちからの賞賛だったのか、彼女がいるというステータスだったのか、それとも……?

思考・生き方としての次の段階

 様々な選択ができる状態である。

 好きな生き方ができる状態である。これを幸せと呼ばずして、なんと呼べばいいのか。

 ある意味、求めていた状態に到達したのである。何せ僕は、昔から、「幸せになりたい」と思っていたはずだから。

 が、その「幸せ」という中身については、思考が足りていなかった。
 そして、その思考を深めていくにつれて分かったことは、その「幸せ」という言葉もまた、「関係」とか「思考」とか、そうした「中身のない言葉」に過ぎないということであった。


 だから、僕は今、とても強く、「物語」を欲している。

 それは二次元に拘らない。ブログを更新チェッカーで集めて徘徊しているのもその一つだ。本を読むのもその一つだ。

 それは、知識を欲してのものではない。物語……それは、生き方をみたいからだ。


 と、本気で考え、思うと、同時に、焦燥感にかられる。お前、30歳過ぎて、いつまでそんなこと言ってるんじゃ、と。

 たいていの人は、生涯費やす仕事があって、伴侶がいて、子供がいて、日々の生活に全力を傾けているのではないだろうか?
 今更、自分の生きざまに疑問を抱くような人はいないのではないだろうか?



 ぶっちゃけ、そういう人もいるが、そうじゃない人もいる。色々ブログを拝見していると、読み取れる。
 僕は、その読み取れることによって、「ああ、まだ大丈夫なんかなぁ」と、いっときの安心感を得ているだけなのだろう。なんとも言い難いあほの所業である。そんな時間などないはずなのに。



 けれども、確信していることは一つある。

 例えば、高名な精神科医でも、メンタリストでも、偉い人でも、師匠でも、何でもよいが、その尊敬すべき方に対して、「先生! 僕の生きる意味って何ですか!」と問うことが、なんとも的外れで、愚かしい行為であるかは明らかであろう。

 結局、この問題は、自ずから考え、答えを出して、行動していくしかないのである。
 その考えることにおいて、「考えること」を捨て去るべきという答えになる可能性も、もちろん含めておいて。


 だから、逃げるわけにはいかないのである。いくら中二病だとか、モラトリアムだとか、精神年齢が低いと罵られようが、「実感」レベルがそうなのだから、仕方がないのである。(※)

※そのことについて、「悩んでいる人」がいたら、そういう人に、少しでも、「考えることからは逃げられない」だから、「諦めて考えねばならない」ことを、そして、その「考えること」の方針や、要素、きっかけを与えられたらと、僕はこうして公開を前提として書いている。

思考することの意味について

 この記事の結論は、もうお分かりのとおり、

1.思考は、五感からのインプットによりほぼ自動的に意識され生じる
 ⇒だから、その次元においては、思考すること自体の意味は無い。

2.次に、思考は、何か生活するための方法を生み出すために行われる
 ⇒だから、ある次元においての答えを導くという意味がある。

3.しかし、「思考」は状態であり、関係であるがゆえに、その思考自体の意味を考えることはできない
 ⇒思考することを思考するというのは、無限遡及になり、中身のない言葉にならざるを得ない。すなわち、思考は、それをせざるを得ない、緊急性や必要性にそもそも迫られた状態で生じるものである。だから、思考することの意味は、反転してその思考自体には決して見いだされないのである

4.3.までが、通常生活レベルの思考であるが、その次元をさらに深めていったときに、「生きる意味」に到達することがある。しかしそれは、思考を思考するのと同じくらい困難である
 ⇒だから、それを包括する、さらに高次の次元(次の段階)を考える必要がある


 というものである。

「ふーん。君がそう思うならそうなんだろうね」

 と言われてはき捨てられる程度の結論である、が、これは実感レベルのものであり、無視するわけにはいかない(僕にとって)。

「なにうじうじ言ってんの? 単に新しいことをするのが怖いだけでしょ? 引きこもり非リア充乙」

 と言われるだろし、そういった感想を抱く方々に特に期待もしていない。
 そんなことを言ってる暇があれば、その代替案の提示を要求したい。

・彼女をつくる努力をする
・お金をさらに稼ぐ努力をする
・新しいコミュニティに参加する(サークル・趣味……英会話やスポーツクラブ等)
・趣味の技術を高める
・身体を鍛える
・仕事に打ち込む
・転職する
・会社を興す
・ボランティア活動をする
・ユウチューバーになる


 まぁ、いろんな選択肢があるだろうと思う。

 ただ、ここまで書いてきたことの流れから分かると思うが、問題は、その、無限に広がる選択肢から、「僕が」どれを選ぶのか、ということである。

 今までは、若いうちはよかった。とりあえず「おとな」と呼ばれる人たちが「良い」ということに従順にしたがった。就職することがよいこと。友人をつくることがよいこと。彼女をつくることがよいこと。部活動をするのがよいこと。遊ぶことがよいこと。徹夜でカラオケするのがよいこと。お金を使うことがよいこと。人に感謝することがよいこと。仕事をすることがよいこと。


 いっぱいあるだろう。

 しかしそれは、「実感レベル」のものではなかった(とまで書ききることは当然無理なのだけれども、表現としてはそういうこと=自分の選択ではなかった)。

 だから、これからは、本当に、「自分の選択」、自分の生き方に責任をもとう(因果を引き受けよう)ということなのである。

 だから、「考えている」のである。

 ので、
「なにうじうじ言ってんの? 単に新しいことをするのが怖いだけでしょ? 引きこもり非リア充乙」
 という批判は、まったく的外れなのである。

 別に、婚活して、自分の低スペックのせいで馬鹿にされたり嫌な思いをすることを恐れているわけではないのである。(いやもちろん、きっと落ち込むことは間違いないが(かっこわらい))
 仕事を頑張って、結果失敗してまた色々いじめられることを恐れているわけではないのである。(いやもちろん、そんなこと嫌なんだけどね。しかし、運命的に避けられない事態ってのはある。寡兵で戦闘に臨んで、劇的な戦果を収めたとしても、少なからずの被害はあるのである。その被害の一人が自分なのかもしれない。だが、そんなことを考えても無意味である)


 その先に何があるのか? ということを問うているのである。



 んで、「その先」って奴が、どうにも、「無」なんじゃあないかなぁと思ったりもする。

 それならそれでもいい。一生、「てきとー」に生きていくってのもありである。早いところ幕引きをするならそれもそれでいい。でも、どちらかというと、人生に生きる意味を問うというよりも、人生から「お前はどう生きる?」と問われているとしたら、そもそも、「死ぬ」ことが前提とされていない、期待されていないということだ。であれば、ずっとその問いに答え続けていくのも悪くないだろう。

まとめ

 今回の記事は、抽象的になったので、あんまり面白くないと思う。
 ただ、まぁ、今後においても大事な部分ではあると思う。

 注目しておくべきは、とりあえず現段階で、僕は、「多様な価値観を認める」という、当たり前のことについては理解している、ということである。

 そのうえで、何を選ぶか? ということを問題視しているのだ。これは、「実存問題」である。「実存」というキーワードで検索すれば、他にもこれらを述べている記事は見つかりそうだが、取りあえず、改めて確認である。


 そして、もう少し、恥ずかしいことこの上ないが、自分の思考レベルを余すことなく表現できるようにしておきたい。
 今年、2017年は整理の年である。

 思っていても、うまく表現できないということは、なくするようにしたい。
 その表現が、他者に伝わろうが伝わらないが、そこまでのクオリティは求めない。ただ、しばらくたった後の自分が読んでもわかるレベルにはしておきたい。そうすれば、たぶん、70億人がいれば、数人にはきっと伝わるレベルにはなっているはずだ。


 端的に言えば、僕の悩み・思考って奴は、きっと中学生レベルなんだろうけれども、仕方があるまい。恥ずかしいけれども、それを認めて、ちゃんとアウトプットできるようにする必要がある。かっこつけて、さも人生分かってます、的な表現をしていたら、いつまでたっても、「実存的空虚感」から逃れられまい。



 自分が悪いことこの上ないが、僕のこの思考について、よく理解してくれて、そのうえで「こんな生き方があるよ」と、もっと昔から導いてくれる人がいたらどんだけよかったかと思う。
 そういう意味で、もっと他者に頼るってことを覚えられたらよかったなぁと、その部分は後悔である。

 30代が中学生レベルの思考を抱いているというのは恥ずかしいことこの上ないが、逆に言えば、中学生の人たちには、ちょっとは役に立つ記事群なんじゃなかろうか。


(人生質問コーナーみたくしてみたい。けど、そういうのの、何かしたり顔で上から目線の「アドバイス」みたいなの読んでると気分が悪くなっていく)

拍手[2回]


今日の一言「つり革広告で生きる意味なんて読むと途端にうさん臭さを思う」「きっと初見の人には同じように思われているだろう」

※(追記)この記事は、思った以上にダークになったので、明るい記事(ハッピーエンド)を期待される方は読まれないほうが良いと思われます。

阿頼耶識について

『空の境界』という小説がある。ここに登場するボス級の登場人物が「あらやそうげん」と言って、その名前に秘めたる根源の意味が物語のキーワードになっていたりする。

『鉄血のオルフェンズ』というアニメーションがある。ガンダムフレームという人型戦闘兵器に乗る子供たちには、脊髄からナノマシンを埋め込む手術が行われる。その手術では、首の後ろ下側に接続端子を埋め込み、それとガンダムフレームとを繋げることで、空間認識力などを飛躍的に向上させ操縦性能を格段に高めることができる。これを、阿頼耶識システムと呼ぶ。

 ご存知の方も多いと思われるが、この阿頼耶識というのは、大乗仏教の唯識派(瑜伽行唯識派(ゆがぎょうゆいしきは)において提唱された、8つの「識」の一つである。



 識とは、見分けること、識別することという意味で考えてよいが、特に「心のはたらき」としてイメージされるとよい。

八識

1.見ること(眼)
2.聞くこと(耳)
3.かぐこと(鼻)
4.味うこと(舌)
5.感ずこと(身)
6.思うこと(意)

 このいわゆる五感と、思考の一つを足したもの。これが心のはたらきの表層部分である。

 この表層の根源となる心のはたらきが、「末那識」と「阿頼耶識」であり、この二つを足して、唯識派は八識というのである。

末那識と阿頼耶識

 末那識というのは、自我、執着心のことである。
 阿頼耶識は、その他の識のすべての根源となる心のはたらきである。

 阿頼耶識は、辞書的やネットで調べると、「無意識のようなもの」という表現が見受けられるが、単なる無意識という意味ではない。
 僕らの心のはたらきは、すべて、この阿頼耶識によって生み出され、形成され、表出しているということである。しかもこれは、心という境界をも否定される。個性なるものを僕らは追い求めがちだが、そもそも、自分というものは、末那識の執着が作り出した表象(現象)であり、その末那識もまた、阿頼耶識によって表象したものであるのだ。

存在するということ

 上の、八識という考えはとても面白いと思うが、唯識派の考えを理解する上でのポイントは、心理学や解剖学のように、人の心を分割していって定義づけしようとしているのではないということだ。

 生命とは何か?

 という問いはそれ自体とても面白いものだと思う。「生物は分けても分からない」という本があったけれども、自己増殖するという定義であれば、宿主がいなければ増殖できない(細胞をもたない)ウイルスは生命といえるのか、など。

「空」(くう)の思想の中観派もそうであるし、瑜伽行唯識派もそうであるが、自己を含めて、世界は、縁起(僕の言葉で言い換えれば、様々な条件が折り重なって成り立っているもの)であるということだ。

 唯一不変の存在は、存在しない。それはただ、言葉のうえだけで思考可能な幻のようなものである。アキレスと亀とか、飛んでる矢のパラドックスは有名だけれども、世界(僕ら自身を含めた存在全般)を、言葉で完璧に表すことができるということが、そもそもの誤謬(誤った認識)であったわけである。

 ある意味、ヤンキー的に、「うっせ、よくわかんねーよ。飛んでるんだから飛んでるんだろ?」というのが、人間的態度として正しいということである。


 ではすぐさま言いたくなる。思考するということは無意味なことなのか? と。


 無意味でもあり、有意味でもある。
 無意味でなく、有意味である。
 あるものは無意味であり、あるものは有意味である。
 いかなるものも無意味でなく、いかなるものも有意味でない。

 よくわからなくなってくる。うっせーよ、難しいこと言ってんじゃねーよ、ばーかばーか。

思考の先にあるもの

 先日、明るい記事を書いたけれども、もっと明るい記事を書けば、僕は今、特に悩みなど無いのである。
 その状態を、「幸せ」と表現するのであれば、僕はもはや悟りの境地ともいえるほど幸せである。

 もちろん、日々の雑多な問題や課題は存在する。それらに思い煩う時間と、解放されている時間の長短によって幸せを測るとすれば、微妙なところだろうと思う。
 もっと言えば、身体的問題。何故僕はイケメンに生まれてこなかったのだろうか。イケメンであれば、同じことを発言したって、同じ行為をとったって、今以上に他者の評価は高かったはずだ。
 身長がもっと高くて、スポーツ万能で、筋肉むっきむきなら、いじめられることだってなかっただろう。
 頭がよかったら、仕事で失敗をして、全部てめーのせいだ、責任とれ! とか言われることもなかっただろう。


 悩もうと思えば、いくらでも問題課題は存在する。

 けれども、その次元の問題等については、もはやあまり興味がわかないのである。
 その「問題」というのは、「幸せ」ということについても同様である。


 そもそも、先ほど僕は、今現状は、さいっこうに幸せな状況だ、と書いた。先日の明るい記事でも同様のことを書いたと思う。


相対言語

 けれども、その「幸せ」という語について思い考えるとき、僕らは同時に、「不幸」という状態を想定しているのである。
 これを、僕が勝手に定義しているのであるが、「相対言語」という。たぶん、言語学の分野とかでも、ちゃんとした研究がされてるんじゃなかろうかと思うが、何分素人でよく分からない。ただ、美しい・醜い、きれいだ・汚い、多い・少ないとか、僕らはたびたび、何でも、そうした比較をして物事を考えている。


概念理解

 一方で、絶対的な言語というものも存在する。それは「概念」である。
 では概念とは何か。個別事象を抽象化した「名詞」である。

 名詞とは何か。名前である。モノ・コトである。

 では、絶対、不変、不朽、普遍のモノ・コトというのは存在するのか? 存在するとすれば、それが絶対的な概念=真理ということになる。

諸行無常・諸法無我

 でも、名詞であっても、絶対的なモノ・コトというのは、存在しないと僕は思っている。

 これについては、いろんな批判があるだろうけれども、現時点の僕の「実感」である。この実感というのは、「信念(思考の統一的傾向)」と「感情」の総体のことである。



 このことについて、「何でそう思うのか」という記事をかくのは結構楽しいだろうけれども、今回の記事の目的としては、話を先に進めてみたい。


 というわけで、仮に、世の中は空(くう)とか、絶対的なものなんて存在しない的なものであるとしてみよう。

 そうしたときに、その実感が強まったときに、果たして、僕は、いや人は、本当に生きることが正しいといえるのか?



 よく訪問させて頂いているブログを書かれている方は、自己紹介のようなコメントにおいて、「何で生きているのか日々考えています。最近は、早く死んでしまったほうがいいのではないかと思ってきました」と述べられていた。

 この感覚。
 これが、彼女にふられたとか、離婚届けを突き付けられたとか、上司からいびられたとか、親友や大切な人と死別したとか、お金がないとか、その他さまざまな悲しく辛い事象においてそう思うというのであれば、僕はひたすら、「がんばってください! 生きていれば必ずいいことだってありますよ!」と励まし続けるだろう。


 しかし、これが、キルケゴールさんが言うような「絶望」に属している発言なのだとしたら、僕はかけてあげられる言葉がない。むしろ、僕自身がそれに対しての対処を教えてほしいぐらいであるのだ。


「僕らは、所与の条件において、精一杯がんばって、浮き沈みはありながらも、それを繰り返しながら生きていく。
 つらいこと、かなしいこと。たのしいこと、うれしいこと。それを繰り返して、泣いて、笑って、生きていく。なんと素晴らしいことか。美しいことか」


 と、思っていられるうちは良い。というか、僕は今はそう思っている。
 と、同時に。

「だからなんだっつーんだ?」

 という、悪魔の囁きも聞こえてくるのである。
 無気力とか、倦怠感とか、そういうのとは違う、何かとてつもなく邪悪なもの。

 いや違う。その「悪」という概念すら否定し相対化してしまいそうな、すべてを覆いつくさんとする……それは、なんと表現すればよいのか。例えるなら、「無」。

結論を急ぐ必要はない

 この感覚をこじらせると、若者の自殺みたいになるんじゃあなかろうかと、勝手に思う。北村透谷さんとか、若きウェルテルくんとか、あ、そりゃ違うのかな。

 僕は、こう、考えている方が少し落ち着く感じはするのだけれど、このことを、いつだったかコメントで、「君は、考えることが好きで、結論を出そうとはしないよね」と言われるのであろう。

 好き、なんだろうなぁ。
 ただ、決して、結論を求めたくないわけではない、いや、そう思いたいだけなのか。



 
 もしかすると、その「実感」をもった「結論」ってのが、実はもうすでに出ていて、それが、生存欲求的なのと相対するから、複雑な内面構造として、反駁しているのかもしれない。
 端的に書けば、「死んだほうが良い」という結論に実感上なっているけれども、「いやいや、死にたくないし!」という感情が、その結論をとどめているのではないかということ。
 そのアンチノミー状態が、特に結論を求めない、こうした、よくわからない記事を量産している理由なのではないかということである。


 とかって、ほんと、よくこんな中二病満載な記事を書けるものだ。
 ほんとに自殺するときはちゃんと消しておかねばなるまい。


(次回は、無垢と純粋性と無についてや、もっと認識や「わかる」ということについて整理したい)

拍手[1回]


今日の一言「神々や巨人の戦いに関するべきではない」「卑屈になりゃいいってわけでもない」

知識人のバトルは面白い

 商業的な意味におけるテレビ討論なんて、何ら価値がないと思っている。もちろん、「何ら」なんてのは修辞表現に過ぎず、「商業的」に意味があるんだから、価値が全くないはずもない。

 そんなことはさておき、僕がすげーなーって思うある精神科医さんのブログに対して、これまたすげーなーって思う漫画家さんの人が自身のブログで記事コメントをしていて非常に面白かった。

 お二方とも、それなりのご職業についているわけで、こんなインターネット界隈で論争してても、然程の経済的価値は生み出さないだろう。もちろん、知名度とか、アフィリエイト的な価値を無視するわけではないが、そういったことよりも、むしろ彼らは、「自身の主張」をすることに価値を重きしていることが、何となく伝わってくる。



 僕も、同じ作品をみた「仲間」であるので、色々と思うところや言いたいことが生じるのであるが、もうそこらへんは、天上世界の戦いということで、楽しく拝見させて頂くのみである。

 この感覚。
 これを、先日僕が批判的に書いた、ボクシングとか野球とかの観戦に、自らが参加するでもなく熱中できる人たちの感覚であるのだと、そう表現して構わなければ、僕は先日の言葉を撤回する必要があるかもしれない。
(ただそれは、注釈で書いた通り、「自分がそのスポーツをする際の参考となるだろう意味において」と考えれば、敢えて撤回するほどのことでもない)

本音のコミュニケーション

 話は唐突に変わる。
 アラビアの夜の種族。
 第一巻が届く。読み始める。想像していたもの、思っていたものとは違っていたが、面白そうである。一巻の半分ぐらい読んだあたりで、続巻を買うか決めよう。


 話は唐突に変わる。

 明るい記事を書こう。このブログを開始してから、一年ぐらい経つ。結果的に、書き続けてきて良かったなと思う。

 素晴らしい人たちに出会えたことは、何より大切なものである。この出会えたというのは、初めて接触したという意味だけではなく、コメントなどを頂くことによって、その表現や思考に触れることができたこと、そのこと自体もさしている。

 僕が求めていたコミュニケーションのカタチが、そこにあった。

 他者にあわせて、同調するコミュニケーションは、ホモサピエンスの進化の源でもあり、否定されるものではない。けれども、単なる生きることや、楽しむことを目的としたコミュニケーションを、僕は求めていなかった。
 と、書くと、僕の周りの人全員が、享楽的な考えしかもっていないような感じになるけれども、意図はそうではない。対面コミュニケーションの限界、である。いやもちろん、「本音を言い合える仲」の友人を、ちゃんとつくっていないということに批判は当然あるだろう。けれども、そういった仲の友人がいないというのが問題ではなく、「本音を、好きな時に好きなように言える」ということが僕が求めていたものであったのだ。

 そんな、小学生じみた思いを抱き続けているなど、なんと惨めで矮小な人間であるのか。

 それは致し方ないと思ってきている。僕は、意味を求めてしまった。求めるしかないような状態におかれてしまった。
 まさに、僕が、こういったことを思い、書く、その過程そのものが、「生きるということの重荷の積み下ろし」な気もしてくる。

労働と人生について

 ある方が、自身の生き方に関するブログ記事を書き始めている。データが消失するなど、困難にも直面しつつ、少しずつ書き進めているようだ。

 たぶん、僕なんかよりもコミュニケーション能力があって、できることも多くて、頭の回転も速いような人である。

 しかし、そんな人でも、行き詰って、悩んだりするのである。いわんや、僕は。

数日経って

 いろいろと書きたいことが発生す。

・dotamaさんというラッパーについて
PCと人間のバトル動画

・オルフェンズ2期8話「火星の王」におけるタカキくんの選択

・ ・・・

 いざ書こうとすると思い出せない。そういうもんか。

 ウォッチしているブログさんが30を超えた。こうなってくると、もっと精査してもよいかなという気になってくる。更新頻度とか、内容とか。
 すごーい良いと思う記事を書いてくださるかたであっても、頻度が一年に一回であれば、ウォッチリスト(更新チェッカー)に入れておくのも微妙な気がしてくる。

 かずうちゃあたる、じゃあないが、量はときどき、質を凌駕する場合があることを忘れてはならない。

 んでまー、その、内容的な精査をするにあたって、「同じことを繰り返し」書かれているブログさんは、整理対象になるだろう。
 しかし、この「繰り返し」とは、決して、「結論」が同じという意味ではない。

 上の、dotamaさんという方のことは、まさにいつも訪問させて頂いているブログさんで取り上げられていたから知った。ラップとか、ほとんど聞いたこともないし興味もなかったが、面白いと思った。
 ブラックサンダーの動画とか、これ、いいなぁ。めっちゃ笑ったけど考えさせられた。いやなんかこれ、結局非リア負けてねぇか? と思いながら全4エピソードみて、最後のエピソードのエンディングがよくまとまっていると思った。是非続きがあったら見たい作品の一つとなったのであった……。

結論ではなくその表現(プロセス)の重要性

 話がずれた、そう、結論は特に気にならない。
 恋人に先立たれて苦しんでいる人、婚活で彼氏を見つけて愛をはぐくんでる人、いろいろいらっしゃる。その毎日に、劇的なイベントがあるわけではない。たいてい、僕らの人生の毎日など、似たようなことの繰り返しである。(※1)

 様々な作品だって同じである。主人公たちの毎日を、事細かにピックアップしたって、面白い作品にはならない。筋トレ修行シーンを、365日流されても、なんじゃそりゃとなる。


 大事なのはプロセスである、と先日書いたけれども、もう一つ、「表現」も重要である。

・ああ、つらい、つらい、もう人生やっていけない。死んだほうがましだ、俺なんてダメな奴だ
 
 そんなネガティブな人を、僕は嫌いではない。(※2)
 ネガティブな女の子とか可愛いと思う。本当の意味でのリア充、イケメンは、当然それだけで価値があるのだけれども、いわんや人は、強くもあり弱くもあるので、であるならば、「ネガティブ」の人の方が、他者の痛みや思いやりを分かっている、そんな風に思うのだ。(決して、ポジティブの人が思いやりがないというわけではない。(※4))


 というわけで、ネガティブな記事が面白くないとか、駄目だとか、ブクマはずそうとか、そういう意味ではない。
 ただ、その結論に至るまでの表現が、常に同じものであったときに、その価値は急速に失われていく。(壊れたレコード)

少し脱線(AIについて)

 人工知能に期待している面もあるが、それがビジネスに役立てる意味に向いているうちは、十分な興味をもてない。というのは、人工知能とは、以下の二つの解釈ができるからである。

1.既存の問題を効率よく解決すること

2.成長すること


 1.がビジネス的には役に立つことである。ここでいう「既存の問題」というのは、ディープラーニングのように、新しい概念を提示(医療・介護のプランを提示したりとか、ビッグデータからマーケティングの特徴を提示するとか)できる場合も含めて考えている。

 2.の方が、僕が期待している部分だけれども、僕らの言ったことを「理解」し、それを「解釈」し、新しい「経験」としてインプットし、それをもとに新しい「アウトプット」を行うということ。これが、より「汎用的な」部分で可能になること。そんなことを期待している。
 それって、じゃあ、何かに役に立つのか、というと、たぶん、エンターテイメント的な意味でしか役に立たなそうだけれども。



※1蛇足:だからこそ、僕は、少しでも違った風にしたくて、何か書きたくなるのかもしれないが)

※2:この表現について、ある方は、「そりゃあな、ネガティブとか、底辺の人間のブログとかに人気があるのは、そいつをみてると、落ち着くからだ。安心感があるからだ」と看破されている。非常に鋭い。けれども、この感覚(※3)をもってしまうというのは、それだけで人生つらい可能性がある。

※3:自分の感覚を、同時に客観視してしまうことは、必ずしも良いことではない

※4:ポジティブの人の思いやりは、その純粋性において価値があるけれども、それは天性の感覚のようでもある。ネガティブの人は、その「痛み」(=実感)があるがゆえに、それを避けようと考える場合がある。それはとても論理的な、人間的な行為に思えるのである。まぁもっとも、その痛みゆえに、他者に対して攻撃的になったり、自分自身を攻め続けて潰れてしまう場合だってあるわけなので、ネガティブも手放しで肯定することはできない。(長々書いているが、当たり前のことである。しかし、明確に表現しておくことに重要性がある)

同じことしか表現されないのはAIにも劣る

 ちょっと辛辣な表現を敢えてすれば、「ある事象」に対して、繰り返し同じ感情を抱き(ここまでは良い)、同じアウトプット(愚痴だとか、実質的暴力だとか)しかできないのは、動物と同じである。知能がある、とは言い難い。

 上に書いてきたように、僕は、ネガティブだろうが、ポジティブだろうが、そんなことはどっちでもいいと思っているけれども、「変化」(ここでいう変化は、自己と、それを取り巻く環境の両面を含む)がなければ、面白いとは思えない。


 すぐさま、書いておくべきは、その変化が、先日書いた「攻めの人生」と一致してはいないということである。

 先日、「鉄血のオルフェンズでは、特に興味があるキャラクターがいなかった」と書いたけれども、それは撤回したい。妹を学校にいれてあげたいという思いから民間軍事会社に就職したタカキくんという男の子は、一期では「ふーん」ぐらいだったけれども、二期ではとてもかっこよかった(敵に利用され、その判断は、結果的に間違っていたわけだけれども)。
 2期8話目で、彼は大きな決断をするわけだけれども、その決断が、他の仲間たちの方向性とも異なっていて、けれども、とても説得力もあってよかった。この辺りは、機会があれば改めて書いてみたいと思う。――この作品、僕はもう、この8話目が最終話でもいいんじゃないかと思うぐらい良かった(かっこわらい)。


 話はずれたが、「変化」ってのは、どんな場面や生き方でもできるもんである。
「攻めの人生」というのは、先日の記事で便宜上表現しただけだが、じゃあ、「守りの人生」と呼ぶべきものがあったとして、それは、「変化」なくしてやってけるものなのか? ということだ。

 守ったって、攻めたって、どっちみち変化は避けられないのである。(というのを、また宗教臭くなって嫌だと思う人も多いだろうが、「諸行無常」と言ったりする)


 長くなったので、この辺にしておきたい。ダラダラとであれば、まだしばらく書き続けられそうだけれども、「変化」という意味で、もう少し今後は、まとまりのある文章を書きたいものである。


(思い出した、そういえば、「定義する」ということ、それ自体について書こうと思ったんだった。まぁとにかくオルフェンズは最後まで見よう)




拍手[2回]


  
プロフィール
HN:
遠藤
性別:
男性
自己紹介:
カウントダウン
カウントダウンタイマー
カレンダー
05 2017/06 07
S M T W T F S
1 2
5 7 9
12 13 14 16 17
19 20 22 23 24
26 29 30
忍者カウンター
フリーエリア
最新コメント
[06/28 バール]
[06/27 遠藤]
[06/27 遠藤]
[06/26 うーたん]
[06/26 うーたん]
[06/25 QUWE]
[06/25 遠藤]
[06/25 うーたん]
[06/24 QUWE]
[06/24 遠藤]
[06/24 うーたん]
[06/24 遠藤]
[06/23 QUWE]
[06/18 遠藤]
[06/18 嫌悪感がある何か黒いやつ]
[06/12 QUWE]
[06/08 遠藤]
[06/06 QUWE]
[06/05 遠藤]
[06/05 QUWE]
[06/04 遠藤]
[06/04 遠藤]
[06/02 pin]
[06/02 遠藤]
[05/31 QUWE]
逆ラン
Copyright ©  -- 生きる意味を徹底して考える --  All Rights Reserved

Design by CriCri / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]

アクセスランキング