忍者ブログ

30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
【12月27日続き】

 浴室前で服を脱いでいると、ふと気付いた。
「そういえば、お前の名前、何か決まってるの?」
「はい、何でしょうか?」
 よく聞き取れなかったのか、リビングで待機モードとなっていた少女ロボットが脱衣所に歩いてきた。
 思わず、前を隠す。
「い、いいよ、わざわざ来なくても。ただ、お前の名前、決めてなかったなって。呼ぶとき、面倒だからさ」
「名前……決めて頂けるのですか?」
 ぎゅっと握った両のこぶしを胸の前にもっていき、僕を見上げる。
 何だかひどく焦ってしまい、僕は必死で頭をひねる。
「あーうん。そうだな……。型番がHRNだから……『ハルン』でいいか?」
 僕の言葉に、少女の小さな顔の大きな瞳が、パッと大きくなる。
「ハルン……承知しました! ありがとうございます! ジュン様、これからも宜しくお願いします!」
 両手をお腹の位置で軽く組んで、ハルンは深々とお辞儀をした。
 何だか、感動的な場面だった気もするが、残念ながら、僕の全裸で台無しだった。
<続く>

拍手[1回]

PR

今日の一言「金曜夜から体調が悪く」「精神に負けただけ」

無駄に過ごした!

 無駄とは何か。
 僕は別に、休日に何の予定もなく、ダラダラとテレビを見て過ごすことが悪いことだとも、無駄だとも思っていない。

 無駄という概念は、理想とすべき生活軸があるから発生するものである。

 分かりやすく書こう。無駄の反対は何だ? 役に立つことだ。では、その役に立つとは何に対して? 自分? 友達? 恋人? 家族? 会社? 社会? 世界?

「あー失敗した……無駄に過ごしてしまった」

 という気持ちになるのは、何らかの、目指すべき何かがあるからなのだ。ただ、それが意識されるかどうかは、別問題である。何となく、無駄。この感覚が大半であろう。何せ、無駄なことをしている際には、ろくに思考も働かないのである。



 御託はいらないか。
 とにかく、休日前のゴールデンタイムからほぼ1日、何もできなかった。
 その、「何もできない」というのは、ぐっすり眠るということすらできなかったのだ。

外食も難しい

 まず諸悪の根源は、金曜日の夜、気分の良い食事タイムを取れなかったことだ。何故か? いつもたびたび訪れる外食屋さんが、込み合っているせいか何なのかわからないが、喧噪で落ち着かなかったことが一つ。食事のクオリティはよいのだが、「環境」というのが重要であることが、改めて分かった。コストパフォーマンス(費用対効果)がよくても、狭い座席でがやがやうるさかったりすると、気分が落ち着かない。

 そう考えると、おいしい食事を家に持ち帰って、ゆっくり食べるというスタイルが一番良い。しかし、宅配系(ピザにとどまらず、和食洋食、寿司など今や様々)は、味はそこそこだが、コストパフォーマンスが良いとは残念ながらいえない。

 じゃあ自分で作ろう、というのも、作るというよりも、後片付けが面倒だったりする。

良質な睡眠

 そして、寝落ちしてしまったことが反省すべき点の二つ目。
 疲れて家に帰るというのは、まぁ、日常茶飯事であるが、休日前となると、気が抜けているのだろう。ほぼ床で寝ていた。エアコンもかけっぱ、電気もつけっぱ。当然、睡眠の質は悪くなる。

 深夜、明け方など、何度も目が覚める。しかし、頭の病みがひどくて、起き上がることはできない。膀胱に負担がかかって、お手洗いには何とか行くが、またきれいに布団もしかずに寝てしまう。

 そして、何とか気合を入れて起きる。風呂に入る。そして、やっぱり具合が悪くて、寝る。

 そんなことを繰り返しながら、もう外は暗くなってしまった。

 本当は、日用品など、買い物に行かなければならない。食事もまともにできていない。

 かろうじて、洗濯だけはできた。

クレジットカードの整理

 やることは、結構あるのだ。
 まず、掃除、片付け。
 本が、書類が、暴れ始めている。
 良質な部屋空間がつくれていない。

 頭を整理したい。身体を整理したい。

 費用面を整理したい。


 クレジットカードを、2枚ぐらい解約したい。しかし、生活費の自動引き落としになっていたり、ポイントがたまっていたりと、少しばかり対処が必要である。
 それでも、スマートホンの解約、格安SIMへの切り替えよりかは楽だろうが、気分がのらない。節約効果も、年間2000円いくかどうかである。ポイント利用を考えると、もとが取れなくもない状態。ただし、ポイントというのは、その対象のお店でしか使えないため、買い物の幅の限定がなされる。それでもよかったのだが、もっとよいお店を見つけてしまったので、必ずポイント対象の店を利用しなければならないというのは、デメリットが大きくなっているというわけである。

 とかなんとか、そんなこと書いている暇があったら、解約に向けて行動すればよいのだが、どうにもこうにも、やる気が起きない。ダメ人間である。

分かりやすい文章の語順

 無駄、の話に戻る。

 無駄って何なのか。

 先日、分かりやすい文章技術の本を読んだと書いた。その中で、修飾語の使い方については、悩むことも多かったため、参考になったことがある。

・長い修飾語を先にする。
・語順を整える。

 一点目の、長い就職後というのは、ちょっとまだ、意識して使えるほど理解はできていない。
 語順というのは、いつ、どこで、だれが、だれに、何を、どうした、という順番が、日本人には一番わかりやすいのだということである。修飾語を使うときも、そういった順番にするのがよいということだ。

 5W1Hというのがあるが、これは、
・Why
・When
・Where
・Who
・What
・How

 である。

 ただ、「なぜ」というのは、レポートとか、上司への報告のときが主であって、会話だとか、流れで文章を書く際には、いちいち、なぜを書かない場合が多いだろう。

 そうしたときは、
・When(いつ)
・Where(どこで)
・Who(だれが)
・Whom(だれに)
・What(なにを)
・How(どのように)

 という順番を意識して文章を書くとよいということだ。

 ちなみに、Whomは、英語圏のひとも、あまり使わなくなってきているということをどっかの記事でみたような気がする。

 とまぁ、5W1Hとか気を付けて書きましょうとかは、当たり前に誰でも知っていると思うけれども、その順番も意識する必要がある、という点については、大事なんだろうなぁとは思っていたけれど、どういった順番が好ましいのかは初めて知った。
(まぁ、必ずしもその順番でなければいけないということでもない。そもそも、文章技術の一つとして、強調したい事柄を後ろにもっていく、または前にもっていく、というのもあるわけで)


 まぁともかく、たくさん書くことが重要だ。たくさん書く中で、一つか二つか、少しずつ、そのわかりやすいとされている技術を吸収して、使えるようになっていけばいいのだ。
 よい文章が書けないからといって、完璧な文章を書かなければならないといって、何もかけなければ、いっこうに成長などしないだろう。

 そうそう、そういった意味で、ある精神科医のブログにおいて、「大人になるためには」といった記事を読んだ。

大人になることを引き受けることが重要

 大人って、なんやねん。ということは本記事の目的ではないけれども、簡単に定義しておこう。
 大人とは、その場に適した行動をとれる人間である。

 面白くもなんともない定義である。まぁ、ひとそれぞれ、思い思いの大人に対するイメージというものがあるだろう。その個々具体的な大人イメージで、読んでもらっても大きな主旨逸脱にはならないと思う。

 その、僕が見かけた精神科医さんの記事において、「大人ってのは、なるものではなく、引き受けるものである」というのが印象に残った。

 成人式を過ぎたら大人になる?

 お酒を飲めるようになったら大人?

 お金を稼いだら大人?

 会社に入ったら大人?

 選挙に行ったら大人?

 結婚したら大人?

 子供ができたら大人?

 まーいろいろ、きっかけはあるだろう。そのどれも大人になる要素かもしれない。ただし、その人が、「大人をやろう!」という気持ちにならなければ、結局、大人になどなれないのだ、ということだ。

 大人っぽくふるまうようにしていれば、そのうち大人に近づいていくということである。大人、自然化論である。

 さて、では、僕は大人なのだろうか?


 大人的な思考や、大人的なふるまいはできる、と思っている。

 ただそれは、何も今最近できるようになったというよりかは、高校……というのは大げさかもしれないが、少なくても大学ぐらいにはできるようになっていた。
 その、大人という定義が、「自分を律する」ということであれば、の話だが。

立派な大人

 わかりやすい文章とは、そもそも、前書きとして、どんな文章なのかの概要・サマリーがあった方が良いのだという。

 しかし、先日書いた通り、僕は何も、主張をしたいというわけではない。自動筆記だ。思うがままに書いている。メモだ。
 ――ということを、いつまでも繰り返しているのは、どうにも子供っぽいだろう。ので、こっから先の話の流れを書いておこう。

 無駄とは何か。
 大人とは何か。

 それらに対しての僕の現時点の考えをメモすることで、今後の行動や、動機付けへの一助となす。



 ということで、無駄って何? ってところに、もう一度戻ってみよう。何もないところから考えることもできないので、他の人のブログなどを見て思ったことから始めよう。

 ブログには、二種類あると思う。
 他者さんのブログとか見ていると、「主張」するブログと、「メモ」するブログがある。

 例えば、「30代OLの婚活日記」とかは、後者の「メモ」するブログである。それらは、まさに黎明期のブログを彷彿させる。日記やSNSとの境界が非常にあいまいで、日々の思いやできごとを、つらつらと書いていく形式。テーマはあったり、なかったりする。
 テーマがないものが、より、mixiとかfacebookとかインスタグラムとか、そっちに近いだろう。コミュニケーションツールとしての役割が強い。
 テーマがあるものは、上にあげた、婚活日記とか、アーリーリタイアを目指すブログとか。ちなみに、僕は、おぼろげながら一応テーマはあるのでこっち側。

 主張するブログとは、テーマがより明確になったもの。政治的主張だったり、宗教的主張だったり、思想的主張だったり。または、商品の宣伝だったり、ヒーリング技術の伝達だったり、ダイエット法だったり。硬いブログ、といってもよいかもしれない。それらは、伝えたいものがはっきりしている。いわゆる、「役に立つ情報」の提供を目的にしている。(そして、その目的は、思想的フォロワーだったり、金銭であることが多い……ように思われる)

   やわらかい  <   かたい
◇テーマなしブログ < テーマありブログ
   (SNS)



 え……ものすごい話それた。無駄の話だよね。いやその、無駄って、何に対しての無駄なの? ってのを、考えとく必要があるんじゃないか? ってことを書きたかっただけなんだけど。
 しかしだ、これって、さも論理的っぽいが、詭弁の一種でもある。

「良い会社とは何か?」

 ということを友人から問われたとして、「残業が少ない会社だと思う」と答えて、

「残業が少ないからといって、良い会社とは限らない」

 と言われたら、話が進まない。

 そこで、「じゃあ、残業が少ない会社を探そう」ということになれば発展的だが、「良い会社」ということの定義について話し合ったとしても、そんなもの、答えなどでるわけはない。「無駄」な議論ということになる。


 同じように、「どうしてそう思うの?」とかいうのも、どうでもいい切り替えしである。とりあえず議論ってのは、「前提」を立てたうえで、論理的に話・事実を構築していくことが重要なのであり、途中までくみ上げてから、「そもそも、その前提ってさぁ」とか言い出すのは、詭弁でしかない。詭弁って何か? 無駄ってことだ。

話が長いし面白くないって?

 まぁ、まちたまえ。重要なことである。
 つまり、「生きる意味って何?」というのも、そもそもの「前提」を問うたものであるのだ。

 つまり、言ってしまえば、答えなどでないのである。

 いや、それは微妙にニュアンスが違う。

 共通、普遍的な答えはありえない、ということである。


 ここで、雑念というか、無駄な疑問として、「そもそも、生きる意味なんて考えられるだけ幸せなんだよ」というものがある。これは、無駄な問いである。

 とにかく、今、「生きる意味」を問うているのだ。その前提を覆すようなことを言うのは、詭弁である。
 しかし、よくある言説としては、「そもそも、生きる意味なんて考えるだけ無駄なんですよ!」というものである。なんと嘆かわしい、と僕は頭を抱える。

2011年の記事

 過去の記事なのだが、
実際、生きる意味だとかいう問いは無意味である、間違いないのだがしかしながら、こうした問いをもってしまう人間とそうでない人間がいるという違い、その違いが非常に重要なのである。
~中略~
こうした文章に価値を見いだせない人は多いのは当たり前だし、生きる意味だとかくそったれな思考が生じるのと同じぐらいに無意味である。
だが思うに、それこそ中学生のときから、安らぎは文字の中にあったようである。
あえて、という副詞は卑屈だが、理解を求めているのではない。
~中略~
僕の表現することが、一言、凡人の悩みと一喝することが社会的に有意なのだけれども、そこからこぼれ落ちるものが「ある」という認識が、2010年からの気付きであり、プラスマイナス上下は分からないが、「成長」と思う。
 何か行動をして、何らかのモノやコトを成して、人と関わり、生きる。

 これが素晴らしいことであり、価値あることなのだと、誰も疑わない。僕も疑わない。


 人間の価値は、生産することである。モノ・コト・ヒトを生み、成長させることである。
 当たり前だ。そして、その中に、楽しかったり、苦しかったり、いやだったり、うれしかったりといった、感情がある。しかしその感情もまた、単に、生産のためにあるのだ。

 人は生き、生み、育て、死ぬ。そのPDCAサイクル。終わらない輪廻。繰り返される事象。


 ああ、人間とは、世界とは、なんと美しいものなのか。素晴らしいものなのか! 神や仏や、先祖や両親に限りない感謝を! そしてこの喜びと愉悦を、後代に伝えていこうではないか! 人類は、世界は、自然は、地球は、本当に素晴らしきものなのだと!!

70%の行動と30%の思考

 上に書いたことは、胡散臭いと思われるかもしれないが、本心の一つでもある。

 いやー素晴らしき世界ですよ、ほんと。いじめはなくならないし、騙して金取ろうとする人もいるし、自殺する人もいるし、ブラック企業だってあるし、迷惑かけてばっかのやつもいるし、自分勝手でむかつくやつもいるし、犯罪や人殺しもなくならないし、民族紛争だってあるし、ミサイルで恐喝するところもあるし、いろいろあるけどね!(かっこハートとか、ホシとか、オンプとか)

 まぁ世の中、それなりにうまくいってんじゃない? 70億人もヒトいるし。(日本は2050年には1億切るらしいけどね)

 厭世的になる必要などない。一人ひとり、できることをやって、よりよい社会や世界に貢献していけばいいのだ。


 ということで、70%ぐらいの時間は、そういった思考と行動にあてている。

 だが、30%ぐらいは、どうにもその70%が胡散臭いので、こうやってブログを書いている。

 もう、こういう性格なのだと諦めたのが、1~2年前に、ブログを復活したころである。
 いやはや、2011年ぐらいに、いやもっと前から、「生きる意味」なんて考えても無駄だなんてこと、分かっていたのである。
 わかっていたのだけれども、どうにも、やっぱり「ココ」に戻ってきてしまうのである。

 何をやっても、何を考えても、やっぱり、「疑問」が生じるのである。


「考えるのが好きなんだね」

 と言われた。

「答えを出す気がないんですね」

 と言われた。

 実は、だいぶショッキングなコメントであった(かっこわらい)。
 いや、感謝でしかないのだが、よい表現が浮かばないので、テキトウな言葉で書けば、傷ついた(かっこわらい)。

 よくは覚えていないが、確か、言い訳めいた返信をしたような気がする。きっとそれって、図星つかれたからだ。

 けど。けれども、やっぱり反論したい。
 考えること自体好きとか、答えを出したくないとか、そんなことはきっと、ないんだろうと。

 だって、「答え」って、「幸せに生きる」ことじゃん? 「楽しい」ことじゃん?

 それに対して、どうして、「生きる意味」とか、面倒で、うさんくさくて、ネガティブで、つまらないようなこと考え続けなきゃいけないわけ? そんなことに大切な時間を使わなきゃいけないわけ?

 もっとお金かせいだり、人脈ひろげたり、仕事で役に立つようなことしたほうがよくない?

 当たり前だよね。

 僕もそう思うよ。

でもやっぱり無理っぽかった

 そして、そんな風に思ったのは、何も今にはじまったことではなく、2011年とか、そのあたりの記事を読んでれば、似たような感覚だったことはわかる。

 そしてその頃は、できるだけ、「イッパンノヒトタチ」になれるように頑張ったような気がする。つまり、考えないようにしよう、と。


 でも、一度このあたりに気づいてしまった人は、多分もう、逃れられないんだと思う。以前は、「呪い」なんてまがまがしい言葉で表現したこともあった。

 その疑問と、仕事か、趣味か、うまい具合に紐づけられた人は、きっと社会的にも成功しているんだと思う。そういう人がつくる作品って、きっと面白いと思う。



 ふと、思い出せば、たくさんの「悪かった」思い出がよみがえる。
 惰眠していて、いくつも見た夢のせいもあるかもしれないが、まぁ、ほかの人と比べたら大したことがないんだろうけれども、いろいろあったなぁ、と思う。

 よくまぁ、ここまで生きてきたもんだ。すごいすごい(棒読み)。

 まぁ、なんやかんや言って、あと50年ぐらいでこの世界ともおさらばだろう。
 きっと、あっという間だろう――何も考えていなければ。


 そう、あっという間だ。頭が痛いとかいって、寝ぼけてる場合じゃなかった。サイトの改修とか、仕事の勉強とか、株の勉強とか、読書とか、物語創ったり、作曲したり、そもそも、食料買いに行かないと食べるものがねぇ!(笑)

モチベーションが回復中

 と、まぁ、ここまで40分ぐらいで、7000字ぐらいか。引用も、考えてる時間もあるからなんともいえないが、1分100文字~150文字ぐらいはタイプしている気がする。

 これぐらいやっていると、ようやくやる気が回復してくるのである。

 ある意味、非常に、効率の悪い性格というか、行動特性である。
 やる気出すのに高速タイピングする必要があるというのは如何なものか。しかし、よく思い起こすと、高校のときも、なんだかすげー気分がのらないときは、紙のノートに、やっぱりこんなよくわからない、無駄なことを書き連ねていた気がする。

 そう考えると、15年ぐらい前から、こんなことを続けている、というわけか。そりゃあなかなか変えられないだろう。人はなかなか変わらないのである。


 モチベーションは回復した。

 ようやく、こっから、考えることができそうなのだが、とにかく長くなったのでここまでにしよう。



(えーっと、中身のない記事になったな、いつものことながら! 一つ、情報を抽出するとすれば、「生きる意味なんて考えても無駄」というのは、「正論」でありながら、僕の心には響かないであろうということである。ある精神科医さんの、ロゴセラピーとか、実は、「意味を問い続けても、行動と結びつかなければそれ自体に価値はない」というようなものに思えるのだけれど、頭ごなしに「生きる意味なんて考えても無駄」と言われるよりかは、伝わってくるものがある。その理由は、十分に、そのことを考えるべき必要性を分かったうえで、そこから逃れる(無限遡及的な思考のループからの脱却)方法を提示しようとしているからなのだと、思うのだけれども、まだまだ勉強が足りない部分)



拍手[1回]


今日の一言「わかりやすい文章を書く技術」「そんなん、短かったらええやん」

短い記事を書こう

 僕はふと気づいた。
「僕は長い記事が書けるのではなく、短い記事が書けないのではないか?」
 ということで、テーマは、ブログについて思うことと、他者に期待すること、として、短い記事を書く練習をしてみよう。

 初めに、僕が、すごいなと思うブログさんの特徴を挙げてみよう。それは、ある程度長い記事が書けることというのと、長らく続けられていることである。
 この文脈上で、僕のブログはどうなのか、ということを先に考えてみる。
 まず、僕は、ある程度長い記事を書ける。

肯定ポイント1:長い記事が書けること

 長い記事が書ける、といっても、週に二、三回、5000字程度のものであるが、結構量が多い方だと思う(何と比べて、といえば、ブログなんて書いたこともないような人たちも含めて、である)。

 長ければ良いというものではない。ただし、ある程度、意味の連続性が認められる状態で、文章を連ねていくというのは、やろうと思ってもなかなかできないことである。
 まったくブログを書いたことがない人や、日記など書いたことない人が、「さぁ今日からたくさん書くぞ!」と思ったところで、長くは続かないだろう。

 なので、内容はともかく、ある程度の文章量があるブログさんをすごいと思う。

 では、次の、続けられている、ということを考えてみる。

肯定ポイント2:続けられること

 2点目は、長らく、続けられているということである。
 確かに、始めたばかりのころは、「さぁ書こう!」という気概もあいまって、非常に良質な記事を量産できることだろう。

 しかしながら、「すげーっ!」って記事が多くても、多くの人は、1~2年……いやはや、もっと短いスパンで辞めてしまうことが多い。

 まぁ、これは当たり前と言ったら当たり前である。理由は二つ。

一つは、生活の変化。

 10年も20年も、同じような生活を続ける人ってのはまれである。特に、激動の10代、20代なんて、付き合う人も変われば環境も変わり、住むところも変われば、好きな食べ物や鑑賞対象だって変わるかもしれない。
 そんな中で、変わらず、文章を書き続けるってことは、よほどの動機がないと難しいことだろう。

二つ目は、その人自身の変化のなさ

 一つ目の理由は、変化があることを挙げたが、二つ目は、逆に変化をしないことが理由となる。すなわち、人は、実のところ、そんなに大きくは変われないのである。
 変われないというのは、身体的特徴……例えばダイエットの成果だとかそんなところから、思想信条、価値観といったものまで。様々な人や環境からの影響で、ターニングポイント(ある契機で方向転換すること)になることはあっても、パラダイムシフト(既存の価値観自体が変化すること)することは少ないのだ。

 なので、1年や2年ではなく、もう何年も前から続けられているようなブログさんは、それだけで価値があると思っている。


 そういう意味だと、僕は、10代半ばから書き始めて、もう10年以上は続けているということになる。
「おめー、そんな長くやっていて、この程度の文章しか書けないのかよ(かっこわら)」
 と、思われることも仕方がなかろう……。確かに、クオリティは低いだろう。
 しかしだ、冒頭の目的の通り、敢えて肯定すれば、ある程度の文章量を担保しつつ長らく書き続けられているというのは、それは一つの肯定ポイントだ。

 

まとめ

 なので、皆さんも、あまり内容のことは気にせずに、できるだけ長い文章を、そして、できるだけ長い間続けられることを目指して、日々努力していってください! 以上!

裏のまとめ

 というような、今回の記事になった理由の一つは、「わかりやすい文章を書く技術」といった系統の本を流し読みしたからである。
 有益な情報もありながら、概略は殆ど知っている……と書くと傲岸不遜になってしまうが、辞書的な使い方が適しているとは思った。

 いやそれよりも、つまり、「わかりやすい文章」というのは、相手に理解してもらえる文章ということであり、じゃあそれって結局のところ、「わかりやすいテーマ」であることが最重要である。

 いや確かに、文章技術の体系としては、よくまとまっている本だと思った。
 確かに確かに、その内容をしっかり身に着けて、使えるようになるのは、遊びでも仕事でもいろんな面で大切なんだろうと思った。

 でも僕は、「そこじゃない感」があった。それをそもそも、上手に説明できないのだが、なんというか、求めている技術は、――今がそうであるだけかもしれないが、それではないのだと。

 いやさ、わかりやすい単語選びをして、わかりやすい表現にして、わかりやすい構成にして、わかりやすいテーマにしていくというのは、そりゃあ、相手に理解してもらうって意味で、非常に重要だと思う。そもそも、いっくら簡単な英文法と英単語で表現したところで、英語をちっとも分からない人には伝えられないのと同じで、専門用語がガリガリちりばめられた文章なんて、ちょっと見ただけでKOされてしまいそうである。


 しかし、僕が表現したいこと、明らかにしていきたいことというのは、そもそも「伝えたいこと」というのが明確になっていないのである。

 わかりやすい表現にすると、「生きる意味」とかいうことにもなるっちゃあなるが、先般、コメントいただいた通り、「人生の意義を知りたいのか」「一生で成し遂げたいことを知りたいのか」といった、そもそもの定義がしっかりしていないと、意味がないのではないか、ということもある。

 僕はそのコメントに対して、「うーん、そうですねぇ、それら全体ですかねぇ」と答えた気がする。
 つまり、曖昧で、つかみどころがないものなのである。


「そんな、よくわからないことに関しての文章になんか、付き合いきれんわ!」

 と思われる方が大半であろう。まぁ仕方がない。
 そういう思いが強いので、先日の記事でも、「基本、読者想定は未来の自分ッス」とか書いたのである(書いた、というよりも、自動筆記(思うがままに書いている)ので、頭に浮かんだ、といった表現のほうが正しそうだが)。

 とはいえ、別に、四六時中そんなことを考えているわけでもない。
 仕事もあれば、遊びもある。生活はバランスが大事だ。さらには、その仕事の中にも集中と散漫があったり、遊びの中に真剣があったりもする。結局、仕事とか遊びとか、それらは人間の感覚(便宜上の分類・区分)であって、24時間という普遍的な時間単位は、明確に区分できるものではないのだ。



 で、なんだ、その。短い記事にしようと思って、結局だらだら続いているわけである。
 やっぱり、僕は短い記事をかけないのだろう……、というか、全然面白みを感じないのだ。書いていてもそうだし、後から読んでも。

 とにもかくにも、だ。長い記事が書けるということと、長く続けられているということを、敢えて肯定的に書いてみた。自画自賛と言われてしまうだろう。
 しかし、こう、あんまり、「わかりやすい文章を書こう!」ということに気を取られすぎても仕方がないと思う。そりゃあ、あれだ、何か「答え」があって、それを適切に伝えるべき場合であれば、当然、わかりやすく、丁寧に文章を書くべきだ。
 僕のブログは、違うのだ。答えがないのである。伝えたいことはきっとある。しかし、その伝えたいことが、自分自身もよく分かっていないのである。


 そして、厚顔無恥であるが、それでよいのである。

 このブログは、いまだ、進歩の途中、なのである。変化を繰り返しているのである。

 だから、読み手に、誤解を生じさせてもよいのである。いやむしろ、その誤解から生じた言葉が、僕自身に、新たなる変化を生じさせる可能性だってあるのだ。



 まとめよう。
 わかりやすい文章を書く技術とは、「伝えたいこと」が明確な場合に役に立つ技術である。
「伝えたいこと」が明確ではない、考えることそのもの、またはそのプロセスを表現する場合は、その技術は時に、反転して「わかりにくさ」を生じさせる可能性がある。
 その「わかりにくさ」とは、わかりやすい文章にするための技術によって取り払われた文章の機微、冗長性といった、余分なものそれ自体が、実のところ、考えるべき、伝えたいことの一片である可能性である。

 上の下線部を、わかりやすい文章技術によって、改変してみて、この記事を終わらせる。

(元)余分なものそれ自体が、実のところ、考えるべき、伝えたいことの一片である可能性である。

(修正)本当に考えるべきことや伝えたいことは、余分であると捨ててしまった文章自体に、実は含まれている可能性がある。


(本当は、スマホの調子やPCの調子や、最近遭ったよくない事のメモをしたかったが……。いやはや、人生とはままならぬものである、とか、大げさか)

拍手[2回]


今日の一言「あータイトル考えるの面倒」

正解するカド見終わる

 見た。
 うーん。なんだか、「驚き」は最後にもらったけれども、なんだか良い作品を見終わった後の、素敵な余韻というものを感じるには至らなかった。とはいえ、序盤であった、シンドーさんの、「俺たちは神じゃない。何が正解か、ずっと考えていく必要がある」だとか、重要な表現は与えてくれた作品であったことは間違いない。

 ので、ストーリーとか、結局〇〇になってしまって人類の進歩なんてどうでもよくなってしまったとか、そういったことは置いておいて、テーマ性の部分についてメモしておこう。

進歩とは何か?

 本作品で、テーマとして、伝えたかったこととして(考えられること)は、「進歩すること=自らを途中と思うこと」という点であった。

 なるほど、世界は、特に先進国は、「完成」してしまった。
 その完成というものは、自然を克服し、安全対策を施し、富や教育の再分配を行い、娯楽や生きがいが提供された人間社会である。
 
 当然、例外者は存在する。社会システムから外れてしまった人や、コミュニケーションをうまく行えない者。チャレンジに失敗し負債を抱えたものなど、挙げればきりはなかろう。

 それでも、ある程度は、平等で幸福な社会が構築された。
 一億総中流という幻想が崩れてしまった、などと知識人はいうだろうが、それでも、世界の多くの国々や、500万年前だか1万年前だかの人類の歴史と比べれば、比類なき安全性や、幸福性等で満たされているだろう。

 社会システムには、いたるところでほころびがある。それでも、悪法もまた法であり、たえまない人類の努力によって構築されてきた社会である。全世界の幸福と平和を与えられるような「正解」というのはなかなか見つからない。一つの場面で有効であった方策が、ある方面では失敗だったり、ある人や分野や集団に負担を強いるようなものだったりする。

 ナショナリズム(国や州や県や地域や特定の集団などの利益を強固に追求すること。「仲間」と線引きされなかった「外側」に対しての考慮は優先されない(時に攻撃の対象となる))的な政治の動きが昨今はやりだしたのも、その一つの反動であると思う。

 というような、一歩引いた目で見ることができる人は、いわゆるインテリ、知識人やコメンテーターといった人たちにおいては可能であるが、それが、大きな思想的潮流にはなりえない。例えば、日本の過去の戦争について、全国民が熱狂的に戦争を支持したかどうかはともかく、戦争に反対する人たちもまたいたのである。しかし結果は誰もが小学校で習っているとおりである。
 いやそれどころか、歴史を少しでも学んだことがある人なら、いかに人が愚かであるということが、身に染みてわかるはずだ。いやいや同時に、その人の営みというのが、なんと素晴らしいものかと感動に打ちひしがれる人もいるだろう。それは感覚の問題であるので、本記事の趣旨と離れる。

完成した社会

 上の節が少し長くなってしまった。

 まとめると、
・現代社会は完成している。
・しかし、ほころびは多く生じている。
・変えようとする意思は存在する。
・しかし、うまくいっていない。

 という主張である。
 異論、大いに結構。ますます世界はよくなっているという認識をもっている人はそれはそれでいい。ただし、「完璧なる人類幸福」というものを想像したときに、いかに世界の矛盾や不条理が大きいことか。そして、その大きな潮流に、我々の力の及ぶところが小さなことか。

 こんなことを思っている私であるが、先日、「世界が悪いものだと思うなら、それを自分で変えたらいいじゃないですか」とお言葉をいただいた。笑ってしまうほど正論で、頭が下がる。何ら反論はない。

 そして、本作、正解するカドでテーマの表現として得たこととしては、上に書いた「進歩とは途上であると認識することだ」ということである。そう。理不尽だ、不愉快だ、もう大きな変化は望めないとか、そんなこと言ってる暇があったら、自分が、自分で、大きなことを成せばいいのだ。人類は進歩し続ける。そして、己もまた、その生を終わらせるそのときまで、進歩し続けるべきなのだ!!


 ……。ということについて、共感はするのだが、実感にもっていってくれるには遠かった。その点が残念だ。テーマとしてはよかった。よかった――というか、僕好みであった。しかし、表現としては、惜しかった、といった感想である。

(なにせ、僕が本当に伝えたいこと、表現したいことは、その「正論」の恐ろしさであるのだ。批評は誰でもできる。悪かった点を挙げるのなんて簡単だ。大事なのは、その問題をどう解決するのか、ということである。僕は最近、その点しか興味がないといってもよいかもしれない)



ザシュニナさんが気づいたこと

 もう一つ、この正解するカドから、テーマを抽出してみよう。それは、ザシュニナさんのお言葉に表れている。

 まったく同一のものに別の価値を与える力
 1(イチ)しかないものに1(イチ)以上の情報を与える力
 それが人類の生んだ未曽有の力
 それが、ザシュニナと真堂から生じている


 くしくも、最近学んでいる、ある精神科医の「唯一性と一回性」という表現と、同義に思えた点が興味深かった。

 人類の特異点とは何か?

 つまり、人類が、人類としての価値を帯びるのは、どのような能力か、ということである。

 それは、完全な情報のコピー(複製)ではなしえない、その瞬間、独自に生じる個体そのものに、有機的な意味をもたせるということなのだ。

 と、なるとだ、やっぱり、量子テレポーテイションとか、クローンとか、遠隔操作義体だとか、電脳の外部記憶とか、頭部移植手術とか、それらは本当に、唯一の個人の連続性が保たれるものなのかということとか、非常に気になり始めるものだ。

それで結局正解とは?

 と、まぁ、ネタバレとか全然関係なく思ったことを書きなぐった。構成とか全然考えていない。推敲も特になし、うん、適当である。

 あーその、文章を書く技術として、しばらく寝かせる、ってのがある。
 書いてすぐは、冷静な判断ができていないから、良い文章が書けないと。その「よい」というのは、相手に伝わる文章ということ。

 ぶっちゃけ……なんか、もっと雅な言葉づかいで表現したいが、ぶっちゃけって、何か他に言い換えられるだろか? 率直に言うと、とか? なんかちょっと違う。忌憚なく言えば、とか? それもなんか違う。
 広辞苑をひく。「包み隠さず話すということ」。え、まじか、俗語じゃなくて、ちゃんと言葉としてあるんだ。じゃあ、まぁ、いいか。

 ええと、ぶっちゃけると、別に、万人普遍に伝えたいとか、全然思っていない。
 誰か似たような感性の人とか、一部の表現だけでも、何か思うところを与えられたらそれで充分だと思っているし、実のところ、一番の読者想定は、未来の自分である。

 ある方は、非常に有益な記事をたくさん書かれるのだけれども、一定期間たつと消してしまわれる。なぜ消すのですかと問うたら、情報は整理するべきものであり、何より、自分自身で見返すということを行わないからである、と仰られた(確か)。

 僕はガンガン見返す。そして、内容の無さや稚拙さに「うぁぁぁあ」といって悶えるのである(マゾか!)。
 意味、あんのかな。
 ただ、たまーに、非常に面白い記事はあったりするのだ。そして、これが難しいところだが、その「おもしれえ!」って気持ちになる記事が、その時々で異なるのである。それゆえに、きれいに全部ばっさり整理するということがなかなかできない。うん、これ、整理できない人の典型的なパターンな気がする。
 いつか見るかもしれない、いつか使うかもしれない、……と、なかなか捨てられない、と。


 それで、まぁ、なんだ、その。

 もう少し短い記事を書けるようになろうか、ということと、正解としては、やっぱり、個人として、僕として、俺として、私として、考えていかなきゃならんだろうということである。

 一人ひとりしっかり考えろよ!

 というテーマであったということだ。この作品は。だから、アマゾンのレビューコーナーとか活発なレビューが飛び交っているようだが、そういう意味で、本作は大成功だったといえよう!

(しっかし、前半のあのドキドキ感や期待感からすると、やっぱり、後半も、もうちょっと感動させてくれる作品になったんじゃあないかなぁと、惜しい気持ちが今も残る)

拍手[3回]


その日の気分によって、書きたいこと、表現したいこと、学びたいことが違ったりする。ある方のブログを読んでいて、「一流と三流の違いは、安定感だ」と書かれていて、あぶばべッ!
 と思った。しかしだ、一つ強く思うのは、頭の中だけで考えていても、それが上手い具合に熟成することなど殆ど無い! ということだ。アウトプットは非常に大事だ。そのアウトプットの方向性や成果物について、適切に方向修正してあげることは重要だけれども、ウダウダしている時間があったら、とにかく頭の中の滓でも澱でもいいから絞りだして形にするのだ。



<以下連載>【12月27日続き】



 こいつを使っていて思ったのは、モノを開ける、という作業が、意外に難しいということであった。ドアもそうだが、戸棚やジッパーなど、開けることができるモノというのは、僕らは特に意識せずとも見て分かる。けれども、ロボットにとっては、何が開けることができるのか、というのは、具体的に指示してやる必要がある。確かに、くぼみがあって、若干の隙間があるもの……なんて、開けることができるものというのは、定義が難しい。
 家庭用アンドロイドは、力加減を、通常の人間程度に抑えられているが、開けられないものに必要以上の負荷をかけると壊してしまうだろうし、自損する可能性もある。 
 ……所詮はこの程度か。
 結局、一から十まで教えてやらないと、何もできないんだ。この程度で人工知能だとか、学習機能が備わっているとか笑ってしまう、そう思った。
 しかし、一度教えたことは、確実にこなすことができたし、それだけではなく、何度か繰り返し教えていると、多少の例外……例えば、タオルの位置や、シャンプーやリンスの置き場所がその日ごとに多少変わっていたとしても、ちゃんと識別して作業ができるようになっていった。
 何回かして、こいつ一人で掃除が完了したときに「合格だ」というと、「合格ですか? ありがとうございます!」と、嬉しそうに頭を下げられた。
<続く>

拍手[1回]


  
プロフィール
HN:
遠藤
性別:
男性
自己紹介:
カウントアップ
カウントダウンタイマー
創作カウントアップ
カウントダウンタイマー
カレンダー
07 2017/08 09
S M T W T F S
2 3 4
7 9 10 11 12
17 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
最新コメント
[08/05 遠藤]
[08/02 バール]
[07/26 遠藤]
[07/26 辻]
[07/25 バール]
[07/21 遠藤]
[07/20 バール]
[07/12 遠藤]
[07/10 バール]
[07/09 遠藤]
[07/09 QUWE]
[07/05 遠藤]
[07/04 うーたん]
[06/29 遠藤]
[06/29 遠藤]
[06/29 QUWE]
[06/28 バール]
[06/27 遠藤]
[06/27 遠藤]
[06/26 うーたん]
[06/26 うーたん]
[06/25 QUWE]
[06/25 遠藤]
[06/25 うーたん]
[06/24 QUWE]
Copyright ©  -- 生きる意味を徹底して考える --  All Rights Reserved

Design by CriCri / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]

アクセスランキング