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眠れない夜に書く
2022/11/27 07:41 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「眠れない夜に書く……というのは初めてではない」

まえがき

 前回の記事は、10月23日。今日は、11月27日。1か月は経ったのか。あまり、そういう感覚がない。
 もう11月も終わるというのか。
 早いな。年々加速している気がする。

 やっぱり、昨年の、2021年2月から始めたFF14年が、ちょっと特殊だった気がする。もう一つ世界が増えたみたいな感じがしたし、人間関係というものについての考え方も変わった気がする。

 仕事も、2020年から、めちゃくちゃ忙しかったけれども、割と人間関係にも恵まれて、能力的にも知識的にも増やせた年になったと思う。

 しかし、「リアル」というものについては、絶え間なく変わっていく。残念なことに、「安寧」ということは、現実的にはないのではないかと思うぐらいである。
 その、すごく「楽しかった」といってよい、2021年でさえ、振り返ってみれば、「楽しい幸せ最高」ということばかりではなかった。それこそ、「眠れない夜」だってあったし、すごく落ち込んだこともあった。

眠れない夜

 ということで、昨日から、3時間ぐらいしか眠れていない。27時(3時)~29時(5時)ぐらいは寝てたかな、という感じ。

 なんでこんなことになったのかと言うと、正直よく分からない。
 お酒(350ml缶)を3本開けたのは初めてじゃないかという気がする。
 それでも全然眠れなかった。

 そういうときは、頑張って寝ようとしてもダメなので、書くことにした。

 おそらく、分からないけれども、1時間も書いていると、きっと少し落ち着くと思う。

 そうそう。そういえば、先日の「仕事の気がかり」なことは、やはり杞憂だったようだ。
 よかった。ミスしたんじゃないかとすごく心配だったのだ。よく聞く、発注間違いみたいなレベル。ケタ間違えて発注しちゃったんじゃないか、的な心配があったわけである。

 でも大丈夫だった。

 仕事は、やっぱり、時間的拘束が少なくなったとしても、怖いものは怖いし、やらなくていいならやらないほうがいいなって思う。
 イラストレーターや、創作系の仕事はいいなぁとは思うけれども。ミスがあっても、そこまで致命的にやばいことにはならない。いや……誤解を生む表現だ。ミスで、その作家としての名が傷ついてしまったら致命的だろう。でも、小説なら誤字脱字レベルのミスなら編集校正でひっかかるだろうし、ひっかからなくてもそこまで致命的な問題にならないし、イラストや漫画のミスがあったとしても、同様だろうと思う。

 そんなこといったら、100万円の損害(それが、ケアレスミス的な原因であったとしても)を与えても、会社としては大したことない、ことなのかもしれない。ただ、その場合の個人として受けるダメージは計り知れない。

 なのでまぁ、仕事はやはり気を付けてやらなければいけない。遊びとは違う。

チェックリスト

 ミスしたんじゃないか……という不安が、結構大きくなっているこの頃。
 これは、数年前に、それこそ数百万円に匹敵するミスをしてしまったことに起因する。
 結果的に、会社的からも、関係先の会社からも助けられて、実害はなかった。

 それはよかった。結果的に救われた。よかった。安心……にはならない。

 これまで、そこまで致命的なミスをしたことがなかった。
 だから、「ミスしたんじゃないか?」という不安に少しなることがあっても、「いや、自分は大丈夫だ」と信じることがある程度できていた。

 ところが、そんな大きなミスを実際に自分は「した」。
 となると、もう、自分に対しての信用がなくなる。

 もう、自分が信じられない。
 1回の確認で済むところを、2回……で済めばいいが、何度も確認しないと不安になったりしている。

 自分への信用を失ったことが、かなりの「実害」であったのだ。


 再発防止として、すごい細かいことにも、チェックリストを作って、指差し確認じゃないが、確認することにした。
 例えば、出勤時のタイムカードを通すということのレベルでも、忘れる可能性があるのであれば、チェックリストに含めている。

 財布を忘れて会社に行くときがある。
 それは、家を出る際に、「財布・スマホ・定期・社員証」(+アルファでハンカチティッシュ時計……)を口に出すようにしている。ちゃんと持っているか確認するわけだ。
 それによって、忘れる可能性が減った。
 それでも、ゼロじゃない。1年に数回は忘れる。事情があって、鞄を変えたりするとき。そういう時に限って、口に出して確認するのを忘れたりしている。
 チェックリストでチェックすることを忘れてしまうと、もうミスの防止の使用がない気がする。どうしたらいいんだ……。

 認知症老人の薬の問題というのと同じかもしれない。朝昼晩薬を飲む……ということをメモしておいたとしても、そもそも「飲んだ」ことを忘れてしまうと、何度も飲んでしまったりするだろう。その場合は、飲んだら、紙にチェックしたりする……ことだが、そのチェックを忘れてしまったり……となると、最終的にミス、は、防ぎようがない。

 もうそうなってくると、脳トレーニング(認知療法)とかが必要な領域だ。

 まだ……自分は、そこまでではないと信じたい。

FF14のコミュニケーション

 と……面白いものである。そもそも、悩んでいたこととは全く別の話を書いているのだから面白い。

 もともと、何で眠れなかったかと言うと、FF14でやることがなくなってきたな、ということが関係していた気がする。

 やることないならやめればいいじゃないか、というのはもっともだし、そういうことをいって構って欲しいとか、そういう打算があると言われたらそうなのかもしれない。
 だから、そういうことはFF14のコミュニティでは言わずに、こっちで書くしかないのであるが。

 というわけで、やっぱり、この場所が、ボクにとっては、とても大事な場所だなと思う。

 自分の心の最後の砦……みたいなことまで書くと、後から読んで失笑なんだろうなぁ。

 でも実際、今はそう思う。別のコミュニティでの問題を強く感じる時だからこそそう思うのだろう。

 そういう意味で、リアルの仕事の場所というのも間違いなく大事だ。
 離婚したので妻や子供はいないけれども、両親など家族はいる。家族も大事だ。

 大事なのは、複数のコミュニティがあることだ。これは、社会学者の宮台真司氏も言ってた気がする。
 色んなところに「自分」の居場所があることが大事ということだろう。それはそうな気がする。


 で、本題でもないけれど、FF14でのコミュニティで何が問題かというと、いままでも何度か書いてた気がするけど、やっぱりボイスチャットする人が増えてきているという印象だ。

 光のお父さんのマイディーさんの時代は、そうじゃなかったと思う。テキストチャットがメインだったと思う。
 だからこそ、ボクはFF14やろうと思ったのだ。
 でも、時代が変わったのだろう。ディスコードとかいうアプリで、気軽にVCができるようになって、ツイッター感覚で入れている人が多い。
 実のところボクも最近、聞くだけだけど、ディスコードでVCなるものをやってみた。

キャラクターとしての感覚

 なるほど……確かに便利だと思った。
 やっぱりテキストチャットするより、話した方が断然情報量が多いし、速い。当たり前だ。

 でもボクはそれは、明確に嫌である。

 少なくても、いまボクが使っているキャラクターでは絶対に(VCするのは)嫌だ。

 最初から、「endo」という個体を前提としたキャラクターなのであれば構わない。ただそれするなら、キャラデリートして最初からやりなおすことになるだろう。

 ボクはボクであって、ボクじゃない存在で、リアルとは違う世界での生活や冒険を楽しんでいたのだし、これからもそうありたいと思うのである。

 とはいえ、「ボクであってボクじゃない」というのはとても難しい感覚だし状況といえる。

 前も書いたけれども、「自機」(すなわち、自分のキャラクターを、自分とは気離して、いわゆるゲームのキャラクターとして考えること)という考え方や言い方が好きじゃない。
(つまり「中の人」を意識した言い回しが好きじゃないという意味でもある)

 アバターとは違うわけだ。
 アバターとは、メタバース空間とかで操作する自分の延長のことである。それはあくまでも、「自分」なのである。

 ボクはそうじゃなくて、ボクじゃない存在に意識を乗せるような……表現が難しいな。比喩としては、異世界転生みたいなイメージだと思う。前世(リアル・現実)の記憶はあるけれども、異世界で意識も身体も別になった、みたいな、そんなイメージ。
 小説的に言えば、超・感情移入みたいな。

ボイスチャット

 それで、ボイスチャットの話に戻るわけだけれども、ボイスチャットは、どうしても「前世」(リアル・現実)を意識させるものであって。
 そうすると、これまで、1年ぐらい生活してきたそのFF14での存在(自分のキャラクター・ボクじゃないボク)は、その自己存在意義を失うのである。

 とかってことを、理解してくれる人がいるとは残念ながら思えない……。

 というよりも、逆説的に、理解してもらうわけにはいかない、ともいえるのである。
 だってそもそも、この理由というのは、「ボクじゃないボク」存在の、外側にあるものなのだから。

 ボクじゃないボク存在は、そんな疑問や、悩みすら抱くことがないのである。


 んでまー、ボイスチャットをやらない(やれない)理由はそんな感じなわけであるが、一方で、仲の良いフレンドさんたちが、ボイスチャットをやり始めているということである。

 ボクが知らなかっただけで、ずっと前からやってたのかもしれない。

 それはそれでショックだ。ショックだし、やっぱり、VC使うと、そっちの方が便利だし、それメインになる気がする。
 どうあがいても、テキストチャットの情報量じゃ満足できなくなる気がする。

 そして、簡単に言うと、やっぱり、「寂しい」。

 なんか、違う次元の存在に思ってしまうのだ。どこまで仲を深めても、仲良いと思っても、VCとテキストチャットには、断絶的な差があるように思ってしまうのだ。


 んじゃあ、VCやる前提の「ボクじゃないボク」を作って、楽しい新しいコミュニティを探したらいいなじゃないか? というのは一つ方法としてある。

 それは、婚活して素敵なパートナーを探そうというのと同じぐらいのレベル感である。
(0……ではないが、限りなくやる気がないということ……かっこ笑い)

これからのFF14

 そのVC問題と同時に、そもそも、ストーリーもクリアしてしまってやることがあまりなくなったというのもある。「零式」という、難しい戦闘コンテンツに挑戦するというのが一つのステータスでもあるけど、「零式」は、やっぱりVC使う場面が多いということだし、また別のダメージを計測するツールの問題もあってとにかくややこしい面倒さがある。

 そこまで、面倒くさいことをしなくても、「極」というちょうどいい感じの難易度のコンテンツもあることが分かったのも最近ではあるが、それもクリアしてしまって、ほんとにやることがあまりない。

 やることなくても、自分の作った装備とか、アイテムが、1000ギルとか、1万ギルとか安い値段でも売れたりしたら、すごく嬉しくなってたし、サブクエストで世界観とか人物観とか深めるのも楽しかったし、色々楽しかったのだ、冒険が。

 そういう新鮮さがなくなってしまった。

 そうなると、オンラインゲームなのでやっぱり、「コミュニケーション」が楽しい、ということが大事になる。

 その大事なコミュニティでも、今日書いてきたVC問題などもあって、「はぁ……」というわけだ。
 
 居心地の悪いコミュニティになってしまったら、ボクの居場所の一つがなくなるということだ。
 そうすると、ネット上では、もうこのブログぐらいになってしまう。
 まぁそれでも全然いいのであるが。

 よい……のだけれども、先に書いたようにやっぱり、複数のコミュニティがないと、安定しないのだ。
 この「安定」というのは、「あったらいいね」レベルではなくて、必要不可欠レベルである。
 それもどうなの……と思うけれども、漸近的に向上する方向でないと、現状維持すらできないのが世界の仕組みである。世界と言うか、人間の生理というか。

 これって、やっぱり種の保存的な本能的なものだと思う。
 同じことで満足できないからこそ、人類は進歩してきたんだと思う。常に新しいことや、工夫や効率化を求めること……「めんどくさい」という心理もまた、生存本能的に必要なのだろうと思う。

あとがき

(かっこ書きである。落ち着いたのか、ボクは。言いたいことを言えないとやっぱり、人は苦しくなるものだ。しかし、言ったとしても理解されないことだったらどうだろう。幸いにして、ボクは、人を殺したくて殺したくてたまらないといった快楽殺人鬼的なことを思うことはないので、言っても理解されないということはそこまで多くないのではないかとは希望をもてそうだ。とはいえ……。今回書いてきたような、自己の存在の外側にあるような問題の場合は、「話してすっきり」みたいな方法は取れない。「死に至る病」というキルケゴールの著書と同名の漫画があるけれど、ネタバレになるけど、二重人格的になって、その二重人格の方が後天的に発生したものであり、それを認めてしまうとその人格自体のアイデンティティが否定されてしまう……という話しがあった。本当の自分が分からなくて苦しむ一方で、実は「本当の自分(二重人格の前の元の人格)」を認めてしまうで、その後天的な人格(二重人格)は死ななければいけないという、そんな話しだった気がする。問題は、解決されるためにある、と言われることもあるが、同時に解決できない問題もあるのだ。さらに、問題を解決することでそれが原因として起こる問題と言うのもある。直線的な問題だけでなく、サーキュラな(円環的な)問題というのが、実のところ多いのだろう。つまり、この記事は、結局のところ、問題を問題として認識するためのきっかけにすらなったか分からない。とはいえ、眠れない夜が明けて、朝になったというのは、この記事のおかげであるといえるので、その点は感謝しないといけないだろう。(と、最初に良そうしたとおり、ここまでで大体1時間だ))

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安全とセキュリティの違い
2022/10/23 21:39 | Comments(0) | 思考及び書くこと

まえがき

 ふと思いついたことを書くだけの記事。
 生存報告という意味もあるかもしれない。私は元気です。
 でも、先週後半に、仕事でミスしたかもと気がかりになってしまったことがあって、ずっと気持ち的に引きずっている。大丈夫だろう……と思いつつ、しばらくしないと結果が分からない。
 なんか、思い切って楽しめない自分がいる。悔しい。時間がもったいない。

 頭の切り替え方、みたいな記事を調べても、役に立つものは出てこない。

 仕方がない、自分で書くしかない、しかし書くだけのことを思いつかない。まぁ諦めるしかない。

セキュリティ

 ぜんぜん話は変わるのだけど、セキュリティと聞くと、どんなイメージだろか。ハッカーとかの攻撃などを思い浮かべるだろうか。情報漏洩という言葉も浮かぶかもしれない。

 ただ、セキュリティというのは、3つの概念の総称である。機密性・完全性・可用性。

 情報漏洩というのは、その機密性の部分の話。ただ、セキュリティを守る、といったときは、残りの完全性、可用性も大事だ。

 情報漏洩だけを心配するなら、重厚な耐火金庫に入れて、鍵かけて出さなきゃいい、ということになる。

 必要なときに利用できて、それでいて完全な状態(改ざんされてない状態)であることが大事なのだ。

安全性

 観光……。スカイダイビングとかスキューバダイビングは危険だ。でも、それが趣味で楽しい人もいる。

 旅行も、危険だ。

 車の運転も危険だ。

 じゃあ公共交通機関は大丈夫? いやバスも危険だ。飛行機だって。

 電車は安全? 確かに安全だ。人が死ぬ確率が利用者数に比べてものすごく少ない。でも100%ではない。


 安全だとすれば、家の中でずーっと布団にくるまっているのが安全だ。



 何がいいたいかというか、ふと思ったかと言うと、どこまでいっても、危険(リスク)は0にはならないということ。

 危険をなくすことは大事だが、0にはできない。どこかしらで基準と言うか、諦めというか、妥協というものが必要になる。

 ノンアルコール飲料や、カフェインレスコーヒー。バーチャルセックス。危険を亡くして行った先は、なんかディストピアな気がしてならない。

命のリスクと娯楽

 アニメやゲームって、その点、素晴らしいと思う。安全性が確保されたうえで、脳内の「楽しい」が刺激できるのだから。

 リアルのスリリング……命の駆け引きが必要な娯楽……というのは、人間に絶対必要なのか。たぶん、いらない、という人が多いだろう。
 コロセウムの死闘なんて野蛮だと思うだろう。

 ただ、お酒はどうか、となったときにどうだろう。急アルで死ぬかもしれない。脳細胞が破壊されて、寿命が縮むかもしれない。
 それでも、「娯楽」のために飲むのか。ちょっと嗜む程度ならいいじゃない、というオチでおわるだけの話だけど、極論的に考えると、何でも間でも「ダメ」という社会になる可能性はゼロじゃない気がする。

 

 そしてそもそもリスクは、ゼロにはならない。

あとがき

(かっこ書きである。そんなことを思っただけ。思った時間は1秒。それを書いてみると、そうだな、ここまでで、10分? 15分? ぐらいかかる。書いたことの意味があるのか。分からない。後で読み返した自分が、ちょっと面白いなとか、あーそうそう、そう思ったことあったな、とか思えるぐらいか。しかし、書いて「できあがった記事(とか作品)」という意味だけでなく、書いたことによって生じる自分の脳内変化、というのがより大事な気もする。頭の中に浮かんでも、それをアウトプットしないと、鬱屈して思考ループになることもある。思考ループを防ぐ、ないしは解消するというのが、この書くという効果であると言ってよい。言ってよい、キリッとか、何を根拠に、と言うことになる。根拠がないと何も言えないこんな世の中なのかポイズン。親しい友人という存在は、こういう、根拠がないけどちょっと思ったことをいうときに大事なのである。しかし、リアル世界における物理友人が仮にいなくても、ブログやSNSなどで発信することで解消することもできる、といってよい(きりっ)。物理友人の方が、安心かもしれない。ネットだと、よからぬ輩によからぬことをされるかもしれない。しかし、そのリスクは両方にあるともいえる。リスクはなくならない……と、記事のテーマにちょっと関わらせつつあとがきも終える)









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仕事とFF14しかしてない気がする
2022/10/16 08:54 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「何か不満足というわけではないけども不安はある」

まえがき

 前書きなし。

最近

 タイトルのとおり、仕事に行くか、帰ってきたらFF14しかしてない気がする。ニュースは見てるかな、ぐらい。
 別にダメとかは思わなくなったけれども、不安はある。

 大学生の時、3Dの対戦型シューティングゲームをやってて、たぶん、ロビーがあるオンラインゲーム(※)としてはそれが最初だったのかな。フレンドになった方とのおしゃべりや、帰省の途中に住んでる方とオフ会したりとかもしたことがあった。

※特定の人とダイレクトに繋がるゲームはやったことあった

 その頃は、大学の課題とかもあったけれど、遊びたいという気持ちが常にあったと思う。どういうタイミングでやらなくなっていったのかなぁ。過去の日記なども残ってるのかな。

日記

 日記と言えば、「ログ」という形で――まぁこのブログもそうだけれども――自分の思考をダイレクトに文字にするということをずっとやっていた。特定の年では、ほんと毎日書いていた。
 実は、人間の意識とか言語というのはそう簡単なものではなくて、前意識とか、言語も、シーニュ(意味するもの)とかシニフィエ(意味されるもの)とか分かれている。
 ソシュールの話は、いつも面白いって思って聞くのだけど、しばらくすると忘れるんだよな。身につかない、ということは、それだけ専門的なのだろう。

 でも納得しているところもあって、頭の中に生じている「ことば」というものが、そのままダイレクトに「文字」として表現することはできないのだ、という点。

 思考というのは、文字とは完全に一致はしない。
 感情もそう。

 そんな中でも、小説とか文学というものは、文字で人間を表現しようとしてみゃくみゃくと続いてきた文化だ。それは素晴らしいものだと思う。

幸せの定義

「余暇」

 という言葉があまり好きではない。仕事とプライベート、という分け方も好きではない。いや、現実はそうはいかないし、公共の利益は大事だ。でも、いったん、そういう「たてまえ」とか「ぜんてい」といったものを取っ払って考えることが、昨今大事なのかもしれないとも思う。

 本来どうあるべきか。

 と、僕は今までも考えるようにしていたし、そうありたいと思っていたけれど、実はそんな僕も「ぜんてい」なるものにとらわれているのである。

 本当にしたいこと、なりたいもの、えたいものということを、忘れちゃいけないと思う。

 とはいえ、「幸せ」とは何か、という定義は、「理想と現実との乖離が少ないこと」だと思っているので、その匙加減が難しいところである。
 理想だけ高くすると現実がおいつかなくて大変だし、理想を下げ過ぎても、自分の本当の気持ちというものを無視することになる。

 ことば、で表現するのは簡単だが、実現するのが難しいということで世界は溢れている。

 平和、というのもそうだね。平和という概念はみんな共感し、成したいと思っていても、実現は非常に難しい。戦争を起こした国だって、「建前」上は「平和」のために戦争をしているのである。誰にとっての平和なのか、何を目指す平和なのか。それが違うだけだ。

FF14とメタバース

 今の所大丈夫なのだけど……という前置きの上で、「ゲームをゲームとして楽しむ」ということを意識しないようにしていた、というのがある。
 
 FF14は、世界観もすばらしいし、グラフィックもすばらしいので、その世界を楽しんでいた。

 ただ、自分のような感覚で楽しんでいる人は、いないことはないが、あまり多くもなさそうだ。
 多くの人は、「ゲーム」として楽しんでいる。

 自分はどちらかというと、「物語」として楽しんでいる。たぶん廃れそうな言葉を使えば、「メタバース」で生活しているイメージである。メタバース。攻殻機動隊とか好きだけど、どうにもあまり流行るように思えないのはなぜだろう……。

「私」
 という存在を、仮想空間に置きたいというわけではないのだと思う。自分の感覚として。
 私の魂をもった別の身体をもった存在で、別の世界を生きていたい、という感覚だろうか。

 そういう意味で、FF14のストーリーは、エーテルとか「魂」の在り方とかが深くかかわってるので、ストーリーとして楽しいというのがあった。


 ところが、最近、ストーリーが最新のパッチまでおいついてしまった。
 そして、「暁月のフィナーレ」ということで、10年ちかく続いていたストーリーが完結したのである。

 それはそれは、感動した。楽しかった。すごかった。陳腐な言葉がならぶほどに、言葉にならないほど面白かった。MMORPGという、「MMO」の部分を除いて、ソロで良いから物語としてお薦めできる。

物語の先に(高難度のかかわり方)

 だから、ストーリーが終わってしまって、さてどうしようか、と悩んでいるところはある。

 まだ色々やることがある。サブストーリーとかメインストーリーに関係ないこととか、まだ触ったことないジョブとかもたくさんある。

 高難度というコンテンツも、少しだけやってみた。これはこれで面白い。冒頭少し書いた、3Dシューティングゲームやってたころみたいなハマり方をしそうだなと思った。

 しかし、これは非常に「楽しむ」上で危険だと思った。


 かなりメタ的なことを書くと、「答え合わせ」なのだと思っている。


 いや、ゲームってそもそもそういうものなのだ。
 だからこそ、「ゲームとして感じさせない工夫」があるFF14が面白いと思ったわけである。

 敵との戦闘というのは、ランダム要素があるとはいえ、「適切な行動(スキル回し)」というのがある。「正解」があるのだ。完ぺきな正解はできないにしても、正解に近い行動がとれると、攻略できる、クリアできる、ということになる。

 いかに、その正解を自分で再現できるか、というのが本質なのである。

 ……って書くと、非常に冷める(かっこ笑)。

 書くと冷めるから、ずーっと前(ストーリーが終わりそうというぐらい)から思っていたけれども敢えて書かなかった。

 思ってることを文字にすると、こんな風に、いくらでもブログもかけるのだけど、「いうべきでないこと」というのが発生すると、そもそも「書きたい」という気持ちがそがれるので、ブログから離れてしまう。最近はその繰り返しだったりする。

答え合わせは楽しいのか

 なんか批判的に書いたけれど、答え合わせは楽しいのである。

 最初、ぜんぜん上手くスキル回しができずに、敵の攻撃(ギミック)を回避できずに死んじゃってたのが、段々倒せるようになったり、意識せずスキル回しできるようになったりすると、成長した感じもして楽しい。

 本質的に楽しいから、流行ってるのである。

 それはそうなのだけれど、それだと、いつか「所詮ゲームだし」という冷めた気持ちが生じる可能性が否定できないと思う。トッププレイヤーはいいだろう。それによって賞賛されたり、昨今はプロゲーマーという職業すらある。

 ただ、現実問題、いくら頑張ったところで、そんな風にはなれない。自分が平々凡々なのは分かっている。
 どんだけ頑張ったって、トップに上り詰めることはできない。

 今の自分の実力から、少しずつ頑張って、できることを増やしたり楽しんだりするぐらいがちょうどよい。


 ……それはよい。そんな風に、身の丈に合って遊ぶのが良い。

 ただ、書きたいことはそこじゃなくて、結局それは「ゲーム」としての楽しみ方になっている、ということだ。

 気持ち悪いと感じる方も多いことを承知で、自分は、「もう一つの世界」としてFF14を楽しんでいた。
 だから、「中の人」とかいう表現も嫌いだし、「自機」という言い方も好きじゃない。ツイッターとかで、リアルの話とかたくさんする人ともあまり関わりたくない。

 できるだけそういう人たちとは関わらないように、とは思っていたけれど、交流が広がるにつれて、色んな人とかかわるようになった。
 そしていつしか、自分もそこまで気にしないようになってしまっていることに気づいた。

 もともと、ご飯写真とかエオルゼアのイベントとかエオルゼアカフェとかの話とかは全然よいと思ってたので、自分の中での基準もあいまいだったのだろう。特に今ではその基準がほとんどなくなったということかもしれない。

オフ会とかボイチャとか

 オフ会も、ボイスチャットとかも、上の理由からしたくない。したいと思わないとかではなく、したくない。

 やじゃん。かわいいキャラクターから、野太い声が聞こえてきたら、「何……??」って思う……。
 でも、「ぜんてい」とっぱらって考えたら、将来、ボイスチェンジャーのすごい奴があったらいいなーて思う。

 チャットやりとり、というのも好きなのだけどね。光のお父さんのマイディーさんのブログとかみて、興味持ったのは、意外に「チャット文化」だと思ったからだ。それがないと、たぶんそもそも始めてすらいなかった気がする。

 チャットは面倒、という意見の方が最近よく聞く。そりゃそうだ。口でしゃべった方はやいもの。

 いま、ここまで3000字? 5000字? 書いてきたけど、すでに1時間ぐらいかかりはじめてる。自分はわりとタイピング速いからここまで書けるけど、普通そうはいかないと思う。そうすると、話せることが限られる。

 あと、冒頭で書いた、「文字」と気持ちはまた乖離がある。だから「面倒」というのは当たり前で、正しい。

 だから、VCとかやりたい人が多いのも分かるし、これから広がっていくのかもしれない。

 ただ、周りがみんなそうなったら、いつか自分は交流をしなくなるか、そもそもやめるだろうと思う。


 とはいえ、「すごいボイスチェンジャー」があったら、自分もVCしてもよいかなとは思う。

 すごいボイスチェンジャーというのは、自分のキャラクターにあった声にしてくれるというもの。エモートのときに、笑ったりすると声がでるけれども、それとあった声にしてくれるなら、すごくよいと思う。

あとがき

(かっこ書きである。書きたいこと、書けたのだろうか。良く分からなくなった。ただ、1時間ぐらい書いていると、だんだん飽きてきてしまう。書いてる途中は、いくらでも書ける気がするのだけれども、そんなことはない。不断の努力をしないと、現状維持はできない、というのが座右の銘?? 的に思う。理想と現実のギャップがー、というのの次点ぐらいには。楽しむためにだって努力がいる。でも、人とかかわるのってやっぱり難しい。求めすぎても、いけない。適度な距離。これが難しい。でも一人じゃ生きていけない。ソロベースで遊んで、プラス交流、ぐらいだったころが一番よかったのかもしれない。最近、高難度とかやってると、「交流」がメインといえる。これはやっぱりしんどかったり疲れる。あと、「物語」感がない。なさすぎる。でも、「ゲーム」としては楽しい。このあたりの悩みを書きたかったのだけど、上手く書けたのか、それはしばらく経ってから読み返さないと分からない)










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7月の終わりに
2022/07/31 09:21 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「日記を書く頻度が増えてる」

まえがき

 前に記事を書いたのが、7月13日。まだ、2週間ぐらいしか経っていない。
 1か月とか、2か月とか、簡単に過ぎていたころに比べると、ブログ書こうという気になる頻度が高まっている。

 はっきり言ってしまえば、1年前ぐらいから始めたFF14の熱狂が冷めて、「ふつう」になったのだと思う。

 ちょっと気がかりな……とか曖昧な言葉を敢えて使わずにいうと、人間関係とかで、気を遣わないといけなかったり、ムッとするというか嫌な気持ちになることが何度か起きてしまっているため、ちょっとログインするのとか躊躇われる。

 躊躇いつつも、週間でやらないと手に入らない報酬などや、そもそもログインするのが習慣だったりしてログインしていたけれども、昨日から意識的にログインするのをやめてみた。

 すると、すごく時間が「余った」感じがした。

 音楽とか写真とかのファイルとかフォルダとか整理したり、アマゾンで欲しいもの物色したり、ユーチューブで動画みたり、久しぶりにarkやってみようかと起動しようとしたら、30GBぐらいアップデートがあった。ほんと重いゲームである。

 最近回線が改善したので(結局ケーブルテレビ・有線となった)わりとダウンロードもすぐ終わった。けど、起動してみて、最初のグラフィック設定がやっぱり大変だった。
 GTX3080というかなり良い部類のグラフィックボード使っていても、ファンが超高回転して悲鳴をあげるぐらいの重さ。
 設定をみなおしたらまともになったけれども……。

FF14について

 やっぱり、基軸として、「ストーリーがソロでも普通に楽しい」というのが、ボクが続けられてきた理由だった気がする。
 そこに、ストーリーを一緒に楽しんでくれるフレンドや、エオルゼアでの世界のよいところをたくさん教えてくれる先輩ヒカセン(光の戦士)がいたから、のめり込めていたのだと思う。

 ただ、「上手な戦い方」とか、週制限のアイテムを取らなきゃ、とか、最新のクエストを追わなきゃ……とかなってくると、やっぱり何か「ゲーム」感がすごく大きくなる。

「ゲーム」感とは、「作業感」とも言い換えられる。

 序盤のストーリーは、あんまり意味がなくて作業感(お使い感)がすごくて不評だという意見が多い。
 ただ、ボクはそもそもMMORPGというもの自体がほぼ初めてだったし、その「お使い」そのものも、世界観や地理を知るという目的の元、「操作を知る」ということにも繋がっていたから、むしろ楽しかった。

 いまサブキャラでやってみたりすると、「ああ、新生のストーリーがつまらない、という人の言うことも分からないでもないな」という気にもなる。


 いろんな意見の人がいる、いろんな感じ方の人がいる……。

 これは実際そうなのだろうけど、ボクがさらに思ったのは、その「いろんな」というのは、「経験」や「環境」によるものが大きいのではないかということである。

「人間」

 いろいろいるとはいえ、生物的にそんなに違いはない。同じ顔の人はいないけれども。
 脳の構造も同じだ。
 逆に、同じだから医学が成り立つ。みんな別々だったら、体系的な治療なんてできないだろう。

 だから、どう過ごすか、何を経験するか、どういった習慣をもつか、ということが重要に思う。

筋トレを再開

 先日健康診断に行って、腹囲が+5cm、体重が5kg増えている、気がした。一瞬でちゃんと教えてもらったわけじゃなかったからはっきりしていないけれども。
 30代前半までは全然変わってなかったのに……。

 見た目的にもそれほど変化があるように思えない。

 でも、数値上はやはり劣化している。

 筋トレなどしなくなってから、2年経ったかな。ということで、5日前ぐらいから、夜寝る前の筋トレを徐々に再開した。

 筋トレすることで健康が維持できるわけでもないかもしれないが、やらないよりはよいはずだ。

胃カメラ

 健康と言えば、胃カメラをやったけれども、最初にやったのは5年前ぐらいで、3回目? 4回目ぐらいだけれども、やっぱり苦しい。つらい。(全身麻酔の場合は、眠って起きると終わってるらしいから余裕らしい)

 胃カメラを挿入されている時間、5分~10分らしいけれども、苦しい。
 いま、あの想像以上の苦しみから解放されて、こうして文字を打てていること、それ自体が幸せと感じられるほどに。

 いやほんと、物理的な、切り傷とかそういう痛みとは違うのである。「苦しい」のだ。
 幼いころの喘息も苦しかった。ただ、それとも比較できない。

 嘔吐感がずっと続く感じ。嘔吐……と聞くと、まぁ、そんなに苦しくなさそうに思える。
 だが、嘔吐する一番苦しい瞬間がずっと続き、さらに体の中に異物が挿入されているゴツゴツ感というか、圧迫感もずっと続く……と書けば少しニュアンスが伝わるだろうか。

 正直、何回かやってみたが、「この苦しみが続くなら早く死んだ方がましだ」と思う、何回も。
 さすがに2回目からは、もすうぐ、もうすぐ、終わるから頑張ろう……と思えるようになったが、初回は、「ころしてくれえええ」と叫びたくなる。口から胃カメラ挿入されてるから叫ぶこともできないわけだが。


 まぁ、おおげさと言われるかもしれない。実はそんなに苦しくないんじゃないかと思って、今回もやってみたが、いや、やっぱり苦しかったよ……(かっこ笑い)。

 ふつうに大の大人が泣くもんね。涙が出るのは反射なのかもしれないけれど。

 それで、さっき、何故「喘息」のことが浮かんだかと言うと、看護士さんが、挿入の最中背中をさすってくれたのであるが、それが、何だかすごく、少し苦しみが和らいだのである。

 背中をさする……ということは、治療にも何も関係ないことな気がするわけであるけれども、間違いなく、苦痛の緩和という意味はあるのだなと知った。

 そういえば幼いころ喘息になった時、母親が背中をさすってくれたりしていた。そのとき、苦痛が和らいだのかどうかはもう記憶がないのだけれども、きっと、少し楽になったことだろうと思った。
 自分も覚えてないし、母親も覚えてないかもしれないが、それは次に会った時などでも伝えてみようと思った。

意外と書くことあるな

 中学生ぐらいのときから、生きる目的とか何だろうって思っていた。
 その時だした答えとして、ゲームとかたくさんして楽しむ、って、まさに子供っぽいものだった。
 ただ実際今、30代になっても、結局その目的が間違いじゃなかった気がしてならない。

 仕事してゲーム(「ゲーム」を娯楽全般に置き換えても成立するだろう)して美味しいもの食べてゆっくり寝て……を繰り返す。

 ルーティン。平和。……言い換えれば堕落かもしれない。

 人生は勝ち続けなければいけないのかもしれない。成長し続けなきゃいけないのかもしれない。
 人間としての魅力というのは、そういうものだろう。

 ただそうじゃない、普通の暮らしと言うのも案外悪くないのではないか。

普通の暮らし

 ただ、思うに、そのボクが今できている「普通の暮らし」というものを得るためには、「色々あった」と思わざるを得ない。

 何か、神からはいどうぞと与えられただけのものではないと思う。

 これまでの色んな選択や、経験や、もちろん「運」もあったりして、今があると思える。

 そして、今が、ボクが望んだ最高の完璧な望み……というわけでもなかったと思う。初恋の人と相思相愛になれて一戸建てとかっこいい車をガレージにおいて、息子と娘に恵まれて会社では頼りにされて……というそんな生活がもしかしてあったのかもしれない。

 それと比べたら、今の生活は「普通の暮らし」なんかではなく、「どん底劣悪」な生活だ。

 みじめで暗い、孤独で寂しい生活だ。

選択するということ

 FF14をやめたことで、時間ができたので、キルケゴール氏に関連する本を読んでいた。

 キルケゴール氏が推奨する生き方の一つに「倫理的な生き方」というのがある。
 倫理的な生き方とは、「自分に関連する全ての事柄の責任を全て引き受けて、自分に起こるあらゆる可能性の中から、意識的な決断によって自分が正しいと思う自分を選択すること」であるという。

 上の記述は、抜粋ではなく、ボクの理解によって分かりやすく書き換えている。

 キルケゴール氏は、上の倫理的な生き方の上位概念として、神の前での生き方を提唱しているけれども、実際現代に生きるボクらには、せいぜい第二段階の倫理的な生き方が精いっぱいなんじゃないだろうか。

 体重が増えた……というのも、自分の責任だ。
 それはまぁ当たり前だけれども、人生が「楽しくない」と思うのもまた、自分の責任だと思えるかどうか。

 貧乏だったり、異性に恵まれなかったり、仕事ができなかったり、そういったことも全部含めて「自分の責任だ」と思えるかどうか。

 全部自分の責任だ……とするのは、何だか、「仕事の責任」という言葉が重くのしかかるように気分のよいものじゃあないけれど、でも、悪いことじゃないと思う。

 だって、本当に誰か自分と関係ない誰かのせいなのであったら、コントロールできないし、改善もできないのだから。

時間という概念

 ハイデガーでも読まないといけないのかもしれないけれど、難しいことは分からないし理解できないので、要するに、時間は不可逆ということ。

 タイムマシン、は魅力的かもしれない。でも、タイムマシンに乗れても、「自分」はそのままだ。老人になって、過去に行けたとしても、それは嬉しくない気がする。

 タイムリープは魅力的かもしれない。
 今の自分の記憶思考価値観をもったまま、過去の自分に入り込む。

 しかし、二つ分からないことがある。まず、未来のそのままの自分はどうなるか。つまり、タイムリープした際に残された自分。その自分にとっては、別に何も変わらない人生がそのまま進むことになるのだろう。そんな自分は何も救われないのではないか。それとも、その自分はもう、「他人」だからどうでもいいと考えて切り捨ててしまってよいものか。

 そうつまり、ボクはもうタイムリープしているのかもしれない。タイムリープしたけれども、「今」のボクはそのままなので、タイムリープも何も知らない。ふつーに時間が過ぎていくだけ……。

二つ目のタイムリープ

 もう一つの疑問として、タイムリープ「された」側のことだ。
 確かに未来の自分ではある一方で、違う記憶が入り込んでくるわけだ。その変容によって、元の自分はどうなるのか。記憶だけではなく、未来の自分の価値観はまた変わっているかもしれない。そうしたとき、元の自分との価値観の相反性があったら、それはどうなるのか。
 テーゼとアンチテーゼが瞬時にまじわりジンテーゼになるのか。良く分からない。

 なので、タイムリープができるからといって、手放しで飛びつくこともよいかどうか。

 ここから導けるのは、やっぱり、時間は不可逆、として考えておいた方が健全だろう、ということだ。

 しかし、時間が不可逆となると、やっぱり身体も、思考も衰えていくことは避けられない。

 そうすると、さっき書いた通り、「倫理的な生き方」として、あらゆることを引き受けて、意識的に決断していく必要があると思う。

 得られないことについて嘆き悲しみ続けることは不毛なことなのだ。

あとがき

(かっこ書きである。うーん、なんか、他に書くことすらあった気がする。意外に書くことあったな、と思う。面白いかどうかは、別として。ああ、一つ思い出した。自分の過去記事の音読をふと耳に入って、面白かったのだ。書いていた当時の自分としては、「くそつまんねぇ」って思いながら書いていたのだから、そのギャップも面白かった。なんて記事だっけかなぁ……。メモしないともう最近すぐ忘れる。生きる意味を考えることの意味……だっけ。違う、思い出した、「思考することの意味について」だ。これ、ほんと「ふむふむ!」って思いながら聞いていた。自分の記事なのだが、ただ、2017年の記事だ。5年前ぐらい。もう5年も前になると、別の自分といっていいぐらいである。だからさっきのタイムリープの話題的に、今のボクが5年前のボクに上書きしちゃったら、5年前の自分が、この記事を書くマインドも消えてしまったということであろう。それは何か、もったいないというか、何というかよくないことに思えた。だから、時間は不可逆でいいんじゃないかと、そう今は思った。さらに5年後はどう思うか、分からない。生きてないかもしれないし。だから、ボクは、何か他人に語り聞かせられるようことは何もないけれども、自分について「書くこと」自体は、無意味じゃないんだよと、そう教えてあげたい。今も、毎日日記書いてる方も、週一で更新している方も知っている、読ませて頂いている。すごい。ボクよりすごい取り組みをしている方に対しては上から目線みたいになってしまい恥ずかしいが、それはすごいことだし、意味のあることだからこれからも続けた方がいい、と伝えたい。そして、前に日記書かれていて、やめてしまったり消してしまった(のか、ボクがそれを追うすべを見失っただけなのか)方も知っている。また再開したのだったら教えて欲しい)

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漫画の話。ファブルが面白かった
2022/07/13 00:18 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「24時過ぎてしまう」

まえがき

 最近、ピッコマというサイトで漫画を読む機会が多くなったと先日書いたところである。
 その傾向は変わっておらず、むしろ今回、「まとめ買い」というのをした……。
 1万5千円ぐらいを一気に使った気がする。

 ファブルという、22巻かな? 完結、している作品。

 1冊漫画って、600円ぐらいかな。すると、1万5千円だと、ちょっと高いかな。

 まぁでも、紙で保管する必要もないし、いつでも手軽に読めるしで、多少価格が高いのは良い気もする。

ファブル感想

 殺し屋の話である。
 感想は、面白かった。ピッコマというサイトは、ちょくちょくと、まてば0円という仕組みがあって、1日まつとチャージされて無料で読める、のだけれども、途中までだ。

 途中までは無料なのだけれども、ある一定の話からは有料になる。
 有料になったところで、読むのをやめていたのだけれども、1か月、2か月して、やっぱり続きが気になって読み始めたら、もうとまらずに、「まとめ買い」したということである。

 主人公は殺し屋なのだけれども、ボスの命令で、人を殺すな、とされて、一般人の生活に溶け込むようにするのだが……という話の流れ。

 いま書いていて思ったけれども、「フルメタルパニック」の相良宗介みたいだなと思ったりした。
 少し、一般人の常識からズレているところも似ている。そしてめちゃくちゃ強い。でも、憎めないところがある、そんな感じ。


 フルメタ懐かしいなぁ。2、3回は見返した気がする。全然タッチは違うのだけれども、10年も前の完成と、やはり「面白い」と感じる感覚、価値観は変わらないのだろうか。


どう面白かったか

 感想を書くというのは難しいことである。
 ゆうてみたら、「面白かった」以上。であるのだ。

 こねくりまわした言葉で表現などできるはずはない。まずは読め、ということになる。

 でも、私が「面白い」と思うストーリーは、やっぱり、伏線が見事に回収されていったり、スケールが徐々に大きくなっていく、という感じはある。

 伏線の回収というのも、ミステリーの謎、というだけじゃなくて、登場人物の行動のきっかけとなるエピソードや、理屈、考え方、などがストーリー進行の妨げにならない程度で語られていくとよい。

 あと、ベタ、かもしれないけれども、強い「敵」や、最初反目していた相手が味方になったり、すると熱い、って感じがする。

見える子ちゃんも面白い

 あと、前書いたか覚えていないけれども、見える子ちゃんという作品も面白い。
 これ、絵がカワイイ、ぐらいで読み始めた感じだったが、意外とギャグだけじゃなくて、ストーリーもしっかりしていた。続きが気になる。まとめ買いしちゃうとしたら、次はこの作品な気がする。でも、この作品は単価がやや高くて、ちょっと考えてしまっている。

あとがき

(かっこ書きである。10分ぐらいで、このぐらいは書けるけれども、すごーっく物足りない気持ちになる。自分の感情の1%も表現できていないのではないか。まぁその、そういうアウトプットをする方法として、0秒思考的な記述方式、があるわけであるけれども、読んでいて、読み返して、面白いかどうかは別の話だ。ただ、「メモ」的な意味はあると思う。今日この日(といってももう日付は変わってしまったが)ファブルという漫画を一気読みした(たぶん5時間以上費やしただろう)ことは、記録の意味はあると思う。本当は、先日内視鏡検査をやって、たぶん、3回目? ぐらいになるけれども、やっぱりものすごく苦しかったから、そのことを書こうかとも思ってはいた。いやほんと、苦しいっす。この苦しさがずっと続くなら死んだほうが良いって思いますね。ってほどである。外的な痛み、というよりも、体の中での痛みというか、嘔吐感がきつい。胃を空気で膨らませるときもきつい。これは慣れないな……。しかし、この苦しみを味わうと、何故か、身体をいたわろう、という気持ちにはなる。「身体」というものを強く認識する。「思考」が、考えることがとても大事と思われがちな世の中だけれども、やっぱり起点となるのは身体なんだな、と思う。空の思想だー、執着を捨てよー、我を滅せよ―と言っても、やっぱり痛いし、苦しいし、自分を捨てるのは難しいことだ。ゴウタマ氏が尊敬されるのは、何年も苦行で生死を彷徨うほどの修行も積んだうえでのお言葉であるからだ。単に、よいところの豪族のぼっちゃんが、思想を説いたとて、多くの人の心はうたなかったろう。いっぽうで、ゴウタマ氏のやっぱりすごいところは、出自的な意味でも恵まれているのは、酒池肉林(美味しい食べ物や美しい女性)も味わったうえで、「いややっぱり人って死ぬじゃん?」って思って出家したことである。貧乏童貞が、色欲は滑稽である……とか言っても、やっぱり説得力ない気がする。偏見だが。「誰が言ったか」というのは、何だか、真理から遠くて、あいまいで、不確かで気持ち悪い仕組みに思うけれども、同じことを目指すのでも言うのでも、「誰が」という点は無関係ではないと思う)








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