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離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「闘え」「この記事明るくないかもなぁ」

気が狂いそうになる

 半年前ほどは、とにかく、心を落ち着けるために書いていた。止めどなく生じる思考と感情。そして問い。何故? 何故? 何故? と、強迫観念のように襲ってくる。
 病気だ、と、断じてしまうのは簡単だ。確かに、病的な状態だろう。しかし、ここしばらく、1年、2年か分からないが、「健康」な状態など、何だかよく分からなくなってきている。

 ドイツの哲学者ハイデッガーは、人が死ぬべき存在であるということを忘れ、ただ日々を過ごすにかまけている人々を、ダス・マン(ただの人)と呼んだ。だがむしろ、そんな啓蒙を必要としない人こそが、「健康」なのである。確かに、大病を患い、いよいよ死期を悟った際に、これまでを後悔し、「ああ、俺は何と無駄に人生を過ごしてきたのだろう」と煩悶したとして、それが死ぬ1日前であれば幸せである。何故ならば、その人は、強烈ではあろうが、ただ1日に過ぎない苦悩により、生から解放されたのだ。
 一方で、メメント・モリと、死を思い、人生の意味を問い、実存的空虚感に苛まれて何十年も過ごした人が、ついに自らの生きる意味を見つけ、これまでの人生に光をもたらしたとして、それが死ぬ一日前だとしたら、その人生の大半は苦悶で終わったのだ。

 まさに。真理とはいかなる救いにもならない。終わりよければすべてよし、という諧謔があるとして、それを、人は何となく真理のように思うけれども、本当にそうか? 「結果じゃないよ、プロセス、過程が大事なんだよ」という教訓めいたものも、耳にしたことは無いだろうか?

 ご都合主義だ。いや、これは、アイロニーではありながら、別に否定をしようというわけではない。絶対的真理など存在しないのであれば、相対的な真理をその都度選択していくほかはないのである。

仕事と思考と言葉

 相対的な真理で満足していくというのは、日々の生活に実践と思考を繰り返し試しながら、感情と現実のフィードバックを調整していくことに他ならない。まわりくどく書いたが、「ふつーに生きる」ことである。しかしその、「フツー」について、「努力」という行為が要されることになったとき、様相は異なっていく。それが問題の一つ目。

 二つ目の問題は、相対的な生き方は、それが処世術として正しくありながら、生きることそれ自体の意味喪失を生じさせることである。人は無意識的に、日々の生活がますます良いものになっていくだろうことを信じている。いやそんなことはないよと、ネガティブなことしか口にできない人もいるだろうよ、と、そういった反論は当然ある。しかし、ますます一日一日を過ごすにあたり、どんどん悪い方向にしかいかないとしたら、人は積極的に自死を選び取るはずだ。「ますます良いものに」という表現では、お金がたまったり、女の子にもてたり、人から頼られたりと、そういった一般的な「良いこと」が想定されるけれども、そうではない。ふつーの暮らし、ご飯食べて寝て人と話して遊んでといった繰り返し、その繰り返しこそに、意義を、意味を感じ強固にしていくのが通常なのである(それが「ますます良いものに」という無意識的な感覚である)。
 それが、相対的な真理しか無いという実感が生じてしまったときには、その毎日の繰り返しは、もはや、単なる機械的な運動に貶められるのである。

明るい記事にしようという強迫

 さてここで記事が終わってしまったとき、読んだ人に、いったいどのような感慨を与えるのか、僕はそれを最近気にしてしまっている。これが、ブログとか、公開する日記におけるデメリットである。
 書くからには、読む人に、何か意味を伝えなければならない。共感が得られなくても構わない。ただ、その文章の、日本語としての意味は理解してもらわなければならない。そのための配慮は欠かしてはならない。
 しかしながら、そこにとらわれてしまうと、本来の、自己の表現という面が蔑ろにされかねないのである。

 半年前か、一年前か分からないが、そのころはもっと、他者にどう思われようが、自分の感覚を余すことなく、率直に忌憚なく躊躇なく書き続けようとしていた。おかげで、今読んで何を書いているのかよく分からなかったり、短すぎて理解不能のものも多くある。そういうのは躊躇わずにどんどん削除していこう。

 それはそうと、僕は、いったい、何を……。

 眠い。また、24時をあっというまに過ぎる。
 寝ても覚めても仕事のことばかり。

 終わりが見えない。頑張っても評価されるどころか、面倒なことを持ち込みやがってみたいなことになる。こういうときは適当にきりを付ける、しかし、結局あとになってもっと問題が大きくなって襲ってくるし、そもそも性格上、中途半端はあまり好きではないときたもんだ。

消えていきそうな感覚

 君の名は。じゃないが、誰か俺の名前を呼んでくれ。俺は誰だ? 俺は何をしている? 俺はどこにいる?

 俺とはなんだ?

 神経症、ノイローゼの人と健康な人との違いの一つに、明証感情がある。明証……何かを、正しいと感じる心だ。例えば、潔癖症で手を洗っても洗っても汚れていると手の皮が擦り剝けるまで洗い続ける人がいたとして、その人は、「綺麗になった」という感情を抱けないのだ。だから、いつまでたっても、汚れている、汚いとして、むしろ皮膚が破けて血が出て逆に衛生的じゃなくなっても、やめることができないのである。

 神経症や精神病は病気で、健常な人からすれば理解に苦しむ場合があるが、ただ、現実はどうであるとして、後ろから誰かがついてきているという感覚が本当に自分の中であるように思われるならば、そりゃーやっぱりパニックになったり、落ち着けなくなることだろう。その人に、口で単純に、「いや誰もいないよ」「もう十分きれいになったよ」といったところで、「いやだってホントに誰かいるんだもん!」と「実感」していたら、恐怖は取り除けないだろう。

 だから、俺の病気、……何だかもう、何に対してもやる気がでない、モチベーションがあがらない状況において、「頑張れ頑張れ!」とか、「十分やったよ! ゆっくりやすみな!」といったところで、あまり意味はなさないのである。

 ので、僕は、闘う。

自分との闘い

 人生と闘う。無意味感と闘う。自分と闘う。

 その方法は、ルーチンをこなすこと。
 もう一つは、書くこと。

 くっそ、めちゃくちゃ、わかりやすい文章を書いてやりたい。俺のこの、どうしようもなく疲れて、不安で、やる気の出ない、くそみたいな感覚を、「えー童貞? キモーイ! 童貞なんて小学生までだよね!」とか言ってるキャピキャピの女子高生にも分かるぐらい簡潔に表現したい。



 ……。

 ほーら、きたぞきたぞ! 分かりやすいって何? 面白いって何? ポジティブって何? 笑うって何? 感情って何? 自分って何? 生きる意味って何? 何、何? 何??

 これを、ほわいほわい病という。

 これに罹患すると、何故何故という感情に思考の大半を奪われ、現実的行動方策が取れなくなり、結果的に無気力状態になっていく。


(治療方法は確立されていないが、日課をこなしたり身体を動かしたり何か思考をあまり必要としない単純作業を行ったり、いっそ逆説志向にして、何故と生じることを余すことなく全部書き出してやると、快方に向かうことがまれにある)

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今日の一言「小説で泣いたことあったっけ」

プラネタリアン

planetarian~ちいさなほしのゆめ~

 を視聴。全然予定に無かったし、そもそも、第5話の最終回からみ始めた。
 第5話で、ストーリーも何も分からないのに、泣いてしまった。
 自分は、この、ロボットとか、アンドロイドとか、人工知能とか、それ系の話に弱いんだなぁ。
 音楽も良かった。

 クラナドは名作と聞いているが、絵柄が好みじゃなくて、keyというアニメーション(? ゲーム会社?)会社が手掛けているということで、絵柄が好みじゃないか、と思ったけれど、そんなことはなかった。
 絵柄が好みじゃなくて敬遠していたので、すっかりハマってしまったのは、ジョジョとか、他にも確かあった気がする。(段々それが良くなってくる)

 同じロボット(アンドロイド)のジャンルとして、「イヴの時間」も結構面白かった気がする。また見直してみようかな。

感情もどきとはいえ受け取るのは人間である

 いやー、VRとか、流行っているそうな。VR彼女とか、ヴァーチャルリアリティ世界の女の子とイチャイチャできるのである(たぶん)。
 アイボもそうだが、ペッパーくんとかも、個人で買えるらしい。

 プログラミングされたロボットと、人工知能(AI:アーティフィシャル・インテリジェンス)との違いを、簡単に表現してみよう。
 まず、人型をしているかどうか、というのは関係ない。アンドロイド、というと、既にケータイ端末のOS(プラットフォーム)の意味で使われることが多くなってしまったが、人型のロボットが、アンドロイドと呼ばれる。プラネタリアンのプラネタリウム案内ロボットゆめみさんも、アンドロイドと言ってもよいわけだ。

 広い意味(包括する意味)では、ロボットといってしまえば、人工知能も含まれることになる。ロボットとは、人の代わりに作業を行う、自律した機械の総称である。その機械をどのように動かすか、という方法が、プログラムなのか、人工知能なのかの違いとなる。

 では、プログラムと人工知能の違いは何か? 広い意味(包括する意味)では、プログラムといってしまえば、人工知能も含まれることになるだろう。

 結局どういうことだ? 図にしてみた。



 制御装置(プログラム)において、ノイマン型と、新しい言葉を使ってしまったけれども、いわゆる普通のコンピュータの制御方式である。

人工知能との違い

 ノイマン型のコンピュータと、人工知能の違いについては、その構築原理の違いである。
 人工知能の特徴は、人間の脳と同様の仕組み、ニューラルネットワークにある。

 ニューラルネットワークとは、複数のインプットが同時多発的に関係することでアウトプットを成す仕組みである。それによって、複雑な、思考のようなものをロボットにもできるようにしようという試みである。

 もう一つ人工知能の特徴は、自己学習である。この学習機能の進化、深化が、まさに今後、アンドロイドから、感情を得られるようになるかどうかが肝になってくると、僕は思っている。

(※上の図を含めて、特に何か参照して作成しているわけではなく、単に僕の頭の中のアウトプットに過ぎない点に注意願います。いないと思いますが、万が一にも何かに引用するのは危険なのでやめた方がいいと思います。逆に、何か決定的な認識違いがあったらご指摘ください。精緻さというよりは、概念的な誤りは速やかに訂正すべきといつも思っております。)

ロボットで何故感動するのか?

 介護施設などで、人型をしたロボットが導入されることがあるという。恐らく、近い将来、見かけ上は、人間と区別がつかないような精密なロボット(アンドロイド)がつくられるだろうと思う。(ここで「不気味の谷」という話は必ず出てくるが、表情の動きといった面からも、これは乗り越えることができると思う。)

 ただし、その外見上の問題が解決されたとしても、なお、ロボットと人間とは、決定的な隔たりがある。
 確かに、今、音声認識システムの精緻さはすげーなと思う。シリさんは使ったこと無いけれど、グーグル検索においても、人目をはばからなければ大抵の検索ワードは、音声でひろってくれる。

 ただ、LINEで有名な、女子高生AI「りんな」も、「ルーチン感」が大きい。
 人間とロボットの違いは、その「不確実性」にある。同じ言葉を発しても、受け取り方が全く違ったり、そのときの気分によって、レスポンスが異なることもあるだろう。

 当たり前だ、所詮は、プログラムされたことしか行えない、話せないのだ。


 しかし、その「所詮プログラム」を超えて、そのロボットの行動が、「感情」として認識できたとき、それはもはや、人間が与える感動よりもより巨大な感動を与えるのである。
 それは、純粋性という理由である。

感情の純粋性

 偽りの感情があるというわけではないが、しかし、尊きボランティア活動であっても、そこに「自己実現」だとか、「打算」的な思いが発生していることは、否定できないことである。
 すぐさま言うべきは、その、「自分の利益」(ここでいう利益は、非常に広い概念でのものであり、決して金銭的なものだけを指すのではない)が、悪いことではないのである。ボランティアなんて偽善だぜ、とかいって、家でテレビみてるよりは、災害現場などに足を運び活動するということは、非常に尊いことである(※)。

 しかし、敢えて、サイコパス的なことを書けば、「純粋な自己犠牲」など、存在しない、と僕は思っている。
 親が子を守るために身を犠牲にするという事実が無いということではない。恋人をかばってトラックにひかれることが、漫画の世界以外に起こらないということではない。
 だが、その行為は、包括的な自分の意志だと思うのだ。自己中心的だと思うのだ、思ってしまうのだ。自分の命を、純粋に天秤にかけているのではない。自分の命と、「守りたい人」+「自己実現(守りたいと思う自分の気持ち)」との比較なのだと思うのだ。

 この考えに取りつかれていることは、「病気」と言っていいだろう。治療するべきだと思う。だからこそ、敢えて表現している。

 上の比較においての、「自己実現」というのは、例えば、「守りたい対象」を失った先の自分の人生が想像できない、とか、そういうのも含まれる。
 献身とか、奉仕とか、自己犠牲とかが、時に美しく語られ、感動を思わせるのは、逆にそういった状況や行為がレアケースだからの現れともいえる。

 繰り返すが、何らかの行為に、自己実現や自分の利益というのが含まれるのは、ダメなことではない。
 これを否定し始めると、自分を捨てて他者に尽くすことが正義であるといった、某全体主義国家みたいになっていくだろう。他者と協力することや、仲良くすること、尊重すること、助け合うことは大事だ、間違いない、ただ、その行為の前提に、「自分」があることについて、否定してはならないのではないか、ということを言いたいだけだ。


※邪魔になったり、求められていないことをしたり、いらないものを送りつけたり、そういったマイナスなことになる場合もあるから、本当に何をすべきは熟慮するべきであるが、それでも、何か行動を起こそうとすることは重要なことだし、賞賛すべきことである。

ロボットの感情とは

 人間の行為には、必ず、「自分」というものが介在することについて、ここまで表現したつもりである。(当たり前のことである、行為の主体はあくまでも自分自身でしかありえない。もっとも、洗脳されたり強制された自己犠牲というものは、ある意味「自分」が存在しない純粋な行為といえるかもしれないが、そんなもの言うに及ばない邪悪である)

 しかし、ロボットの行為には、その「自分」にあたるものが感じさせられない、いわば、純粋な行為そのものである。

 だから、この時点においては、ロボットは、「モノ」と同様である。

 話を進める順番が間違っているけれども、僕はさらに、ロボットに「感情」は、無い、と思っている。ここで、その「感情」とは何か、ということについて、これまで記事を書いてこなかったことに少しばかり後悔がある。

 しかし、長くなってしまったので、今回はここまで。


 かなり表現エラーが多い記事になってしまった。しかし、一回書いておかないと、修正作業もできないほど、この問題は根深い。自分の感覚や思考を、できる限り齟齬の無いように表現するというのは、やっぱりかなり難しいなと思わざるをえない。

(そもそも、人間の行為すべて「打算」みたいな表現になってしまった時点で、上手く表現できていない。そういうことが言いたいんじゃないんだけど……これらの問題については、これまでの蓄積が足りな過ぎて、上手く表現できない。)

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今日の一言「失くしたことを後悔しているうちに時間もなくしている」

高価な電化製品をなくした

 最近、モノをなくすのは2度目である。一つは見つかってほっと一安心したが、今度は手がかりが全くない。いつ落としたかも不明。これは、ダメかも分らんね……。

 大事なものをなくしてしまうと、何だか心が落ち着かなくなる。不安感で、何か他のことをする気がなくなってしまう。

 だが、落ち着こう。落ち着くときは、息を深く、長く吐くのが、副交感神経か交感神経だかどちらかを刺激して、リラックスすることができる。

 それだけでは、到底落ち着くことはできない。しからば、考えてみる。「なくしてしまった……どうしよう」と悔やんでいる時間、それはどうにも無駄な時間じゃあるまいか。何故なら、そもそも、失くしたことに気づかないうちは、そのことで全然思い悩むことはなかったのである。ふと、気づいた瞬間から、喪失感や焦燥感にとらわれはじめたわけだ。


 実のところ、スマホを、置き忘れたことも入れたら、これで3度目になる。そのときはすぐに気付くことができたから見つかったけれども、最近いろいろ抜けてしまっている。

逆説志向

 あれを忘れた、これを忘れた、が繰り返されると、そもそも、いろんなことを忘れてしまっていることについて、強迫観念が生じてくることもある。

 でも、逆に考えてみる。これが、財布とか、会社のIDカードとかじゃなくて良かった。持ち歩くことが無いが、個人情報を含むUSBとかなくしたら、本当に洒落にならない。
 それと比べたら、大した問題じゃあない。効果と言っても、1~2万程度の損失だろう。

 もう一つ、それでも、強迫観念に襲われるのであれば、逆説志向を試すのである。

 逆説志向とは、「もういっそ、できる限り本気で全部鞄ごと忘れてしまおう!」「預貯金通帳をなくしてやろう!」と思ってみるのである。

「こうじゃないか、ああじゃないか」と、不安や強迫観念に陥って、現実的な行動が何一つできなくなりはじめたら、逆に、その強迫観念等の根本について、むしろやってやるぞと、できる限り激しく、公衆の面前でやり遂げてみるぞと、反転した考え方を取るのである。

 それを真剣にやろうと思えば思うほど、「いやいや、カバンごと忘れるなんて無理でしょ(笑)」と、逆に、笑いすらこみ上げてくるのである。これがユーモアという。

目標の達成状況

 さて話を変えよう。2月末までの目標を立てたのが、1月末あたりだったと思う。気づけば、もう2月中旬が終わり、2月末に突入している。はえええええ! 驚くばかりだ。
 どうしてこうも早いんだ。

 このペースで行くと、40歳、50歳、60歳とか、あっという間な気がする。

 モノをなくしたからと言って、うだうだ言ってる暇はないのだ。
 さて、目標とは何だったか。ヴィクトールさんの「人間とは何か」について、読了(音読完了)することである。
 進捗は、320ページほど。習慣目標に到達できていない。というか、習慣目標といいつつ、平日は何もできていない。いっそ、今のうちに、400ページぐらいまで進めようか。80ページ。1ページ2分くらいとすると、160分。約3時間。今、19時だから、22時までかかる。うわ……厳しいな……。

(ブログなんて書いてる場合じゃない)



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今日の一言「分かりやすい表現を心がけましょう」「回りくどい表現は思考の迷い」

お金と時間と仕事と節約

 いやぁ、今週も疲れたね。忙しかった。
 疲れたとか、忙しいとか、相対概念(対概念)じゃん? それを発することで、聴いた人にどんな反応を期待するの?

「大変だったね~。お疲れ様ー」「無理しないでね」「身体が一番大事だよ!」

 と言ってもらいたいのかというと、そういう分けではない。重要なのは、自己認識である。自分で自分の状態を理解する、客観的に判断するというために、行為である。
 自己を客観視? なにそれ? そんなこと可能なの? という哲学的命題はわきにおいておこう。

 コメントを沢山頂き、返信したいものの、そもそも、今週は21時前に帰れた日がなかった気がする。一日3時間の残業とすると、今検討されている上限の60時間にちょうどいくかどうか、といったところだろう。
 逆に、言えば、まぁ多くの会社はそれぐらいが普通なのだ、ということなのかもしれない。もっと残業が常態化しているところもあることだろう。


 ……と、この上の記事は、一体何を言いたいのだろう。何というか、分かりやすい文章なんてクソクラエ、じゃないが、仕事でも文章を取り扱うことが多いため、もう好き勝手書くことで、心を落ち着けたいのかもしれない。


 そう、そもそも、日記というものは、他者に見せることを前提としていない。あくまで、自分との対話、である。ブログ、となると、不特定多数の他者が想定されることになる。やはりブログは、「何か伝えたいこと」がなければ、「良いブログ」とは言えないのだろう。

資産運用と株

 株の取り引きをやってみようかという気持ちが、今のところは強まっている。
 確定拠出年金についても学んできた。節税効果を考えると、メリットはありそうである。問題は、60歳まで働き続けるか、60歳まで一切引き落としができなくても構わないのか、という点にありそうだ。

 そうなってくると、「価値観」とか人生プランというのに課題が格上げされるので、いまいち、決断と行動までに繋がっていない。

 それであれば、100万~300万程度の額から株でも遊びでやるという程度の気持ちでやる方が、よほど暇つぶしにはなりそうだ。
(確定拠出年金は、年額14万4千円となり、満期まで残り30年程度のため、432万円あればよい。その場合、節税効果は47万8千円となる。後は、元本保証型投資にするか、株にするかインデックスにするかで、損益がどれだけ発生するかによる。)


 今、暇つぶし、という言葉が出たが、そもそも、暇などないのではなかったか?
 そう、仕事が忙しくて暇がないのである。が、忙しいとはなんだ? 本当に、生産性をあげて、無駄な時間をカットして、人に任せて、断って減らして、などなど、対策をすればもっと時間をつくれるのではないか?

 忙しいという漢字は、心をうしなうと書くなどと、もう耳にタコができるような表現があるけれども、これは言い当てているなぁと思う。自分の中で、心で、忙しいなぁと、余裕が無いなぁと思うから、そういう言葉が発せられるのだ。

時間の効率化

 時間の効率化のための秘訣は、今費やしている時間のことを考えるよりも、まずは、「何に時間を費やすべきか」を考えることにある。

 整理整頓も、節約も、全く同じ原理だが、成功させるポイントは、「減らす」ということよりも、「何に使うか」を明確にすることである。

 整理整頓は、いるものがはっきりすれば、自ずといらないものが明確になる。要らないものであれば、捨てることも容易である。整理されて必要なものが絞られれば、整頓(カテゴライズ、並べ替えなど、使いやすいようにすること)も容易になる。

 お金の節約もそうだ。節約グッズとか、セミナーに参加するとか、節約のためにお金を使っては本末転倒である(一度や二度ぐらいならよいだろうが)。大事なのは、自分は、何にお金を使いたいのか、ということである。


 ではその、お金と、時間という、100人に聞けば、100人が「大事だ」というものについて、何に使用するのか明確にするのは、何だろうか?

 価値観だ。

価値観とは?

 価値観とは何か、先日図をかいてみたので復習してみよう。




 信仰と、論理的納得というキーワードが出てきた。今回、これについては特段触れないが、実感という、信仰と論理的納得を包括する概念は思い出してみよう。

 自分は、何があったら嫌なのか、何をしたら嬉しいのか、誰となら一緒にいたいのか、どういう人は倦厭するのか、自分の感覚、気持ちを思い起こしてみよう。

 そのときどきの条件や、状態によって自分の中に生じる判断のようなものが、価値観の正体である。

創作は力なり

 それで、多分、僕は、きっと……と、歯切れが悪いが、何か創ることが好きなんだと思う。
 先日、あるアマチュアの人のつくった曲を聴いて、あー、すごい良いなと思って、僕もまた作曲をしたくなった。

 よく僕の中で生じる悪い癖は、オンラインゲーム症候群と勝手に読んでいるやつで、つまりすごい人(ハイジンさんたち)が多すぎると、やる気が損なわれていくのである。けれども、いくら拙いものでも、誰からもみてもらえなくても、それでも、何か創り出すという、その行為自体がとっても大事なんだって、そう思う。
(自己満足だとか、もっと時間の有効活用しなとか、リアルな交友関係を広げなとか、批判はたくさん可能だが)

 といったところで、今回の記事は終わり。最近予約投稿ばかりであるが、平日に書けないから仕方がない。ただ、暇な帰り道に自分の記事を読むのは何かよい。自分の記事だから、その時の気分によって合わなかったりもするけれども、それでも何らか興味がある話題だったりするから面白いし、数日間でも経過してしまうと、もはや書いているときの気分が殆ど分からないので、ほぼ他人の記事みたいである。そうすると、「あー分かる分かる! あはは、こんな奴もいるんだな~」みたいな疑似共感体験みたいな状態になるのだ! やばい、こんなこと書いていて、かなり危険な奴な気がしてきたぞ! しかし、このブログは100%裏表の無い関ペきな自己表現であるべきだ! でなければ意味がない、取り繕った言葉なんてフツーのブログでやってろ! バーカバーカ!

 そして、上のような変態的なことを書いていて思いだすのは、先日頂いたコメントの中の、主観と客観に関連するものである。
 今、「100%裏表無い自己」という表現を使ったが、果たして、そんなこと「事実として」できているのか、いやそんなこと可能なのか? という問いが発生する。

アイデンティティとエポケー

 まず一つ。俺は、俺のことを、100%理解できているのか?
 二つ。文章表現の限界という問題は置いておいて、100%語る俺自身の言葉について、他者がそれを100%理解できるのか? という理解可能性の問題。

 結論は、まぁ無理だろう、となる。

 ただ、ここで、無理だからといって、取り繕ったり、自己を飾って理想的なものを演じる、というのは、断じて拒絶する。
 その理由は今後書いてみよう。いや、簡単に今書いてしまえば、自己同一性の崩壊につながるからだ。自己(自我)が欲求する自分自身について、理性(超自我)によるコントロールが強くなればなるほど、「俺じゃない感」「ここじゃない感」が強まってしまうのである。それはよくない。神経症や精神病になる可能性がある。

 だから、大事なのは、「100%の俺自身だぜ」と自分自身で思うそのレベルを維持するということである。そして、やや強引に関連付けて長期記憶にしようと画策すれば、これが「現象学」的な考え方だ。
 つまり、100%の自分(=客観)、なんてものは存在しないが(というよりも、だからこそ「エポケー」(判断停止)をして)、100%の自分という認識を成り立たせている条件を考え、感じることである(=本質直観)。


 キリッ!(決まったぜ!) みたいに、書いたところで、これも僕の悪い癖だけれども、「いやいや、難しい哲学的概念を自分の思考体系と結び付けられて、それが何だっての? 何に役に立ったの? 何となく気分よかったってだけ?」と思うのだけれども、いや、その思うのは「実感」だから無視はできないけれども、一つ、無理やりだけど意味を書いてみよう。
 そうさな……ええと、そうやって、誰かが考えた思考体系(哲学)と同じである、と主張することによって、より多くの人への共感可能性(≒理解可能性)に繋げることができる。それによって、もっと、深い思考になったり、本当に役に立つ方針や方策や行動に結び付く可能性だってあることだろう。たぶん。

近況メモ

 ここからは消化試合みたいな感じ。

◇ルーチンについて。

 ルーチンは、何回か中断してしまっている。しかし、これは、自分自身を褒めてあげたいというか、今までの失敗をよく反映できていると感心したことだが、

「免除規定」

 これは、非常に有用であった。
 言い換えると、「言い訳」なのだけれども、実際問題、日課ができない日があっても、免除規定に合致していれば、「継続」が認められるのである。そうなると、モチベーションが維持できる。これは習慣づけが中々上手くできなくて困っている人にもお勧めできそうだ。

 120日を超え、約4か月というわけである。おー、あっというまだなぁ。地味に、ブログにカウントアップツールを加えたのも良かったかもしれない。PC版でないと表示されないけど。

◇けもフレについて。

 けものフレンズ観て、ちょっとこれ、面白かった。ニコニコ動画では1話しかみれないけれど。
 ある精神科医さんもオススメしていたから気になっていたら、他の方のブログ読んでいて、やっぱり「けもふれ」の話題がでていて、最初つまんねーと思ったけど、何だか底知れない面白さが見えてきた、みたいな感想が書かれていて、より一層気になり始めたのである。

 うん、それで、いいね、なんか、絵柄はそんなに好みでもないけれども、紙飛行機を作って敵の目をそらして危機を救った、かばんちゃんに対して、
「すごーい!」
 を連発してたサーバルちゃんが良かった。
「へーきへーき! フレンズによって得意なこと違うから」なんてのも、何かいいなぁ。


(でも心疲れた僕(かっこ笑い)がこれを面白いと思うのは仕方がないとして、この作品がめちゃヒットしているというのは、大丈夫ですか皆さん、お疲れではないですか?)

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人間とは何か P.3~19 要約

精神療法と医術と技術

 精神療法にとって、「健康とは何か?」という問いに明確に答えるのは難しい。
 精神療法は、医師の人格によるものと、技術(〇〇法といった法則の体系)によるもの、両方の極を交互に選択、し、計算に入れなければならない。
 これは、安易な折衷主義ではない。
精神療法はもはや排他的な要求をしてはならないということである。われわれは、一つの絶対的真理を直接理解することができない以上、相対的な真理を相互に修正することで満足しなければならないのである。それどころか、一面性への勇気を奮い起こさねばならない。――P.6
 上の引用について、少し解釈というか、感想を入れたい。

 この、一面性という語は、この後も何度もでてきて、「唯一性と一回性」という表現に変遷していくのだけれども、非常に大事な観点である。
 ここでの例として、ある交響曲のフルート奏者が持ち出される。フルート奏者は、オーケストラの一部、一面でしかないが、フルート奏者がそれを超えて他の楽器を演奏することはできないし、求められるものではない。ただし、複雑なタペストリー(織物)の一部が、無くてはならないように、一部であること、一面的であることは、決して恐れるものでも無駄でもないのである。

 遠藤浩紀さんの「EDEN」という作品で、主人公のエリヤくんが、「僕は世界の欠片に過ぎない。けれども、僕が死んだら、世界は、世界の一部を確実に失うんだ」なんて思いにふける。

 そうは言っても、やっぱり、一部だとか、欠片だとかいうのは、大そう心もとないものである。子どもの頃はみな、世界が自分を中心に回っていると思っていたり、大きな夢を抱いていたり、することだろう。それが、大人(※)へと向かっていくにつれて、段々「現実」なんてものに打ちひしがれていく。その中で、一部だとか欠片に過ぎない、という思いが助長されていくこともある。

 それでも、フランクルさんは、
「一面性への勇気を奮い起こさねばならない」
 と言うのである。


※「大人」という言葉も嫌いな言葉の一つである。昨今、「高齢者」という定義も見直されようとしている。成人=20歳というのはまだいいが、大人という言葉は甚だ曖昧であろう。モラトリアム期が30歳までとされる見解もあるという。じゃあ大人って何だろうね。ただし、大人という言葉を今後も使う必要性は感じないが、「責任」というキーワードは、重要になるように思われる。

実存的空虚感

 20世紀という時代から、精神医学会に新たな問題が立ち現れてきたという。
「私たちが今経験しているような危機の時代においては、意志はどうしても哲学に専心しなければなりません。私たちの時代の最大の病は、目標喪失、退屈、意味と目的の欠如なのであります」――P.9~10「あるアメリカの大学教授の講演」
 多くの患者たちは、自分の人生の意味を疑っているか、意味を見出すことについて絶望しているという。
 これを、「実存的空虚感」とフランクルさんは言う。
 そして、これが神経症の症状として現れることについて、精神因性神経症(noogene Neurose)というのである。

 ここで、素人はつまづくのであるが、「精神因性以外に、何があるの?」と思うのである。それは、「身体因性」「心因性」のことであるが、「身体因性」というのは、脳機能や内分泌機能の障害によるものとして理解できたとして、「心因性」というのが難しい。ひとまず現時点では、「精神因性」と「心因性」の区別としては、「心因性」については、ある原因(例えばトラウマ的な、直接的原因になるような事象が影響している場合)によるもの、としておこうと思う。
(逆に、「精神因性」は、特段直接的な原因が見いだせないものという理解をする、ということである)

 さて、その精神因性神経症に対して必要なのは、「意味と価値への人間の方向づけ」であるという。
 これについては、「患者に多大な負担を強いるのではないか」との批判など多く受けるだろうとフランクルさん自身は述べている。しかしそうはいっても、トランキライザー(抗不安剤)で病状を取り除いたり、心理学主義的に、意味とか価値を求める人間の心性というものを、「防衛機制ないしは二次的な合理化に過ぎない」などということはできないだろう、ということだ。少なくとも私はそんなことのために人生を賭けたくないと。

 さらに、実存的空虚感は、社会的な、集団的な影響も考えられる。
今日、人間は本能の乏しさに苦しんでいるだけでなく、伝統の喪失にも苦しんでいる。今ではもはや、本能は人間に何をしなければならないかを告げず、また伝統も人間に何をなすべきかを告げることがなくなっている。やがて人間は何をしたいのかもわからなくなり、ただ他の人々のするとおりにするだけになるであろう。つまり、画一主義(コンフォーミズム)に陥ってしまうのである。――P.12~13

実存分析とロゴセラピー

 と、いうわけで、新しい精神療法として、「実存分析」、「ロゴセラピー」が必要になっている。この「人間とは何か」においては、実存分析とロゴセラピーについての、解説がなされている、というわけである。

 ここまで、「はじめに」の要約だけれども、多分に僕の恣意的なまとめになっていることを、ここで書いておこう。最近書いていることであるけれども、あくまで、僕の目的の第一義は、僕自身の救済である。ただ、それは、まさしくこのロゴセラピー的な内容とも関連することになるが、「僕自身の救済」はそれだけで完結するものではなく、他者との連関から考えられねばならないということが問題を複雑かつ大きくさせているわけである。
 即ち、「僕自身の救済は、まさに、それが他者の救済へと繋がる時においてはじめてなされる」という点である。

 陽明学の知行合一とかプラグマティズムの実践主義とか、そんな考え方を持ち出すまでもなく、僕が成したことは何らかの「意味」が無ければならない。そしてその、意味を見出すための方策、方法論が、ロゴセラピーなのである(と、僕は思った、というに過ぎないが。はて、ロゴセラピー協会の人が読んだらどう思うのだろうか……。ただ、まだ300ページぐらいで、全部読み終わっていない状態なのでお許し願いたいところ)。


(本の内容に沿って書くというのは、大学時代を思い出すなぁ。最近、ほぼノンストップリアルタイム自動記述で書いていたから楽だったけれども、このまとめながら、自分の考えと本の内容を書き分けていく作業は結構苦痛である。ただ、一回音読しているためか、内容自体はパラパラ読んで思い出せる点はいい感じ。)

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