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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「あと2回ぐらいかな」

仕事が楽しくないからいけないのか

 前回は、「なるべき存在」になるために、その概念の中身について考えてみたいと書いた。

 うーん。
 良いものを生み出したい。
 単純にそういうことなのだ。
 でもどっか冷めていて。フリーターを続けながら、「いつかビックなミュージシャンになってやる」って40歳50歳過ぎてもいってたり、小さな閑古鳥のなくラーメン屋で働く人が「生きる意味とは……」なんて考えてるのは滑稽だとも思う。
 いや、さっき書いたように、他者がどうであるかは関係ないのだけれども、僕自身はそれはなんか違うと思っている。
 金がない金がない言いながらパチンコに多額をつぎ込む人とか、信じられない。
 デブってバカにされるのが嫌だって言いながら、間食ケーキを頬張る人とか信じられない。
 ストイックであることを否定しない。
 努力することを否定しない。
 継続することを否定しない。
 平坦な人生などない。
 苦労のない人生などない。
 楽な人生などない。
 といった前提で、俺は一体全体、何をやればいいんだ? ということを常に考えているのである。
 仕事も頑張る。自分のパフォーマンスを超えたこともやらなきゃと思う。成長しようとも思う。
 けれども、じゃあ、仕事以外のことを考えるのは「余計なこと」かというと、そうではないし。
 ゆとりがなければ、業務の改善なども行えない。

愚痴言って酒飲んで

 考えない、という手もある。
 上司や客の愚痴を言って、飲み屋に行ってうまい酒を飲んで、飯を食って、寝て。
 朝起きて、あーめんどくせえなぁといいながら会社にいて働いて、帰って酒飲んで、寝る。
 もしくは、死んだように、早く時間が過ぎることだけを考えて、テキトーに仕事して、給料もらって、副業しつつ老後の生活資金を計算しながら生きていく。
 それらもありだろう、し、多くはそんな感じじゃなかろうか。
 が。そんな「大人」に僕は憧れない。
「忙しいことを認めよう」と先日書いたので、もう一つ認めておこう。
 僕は、中・高校生ぐらいのときから、ほんと、何で生きているのかさっぱり分からなかった。死にたいって毎晩思って泣いていた時期もあった。泣きつかれて、もう一回だけ頑張ってやるって思って、国公立の大学に入ることはできた。頑張ってその程度かって感じでもあるが、とりあえず、頑張ったってことにしよう。
 なんつーか。
 基本、人生つまんなかったのである。
 こんなこと書くと、せっかく育ててくれた親に大変申し訳なくなるので、言わないし(ああ、この前の正月は少し言っちゃったかなぁ)、考えないようにもしているが、とりあえず、「くっそつまんねー人生だった」ってことを認めておこう。
 そういう蓄積があるから、僕は、上に前提として「頑張ることは否定しない」と書きつつも、頑張ることはさっぱり無意味であるとも同時に思っている。
 いやまぁ、そこですら頑張らなかったら、ダメブロ界の人たちのように、ずーっと人生呪いながら、愚痴を言いながら生きていたかもしれない。紙一重である。


(かっこ書きである。次回2/14(水)「いい加減自分の人生を生きろ」。今回は、自分の価値観を振り返り、過去の体験(というか、その自己評価)を書いた。これだけで終わったら何にもならん。愚痴にすらなっていない。次回は、今回の内容を前提として、「やっぱり人生楽しまなきゃダメだろ」って方向にもっていく、たぶん)

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今日の一言「1000字投稿連載は水曜更新するとして、ちょっと休憩」「休憩でブログ書くって……」

司星者セイン読了

 ベニー松山さんという方の小説を読み終える。ううむ、巧い。この方の、「風よ。竜に届いているか」も読んで、表現の上手さに舌を巻いたのであった。
 んで、司星者セインは、2000年刊行である。そして、あとがきを読んで知ったけど、2000年の時に作者は33歳ぐらいだったようだ。

 ほぼ、20年前である。
 今の僕と同年代である。

 プロと比べてもしゃーないが、あと数年研鑽を積んでも、とても追いつけそうになさそうである。
 この作品に、「貌狩りのアルゴー」という敵が登場するのであるが、とっても敵である。やることなすこと非道である。残虐だ。むかつく奴である。「倒さねばならない敵」感がひしひし伝わってくる。

 ある方が、物語には「困難」が必要だと書かれていたが、これは真に思う。
 ひだまりスケッチ的な日常ほのぼの系の作品であっても、「困難」はある。主人公のゆのっちは、文化祭の出展物を仕上げようと努力を重ね、そして一つの作品を完成させる。見物人たちからは一定の評価を得た。だが、それはまだ彼女の納得いく作品ではなかった。彼女は作品を満足いくものにできなかった悔しさから、あることを計画する……。
 と、その困難が客観的に大きかろうがどうだろうが、当人にとっての困難性がより感情移入できるものであれば、それは物語として感動を与えるのである。

 それはそうと、司星者セインは二巻買うか。でもこれ、ある方いわく、完結しなさそうらしいんだよなぁ。

困難とは

 さて、僕にとって困難って何だろうか?
 いっつも、このブログは、自分のことを書き始める。主観的である。

 けれども、今回のタイトル「面白い文章について考える」であるけれども、「主観的」な文章を最近欲している。

 ある方が、「何を見るか、するかじゃなくて、最終的には【誰とするか】だよ」と言っていた。
 そのときは、僕は本能的に「否」と思った。しかし、冷静に考えてみると、それはそれで適切な表現に思った。
 もちろん、その根本的にすべき対象は重要である。
 でも、自分で感じられることには限界がある。
 だから、他者のレビューなるものが重要になる。

 といったことを書きたいと思ったのだけれども、なんか違うな。筆がのらない。

文章に求めること

 要するに、一般論を書いている文章は面白くないのである。
「こうするのが大切だよー!」
 というのはいいが、それを、お前はどう思ってるんだ、ということを問いたい。

 朝早く起きて活動した方が効率がよいといわれる。
 まぁそれはそうなのかもしれない。でもそれに対して、お前はどう思っているんだ? どう行動しているんだ? それを書いてほしい。

 なんかのセミナーに参加した。こういう業績をあげた偉い人がこんなことを言っていた。ほうなるほど、で? お前はそれをどう感じて、どう思って、どうしようとして、実際に1週間後、1か月後、1年後に何をしたのか?
 そういうのを書いてほしい。

世の中をシンプルに生きる

 世の中なめちゃあいかんと思う。

 複雑な自然体系に、科学・技術、法律、金融、思想……まぁすごい。

 すごいけど、真理の探究なんてしちゃあいけない気がする。

 神がいるか、いないか、そんな単純なことすら、長い歴史の中で決着がつかないことである。

 結局、言葉では幸せは導けなかったのである。そして、これからもそうだろう。



 そうした、「評価」が曖昧な世界において、いかに生きるべきだろうか。

 こういった不透明な時代において、「お金」という価値観が信奉されるのは無理もない。わかりやすいのだ。会社のために献身しても、ふと上司が変わったとたんにこれまでの業績がなかったことにされるかもしれない。お客様のためにサービスしてきても、商品が売れなきゃ倒産する。

 やっぱりお金だ。

 お金があるから取引ができる。お金があるから信用できる。お金があるから生きていける。

理不尽さを憎む

 バカバカしいほどシンプルだが、これらは、「生きる」ことが前提とされている。

 いやまぁ当たり前だ。人間は、欲望と身体に規定された存在である。そしてその欲望は、生きたい・知りたい・仲間になりたいという本能を有している。

 

 ……ちょっとリセットしよう。なんか、久しぶりだと文章に詰まる。とりあえず、二本目のビールをあける。

 あーこの、プシュッという音がいいよなぁ。きっとこの感覚は、10年前の俺にはとても分からなかったろう。

 なんだっけ? そう、困難だ。

 俺、なんか困難あるんだろうか?
 いや、そりゃ、人並みにはある。当たり前だ、凡人だもの。

 しかしだ、それらの困難が、じゃあ、絶対解決しなきゃいけないかっていうとそうじゃないし、死ぬわけでもない。
 生と死が隣り合わせの時代や、身分制度が強固な時代では、理不尽な死を命じられることもあったろう。
 司星者セインを読んでよくわかったのは、俺は、理不尽な死ってのを、ものすごく悪だと、嫌悪するのだと、憎しみを抱くのだと分かった。残虐な部下たちのトップに君臨する魔女王アグナスの非道は客観的にはMAXなのだろうが、取り急ぎ苛立たせられたのはアルゴー氏の、老梟の化け物に部下に突撃を命じ、無意味な死を強要したところである。
 その前に、アルゴー氏の軍団は、罪もない人々の田舎の村を壊滅に追いやっている。女子供も容赦なく皆殺しである。それはそれでなんて酷いんだ……と思ったものだが、それ以上に、部下を駒のように扱い殺したところに苛立った。

 いや、結局、化け物には勝利したのだから、戦術的には、アルゴー氏の采配は正しかった。その意味では部下たちも決して無駄死になどではなかった。しかしそれでも、その非情な選択には憤りを思った。


 という、僕は、「理不尽さ」というのを強く憎んでいることが分かった。
 たいてい僕がイライラしているのは、その理不尽さである。その大きい小さいはあれど。小さいのはむしろ、「不公平感」といったものであったりするが。

なぜ生きることが必要か

 その、殺された人たち。
 無意味に死んでいった人たちに追悼の意を表す。

 あーしかし、「意味」なんて、とても主観的なものである。

 ガンに侵され、余命3か月と言われた人は、まだ幸せかもしれない。交通事故で一瞬にして命を落としたら、その人の生きてきた意味はいったいなんだったのだろうか。


 僕はまだ幸せである。こうやってブログを書いてから死ぬことができる。

 僕は、生きる意味を考え、道半ばで死んだ。――そういった意味は与えられる。誰から? 自分だ。だが、その自分はもうすでにこの世にはいない。それでも、僕は意味を求める、何故だろうか? なんてことを常に考えているから碌なことができないのである。



 ただ、道筋は、朧げな光を放って見えている。
 このように問い続けることで、僕はまだ、一歩か、半歩か、むしろ後退しているのかはわからないが、「動く」ことはできるのである。

  

面白いものに触れたい

 あー、なんか面白いもんないかなー。

 と、思う。

 それは、刹那的ではなくて、ずっと、永続的に光を放つようなもの。

 遊びでも仕事でもスポーツでも読書でもなんでもいいから、なんかないかなぁって思う。そして、たいていの人にとって、それは家族――特に子どもなんだろうなぁって思う。

 いやまぁ、自己愛が強い人は、自分を愛することでやってけるかもしれない。たぐいまれな才能があれば、その才能が活かせる場が、面白いものなんだろうって思う。

 自分の子供ってのは、それだけで特別だから価値があるのだ。
 特別な何かって、あんまし、人には、ない。

 いやまぁ、ふつーに生きることはそれだけでとても大事なことで、素晴らしいことで、感謝すべきことで、大切なことで、運が良いことで、ありがたいことである。

 俺はしかし、なんか、……。
 いや、じゃあ、家族をつくるためにがんばれって思うのだが、そもそも、「がんばれ」ない。気力が起きない。何もしたくない。何もしないのが、何もしていない時がむしろ幸せである。

 んじゃー、生きたくないんじゃない? ってすら思う。うむ。

 ってところでビールを三本目。



 プシュッ。カッ。

 うーんいい音だ。そして、キンキンに冷えてやがる。――うめぇ。

 そう。これもまた人生のよくある形態である。酒におぼれる図。
 仕事にも、家族にも、趣味にも恵まれなかったら、だいたい陥るのが、酒かギャンブルかである。

 まぁ、それはそれでありなんだろうと思う。アルコールが体に、頭にまわることで、思考がゆるやかになる。いやなことも、理不尽なことも、少しだけやわらぐ。
 いーんじゃね? それもまた。

 あったかい部屋と、好きな音楽とをながせたらもう最高のひとときじゃあないか。


 しかしこれは、アイドルや、ミュージシャンに熱狂するのとだいたい同じ構図である。

 
 対して。
 美しいものとは、やはり、愛情や、友情といったものなのではなかろうか。

 上には、理不尽な死を憎むと書いた。
 しかし、理不尽ではない、自ら望んだ、誰か自分以外のために命を投げ出すというのが、本当に大事なことなのではなかろうか?

 うしおととら、とか、からくりサーカスとか、その辺の自己犠牲感をうまく描いている気がする。

救ったものもまた死ぬ

 でも、そうはいっても、自分の命を投げ出してでも助けたいような何かって、本当にあるんだろうか?

 家族のように大事にしていた飼い犬を、トラックに轢かれそうになった瞬間体を張って守った。犬は助かった。守った飼い主は死んだ。

 こんなニュースが流れたら、きっと美談だとみんな思うだろう。
 一方で、アングラな口コミサイトなどでは、「飼い主バカだろ」といった書き込みも多くみられると思われる。

 まぁしかし、命とは等価交換みたいなもので、その飼い主が、妻も子供もいる状態なら、きっと「バカだろう」派が多いだろうが、一方、90歳の天涯孤独のおじいちゃんなら、「美談」派が多い気がする。

 でも、命って、そんなもんなんだろうか? 俺はなんか、そういった「自己犠牲」的な云々にも、なんか違和感がある。――というひょうげんをすると、おめーは、そういった「じぶんのいのち」より大切な何かをもってねーからそういうことを思うんだ。矮小なやっちゃな。と言われる。反論は、ない。


 でも俺は、そんなに、自分の命も大切と思うわけでもない。才能あるたくさんの人たちと比べたら、価値のない人間だ。でもだからといって、価値ある人に臓器提供する気もさらさらない。

具合が悪くなってくる

 うーむ、このあたりのことを書いていると、気分が悪くなるな。たんに酒のせいかもしれない。

 要するに、このあたりの、倫理観的なことは、書いたり、考えたりしないほうがよいのである。
 たいてい、小難しいことを考える奴は、モテない。

 そんな、金にもならないことを考えるぐらいなら、お金稼いで女の子にプレゼントしたほうがましである。――とかいておいて、おれは全くそう思っていない。

 袋小路だ。
 これ以上、新しいことを考えられそうもない。
 ああ、酒なんて飲まなければよかったか。

だからこそ物語が必要なんだこんちくしょうが!

 そしていきなりテンションが上がる。というか、狂ってくる。

 いやだからさ、グダグダいってねーで、行動し、積み上げて、研鑽しろってことだ。

 こう、グダグダ文章が物語として光るのは、ものすごくカッコよくて強い主人公が、時折見せる挫折の瞬間ぐらいである。
 年がら年中、ぐだぐだ、「僕って何」的に言ってるやつが、何言ってんだボケが、って話である。

 あー、なんやかんや、先週は、1,000字ぐらいは創作で書いた。なんとか、もっとちゃんと書く時間を取りたい。
 今年の目標は、なんといっても、「創作」なのである。にもかかわらず、俺は、些末事に(といっても仕事とかその他はずせないことではある。要するに、今年の目標以外のこと)時間を使っているのだろうか。


 ただ、一つ、物語は、今連載している奴ではないが、完成しそうな見込みがついた。プロットが、一応、自分で納得できたのである。――これなら、まぁ、書いていってもいいかなぁ、と思わせられた。

 なんつーか。

 自分で後から読んで、「面白いな」と思えるレベルのものじゃないと、正直書けないことが分かった。
 いやこれは、昔からそうだったのかもしれない。

 しかし、むかーしよりは、物語に触れる量が少しだけ増えたので――それと、人生に求めるものが増えたので――、物語に求めるものが格段に多くなっていっている。


 表現が稚拙だが、面白い物語しか書けないのである。

 え? 俺は、面白い物語を書けるのか? 否。そうではない。かけないから、書けていないのであるこれは、詰みではなかろうか。面白い物語しか書けない。しかし、自分では面白い物語を書けない。以上終了。


 ……。うわー! ちくしょう、どうしたらいいんだ。
 書くしかねえ。
 面白くなくても、書くしかねえ。
 書かないと、面白い物語は書けねえ。



 俺は別に、物語を書いて、それで生計を立てようと思ってるわけじゃあない。
 単に、俺自身が面白いと思える物語をかけるようになりたいのだ。人生で例えるなら、自給自足である。

 自分で野菜作って、畜産して、発電して生きていきたいのである。
 しかし、そのためには、自分の力不足がはんぱねええ。

 努力するしかなかろう。


(かっこ書きである。うーむ。だめだ。面白い文章が書けない。――だが、まぁ、仮にだ、この感覚で書いた文章が何かの役に立つのであれば、うれしいことである。まぁそういった感覚は傲慢なのであるけれども、8年前、2010年の記事など読めば、まぁ、書いておいてよかったのではなかろうかと思う。8年、か。長いようで短い。過去の自分は、まだ、自分がその先どういったイベントに出会うかを知らなかった。その先のイベントを知った今の自分が見れば、――その描いている文章に、字面以上の感慨を覚えるのである。この感覚は、「日記」という媒体の、その著者しか味わうことのできないものである。僕は、若い人に何ら人生訓なるものを授けるほど、できた人間ではないけれども、「日記」を書くということは勧めてもよいと思っている。もちろん、この日記とは、ブログのように公開を前提としなくてもよい。そして、巷にいわれるような「事象」を淡々と書くものではない。そうしたイベントの記述は、手帳にでも書いておけばよい。要するに、思考のプロセスの記述である。これ、大事。何に対して、何を、どのような順序で考え、感じるのか。それをメモしておくことが、重要に思う。少なくても、僕のように人生の迷子になってしまった人にとっては。――人生の迷子! これまた、20代で書くのと、30代で書くのは全く意味が違うだろう。いや良い意味では当然なくて、悪い意味で。深刻な意味で。いや、それはダメでしょう、といった意味で。ふむ、しかし、酔いがまわってくれば、それすらも呑み込んでやろう、という気にもなってくる。うぬぼれもさえもそれは才能、である)




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今日の一言「今後しばらく毎週水曜日更新予定とする」

忙しいことを認めた後で

 前回の文章は、とってもサイコパス的だし、非人道的で、人間失格だ。
 しかし俺は、誰かを傷つけたいなんて一切思ってないし、むしろ、人の役に立つことをしたい。
 矛盾? 偽善?
 なんと言われようが、そこは問題ではない。
 要は、「俺は、どのように行動するか」である。
 思考的なこと、抽象的なことを書いているが、抽象論に興味をもてないのはその点にある。
 簡単に書くと、「実存」を重要視しているのだ。
 世の中の真理がどうであろうが、それは正直どうでもよいのだ。どうでもよい、と書きつつも、世の中の仕組みを無視しては生きていけない。
 ああ、面倒である。
 ここら辺の感覚を、簡単に、うまい具合に伝えたい。分かってもらいたい。だが、表現として僕は全然伝わらないだろうことが「わかる」。
 要するに、僕は「大人」になりたいのである。
 が、その「大人」とは何なのだ?
 こういうことを言うと、「大人になんてならなくていいんじゃない?」とかいったアドバイスも発生したりする。くだらない、そうじゃないんだ、そこが問題じゃないんだって。
「大人」
 というのは、単に言葉の器である。
 僕がなりたいのは、「大人」であって「大人」ではないのだ。トートロジー。
 先日表現した、「いい人」ってのもそうだ。僕は「いい人」になりたいし「いい人」にならなくてもいいのだ。
 表現を変えれば、「なるべき存在」になりたいのである。自我がぐちゃぐちゃになってるな。
 しかし、「考え続けるのが正解だ」的なのは退けたいのである。


(かっこ書きである。次回2/7(水)更新予定「仕事が楽しくないからいけないのか」。今回は、他者や世界がどうであるかは置いておいて、「俺自身はどうするのか」という点に目を向けなおした。要するに、「なるべき存在」を目指したいということであるが、その概念の中身が現在不明である。大人とかいい人とか、役に立つ人とか、まぁいろんな表現はあるわけだが、中身の伴わない言葉は空虚だ。次回は、その中身について考えてみたい)

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今日の一言「小説で泣いたのは久しぶり」「感動ってどうしたら発生するのか」

喪失というより優しさに弱い俺

 泣いた。
 大切な人を失ってしまうといったストーリーの小説を読んで泣いてしまった。

 しかし、前から(というのは、ここ数年の間で)気づいていたのであるが、僕は、何か喪失したというよりも、「人の優しさ」というものに弱い気がする。

 こう、なんだろ、死にゆく人が、残された人に対してみせる優しさだったり、逆に、その死にゆく人を取り巻く人の思いやりだったりするものに、心が動かされる。もしくは、喪失感を乗り越えようとする人たちの姿にも。




 涙を流しているときの俺は、純粋に泣いているのであるが、しかし、日々の生活において、僕はそんな「優しさ」的な感じを全くもてていない。
 仕事のことで頭がいっぱいになり、不機嫌でイライラしているときに、駅のホームでうずくまって苦しんでいる人をみても、何ら感情はわかないだろう。そして、何もせず通り過ぎたことを、一秒たりとも後悔しないだろう。というよりも、そもそも気づかないほど周りがみえていない。冷たい人間だ。

 しかし、さほど卑下しようとも思わない。現に、この世の多くの人が、そういった「冷たい人」だと思っている。「そんなんじゃない! それはお前が思ってるだけだ!」と、多くの人はいうだろうが、しかししかし、遠くの国でおこった戦争や紛争や、飢餓や貧困にまで意識を飛ばすことはあまりできない。それは飛躍しているといわれるだろう。けれども、自分の子供と赤の他人(どっかのおっさん)じゃあ、優劣はある。そんなバカげた比較をしても意味がない? 意味はないだろう。でも、人の冷たさや温かさなんてのは、その場の関係性によるものである。
 この文脈でエンターテイメントを持ち出すのは滑稽だろうが、ウォーキングデッドのリック氏は、「仲間」を守るために必死ではあるが、「仲間」以外は切り捨てることも厭わない。さらに、その「仲間」っていう区分もかなり恣意的で、変遷していく――。

 が、まぁ、このあたりのことをいくら書いても、結局、「お前の心の卑屈さや矮小さを自己弁護したいだけだろ乙」という風に言われたらオシマイなので、上のようなことは僕は一切言わない。言うもんか。――この「言うもんか」ってのが、それはそれでストレスなのであるのは愚かしいほど皮肉だ。


(かっこ書きである。次回1/31(水)更新予定「忙しいことを認めた後で」。今回の記事は、自分の卑屈な考え(感情)の整理であるが、次回は、世の中がどうであるかは一旦おいておいて、自分はどういった人間になりたいのかを考える)

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今日の一言「雪がすごいね」「グレートウォール見た」

30分1000字

 先日の記事は3000字ぐらいになったので、「まだ長い」とコメントを頂いた。
 書くのはいいけれども、書いて、1000字にまとめてみたら? とコメントを頂いた。

 ふむ。今日も時間があまりないため、30分だけ書くことにしよう。
 しかし、時間を区切ると、途端にテンションが下がるんだよな。これは何故だろう。

 ある方が、「何も考えずに書き始めると取っ散らかる」と書かれていて、なるほどそれはそうだろうと思った。けれども、取っ散らかって悪いのだろうか? 悪くない。
 先日、「論戦なんてしない方がよい」と書いた。何か、強い主張をしたり、誰かを納得させたり、引っ張って行ったりするならば、短く明確な文章を書くことは大事だ。そういった誰かを納得させる文章が、長すぎたり、論旨があっちらこっちらしていたら、目的は達せられないだろう。

 書く、という行為について、大きく二種類あることを意識すべきである。

 一、誰かに主張を伝えるもの。
 一、自分の思考を整理するもの。

 いうまでもなく、ビジネスにおける文書や、一般書籍は前者である。
 後者は、日記と言われる。

 随筆、エッセイは、どちらかというと前者である。
 ブログは、日記と、随筆・エッセイの中間あたりで、どちらともいえる。


 と、まぁ、上のような内容について、どこまで他者に伝えたいのか、納得してもらいたいのか、その点で大別できるというわけだ。

要約するということ

 上の小見出しぐらいで、500字かな? ――600字。うん、だいたいあってた。

 で、まぁ、5分ぐらいなわけなのであるが、30分かけるとすると、やっぱり、3000字ぐらいいくのである。で、もって、1時間ぐらいかけると、6000字オーバーぐらいで……、なるほど、やっぱり普段5000字ぐらいに収束されているということか。

 いっぱい書いて、それを1000字ぐらいに要約する、と。

 先日の記事を、要約すれば、
・忙しい人はたくさんいるけれども、取り敢えず自分が忙しいことを認めよう。
・ブログを書かないとゾンビになる。
・ゾンビとは、ただ惰性で生活を送っている状態のことである。
・ゾンビ状態では、創作や生きる意味を考えるといった今年の目標を果たせない。
・だから、ブログを書く時間を取るようにして、人間状態を保っていこう。
・マジェスティックプリンスを劇場版含めて見終わった。面白かったが、今一歩感動するのに足りなかった面があると思った。それが何かは未だ明確ではない。
 といった感じ。224字。

 短い。そして、要約するとものすごく面白くない(笑)。

 いや、昨日の記事が面白かったと自画自賛したいわけではないが、なんというか、生きた心地がしない。言葉が空虚である。

 ――ここまで、15分ぐらい。そして1000字超えた。終わり、となる。


(かっこ書きである。なるほど。ブラウザ起動して、タイトル入力してカテゴリ選んで……という作業も含めても、15分ぐらいで1000字は超えるのか。これは考える時間も含めてである。そしたら、まぁ、どんだけ忙しくても書くことに時間をとることは可能だなぁ。しかし、ブログを書くことをルーチンにしようとは全く思わないし、そもそも、そんな意識しなくても、いずれ戻ってくるような状況である。フェレンゲルシュターデン現象の「息をするように嘘をつきやがった」のように、息をするようにブログを書いてしまうのである。病気である。きっと誰しも、それぞれの精神統一や気合を入れる「儀式」ってもんがあるだろう。それが僕の場合ブログだったのだろう。ちょ……さすがに面白くなさすぎる記事である。このままだといずれ削除されてしまうだろう。あーどうしよう。あー、アマゾンプライムで表示された、グレートウォールみる。万里の長城かっこよかった。「トウテツ」ってエイリアンみたいな生き物怖かった。女王を倒したらみんな死ぬって設定、どうなのよ(笑)。しかし、マジェスティックプリンスの、軍団長以外の兵士ってのも、要は働きバチというか、クローンみたいな、そんなもんで似ている。グレートウォールの話だった。えっと、面白かった。主人公が、宴で腕前をみせてみろって言われて、弓を三本速射して、一本目は投げた盃にあてて方向を変え、二本目を盃と柱にあてて、三本目で盃を柱に固定した、ってシーンが超かっこよかった。ちょっと皮肉で嫌味っぽい中国の武将も、「こいつは認めざるをえんな」って顔で拍手しているのも何かよかった。あと、えっと、軍隊が、赤とか青とか黒とかで色分けされているのもきれいに思った。ストーリーは、特にどんでん返しとか、この後はどうなるんだ!? といったワクワク感はないものの、王道的で分かりやすく、見ていて楽しめた。やはりユニバーサルスタジオの作品は中々よいと思う。いやしかし、ウォークラフト、おめーはダメだ。何がダメって? うーん、前に書いたような気がするけれども、よく思い出せないが、もう、なんかいろいろダメだった。とりあえずストーリーがぐしゃぐしゃしていた気がする。なんだろう? しかし、俺は、何がよくて、何がダメなんだろう? 明確に言語表現できていない気がする。別に、悲劇的なのがダメなわけではない。陰鬱な雰囲気だろうが別にそれはいい。もちろん、視聴した後の気分が良い感じかというとそうではないが、別にそれをもって、「ダメだダメだ!」などと思うことはない。あーしかし、「リセット」という映画があって、これは、キリスト教的な原罪を扱う作品であって、とにかく得体のしれない闇が迫ってくるという作品であって、その闇ってのが神様の、「信仰失った奴ら全部消してやり直しちゃうよー」ってな裁きなのであって、「神様なんてくそったれだ!」とか言ったりするとポルターガイスト的なサムシングが起こって消されちゃいそうになったりして、なんか気になって最後まで見ちゃったのだけれども、結局、「面白くはなかった」。グレートウォールは、「感動した!」「魂魄揺さぶられた!」とは全く思わなかった。ふつーに、作品として楽しかったというか、面白かった。マジェスティックプリンスも、ふつーに面白かった。良い作品だったと思う。思うし、面白かったんだけど、なんだろう、もっともっと、心を揺さぶってくれる作品を欲しているのである。前も書いたけれども、なかなか存在しない。というか、出会えない。その出会えないってのは、僕の努力が足りないだけなんだろうが。というか、あれだ、シロクマさんが書いていた気がするが、歳取ってくると、作品みるのにも体力・精神力がいるのである。だから、できるだけ外したくない。非常に傲慢なことを書いているのであるけれども、単に良い作品に出あいたいのである。ああそれに、この「時間性」ってのが、非常に重要である。何故ならば、同じ作品でも、出会う時期によって、まったくもって違った感想や感動が発生する可能性があるのである。繰り返し書いているのであるが、最終兵器彼女は――)

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