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離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
ブログで連載って、読み返すときに非常に不便なんだよな。順番が逆だから。ので一応カテゴリーは別に作成して、一話目のカテゴリ分類リンクを各話に貼っておくことにしようか。「次のページ」をクリックしていけば、順番に読める的な。うん? カテゴリ分類のリンクってどうやって作るんだ? カテゴリーの一覧は作れるけど、これだと、最新記事からになってしまう。カテゴリー一覧の中で、一番古い記事へのリンクが作りたいんだよ! ……分からない。
 ワードプレスならそういったカスタマイズもできるんだろうな。ただ、そこまでやるなら、自前のサイトでやっても同じだしな。
 毎回毎回、次の話へ、前の話へ、みたいなリンクをつくってたら、まず面倒になって更新はしなくなるだろう、間違いない。まぁ、そういった拘りをするのが目的じゃあなくて、とかく、「創作から離れる時間を少なくする」という初志を忘れないようにしよう。

 以下、続き。






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・・・つづきはこちら


今日の一言「通常記事は久しぶり」「おバカな記事だって難しいよ」

芸能人のブログ

 芸能人とか、歌手とか、有名な人、知識人とか、とにかくテレビとかに出てる人たち。
 そんな方々がよく利用しているアメーバブログというメディア。

 ぶっちゃけた、正直ベースな感想とすると、中身が薄い!!!

 と、思うのだけれども、でも、適度な改行だったり、写真の貼り方だったり、絵文字とか顔文字とか記号の使い方だったり、歯切れの良い短文だったり、いざ真似すると難しかったりする。

 問題は、……

今日はお仕事がんばったぞ♪
久佐嘉さん(仮名)にも褒められたし!
よーし、明日も私ふぁいとぉ~★

[自撮り写真]


 とか、僕はとくに目指したいと思わないということ、および、そもそも誰もそんなの求めてない!
 ……のだけれども、じゃあ、僕の「イライラ対処」記事とか、それって、結局、何ら変わらないんじゃないかなぁとも思ったりする。


 結局、アメブロとか、副収入目当てなのかもしれないけれども、大勢が見てくれるということ、承認欲求とか、目立ちたいとか、ちやほやされたいというそういった欲求を満たすための媒体の一躍も担っているのではないかと思う。

 その点、僕も、やっぱり、認められたリ、共感してもらえるってのは、すごく嬉しいことだと思う。

 だから、芸能人、その他の有名人の人のブログも、いわゆるダメブロ界の人たちのブログも、同じブログというメディアを使っている仲間なんだ!!

人との繋がり

 あー、その、何を言いたいんだろう。よく分からないんだなぁ、最近……いや、別に最近でもなく、ここずっと、何年もそんな感じかもしれない。
 ただ、一日、一日を、大切に生きたいとは思う。特に最近は、「ああ、生きていて良かったなぁ」って思ったりする。本気で思っているのか分からないけれども、取りあえず、ひとりでいるときは、例えば朝起きたときとか、口に出して言うようにしている、というよりも、自然にそんな言葉が発せられる。

 で、まぁ、その、「寂しい」って感情。
 あんまり、ない。
 あんまり、というと、やっぱりあるのかもしれないが、そこら辺は、よく分からない。

 よく分からないけれども、最近、本をぱらぱらと読めるようになってきた。
 やっぱり、本は、面白いと思う。読んだあとに、特段、語れることがあんまりないんだけど、直喩と隠喩について、とか。直喩の方が、「●●のようだ」という説明的で、隠喩の方が一見、ウィットがきいているというか、ハッとさせられるような表現である、とみなされがちだ。

直喩例)彼の勇敢さはライオンのようだ。
隠喩例)彼はライオンだ!

 けれども、それはあくまで、直喩と、隠喩を対比してみるから、「隠喩いいね!」となるだけであって、いきなり、

 ライオンだ!

 といったら、なんのこっちゃ、となる。
 小説とかで有効なのは、そのシーンにおいて、決してサバンナにいるわけでも、動物園にいるわけでもなく、ごくごく日常生活のなかで、「俺、ちょっと店長にかけあってみますよ」とかバイトくんが言ったときに、「かっこいい! ライオンだ!」みたいに使うと、あー、隠喩なんだなぁ、って分かるということだ。

 だからなんだ。

連載

 取りあえず、最近始めた連載活動、10話分ぐらいまで書き進めた。取りあえず、週刊更新を予定している。何曜日か決めようか、どうしようか、まだブレている。
 取りあえず、10回分と考えると、2か月半後ぐらい分である。そうすると、6月ぐらいだ。今が3月で、6月。
 あー、長いようで、短いような。

 そう考えると、ほんっと、人生短いっすなぁ。取りあえず目標の半年間を達成するには、9月ぐらいまで続けることになる。そこまでに完結させられるだろうか。きっと、10万字も到達しないだろう。ちなみに、文庫本程度は10万字ぐらいであるということである。

 1年に、一作品つくっていくにしても、40歳までに10個いけるかどうか。
 80歳で死ぬとして、40作品つくれるかどうか。

 そう考えると、もう既に、何作品も完結した作品をつくられている方々って、すげーなーと思う。
 ちょっと上から目線と言うか、小ばかにするような表現をこれからすることになるが、最近は本気で、中学生レベルの文章表現力しかなくても、ちゃんとストーリーつくって完結した作品を書ける人ってすごいなと思う。
 何というか、表現力は、後から身に着けてもいいと思う……し、やっぱり、ストーリーメイキングできる能力ってのは、ある意味才能なのかなぁとも思う。
 どんなに素晴らしい作品に触れて摂取しても、それを、自分の物語として再構成して、表現するってのは、やっぱりどこか、違うことだと思う。よくない例えしか今思い浮かばないが、人を殺したいと思うのは誰でもあるが、実際に殺すのとは大きな乖離があるように。

夢いっぱい!

 タイトルはあんまり意味がある分けではないけれども、何だか色々人に触れていて、ぼーぜんとした「すげーなー」って思いが生じた。
 こう、その、「冷めた観方」みたいなのがかっこいいと思っているわけでは、決してないのだが、どっかしらその、ベルトコンベアーに乗り損ねた商品みたいな気分になるのはどうしてなのか。

 例えば、ある精神科医の先生の「認められたい」という承認・所属欲求が、僕に足りない、という診断があったとして。ヴィクトールさんの人間は創造・体験・態度の三つの価値を追究していかねばならないと発破をかけられたとして。

 俺は、何か、うまーく表現できないのだが、その「いきづらさ」か何か、表現できたとして、概念化できたとして、じゃあ、それで問題が解決するのかどうか、と思う。

 苦しい理由、というものを、言語化できたとして、それが解決するかどうか。もちろん、発達障害やら学習障害やらADHDやら、その診断がついたことにより、「ああ、やっぱり、そうだったんだ」という安心感のようなものが得られる人もいることだろう。ただ、結局、問題はそこからの人生であることには違いない。ようやくスタートラインにたったようなものではなかろうか。

 言語、とは、記号である。
 無限の世界を、分類することである。モノ・コトに、延々、名前をつけていっても、終わりはない。

 だから、僕が、いくら、僕のことを、こうしてブログに書いていっても、100記事、1000記事、10000記事になろうが、「僕」という表現は、完結しないのである。
 これについて、「自分」が常に変化しているからである、とコメント頂いたわけであるが、この指摘は非常に鋭くて僕の魂魄に突き刺さった。
 ただし、その観点とは別に、そもそも、表現できることに限りはないのである。自分というものを正確に完璧に表現できる言語など、存在しえないのである。

 ……という面からも、他者との完全理解というのは不可能である、という僕は立場というか、考え方をもっているわけだけれども、この考え方が役に立つかと言うと、気休め程度の役にもたちゃあしない! だからなんだって、話。いやぁ、だからこそ、ちょっとでも、「分かり合えた!」「共感した!」という感覚が重要だし、大切なんだよ、という教訓にはなるかもしれない。分かり合えるというのは難しいことなんだから、ちゃんとコミュニケーションとらなきゃならんのだよ、という教訓にはなるかもしれない、ただ、その程度だ。

幸せいっぱい!

 タイトルに意味はない。
 ただ、表現に限りが無いのであれば、やっぱり、「絶対ポジティブ思考」であるべきだと、僕は思う。
 満たされているなぁ、幸せだなぁ、感謝でいっぱいだなぁ、嬉しいなぁ。

 おぅ、どうした? アップ系の薬でもやったんか? と思うようだが、それでもやっぱり、楽天・楽観的であることが、大切な気がする。

 と、わざわざ書く時点で、僕は、そういう性格ではないのだろう。本当の楽天的な人は、そんなこと自体考えないのではあるまいか。


 んー、でも、いーんじゃないか、と思う(何が?)。その、色んな人がいていーんじゃないの、と思う。毎日のように、愚痴をSNSやらブログに書き散らしているような人もいる。何年も、「あー、俺はダメな奴なんだ、死んだ方がいいんだ」と書きながら、取りあえず生きている人もいる。「孤独でもいーんすよ」という人もいる。「働きたくないでござる」と言い続けている人もいる。

 いーんじゃないか、と思う。

 ただ、みんな、取りあえず、幸せになったらいいんじゃないか、と思う。


 え、ひとごと? お前は?

 俺は……よく分からん。

 何だろ、幸せっちゃあ幸せだろうし、「リア充爆発しろ!」と思えば不幸な気もする。ただ、どっちでもいい気がしている。

 前も書いた気がするけれども、そもそも、「幸せ」とか「ポジティブ」という言語表現にとらわれている時点で、既に罠にはまっている。
 幸せ、ポジティブなんてのは、相対的な概念であり、その言葉に意味を注入できるとすれば、それは、「実感」に他ならんわけだ。

 で、逆に書けば、「実感」があれば、別に「あー幸せだなぁ~」なんてしみじみ言う必要なんてないわけだ。

などと30代おっさんが述べております

 物語つくれる人ってすごいなぁ(唐突)。
 物語って、新学力とかエンプロイアビリティなんてビジネス的な表現すれば、問題解決能力だと思う。

 問題。課題。困難。ハードル。軋轢。葛藤。

 ひっくるめていろーんな問題があって、それにどう対処していくのか、というのが、すべての物語の基本ストーリーである。

 日常ほのぼの系作品にそんなもんないのでは? という指摘もありそうだが、いや、そんなことぁーない。日常の、ほのぼのとした課題などが描かれているはずだ、よく観察してみるといい。

 ここでいう問題は、社会問題だとか、異性問題だとか、その問題の大小を言うのではない。

 自分で設定した問題について、逃げずに立ち向かって何らかの答えを出していくという作業、それが「物語」なのである。

 ドラゴンクエストでは、悪い魔王が街を荒らしている、このままでは世界が滅びてしまう、戦え勇者たちよ! 的な問題解決である。
 ライトノベル的な異世界転生や転移でも、人生やり直すぞ!とか、元の世界に帰らなきゃ!的な問題解決である。
 学園ものでもそうだ。いじめられたり、モテなかったり、勉強できなかったり、スクールカーストの底辺でもがく……問題解決である。


 この、問題解決能力が、生きていく上で、大切なことだと思う。イデオロギーも、宗教も希薄化した現代においては、特にそうなんじゃなかろうか。
 そして、もう少し踏み込んで考えると、この問題解決能力とは、「解決力」が重要ではなく、「問題設定力」が重要なんじゃなかろうか。

 適切な問題を設定して、それを解決していくという人生の繰り返しが、即ち、充実感だとか幸福感だとかに繋がるんじゃなかろうか。



 とかって、こうやって考えている最中は結構楽しかったりするのだが、考えれば考えるほど、その結論的なものが、どうにも、矮小だったり脆弱だったり、くだらないもののように思えてくるというこの病気について、是非命名したい。

 あー、やっぱり、中二病とか、高二病とか大二病的なのになるんかな。

 俺って、「ふつーの人」とちょっと違うことを考えられますよ(キリッ)的なやつをあざ笑う、その様をさらに思って自嘲して……という、無限ループ的な。

(あー、何か、面白いこと書きたい)

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ある方が、ブログで短めの小説を連載されているのを読んでいて、面白いなと思って、自分もやってみたいと思った。
 最近、本編のブログ記事も不調だし、新しいことを始めてみるのも悪くないと思う。……などと、何かやるのに理由や理屈をつけなければやれないのは悪い癖である。ただ、何か思い付きで始めて、三日坊主になるというのは、性格上好きではないのだ。
 とはいえ、創作から離れないようにするため、ひとまず、1か月4回(週に1回)更新で、半年間続けてみよう。文字数は、最低500字。最低500字って、大体ここまでが、250字だ。余裕過ぎないか? さすがにハードル低すぎないか? いやいや、そうではない。時間があるときや、調子がいいときは余裕だろう。しかし、忙し過ぎるときや、具合が悪い時も勘案し、半年間という長期間で考えると、必ずしも簡単とは言い切れないだろう。
 達成するべきポイントは、「安全マージン」だ。一週間、二週間ぐらい、全く何もできない日が続くこともあるだろう。そうすると、安全マージンとして、2回分ぐらいのストックは、常に保っておかなければいけない。ついつい、「明日やればいーやー」的な感情を抱きがちだが、明日は明日のやるべきことがある! ということなのだ。
 仕事のできる人は、的な話では、「明日できることは今日やるな」というのがあるが、それは、決して「明日できるから今日はダラダラしていいや~」というのではなく、「今日すべきことをしっかりやりましょう。その上で、余計なことをしないようにしましょう」という時間管理の達人を目指せ、ということなのである。生兵法は大怪我のもとなのである。(と、ここまでが700字、大体10分ぐらいだ。)
 前置きが長いけれど、以下、連載開始。



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今日の一言「何とか山場を乗り切った、かな」「山、だと思ってたのが、もっと大きな山の一部だったりして」

拍手コメント等ありがとうございました

 拍手コメントくださった方々、どうもありがとうございました。
 大丈夫です、生きています。
 また、自暴自棄で無謀な投資などはするつもりはありません。あくまで、余剰資金で、といった感じです。

 あー、しかし、ほんと、ここ、1か月ぐらいは大変だった。残業になるのは、まぁ仕方がないとして、そもそも、24時で終わらないから、翌日の朝も早く行って仕事して、みたいな生活が特にここ二週間ぐらい続いていた。
 このハードさ具合は、そうだなぁ、初めてではないかな、大学の一時期と、入社3年目あたりでこんなこともあったかなぁ。その時々において、やってることも、能力値も違ったりするけれども、兎に角「修羅」状態だよね。

 あー、別に、忙しい自慢をするつもりもない……といってる時点で、そういう自慢なんだろうが、まぁ、それは置いておいて、そもそも、「大変なことを経験してないとだめだよ」とかいう先輩諸氏のお言葉を間に受けるのであれば、いやぁ、私はもう十分修羅モードやってきてますよ、と、自信をもって返事をしていいのではないか、と思う。が、僕の性格上、いやいや、もっと大変な人、おりますのでね、と思ってしまうのだ。

 だが、それはそうとして、取りあえず、能力値が低い自分としては、十分修羅モードでしたわ、と言ってやりたい。いや、言う! 取りあえず、誰も知らない辺境のこの地で、僕は言う! 俺は、俺は頑張ったぞー! っと。

 取りあえず。成果としては、微妙かもしれないし、そもそも、まだ終わってないのだけれども、取りあえず24時帰宅25時就寝5時起き6時出社的な生活は、しばらくはやらなくて大丈夫そうだ。

忙しい

 いや、その、あれだね。忙しいことは全然自慢にならないぞ。どんだけ大変な経験をしたとか、そんな過去の武勇伝、もてないぞ? 問題はそこにあるのではない。
 
 ただ、もう、たまには、テキトーに、ぐだぐだ書かせて頂いていいんちゃう?
 えーやろ。愚痴言ったって。


 愚痴言って、それがどーした、と思っちゃうんだよな、俺自身。だから、あんまし相談のって~とか言われないのかもしれない。これもよくない。共有するのが大事なんだ。一緒に悩んでやるのが、いい上司や彼氏や友人やその他いろいろなんだ。

 うわー、もうめんどくせー! いろいろ、めんどくせー、わーわーわー、いやだいやだいやだー(棒読み)


 えーと。こういうときは、素直に寝るか、風呂に入るかした方がいいんだろう。グチグチ書くのは、よくないことだ。
 僕自身、ずーっと、ぐちぐち書きまくってるブログさんは、最初はなんか面白そうだったが、一か月も二か月もずーっと同じことをグチグチ書きまくってるブログさんは、いい加減、いやお前、それ、愚痴愚痴書くのが楽しいんちゃうかいな?! と思ってしまう。

 いやきっと、僕もそう思われてるんだろうな。考えるの好きなんでしょ、と言われたりもしたし。
 そうだな、でもそれは、認めてもいいかもしれない。考えるのが好きなのかは分からないけれども、取りあえず、何らか、書いて、整理するのは好きだ……好き? 好きなのか? 好きと言うよりも、そうしなければいけないような、何かもう強迫観念的な感じな気もするが。

 何も書かずに、何も整理せずに一日が終わってしまうと、何だか、「僕自身」がすり減ってしまったように思うんだよな。なんだろ、この感覚。

 本当はエラー(感情エラー)なんだろうな。一生懸命に生きて、誰かに何か影響を与えることができたら、自分自身のこんな愚痴ブログなんて書かなくても、それはそれで、とても尊い価値があるって、本当はそう思わないといけないんだろうな。そうなのか?

23時PC消灯ルーチンと禁欲

 まああと少しで3連休だから頑張ろう。そうだ。休みで何して楽しもうか、考えよう。そうだそうだ。いろいろ、できなかったこととか、やりたいな。できなかったこと? あー、読書、とか。ゲームとか。サイトの運営(ココナラも始めてみたい)とか、株式投資とか(キーエンスって会社はどうやろ)。

 あー、んー、何だか、上に、愚痴グチを物凄い音を立ててタイピングしていたら、今、数分の内に気持ちが落ち着いた気がする。不思議だ。うん。

 うーむ……。

 うーむ。

 なんだろ、変な気分だ。

 取りあえず、23時過ぎたら、パソコンは使わないようにしよう。朝起きる。朝の方が、何か、頑張った感があっていい。
 


 うーむ。やっぱり、久々ぶりに書くと、こんな、テキトー感まんさいの記事でも、筆というか、指が止まってしまう。やっぱり、継続は力なり、だなぁ。
 継続は力なり、は、僕のモットーでもあるんだけど、それに反して、毎日、毎週が、断絶感がすごかった。

 なんだろう、毎朝起きて、えーっと、俺、誰ですか? みたいな、いやお前それ病気やで!
(離人症とは、幽体離脱みたいになって、自分を自分で外からみているような感覚になる症状。さすがに覚醒状態ではないけれども、そんな感じの夢を数回みていた気がする最近)

 よしよしヾ(・ω・`) 疲れたんだねー 大変だったんだねー がんばったねー
 よしよしヾ(・ω・`) いいよいいよ、ゆっくりお休み。

 とでも言ってもらいたいのだろうか、俺は。まぁ、そうなんだろう。しかし、そんなことを思う自分自身を軟弱やってんじゃねー! と喝状態になり……あーほんと、めんどくせーやつだ!
(明日読むと、赤面して頭を抱え込みそうである)

小説を書きたい

 唐突。
 いや、小説というか、創作、何だか、自分が本気で「面白い!」とか「感動した!」と思えるような作品、小説でも漫画でもイラストでも、音楽でもいいから、そんなのを創りたい。

 誰からも評価されなくてもいい。ただ、自分自身が、心底面白い! って思えるものを創りたい。

 ある方が、その方は、かなりもう小説にかけては上級者で、多くの読者を惹きつけるだけの十分面白い作品を描けるのであるが、「いや、これではまだ不十分だ」「この理屈なら、こうであるのはおかしい」と、自分自身に厳しく、ストイックであり、中々続編を紡げないのである。多分、妥協して書いていても、きっと、多くの人にとって、「ナニコレおもろい!」となるであろうことは間違いない。
 しかし、その方は、そんなことしないのだ。いやできないのだ。自分が、面白いと思えないと、書けないのだ(※)。その方の、悪戦苦闘具合を拝見させて頂き、僕もその影響を受けているのかもしれない。


※いやもっと複雑な事態として、その、自分で「面白い」と思う感性についてもまた、永遠普遍のものではなくて、その日の気分なんかにも影響されてしまう流動的なものだ。
 この点について、「自分とは何か? 私はよく分かりません。でも最近思ったのは、その自分が分からないというのは、自分自身が、常に変化しているから何じゃあないかと思いました」というコメントをされた方がいらっしゃり、いやほんと、感動させて頂いたものである。
 そして、それでもなお、僕としては、なお、その「自分」というものの、定点観測できる「何か」、ジャイロスコープのようなものを、何とか、片鱗でもいいから、掴みたいなぁと思うわけであるのだけれど。ただ、そうだとしても、前出の自分自身の変化について述べた方の視点は重要であることは変わらない。

小説が書けない

 唐突2。

 書きたいけれども、ストーリーが作れない。
 断片として、描きたい部分は思い浮かぶ。しかし、いい表現が浮かばない。まぁいい、その表現は、たくさん小説を読んで、感性を高めていけば、自分が描きたい表現がいずれ創り出すことができる(時間がどれほどかかるかは別として、道筋はある)。

 ただ、ストーリーが浮かばない。いや、起承転結でいけば、起承、ぐらいまでは比較的すぐに浮かぶ。今連載中のものの他に、2つほど着手はしている。
 けれども、書き進められることはられるけれども、いわゆる「オチ」が浮かばない。

 結局、どうなれば終わりなのかが分からない。


 でもこれ、意外と、どんなプロの作品も、結構オチが曖昧だったりする……というか、そもそも、オチって、ハッピーエンドかそうじゃないか、変わらない日常が続いていく、みたいなそんな感じにならざるえない。
 最近観て面白かった作品、例えばサイコパスとか、すげー面白かったけど、「シビュラシステムは実は潜在犯の集合精神でした!」的なオチで、まぁ、そうなんだけど、だから、何だ? みたいな。
 んー、なんだ、違う、書き足りていない。それはそれでいいんだ。じゃあ、ソードアートオンラインはどうだ? 記憶が奪われていくプレイヤーたち。その黒幕を倒した! 記憶を取り戻した! やった、ハッピーエンド!
 んー、なんだ、違う。例えば、「君の名は。」は、「彗星やべえ!」「過去に戻って助ける!」「助かった!」「君の名は?!!」――ハッピーエンド!

 んー、俺は、いったい、何を、いいたい!!(かっこ白い目)


 何だろうな。

 俺が最近、ここ1年、2年ぐらいで、ストーリーとして本当に完成しているというか、感動したのは、実は、やっぱり、この作品(外部リンク)かもしれない。これは、映画とか、漫画とか、その他ジャンルを含めてである(※)。

 なんでこんなに魂魄を揺さぶられたというか、感動したのかは、よく分からない。その、読んだときの感性状態がたまたま適合していたのかもしれない。
 ただ、ストーリーというのは、「オチ」というのは、僕が求めるのは、こういうこと(どういうことだよ)なんじゃあないかと、思ったりする。



※もちろん、先に挙げたサイコパスもそうだけど、面白い作品は色々あったのだ。あったのだけれども……。

凡人が背伸びするんじゃねぇ!

 と、まぁ、そんな、すげー作品にあてられて、「ああ、もう、俺はやっぱり、何も書けないんだ、ダメなんだ、ダメな奴なんだ、人間としてダメなんだぁぁぁ!」なんてふざけたことぬかしてんじゃねぇ。
 努力、という言葉が嫌いだ(※1)、と何度も書いているが、それでも、その何かにかける時間、情熱が大きければ大きいほど、それは、その人のもつ能力は別として、大きな力になっていく。

 Y=aX+b

 の、Yが成果で、Xがかける時間だとしたとき、その人のセンスが「a」で、今まで培ってきた能力や資産が「b」であったとき、

 (1)(a,b)=(10,100) と、 (2)(a,b)=(1,10)

 の人がいたとしても、(2)の人も、(1)の人の100倍時間をかけたなら、同じだけの成果をうみだすことができるのだ(※2)。


 ある方が、自身のブログで、短いながら、更新の都度、小説を連載している。
 新聞の漫画欄みたいで面白い。僕もやってみたいと思った。

 しかし、オチが決まってないのに、書いていっていいのだろうか。書きながらオチが見つかっていくような、そんな天性の才能なんて、自分にはなさそうである。ブログで断片的に書いていくよりは、ちゃんとまとまった形で、推敲など念入りにしてから完成させていった方がいいのではないか……。


 でもまぁ、ゼロとイチとでは、大きな違いがある。継続は力なり。兎に角、あまり書くことから離れないようにした方がいいのではないか。

(取りあえずこれから3か月ぐらいの間、週一に500字~1000字のペースでやってみようか)


※1:努力という言葉は、他者評価と自己評価の相対に過ぎない。あんまり意味のある言葉ではない。
※2:100倍時間かけるなんて、人生限りがあるし、物理的無理な場合がある。もちろん、成果自体も、簡単に数値化できるものではないのだけれど、結局、この似非数式をよく考えないで信じると、「努力信仰」という、頑張れば何でもできる的な発想に陥りやすい。


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今日の一言「……」

あっという間に

 気づいたら1日が終わっていた。本当に時間が過ぎるのは早い。
 取りあえず、30分を目途に書いてみるか。書くことも、そもそもパソコンを起動させるのも久々である。

 色々と、目標を立てて、それに向けてやってこようとした。生活を、いい方向にしようとした。
 しかし、いろいろと、仕事が忙しくて、上手くいかなかった。

 仕事が忙しいというのは、何だろうか。
 忙しくない仕事などというのはあるのだろうか。無い。そこに問題があるのではない。

 時間。

 存在。

 今僕は、何に向かっているのか。

 何でもできる。しかし、何もできない。

 意味が分からない? 意味、シンボル、記号。シニフィエ、シニフィアン。概念。抽象。答え、真理。

 理解。

 自分。自己。自我。

 コミュニティ、コミュニケーション。

 サイコパス、感情、喜怒哀楽、怒り、焦燥、怖れ。

時間

 詩や、俳句や、短歌や、散文は、陶酔なのか。

 人生は、暇つぶしなのか。すべての芸術は、死からの逃避なのか。

 子どもとは愛するものなのか。生きがいなのか。

 社会とは何か。システムとは何か。効率化の果ては自己のパーツ化なのか。

 唯一性と一回性。すべては、不可逆な時間の中で生み出される。


 ただ、信じることができる概念は何か。

 その根源を、根本を、意味概念を求めて遡っていく作業、それが哲学というならば、今必要なのは哲学なのか。


 夢を見た。夢……それは、日々の業務に押しつぶされること。自分を見失うこと、自分、自分とは。

何をすべきか

 お前は、これをすべきだ。

 そういってもらいたい。同時に、それを認められない。頑迷固執の老害である。

 認められたい。所属欲求と承認欲求を求めたい。充たされない思いが、自己の消耗へとつながっていく。俺は誰だ。俺は、僕は、私は、誰だ。


 表現の違いというが、では、その意味されるものは本当に存在するのか。疑う余地はない、ネコという概念は、catといったり、ロシア語でコーシカ、ドイツ語でカッツェ。呼ばれ方は複数あっても、ネコという概念は疑いようはない。

 だが、その猫の概念とはなんだ。耳が二つ、目が二つ。髭が生えている。四足歩行。体毛に覆われている。これだけでは、ネコにはならない。どこまで条件を挙げていけば、ネコになるのだろうか? しかし、そんなことを考えずとも、私たちは、ネコの画像をみたら、一瞬でその猫の概念を認識することができる。


 生得的なもの。
 自らの身体を信じること。五感。インプットされる情報。それだけが、信じるべき対象。

 現象学とは、猫という概念は一先ず置いておき、まずは現実表出しているものに着目する考え方である。ネコという完璧な定義は、辞書をひいても出てこないけれども、取りあえず、辞書的な意味が理解できれば、他者との共通理解を行うことができる。これがコミュニケーションである。

コミュニケーションとは

 人は、ひとりでは生きていけない。
 でも、時に人は、ひとりの時間を欲する。

 しかしそれは、あくなき、承認欲求を求める、終わりなき戦いではないのか。どこか、小さなサークルでも、会社でも、友人関係のわでもいい。どこか、自分の居場所を求め、そこで、能力を発揮する必要もなく、ただ、存在しているだけで、その所属コミュニティの維持に役立てられるような、そんな存在となること。

 それが、所属欲求である。

 認められたい、という思いよりも、ただ、その場にいるだけでいい、そんな場所。

 ニートや、孤独を愛する人、個人投資家、人間嫌い、そんな人たちも、SNSや、ブログをやったり、記事を書いたりして、何か、繋がりを求めている。
 それは何故か。承認欲求を求める場合、投資家としての成功だとか、俺は人とは違うんだぜ、という自尊心を充たそうとしている場合もあるかもしれない。
 ただ、それだけではなく、単に、そのインターネットというツールが、自分の居場所を与えてくれるのかもしれない。


 本来。家は、家族は、その、居場所であった。
 であるからにして、その家族が崩壊するような、家庭内暴力だとか、別居、離婚、姑嫁の確執だとか、ドメスティックな事件は、その当たり前と思われている崩壊を示唆するがため、センセーショナルな報道へと繋がる。


 報道と言えば、大きな地震から、数年が経った。
 生き残った命は、大切にしなければならない。露命を無常の風に任すること勿れ。


 30分が経った。もう外は真っ暗だけど、散歩にでかけよう。


(お酒を飲んでいるわけでもないが、何だか、陶酔的な気分である)

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