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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「実存を目指せども共通価値を無視してはならない」


新聞やニュースを見るべきか

 情報収集は必要である。
 ただし、情報は、氾濫する。
 そこで、重要になるのは、「価値」を探ることである。
 これは、個人的に重要視しているものを意味する「価値」ではない。
 社会の、人々の、共通した価値を探るという意味である。
 よく企業や、団体のトップが不祥事に対して、「常識」に対してズレた発言をして、テレビやネットで炎上することがある。パワハラや、飲酒運転する人がたえないのも何故だろうか。
 共通価値とのズレが原因である。
 社会で求められている価値と、自分自身の価値が乖離してしまっているのである。
 これは、つらいことである。
 かわいそうだなぁとすら思う。
 けれども、断罪されるべきだと、僕は冷酷に思う。
 何故なら、僕も、共通価値とズレているからだ。
 今がどうかは知らないが、10代……いや、それ以前から、「生きづらさ」があった。
「生きづらさ」とは、共通価値と、個人価値とのズレが原因なのだ。
 しかし、簡単な問題ではない。
 個人価値のズレは、病気ではないし、仮に病気と表現しても、薬はないし、治療は困難なのだ。
 例えば、よく分からないけれども、イスラム教圏に生まれたけれども、イスラム教を信じられない人がいたら、それは、個人価値と共通価値とのズレが発生しているということである。
 学校や会社や、家族の中であってもいい。組織とならずとも、集団には共通価値は必ずある。

多様性は害悪なのか

 共通価値は悪いものではない。
 共有するものがなければ、対立が生まれやすくなる。言語など、人間の状況認識能力の補助的な役割である。ロボットのフレーム問題を思い出すまでもなく、一つの行動や思考に至るまで、その無意識で行われている判断は、到底言語表現は困難である(文字を打つ間の心臓の鼓動やホルモン調整の意識などできなかろう)。
 だから、共感できる行動原則に基づいて、人はコミュニケーションを成立させる。
 そこに異物が入り込んだら、排除したくなるのは性であろう。
 しかし、それにも関わらず、多様性を認めるというのは、人間としての真価が試されているのではなかろうか。
 んなこと、明日の食い物や命が心配な人たちが、考えられるはずはなかろう。
 戦争や飢餓、直面する問題を解決することは、無思慮に善といって構わないと思う。
 しかし、「それ故に」未だ人は恒久平和を手にできていないともいえる。
 場当たり的な解決では、無限に起こりえる問題すべてに対応できるはずはない。

(かっこ書きである。先日の記事とまた、話が変わっているようだ。先日は、創造性とか抽象的な言葉に惑わされてはならない、ということだった。今回は、共通価値という新しい言葉が舞い降りている。社会通念とか、一般常識、というのと違うのだろうか? 本質は、同じだと思う。しかし、ここが、前回と共通性を見いだせるところだが、一般常識といったときに、何やら怪しげな先入観が生じだすのだ。その、一般とは、何をもって一般なのか。もちろん、共通価値といったところで、その本質を変えられてはいない。しかし、言葉の表現として、ちょっとまて、と。その共通性というのは、決して普遍ではないと、不変ではないと、そう言いたかったのではなかろうか。なかろうか、って自分で書いたはずなのにおかしな表現だが、素直な感覚である。前回の記事が、予約投稿で公開されていて、僕は不思議な感じがした。まだ、一日で書き上げた文章は半分以上残っているはずだ。しかし、次の記事がどんな内容なのか、本当に全く分からない。調べれば分かるのは当たり前だが、あえて、読まないようにしてみよう。次の記事は2、3日後だ)

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今日の一言「言葉の本質を考え、探れ」

創造性とは何か

 創造性という言葉が嫌いである。
 言っていることが反転しているようだが、そうではない。
 事実、嫌いなのだ。
 就職活動などのとき、ハイパーメリトクラシー(超能力主義)とか、コミュニケーション力とか、創造力とか、人間力とか、よく分からない言葉 がオンパレードしていた。クリエイティブってのも嫌いだ。何だそりゃ。
 何かといえば、「よく分からないもの」が嫌いなのである。
 テスト、は分かりやすいと思う。「答え」がある。
 しかし、僕は、「よく分からない」から面白いものもたくさんあると思う。
 反転したことを書いているようだが、そうではない。
 何かといえば、「評価」と癒着するから嫌いになるのだ。
 創造性は大切で、創造することは僕は好きである。
 ただ、その「創造力」といったものは、人間それぞれ、バラバラのイメージをもつのである。
「人間力」といったところで、それは、60代の人が考える、対面コミュニケーション重視のものと、10代の人が考えるものは全く違うだろう。
 要は、抽象的な言葉を使っている自覚がないにもかかわらず、それが大事とか簡単に思っちゃうような人たちが嫌いである。
 いや、そういった人たち相手でも、たまたま、僕の考える、僕の感じる価値観と近しいものがあれば、お付き合いは可能である。
 しかし、そうした人は、ちょっとでも「自分と違う」ことがあれば、簡単に相手の人格を否定する。そういう人よりかは、「相対価値」の何たるかを知っている人のほうが、例えその人と趣味が全然合わなくて、食事の好みも生活リズムも全然違ったとしても、恐らく居心地は悪くないのである。――すぐさま書いておかねばならないのは、他者(家族含む)と一緒に暮らすというのは、簡単なことではない。

創造性とは何か2

 創造性とは何か。
 そんなもの、答えなどない。というのが答えだ。
 答えがないにもかかわらず、「創造的な人材を欲します!」とか言っちゃってるのに腹が立ったというわけである。嫌いだった、というわけである。
 ただ、創造性は、新しいことを学ぶとか、過去を調べて現在に活かすとか、人の話を肯定的に聞くとか、そういった、誰にでもその「姿勢」として示すことができることとしては、とても重要なものだ。
 自分の考えに固執し、独善的な人はお断りです、ということであれば、それはむしろその通りだ。そういった内実を、「創造性」という言葉を、キャッチーに使っているというのであれば、何ら問題なかろうと思う。
 パワハラフレーズとして、
・やる気あんの?
・なんでできないの?
・意味ないことしてるね
・無駄だね
・まだできないの?
 とか。上の中で、ダメなのはどれだろう。全部というのでもいいが、よく考えてみたい。一番よくないのは、「やる気あんの?」だと思う。
「なんでできないの?」
 は、言い方にもよるだろうが、大事なアプローチだろうと思う。原因を追求して、解決方法を探るのは適切なアプローチだ。
 一方で、「やる気あんの?」は、「やる気」なんていう抽象表現を、さもあるかのように誤認していることが断罪すべき点である。
 いや、明らかに不真面目な態度を取っていて、「むかついた」という感情は分からないでもない。
 ただ、それは、最初のほうに書いたが、「感情的」なことである。
 行動や活動が伴わない言葉は無意味だ、と書いたはずである。
 やる気があれば問題が解決するわけでもなかろう。
 もちろん、あった方がいいのは当たり前だが、むしろ、「できていない」事実に目を向けたほうが有意義なのである。


(かっこ書きである。前回は、だらだらしてないで、目的をはっきりさせてそれに向かわなければダメだ、と書いた。何故なら、人は創造的であらねばならないから、と。そんな流れの中で、いきなり、創造力なんて嫌いだ、とのたまうのが今度の記事である。人格分裂してないだろうか、この作者。しかし、よくよく、我慢して読んでみれば、なるほど、言葉の内実性を表現したかったんだろうと読み取れる。抽象的な表現で世界を、社会を、人を恐れる必要はないという、励ましの記事だったのか。いや、しかし、どうだろう。次の記事はどんな方向に流れていくのか。次は2日、3日後である)

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今日の一言「前の記事との繋がりが難しい」

言葉は活動するための手段に過ぎぬ

 会議が長くなるのを好まない。
 すべての雑談やお喋りを否定するのではない。
 しかし、何らかの行動が生じない会議は無価値に思う。
 進捗報告を無碍にするのではない。経営やプロジェクト判断にとって、情報は最重要である。
 そのうえで、「何もしない」という判断を否定するのではない。
 ただ、何かするでも、しないでも、「意識的に」判断しているかどうかは、僕は問いたいと思う。
 不要な情報であれば、そもそも、不要な情報が生じる仕組みに改善を図るべきだ。
 感情を満たすだけの言葉は、恋人や友人とすればよい。
 すぐさま書いておくべきは、同僚など会社の人たちと友人になれないということではない。人は人である。会社組織に属するからといって、冷酷無比なマシーンと考え、常に利益や効率だけを考えることは非人道的であろう。
 無駄やゆとりというものを否定するのではない。アクセルやブレーキの「あそび」は必要だ。緩衝地帯は大事だ。オイル、潤滑油は大事だ。
 しかし、それらは、車が動くとか、製品を開発するといった、大きな目的が明確化された上での話だ。
 何ら目的がないままに、だらだらと、よく分からないままに、何の意味があるのかと疑問のままに活動することは、苦痛である。苦痛に思わない人もいるようだが、苦痛に思わなければなるまい。
 何故ならば人は、創造性をもってこそ、人なのだから。

(かっこ書きである。前の記事では、人生の要素を、「時間」「記憶」「身体」であると書いた。それと、今回の記事はどう関係しているのか。前の記事で書いた通り、かっこ書きと、今日の一言は、別の日に書いている。本文については、同じ日に繋がって書いたわけだから、自分の思考の中では何か関連性があったのだろう。しかし、今になって思うと、分からない。今回の記事は、「だらだら会議するのは無駄だ」→「でもゆとりは大事だ」→「でも大きな目的がないとだめだ」という流れだ。中庸的なことを表現したかったのではなかろうか、と思う。ただ、思考やブログにおいては、世界の事実なんてどうでもいい。自分の事実を書かなければならない。それが間違っていようがどうでもいい。問題は、その自分の事実は、「時間」「身体」「記憶」の制限の中で、どのように導かれ、アウトプットに至ったのか、そのプロセスを描写する必要がある、ということだ。そういった意味で、前回の記事も、今回の記事も、何を問題と考えて、何を解決したいのかよくわからない点で、残念である。短い記事では、他の人のブログなどでも、そういった傾向がある。長ければいいというものではないが、ある程度の文量は必要だろうと思う。とはいえしかし、結論的には、次の記事を待とう、ということになる。次は、2日もしくは3日後だ)

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今日の一言「恥ずかしいという暇もない」「黒歴史をひっぱり出すにも時間が必要だ」

 数日かけて、連載形式で行こうと思う。
 小見出しとしては、以下の感じ。

・01ライフワーク
・02言葉は活動の手段に過ぎぬ
・03創造性とは何か
・04新聞やニュースは見るべきか
・05多様性は害悪なのか
・06共通価値の普遍化
・07目的の重要性と多様性の不可避
・08対立には排除なのか
・09ルールと共通価値とは違う
・10社会悪をどう考えるべきか

ライフワーク

 仕事。
 生活・家事。
 創作、恋人、友人。

 仕事をして、お金を手に入れて、生活をして、個人の活動をする。

 単純に、率直に書けば、これで人生が回っている。
 人生という言葉は大げさだけれども、誰もが自分の人生を生きている。

 人生とは何か。
 三つの考える軸がある。

 時間である。有限の時間が人生である。
 記憶である。アイデンティティ、自我同一性、自分という意識。
 身体である。制御可能な、物理環境へのアクセス、アプローチ。

 人生という総体において、上の三つの軸が、逃れられない制限事項である。

 物語の創作においては、その誰もが逃れられない制約を緩めたり、改変したり、違う視点からアプローチすることが、面白い物語となりえる。

 ジョジョの奇妙な冒険は、スタンドという、身体の限界を超えた存在を描く。また、時間を止めるという物理法則の限界も描かれる。面白い。

 シュタインズ・ゲートは、タイムマシンやタイムリープマシンによって文字通り時間跳躍をする。そして、「ゼロ」作品では、アマデウスという人間の記憶データを元にした人工知能をつくりだす。人間というエミュレート。面白い。



 今の、「面白い」というのは、僕個人的な「面白い」なので、万人普遍ではない。ただ、僕は日常ほのぼの系だけを望んでいるわけではない。
 それは、本能的に、人生は3つの制約で成り立っていて、そのどれもが有限であることを思い感じているからである。

(かっこ書きである。基本軸の内容は、一日で書いてしまった。1時間ぐらいか。7000字。何で分けようかと思ったかというと、書く時間があまりとれずに、投稿の間隔が長くなってしまうからである。本当は、7000字ぐらいは、ぽんぽんと投稿していって、前記事を読み返したりしたい。けれども、それが難しいので、細切れで書きつつ、それを時間あるときに読んで、このかっこ書き部分だけを補足しようかという試みである。かっこ書きぐらいなら、スマホからでも投稿できそうだからだ。しかしスマホ、そろそろ買い替えが必要かもしれない。先日、ヤフーの方で、古いスマホやブラウザへのサポートを打ち切って、アプリなどが全部使えなくなるとのことだった。いつからだっけ、2018年10月中旬……ということで、もういまじゃねーか。ああ、だから、乗り換え案内とかニュースとかメールとか使えなくなったのか。うーむ……、パソコンは拘りたいけど、正直スマホは道具的にしか思えないんだよなぁ……)


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今日の一言「優柔不断」

 生活環境が、また変わろうとしている。
 簡単に書けば、今年の最初の方に元に戻るわけだ。

 もうちょっと自分を考える時間を作ろう。

 何が大切で、何が譲れないか、ちゃんと言葉にできるようになろう。

 決められなかった。大事なことを。
 別に、自分をよく見せたいとか思わないけれど、誤解されるのは非常に怖い。

 他者への信頼感ってのがあんまないのか。
 どうして決められなかったのか。
 でも、流されたくなかった。感情を信じられなかった。
 感情じゃないんだ。
 理性的に、論理的に、という表現は気持ち悪いが。

 でも、感情は、儚いんだ。
 ハードルがあるんだ。



 感覚的に生きることは、悪くない、というか、畢竟すれば、極端に言えば、感覚的にしか人は生きれない。
 論理やルールというのは、人が心地よく過ごすために編み出した技術なんだから。

 人が幸せになれないルールなんて、何の意味があるのか、ない、けれども、ルールがあるという事実だけがルールたらしめる場合があるから複雑なんだが、まぁ、単純に考えるなら、人は感情的に、感覚的に生きたって何ら問題はない。



 それを前提において、書けば、その感覚なんてものは、あまりにも儚くて、信頼性がおけないものである。

 そういう意味では、お金とか、物的なものは安全だ。しかし、それは単なる道具に過ぎないというアンビバレンス。



 好きだという現時点の気持ちがいくら本当で、真実でも、それは、僕は……。




 僕の思考の師匠が言っていた。「信じるしかない」のだと。
 でも、僕は、師匠ほどの人間じゃない。師匠は、「神になれ」といっていた。僕は……。



 こんなポエムみたいな記事、数年後には、僕は、黒歴史だと頭を抱えるのだろうか。
 ヤフージオシティーズが閉鎖されるというニュースを見た。
 賛否あったけれども、パスワードを忘れてそもそもログインできない人が、むしろ黒歴史だから消えてくれてよかった、とコメントしたりしていた。

 僕も、高校生ぐらいの日記、ログは、きっと、赤面する表現があるかもしれない、が。
 それでも、「なかったことにしてはいけない」と思うんだけど、違うかな。

 過去の、つらかった経験も、かなしかったことも、苦しかったことも、全部、引き受けないと、「人生」の意味はあるんだろうか、と思う。僕は。

 シロクマさんもブログで言ってた。懐古主義、と揶揄されるかもしれない。
 でも、その黒歴史って、何故生まれたんだろうか。
 何故恥ずかしいと、今なら思うような、「熱い」ポエムを、わざわざホームページにつづるような熱量が生じたんだろうか。

 その表現は稚拙かもしれない。
 でも、そこに表現したかった「思い」ってのは、きっと大事なものなんじゃないかって、そう思うのだ。

大事にするもの

 なんの話だって。読む人を考えない独善さは、まったく許しがたいものだろう、そしてそれは、未来の自分にとっても同様である。

 書くこと、を大事にしたい。

 生活環境の変化は、大きな変化は、そもそも、高校生ぐらいからホームページを運営してきたことからすれば、何度もあった。
 そのうちで、こんな「思考」を捨て去ろうとしたことも、2回はある。
 1回目は、大学生のとき。それは、社会人になって働き始めて数か月でやめた。
 2回目は、結婚したとき。それも、数年してやめた。

 
 人は、忘れる生き物だ。
 それは感情も。記憶も。
 でも、過日、やっぱり、「決めることができなかった」ことで、感情も記憶も、「引き出せなくなっている」だけで、自分を構成する要素としては、なくなってなどいない、ということを強く感じた。涙と一緒に、やっぱり、そうだって感じた。

 なくなってなどいない。
 なくなっていない、のではない。むしろ、なかったことにしてはいけないのだ。

匿名性

 多分、多くの人に理解されないことだろうけれども、対面的なコミュニケーションだけが重要なんじゃないと、僕は思うのである。

 繰り返し書くけれども、僕は、高校生ぐらいからインターネットを使っている。
 そこで出会った人たちで、実際にあったことがある人も、多くはないけれどもいる。その中で、連絡がつかなくなった人もいれば、今でも交流がある人がいる。

 それらの出会った人々と、会社の同僚と、どちらが大事か、なんて、「私と仕事どっちが大事なの!」という愚問と同様だ。――どっちも重要だ。
 よくある批判的言動において、ネットの人たちは、いざというときに助けてくれない、という。
 くだらん。
 現実の人たちがどれほど役に立つのか、という問題が一つと、僕が本当に精神的に参ってしまった数年前のある時、二人の方からEメールを頂いたことを僕は忘れない。

 ネットゲーで出会った人と結婚したとか、オフ会で云々とか、そんな事例を持ち出すまでもなく、「人は、人」である。そのツールが何であろうが。
 ビールが進むせいで余計なことをさらに書けば、だ、昔の話で、文通的な文字的交流において関係が発展した、とかいうこともあったろう。コミュニケーションの本質と、ツールとの違いをはき違えてはならない。
 あー、くだらないが、補足して置けば、別に、対面コミュニケーションの重要性を否定するわけでもないのである。


 そういう意味で、前掲のシロクマさんは、奥さんもお子さんもいるとのことだが、ご自身のブログとの関係性はどうなんだろうか。要するに、知られているのだろうか。その辺がよく分からないし、興味がある。

 もっといえば、他の私と交流してくださっている方々はどうなんだろうか。様々な立場の方がおられると思う、が、リアルの人たちにも教えているのだろうか、どうなんだろう。

 いやまぁそれを知ったところで僕がどうこうするわけではないが、付き合い方というか、距離の取り方というか、なんというか、上手く表現できないけれども、参考にしたいという思いはある。
 思う、が、僕はやっぱり、知られたくはないし、積極的に開示する気にもなれない。

 何故なら、「思考のプロセス」のメモなのである。
 ゆえに、結論ではないのだ。

 ああ、なんというか。
 その、「ゼロ秒」なのである、本当である。僕は、これだけの長さの文章を、考えて書いているのではないのだ。いやまぁ、当たり前か、考えたらこんな冗長な文章は書けなかろう。
 だがそれゆえに、思考スピードも、あとから読んでも分かるし、何故そう考えたかも分かる。そういうことは意識しているつもりである。つまり、思考トレースだ。追跡。追いかけている、復元できるように。なぜ? 人は忘れるからだ。

 センター試験前の、冬の、寒い部屋で石油ストーブの燃える音と、結露が生じる窓。机に向かって勉強する自分……いや勉強じゃない、日記だ。文字を書いていた。不安や不満を。
 そんな感情や感覚は、決して、きれいな文章では分からないのだ。
 文字の乱れや、無駄な表現、改行、改ページ、ああ、そんな無駄を含めて、思考なのだ。


(かっこ書きである。あのさー、このブログに甘えるの、やめようって、先日書いてなかったっけ。ブログ、何だぜ? クローズドなSNSではないんだよ? その辺分かってる? 分かってる。と思う。先日も書いたけど、東京で暮らしていると、ほんと、めっちゃ人多いで。なんでこんなに人がいるんだろうと思う。そして、こんなに大勢の人がいて、みんな孤独なんだ。いや、嘘ごめん。「孤独な人もいる」程度だろう。みんな、多くは友達やら恋人やら親や家族やらで囲まれているんだろう。でもさ、孤独な人も、いるよね、って、思う。で、さらに、「生きる意味」に疑問もったり、目の前に立ちはだかる障害に困ってる人も大勢いると思うんだ。俺も仕事で一個非常に困ってる案件があるよ。それでも、「生きる」って選択を、多くの人はしているわけだ。それは尊い。尊いがゆえに、つらいことでもある。だから、そんな直面した問題や課題に対して、「思考」という方法で検討する術を、僕は表現できたらいいなと思う。まーその、現実、使ってみると全く役に立たないわけだが(かっこわらい)。でもそりゃそうなのだ、これは、非常に限定的な個人主義というか、実存主義なのである。普遍的に適用できる思考など、ありゃせんのだ。だから、故に、価値がある。文字を書く人、創作をする人は、その意志だけで価値があるのだ(明日か、それ以降で、もうちょっとまともな精神状態で冷静に考えて書きたいものだ))

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