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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「何を書けばいいんだ」

圧倒的時間の経過

 おぉ……もう日曜日が終わるのか。明日学校の方、明日仕事の方、明日予定があるから、お疲れ様です。ゆっくり休んで明日に備えてくださいね。

 ……えーと、書くことないな。
 ああ、メイドインアビス、なんか見る気が起きなくて、「楽園追放」を見た。アニメーション映画だったのか。気づいたら1時間半ずっと見ていた。まぁ、まぁ、面白かったような。ただ、エンディングがあんまり好みじゃないなぁ……惜しい。☆3つか、☆4つか、そのぐらい。中盤はよかったと思う……いや、後半もよかったと思う。ほんと、エンディングがなぁ……。って、俺はきっと、人外のモノ……機械に知性が生まれた系が好きなのか。

 A.I.――アーティフィシャル・インテリジェンス。なんか最近はやりだからワクワク感が反比例してしまっているが、もともと、押井守の「イノセンス」とか、「イヴの時間」とか、タチコマとか好きだったのである。
 前意識とか、クオリアとかも好きなのである。――概念が好きというのは、なんとも奇妙なものか。

 なんだろうなぁ……この感覚。「人」というよりも、ロボットとかアンドロイドとかの方が、なんか純粋性が心に響くんだよなぁ。その行動は、「行為」ではなくて(=意志が介在しない)、あくまでプログラムされた決まりきった行動でしかないのだけれども、その行動自体が人の心を動かすのである。逆に、その行動が、打算も何もない、単に純粋な行動であることに、僕は何故か感動してしまうのかもしれない。

純粋な行動

 あれ、なんだ。書く前は気が乗らずに、5分もしたら打ち切ろうかぐらい思っていたが、書き始めると意外に書けるじゃないか。俺は奇妙な奴だなぁ。

 うん、その、「単に純粋な行動」ってのは、人には難しいのである。

 筋トレとある運動を最近取り入れているが、それは身体に負荷をかけるというよりも、無心で時間を費やすイメージである。仏教の修行に「数息観」という自身の呼吸を数える方法があるが、それとスクワットを組み合わせたような感じ。インナーマッスルを鍛えられてよいかなと思う。腕ふり運動、スワイショウと呼ばれているようだ。
 これを500回ぐらいすると、12分ぐらいである。12分間、ずっと数をかぞえる。いろいろ思考が浮かぶが、集中する。でも、気持ちが浮ついていると、集中できない。仕事のこと、遊びのこと、プライベートのこと、家族のこと、雑事のこと、夢のこと、タスクのこと、ゲームのこと、いろいろ浮かんでくる。
 100回ぐらいだと、雑念で頭がぐちゃぐちゃである。400回ぐらいすると、少し雑念が取り払われる。500回に近づくと、再び集中力が途切れ始める……うーむ、まだまだ修行が足らん(かっこわらい)。

 ええと、何の話だ? そう、純粋な行動だ。人は、いろいろ考えてしまうから、純粋な行動は難しいのである。

 でも、スポーツとか、武道とか、芸術とか、なんでもそうだと思うけれども、「ここぞ!」という時に集中できない奴は弱い。
 自分の心、そして体を、すべてその一点(集中すべき対象)に注ぎ込むイメージだ。それができなきゃ、負ける。……何にだよ(かっこわらい)。

生活の軸をどこかに見出さねば

 あー。えーっと。
 そういや、PSVITA買ったんだった。忘れかけてたよ。
 三国志13も買ったのに、数時間プレイしてやってないよ。

 なんか、最近、いろいろ、集中できないんだよな。「いろいろ」とか言っちゃってる時点でもう駄目じゃないか。
 俺も、もういいお歳なわけで。こんなことを言うと、「まだ若いんだから頑張りんしゃい!」と言われるが……いや、そういう問題じゃないんだ。

 うーむ。

 楽しいことすることを否定するわけじゃないが、やっぱり、俺は、何で生きているのか分からないのである。
 実存的空虚感である。なんかゴロいいよね。中二病ワードっぽくて好き。

 ああ、しかし、そうだ、思い出した。
 俺はやっぱり、ウフコック(※)じゃないが、「これが俺の存在証明(レーゾンデートル)だ」って言い続けなきゃダメなのである。
 だから、それができなくて、平日帰りが遅くて、ブログも書けずに本も読めずにって日が続くと、精神的に摩耗していくのである。

※マルドゥックスクランブルという作品に登場するスーパーネズミ(とかって書くとファンに怒られるのか?)

因果律

 が、少し落ち着こう。
 忙しいから精神的に落ち着かないのか。精神的に落ち着かないから忙しいのか。どっちだ? 無限遡及? 無意味な問い?

 予測できないことばかり起こると、精神的に摩耗する。というのは、「自己コントロール度」が感じられないからだ。運命に翻弄されるだけが人生であれば、なぜ「努力」に意味があるのだろうか?

 努力というのは、目の前の問題・課題を、「自分の力で」解決できるという見込みを、自分自身信じられるから実施できる行為である。
 いや、そんな大上段なことを言えるのは、年の功である。俺も年を取ったのである。昔の俺は、努力したところで、「上手くいく」なんて、全然信じていなかった。信じられなかった。それでも、退路がなかったから、ただがむしゃらに、ひたすらに「頑張った」。

 心理学でいう成功体験みたいな話か? どっちかというと、パブロフの犬のような、学習性無気力のような話か。

 まぁ、それはどうでもいい。

 いま、俺は、いつまでに、何を、するのか、だ。


(かっこ書きである。うーむ。ここで終わってしまうと、この記事、何の価値もないような気がする……それは自分にとっても。とりあえず、先日作成したフローチャートを見てみる。なるほど、直近問題としては、3つある。
「生きるか死ぬか」
「仕事を続けるか辞めるか」
「結婚するかしないか(子どもをつくるかつくらないか)」
 面倒くさいけれども、これらの問題を考えなければ、これから先、ずーっと思考ループしそうである。しかし、いったいぜんたい、これらの問題、どうやったら思考を進められるのか。はっきりいって、「決め」の問題のような気もする。……いや、一個目の、「生きるか?」という問いにおいて、僕は、「生きる意味を徹底して考える」と考えているのだろう。だから、直近考えなければいけない問題に対して取り組んでいることから、この問題に近づいている際は、たとえ解決の見込みが立たなくても、ある程度気分はよいのである。というよりも、その一個目の問いがものすごく強い。二つ目、三つ目は、それに従属する問いにしか思えない。だから俺はダメなんだろうな。一個目の問いがなくて、二つ目、三つ目、あとは異性とかお金の問題とかに取り組める人のほうが、きっと幸せな人生を送れるのだろう。何せ、一つ目の問いは、「そんなん、解決しないよ。古代から偉い人、頭のよいひとが考え続けてきても、もう何千年も立っても解決してないじゃん」ということである。ただ、そうやって諦めさせる方法の他に、ある精神科医は、この問題は現代昨今深刻になっていて、もはや向き合わなければならない状況に陥っている、と言っている。42歳で亡くなったデンマークの哲学者さんは、宗教的実存に意味を求めたわけだけど、それ以外の、何か方法だった、頭の悪い僕でも到達できるような何か手段があるのではないか、と。それを模索し、記憶し、実践し、考えてからでも、一個目の問いに答えを出すのは遅くはあるまい)




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今日の一言「こんなに時間が経っていたとは」

僕はまだ生きている

 気付いたら、前回記事から2週間も経とうとしている。久しぶりだと、自分がどんな口調で書いていたかも思い出せなくなる。……いや、そんなもの無かった。このブログでは、特に決まり事などないのだ。思ったこと――僕の脳内に生じる言葉を、ただ転写(写し取る)だけでよいのだ、いやむしろ、そうあるべきなのだ。

 一つ、実感度合いを高めたことがある。
 やっぱり、くだらなかろうが、他者にとって役に立たなかろうが、短かろうが、とにかく、何か書かないと、僕は落ち着かないのだということである。

 ルーチンも、だいぶ、おざなり(テキトー)になっている。ちなみに、「なおざり」とは、「あまり注意を払わないこと」であって、似ているけれど意味は違うようである。
 部屋もだいぶ整理が行き届かなくなり、それもまた苛立ちにつながる。
 ここで、ある友人の言であるが、「部屋が汚くなると気分が悪くなる」というのは、逆であるということだ。「部屋を片付けるほど気力がなくなるから部屋が汚くなるのだ」と。こういう言説は、「絶対なる真実!」と捉える必要はないが、とても役に立つ思考である。逆転の発想、常に大事にしたいものだ。何故役に立つかって? 「ああダメだ部屋を片付けなきゃ……」と思って、それでもできなくて、「ああ、今日も片づけられなかった……明日こそは……」みたいに思って、次の日も結局できずに悪循環になったり。そういうときは、むしろ「ゆっくり休む」ことの方が急務だったり。


 それでもって。
 僕のその、「休む」というのは、「眠る」ということだけではないというのが、上に書いた実感として強まったもの、イコール、「何か書かなければならない」ということだ。つまりこのブログだ。

 パソコンの画面を見て、指を動かしタイピングして、思考をして文章を作って、と、「書くのがきらいなんです」という人もいるだろうから、それが何故「休む」ことになるのか、不思議に思う人もいるだろう。
 分かりやすい(分かりやすくないかもしれないけど)例を考えれば、「男は、一人になる時間が必要なんだぜ」とか、そんな奴。別に男じゃなくても、女の子でも、「いまは、そっとしておいて欲しい……」とかいうときあるだろう。それだ。

 その一人になって何をするのかといえば、「何もしない」のかもしれない。そういう時間によって、自分を見つめなおし、日々の慌ただしい生活に「待った」をかけて、また日常に戻っていくのかもしれない。
 そういう時間が、僕にとっては、「書く」ということなんだと、そういう風に思ったのだ。

体を動かした方がいいそれも外で

 書かないで、あれこれ頭を巡らせるのもいいかもしれない。
 が、僕にとってそれは絶対ダメだ。何度か思ってきたけれども、今回、この数日間によって、さらにその実感が高まった。

 なんか、「変」になってしまうのだ。
 それが何だかよく分からない。分からないけど、気をつけねばなるまい。


 ただ、先ほど書いた友人の言じゃあないが、「書かないと変になってしまう」のではなくて、「書けないほど忙しい」だったり、「書けないほど具合が悪い」という可能性もある。こういうときはどうするか。

 特効薬はない。ただ、風呂に入るとよくなったりする。筋トレとか体操するのもよい。ただ、できれば、外に出て体を動かすという方がよかったりする。ランニングとかでもよいが、近所のお店に買い物に行くのでもよい。とにかく、「外に出る」ということが、陰鬱な気分を改善させてくれる手だてになるのだ。

 寝てても、ダメだ。
 今日も昼過ぎまで寝てしまったが、一日中体調が悪かった。今回は、前日が遅かったというのもあるけれども、遅くなくても、どうにも頭が病んで起きられないということがある。逆に、起きても、やっぱり具合が悪くて、また寝てしまうということもある。――結論、駄目である。

 今僕は、明日から会社に行かねばならない、来週の土日も予定があるとかいうことで、何とも気力がでない状況であるが、それは、今日一日を上手く使えなかったからである。
 あー、再来週の土曜日か日曜日も予定があるのか……なんだか気分が乗らないなぁ……。

平日の有効活用を検討しなければ

 正直、僕の「僕として生きている」時間は、休日な気がする。いや、仕事は仕事でやるよ。手を抜こうと思っているわけではない。それがゆえに、帰りが遅くなったりもする。残業することはよいことではないけれどもね。
 しっかしなぁ、「オンラインゲーム症候群(どこまで行ってもすごい人は多い)」は、遊びだけじゃなく、仕事においてもそうであって。僕のできることが、「すごいね!」と言われることであっても、別に世界的に見たら普通だったりして。そういうときは処方箋としていつも、「人間は総合力である」と言い聞かせるのだけれども、結局、「人生に答えなんてない」って呪いみたいな言葉が頭をよぎる。

 僕が常に、よいことがあっても悪いことがあっても、こうやって「書いている」とき以外は憂鬱な気持ちがわきあがってくるのは――そのひとつの理由が、その「人生に答えなんてない」って呪いなのかもしれない。

 テーブルトークRPGというジャンルのゲームは、1.ゲームの目標を達成すること 2.登場人物の役割を果たすこと(ルールを守ってゲームを進行すること) 3.登場人物の役割を適切に演じること というのが求められるらしい。(ほんとは4つ目があるのだけど、難しくてやったことがない自分にとってはイマイチぴんとこなかった)
 RPGというジャンルだけじゃなくて、僕らの人生もまた、ロールプレイだと思っている。
 いや、人生は、唯一性・一回性があって、つまりリセットのきかないものなのだと、当たり前のことは理解している。ただ、僕が言いたいのは、人生もまた「物語」であるということだ。
 ――なので、本来は、「自分」というものを追求するのではなく、その「自分」なるものが、世界に・社会に・環境に・友人に・恋人に・家族に求められているその「役割」を果たすことで、自分の人生たるものに「満足」すべきなのである。

 かなしいかな。
 僕はその「役割」を分かっていない。30代にもなって恥ずかしい限りである。いや割とマジで。
 会社の、仕事としての「役割」は何となく分かっている。その「期待」ってものも何となくわかるし、その期待に到達しているかどうかってのも何となく分かる。できてないよ。と、いうか、期待なんてもの、どこまでいっても満たされるようなものじゃないよ。
 だから、PDCAなんて言葉が流行るのである。計画立てて、実行して、結果確認して、改善点を直して再実行する、と。ここで、チェック:Cとかアクション:Aが重要だとか、PDCAを常に回していくのが重要だ、とか言われる。
 けれども、PDCAの一番大事なところは、「P」である。
 プランだ。
 何故か? プランがなければ、つまりゴールがないってことなのだ。
 ゴールがあるから、その実行行為が成り立つ。意味を持つ。やりがいも生まれるかもしれない。

 目的なき行為ほど虚しいものはなかろう。

 よいリーダー足るもの、常に目的を、ビジョンを語り続けなければならない。
 まぁ、リーダーにも、管理型とか牽引型とか、いろいろあるようだが。ただ、僕に言わせれば、その管理するにも、引っ張っていくにも、その目指す先がはっきりしていなければなるまい?

 え、仕事が全部そういうものじゃないだろうと? 気象予報は、決められたデータに基づいて天気を予想するのが仕事であって、そんなにビジョンを語る必要はないんじゃないかって? まぁそうかもしれない。でも、それだって、「気象を予測することで、災害に備えたり、明日のお出かけの日程を決めたり、みんなの役に立つ仕事だ」とかって、ちゃんとやりがいもって語れなきゃダメなんじゃね? そういう目的があるから、きっと難しい勉強もがんばれるんじゃあないかな。

小見出し詐欺になった

 あー、上の記事、「小見出し詐欺」(小見出しと書いている内容が一致しないこと)になったな。
 平日、ちゃんとうまく使わないと、ということだ。
 いや、つまり、帰りが遅いのをなんとかしたいな、ということである。

 うーん……。仕事の状況だけじゃなくて、周囲の環境もあるんだよなぁ……難しいんだよなぁ……。
 あと、目的は……、すっげービックな目的はあるけど、目標管理する人がいないから……ってかそれがリーダー補佐かつ実行部隊的な俺の役目なのかもしれないが、どこまでやったらOKなのかも不明確なんだよな。つーか、「お客様の満足度」的なのって、正直なところ、それこそ答えないじゃん、とも思うわけであって。
 そういうのもあるから、「評価の軸」って重要なんだよな。

 ああもう!(笑) こういう話したくないんだってばよ。
 いやだからさ、仕事の話じゃないのだよ。「僕の」「物語」の話なのだよ。


 だからさ、「仕事」に一生懸命生きる、ってのが僕の人生の物語だって、心底信じられるならそれでもいいんだよ。再び結婚して、温かい家庭を築くのが僕の生まれた意味だって心底信じられるならそれでもいいんだよ。
 限られたリソース(僕のもっているもの全般。資産、ルックス、身体、思考知識、性格特性、人脈その他もろもろ)で、なんとか精一杯やってやるよ。

 問題は、そのリソースを、どこに使おうかってことである。
 まぁ、こうやってダラダラ書いているだけでも、日々なんとか生きてやってるだけでも、リソースは減っていくのであるが。


 あー。だから、そうだ。
 やっぱり、「生きる意味を徹底して考える」これである。

 仕事もする。女の子とデートもする。友人とも遊ぶ。創作もする。ルーチンもする。提出すべき書類(プライベート)も書く。

 それぞれ色々やりつつ、軸にすべきは、その、「僕の人生」に対する目的、評価軸の構築である。言い換えれば、「生きる意味を徹底して考える」ということである。


 その方法論的なので、「もし子どもに生きる意味って? と尋ねられたら」という記事が参考になりそうだったので、リンク貼りつつ、今日はもう終わろう。


(かっこ書きである。「目的やビジョンが大事だよ!」とか俺は自分でいいつつ……。この「生きる意味を徹底して考える」について、目的とか目標がてんで書かれてないのでは? とも思った。まぁここら辺は気を付けなければならない。同語反復といって、同じ意味の言葉を繰り返すことがあるが、これは無意味なことであると辞書的に言われる。目的とは何か? それは何故か? 何だ? どうしてだ? と延々と繰り返す……。こういうのを望んでるわけではない。そういう意味で、「お前は考えることが好きなのだ」とか、「答えを出したくないんでしょ。はいはい分かります」とか言われるが、それは本能的に違う、と思うのだが、まぁそう見えることは致し方ないと思う。これがまぁ、10代……いや、20代ぐらいなら、まだかわいげがあったろうが、30代でこんなことを書いているのは間違いなく異常者の部類である。うむ。ただ、間違いなく言えるのは、このまま、いろいろ日々の仕事や遊びを「楽しく」やっていっても、僕のこの問題というか課題については、きっと解決しないだろうということだ。
 そういや、「メイドインアビス」が面白いという情報をある方のブログを読んでいて知った、かつアマプラで見れることから見始めた。うーむ……人物の絵があまり好みではないのと、1話~3話あたりの展開と主人公たちにあまり興味をひかれなかったが、アビス――竪穴の迷宮に入り込んでいってからは面白くなってきた。関係ないけど関係させれば、記憶を失った凄くて不思議な力をもったレグ君が、「僕は、自分が誰なのか知りたい」「危険なのは分かっているが、好奇心には勝てなかった」というのを聞いて、「ああ、そうだ、そうなのだ」と思った。少年少女の冒険譚って、そういうものなのだ。「何かわからないけど、でも目指す」のだ。主人公の女の子も、「奈落の底にいるという母に会いに行く」という目的を掲げ、信じ疑わず、危険や困難など二の次である。困難を乗り越えて、たどり着いたその答えが、例え凄惨なものであっても、それがまた新たな成長の糧となっていく。そういうものである。とにかくこの作品も最後まで見てみよう。最初があまり面白くなくても、最後まで見て面白かった、となる作品がここ最近、覚えている限りで2作品あったので、期待してもよいだろう。――しかし、それはそうと、おれは、俺自身は、いったい何を目指し、どこに向かって歩んでいるのだろう。物語でいえば、主人公が苦悩してまごまごウダウダしている場面である。読者や視聴者にとって非常に面白くなくて、飽きさせて、イライラさせる場面である(かっこわらい)。まぁ、そういうシーンもあるから、結果的に物語は面白くなる場合もあるのだ。困難……例えば強い敵とか、因縁とかそういうのも必要なのである。と、若干前向きな終わり方にしてみる)

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今日の一言「連載三つ目」

前回までのあらすじ

――生きる意味を徹底して考える(1)
――生きる意味を徹底して考える(2)

 2回の連載で、
・生きる意味はあろうがなかろうが、そこが問題じゃない
・考えなければ生きていけない
・人生の意味には、役割ベース、モチベーションベース、インスピレーションベースの3つがある
・役割ベースの生き方はつまらない
・モチベーションベースの生き方は重要だがそれも万能ではない
・ライフワークをもつのが重要だ

 と書いてきた。

 今回は、その「インスピレーションベース」とか「ライフワーク」とか、そんな横文字について、もう少し自分に引き付けて考えて整理していきたい。

もう少し詳しく振り返ってみる

「ライフワークとは何か?」
 と入る前に、もう少し復習をしておきたい。

 上のあらすじを「よく覚えている」という人は、次の小見出しまでジャンプしていただきたい。
 以下、対話形式で、前回までの流れを整理する。


「生きる意味を徹底して考える必要がある」
 ――何故か?

「生きる意味があろうがなかろうが、考えることから逃れられないからである」
「補足すれば、『生きる意味を考えるのは無駄だ』と主張する人であっても、『その他のもっと重要なことを考えるべきだ』という主張をもっているからだ(※)」
 ――では、その他のもっと重要なことを考えるべきであり、生きる意味など考えない方がよいのではないか?

「仮に、生きる意味を考えずに、『今・ここで、目の前にあることに注力する』としたとき、それは本当に人間としての生き方であるのか。人間としての生き方は、3つあるという。(1)役割ベース、(2)動機ベース、(3)インスピレーションベースだ。単に考えることをやめて、ただ目の前のことに一生懸命になるというのは、(1)の役割ベースの生き方ではないか」
 ――役割ベースの生き方ではダメなのか?

「ダメではない。ただし、役割ベースとは、その役割なるもの――すなわち「使命」が、外部から与えられている。常に新しい「使命」に心身を捧げ、考える余地なく行動し続けることができれば、それは一つの人間としての在り方であろう。しかし、動機無き行動は、長くは続かない。その人はいずれ摩耗し果てるだろう」
 ――何故か?

「外部から使命が与えられているからだ。人間が本来力を発揮できるのは、内発的な動機が必要である。それに従って生きるのが、動機ベースの生き方だ。動機ベースの生き方とは、「やらなきゃ」というより「やりたい」と思うことを続けていくことだ。それは仕事ではなく遊びかもしれないが、それでもよい。遊び(趣味)のために仕事を頑張れるという人も少なくないだろう。また、仕事が楽しいという人だっていることだろう。とにかく、「面白い」「楽しい」と思えることを続けていくのが動機ベースの生き方だ」
 ――では動機ベースの生き方を目指せばよいのか?
「動機ベースの生き方も万能ではない。理由は、以下に、前回の記事の一部引用により示す」

 一つは、上に書いたけれども、「現実と、自分の動機との整合性」をとる必要があることだ。前の記事で書いたが、「現実と理想との乖離を少なくすること」が幸せを感じるためにも必要であるというのと関連する。
 いっくら熱い情熱を燃やしていても、我々の世界は魔法あふれるファンタジー世界ではないのだから、無理なことは無理なのだ。「すぐ入れますよ、お安くしときますよ」とか言っていい店だったことがないのと同じだ……いやそれは違うか。
 もう一つは、その動機も、必ずしも長続きするとは限らないということである。
 前回の記事のカッコ書きあたりで書いた気がするが、「楽しくゲームするために生きるんだ!」という情熱を燃やして、頑張って勉強して良い高校に入ったかもしれないが、そんな動機で長続きするわけないのである。何故かというと、人生の困難・障害ってのは、なっかなか激しいものだからだ。
 確かに、一時的な快楽を得る方法はたくさんあるだろう。しかし、それらが、今後も続くであろう人生の艱難辛苦とシーソーゲームを繰り返すとしたら、十分に希望を見出すことができるのだろうか?――生きる意味を徹底して考える(2)

 ――ではどうしたらよいか。
 ということで、ようやっと、本記事の、ライフワーク云々の話につながる。


※本当の意味で「考えることを放棄すべきだ」という主張も存在する。ただしそれは、神に一身を捧げることであったり、坐禅により心身脱落することであったり、特殊な生き方の部類である。この考え方・生き方については、一考および選択の余地があると思っているが、本記事の主旨からはずれるため触れない。

何故ライフワークが必要か

 何故、動機ベースの生き方は不十分だったのか。
 それは、いくら自分の人生であっても、誰も、未来のことなど分からないからである。

 今手にしているお金も、愛も、健康も、この先どうなるか分からない。いや、物質的なものや、精神的なものであっても、時間とともに減っていくのは確実だ。
 ……減るのが確実だ、と書いてしまうと、投資家としては「お金」はお金によって増やし続けられるかもしれないし、愛に生きる恋人たちは永遠を信じて疑わないかもしれない。だが、健康はいずれ損なわれていく。老化、そして死は避けられない。

 例えば。
・美味しいものを食べるのが幸せだ、生きがいだ、だから私はそれが生きる動機なのだ。
・ゲームするのがとにかく楽しい。これをやっていられたら他に何もいらない。
・人とかかわるのが、おしゃべりするのがワクワクする。ずっとこうやって生きていきたい。

 それらはとても大事なことだ。

 だが、長期的に人生というものを考えたとき、環境の変化や、趣味嗜好の変化があったとき、それは永続する動機となりえるのか?

 つまり、動機ベースの生き方は、それ自体が悪いわけではなく、その継続性、強度が不十分ではないのか、と考えられるのである。だから、ライフワークが必要だ、――となるが、ここは、もう一つ小見出しで補足しておこう。

動機ベースとインスピベースの生き方の違い

 動機ベース、インスピレーションベースと書いてきたが、実は、それほど大きな違いが無いのではと考えている。
 というにも、前回も書いたが、この「インスピレーションベース」というのが、どうにも落ち着きの良くない言葉だ。
 他の言葉で何とか、ピンとくる表現にできないだろうか、と少し考えてみる。

 ナチスの強制収容所を生き延びた精神医学者V.E.フランクル氏は、「唯一性・一回性」が人生を価値あるものにしていると述べている(『人間とは何か――実存的精神療法』参照)。唯一性とは、「私が、私以外の何者でもないこと」であり、一回性とは、「人生がリセットボタンでやり直しのきかないものであること」である。

 デンマークの哲学者キルケゴールは、絶望の三形態を、
・自己自身があることに気づいていないこと
・本来的な自己自身になろうとしないこと
・非本来的な自己自身になろうとすること
 と述べている(『死に至る病』参照)。

 僕は、この一連の連載を、「3.個人としての生きる意味――生きる意味を徹底して考える(1)」を前提に書くと決めた。
 だから、このインスピレーションベースの生き方というのを、キルケゴール氏の言葉をかりて、「自己自身ベースの生き方」というのはどうか。あるいは、「実存ベースの生き方」というのはどうか。

 ただ、横文字を漢字にしただけでは、結局何を意味するかよく分からない場合がある。
 実存ベース……っていっても、実存ってなんだよ、という人もいるだろう。
 実存とは、フランクル氏がいうところの、「唯一性・一回性」をもった人間として、人生をまっとうすることである。本来的な自己であるということだ。
 ――まだ分かりにくいだろう。


 ここで、もう一度、役割ベースと、動機ベースと、「実存ベース」の生き方の違いについて、その行動の源泉になるモノ、「やらなきゃ」「やりたい」がどこから与えられるのかを考えてみよう。
 
 役割ベースは、「外部」からであった。親であること、社会人であること、学生であること、とある政治団体の一員であること、宗教団体の一員であること……など。その所属するカテゴリーから、「こうあるべき」という行動指針が与えられる。それに対して邁進するのが、この役割ベースの生き方であった。

 動機ベースは、「内部」からであった。自発的に、自分自身で「やりたい!」「楽しい!」「面白い!」と思えるもの。その気持ちに基づいて行為行動するというのが、動機ベースの生き方であった。

 実存ベースは、どこから与えられるのか?
 それは、動機ベースと同じく、「内部」である。自分自身の中からであることは、動機ベースと同じなのだ。
 しかし、動機ベースと違うのは、その根拠、強度、継続性である。

 僕は、その実存ベースの生き方を求めて、今さまよっている。
 30代にもなってお恥ずかしい限り。
 
 ……が、逆に、問う。
 果たして、どこまで多くの人が、本当に、唯一・一回性の人生において、「自分にしかできない」「自分はこれをやるために生まれてきた」といえるような、ライフワークに出会えて、そしてその生き方を選択できているのだろうか。


 意識高い系みたいなことを書いている? 否、断じて。
 僕は単に必要性に迫られているに過ぎない。深い森の中に迷ったとき、生存本能から恐怖を感じ、そこから抜け出さんと足掻くのと変わらない。

 僕はそうしなければならない

ライフワークに出会えている例

 本当は、この記事においては、具体的にライフワークを見つけるためにはといった方法論にまでいきたかったが、おそらくこの調子ではまた5,000字をこえることだろう。
 今回は、一つ、ライフワークの例を書いて終わりにしよう。

 いきなりアニメーション作品の例で恐縮であるが、最近過日、「Re:CREATORS(リ:クリエーターズ)」という作品を全話視聴した。
 シュタインズ・ゲートという作品もそうであったが、この作品も序盤はあまり引き込まれず、1~3話ぐらいみてしばらく放置していたが、途中、「築城院真鍳(ちくじょういん・まがね)」というキャラクターが登場した、6話から面白くなっていった。というより、マガネちゃんがとても好きになったのだ。若干寝不足になった(かっこわらい)。

 彼女は、悪役である。
 彼女は、無辜の住民を面白半分に殺害する。
 主人公陣営と、敵側の陣営に分かれているが、当初、マガネちゃんは敵側陣営に加わるように説得される。ところが彼女はその申し出を断る。かといって、主人公陣営にもくみしない。面白い方につくと。世界がどうだろうが関係ないと。
 彼女は完全サイコパスである。「憎しみ」とか「正義」とか、そういった主義主張も存在しなければそういった感情もない。言説弁舌巧みで、人の弱みを握ったり、おとしめたり、絶望させることが得意で、そういうのがとても面白いと思っている。

 登場のしょっぱなから、悪い奴だなぁと思ったし、顔つきも邪悪である。まぁ、ずーっと笑顔で楽しそうにお話ししているが、ものすごい胡散臭い。「そうだよ? マガネちゃんは嘘しかつかないので~す」とか、クレタ人もびっくりしちゃうぐらい。

 これだけ書けば、単に頭の狂った悪い奴、なのであるが、何故か憎めないのである。
 その理由について、マガネちゃんの登場回を重ねるごとに、分かった。彼女は、どこまでもまっすぐなのである。マガネちゃんは、「面白いこと」をただ、ただずっと求めているだけなのだ。そこに善悪の基準はない。ただそれだけで、ただそのためだけに生きている。マガネちゃんは友達いないだろうかもしれないが、彼女にとってそんなことどうでもいいことなのだ。


 ――それだ。
 唐突である。思い出そう、これは何の小見出しだったか? ライフワークの例を挙げようというのが目的だ。つまり、マガネちゃんが、住民惨殺したり、面白半分に主人公陣営にも敵側にもつかずワイルドカード的な立場でふらふらしたりしている時点では、それが、動機ベースの行為なのか、実存ベースの行為なのか分からなかったが、登場する場面ごとにその置かれた立場や条件は違うのに、ただ一つの自己自身の目的……「面白いこと」をどこまでも求めてやまなかったのである。そんな一貫性みたいなものが、実存ベースの生き方……ライフワークの実践だと思う。
(その結果として、最後には物語にとってとても重要で良い方向の働きをする。ただ、マガネちゃんにとってそれが「良いこと」なのか「悪いこと」なのかは、結局どうでもいいことなのである)


 インスピレーションベース、実存ベース、ライフワークと、様々な表現で書いてきたけれども、もう一つ、「信念」という言葉を付け加えてもいいかもしれない。

 次回は、もうちょっと、このライフワーク的なみたいなものについて、掘り下げたり、広げて例をあげたりしつつ、「じゃあ俺はどうしたいんだ? どうすればいいんだ?」ということに突っ込んでいきたい。
 結局今回の記事は、「実存」的じゃなくて、自分の中ではあまり面白くなかった。――のだけれども、書かなければいけない、書いておかなければいけない、そんな気はした。


(かっこ書きである。Re:CREATORS、アマゾンプライムのウォッチリストに登録してから数か月過ぎてたけど、意外に面白かった。上から目線な書き方をすると、「よくまとまっていた」と思った。なんか、アマゾンレビューで、「人物描写が足りず、2クール(22話)では全然短かった。もうちょっと丁寧につくったらよかったのに」とか、「製作者側の自慰」といった意見もあったけど、僕はむしろ、もっとコンパクトにしてもよいと思った。なんというか、今作においてキャラクターは、むしろ「テンプレ的」であることが求められていたと思う(何せ各物語の主人公なのだから)。だから、なんとなくこのキャラはこういうキャラだと、脳内補完できるレベルで描かれていれば十分だと思ったのだ。それと、製作者側の自己満作品だ、というのは、その面もあるかもしれないが、創作物があくまでも消費者側の「承認力」を必要とするという設定は、僕の好きな小説の完全無欠の高校生が何か神の末裔(?)の女の子と合体して悪い奴をやっつける作品の、認識子(グノシオン)みたいで面白かった。というか、そう、小説家とか漫画家とか、その創作者たちが、自身の作品に対してぶつける熱い思いってのが、すごくよかった。この作品を異種能力バトル的なものを期待してみるとちょっと肩透かしかもしれない。いやまぁ映像はとてもきれいだったけれど、もうちょっと戦闘シーンとか全体的にカットしてまとめてもいいんじゃないかな、ってのが僕個人的な感想。ただまぁ、そういうのもあったからか、ブリッツはん【娘をなくしてちょっと虚無になってしまったハードボイルドのおっさん】と駿河はん【女性漫画家。ブリッツ・トーカーが登場する作品を描く】のやりとりとか、めちゃくちゃ痺れた。その二人のシーンと、マガネちゃんをみれただけでこの作品にとても満足だ)

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今日の一言「連載の二つ目」

前回のあらすじ

 ――生きる意味を徹底して考える(1)

 上のとおり、
・生きる意味はあろうがなかろうが、そこが問題じゃない
・考えなければ生きていけない
・人生の意味には、役割ベース、モチベーションベース、インスピレーションベースの3つがある
・役割ベースの生き方はつまらない
 ということを書いた。

 さて、役割ベースの生き方を取り敢えず否定したわけだが、今度は、「モチベーションベース」の生き方について書いていく。

モチベーションベースの生き方

 モチベーションベース。動機に基づいた生き方ってことである。
 本来的に、みんなモチベーションベースの生き方をしているとは思う。ただ、忙しさにかまけて、周りが見えなくなっている場合にのみ、「役割ベース」の生き方になっている場合があるのである。

 ちなみに、役割ベース……別に絶対だめだといってるわけじゃない。というより、昔……それは、昭和とかそれだけじゃなくて、封建時代とか神権政治時代とか、歴史的にみたら往々にしてそういった時代ばっかりだったわけである。
 士農工商なんて小学生並みの例を挙げるのは恥ずかしいが、それぞれ身分があった時代は、「自分らしい生き方」なんて考えられる土台がそもそもなかったのである。

 そう考えると、19世紀の実存主義の興りというのは、とても大事なことだったといえる。
 脱線するが、それは西洋からしてのことであり、古代インド・紀元前5世紀ぐらいではそもそも、ゴウタマ・シッダールタさんが、「人生ってそもそも苦しみじゃない?」とか言い出していたのである。


 話がそれた。動機主義である。
 動機とは何か。正しい説明を知りたい方は、「人生の目的は、自分らしく生き、人とつながること」こっちを見てもらうとして、僕的解釈をすれば、「欲望」である。

 せっかちに、先回りして書いてしまうと、この後の話の流れとして、「欲望はまた苦しみの源泉である」ということに触れようとは思うのだけれども、まずは、「欲望をもつことが重要だ」という主張をする。

 欲望と聞くと、たびたび、よくないものだという認識が生じる。煩悩という言葉に置き換えてもよいかもしれない。

 お金が欲しい。
 美味しいものを食べたい。
 女(男)が欲しい。
 車が欲しい。
 家が欲しい。
 称賛が欲しい。
 名誉が欲しい。
 楽をしたい。

 煩悩まみれの人間なんて、かっこ悪いと思われがちだ。
 でもそんなことはない。欲望こそが、人の行動の源泉である。

 企業の営利活動とは何だろうか。人の欲求を満たすものである。
 もう一方、「面倒なことを解消する」ことである。

 CSRとかいって、環境とか社会活動に貢献することも重要視されたりもするのだろうが、結局、第一優先は、資本主義社会・競争社会において、その企業が生き残ることである。生き残って利益を生むことができるから、その利益を社会貢献に使えるのである。そしてその行為が、投資家や消費者に対しての付加価値になるのである、だから社会貢献するのである。

 いやいや、人の「倫理観」を根こそぎ否定するのではない。しかしだ、これは僕が勝手に思っているだけなのだが、人は根源的に利己的な存在であると思っている。この「利己的」というのは、「他人のために為すこと」も含めて考えている。他人のために為すために、自分が存在して、その他人が喜ぶ姿を見て「利己的に」喜ぶのである。――といった解釈を書いたり言ったりすると、まずもって友人や恋人はできないから注意するように(誰に言っている)。

 書いておかねばならないのは、別にそのことが、悪いことでも、偽善だとして断罪しようというのでもない。それはそれで素敵なことだ。自分の食欲を満たすのではなく、他者にパンを与えるという行為。それが己の倫理観に従ったものであるというのは、人間という存在の崇高さを物語っているではあるまいか。


 というわけで、すべての人間の行為は、欲望からなっていると言ってよい。悪いことをしてしまうのもまた欲望のせいだとしても、良いことをなしたいと思うのも、それはまた欲望であるのだ。

 んでもって、その欲望に従って生きるということ、「自分がやりたい!」と思うことと、現実とを一致させていくということ。それがモチベーションベースの生き方である。

動機ベースの生き方の欠点

 確かに、このモチベーションベース(タイプするのが大変だから、以後「動機ベース」と統一する)の生き方には、役割ベースの生き方の焦燥感、強制感に比べたら、人間礼賛・個人賛美の美しさがある。
 ところが、この動機ベースの生き方も万能ではない。


 一つは、上に書いたけれども、「現実と、自分の動機との整合性」をとる必要があることだ。前の記事で書いたが、「現実と理想との乖離を少なくすること」が幸せを感じるためにも必要であるというのと関連する。
 いっくら熱い情熱を燃やしていても、我々の世界は魔法あふれるファンタジー世界ではないのだから、無理なことは無理なのだ。「すぐ入れますよ、お安くしときますよ」とか言っていい店だったことがないのと同じだ……いやそれは違うか。

 もう一つは、その動機も、必ずしも長続きするとは限らないということである。
 前回の記事のカッコ書きあたりで書いた気がするが、「楽しくゲームするために生きるんだ!」という情熱を燃やして、頑張って勉強して良い高校に入ったかもしれないが、そんな動機で長続きするわけないのである。何故かというと、人生の困難・障害ってのは、なっかなか激しいものだからだ。
 確かに、一時的な快楽を得る方法はたくさんあるだろう。しかし、それらが、今後も続くであろう人生の艱難辛苦とシーソーゲームを繰り返すとしたら、十分に希望を見出すことができるのだろうか?


 そして、いま僕が立っているのが、ここでもある。
 なんだか、いろいろ、実感がわかない。意欲がわかない。


 さぁどうするか。そこで颯爽と登場するのが、「インスピレーションベースの生き方」である。

インスピレーションベースの生き方

 ただ、このインスピレーションベースの生き方というのは、横文字がなんだか定着しない感があるのはそのとおり、明確に「これだ!」という定義があるわけではないのだ。そもそも、インスピレーションとは、「突発的に降ってきたアイディア」的な意味である。(アイディアとは、よくよく考えた結果であることが多い)。霊的な……という意味も入ってくると、どうにもうさん臭さを感じたりもする。

 ただ、この三つの生き方を提示している本というか、その記事において言わんとすることは、何となく分かる。それは、「ライフワーク」に関する部分である。以下に少し引用する。
(ライフワークとは)必ずしもそれは職業で表されるわけではありません。あなたがそれをやっているだけでワクワクできたり、楽しくなったりするような活動です。それが、ライフワークだと考えてください。ライフワークとは、あなたがそれをやっているだけで深い満足感を得たり、自由な感じがしたりする活動です。自由に自分の才能を分かち合えたら、それだけでやめられないような楽しい感覚を持つことになります。――ライフワークを始めよう
 そう。これである。僕が今、一番重要視していること、探さなければいけないと思っているのはこの、ライフワークなるものである。

 先日僕は、「生きる意味がないなら、結婚して子どもをつくって育てればよいのだ」という意見を聞いた。
「やっぱり……そうなのかなぁ、究極、人間だって生物なのだから、子孫繁栄が第一命題なのかなぁ」と思った。

 そうなのかもしれない。
 でも、僕の、ワクワクして、それをやってるだけで満足感がえられて、自由な感じがする活動ってのは、本当にそれなのだろうか。



 次回、ライフワークを探すために今後していくべきことについて考えるとする。


(かっこ書きである。いつも普段の記事は、ゼロ秒思考で……それって思考っていうの? というほどに、指が自動筆記している。今回の連載記事は、非常に考えている。ものすごい時間を要している。その割に推敲の時間はほとんどないのであるが……。)

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今日の一言「保存版にしたい」「とても長くなりそうなのと、一度で書ききる体力精神力がないため、連載記事とする」

導入・定義

 生きる意味を徹底して考えたいと思う。
 文章は、読む人の対象をはっきりさせる必要がある。導入が重要だ。
 まず、生きる意味とは、大きく3つに分けられる。

1.宇宙規模の生きる意味

2.人類規模の生きる意味

3.個人としての生きる意味


 生きる意味、生きがいといったキーワードで調べると、「生きる意味がある」だとか「ない」だとか、様々な主張を読むことができる。
 しかし、それらを読むときには、その書き手が、上の三つの、どのレベルで書いているのかを把握する必要がある。そうしなければ、分かったような気にはなるが――基本、読めば、それなりに納得感は与えてくれるものが多いのだ――、結局、それをどう自分に生かしていいのかが分からなくなる。

 僕のこれまでの記事は、基本的に「3.個人としての生きる意味」である。これは言い換えれば、「実存の問題」である。
 そのため、今回の記事としては、「生きる意味」の定義を「3.」に限定した上で書いていく。

実存問題

 はじめに、自分の現在の立場を明らかにする。さもないと、この記事の終着点、「結局何がいいたいの? どっちなの?」が分からなくなる。かといって、ここで書く立場が、永劫不変完璧なものであるという根拠も自信もない。むしろ、それを確固たるものにしたいというのが、日々書いてきている理由の一つでもあるのだ。

 さて、僕は、生きる意味があるとか、ないとか、その問題の立て方自体に、意味がないと思っている。
 逆に、数ある生きる意味に関する主張において、「ある」立場でも、「ない」立場でも共通していることが見受けられるのだ。

 それは、「結局は、自分で考えて見つけましょうね」ということである。
 ――と書くと、「ない」立場の人たちの主張の中で、「暇があると余計なことを考えるようになるから、暇をつくらないようにして、そんな問題を考えることからさっさと逃げる」ことを推奨する人たちはどうなのだ? と思われるだろう(考えることを否定しているという意味で、「自分で考えましょう」とは言っていないのではないか?)。
 その主張の代表的なのを見つけたので、メモしておく。
――誰も彼も「生きる意味」には「蓋」をすることでしか対処できない

この問題はそもそも向き合うことが間違っている問題なのです。だって答えが無いんですよ。唯一の生活は「死なないため」だけなんですから。だから、せめて苦しくならない正解としては「そもそも考えない」「そんな問題からはさっさと逃げる」
こんなの人類の永遠のテーマですよ。神が罰を下したとか死を迎え転生するための修行だとか。はい、もうとっくにずーっと前の偉い哲学者とかが向き合った命題です。
考えるよりそちらの方々の本を読んだほうが早い。
 否定はしない。むしろ、僕もこうあるべきではないかと、内心思っている。
 しかし、それを納得したとしても、次に立ち向かうべきは、「どう生きるべきか」という問題となる。そうしたとき、まわりまわって結局、「考えること」自体からは逃れられなくなる、というのが僕の主張である。

 人間は、考える生き物である。
 ホワイトカラーだろうがブルーカラーだろうが、主婦だろうが主夫だろうが、考えることからは逃れられない。
 それは、資本主義社会になってしまったからかもしれない。民主主義になってしまったからかもしれない。ただ、狩猟採集生活をしていたころの人類だって、太陽の沈む方向から方角を捉えたかもしれないし、よく木の実が生い茂る土地を覚えたかもしれないし、猛獣と戦う・逃げるための方法を考えたかもしれない。疑いえないことは、人類が考える生き物だったから、現代社会のように発展してきたのである。

 もちろん、上の「生きる意味には蓋をすべき」という考えの人たちは、別にすべての人間の思考自体を否定しているわけではないだろう。
 同じ人のブログで、逆に考えることを奨励する記事も見受けられる。
 忙しさは精神の安定を奪います。死ぬ気で怠ける方法を考え抜くことが何より大切です。生ぬるくのらりくらりショートカットする方法ばかり模索しないで、死ぬ気でショートカットを見つけて下さい。
そしてとにかく自分の時間を沢山手に入れる方法を模索してください。
とにかく忙しさは人の思考力を縮小させてしまいます。
貴方を鬱にしているのは忙しさです。
忙しさを美徳とする奴は絶対的な悪です。悪の権化です。
死ぬ気で怠ける方法を模索してください。
 鬱になったときに、どうしたらよいのかという方策を述べているものである。「死ぬ気で怠けることを考え抜く」べきとある。

 別にこの方のブログがどうこうではないが、僕が基本的に、「生きる意味を考えても仕方がないから暇を作らず忙しく毎日を生きようぜ!」という主張に共感も実践する気もなれない理由はここにある。
 繰り返しになるが、「考えること」からは逃れられないのである。

 僕の立場をまとめよう。
・生きる意味があるだとかないだとか、それ自体は問題ではない
・問題は、どちらにせよ、考えることからは逃れられないことである


 補足というか蛇足かもしれないが、僕は、10代前半ぐらいのときから「生きる意味」を考え始め、20代前半ぐらいのときから、その、「毎日を積極的に肯定して今が大切だとして忙しく目の前のことに打ち込んでいく」ということを実践していった。
 30代となった今。結果として、結局「虚無」との戦いは終わっていない。

日々を忙しく生きることとは

 しかし、その「生きる意味など考えてはいけない」という主張には、強烈に惹きつけられるものがある。ある友人がいっていたが、「その考え方はとても役に立つ」のである。だから僕も、決して悪いものではないと思っている。

 ただ、僕はその先、もう一歩を考えたい。
 その役に立つ考え方が示すのは、「リア充」になることである。または、「自分の欲望を満たし続ける」ことである。もしくは、「自分の感性や感覚を追求する」ことである。

 僕が問題にしているのは、その「あるべき理想の姿」である。
 ここでいう理想とは、人類社会における理想像などではなく、あくまで、実存として(個人として)のものだ。
 それを求める場合、構築する場合、結局「考える」ことからは逃れられず、そして何より、その「理想」求め構築するためには、立ち戻って、己の「生きる意味」というものと、向き合わなければならないと思うのである。

 それは、坐禅や瞑想のように、「思考」を手放すための方法を取る場合においても避けられない。
 坐禅とは、道元禅師いわく、「修証一如(しゅしょういちにょ)」――即ち、悟りにいたる手段ではなく、それ自体が悟りなのであるのだが、そこに至る生活を決断するというところに、「考える」ことが必要であるのだ(もっとも、それは最後の「考える」になるかもしれないが)。


 この考え方、この感じ方に至っている理由は、僕は「幸せ」という言葉の定義を、「理想と現実の乖離」として捉えているからである(この辺りは何度も書いているので、あとで参考記事のリンクでも貼るか)。
 この幸せ追求のモデルが誤りであるのだとすれば、その「理想の姿」を求めること自体を改めなければいけないかもしれない。ただ、ここはかなり強固な部分であるため、変更するのは難しい気がしている(自分の中で)。
(いやそもそも、「幸せ」を追求すること自体が正しいのかどうか、ということは結論に至れていないが)

生きる意味があるとしたとき

 生きる意味がないとしても、結局考えることからは逃れられず、幸せだとか、充実した生き方を目指すときに再度生きる意味を考える必要が発生するということを書いてきた。
 これについては、なおも納得いかない人も多いだろう。「今が幸せなら、何故わざわざ生きる意味など再び考える必要が発生するのか」と。それはその通りである。――が、これも一般論で言われるところであるが、「幸せばかりの人生など存在しない」ということだ。人生山ありゃ谷もある。楽ありゃ苦もあるさ、と。その人生の波が、正常点(鬱状態。正常でいられないほど苦しい状態。人によって異なる)より高い位置で上下運動する分には問題ないだろう。しかし、その波が突如として、正常点を下回るような状態に陥った時……それでも「生きる」ということを選択することができるかどうか。


 話が進まなくなるので、ここで、逆に「生きる意味はある」とする考え方について整理していく。
 ここで一つ引用をする。
 ――人生の目的は、自分らしく生き、人とつながること
 豊かな人生とは「自分の大好きな人と、大好きな場所で、自由に時間を過ごすこと」です。これ以上のぜいたくを私は知りません。これは多額の費用もかかりませんし、何か才能がないとダメだということもありません。いまの私にとって、ファーストクラスで世界一周旅行することよりも、家族で河原を散歩することのほうがよほど豊かな体験です。
 そのためには「自分が誰か」を思い出すことです。自分が何をやりたいのか、何をやると幸せなのかを知ることです。
 そのためには、目の前の選択肢の中でいちばんワクワクすることを選び、大好きなことを毎日やることです。それがきっと、あなたが生まれてきた目的につながっていきます。
 上の記事で提示されていた人生の意味には、三つあるとされている。

 一つは、役割ベースの生き方。
 二つは、モチベーションベースの生き方。
 三つは、インスピレーションベースの生き方。

 それぞれについて、以下、僕が勝手に解説しよう。ちゃんと知りたい方は上のリンク先をどうぞ。

役割ベースの生き方

 親として、学生として、部下として、夫として、ボランティア団体の一員として……。
 役割ベースの生き方とは、何かに所属し、そこから与えられる「使命」に対して必死になる生き方のことである。
 生きる意味がないとする主張の多くは、この役割ベースの生き方を目指させるものにあるように思う。「今を生きよ」とか「目の前のことに集中するのだ」といった意見を見かけたり、実際に言われたことがある人もいるのではないだろうか。

 いきなりだけれども、僕はこの次元の生き方を否定する。
 いやもちろん、「生きる意味とは……」などと考えたこともない人は、ぜひ一生考えることもなくそのまま生き切っていただきたい。ただ、一度でも、自分の存在意義に、少しでも疑問を抱いたことがある人なら……実存的問いを立てたことがある人ならば、この役割ベースの生き方は非常に脆く儚いものであると知っておいてもよい。

 もちろん、それが脆く儚く潰えてしまわないように、さらなる役割を求めて、必死に生きていくありかたも、それまた人間として美しいだろう。

 ――ただ、「やりがい搾取」とか、人の善意を食い物にしようとする魑魅魍魎も存在することは触れておく。もう一つ、ぱったり、ぽっきり、「挫折」という問題が生じる可能性にも触れておく。これは何も若い人に限ったことではない。中高年鬱とか、熟年離婚とか、定年退職後に急激に老けてしまうとか、問題が発生する可能性は、そこら中に転がっているのである。

 これが、役割ベースの生き方の危険性だ。
 つまり、「役割」なるものが、外部から与えられる仕組みになっていることが問題であるといえるのである。
 学生時代は、勉強なり、部活なり、恋愛なり、友人関係なり、大変だったかもしれない。しかしそれでも、単位をとって進級するだとか、入試を突破するだとか、就職活動するだとか、一応目安となる「役割」は与えられていた。

 さぁいざ「大人」になったら? 会社が仕事という役割を与えてくれる? 愚かしい考えだ。与えられた事をこなすことは仕事ではない、作業だ。仕事とは、利益(物・サービス)を生み出す仕組みを作り上げることである。
 マニュアル人間なんていらない、という言葉も聞いたことがあるだろう。主体的に動ける人材が必要だと。

 主婦(主夫)になれば、良き夫、良き妻になるという役割が与えられる? 否。何につけても従順であるだけの関係は長続きしないとされている。マグロなセックスは飽きるとか……ちょっと違うか。

 まぁ、例証が中途半端だから、上の内容は批判満載だろうが、そもそも役割ベースの生き方にあまり興味がないため、適当で構わないと思っている。
 言いたいこととしては、結局、大人になったら、自ら役割を選択していく必要があるということだ。

 そして、それこそが次の、「モチベーションベースの生き方」ということになる。

 ――次回へと続く。


(かっこ書きである。だいたいここまでで5000字。なんだか、昨今、無気力感・虚無感が強い。ヘルプミーである(軽いな)。具合がよくないのによく書けるなとも思うが、いやむしろ逆なのだ。書くことしかできないのだ。なんとか、部屋と風呂掃除はしたが……。もう思い切って、PSVITA買って、シュタインズ・ゲートのシリーズやろうかとも思い始めてきた。たぶん、新しいとか面白いゲームしてるときは、ある程度気分がまぎれるのである。オンラインゲームとか、シムシティシリーズとか、三国志シリーズとか、GTA5とか、それはもう時間が膨大に必要なので、気を紛らわすにはとても有効なのである。しかし、ゲームはやっぱり、小説書いたり作曲するのとは違って、消費だと思う。もちろん、物語のインスピレーションを得る意味でインプットとして有効な面はあるけれども、アクションやシミュレーションゲームはそれ自体が意味になっていて、……いやそれはそれでストーリーはあるのだろうが、その大半が「作業」であるため、消費の側面が強いと思うのだ。……ま、それはそれで、ありだろうとは思っている。中学生時代もずいぶん人生つまんねーなーと思っており、そんな中、楽しいゲームとかはあったから、「もういっそ楽しくゲームを送ることを人生の第一目標にしよう。そのためにちゃんと勉強もして高校にもいってお金を稼げるようになろう」とも思ったものだった。逆にその目標のため、ゲームを一切段ボールに詰め封印したり。そういう生き方だって悪くないと思う。が、しかし、それはそれで、そうやって生きると、自分自身で決めたいというだけなのである……かっこ書きも長いな。ええと、次の記事は明日の12時から17時に投稿する)

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