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実生活と創作について2
2018/09/12 00:00 | Comments(0) | 目的・目標

雑記

 先日の記事に頂いたコメントの返信において、「ま、自分でこれまで自分の作品をさいっこうに面白いと思ったことは、お恥ずかしながらないんですがね……」と書いた。
 しかし、2004年11月22日の記事……月曜日とのことだが、たまたま読んで、「投稿サイトに挙げたら閲覧数がいくつかあって嬉しかった」「自分の作品も中々面白いと思う」と書いてあった。
 マジか……! マジなのか! いやしかし、マジなのだろう。俺は本気でそう思っていたのだろうと思う。時期的に、たぶん、あの作品なんだろうなぁと思ったりする。読んでみる。正直申し上げて面白くない!(かっこ笑い)

 これはしかし、創作レベルと感性レベルの成長であると、素直に感じてよいことである。そして、感情が抜け落ちた過去の自分の作品において、「面白いはずだ」と思っていたというのは、非常に大事なことである。きっと当時は面白かったのである。ただ、その面白さは、「客観性」に欠けていたのである。自分の感性が、作品への多大な補正を行っていたのである。

 だから、創作で重要なのは、まず、自分が納得できるレベルで面白いか、ということをベースにするべきと思う。他者の評価は辛らつなものになるかもしれない。しかし、それはともかく、自分自身で面白いと思えないで、何の意味があろうか。
 いや、商業的、プロフェッショナルとしては、「こんなの面白いと思えない。でも売れるから書く」というのはあるだろう。仕事なんだから、アウトプットしなきゃ何の意味もない。
 けれども、そうじゃない創作との付き合い方ってのはあると思う。
 僕は、そちらの方向を目指したい。

 ちなみに、プロと、アマチュアと、バイトとか、仕事の形態にはいろいろある。
 基本的に、金銭が生じる場合は、一般的にプロということになる。そういう意味では、バイトもプロである。だから、バイトのことをパートナーとかって言い方をする会社もある。違いは、雇用形態であって、短期か長期か、という点である。臨時職員、契約社員、派遣や請負など様々あるが、基本広い意味で全部プロだ。
 ただし、プロという言葉には、「専門家」という意味もある。スペシャリストである。「その道のプロ」という言い方をするときはそちらの意味が強くなっている。
 上の段落の塊で何をメモして置きたかったかといえば、プロとかアマとか、それは、「実力」とか「面白さ」のレベルを示す指標ではないということだ。アマチュアが集まる音楽の投稿サイトとかもあって、そこで投稿されている曲を聴いたりすると、「すげえ」ってのがいっぱいある。でも、フリーで入手できる場合もあるのだ。……ちなみに、フリーで入手できたからといって、それがアマチュアの作品であるとは限らなくて、プロが企業と契約して報酬を得ている形態もあるだろうし、一概に言えないことは当然メモしておく。ただ、本当に趣味の一環として音楽を作って、投稿している人ってのも大勢いるはずなのである。ニコニコ動画とかユーチューブでもそうだろう。

 だから、いいものってのは、ビジネスモデルと一致しているとは限らないということである。もちろん、対価が支払われる環境の方が、当然サービスがよいものである「可能性」は高いはずである。しかし、当然、可能性でしかないことを銘記しておく必要がある。

雑記2

 関係ないことだから、前回の記事で、詳しくは書かなかったけれども、やっぱり書きたくなってしまった。
 シュタインズゲートゼロのアニメで、演出がいまいちだった、と書いた。
 理由のシーンは、ヒロインの一人が、これまで溜め込んでいた気持ちを吐き出して、ついに行動を起こすシーンである。非常に重要なシーンであり、伏線の回収であり、新しい伏線でもあり、感動的なシーンであるのだ。原作のゲームやったときも感動した場面であった。
 が、アニメの場合で気になったのは、「語りすぎ」と思わせられてしまったことでる。
 セリフが長いのである。
 いやしかし、セリフ自体が問題なのではない。そのセリフ一つ一つが重要であると思うから、カットすべきだ、などとは到底思わない。
 何が問題か、といえば、カメラアングルを、ヒロインに向けすぎていたことである。
 涙ながらに、身振り手振りで感情を表現するヒロインに、心を打たれる視聴者もいるはずだ。
 しかし、その姿が、「おおげさ」に思ってしまったのである。何度も、時間にしたら数分なんだろうが、ずっと見せられて、逆に「感動の押し付け」に感じてしまったのである。
 どうしたらよかったのだろうか。代案なき批判に愛はない。ということで考えてみる。
 そこは、回想シーンのカット(場面)を、挿入すべきだったのではなかろうか。ヒロインの、主人公への思いが、まだ十分に醸成しきっていなかった時の場面や、本心を伝えたくても伝えられなかった場面、逆に、主人公と楽しい時間を過ごしたときの場面など。
 セリフに合わせて、ヒロインにアングル合わせるのではなく、時間軸を過去にもっていくことによって、その少し長いセリフの「重さ」のバランスが取れたんじゃあなかろうか。

 ということは、きっと、演出家さんなども分かっていたんだと思う。ただ、期限とか、予算的な面で、そういった編集ができなかったんじゃあないかと、邪推する。仕事って、期限がある。仕方がないことである。
 でも、やっぱり、好きな作品に対しては、最高の状態で見せて欲しい、という思いもあるわけだ。妥協はしてほしくない。これがベストだと自信をもって送り出してほしい。

 あー関係ないこと書いてしまった。

創作について

 本題である。
 ちなみに、「実生活について」という点については、「保留でよかろう」という結論が前回の記事でついたと思っている。……いいのか? という思いもなくはないが、まぁ、仕方があるまい。中途半端に悩んでも意味はない。決めるべきその日がきたら、世界は、自分はいやがおうなく巻き込まれていくのであるから。

 ということで、今後の創作についてである。

 そもそも、「今年中に何かする」という目標を、先日立てたことによる、返信記事であるといってよい。

サイトのURL変更

 まず、必ずやらなければならないのは、サイトの方の、URL変更である。
 これは、お借りしているサーバーさんの方で告知されていることなので、早急に対応する必要がある。

不具合修正

 データベースの統合を行ったことによる、リンク切れの問題を対応しなければならない。感想や、読んだよボタンを押した後に、一部画面から上手く当該作品へ戻ることができない状況。単純なHTMLのリンク切れならすぐに対応できるが、プログラム部分を直す必要があるため、後回しにしてしまっていた。実際問題これは、自分が使っていて不便なので、できる限り早く直したい。

 もう一つ、これは利用者さんからの指摘であるが、読んだよボタンについて、作者の場合も「読んでるよ」というステータスになってしまうという現象がある。実は、これは機能実装時にそうなるだろうと分かっていた内容であり、俗にいう「仕様通り」という奴なのであるが、確かに不便で分かりづらいところがあるため、直したいと思う。この「仕様不具合」というのが、実際システム系の仕事だと、トラブルの元になるケースが非常に多いのは蛇足の話。
 ただ、ちょっと対応方法は今すぐ思いついていないなぁというのが正直なところ。対応方法検討とプログラミングも含めて対応していきたい。

 まぁ、今、こうやって書いていて思ったのだけれど、やっぱり、こういった仕事(?)は面白い。「問題解決能力や問題解決学習が大切だ!」とかって、教師や上司から言われると「うげー」ってなるかもしれないが、ただ、自分で解決したいなぁと思う問題を設定して、それを解決するための方法を考えて、実行するってプロセスは、やっぱり普通に面白いことだと思うのである。
 だから、「仕事」っていうと、「つまんねぇ」とか「金だけもらえればいい」って、多くの人は思うわけであるが、……いやまぁそれは一つの方法であり、「工夫」が逆に許されない管理型の仕事もあるわけだから一概に言えないのは承知の上で、全部が全部つまんねぇ仕事だけじゃない、ということはあると思う。思ううえで、そういった仕事は「キリ」がなかったりするし、そもそも評価がしにくい面もあるから、非常にめんどくさいのは事実である。だから、「仕事を面白くした方がいいよ」とは中々言えない。言えないけれど、でも、個人的には、面白く生きていきたいと思うのだ。話がずれたしよく分からなくなった。

創作用ブログの開設

 これは案であるが、運営サイトのブログは、現在閉鎖している状況である。更新もしていない。元々は、こういったサイトの方針だとかは、そっちのブログに書いていた。
 エンタメ作品の感想とかもそっちに書いていた。いろいろあって閉鎖した。

 で、サイト更新は、実際開発環境がないと難しい面があって、中々できないところがある。
 更新がないと、「管理人いなくなったんだな。もうこのサイトオワコンだな」と思われてしまう。
 せめてものために、サイトの運営状況をお知らせするブログを開設してはどうか、という案である。

問題点その1:そもそも意味はあるのか

 目的は、上に書いたように、サイト利用者に管理人の状況、運営状況などをお知らせするものである。
 それをしたからの効果は何かあるのか?

・利用者が、一応運営されていることは知ることができる
・僕が、ああ何かそろそろ更新しなきゃと思う

 ……それぐらいか。あんまり意味はないかもしれない。それよか、もう少しこまめに、「お知らせ」欄とかに何か書くとかでもいいんじゃないか。

問題点その2:このブログとの切り分けはどうするのか

 このブログは、基本的に未公開のような位置づけで思っている。いやもちろん、公開しているし、個人特定情報などは書かないので、SNS的な意味で使ってはいない=リアル(物理環境)の人に見せる予定はない、ということだ。
 そういう意味では、運営サイトの方も、別に見せる気はない。けれども、このブログよりかは、見せても構わないと思っている。

 そうしたとき、ブログの切り分けが上手く機能するのか、という問題が二つ目。
 例えば、実生活的なことや、それに対しての考え方などを、先日の記事で書いたけれども、それって、創作ブログ(仮称)に書くことになるのか、それとも引き続きこっちなのか。

 で、多分、創作の、サイトの更新に関することしか書いていないと、ぶっちゃけ、ブログ面白くないだろうし、俺も書くのがつまんねぇってなると思うのだ。

 いや、まぁ、すでにここまでダラダラと書いてきたことから分かるように、僕は、書くことは基本的に好きなんだと思う。タイピングもまぁまぁ早いし、打つのも嫌いじゃない。スマホ、おめーは別だ!! っというか、スマホが嫌なのは、キーボードのスピードとあまりにも差があるからだと思う。思考とアウトプットの差がストレスになるんだと思う。口頭の方が当然早いのだけれども、それよりはキーボードの方が遅くて、頭の回転が速くない自分にとっては、キーボードアウトプットがちょうどいいのかもしれない。

 というか、「面白いこと」って何か、ということである。
 一般的な情報を載せたところで面白くないのだ。そんなん、ニュースみてたほうが楽しいだろう。
 なぜわざわざブログを読むのか。「その人に興味がある」からである。
 いやまて、「エクセルの関数講座」とか、そういう、お役立ちブログ、はどうなのか? あれは、別にブログという形態をとる必要がない。ただし、それらも、情報発信という面ももちろんあるが、「その人が発信する情報である」という点が重要なのである。
 その人が取材(取材といっても、普段生活して気づいた点やちょっと調べたことでもいい)して、その人の言葉で書くから、ブログってのは価値があるのだ。

 いろんなソーシャルメディアがインターネットの開闢から発生し、消えていったが、ブログという形態は残っている。それは、発信者その人への興味というのがなくならないからではなかろうか。

 だから、故に、「創作のこと」を特化したブログってのは、あんまし、面白くないんじゃないかと思うのである。

 だとすれば、このブログと、運営サイトの直結を検討した方が、更新者である僕の手間を考えても適切に思われる。


 が。
 ちょっとそれは避けたいと思っている。珍しく、気持ちが理性に先立って思っている。
 やっぱり、このブログの場は、特別に思っているのだ。
 クローズドコミュニティにしたいわけではない。ただ、……ええい、率直に書けば、リアルの人には見られたくないのだ。一切合切。

 なんでかってのは、多分、数年前のある事件によるんだろうと思う。ただ今は、単純にこの場を失いたくないという思いである。「俺にも、守るものができた……!」とか、そういうBGMがかかるところである。
 茶化すのはやめておいて、なんというか、ブログを、リアルの人にも公開して運営できている人を、僕は羨ましいと思う。いや、そういう関係が本当は普通なんだろうか。でも僕は、かたくなにやりたくないと思っている。

 なんでかっていうと……。

 また長くなったな! 中断!!


(かっこ書きである。しばらく、ブログ更新できていなかったけれども、最近調子が戻ってきた。いろいろ、思いや意欲が溢れてくる。……ブログは、そういう場なのである。なんかこう、気持ちの結節点になるものなのである。だからといって、書いてあることが、全部100%の自分の気持ち……いや、その時点では、その面もあるのだけれども、十分に表現できているとは言えない部分もあるし、前後記事や、これまでの流れと関係する部分もあるのである。だから、その一つの記事だけ読んで、何かこう、「判断」されることが危険なのである。だから嫌なのだ。大体、「長くなったな」と書きつつ、別に読む分には、大した長さじゃあないと自分は思っている。思っているが、一般的に他者の文章を読む際の適切な長さは完全に超えている。ゆえに、誰も普通は読まない。読まないけれども、節々のキーワードから「判断」をする。文章ってのは、ブログってのはそんなもんである。だから嫌だし、期待していないのだ。だから、リアルに公開しようとは思わないのだ。そして、「理解」してもらいたいともそんなに思わないのだ。だからこそ。今、コメントくださったり、訪問してくださっている方々がとても大切なのである。そしてこれは、物理的な友人たちをないがしろに思っているなどとは、まったく違うのである。まったく違うのだけれども、「この場がとても大切」ということを書けば、そういった表現があれば、「オタクプギャー」とか思われるのである。え、そんなことないって? 僕もそんな風に思っていたことがありました。しかし、「普通の人」というのは、そもそもブログなんか書かないらしいのです。っていうようなことを、ある精神科医さんのブログ記事で読んだことがあったような。しかし、そもそも、創作をしたいとかって思う人は、普通じゃないのかもしれぬ)

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創作と実生活に関する方針
2018/09/11 12:00 | Comments(0) | 目的・目標

物語の必要性

 前回の記事で、「創作」と「実生活」をテーマに書きなさいと御達しがあった。
 しかし、いきなりそんな重いテーマで書くと、面白くなくて筆が止まってしまうので、過去の記事を流し読んでいた。そうしたら、下の記事。

2018年6月6日の記事

「現実が満たされたら二次元は不要なのか」
 というタイトルだが、まさに前回の記事と関連する内容だった。もう3か月も前の記事である。そうか、こんなこと、俺は書いていたんだなぁという、この感覚って非常に大事である。何が大事かは良く表現できないが、これは日記やブログを書く利点の一つであるといえる。

 さて、しかし、その記事の内容よりも気になったのは、その記事の翌日に書かれた記事において、「あー前回(6月6日)の記事、めっちゃつまらんかったな」と書いてあったことである。

 今の僕としては、「え、いや、そんなつまらないというほどではなかったよ?」といった感想である。ただ、その時の僕は、きっと「つまらない」と感じたのだろう。


 ここから言えることは、もはや、自分の記事でさえも、適切な評価ができていないということの証左である。
 ましてや、他者の描く物語に対して、一定した評価など、ありえることなのだろうか。つまり、普遍的な物語など存在しない。

「面白い」
 という感情は、非常に偶発的で、一時的で、奇跡的なものですらあるのだ。
 だから。
 自分でも「創作する」という観点を忘れてはならないと思うのである。

成功体験と無気力について

 とはいえ。
 すべては偶然の産物である、とするのは、あまりにも運命論的に過ぎる。
 自分の行動が何ら自分の環境に影響しないのならば、無気力になるのも時間の問題だ。心理学でいう学習性無気力。
 そのためには、成功体験が必要だ。
 これは、ゼロをイチにすることである。
 これが、最大に難しいことだ。

 卑近な例を挙げてみる。
 ある童貞がいたとする。ある童貞は、彼女が欲しかった。しかし、彼女ができたことは、未だかつてなかった。(例が童貞である必要は全くなかったことに途中で気づくが書き続ける)
 彼は努力をする。彼女を作るために、服飾にも気をつかい、様々な出会いの場にでかけ、コミュニケーション力を培い、失敗を繰り返しながら学んでいく。
 その努力は、それだけで尊いだろう。
 が、その結果、「うまくいった」or「うまくいかなかった」となったとき、その「努力」に対しての自分の感じ方が、大きく異なるのである。

 適切な努力の量で、適切な結果が得られるべきである。
 努力の甲斐なく、彼に彼女ができなかったとする。だが、それは一つの結果に過ぎない。
 ただ、彼の中で、これまで一度も彼女ができたことがなかったとしたら、彼は、「今後も」自分には彼女はできないだろうという諦念が生ずるのである。

 異性を例に挙げたが、ミュージシャンでも、仕事の出世でも、対人関係(友達づくり)でも、なんでも当てはまるケースだ。

 成功体験がなくして、自分の実力や行動を信じられる人はいない。


 とはいえ。
 すべての、限りある人生の中で、すべての体験をするなど不可能である。

 だから、一つの成功体験を、連続した道筋として、自分の思考と納得感の中で紐づけられることが重要なのである。(それが物語だ、と書きたいが、飛躍するので我慢)
 上の例の彼が、たとえ、努力むなしく彼女ができなかったとしよう。しかし、女の子とおしゃべりして、一度だけでもデートに誘うことはできた。おめでとう!! それで十分だ!
 当初の目標からしたら、到底合格点には及ばない。しかし、一つの成果があれば、それを次の成果に結びつくだろうという「希望」を得て、次なる行動につなげることができるのだ。

 しかし、今「希望」という言葉を使ったが、これは当然、「納得感」が重要である。
 デートには誘えた、でも告白したら失敗した……という同じ結果であろうが、それを、「今度は別の子ならうまくいくかも!」と思えるか、もしくは「やっぱり自分はどう頑張っても無理なんだ」と諦めるかは、「納得感」によってしまう。

 ここで、下手な慰めなど、何ら役には立たないことを肝に銘じておく必要がある。
 言葉は時に絶大な影響をもつが、潜在する、内在する「感情」や「信念」は、非常に頑強なのである。

ネガティブな人を立ち直らせるには

 失敗を繰り返した人は、単に運が悪かっただけかもしれない。
 環境があってなかっただけかもしれない。
 その可能性がゼロではないから、「あきらめるな」「死んではいけない」という掛け声は、どんな場合や状況でも「正解」である。

 ただ、諦めというのも、時に「薬」になるし、「死」という概念も、時に救いであることもある。
 ただ、そんなことを、誰彼に言うべきではない。「大丈夫、きっと生きていてよかったって思える日がきっとくるから」とでも言っておけばいい。

 俺は冷酷な人間なのだろうか。
 本心をひた隠して、明るく振る舞うだけのサイコパスなのだろうか。

 どうでもいい。
 他者にどう見られたいかということや、「いい人」であることは、若いころはともかく、興味をもつ必要はない。

 どうしたら、適切に自分の思いを伝えられるか。
 どうしたら、適切に相手の思いを理解できるか。
 インプットとアウトプットの方法を鍛えるだけである。

 相手にどうみられるかは、結果に過ぎない。それも偶発的で、不確定な。
 もちろん結果を受け止めなければ次はない。
 ただ、その結果をどう理解し、繋げるかというのは、結局至極単純、自分のストーリーなのである。

 小見出しのネガティブ云々と関連がなくなってしまった。
 ただ、大事なのは、そのネガ人を、自分が本当に明るくさせたいか、ということだと思う。
 別に、ネガティブだって悪くなかろう。
 そういう個性なんじゃないか、って思ってるのなら、そもそもそんなの問題じゃない。
 だから、「ネガティブな人を立ち直らせるためには」という問題の立て方がそもそも間違っている。

実生活について

 や、ばい。
 パソコンになると、ある程度インプット、アウトプットする時間ができると、本当にどんどん長くなる。実りがないことをどんどん書きたくなってしまう。
 これは、普段生活していて生じた思念が、アウトプットできずに自分の中に渦巻いているからなんだと思う。
 んじゃー、実生活の周りの人にしゃべればいいじゃん、と、普通は誰しも思うだろう。
 それは、やってはならん。

 みんな忙しいんだよ。そんなぐだぐだした話に付き合ってられんのじゃ。
 彼女がいる人は、デートとか、仕事も忙しいだろうし、お子さんがいれば保育園に連れて行ったり、納期が迫った仕事でプライベートの時間も考えなきゃならなかったり、親の介護をどうするとか、ペットが最近具合悪いから心配だとか……。あ、布団干してたけど取り込まなきゃ雨が降ってきちゃうとかとか。

 現実世界は、みんな忙しいのである。
 思考とか、考え方とか、そんなこと言ってる場合じゃないのだ。


 なので、もう、こういう場で書くしかないのだ。
 で、「こういう場」って、非常に大事だけど、難しい。難しいけど、大事。トートロジー。

 あー、えーと、だから、まぁ、アウトプットしておかないと、まともに、目標だとか大層なことできんのである。ブレーンストーミングだよ。批判厳禁だよ。
 あーだけど、この記事、面白くないんだろうなぁとも思う。思うけれど、上の3か月前の記事が、ふと今の感覚で読んだら面白かったりするし、とにかく、書いておくことは正しいことだと、これは、僕の経験が告げている。なんか第六感みたいな感じだ! すげー!(かっこわらい)

実生活について2

 本題だ! きっとこの記事では、創作についてまで書けないと思う。
 創作については、取り急ぎ、サイト運営で気がかりな部分があるから、それを着手したいなと思っているが、今度の記事で触れよう。
 今回は、まず実生活だ。

 というか、前回記事から書いてたが、実生活ってなんだよ!(いまさら、である)

 実生活とは、……実生活のことだよ!
 家を買うとか、そういうことだよ。
 えっ、買うの?

 いや、あまりその気はない。
 しかし、現状、あまりリアルに書きたくはないが、二重生活のような状況なため、コスパは非常に悪いと思っている。集約化することで、費用は抑制できるし、それこそ、新しい住居を買うというのも、全然非合理的な判断ではないはずだ。

 いやここで、不動産購入というのが、そもそも非合理であって、一生賃貸でも全く問題ないだろうという理屈ももちろん分かる。
 分かるが、ここで、一戸建て派とマンション派の不毛な議論を……いや、その議論自体は価値観がいろいろあって面白いと思うが、どっちが間違いなく正解か、などというのは、結論がでたところで、それと自分との感性が一致するか分からんし、重要なことではないのは明白である。

 だが、ここで、「子ども」という概念がなければ、正直不動産購入をしようとは僕は思っていないと思う。同時に、「結婚」というのも同様に、しようとは思っていない。必要があればしてもいいと思うが、その必要性が、「子ども」以外に浮かばない。(まあ、事実婚というのも法律上あるらしい。どういうケースで認められるのか詳しくは分からないが)


 もう一つ、移動手段であるオートモービルを所有しているが、その扱いなど。最近あまり乗っていないが、経常費用はまぁまぁかかるわけである。それこそ、レンタルだって都心で暮らせば充実しているわけで、「所有」という形態にこだわる必要はあるのか、というのは問題ではある。

 が、今のところ、それも家計としては問題なく維持できる範囲である。逆に言えば、維持できる範囲のものを購入しているだけの話だが。



 と、なると、要するに、実生活を今後変更する決断は必要ない、ということではなかろうか。
 現状維持か。



 しかし、注意せねばならんのは、現状維持というのは、実際存在しないのである。

 現状維持というのは、不可逆の時間の中で、何らかの行動をすることによって成り立つものである。何故ならば、すべてはエントロピーの拡散だからだ!(よく分からないでカタカナ語を使った。一応調べるが、意図としては、物事は経年劣化したり、拡散していくものだ、ということ)

 常連に愛される店とは、いつもと同じ+αのことを探求していかなければ、「いつもおいしいね」とは言ってもらえないという、よくきく、あれだ。

 もう一つ理由は、人は、飽きるようにできているからだ。飽きることで、人は工夫をして、生活を豊かにしてきた。(テクノロジーが幸せにつながるか、というのはまた別の話)


 つまり、変化を恐れてはならない。
 というよりも、変化しないものはない。シッダールタさんも言っている。諸行無常であると。
 あー、そういや、最近仏教に関連することを全然書いてないな。これも、飽きの一つだろう。
 先日、坐禅をお寺にしにいった。とても貴重な体験だった。しかし、身体が固い僕は、痛みに耐えることがメインとなった。柔軟体操もルーチンにしたい……が、これはなかなか長続きしないのだ……。

 なんだっけ。変化。
 変化はするんだ。
 何もしなくても変化するんだ。
 だから、その変化を、いやその変化に、少しでも、自分の意志を反映させたいのである。

 あーもう、具体的な方策が何も決まらない。
 いや、別に、今のままでいいってことじゃないか? んーん?

 長くなったのでひとまず終わり。


(かっこ書きである。まとまらん、全然まとまらない。というか、今までまとまったことってあったのだろうか。いやそれはともかく、シュタインズゲートゼロのアニメ、アマゾンプライムで公開されている最新まで見たけれども、正直いって、最初のクオリティから下がっていると感じた。いや、大好きな作品だから、批判の意図はないんだけど、ちょっと残念だった、というか、物語に入り込めなかった。理由はまぁ、いくつかあげられるけれども、動画の、演出が自分に合わなかったなあというところである。とはいえ、後半は、ゲーム原作の方も、ちょっとばかり強引だなとは思っていたのである。しかしゲームは、ノベライズゲームは、自分の読むスピードなどで調整しながら、補完しながら進めることができるので、何とか自分に納得させながらやっていた。アニメは、基本みることしかできない。そのときに、「間」というのは、非常に大事なのだけれど、その間がいまいちであった。セリフと動画の動きとか、動画のカット(見せ方、見える角度)などが気になったのである。……って全然関係ないこと書いてしまった。だけれども、今回の記事としては、実生活を大きく変える決断は、今しばらく保留としておこう、ということで、いいと思う。やっぱり、創作に関して書くべきである。(たぶん)続く)

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目標を立てるための目標を考える
2018/09/10 12:00 | Comments(4) | 目的・目標

生きる意味についての次元

 久しぶりにパソコンが使えて時間が取れるので、小見出しを復活して書いてみる。

 あー、ええと、生きる意味を考えたことがある人は、20代以上の各年代層で、何と50%以上だということだ。

生きる意味がわからないと訴える匿名投稿が話題 「理由なく生きてる」と共感の声も | ニコニコニュース http://news.nicovideo.jp/watch/nw3851059

 ちょうど、ある友人の一人に、「死んじゃいけない、生きて欲しい」とメッセージを送ったころだったので、何か感傷的になった。


 生きる意味には、次元がある。
 宇宙レベル、人類レベル、社会レベル、個人レベル……あたり。細かい分類が重要なのではない。要するに、大きい次元から個人単位の次元がある、という点を抑えればよい。

 僕がいつも云々書いているのは、当然個人レベルの話だ。
 しかし、これは、マズローの5段階欲求説とは違って、必ずしも個人レベルを満たさなければ、高次の次元が満たされないとか、そういう代物ではない、と思う。

 ただ、個人レベルが満たされていないまま、他の何かに意味を持たせようとする危険ってのは、歴史(軍国イデオロギーとか民族浄化とか)や事件(新興宗教集団の過激化)などを見ていれば分かると思う。ただ、それは一面的なものであって、絶対にダメってわけじゃなかろう。

 と、いうか、そういった集団的な承認が「危険」ってのが分かってきたから、昨今現代は、「個人主義」的な様相を帯びてきているのだろうと、別に学問的な根拠など何もないけど、個人的に思っている。
 陰謀論的に書けば、個人主義ってのは、カウンターパート? ていうんだっけ、抵抗組織、集団的なのが形成されないように、支配者層が考えて推し進めている新たな支配形態である、的な。

 まぁ半分冗談で半分本気だが、仮にそうであってもなかろうと、僕らは、結局個人的に生きるしかないのである。ゆえに、僕は、生きる意味を考える、と書くときに、次元としては、個人的なレベルを無意識・意識的に選択しているのだ。



 そして、個人的な生きる意味、においては、それは「各人が見つけるしかないもの」と思っている。つまらない結論だ。
 普遍的で、物理的だったり、工学的に、または論理的な方法で、その意味に到達する方法があるとは思えない。せいぜい、年長者の、「自分はこうやって生きてきた」的な経験論を参考にするまでである。(もちろん、それが無駄なことなどとは一切思ってないし書いていない。ただ、それらはその構造的に、自分に役に立たない場合が多いことはまぁ事実だ! とはいえ、役に立つときももちろんあるというのが重要な点)

 ええと、その、友人のことはどうか、大丈夫なのか。
 分からない。
 薄情? そうだろう。
 ただ、僕は、未だに、生きる意味という問題について、つまらない、「各々頑張ろうね」程度のことしか知らない。
 だから、僕が言えることは、「死なないでほしい」ということだけである。

(ここまでが生きる意味的な内容)

蛇足

 生きる意味なんて、根源的にないのだろうと、思っている。思っているが、それを大いに、強く否定したい。それがこのブログの一つの目的である。

 上に取りあげた記事において、「親がまだ生きていて、悲しませたくないから生きている」とか意見もあったりして、非常に共感できる。
 だが、だからといって、死んだのか生きたのか分からないように、「思考」もなく、日々に流されるように生きていくということを、僕は否定する。他の人がどうだろうが、僕自身は、嫌だ。

 そうしなきゃ、「死にたい」を始めとして、「人生クソゲーだな」「面白くないつまらない」「なんでこんな苦しいのに生きなきゃいけないんだ」的なネガティブな感情が溢れていた過去の自分に申し訳ない。
 今が普通に幸せ?
 ふざけんな、と言わなければいけない。

 僕は、今や、未来の自分はともかく、過去の自分も救ってやりたいのである。


 ……本当か?
 文章とは面白い。今、勢いに任せてここまで書いてきたが、「過去の自分を救う」など、本当に思っているのだろうか?

 別に救わなくてもよくね?(かっこわらい)

 いやまぁ、そうだな、今がよければいいよな。……とはならないと思う。
 何でかってのは、今回の記事の目的から逸れそうだけど、ある程度書き残しておこう。

 過去が救われないとはどういうことか。それは、「意味が与えられない」ということだ。
 過去が無意味であるということである。連続性が断裂するということだ。

 それが何が問題か?
 未来がなくなるのである。

 人は、根源的に時間的存在だ、というのはハイデガーだったか。しかし、人は根源的に記憶的存在だ、とも言えると思う。
 自分とは何か。それは記憶の総体である。記憶が単にデータとして「ある」状態なだけではなく、それを「引き出す」というのも含めて、人は「自分」になる。

 とかってのを、このブログで連載している作品で一部表現したいと思うのに、アイディアだけで全然ストーリーが進まない、というのは蛇足と言い訳の恥さらしだが、まぁとにかく記憶は大事である。

 その大事な記憶が、ごっそり無意味化するというのが、過去を救わなくてもよい、という判断なのである。
「ま、たまたま、昔は不幸に見舞われましたなぁ。災害とか、そんなレベルですわ、わっはっは」
 ということである。まー大したことないことならいいが、災害で最愛の人を亡くしたとか、全財産失ったとかした人は、その過去へも、ある程度何らかの意味を与えなければ……たとえば、全財産失ったけれども、人とのつながりや優しさを感じられて本当に大切なものを知ることができた……とか。

 それ、単にきれいごとじゃねぇか、と若い人は思うと思う。
 そうかもしれない。単にきれいごとや、自分への誤魔化しかもしれない。他者から見たらそうとしか見えないかもしれない。
 でもいいのだ。それで、それが、本当にその人にとって救いの福音であるのならば、構わないのだ。過去を救うというのはそういうことなのだ。


 蛇足部分が長くなってるな。まぁそれが本当に蛇足なのか、僕が本当に書きたかったことなのか確かめるすべはないのだが、こういう現象は、間違いなくスマホでアウトプットしているときには発生しないのである。キーボード面白いなあ。

目標

 あー、それで、本題にいこう、そろそろ。

 思考のこと。
 実生活のこと。
 創作のこと。
 仕事のこと。

 このあたりの方針を書きたい。
 忙しいことをいいことに、目を背けてきたことだ。真剣になるのが怖くて、逃げていたことだ。でも、もうちょっと向き合おうじゃないか。

 ……目じりに皺が寄る。

 うーむ。とりあえず、思考のこととしては、カクヨムに挙げている随筆的なのを完結させたほうがいいよなぁ。
 30代前半の俺、という存在が考えて、方向付けしたこと。
 という意味で結論を出したいと思う。

 それって、今しかできないことである。くだらない日記的なのを書いている暇があったら、お金を稼ぐ何かを考えたら? というのが、世間一般の考えなのだろうけれども、俺は即座に否定する。

 上に挙げたアンケート的なのが物語ってると思う。まず、「生きること」というのが自明じゃなければ、仕事だって遊びだって、何ら色彩を失うのである。
 生命の危機が毎日迫っているような自然や、紛争や戦争下では、愚かしい感情だったり思考であることは間違いない。そういう、「平和ボケしたこといってんじゃねえ、もっと大変な人は世界中にたくさんいるんだぜ」的なことを言う人たちを、まず無視して構わない。
 そういう問題じゃない。人と比べてる場合じゃないのだ。ひどい環境と比べて現在の環境がマシ、だなんて、敵国のネガティブ教育をして、自国への不満をそらすような卑劣な方法と何が違うというのか。問題ってものは、その環境下で必ず発生するものなのである。それを解決していくことが重要なのであるのに、その問題の本質に目を向けない行為は愚鈍である。

 
 あぁ……そうじゃない。そんな一般論的なこと書いてないで、もっと自分のこと考えろよってことである。上に書いた、問題の本質に目を向けないってのは、まさにブーメランである……。


 長くなってきたので、分けて書いていこう。今回の記事はそのための方針付けまでとしよう。

 先に挙げた、思考、創作、仕事、実生活(順不同)を考える軸とする。
 で、本当は、「身体」ってのも重要な要素だ。健康でなければ何もできない。この点は、若いうちはあまり意識しなくてよい。そういう点で、若さというのは有利な部分だ。だが、若いだけではあんまりそのメリットはない。そこに伴わせられる思考や行動がなければ、あんまり意味はないのだ。
 であるが、今のところ、視力が落ちてきているということ以外に、大きな問題はなさそうである。健康診断の結果もおおむね良好であった。筋トレルーチンは、そろそろ負荷を増やしたほうがいいような気もするが、まぁそのあたりの重要度は下げて構わないだろう。

 また、「思考」というのは、これまでこのブログで書いてきたことをざっくり読み返すと分かるが、たぶん、これからも付き合っていく必要があることだと思う。だから、ことさら、ここで重要性を上げて取り組む必要はない……というか、避けようがなく向き合うことになる気がする。

 そうすると、創作と、仕事と、実生活あたりがポイントになってくる。少し絞られた。
 次に、仕事、を考えてみる。例えば転職するかとか、今の仕事のキャリアアップを目指すとか、上司に気に入られて社内政治をうまくしようとか、そういった漠然とでも方針をどうするか。
 とりあえず、来年度はまた状況が大きく変わりそうな見込みがある。残業がががーっと増えたりするかもしれない。ただ、来年度までにクビになったり倒産したりは、まずなさそうである。そうすると、ある程度、安定した生活基盤は取れそうである。まぁ、残業やストレス等によって混沌とする可能性は否定できないが。
 とすれば、仕事という面も、最重要検討事項ではなさそうである。

 すると、実生活と創作、というのが残る。
 そもそも、創作活動というのは、率直にいってしまえば、「必須」ではないのである。
 このブログもそうだが、別に書かなくても、創作しなくても生活できるのである。この点はまず書いておかなければいけないだろう。
 しかし、多分、これは勝手な推測……いや推測と書くにもおこがましいが、思考や創作がなければ、僕は自壊するだろう。
 いやいや、現実世界の人との付き合いに100%注げば、そんな思考や創作なんて必要ないさ! とも、思うことは思う。
 思うが、多分、それはリスキーであるし、僕はそれができないタイプの人間なんじゃあないかと思うのだ。

 とはいえ、世間の多くの人は、「物語をもたない」と思う。
 ええと、このあたりのことは、もう少し厳密に書くべきだけれども、あまりうまい表現がまだ浮かんでいないし、あまり書いたこともないから難しい。
 経営者とかは、自分の物語を現実に落とし込んでいるような人たちだと思う。
 政治家も、本来的にそういう人であって欲しいと思う。
 僕は、経営者や政治家ではないけれども、物語が必要だ。というよりも、現実と理想との関係に乖離があるからこそ、物語が必要だともいえる。

 いやいやそれは逃げなのではないか。現実と向き合わず物語の空想に耽って自慰する行為ではないか。

 違う、と思う。説得力はもたせられないけれど。
 人生に、物語をもたせられない人は、物理的世界が上手くいっているうちはいいが、想定外の事態に弱いと思う。

 ……うーん、いや、何か違う。別に、物語の必須性を語りたいわけではない。不要であるという人がいても全然かまわない。
 ただ、ここで僕がいいたい、「物語」というのは、ストーリーであって、人を納得させられる事柄や流れのことであって、仕事の上でも、ご近所づきあいにおいても、何にでも必要なことだとは思うのだ。

 まぁいいや、またそれらは一般的な云々を勝手に僕が思ってるだけの話で、大したことじゃない。



 ……ちょっとまて、長い!
 まただらだら書いてしまった。いやまぁ、別にだらだらしたつもりはないのだけれども。
 しかし、僕は頭が弱いので、こんだけアウトプットしないと、思考がちっとも進まないのだ。頭がいい人は、こんなこと書かなくても、いや、そもそも経過を踏まずに結論がすぐでるんだろうが……羨ましいな。
 まぁ仕方がない。環境も、自分の身体も、頭も、今あるデバイスを最大限活用するしか、アウトプットもインプットもする方法はないのだから。外部記憶装置早く開発されるといいね。それで、感情データとかのインプットもできるようになったりして。最高のエクスタシー体験とか、ジェットコースターとかサーキットとかのスピード体験を家にいながら感じられたり。インプラントできるようになれば、仕事のストレス、上司や部下からの叱責や暴言も、脳の感情調整装置が自動的に稼動して、A10神経群のニューロン発生経路を調整することで苛立ちや怒りや哀しみといった感情をパス(迂回)させちゃったりして。ストレスゼロ社会の完成である。

 と考えると、ストレスとか、ネガティブな感情ってのは、やっぱり、人類、人間にとって必要な装置なんじゃないかなぁという想像も働く。ストレスフリーなのはいいことだ、というのに誰もが頷くけれども、人間自体がそれを受容することができなくなるのは、何らかの危険が発生するのではなかろうか。

 ……と、また余計なことを書いた。次。次の記事で、実生活と創作に関しての方針を考える。

(かっこ書きである。長いからやめる。次回に(たぶん)続く!)

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今後のことを(行動方針)
2017/09/07 19:14 | Comments(0) | 目的・目標
今日の一言「やっぱり長くなった」「基本的に、『面白い作品を書ききる。今年度中に。』というだけの内容」

神を信じられるなら問題は少ない

 実感のまとめの、実感レベルが高いものを引用。

1人はいずれ死ぬ。有限の存在である。 高
2未来のことは誰も分からない。リスクはゼロにはならない。 高
9実感が大事。実感の積み重ねが価値観。価値観の総体が信念。 高
22理念としては世界平和、自由、平等、正義が大事。しかし実現性が問題となる。 高
23社会とはルールの体系である。体系とは一定の法則のまとまりのことである。 高
24ルールとは約束と決まりである。しかしそのルールの根拠は「信頼」である。だから信頼、信用は大事である。 高
28宗教とは信仰を取り扱う「科学」である。 高
36ルーチン日課を続けることは散漫な注意を集中させることに意味がある。 高
37創作をすることは重要である。人生は物語であるから。 高

 しばらく経ってから読み返しても、大きく批判したい気持ちは起こらない。ただ、もうちょっと、分かりやすく、かつ短めに表現できないものかなぁとは思う。

 他者のブログなど読んでいると、様々な「信じているもの」というものがある。プロフィールに、「私の前世はノアの箱舟プロジェクトに参加したのです」とか「神々との対立から与えられた課題は現在は瞑想によって解決しています」とか書かれていて、びっくりすることもある。

 他者がどんな考えをもっていようが、たいていのことでは驚くことはないのではあるが、やはり世界(日本)は広く、人はたくさんいるのであるなぁと思う。

 馬鹿にしているわけではない。
 たとえば、最近とある作品のことを記事にしているが、「アニメ面白い! まじ感動した」という主張が、そもそも、「うわ……いまどきそんな人いるんだ。アニメなんて子供がみるもんでしょ? 30代で……きも……」と思う人もいるだろうと思うのである。
 そういう人たちの存在を考えたうえで、なおかつそういった記事を書くというのは、「神さまはいまーっす! しんじてまーす!」というのと、あまり変わらない。

 この「変わらない」という表現も難しいものである。ここで言いたいのは、「善」と「偽善」も本質的にはあまり変わらないという意味においてである。実際、アニメが好きというのと、神様が好きというのとでは、次元がまったく異なるともいえる。


 そして、その「神様を信じる」という行為自体、僕は否定する気にはなれない。
 神様なんて信じるのは怪しい宗教である、と切り捨てたくなる気持ちもわからなくもないが、「信じる」ことができるのは、これまた人間としての能力である。恋愛を信じる、友情を信じる、いろんな「信じる」があるが、その対象が、目先のものではなく、より高次なもの(神)に向かっているというのは、逆に素晴らしいことではなかろうかと思う。

 ただ、僕は、残念なことに、「神」を信じることができない。
 いや、それどころか、すべての、「信じる」という行為ができない。

信じることと自分を委託(コミット)すること

 虚脱感。黄昏。
 簡単に表現すると、そういった言葉が適切に思えるが、どうにもこの感情の対処に苦慮している。

 これもとあるブログを読んでいてのことだが、
・テレビ見ていて笑ったり、ご飯食べておいしいと思うことはある。しかししばらくしたらまた暗黒世界だ
・人生がつらいと言っていた人が、仕事を見つけて、頼りにされているというメールをもらった。喜んで、よかったねと声をかけたが、その人は、前と同じように「つらい、さみしい」のだという。

 といった表現に出会った。

 これ、分からない人にとっては、「何甘えてるの?」で一笑で終わる。

 逆に、親しい人に死に別れたとか、彼女にふられたとか、大金を失ったとか、そういったわかりやすい悲劇のほうが「ラク」だったりする。

 明確な弱者に対して、人は優しい。国も社会も集団も、困っている人や弱っている人は大切にしようとする。
 むかーしむかしは、「戦えない奴は潔く腹をかっさばいて死ね」とか言われたかもしれないが、昨今現代社会特に日本は恵まれている。弱者にとっても、居場所が与えられる社会である。男女平等、貧困撲滅、自由平和である。
 そういう意味で、発達障害とか、今まで「変わった人だね」ですまされていたのが、「病気」として扱われるようになるということは有意義であるともいえる。

 ただ、「弱い人や困っている人を助けましょう」ということだけを、学校の道徳で教えていれば、それが「正解」だった時代は、もう終わってしまっていると僕は思っている。
 ここですぐさま書くべきは、僕は、その理念が間違っているとは全然思ってないということだ。実感表の22番、「理念としては世界平和、自由、平等、正義が大事。しかし実現性が問題となる。」ということである。

 この「しかし」の部分が重要だ。
 理念としての「正義」を考えることが、必ずしも役に立つわけではないということだ。無駄ではないと思う。しかし、その正義をどう実現するのか。「力」が必要だ。昔であれば暴力、資本主義社会でいえば「金・資本」。

小見出しおかしくなったな

 上の小見出しは失敗である。
>信じることとは何か

 という問題提起であった。だが、この問題は、僕にとってもうあまり重要性がない。
 神だとか、スピリチュアルとか、お金だとか、よく巷で価値があるとされることがあったとして、それらが「嘘」とは思わない。
 問題は、「僕」が、それらを信じることができるのか(=委託(コミット)できるのか)ということである。

 コミットとか、横文字使ってかっこ悪いと思うが、どうにも、この言葉がしっくりくるのだ。
>委託する、引き渡す、ゆだねる、付する、(…に)身を任す、(審議のために)委員会に付託する、掛かり合いにさせる:、(責任上)引き受ける、(…を)約束する、約束する

 英和辞書をひけば、こんな感じ。僕は、身を任すという意味でよく使っている。(どうでもいいが、これ、マッスルになる会社のCMで使われる前から使っているのだ。だから何だということだが。ちなみに、そのCMでの意味は、結果を約束する、という意味ではなかろうか)


 で、その身を任すということだが、「何に?」というのは明らかで、「自分の人生に」ということになる。

 ここで、実感表の1番、「有限性」についてが重要になる。

愚痴を言う人を否定したいわけではない

 この記事――というか、このブログ全体が、巨大な愚痴のようでもある僕が言えたことではないが、ネガティブな人とか、ぐちぐちした人を否定するつもりも、嫌いでもない。むしろ好きだ。

 が、その行為自体は根本的に否定している。(めんどくせーやつだな)

 実感表の3番、これは、実感レベル中であるが、「楽しむことが重要。苦しみ自体に価値はない。苦しみの低減を望まないのは生存欲求と反する。」というのもある。
 つまり、うえで取り上げた、「少しの幸せはあるが、また歳を重ねるにつれて、気持ちが落ち込んで暗黒になっていく」という人の在り方は、認められないということである。

 中途半端である。
 だったら、早く死んだほうが幸せなのではないか? と、これは割かしマジで思う。こんなことを思う人間は、この幸せな現代社会には認められないだろうとも思う。許されざる人格である。サイコパスで出てくる潜在犯の矯正保護施設に送られるべきであろう。

 いやしかしだ。
 きっと、精神科医フランクル氏は反対するだろうが、不治の病に侵されて、体を蝕まれ、耐え難い苦痛に泣き叫びながら残りの時間を過ごさなければいけないとした場合――いやもちろん極端な例だが――すぐさま死を希うのではなかろうか。

 もちろん。
 人には生存欲求なるものがあるため、潜在的に「死」を恐怖する。(そういった意味で、ドリフターズに出てくるトヨちゃんとか武士の死生観は驚くべきといえる。ただ、その観念を取り入れようというのは愚策である。しかし、ときおり、「大和魂を復活すべきだ」とか主張しだす人も発生する。日本人は平和ボケしてダメだ、もっと対外情勢に対してなど危機感をもたねばダメだという主張もわからんでもないが、これもドリフターズだったかもしれないが、他の作品でもみたことがあるが、人は基本的に「自分の死は信じられない」ものである。あまり好きな表現ではないが、あらゆる芸術(物語)は死からの逃避である――というのは、まぁそんなに外れてないとも思う)
 ので、さっさと腹をかっさばいて死ね、というのも無理がある。

 とはいえ。
 毎日毎日、苦しい、俺なんて死んだほうがいいんだ、人生全然よいことなんてなかった……。
 なんて、どんな拷問ですかと。としたら、その生きていること自体を認めて、愚痴を吐く時間を、「幸せ」とは何かを考える時間にしてはどうかと思うわけである。

 まぁ、上で取り上げた方は、「若いときは楽しかった」と書かれていて、この辺りはちょっと共感できないな、とも思っている。
 僕は、ループものが結構好きかもしれないが、戻りたい過去とか、一切ない。そういう意味では、実感表12番「言い訳や文句、後悔は役にたたない。反省と再行動は役に立つ。」をちゃんと実践できている気がする。

 マジックワードで、
「日々ますます、あらゆる面であらゆることが良くなっている」
 といったようなことを、毎日鏡の前で唱えていると、本当に人生が改善されるという。

 よく覚えていないが、昔、失恋してショックを受けていたころ、1か月ぐらい実践したところ、確かに効果があったと思う。とかいうと、スピリチュアル乙! となるが、まぁ、人の心は、ある意味では、それほど科学的でも複雑でもないということである。

 ただ、じゃあ今この実践をやってみようか、というのはちょっと違う気がする。
 どっちかというと、もうこれは信じているのである。

 前にも書いたけれども、仕事でうまくいかなくても、離婚した後であっても、「ああ、生きていてよかったなぁ」なんてことを、ふと思ったり、口にしたりするのである。


 しっかし。
 実感表6番、「ただ生きてるだけで意味があるというのは認められない。」のである。

生きてることにコミットしやがれ

 あー! 長くなってきた。
 こうならないように、実感表をちゃんと引用して、余計なことを書かないようにしているというのに。

 なんというか、答えは、書き始める前に、考えて、なんとなくメモしていたのである。

・面白い作品を書ききる。今年度中に。


 というものである。
 仕事もする。投資の勉強もする。女の子とデートもする。

 が。
 最大優先順位は、創作に置くということだ。

 なんで? と言われても上手く答えられない。
 ただ、10年後、20年後に、「お前、30代前半に何してたの?」と(自分に)言われたときに、「これを書いた」と言いたい。
 そんな漠然とした感じ。
 とりあえず、前段階として、1~2年前ぐらいに、「作品を完結させる」という目標は達成している。次は、「自分自身本気で面白いと思えるものを創る」ということだ。

 これ、とても難しいものではある。「本気で面白い」って、そもそも俺は、何を面白いと思うのか。
 その、面白いというものを、「感じる」のではなく、「創る」というのが、本当に可能なのか。
 その、「本気」とは、どういう意味なのか。


 ただ、期限をつくる必要はあるのか? というのについては、必要だと思う。
 間違いなく必要だ。

 実感表1番、「人生は有限である」ということだ。
 しかし、理由はそれだけではない。人は、自分の死を有意に想像することはできない。「明日がある」と思ってしまう。その根拠なき「信じる」ということ! 神様やスピリチュアルを信じることと何ら変わらない。我々は、一番大事なことをわかっていながら、その生きてることに対して哀しいほど無自覚なのだ。

目標と実践

 さて、目標が決まれば、実践のための小目標を立てていかねばなるまい。しかし、シュタインズ・ゲートのゲームもやってみたいし、――PSVITA?でも買うか――そもそも今年度と来年度、仕事が忙しい気がする。その後どうなるかは、今年度次第かもしれないし。……と、まぁ、言い訳しようとすればいくらでもできる。仕事ってのは便利である。手軽に、自分の意義っつーのを与えてくれる。どんなつまらない仕事でも、誰かの命令に従うだけでも、そこにいることによって、自分という存在を意識することができる。

 話が若干変わるが、メモしておこうと思ったのは、俺の来歴として、10代ぐらいのとき、非常に大きな欲望(成し遂げたいこと)があって、それが諸所の事情でダメになって、そこから代替的な目標を立てて、上手くいくことがあればダメなこともあったで、まぁ平々凡々やってきた、と。ただ、その10代ぐらいのときの欲望からの挫折(諦念)によって、僕は、人生にコミットすることができなくなったのだと思う。
 わかりやすく書けば、「(自分に対しての)言い訳」が上手くなったのである。

 これは、よいことでもある。失敗しても、それほど落ち込まずに、次の行動にうつることができる。
 でも、だめなことでもある。自分の人生を、自分のものだと思えなくなるのである。

 失敗したことや、苦しいことや悲しいことも、さっさと捨て去ることができる一方で、良いことがあった、上手くいった、成功した――それらの体験も、自分のものだとは思えなくなるのだ。

 僕が、上のほうで取り上げた人に対して「苦しいと思っているならそれを解釈して幸せの方向へもっていかないと人生もったいなくない?」といったのは、つまり、「諦念のススメ」でもあるわけだ。

 それは果たして、万人に勧められる良い方法なのだろうか?

 ここで、実感表2番「未来のことは誰も分からない。リスクはゼロにはならない。」というのも関係してくる。
 完全に、自分の人生にコミットすることは、確かに、人としての生きざまとしてかっこいいことは間違いないが、しかし、漫画やアニメじゃないので、失敗という可能性もあるのである。物語では、失敗した結果、それを糧として成功に導いてハッピーエンドというのが多いけれども、失敗したらすぐさま「腹掻っ捌いて死ぬ」だとか「なーに、失敗したら単に死ぬだけよ」と諦念できるものだろうか。

助けを求める方法

「なーに、人生、なんとかなるさ」

 正直。
 特に問題もなければ、苦痛もなければ、悲しみもなければ、何もない。

 涅槃寂静。
 心が凪のように穏やかである。

 なので、僕が一般に「弱者」なのかというと、たぶん違うと思うし、「ダメ人間」カテゴリにブログ村を選択してよいかというと、それもダメな気がする。

 じゃあ、至極一般、普通の人だと。幸せに生きていく人の一員だと。

 ――そういわれると、なんか、これも、シュタインズ・ゲートの感想がうまく書けなかったのと同じに、なんか違和感なのである。
 繰り返しになるが、この違和感は、「甘ったれるな」で切り捨てられることであるので、誰にも相談ができない。そういう意味で、孤独なのだが、じゃあ、「友達ゼロのおっさんが孤独に生きるブログ」と題せるかというと、ふつうのことを相談できる人はいるし、それもちょっと違う。

 そもそも、この違和感について、特定の誰かに話そうという気になれない。
 いや、話さなかったら理解なんてされるわけないっしょ、というのはもっともだ。

 でも、そもそも、自己責任という言葉が流行るこのご時世、結局最終的には己が判断をくださないといけないとしたら、他者との会話になんの意味があるのか。

 いやいやわかっている、そんなこと言うやつが、そんなことをブログに書くなんて卑怯じゃないかと。
 そう、だから、なんか、一人は嫌なんだ。寂しいんだ。孤独なんだ。だから、「公開」して書いているのだ。
 でも、適切な他者の求め方が分からない。相談の仕方が分からない。相談されることはあっても、人をどう頼っていいかが分からない。教えることはできても、人に教えを請うやり方が分からないのだ。

コミュニケーションとは

 人との会話、コミュニケーションについて、情報伝達であるとしたのは、実感表29番「コミュニケーションとは情報(意思)伝達のことである。そして、コミュニケーションの目的は、相手を自分の意図通りに行動させることである。」の、実感レベル中である。

 これはまぁ、実感が高い方なのであるが、これもいけない、よくない定義かもしれない。

 コミュニケーションのもつ、「感情統制」の機能を書けて(表現できて)いない。

 人と会話することによる、ただそれ自体の効用・意義というものについて、僕は上手く実感できていないのだろう。ただ、その必要性とか、実際に存在するということ自体は信じられている。でも、それをどうやって使えばいいかが分からない。

 この点が、「お前、人に興味ないだろ」と言われる所以だろうとも思っている。
 人に興味がない……のではなくて、その会話の「意義」について、無意識に求めてしまう心性がよくないのだろう。その人が好きな映画とか、好みのタイプとか、デートのときはとても興味をもって聞ける。でもそれは、その人と親しくなるための目的だったり、次にあったときの会話の種にするためだったり、プレゼントするときの材料だったり、目的があるのだ。――あー、なんか、こうやってかくと、やっぱり、おれは最低な人間で生きている価値がない気がしてくるな(かっこかなしいわらい)。ただ、その人が喜ぶ顔がみたいとか、そういった優しい気持ちがないかというと、そんなことはなくて、喜んでくれたらうれしい。――と同時に、喜ばすことができたという自分の行為にとっての安心感もあるのだろうという「邪推」も自分の中に発生してしまうが。


(長くなったので強制かっこ書きである。この、「人への頼り方」と、コミュニケーションの感情機能について、もう少し掘り下げて書かねばなるまい。人に頼るぐらいなら自分でやってしまうタイプである。これはよくない。よくないのは分かっているので、できるだけ人に仕事を割り振ったり、お願いするようにはしているが、それ自体が結構ストレスの原因だったりする。もう一つ、雑談の効用についてもよくわかっている。専門的にはアイスブレイクとかいうのだったか。ただ、それゆえ、そもそも「効用」といった言葉がまっさきに出てきてしまう点がもうダメダメである。心底会話を楽しもうという気持ちがもともとない。――あ、だからか。だから、SNSとか、ツイッターとかも苦手なのか。ブログはどっちかというと独白である。相互コミュニケーションの面もあるが、自分の考えの整理(もしくは、お金系スピ系の場合は「教化」)の面が強い。ああやはり、いろいろな面で実感を37個ぐらいも挙げても、まだ新しい気づきがあるのか。まだまだやること、考えることは多いわけだな。「衛府の七忍」という漫画も面白そうだ。しかし連載中なのか。その前に、「エクゾスカル零」か「覚悟のススメ」を読んでみるか)

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ゴールデンウィークin2017
2017/05/05 22:28 | Comments(0) | 目的・目標
今日の一言「やっぱりあっという間」「充実した時間は過ごせた」

引きこもりはできなかった

 明るい記事を書こう。結構アクティブに過ごしてしまった。「しまった」との表現は、当初立てた、「完全に引きこもろう」という目標が完全崩壊であったからだ。まぁそれは悪くなかった。やっぱり、「本音」でコミュニケーションできるってのはとても楽しいことである。
 とはいえ、

 もう一つ、一般書を読もうと思う。そして、概念記憶を一つ増やそうと思う。
 もう一つ、音楽を一つ創ろうと思う。
 もう一つ、小説を一つ書きすすめようと思う。
 もう一つ、7時に起きて、23時前に寝ようと思う。
 もう一つ、料理をしようと思う。そして、一日三食食事をしようと思う。フルーツを食べようと思う。外食に出向こうと思う。
 もう一つ、買い物をしようと思う。鞄と靴が欲しい。漢字が似ている。
 もう一つ、坐禅を一日15分以上しようと思う。
 もう一つ、ルーチンを続けようと思う。
 もう一つ、ピアノで弾ける曲を増やそうと思う。
 もう一つ、日本株で購入したい銘柄を調べようと思う。
 もう一つ、ブログを書こうと思う。
 もう一つ、カラオケに行こうと思う。
 もう一つ、ボウリングに行こうと思う。
 というのの、殆どはできていない。さて残りの時間を、どう過ごそうか。

 

一つでも多くやってやろう

 よし、できるだけ多くチャレンジしよう。
 まずは、ブログを書いて、23時前に寝て、7時に起きるってところからだな、もう幾何かも時間がないが。

 あとは、買い物系か。靴、鞄、株……うーん。欲しいって思いは強いんだけど、中々よい商品が見つからないんだよな。

 あとは、そうだな、オルフェンズ、これ、面白いんちゃう?

 どのシーンか具体的に分からないけれども、テイワーズというマフィア的組織の下部組織であるタービンズの面々が、内輪もめに巻き込まれて、散り散りなってく様のどこかにおいて思わず泣いてしまったよ。アニキぃ……。

 なんか、某スゲー方が自身のブログで、「オルフェンズの二期って、一期で成しあがった仲間たちが、一人、また一人と倒れていく様を見せられる拷問ッスよ」などと述べられていて、ようやく意味が分かってきた。いやぁなるほどその通り。全き秀逸な表現である。

 残念なのかどうか分からないが、ネタバレとして、もう仲間たち(鉄華団とゆかいな仲間たち)の未来は分かっている。それがなかったら、また違った思いをもって見ていたのだろうか? 例えば、その一人一人と退場していく中で、それでもきっと、どこか救いはあるのだろうという思いが生じていたのだろうか。

 でも、そのネタバレがあったからこそ、非常に楽しめているような気もしないでもない。某氏が感想というかレビューにおいて描かれたシーンが、実際にどのような文脈で、どのような表現がされているのかという「確認作業」というのが、これが意外に意外性をもって僕の感性に飛び込んできたりして、面白いのである。

所与の条件で最大限を目指す

 そして、その作品が、最近思う、「与えられた条件下で、精一杯やるっきゃない」ということの一つのあり方を見せられているようで、なんともタイムリーに思う。

 なんだか色々書きたいこともあるのだけれども、なんだかブラウザがやけに重いのと、さっそく23時前に寝るという目標をもとに、この記事は終わらせるとしよう。


(たまには短い記事も……ま、いっか。こいつは中身がない記事だよね)



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