確かに、生きている意味なんてものは、価値多様化社会の中では、無価値の代表である。
いやそうとはいっても、「テレビ」なんてものをみれば、実に「楽しそう」な人ばかりなのである。そこでちょっと「哲学的」なことをいうと、「すごい」とか「頭いいね」もしくは「茶化され」たり「笑いにされ」て終わりなのである。皆、必死に、この世の中の「無価値さ」というものから目を背けようとしているようにみえる。
しかしこうした傾向は既に、1990年代以降、オウム真理教について言及した宮台真司や、その他若手(といってももはや)論客に指摘されていることであって、20年という歳月は、ただその傾向の深化を示しているだけに思える。
そうはいったところで、徐々にこの「ウソ」というものに気付いてきた人が増えてきたとしても、知的エリート達の論議がこちらに向いたとしても、凡人の僕にとって、それらを理解するには、やはり20年とかそれ以上の歳月がかかるのである、この点を決して忘れるべきではない。
なんというか、僕はまだ説明が上手くできていないのだ。なにせ、「目的と目標、その対策と投入資源、それの効果の測定が重要だ」といいながら、「終わりなき日常を生きろ」という宮台氏の言葉に共感を覚えるからだ。
今いえるのは、単に、「目的」というものを、他者から与えられる時代は終わった、ということなのである。「幸せな家庭」といったとしても、その言葉が意味するものが空洞化している、そうした時代を僕達は生きているということなのだ。「幸せな家庭」という言葉をきいたときイメージできる情景、それが「ない」。もしくは、各々個人でばらばらであったり、そもそも生涯未婚率(50歳時点において一度も結婚したことのない人の割合)は年々あがっている。90年代より上昇に拍車がかかり、2030年には、30%近くになるとのことだ。
2005年においても、女性は7%ぐらいだが、男性は16%をこえている。2030年、18年後、僕が40代のころの世界である。なので、僕より10歳上のひとが集計対象であって、僕が50代になるころには、もっと増えていると推測される。日本人の半数が結婚しない(できない)時代が近々きそうだということだ。
そうした中で、「幸せな家庭」という言葉のもつ意味が、まさかそのままと思うひとはいないだろう。「結婚」という制度自体が見直されることもあるのだろう。非嫡出児にも相続権が与えられるようになったり、養子制度が発展するなど、様々考えられる。
だから、単純に「幸せな家庭を築く」という目的設定はそもそも、目的としての意味すらなしてないのであって、「子どもを二人育て、大学進学した上で就職させる」と、ここまで具体的にして、ようやく「目的」レベルの設定は満たせるのである。
昔、「お父さん死なないでーうわーん」を、目的にしたことがあったが、それはそれで具体的である。もし、僕が本当にそれを「理想」として、目的として許容するのだとしたら。
もちろん、「目的」は、変更できないものではない、が、可能な限り変更すべきではない。なぜならば、判断に手間がかかるからである。目的がしっかりしていて、それに対する目標と対策も打ち出せている場合、判断は迷わない。(アクラシアの事態は考えられるがここでは触れない)
こうした、「○○しよう」と、2012年においても、感じることがあると思うが、「継続」という観点から考えたとき、「整理」「アウトプット」という二つの目標に合致させる「説明」が不可能な場合、切り捨てる(整理する)判断が必要になる。
「可能性」というものを、僕はまだ「信じてしまっている」。これは本来ポジティブな意味なのだけれども、僕自身を納得させる説明のためには、「可能性なんて無い」と言い切ってしまうことが重要なのだ。
インプットの目的は、情報の集約と積み上げが重要になるのに対して、アウトプットについては、表現の容易さ、即ち、他者への伝達力が重要となる。まわりくどく長文をかいたとしても、それは自己のカタルシスになるかもしれないが、他者への伝えることはできない。
もちろん、レビューを、購入の判断材料とするか、もしくは、感想の「共有」にもとめるか、それは目的の差異であって、長文自体の否定では決して無い。
ただし、思考の過程を示す長文というものは、アウトプットを目標と掲げる場合、容認できないものである。
その中で使えるかもしれない概念として、アリストテレスの「アクラシア」がある。
「分かっちゃいるけど、やってしまう」という、人間ならだれでもやってしまいそうなことだ。
それについて、よく整理されているブログを発見したので、詳しくはそちらを見てほしい。
~epsanのブログ「アクラシア Akrasia」
僕はこの概念について、先日からちょくちょく挙げている大澤真幸の『「正義」を考える』
であるからにして、アクラシアについて、上記書籍の発刊前(2007)に書かれたブログも存在する。
アリストテレスは行動を「実践三段論法」によって説明する。実践三段論法とは何かが邪魔したり強制したりしない限り、「大前提」と「小前提」の二つの前提から、必然的に一つの行為が導かれるというものだ。大前提とは「善いもの」への欲求であり、小前提とはそうした行為を「可能なもの」にする個別的状況についての認識であるという。例えば、こんな具合…
<「私は飲むべきである」と欲望が言い、「これが飲み物だ」と感覚なり表象なり理性なりが言うと、彼はただちに飲む。>
この文で大前提は「私は飲むべきである」、小前提は「これが飲み物だ」、そして行為は「飲む」ということになる。
しかし、人間は「そうしたほうがいよい」という欲求と、「そうすることができる」という認識があったとしても、必ずしもそうするとは限らない。著者も<帰結するのは「私はこれをすべきである」という判断にすぎないように思われる>と指摘する。例を挙げると、デヴが「甘いものを食べないほうがよい」と知っていて、冷蔵庫に甘物があると認識したとき、「私はこれを食べるべきではない」と判断するかもしれないが、帰結としての行為はきれいさっぱりたいらげる、ということになるからだ。
どうしてこのようなアクラシアな事態が起こるのか。著者は<アクラシアは「無知な状態での行為」である>とする。つまり、意志の弱いデヴは甘物を見つけたとき、実践三段論法の大前提を一時的に忘れてしまい働かなくなるために、おのれのメタボリックな腹回りなどお構いなしにバクバク食ってしまう、というわけである。では、なぜ大前提を持っている人が、それを忘れ、働かせなくなってしまうようなことが起こるのか。その答えとして挙げられているのが、次のアリストテレスの言葉である。
<学習したばかりの人でもロゴスを繋ぎ合わせることはできる。だが、彼等には何も分かっていない。そのためにはロゴスが相互にしっかりと結び合わされ〔性向となら〕なければならないが、それには時間を要する。>
~労働外論「アクラシアな事態」
ここではたと気付いたのだけれども、アリストテレス自身の説明、すなわち「実践三段論法」の説明で、僕としては納得してしまうのだ、ということなのだ。
大澤氏は、アリストテレスの説明は間違っている、だから私は、「快の階層構造」によって再説明を行う、と記述している。
快の階層構造によるアクラシアの説明:
アクラシアは、下位のレベルでは快であり、善であると評価されていることが、上位レベルでは悪であるとみなされているときに生じる。上位の包括的な視野のもとでは悪である行為が、下位のローカルな視野の中では快であり、善であるがゆえに選択される現象。
~epsanのブログ「アクラシア Akrasia」
おそらく、したり顔で、「ねぇねぇ、アクラシアって知ってる?」と知人に話しをして、「じゃあ、快の階層構造と、実践三段論法の違いって何?」と聞かれたとき、僕は、はたと困ってしまうのである。
ということで、もう一度、大澤真幸に立ち戻ることになる。