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体罰の是非と思考の深化
2012/01/21 18:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
「体罰の何が悪いんですか?」

この問いに対して、明確に答えるのは難しいだろう。
ところが、「ダメなものはダメを根付かせる」「人間としての基礎的能力を養う」「自然に立ち向かう力を身につける」というキーワードに対して、暴力という手段を使うことは、奇妙な違和がある。

ばかばかしくも崇高な理想、「人類の平和」を理想としたとき、コミュニケーションに暴力が介在することを、よしとは思えない。しかしながら、戸塚ヨットスクールに入校する生徒たちは、「人としての基礎がなっていない」のだから、体罰は許容されるのかもしれない。


歯切れが悪いが、こうした事実に対して、明確な善悪を、「理論」として打ち立てるのには無理がある。
すなわち、単に「量刑」的問題なのだ。体罰も、「いきすぎ」れば犯罪となる、それだけなのだ。

ところが、その「いきすぎ」の判断は、「法律」であるのだが、その「法律」の基準も、国によっても、時代によっても異なることに着目しなければいけない(そうした学問を、「基礎法学」というらしい(法学セミナーという雑誌で読んだ))。

だから、石原慎太郎のように、戸塚ヨットスクールの「教育」が正しいという人が日本の9割を占めるなら、それは正しくなるし、ビンタであっても体罰は教育とはいえない、という人が多ければ、何が何でも体罰は許されないのだ。

多少の体罰、とまではいかなくても、あたまを小突くくらいはよいのでは、と考える教師がいてもよい。
しかし、今の教育として、体罰は絶対にいけない、となっているのだから、それに従う必要がある。それは個人の思想や信条の自由だとかには一切関係ない。
「教育」として、「ルールを守る」という大切なことを教えるために、教師自身が模範となって示す必要があるのだ。

その上で、政治家は法律を見直す努力をするべきだし、教師は自分の意見を述べればいいのである。
だからこそ、石原慎太郎の言動を、「ただの老人の小言」としてとらえては、絶対にいけないのだ。



すなわち、戸塚ヨットスクールは現行法で処罰されたのだから、その体制は許されないし、認められない、まずもって、その立場を、日本国民全員がとるべきである。

その意識なしに、単に体罰は絶対いけないだとか、どうしようもない人間には体罰もしかたがないだとか、そうした次元の話をしても、意味がないのである。

問題意識があるなら、今このような判決を下した法律について学び、制度を変えるように働きかけができる政治家を選挙でえらび、自らも論理的に考え、広く一般に主張すべきなのである。


『平成のジレンマ』映画予告




――というタテマエ論を前提として、次のステップで考えよう。

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アウトプットに対する行動について
2012/01/12 00:31 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
説明力や発言力というのは、学校教育で必要ない。若いうちはひたすらに知識をインプットすればよい。


こうした考え方は一つ有効と思うが、私の今年の目標には反する。

今年はアウトプットと整理という2つのキーワードが目標である。ゆえに、24時間すべての行為行動が、その2つに集約されなければいけない。


確認だが、生き方というものは、仕事もプライベートも、体もすべて一体として考える必要がある。

どれか一つでも正三角形を阻害する要素があれば、資源を投入し解決に努めなければならない。



であるから、消費に過ぎない思考や、消費に過ぎない知識のインプットは、忌避すべきものである。

当然ながら、感情の処理というのも、行動にとって重要な要素であり、排除すべきではない。

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がんばることへの一考察
2012/01/06 02:04 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
「無意味さ」
この言葉から始まるブログを、一体だれが読むのだろうと思う。
ただし、今、帰宅したての今、今だからこそ、書くべきだと思う。

「引きこもり」「ニート」において、無意味さについて書くということは、甚だばからしいことである。
しかしこの言説は、見えない「もっと大変な人」におびえ続けることを意味する。

先日から繰り返し述べている、「目的設定の重要さ」についてだが、これは、果てしない理想による重圧を軽くするための手段でもある。
目的を設定することにより、一時的に、「もっと大変な人」を見えなくするという方法なわけだ。これは一種逃避だという批判もアリだろう。


この世からきれいに消えたい。
のS君は、美少年だった。美少年だから、本になる。ところが、不細工で孤独な親父は、本にならない。救済の対象にならない。「大人のくせに」で終わり。

子どもは守るべきもの、大人は馬鹿ばかり、こうした言説は、巷にあふれている。
しかし、子どもの責任かどうかに関係なく、時間は、子どもを「大人」にする。そうして「犠牲」となった子どもは「大人」であり、もはや守られるべき対象ではなく、排除されるのである。

宮台氏の著作に、もっと早く、たとえば高校のときなどに触れられていたら、もっと思考の深化は進んだのかもしれない。
しかしそうしたたとえ話は空虚でしかなく、たとえば当時の自分ごときに、本を理解できたのかは甚だ怪しいことをもって、「たとえ」の意味のなさを知るわけである。


社会学とか、社会システム理論とか、なにそれ食べれるの?

自分の凡人さを、まずもって自覚しなければならない(それはこうしたブログで「俺馬鹿だし~」「そうじゃないよ!」とフォローを求める浅ましさを断固として斥ける、深く絶望に根付いたものであるべきだ)。
その自覚は、何も自己卑下に浸るためのものではない。

己の馬鹿さ加減をしるということが、まずもって、他者を理解する上で、非常に重要なのである。


先入観なしに、その人自身をみること。

これが、コミュニケーションにおいて非常に重要なことである。
それは、上司と部下、友人関係などにとどまらず、長年つれそった夫婦や恋人同士でもそうだし、教育においてもそうだし、自分の子どもに対してもそうだ。
我が子はみなかわいいというが、いくら顔かたちが似ていても、自分のコピーなどではなく、「他人」なのだと、そうした距離感が一番に必要である。



と、ここまでを前提として、次のステップについて記述する。


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2012年思索(6)「目的設定の重要性について再考」
2012/01/02 09:00 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
さて、ここまで6つにわけたが、長文になってしまった。総括したタイトルをつけるなら、「目的設定の重要性」ということになるだろう。繰り返し述べていることであって、進展はない。それでも、これほど3000字ほどの文章が発生するのは、「不十分」だからである。結局、整理とアウトプットというキーワードを設定したとしても、僕は空中楼閣のように彷徨っているのである。
「人類を幸せにする」という目的でいいじゃないか、と思うのである。「みんなの幸せが僕の幸せ」みたいに、『いい人』の主人公みたいにいえたらいいのである。
ところが、「そう思えない」自分がいる、この現実を見据えるべきなのだ。
就職活動のエントリーシートに、自己PRをかくのであるけれども、どうしても書き進まない。それは何故かといえば、正直別にどの企業でもいいからである(笑)。学生が「質問は?」ときかれて問うのが、福利厚生のことというのであるけれども、やはりそちらが気になるからなのだ。
学校教育のありかた、入学試験制度のありかた、評価制度のありかたが問題と思うが、それを批判したところで始まらない。結局あなたはどんな人なの? と問われたときに、どう「説明」できるのか、そこが重要である。
僕はだから、別に「世界平和」を目的に据えられる人が立派だとは思わない。「戦う組織の作り方」でワタミの社長が述べていたことは、普遍性であり人類全体の幸福であった。渡邊氏には、その高次の目的を実現するための金も権力も方法もあるので、なおさら「すごい」と思う。
だけれども、これは凡人のブログだ(笑)。凡人は、コツコツ地道に成果を重ねていくしかないのである。天才のやり方を真似してはいけない。生兵法は怪我のもとである。
僕は正直にいって、他人なんてどうでもいいと思うことがよくある。コンクリート詰め女子高生殺人事件のような、悲惨な事件を起こす人間が存在するのである。強姦輪姦にあきたらず虐待拷問の上ドラム缶に詰めて沈めるなどという、信じられないことをする人間がいるのである。それをもって人間全体が嫌いだという中二病的なことをいうつもりはないが、歴史をひもとけば、現代社会が幸福の具現化された社会に思えなくもない。
……というよりも、「他人なんてどうでもいい」のは、事実なのである。ただし、それを「立場」としていっていけない場合がある、社会とはそうして成り立っているという、小学生でも分かる「表裏」という問題に過ぎないのである。だけれども、僕は、深層レベルでそれが許せない、いわば子どもっぽい(というより精神年齢はまさに子ども)のだが、それも言い方をかえれば「純粋」ということになる(笑)。
だから、今まで述べてきたことは、すべて「表現」の問題と言いなおすことも可能である。
単純にまとめてみる。
目的設定の重要性の昂進(∵情報社会 価値多様化社会)⇒
「生きる意味」問題の再浮上⇒具体化の方策が不透明
凡人としての方策⇒価値観の破壊⇒「生きる意味」=表裏問題=表現問題

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2012年思索(5)「目的設定の重要性について(凡人による思考の限界性」)」
2012/01/02 08:00 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
ここに、情報の限界性、いやいや単に、能力の限界性という問題が立ちはだかるのである。
僕の主張、価値観というものが、仮に正しかったとしても、そうでなかったとしても、時代の潮流にさからうのは、極めて難しい。この困難さは、「諦め」という言葉に還元されるべきではない。スラムダンクで「諦めたらそこで試合終了ですよ」といわれ、努力とか根性とか、継続性とか、目標に向かってひたむきに立ち向かっていく姿を美しく描かれるわけなのだけれども、それは、「ある意味」間違っている。
先に僕が述べたとおり、その目標(目的)というものは、「自ら設定」すべきものだからだ。
自ら設定した目的に対しては、スラムダンクのように立ち向かっていくべきだ。ところが、それが、イデオロギーとまでいかなくても、上司や教師や親や周囲の人が無意識に信じているからといった理由によって選ばれてはならないのである。
諦めは、必要なのだ、それが、自らの意志と反するのであれば。
僕が一時切り替えた「行動至上主義」は、確かにそれは、とても素晴らしい結果を僕に与えたのである。しかしそれは、その結果の享受の後、行き場をなくしたのであった。キャピタルゲイン、拡大再生産できるプロセスではなかったのである。考えてみれば、「行動至上主義」のために掲げた目的群は、言葉にすれば大したことではない、小学生でももてそうなものだ。ところが、その設定が可能であったのは、まず「プライド」という阻害要因を排除できたからであったし、徹底的な「破壊」があったからなのだ。
2008年からの「行動至上主義」は、それを単独でとらえると見落としてしまうが、それまでの過程が重要であったと考えるべきである。

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