なんどもなんども書いているが、いやむしろ重要であるということと、表現しつくせていないのが原因なのだろうが、「何のために生きるのか」問題は、僕にとっては重要である。これについて、僕が愚かで凡人だから、こうした問いに引っかかってしまっているという結論を下し、「行動至上主義」に転じてみたのではあるが、どうやらこの問題は、むしろ「表現できない」こと自体が、多くの人がふれない理由のようである(いってしまえば、「考えても時間の無駄だから」)。
確かに、生きている意味なんてものは、価値多様化社会の中では、無価値の代表である。
いやそうとはいっても、「テレビ」なんてものをみれば、実に「楽しそう」な人ばかりなのである。そこでちょっと「哲学的」なことをいうと、「すごい」とか「頭いいね」もしくは「茶化され」たり「笑いにされ」て終わりなのである。皆、必死に、この世の中の「無価値さ」というものから目を背けようとしているようにみえる。
しかしこうした傾向は既に、1990年代以降、オウム真理教について言及した宮台真司や、その他若手(といってももはや)論客に指摘されていることであって、20年という歳月は、ただその傾向の深化を示しているだけに思える。
そうはいったところで、徐々にこの「ウソ」というものに気付いてきた人が増えてきたとしても、知的エリート達の論議がこちらに向いたとしても、凡人の僕にとって、それらを理解するには、やはり20年とかそれ以上の歳月がかかるのである、この点を決して忘れるべきではない。
確かに、生きている意味なんてものは、価値多様化社会の中では、無価値の代表である。
いやそうとはいっても、「テレビ」なんてものをみれば、実に「楽しそう」な人ばかりなのである。そこでちょっと「哲学的」なことをいうと、「すごい」とか「頭いいね」もしくは「茶化され」たり「笑いにされ」て終わりなのである。皆、必死に、この世の中の「無価値さ」というものから目を背けようとしているようにみえる。
しかしこうした傾向は既に、1990年代以降、オウム真理教について言及した宮台真司や、その他若手(といってももはや)論客に指摘されていることであって、20年という歳月は、ただその傾向の深化を示しているだけに思える。
そうはいったところで、徐々にこの「ウソ」というものに気付いてきた人が増えてきたとしても、知的エリート達の論議がこちらに向いたとしても、凡人の僕にとって、それらを理解するには、やはり20年とかそれ以上の歳月がかかるのである、この点を決して忘れるべきではない。
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