「このよからきれいにきえたい」
なんというか、僕はまだ説明が上手くできていないのだ。なにせ、「目的と目標、その対策と投入資源、それの効果の測定が重要だ」といいながら、「終わりなき日常を生きろ」という宮台氏の言葉に共感を覚えるからだ。
今いえるのは、単に、「目的」というものを、他者から与えられる時代は終わった、ということなのである。「幸せな家庭」といったとしても、その言葉が意味するものが空洞化している、そうした時代を僕達は生きているということなのだ。「幸せな家庭」という言葉をきいたときイメージできる情景、それが「ない」。もしくは、各々個人でばらばらであったり、そもそも生涯未婚率(50歳時点において一度も結婚したことのない人の割合)は年々あがっている。90年代より上昇に拍車がかかり、2030年には、30%近くになるとのことだ。
2005年においても、女性は7%ぐらいだが、男性は16%をこえている。2030年、18年後、僕が40代のころの世界である。なので、僕より10歳上のひとが集計対象であって、僕が50代になるころには、もっと増えていると推測される。日本人の半数が結婚しない(できない)時代が近々きそうだということだ。
そうした中で、「幸せな家庭」という言葉のもつ意味が、まさかそのままと思うひとはいないだろう。「結婚」という制度自体が見直されることもあるのだろう。非嫡出児にも相続権が与えられるようになったり、養子制度が発展するなど、様々考えられる。
だから、単純に「幸せな家庭を築く」という目的設定はそもそも、目的としての意味すらなしてないのであって、「子どもを二人育て、大学進学した上で就職させる」と、ここまで具体的にして、ようやく「目的」レベルの設定は満たせるのである。
昔、「お父さん死なないでーうわーん」を、目的にしたことがあったが、それはそれで具体的である。もし、僕が本当にそれを「理想」として、目的として許容するのだとしたら。
もちろん、「目的」は、変更できないものではない、が、可能な限り変更すべきではない。なぜならば、判断に手間がかかるからである。目的がしっかりしていて、それに対する目標と対策も打ち出せている場合、判断は迷わない。(アクラシアの事態は考えられるがここでは触れない)
なんというか、僕はまだ説明が上手くできていないのだ。なにせ、「目的と目標、その対策と投入資源、それの効果の測定が重要だ」といいながら、「終わりなき日常を生きろ」という宮台氏の言葉に共感を覚えるからだ。
今いえるのは、単に、「目的」というものを、他者から与えられる時代は終わった、ということなのである。「幸せな家庭」といったとしても、その言葉が意味するものが空洞化している、そうした時代を僕達は生きているということなのだ。「幸せな家庭」という言葉をきいたときイメージできる情景、それが「ない」。もしくは、各々個人でばらばらであったり、そもそも生涯未婚率(50歳時点において一度も結婚したことのない人の割合)は年々あがっている。90年代より上昇に拍車がかかり、2030年には、30%近くになるとのことだ。
2005年においても、女性は7%ぐらいだが、男性は16%をこえている。2030年、18年後、僕が40代のころの世界である。なので、僕より10歳上のひとが集計対象であって、僕が50代になるころには、もっと増えていると推測される。日本人の半数が結婚しない(できない)時代が近々きそうだということだ。
そうした中で、「幸せな家庭」という言葉のもつ意味が、まさかそのままと思うひとはいないだろう。「結婚」という制度自体が見直されることもあるのだろう。非嫡出児にも相続権が与えられるようになったり、養子制度が発展するなど、様々考えられる。
だから、単純に「幸せな家庭を築く」という目的設定はそもそも、目的としての意味すらなしてないのであって、「子どもを二人育て、大学進学した上で就職させる」と、ここまで具体的にして、ようやく「目的」レベルの設定は満たせるのである。
昔、「お父さん死なないでーうわーん」を、目的にしたことがあったが、それはそれで具体的である。もし、僕が本当にそれを「理想」として、目的として許容するのだとしたら。
もちろん、「目的」は、変更できないものではない、が、可能な限り変更すべきではない。なぜならば、判断に手間がかかるからである。目的がしっかりしていて、それに対する目標と対策も打ち出せている場合、判断は迷わない。(アクラシアの事態は考えられるがここでは触れない)
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