介護と仕事
育児と仕事
介護と育児
両立は難しい
昨日は、ファラリスの雄牛と、自殺者抑止に取り組む赤松精神科医について見た。
1万6700件/年
殴る蹴る 60
言葉 30
地域のネットワークづくりにより家族を孤立させないべき
今後も増えていくだろう
市町村が業務指針を立てることが必要
もっと行政サービスを利用すべき
……という世論になれば、この問題を抱える人に有利な税金が使われる。
自殺者抑止も、うつ病の診断により治療が必要と認められる。認められない極めてグレーゾーンの人は、黙殺される
なので結局自分の身は自分で守るしかなく、それは声を大きくするしかないのである。
明確な論理ではなく、世論を知り、問題について説明ができ、自身の見解をもつ必要がある。
ニュースは、何も悲観的にみるのではなく、マスコミが作りだそうとする世論を観測するものである。
ダメなものはダメ
これは当然だが、同時に思考停止にも陥る、何も宮台氏のようなエリートばかりではない。
感情に訴えられても方策がなければ如何にしようもなく、無能のレッテルは感受するしかない
育児と仕事
介護と育児
両立は難しい
昨日は、ファラリスの雄牛と、自殺者抑止に取り組む赤松精神科医について見た。
1万6700件/年
殴る蹴る 60
言葉 30
地域のネットワークづくりにより家族を孤立させないべき
今後も増えていくだろう
市町村が業務指針を立てることが必要
もっと行政サービスを利用すべき
……という世論になれば、この問題を抱える人に有利な税金が使われる。
自殺者抑止も、うつ病の診断により治療が必要と認められる。認められない極めてグレーゾーンの人は、黙殺される
なので結局自分の身は自分で守るしかなく、それは声を大きくするしかないのである。
明確な論理ではなく、世論を知り、問題について説明ができ、自身の見解をもつ必要がある。
ニュースは、何も悲観的にみるのではなく、マスコミが作りだそうとする世論を観測するものである。
ダメなものはダメ
これは当然だが、同時に思考停止にも陥る、何も宮台氏のようなエリートばかりではない。
感情に訴えられても方策がなければ如何にしようもなく、無能のレッテルは感受するしかない
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動画というより、曲だけれども。
ドラクエのフィールド曲集。↓
『嫌悪』
http://www5.atpages.jp/~lombardia/contribution.php?goto=detail&id=70
脈絡はないけれども、↑のリンクの小説は、最初に読んだ時のインパクトはもちろんなかったが、面白いと思った。
小説を書くにも
音楽を作るにも
何かを創るには、何か、よい作品、に触れることが大切に思える。
そして、何かを思考するにも、だ。
ドラクエのフィールド曲集。↓
『嫌悪』
http://www5.atpages.jp/~lombardia/contribution.php?goto=detail&id=70
脈絡はないけれども、↑のリンクの小説は、最初に読んだ時のインパクトはもちろんなかったが、面白いと思った。
小説を書くにも
音楽を作るにも
何かを創るには、何か、よい作品、に触れることが大切に思える。
そして、何かを思考するにも、だ。
ツイッターのトレンド機能が面白い
ドコモがクロッシィ(LTE)という技術で高速通信速度が5倍となるiPhoneに参入する
という情報に対して、
ドコモ
高速通信
クロッシィ
といったキーワードがトレンドになっていた。
と同時に、
12月だ
というのもトレンドに。このリアルタイム性というか、同期性は面白いと思った。
単体の情報は記憶に残りにくいが、総体的だったり興味があれば覚えるものだ。
昨日あるネット小説を読んで、まだ連載中だから、全部読む気などなかったのだけど、読みふけった。
別の記事でふれたいが、気付くとネット小説のカテゴリーがない。読書メモあつかいでいいかは悩むところだけど、カテゴリーは可能な限り集約したい。
ブログももっと体系的にしたい。
目的と目標の設定を再構築したい。
僕は思うに、言葉を扱うのが好きというよりも、言葉の体系が好きな気がする。
それは論理性ともいうかもしれないが、感情的なものや数式的なものも言葉で置き換えたい。
それは効率が悪いことだと分かっているので、思考を図示できるようにしたい。
その為のツールがないか探したい。
感覚的に図がかけて、メモして公開できるツール……、iPadになるのかな。
ドコモがクロッシィ(LTE)という技術で高速通信速度が5倍となるiPhoneに参入する
という情報に対して、
ドコモ
高速通信
クロッシィ
といったキーワードがトレンドになっていた。
と同時に、
12月だ
というのもトレンドに。このリアルタイム性というか、同期性は面白いと思った。
単体の情報は記憶に残りにくいが、総体的だったり興味があれば覚えるものだ。
昨日あるネット小説を読んで、まだ連載中だから、全部読む気などなかったのだけど、読みふけった。
別の記事でふれたいが、気付くとネット小説のカテゴリーがない。読書メモあつかいでいいかは悩むところだけど、カテゴリーは可能な限り集約したい。
ブログももっと体系的にしたい。
目的と目標の設定を再構築したい。
僕は思うに、言葉を扱うのが好きというよりも、言葉の体系が好きな気がする。
それは論理性ともいうかもしれないが、感情的なものや数式的なものも言葉で置き換えたい。
それは効率が悪いことだと分かっているので、思考を図示できるようにしたい。
その為のツールがないか探したい。
感覚的に図がかけて、メモして公開できるツール……、iPadになるのかな。
政治は信頼である
電車やパソコンは信用である
現代は、すべてのメカニズムを知らなくても利用ができる。
政治とは何かをいったとき、安全にご飯が食べられることであり、プラスアルファはそれぞれの国で憲法や法律で定められる。
でも、すべての法律の運用までを一般人は知ることができない。
だから、国会議員を選び、その人に政治を任せるのである。
そのとき、判断は、その人の信頼性である。
電車やパソコンは、信頼する必要はなく、信用する、即ちその動きと結果を信じればいいのである。信頼のように、動機を考える必要はない(思考するロボットは、唯一例外になりえる可能性であり、興味深い)。
では問題。仕事はどちらか?
信頼である、と、日本人の20代の若者は判断している。
それは科学的合理的なものではなく、価値観の問題と思う。価値観=考え方や感じ方の総体。
以上の思考を軸に、いわば規範として、行動をあてはめていく。
しかしながら、この規範(ルール)を、常に使おうとするのは愚かである。
ルールと運用は別である。
いかに厳格なルールでも、例外はあるし、なにより、憲法や法律がそもそもある種理念(価値観を抽象化し精査したもの)ということに立ち返れば、ルールの適用は判断(ぶれがある)にならざるをえないからだ。
電車やパソコンは信用である
現代は、すべてのメカニズムを知らなくても利用ができる。
政治とは何かをいったとき、安全にご飯が食べられることであり、プラスアルファはそれぞれの国で憲法や法律で定められる。
でも、すべての法律の運用までを一般人は知ることができない。
だから、国会議員を選び、その人に政治を任せるのである。
そのとき、判断は、その人の信頼性である。
電車やパソコンは、信頼する必要はなく、信用する、即ちその動きと結果を信じればいいのである。信頼のように、動機を考える必要はない(思考するロボットは、唯一例外になりえる可能性であり、興味深い)。
では問題。仕事はどちらか?
信頼である、と、日本人の20代の若者は判断している。
それは科学的合理的なものではなく、価値観の問題と思う。価値観=考え方や感じ方の総体。
以上の思考を軸に、いわば規範として、行動をあてはめていく。
しかしながら、この規範(ルール)を、常に使おうとするのは愚かである。
ルールと運用は別である。
いかに厳格なルールでも、例外はあるし、なにより、憲法や法律がそもそもある種理念(価値観を抽象化し精査したもの)ということに立ち返れば、ルールの適用は判断(ぶれがある)にならざるをえないからだ。
何が正しいかが見えなくなるのは、記憶力のなさが原因だろうか。
パターン化がすべて解決してくれるというのも一つの思考である。
パターン化とはいえ、ロボットのプログラムではなく、高次の問題解決も、複合的なパターンと呼ぶことは可能だろう。
そうした想定は、理想主義的である。ある一つの真理を求めるのは、人間の本能でもある。典型化による安心を求めるのだ。
だが、そうした理想主義は、しばしば現実を置き忘れる。
すべてを包含した最上位のパターンがあったとして、それを身に付けられる人間を想定するのは無理がある。
ここで、不可能なものに対する二つの見解が生まれる。カオス理論、複雑系に対して、古典物理では、すべての条件が明らかになれば、状態も自ずと予測可能とする。
この到着点の考え方は、ある人にとっては些末でありながら、ある次元の思考においては重要性を帯びる。
何も信じられないという人はまず考えが足りない。
何も信じられないとすれば、何も信じていないことを信じている。
これは無意味なトートロジーではない。信じる行為を表として、信じないのは裏、そして上記は裏の裏である。
だがまだ足りない。
裏の裏であることは、その解釈可能性を広げる。
何も信じないことを信じているとしたら、己は果たして信じているのか信じていないのか、永劫判断できなくなる。
これが第三の段階である。
この地点に陥ると、脱出は困難である。旧来は神の信奉こそがすべてであった。その価値観の転換は、確かに人々を恐慌に貶める。
魔女狩りや宗教裁判の心性を現代人、日本人が理解するのは難しい(たかだか、なんと残酷かという同情!)が、訪れえる恐慌を想像すれば、人々の恐れもまた理解できるだろう。
現代に課せられたこのカオスという課題は、まだ殆ど知られていないようだが、確実にそれは広がり始めている。
パターン化がすべて解決してくれるというのも一つの思考である。
パターン化とはいえ、ロボットのプログラムではなく、高次の問題解決も、複合的なパターンと呼ぶことは可能だろう。
そうした想定は、理想主義的である。ある一つの真理を求めるのは、人間の本能でもある。典型化による安心を求めるのだ。
だが、そうした理想主義は、しばしば現実を置き忘れる。
すべてを包含した最上位のパターンがあったとして、それを身に付けられる人間を想定するのは無理がある。
ここで、不可能なものに対する二つの見解が生まれる。カオス理論、複雑系に対して、古典物理では、すべての条件が明らかになれば、状態も自ずと予測可能とする。
この到着点の考え方は、ある人にとっては些末でありながら、ある次元の思考においては重要性を帯びる。
何も信じられないという人はまず考えが足りない。
何も信じられないとすれば、何も信じていないことを信じている。
これは無意味なトートロジーではない。信じる行為を表として、信じないのは裏、そして上記は裏の裏である。
だがまだ足りない。
裏の裏であることは、その解釈可能性を広げる。
何も信じないことを信じているとしたら、己は果たして信じているのか信じていないのか、永劫判断できなくなる。
これが第三の段階である。
この地点に陥ると、脱出は困難である。旧来は神の信奉こそがすべてであった。その価値観の転換は、確かに人々を恐慌に貶める。
魔女狩りや宗教裁判の心性を現代人、日本人が理解するのは難しい(たかだか、なんと残酷かという同情!)が、訪れえる恐慌を想像すれば、人々の恐れもまた理解できるだろう。
現代に課せられたこのカオスという課題は、まだ殆ど知られていないようだが、確実にそれは広がり始めている。