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子どもの親への虐待
2011/12/07 07:58 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
介護と仕事

育児と仕事

介護と育児


両立は難しい


昨日は、ファラリスの雄牛と、自殺者抑止に取り組む赤松精神科医について見た。

1万6700件/年
殴る蹴る 60
言葉 30

地域のネットワークづくりにより家族を孤立させないべき

今後も増えていくだろう

市町村が業務指針を立てることが必要
もっと行政サービスを利用すべき


……という世論になれば、この問題を抱える人に有利な税金が使われる。




自殺者抑止も、うつ病の診断により治療が必要と認められる。認められない極めてグレーゾーンの人は、黙殺される


なので結局自分の身は自分で守るしかなく、それは声を大きくするしかないのである。



明確な論理ではなく、世論を知り、問題について説明ができ、自身の見解をもつ必要がある。


ニュースは、何も悲観的にみるのではなく、マスコミが作りだそうとする世論を観測するものである。


ダメなものはダメ


これは当然だが、同時に思考停止にも陥る、何も宮台氏のようなエリートばかりではない。

感情に訴えられても方策がなければ如何にしようもなく、無能のレッテルは感受するしかない

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何か創造するとは、何かに触れること
2011/12/03 16:04 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
動画というより、曲だけれども。
ドラクエのフィールド曲集。↓




『嫌悪』
http://www5.atpages.jp/~lombardia/contribution.php?goto=detail&id=70

脈絡はないけれども、↑のリンクの小説は、最初に読んだ時のインパクトはもちろんなかったが、面白いと思った。


小説を書くにも
音楽を作るにも

何かを創るには、何か、よい作品、に触れることが大切に思える。


そして、何かを思考するにも、だ。

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情報の真偽
2011/12/01 07:53 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
ツイッターのトレンド機能が面白い

ドコモがクロッシィ(LTE)という技術で高速通信速度が5倍となるiPhoneに参入する

という情報に対して、
ドコモ
高速通信
クロッシィ

といったキーワードがトレンドになっていた。

と同時に、

12月だ

というのもトレンドに。このリアルタイム性というか、同期性は面白いと思った。



単体の情報は記憶に残りにくいが、総体的だったり興味があれば覚えるものだ。


昨日あるネット小説を読んで、まだ連載中だから、全部読む気などなかったのだけど、読みふけった。


別の記事でふれたいが、気付くとネット小説のカテゴリーがない。読書メモあつかいでいいかは悩むところだけど、カテゴリーは可能な限り集約したい。


ブログももっと体系的にしたい。
目的と目標の設定を再構築したい。



僕は思うに、言葉を扱うのが好きというよりも、言葉の体系が好きな気がする。

それは論理性ともいうかもしれないが、感情的なものや数式的なものも言葉で置き換えたい。

それは効率が悪いことだと分かっているので、思考を図示できるようにしたい。

その為のツールがないか探したい。


感覚的に図がかけて、メモして公開できるツール……、iPadになるのかな。

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信頼と信用を利用という観点から考える
2011/11/30 07:39 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
政治は信頼である
電車やパソコンは信用である


現代は、すべてのメカニズムを知らなくても利用ができる。

政治とは何かをいったとき、安全にご飯が食べられることであり、プラスアルファはそれぞれの国で憲法や法律で定められる。
でも、すべての法律の運用までを一般人は知ることができない。
だから、国会議員を選び、その人に政治を任せるのである。
そのとき、判断は、その人の信頼性である。

電車やパソコンは、信頼する必要はなく、信用する、即ちその動きと結果を信じればいいのである。信頼のように、動機を考える必要はない(思考するロボットは、唯一例外になりえる可能性であり、興味深い)。


では問題。仕事はどちらか?



信頼である、と、日本人の20代の若者は判断している。
それは科学的合理的なものではなく、価値観の問題と思う。価値観=考え方や感じ方の総体。




以上の思考を軸に、いわば規範として、行動をあてはめていく。



しかしながら、この規範(ルール)を、常に使おうとするのは愚かである。

ルールと運用は別である。
いかに厳格なルールでも、例外はあるし、なにより、憲法や法律がそもそもある種理念(価値観を抽象化し精査したもの)ということに立ち返れば、ルールの適用は判断(ぶれがある)にならざるをえないからだ。

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表現の限界性と物理時間
2011/07/20 21:52 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
何が正しいかが見えなくなるのは、記憶力のなさが原因だろうか。
パターン化がすべて解決してくれるというのも一つの思考である。

パターン化とはいえ、ロボットのプログラムではなく、高次の問題解決も、複合的なパターンと呼ぶことは可能だろう。


そうした想定は、理想主義的である。ある一つの真理を求めるのは、人間の本能でもある。典型化による安心を求めるのだ。


だが、そうした理想主義は、しばしば現実を置き忘れる。

すべてを包含した最上位のパターンがあったとして、それを身に付けられる人間を想定するのは無理がある。

ここで、不可能なものに対する二つの見解が生まれる。カオス理論、複雑系に対して、古典物理では、すべての条件が明らかになれば、状態も自ずと予測可能とする。


この到着点の考え方は、ある人にとっては些末でありながら、ある次元の思考においては重要性を帯びる。


何も信じられないという人はまず考えが足りない。

何も信じられないとすれば、何も信じていないことを信じている。

これは無意味なトートロジーではない。信じる行為を表として、信じないのは裏、そして上記は裏の裏である。


だがまだ足りない。
裏の裏であることは、その解釈可能性を広げる。

何も信じないことを信じているとしたら、己は果たして信じているのか信じていないのか、永劫判断できなくなる。

これが第三の段階である。


この地点に陥ると、脱出は困難である。旧来は神の信奉こそがすべてであった。その価値観の転換は、確かに人々を恐慌に貶める。

魔女狩りや宗教裁判の心性を現代人、日本人が理解するのは難しい(たかだか、なんと残酷かという同情!)が、訪れえる恐慌を想像すれば、人々の恐れもまた理解できるだろう。



現代に課せられたこのカオスという課題は、まだ殆ど知られていないようだが、確実にそれは広がり始めている。

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