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がんばることへの一考察
2012/01/06 02:04 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
「無意味さ」
この言葉から始まるブログを、一体だれが読むのだろうと思う。
ただし、今、帰宅したての今、今だからこそ、書くべきだと思う。

「引きこもり」「ニート」において、無意味さについて書くということは、甚だばからしいことである。
しかしこの言説は、見えない「もっと大変な人」におびえ続けることを意味する。

先日から繰り返し述べている、「目的設定の重要さ」についてだが、これは、果てしない理想による重圧を軽くするための手段でもある。
目的を設定することにより、一時的に、「もっと大変な人」を見えなくするという方法なわけだ。これは一種逃避だという批判もアリだろう。


この世からきれいに消えたい。
のS君は、美少年だった。美少年だから、本になる。ところが、不細工で孤独な親父は、本にならない。救済の対象にならない。「大人のくせに」で終わり。

子どもは守るべきもの、大人は馬鹿ばかり、こうした言説は、巷にあふれている。
しかし、子どもの責任かどうかに関係なく、時間は、子どもを「大人」にする。そうして「犠牲」となった子どもは「大人」であり、もはや守られるべき対象ではなく、排除されるのである。

宮台氏の著作に、もっと早く、たとえば高校のときなどに触れられていたら、もっと思考の深化は進んだのかもしれない。
しかしそうしたたとえ話は空虚でしかなく、たとえば当時の自分ごときに、本を理解できたのかは甚だ怪しいことをもって、「たとえ」の意味のなさを知るわけである。


社会学とか、社会システム理論とか、なにそれ食べれるの?

自分の凡人さを、まずもって自覚しなければならない(それはこうしたブログで「俺馬鹿だし~」「そうじゃないよ!」とフォローを求める浅ましさを断固として斥ける、深く絶望に根付いたものであるべきだ)。
その自覚は、何も自己卑下に浸るためのものではない。

己の馬鹿さ加減をしるということが、まずもって、他者を理解する上で、非常に重要なのである。


先入観なしに、その人自身をみること。

これが、コミュニケーションにおいて非常に重要なことである。
それは、上司と部下、友人関係などにとどまらず、長年つれそった夫婦や恋人同士でもそうだし、教育においてもそうだし、自分の子どもに対してもそうだ。
我が子はみなかわいいというが、いくら顔かたちが似ていても、自分のコピーなどではなく、「他人」なのだと、そうした距離感が一番に必要である。



と、ここまでを前提として、次のステップについて記述する。


――そうはいっても。

と、続くのだ。

「正解」を導き出すのと、「正解」を知って、答えをなぞるのとでは、まったく違うというのは想像に難くない。


血縁中心のゲマインシャフトからゲゼルシャフトへと変遷し、旧共同体の拘束が緩くなり、利益にもとづいた近代社会が創出されたため、個々人のコミュニケーション能力が重要になった、と教科書調に書いてみたとして、そのコミュニケーション能力を高めるためのさまざまな方策(これは本田由紀のハイパーメリトクラシーを思い浮かべながら書いている)を打ち立て、実行したとして、それが、強固な「自己信頼」を生み出すのかどうか、甚だ疑問である。


「コミュニケーションによる喜怒哀楽により、『生きる意味』といった抽象的な問いを考えている暇がなくなる」
と、宮台氏は前出の書にでいっていた。

僕もこんな時間に帰ってくるのだから、「生活者」として日々を生きていれば、そんなこと考えている余裕はない。
だけれども、だからこそ、「無意味さ」の問いから逃れられないのである。


宮台氏は、二つの処方箋を用意する。
1.「共同体的同調が期待できない異者とコミュニケーションするスキルと快楽が、もっと多くの日本人に共有されるような方向性」
2.「共同体的同調のスキルを十分持ち合わせると同時にそれに埋没しない強い自意識を持つ、S君や渡辺君みたいな若者が、相手と対等でない社交からも何かをくみ取るオープンハートさを、探索する方向」


前者は社会的課題で、後者が実存的問題としている。

ところが、僕のようなそれ以前の問題を抱える人が、実は大半に思われる。

「それ以前」というのは、この種の問題を、「問題」として認識できないことである。


だからいつまでたっても、妙な息苦しさ、「生きづらさ」なんていったものは、公共として理解されない。
理解されないものだから、「もっと大変な人」命題の鎖から逃れられず、自責を繰り返す。


僕の場合で言えば、そうした構造までは理解できたので、じゃあ、仮想的な自己をつくってしまって、「楽しませてやる」ということもできるようになった。ある人に、このことを、自己の喪失だとか、自分を消すだとか、そういった言葉で表現したけれども、自分が消えるのになお残っている「わたし」という存在について、納得させるほどの説明ができなかったように覚えている。

とはいえ、結局、根本的な問題からすれば、なんら解決にいたっていないし、そこへの道筋も見えていない。


だからきっと、この問題はずっと続くのだろうけれども、とりあえず、結節点として、なんらかの文章を残しておきたかった。



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