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眠れない夜に生きる意味を考える
2016/08/08 00:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
思考は無意味であるが、反転して重要性を帯びてくる、と、先日の記事で書いた。これが、パソコンからなら、リンクとか貼ったり、他のブログサービスならトラックバックしたりするのに。

宮台さんの本を読んで、成熟社会とか、終わりなき日常とか、現在の社会状況を知るのはいい。
しかし、今必要なのは、実存の問題だ。

宮台さんが、新しい社会に向けての改革や思想誘導をしたとしても、それは一朝一夕でなるものではなくて、すでに生じている社会から疎外された人たちにたいしては、なんら救いにならない。

成熟社会に適合できないオヤジたちは、歴史教科書問題とかにすがろうとする、と、宮台さんは切り捨てる。万人を救おうとなんてしない。あたりまえだ、神ではないのだ。大阪の知事になったある政治かも、敵をはっきりさせながら、改革をすすめていた。同じ感じがある。

リーダーってそういうもんだ。それはいい、ただ、それとこれと、僕の問題、個人の問題、実存とは全く関係ない。




実存問題にたいしての本は有効か



なるほど僕は社会に疎外されていたのか、でもそれは、僕だけじゃなくて、脱社会的になっていった、さかきばらせいととか、その後の教師殺傷事件を起こした中学生とか、多くの人に共通する問題だったのかぁ、なるほどー


とか、そんな悠長に分析している場合ではない。いま、この瞬間に生じている問題だ。自殺志願者が、病院の屋上の手すりに手をかけている状況だ。


まず、終わりなき日常とか成熟社会とはなにか、それは、何かにコミットできない状況のことだ。

がんばったところで、それに見あった成果が訪れない社会。であれば、努力よりも、終わりなき戯れで楽しみ続ける方策が有効になる。

ところが、僕のように、感覚至上主義にもなれず、理想主義にもなれず、かといって普通、にもなれず、さ迷ってしまう人は、どうしたらいいのか。



実存的手法


ひとつは、精神分析的に、実存の形成をひもとく方法。例えば、初恋の不成立が与えた自己への問題や、小学校のころのクラブ活動での他者から得た不快感の分析など。

これらから、いわゆる、トラウマ的な事象にたいして言語表現することにより、次なる行動方策を模索すること。


最近やってるこのブログとかログとかである。


しかし最近、これ、いつまで続くんだ? という感覚になってきた。

それに、初恋とか苛めとか、結局よくある出来事に過ぎないとしか思えなくなっている。

今まで、いや今も、あまりこの辺りの話は口にしない。そりゃあそうだ、30代の大人の男がこんなこと言ってたら恥ずかしいを通り越して、きもい、かっこわらい。

いや別に、気持ち悪いと思わない優しい人もいるわけだが、そうか、つらかったね、と言ってもらっても、何も解決はしない。

これらのことについて、僕は今時点哀しんだり、後悔しているわけではない。ただ、事実そういうことがあったなぁ、と思い返しているだけだ。

それが、何になるのか、よくわかっていない。


感覚主義になる方法



次に考えられるのは、何かにコミットすることだ。無我夢中に努力したり、遊び尽くしたり。

しかしこれも、上手くはいかないだろう。

というか、もう、これ、自分でできると思えない。
2008年、2009年ごろはよかった。確かに、思考の渦でもがいていたのは同じだが、まだまだ、知らないことが多かった。例えばポジティブ思考とか、引き寄せの法則とか、いわゆる自己啓発系の仕組みなどほとんど知らなかった。それに近いことは、自分の頭だけでつくっていたのだ。それはそれですごいことかもしれないが、他者も、そうした考え方をして、自分よりもっと論理的に、経験的に、実践的に表現されたものがあるとは知らなかった。

今は……、いろいろ実践してみた。経験した。考えた、読んだ、聞いた、感じた。



いろいろやってみて、うーん、結局、だから、なに? と。


だから、感覚主義へのコミットというのも、却下しかないだろう。


三つ目の方法




さぁ、ここで、颯爽と登場するのが三つ目の方法だ。大抵、自己啓発系はこういう論理展開になる。アンチテーゼからのジンテーゼみたいな。

ところが、残念、このお話は、ここで終わりなのだ。作者は、この先を知らないのである。


Aもだめ、Bもだめ、あ、じゃあ、つみですねこれ。
みたいな。


いやいや、だから、これはもう待ったなしの問題なんだから、ふざけてる場合じゃないんですって。

でもさ、思い付かないんだからしょうがないじゃん。

なら、寝るんですか? で、会社いって、時おりいいことあって、ときおり不愉快になって。どっちであっても、一人、電車に乗っていると、なんだか無性に頭がカオスになっていって、こうやって文字をひたすらうったり。

もしくは、どっかの飲食店によって、お酒をのんだりラーメン食べたり。


そんな繰り返しを、ずっと続けるんですか?


まぁ、そうだろうね、なにか、理想的な、目指すものがあれば、それに向けて努力できるだけの力はあるものの、その目的を見失っちゃったからね。
ずっと不満言って、愚痴愚痴しながら、死ぬまでそうしてるんじゃない?


それって、努力するのを怖がっているんじゃ?

努力して報われないとか、そういう低レベルなことはどうでもいい、問題は、その努力自体を楽しめるのかってこと。
そして、なんのための努力なのかってこと。



いきづまりだな。

え?

いきづまり、もう、お前の思考だけでは、これは解決しないよ。新しい風をいれなければ、くさるだけ。

それは、もっと他者との関係をとれ、と?

そういうこと、それは、ただ、表面的なものではなく、あの人がやってくれたような、深層レベルでの関係において。


うーん、しかし、それは、現実的に難しいのでは? とくに、対人コミュニケーションにおいては、で、君はどうしたいんかい? となる。または、必死になぐさめてくれるか。


まぁ、そうだろね。

でしょ? だったら、うまく、他者からのアドバイスなんてもらうことはできないのでは?

それに、君は、他者からのアドバイスを素直に受け入れられないし。


そりゃそうだよ、例えば、くよくよしたって仕方がないとか、生きる意味なんて考えたって仕方がないとか、そんなこと言われるんだよ?
それはきっと正しいことなんだ。でも、僕は現に、それにとらわれてしまったんだ。足の痛みを訴えて、いやそれよりも心臓の病気がありますからそっちを治療しなければ、みたいなことだよ。そりゃ、心臓は大事なんだけど、とにかく、今は僕は足がいたいんだよ。


そう、で、結局心臓が悪化して死んじゃうってね。アホみたいだね。


うん、まぁ、それはそうだろうよ、アホだろうよ。でもさ、何でも感でも、人は合理的にかんがえられないよね。アタラクシアだよね。悪いと思ってもやっちゃうってことあるよね。


で、そうやって合理化して、自己を守ろうって方策か。昔から変わってないね。

うぅ……そうかもしれないけどさ、君だって、そうやって、いかにも合理的に、正しくありますよ、みたいな態度で、僕を痛め付けるだけじゃないか。それに君は、なんやかんやで、真実をしらない。理想をしらない。
単に、今を乗りきろうとする、短絡的な思考しか持ちあわせていないじゃないか。

好きにいえばいい、そうやって、心が癒されるなら、何とでもすればいい。


ふん、そうやって、冷静ぶっちゃってさ。
なんら解決なんてしないのに。


……。


ねぇ、なんかいってよ?


……。


ねぇったら!



……。



あぁ、やっぱり、一人なんだ。

一人で、考えて、答えを出して、行動して、考えて、答えを出して、行動していくしかないんだ……。












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堕落泣き言と思考との関係
2016/08/05 23:56 | Comments(0) | 思考及び書くこと
この時間の帰りであれば、牛丼屋に入り、生ビールを頼む。最近は、ジンが美味しいが、まぁ、ビールはビールで、なんだかごちゃごちゃしてていいかも。
昨日は焼酎、焼酎は味がないから水みたいだ。
ジンは、なんだか、おしゃれだから、ぐちゃぐちゃなときに飲むのはもったない気がする。

それにしても、やっぱり、仕事はきりがない。
それはそうだ、例えば、弁護士とかすぐれた職業の人のなかでも優劣はあって、どこまで依頼人のために尽くすか、ってのはお金的問題でもある。



仕事の目的、それが、家族を養うため、であったとき、確かに、必死に働くかもしれないが、それは、くびになる焦燥感だったら、とても悲しいと思う。

じゃあ、共通する課題をこなす仲間、所属意識か、自己実現か。



僕は目だった挫折はない、と自分で思ってたけど、初恋がみのらなかったときから、根本からボキッとおれていたのかもしれないと、思考とは何かを実践で示してくれたあの人のことを思いだし思った。

もういつのまにか、僕も彼と、同じぐらいの年になったのかもしれない。


泣き言と思考の違い



泣き言は、その言葉を発すること事態が目的。思考は、その先の目的を見いだす作業。


僕は、泣き言や堕落を目的とはしていないが、この違いはもはや文言にはあらわれない。
気持ちのもちよう、である。
たとえば、世界で一番苦しいんだと、思っていいのだと、僕はアドバイスする。いっぽうで、僕自信は、比較思考によって、そう簡単にできない。

遅い時間になって、帰っても誰もいないし、唯一の楽しみのパソコンもクラッシュして応答がない、となれば、自宅ですら居場所ではないということになるのか。

居場所



居場所、ほしいよね。先日、つまんねー記事だ、アップロードやめようか、と書いた、新しいカフェに行ったよって記事。

こう、いまの感覚で読むと、普通に面白かったよ。そう、感覚。

居場所、楽しみ、目的、居場所、感覚、思考、……


離婚したというのが、直接的な原因とは思わないが、結局、いきることについてのストッパーというか、目的の喪失の一因ではあると思う。
まぁ、かなり直前までは、あまりその効果はなかったのだけど、それが、たとえ心がなくて、
制度上のものだったとしても、なにか、とっかかり、くらいの意味はあったのだと思う。


悲しいかというと、そういうのはないんだけど、でも、迷子感はつよい。



って書いてると、強がり、ってきっと思われる。離婚をひきづっているのに、それを認められず、プライドを守ろうとしている哀れな男なのだと。

そうかもしれないし、そう感じられるのはあたりまえだ。
けれども、僕は違うと思っている、問題はそこではない、という根拠は、その離婚事実の前後の記事を読んでみればいい。

だいたい問題視していることは同じなのが分かる。

そういう意味で、ログは重要だ、が、その、強がりではないということの証明が、果たして、誰に向けてのものなのか。

意味否定装置



高性能な機能。

相対化とか、目的の設定など、僕が優れていることはあるが、それって、役にたたない。世にも奇妙なものがたりで、才能の飴を食べて、素晴らしい才能、たとえばリフティングとかに目覚めるのだけど、結局サッカーの試合には役に立たず、クビになってお金はかせげなかったとか。

世にも奇妙な物語は、怖くてみれなかったけど、テーマがホント面白い。
キノの旅もいいね。

ああいう作品かきたいね。長くなくてもいい、短くても、たくさん書けたらいいんだが、多分高速にネタきれになるだろう。

小説書くにも、作曲するにも、パソコンがない。


することがない、暇だ。
否、したいことがない。


明日は休み



久々に明日は予定がない。

ただ、昼までねてしまいそうだ、そして自己嫌悪に陥って、夜更かしして、あっというまに月曜日、というダメパターンの予感が多大にある。


努力の無意味性



努力は大切だ、けれども、苦しんだ努力は、この時代役にたたないんじゃなかろうか。

あんまり成績はふるわなかったけど、それでも全国の偏差値的には中の上くらいだった、としても、いまは苦しくても、頑張ったらむくわれる的に、必死になって頑張って、結果を出しても、その結果を大事におもえなかったら、悲劇的だ。
必死になって貢いで彼女にした女の子が、実はすげー性格悪くて気持ち悪かったりしたら、俺の努力はなんだったんだ、的な。


だから、思うに、経過、プロセスが一番大事なんじゃないかと。

結果が、大事じゃないわけじゃない。当たり前だ、そんな三面記事的なレベルのことは、もう僕は考えもしない。
結果が大事なのは当たり前でありながら、その結果が一時的であったとき、その次はなにか、ということだ。

昔から、高校入試なんて通過点に過ぎない、とかいわれていただろう。その先が大事なのだと。


しかし、その先というのが、大学でも、ましてや、就職ですらない。

結婚でも、子供でもない。

それらはすべて結果。

結果の連続した繋がりが、それこそが人生なんじゃないかと、俺は思う、思った。


断裂性



結果を出してきたし、答えも出してきた、成果をつくった、そして努力もした、禁欲もした。

けれども、そのそれぞれが、一貫性がなく、その時々で、方向性の再設定が必要になっていたのではなかったか。


自分というものの連続性という点の思考が、というより、実感が足りなかったのではないか。


その疑問によれば、なるほど、そうかもしれないと、納得できる。

確かに、僕は、そのときどきで、自分をかえられると思ってきた、というより、様々かえてきた。
大きなところでは、行動第一主義、感覚主義への方向転換。

自分の価値観の大きな変革といえる。


ただ、それらは、かなり、自己、に対して負担だったのではないだろうか。


だからどうした



それが事実だとして、では、そのままの自分でいられたか、というのは、また無謀である。

別に、変えたくて変えたのではなく、環境的に変えざるをえなかったのだ。

そもそも、自己中心的な人は別だが、たいていの人は、環境におうじた考え方や行動をとる。それが普通だ。ただ、僕は少しばかり、ドラスティック過ぎたのかもしれない。

だからといって、過去を考えて、自慰していても仕方があるまい。
つまり、この断裂性に実感があるならば、是非、今後は、自己を中心として、世界環境との整合性をはかっていけばいいのだ。


と、いうわけで、やはり、もうしばらく、この思考ブログは続けていく必要があるだろう。

気持ち悪さ


とりあえす今日は新しいがいねん、連続性と断裂性ということこメモとしてここで終わり。

あとは、適当に思ったことだが、やっぱり、こういった文章、気持ち悪いって感じられるんだろうな、って。

包丁を首筋にあててみれば、生きることへの悲しいまでの渇望に気付くことができる……なんて、え、この人こんなこと考えてやってるの? うわ、ひくわ……ってなるのは目に見えている、かっこわらい。





まぁ、全員がそうじゃない。ゲイ、をばらされて自殺した大学生がいた。
悩みを抱えて苦しんでいる人たちなんて大勢いる、が。

その中で、こういった表現を思い付くのは、そして、文章化までしやがるやつは、まぁあんまりいないだろう。




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仕事でも遊びでも自己実現はしない
2016/07/10 11:40 | Comments(0) | 思考及び書くこと
ある40代の方のブログ。
妻も子供もいて、仕事も経営者で、ニューヨークで働いているという。

生きる意味を考える
http://www.cbc-net.com/blog/qanta/2016/05/04/livelong/


そんな「リア充」が、生きる意味を考えるなんて、おこがましいにもほどがあるぜ、と、以前の僕なら思ったかもしれない。

しかし、この上の記事において共感するところは、そして、見習うべきところ、参考にするべきところは、……いや、違うな、よかったところ、とでもいうのか、それは、答えが出ていないということと、仕事というものに対する考え方という点である。
仕事なんていうものは、基本的に暇つぶしだ。幸運なことに私は先進国に生まれたし、適当なバイトでもやって、部屋に引きこもってWikipediaを読み続けていたって死ぬまでの時間を潰すことを許されている。先進国では、よほどのことがないと死なない。
じゃあなんで必要以上に一生懸命働いたりするのかというと、これはもうほとんど生理的な問題だ。人の一生は有限で、有限だからもったいなくて、ゆえにジタバタ頑張って、承認されて快感を得ないと損な気がして、なんか気持ち悪くて働く。

この方も分かっているが、――と書くと、非常に上から目線になってしまい、よく会話の節々にそういう点を醸し出すことが自分はあるから、特に気を付けているのだけれども、ただ他意はなく、自分の方が優れているとか偉いだとかそう思っているわけではないのだけれども、他にどう表現していいか分からない感情なのである。――何故生きるのか、とか考えることは、考えられることは、それだけで「幸せ」という状態であるということだ。

なんやかんや書いてきつつも、とある国の斬首動画とか見ていれば、首を掻き切られる瞬間の苦悶の表情、そして、何やら難しい神への供物の呪文を読み聞かせられている時間、迫りくる死の恐怖、そういったものを感じる状況になれば、「死にたくない」と、無様に悲鳴をあげるのではないか、そう思う。

だから、まずは、こうやって文章を書くことができること、そのことに対する感謝(何への?)を忘れてはならない。この前提の上で、「生きる意味とは」と、考えなければ、それはもう、空虚なものになりさがるのである。

仕事でも遊びでも自己実現はしない

上の、40代経営者の方の言葉として、非常に価値がある記事だと思った。
こういうのが読めるってのは、インターネット社会のすばらしさである。何せ、図書館や本屋さんに行って、いくら探したって、「答えのない」本なんて存在しない。
作者がどう考えているかは別として、その思考の過程があったとしても、結論としては、「ある」のだ。
まぁ、その結論を無視して読むことはできるけれども、どうしても、その結論があるというのは、死の恐怖を考えずに生きる意味を考えるような、矛盾というか、空虚さが残るのである。


さて、前置きはこれくらいにして、「仕事でも遊びでも自己実現はしない」という表現に至ったことを書いていく。
つまり、仕事でどれほど成功したとしても、「で、それが何だったの?」という問いに対して、例えば大勢の人を幸せにしたとか、日本の経済に貢献したとか、とても長く素晴らしく語ることができたとして、そのことに対する「実感」、それがまさに自分が生きた意味であったと思えるかということとは、別であるというわけだ。

だからといって、仕事を軽視するというわけではない、むしろ、余暇を充実させたところで、それもまた押し寄せる空虚さに対応できるものではない。
くだらない話になってしまうが、この「空虚さ」が、襲い掛かるかどうかは、その人次第であって、万人誰でもこの点について悩むかどうかというのは別問題である。
もしくは、少し悩んだとしても、今まさにここにいることを信じ、その行為を信じ、現実を強く生きることができる人も、それもまた多いことだろう。


しかし、いざ、その空虚な問いに取りつかれた人は、はたと困るのである。


お祝いの言葉を頂いた皆様、ありがとうございます。しかし、戦時中に赤紙を受け取った青年が他の人に「おめでとうございます!」と言われるときの気持ちって、命かかってないから比べようがないけど、ベクトルとしてはこんな感じだったのかもしれません。けど、ありがとうございます。というところで御礼に代えさせて頂きます。


また、引用だけれども、この、「おめでとうございます」のとらえ方、これ、当然本人の気持ちは分からないけれども、非常に皮肉的であり、よい表現と思った。
ぶっちゃけストレートに言い換えると、「自分では全然嬉しくないし喜ばしいことでもないと思っているが、一般的にそれは喜ばしい良いことなのだろう、であれば自分もそう感じるべきだ」とか、結論的感情は多岐にわたるだろうが、そういうことである。こういった表現できる人って、頭いいんだろうなぁとか思いながら現実には付き合いたくないなかっこわらいとか、それはつまり、結局他者に「純粋性」を求めているのであり、自分に都合のよい人を求める弱い心性であるのだけれども、とにかく純粋に、面白い方だと思う(と書くとまた上から目線的であるが、僕は(以下略))。

猫の恩返し



もう10時か、早いな。朝7時ぐらいに起きてから、ふと目についた猫の恩返しをみていた。
ルーン王子が他国の会議から帰ってきて、ユキちゃんにプレゼントを渡し、それがハルが幼いころに助けた猫に食べさせたお魚クッキーであったことから、ユキちゃんがその猫だったと分かったとき、感動で涙がこみあげてきた。
「お礼なんていらない! だって私も嬉しいんだもん!」
「やっぱり、猫を助けてよかったのよ!」

それまで、さんざんムタに、おせっかいなんてやいて猫を助けたりするからこんな面倒に巻き込まれるんだ、とか言われていた部分の、素敵な伏線回収である。よいストーリー構成だ。


新しいスポーツも始めてみたりと、毎日がとても充実し、楽しい、と、この楽しいというのも相対概念である。閑話休題。

考えることと書くことと

今しばらく、文字を打つ手を止めて、頭の中だけで考えてみようとした。
途端に、言葉が出てこなくなる、いや、いろいろと浮かぶのだけれども、発生しては消えて、もしくは絡まって、ぐちゃぐちゃと触手がわらわらと発生して気持ち悪くなる。

やっぱり、僕は、書きながら考えることが向いている、もしくは、話しながら考える、ということもできるけれども、これは、言葉にするスピードと思考とが微妙にかみ合わなくて、あんまり適切じゃないということにプラスして、言葉はすぐに消えてしまうから、読み返せないことが、結局後に頭の中のごちゃごちゃぐちゃぐちゃに繋がるだけである。


整理してみよう。

・何か現実生活において、大変なことが起きる。
・問題解決のために努力を行う。
◇問題が解決する→END
◇問題が解決しない→次へ
・更なる問題解決のための努力を行う。
・問題が解決しない、又は解決の答えが見つからない(そもそも答えがない)
・自分に解決する力がない(又は時間がない、物理的に不可能)
・何故自分はこれほど頑張っているのか
・そもそも何故自分は生きているのか
・生きる意味などない、それを考えること自体が幸せである
・しかし現時点で自分は苦悩している
・苦しい思いをしてまで生きているのは何故か
・今が苦しくても、楽しいことがあるはずである
・楽しいことがあったとしても、また苦しいことが発生する
・楽しかったり苦しかったりの繰り返しが人生だとして、それが何の意味があるのか
・意味なんてない、その繰り返しこそが人生である
・その繰り返しをすることが何になるのか
・意味なんてない
・意味がないとしたら、生きている意味だってないのではないか
・本来的に生きる意味はない
・というと?
・生きたい、知りたい、仲間になりたいという脳の機能、本能がある
・本能が故に人は生きるのである
・だから生きる意味を考えることは無駄である
・本能を満たすためだけに生きる
・何れ死はやってくる
・死に対して、本能は無力である
・生きたいという最大の欲求は必ず否定される運命にある
・それでも本能に従い苦しい思いもしながら生き続ける必要があるのか
・必要性の問題ではない
・ではなにか?
・それを自らが望むかどうかだ
・積極的に死にたいわけではない
・けれども、何れ迎えるであろう死を考えたとき積極的に生きたいとも思えない
・お前という個の役目はもはやないのだ
・だから別の生命を生み出すという行為しか残されていない
・しかし子供をつくるということは、結局は脳の認識に過ぎないのでは
・というと?
・自慰行為と性行為に個体として、身体としての認識の違いがあるとは思えない
・それは勝手な推測である
・確かにそうだ、しかし、子どもを育てて立派にするということ、その立派とは何か
・もっといえば、子どもを育てることにより自己の問題が解決する根拠だってない
・経験しなければ分からない
・そのとおり、だがその思考になれば、死すら経験しなければ分からないことになる
・であるならば、思考はすべて無意味としかならない(経験が至上であれば、考えたって、死んでみないことには死とは何か分からないのだから)

思考は無駄である

紆余曲折あるが、大抵のロジックはこのようなものであって、結論として、思考しても、生きる意味など考えても無駄である、ということになる。

じゃあ、上の流れで頭を回転させたとして、現時点非常に困難な問題を抱えている場合において、果たして、それで納得するのだろうか。上のロジックは、今まさに、現状を憂いて自殺しようとしている人に、死を思いとどまらせるだけ強いものであるのか。


おそらく、否である。

もっとも、自死をするには様々な原因があるから、その原因を取り除くことが第一優先なのだけれども、結局、

生きる意味なんて考えてたって、人生有限なんだから、楽しまなきゃ損だぜ!

とか言えるのは、実際問題現時点楽しんでいる人たちだけなのである。


いやはや、貧困問題とか様々あって、恋人はおろか彼女すらできたことがないとか、ひどいイジメにあっているとか、自分の生活と他者の生活を比べても、全く意味のないことである。

この意味のなさというのは、仕事で自己実現とか、プライベートを充実させるとか、その程度で解決するものではないのである。

これが、「実存問題」という。

今まさに俺が生きてるんだ。
その俺が苦しんでるんだ。
どうしてくれるんだ。

なんとも身勝手で、かっこ悪いものだ。

実際問題、まぎれもなくかっこ悪い。だから、あんまりこういった表現は多くない。

いやきっと探せばあるのだろうけれども、中々でてこない。

そりゃそうだ、だって、かっこ悪いのだから、女にもモテないだろうし、仕事にも役立たないだろうし、そもそも「楽しくない」ことなのだ。

脳内世界とイデア界

リア充は、現実世界に答えを求めようとする。
オタクは、脳内世界に答えを求めようとする。

と表現するのは、本田透氏である。




本当の「哲学」を学ばれている方々にはたいそう許せない内容だそうだが、「考える」ということとは何か、ということを学ぶには、とてもよい教材のように思った。

例えばプラトンのイデア論は、様々な物質や事象は永遠なもの「イデア」から映し出された虚像なのである、と理解しておけば、テストで点はとれる。(洞窟のたとえ)

けれども、何でそもそもプラトンさんはそんな、「理想の園、イデアはあります!」なんて言い出したのか。教科書的には、師ソクラテスが処刑されたことによって、政治の堕落に失望し……なんてあるけれども、そんな崇高な理由だと親近感がわかない。

本田氏は、(やや強引だが)プラトンは現実ではモテないから、脳内で萌えたらいいんだ! と気付いた、という。

まぁプラトンが本当にモテたかったのかどうかは分からないけれども、そもそも、歴史に理由とか意思なんてものを見出そうとするのは、蛇足というか後付けでしかない。歴史にイフはない、というのは、歴史とは、単に事実であるということなのだ。

物理学の使命

脳内で理想を見出そうとするか、科学をもってして物理法則の統一理論を導こうとするか、方法は違えども、唯一無比な根本原則がある、と信じて追究する点は似ている。
電気力と磁気力を統一したのがマクスウェルの電磁気学だが、そうやって、一つの式で、諸条件を与えることによって、一つの確定した解を導き出せる方程式を突き止めることが、物理学の根本使命なのだという。素直にかっこいいと思う。

やっぱり、そういうかっこいい目的のための仕事に携わることが、生きる意味を導くための大事なことなのだろうか。

これが、仕事への生きがい、ということだが、往々にして、第一線で活躍する科学者になるには、非常に困難が待ち受けている。これって、プロ野球選手になるのと同じぐらい、かは分からないが、とにかく大変なことだ、といって大変だからやらなくてもいいかというとそういうことではない、努力が大事だ、頑張れ、やればできる! とかいうのは、思考ではないので、わきにおいておこう。

とかく、例えば、第一線ではなくても、研究助手(ポスドクとか)のような仕事だってあるし、研究所の清掃員だってとても大切な仕事だ。きれいな職場が維持できるから研究ができることもある。

となると、結局、僕が今やっている仕事だって、「人のため」になる仕事であり、誰かの役に立っている。それをどこまで信じられるか、という問題だとすれば、結局、どの仕事だって同じ。

このあたりに、仕事を生きがいにしても、生きる意味から逃れられない困難性をぬぐえない理由がある。


第一、ふと冷静になってみて、宇宙の根本原則である「解」が見つかったとして、では、自分が生きた意味は何だったのか、苦しい思いをして、その研究に携わって、答えを見つけたとして、それが何だったのか、となったら、目も当てられない。

ノーベル賞はとったかもしれない、たくさんの人の賞賛が手に入ったかもしれない、使いきれないだけの莫大な富を得たかもしれない。

しかし、死からは逃れられない。

その瞬間に、自分の人生に疑問を抱いてしまったとしたら、それほどの悲劇が存在するだろうか。

死の間際の苦悩

素晴らしい業績、功績をつくりだした人が、そのことすら懐疑してしまうのであれば、早々に自死をした場合と、どちらが良かったのか、全く分からなくなる。

もちろん、残された人類にとっては、幸福でしかなく、感謝してもしきれないだろう。
アインシュタインの相対性理論(一般相対性理論?)がなければ、GPSの誤差大きくなり使い物にならなかったのだ。
(と、書いてから調べてみると、どうやらカーナビと相対性理論は関係ないらしい。とある書籍で知って、へーそうなんだ、と思って「信じて」いたけれども、違っているということもあるということなのだ。最も、その読んだサイトの内容が正しいかどうか、僕の頭では判断できていない(ちょっと読む分には正しいように思われる)から、どっちにしろ「信じる」しかない)


うえのカッコがきの蛇足、を書いていて思ったけれども、その「信じる」ってのが、非常に思考において重要になってくる。

日本人は特に、宗教を毛嫌いする傾向にある……というのも、単に一般的に言われているだけで、例えば、今ある政党を一つずつ調べていけば、その繋がりも見えてくる場合もあるから、それだって一面をとらえているだけに過ぎない。

とにかく、「信じる」というのは、どうにもこの科学的な社会において、蒙昧で、無知で、恥ずべきことのように考えられることが多いながらも、実は、一般人は(いやもちろん、僕がとりわけ頭が悪いというのもあるのだろうけれど)それほど多くのことを理解できるほどの頭脳をもちあわせていない。
「論理的思考力」というのは、鍛えられるものだし、頭がいい人は、型にはめて理解して応用する力に優れている。

が、その「型」が、本当に正しいかどうか、ということは、実は「記憶」と言い換えることもできるものの、「信じている」ことに他ならないのである。

科学だってそう。お金だってそう。

友情や愛だってそう。

自分が明日元気に生きているという思いだってそう。



いろんなことを、人は信じて生きているのだ。

この近代、現代に何故宗教がなくならないのか、自爆テロなど、宗教をめぐって人は何故そこまで残酷になれるのか、凄惨なことが起きるのか、理解できないことが多いだろう。

しかしそれは、資本主義社会が絶対善だと信じられているように、人はそもそも、信じることで自らの生活圏を守っているのである。


「のである」とか、カッコつけて書いているけれども、結局そのことだって、証明できているわけではないのだし、僕も結局単に「信じている」だけである。

ただ、ここで言いたいのは、メモしておくべきことは、その「信じること」、最近よく使う表現に言い換えれば、「実感」や「実存」ということが、重要であるということだ。

長くなったな。誰がこんなの読むんだ(笑)。


まぁ、少なくても、僕は読むだろう。ので、もう少しだけ書き進めよう。



考えるうえで気を付けるべきこと

・実感を重要視する(他者を気にしない)
・書くことの意味を疑わない


2点目、これはもう、表現しつくしたのではないか。さすがに、もう、このことは書かなくてもよいのではないか。

1点目と合わせて、特に僕は、書いていないと頭が整理できないようなのだ。
本当は、図解したりとか、もっと手っ取り早い表現方法や思考方法があるのかもしれないけれども、その図解するに至るまでの思考がそもそも「始まらない」(笑)。

図解は結局、僕にとっては、他者に分かりやすく伝えるための手段でしかないのだろう。いや、これはまぁ、訓練して、頭の中に図を描けるようになれば、思考スピードも速くなるのだろうけれども、それはまた別のはなしだ。

だから、もうこの先、「このブログに何の意味があるのだろう」とか、「書くことが何になるというのか」「生きる意味を考えてどうするのか」、これらの疑問というか、それはもう抱かないことにしてはどうだろうか。

考えることとか、生きる意味とは何かと問うてみることとか、それ自体がどうであれば、もう現に生じる思考はどうしようもない。

意識的に考えないようにする、坐禅とか、そういう行為や、酒や女とか、友達と遊ぶとか、それらもまた別の次元で必要だろうけれども、それとは別に、この「思考」というのは、もう一生付き合っていくしかないのではないか。


そりゃあ、たくさんのサイトで、「生きる意味なんてありません」とか「考えたって無駄です」って言われているわけなんだから、それはきっと真実なのだろう。

ただ、その真実が、果たして「僕にとって」の真実かどうか、それを、まだ僕は「信じられない」のである。

そして、きっと、そのことは、僕はずっと「信じられない」のではないか。


……うーん、やっぱり、「ではないか」と疑問形で打ち込んでしまった。

やはりこれについても、まだ結論を書けるだけの気持ちがかたまっていないということなのだろう。

1時間半ぐらいも考え、書いているが、今日もまた、何ら結論がでないまま終わってしまうのか。(久々にデスクトップパソコンで書いた)

しかし、ただ、一つだけいえることは、悶々と、苛々として時間を過ごすよりは、よほど充実した素晴らしい時間を過ごせたと、そう「実感」できる、ということだ。


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表現するということ思考の部屋
2016/07/08 00:32 | Comments(0) | 思考及び書くこと
誰も頼ることはできない……これは、傲慢極まりない発言でありながら、その実感を事細かに書き連ねていくことの意味、その意味について考える必要はないのかもしれないが、無意識に任せてもあらぬ方向にいくだろう。

とかく、尊敬できる人は、この世の中に多く(相対概念だ)存在しているのである。

思考の部屋
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon

上のサイト、最近、数日前に見つけて読んでいたが、面白い、「生きる意味を見失ったら身体を休めてみよう」「生きる意味を考えることは意味がないこと」とか、如何にもアクセスを稼ごうとする、ワードプレスのテンプレート的なブログが多い中、上の記事は、ぶっちゃけ「読みにくい」。

意識的か無意識的か、それほど多くの記事を読んではいないが、少し読んですぐわかることは、この方は、実在して、生きていて、真に、正直に言葉をつづっているのだと、そう感じ取れることだ。

恐らく、その表現や、そもそも、自分の倍以上生きているような方なので、同じような感覚でいるとか、そういった「共感」をもつわけではない。
しかし、一般的な、表層的な共感はなくても、非常に興味深く、共感できる、そして、見習いたいと思ったわけだ。


釈尊が、それら五蘊(ごうん)のありようを通じて、未来のことは取り越し苦労をしないがよろしい、過ぎ去ったことは、いつまでもくよくよしないしないがよろしい、ただ、冷静に、そして力いっぱい、現存するところのものをよくよく観察して、なんの「揺らぐところがなく、動ずることもなく」して、「ただ今日まさに作すべきことを力いっぱい実践すること」がよろしい、「それが人間の最も賢明な生き方である」とといておられるのである。「一大事とは、今日只今のことなり」とは、かの白隠禅師の師正受老人(信州飯山の正受庵主、的翁慧端(1721年80歳寂)の名言である。

引用されている言葉も、まぁ僕が書いているようなことと同じである……というのは、またしても傲慢ではあるが、僕の「実感」としてそれは「ある」。

表現をするということ

もう、この方のブログがあれば、僕のブログなんていらないじゃないか、いやはや、まったく事実だと思う。

僕の中途半端な宗教哲学や仏教などの知識理解よりも、相当深く、詳細に、正確に理解し、記憶されているだろうことが感じ取られる。


しかしながら、その完璧さが、決して、すべてではないということ、それもまた、僕は実感することができた。
というのは、やはり、僕は僕自身として、その感じ方、感じていることを表現することは、「人類にとって」重要であると思える、思えた、ということである。

もちろんこれは、最近飲んでいる東北の日本酒が2合程度はいっていて、気分が高揚し始めたことに起因するともいえるかもしれない。


しかし、それだけではないだろう。


と、いうよりも、それしか、できないだろうということである。

好きなことをするということ

先の記事で、何をしたいのか分からない、何が好きなのか分からない、自分とは何だろうか、と書いた。

しかし、その書いたことそのことこそが、僕が何を求めているか、その答えとなってはいなかっただろうか。

表現をすること、それがやっぱり、「楽しい」というより、やりたいことなんだと思う。

で、それが、誰かに認められたいと思うかどうか、それもやはり、「その通り」なのだと思う。



で、そのことらと、子どもが欲しい、彼女が欲しい、嫁が欲しい、友人が欲しい、仕事でうまくやりたい、出世したい、お金が欲しい、楽をしたい、気持ちよくなりたい……
眠りたい、おいしいものを食べたい、旅行したい、もうそれらたくさんのいわゆる、それら「一般的な」欲求と、自分の気持ちの乖離が、

自分とは何か分からない

という感覚につながっているのではないだろうか。


「僕がしたいこと」というのが、一般的に意味があることとは認められていなくて、実際にそれが有意義かどうかわからなくて、そしてまさにそのことを僕自身が知っていて、僕もそれを強く、同時に「実感」するもんだから、僕が最近最重視している「実感」と「実感」が相反する方向を向いているもんだから、そりゃあ、自分ってもんがよく分からなくなるのは当たり前じゃあないか。

実感を一つにする

であれば、すぐに思いつくのは、それらあらぬ方向を向いている実感を、一つの方向に向かせる、統一させるということ、それが思いつくわけだが、果たしてそれは可能なことだろうか。

おそらく、僕がこのまま、好き勝手書いているのであれば、

思考の部屋
の作者さんのレベルには到底到達しないだろうし、かといって、いわゆる「リア充」的な、物理世界の肯定を前提とした欲求に身を任せるということも、いずれ、徐々に、自分がすり減ってくるであろうことが容易に想像される。


つまり、僕が、ずっと言ってきた、人は変わることができる、望んだことは手に入る、ということ、これは事実でありながら、きっと、現実的な意味において、もはや、「リア充」的な欲求というのは、これからもずっと、僕が自分のものとして実感を得る可能性はないだろうと、その点における実感が、この記事における新しく、記憶すべき点だ。


「言ってはいけない」
で言われるまでもなく、人間、ルックスが最重要(とは言い過ぎかもしれないが、そこが問題ではない。「人はルックスが9割」ともいわれるではないか)である。

女性がどうかは分からないが、これは、別にルックスの世界だけでなく、例えば、小説とかその他表現の世界においても、いやもはや仕事でもなんでも、この世界の法則として、確実に、「努力」での調整範囲は決まっている。

がんばりゃなんだってできる、ってのは、人間の限界性を認められない危険思考である。

人は空を飛べると崖から飛び降りるようなものだ。

限界性の呪い

そして、やる気をなくさせるのは、この呪いというか思考である。

つまり、すげー人はすげーんだ。って当たり前のことである。

そろそろ目がかすんできて、体力的な限界でありながら、もう少し、もう少しだけ書いていこう。

酒を飲みつつも、これ、書いていて、読んで、面白いのか、という疑念、この疑念との戦いながら、僕は一体何を目指しているのだろうか。

高揚している感覚としては、この唯一の記事、おそらく、すべてこれらの言葉は、僕のオリジナルであるのだから、全く同じ文脈を構築できる人はこの世の中に、日本という小さい範囲ではなく、世界規模的に、唯一性である。

それは、ゴミための落書きかもしれない、ただし、表現、その「表現」という意味において、この価値は、昇華させるネタにはなりえると思う。




途中から書いている記憶がない、これ、明日読んだら、赤面して消したくなるのだろうか……



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喉の痛みと自己啓発本批判およびアウトプット方針への揺らぎ
2012/02/01 21:29 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
タイトルが混沌としているけれども、喉が痛いのと体の怠さから午前有給を使った。
今年はもちろん、入社して初めてのことだ。

ところで最近、本を読んではいるけれども、レビューがない。
書評、レビューを書かないと、アウトプットという意味において価値がない。

というわけで、書評じみたものを書こうと思ったが、ブックマークにしていた、下記記事が目に入った。
「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら


ニーチェは相対主義者であり、世の中の議論の多くは、信仰vs信仰の構造をとっている。
だから、「人を殺してはいけない」というのも、信仰である。信仰を真理へと押し上げるのは、政治ゲームである。
政治ゲームで勝ち上がった人の信じていることが、真理となる。政治ゲームのルールを知ろうとする意志が、「権力への意志」である。

と、ニーチェの道徳の系譜という書物のレビューの、そのまたレビューを書いてみた。


で、そのコメント欄を読んでいき、トラックバックにあった、

人を殺したければ殺すべきである――永井均『これがニーチェだ』を読む

という記事を読んだ。

そうすると、ニーチェは相対主義なんかじゃない、ポジティブな生というものを肯定し、大切なのは「健康」なのだと述べている、という指摘が書いてあった。


なるほど、そうなのか、と納得。



それでだ、今の二つの記事を、「自己啓発本」や「解説書」とたとえようと思う。
自己啓発本というジャンル、すなわち、「できる人の時間の使い方」といったような種類の書物、それらの需要というのは、何故起こるのか。
また解説書、「ニーチェの言葉」みたいなものの需要は、何故あるのか。


とっかかりがないと、どんな簡単なことでも分からないからだ。



複雑なこと、難しいことが「かっこいい」と思っていたふしが、僕にはあった。
だから、ブログや、まして自分の日記を書くにあたっても、難解な言い回しをすることがよくあった。

でも実際、ビジネスで求められているのは、単純さ、明快さ、スピード感だ。
文学的な言い回しなんてしていたら、「それってつまりこういうことでしょ」と添削される。

それがゆえに、僕は最近、文章を書くのが嫌になっている。


というより、文章を書くことによる「リスク」というのを、過剰に恐れているといっていい。

たった一言、一語の形容詞をつけただけで、「わかりにくい」と言われたり、多数の人たちに誤解を招くことになる。


そういう意味で、プロのブロガーってのは、すごい職業だと思う。
とはいえ、たびたび炎上ってのは起こる。それは交通事故にでもあうような意味合いになるかもしれない。


まぁそれはとにかく、自己啓発本や解説書は、とても役に立つと同時に、「自分で考える」という癖をつけるには、害悪にすらなる。

もっとも、自己啓発本等に書かれていること、鵜呑みにしてそのまま実行しようとする人はいないかもしれない。
けれども、今社会に求められているのは、むしろ、自己啓発本を自分で書ける人なのだ。


自分はこう思ってこのように行動した、その結果こうなった。

その説明が、どれほど他者に分かりやすく伝えられて、影響を与えられるのか。

その観点が、非常に重要であると僕は思う。


正直、これをいってしまえば真面目な人から総攻撃をくらうが、ニーチェは実はこんなことは言ってなかったとか、ニーチェのことを正確に解釈することは、一般人にとってなんら意味がないのである。
もちろん、ニーチェという人の名前を使って、適当な発言をねつ造してもいいといっているのではない。

ただ、一般には、必要としている情報の「質」と「次元」があるということなのだ。


僕は「なんで生きているのだろう」なんて小学校4年生的なことを考えることがあるが、
「意味なんてないんだ。永劫回帰なんだ」
とニーチェがいったということで、納得できる人もいる。

ニーチェの翻訳本を読んで、詳細なところはよく分からなくても、何事にも意味を求めるのがいけないんだ、超人になることが重要なんだと理解し行動できる人もいる。


とにかく、今、世界は、日本は、社会は、変わろうとしている。

と、いうよりも、「変わらなくちゃいけない症候群」にかかっている。それを、香山氏のように、「ほどほど論」をすすめても、もはや「怠け者」のレッテルをはられ、唾棄すべきと排除されるだけだろう。



剥き出しの生というものを、最近よく感じる。とはいっても、大学時代に比べたら生易しい。

学生は気楽でいいな、と大人はいう。

僕はそうは思わない。というか、全然気楽じゃなかった、ともいえる。
僕はあるときから、日々において、今日が昨日よりもよくなっていると、確信しているし感じている。

過去に戻れるタイムマシーンがあったとしても、絶対戻りたくない。

僕は、将来の(未来の)不透明性を恐れていた、いや、今も恐れている。


僕はある人に指摘されておののいたことがあるが、僕には、欲求がないのだという。


そんなことはない。おいしいラーメンだって食べたいし、眠たいときは寝たい。

けれども、どこか、発生する欲求を、相対化してしまうところはある。


お金持ちになりたいという欲求が生まれたとして、「じゃあ、お金持ちになったらどうするの?」という問いが必然的に生まれる。

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