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人間嫌いと障がい者を感動ポルノに
2016/08/29 08:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
しょうがいを持った方でも、必死に生きているという番組を、感動ポルノだとして批判がされた、という。健常者でも、しょうがいしゃでも、ともに怒ったり笑ったりするのが本当の感動だと。


先日、被爆者の特集をメモしたが、同じ構造である。と、書くと上から目線だけど、まぁ、そう思う。今さら何を、と。

まぁ、それが少なからず、いまの幸せの享受の確認になるというのなら、意味があることだ。いつもながら批判する気はない。世論形成はエリート学者や政治か、芸能人、小説家に任せておけばいい。



例えば、人間嫌い、とか、モリエールじゃないんだから、別に公言する必要がない。
二分法によれば、ポジティブネガティブ、ポジティブがいいに決まってる。

人間好きか嫌いか、っていったら、取りあえず好きっていっときゃいい。それが、社会性だ。

繰り返すが、それが悪いことでは消してない。先日出会った女の子は、おやとも喧嘩別れか死別して、友人もいなくなり、仕事でのしあがったと話していた。
そのエピソードは衝撃的で、興味深かったが、最後にいっていた、人間が好き、という言葉が印象に残った。


それは、全人類好きとかいう意味ではないだろう。
嫌いなひともいるけど、たいていは好きなひとが多い、という意味に過ぎない。


というのは、好きも嫌いも、相対でしかない。

ただ、感覚的に、人間が好き、といった方が聞こえがいいのだ。



自己の抑圧




本当は、そのぶつかりあいを、体で感じて成長すれば、自己と現実とのズレが少なく、思考の生じも最小限だったかもしれない。

と、思いすぐさま、え、でもあの頃の軋轢とか喧嘩とか、孤立とか融和とかは、自己を確立するエピソードではなかったのかと、思う。

結果的に、どうすれば人とうまくやれるのか、を考え、実践しているだけだ。

そもそも、過去的な事象を、美化してとりあげても意味はない。過去に意味を与えるのは、現在の主体意識である。


ひぐらしの鳴く動画みてたけど、彼らの声は本当に郷愁を感じさせる、が、やっぱり、現実の見た目は気持ち悪い(笑)


なんの、話だ、ああ、社会との、軋轢とか、ずれとか、そういう話か。

メモしようとしたのは、好きか嫌いか、っていえば、好き、っていったほうがいいが、本当に、自分としては、どっちが、自分の実感にちかいのか、それに真実に、よく耳を傾けろ、ということだ。

それはもちろん、好きな食べ物とか、嫌いな食べ物とか、そんな、一般に嫌いということを許容されている事象ではない。

概念的な、生き方とか、価値観とか、道徳、思考、そういった、人間の基軸、と思われているようなこと、それを本気に考えろ、ということだ。

それは別に、公言する必要はない。ただ、頭のなかだけでコネコネしていても、漠然性から抜け出せない、というのは、殊更全く、自分の能力不足に思うが、まぁ、そういうときに、文章が役立つと思う、


そういう意味で、自分をつくるブログの書き方、とかタイトルで本を書いたら売れるだろうか。需要はなさそうだ、てか、もうありそうだ、かっこわらい。


そして午後



なんだか、身体が調子がよくない。太陽に当たったり、天気雨にあたったり、よくわからない不安定な天気のせいか。

もうひとつ、肩凝りが、たまりにたまった。こうなると、湿布をはらないとかいふくしない。


さて、次の移動場所まで、残り二時間か。
そのなかで、何を書くか。

こんな、隙間時間を利用して、文字を書くことに使うのは、どうなのかな。と、、思うが、いまの、最優先事項だ。


絶望について、

必然期待について、

不透明な時代について、

生きる意味を考えることについて、

ここまで書いた。

次は、理想的な自己とはなにか、についてか。

しかし、これを書く気が起こらない。というのは、なにか、途中に置き忘れた感情があるのだ。


うーん、いっそ、あやふやなまま、投稿してみるかな。いやいや、それは流石によくないだろう。あくまでも、投稿するなら、随筆といっても、作品であるべきだ。

吉田さんの徒然草は参考になる。

あれは、なんか世の中、ばかみたいだな、ってしゃに構えて、日々、思ったことをエピソードを交えて書くのだ。

気づいたら、自分の書くのも、同じ感じになってる。こんなことがあった。で、それってこういうことだと思う。でもさ、そもそもこれを考えなきゃいけないんじゃない? みたいな。


十三、14世紀ぐらいの作品。
すごいよね。紙も貴重だったろう、しかも、筆でしか書けない。書き損じとかなかったのかな。

それを思うと、昔の人って、やっぱり、記憶力が重要だったのだろう。現代ほど書くということが、手軽で無かっただろう。
ルーチンが、より重要だったのだろう。


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大衆居酒屋の描写
2016/08/24 20:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
一人、静かに呑みたいと思い、居酒屋に足を運び、カウンターに座るが、隣の人がタバコ吸いまくりで迷惑きわまりない、というのは、喫煙可な場所なので仕方がないが。気になって、ゆっくりできない。料理はおいしい店なのに残念。

もうちっと、隣に気を使ってほしいもんだがな。
ほんとは、ウォークマンとか使わないのが通、なんだろうな。隣の人と打ち解ける、みたいな。まぁそんなのもあるかもしれん、が。結局店員さんの猛々しい女性の声とか、お客さんのワッハハ楽しそうな声が、残念ながら煩くて、ウォークマンである。


まぁ、耳に差し込んでも、聞こえるから、逆にちょうどいいぐらいだが。


とか、不満いいつつ、やっぱり、旨いから、追加注文してしまう。


早く帰ったところで



若者が、被爆者の語り部に多く参加しているという。
意外にも、なんで生きてるんだ、自分なんて生きている価値がないんじゃないか、と思っている人は多いらしい。

それを、認めて、カミングアウトして、やる気に転化して、成功をおさめる、という構図、これにも、もう飽きてしまった。

なんというか、もう、相対化の魔物にとりつかれると、恐ろしいことになる、言い換えれば、とてつもない怠け病、となるが、どのみち、苦しむのは自分である。


いや、逆に、逆にだ、戦争末期、食料もない、広島にいたというだけで、ピカドンに犯されているから婚約者の親にも婚約破棄された、とか、ひでー話だ。戦争はよくない。


しかし、逆に、戦争時と今とを同質にみろ、というのも難しいのではないか。


もっといえば、上の悲劇的な被爆者よりも、親から虐待をうけて、再婚相手の男にレイプされつつ、お前なんて生まれてこなければよかったのに、と言われ続けて育った人と、どっちが辛く、可哀想と思うのか?


僕は、比較することすら無価値と思う。間違いない。両方たいへんで、よく頑張った、素晴らしい、すごい。



これが、比較思考の無意味性である。
下をみてもきりがない。だから上を向いて歩こう、ではないが、結局のところ、他者は他者である。

ここで、やっぱり書いておくべきは、俺は別に、他者への共感ができないサイコではないということだ。むしろ、共感しすぎるぐらいである、と言っても、ここまでの文章は、絶対に覆せない印象を与える。
だから、自分の気持ちの吐露など、絶対にすべきではない、いやなに、100%の理解が不可能であるならば、大した問題ではない、危険な誤解が生じる部分は伏せて、共感性、安全性の高い部分で生きていけばよいのだ。

偽りの自分


ってことを、昨日はウィル君に見破られた、つまり、なんやかんや、やっぱり、物理世界に対し、心をとざしてしまったのだ、と。

と、いいつつ、こうやって書くのは、やっぱりどこか、他者の承認を求めるのである。

いつまでも終わらない、トートロジー、無限遡及。



しかしだ、もうそうであれば、もうどこまでも書き続けてやる、って、そんな自暴自棄的なのも発生する。

これは、アルコールのせいもあるかもしれない。


ああ、しかし、あれだ、強い、生き甲斐、って、なんだろう。

こうなってくると、もう、ほんと、周りの、生きている人たち、みんなすげーっと思う。
よく生きてるな、いやほんと、それだけですごいよ、欲求があることがすごい。


でも諦めていないしつこさ



といいつつも、こういった生き甲斐のなさを、仕事帰りのアルコールとか、ゲームとか、宝くじとか、車とか、女とか、そういうもので満足しちゃいけない、って、ストッパーがいる。どこにいやがる?

でも、僕自身、それを捨てちゃったら、俺が僕じゃなくなる気がする。

人は気持ちは変わる。

しかし、その人格の統一性は、記憶によって成り立つ。ゆえに、記憶がなくなれば、それは一個の死といえる。
そして、ここからが重要だが、記憶の連続性がなければ、それもまた死、であるのだ。


一笑されるだけのこと



とか言っても、どうせ、誰も理解できないのだ、と、僕は今思っている。
先程の、被爆者語ろう会に参加しようと思った若者たちでさえも、私の言うことは、きっと、共感はしたとしても、認められないし、そもそも必要としないだろうと、逆に思った。

つまり、いくら、自己の価値を見失い、生きることが嫌になった人も、絶望、をしているわけではない可能性がある、ということだ。


失望と絶望の違い



このあたりが、19世紀のキルケゴールさんがすごいところだ。

つまり、恋人にふられたとか、仕事でしっぱいしたとか、それらは人格否定がつきまとい、間違いなくつらいことだが、それはまだ絶望ではない。

理想の恋人と相思相愛になる、とか、出世して皆に認められる、とか、実現可能性がいかに小さく思われようとも、その幸せ的事象が存在しているうちは、望みに到達すること失ったのである。


対して、その、自分がありたいと思う理想、目的、到達点、それが無くなった状態、それは、望みが絶滅したのである。


と、まぁ、絶望と失望と、キルケゴールの死に至る病を、日本語を使い分けて説明していた本があったから、上のように表現しただけで、別にどっちがどっちとか、覚える必要はない。
望みが完全に失われた、と解釈すれば、失望が僕の表現したかった絶望と同じ意味にもとれる。

ので、ここの、違いは、未だ、自分が、ありたい姿を想像できるかの違い、と記憶すればよい。

ので、失望の場合は、いわゆるスピリチュアル的な、セルフイメージをもって、なりたい姿を引き寄せる的な、そういった生き方が効果を発する。
まず、社会から疎外された人のうち、大半はこの方法が有効である。


しかし、面倒くさい人間は、それすらできなくなる。
お金も、ルックスも、時間も、いっさいの諸条件を廃して、本当に自分のやりたいことを考える。まずやってみるといい、そして、やってみて、ああ、確かに、そのとき想像した自分になれた、よかった、幸せだ、……で、それがどうした? と、気づいてしまったとき、そこから、本当の絶望が始まる。


自分の絶望度は分からない



しかし、ここでも、結局、スピリチュアル的には、それはまだ、自分の本当のきもちを引き出せていないのです、宇宙のオーラを感じ、私たちとセッションして、本当の自分に出会いましょう、と言われるだけだ。


いや、よいのだ、その、自己を集団や組織にコミット(参画)できるなら、そうした方がよい。


しかし、困った人たちは、それがどうしてもできない。もしくは、何回かはできて、それによって救われたりうまくいったりしつつも、やっぱり、何か違うことに気づいてしまったのだ。


これを私は、呪いと表現している。
だって、全然よいことではないのだ。


わかったからどうしたらいいんだ



で、結局、その呪いを理解できた人も、そこで、じゃあどうしたらいいんだ、と、やっぱり、答えをもとめるようになる。


で、まぁ、何もないけど、例えば素晴らしい人格者が、答えを与えたとしよう。しかし、その後の展開は、すでに書いてきた無限遡及に吸収されてしまうほど、脆いものになっているのである。


この、相対化の呪いは、成功し、救われて、幸せになる度に、強度を増していく。


いやー、この記事、すごい言霊を発してる気がする、読んだ人に不快感どころか、倦怠感や嘔吐させるのではないか。

しかし、ここまで読めた人は、安心して欲しい、逆に
強固な自己を保持した、大人で魅力的な人だ。

一方で、そうでなくても共感した人は、遅かれ早かれ、この構造に気づく。
もう呪いにかかっている。
この呪いは、かかる人とかからない人がいる、むしろかかる素質がある人は、何れかかる。

僕は30代だが、これ、もっと遅くにかかってたらもっと大変だったな、と思うわけで、こうして書いている。


啓蒙活動だ、かっこわらい。 


最後に、反転して、意識高い系なこと書いておけば、この絶望の状態でなお、正しく、素晴らしく生きるにはどうしたらよいのか。それを、今後も真剣に考え、綴っていこう。

キルケゴールさんは、倫理的な生き方、神への信仰によって救いをえた。

さて、21世紀に生きるわたしは、それら先人の作品をもとに、どのような解を、方針を、目的をみつけ、生きていくのか。まずは、思考ができることに感謝を。

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にほんブログ村とパソコン復活と喪失感
2016/08/16 21:32 | Comments(0) | 思考及び書くこと

パソコンの修理完了

突然クラッシュして動かなくなったパソコンが、戻ってきた。
原因は、windowsOSの破損とのことで、再インストールしたら直ったとのこと。
SSDのストレージ破損ではないか、と思ったが、そちらの交換は行われなかったようだ。が、データはすべて初期化されていた。当然、バックアップはとっていたものの、それでも、お気に入りとか、ホームページを作成するためにインストールしたソフトウェアとか、音楽再生ソフトとか、バックアップとるほどではないが取りためたメモとか、もろもろ、全部消えてしまった。

SSDは、半導体素子を用いたストレージ機器であり、従来のHDDと違い、ディスクの検索時間(シーク時間)がなく高速であることや、静穏性に優れていることがメリットとしてある。
が、書き込みのたびに素子が劣化していく、とのこと。大丈夫かな……。今まで以上に、バックアップは念入りにしたほうがいい気がする。怖いなぁ。最初は、WINDOWSの起動の速さ(スマートホンの電源のように一瞬で立ち上がる。もちろん、その後のウイルスソフトの起動とかは仕方がないにせよ、アプリケーションを立ち上げるまでは1分かからない)に感動したものの、やっぱり安定性が一番と思う。こんなことなら、黙ってHDDにしておけばよかったような気もしないでもない、と後悔しても仕方がない。

にほんブログ村への登録

http://philosophy.blogmura.com/thought/ranking.html
ひっそりと、整理を続けていく、と書いてすぐさま、「にほんブログ村」という検索サイト(ランキングサイト)へ登録した。というのは、

禅者の世界観
http://zensha.exblog.jp/

こちらのブログが面白いと思ったからだ。
この方が、にほんブログ村に参加されていて、コミュニティとか繋がれたり、トラックバック記事を書けたりするのか、と期待したのだ。

先日取り上げた、

週刊コラムニスト
http://blog.syu-kora.jp/
(僕は、虫瞰のブログさんと呼んでいる)

も、にほんブログ村に参加されているから、いいな、と前から思っていたのもある。行動は一瞬だが、思い付きでやったわけでもないのだ。


ところが、確かに、お気に入り登録とかはできたけれども、それが相手に通知はされないみたいだし、トラックバックも、決まったテーマでしか行えないようだ。ちょっとコミュニティ機能としては残念だった。

ただ、面白いサイト・ブログを探すのに良さそうだとは思う。

これからの方針

お盆休み、夏休みもおしまいだ。昨日感じた、黄昏のセンチメンタル、今はあまりない。

思ったより、体調は悪くなかった。


で、まぁ、なんか、「よいこと書こう」と思うと、やっぱり、よくない、いつも通りにいく。そう、あれだ、検索サイトとか登録すると、「よいこと書こう症候群」が発症するから、危険だと自制していたのだった。こう、何か、誰かを喜ばせようとしようとする感覚が先行する。これは、僕の性格上のことだと思う、物理環境(現実世界)においても、同様に思ってしまう。

ただ、先行研究だーっと、ほかの楽しそうなブログとか探していると、やっぱりすぐに見つかるのは、「ガチ宗教」とか、スピリチュアルとか、チャクラとか波動とかセッションとか開運だとか宇宙真理だとか、そういう系統のものだ。

「思想」というカテゴリになると、やっぱり、そういうものになるんだなぁ、とある意味、感動的な体験ができた、とか、そんな俯瞰してんで悦にはいってる場合じゃない。



スピリチュアル系を否定する気はないし、宗教もまた然り。が、問題は、そこからも「こぼれおちた」場合にどうしたらいいんだ、ってことだ。

オウム真理教と取り上げるまでもなく、ある組織化された集団に参画する(コミットする)ことによる所属欲求、承認欲求というのは、かけがえもなく大切である。

バモイドオキ神に傾倒したサカキバラセイトを挙げるまでもなく、個人神を信奉できることもまた、幸せなことである(ああ、もちろん、犯罪を助長するとか、犯罪者を肯定するとか、そんな意味では全くありえないのだけれども、きっと、こういうことを書いておかないと、危険人物と判断理解されるのだろう……し、こうやって書いたところで結局、分からない人には分からないのだ。この「わからなさ」とは、バカの壁と、養老さんが言ったりしているが、じゃあ僕がえらいのか頭がいいのかという問題もまた全く次元が違うのであって、ここら辺の前提の厳密性がいかに大変かということ、このことが、物理環境(現実世界)における対人関係に、ある程度の「諦め」が必要であるということの証左である。)。

僕が、今後、というよりも、今までも問題視し、書いてきたことは、集団への参画も、個人における信念(個人神やその他悟りなど、個人的なコミット)への参画も失敗した場合における、実存的な対応のことである。

自分の問題は比較によって明らかになる

昨日、「喪失感」が、僕が求めているもので、課題化しなければいけなかったり、表現しなければいけないと思っているものである、と表現した。
この感覚、これの表現が、他の人の書物や、ブログなんかを読んでいると、その「差異」に気づくのである。

こういうわけで、やっぱり、インプットの重要性は、変わらないということは、信じていいと思われる。
体調が悪くて、頭が痛かったり、やる気が起きなかったり、疲れていたり、肩こりしていたり、虫刺されがかゆくて集中できなかったり、その他身体の不調がある時以外に、思考が止まってしまっているのであれば、それは、インプット不足である。

または、アウトプット不足である。

インプットとアウトプットは、表裏一体ではないだろうか。優れた作品に触れると、それに自己を同化させて、気持ちよくなれる。
この気持ちよさはとても重要なのだけれども、ただ、その気持ちよさは時限的であり、すぐにその快感はなくなるのだ。
としたときに、そこで、その気持ちよさをちょっと待ったをかけて、インプットとして、もしくは、アウトプットとして表現してみる。その時に零れ落ちたもの、それを掬い取って、再表現する必要があるのではないか。


今日、眠い目をこすりながら無造作に手に取った、遠藤浩輝さんのEDENという漫画の6巻か7巻、の中身ではなくて、カバーの折り目に書かれたコラムだ。コラム、というか、ほんと、殴り書きのようなものなんだけど、これが結構面白い。漫画はともかく、これだけでも読んで欲しいと思ったりするぐらい。

と、思ったら、11巻にはそのあとがきがない、ということに触れられているブログを発見。

遠藤浩輝『EDEN』

http://ashinagakujira.blog.fc2.com/blog-entry-286.html

とかやっていたら、また普通に読み始めてしまった。やってしまったなぁ……。


ああ、ただ、そこで書かれていたことの一つで、「感情の切り売り」みたいなこと。

引用の功罪

ところで、誰かの記事を引用するということは、危険もある。
ある人の本で~みたいな表現をすることは、中途半端であるけれども、そもそも書くのが楽という理由が大半だけれども、それだけではなくて、「フィルタ」「先入観」がなくていいと思う。

例えば、社会学者の宮台さんの書籍からの引用をすることはあるけれども、宮台さんを心底嫌っている人からすると、それだけで僕の書くことすべてが批判の対象になるだろう。

こういった、先入観的な行為、感情が、僕はとっても嫌いなのだけれども、僕がどう思うかはともかく、その傾向は誰にでもあるものだから、よく言われるように、政治・宗教・野球(もしくはお金とか)の話は初対面の人とはするべきではない、ということになる。

損だからだ。
どうせ、という表現をするとマイナス表現風だが、ともかく、どうせ他者との理解は完全には成りえない(ネタバレになるし何度も使い古した表現だが、エヴァンゲリオンの人類補完計画とか、アイアムアヒーローのZQNとか、先ほど挙げたEDENのディスクロージャーウィルスとか、攻殻機動隊の電脳(外部記憶)とかは、人々のスタンドアローン(孤独)を一体化・統一化しようとするテーマである)。
今思い出したけれども、上のカッコ書き内のテーマを言えば、GUN×SWORDの、かぎづめの男の目指した世界もまた、そうだったかもしれない。


エンターテイメントの世界においても、僕が表現できることについては、もはや表現されてしまっている……という点においてもまた、僕のなんとなくの哀しい虚しさ、昔オンラインゲーム症候群と表現したような、そんな感覚を呼び起こすのだけれども……。

ただ、EDENの作者の遠藤さんが言うように、良いものはたくさんあっても良いのだ(原文ママ、では全然ない、きっとそんな意味のようなことを書かれていた気がするだけ)と、思うことにしよう。

で、まぁ、良いものなのか、というのはとてもまた疑問だけれども。話がそれているな。

なんだっけ? となって、そのとき、小見出しをつけておくと、そこを読めばだいたい記憶が戻るから、この書き方をするようにしたのは、よかったな。

そう、引用の功罪だ。確かに、批判される可能性も高まるが、逆に、その作品なり書籍なりを好きな人は、理解可能性が高まるし深まる可能性がある意味で、有効といえる。


ただし、あんまり、一般的でなかったりする作品等を持ち出しすぎると、それはそれで、読み手を混乱させる。……ということを書いている意味は、僕のブログにおいて、引用の多寡を調整しようというのではなく、単に、ほかの人の文章などを読んでいて思ったことのメモである。

確かに、研究論文は、これまでの研究の積み重ねをもとに、新しい価値を生み出すのだから、先行研究はとても大切。だが、「思考」においては、どこから引用したかどうか、というのは、あまり重要ではない。もちろん、その「きっかけ」「結節点」がはっきりしていたほうが、記憶の呼び起こしや整理に有効であることは間違いないだろうが、その点に力を注ぐ必要はないと思う。

こういった、思考の経緯、プロセス、流れを表現すること、これが一つ重要に思えるのだ。

答えがあるものは必要ではない

スピリチュアルを否定するわけではない。が、何か、「教え」を求めているわけではないということだ。
牧師的な救いを求めているわけではないというわけだ。

なので、「○○の光を知ることで、心身が浄化されポジティブな人生を送れるようになるのです」とか、そういった表現が、とてもイライラする原因となるのである。

霊的なものがあるとかないとか、宇宙人がいるとかいないとか、そういうことではない。
今まさに自分が思考という状態にあるときに、無遠慮な無作法な踏み込みである。今日の夕食を何にしようか考えているときに、量子力学の話をするようなものだ。いや、今その話をする気がない、ということだ。

……うーん、なんだか、つまらないたとえというか、幼稚なたとえというか。
ちょっと書いていて失敗したなぁと思う。なんだろう、しかし、こうした失敗した感が発生するときに、「新しい発見」があったりする。

おそらく、この、上に書いた「イライラ」というのは、僕の書いていることは、それらとは違うのだという、「優越感」か、もしくは「差別意識」か、何かではなかろうか。



なぁに、心配しなくても、そうしたスピリチュアル的なものの集団の中で幸せを見つけることができる人は多いだろうし、逆に、お前(自分)がそこに入り込めないだろうという孤独感によっての排斥であるという表現だって可能なのだから、ほんとに、この部分(つまるところ、何か否定することによって自己を保とうとするような方策)は、失敗に向かうだけであろうということだ。

とはいいつつも、このあたりもまた、一度は、書いておかなければ、どこか穴ができた思考にしかならないだろう。

「比較思考」とか、何度も表現していることもあるが、それらも、違う表現になりえるのであれば、それはもう、何度でも表現するべきであるのだ。
テクニカルターム(専門用語)にしてしまうと、次のステップに進めるだろうが、やっぱり、すべての事柄において、基礎は大事だ。実存における思考においても同様だ。

安易に、比較思考だとか、理想自己だとか、表現をやめてしまわずに、できる限りその都度、そのときの感覚を大事にして書いていくべきだと思う。
まぁそんなことをいつもしているから、なかなか前に進まないのだ。けれども、徹底するなら、それは重要なことだと思う。

喪失感

で、そう、喪失感。何か、僕は、求めているものがあるのだろうか、ということ。
あと、15分ぐらいしか時間がない。

よし、仮に、その「足りないもの」を喪失感と表現したとき、さて、僕は何を埋めるべきなのか。欲求。自己実現欲求? 承認欲求? 所属欲求? 安全欲求? 生理的欲求?やっぱり、社会的価値があることを成し遂げたいと思っているんだろうか。そうだとしたとき、これは、かなり困難が待ち受けるため、半端な覚悟では崩壊する。それとも、承認欲求で満足なのか? これはこれで、何をもって成し遂げるのか、というのが一つ重大な問題でもある。仕事、とりあえず頑張ろうとか、そんな次元で満足しようとしているが、僕の本心、理想的自己が、もっと大きなことを成し遂げたいと思っている……?

先日の記事。
これにつなげる言葉、表現を考えてみる。

おぉ……何も浮かばない。どうしよう。やっぱり、喪失感という表現は、何かズレているのだろうか。

いやはや、こういうときは、甘えている。思考の、深刻性が足りない。
ある意味、安定的な状態であるということだ。

もっとこう、焦燥感というような、心配性というような、苦しみとか、悩みとか、恐怖とか、そういうものが足りていない。あれ、それって、とてもよいことなんじゃないだろうか。


うん、だめだ、かなり混乱した状態になっている。こういうときは、お風呂だ……。


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創造の言葉と感情の言葉
2016/08/15 22:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
八月九日記述。
想像上の、創造としての言葉と、実態の感情に則した言葉。

そのどちらか、ということが、自分は曖昧だと、思った。

脳内会議、この呼び方は好きではないが、まぁ仮に、思考実験として、かれらの発言が、どこまで真実で、どこまでが虚構か、というのが、大変に曖昧である、ことに気づいた。

この、創造の言葉と感情の言葉との違い、は、新しい発見といえる。これは、どこかからの引用などではない、と思う。

表現上の問題か


口に出したり、書いたり、表現した時点で、この世にうまれた時点で、その言葉は意思をもって飛び出していく。
それはときに、意図せざる結果になる。


これら表現は、たとえば、ミステリアスな、物憂げな表情をうりにした男性は、即刻やめたほうがいい、もてない。

口にして表現しているうちは、その、イケメンさがあれば、ギャップ的にもてる可能性がある。

文字表現はやめたほうがいい。たいてい、理解されず、関係は破綻する。
これは、二度ぐらい経験したことからによるものだから、信憑性がわりとある、かっこわらい。


パーソナリティー障害


境界性、パーソナリティー障害、というのか、まぁ詳しくはもう少し本を読むとして、対人距離をとっているうちは良好だが、いざ仲良くなると、途端に、甘えてきたり、手首を切ったとか、相手を試すようなことも始める。

一週間ぶりに書く

千キロを超える旅の帰りに書く。渋滞がひどかったのと、雨にうたれてしまった。


残り100キロくらいと思うが、これから高速道路はさらに渋滞がひどくなるだろうということと、体力的に、しばらくネットカフェにて休もうと思う。


あっという間の一週間だった。
休みが終わりかけているときは、いつも、黄昏時のようである。

屋外に佇んでいると、蝉時雨と遠く羽ばたく鳥の声が、郷愁的な感覚を呼び起こす。
とはいえ、このセンチメンタルは、恐らく、学生時代の夏休みの終わりに比べたら、さほどのものではないのだろう。


甲子園の球児たちをみていると、高校最後の夏という言葉が、重く感じられる、しかしそれは、あくまで傍観者としての、どこか他人事で、微笑ましいものを見るような、離れた感覚である。

甲子園が、なぜ、日本国民に対して、これほどまでに、それは、野球をやったことがない人たちも含めて熱狂させるのか。

それは、やり直せない自分達の若き学生時代に、やり残したことや、もどかしい思いをしたことなどを、高校球児に託しているのではないか。


なんてことを、大真面目に書いた本とかありそうだ。

読まれるということ


それこそ、学生時代の友人に出会い、飲みにいって話したり、偶然ショップで遭遇した友人と立ち話したり、家族や親戚と会ったり。

過日、祖父が亡くなり、遺品整理を手伝ったところ、手記などが見つかった。内容は読んでいないけれど、よく、有名人や活躍した人だと、そうしたメモも後々大切に保存されたりする。画家のラフ画とか。

そういうのをもとに、その人の、生い立ちとか、考え方とか、作品の成り立ちなどが研究されたりする。

まぁ、死んだ後だから関係ないのだけれども、やっぱり、残すべきもの、そうでないものは、整理しておいたほうがいい気がする。

高潔なお坊さんが、エロサイトのお気に入り集とか残しちゃうと、ちょっとがっかり感がある。


と、思いつつも、やっぱり、人が多いな、ってのも感じる。高速道路とか走っていても、車がたくさん。毎日の通勤でもそう。たまに違う駅に降りたり、乗ってみても、やっぱり同じだけ黒だかりである。

そんな中でも、相も変わらずこのブログはほとんどない。というよりも、むしろ、あふれた情報の中だからこそ、見向きもされないわけだ。
という表現は、例えば、大都市の駅前での大道芸人、ストリートミュージシャンとかもそうである。精一杯演奏しても、足を止めてくれる人はわずかばかり。数分の間に何百人と人が通り過ぎるのにも関わらず、である。

話がそれた、それで、いいと思う、ということだ、そう、このブログはひっそりと、整理していこう。

本当は、こうやって書くこと、そのことが、物理的な対人関係においても、乖離がないことが望ましいのだと思う。
それを目指すべきか、それとも不可能なのか、そもそもその方向が誤っているのか、それ自体も検討の余地がある。

これについては、いま結論を出すことはできないし、だす必要もない。むしろ、もっと深く、深く記述していくことが重要だ。
出す必要がないというのは、消すのは簡単だからだ。

考える始点

さぁ、では考えよう。としたとき、いつも、力むと、何も頭に浮かばない。いや、じゃあ、考えないでもよいのでは、というのは、違う。

情報の価値が完全に一変した世界に私たちは生きている。
知識というものが、確かに価値をもっていた時代があった。例えば、雑学でも、生活の知恵でも、それは料理のコツだとか、日曜大工のやり方だとか、お盆における法事のやり方とか、ちょっとしたことでも、人と人との関係の中で受け継がれていくことがあった。

その知識のあるなしが、人との関係の意義だったし、主従というときついが、関係性を成り立たせる触媒になっていた。

デファクトスタンダードになった、TCP/IPの技術、いわゆるインターネット技術は、情報の均質化をもたらした。

とか、かっこつけて書くことはできるが、この言葉の重さが失われる、ということである。上に書いたようなことは、確かに、今は何も参照せずに、自分の言葉で書いてみたものだが、「インターネットが個々人のもつ情報の均質化を促した」とか、別に新しい考え方でも何でもないだろう。


僕がよく勘違いしてしまう(この勘違いは、知識的にではなく、感覚的、実感的であることを注記しておく必要がある)のは、新しい知識的な価値が生み出されなくなったとか、そういったことではない。とんと聞かなくなってしまったが、万物に重さを与えるヒッグス粒子とか、新しい知識体系は、日々更新されていっていることだろう。

ここで、問題となるのは、その新しい知識、保持されるべき、語られるべき知識というものが、相当に専門化されてしまっていることである。


一般人として、たどり着くのは、到底困難なようなもの。もちろん、すぐさま書いておく必要があるのは、努力が無駄だとか、頑張ってもどうせたかがしれているとか、そんな諦めとか堕落とか、そういうものではない。そもそも、人の限界なんて、誰にも分らないのだから、限界を勝手に引いてしまう必要はどこにもない。

それでも。

それでもなお、到達できない領域はある。次元はある。

オリンピック、甲子園、スポーツの世界に限らずとも、そうだ。
すぐに書いておく必要があるのは、斜に構えて、世界の法則がわかっていますみたいな、上から目線とする気は全くないということだ。あくまでも主体は自分であって、思考は実存のためしかない。

それでも、だ。現実世界と、思考(ここでは理想的な自己)との乖離は発生するのだから、その調整を、時に行う必要があるということだ。

思考の整理

であれば、もう少し、踏み込んでみよう。本当は、演繹的にできればいいのだけれども、経験をもとにするしかない。

まず、直近で思ったこと(実感したこと)としては、親が生きているうちは、死なないようにしよう、ということだ。

家族って、やっぱりいいものだ。
感じることとしては、その「変えられなさ」というのもある。いったん構築された「家庭」は、容易に分解できないものだ。だからこそ、「安定」がある。「安心」がある。

それがゆえに、その家族における愛情とか、安心が得られなかった人は、感情的に不安定になりやすい、というのは、境界性パーソナリティ障害とか、解離性障害とか、いわゆる精神病の患者における一つのステレオタイプである。

まぁとにかく、そういう意味で僕は恵まれているわけだし、裕福で幸せなのだ。

逆に、このことが、他者関係における、哀れみを抱かせることから離れるがために、共感よりも、「わがまま」「あまえ」という感情を与えることになりやすい。
このことが反転した、生きづらさになるのだけれども、この点は、「比較思考の無意味性」という表現において、何度も記述してきたことである。下を見てもきりがない、上を見てもきりがない、まずは実存、自己中心的に考えるべきである、と。


しかし、この長ったらしい注釈を必要とする表現であれども、やはり、現時点家族がある、という経験、実感、は、記述しておくべきだと、考えたわけだ。

友人の存在

当然、たまにでもこのブログを読んでくれる方も含まれるが、物理的環境における友人の存在も、一つ、僕は恵まれていて裕福で幸せである、と書いておく必要があるだろう。

もちろん、このことが、孤独感を抱えている人、ニートや引きこもり、対人恐怖症で友達がいない人とか、様々な人たちの共感を失うことになることは分っている。僕自身は、「比較思考の無意味性」から、それが全く見当違いであるということを「思う」のだけれども、おそらく、この理解は得られないことだろうという諦念もある。

だからこそ、だからこそ? いや、その、選択することによる喪失ということを、僕は受け止めることが実はできていないのでは、という疑念を払しょくするために、家族や、友人の存在、そして、定職があるとか、貯金があるとか、そうした「あること」については、しっかりと受け止めて、記述しておく必要があるということだ。


えー、でも、そうはいってもさぁ、と、僕はいま思っている。そんな、確かに、恵まれているだろうけれども、どこか、僕は喪失感があるのだと。何か大事なものを失ってしまっているような、そういった感情があるのだと。

それが、喪失感と表現してよいかはわからない。が、もしかすると、思考として、ブログとして、書いていくこと、表現していくことが必要なのは、その部分なのかもしれない。

もっと簡単に書いてみよう。

僕は、何が足りないのか。何を欲しているのか。

喪失感

単純な質問をすると、はたと、また、思考が停止してしまう。

停止すると、そもそもこんなこと書いていて何になるのか、とか、無駄な思考が頭の中を席巻する。いやぁ、本当に無駄だ。

こういうときは、もっともっと、感情に耳を傾ける。よし、仮に、その「足りないもの」を喪失感と表現したとき、さて、僕は何を埋めるべきなのか。

欲求。
自己実現欲求? 承認欲求? 所属欲求? 安全欲求? 生理的欲求?

やっぱり、社会的価値があることを成し遂げたいと思っているんだろうか。
そうだとしたとき、これは、かなり困難が待ち受けるため、半端な覚悟では崩壊する。それとも、承認欲求で満足なのか? これはこれで、何をもって成し遂げるのか、というのが一つ重大な問題でもある。仕事、とりあえず頑張ろうとか、そんな次元で満足しようとしているが、僕の本心、理想的自己が、もっと大きなことを成し遂げたいと思っている……?


仕事について

ヘルマンヘッセのシッダールタで、最終的にシッダールタは、川の渡し守になり、真実に到達する(この表現が正しいかは甚だ疑問)。
全く別の本で知ったのだけれども、ヘルマンヘッセ自身も、精神的に不安定な時期があり、単純な仕事(この表現が正しいかは甚だ疑問)である庭師になることで、安定を取り戻していった時期があるという。

ので、必ずしも、ファイナンシャルプランナーや社会保険労務士になって現代の悩める人々を救うということが、必要かどうか、というのは懐疑である。

社会的価値のある仕事、教師、弁護士、医者、政治家、それらは同時に、軋轢も非常に多いものであり、むしろ、「仕事」として割り切りができる人のほうが大成する、というのは、どこか悲劇的な事実のように思う。

自己実現の欲求を充足するために、それを仕事に求めることの危険が、どうしてもある、これは、まさに、俯瞰視点からの、逃げ腰であって、いいわけであって、甘えだと言われて、その通りと自分自身思うのだけれども、いやあ、最近特に記憶力の低下を如実に感じる自分としては、残念ながら承服できない。
繰り返すが、努力の否定ではない。頑張る気がないわけではない、が、これから医学部に入りなおして社会のため、人のために尽くす、というのは、ちょっと現実味がなさすぎる。このブログの言葉が、若い人たち、子供たち、教育者としての言葉なのだとしたら、自己実現と仕事との結びつきについて、熱く語るべきなのだけれども、「実存」として考えると、そんな余計なことをしている場合ではないのだ。






長くなったな。
そろそろ出発しようか。遅くても、残り1時間ほどか。




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脳内会議仮称
2016/08/09 00:12 | Comments(0) | 思考及び書くこと
先の記事では、見放されて一人になってしまった。
ところで、反社会性と脱社会性の違いについて。反社会性というと、校内暴力とか、あるコミュニティにおける疎外により、新しい承認をえられる場所を求めること。

例えばオウム真理教に高学歴や弁護士や医者など社会的に認められるような人たちも荷担したのは、既存のコミュニティからの承認が不足または機能不全になっていたことによる。

一方、脱社会性といったとき、それはもう、社会的コミュニティを求めようとはしない。
さかきばらせいとの事件は、透明な存在であることの苦痛から、バモイドオキ神という個人神を打ち立て、すがった。もはや、コミュニティ、社会に対しての希望などないのだ。



なるほどね、と思ったとして、ここから、社会分析もまた、コミットの問題であることに気づいてしまう。
昔、自分自身の生きづらさを表現、かんがえ、原因を探るために、こうした思想や時代を比較する考え方を学び、そこから自分を位置付けようとした。

これは有効であったものの、思うに、その時代の考え方そのものを、果たして真実的であると、単純に信じられるかというのは疑問である。

コミットと、頭悪そうに横文字を使うが、これは、全幅の委任、という意味で用いている。根拠の有無に関わらない、その事象やコミュニティへの参加、所属のことを、そう読んでいる。

言葉にたいして、その辞書的な意味はともかく、すべて、自分の言語表現で説明できる状態であること、それが、このブログにたいしても、思考をするということ自体にたいしても、正しい向かいかただと思っている。誠実さだ。話がそれた。


社会分析と実存問題



昨日の、といっても、数時間前のものだが、その中で、終わりなき戯れによって生きる方法もあると書いた。しかしそれは難しいだろうとも。

他者に相談して、生きる意味なんて考えてたって意味ないよ、っていわれて、そんなことアドバイスされても……ともかいた。けれども、別にこれを否定するわけではない。

ひとつ方策として、生じる思考を、例えば坐禅によって制御し、日々の生活を正しく送る、というのは、まさに仏教的に正しい方策である。
この、坐禅を、瞑想とか、宇宙的な啓示、とか表現を変えると、途端にスピリチュアル的なものになる。この怪しさも、気づいてしまうと、どうにもコミットしづらい。

ただ、それでも、そのことが、自分にとっての正解かもしれないということ、その可能性をすべて否定するわけでもない。


考え方の誤りでは?



もしかすると、やはり、意味を求めようとすること、この点に、構造上の問題があるのかもしれない。

いやいや、この点は、前の記事においても、もうぶらさない、としたではないか。
思考の無意味性は感じた上で、そのうえで行動指針を打ち立てる必要があるのだと。


いや、その方針を疑うわけではない、現に、ここまで言語表現されてしまっている、書いてしまっていることが、疑いようもなく、意味追求の必要性を示唆している。
問題は、その、意味追求の構造的な、実りがないだろうことを、再選択するべきではないか、ということ。


というと?


つまり、結局人間の生きる意味なんて繁殖以上のものはなくて、その前提で価値を積み重ねるのが人類、社会であるのだから、そのうえで、個人としての価値を、再度自分の中で選び直せばいいということ。


うわ、くだらない、その程度のこと、考えないでいたとでも?

その、考えていた、ということを、ちゃんと自分の言葉で表現したか?
わかったつもりで、自分は頭がいいんだと、傲慢に思っていたのでは?


書いてきたさ、それこそ、生きる意味なんて考えても無駄だ、って表現だろう?


違うね。
それは、フィルターをかけている、もっと突き詰めて表現してみろよ。その、無意味とわかっていながら、そうしなきゃいけないっていう、憐れな自分を表現して、悦にひたっていたいだけなんだろ?



おぃおぃ、君は、いったい、誰の味方なんだか……。
そこまでおとしめて、なんになるってんだ?


貶める? バカいってんじゃない、貶めるもなにも、お前はいま、上も下もない、無為の空間にいるに過ぎない。人としてでもありえていないのだよ。



仕事の忙しさ


朝に書いて、22時過ぎ。
そして、これから帰り。予言した通り、いやなことがあるか、少しよいことがあるか、であって、どうにもボコボコにされた日だった。

まぁ、いいんだけど、あっという間だよね。
こうしてぐだぐだ書く暇なんてない。これがそのうち、休日出勤も続くようになっていけば、もう心配要らない、なにも考えてなどいられないだろう。

いつもの牛丼屋でビールをいっぱい。うまい、ハンバーグも、ぐちゃぐちゃうまい。
ごまだれのドレッシングも野菜にどばどば、うまい。


たぶん、みんな、たいてい、こんなもんだろう。
ささやかに、ささやかな楽しさ、例えば喫煙者はタバコを数時間とか、そうしたリフレッシュで、日々を楽しく過ごすのだ。



僕もまぁ、そうやって楽しくやってきた、けれども、結局、そんなささやかな幸せすら、重要には思えなくなっていった。

頭がまったく、はたらかない。もう、体力的に、つかれている、なにも、したくない。



だからこそ、いまこそ、書く。こういう、疲れはてたタイミングによる言葉が貴重。

昨日のくだらない記事も、いま、読めば、なるほど、いろいろ、感心すること、学ぶことがある、いま、だからこそ。



いつまで耐えられるか



一週間、二週間、一ヶ月、半年、一年、五年、十年、二十年、五十年後……。

頭で考えるのではない、実際に書いてみる。さぁ、いつまで、精神力を使って生きられるか。

このペースで、メンタルポイント使っていったら、一ヶ月が、限界かも。

たぶん、こうして書いていられなくなるとしたら、二週間ももたないかもしれない。

こうして書いていられるのは、まだ余裕がある。だいじょうふ、平気。


まだ元気に、はきはきと、気分よく、楽しそうに、笑顔で、いられる。

まだ、へいき。


そして、まぁ、僕は大丈夫だけど、ときおり、元気そうにしててホントに死んじゃうひともいるから、身近なひとには要注意だ。

僕は平気だけど、身近なひとが、なくなってから、あいつが、まさか……気づいてやれなかった、とか、おこがましく、傲慢に思うくらいなら、しっかりとかんがえ、感じることだ。


僕は、そういう、とある事象が起こってから後悔することを、人を好きではない。

気づかなかったなら、それまでだ、そのことを後悔するなんて、死んだ彼にも失礼だ。間違いなく、死なせたのは、お前自身も関係する、反省はいい、大いに苦しめばいい、だが、後悔とかあまっちょろいこといって、自分を癒そうなんてするな。
受け止め、苦しめ。それが課せられた結果だ。


と、思う。とはいえ、心配せずとも、後悔と反省の違いなど、みていてわかるはずもない。ただ、特に親しくもない友人が死んで葬儀で涙をながすとか、ときに身の毛がよだつほど気色悪い。

と思うものの、人間的でいいなとも思う。偽善、大いに結構。

うそでも、それを続ければ真実になると、ヨーロッパのとある国の独裁者が過去に言っていたではないか。


なんの話しだ?



おまえさ、これ、誰に向けて書いてるの?

え、自分にたいしてだよ、もちろん。

いや、ちがうだろ、誰か、読んでくれている人に対して書いてるんだろ?


ちがうよ、俺はほんとに、自分に対して……


知ってもらいたいんだろ? 自分を。共感して欲しいんだろ? 助けて欲しいんだろ? 慰めて欲しいんだろ?



ちがうちがうちがう!
僕は純粋に、これから自分がどう生きていけばいいかを、真剣に考えてるんだ。


わかった、くだらない押し問答はよそう。
自分のために、書いてるとして、じゃあ、何を意図してるんだ?


意図……そんなの、なくてもいいじゃないか。感じたことのメモだって、大事だろ?


ロジック、論理、そして生きる意味。
意味を求めようとしているのに、意図はなく、単に思ったことのメモだと? 笑わせてくれる。本当におろかで気持ち悪いやつだな。


なっ、じゃぁ、どうしたらいいってんだ!
疲れて、頭もうまくはたらかないけど、でも、必死に書き留めようとしているのに。

それがくだらない、といっているんだ。
なにも整理せずに、ただ自分の感情を表現するだけ。笑わせてくれるよ、ほんと、お前が嫌う、感覚主義者そのものではないか。



ちがう!

どう違うか、説明してみろよ。

じゃあ、お前が説明しろ、なぜ僕が、感覚主義者と同じなのか。

おまえ、おろかだな。自分でさっきいったぞ。単に思ったことのメモをしてるだけだと。その行為と、感覚主義との違い、いってみろよ。


それは……、思考としての表現と、現実行動上の対応とは、別だからだ。

ははぁ、お前は、永遠性や、普遍性をもとめていたのでは? いまの説明は、次元による違いによった差異だぞ。こういう場合はこう、ああいう場合はそう、と、臨機応変にその場に応じた考え方を許す、ってわけだな。
おめでとう、君の悩みも解決だ。


って、そんなわけあるか! もういい、お前とはなしていても、なんら解決しないどころか、不快感ばかりたまっていく。

逃げるわけか。

そうじゃない、無駄だからやめる、っていってんだ。



インプットとアウトプット



まぁまぁ、二人とも、落ち着いてください。
どちらが正しいとか間違っているとか、それを、白黒つけても仕方がないでしょう。


でたな、またそうやって、上から、目線に、斜に構えて、どっちでもいいよ、好きにしな、と責任放棄だ。

噛みつくのは構いませんが、まずは、明日の会社の準備とか、寝る準備しては?


現実的な行動の積み重ねが、生きるということ。あとは、切り替え、っていいたいわけか。



そういうことです。お二人が喧嘩のように話し合っていても、、答えなんて、はじめからないのです。その、二人の会話そのものが答えなのです。


ただ、その答えを、答えとして再解釈するひとが必要、俯瞰視点が必要、と。


ぐちゃぐちゃうるさいよ、なんだよ、君らは、何かわかっているみたいに言っちゃって!
そんなことより、いま、このぐちゃぐちゃした苛立ち、不快感、これをなんとかしてみろってんだ!!



ふむ、まぁ確かに、君にだけ、そういう不快感情を担ってもらうのも、かわいそうかもしれないな。

癒し、受容の人格も、創造しましょうか。


いや、それは、まだ難しいだろう。それに、危険もある。
 
理想人格の想定が、現実との溝を広げる可能性がある、と。



お前ら、また二人して難しいはなししやがって! こっちむけってんだ!


いいや、何も難しいことはいっていない。
癒し、は、危険なのだよ。それは、自己完結を助長する。


自己完結



自己完結?
自己完結の何がいけないんだ?


人間は、他者とかかわり合って生きている、という大前提にもとづく。
つまり、他者を求めなくなる可能性がある。

それだけではありません。理想的な人格の想定と構築は、理想に遠い人に対する攻撃にもなり得ます。


他人を認められなくなる、これは危険なことだ。



でも……、そうだとしても、なんで、こんな、こんな、つらい思いをしてまで、頑張って、生きてなきゃいけないんだ……。

たのしいことだって、あっただろ?


そんなの、僕は、少しも感じなかった。君たちや、他の人たちが、そのたのしいところを感じて、いつも、僕は、つらかったり、否定されたり、バカにされたり、お前なんていらないっていわれたり、つかえねーやつ、とか、とか、とか!
そんな、いやなことばっかだった!


まぁ、それはお前の被害妄想だがな。その場に、俺たちもいたわけだし。


そうですね。まぁ、あなたが、それらの感情を強く感じやすい、というのはあるでしょうが。

俺たちは、その部分の感情は、フィルタされているからな。



……もういいよ、思考は、つかれたよ。
考えたくないよ。もうやだよ。誰か、たすけてよ……。




困りましたね。あまり、彼に負担をかけるのもよくないですね。次があれば、もう少し人格の配分を工夫してみましょう。


そうだな。まぁだが、癒し、受容については、要検討だな。

そうですね、ただ、それは心配しなくてもよいでしょう。何せ、その構築には、今はまだ、情報も、インプットも、感情も、整理も、様々、足りていないでしょうから。

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