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脳内会議仮称
2016/08/09 00:12 | Comments(0) | 思考及び書くこと
先の記事では、見放されて一人になってしまった。
ところで、反社会性と脱社会性の違いについて。反社会性というと、校内暴力とか、あるコミュニティにおける疎外により、新しい承認をえられる場所を求めること。

例えばオウム真理教に高学歴や弁護士や医者など社会的に認められるような人たちも荷担したのは、既存のコミュニティからの承認が不足または機能不全になっていたことによる。

一方、脱社会性といったとき、それはもう、社会的コミュニティを求めようとはしない。
さかきばらせいとの事件は、透明な存在であることの苦痛から、バモイドオキ神という個人神を打ち立て、すがった。もはや、コミュニティ、社会に対しての希望などないのだ。



なるほどね、と思ったとして、ここから、社会分析もまた、コミットの問題であることに気づいてしまう。
昔、自分自身の生きづらさを表現、かんがえ、原因を探るために、こうした思想や時代を比較する考え方を学び、そこから自分を位置付けようとした。

これは有効であったものの、思うに、その時代の考え方そのものを、果たして真実的であると、単純に信じられるかというのは疑問である。

コミットと、頭悪そうに横文字を使うが、これは、全幅の委任、という意味で用いている。根拠の有無に関わらない、その事象やコミュニティへの参加、所属のことを、そう読んでいる。

言葉にたいして、その辞書的な意味はともかく、すべて、自分の言語表現で説明できる状態であること、それが、このブログにたいしても、思考をするということ自体にたいしても、正しい向かいかただと思っている。誠実さだ。話がそれた。


社会分析と実存問題



昨日の、といっても、数時間前のものだが、その中で、終わりなき戯れによって生きる方法もあると書いた。しかしそれは難しいだろうとも。

他者に相談して、生きる意味なんて考えてたって意味ないよ、っていわれて、そんなことアドバイスされても……ともかいた。けれども、別にこれを否定するわけではない。

ひとつ方策として、生じる思考を、例えば坐禅によって制御し、日々の生活を正しく送る、というのは、まさに仏教的に正しい方策である。
この、坐禅を、瞑想とか、宇宙的な啓示、とか表現を変えると、途端にスピリチュアル的なものになる。この怪しさも、気づいてしまうと、どうにもコミットしづらい。

ただ、それでも、そのことが、自分にとっての正解かもしれないということ、その可能性をすべて否定するわけでもない。


考え方の誤りでは?



もしかすると、やはり、意味を求めようとすること、この点に、構造上の問題があるのかもしれない。

いやいや、この点は、前の記事においても、もうぶらさない、としたではないか。
思考の無意味性は感じた上で、そのうえで行動指針を打ち立てる必要があるのだと。


いや、その方針を疑うわけではない、現に、ここまで言語表現されてしまっている、書いてしまっていることが、疑いようもなく、意味追求の必要性を示唆している。
問題は、その、意味追求の構造的な、実りがないだろうことを、再選択するべきではないか、ということ。


というと?


つまり、結局人間の生きる意味なんて繁殖以上のものはなくて、その前提で価値を積み重ねるのが人類、社会であるのだから、そのうえで、個人としての価値を、再度自分の中で選び直せばいいということ。


うわ、くだらない、その程度のこと、考えないでいたとでも?

その、考えていた、ということを、ちゃんと自分の言葉で表現したか?
わかったつもりで、自分は頭がいいんだと、傲慢に思っていたのでは?


書いてきたさ、それこそ、生きる意味なんて考えても無駄だ、って表現だろう?


違うね。
それは、フィルターをかけている、もっと突き詰めて表現してみろよ。その、無意味とわかっていながら、そうしなきゃいけないっていう、憐れな自分を表現して、悦にひたっていたいだけなんだろ?



おぃおぃ、君は、いったい、誰の味方なんだか……。
そこまでおとしめて、なんになるってんだ?


貶める? バカいってんじゃない、貶めるもなにも、お前はいま、上も下もない、無為の空間にいるに過ぎない。人としてでもありえていないのだよ。



仕事の忙しさ


朝に書いて、22時過ぎ。
そして、これから帰り。予言した通り、いやなことがあるか、少しよいことがあるか、であって、どうにもボコボコにされた日だった。

まぁ、いいんだけど、あっという間だよね。
こうしてぐだぐだ書く暇なんてない。これがそのうち、休日出勤も続くようになっていけば、もう心配要らない、なにも考えてなどいられないだろう。

いつもの牛丼屋でビールをいっぱい。うまい、ハンバーグも、ぐちゃぐちゃうまい。
ごまだれのドレッシングも野菜にどばどば、うまい。


たぶん、みんな、たいてい、こんなもんだろう。
ささやかに、ささやかな楽しさ、例えば喫煙者はタバコを数時間とか、そうしたリフレッシュで、日々を楽しく過ごすのだ。



僕もまぁ、そうやって楽しくやってきた、けれども、結局、そんなささやかな幸せすら、重要には思えなくなっていった。

頭がまったく、はたらかない。もう、体力的に、つかれている、なにも、したくない。



だからこそ、いまこそ、書く。こういう、疲れはてたタイミングによる言葉が貴重。

昨日のくだらない記事も、いま、読めば、なるほど、いろいろ、感心すること、学ぶことがある、いま、だからこそ。



いつまで耐えられるか



一週間、二週間、一ヶ月、半年、一年、五年、十年、二十年、五十年後……。

頭で考えるのではない、実際に書いてみる。さぁ、いつまで、精神力を使って生きられるか。

このペースで、メンタルポイント使っていったら、一ヶ月が、限界かも。

たぶん、こうして書いていられなくなるとしたら、二週間ももたないかもしれない。

こうして書いていられるのは、まだ余裕がある。だいじょうふ、平気。


まだ元気に、はきはきと、気分よく、楽しそうに、笑顔で、いられる。

まだ、へいき。


そして、まぁ、僕は大丈夫だけど、ときおり、元気そうにしててホントに死んじゃうひともいるから、身近なひとには要注意だ。

僕は平気だけど、身近なひとが、なくなってから、あいつが、まさか……気づいてやれなかった、とか、おこがましく、傲慢に思うくらいなら、しっかりとかんがえ、感じることだ。


僕は、そういう、とある事象が起こってから後悔することを、人を好きではない。

気づかなかったなら、それまでだ、そのことを後悔するなんて、死んだ彼にも失礼だ。間違いなく、死なせたのは、お前自身も関係する、反省はいい、大いに苦しめばいい、だが、後悔とかあまっちょろいこといって、自分を癒そうなんてするな。
受け止め、苦しめ。それが課せられた結果だ。


と、思う。とはいえ、心配せずとも、後悔と反省の違いなど、みていてわかるはずもない。ただ、特に親しくもない友人が死んで葬儀で涙をながすとか、ときに身の毛がよだつほど気色悪い。

と思うものの、人間的でいいなとも思う。偽善、大いに結構。

うそでも、それを続ければ真実になると、ヨーロッパのとある国の独裁者が過去に言っていたではないか。


なんの話しだ?



おまえさ、これ、誰に向けて書いてるの?

え、自分にたいしてだよ、もちろん。

いや、ちがうだろ、誰か、読んでくれている人に対して書いてるんだろ?


ちがうよ、俺はほんとに、自分に対して……


知ってもらいたいんだろ? 自分を。共感して欲しいんだろ? 助けて欲しいんだろ? 慰めて欲しいんだろ?



ちがうちがうちがう!
僕は純粋に、これから自分がどう生きていけばいいかを、真剣に考えてるんだ。


わかった、くだらない押し問答はよそう。
自分のために、書いてるとして、じゃあ、何を意図してるんだ?


意図……そんなの、なくてもいいじゃないか。感じたことのメモだって、大事だろ?


ロジック、論理、そして生きる意味。
意味を求めようとしているのに、意図はなく、単に思ったことのメモだと? 笑わせてくれる。本当におろかで気持ち悪いやつだな。


なっ、じゃぁ、どうしたらいいってんだ!
疲れて、頭もうまくはたらかないけど、でも、必死に書き留めようとしているのに。

それがくだらない、といっているんだ。
なにも整理せずに、ただ自分の感情を表現するだけ。笑わせてくれるよ、ほんと、お前が嫌う、感覚主義者そのものではないか。



ちがう!

どう違うか、説明してみろよ。

じゃあ、お前が説明しろ、なぜ僕が、感覚主義者と同じなのか。

おまえ、おろかだな。自分でさっきいったぞ。単に思ったことのメモをしてるだけだと。その行為と、感覚主義との違い、いってみろよ。


それは……、思考としての表現と、現実行動上の対応とは、別だからだ。

ははぁ、お前は、永遠性や、普遍性をもとめていたのでは? いまの説明は、次元による違いによった差異だぞ。こういう場合はこう、ああいう場合はそう、と、臨機応変にその場に応じた考え方を許す、ってわけだな。
おめでとう、君の悩みも解決だ。


って、そんなわけあるか! もういい、お前とはなしていても、なんら解決しないどころか、不快感ばかりたまっていく。

逃げるわけか。

そうじゃない、無駄だからやめる、っていってんだ。



インプットとアウトプット



まぁまぁ、二人とも、落ち着いてください。
どちらが正しいとか間違っているとか、それを、白黒つけても仕方がないでしょう。


でたな、またそうやって、上から、目線に、斜に構えて、どっちでもいいよ、好きにしな、と責任放棄だ。

噛みつくのは構いませんが、まずは、明日の会社の準備とか、寝る準備しては?


現実的な行動の積み重ねが、生きるということ。あとは、切り替え、っていいたいわけか。



そういうことです。お二人が喧嘩のように話し合っていても、、答えなんて、はじめからないのです。その、二人の会話そのものが答えなのです。


ただ、その答えを、答えとして再解釈するひとが必要、俯瞰視点が必要、と。


ぐちゃぐちゃうるさいよ、なんだよ、君らは、何かわかっているみたいに言っちゃって!
そんなことより、いま、このぐちゃぐちゃした苛立ち、不快感、これをなんとかしてみろってんだ!!



ふむ、まぁ確かに、君にだけ、そういう不快感情を担ってもらうのも、かわいそうかもしれないな。

癒し、受容の人格も、創造しましょうか。


いや、それは、まだ難しいだろう。それに、危険もある。
 
理想人格の想定が、現実との溝を広げる可能性がある、と。



お前ら、また二人して難しいはなししやがって! こっちむけってんだ!


いいや、何も難しいことはいっていない。
癒し、は、危険なのだよ。それは、自己完結を助長する。


自己完結



自己完結?
自己完結の何がいけないんだ?


人間は、他者とかかわり合って生きている、という大前提にもとづく。
つまり、他者を求めなくなる可能性がある。

それだけではありません。理想的な人格の想定と構築は、理想に遠い人に対する攻撃にもなり得ます。


他人を認められなくなる、これは危険なことだ。



でも……、そうだとしても、なんで、こんな、こんな、つらい思いをしてまで、頑張って、生きてなきゃいけないんだ……。

たのしいことだって、あっただろ?


そんなの、僕は、少しも感じなかった。君たちや、他の人たちが、そのたのしいところを感じて、いつも、僕は、つらかったり、否定されたり、バカにされたり、お前なんていらないっていわれたり、つかえねーやつ、とか、とか、とか!
そんな、いやなことばっかだった!


まぁ、それはお前の被害妄想だがな。その場に、俺たちもいたわけだし。


そうですね。まぁ、あなたが、それらの感情を強く感じやすい、というのはあるでしょうが。

俺たちは、その部分の感情は、フィルタされているからな。



……もういいよ、思考は、つかれたよ。
考えたくないよ。もうやだよ。誰か、たすけてよ……。




困りましたね。あまり、彼に負担をかけるのもよくないですね。次があれば、もう少し人格の配分を工夫してみましょう。


そうだな。まぁだが、癒し、受容については、要検討だな。

そうですね、ただ、それは心配しなくてもよいでしょう。何せ、その構築には、今はまだ、情報も、インプットも、感情も、整理も、様々、足りていないでしょうから。

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