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創造の言葉と感情の言葉
2016/08/15 22:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
八月九日記述。
想像上の、創造としての言葉と、実態の感情に則した言葉。

そのどちらか、ということが、自分は曖昧だと、思った。

脳内会議、この呼び方は好きではないが、まぁ仮に、思考実験として、かれらの発言が、どこまで真実で、どこまでが虚構か、というのが、大変に曖昧である、ことに気づいた。

この、創造の言葉と感情の言葉との違い、は、新しい発見といえる。これは、どこかからの引用などではない、と思う。

表現上の問題か


口に出したり、書いたり、表現した時点で、この世にうまれた時点で、その言葉は意思をもって飛び出していく。
それはときに、意図せざる結果になる。


これら表現は、たとえば、ミステリアスな、物憂げな表情をうりにした男性は、即刻やめたほうがいい、もてない。

口にして表現しているうちは、その、イケメンさがあれば、ギャップ的にもてる可能性がある。

文字表現はやめたほうがいい。たいてい、理解されず、関係は破綻する。
これは、二度ぐらい経験したことからによるものだから、信憑性がわりとある、かっこわらい。


パーソナリティー障害


境界性、パーソナリティー障害、というのか、まぁ詳しくはもう少し本を読むとして、対人距離をとっているうちは良好だが、いざ仲良くなると、途端に、甘えてきたり、手首を切ったとか、相手を試すようなことも始める。

一週間ぶりに書く

千キロを超える旅の帰りに書く。渋滞がひどかったのと、雨にうたれてしまった。


残り100キロくらいと思うが、これから高速道路はさらに渋滞がひどくなるだろうということと、体力的に、しばらくネットカフェにて休もうと思う。


あっという間の一週間だった。
休みが終わりかけているときは、いつも、黄昏時のようである。

屋外に佇んでいると、蝉時雨と遠く羽ばたく鳥の声が、郷愁的な感覚を呼び起こす。
とはいえ、このセンチメンタルは、恐らく、学生時代の夏休みの終わりに比べたら、さほどのものではないのだろう。


甲子園の球児たちをみていると、高校最後の夏という言葉が、重く感じられる、しかしそれは、あくまで傍観者としての、どこか他人事で、微笑ましいものを見るような、離れた感覚である。

甲子園が、なぜ、日本国民に対して、これほどまでに、それは、野球をやったことがない人たちも含めて熱狂させるのか。

それは、やり直せない自分達の若き学生時代に、やり残したことや、もどかしい思いをしたことなどを、高校球児に託しているのではないか。


なんてことを、大真面目に書いた本とかありそうだ。

読まれるということ


それこそ、学生時代の友人に出会い、飲みにいって話したり、偶然ショップで遭遇した友人と立ち話したり、家族や親戚と会ったり。

過日、祖父が亡くなり、遺品整理を手伝ったところ、手記などが見つかった。内容は読んでいないけれど、よく、有名人や活躍した人だと、そうしたメモも後々大切に保存されたりする。画家のラフ画とか。

そういうのをもとに、その人の、生い立ちとか、考え方とか、作品の成り立ちなどが研究されたりする。

まぁ、死んだ後だから関係ないのだけれども、やっぱり、残すべきもの、そうでないものは、整理しておいたほうがいい気がする。

高潔なお坊さんが、エロサイトのお気に入り集とか残しちゃうと、ちょっとがっかり感がある。


と、思いつつも、やっぱり、人が多いな、ってのも感じる。高速道路とか走っていても、車がたくさん。毎日の通勤でもそう。たまに違う駅に降りたり、乗ってみても、やっぱり同じだけ黒だかりである。

そんな中でも、相も変わらずこのブログはほとんどない。というよりも、むしろ、あふれた情報の中だからこそ、見向きもされないわけだ。
という表現は、例えば、大都市の駅前での大道芸人、ストリートミュージシャンとかもそうである。精一杯演奏しても、足を止めてくれる人はわずかばかり。数分の間に何百人と人が通り過ぎるのにも関わらず、である。

話がそれた、それで、いいと思う、ということだ、そう、このブログはひっそりと、整理していこう。

本当は、こうやって書くこと、そのことが、物理的な対人関係においても、乖離がないことが望ましいのだと思う。
それを目指すべきか、それとも不可能なのか、そもそもその方向が誤っているのか、それ自体も検討の余地がある。

これについては、いま結論を出すことはできないし、だす必要もない。むしろ、もっと深く、深く記述していくことが重要だ。
出す必要がないというのは、消すのは簡単だからだ。

考える始点

さぁ、では考えよう。としたとき、いつも、力むと、何も頭に浮かばない。いや、じゃあ、考えないでもよいのでは、というのは、違う。

情報の価値が完全に一変した世界に私たちは生きている。
知識というものが、確かに価値をもっていた時代があった。例えば、雑学でも、生活の知恵でも、それは料理のコツだとか、日曜大工のやり方だとか、お盆における法事のやり方とか、ちょっとしたことでも、人と人との関係の中で受け継がれていくことがあった。

その知識のあるなしが、人との関係の意義だったし、主従というときついが、関係性を成り立たせる触媒になっていた。

デファクトスタンダードになった、TCP/IPの技術、いわゆるインターネット技術は、情報の均質化をもたらした。

とか、かっこつけて書くことはできるが、この言葉の重さが失われる、ということである。上に書いたようなことは、確かに、今は何も参照せずに、自分の言葉で書いてみたものだが、「インターネットが個々人のもつ情報の均質化を促した」とか、別に新しい考え方でも何でもないだろう。


僕がよく勘違いしてしまう(この勘違いは、知識的にではなく、感覚的、実感的であることを注記しておく必要がある)のは、新しい知識的な価値が生み出されなくなったとか、そういったことではない。とんと聞かなくなってしまったが、万物に重さを与えるヒッグス粒子とか、新しい知識体系は、日々更新されていっていることだろう。

ここで、問題となるのは、その新しい知識、保持されるべき、語られるべき知識というものが、相当に専門化されてしまっていることである。


一般人として、たどり着くのは、到底困難なようなもの。もちろん、すぐさま書いておく必要があるのは、努力が無駄だとか、頑張ってもどうせたかがしれているとか、そんな諦めとか堕落とか、そういうものではない。そもそも、人の限界なんて、誰にも分らないのだから、限界を勝手に引いてしまう必要はどこにもない。

それでも。

それでもなお、到達できない領域はある。次元はある。

オリンピック、甲子園、スポーツの世界に限らずとも、そうだ。
すぐに書いておく必要があるのは、斜に構えて、世界の法則がわかっていますみたいな、上から目線とする気は全くないということだ。あくまでも主体は自分であって、思考は実存のためしかない。

それでも、だ。現実世界と、思考(ここでは理想的な自己)との乖離は発生するのだから、その調整を、時に行う必要があるということだ。

思考の整理

であれば、もう少し、踏み込んでみよう。本当は、演繹的にできればいいのだけれども、経験をもとにするしかない。

まず、直近で思ったこと(実感したこと)としては、親が生きているうちは、死なないようにしよう、ということだ。

家族って、やっぱりいいものだ。
感じることとしては、その「変えられなさ」というのもある。いったん構築された「家庭」は、容易に分解できないものだ。だからこそ、「安定」がある。「安心」がある。

それがゆえに、その家族における愛情とか、安心が得られなかった人は、感情的に不安定になりやすい、というのは、境界性パーソナリティ障害とか、解離性障害とか、いわゆる精神病の患者における一つのステレオタイプである。

まぁとにかく、そういう意味で僕は恵まれているわけだし、裕福で幸せなのだ。

逆に、このことが、他者関係における、哀れみを抱かせることから離れるがために、共感よりも、「わがまま」「あまえ」という感情を与えることになりやすい。
このことが反転した、生きづらさになるのだけれども、この点は、「比較思考の無意味性」という表現において、何度も記述してきたことである。下を見てもきりがない、上を見てもきりがない、まずは実存、自己中心的に考えるべきである、と。


しかし、この長ったらしい注釈を必要とする表現であれども、やはり、現時点家族がある、という経験、実感、は、記述しておくべきだと、考えたわけだ。

友人の存在

当然、たまにでもこのブログを読んでくれる方も含まれるが、物理的環境における友人の存在も、一つ、僕は恵まれていて裕福で幸せである、と書いておく必要があるだろう。

もちろん、このことが、孤独感を抱えている人、ニートや引きこもり、対人恐怖症で友達がいない人とか、様々な人たちの共感を失うことになることは分っている。僕自身は、「比較思考の無意味性」から、それが全く見当違いであるということを「思う」のだけれども、おそらく、この理解は得られないことだろうという諦念もある。

だからこそ、だからこそ? いや、その、選択することによる喪失ということを、僕は受け止めることが実はできていないのでは、という疑念を払しょくするために、家族や、友人の存在、そして、定職があるとか、貯金があるとか、そうした「あること」については、しっかりと受け止めて、記述しておく必要があるということだ。


えー、でも、そうはいってもさぁ、と、僕はいま思っている。そんな、確かに、恵まれているだろうけれども、どこか、僕は喪失感があるのだと。何か大事なものを失ってしまっているような、そういった感情があるのだと。

それが、喪失感と表現してよいかはわからない。が、もしかすると、思考として、ブログとして、書いていくこと、表現していくことが必要なのは、その部分なのかもしれない。

もっと簡単に書いてみよう。

僕は、何が足りないのか。何を欲しているのか。

喪失感

単純な質問をすると、はたと、また、思考が停止してしまう。

停止すると、そもそもこんなこと書いていて何になるのか、とか、無駄な思考が頭の中を席巻する。いやぁ、本当に無駄だ。

こういうときは、もっともっと、感情に耳を傾ける。よし、仮に、その「足りないもの」を喪失感と表現したとき、さて、僕は何を埋めるべきなのか。

欲求。
自己実現欲求? 承認欲求? 所属欲求? 安全欲求? 生理的欲求?

やっぱり、社会的価値があることを成し遂げたいと思っているんだろうか。
そうだとしたとき、これは、かなり困難が待ち受けるため、半端な覚悟では崩壊する。それとも、承認欲求で満足なのか? これはこれで、何をもって成し遂げるのか、というのが一つ重大な問題でもある。仕事、とりあえず頑張ろうとか、そんな次元で満足しようとしているが、僕の本心、理想的自己が、もっと大きなことを成し遂げたいと思っている……?


仕事について

ヘルマンヘッセのシッダールタで、最終的にシッダールタは、川の渡し守になり、真実に到達する(この表現が正しいかは甚だ疑問)。
全く別の本で知ったのだけれども、ヘルマンヘッセ自身も、精神的に不安定な時期があり、単純な仕事(この表現が正しいかは甚だ疑問)である庭師になることで、安定を取り戻していった時期があるという。

ので、必ずしも、ファイナンシャルプランナーや社会保険労務士になって現代の悩める人々を救うということが、必要かどうか、というのは懐疑である。

社会的価値のある仕事、教師、弁護士、医者、政治家、それらは同時に、軋轢も非常に多いものであり、むしろ、「仕事」として割り切りができる人のほうが大成する、というのは、どこか悲劇的な事実のように思う。

自己実現の欲求を充足するために、それを仕事に求めることの危険が、どうしてもある、これは、まさに、俯瞰視点からの、逃げ腰であって、いいわけであって、甘えだと言われて、その通りと自分自身思うのだけれども、いやあ、最近特に記憶力の低下を如実に感じる自分としては、残念ながら承服できない。
繰り返すが、努力の否定ではない。頑張る気がないわけではない、が、これから医学部に入りなおして社会のため、人のために尽くす、というのは、ちょっと現実味がなさすぎる。このブログの言葉が、若い人たち、子供たち、教育者としての言葉なのだとしたら、自己実現と仕事との結びつきについて、熱く語るべきなのだけれども、「実存」として考えると、そんな余計なことをしている場合ではないのだ。






長くなったな。
そろそろ出発しようか。遅くても、残り1時間ほどか。




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