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科学革命と楽しい仕事という概念について
2017/01/09 20:00 | Comments(0) | 仕事と人生の関係
今日の一言「無知の知と言われてから2000年近く根付かなかったというわけか」

科学革命

 科学革命とは、超自然的な宗教観が取っ払われ、経験と観察により知識を積み重ねようとする17世紀のヨーロッパで起こった意識革命である。

参照:http://www.y-history.net/appendix/wh1003-001.html


 というのは、何となく分かっていたことであったけれども、サピエンス全史という本を読んで、前回の記事において、
サピエンス全史という本の中で、科学革命についての興りが記載されているのであるけれども、それは、「テクノロジー」としての発展というよりも、もっと重要な人間の「意識的な革命」が含まれていることが、特筆に値するものである。 
 といったことを書いた。

 今回は、その「特筆に値するもの」とは何かをメモしていきたいと思う。

人間の意識で何が変わったのか

 すべての自然現象は、神の御業である、という観念が、自然法則という、ニュートン力学といった自然科学の体系に基づくのであるという観念が広がっていったことが、科学革命のポイントであることは間違いないが、神と自然との切り離しという点以外に重要な意識的変化があるということである。

 それは、知らないことがある、ということだ。

 15世紀ごろ、大航海時代以前の地図は、未だかつて、誰もいったことのないようなアメリカ大陸やアフリカの最南端なども、詳細に記載されていたという。

 それが、大航海時代が進んでいくと、次第に地図は、「空白」が描かれるようになっていったという。

 空白、即ちそれは、知らないことがある、という明確な意思表示だ。

 空白が多く書き記された地図を見て、多くの野心家たちは、冒険心を高ぶらせていったことだろう。
 海賊王に俺はなるという作品も、物語が進むにつれて、新しい島や国が登場していく。新しい知識や仲間といったものに、多くの人が感情移入し共感し楽しんでいくのである。


 科学革命がもたらしたのは、こうした、知らないことが、未だたくさんあるのだと、それは、経験と観察を積み重ねることで、徐々に明らかにしていくことができるのだという、そういった人々の意識革命なのだ。

終わりなき探求の旅

 で、何故僕がこれをメモしておくほど大事だと思ったかというと、この考え方を、未だ多くの人が共有している気がしているからだ。
 未だ、といった表現をすると、それがダメなことのように感じられるが、そういうわけでもなくて、それはそれでよいのかもしれないが、ただ、いつものように、自己に引き付けて考えたときに、本当に大丈夫か、ということである。

 例えば、仕事の効率化、生産性の向上である。

 ある方は、非常に優秀な技術者であり、仲間からの信頼も厚かった。それゆえに、多くの仕事が任され、それを上手く効率化を図って取り組んでいった。そのことで、ますます生産性が向上し、周囲の期待や評価も高まり、もっともっと重要な仕事が任されるようになっていった。その人は、もっともっと頑張って、方法を考え、仲間を従えて、努力を重ねていった。そして、もっともっと多くの……

 これは別に、頑張ることの否定をするための寓話ではない。
 本来、いわゆる「正常な状態」においては、その頑張っている状態がすなわち「充実感」を得られるような素晴らしい状態なのであり、それは「大変なこともあるけれども、毎日楽しんでます!」ということなのだ。世の中の経営者や、成功者、お金持ち、社長さん、意識高い系の人たちは、そうした頑張ることを「楽しんでいる」のである、この点が重要である。


 ポイントは、「楽しいかどうか」である。


 例えば、僕は先日、ある仕事をお願いされた。それは業務使用するファイルを整理するルーチン作業を、何とか効率化できないものか、というものであった。本筋の仕事とは異なっていて、上司の評価とは全く関係ない仕事であった。でも、僕はちょっと面白そうだから引き受けた。しかし、本筋の仕事があるなかで、そんなことをやっているわけにはいかないので、休日や休憩時間などに取り組んだ。そしたら、上手い具合に成功した。

 残業代も評価も関係ないが、その依頼してくれた人は喜んでくれた。
 ただ、その依頼してくれた人からの信頼性など、あまり重要ではない。ただ、僕はこれは「楽しかった」から良かったと思った。

楽しい仕事なんて幻想だ

 ある方は、仕事で楽しいなんて言ってるうちは、本当に苦しんでないから、真面目に生きてない奴だ、ということを仰っていた。

 言ってることはよく分かる。僕もずっと、真面目に生きることが、努力することが、頑張ることが大事なことだと、ずっとずっと思っていた。
 だから、仕事がつらいのは当たり前だし、むしろそうあるべきだとすら思っていた、のかもしれあに。


 俺は違う、と、今は思う。

 というよりも、そもそも、「仕事」って何かってのを、よく考えてみる必要がある。
 質量のあるものを、移動させることが仕事だ。物理学的には(笑)。

 数量化できる仕事なんて、物の移動ぐらいしかないのだ。食糧生産だって、森から種を移動させてきて、鍬や鋤を移動させて(使って)、水を移動させて、作物を移動させて(収穫し、市場に運び)、身体の中に移動させる(食べる)のだ。

 パソコンだって、プログラミングだって、電子を移動させているのだ。「営業」の仕事だって、情報を移動させているのだ。

 所詮、といってしまっては何にもならないが、仕事というのは、全部「移動」であるのだ。

 で、その移動の目的が、「金」という概念だと信じられている。
 だから、その「金」自体を移動させる職業、仕事(銀行、国や県や市の予算を決める議員、株式市場)もたくさんある。


 所詮移動だとしたら、楽しい仕事なんて、あるわけないじゃないか。

 ただ、それを「正」としてしまったら、そもそも、人生に意味なんてないわけだし、人生に楽しいことなんてないのだ。ただ、脳が与える「快感」というのを、一生満たし続けるだけしかないのだ。
 人生暇つぶし、どころの騒ぎじゃない。人生は、どこまでいっても仕事(移動)の奴隷なのだ。

意味を創りあげるしかない

 であるからにして、生きる意味なんて考えたって仕方がない、今ここを大事に楽しもうぜ! という主張には、僕は甚だ同意しかねる。

 生きる意味を考えないこと、イコール、今すぐ死んでも同じ、だと、僕は思う。

 ただ、脳を快感の状態にしておくこと、楽しいと感じ続けること(以下「享楽的に生きること」という)だけが重要なのだとしたら、「仕事」をしなければ生きていけないのだから、概念的に仕事なんて面白くなくて楽しくないものなのだから、享楽的に生きることは原理的に不可能である。

 程度の問題として、より享楽的な度合いを高めることはできるだろう。奴隷制を復活させて、支配者ができるだけ仕事をしないようにすることで、衣食住という快楽を高めることは可能かもしれない。しかしそれにも限界はあるし(ギリシアの哲学者たちが人類史上最も幸せだったのかといえば、そうとも限らないだろう。彼らの哲学的思考は、恐らく、快楽に満足していただけでは生み出しえなかったはずだ)、そもそも、奴隷制なんて復活できない。(一方で、ロボットは、現代版奴隷制の復活の希望かもしれない。しかし、全労働がなくなったとき、果たしてそれは人間の最高の幸せと直結するか?)


 多分、穴だらけの、酔っ払いの主張程度のメモでしかないと思うけれども、結論的に書きたいこととしては、意味なんてないから、意味は自分で創らないといけないのだ、ということである。


 そしてそのことこそ、本当の意味で(というまたしても僕の嫌いな表現が頭に浮かぶわけだが)、楽しい状態をつくり、維持できる方法なのだと思うわけだ。

ちょっとまとめ

 真面目に、頑張って生きなければいけない、という方策に僕は反対する(昨今は嫌悪すら覚える)。

 仕事はつらいものだという意見について、その仕事という本来の意味(移動)においては、その通りだと同意する。一方で、だからこそ、それに対しての位置づけ、意味付けを検討する必要があると思う。

 脳を快楽の状態に置くこと(享楽的に生きること)を至上とする方策に、僕は反対する。限界効用の問題もあるし、本来的な「仕事」が生活に必要な以上、持続的な享楽的生活は原理的に不可能である。



 むむ……、なんか、三者、矛盾しているな。ただ、自分の中では結構すっきりしている気がするのだけれども、これは簡単に崩壊してしまうぐらい脆弱な意識でしかないだろう。

 なんだろう、誰か僕の考えを分かりやすくまとめて欲しい(矛盾! かっこ笑い)。

 簡単に書こうとすると、生きる意味なんてものは、自分自身で見つけていくしかないのだ、ということになるけれども、いやまぁ、それは別に反対するつもりはないけれども、何か物足りないんだよな。何だろう。

 人生なんて、究極の自己満足に過ぎない。

 とかいう表現にもなってしまうわけだ。それはそれで、別に否定する気もそんなに起きない。ただ、何か物足りない。

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