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自己来歴の整理
2017/01/10 19:00 | Comments(0) | 当ブログについて
今日の一言「匿名性を損なわずに自己紹介するって矛盾じゃないか?」

匿名であることの意味

 とあるリンク先のブログ様において、実名や顔写真付きでブログ書いてる奴はアホか金の亡者だ、と書かれていて、辛らつだなぁと思いつつも、重要なことを仰っていると思う。
 ここからは、僕の被害妄想的な考えに過ぎないけれども、結局「本心」というものと、実際の対面状況におけるやりとり(言動)とは、必ずしも一致しないと思っている。こういった考え自体が、女性受けが良くないので、そもそも、こういったことを書くこと言うこと自体が、周囲の環境では望ましくないのであり、それこそが「匿名性」の重要な点だと思う。

 ただ、これだけに絞ってしまえば、実際問題、女子会を快く思ってない人が実は5割以上もいるだとか、腹(や、空気)の探り合いだったりすることが、現代人特有(?)のストレス要因だったりすることは、もはや周知の事実になってきていると思うし、まぁこれからもそんな傾向は続くことだろう。

自分の過去の整理

 というリスクを知ったうえで、ちょっと自分の過去を整理しようと思う。ログをみれば、その当時にどんな思考や感情状態だったかある程度復元することは可能だけれども、いちいちこの時期はどうだったけかなー的なことをやっているのも面倒であるのと、ある程度まとまっていたほうが、建設的なことをかけるのではないかという期待からの作業である。

作業後の感想

 何か他にも色々書いていたりするけれど、取りあえず目についた記事を適当な感じで抜粋。
 2008年からこう並べてみると、「うわー」って感じになるなぁ。今回抜粋した記事以外にもあるし、そもそも、消してしまったりローカルになっている記事もたくさんあるわけで、本当に厖大だ。
 ……これ、何か役に立つんかな。

 2013年の「日々の家事に精をだすのは必要だが、十年後、僕がアラフォーになったとき、自分はこういうことができる人間だと、胸をはって言えるべきだ。 これは友人や家族や妻をないがしろにすることに繋がらない。」この発言とか、若気の至りだと嘲笑に付すことは簡単だが、しかし、最近同じようなことを書いてはいなかっただろうか。

 人は変わろうと思っても中々かわれない。
 環境要因が非常に大きい。

 だからこそ、敢えて、思考にストップをかけて、様々経験的に身を投じてきたわけだけれども、その経験をいったいどう制御するのかという点において、あんまり良い方法じゃあなかった気もする。

 つまり、「最終的に成しえること」をイメージしないまま、「取りあえず」で経験できる状況に身を置こうというのは、もう、やめた方がいいだろうという結論(何を回りくどくいっているかというと、例えば、取りあえず婚活しなよ、とか周りから言われたりするけれども、その「取りあえず」はやめておこうということだ)。

 しっかし、難しいなぁ。

 生きるって、どうやったらよかったんだろうか。



以下各年度の記事抜粋


2008年
(彼女と別れた)
恋愛中心主義の否定
「人に愛されたい」
 私の目標だ。しかし、この目標は、私の本源的な気持ちではないことが分かった。
 恋愛は、不安定なものである。しかし、私が求めるのは恒常的な安心。ならば、恋愛は私の望むところではない。
 むしろ、社会的に有能であることが重要だ。人のためになる仕事をするということが重要だ。
 人のためと書いたけれども、もちろん、それが自分のためだからだ。私の命題である、人は自分中心に生きているという考えは、今も変わっていない。それは間違っていない。しかし、自分のために生きるのは何故か? 幸せになりたいからだ。しかし、自分のためだけに生きても、幸せは得られないのである。
 安定しているものは、「情報」と「金」。私はそれを手にするために努力する。
2009年
 わたしの場合は、人を信じることしかできません。わたしは、人の本質というものを、深く信じています。 人は裏切ったり騙したりするものだということを信じているので、その次元において疑うことは不可能です。 裏切られることを信じているのですから、たくさんの人と仲良くできます。 逆に、半端に人を疑おうとすると、その後の失望に耐えられません。  ――言語トリックで、言ってることは対人恐怖症のそのものです。 しかしこれをネガティブとするかポジティブとするかは、その人の思考度合いによるでしょう。 わたしの友人の一人は、自分の快のためにわたしを利用しています。 わたしはそれを不快になど感じません。むしろ潔さに心地よさを感じています。 その友人の心情説明を、「利害一致」と表現しようとも、「友情」と表現しようとも、わたしは興味がありません。 ただただ、その友人のあるがままを受容しているのです。 そして、その友人がわたしを利用しているという前提認識に立っている以上、わたしは、その友人を、疑いたくとも疑うことなどできもしないのです。 究極の絶望こそが救済であるのに関わらず、世間の人々はそれを認めようとはしない――それどころか、救済に導こうとする人を、まるで悪魔のように邪険にするのです。
2010年
(空の境界をみて)
「根拠はないんだ。でも、信じ続けるんじゃないかな。君が好きだから」
ストレスにしかならないと言われ、挙句殺されそうになっても信じ続けるのは、コクトー君も異常だ。
「信じる」だとか「好き」だとか、言葉の意味はさっぱり分からない。
ただ、コクトー君がしていることが、それを表している。行動だけが、その言葉の中身たりえるのか。であれば言葉とは空虚なものだ。発する言葉は空気を震わせるだけで消え、文字におこされた言葉も意味をなすには読者の心が必要だ。行動だけが言葉の中身に、意味になるのならば、言葉自体になんの意味があるのだろう。
しかしながら、入れ物である言葉は、行動に意味を付与するものでもある。
行動は、それだけでは体系的な意味をもたない。その行動を、「自己満足」という言葉でくくれば、その人は自己中心的な人となる。その行動を、「思いやり」という言葉でくくれば、その人はやさしい人となる。すべては言葉しだい――であれば、言葉は行動よりも優位であるのか。
否、情動はごまかせない。
発生する情動は、確かに「色」をもっている。その色は、区別できるものだ。喜びと哀しみは、確かに異質なものだろう。しかし情動を、理性という道具をつかって感情に変えてしまえば、その感情は言葉となり、入れ物となる。
であれば、発生する情動だけが、人の個性であるのか。しかしもちろんながら、経験等で構築されて行く理性や感情というものは、もはや取り除くことができないまでに個に密接し、であれば、それを含めた統合が人格とよんで構わなくなるだろう。
2012年
もちろん突き詰めた哲学は、鉄壁かもしれない。しかし、凡人に理解できないレベルになったとき、哲学は思考から離れていく。仕事の一番大切なことは、シンプルさだ。しかし、人生とはアナログで、境界がなく、複雑だ。それゆえ、複雑な人生をシンプルにしようとする哲学の価値は色褪せない。ただし、真理など、存在しないのではないか、という考え方もある。仏教でいう縁起や、社会学でいう関係性や相互依存。僕は今、後者の考えに近い。究極には、自分なんて、自己意識なんて存在しないという、受動意識仮説に賛成だ。これは、唯物論と言い換えていいと思う。
ある、そう表現すると、モノの集合であっても、自分という個体は存在するともいえる。ただ、自分の本質を自分の中に探していっても、単一のモノがあるだけになる。自己はない、とは極端な表現で、自己の本質はない、といえば適切だろうか。ともかく、陥りがちな、考えるということ、それは自分の頭の中で完結してはいない。考えるというのは、目をつぶっていたとしても、様々な環境によるインプットの中で存在できているのだ。
何故こんな話しになったかといえば、自分の考え方を他者に変えられるのがイヤだということからだ。何故他者が自分の中に入ってくるとイヤなのだろう。それは、生存欲求だ。共存ではなく、他者にのっとられる、それは死を意味する。しかしアポトーシスとは何か。細胞の自発的な死といわれる。細胞は、何を生かすために、死を選ぶのか。選ぶ、細胞に意識はあるのか。意識とは何なのか。解決したいのは、この不快な感情だけなのだが。
2013年
(結婚した年)
創造的な仕事ができるのは10年、という。
ともかく、十年間で、何かを成し遂げる経験をするのは重要だと思った。 プライベートが少し落ち着いた。
そうしたとき、日々の家事に精をだすのは必要だが、十年後、僕がアラフォーになったとき、自分はこういうことができる人間だと、胸をはって言えるべきだ。 これは友人や家族や妻をないがしろにすることに繋がらない。
他者との繋がりは必ず、媒介が必要だ。子どもには、遊びという媒介があって、他者との交流が可能になる。 何かができる人は、自信をもっている。仕事人間が定年になると鬱になるのは、仕事がその人のアイデンティティだからだ。
しかし、それは不十分であったのだ。本当に仕事ができるのであれば、それが、自分で成し遂げられる水準であれば、定年になったところで、その人は終わることはない。
すべての行為は、他者を幸せにするようにできている。こう考えてみよう。偽善である、それでよい。
他人を食い物にする悪徳は、この場合考える必要はない。何故なら、自分が何をするか、そこが重要だからだ。
10年かけて、他者を幸せにする自らが使える、能力、それが何か、考える暇は、もう殆どないのだから、思考を少しでも、できるだけ多く、そちらに傾けていく必要がある。
2014年
3年前の思考と比較してしきりに、人の利己的な面を主張していた。それは間違いではないが、何故そうまで、日記にかくまでして言わなければいけなかったのか。未熟さ故の誤り、と、経緯を知らなければ思う。今の僕も同じ。しかし、それは、論理ではなく、苛立ちの感情表現だった。~略~世の中の不条理なところ、それはもはや問題ではなく、いったいどうしたら、自分を表現できるのか、それを考えるべきなのだ。そして、この気付きは、きっと誰もが当たり前に分かっていることなのだが、それを、分かっていない3年前の自分に分からせるのは、困難だ。言葉では、絶対に解決しない。哲学や思想は、なにも救ってくれない!
運がよかったのだ。しかし、そういう結論にはなりたくないし、それは、これからの糧にはなりそうもない。けれども、絶対の真理がなくなってしまった以上、なるようになる、こと以上に何もない。ポジティブ思想とは、失敗したのはたまたまで、成功したのは自分のおかげと考えるものだが、そうじゃない。失敗も成功も、どちらもたまたまだ。僕がいままで触れてきた思想や考え方で、一貫して矛盾がないのは、空の考え方以外ない。
中学生のときの思想は、人は楽しむために生きるというものだ。これは絶対に正しいと思った。すごい発見だと思った。しかしこの考え方は、自分の生き方にちっともプラスにならなかった。それどころか、それ以降のどつぼへの道を加速させたのかもしれない。
空は、あるがままのこと。それは、現状追認か。現状を認めるのはその通りだが、すべてを自分の責任と受け止めて、主体的に世の中を渡っていく。それは、単なる現状追認ではないと思う。実存主義で、世界の真理なんかより、俺自身の問題が重要だ! と言い切った哲学者がいたではないか。そうなったとき、自分の問題は、自分にしか解決できない。空の思想がいくら正しくても、それを実践するしか、救いの道はない。正しい考えと、正しい行動こそが、結局のところ、中学生のときの思想を実現する唯一の方法というわけだ。
2015年

 なんか色々激しく忙しくて取りあえず苛々している感じ。

2016年

 離婚した。

2017年

 いまここ。







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