忍者ブログ
   
整理整頓掃除の違いとそのやり方
2017/01/08 14:28 | Comments(0) | 整理用
今日の一言「寒いな」

穏やかな連休

 体調も悪くなく、久々に穏やかな休みを過ごせている。
 こういった、何もない時間、無為に過ごせることというのが、本当の幸せではないかと思う。今後のことを考えると、不安や焦燥だらけかもしれないが、今このときをしっかりと生きることが重要であると、改めて思うわけである。


 上のようなことを思ったとき、僕は、いくつか、気分を悪くする言葉が含まれていることに気づいてしまう。そのことが、何とも、普段の苛々などに繋がっている可能性について、無視するわけにはいかないだろう。

 まず一点、「本当の幸せ」という言葉。他のサイトなど読んでいて、「真理」とかそういう言葉をやたらめったら、吹聴して目指させようとする、そんな表現が好きではない。逆に、「今この時をしっかり」というのも同様に違和感である。

 サピエンス全史という本の中で、科学革命についての興りが記載されているのであるけれども、それは、「テクノロジー」としての発展というよりも、もっと重要な人間の「意識的な革命」が含まれていることが、特筆に値するものである。


 それは後ほど書いてみようと思うけれども、まずは、近況と、それに伴う自分の感情感覚の変化を先にメモしておこう。大したことではないため、逆にそれゆえ、すぐに忘れてしまいそうだ。

身の回りの整理や掃除

 整理整頓という言葉がある。整理と、整頓とは別の概念である。
 整理とは、いるものといらないものを分けることであり、結果としていらないものは捨てることである。
 整頓とは、あるものを、使いやすいようにカテゴライズ、並べることである。

 さらに、掃除とは、チリやごみやカビなどを除去し、綺麗にすることである。

 掃除は好きだけど、整理整頓は苦手、もしくは、整理はできるけど整頓が苦手、みたいに、身の回りの環境を良くするためには、整理、整頓、掃除、これらを総合的に高めていく必要がある。

 まず自分は、整理が苦手なのか、整頓が苦手なのか、はたまた掃除が苦手なのか、自分の長所短所を見定めることが必要なのは、勉強も仕事も恋愛もスポーツも、すべてに通じる大切なことである。


 といった概念的なことって、僕は結構好きだったりするけれども、今の時代(すなわち、すぐに役立つことや効率的なことを重視する傾向)においては、見向きがされないことである。
 まぁそれもそのはずで、結局、そんな概念があったところで、自分がどうするか、という実践面がなければ、ゴミよりも邪魔な知識となるに過ぎない。


 というわけで、水回り、――台所、洗面所、風呂場、トイレの掃除を行った。ピカピカになった。これは結構、気分がよい。廊下に置かれたもの、洋服、スーツなどを整理した。すっきりした。これは結構、気分がよい。

 昨年の引っ越しで、かなり整理(ものを捨てた)が進んだけれども、やはりまだまだ物は多い。
 逆に、新しい趣味的なのを始めたために、物が増えている側面もある。

 例えば、大学の授業や仕事関係のノートとか、資料とか、それらはもう要らないかな。本当は、結構大事なエッセンス(こう、ブログに書いていることの漠然とした知識や話題の、根拠となるもの)だったりするのだけれども、別にこれから先、誰かを絶対説得しなきゃいけないようなことなんて無いだろうし、あったとしたら、それはそれで別の根拠立てすればいいことだし、昔の資料に頼るなんて非効率なのかもしれない。

 ただ、記憶の保持性という面においては、その費やした時間における「場所」や「タイミング性」というのが結構重要なので、残しておいてしまっている、のだけれども、むしろそういうのは、このブログに集約させていってしまった方がよい気がしてくる。

情報の集約性

 うーむ。本当は、タイトルの、思考言語と口頭言語と文章言語について書きたいと思っているけれども、やはり話が中々進まなそうだ。こういうときの書き方、というのも、今後洗練させていきたいものだ。例えば、記事を二つ以上にわけるとか、どのタイミングでジャッジするか、など。

 ええと、前の小見出しの話を引き継ぐと、そうさな、大学とか仕事関係の情報は、個別具体的には書くことができないため、そういう意味で、ピンポイント記憶復元資料として、ブログを活用するのは困難だろう。

 ただ、応用可能性のあること以外の記憶は、正直もう要らないかな、とも思う。

 つまり、大学の時あの授業をしているときに、隣の友人とこんなことを話していたとか、ファミレスで遅くまで遊んだり会話していたこととか、そういうローカルな記憶。
 そういえば、そんなことしてたな~楽しかったね~みたいな、そういった、郷愁的な記憶。

 いわゆる、思い出。

 あったらあったで、いいことだろうし、大事なものだとも思いながら、それが、何らかの資料がなければ復元できないようなものなら、もう捨て去ってもいいんじゃないかと。

 何か分からないけど、いつか役に立つかもしれない。そんな風に思ってしまうことは、恐らく多くの人にとって共通的にあることだろう。何せ、捨ててしまったら、なくしてしまったら、それは「死」と同じ、取り返しがつかないことなのだ。何かを手放すというのは、中々、勇気のいることではあるまいか。

 それはそうなのだけれども、でも、例えば厖大なデータベースの情報があったとしても、それにアクセスするための手段がなければ、それは何ら意味をもたない情報、つまり、ゴミと同じだということだ。
 もちろん、ただ、その管理方法があろうがなかろうが、「情報がここに存在する」というその事実があることは、それだけで「神話的な」意味を持つ場合がある。もっといえば、「安心感」的な充足。それはそれで、価値あることだと思われる。

 ただ、容量オーバーになってしまうと、身体も思考も、処理速度の低下が避けられない。ようは程度の問題だが。
 その程度の問題に過ぎないため、どうにも中々、大きなライフイベントがあるタイミングでしか、整理が中々進まないのである。


 例えば、ポイントカードとか。もしかしたら、またこの店に行くんじゃないかとかね。もう1年は行ってないけど、例えば、この中古品を売るなら、また使うしなぁという、必要な理由があったりすると、さらに判断が難しくなる。

整理の方法

 整理とは、いるものといらないものを分けることであると、先ほど書いた。
 けれども、前の小見出しのとおり、いるorいらないの判断は、中々難しい場合がある。

 なので、実際に整理を本気で始めようとするときは、そのいるorいらないの判断基準を、明確に決めておく必要がある。

 それは、数値化できるものでなくてはならない。

 何となく使うかもしれない……とか、そんな気持ちになったとき、「1年以内に使ってないものは、捨てる」という明確な数値基準があれば、行動に移すことができる。
 それでも、悩ましい場合もある。そんなときは、保留ボックスを使うといい。捨てるものについて、すぐさまごみ処理場に送るのではなく、3か月ぐらい、段ボールか何か箱の中にいれておくのだ。それでも使わなければ、今度こそ捨て去るのである。

物語を創る能力

 もう一つ大事なことは、コアコンピタンス、である。
(流行りの(既に流行りでもないが)横文字を使うと、一部かっこよくみえ、一部アホにみえる。敢えて使ってみるのは、自分自身の記憶の結節点のためである)

 コアコンピタンスとは、競合他社(他者)に負けない能力や分野のことである。
 ここでは独自解釈として、自分の軸となるもの、行為、思考のこととする。

「俺はこの分野ならだれにも負けない!」

 まぁそういう感覚を得られるような能力や分野が大事だよね、ということだ。
 しかし、これらの方策について書くとなると、また一本他の記事にした方がいいぐらい色々いいたいことが出てくるので、あまり深く触れない。

 取りあえず、昨年か、一昨年か、どこかで書いたように、「物語(ストーリー)を創る」という能力について、僕はこれからも着手していきたいと思っている。
 これは、別に小説とか、エンターテイメントに限らず、もっと広く書くならば、「意味や価値を創る」といってもよいかもしれない。

 非常に漠然としていて、何がどうすれば、どう鍛えられるのか、そもそも「分野」としてカテゴライズできるものかも分からない。
 ただし、自分の中では、ようやく、何となく分かってきている気がしている。それでもって、恐らく、これは、積極的な意味だけでなく、僕としては、そうせざるを得ないような、そんな消極的な意味すらあるように思えてきている。
(例えば、生きる意味なんて考えても無意味だけれども、今後もそうせざるを得ないだろうという記述から読み取れる)


 話が少しそれているけれども、整理において、その、自分の重要視すること、コアコンピタンスに合致する「もの」かどうか、それも基準として明確にしておいた方がよいということだ。

「そのモノが、自分を幸せにしてくれるかどうかで判断しなさい」
 といったアドバイスをみたり読んだりしたことがあるけれども、初めに僕が書いて、何か気にくわない表現だ、と言っていたように、その「幸せ」という表現も僕は嫌いである。
 いや厳密に書けば、「幸せ」の概念はもちろん大好きだし、目指したいところだけれども、表現として用いられる幸せというのは、結局のところ、「何も示してなどいない」のである。
 ああ……このことも、まだ書き足りない、もっと掘り下げなければいけないことだ。しかし何故だ、こう、やらなければいけないことは沢山あるにも関わらず、こうやって書き始めるまで、ものすごく、何もやる気がしないのだ。始めてしまえば体力が尽きるまでやり続けられるというのに、何か始めるという、そのエンジンをかけるのが中々難しい。

 そうだな、今年の目標としてたてるとしたら、そのエンジン始動までの時間を短くする、というのも大事なことな気がする。


 取りあえず、次回、「思考言語と口頭言語と文章言語」について書こう。





拍手[1回]

PR

コメント

コメントを投稿する






Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字 (絵文字)



<<科学革命と楽しい仕事という概念について | HOME | 初夢が悪夢というのは良いことなのか>>
忍者ブログ[PR]
アクセスランキング